Monday, November 03, 2014

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>

  一  土方巽という観点

「土方巽と日本人(1968)」の舞台は、土方巽の最初にしてかつ唯一の独舞作品です。それは「肉体の叛乱」と通称されていますが、土方が名づけた本来のタイトルは「土方巽と日本人」であり、そのサブタイトルとして「肉体の叛乱」が付されています。この「土方巽と日本人」というタイトルはそれまでの文学的ニュアンスやオブジェ感覚を示すものとはまったく異なっており、何かしらの意図を感じさせます。果たして舞台もまた、そのタイトルと機を一つにするようにして、それまでの体験的・実験的な内容とはうってかわって踊りを中心に構成されたものとなっています。そしてこの作品は、土方巽の全舞台活動から見わたすと、その前後できわめて大きな転換を示すものとなっています。具体的には、1968年は、六月に石井満隆公演「おじゅね抄」に出演し、九月に高井富子舞踏公演「まんだら屋敷」を演出・出演し、それぞれの舞台の一場で「キリスト」、「泥棒猫(魚と飯)」をソロで踊っていますが、十月の「土方巽と日本人」の後に土方が舞台に立つのは1972年の「四季のための二十七晩」であり、その舞台は、白塗り、舞踏符による舞踏といった、それまでになかった舞踏の様式を一挙に打ち出した表現となっているわけです。いっぽう、土方の全テキストを見わたしてみますと、文章表現においても、「土方巽と日本人」の舞台をはさんでその文体に大きな転換が生じているのがわかります。それ以前の線形で明示的な文章から、舞台後は不透明で断片が全体を示唆するような独特の文体へと変化しているというか、変容しているのです。それ以後その文体に磨きがかけられ、「病める舞姫(1983)」という、近代日本文学に類のない作品が生み出されました。
 こうしてみると、「土方巽と日本人」の舞台は、土方巽という表現者に大きな転換を強いたという点において特異な作品であることがわかります。この転換を契機にして土方巽は舞踏の表現を創造した、そう言ってもいいでしょう。転換、それは舞踏の表現を促すものの萌芽を意味するわけですが、そうした転換という視点から、「土方巽と日本人」が内蔵するものを考えてみたいと思います。
「土方巽と日本人」というタイトルは、それまでの文学作品や作家名を掲げたタイトルに比べるといかにも散文的ではありますが、そのタイトルが意図するものに関わろうとすると、単にイメージで捉えられるものとは別の内容がそこに提示されているのではないか、そう思われて仕方ありません。どういうことかといえば、「土方巽と日本人」の「と」を把握する仕方によって逆に「土方巽」と「日本人」が意図するものが浮き彫りにされてくる、ということです。「と」が単に並列的な意味で使用されていると考えるなら、それは成り立たない。論理的に考えれば、「土方巽」は「日本人」という集合の一要素にすぎません。それにもかかわらず「日本人」という集合にその要素である「土方巽」が並列的に示されているとすれば、一要素がそれ自身が属する集合と並ぶという点において逸脱していることになるからです。要するに、「土方巽」が何であり、「日本人」が何であるといった考え方を「と」は疑問に付すのです。「と」が並列的な意味で用いられているのでないならば、それは「土方巽」と「日本人」を異なる相において際立たせようとする働きをしているのです。そして、その際立ち合う関係において、双方において見出されてくる意味内容があるのではないか、そう考えるのです。それはたとえば、「日本人」が「土方巽」によって否定作用において捉えられ、そこに新たな「日本人」を提示するようなものであるかもしれないし、さらに、その新たな「日本人」が「土方巽」という観点となって、逆に「日本人」自らを俯瞰するような働きをするのかもしれない。双方によるそうした作用を含む関係を「と」は表しているのではないか、そう考えるわけです。この場合に運動の軸となるのは「土方巽」の方であり、それは「日本人」を自らのうちに取り込もうとするという意味で、特殊・観点的なものとして把握されているだろう、今はそのように考えておきます。このタイトルが意図するものについて今ははっきりと示すことはできませんが、その意図するものをつねに念頭におきながら、以下に論考を進めたいと思います。

