Friday, December 05, 2014

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


  二 敏捷な構造

 1. イヅメ
「イヅメ」は、「飯詰め」と書きます。すなわち、「飯詰め」という、冬季に飯櫃を保温するための藁製の籠があり、ここでは、その籠の中に農繁期の忙しさのため親が赤子を入れておく風習をいいます。別段、東北だけにあった風習ではなく、日本各地でそれに類することが行なわれていたと考えられます。ひょっとして日本以外でもそうした例があるかもしれません。風習といえば、社会的な意味合いへと還元されてしまいますが、当の赤子にとっては悲惨な体験であるはずです。まずは土方の話を聞くことにします。

 そうすると飯詰ってのがあります。飯詰ってのは藁で編んだ保温器ですよ、ご飯を温める藁で編んだ籠ですね。その中に赤ンん坊を入れて野良仕事に一緒に連れてゆくわけだ、大人たちが。そして田んぼの中にポーンポーンと置くわけですね。四つか五つね。そうするとポンポンと置かれた子供がやっぱり糞小便たれ流すわけです。すると下半身がむず痒くなるわけだ。だけどいろんなものをつめられて、身体と籠が動かないように結えられているわけだからビャーッと泣くわけですね。あっちの田んぼでもこっちの田んぼでもビャーッと泣くわけだ。ところがいくら泣いたって働いている親爺たちは振り向かないんだよ。親爺も大変なんだ、労働が過労の向う側へ行って何か妖しい労働をしてるんです。カタカナで書けば「フ」の字になって働いているわけだ。振り返れないわけですよ。ところが子供は際限なくビャービャーって泣く。だだっ広い湿気を帯びた空に、大飯食いの風がその子供の声をかき消すんですね。泣いても泣いても働いている大人には届かない。喉ははれる、そして目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね。そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ。すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる。流した涙も洟もみんな顔にくっついてるんですね。それをむしって食ってるんですよ。闇をむしって食べてるわけだ。そういう時に子供はどう思ったか、子供はそんなこと考えないけど私が想像するには、空はなんて大馬鹿野郎だい、こんなの墓場じゃないか、と思ったかも知れない。それで空の大馬鹿野郎もいいけれど、子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている。そこで自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える、闇をむしって食うことを覚える。そして夕暮れになるとその飯詰から抜かれるわけだ。すると足が折り畳まれてるものだから、立てない、もう足が伸びないんですね。すると大人たちはそれを囲んで見てるわけですよ、薄ら笑いを浮かべて。しかし子供の顔は厳粛ですよ。もう親の顔なんて見ようとしない。その時私は折り畳まれた足の行方はどこへ行ったんだ? 喋っても喋っても喋り切れない。
                              「衰弱体の採集(1984)

 この「イヅメ」の話を、土方は澁澤龍彦との対談(1968)でも語っていますが、他にも文章中で描写したりして、幾度もその体験にアプローチしようとしています。この「衰弱体の採集」は土方晩年の講演であり、思う存分語っている風でその内容がよくわかります。とはいえ、それが本当に土方が体験したことなのかはよくわからない。わからないが、それでもこの話は、土方の幼年時代の<現前性>体験の核心を示すものとなっていると考えられるのです。
 私事になりますが、遠州地方の農家に生まれた私の母親は、幼児期に養蚕の忙しい時季になると家の階下で動けないようにされて泣きじゃくっていたと、後になって出入りの大工から聞いて知ったといいます。大工から、子供が火がついたように泣いているのに親はどうして放っておけたのか、そう言われたというのです。私の母親は、幼児期のことなのでその体験を覚えていなかったようです。
 飯詰めに入れられた赤子が、その体験を詳しく覚えているはずがありません。むろん体験の一端をからだが覚えていることはあるでしょう。けれども、その感覚は言葉にしようにも、原理的に「喋り切れない」ものであるはずなのです。したがって、この「イヅメ」の話を<観点>的なものとして聞く必要があるでしょう。
 興味深いのは、「イヅメ」の話を土方が繰り返し語ることで、それが「宗教画」の構図を帯びていることです。すなわち、田圃を背景にして周囲を親たちに囲まれ、幼児が今まさに飯詰めからからだを引き抜かれるといった構図で、幼児の足は足萎えになっている。親たちは薄笑いをうかべ、中央におさまった幼児は「厳粛な」表情をしている。背後には夕暮れの光が射し、風が吹きさらしている。そして、足萎えの幼児のその「厳粛な」表情からは、「ひびわれたような明るさ」が射しているだろう。これは、どこかキリスト生誕画の構図を思わせますが、強いていえば、幼児の悲惨さを示顕しているという意味でその陰画として提示されている、そう思われます。その構図的な配置によって「宗教画」めいており、それゆえ、この「イヅメ」のイコンを介して土方のからだにすぐさま幼児の<現前性>体験が駆動するのだと考えられるわけですが、しかしその構図の奥にはさらなる構造が潜んでいるのです。土方は次のように語っています。「いざりの子供を囲んで立っている大人たち、こんな宗教画が一枚刷り上がる前に、縛られた虫や印鑑体や蟹股やらの敏捷な構造がそこから掻き消えている」(「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている(1975))。要するに、「イヅメ」のイコンができあがる前に、それへと入れ替わるようにして、幼児という「縛られた虫」をめぐる「敏捷な構造」がまず働いているのだ、というわけです。それはどういうことかといえば、「イヅメ」体験を語ることで、幼児のからだにまさに起きていたことが、土方にイメージされるのではなく、現在の土方のからだに神経アレンジメントの働きとして示されようとするわけですが、言い換えればそのことは、「闇をむしって食う」その幼児とは現在の土方がイコンという折り目を開くそのすがたにほかならないのですが、そのとき、過去の体験が現在の神経アレンジメントとして立ち現われる仕掛けのうちに「敏捷な構造」というものが展開している、というふうに考えられます。
