Friday, December 05, 2014

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


  二 敏捷な構造

 1. イヅメ
「イヅメ」は、「飯詰め」と書きます。すなわち、「飯詰め」という、冬季に飯櫃を保温するための藁製の籠があり、ここでは、その籠の中に農繁期の忙しさのため親が赤子を入れておく風習をいいます。別段、東北だけにあった風習ではなく、日本各地でそれに類することが行なわれていたと考えられます。ひょっとして日本以外でもそうした例があるかもしれません。風習といえば、社会的な意味合いへと還元されてしまいますが、当の赤子にとっては悲惨な体験であるはずです。まずは土方の話を聞くことにします。

 そうすると飯詰ってのがあります。飯詰ってのは藁で編んだ保温器ですよ、ご飯を温める藁で編んだ籠ですね。その中に赤ンん坊を入れて野良仕事に一緒に連れてゆくわけだ、大人たちが。そして田んぼの中にポーンポーンと置くわけですね。四つか五つね。そうするとポンポンと置かれた子供がやっぱり糞小便たれ流すわけです。すると下半身がむず痒くなるわけだ。だけどいろんなものをつめられて、身体と籠が動かないように結えられているわけだからビャーッと泣くわけですね。あっちの田んぼでもこっちの田んぼでもビャーッと泣くわけだ。ところがいくら泣いたって働いている親爺たちは振り向かないんだよ。親爺も大変なんだ、労働が過労の向う側へ行って何か妖しい労働をしてるんです。カタカナで書けば「フ」の字になって働いているわけだ。振り返れないわけですよ。ところが子供は際限なくビャービャーって泣く。だだっ広い湿気を帯びた空に、大飯食いの風がその子供の声をかき消すんですね。泣いても泣いても働いている大人には届かない。喉ははれる、そして目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね。そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ。すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる。流した涙も洟もみんな顔にくっついてるんですね。それをむしって食ってるんですよ。闇をむしって食べてるわけだ。そういう時に子供はどう思ったか、子供はそんなこと考えないけど私が想像するには、空はなんて大馬鹿野郎だい、こんなの墓場じゃないか、と思ったかも知れない。それで空の大馬鹿野郎もいいけれど、子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている。そこで自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える、闇をむしって食うことを覚える。そして夕暮れになるとその飯詰から抜かれるわけだ。すると足が折り畳まれてるものだから、立てない、もう足が伸びないんですね。すると大人たちはそれを囲んで見てるわけですよ、薄ら笑いを浮かべて。しかし子供の顔は厳粛ですよ。もう親の顔なんて見ようとしない。その時私は折り畳まれた足の行方はどこへ行ったんだ? 喋っても喋っても喋り切れない。
                              「衰弱体の採集(1984)

 この「イヅメ」の話を、土方は澁澤龍彦との対談(1968)でも語っていますが、他にも文章中で描写したりして、幾度もその体験にアプローチしようとしています。この「衰弱体の採集」は土方晩年の講演であり、思う存分語っている風でその内容がよくわかります。とはいえ、それが本当に土方が体験したことなのかはよくわからない。わからないが、それでもこの話は、土方の幼年時代の<現前性>体験の核心を示すものとなっていると考えられるのです。
 私事になりますが、遠州地方の農家に生まれた私の母親は、幼児期に養蚕の忙しい時季になると家の階下で動けないようにされて泣きじゃくっていたと、後になって出入りの大工から聞いて知ったといいます。大工から、子供が火がついたように泣いているのに親はどうして放っておけたのか、そう言われたというのです。私の母親は、幼児期のことなのでその体験を覚えていなかったようです。
 飯詰めに入れられた赤子が、その体験を詳しく覚えているはずがありません。むろん体験の一端をからだが覚えていることはあるでしょう。けれども、その感覚は言葉にしようにも、原理的に「喋り切れない」ものであるはずなのです。したがって、この「イヅメ」の話を<観点>的なものとして聞く必要があるでしょう。
