Sunday, December 20, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


 五 「人を泣かせるようなからだの入れ換えが私たちの先祖から伝わっている」ことについて

 歴史を遡ることにはそれなりの意義と価値があると思います。ただしそのことは、何らかの出発点を定めることのないよう、遡行において無限なものでなければならないだろう、と考えます。つまり、すでに定められた出発点があれば、それを踏み抜くような作業でなければいけないのです。出発点という底板を踏み抜き、その「無底」の底から吹き上げる風に吹かれるのです。
 たとえば、言葉という形式があります。それは、最初は音声(による指示)であったものが文字へと拘束されて言葉というかたちになったものです。言葉はそうした転換の歴史と共にあります。文字による拘束によって音声は表記され、表記から漏れる音声があれば新たに文字がつくりだされることになり、またこの方が多いと考えますが、音声の方が文字に沿って修正されていく場合もあるわけです。書き言葉には接続詞が案出され、その音声に内容はないのですが、それは書き言葉の展開を大きく左右することになります。そうした仕方で、音声(による指示)であるもともとの<内容>は言葉という形式と一体化してそこから離れられないようになったのです。とはいえ、音声のその<内容>は「消えるからかたちが遺る」仕方で伝わるのであって、そのことは今も変わらないはずです。それゆえ、音声が指示するその<内容>は言葉という形式と共にありながらも、その形式から脱しようとする傾向をつねに抱えていることも確かなのです。そうした宙吊り状態のところに文学(とくに詩)という表現も成立しています。土方の言葉による表現が特異であるのは、音声が文字に拘束される現場に身をおくようにして、言葉の形式性を脱しようとしているからです。言い換えれば、土方は言葉の形式を踏み抜こうとしているのです。そうして、形式を踏み抜くところに立ち現われるものを自らの表現<内容>とすることを意図しているように思います。土方の文章は、詩のように接続詞が少ないのが特徴です。
 形式とは、その都度、その時代毎に、出発点として「いつもすでに」私たちに与えられているものです。しかし、<内容>はそうではありません。<内容>とは歴史を遡行する作業のさなかで無限なものとして見出されるものではないか、と考えます。その作業には、歴史に向き合う仕方と、遡行の仕方があります。