 さて、「土方巽と日本人」の舞台はどのようなものであったのか。資料として、画家の中村宏が八ミリ・カメラで撮影した「土方巽と日本人—肉体の叛乱」の舞台記録があります。モノクロで十五分の長さのもので、舞台の雰囲気がわかる貴重なものです。しかし、断片的な内容であり、音響記録もないことから、これだけでは舞台全体の内容はわからない。他に舞台写真があり、また実際に舞台を観た人によるコメント等があるわけですが、こうした資料を参照しても全体の内容をつかむのは非常に難しい。現在では、こうした資料を素材にして「土方巽と日本人」の舞台構成をいくらか推定できるにすぎません。ですから、まずはその舞台構成を具体的にみてみることにします。舞台写真に付せられたキャプション(「土方巽の舞踏(2003)」より)を、括弧内に付しておきます。
1) 冒頭、客席方面から、白の着物衣装に身を包み、輿に乗った土方が登場する。その後にオブジェ群が続く。「冒頭の馬鹿王の行列。乳児用ベッドに載せられた豚。リアカーでつくられた輿に立つ土方、その後にバイクのモーター、床屋の看板を背負った男と続く」。
2) 舞台上で髪を解き、帯を解いて白の着物を脱ぐと、裸に模造男根を付けた姿となる。「土井典製作の模造男根を装着して激しくからだを痙攣させるように踊る」。
 背後に吊るされた真鍮板との絡みがあり、「真鍮板に吊られた鶏に手をかけ」、真鍮板を揺らしながら下手にさがる。
3) 一転して、ロング・ドレスを身につけた踊り。長髪を左右に分けて縛っている。「作業用の黒のゴム手袋と光るロング・ドレス」。力強い、大振りの踊りで、ロング・ドレスの襞がバロック的だ。「官能を刺激するような衣裳と身振り」。舞台下手の演奏ピアノと絡む。
4) からだにぴたりとした長袖衣装にロング・スカートの踊り。最初にロング・スカートを身につけ、途中ロング・スカートを脱いで(外して)コルセットをつけた腿も露なワンピース姿となり、「激しい動きへと加速する」。「生きた鶏が吊るされた真鍮板を揺らし、揺れる真鍮板にからだを強く接触させる」。
5) 一転して、丈の短い和服(振袖)にピンクの靴下を穿いた踊り。「赤い着物にロングソックスで少女を踊る」。踊りにかなりの変幻がある。
6) どの場面であるのかわからない、白いスーツに白いハットを被った踊りがある。髪を振り乱している。唯一の男装であるようだ。コミカルな印象を受ける。
7) 最終場面。白布を腰に巻き、髪を解き、手足をロープで縛って宙吊りにされた土方が、客席上の宙空を後方へと移動する。「ロープに宙吊りになり昇天するキリストに」。
8) フィナーレ。客席後方に設けられた壇上で観客の拍手に応える。上半身裸で長髪は乱れ、口に大きな魚をくわえる。
 冒頭と最終場面のインパクトのあるパフォーマンスが中身の踊りをサンドイッチのように挟み込んでいる、といった構成であることがわかります。踊りは女装が主で、その際に長髪を左右に分けて縛っている。女装といっても髭面で、明らかに男性の姿であるわけですが、贅肉をぎりぎりまで搾り取ったその身体からは、男女の性に限定されないようなエロティシズムが発散されている。女装には三態あり、まず大振りの襞のドレス、次にコルセットで痩身のからだをくっきり見せるワンピースで、ことに脚の細さ、撓うからだが強調されています。そして、一転して和装の少女態となり、変幻自在の踊りが展開されます。この少女態も髭面の少女態で、衣装のみが少女の装いなのですが、踊りによって見事に少女の趣を漂わせています。こうしてみると、中身の踊りを構成する女装の三態には、内なるものへの微分化、そう言っていいような方向性があるように思われます。