 興味深いのは、「イヅメ」の話を土方が繰り返し語ることで、それが「宗教画」の構図を帯びていることです。すなわち、田圃を背景にして周囲を親たちに囲まれ、幼児が今まさに飯詰めからからだを引き抜かれるといった構図で、幼児の足は足萎えになっている。親たちは薄笑いをうかべ、中央におさまった幼児は「厳粛な」表情をしている。背後には夕暮れの光が射し、風が吹きさらしている。そして、足萎えの幼児のその「厳粛な」表情からは、「ひびわれたような明るさ」が射しているだろう。これは、どこかキリスト生誕画の構図を思わせますが、強いていえば、幼児の悲惨さを示顕しているという意味でその陰画として提示されている、そう思われます。その構図的な配置によって「宗教画」めいており、それゆえ、この「イヅメ」のイコンを介して土方のからだにすぐさま幼児の<現前性>体験が駆動するのだと考えられるわけですが、しかしその構図の奥にはさらなる構造が潜んでいるのです。土方は次のように語っています。「いざりの子供を囲んで立っている大人たち、こんな宗教画が一枚刷り上がる前に、縛られた虫や印鑑体や蟹股やらの敏捷な構造がそこから掻き消えている」(「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている(1975))。要するに、「イヅメ」のイコンができあがる前に、それへと入れ替わるようにして、幼児という「縛られた虫」をめぐる「敏捷な構造」がまず働いているのだ、というわけです。それはどういうことかといえば、「イヅメ」体験を語ることで、幼児のからだにまさに起きていたことが、土方にイメージされるのではなく、現在の土方のからだに神経アレンジメントの働きとして示されようとするわけですが、言い換えればそのことは、「闇をむしって食う」その幼児とは現在の土方がイコンという折り目を開くそのすがたにほかならないのですが、そのとき、過去の体験が現在の神経アレンジメントとして立ち現われる仕掛けのうちに「敏捷な構造」というものが展開している、というふうに考えられます。
 そのプロセスを見ることにします。話の前半では、「イヅメ」の風習が説明されています。「フ」の字とは、田植をする人の姿をいうのでしょう。後半からイコンの仕掛けに入っていくわけですが、まず「目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね」と、幼児の意識の朦朧状態が語られますが、それは過去と現在を不分明にする土方の視線の朦朧状態でもあるといえます。そして、「そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ」というのは、幼児の外に向けられた欲動が断ち切られ、その代わりに内に向けざるをえない状況になることをいいます。「すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる」を合図に、話はがらりと場面転換します。この「目玉」が指標となって、それまでとは別次元の視線が引き込まれているのがわかります(「風だるま」には、他の箇所にも「目玉」が視線を転換させる徴とみていい局面がある)。おそらくこの「目玉」は、折り目を新たに開くような<観点>的な視線として機能するのでしょう。そして、「子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている」状況において、「自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える」、「闇をむしって食うことを覚える」、「足が折り畳まれてるものだから、立てない」といった幼児の<現前性>体験の内容は、幼児の体験であるよりも、むしろ土方が舞踏の方法論として獲得してきたものであるといっていいでしょう。ここでは視線の変化に伴って、幼児の<現前性>体験の次元が変容しているのがわかります。要するに、「イヅメ」体験を語ることで、「土方巽」という<観点>的な視線が「イヅメ」のイコンを新たな仕方で開くことになるわけです。そしてそのとき、「行ったきり戻らない足」という主題が訴えられるのですが、この主題こそ、「イヅメ」のイコンが開示しようとする「敏捷な構造」を連れ出してくる、そう考えられるのです。
「行ったきり戻らない足」の主題は、幼児が体験したはずの足萎えの感覚はどこに行ったのか、足萎えになってへなへなに折り畳まれた足の感覚は失われたのか、それとも、この二本足のうちに潜んでいるのに見出されないのだろうか、ということを訴えています。それに対して「敏捷な構造」は、その感覚は失われたのではなく、現在の二本足のうちに足萎えの神経アレンジメントとして潜んでいるのであり、その在り方と共に現れ方があるのだ、ということを示そうとしているのだと考えられます。