 1 要点と解釈
 最後に、土方の<舞踏の表現>期の文章である、「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている」、を考察することにしたいと思います。この文章は大駱駝艦の季刊新聞「激しい季節」(19702)に掲載されたものですが、もともとタイトルはありません。タイトルはないけれども、タイトルとして掲げられている文章の意味について先にいっておけば、それは、<内面>がからだの表面へと転換されるような「からだの入れ換え」が私たちの先祖から連綿と伝わっている、そうしたからだをめぐる歴史がある、というものです。いわば、土方は「舞踏」の表現を志向するにあたって、自らのからだをめぐる歴史を遡行しようとしているのです。文章は難解ですが、ここには「土方巽と日本人」(196810)の後に土方が打ち出すことになる「舞踏」の青写真といったものが提示されているのがわかります。土方が文章を綴っていくその手つきには荒縄を綯うような野性的で繊細な趣があります。難解なのは、そこに様々な線が綯い込まれているからです。この文章を四つの部分に分け、その要点と解釈をまず述べることにします。その際に、できるかぎり文章の段落をそのままにして述べることにします。
一) 冒頭から「廃墟ではよく背中を叩かれて驚いた経験がある。」までの部分で、話の前提として、出発点とその「地点」を踏み抜いた<歪曲面>に立ち現われるものの一端が語られています。
 寝床に入って眠りに落ちかかるとき、「過去となることなく続いている」光景が立ち現われる。それが「始まり」の地点であるが、出発点というよりもそれは「過去との距離を取り払う」地点となっている。
 そのとき「過去との距離」が取り払われる手続きは、1)自らに強いている「出生の管理」が過去との距離をつくりだしているのでそれを追い払う。2)過去の風物への対応は過去の対象となることなく現在のからだに神経アレンジメントとして遺っている、という感触がある。3)記憶というよりも神経アレンジメントが育っているという感覚がある。4)そしてたとえば、湯気に手を入れ、笊の中の金を盗む、といった過去の神経アレンジメントについていえば、それを入眠の際の「自明でない自己」が幾度経験しても縮減することはないが、いっぽうでそうした仕組みにおける経済的「愚かさ」には深みがある、といったふうに展開されていきます。(ただし、「過去の神経アレンジメント」の語は舞踏符の方法と共に見出されるはずのものですから以後は使用しないことにします。ここではからだに記されているという意味で、<からだの記憶>と言い換えます。「自明でない自己」についても同様で、それは自己という地点を踏み抜いている場という意味で、以後は<歪曲面>と言い換えます)。付言すれば、「出生の管理」とは人に自己同一性をもたらすための反復作業であり、いっぽうで<からだの記憶>に関わることがそうした反復をさせないようにするわけです。<からだの記憶>は幾度反復しても自己同一性をもたらすものではないのです。そのことは自己に利益も剰余ももたらさないけれども、その代わりに自己に関して「無底」の深みを感知させるのです。
 一般的な立ち位置に対して<歪曲>としての地点が成立する。それは「いかなる地点をもからだの中に迷い込ませる」地点であり、出発点として定められたものを踏み抜く地点としてある。そこから<歪曲>を「商い」とする「始まり」がある。
「口を濯いでしゃべる地形(地点)に立つ」とは「口を濯ぎながらしゃべる」ことだと考えられますが、それは今話した内容がたちまち口で濯がれるようにして「からだの中に迷い込む」、そんな風にして次から次へと語ることです。実際、この文章で土方が語る仕方がそうなのです。こうした語り方は、テレビのそれとは鋭く対立している。
 自己が中心となって「からだに命令を下す」ような踊りはすでに困難である。逆に「舞踏にからだを貸す」のであり、その際に自己は<歪曲面>の方から責められる、といった手続がある。
「二本脚」が迷いの原点である。「もともと脚は一本」と考えれば、からだの由来、言葉の由来が知れる。脚を重ねれば脚の由来が知れる。
 一つの光景が立ち現われてすぐさまその光景が濯がれると、その後には「血球一つ落ちていない」光景が展開します。そのとき前の話の内容は「からだの中に迷い込む」仕方で後に継続していくのでしょう。「蚊柱にたかられたような着物をまとって大勢のガキがむらがって走っていく」や「老婆のスピードのある石合戦」は、一旦はからだの中に折り畳まれるけれども、「飢饉」となってふたたび現われるのです。「飢饉」から「凶作」へと話は継がれて、人が「廃墟」になっているような光景が一瞬現れたかと思うとまたからだの中に迷い込んでしまう。この段落では、前の段落で言及された、話している内容がたちまち濯がれるようにして「からだの中に迷い込む」話し方が例示されているようです。
 少年・少女期の<からだの記憶>が「廃墟」となってそのときの手応えを今も遺している、そんな経験を誰もが一度はしている。土方は戦後の廃墟を東京で経験しているのでしょう。その大きな廃墟を個人的な記憶に絡ませて「廃墟」としているようです。田圃の光景とは異なり、「廃墟にはとにかく物がある」。この「廃墟にある物」はそこにすでにないものをめぐる記憶を連れ出してくるわけですが、そうした仕方で<からだの記憶>に向き合うことになる、ということです。確かに少年・少女期の記憶が物質的に把握されることがありますが、そこには記憶を物質化しようとする<歪曲>もあるでしょう。「行ったきり戻らない脚がどこで暮らしているか大方の見当がわたくしにはついている」。この「行ったきり戻らない脚」とは、後に語られる「いづめ」に容れられ萎えてしまった赤子の脚のことですが、赤子の<からだの記憶>というようなものは「廃墟」を体験する以前の記憶であって、それが「廃墟」として埋没しているというのは<歪曲>作用であり、その<歪曲>作用はむしろ<現在>という個人的で身体的な形式を基にしているのであるから、したがって土方の<現在>において「行ったきり戻らない脚」が<内容>として求められている、ということを意味していると思います。
<からだの記憶>をただからだに折り畳ませた状態にしていては何も生育しない。からだに折り畳ませるままにしておくのは制度からそう強いられるからである。「廃墟」としての<からだの記憶>に向き合っていると、主客転倒という思いがけないことが起きる。
 以上、まとまりがないけれども、これからの話の前提となっています。
二) 「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。」から「舞踏にからだを貸し出そうと言い寄ってくるのである。」までの部分で、からだをめぐる歴史を遡行しようとするために必要な理論としての「からだの入れ換え」、その理論を展開する際の核となる「印鑑体」や「埋没史」といった要素、そしてさらに「廃墟」から「風化」への転換が語られます。
 まず田圃の畔を滑らないようにして歩いて来る蟹股姿勢が「印鑑体」の例としてあげられます。それは二本脚で歩くというよりも、四本の脚によってからだが「運ばれていく」。そのからだが「契約書を持っていない」のは印鑑のように型づけられているからである。それは一神教徒のからだの歴史に対立させてもいるのでしょう。そこには、「人を泣かせるようなからだの入れ換えが先祖から伝わっている」。「人を泣かせる」というのは、夢にうなされて悲鳴をあげるというニュアンスに近いと考えられますが、それは「印鑑体」が「死体」となって、自己を踏み抜いた<歪曲面>の「無底」から<現在>に迫ってくるからです。そこには、底が抜けて、その「無底」の底から現われ出るものに遭遇したような感覚が示されていると思います。
「印鑑体」である蟹股姿勢は、<からだの記憶>が表面に「綻び」現われ出ようとするのを印づけるようにしてある。それは、からだとして<現在>に現れているものの「起源」を押さえている姿なのである。そのような、<からだの記憶>がからだの表面—かたちへと入れ換えられる仕組みさえわかれば、そこにこそ「舞踏」の立ち位置がある。「見たものを忘語のように語るからだと金輪際夢見られない肉が併合される」というのは、物質としてのからだに意識が触れることはとうていできないが、「廃墟」としての<からだの記憶>が皮膚表面上へと入れ換えられる仕掛けを通じてその一端を理解することができる、と考えることができます。この「併合体」、すなわち「からだの入れ換え」という仕掛けにおいて、<からだの記憶>と物質としてのからだがお互いを主客転倒させて、宙吊り状態を生じさせるほどお互いが入り組み合っているのがわかる。周囲の環境(物質)に注意を向けることはすべて<からだの記憶>となっているから、もともと環境(物質)と<からだの記憶>は対立しないし、それゆえ<からだの記憶>が主体となるはずのものである。ところが、そこに主体としての意識が(誤って)立つことで、<からだの記憶>は「巨大な埋没史になって肉の中に霧散して」しまっている。そこで、この「霧散した挙動が一人歩きすると」、主体としての意識に亀裂が入る。
 この亀裂に乗じて現れてきたのが「印鑑体」である。それは、過酷な農作業による疲労がもうからだを動かしたくない、その動かしたくないという想いが逆にからだを動かしているといった、ある種の「没入」がからだに印づけられた「ぎりぎりの姿」なのである。そこには、働く振りをすることで想いが埋没へと「打込まれていく」からだが連綿と伝えられている。
 ここで、「廃墟を過ぎて、風化である」というもう一つの転換が掲げられます(「からだの入れ換え」といういわば歴史的な転換があって、そこにもう一つ、表現上の転換が重ねられることになるわけです)。<からだの記憶>へと遡行するに際して、「廃墟」は<からだの記憶>を物として相手にすることを前提にしています。それに対して「風化」は、<現在>のからだに関わる意識に自ずと起こる現象をいうようです。たとえば、「とりすがってくる風化現象を、逆に働き者として仕立ててやり、素早く便乗させて、からだの中に巣喰わせる」。要するに、「廃墟」から「風化」への転換とは、一つには主客を転倒させることであり、もう一つは、「風化」を「からだの中に巣喰わせる」といわれるように、その主客の転倒状態に留まることであると考えられます。すると、物としての<からだの記憶>との対等な関係において大仰に名前をつけて「呼びあう怪しげな生活が始められる」。その特異な状態は、「小鳥一羽飛ばすにも、働き者である風化野郎との相談ずくでの命令がいる」とか、「物と風化とは一つのもので、その生命の行き来は、たとえば走っている人間を眺めても、何年も前の物のようにその速度を選んでしまう」、といいます。つまり、主客の転倒状態でも何らかの「命令」によって行動することができるのであり、そのときそこには積み重ねの上に選択されてきた行動が見出される、という認識が語られているわけです。そこに、身振りが受動的に選択されてきた事実と、身振りを選択させているのは実は<からだの記憶>であり、それゆえ逆に身振りを<からだの記憶>へと帰納していく作業とが重ねられる、という身体表現のための「肉体観」が生まれてくる。そうした「肉体観」に拠ることで、私たちのからだに「肉の中に溶けてしまった埋没史」が連綿と受け継がれているのがわかる。土方は、舞踏の表現の根拠をそうしたからだに見出そうとしています。
 以上、歴史的転換と表現的転換という、<からだの記憶>をめぐる二つの転換を経て、土方が「舞踏」の根拠を見出そうとしているのがわかります。
三) 「幼い神聖な暴力に見舞われて」から「怪物のきしみを、監視し続けていかなければならないのだ。」までで、言葉によって「舞踏」の表現に関わろうとする実験的な作業と、「舞踏」のテーゼ化が試みられています。それは三つの話に分かれ、1)母親との関係をめぐる<からだの記憶>の話、2)「風化」に見舞われた人の話、3)「いづめ」の話、という順で語られ、手順を踏むことで<からだの記憶>を探るその深度を深めていっているようです。そのとき<からだの記憶>をめぐって、母親 → 切羽詰まったように立っている人(死者) → 「いづめ」の赤子(少年)、という対象展開がなされているのに注目したいと思います。
 まず少年時代の「廃墟」の経験が母親の記憶と絡み合わされます。「廃墟」とは記憶の物質化に関わることですが、その手続には暴力と恐怖(すなわち「無知」)が介在しています。
 次いで、「風化現象」を呼び込もうとするのか、「妖精が立ち止って他の精霊を呼び寄せるような」手順で、かなりの手間を要した後に母親について語られることになりますが、それは「角巻劇場」といわれるように具体的な場面に満ちています。その一つ一つの光景にはここでは触れませんが、おそらく土方が実際に経験したことを基にして語られています。
 そして、母親との関係をめぐる<からだの記憶>が語り終えられ、この「角巻劇場」を経た後の「無智と悲惨こそが、今は身仕度の主眼となっている」、そう強調されています。いわばここが話の入り口なのでしょう。
 大風の中で「棒杭」のように、「塔」のように立っている人の姿、死に面して切羽詰まったぎりぎり状態で立っている人の姿があり、その光景の分析をすると共に、立っている人の傍に、瘡蓋のようにかさかさとした赤児の笑いが聞こえてくる。この話は、<からだの記憶>を<現在>に引き寄せようとするその文体が、後の「病める舞姫」を想起させるものとなっています。
 最後の「いづめ」の話は、前の話で「大風」と「赤児」が呼び出されるのを受けて語られていますが、「いづめ」の話は土方が実際に経験したことなのかどうかわかりません。赤児という対象ははっきり捉えられていますが、それよりもどちらかといえば、赤児という<からだの記憶>に「埋没」しているものに迫ろうとする姿勢が際立っているからです。赤児が「埋没」させているものに接近できるとはとうてい考えられません。その「埋没」しているものに照準を合わせていく展開は、「廃墟から風化へ」と転換する際に見舞われる主客転倒の手順を思わせます。まず、「飯詰め」に入れられて、その泣声が「泥田で働いている大人達には最初から届かない約束の仕掛け」に嵌まっている赤児は、自身のからだを玩具にする。そのとき、「掌は握ったり離したりするためのものではなく、からだの闇を歩いてむしっている」。ここにもう主客の転倒があります。「からだの闇」というのは、むしろ土方の<現在>のからだに起きている現象だからです。そして、「むしる」という行為がふたたび赤子に返されて、その「赤子は涙の皮をむしる」ことで「かさぶたとキャラメルを取り替えるような智恵」がそこに生まれる。その「智恵」から、前の話から埋もれたままで継続している、「ひび割れ」のような「笑い」もしくは「笑い」のような「ひび割れ」が土方の<現在>のからだにおいて取り出されることになります。それは、「笑いの起源」として見出される。すなわち、「笑い」という地点を踏み抜いたところの「無底」の底からやって来るような「ひび割れ」でしょうか。土方はそこに「快感が制作される」といい、その「状態を笑いの起源としてからだに登録している」のだといいます。この宙吊り状態のような「登録」地点には<歪曲>があります。それは、「起ったことと、これから起ることとの間にはさまった笑いは、一個の物質凝視である。だからまわりの気配すらただの挙動に置き換えられていく」。そこに、赤子という物質から凝視される手応えを土方は感じているのです。そこに「舞踏」の始まる「地点」が芽生えているのでしょう。「舞踏家の目玉がどこについているのかという問題があっさりと解かれていく」。そして、そのとき土方のからだが関わる対象は、「人格としてからまっている糸のようなものは、ぷっつりと切れている」。さらに、「しつらえられた玩具体も年若い怪奇さも、皆この赤児体からわたくしの場合は始まって来ている。世界の舞踊はまず立つところから始まっている。ところがわたくしは立てないところから始めたのである。わたくしは切羽つまっていたのだ」と、いっきにこの文章の頂点にさしかかっていきます。そしてそこから、「いざりの子供を囲んで立っている大人たち、こんな宗教画が一枚刷り上る前に縛られた虫や印鑑体や蟹股やらの敏捷な構造はすでにそこから掻き消えている」と、「物質凝視をからだに登録した」(すなわち赤子の<からだの記憶>に触れた)という<観点>から「敏捷な構造」として把握されるものがあり、そして息継ぐひまもなく、「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」と「舞踏」の命題が語られます。そして最後に、「勿体ながって生きているその事」、すなわち、つねに生の宙吊り状態に身をおくこと、そうした姿勢が「舞踏そのものではないか」といい、その生の宙吊り状態とは自己を踏み抜いた<歪曲面>に立ち現れるが、そうしたところにこそからだが物質であることの手応えを得る機会もある、そう結んでいます。
 以上、三つの話は手順として切り離せないでしょう。それぞれの地点にそれ自身における差異が際立ち、土方は段階的にそれらの位相を経つつ「舞踏」の表現に迫ろうとしているようです。
四) 「からだの管理を造形的に扱う人達は皆絵姿として肉化する訓練を日頃から受けている。」から最後までで、当時の表現状況をふまえた身体批判が語られます。
「からだの管理を造形的に扱う人達」とは「出生の管理」の場合と同じで、からだを自己同一的なものとして疑うことなく、自己が命令を下すことによってからだを造形的に表現する人たちのことです。しかし、「肉は既に絵姿としてそこにあるものだから、私達はすでに現実というものに縛られている」のに、なぜそうする必要があるのだろうか。その表現は、「絵姿の一人歩き、つまり肉の虚像化に外ならない」。いっぽう、「ただの一度も、肉はそこにあるものを名差したことがない。肉はただこのように暗い」。つまり、からだは意識にとって扱い難いものであるばかりでなく、意識とからだの関係はいまだに未知の領域でさえある。主体としての自己意識が立ってからだに命令するのではなく、自己意識が<歪曲>し、自己意識を踏み外したところに立ち現われるもののためにこそ、土方はからだのことを逆に考えているのだといいます。
 身体表現をすればそこにからだが存在と共に示される、空間表現がなされる、という状況に土方は危惧を抱いています。からだそれ自体は明白なものである。それは無名の物質である。いっぽうで、私たちにとって個人的かつ身体的な形式である「現実」がある。たとえば食事の最中に、「神経の変調がじつは食物を口に運んでいる元凶なのだということに気づけば、その変調のエネルギーがどこから来たのかということを探したくなる」。要するに、この身体に具体的な行為をさせるもの、そしてその実感とは何かという問いです。それに対する土方の答えは、「この神経の変調が直感の砂漠に結合されて、はじめて『痛いぞ』という妄想言語を構成する。そういうところに、現実が作男のようにのそっと立っている」、というものです。「現実」とは個人的かつ身体的な形式ですが、そこに満たされる<内容>があってこそ自ら「痛いぞ」と主張できるものでもあります。そのためには、ここでは「直観の砂漠」といわれていますが、それはこれまで述べてきた「からだの入れ換え」に関する茫漠たる理論を短く言い換えたものだと考えられますが、具体的な行為をその「直観の砂漠」に繋げられることが望ましい、そう考えられています。
 生の表現に関わることは、「欲しないものを欲するという過剰な深淵を、長い間喘ぎつづけて来たので、欲することなく同居しているものを、肉体の中に発見してしまった」。それで意識がからだ関わる<現在>に今一度触れるのにどうしていいかわからなかったのが、土方の場合は「悲惨が一個残っている」。「悲惨」とは、近代が置き去りにしたものに他なりません。

