Sunday, December 23, 2012

土方巽研究 二 <舞踏の表現形式について>


 六 仮面と表情

 舞踏の表現の特徴として、ことに<白桃房>の諸作品における特徴として顔の表情があります。たとえば、異様にデフォルメして造作された表情、そして白眼があります。それ以前の舞踊表現にはない意図的な顔の造作があり、土方の言葉でいえば、汚れたものを拾い集めて舞台にもってきたということになるのでしょうが、とはいえ、その内容は美醜の範疇を越えて、むしろ踊り手が強度を帯びる表現をもたらしているように思います。こうした顔の表現は決して恣意的なものではありません。それは舞踏符による厳密な振付けに則っているのです。
 和栗由紀夫の手になる「舞踏譜(私家版)」には、様々な舞踏符によって構成された舞踏譜が記録されています。その中には、<ベーコンの顔>、<ゴヤの顔>、<ルドンの一つ目>、<花子の顔>といった、絵画—写真から抽出された、表情の造作に関わる舞踏符もまた記録されています。たとえば、<ベーコンの顔>とは、ベーコン画の筆タッチをそのままからだで模写するものであり、その際の一連の神経配列が表情の造作、および操作にまで及ぶものであるとみえます。また<ルドンの一つ目>は、<ルドンの螢>として、次のような土方の指示があることが記されています。
「地中に伸びた細い根から光を吸い上げている。その光がお尻の下に溜った。身体の茎を通って光が上がってくる。顎の下に溜った光。眠っている顔がだんだんと明るくなってゆく。顔から光が洩れ出してくる。その光がだんだんと強くなって、顔から外に拡がってゆく。」
 こうしことから知られるように、<ベーコンの顔>や<ルドンの一つ目>といった表情は、からだのアレンジメントと一連のものとしてある、というよりもむしろ、からだのアレンジメントの先端が表情の造作となって現れてくる、そう言っていいものでしょう。その表情はからだ全体の神経配列から押し出されてくるように現れているのであり、表情だけが造作されているのではありません。ただし、<ベーコンの顔>として、その表情だけが取り上げられて残りの部分は消されたり、他の舞踏符に顔の部分のみ<ベーコンの顔>がコラージュされるようにして振付けされる場合もありますが、その場合にも、その表情はからだ全体の神経配列から導き出されている、そう前提とされているのではないかと考えます。
 また<額の渦巻きの僧侶>という舞踏符が記録されていますが、それは土方自身によって次のように解説されています。

そこ(仏像の顔)に浮かんでいる表情が、言葉が堕胎された形で言葉になっているものだとか、言葉が相手に伝わる前に自分の頭にしみ込んだ言葉になってしまったとかというのがある。小鳥の声を聴きますと、聴きとる寸前に鼓膜に針で穴をあけられて、その瞬間に響きを頭に全部沁みこませた顔だとか、何かを喋ろうと思って、音声よりも舌が先にダラーッと出てきて顔が重なったらしいだらしない中途半端な顔になって、見事に固定されたとか、あんまり考えることに考えられて、額に渦巻きみたいなものができて鼻から下がすっかり留守になって耳まで垂れ下がっているようなものもあった。言葉というものがからだから発生される瞬間がある、その響きを包み込んだ顔もあるというふうにみてきますと、ずいぶんと言葉というものが舞踏家の身辺にもあるんです。
          (「欠如としての言語=身体の仮説」現代詩手帖1977年4月号所収)
                         ※()の中の語は筆者による捕捉

「言葉というものがからだから発生される瞬間がある、その響きを包み込んだ顔もある」と言われているように、表情の造作にも言葉が関わっているわけです。しかし、それは言葉というよりは、「言葉が堕胎された形」のそれは意味へと分節化されることなく、むしろからだの内に折り畳まれることでみるみるうちにからだのアレンジメントと化してゆく展開を促進する、といった過程が指摘されています。このように、言葉を契機としてアレンジメントの先端として立ち現れてくる顔の表情が注目されて、そこに操作という技芸が編み出されることで表情の舞踏符が舞踏の表現に取り入れられていると考えられるわけですが、そのいっぽうで、見た目には、こうした顔の表情に伴う相乗効果として、たとえば例で示した<ベーコンの顔>や<ルドンの一つ目>がそうであるように、そこには踊り手のすがたを人でなくするような働きがあるように思います。ふたたび和栗由紀夫の「舞踏譜(私家版)」から引用するならば、