 そのプロセスを見ることにします。話の前半では、「イヅメ」の風習が説明されています。「フ」の字とは、田植をする人の姿をいうのでしょう。後半からイコンの仕掛けに入っていくわけですが、まず「目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね」と、幼児の意識の朦朧状態が語られますが、それは過去と現在を不分明にする土方の視線の朦朧状態でもあるといえます。そして、「そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ」というのは、幼児の外に向けられた欲動が断ち切られ、その代わりに内に向けざるをえない状況になることをいいます。「すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる」を合図に、話はがらりと場面転換します。この「目玉」が指標となって、それまでとは別次元の視線が引き込まれているのがわかります(「風だるま」には、他の箇所にも「目玉」が視線を転換させる徴とみていい局面がある)。おそらくこの「目玉」は、折り目を新たに開くような<観点>的な視線として機能するのでしょう。そして、「子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている」状況において、「自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える」、「闇をむしって食うことを覚える」、「足が折り畳まれてるものだから、立てない」といった幼児の<現前性>体験の内容は、幼児の体験であるよりも、むしろ土方が舞踏の方法論として獲得してきたものであるといっていいでしょう。ここでは視線の変化に伴って、幼児の<現前性>体験の次元が変容しているのがわかります。要するに、「イヅメ」体験を語ることで、「土方巽」という<観点>的な視線が「イヅメ」のイコンを新たな仕方で開くことになるわけです。そしてそのとき、「行ったきり戻らない足」という主題が訴えられるのですが、この主題こそ、「イヅメ」のイコンが開示しようとする「敏捷な構造」を連れ出してくる、そう考えられるのです。
「行ったきり戻らない足」の主題は、幼児が体験したはずの足萎えの感覚はどこに行ったのか、足萎えになってへなへなに折り畳まれた足の感覚は失われたのか、それとも、この二本足のうちに潜んでいるのに見出されないのだろうか、ということを訴えています。それに対して「敏捷な構造」は、その感覚は失われたのではなく、現在の二本足のうちに足萎えの神経アレンジメントとして潜んでいるのであり、その在り方と共に現れ方があるのだ、ということを示そうとしているのだと考えられます。
 たとえば、「行ったきり戻らない足」とは逆の現象とでもいっていいものに、東北地方では夏でも玄関の土間で下駄がはさんだ雪を落とそうとして足を踏むといった、足腰の神経アレンジメントの働きがみられる例があります。おそらく暗く冷えた土間に反応して、夏でもそうした仕草が意に反して出るのです。それは幻のような仕草であり、まったく無意味な動作なのですが、それでもからだは何かを伝えようとしてそうするわけです。一度覚えた神経アレンジメントは失われずにからだに潜み、現われる機会をうかがっているのです。神経アレンジメントの働きの内蔵と顕現のこうした違いは、「イヅメ」の体験では、幼児の外に向かう欲動が断ち切られて内向きになることに由るのではないかと考えられます。欲動が内向きに働かざるをえない状況が、「行ったきり戻らない足」という現象をつくりだしているのです。幼児の欲動が内向きに働かざるをえないのは、農作業に労働力を集中せざるをえない社会状況に原因があるのです。
「飯詰め」という風習は本来こうした苛酷な社会環境を伝えるものですが、そうであるばかりでなく、その犠牲者である幼児の悲惨な体験と共に歴史的事実としてある、そういえるのではないでしょうか。たとえば「飯詰め」の様相を、木村伊兵衛の写真集「秋田」に見ることができます。しかし、飯詰めに入れられた幼児のすがたを、そのひびわれたような表情を写真で見ることはできても、そこに「行ったきり戻らない足」という体験が見出されることはありません。その体験は説明しようがないものであるからでしょうが、それよりも、人の記憶が時間の経過とともに風化するからです。歴史的事実であるのになぜ体験としてふたたび見出されないのか、というのが土方が訴えるさらなる主題なのですが、この訴えの前には風習と体験の差異が立ちはだかっているわけです。風習として語り継がれて記録されはするが、幼児の体験として語り継がれることはない。それは語り得ないものであるからであり、またそれ以上に、時代の推移において遺るものは形式であり内容ではない、という原則が働いているからなのです。
 こうした見方をするならば、歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されることがないという現象は、いつでもどこにでもあるといっていいでしょう。たとえば、戦争という悲惨な状況はそうした現象を否応なくもたらしています。戦時を生きた子供が爆撃の「音」を聞いているはずなのに想い出せない、という報告があります。「あれだけの火災なら、一帯に風は起る。すぐ周囲の木の葉もざわめいていたことだろう。近隣にはようやく人の叫びも立つ。消防のサイレンの音も騒ぐ。しかし記憶から音はすっかり消えている」。古井由吉は「聖耳」で、東京空襲の体験をそう語っています。また、「焼夷弾の落ちた音は記憶にまるでない。音がまともに残ったら、少年は後から気が振れていたかもしれない」、とも語っています。からだにとって遺したくない体験として考えられているわけですが、それにしても、光景はいやましに遺るのに「音」はどこへ行ったのか、という問いは続くわけです。こうした、体験としてふたたび見出されないものを抱えたからだは悲惨であるといっていいでしょう。悲惨と無知を、土方は自らの舞踏表現の核にしているわけですが、それは歴史記録としてはけっして遺らないが歴史的事実として確かに遺っている体験に関わろうとするからであり、そうした理由から、舞踏の素材として、歴史から見捨てられた身振りを丹念に拾うわけです。
 土方は、「東北はどこにでもある」と言っていますが、そのことは、日本の東北地方に限らない<東北性>を示唆していると思われます。そして、その<東北性>は土方にとって、悲惨と無知を抱えるからだ、すなわち歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されないものを抱えるからだに関わる、そのための<観点>となるものであると考えることもできます。そうした<観点>から見ることで、「飯詰め」の風習とその体験をめぐる話は単なる体験として見出されるのではなく、イコンとなり得るからです。けっしてその逆ではないのだと思います。そして、悲惨と無知を核とする<からだの東北性>というような<観点>から照射されることで、逆に「イヅメ」のイコンは開示され、その「敏捷な構造」を現すことになるのです。
 したがって、「行ったきり戻らない足」、すなわち足萎えの体験は、それを本当に体験したかどうかにかかわらず、土方にとって「敏捷な構造」に関わろうとするための核となるものとしてあるのです。そして、その体験へと、悲惨と無知を核とする<観点>に沿ってアプローチすることによって、舞踏の表現が実現されていくわけです。
 かりに「足萎え」の神経アレンジメントに関わろうとすれば、下半身をへなへなにさせて立てなくなるような舞踏符が要請されるでしょう。たとえば、「フラマン」という舞踏符がありますが、それは床に横たわった人のすがたをとっています。この「フラマン」の舞踏符の背景には、ある物語が設定されています。それは、もう長いあいだ病で寝たきりになって歩けない、足が萎えてしまって立てない、それでも死ぬ前に一瞬でいいから歩きたいと思い必死に立とうとするのだけれども、それでも立てない、という設定です。この設定を「イヅメ」のケースと比べてみると、幼児ではなく病人であること、すなわちこれから人生を生きるのではなく死の間際にいること、また社会的な要因で立てないのではなく病で立てないという点で異なっているわけですが、立てないけれども必死に立とうとする想いにおいて両者は共通した設定となっているのがわかります。