 たとえば、「行ったきり戻らない足」とは逆の現象とでもいっていいものに、東北地方では夏でも玄関の土間で下駄がはさんだ雪を落とそうとして足を踏むといった、足腰の神経アレンジメントの働きがみられる例があります。おそらく暗く冷えた土間に反応して、夏でもそうした仕草が意に反して出るのです。それは幻のような仕草であり、まったく無意味な動作なのですが、それでもからだは何かを伝えようとしてそうするわけです。一度覚えた神経アレンジメントは失われずにからだに潜み、現われる機会をうかがっているのです。神経アレンジメントの働きの内蔵と顕現のこうした違いは、「イヅメ」の体験では、幼児の外に向かう欲動が断ち切られて内向きになることに由るのではないかと考えられます。欲動が内向きに働かざるをえない状況が、「行ったきり戻らない足」という現象をつくりだしているのです。幼児の欲動が内向きに働かざるをえないのは、農作業に労働力を集中せざるをえない社会状況に原因があるのです。
「飯詰め」という風習は本来こうした苛酷な社会環境を伝えるものですが、そうであるばかりでなく、その犠牲者である幼児の悲惨な体験と共に歴史的事実としてある、そういえるのではないでしょうか。たとえば「飯詰め」の様相を、木村伊兵衛の写真集「秋田」に見ることができます。しかし、飯詰めに入れられた幼児のすがたを、そのひびわれたような表情を写真で見ることはできても、そこに「行ったきり戻らない足」という体験が見出されることはありません。その体験は説明しようがないものであるからでしょうが、それよりも、人の記憶が時間の経過とともに風化するからです。歴史的事実であるのになぜ体験としてふたたび見出されないのか、というのが土方が訴えるさらなる主題なのですが、この訴えの前には風習と体験の差異が立ちはだかっているわけです。風習として語り継がれて記録されはするが、幼児の体験として語り継がれることはない。それは語り得ないものであるからであり、またそれ以上に、時代の推移において遺るものは形式であり内容ではない、という原則が働いているからなのです。
 こうした見方をするならば、歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されることがないという現象は、いつでもどこにでもあるといっていいでしょう。たとえば、戦争という悲惨な状況はそうした現象を否応なくもたらしています。戦時を生きた子供が爆撃の「音」を聞いているはずなのに想い出せない、という報告があります。「あれだけの火災なら、一帯に風は起る。すぐ周囲の木の葉もざわめいていたことだろう。近隣にはようやく人の叫びも立つ。消防のサイレンの音も騒ぐ。しかし記憶から音はすっかり消えている」。古井由吉は「聖耳」で、東京空襲の体験をそう語っています。また、「焼夷弾の落ちた音は記憶にまるでない。音がまともに残ったら、少年は後から気が振れていたかもしれない」、とも語っています。からだにとって遺したくない体験として考えられているわけですが、それにしても、光景はいやましに遺るのに「音」はどこへ行ったのか、という問いは続くわけです。こうした、体験としてふたたび見出されないものを抱えたからだは悲惨であるといっていいでしょう。悲惨と無知を、土方は自らの舞踏表現の核にしているわけですが、それは歴史記録としてはけっして遺らないが歴史的事実として確かに遺っている体験に関わろうとするからであり、そうした理由から、舞踏の素材として、歴史から見捨てられた身振りを丹念に拾うわけです。
 土方は、「東北はどこにでもある」と言っていますが、そのことは、日本の東北地方に限らない<東北性>を示唆していると思われます。そして、その<東北性>は土方にとって、悲惨と無知を抱えるからだ、すなわち歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されないものを抱えるからだに関わる、そのための<観点>となるものであると考えることもできます。そうした<観点>から見ることで、「飯詰め」の風習とその体験をめぐる話は単なる体験として見出されるのではなく、イコンとなり得るからです。けっしてその逆ではないのだと思います。そして、悲惨と無知を核とする<からだの東北性>というような<観点>から照射されることで、逆に「イヅメ」のイコンは開示され、その「敏捷な構造」を現すことになるのです。
 したがって、「行ったきり戻らない足」、すなわち足萎えの体験は、それを本当に体験したかどうかにかかわらず、土方にとって「敏捷な構造」に関わろうとするための核となるものとしてあるのです。そして、その体験へと、悲惨と無知を核とする<観点>に沿ってアプローチすることによって、舞踏の表現が実現されていくわけです。