「馬の首のゆくえ。ゆくえが塗り込められて、不能の顔になる。ベーコンの顔、ベーコンの顔で馬の首の淀み。子供をくわえた幽霊が俯瞰されて、軟体動物。水に染みてゆく。」とあります。
 これは「怪物」と名付けられた舞踏譜、つまり踊りのフレーズとされています。<馬の首>のアレンジメントはゆくえ(行方)を現すものですが、その行方が内に折り畳まれて<不能の顔>となり、そこから<ベーコンの顔>が導かれています。そしてそこに最初の<馬の首>が、それも行方を封じられた<馬の首>が重ねられます。するとそのすがたは俯瞰されて<子供をくわえた幽霊>となり(何故なら<馬の首>は口に何かをくわえる様態を示すと考えられるから)、<軟体動物>となり、みるみるうちに人間でないものとなってゆきます。また、
「顔の重層した土塊の人の中から一つの仮面が出る。その仮面が粒子で崩れる。また土塊になり、風に吹かれてヒヒになる。その状態から仮面の裏側が出て来る。顔の重層化、ひきつり、テレジア仮面の裏側をさまよう。ゆくえ、雷、雷の神経を末端まで辿る。」
「カサカサのドライフラワーの顔、内部に塗り込められる顔、前方にぶれてゆく顔、ミショーの三つの顔が内部へ。」
「クレヨン、幻想的な少女の顔。クレヨンで殴り書きされている顔。顔の左半分は石膏、口の左半分は溶けている。右耳の上下、右目は斜め上。ぶれている顔。」
「木炭画で書かれた顔。三つの顔が髪の毛で繋がっている。柘榴歯の顔、白い顔、右目と左半分が溶けている顔が繋がっている。」、といった例が記録されています。
 こうした例からもわかるように、顔の表情として、人間ばなれした造作が土方によって意図的に選択されていると考えられるのです。人間ばなれしたとはまず顔の造作から受ける印象ではありますが、とはいえ、必ずしも形態的にそうであることから受ける印象ばかりではないように思います。顔の表情は造作であるから、そこに踊り手の行為があることになります。それに対して即座に踊り手の評価が働きかけます。その評価を介してまた即座に踊り手のからだのアレンジメントが変動することに、土方はことさら注目していると思われます。「言葉が堕胎された」その未分節な音が、否応なくそうした行為と評価の運動を促進することになるのでしょう。ですから、むろん踊り手によるからだの動きも人間ばなれしたものではありますが、要するに、人間ばなれしたとは、舞踏手が変動に関わり続けるそのすがたから受ける印象なのです。とはいえ、ことに顔の表情が現すものが人間ばなれしていることで、その特異な相貌が踊り手のすがたを代表するようにして、かえって全体的な印象を人間ばなれしたものへと強めているように思います。踊り手が変動に関わるための条件とは決して何らかの固定的な役柄に関わることではなく、表情も含めてことさら人間ばなれした造作に関わるような条件づけがあるのであって、そうした条件が方法的に選択されているように思われます。踊り手は役柄を踊るのではなく、つねに変動のさなかにあり、いわば変動を踊るのです。変動のさなかにあることが踊り手に強度を帯びさせているのです。こうした変動をつぶさにする表現は「ひとがた(1976年) の舞台で見事に実現されていますが、その一条件として、顔の表情を操作するという舞踏の技芸があるように思います。
 
 顔の表情をめぐっては様々な問題群が語られてきました。それは、人は自分の表情を自身で見ることができないということに原因しています。自身の顔はどうやっても、せいぜい鼻先と頬の先ぐらいしか見えません。そのため、顔はからだのうちで特異な部位であることを私たちはつねに意識下に抱え込んでいるように思います。顔、すなわち顔の表情は私たちの意識にとって対象となりにくいものです。それで、顔の表情を意識するとき、表情と意識との間にはつねにずれが生じているのです。そういうわけで、私たちは、顔の表情をめぐってつねに表情の現前性につきまとわれているということになります。ことに他者を前にしては、表情の現前性が鋭く意識されています。(いっぽうで他者は表情の現前性を見つめている。それゆえ、現前性に見つめ返されている、という考えも成り立つ)。表情と意識の間にずれがあるという観点からすれば、自らの表情の現前性が意識されるとき、それは他者に面するアレンジメントとして感覚され、そう意識されている、と言っていいでしょう。しかし、こうした感覚や意識は習慣となりがちで、表情の現前性の感覚を薄めるものでもあります。いっぽう、表情の現前性の感覚を少しでも抑えるための、化粧があります。化粧は一種の仮面—衣装であり、それゆえ、作為された物語であるモードに左右されているわけです。