 いっぽう、「フラマン」の舞踏符ができる以前に、まず絵画があります。「フラマン家の人々」という画があり、そこには立てないのではなく、ただ横たわった人の姿が描かれています。おそらくそこに衰弱するものが感知されたのでしょう、その横たわった人のかたちを介して、足萎えの体験へアプローチする仕方が採られていると思われます。すなわち、この「フラマン家の人々」の画のかたちを舞踏符とするために「感覚の論理」を働かせることになります。「立てない、どうしても立ちたい、立ちたいけれども立てない」といった条件に伴う感覚を、それが架空の作用でありながらも感覚神経に総動員するのです。そうすることで、足萎えの体験に基づいた踊りのかたちがまず保たれることになるわけです。したがって、まず表現のために見出されたかたちがあり、そこに<現前性>体験に基づく踊りのためのかたちを保つための言葉が採用され、そのための神経アレンジメントを要請する舞踏符が成立する、と考えることができます。こうしてみると、そこには足萎えの体験を現代的表現へと抽象化する方法意識が働いていることがわかります。足萎えの体験は、表現行為を介して、表現形式を伴う<現前性>へと大きく変化しているのです。
 繰り返せば、まず表現のために見出されたかたちがあり、その背後に物語を立ち上げることでそれに伴う「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを操作し、そうすることで踊りのためのかたちが保持される。さらに表現のかたちが女性型となることで神経アレンジメントの働きは屈折し、さらなる「感覚の論理」によって新たな意匠と共に開かれるもの、すなわち踊りが立ち現れることになる。こうしたすべての過程を、「フラマン」の場合には、内蔵する足萎えの体験が核となってそうさせるわけです。「フラマン」の舞踏符をめぐるこのような重層的な機構は本来「イヅメ」の体験に基づくものなのですが、その表現形にあっては、むろんそれは「イヅメ」とは別物として提示されることになります。別物であるけれども、そこに保持されているのは「敏捷な構造」にほかならない。とはいえ、「敏捷な構造」は、かたちの成立と交換に掻き消えるという在り方をしているわけです。たとえば、「疱瘡譚(1972)」の舞台で、土方が舞台正面で独り半裸で横たわり延々と踊る場面がありますが、その踊りは「フラマン」から派生したと思われます。この場面は、ハンセン氏病患者の踊り、天上的な西洋文化に立ち向かうすがた等、様々な解釈をもって評価されているわけですが、要するに、踊りの背後に様々な文脈の広がりを見せることができる表現となっているわけです。そうした広がりを見せる踊りのうちに、「敏捷な構造」として機能しているものがあるのでしょう。ともあれ、こうした「敏捷な構造」を見出し、展開するための舞踏符の設定、そして舞踏符の成立過程があると考えられるわけです。そしてさらに、「敏捷な構造」、それはかたちにおいて見出されるのではなく、神経アレンジメントとして現われそして掻き消えるような敏捷さ、すなわち一連の踊りのうちに見出されるわけですが、このとき舞踏符は、「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを開くと同時にからだを型へと折り畳むことで、かえって踊りとしての敏捷さをあらわにする役割を果たす、そうした技法として見出されているのではないか、そう考えられるのです。
「フラマン」の舞踏符は、「疱瘡譚」の踊りへと練り上げられる以前に、「長須鯨(1972)」の舞台ですでに弟子たちに振付けられていると思われます。「フラマン」の舞踏符が他者に振付けられるとき、どんな重層的な機構をもってしても、振付けられる側のからだには、内蔵された「足萎え」体験といったものは知られないはずです。だからそのとき、振付けられる側のからだは否応なく「足萎え」へと開かれることになります。おそらくそうした徹底的に受身の態勢において、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>といったものが受け手の側で新たなすがたのもとに現われる、そのように想定されているのではないかと思います。舞踏符によって型へと折り畳まれたものは、他者のからだへと否応なくtransferされることで、他者のからだにおいて自ずとtransformされた神経アレンジメントの働きとなって開かれるわけです。「trans-」という接頭辞は、異なる二つの対象を横断する意を示していますが、「敏捷な構造」とはおそらく、他者のからだへと移されて変容するといった仕方でその<内容>が横断的に受け継がれていくものなのです。二者の間で、もしくは世代間で否応なくtransferされて、その<内容>は自ずとtransformされて継承されていくのです。そのような仕方で、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>は、変動を受けながらも一貫したものとして連綿と受け継がれていくのではないか。その<内容>は「行ったきり戻らない」ことがあろうとも、けっして失われることがないのです。「土方巽と日本人」のタイトルには、土方巽という<観点>と共に、こうした「日本人のからだ」が内蔵する<内容>が込められているのではないか、そう思うわけです。


 2 瘡蓋をむしる
 瘡蓋は、傷口の内部組織の成分である膿(リンパ液)が傷口を塞ぐためにできます。いわば、傷口が自ら傷口を塞ぐわけです。瘡蓋になる前の段階では、傷口を満たす膿はまだ流動状態にあり、飴色に半ば透き通っています。そのtransparentな成分は流動状態にあり、光を通過させて内部組織と外部環境とを繋いでいるのです。そして、膿が瘡蓋と化せば、内部の流動性は封じ込められ、皮膚となって内と外の繋がりを可能なかぎりシャットアウトしてしまいます。「瘡蓋をむしる」ことは、こうした生理過程に逆行するわけです。あえてそうすることには、だから十分な理由があるのです。
「敏捷な構造」はなぜ「敏捷」なのかといえば、それはかたちの成立と交換に、すぐにその構造が掻き消されるといった性格のものであるからです。そして、「敏捷な構造」のその形跡は瘡蓋に塞がれ、喩えれば、傷口であるその「敏捷な構造」の<内容>は見えなくなってしまうわけです。要するに、瘡蓋が「敏捷な構造」を隠すのです。「瘡蓋をむしる」ことはだから、瘡蓋が塞ぐ以前の状態へと、すなわち傷口へと、意図的に戻ることなのです。そして、傷口とは裂け目であり、開かれた状態であり、半ばtransparentな膿の流動状態であるわけです。
 たとえば、「私」という瘡蓋があるとします。その瘡蓋をむしると傷口が開かれる。そこに裂け目としてあらわになるものがあるのです。それは、「私」の成立と交換に掻き消えているはずのものなのです。傷口が塞がれるとき、傷口を満たす膿が瘡蓋と化して内部を塞ぐわけですが、その膿はといえば、飴色の流動状態にあっては瘡蓋が隠そうとする当のものでもあるのです。そこで、「私」という瘡蓋にとって膿とは何かと考えるとすると、それは「私」から隠されているもの、あるいは「私」が隠しているもの、といえるでしょう。というのもそれは、「私」と化す以前の流動状態であり、半ばtransparentで、内部組織と外部対象とを直接的に繋いでしまうものであるからです。けれども、その状態は放っておけばすぐに「私」と化してしまうのです。だから「瘡蓋をむしる」ことで、流動状態へと、言い換えれば、「私」というものが生成する現場へ還ろうとする、そうした意図が示されていることになる、そう考えられるわけです。要するに、「私」を、膿という流動状態の方から見ようとする視点がそこにはあるのです。