 繰り返しになるのを承知で、以上の展開をまとめてみたいと思います。
一) まず、最初のパートで、「立っている地点」すなわち出発点について語られますが、それを寝床に譬え、入眠時の自己の不明な状態において「過去との距離」が取り払われる地点としています。土方はその地点に、「過去となることなく続いている」光景を呼び込んできます。自己の不明な状態がその光景を現在のものとして扱うことを可能にするのです。その状態にあっては、記憶が反復されてコンパクトなかたちにして管理されることがありません。その状態は、「いかなる地点をもからだの中に迷い込ませている」のです。それは主客さえも不分明な状態で、そこに「廃墟」という指標が導入されます。たとえば、幼児期から少年・少女期に至る記憶をめぐっては、漠然としか想起できないものから物質的に想起できるものへと変わる時点がありますが、「廃墟」とはそうした転換地点を指すもので、過去の神経アレンジメントを現在のものとして把握しようとする作業と共にあると考えられます。それは記憶に関する物質的な手応えに関わるものなのでしょう。たとえば、「行ったきり戻らない脚」は「廃墟」以前の記憶であるにもかかわらず、土方はその記憶を<現在>へともたらす仕方を嗅ぎつけているようですが、それは「廃墟」を指標にしてそれ以前の記憶を「行ったきり戻らない脚」とする、すなわちそこにないものを想起できる「廃墟」という指標を通してそれ以前の記憶にアプローチすることができる、ということを示そうとしているのでしょう。
 こうした展開に並行して、「過去となることなく続いている」光景が「口を濯ぎながら話す」ようにして語られますが、その語り方は、話の<内容>を「からだの中に迷い込ませる」実例となっています。そのように、「消えるからかたちが遺る」仕方で語られるのは、語ることで「消え」、そうして「からだに迷い込んだ」ものが後になっていきなり表面に現われてきたりすることに必然があるからです。結果的にこうした語り方が<内容>の「敏捷な構造」を照らし出すことになり、ひいては土方が舞台構成する方法に強く影響していると考えます。
二) 次に「からだの入れ換え」が語られますが、歴史的転換そして表現的転換という二つの転換が重ねられたところに「舞踏」の表現の根拠が見出されようとします。
 最初の転換は蟹股の姿勢である「印鑑体」を軸にして語られ、それは土方が少年期に実際に目にした農作業の光景を基にしています。その姿勢は歴史的なものです。というのも、蟹股姿勢とは、過去の神経アレンジメントが「巨大な埋没史になって肉の中に霧散して」しまって、その「からだの中に迷い込む」ものがからだの表面へと型づけられた姿であると考えられるからです。前のパートで語られた「からだの中に迷い込む」仕方が、「埋没史」へと敷衍されているわけです。その姿は「人を泣かせる」、つまり、人の姿に関する認識の底が抜けて、その「無底」の底から現われ出るものに遭遇したような感覚に襲われるといいます。この「印鑑体」のようにして過去の神経アレンジメントが皮膚表面と入れ換えられるその仕組みがわかれば、そこにこそ「舞踏」の表現の立ち位置があるとされます。さらに土方は、この「からだの入れ換え」という仕掛けにおいて、過去の神経アレンジメントと物質としてのからだがお互いを主客転倒させるようにして宙吊り状態を生じさせている、そう考察しています。
 そうした考察を基にして、その主客が転倒した宙吊り状態にさらなる表現上の転換が重ねられるわけです。「廃墟を過ぎて、風化である」。「廃墟」が記憶をめぐる物質的な手応えを扱うのだとすれば、「風化」は<現在>のからだ(に関わる意識)に自ずと起こる現象をいうと考えられます。そこで、物質を扱う意図的な局面とからだに関わる(意識)現象という意図なき局面とが、主客転倒するという状態が軸となってくるわけです。「風化」とはおそらく自己の不明な状態に接近することでしょう。とはいえ、それはもう寝床で寝ている状態ではありません。というのも、自己の不明な状態が命令を発して行動できる場合もあり、そのとき身振りがいかに受動的に選択されてきたかを認識することになるからです。身振りを選択させているのは過去の神経アレンジメントであり、それゆえ、逆に身振りを過去の神経アレンジメントへと帰納する方法を採用すれば、「肉の中に溶けてしまった埋没史」がからだに連綿と受け継がれているのが実際にわかることになるといいます。そこに「舞踏」の表現の根拠があります。付言すれば、ここで「風化」が果たす機能は、後に主体意識の「衰弱」として語られるものと同じであると考えられます。
三) そして、「舞踏」の表現の応用として、言葉によって「舞踏」の表現に関わろうとする実験的な作業、さらに「舞踏」のテーゼが語られることになります。その際に三つの話が語られますが、過去の神経アレンジメントを探っていくのに土方はその話を、母親→死者→赤子という順で構成しています。それはおそらく、そうでなければいけない手順なのでしょう。三つの話それぞれの<内容>に関わる際にそれ自身の差異が際立ち、土方は段階的にそれらの位相を経ることで「舞踏」の表現に迫ろうとしているようです。
 手順としてまず「廃墟」に関わります。それは母親をめぐる記憶に関わるためであり、ここでは土方が実際に経験したことを基にして語られています。次いで「風化」に関わり、過去の神経アレンジメントを<現在>に引き寄せようとします。そして、「いづめ」の話をすることで「廃墟から風化」への転換が手順をもって実践され、赤子をめぐる「埋没史」が土方の<現在>のからだに見出されようとします。赤子にすでに「埋没」があるという点が逆説的であり、それゆえ「いづめ」の話は土方の経験を基にしているのではなく、それは<土方巽という観点>を構築する作業であって、この点でそれまでとは別の次元に入っているように思われます。
 その転換は、赤子という「埋没」を抱える対象と土方の<現在>とを行ったり来たりしながらなされますが、赤子の表情に浮かぶ「ひび割れ」のような「笑い」もしくは「笑い」のよう「なひび割れ」が土方のからだに「笑いの起源」として「登録」されるあたりからいっきに速度を増して、その跡が辿れなくなってしまいます。それも当然であり、すべては「消えるからかたちが遺る」仕方で展開し、そうした「敏捷な構造」のうちにあってからだに埋没しているものを精確に扱おうとしているからでしょう。自己を踏み抜いて底が抜けたその宙吊り状態のような「登録」地点において、土方は赤子という物質から凝視される手応えを感じています。土方のその<現在>の感覚にこそ「舞踏」の始まりが芽生えていると思います。「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」。生の宙吊り状態ともいうべき「死体であること」の表現は、自己を踏み抜いた<歪曲面>に立ち現れるものを示そうとしていますが、そうしたところにこそ、からだが物質であることの手応えを得る機会もあるのだといいます。
 この赤子の凝視について付言すれば、それは「病める舞姫」の中で、春先の泥に転んで泥に身を包まれる際に出て来る赤子と比較できると思います。それは、「目を醒ましていながら眠っているような赤子が一つの穴を見つめている」というもので、「そんなふうに自分のからだを覗き込む私は、泥溜まりの中でからだをずらしたり、しきりに泥溜まりの中で赤子の顔をいじくったりしているのだった。こんな泥の中にどうして赤子の顔が転がり込んできたのか。ともかくそれはもて遊ぶようなものではなかった」、そう語られています。ちなみに、「病める舞姫」には「いづめ」の話が出てきません。
四) 当時の表現状況をふまえた身体批判が語られます。最後に「悲惨」が強調されるように、身体批判は結局のところ近代批判に通じています。
 からだといえば意識が扱えるもののように考えられているけれども、土方はそうは考えません。意識とからだの関係はいまだ未知の領域であると認識しています。したがって、からだの表現についていえば、それはすでにそこに見えるものとしてあるのに、なぜそれをそのまま見せないといけないのか、という疑念があるわけです。(そうではなく、内部が外部へと入れ換えられる際の、意識と物質の接点を身体表現において見せないといけないと考えられているわけです)。それに対して、主体としての自己意識がからだに命令するようにしてなされる表現ではなく、自己意識が<歪曲>し、逆に自己意識の底を踏み外したところに立ち現われるものを表現するためにこそ、土方はからだについて考えているというのです。このからだに具体的な行為をさせるものその実感とは何かといえば、<現在>とは個人的かつ身体的な形式であるけれども、そこに満たされる<内容>が「からだの入れ換え」として捉えられてこそ、つまり具体的な行為でさえ個人に由来するのではなく、それは歴史的に伝えられていると感知してこそ、からだ自らが発する声を聞くことができる、というものです。意識とからだが隔てられてしまった現在、近代が置き去りにした「悲惨」なくしてからだの側に立って語れない、そう土方は最後に強調しています。