 踊り手においても、顔は特異な部位と感覚され、意識されているでしょう。からだの動きはそのつど、ある程度には対象化できるでしょうが、顔の表情は対象化が難しいと思われます。ことに舞踏符の指示により次から次へと変動に関わることにおいて、表情の造作はかえって自己の不明へと押し出される条件となっているようにも思われます。舞踏の表現に特徴的な白眼にも、自己を不明にさせるような効果があるだろうと考えます。
 このように顔の表情をめぐっては、顔の造作、表情の現前性、他者に面するアレンジメントの感覚および意識といった差異があると考えられますが、こうした差異を土方はどう見ているでしょうか。また表情の舞踏符と重ねてどう考えられているでしょうか。
 
 たとえば、能面ひとつ見ても、表情じゃなくて面というものが、空間をどのくらい従えて、喉の下のあたりにどのくらの戦争を何人にやらせているかというふうな催ってるもの、スケールの大きいものですね。その面だってよく見れば、神経が全部上に上がって鼻から下は激昂を噛んでおりますよね。人間なら涎を流すけれど月光の涎を流していますよ。というふうになまなましく見てしまうんです。そして仮面の裏側に廻っちゃうんです。すると火傷の跡のようなぶれた面がありますね。しょっちゅう裏と表を往き来してるわけです。そうすればやっと自分が、ああいうふうに様式化されたものから見たものが、現実に移しかえられてそこで納得できるというふうにみるわけです。
           (「欠如としての言語=身体の仮説」現代詩手帖1977年4月号所収)

 能の仮面をめぐって、仮面が従える時空間、仮面の意匠、仮面の裏側すなわち演じ手の表情と仮面が接する場といった要素が差異化されて、その果てに仮面の裏側と表とを往き来するといった内容が語られていますが、能面(以下、仮面とする)をめぐるこの解説を、以下の四つの局面に分けて考えてみたいと思います。
一 仮面をめぐっては、仮面の形態とは別に、仮面が従えている時空間が注目されている。すなわち、仮面には物語が前提されているのであり、逆に物語が仮面の形態を生み出していると考えられる。その物語とは「戦争」であり、また「物狂い」のような霊的な場での戦いである。そうした歴史の時空と霊的時空とが混淆して、能の時空のスケールは大きく広がり、その広大さを仮面が従えている。その時空の広大さは、能の技芸が舞台において喚起すべくものである。それも一個の<ひとがた>を軸にして喚起されなければならないのであり、そのための核心的素材としての仮面があるだろう。言い換えれば、仮面とは、人をめぐるからだの歴史性をいっきに舞台上に喚起するものであると考えられる。
 ちなみに私見をいえば、一部の<風流能>をのぞいて、シテの時空の広がりが舞台上でスペクタクルとならないのは、その時空の広がりが仮面をつけないワキという一個の人間の想いのうちに入れ子状態として示される、という能特有の表現形式があるからではないかと思う。 
二 仮面が前提としている物語とは別に、仮面の意匠がある。それは仮面の形態において現れている。その内容はあたかも「神経」の配列を示しており、いわば仮面自らのアレンジメントといっていいものを露にしたなまなましいものである。物語の広大さが仮面を生み、そして仮面が物語の広大さを従えるという有機的観点からか、仮面は一個のモノではあるが、その形態に自らアレンジメントを生み出してくるモノとなる、といった錯綜した考えが土方によってなされている。「激昂を噛む」神経が、すぐさま「月光の涎を流す」行為へと変動するように…。
三 仮面には裏側があり、そこは物語と意匠を携えた仮面と演じ手による表情とが戦う場となっている。「火傷の跡」とは、時代を経た仮面の裏側の黒々とした情景であるが、それは凄惨さを尽くした幾つもの戦いの跡でもある。すなわち、一個の人間である演じ手が、いかにして時空の広大さを従え、また物語を背景にしたアレンジメントを演じるその場で仮面上に生み出すことができるかをめぐって、一個のモノである仮面と相対する戦いがあるわけである。その戦いが、仮面の裏側で、仮面と演じ手による表情との間、その寸分の隙間で行なわれるのである。戦いに敗れれば、舞台に広大な時空を従えることも仮面にアレンジメントを立ち現せることもできない。つまり、能の舞台は成立しない。能という芸能は時の権力の後ろ盾に影響されていた。そうした意味で、この戦いは危機を背負った戦いなのである。そうした危機感にも、土方は想いをめぐらしているのではないだろうか。