 次に、この瘡蓋と膿、そして「瘡蓋をむしる」といった比喩を拡大してみます。そうするとまず、歴史的事実を覆い隠している歴史記録といった瘡蓋があり、そのいっぽうで、膿という、記録や歴史へと還元される以前のものがある、そう考えることができます。これは単なる比喩ではなく、というのもすでに述べたように、歴史的事実は諸個人の体験と共にあるのですが、その体験はといえば、そのままのかたちでは受け継がれ難いものとして確かにある、と考えられるからです。そして、その体験の内容はといえば、二者の間でtransferされて、受け手側でtransformされることで世代に受け継がれていくとみなすことができるとすると、その際に、そうした体験の内容を塞いでしまう記録や歴史という瘡蓋が当然考えられるでしょう。かりにそう考えて、瘡蓋をむしり、それ以前の膿の段階から見る仕方を採るならば、歴史記録と歴史的事実の関係も逆転するのではないでしょうか。たとえば、「日本人」とは明治にできた概念です。江戸時代で「くに」というのは藩のことであり、藩士は徳川幕府ではなく各藩主に仕えました。土地に所有権はなく、いっぽう農民には無主の入会地がありました。そこに「日本人」という概念は生まれにくいと思います。討幕の時代になってようやく地方藩士と京都の公家が話し合うことになりますが、言葉はなかなか通じなかったのではないでしょうか。維新によって初めて、国家機構と諸個人とが直接結びつけられることになります。すなわち、税制、土地所有、学制、徴兵制、そして言文一致の日本語を介して、「日本人」が政策的につくられたのです。そして、その政策はあくまでも対外国を意識したものでありました。こうしてできた歴史記録としての「日本人」を瘡蓋とみなせば、それは、それ以前の歴史的事実を覆い隠してしまっていることになります。それを歴史的段階とみなすならば、国家機構と共に「日本人」という瘡蓋を強化することになるだけです。
 歴史的事実としての<日本人>がまずあって、制度としての「日本人」がつくられる。その逆ではありません。「日本人」という層が形成されていて、その層は<日本人>が幾重にも重なってできあがっているのです。歴史的事実としての<日本人>は体験的かつ流動的に受け継がれるもので、その<内容>を把握し難いわけですが、ともあれ、下層に覆い隠されたものに触れようとするには、制度としての「日本人」を歴史的事実としての<日本人>から見るような<観点>が必要なのです。たとえば、「闇の歴史」を著したカルロ・ギンズブルグは、中世の裁判記録を調査することで知られた、イタリア東北部のフリウリ地方に住む人の一部に伝わる「ベナンダンティ」の体験が、途方もなく古い意識とからだの層に繋がっている可能性を示そうとしました。体験のその<内容>は現在では見失われてしまっているわけですが、その研究によって少なくとも、行ったきり戻らない体験の<内容>はどこに行ってしまったのか、という設問が生まれてくるのです。体験の<内容>は世代を経ればすぐに忘れられる傾向にあります。それゆえ、その<内容>を幾世代にもわたって保持するには、たとえばアボリジンの「チュリンガ」のような<ドリーム・マップ>を使って、ある構造のなかで個人の起源をつねに反復できるような仕掛けが必要となります。「瘡蓋をむしる」のも、それと意図を同じにしているのに違いありません。さもなければ、時間の推移のうちに形式という瘡蓋がつねに遺るだけなのです。
 とはいえ、「瘡蓋をむしる」ことは、起源を反復することではありません。それは傷口の膿をむきだしにし、膿という流動状態から逆に瘡蓋を見る視点をもとうとしているのです。そうすることで、土方の舞踏の方法は、瘡蓋という「私」へと形式化するもののうちに膿である幼年期の<現前性>体験の<内容>がつねに作用している、そうした構造に目を向けようとしているのです。幼年期の<現前性>体験のその<内容>は、子供が社会に組み込まれる思春期には忘れられる傾向にありますが、しかしその思春期にこそ、幼年期の<現前性>体験とそれを忘れることとの興亡において立ち現われるものがあるはずなのです。そして、その興亡を検証するのも思春期の自己なのです。膿とは、そうした思春期という傷口に流動する半透明の生成物なのです。
 幼年期の<現前性>体験の<内容>は、半ばtransparentな状況において、二者間のtransfer、受け手のtransformという、横断する運動と共にふたたび現われることになります。その運動は開かれ、流動状態にある。そうした流動状態において、<内容>は受け継がれることになるわけです。「感覚の論理」が、こうした運動を支えることになります。「敏捷な構造」というすばやいものに対して、イコンも含めて表象はすべて瘡蓋といえますが、ただしイコンはtransparentな状態を想起させるもので、瘡蓋であると同時に、「瘡蓋をむしる」場をも設定するのです。そのことによってイコンはつねに、表象の生成現場に還ろうとする働きを助けるわけです。
<内容>は形式のうちにそのすがたを現すけれども、形式をむしることで<内容>をそのつど新たに展開させ続けること、形式に還元されない<内容>をつねに保持すること、そのようにすることで、<内容>は形式から逃れるようにして、「敏捷な構造」として受け継がれていくのです。こうした形式を逃れようとする<内容>に関わる際には、誰しもが「死者」の声を耳にし、それに耳を傾けるのです。隠された流動状態に身をもって関わろうとするからでしょう。

Monday, November 03, 2014

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>

  一  土方巽という観点

「土方巽と日本人(1968)」の舞台は、土方巽の最初にしてかつ唯一の独舞作品です。それは「肉体の叛乱」と通称されていますが、土方が名づけた本来のタイトルは「土方巽と日本人」であり、そのサブタイトルとして「肉体の叛乱」が付されています。この「土方巽と日本人」というタイトルはそれまでの文学的ニュアンスやオブジェ感覚を示すものとはまったく異なっており、何かしらの意図を感じさせます。果たして舞台もまた、そのタイトルと機を一つにするようにして、それまでの体験的・実験的な内容とはうってかわって踊りを中心に構成されたものとなっています。そしてこの作品は、土方巽の全舞台活動から見わたすと、その前後できわめて大きな転換を示すものとなっています。具体的には、1968年は、六月に石井満隆公演「おじゅね抄」に出演し、九月に高井富子舞踏公演「まんだら屋敷」を演出・出演し、それぞれの舞台の一場で「キリスト」、「泥棒猫(魚と飯)」をソロで踊っていますが、十月の「土方巽と日本人」の後に土方が舞台に立つのは1972年の「四季のための二十七晩」であり、その舞台は、白塗り、舞踏符による舞踏といった、それまでになかった舞踏の様式を一挙に打ち出した表現となっているわけです。いっぽう、土方の全テキストを見わたしてみますと、文章表現においても、「土方巽と日本人」の舞台をはさんでその文体に大きな転換が生じているのがわかります。それ以前の線形で明示的な文章から、舞台後は不透明で断片が全体を示唆するような独特の文体へと変化しているというか、変容しているのです。それ以後その文体に磨きがかけられ、「病める舞姫(1983)」という、近代日本文学に類のない作品が生み出されました。
 こうしてみると、「土方巽と日本人」の舞台は、土方巽という表現者に大きな転換を強いたという点において特異な作品であることがわかります。この転換を契機にして土方巽は舞踏の表現を創造した、そう言ってもいいでしょう。転換、それは舞踏の表現を促すものの萌芽を意味するわけですが、そうした転換という視点から、「土方巽と日本人」が内蔵するものを考えてみたいと思います。