 2 土方巽の思考
 長い下準備をそのまま書き記してきましたが、<土方巽という観点>があって、そのことが主導していると思われる、この時点における土方の思考を納得のいくように取り出してみたいと思ったからです。この時点での土方が「舞踏」を志向する際の野性的かつ繊細なその表現は、後の技術的なものを意図する表現と比べると、思考というにふさわしいように思います。その思考をわかりやすくみるためには、文章を逆に辿っていくといいでしょう。
 まず身体表現について土方がどう考えているかといえば、「あらゆる光線のいかがわしさを処刑する場としての肉体をこそわたくしは考えている」、というものです。文脈からすれば、その意味するところは、主体としての自己意識がその身体を扱うのではなく、自己意識が<歪曲>し、自己を踏み外したところに立ち現われるものを表現するためにこそ身体という場を考えている、ということになります。当時の身体表現が身体を表面的に意識が扱うものだったとすれば、土方は身体表現についてそれとは逆に考えているのです。すなわち、身体のかたちや動きをありのままに示し、身体の存在感覚を見せるというのではなく、身体が抱える<内面>が入れ換えられるようにしてその表面へと立ち現れてくるものがあり、あるいは立ち現れてくるその過程があり、そうしたもののための場としての身体を見せなくてはならない、そう考えているのです。そうした場としての身体に、身体に関わろうとする(接しようとする)何らかの意識の働きが(それは神経アレンジメントということになりますが)、見えることになるからです。土方は、身体そのものを見せるのではなく、身体に<抽象力>を抱えることの表現を意図しているのです。そのために、身体の作業と共に身体に関わる思考の作業が必要なわけです。
 身体が抱える<内面>とは個人的なものではなく、それは生物学的に考えても、歴史的な重なりから成るものです。いっぽう、土方の思考が身体の歴史に向かうのは、身体の内部へと埋没するのを強いられてきたものが<内面>として私たちの身体に伝えられている、そう考えるからです。私たちの身体に埋没するその<内面>を、土方は<現在>の形式へと「入れ換え—translate」しようとするのです。それは歴史的な重なりから成る身体を前提にしていますが、自身の直観を基にした土方独特の考えです。そのことを実現するのに、今までにない観点を必要とするという意味で、思考者であり表現者としての<土方巽という観点>が主導することになったと考えられます。そして、その<土方巽という観点>に魅入られるようにして、土方の身体表現があり、思考作業がなされたのではないかと考えます。
 歴史的な重なりから成る身体というよりも、歴史的に埋没するものを抱えているという身体観があって、方法としての「からだの入れ換え—translate」が考えられているわけですが、そうしたことの表現が可能であることの根拠を示すとすれば、それは土方が経験する「物質からの凝視」という手応えです。そのことを論じる際に、土方が経験的かつ<観点>的に語ろうとする「赤子」とは、身体から意識に向けて発せられる物質性、無底性を示そうとするものです。無底性とは自己を踏み抜くところに立ち現れる自己の不明性、すなわち自己が拠って立つ足場が撤去された状態です。そうした自己の宙吊り状態を前提にして、「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」というテーゼも成立しています。そこに表現されようとするものは歴史的に身体に埋没しているものとしての「死者」であるから、それは「死体」となって表現されるのです。とはいえ「死体」とは、「からだの入れ換え—translate」を示しているところの物質状態でもあります。言い換えれば、それは過去の神経アレンジメントとして意図せずに身体に立ち現われ、見えてくるものの綜合といっていいように思います。神経アレンジメントは、<内容>をかたちへとtranslateする表現型として見えてくるものですが、表現者側にあっては、もともとそれは<内容>をかたちへとtransformする生成型としてあるからです。したがって、「死体であること」には、物質状態(としての生成)であると共に「死者」として埋没するもの(の表現)であるという、両義的な意味が込められているのではないかと考えます。
 こうした身体表現が、自らの経験を基にした理論によって裏打ちされているわけです。「からだの入れ換え」という考えが、「印鑑体」、「廃墟」、「埋没」、「風化」等といった指標を駆使して、<抽象力>としてのその<内容>がからだの表面へとtranslateされる仕掛けが理論展開されていますが、それをここでは繰り返しません。ただ、「印鑑体」、「廃墟」、「埋没」、「風化」等といった指標はひじょうに曖昧で、というか、それに従えば錠が開かれるが、従わないままでは開かれない、といったもののように思います。言葉に対して受身になれ、ということでしょうか。
 この時期の「からだの入れ換え—translate」は、<白桃房>期になって過去の神経アレンジメントが皮膚表面において閉じるようにも開くようにもめくられる、といった実際的な身体観察へと進めることになるその前提となるものだと考えられます。ですからこの時点では、「からだの入れ換え—translate」は、舞踏符による表現を通過した後のように、<内面>が皮膚表面上にめくられてくるようなものとして把握されていません。要するに、技術的な考察へといまだ整理されていないという点で、身体に潜在的なもの—<抽象力>を抱えようとする、そのための思考がここにはあると思います。「舞踏」の方法のすべてはこの時点から構築されていったと考えられますが、それは具体的にはこれまで見てきたように、その潜在的なものが記憶と身体に関わる構造的なものとして把握されようとしているのがわかると思います。要するに、「舞踏」の<内容>は構造的に把握されることで、そう把握すること自体によって、「からだが抱える抽象力」として働くことになるだろう、という考え方があるのだと思います。「舞踏」の<内容>とは、「肉体の闇」であるとか「闇」であるとかというふうにして一元的に名指しされるようなものではありません。人の<内面>は構造的に把握され、それがそのまま身体表面へとtranslateされようとする、そうしたプロセスが始めから考えられているのです。そのことを極度に推し進めようとする作業が「病める舞姫」ですが、その手前の、思考的に実践する時点にさしかかっているのでしょう。
「病める舞姫」を口述する土方の意識状態もそうであっただろうと考えられますが、<内面>を表面へとtranslateする際には、特異な意識状態が要請されるわけです。
 土方が執着する「寝床」という出発点についていえば、入眠時の朦朧とした意識状態は夢にも似て、そこには古代人の経験に通ずる働きがあります。その状態にあっては過去の記憶が<現在>へと乱雑にもたらされるのであり、むろんそれを解釈する仕方には違いがありますが、それは今もって現代人が古代人とその働きを同じくしている状態であると考えられます。それは人類の歴史を通じて一貫した現象なのでしょう。その自己の不明な状態にあっては、そこに現象する意識内容は極度に「敏捷な構造」のうちにあります。それゆえ、その内容を後になって解釈するというよりも、その意識状態に没入することで逆に意識が働く機構を感知する方へと向かいます。すると、過去の記憶が<現在>へと乱雑にもたらされてくるその現象には、自己の不明な状態が過去の体験を意識へともたらそうとする過程と、それを意識へとかたちにする二次過程があることがわかります。この認識作用と認識対象化の区別は古代から知られているものです。認識作用それ自体は、生の働きという意味で、それは意識にとって無底です。土方はその無底の感触を「赤子の笑い」に喩えているわけです。いっぽう、認識対象となるその内容はすでに経験した形式があって初めて対象となり得るわけです。土方は「赤子の視線」を認識対象としてもってきてそこにも無底性を示そうとしていますが、それは経験的にあり得ないことだと思います。過去の記憶はどんなものであろうとそれは先行する経験内容があって対象化されるのです。したがって、土方はそのような定式を逸脱して先験的なものをそのまま<現在>において設定しようとしているのであり、したがって、その先験的なものである<内容>を表現へと「入れ換え―translate」しようとしている、ということができるでしょう。というのも、繰り返しになりますが、その「入れ換え―translate」は個人的なものとして考えられていないからです。それは<観点>的に考えられているのです。そこにはそれなりの理由があると考えます。
 ここでふたたび文章の最終部に戻れば、身体とは歴史的な重なりから成り、そうした身体の<内容>の構造的な「入れ換え―translate」に関わる視点が歴史的に受け継がれてきたとすれば、近代はそれを葬ってしまった、というのが土方の考えです。人は<内容>を個人的な経験で満たすことで自らの存在を疑うことのない代わりに、歴史的にtranslateする身体の機会を奪われて、制度の中の一個人になってしまったのです。土方の思考とはそうした近代制度に抗する思考なのです。したがって、その思考は近代批判として、日本のみでなく世界に通ずるものでもあると考えます。その立場は、あくまでも「無知と悲惨」という歴史的に埋没したものを前提としています。アジア世界にどれだけ埋没が、すなわち「行ったきり戻らない脚」の事例があるか、それを考えたら気が遠くなります。世界経済体制下にあって国家間の競争が一層激しくなり、国家の防衛のために社会が国家主義に向かう傾向のある現在、人々は総じて歴史に出発点を定めようとします。しかし、そのことが外に向かっても内に向かっても他の社会に対する非寛容の要因になっていることは否定できません。そのとき、「行ったきり戻らない脚」の事例はすべての人の経験である、という<観点>こそ必要なのではないかと思います。