 かりに「足萎え」の神経アレンジメントに関わろうとすれば、下半身をへなへなにさせて立てなくなるような舞踏符が要請されるでしょう。たとえば、「フラマン」という舞踏符がありますが、それは床に横たわった人のすがたをとっています。この「フラマン」の舞踏符の背景には、ある物語が設定されています。それは、もう長いあいだ病で寝たきりになって歩けない、足が萎えてしまって立てない、それでも死ぬ前に一瞬でいいから歩きたいと思い必死に立とうとするのだけれども、それでも立てない、という設定です。この設定を「イヅメ」のケースと比べてみると、幼児ではなく病人であること、すなわちこれから人生を生きるのではなく死の間際にいること、また社会的な要因で立てないのではなく病で立てないという点で異なっているわけですが、立てないけれども必死に立とうとする想いにおいて両者は共通した設定となっているのがわかります。
 いっぽう、「フラマン」の舞踏符ができる以前に、まず絵画があります。「フラマン家の人々」という画があり、そこには立てないのではなく、ただ横たわった人の姿が描かれています。おそらくそこに衰弱するものが感知されたのでしょう、その横たわった人のかたちを介して、足萎えの体験へアプローチする仕方が採られていると思われます。すなわち、この「フラマン家の人々」の画のかたちを舞踏符とするために「感覚の論理」を働かせることになります。「立てない、どうしても立ちたい、立ちたいけれども立てない」といった条件に伴う感覚を、それが架空の作用でありながらも感覚神経に総動員するのです。そうすることで、足萎えの体験に基づいた踊りのかたちがまず保たれることになるわけです。したがって、まず表現のために見出されたかたちがあり、そこに<現前性>体験に基づく踊りのためのかたちを保つための言葉が採用され、そのための神経アレンジメントを要請する舞踏符が成立する、と考えることができます。こうしてみると、そこには足萎えの体験を現代的表現へと抽象化する方法意識が働いていることがわかります。足萎えの体験は、表現行為を介して、表現形式を伴う<現前性>へと大きく変化しているのです。
 繰り返せば、まず表現のために見出されたかたちがあり、その背後に物語を立ち上げることでそれに伴う「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを操作し、そうすることで踊りのためのかたちが保持される。さらに表現のかたちが女性型となることで神経アレンジメントの働きは屈折し、さらなる「感覚の論理」によって新たな意匠と共に開かれるもの、すなわち踊りが立ち現れることになる。こうしたすべての過程を、「フラマン」の場合には、内蔵する足萎えの体験が核となってそうさせるわけです。「フラマン」の舞踏符をめぐるこのような重層的な機構は本来「イヅメ」の体験に基づくものなのですが、その表現形にあっては、むろんそれは「イヅメ」とは別物として提示されることになります。別物であるけれども、そこに保持されているのは「敏捷な構造」にほかならない。とはいえ、「敏捷な構造」は、かたちの成立と交換に掻き消えるという在り方をしているわけです。たとえば、「疱瘡譚(1972)」の舞台で、土方が舞台正面で独り半裸で横たわり延々と踊る場面がありますが、その踊りは「フラマン」から派生したと思われます。この場面は、ハンセン氏病患者の踊り、天上的な西洋文化に立ち向かうすがた等、様々な解釈をもって評価されているわけですが、要するに、踊りの背後に様々な文脈の広がりを見せることができる表現となっているわけです。そうした広がりを見せる踊りのうちに、「敏捷な構造」として機能しているものがあるのでしょう。ともあれ、こうした「敏捷な構造」を見出し、展開するための舞踏符の設定、そして舞踏符の成立過程があると考えられるわけです。そしてさらに、「敏捷な構造」、それはかたちにおいて見出されるのではなく、神経アレンジメントとして現われそして掻き消えるような敏捷さ、すなわち一連の踊りのうちに見出されるわけですが、このとき舞踏符は、「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを開くと同時にからだを型へと折り畳むことで、かえって踊りとしての敏捷さをあらわにする役割を果たす、そうした技法として見出されているのではないか、そう考えられるのです。