 冒頭と最終部のパフォーマンスはそれまでの土方の実験的な作品に繋がり、それは、「場に居合わせるという臨場感がおもしろさの一つになっている」(宇野亜喜良)、といった表現といえます。こうしたパフォーマンスの核心的感覚を持続させながらも、中身の踊りの内容の豊かさからして、表現のウェイトは踊りへと確実に移っているようです。ですから、舞台上での踊りの表現にこそ「土方巽と日本人」が意図するものが内蔵されてある、そう考えてもいいでしょう。舞台の外から登場し、舞台の外へと逃れていくといった構成は、舞台を成り立たせるための形式ではないかと思われます。とはいえ、舞台構成をみてわかるのは、「土方巽と日本人」がそれまでのパフォーマンス的な表現から踊りの表現へと土方の表現形式の移行をはっきりと示していることですが、舞台の外観だけをとってみてもそこに「転換」の内容をつかむのは難しい。また全体的に洋風の舞台であり、タイトルの「日本人」に結びつくもので眼に見える要素といえば、冒頭の着物衣装、鶏、少女態の衣装、そして意図的にリズムをはぐらかせたステップぐらいだろうか。

 翻って「転換」という視点から、舞台前とその後の土方の発言を参照してみることにします。おそらく公演の宣伝的な意味があるのでしょう、その年の七月、雑誌「展望」に澁澤龍彦との対談「肉体の闇をむしる…」が掲載されています。そこで土方は十月の舞台について、「土方巽による土方巽ということをはっきりやらねばならぬ年に来たのじゃないかとひしひし感じます」、そう言っている。これは、「土方巽と日本人」のタイトルをふまえた発言だと思われます。土方の発言をまとめてみると、次のような内容になります。
1)表現ジャンルを越えた「究極の舞踏性」の強調。
「ジャンルの破壊などとずいぶん叫ばれてきているけれども、舞踏性ということを一つもってくれば全部片付く」。
2)子供世界の検証。
 子供時代に家族ぐるみで体験したことが「ハプニング」だと語られる。
「遊ぶ道具にしても、キンカクシに歯を立ててみたり…、水ガメの中の水をカマで切って、その水の裂き目を見て快楽を感じたり、自分のからだをフイゴのようにして息づかいを激しくしたり…」。
 さらに、幼年時代の「イズメ」体験が語られる。
3)舞踏表現の志向性。
「悲鳴だけでフォルムができているそういう聖なる領域」、「気絶するとか、失神するとかいうことを、舞踏の究極に置くハーモニーを考える」。
(舞踊家というものがオブジェ的になってくるのか)という問いに対する、「そのオブジェが、心霊というか、舞踊家の霊を呼ぶということがあるのじゃないでしょうか」。
4)子供時代に兄から聞いた戦前のハルピンでの見世物、その技芸について。
「丹精なつくりもの」、「ハンカチが肉片となってたような感じのもの…」、「生き物の鳴りをしずめているような不気味さ」。
5)(外側に向かおうとする)現況の舞台表現全般に対する批判的方法論。
「自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思います」。
「ぼくは、暗闇でものを食うとおいしいと思うんですね。いまだに寝床にまんじゅうなど引き入れては暗闇で食うんですよ。形は見えないけれども、味覚は倍加するわけです。あらゆる光線がいかがわしいと思うことがあります」。
1)では、「舞踏性」という言葉によって、舞踏に思想的土台があることが示唆されています。2)では、子供時代に家族ぐるみのハプニング的体験をさせられたことで、逆にそれを演技としてなぞる表現ができない、といったことが強調されています。3)は、舞踏表現が志向するものおよびそれを内側から支えるものについて語っています。4)でも舞踏表現が志向するものについて語られているわけですが(その内容は後に<幻獣社>公演で試みられ、最終的には<白桃房>公演に結実する)、それは子供時代に想像したことの再現であり、3)で語られている志向性とは異なる相をしています。5)では、他の舞台表現とは一線を画す、土方独特のからだへの関わり方が語られています。