 最後に唐突ながら、作家の古井由吉(1937年〜)の文章を引用してこの論考を終えることにしたいと思います。古井由吉は世界的にも優れた日本の現代作家です。土方巽と古井由吉には接点がありません。接点がないけれども、強いて共通点を探すとすれば、葛西善蔵の作品に対する評価があります。それでも接点がないことに変わりはありませんが…。
 色々あるなかで、最近作の「雨の裾」(2015)から引用します。
「徒然なるものの正体は、大もとをたずねれば幼少の頃の寒さとひもじさの、やりどころのなさではないか、と今になり思うことがある。それが高年の無為の、紛らわしようもないさびしさに引かれて、まずは身体に、幼年から遠路湧きあがってくるのではないか、と。寒さやひもじさに縁もなくすごせる時代もあり、とぼしさも知らずに育った者もあり、そういうのにかぎって余剰の徒然に苦しむ、とひややかに見ることもできるだろうが、どんな境遇であれ、存在の薄くなりがちな幼少期に、寒さやひもじさにひとしい心細さに責められて、やるかたもなく、ひとり膝を抱えこむようにして、やがては心を空に、眺めやるばかりになったことは誰にでもあり、身体の底に埋めこまれていると思われる。」(「雨の裾」p12)
「それにまた、虫の鳴くところは土の領分と感じられていた。虫が家の内に入り、やがては居間の隅でも鳴くのは、土がその領分を人の暮らしの内へ、夜ごとにひろげてきたことになる。侵入というよりは領土の回復である。もともと縁の下によって土からわずかばかり底上げされた住まいでもある。まして台所や風呂場は土に近い。子供は刻々と忍び寄る寒さに背をまるめ、腋もすくめて、膝を揃えて座りこんでいる。その腰にも陰険な冷たさが上がってくる。身の置きどころもないせつなさなのに、立とうとしない。立って寒い厠へ走り、着換えて冷えたからだを冷えた寝床の中へ、冷水に身を浸すようにして沈めて、温みの差してくるのをひっそり待つ。」(p211)
「子供は眠りの中心からはずれたところに投げ出されていることに怯えたのに違いない。いや、人は年を取っても、眠る時だけは自分を中心にして、自分の温みや匂いのする空間を結んで安息している。」(p214)
 土方巽はすでにいないけれども、ここに<日本人>が生きていると思います。何らかの仕方でtransferされているのか、それともこれは三十余年越のcoherence現象なのか…。

                              「土方巽と日本人」 了

                   これにて、<土方巽研究>を終了いたします。

Tuesday, November 03, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


   四 「からだが抱える抽象力」について

 歌舞伎の女形は男性でありながら女性を専門的に演じます。江戸期の女形はそのために日常的にも女性に似せて生活しました。厳しい身分制度のなかで男性でありながら女性に似せて(偽せて)生きることは男性としての個人の生を逸脱させ、そのことによってからだに何らかの抽象力を抱えさせることになっただろうと思われます。売色が目的であれば、それは金銭目当てであるから逸脱的な生にことさら執する必要はなかったと思われますが、女形にはあくまでも身体表現という前提があって、からだが否応なく自己と質の異なるものを抱えざるをえない事態に注意が向けられていたでしょう。具体的にいえば、男性というかたちがまずあって、そこに女性という異質な内容を取り込もうとするわけです。女性であろうとする意識が男性としてのからだにことさら関わることによって、ことに身体表現の場において、意識それ自身における差異の働きが生じることになったと思われます。それは意識がかたちを逸脱しようとするような事態であって、そこに特異な表現が見出され、そうした状況があってこそ、逸脱的な条件を身に課すことの女形の方法が採集されたのではないかと思います。「女形というもの、たとへ四十すぎても若女形といふ名有り。ただ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそはりたるにて、花やかなる心のぬけぬようにすべし」(「あやめぐさ」)。こうして、女形のからだが抱える抽象力は転換期の官能的身体に由来する<若さ>として価値づけられたのであり、それ特有の身体表現をすることのできた女形の存在なしには、おそらく江戸期の歌舞伎表現は成り立たなかったのではないかと思います。
 転換期以前の中世に遡れば、<能>の時空間を創造するに際して世阿弥はことさら死者を演じましたが、ことに女性の死者に関わり、さらには女性の死者を演ずるシテをめぐって複雑な設定を編み出し、それらを自ら演じました。その表現は後に「夢幻能」と呼ばれるような明確な様式をもっていましたが、その内容にあってはつねに自己と質の異なるものをからだに抱えようとする流動的な試みがあったと思われます。たとえば、死はケガレであり、そのため古代には死者によるケガレを払う様々な儀礼や詳細な取り決めがありました。いっぽう、(殺人を職業とする)武士が台頭する中世になると、ケガレをめぐる環境に変化があります。ケガレをみずから吸収してもなお立つことのできる力(呪力)を持つとみなされる人々が現れたのです。時宗を出自とする「阿弥」号の人たちがそうですが、ケガレとしての死を扱うのに勧進の場で「往生」を提示する語り物芸をした人たちもそうといえるでしょう。ケガレを吸収することで逆に立つような「芸能」がここに成立したのです。そのときケガレを吸収するのに、演技における表の身振りと共に、裏の心の動きが重要な役割を果たしていたのではないでしょうか。世阿弥の、「心を十分に動かして身を七分に動かせ」(「花鏡」)という教えからすれば、シテをめぐる複雑な設定によって必要となる意識の働きを重要視していたことがわかります。この意識の働きは女性や死者に関わることによるものであり、世阿弥の身体表現は、自己とは質の異なるものに関わることによって内に抱えることになるものにことさら目を向けていたのです。それはおそらく、ケガレという強い働きを、からだが抱える抽象力へと変換するための作業ではなかったかと思われます。こうしたことから考えれば、死者を導入する世阿弥の<能>の表現には、それまでの猿楽による物真似芸とは異なり、<内面>的なものの発生があることになるでしょう。そうした<内面>は、歌の世界でいえばたとえば「幽玄」のようにすでに共通認識となっていましたが、身体表現にあってはその<内面>は新たに提示されたのであり、新たなものとしてのその<内面>は、おそらく身振りへと表へ「裏返し」されて現われてくるものとして意識されたのではないでしょうか。何よりも演技を「花」に喩えて評価することがそのことを示しています。<内面>とはまだ個人的なそれではありません。それは命が花びらのようにめくられ、「裏返し」されて現れてくるものなのであり、こうした「裏返し」の意識が、江戸期において物真似から演技へと展開されるその方法の核になっているように思います。この「裏返し」感覚がないと、演技は<表象>の域にとどまってしまいがちになります。
 世阿弥や女形が自己と異質なものを抱えようとする方法とその表現は、おそらく猿楽者や役者がケガレに通じる卑賤身分であればこそもたらされたのではないかと考えられます。ケガレに通じる賤民は社会の成員とは異質であることで社会制度から逸脱した存在であり、それゆえ他の身分が否応なく自己同一性へと閉じようとするのとは異なり、そうした制約を逃れているからです。その自己の帰属の不確定性にあって逆に目前のからだの領域に関わることへと注意が向けられ、そこに立ち現われる差異—抽象力が、彼らにとっての身体表現上の価値として占有的に継承されてきたのではないかと考えます。中世の芸能は白拍子や遊女等といった古代の女性芸能者に由来すると考えられますが、白拍子は男装の女性芸能者であり、遊女は制度の外部にいました。遊女とは「遊行女婦」の略で、もともとは遊行する女性のことです。その芸には、当座の興を呼び起こす即興性が要求されたといわれます。彼女たちは、古来より自由であるところの女性のかたちが制度に捉えられようとするのに抗して、時代の制約から脱しようとするかのように異装をまとい、「舞い=狂う」芸を生み出したのです。その逸脱性が孕むものが「からだが抱える抽象力」として価値づけられ、そのはじまりからもたらされていた<内面>が中世の芸能者によって次第に表現的なものに展開されていったのではないでしょうか。