「土方巽と日本人」というタイトルは、それまでの文学作品や作家名を掲げたタイトルに比べるといかにも散文的ではありますが、そのタイトルが意図するものに関わろうとすると、単にイメージで捉えられるものとは別の内容がそこに提示されているのではないか、そう思われて仕方ありません。どういうことかといえば、「土方巽と日本人」の「と」を把握する仕方によって逆に「土方巽」と「日本人」が意図するものが浮き彫りにされてくる、ということです。「と」が単に並列的な意味で使用されていると考えるなら、それは成り立たない。論理的に考えれば、「土方巽」は「日本人」という集合の一要素にすぎません。それにもかかわらず「日本人」という集合にその要素である「土方巽」が並列的に示されているとすれば、一要素がそれ自身が属する集合と並ぶという点において逸脱していることになるからです。要するに、「土方巽」が何であり、「日本人」が何であるといった考え方を「と」は疑問に付すのです。「と」が並列的な意味で用いられているのでないならば、それは「土方巽」と「日本人」を異なる相において際立たせようとする働きをしているのです。そして、その際立ち合う関係において、双方において見出されてくる意味内容があるのではないか、そう考えるのです。それはたとえば、「日本人」が「土方巽」によって否定作用において捉えられ、そこに新たな「日本人」を提示するようなものであるかもしれないし、さらに、その新たな「日本人」が「土方巽」という観点となって、逆に「日本人」自らを俯瞰するような働きをするのかもしれない。双方によるそうした作用を含む関係を「と」は表しているのではないか、そう考えるわけです。この場合に運動の軸となるのは「土方巽」の方であり、それは「日本人」を自らのうちに取り込もうとするという意味で、特殊・観点的なものとして把握されているだろう、今はそのように考えておきます。このタイトルが意図するものについて今ははっきりと示すことはできませんが、その意図するものをつねに念頭におきながら、以下に論考を進めたいと思います。

 さて、「土方巽と日本人」の舞台はどのようなものであったのか。資料として、画家の中村宏が八ミリ・カメラで撮影した「土方巽と日本人—肉体の叛乱」の舞台記録があります。モノクロで十五分の長さのもので、舞台の雰囲気がわかる貴重なものです。しかし、断片的な内容であり、音響記録もないことから、これだけでは舞台全体の内容はわからない。他に舞台写真があり、また実際に舞台を観た人によるコメント等があるわけですが、こうした資料を参照しても全体の内容をつかむのは非常に難しい。現在では、こうした資料を素材にして「土方巽と日本人」の舞台構成をいくらか推定できるにすぎません。ですから、まずはその舞台構成を具体的にみてみることにします。舞台写真に付せられたキャプション(「土方巽の舞踏(2003)」より)を、括弧内に付しておきます。
1) 冒頭、客席方面から、白の着物衣装に身を包み、輿に乗った土方が登場する。その後にオブジェ群が続く。「冒頭の馬鹿王の行列。乳児用ベッドに載せられた豚。リアカーでつくられた輿に立つ土方、その後にバイクのモーター、床屋の看板を背負った男と続く」。
2) 舞台上で髪を解き、帯を解いて白の着物を脱ぐと、裸に模造男根を付けた姿となる。「土井典製作の模造男根を装着して激しくからだを痙攣させるように踊る」。
 背後に吊るされた真鍮板との絡みがあり、「真鍮板に吊られた鶏に手をかけ」、真鍮板を揺らしながら下手にさがる。
3) 一転して、ロング・ドレスを身につけた踊り。長髪を左右に分けて縛っている。「作業用の黒のゴム手袋と光るロング・ドレス」。力強い、大振りの踊りで、ロング・ドレスの襞がバロック的だ。「官能を刺激するような衣裳と身振り」。舞台下手の演奏ピアノと絡む。
4) からだにぴたりとした長袖衣装にロング・スカートの踊り。最初にロング・スカートを身につけ、途中ロング・スカートを脱いで(外して)コルセットをつけた腿も露なワンピース姿となり、「激しい動きへと加速する」。「生きた鶏が吊るされた真鍮板を揺らし、揺れる真鍮板にからだを強く接触させる」。
5) 一転して、丈の短い和服(振袖)にピンクの靴下を穿いた踊り。「赤い着物にロングソックスで少女を踊る」。踊りにかなりの変幻がある。
6) どの場面であるのかわからない、白いスーツに白いハットを被った踊りがある。髪を振り乱している。唯一の男装であるようだ。コミカルな印象を受ける。
7) 最終場面。白布を腰に巻き、髪を解き、手足をロープで縛って宙吊りにされた土方が、客席上の宙空を後方へと移動する。「ロープに宙吊りになり昇天するキリストに」。
8) フィナーレ。客席後方に設けられた壇上で観客の拍手に応える。上半身裸で長髪は乱れ、口に大きな魚をくわえる。
 冒頭と最終場面のインパクトのあるパフォーマンスが中身の踊りをサンドイッチのように挟み込んでいる、といった構成であることがわかります。踊りは女装が主で、その際に長髪を左右に分けて縛っている。女装といっても髭面で、明らかに男性の姿であるわけですが、贅肉をぎりぎりまで搾り取ったその身体からは、男女の性に限定されないようなエロティシズムが発散されている。女装には三態あり、まず大振りの襞のドレス、次にコルセットで痩身のからだをくっきり見せるワンピースで、ことに脚の細さ、撓うからだが強調されています。そして、一転して和装の少女態となり、変幻自在の踊りが展開されます。この少女態も髭面の少女態で、衣装のみが少女の装いなのですが、踊りによって見事に少女の趣を漂わせています。こうしてみると、中身の踊りを構成する女装の三態には、内なるものへの微分化、そう言っていいような方向性があるように思われます。
 冒頭と最終部のパフォーマンスはそれまでの土方の実験的な作品に繋がり、それは、「場に居合わせるという臨場感がおもしろさの一つになっている」(宇野亜喜良)、といった表現といえます。こうしたパフォーマンスの核心的感覚を持続させながらも、中身の踊りの内容の豊かさからして、表現のウェイトは踊りへと確実に移っているようです。ですから、舞台上での踊りの表現にこそ「土方巽と日本人」が意図するものが内蔵されてある、そう考えてもいいでしょう。舞台の外から登場し、舞台の外へと逃れていくといった構成は、舞台を成り立たせるための形式ではないかと思われます。とはいえ、舞台構成をみてわかるのは、「土方巽と日本人」がそれまでのパフォーマンス的な表現から踊りの表現へと土方の表現形式の移行をはっきりと示していることですが、舞台の外観だけをとってみてもそこに「転換」の内容をつかむのは難しい。また全体的に洋風の舞台であり、タイトルの「日本人」に結びつくもので眼に見える要素といえば、冒頭の着物衣装、鶏、少女態の衣装、そして意図的にリズムをはぐらかせたステップぐらいだろうか。

 翻って「転換」という視点から、舞台前とその後の土方の発言を参照してみることにします。おそらく公演の宣伝的な意味があるのでしょう、その年の七月、雑誌「展望」に澁澤龍彦との対談「肉体の闇をむしる…」が掲載されています。そこで土方は十月の舞台について、「土方巽による土方巽ということをはっきりやらねばならぬ年に来たのじゃないかとひしひし感じます」、そう言っている。これは、「土方巽と日本人」のタイトルをふまえた発言だと思われます。土方の発言をまとめてみると、次のような内容になります。
1)表現ジャンルを越えた「究極の舞踏性」の強調。
「ジャンルの破壊などとずいぶん叫ばれてきているけれども、舞踏性ということを一つもってくれば全部片付く」。
2)子供世界の検証。
 子供時代に家族ぐるみで体験したことが「ハプニング」だと語られる。
「遊ぶ道具にしても、キンカクシに歯を立ててみたり…、水ガメの中の水をカマで切って、その水の裂き目を見て快楽を感じたり、自分のからだをフイゴのようにして息づかいを激しくしたり…」。