 概括すれば、「舞踏」という、表現における究極的なものがある。その内容はあくまでも現前的なものである。方法としては、自身のからだと過去の記憶に関わることに手をつけることから開始される。そのとき子供時代の体験の検証をしなければならないが、子供時代の体験をそのまま表現としてなぞることはできない。現在までに構築されてきた目をつぶるようにして自身のからだと過去の記憶に関わらなければならない、そういった内容が語られています。また批判的方法論として、「肉体の闇を食う」ことが強調されています。この「食う/食べる」とは、(外部のものであれ内部のものであれ)対象が結果的に主体の要素となる作用をいうと考えられ、それゆえ、その作用は対象と主体の関係にある種のねじれを惹き起こすことになります。おそらく、子供時代の体験の検証に関わることを通じて、そうした対象—主体間のねじれの感覚が何らかの表現方法となって身に付き始めているのでしょう。したがって、こうした話の内容は舞台を前にして「舞踏」とは何かをアピールしているわけですが、それよりも、舞台を準備するに際してこうしたことに関わっている、そう考えた方がいいように思います。
 子供時代にさせられた(純粋)体験をそのまま舞台に上げることができないのは、表現として体験を対象化してしまうからです。土方は子供時代の純粋体験の現前化を意図しているようであり、それは体験の対象化であってはならないのです。こうしたことの表現に関わるのが困難なのは、子供時代の体験は(表象以前という意味で)直接的なものであり、その内容は私たちの神経アレンジメントのうちに折り畳まれている、そう言っていいようなものであるからだと考えます。表現が過去の記憶を扱うそれまでの仕方はこうした直接的な体験の秩序に触れることがなく、それまでの仕方では神経に折り畳まれたアレンジメントを現在のからだに開くことができない。そのため、これまでにないような何らかの方法が必要とされるわけです。そうした方法意識において、「肉体の闇をむしって食う」ことにより対象と主体の関係にねじれが惹き起こされることが注目されているのであり、そうすることによって、子供時代の純粋体験の現前化を表現する方法が考えられているのではないかと思います。
 それまでのパフォーマンスとは異なり、表現の素材として子供時代の記憶に焦点が当てられているのがわかりますが、「土方巽と日本人」の舞台以前に写真家・細江英公と秋田に帰って「鎌鼬」の撮影をしていることが強く影響しているわけです。ですから、「土方巽と日本人」の舞台を準備するに際して、秋田での体験が土方を過去の記憶を軸にした表現方法に深く関わらせている、そう考えてもいいと思います。しかしながら、舞台の外観からは、自身のからだにおいて過去の記憶に関わる土方の表現が孕むものは表立ってわからないのではないか。それは、「土方巽と日本人」が、どちらかといえばまだパフォーマンスの核心的感覚を引き継ぐような舞台であるからだと思います。
 次に、舞台後(翌年)に行なわれた、画家・宇野亜喜良との対談、「闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」の発言内容をみてみます。これもまず、発言を要約的に抜粋することにします。
1)舞踏表現の「直接性/現前性」の強調。
「舞踏をただもってきて劇場にのせるわけです。作舞の方法とか、観念を肉化するとか、動きに置き換えるときの作業などがなくて一挙に形象できるわけです」。
(ハプニングというよりは)、「まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯し合うのです」。
「人間のアクションというのは一つの無目的性がその人をつき動かすとエロチックになってくるし…」。
「私は最初、見せる舞踏はだめだ、ながめられたり、さすられたり、しゃぶられたり、そういう舞踏じゃなきゃいけないので、…こっけいダンスといっていたんですよ」。
2)子供世界の検証を経た方法論的意識。
「モダンなものを否定することによって逆にモダンになる」。
「子供の特権のように、やりたいことをやるのだ」。
「どこからでも、着れるという着物が子供の頃にはあるものでしょう。袖に足を入れたり、頭を突っ込んだり、そういう按配にも着るわけですね。着るとか脱ぐとかいう動作のほかに、裸体と衣装との間に塗るとか嵌めるといったひとつの着衣の方法がある。そこには非常にデリケートな関係があるわけです」。
「私は自分で遊戯を発明しないとね、遊び道具がないんです」。