四 戦いの場を想定することで、仮面の表と裏側を往き来するといった論理が見出される。その論理によって初めて、土方は能の技芸を理解できるという。「しょっちゅう裏と表を往き来する」とは、「六 死者と少年」において、<蚊帳の内と外とを行き来する>例で示した土方特有の論理であり、また実践的な方法でもある。ここでは、仮面と表情との戦いを想定して、仮面の裏側での戦いの様子と仮面の表に立ち現れているなまなましいアレンジメントとを往き来しているのである。その往き来の仕方はおそらく、演じ手の立場になって裏で表情の戦いをしながら、翻って表に現れているアレンジメントを確認する、といったものであると推測される。そうした実際的な技芸を仮に自ら反復してみることで、能の舞台として様式化された表現を理解できるというのだろう。
 さて、これはどういうことでしょうか。つまり、舞踏の表現とどう関係づけられて語られているのでしょうか。
 能の表現は広大な時空の出現を主題としています(ただし世阿弥の能は一個の人間の知覚と感情の動きに注目した)。そうした主題を提示するのに、一個の人間の顔をもってしては不十分であるだろうと思われます。そのために仮面が使用され(仮面芸能はそれ以前からある)、シテの顔は仮面の裏に隠されているのです。それゆえ、仮面の裏での戦いが想定されているわけです。具体的には、戦いをめぐって、仮面が従える広大な時空およびその意匠と、演じ手による表情が生み出すアレンジメントとを、その間にモノとしての仮面が介在していながらも一つのものとする、といった技芸があると考えられていることです。仮面が広大な時空を従え、物語の意匠を立ち現せるとはいえ、それはたやすく実現される事象ではありません。それは厳密な技芸によるのであり、とりわけ仮面の意匠をなまなましく立ち現せることができるのは、仮面の裏で戦う演じ手による表情のアレンジメントなくしてはありえない、そう考えられているように思います。要するに、観客の視線から隠れてはいるが、演じ手の表情をもたらしているアレンジメントこそ、仮面を通じて立ち現れるすべての現象を引き連れて来ることになるだろう、ということです。観客と演じ手との間には仮面が立ち塞がっていますが、そのことを埋め合わせる技芸が、仮面は時空の広大さに釣り合っているがそれを一個の人間が演じるという表現形式において、逆に絶大な効果を生み出している、そう考えることができるでしょう。そのために、能の表現にあっては、仮面の裏側が戦場となっているのです。その戦いのあり方は「激昂を噛む」といった仮面の意匠が強烈に意識されたものである、そう考えられているように思います。
 こうした戦いのあり方をふまえて、舞踏符による表情の造作とその操作を、仮面の裏での戦いに相対させてみることにします。
 舞踏符による顔の表情は仮面に通じるものです。その造作は、見た目に人間ばなれした印象を与えるからです。しかも、その仮面のごとき表情の内側では、ことさら人間ばなれしたものに関わる神経配列が操作されているわけです。表情がそのように仮面に似せられ、一個の踊り手のすがたを逸脱させるような状況へと押し出していくことが目論まれているとすれば、踊り手の表情の操作において、表面としての仮面と内側の神経配列との間での戦いがある、そうした事態を想定することができます。すなわち、皮膚と神経の戦いです。神経を操作するものとその配列を裏側とすれば、皮膚は表として意識されます。するとその戦いにおいて、顔の表情を踊り手自身では確認できないけれども、土方の考え方からすれば、表面の皮膚と裏側の神経配列とを往き来するという実践的な仕方が想定できるでしょう。こうした裏と表の往き来を、舞踏の<主観性>に沿って考えれば、裏側の神経配列、すなわち内部の事物が、事物のままで外部へ、すなわち表面の皮膚へと、潜在的なものが現実態へとめくれるようにして展開してくる、といったあり方を想定できます。こうした裏返しの展開を考えるためには、裏が表へとめくられる際に仲介的に働く、神経配列であると同時に神経配列の現れであるからだのアレンジメントの性格を見逃すわけにはいきません。つまり、裏と表があり、そして両者を繋ぐアレンジメントが意識されることになるわけです。