 さらに、幼年時代の「イズメ」体験が語られる。
3)舞踏表現の志向性。
「悲鳴だけでフォルムができているそういう聖なる領域」、「気絶するとか、失神するとかいうことを、舞踏の究極に置くハーモニーを考える」。
(舞踊家というものがオブジェ的になってくるのか)という問いに対する、「そのオブジェが、心霊というか、舞踊家の霊を呼ぶということがあるのじゃないでしょうか」。
4)子供時代に兄から聞いた戦前のハルピンでの見世物、その技芸について。
「丹精なつくりもの」、「ハンカチが肉片となってたような感じのもの…」、「生き物の鳴りをしずめているような不気味さ」。
5)(外側に向かおうとする)現況の舞台表現全般に対する批判的方法論。
「自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思います」。
「ぼくは、暗闇でものを食うとおいしいと思うんですね。いまだに寝床にまんじゅうなど引き入れては暗闇で食うんですよ。形は見えないけれども、味覚は倍加するわけです。あらゆる光線がいかがわしいと思うことがあります」。
1)では、「舞踏性」という言葉によって、舞踏に思想的土台があることが示唆されています。2)では、子供時代に家族ぐるみのハプニング的体験をさせられたことで、逆にそれを演技としてなぞる表現ができない、といったことが強調されています。3)は、舞踏表現が志向するものおよびそれを内側から支えるものについて語っています。4)でも舞踏表現が志向するものについて語られているわけですが(その内容は後に<幻獣社>公演で試みられ、最終的には<白桃房>公演に結実する)、それは子供時代に想像したことの再現であり、3)で語られている志向性とは異なる相をしています。5)では、他の舞台表現とは一線を画す、土方独特のからだへの関わり方が語られています。
 概括すれば、「舞踏」という、表現における究極的なものがある。その内容はあくまでも現前的なものである。方法としては、自身のからだと過去の記憶に関わることに手をつけることから開始される。そのとき子供時代の体験の検証をしなければならないが、子供時代の体験をそのまま表現としてなぞることはできない。現在までに構築されてきた目をつぶるようにして自身のからだと過去の記憶に関わらなければならない、そういった内容が語られています。また批判的方法論として、「肉体の闇を食う」ことが強調されています。この「食う/食べる」とは、(外部のものであれ内部のものであれ)対象が結果的に主体の要素となる作用をいうと考えられ、それゆえ、その作用は対象と主体の関係にある種のねじれを惹き起こすことになります。おそらく、子供時代の体験の検証に関わることを通じて、そうした対象—主体間のねじれの感覚が何らかの表現方法となって身に付き始めているのでしょう。したがって、こうした話の内容は舞台を前にして「舞踏」とは何かをアピールしているわけですが、それよりも、舞台を準備するに際してこうしたことに関わっている、そう考えた方がいいように思います。
 子供時代にさせられた(純粋)体験をそのまま舞台に上げることができないのは、表現として体験を対象化してしまうからです。土方は子供時代の純粋体験の現前化を意図しているようであり、それは体験の対象化であってはならないのです。こうしたことの表現に関わるのが困難なのは、子供時代の体験は(表象以前という意味で)直接的なものであり、その内容は私たちの神経アレンジメントのうちに折り畳まれている、そう言っていいようなものであるからだと考えます。表現が過去の記憶を扱うそれまでの仕方はこうした直接的な体験の秩序に触れることがなく、それまでの仕方では神経に折り畳まれたアレンジメントを現在のからだに開くことができない。そのため、これまでにないような何らかの方法が必要とされるわけです。そうした方法意識において、「肉体の闇をむしって食う」ことにより対象と主体の関係にねじれが惹き起こされることが注目されているのであり、そうすることによって、子供時代の純粋体験の現前化を表現する方法が考えられているのではないかと思います。
 それまでのパフォーマンスとは異なり、表現の素材として子供時代の記憶に焦点が当てられているのがわかりますが、「土方巽と日本人」の舞台以前に写真家・細江英公と秋田に帰って「鎌鼬」の撮影をしていることが強く影響しているわけです。ですから、「土方巽と日本人」の舞台を準備するに際して、秋田での体験が土方を過去の記憶を軸にした表現方法に深く関わらせている、そう考えてもいいと思います。しかしながら、舞台の外観からは、自身のからだにおいて過去の記憶に関わる土方の表現が孕むものは表立ってわからないのではないか。それは、「土方巽と日本人」が、どちらかといえばまだパフォーマンスの核心的感覚を引き継ぐような舞台であるからだと思います。
 次に、舞台後(翌年)に行なわれた、画家・宇野亜喜良との対談、「闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」の発言内容をみてみます。これもまず、発言を要約的に抜粋することにします。
1)舞踏表現の「直接性/現前性」の強調。
「舞踏をただもってきて劇場にのせるわけです。作舞の方法とか、観念を肉化するとか、動きに置き換えるときの作業などがなくて一挙に形象できるわけです」。
(ハプニングというよりは)、「まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯し合うのです」。
「人間のアクションというのは一つの無目的性がその人をつき動かすとエロチックになってくるし…」。
「私は最初、見せる舞踏はだめだ、ながめられたり、さすられたり、しゃぶられたり、そういう舞踏じゃなきゃいけないので、…こっけいダンスといっていたんですよ」。
2)子供世界の検証を経た方法論的意識。
「モダンなものを否定することによって逆にモダンになる」。
「子供の特権のように、やりたいことをやるのだ」。
「どこからでも、着れるという着物が子供の頃にはあるものでしょう。袖に足を入れたり、頭を突っ込んだり、そういう按配にも着るわけですね。着るとか脱ぐとかいう動作のほかに、裸体と衣装との間に塗るとか嵌めるといったひとつの着衣の方法がある。そこには非常にデリケートな関係があるわけです」。
「私は自分で遊戯を発明しないとね、遊び道具がないんです」。
「そしていまだ!と叫ぶ瞬間が舞台にそのまま移し変えられれば、私はほんとうに名子役を演じられるわけです。…それから足場が悪いでしょう、土がぬかるんで、それで走るそのときグワーと赤ん坊ぐらいにもどれるんですよ。できあがった写真を見たら、赤ん坊の顔がヨーロッパの光学なんかより顔がひびわれた駄菓子みたいな明るさになってカーと空をみているわけですよ」。
3)姉の役割。
「なぜ髪の毛を長くしているのか、と聞かれるでしょう。私は死んだ姉を私の中で飼っているんです。…いま二人で住んでいるんです。髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。そういうものを自分の体の中に蓄えているわけです」。 
4)肉体熟視。
「人間関係を外側に求めないで、一個の体の中でいつもはぐれている自分とでくわす、自主的にその人にでくわさせるようにするのです。…彼の肉体を熟視させる方法をとるわけです。…そこで人間は血を流しているのだから、肉体熟視というのはどうしてもうしろ暗い。犯罪的なんです」。
5)舞踏原則の新たな確認。