「そしていまだ!と叫ぶ瞬間が舞台にそのまま移し変えられれば、私はほんとうに名子役を演じられるわけです。…それから足場が悪いでしょう、土がぬかるんで、それで走るそのときグワーと赤ん坊ぐらいにもどれるんですよ。できあがった写真を見たら、赤ん坊の顔がヨーロッパの光学なんかより顔がひびわれた駄菓子みたいな明るさになってカーと空をみているわけですよ」。
3)姉の役割。
「なぜ髪の毛を長くしているのか、と聞かれるでしょう。私は死んだ姉を私の中で飼っているんです。…いま二人で住んでいるんです。髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。そういうものを自分の体の中に蓄えているわけです」。 
4)肉体熟視。
「人間関係を外側に求めないで、一個の体の中でいつもはぐれている自分とでくわす、自主的にその人にでくわさせるようにするのです。…彼の肉体を熟視させる方法をとるわけです。…そこで人間は血を流しているのだから、肉体熟視というのはどうしてもうしろ暗い。犯罪的なんです」。
5)舞踏原則の新たな確認。
「世界の踊りは全部そうなんですけどまず立つわけですよ。ところが私は立てないんですよ、立とうとして、お前は床に立っているけど、それは床じゃないだろうといわれると、突然足元から崩れていく…」。
「肉体概念をみてグロテスクということを定義するときに、様々なイメージを追求していくと、一枚の箔になる、うすっぺらな、そういうところへ人物とか、形象を追い込んでいくことも可能だと思うんですよ」。
6)日本人論。
「神がないとかいってますけど、神を代行するもの―例えば日常ですね、そういうものは私たちの周囲にあるし、また、それを感知できるのが日本人だ。ただ、日常にだまされてはいけないので、その辺の葛藤術が日本人は世界一優れている…」。
「もともと日本人は肉体概念がアナーキーですからね。第一道があるわけじゃないし、空だって危ないですからね、私は田んぼの畦しかない」。
1)では舞踏表現の直接性が強調されていますが、その直接性の内容はパフォーマンスの核心的感覚から生じながらもそれとは異なっているようです。その間の差異化のプロセスが土方には把握されていると考えられます。2)では、子供世界の検証と、検証を経たうえでの方法があることが語られようとしています。3)からは、「土方巽と日本人」の長髪での踊りは、「死んだ姉」という自身のからだに際立つ異質なものに関わってのことであると推測されます。土方は、この舞台以後ずっと髪を伸ばし続けています。4)は、子供世界の検証を経て、過去の体験を素材とするのに伴ってからだに際立ってくる差異的な感覚—意識をめぐる土方の新たな方法論です。それは、「肉体に眺められた肉体学(1969)」でやや詳しく論じられることになります。5)では舞踏の原則が確認されていますが、その原則においては、「世界」と比較したときに際立ってユニークな日本人のからだが示唆されています。6)は、舞踏原則に沿った土方独特の日本人論です。「神を代行する」日常についていえば、たとえば、障子戸は室町文化の産物ですが、私たちは今でも、障子戸に投影されたモノの影を見て影の向こうに生きた存在を感知しつつ影を眺めることや、そのとき障子の桟である座標的な格子を影の形と共に抽象として受け入れていることなどを、日常生活において体験しているわけです。影のかたちはくっきりとして実際の事物よりも明確であるという感じを抱きますが、障子戸を開ければすぐさま外部の自然が感覚に飛び込んで来ることも知っています。このように外部世界に対して曖昧な姿勢をとる日本人には感覚と意識の統制がとれていない、つまり解放されているという意味で「アナーキー」であることになります。そして、アナーキーであることを楽しんでいる。たとえば、雪見障子といった、感覚の曖昧な体験の絡繰りを楽しむ仕方も私たちはよく知っているからです。
 対談が長く、多岐にわたった主題が語られています。そのために内容を要約的にまとめることはできないけれども、「転換」という視点からみれば、それなりに看て取ることができる要点もあります。