 さて、能の表現にあっては、仮面というモノと一個の演じ手の表情とによる戦いの場を介して、あくまでも時空の広大さを舞台上に立ち現せるという表現の意図があるために、一個の演じ手の顔ではなく、あえてモノとしての仮面が使用されています。いっぽう、舞踏の表現にあっては、内部の事物とその事物に関わる神経操作およびその配列とによってその内容が展開されることで、一個の人間が変動のさなかにあるその現前性に関わる表現を目論むがゆえに、その表現の焦点はもっぱら人間内部で展開する事物性に当てられています。両者の表現意図には大きな違いがあり、それゆえ、舞踏の表現において仮に皮膚が仮面であるとすれば、仮面の意味は、能の仮面のもつ意味とは大きく異なってくるでしょう。
 舞踏符による顔の表情をめぐっては、仮面に通じる人間ばなれした表情の造作(それは踊り手に強度を帯びさせるだろう)、表情の現前性が自己の不明へと押し出してゆく、といった効果があると考えられますが、そもそも何故そうした操作が必要とされるのかといえば、私たちはもう一つ別の仮面をつけている、と考えられるからなのです。すなわちそれは、他者に面するアレンジメントの感覚および意識に由来すると考えられるものですが、というのも、そうした感覚および意識が表情の現前性の感覚を薄め、さらに私たちの顔を日常性の表情へと収束させてしまう傾向にあると思われるからです。したがって、舞踏符の顔の表情をめぐってはもう一つの戦いの場があることになります。それは日常性の仮面と、舞踏符による神経配列の操作との戦いです。この戦いにおいて、舞踏符による、踊り手に人間ばなれした顔の表情をもたらすアレンジメントが有効であるように思われます。というのも、舞踏符の「言葉が相手に伝わる前に自分の頭にしみ込んだ言葉」は、神経配列であると同時に神経配列の現れであるからだのアレンジメントとなって、仮面としての表面と裏側の神経配列とを即座に繋げる働きをするものとなる、と考えられるからです。そうして、日常性の仮面を人間ばなれしたものへと変換させることで、表情として構造化する意識および感覚を宙吊り状態にすることになるわけです。そこにはいわば、皮膚に挑む神経の戦いがあることになります。
 このようにして、土方の能面解釈を通じて考えられるのは、土方は自らの舞踏の表現に仮面を前提としているのではないかということです。踊り手の顔の表情をめぐって仮面が意識される。しかし、モノとしての仮面に替えるわけにはいかない。舞踏の表現は物語の広大な時空を示すわけではないし、そのような時空を示すことが現代的に差し迫った表現主題となるわけではないからです。とはいえ、仮面はそこにある。仮面は意識されなければならないのです。それは別の仕方で意識されなければならないのです。それは日常性という仮面であり、それによってからだの歴史性が埋没させられているという意味での、いわば構造としての仮面です。こうした仮面を前提とすることで、舞踏の表現にあっては、表面である顔の表情と内部であると同時に外部として立ち現れるアレンジメントは差異化されるわけです。それは、日常性の仮面をして裏側の事物性へと繋げ、翻って仲介的に働く内なるアレンジメントによって表面に変動がもたらさなければならないという意図があるからである、と考えられます。仮面をめぐる裏と表の論理は、能面をめぐってその表現形式であると考えられたものと同じですが、戦いのあり方は異なっているのです。それゆえ、能の表現形式を認めながらも、仮面は一個のモノではあるがその形態に自らアレンジメントを生み出してくるモノとなる、といった独自の考えが生まれてくるのでしょう。土台となる技芸の類似性に喚起されて現代的な関わり方へと技芸を変換させているわけですが、こうした時代の要請による表現内容とそのための技芸の変化については、伝統的表現のあり方とははっきり区別して考えなければいけないと思います。
 舞踏の表現が仮面を前提としている、それも日常性の仮面を前提としているならば、そのことを拡大解釈して、私たちの日常性のからだ、その表面である皮膚はそのまま衣装—仮面である、という考えを引き出すことができます。とすれば、舞踏とは、わかりやすくいえば、(内なる)からだのアレンジメントを介してからだの表面を意匠として表す技芸である、ということになるのではないでしょうか。舞踏符による顔の表情は舞踏の表現に特徴的なものであり、おそらくそれは不可欠なもののように思います。それなしでは、舞踏の表現は一個の人間の表現となってしまうおそれがあるからです。そうであれば、舞踏の表現は伝統的表現から喚起されたものを失ってしまうでしょう。表情の舞踏符は土方がことに振付けにおいて重要視していると考えられ、その手法は踊り手を振付ける振付け側の視線が強く関与するものであり、そこには大きな問題があるわけですが、もし踊り手自らがからだの表面すべてを仮面—衣装とする前提で戦いに臨めば、その限りではない、と考えます。