 土方は「舞踏」の表現を掲げて以来、その表現に「無知と悲惨」が不可欠であることを強調しています。そのことは、自己の帰属を、歴史として認められようとしない歴史的現実の中に求めようとしている、そう考えることができるでしょう。要するに土方は、「飯詰め」や「飢饉」の背景である歴史的に不明な事態(とはいえ歴史的現実であるもの)へとそのからだを開こうとしているのです。さらにいえば、その「行ったきり戻らない」といわれる、歴史的に行方不明になったからだにこそ「敏捷な構造」が感知されているわけです。そのことに、土方は私たちのからだに関するラディカルな意味を提示していると思います。そして、こうした姿勢が、土方の舞踏の表現を日本の伝統芸能の方へと、言い換えれば、日本人のからだの歴史を遡るようにして開いているのではないかと考えます。とはいえ、伝統芸能へと開かれるといっても、現在ある伝統芸能のかたちを模倣するわけではありません。むしろ伝統芸能のその発生現場に向けてからだを開こうとするのです。むろん、芸能者を規定していた身分制度はすでにありませんから、そのからだが歴史を遡るようにして開くといっても、その仕方は近代的かつ個人的になされなければなりません。そこに問題がありますが、身分制度がないとはいえ、近代においてからだはつねに国家制度に拘束されてきました。多くの人が否応なしに制度によってからだを強いられてきましたが、中には自ら進んで制度が求めるかたちに嵌まる人もいます。そのいっぽうで、からだはむしろ保守的であり、基本的な身振りは連綿と保持されようとします。そうしたからだ自体による拘束性によって、幼少期に見たり聞いたりした思いがけなく古い身振りが消えることなく(神経アレンジメントとして)遺されているということもあるわけです。からだをめぐる状況は複雑で、それはからだがつねに社会制度や環境によってかたちへと拘束されようとするいっぽうで、自らの拘束性によって古い神経アレンジメントに基づいて外部の拘束に抗するような働きがからだにあることに起因するのではないかと思います。からだの拘束をめぐって、つまり、からだが制度的なかたちへと拘束されるか、からだ自らの<内容>をもってして自らを拘束するかをめぐって、つねに私たちはいわば宙吊り状態にあるのだといえるでしょう。からだに関するこうした視点から、近代人が伝統芸能の発生現場に向けてからだを開くという問題に対応するのに、「からだが抱える抽象力」という主題を軸にして考えてみたいと思います。というのも、「からだが抱える抽象力」に意識的に関わろうとする姿勢は、からだが制度的なかたちへと拘束されるのに抗しつつからだの宙吊り状態を求めようとする状況を際立たせることになる、そう思われるからです。これまでみてきたことからすれば、この「からだが抱える抽象力」は、1)からだに異質なものを抱えることによる<内面>として立ち現れ、2)それはかたちを逸脱しようとする志向をもち、それゆえ、3)自己の帰属の不明性をその土台とする、といった局面をもっています。そして、これらの局面は、土方が提示してきた「舞踏」の表現内容を基礎づけているものとして考えることができると思います。まずは、土方にあってそれがどのように機能しているかをみてみることにします。
1) 土方は、「土方巽と日本人」を契機にして女性的なものに関わり、その結果、「私は私のからだの中に一人の姉を住まわせている」、と語っています。姉は女性でありかつ死者であることで、土方の自己とは異質なものです。この死者としての姉の姿が具体的に語られることはありません。むしろ、その異質なものは土方の<少年>と深く関係しています。土方の<少年>は「自明でない自己」とも言い換えられるべきものですが、自己と異質なものである姉とこの「自明でない自己」とが織り成す宙吊り状態において、これまで見たように土方の記憶と神経アレンジメントに関わる複雑な機構が働くことになるわけです。また土方は姉をからだに住まわせるのみでなく、姉の身振りをからだに採集しているとも語っています。姉は異質なものであるとはいえ、その身振りは土方の記憶に関わるものなのです。その記憶は土方が少年時代に実際に見聞きしたものなのでしょう。そうであるにも関わらず、土方は「自明でない自己」としての<少年>を呼び込み、そうして実際の姉であるよりも、かつての神経アレンジメントに関わるものとしての死者である姉を捉えようとして、その姉の身振りも<少年>との関係においてからだに抱えようとしているようです。そうした特異な関係において、少年時代の記憶がかつての神経アレンジメントに実際に関わりつつ錯綜とした機構が働くところに、「敏捷な構造」としての<内面>が生まれているわけです。このように、実際の記憶から逸脱していますが、からだにおいて差異を生み出し続けるものである<内面>を支えるために、土方は死者としての姉をからだに住まわせ、そしてその身振りを採集しているようです。
2) こうした<内面>であるところの、記憶がかつての神経アレンジメントに関わろうとするところ、すなわち意識とからだ(神経組織)が交わる機構を、土方は舞踏符の方法を使ってあらわにしようとしました。そこには二つの面が立ち現れてきます。
 一つは、舞踏符の方法が、舞踏符の指示言語に関わる者のからだに抽象力を抱える経験をもたらすことです。言い換えれば、その方法は、かたちを逸脱しようとする何らかの志向をからだにもたらすことになるのです。たとえば、舞踏符によって自身の手をモノとして扱おうとするだけで、その神経組織に何らかの抽象力が孕むのがわかります。手は自身の一部でありながらモノとして自己を脱しようとするからです。神経アレンジメントとは私たちが日常的に構成している神経組織による綜合的な関係設定のことをいいますが、舞踏符の方法は、からだをめぐる現実的で日常的なかたち(制度的なかたち)をもたらそうとする神経アレンジメントにあえて虚構の神経アレンジメントを嵌め込ませることで、からだにある種の宙吊り状態をもたらすことになるのです。「感覚の論理」が、そうした<歪曲>の場をよく示しています。そこには行為を果てしなく中断させるような神経の流れが介入することになります。<歪曲>とはそのように力の作用する場であり、神経流による抵抗によって「からだが抱える抽象力」を強く打ち出す場となるのです。
 こうした経験が一方にあって、他方では、舞踏符の指示言語に関わる者のからだに神経アレンジメントがかたちを脱するようにして立ち現れてくる、というか、そういうふうに見える、といった客観的な面があります。ただし、その客観的な現われは「敏捷な構造」のうちにあり、それはたとえば皮膚に浮き出す痣のようなマキュラーな現れであり、すぐに消えてしまう、といったものです。そうとはいえ、それは意識が交わることで設定される神経アレンジメントであるところの<内面>として、あるいはそのように内部が「裏返し」されたものとして、見えてくるわけです。ただし、そのように見えてくるという判断には前提として、人のからだをめぐる原理としての何らかのかたちが考えられていなければならないと思います。そうでなければ、いかなる神経アレンジメントも、一瞬たりともそれが表面にとどまるのを見出されることなく、それは散逸してしまうでしょう。こうした、かたちを脱するようにして立ち現われるという経験とその客観性において、むろんそこには主観と客観という相違はあるけれども、これら二つの面において舞踏符の指示言語に関わる者とその状態を見る者とは、舞踏符の経験を一つのものとして共有することができるのです。
 ことを単純にしていえば、舞踏符の指示は、脳のアレンジメント(記憶)がからだ(神経)のアレンジメントに指令するその関係において、指令する脳のアレンジメント(記憶)よりも、実際に動きをもたらすからだ(神経)のアレンジメントの優位を要求する、ということになるでしょう。そして、そこに具体的に示されるからだの動きと共に、からだ(神経)のアレンジメントの優位のうちにもたらされる<現前性>体験を捉えることに重要性がある、といえます。そのときからだ(神経)のアレンジメントの優位における「自明でない自己」の持続という状況において、からだが何らかの抽象力を抱えることになるからです。そしてこのことは、弟子を指導するという客観的な立場にあってさえ、当の土方においても同様に経験されていたのです。それが、指導者としての土方の特異な点です。
3) 「からだが抱える抽象力」が自己の帰属の不明性をその土台とするという点については、土方は「無知と悲惨」を強調することで歴史的に不明となった歴史的現実へとからだを開こうとしている、そう最初に述べた通りですが、土方の場合、そこに<日本人>が浮上してきます。その<日本人>の「からだには鍵がかかっていない」、といわれます。舞踏符の方法は、詩や絵画(写真)等の素材に基づいていますが、それらは洋の東西を問うことなく用いられ、そこにはいかなる制約もありません。これらの素材が<日本人>のからだに向けて舞踏符の指示となって与えられ、その結果、<日本人>の神経アレンジメントを働かせることになるのです。そして、土方はそこに立ち現われるものを見ているのです。この<日本人>は、国民としての「日本人」という概念ではありません。それよりも、歴史上この列島に生きた人々の具体的なかたちとその<内容>を示そうとしているでしょう。そのかたちははっきりしているけれども、その<内容>には「鍵がかかっていない」のです。たとえば、土方は舞台で大髷を結い、西洋のアリアを背にして踊っています。大髷は姉のかたちですけれども、その踊りの<内容>を支える素材は西洋絵画です。そして、そのときそこに連れ出されてくるようにして見えてくるものは、「無知と悲惨」を抽象力として抱える<日本人>のすがたです。さらにいえば、土方の演出で芦川羊子はほとんどの舞台で髷をつけて踊り、最終的にその髷を対象化してみせようとさえしました。<内容>に向き合うのに、かたちの重さを際立たせるようにしてそのことを示そうとしたのです。そのように重いかたちを意識しつつ、<内容>としての「鍵がかかっていない」<日本人>が考えられているのでしょう。この<日本人>は、かたちの重さに向き合うことで抽象力となってその<内容>を際立たせることになるのです。「鍵がかかっていない」とは開け閉め自由なことであり(この点については、たとえば一神教徒と比較することができる)、それが<日本人>のからだをめぐる環境なのであり、そうしたからだをめぐる自由さが私たち日本人のからだには今もって潜在する、そう考えられているのです。こうした私たちのからだをめぐるラディカルな視点を、土方は「舞踏」の表現によって示そうとしたのではないかと思います。からだに潜在するというのは、<死者>に関わることによって神経アレンジメントとしてそのことが感知され得るということです。そして、<死者>とは自己とは異質なものとして自己を差異化する働きをするものであるいうことからすれば、<死者>に関わることは自己の帰属の不明性をさらに駆り立てることになるでしょう。