「世界の踊りは全部そうなんですけどまず立つわけですよ。ところが私は立てないんですよ、立とうとして、お前は床に立っているけど、それは床じゃないだろうといわれると、突然足元から崩れていく…」。
「肉体概念をみてグロテスクということを定義するときに、様々なイメージを追求していくと、一枚の箔になる、うすっぺらな、そういうところへ人物とか、形象を追い込んでいくことも可能だと思うんですよ」。
6)日本人論。
「神がないとかいってますけど、神を代行するもの―例えば日常ですね、そういうものは私たちの周囲にあるし、また、それを感知できるのが日本人だ。ただ、日常にだまされてはいけないので、その辺の葛藤術が日本人は世界一優れている…」。
「もともと日本人は肉体概念がアナーキーですからね。第一道があるわけじゃないし、空だって危ないですからね、私は田んぼの畦しかない」。
1)では舞踏表現の直接性が強調されていますが、その直接性の内容はパフォーマンスの核心的感覚から生じながらもそれとは異なっているようです。その間の差異化のプロセスが土方には把握されていると考えられます。2)では、子供世界の検証と、検証を経たうえでの方法があることが語られようとしています。3)からは、「土方巽と日本人」の長髪での踊りは、「死んだ姉」という自身のからだに際立つ異質なものに関わってのことであると推測されます。土方は、この舞台以後ずっと髪を伸ばし続けています。4)は、子供世界の検証を経て、過去の体験を素材とするのに伴ってからだに際立ってくる差異的な感覚—意識をめぐる土方の新たな方法論です。それは、「肉体に眺められた肉体学(1969)」でやや詳しく論じられることになります。5)では舞踏の原則が確認されていますが、その原則においては、「世界」と比較したときに際立ってユニークな日本人のからだが示唆されています。6)は、舞踏原則に沿った土方独特の日本人論です。「神を代行する」日常についていえば、たとえば、障子戸は室町文化の産物ですが、私たちは今でも、障子戸に投影されたモノの影を見て影の向こうに生きた存在を感知しつつ影を眺めることや、そのとき障子の桟である座標的な格子を影の形と共に抽象として受け入れていることなどを、日常生活において体験しているわけです。影のかたちはくっきりとして実際の事物よりも明確であるという感じを抱きますが、障子戸を開ければすぐさま外部の自然が感覚に飛び込んで来ることも知っています。このように外部世界に対して曖昧な姿勢をとる日本人には感覚と意識の統制がとれていない、つまり解放されているという意味で「アナーキー」であることになります。そして、アナーキーであることを楽しんでいる。たとえば、雪見障子といった、感覚の曖昧な体験の絡繰りを楽しむ仕方も私たちはよく知っているからです。
 対談が長く、多岐にわたった主題が語られています。そのために内容を要約的にまとめることはできないけれども、「転換」という視点からみれば、それなりに看て取ることができる要点もあります。
 舞台と日常との直接的な対峙が語られるのは、からだに関わることの<現前性>を念頭においているからだと考えられます。<現前性>を軸にすれば、舞台も日常も異なることがない。この観点に立てば、表現におけるハプニングというのは意味をなさなくなるでしょう。さらに<現前性>を軸にするということは、日常における身振り—行為を成立させているものに疑いの目を向けることです。したがって、日本人であるとはいえ、日本人であることを疑うことになる。言い換えれば、日本という環境で生きてきたとはいえ、日本という環境が神経アレンジメントに及ぼす作用に疑いの目を向ける、ということになります。そうすることで逆に自身の中ではぐれている「日本人」と出くわすことになる、そう考えられているわけです。土方が考える舞踏の方法論はそうしたところにまでやって来たのです。
 いっぽう、子供世界の検証を通じて、土方にとって純粋体験、いわばその記憶を駆動させれば今でも少年の<現前性>が渦巻く、そうした位相が土方のからだに際立つ時間があるのだと考えられます。そうした位相を表現の素材として扱う際に、からだに異質なものが際立ってくるのを土方は感知しているようです。それが、「死んだ姉」であると思われます。そしてそのことが、「土方巽と日本人」を土方が長髪で踊り通した理由なのです。たとえば、少女態の踊りの中で子を抱く表現があります。この表現を、土方が田んぼを着物姿で赤子を抱いて走る「鎌鼬」の写真(このとき土方はまだ短髪である)と比較してみることができるでしょう。この「特権」的な行為は、細江英公との写真撮影の際に即座に実現されたと語られていますが、その際に土方は、「走るそのときグワーと赤ん坊ぐらいにもどれるんですよ」、そう証している。その「名子役」の行為が新たな方法論を伴って舞台の表現へと実現されているとすれば、舞台では田んぼで赤子を抱く行為が子を抱く姉となって現れている、そう考えることもできるでしょう。
 こうした展開を考えると、子供世界の検証、すなわち少年の<現前性>を手にしようとすることなのですが、その少年の<現前性>体験と「死んだ姉」との関係を考えるとすると、表現に際して少年の<現前性>の渦が無数の襞となって(神経アレンジメントの働きとなって)土方のからだに開かれるとき、その襞を束ねる折り目のような役割、「死んだ姉」とはそうした働きをしているのではないでしょうか。要するに、少年の<現前性>の渦—襞はそれを束ねる折り目を介してはじめて表現できる、すなわち表現のかたちとしてからだに立ち現われる、そう考えてみることができるのです。
 舞踏表現における<現前性>へのこうした関わり方は、それまでの批判的方法論が「肉体熟視」という独自の方法へと結晶化することに由ると考えられます。すなわち、<現前性>へのアプローチは「肉体の闇をむしって食う」ことからはじまり、「食う」ことのうちに対象と主体のねじれ現象がからだに内蔵されて、そのとき「一個の体の中でいつもはぐれている自分とでくわす」といった、内蔵とその顕現との相乗作用である「肉体熟視」へと方法化されたのではないかということです。たとえば、少年の<現前性>を「食う」ことで少年の<現前性>がからだに実現されると考えられますが、そうした体験のみでは表現として成立しません。<現前性>とは、土方の言葉で「闇」と言い換えてもいいものですが、舞踏の表現にあっては、そのからだから「闇—<現前性>がこぼれる」ことが要求されるわけです。いっぽう、「肉体熟視」は、自身のからだに関わるという自己言及的な領野にあって結果的に「見る―見られる」といった視線に関わり、そのことによってそれ自身における差異を生み出すことになります。とはいえ、それは際限のない働きであり、どこかに折り目を想定しないと終始がつかなくなる傾向にある。その終始のつかないからだに「闇がこぼれている」ということもできるけれども、そこにはまだ表現というものの秩序が伴っているわけではありません。折り目を開き、折り目へと畳まれ、そしてその折り目をふたたび開くとき、開かれるものは神経アレンジメントの働きとして開かれる、そうした表現のための秩序を維持するためには、それ自身における差異の体験を束ねるような折り目が、表現行為の軸として要求されるのではないでしょうか。つまりそれは、<現前性>を受けとめるような踊りのかたちへと導くのです。