 舞台と日常との直接的な対峙が語られるのは、からだに関わることの<現前性>を念頭においているからだと考えられます。<現前性>を軸にすれば、舞台も日常も異なることがない。この観点に立てば、表現におけるハプニングというのは意味をなさなくなるでしょう。さらに<現前性>を軸にするということは、日常における身振り—行為を成立させているものに疑いの目を向けることです。したがって、日本人であるとはいえ、日本人であることを疑うことになる。言い換えれば、日本という環境で生きてきたとはいえ、日本という環境が神経アレンジメントに及ぼす作用に疑いの目を向ける、ということになります。そうすることで逆に自身の中ではぐれている「日本人」と出くわすことになる、そう考えられているわけです。土方が考える舞踏の方法論はそうしたところにまでやって来たのです。
 いっぽう、子供世界の検証を通じて、土方にとって純粋体験、いわばその記憶を駆動させれば今でも少年の<現前性>が渦巻く、そうした位相が土方のからだに際立つ時間があるのだと考えられます。そうした位相を表現の素材として扱う際に、からだに異質なものが際立ってくるのを土方は感知しているようです。それが、「死んだ姉」であると思われます。そしてそのことが、「土方巽と日本人」を土方が長髪で踊り通した理由なのです。たとえば、少女態の踊りの中で子を抱く表現があります。この表現を、土方が田んぼを着物姿で赤子を抱いて走る「鎌鼬」の写真(このとき土方はまだ短髪である)と比較してみることができるでしょう。この「特権」的な行為は、細江英公との写真撮影の際に即座に実現されたと語られていますが、その際に土方は、「走るそのときグワーと赤ん坊ぐらいにもどれるんですよ」、そう証している。その「名子役」の行為が新たな方法論を伴って舞台の表現へと実現されているとすれば、舞台では田んぼで赤子を抱く行為が子を抱く姉となって現れている、そう考えることもできるでしょう。
 こうした展開を考えると、子供世界の検証、すなわち少年の<現前性>を手にしようとすることなのですが、その少年の<現前性>体験と「死んだ姉」との関係を考えるとすると、表現に際して少年の<現前性>の渦が無数の襞となって(神経アレンジメントの働きとなって)土方のからだに開かれるとき、その襞を束ねる折り目のような役割、「死んだ姉」とはそうした働きをしているのではないでしょうか。要するに、少年の<現前性>の渦—襞はそれを束ねる折り目を介してはじめて表現できる、すなわち表現のかたちとしてからだに立ち現われる、そう考えてみることができるのです。
 舞踏表現における<現前性>へのこうした関わり方は、それまでの批判的方法論が「肉体熟視」という独自の方法へと結晶化することに由ると考えられます。すなわち、<現前性>へのアプローチは「肉体の闇をむしって食う」ことからはじまり、「食う」ことのうちに対象と主体のねじれ現象がからだに内蔵されて、そのとき「一個の体の中でいつもはぐれている自分とでくわす」といった、内蔵とその顕現との相乗作用である「肉体熟視」へと方法化されたのではないかということです。たとえば、少年の<現前性>を「食う」ことで少年の<現前性>がからだに実現されると考えられますが、そうした体験のみでは表現として成立しません。<現前性>とは、土方の言葉で「闇」と言い換えてもいいものですが、舞踏の表現にあっては、そのからだから「闇—<現前性>がこぼれる」ことが要求されるわけです。いっぽう、「肉体熟視」は、自身のからだに関わるという自己言及的な領野にあって結果的に「見る―見られる」といった視線に関わり、そのことによってそれ自身における差異を生み出すことになります。とはいえ、それは際限のない働きであり、どこかに折り目を想定しないと終始がつかなくなる傾向にある。その終始のつかないからだに「闇がこぼれている」ということもできるけれども、そこにはまだ表現というものの秩序が伴っているわけではありません。折り目を開き、折り目へと畳まれ、そしてその折り目をふたたび開くとき、開かれるものは神経アレンジメントの働きとして開かれる、そうした表現のための秩序を維持するためには、それ自身における差異の体験を束ねるような折り目が、表現行為の軸として要求されるのではないでしょうか。つまりそれは、<現前性>を受けとめるような踊りのかたちへと導くのです。