 女性的なものに関わることによる「敏捷な構造」としての<内面>の提示、舞踏符の方法による<内面>としての「からだが抱える抽象力」の具現化、からだに潜在する<日本人>の<内容>を際立たせようとする表現、こうした一連の手続によって、土方の「舞踏」の表現は、私たち近代人のからだが歴史を遡るようにして開くことを可能にしていると思います。そればかりでなく、ことに舞踏符の方法が練られることで、「からだが抱える抽象力」をめぐって、(あくまでも土方独自の視点ではあるが)何が実在か何が虚構かを微細に検討することが可能となり、そのことによって近代的な主題群に対処することのできる身体表現へと切り開くことができたのだと考えます。いわば、土方は歴史を遡るようにして前進したのです。
 たとえば、<内面>を「からだが抱える抽象力」として表面へと裏返しする働きをする神経アレンジメントについていえば、それはかたちを脱するようにして立ち現われる、あるいはそう見えるという性格、そしてすぐに消えてしまうといった曖昧さがあります。そして、そうした現れを連続させることで表現が方法化されています。そうした曖昧さの連続という手法を逆手にとって、たとえば、粒子空間、その粒子速度、異なる空間の重層化、空間のうちに籠る時間、時間のうちに伸縮拡大する空間といったような、様々な近代概念を舞踏符の方法に応用し、そうすることで土方は舞台表現の奥行を拡げることができたのです。また<内面>は記憶に関わることから、何らかの時間性を帯びて<内面>となっています。その時間性は個人的なものではありません。つまり、制度によって与えられたものではないのです。その時間性は<日本人>のものであるのでしょうが、それは「敏捷な構造」のうちにあってよくわからないものです。土方は、「時間は動かない。動くのは空間だ」、そう語っています。また「空間が歴史だ」とも言っています。<内面>が時間性を帯びていることは<能>や女形舞踊の表現においてもそうであり、そのことは日本の芸能史において連綿と意識され続けているということでもあると考えられますが、それを時間性と意識し、そのうえに空間表現が成り立っているという認識は近代的なものです。身体表現にはもともと時間性が欠かせないのです。おそらく、土方にとってその時間性は「からだが抱える抽象力」と同じ次元に現象するものであると考えられているように思います。そこには、「『無』ですらちぎられるような熱気が漂っている」(「包まれている病芯」)のです。
 空間表現を支えるような時間性が意識されているから、表現としてのひとのかたちは絵画の形象のように崩壊することはありません。とはいえ、そのかたちはからだの拘束性をめぐって宙吊り状態を際立たせられ、そして歪曲するのです。その<歪曲>において、<内容>がかたちから脱しようとする「からだが抱える抽象力」が感知されてきました。そうした経験がtranslateされてtransferされ、transformしてここまで伝わってきたのです。つまり、その経験は別の器に翻訳されるようにして移され、翻って変容するという仕方で保持され、そのようにして横断的に受け継がれてきたわけです。はっきりと目には見えないけれども、そのような翻訳と移動と変容の仕方がこれからもあるのでしょう。