「フラマン」の舞踏符は、「疱瘡譚」の踊りへと練り上げられる以前に、「長須鯨(1972)」の舞台ですでに弟子たちに振付けられていると思われます。「フラマン」の舞踏符が他者に振付けられるとき、どんな重層的な機構をもってしても、振付けられる側のからだには、内蔵された「足萎え」体験といったものは知られないはずです。だからそのとき、振付けられる側のからだは否応なく「足萎え」へと開かれることになります。おそらくそうした徹底的に受身の態勢において、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>といったものが受け手の側で新たなすがたのもとに現われる、そのように想定されているのではないかと思います。舞踏符によって型へと折り畳まれたものは、他者のからだへと否応なくtransferされることで、他者のからだにおいて自ずとtransformされた神経アレンジメントの働きとなって開かれるわけです。「trans-」という接頭辞は、異なる二つの対象を横断する意を示していますが、「敏捷な構造」とはおそらく、他者のからだへと移されて変容するといった仕方でその<内容>が横断的に受け継がれていくものなのです。二者の間で、もしくは世代間で否応なくtransferされて、その<内容>は自ずとtransformされて継承されていくのです。そのような仕方で、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>は、変動を受けながらも一貫したものとして連綿と受け継がれていくのではないか。その<内容>は「行ったきり戻らない」ことがあろうとも、けっして失われることがないのです。「土方巽と日本人」のタイトルには、土方巽という<観点>と共に、こうした「日本人のからだ」が内蔵する<内容>が込められているのではないか、そう思うわけです。


 2 瘡蓋をむしる
 瘡蓋は、傷口の内部組織の成分である膿(リンパ液)が傷口を塞ぐためにできます。いわば、傷口が自ら傷口を塞ぐわけです。瘡蓋になる前の段階では、傷口を満たす膿はまだ流動状態にあり、飴色に半ば透き通っています。そのtransparentな成分は流動状態にあり、光を通過させて内部組織と外部環境とを繋いでいるのです。そして、膿が瘡蓋と化せば、内部の流動性は封じ込められ、皮膚となって内と外の繋がりを可能なかぎりシャットアウトしてしまいます。「瘡蓋をむしる」ことは、こうした生理過程に逆行するわけです。あえてそうすることには、だから十分な理由があるのです。
「敏捷な構造」はなぜ「敏捷」なのかといえば、それはかたちの成立と交換に、すぐにその構造が掻き消されるといった性格のものであるからです。そして、「敏捷な構造」のその形跡は瘡蓋に塞がれ、喩えれば、傷口であるその「敏捷な構造」の<内容>は見えなくなってしまうわけです。要するに、瘡蓋が「敏捷な構造」を隠すのです。「瘡蓋をむしる」ことはだから、瘡蓋が塞ぐ以前の状態へと、すなわち傷口へと、意図的に戻ることなのです。そして、傷口とは裂け目であり、開かれた状態であり、半ばtransparentな膿の流動状態であるわけです。
 たとえば、「私」という瘡蓋があるとします。その瘡蓋をむしると傷口が開かれる。そこに裂け目としてあらわになるものがあるのです。それは、「私」の成立と交換に掻き消えているはずのものなのです。傷口が塞がれるとき、傷口を満たす膿が瘡蓋と化して内部を塞ぐわけですが、その膿はといえば、飴色の流動状態にあっては瘡蓋が隠そうとする当のものでもあるのです。そこで、「私」という瘡蓋にとって膿とは何かと考えるとすると、それは「私」から隠されているもの、あるいは「私」が隠しているもの、といえるでしょう。というのもそれは、「私」と化す以前の流動状態であり、半ばtransparentで、内部組織と外部対象とを直接的に繋いでしまうものであるからです。けれども、その状態は放っておけばすぐに「私」と化してしまうのです。だから「瘡蓋をむしる」ことで、流動状態へと、言い換えれば、「私」というものが生成する現場へ還ろうとする、そうした意図が示されていることになる、そう考えられるわけです。要するに、「私」を、膿という流動状態の方から見ようとする視点がそこにはあるのです。
 次に、この瘡蓋と膿、そして「瘡蓋をむしる」といった比喩を拡大してみます。そうするとまず、歴史的事実を覆い隠している歴史記録といった瘡蓋があり、そのいっぽうで、膿という、記録や歴史へと還元される以前のものがある、そう考えることができます。これは単なる比喩ではなく、というのもすでに述べたように、歴史的事実は諸個人の体験と共にあるのですが、その体験はといえば、そのままのかたちでは受け継がれ難いものとして確かにある、と考えられるからです。そして、その体験の内容はといえば、二者の間でtransferされて、受け手側でtransformされることで世代に受け継がれていくとみなすことができるとすると、その際に、そうした体験の内容を塞いでしまう記録や歴史という瘡蓋が当然考えられるでしょう。