「死んだ姉」について土方は、「私の中で飼っている」、「二人で住んでいる」、「髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。そういうものを自分の体の中に蓄えている」、と語っています。自身とは異質なものであると感知しつつ、子供時代の記憶を束ねるものの働きを観察しているのです。観察者とはいえ、それは観察対象との相互作用のうちにあります。ことに「肉体熟視」といった自己言及的な領野にあってはことさらそうであると考えられます。それゆえ、観察対象の働きは確実に観察者の身振りへと浸透し、「死んだモーション」、すなわちかつて目にした身振り(土方は少年時代に女ものの着物をタンスから出して着て遊んだという)が、少年の<現前性>体験としての神経アレンジメントの働きを生き返らせていくのです。折り目というのはそうした働きをするのです。土方の作舞の方法において子供時代の記憶もむろん観察対象であるわけですが、「姉」を観察するのと比べれば、そこには主体に直接繋がるものとそうではない異質なものとの違いがあり、その際に相互作用の際立ち方が異なるのではないかと思われます。同一的なもののうちでは、観るものと観られるものとの相互作用が曖昧さに終始するのではないか考えられるからです。「姉」という異質なものが折り目として導入されることで、際限のない差異化の働きは相互作用においてはっきりと働き、差異化の働きそのものも表現的に確実なものとなって、踊りのかたちとしてからだに受けとめられることになる、そう考えられるわけです。それゆえ、「姉」がいかなるものであれ、おそらく「姉」を介在させた作舞の方法とはきわめて現実的なものなのです。「土方巽と日本人」を土方が主に女装で踊ったのは、確かな理由があってのことだと考えられます。
 このように考えてくると、舞踏の思想的局面、子供世界の検証、姉の役割、肉体熟視、舞踏原則の確認、独特の日本人論といった主題群は、土方の舞踏表現の土台となって一貫した働きをしている、そうみることができます。すなわち、こうした主題すべてを包み込む関係とその相互作用が一つのものとなって「土方巽」という<観点>をつくりだしている、という意味においてです。この<観点>は、少年の<現前性>体験と「死んだ姉」との関係として表現的に立ち現れてくるもの、すなわちその神経アレンジメントの働きは日本人の身体感覚—意識を基盤としている、そう土方が実感することにおいてもたらされているのではないか、ということです。そして、逆にこの「土方巽」という<観点>が、土方を「土方巽」へと推し出していくのです。土方にとって、「土方巽」とは単なる舞踏家名ではなかったと思います。この時点から土方は「土方巽」という<観点>をもつにいたり、以後その<観点>に則して生きたのです。
 なぜこうした<観点>がもたらされたのかといえば、一つには、この時点で土方が意図する表現が土方個人のためのものとみなされなくなっているからではないかと思います。そのことは、からだは「私」のものではないという単純な理由による。「私」のからだという考えは、いわば倒錯しているのです。からだは「私」よりもっと長いスパンで考えなければならず、土方にとって究極的にはそれは「日本人」に匹敵するものなのです。私たちのからだは個々の「私」のからだではなく、「日本人」のからだなのです。とはいえ、その「日本人」はといえば、けっして歴史的抽象ではありません。つまり、日本人という観念ではありえない。観念とは「私」によってつくりだされたものであり、からだを基盤にしている<観点>とは違うのです。舞踏思想の強調、舞踏原則、独特の日本人論等に一貫しているものは、「日本人」のからだとはけっして抽象ではなく、私たちの目前に立ち現れているそのことである、ということを証しているわけです。