「死んだ姉」について土方は、「私の中で飼っている」、「二人で住んでいる」、「髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。そういうものを自分の体の中に蓄えている」、と語っています。自身とは異質なものであると感知しつつ、子供時代の記憶を束ねるものの働きを観察しているのです。観察者とはいえ、それは観察対象との相互作用のうちにあります。ことに「肉体熟視」といった自己言及的な領野にあってはことさらそうであると考えられます。それゆえ、観察対象の働きは確実に観察者の身振りへと浸透し、「死んだモーション」、すなわちかつて目にした身振り(土方は少年時代に女ものの着物をタンスから出して着て遊んだという)が、少年の<現前性>体験としての神経アレンジメントの働きを生き返らせていくのです。折り目というのはそうした働きをするのです。土方の作舞の方法において子供時代の記憶もむろん観察対象であるわけですが、「姉」を観察するのと比べれば、そこには主体に直接繋がるものとそうではない異質なものとの違いがあり、その際に相互作用の際立ち方が異なるのではないかと思われます。同一的なもののうちでは、観るものと観られるものとの相互作用が曖昧さに終始するのではないか考えられるからです。「姉」という異質なものが折り目として導入されることで、際限のない差異化の働きは相互作用においてはっきりと働き、差異化の働きそのものも表現的に確実なものとなって、踊りのかたちとしてからだに受けとめられることになる、そう考えられるわけです。それゆえ、「姉」がいかなるものであれ、おそらく「姉」を介在させた作舞の方法とはきわめて現実的なものなのです。「土方巽と日本人」を土方が主に女装で踊ったのは、確かな理由があってのことだと考えられます。
 このように考えてくると、舞踏の思想的局面、子供世界の検証、姉の役割、肉体熟視、舞踏原則の確認、独特の日本人論といった主題群は、土方の舞踏表現の土台となって一貫した働きをしている、そうみることができます。すなわち、こうした主題すべてを包み込む関係とその相互作用が一つのものとなって「土方巽」という<観点>をつくりだしている、という意味においてです。この<観点>は、少年の<現前性>体験と「死んだ姉」との関係として表現的に立ち現れてくるもの、すなわちその神経アレンジメントの働きは日本人の身体感覚—意識を基盤としている、そう土方が実感することにおいてもたらされているのではないか、ということです。そして、逆にこの「土方巽」という<観点>が、土方を「土方巽」へと推し出していくのです。土方にとって、「土方巽」とは単なる舞踏家名ではなかったと思います。この時点から土方は「土方巽」という<観点>をもつにいたり、以後その<観点>に則して生きたのです。
 なぜこうした<観点>がもたらされたのかといえば、一つには、この時点で土方が意図する表現が土方個人のためのものとみなされなくなっているからではないかと思います。そのことは、からだは「私」のものではないという単純な理由による。「私」のからだという考えは、いわば倒錯しているのです。からだは「私」よりもっと長いスパンで考えなければならず、土方にとって究極的にはそれは「日本人」に匹敵するものなのです。私たちのからだは個々の「私」のからだではなく、「日本人」のからだなのです。とはいえ、その「日本人」はといえば、けっして歴史的抽象ではありません。つまり、日本人という観念ではありえない。観念とは「私」によってつくりだされたものであり、からだを基盤にしている<観点>とは違うのです。舞踏思想の強調、舞踏原則、独特の日本人論等に一貫しているものは、「日本人」のからだとはけっして抽象ではなく、私たちの目前に立ち現れているそのことである、ということを証しているわけです。
 個人のための表現であれば、移り行く現代という時代における表現者個人の<現前性>をつねに扱えばよいでしょう。土方はそうした表現の次元を経たうえで、さらなる「舞踏」の表現の創造に向けて着手したわけです。土方の舞踏表現は、自らが日本人であることを、私たちの目前に立ち現れているそのこと、すなわち<現前性>の相で見るよう要請し、それゆえいつしか「土方巽」が「日本人」の<現前性>を扱おうとするようなものになっていったのだと思われます。そのために、「日本人」を自らのうちに包み込む「土方巽」という<観点>が求められたのではないか。とはいえ、表現におけるその実現は容易なことではない。というのも、観念ではない「日本人」を自らのうちに取り込むことによって、開き、折畳み、ふたたび開くという舞踏の表現の秩序がより複雑になってくるからです。<観点>とは、身体感覚—意識を抱握するような複雑な機構を伴っている、そう考えられるからです。
「日本人」の<現前性>体験を扱うことにおいて「日本人」はどのように捉えられたかということについて考えれば、「死んだ姉」や「死んだモーション」と語られるように、土方は「日本人」を「死者」として自身のからだに捉えたのだと思います。土方にとって「死者」は膨大な広がりをもっているものです。そして、「日本人」が「死者」としてからだに捉えられることで、その「死者」は、表現に際して、土方のからだのうちに逆に「少年」を構成するものとして立ち現れてくるのです。たとえば、「少年」の<現前性>体験の周辺に必ず「死者」が立ち上がってくるわけです。際限のない「少年」の<現前性>体験は、こうして「死者」によって限定されるのだと言っていいでしょう。こうしたことから、「少年」、「少年」を構成する「死者」、そして「少年」を焦点化する「姉」という、<現前性>をめぐる感覚—意識の三つの相があり、各々異質でありながらお互いの構成に関与し合っている、といった関係ができあがってくるのだと考えられます。ただし、「死者」の相はその広がりのゆえにつねにゆらいでいるようですが…。そうして、一転して土方の表現の秩序において、「少年」は「死者」へと開かれ、また「少年」は「姉」へと折り畳まれる。「姉」は折り目として舞踏表現の軸となり、つまり踊りのかたちとなって、「少年」をつねに神経アレンジメントの働きとして再生する。そして、「姉」は「死んだ姉」であることから「死者」へと屈折することで、最終的に「日本人」としての「死者」がすべてを包摂するという秩序ができあがってくるのではないか…。その詳細について今は立ち入ることができないけれども、<観点>の機構については、以後に続く章で検討したいと考えています。
 もう一つ、土方が舞踏の表現を意図する際にそれが個人の表現ではないと考えるのは、「危機に立つ肉体」という言葉に象徴される、ある危機感をもっているからでもあります。その危機は、精神的不安であるとか、物質的破綻といったもののことではありません。危機とはより根本的な危機であり、それは資本制社会が推し進める生産と管理の原理によって生じる私たちのからだと「私」の意識への分裂においてあります。全てにわたって急激に情報化が進む現在にいたっては、そうした分裂の危機は意識されないくらいに私たちは資本制社会の原理に包摂されて生きていますが、半世紀前の1960年代の日本においてはまだそうでなかったのです。ことに中央の都市部から「土俗」とか「周縁」とみなされる地域があり、そうした地域に住む人たちにはまだ身体—意識の自律的秩序が持続してあったのです。そうした地域の人々の秩序をも脅かす時代の危機を背にして、土方は射影法の頂点としての<観点>をもって舞台に立ち、自らの舞踏表現を観客に向けて放射する。放射能とは「radioactive」の訳ですが、その組成を自ら崩壊させて放射する働きをいいます。土方の「私」を崩壊させて「土方巽」を放射する、そうした放射能的な姿勢が、「土方巽と日本人」の舞台が「傲慢」に見えた理由かもしれません。むろんそのとき、「土方巽」という放射線に染まり、身も心も化学変化した人もいたのです。
「土方巽と日本人」の舞台は、土方に「土方巽」という<観点>をもたらしたという意味で大きな転換点となっているのです。ここから、土方による「舞踏」と呼ばれる<欲望>が開始されます。そして、新しい意匠が新しい表現を生み出すことになります。