かりにそう考えて、瘡蓋をむしり、それ以前の膿の段階から見る仕方を採るならば、歴史記録と歴史的事実の関係も逆転するのではないでしょうか。たとえば、「日本人」とは明治にできた概念です。江戸時代で「くに」というのは藩のことであり、藩士は徳川幕府ではなく各藩主に仕えました。土地に所有権はなく、いっぽう農民には無主の入会地がありました。そこに「日本人」という概念は生まれにくいと思います。討幕の時代になってようやく地方藩士と京都の公家が話し合うことになりますが、言葉はなかなか通じなかったのではないでしょうか。維新によって初めて、国家機構と諸個人とが直接結びつけられることになります。すなわち、税制、土地所有、学制、徴兵制、そして言文一致の日本語を介して、「日本人」が政策的につくられたのです。そして、その政策はあくまでも対外国を意識したものでありました。こうしてできた歴史記録としての「日本人」を瘡蓋とみなせば、それは、それ以前の歴史的事実を覆い隠してしまっていることになります。それを歴史的段階とみなすならば、国家機構と共に「日本人」という瘡蓋を強化することになるだけです。
 歴史的事実としての<日本人>がまずあって、制度としての「日本人」がつくられる。その逆ではありません。「日本人」という層が形成されていて、その層は<日本人>が幾重にも重なってできあがっているのです。歴史的事実としての<日本人>は体験的かつ流動的に受け継がれるもので、その<内容>を把握し難いわけですが、ともあれ、下層に覆い隠されたものに触れようとするには、制度としての「日本人」を歴史的事実としての<日本人>から見るような<観点>が必要なのです。たとえば、「闇の歴史」を著したカルロ・ギンズブルグは、中世の裁判記録を調査することで知られた、イタリア東北部のフリウリ地方に住む人の一部に伝わる「ベナンダンティ」の体験が、途方もなく古い意識とからだの層に繋がっている可能性を示そうとしました。体験のその<内容>は現在では見失われてしまっているわけですが、その研究によって少なくとも、行ったきり戻らない体験の<内容>はどこに行ってしまったのか、という設問が生まれてくるのです。体験の<内容>は世代を経ればすぐに忘れられる傾向にあります。それゆえ、その<内容>を幾世代にもわたって保持するには、たとえばアボリジンの「チュリンガ」のような<ドリーム・マップ>を使って、ある構造のなかで個人の起源をつねに反復できるような仕掛けが必要となります。「瘡蓋をむしる」のも、それと意図を同じにしているのに違いありません。さもなければ、時間の推移のうちに形式という瘡蓋がつねに遺るだけなのです。
 とはいえ、「瘡蓋をむしる」ことは、起源を反復することではありません。それは傷口の膿をむきだしにし、膿という流動状態から逆に瘡蓋を見る視点をもとうとしているのです。そうすることで、土方の舞踏の方法は、瘡蓋という「私」へと形式化するもののうちに膿である幼年期の<現前性>体験の<内容>がつねに作用している、そうした構造に目を向けようとしているのです。幼年期の<現前性>体験のその<内容>は、子供が社会に組み込まれる思春期には忘れられる傾向にありますが、しかしその思春期にこそ、幼年期の<現前性>体験とそれを忘れることとの興亡において立ち現われるものがあるはずなのです。そして、その興亡を検証するのも思春期の自己なのです。膿とは、そうした思春期という傷口に流動する半透明の生成物なのです。
 幼年期の<現前性>体験の<内容>は、半ばtransparentな状況において、二者間のtransfer、受け手のtransformという、横断する運動と共にふたたび現われることになります。その運動は開かれ、流動状態にある。そうした流動状態において、<内容>は受け継がれることになるわけです。「感覚の論理」が、こうした運動を支えることになります。「敏捷な構造」というすばやいものに対して、イコンも含めて表象はすべて瘡蓋といえますが、ただしイコンはtransparentな状態を想起させるもので、瘡蓋であると同時に、「瘡蓋をむしる」場をも設定するのです。そのことによってイコンはつねに、表象の生成現場に還ろうとする働きを助けるわけです。
<内容>は形式のうちにそのすがたを現すけれども、形式をむしることで<内容>をそのつど新たに展開させ続けること、形式に還元されない<内容>をつねに保持すること、そのようにすることで、<内容>は形式から逃れるようにして、「敏捷な構造」として受け継がれていくのです。こうした形式を逃れようとする<内容>に関わる際には、誰しもが「死者」の声を耳にし、それに耳を傾けるのです。隠された流動状態に身をもって関わろうとするからでしょう。