 個人のための表現であれば、移り行く現代という時代における表現者個人の<現前性>をつねに扱えばよいでしょう。土方はそうした表現の次元を経たうえで、さらなる「舞踏」の表現の創造に向けて着手したわけです。土方の舞踏表現は、自らが日本人であることを、私たちの目前に立ち現れているそのこと、すなわち<現前性>の相で見るよう要請し、それゆえいつしか「土方巽」が「日本人」の<現前性>を扱おうとするようなものになっていったのだと思われます。そのために、「日本人」を自らのうちに包み込む「土方巽」という<観点>が求められたのではないか。とはいえ、表現におけるその実現は容易なことではない。というのも、観念ではない「日本人」を自らのうちに取り込むことによって、開き、折畳み、ふたたび開くという舞踏の表現の秩序がより複雑になってくるからです。<観点>とは、身体感覚—意識を抱握するような複雑な機構を伴っている、そう考えられるからです。
「日本人」の<現前性>体験を扱うことにおいて「日本人」はどのように捉えられたかということについて考えれば、「死んだ姉」や「死んだモーション」と語られるように、土方は「日本人」を「死者」として自身のからだに捉えたのだと思います。土方にとって「死者」は膨大な広がりをもっているものです。そして、「日本人」が「死者」としてからだに捉えられることで、その「死者」は、表現に際して、土方のからだのうちに逆に「少年」を構成するものとして立ち現れてくるのです。たとえば、「少年」の<現前性>体験の周辺に必ず「死者」が立ち上がってくるわけです。際限のない「少年」の<現前性>体験は、こうして「死者」によって限定されるのだと言っていいでしょう。こうしたことから、「少年」、「少年」を構成する「死者」、そして「少年」を焦点化する「姉」という、<現前性>をめぐる感覚—意識の三つの相があり、各々異質でありながらお互いの構成に関与し合っている、といった関係ができあがってくるのだと考えられます。ただし、「死者」の相はその広がりのゆえにつねにゆらいでいるようですが…。そうして、一転して土方の表現の秩序において、「少年」は「死者」へと開かれ、また「少年」は「姉」へと折り畳まれる。「姉」は折り目として舞踏表現の軸となり、つまり踊りのかたちとなって、「少年」をつねに神経アレンジメントの働きとして再生する。そして、「姉」は「死んだ姉」であることから「死者」へと屈折することで、最終的に「日本人」としての「死者」がすべてを包摂するという秩序ができあがってくるのではないか…。その詳細について今は立ち入ることができないけれども、<観点>の機構については、以後に続く章で検討したいと考えています。
 もう一つ、土方が舞踏の表現を意図する際にそれが個人の表現ではないと考えるのは、「危機に立つ肉体」という言葉に象徴される、ある危機感をもっているからでもあります。その危機は、精神的不安であるとか、物質的破綻といったもののことではありません。危機とはより根本的な危機であり、それは資本制社会が推し進める生産と管理の原理によって生じる私たちのからだと「私」の意識への分裂においてあります。全てにわたって急激に情報化が進む現在にいたっては、そうした分裂の危機は意識されないくらいに私たちは資本制社会の原理に包摂されて生きていますが、半世紀前の1960年代の日本においてはまだそうでなかったのです。ことに中央の都市部から「土俗」とか「周縁」とみなされる地域があり、そうした地域に住む人たちにはまだ身体—意識の自律的秩序が持続してあったのです。そうした地域の人々の秩序をも脅かす時代の危機を背にして、土方は射影法の頂点としての<観点>をもって舞台に立ち、自らの舞踏表現を観客に向けて放射する。放射能とは「radioactive」の訳ですが、その組成を自ら崩壊させて放射する働きをいいます。土方の「私」を崩壊させて「土方巽」を放射する、そうした放射能的な姿勢が、「土方巽と日本人」の舞台が「傲慢」に見えた理由かもしれません。むろんそのとき、「土方巽」という放射線に染まり、身も心も化学変化した人もいたのです。
「土方巽と日本人」の舞台は、土方に「土方巽」という<観点>をもたらしたという意味で大きな転換点となっているのです。ここから、土方による「舞踏」と呼ばれる<欲望>が開始されます。そして、新しい意匠が新しい表現を生み出すことになります。