Sunday, September 13, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


三 能・歌舞伎・舞踏

 3 舞踏
 3)「病める舞姫」と舞踏の表現
 舞踏符の方法によって舞踏の表現がいったんは形式化されたかにみえますが、「東北歌舞伎」も「白桃房」もその表現様式は一時的なものであったと考えられます。ことに「白桃房」の表現に際しては、土方は自ら踊ることから、踊り手に舞踏符を振付けながらそこに立ち現われる過程を逐一採集し、対象化する作業へと移行しており、そうすることで舞踏符の舞踏としての舞踏の表現の成立に深く関わりながらも、舞踏符については外に向けて一切語っていません。それはおそらく、舞踏符が踊りの構成要素となることで舞踏の表現に形式がもたらされたというのではなく、あくまでも舞踏符は土方の指導によって踊り手の表現内容を引き出すための媒体にすぎないと考えられていたからではないでしょうか。もとより土方には舞踏の表現形式を確立しようとする考えはなかったと思われます。表現の形式化よりも表現内容を、すなわち「土方巽と日本人」を契機にして、女性的なものに関わる姿勢を優先してきたのではないでしょうか。女性的なものに関わることへの<屈折>、そしてそこに派生する現象を受容することは、その結果として、「包まれている病芯」にも述べられているような、表現における時間(意識)の介入に注目させることになります。表現における時間(意識)は、「ハプニング」から継続する主題でもあります。というのも、パフォーマンスにあっては独特の時間が流れるからです。そこでの時間(意識)は日常的な時間とは異なっています。日常的時間は尺度として機能するもので、もともとそれは古代から中世にかけて支配のための尺度として定められ、権力から与えられたものです。それに対して、パフォーマンスにあっては時間(意識)そのものが立ち現れてくるのです。言い換えれば、パフォーマンスがもたらす特異な空間はそうした時間(意識)に支えられているわけです。そのため、そこでは支配時間という瘡蓋はむしられようとします。そうすることで、時間は尺度的な支配から解かれ、より潜在的な局面をあらわにして意識に噛み合わせられることになるのです。
「包まれている病芯」で、土方は「病体」について、「内蔵が皮膚に、皮膚が内臓になるという裏返された連続性のなかにこそ、さまざまな思い出の蘇生が始源の姿を鮮明に保ち得ている」、そうした状態として説明しています。この「病体」をもたらす「裏返された連続性」への関わりが、舞踏符を単に踊りを構成する要素として扱うことから、舞踏符から舞踏符への「連続性のなかに」示される(振付ける側と踊り手両者の)神経アレンジメントの変動する過程や、「裏返された」ものとして立ち現われる神経アレンジメントの成り立ちと(振付ける側から踊り手への)変容に注目することへと、すなわち舞踏符を(振付ける側の神経アレンジメントと踊り手の神経アレンジメントとの、あるいは内容と表現との)媒体として意識することによる振付けへと、その視点を移行させていったと考えられます。そのことは、「静かな家」において土方が自ら意識化し、自らに課した課題でもあったと考えられますが(たとえば「皮膚への参加」がある)、「白桃房」作品を連続的に制作するに際し、振付けに専念することで舞踏符の媒体としての性格がさらに精査され、そのさなかに時間(意識)の主題が表現する自己と絡み合うようにして新たなかたちで浮上してきたと思われます。この点について「病める舞姫」を通して考えてみたい。というか、「包まれている病芯」の視点から「病める舞姫」について検討してみたいと思います。
 まず「病める舞姫」の「病める」とは、「包まれている病芯」で示されている「病体」の状態をいう、と考えられます。さらに、「病める舞姫」の第二景(ここでは各章を「景」とする)では次のように語られています。「崩れるということをぼんやりと知りながら立った記憶の始まりを、しっかり外側から取り押さえているような白い顔が、こちらを向いて停止しているのだった。その選り好みできない白い顔に、捲かれている写真のように、私のからだは包まれてしまうのだった。私のからだの疼きの中に病芯のようなものが感じられる。病芯の震えにふれているのは、尻をはしょって首に手拭いを巻いた小柄な老人や、お日様をよぎる蝙蝠傘、ゴムの短靴をはいた固い額を持っている半島女の、もうもうたる塵埃をあびている姿だった。…青い顔に白いマスクをつけ、下駄をはいた男が理髪店から出て来た。親しい死者達の貎。歩くことが仕事みたいな人達や、屋根の上で髭をはやした大人が頬被りして腕を組み、遠くの空を眺めたりしているのだ。説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮が、白い顔の中にびっちりと詰まっていた。私のからだに描かれた絵は、こうして現われて、私の毛並みの衰えを思い知らされたり、犬の目付きに変えてしまうのであった」。この中の、「崩れるということをぼんやりと知りながら立った記憶」、<死者>の顔に「私のからだは包まれる」、「私のからだの疼きの中に病芯のようなものが感じられる」、「病芯の震えにふれている」、「説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮」等は、すべて「包まれている病芯」の用語そのままです。
 ここで「包まれる」とは、「選り好みできない白い顔に、捲かれている写真のように、私のからだは包まれてしまう」と、あたかも像が焼き付けられたフィルムに捲かれるようにして、否応のない仕方でからだが死者たちの記憶に包まれることであると描写されています。それはからだの芯から疼くような体験であり、そうしたところに「病芯」が感じられるといいます。また「包まれている病芯」で、「裏返し」の構造を促す「病芯」が導き出してくるものとされている、「人の根底が震えているような状態」の「震え」について、ここではその「震えにふれている」ものとして<死者>がその例として語られています。ここで主題となっている「白い顔」とは<死者>であり、すなわち土方が少年時代に見た者たちに関する記憶でありかつそのすがたであるわけですが、特異なのはそれが土方のからだを否応なく包み、「私のからだに描かれた絵」として現われるということです。それは記憶というよりもからだに関わる現象として提示されており、いわば少年の土方が経験したはずのかつての神経アレンジメントとして示されようとしている、そう考えることができるでしょう。そうした<死者>との関わりには、「説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮」が詰まっている。要するに、すばやく関わる距離にありながらも言葉では捉え難い「敏捷な構造」がそこに見出されているのです。土方はこうした「敏捷な構造」としてからだに立ち現われるものを、すなわち少年の土方が経験したはずのかつての神経アレンジメントであると考えられる、からだにあって包み包まれているものをめくっていく、すなわち言葉にしようとしていくのです。
「病める舞姫」の構成は次のようになっています。まず冒頭部があり、続いて四季の変化に沿って土方の<少年>を核とする光景が語られます。夢が日常的時間の支配を逃れているように、<少年>をめぐる光景が語られる際にもそれに似た状況にあります。あるいは、その語り方は盲人の世界を思わせます。たとえば、(盲人は)空間にいるという感覚が希薄だ。…空間は自分自身の身体にまで縮小され、身体の位置はどのようなものを通り過ぎたかではなく、どれくらいの時間動いたかで測られる。…盲人には、声がしないかぎり他者は存在しない。…ひとは動くもので、一時的なもので、来て去るものだ。どこからともなく現われ、どこかへ消えていく」(V.S.Ramachandran他「脳の中の幽霊」)といわれます。このように、空間を基盤にする意識であるよりもどちらかといえば時間を基盤にする意識が、死者に関わる<少年>が織り成す光景を支えているように思われます。言い換えれば、その光景は遠くにある過去の記憶を想い出すようにして語られるのではなく、あたかも盲人が現在世界を感知するようにして、すぐそこにあるかつての神経アレンジメントを感知しようとしているふうに思われます。空間は、どこからともなく現われてはどこかへ消えていくものと共に意識されます。そのように空間についてはそれが生まれるところに関わざるを得ないことから、それよりも時間意識が先行しているという印象を受けるのです。そうした盲人の手つきを思わせる作業が、「病める舞姫」の主要部分になっています。そして最後に、<少年>に替わって二人の人物が登場し、一面に雪積もる光景の中で踊りが踊られ、踊りについての会話が交わされます。この最終部はどちらかといえば舞台場面を思わせ、会話や仕草が目に見えるように語られ、それゆえ、全体からみれば別枠の印象を受けます。
 その主要部分の内容は、土方が<少年>の神経アレンジメントを感知しようとして試行錯誤する過程でもあります。まず土方の少年時代の記憶があり、それに対して土方のからだが現在も抱えると考えられる<少年>の神経アレンジメントがあり、それらは区別して考えられなければならないわけですが、その区別は必ずしも明確ではなく、それゆえ土方の試行錯誤とは、<少年>の神経アレンジメントという曖昧なもののうちに「迷う」ことでもあります。とはいえ、<少年>の神経アレンジメントは「敏捷な構造」として立ち現れるのであり、そこに土方の<現前的な>意識が噛み合されるとき、時間意識をもたらすもの、すなわち持続力として体験されるものに向き合うことで、その曖昧なものは感知されるようです。少年時代の記憶が単なる記憶として示される場合と、<少年>の神経アレンジメントとして示される場合があるわけですが、土方は意識的に<少年>の神経アレンジメントを感知しようとして、感知しようとしながらその神経アレンジメントのあり方を表現的な視点から解釈しています。記憶とは区分けされるかつて経験したはずの神経アレンジメントをこうだろうああだろうと解釈しながら、土方は神経アレンジメントの波打つ大海を舵を切って進んで行くのです。そこには、少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメント、そして土方の内省と思考とが入り混じって語られているわけです。読み進めながらその差異を腑分けしさえすれば、「病める舞姫」は読めるのです。「病める舞姫」は、「〜のような」、「〜のように」という表現が多いことで知られていますが、この点についても、かつての体験を現在の意識のうちに還元するのではなく、現在もからだに潜在する神経アレンジメントとして対象化しようとするからであると考えることができます。そこで一つの読み方として、「〜のように」のその内容を、舞踏符のようにして、読む側のからだで捉える仕方があります。すると、「〜のように」のその内容を、土方は自身に振付けし、そして語ると同時に踊っているのではないかと思われてきます。おそらく土方はそうした語り方によって、舞踏符の媒体としての性格を自身のからだを使って精査しているのではないでしょうか。
 少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメントの関係は、私がわからなくなっても、わかってくれているようなものが、からだの内側から現われてきていた。私のからだの着換えが始まっていた」(三景)、そう内省されるようになります。その<少年>の神経アレンジメントに、<死者>のかたちがくっついてきます。「私が見たその人達には何か怖ろしいものがあり、彼らの忍んだものは、みんな死んだかたちで現われていたのだった」(三景)、というように。当時の人たちが必ずしもあらわにしなかったものが、いまや神経アレンジメントとして土方のからだに立ち現れようとしているのです。こうした状態に、少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメントとのそれまでの優劣関係が入れ換わっているのがわかると思います。そんな人達には、あまりにも、やさしい皮膜がついていたから、視覚だけではとらえられないのだった。その人達はみんな、くるりと裏返しされたばかりの人で、裏返されたばかりの世界に住んでいたから、あのようにはっきりと配列されていたのかもしれない。欲していることが、抱きすくめられるような暗がりにさしかかって、ようやく動きが少なくなっていることに私は気付いた」(三景)。ここでも、「くるりと裏返しされた」、「配列」等という、「包まれている病芯」の用語が使われています。ここでの「裏返しされる」ことについていえば、たとえば、夢にうなされる人がその反応をからだの痙攣的な動きに表すのを見るとき、そこに夢自体が神経アレンジメントとなってあらわにされているのを知ることができます。そこに夢の内容が神経アレンジメントへと「裏返しされ」ているのです。要するに、土方のからだが感知する<死者>をめぐる<入れ換え>とは、そこに「何か怖ろしいもの」があるといわれるように、私たちが夢にうなされるその内容が痙攣となってからだに表れる、そうしたよくある体験に似た現象であると考えることもできるでしょう。
「病める舞姫」における<少年>の神経アレンジメントを感知しようとするこうした作業は、折り畳まれていたものをふたたび開く作業であるといえますが、それよりもそれは、いわば「自明でない自己」のあり様としての<少年>に関わり、その内容を具体的に明示しようとする体験であると考えることができます。とはいえ、「自明でない自己」に向き合い、そのあり様に何がどのように関わることができるでしょうか。「自明でない自己」に向き合おうとするものが何かは当然に自明ではないし、それゆえ「自明でない自己」のあり様でさえ対象化できるものではありません。したがって、ここでは何が何に関わるのかというよりも、どのように関わるのかというのが主要な作業となっているでしょう。要するに、「病める舞姫」の主要部分は、「自明でない自己」にどのように関わるかの体験報告でもあると考えられわけです。その場合に、最低限の枠付けとしての季節があります。<少年>に関わる際に体感としての季節の移り変わりが前提とされ、それに伴って外に向けては植物等の生命の成長と衰微が示されます。そのようにして、<少年>を最低限に枠付けするものが「自明でない自己」を押し出していく、といった方法が採られているように思います。
 その際に、土方が次々と立ち現われる<少年>の神経アレンジメントを言葉にしようとする力には目を見張るものがあります。そこに立ち現れたものは次に立ち現われるもののためにすぐに消えてしまいますが、その「敏捷な構造」さえも検討対象とし、思考のうちに捉えようとしています。すなわち、要所要所で神経アレンジメントの過程と変容を解釈するようにして内省されています。こうした持続力はいったいどのようにしてあるのでしょうか。鏡に映るような光景を言葉にするのであればそれは単なる描写にすぎません。そうではなく、土方は、それだけでは何が何だかわからないかつての神経アレンジメントを言葉にすることで、神経アレンジメントそれ自体の差異を増幅させているように思われます。差異を増幅させることで、かつての神経アレンジメントというものを対象とすることができ、少なくともそれについて考えることができるわけです。そして、そうしたところに<死者>がくっついてくるのです。おそらく過去の記憶を語ろうとするだけではそうはならないのにちがいありません。かつての神経アレンジメントに関わろうとする体験が<死者>を連れてくるのです。どちらかといえば、<死者>を連れてかつての神経アレンジメントが実現される状態は明るく、それに対して、単なる記憶の想起はからだをほの暗いものとして構成しがちなようです。こうしたことは、意識が肉体に関わろうとする「肉体の闇」がもたらす一つの帰結ではないかと思います。私たちは少なくとも神経アレンジメントの差異を日常的に感知してはいるでしょうが、日常生活を優先させるためにそれを定常的なものに還元してしまう強い傾向をもっています。また曖昧な神経アレンジメントは、その曖昧さのゆえに、記憶や知識を基にした判断のうちに封じ込められてしまいます。こうしたことは、土方に持続力をもたらす体験とは真逆の事態であるわけです。
 かつての神経アレンジメントの波打つ大海を航海するに際して、その景が進むごとに土方はその方法を何度か修正しているようです。冒頭の景で主題が提出されるわけですが、二景ではまだあまりうまくいっていないようです。少年時の記憶がそのまま語られる傾向になっています。次の三景は記憶と解釈がうまく適合しています。<少年>の神経アレンジメントとそれにくっついてくる<死者>にアプローチする仕方を意識的に変えたのでしょうか。四景もやや記憶的な面が強いけれども、「泣いていた子供はもう、畳の上に溶けて流れたようになって寝ていた。逃げていた油虫がまた出てきた。皆、それぞれにそこに棲んでいた。恐がっていた私の姿もいつしか蒸発していた。こうしてすぐに消え去るものによって繋がれて現われてくる正体を、私は掴まえたような気がしていた」、とあります。そして、夏になって(五・六景)、することがわかってきたかのように表現のバランスがとれてきます。何を言って何を言わない方がいいのかという配慮が察せられます。さらに晩夏(七・八景)になると、「私がそこで何を見ていたかといえば、蹲る私の目のなかにふとはいってくる、虫の髭の迅さだった。この虫の髭より迅いものには用心するにこしたことはない。もう少しで私もこの虫と似たものになれる。こうして粘る必要もなく、からだを衰弱させていく効能を私のからだが知り始めているのだった」。「もう二度と見ることもあるまいと思われた少年の私が、犬の動悸をつけて帯を垂らして、今そこの手の届く暗がりにぼんやりと立っているのだ」。「こうして私は私の少年を激励しているのだ。しかし、その少年の臓腑や虹門の動きが、こうまで鮮やかに思い出されてくるとはどいうことなのか。その少年と同じように動いている息だけの生き物が後からついてきていたからであろうか。その息に私がつけた名前は忘れたが、そんな奴の動きにあまりにも絡まり過ぎていたのだ。後年、舞踏であらかた整理をつけたが…」、とあります。いまや<少年>の神経アレンジメントを感知する仕方を身につけ、そこに<現前的>な意識を噛み合わせることができるようになったかのようです。方法的にも、記憶を単に告白するだけでは「ものの形を真似ることができず…」、そうではなく、おそらく「自明でない自己」をからだに「変な流体に仕上げる」方へと修正されているようです。そして、たとえば「玩具の蛇」を使って<少年>の神経アレンジメントと(捏造された)記憶との区別に目鼻をつけて選り分けられるようになると、その向こうに<少年>がいる、そう手応えを解釈として述べています。「玩具の蛇」とは、<少年>という「自明でない自己」を対象として扱うことのできる道具なのでしょう。とはいえ、その対象化は、「未発達の霊の働きによってか…私の向こう側で嵌め込まれたような動物になって、私の少年は私を不審そうに覗き返しているようだ」(七景)といわれるような、向こうから見られることによる対象化なのです。「玩具の蛇」とは、「誰に頼まれたのでもない粗造りの自分のからだなのだった」(七景)。いわば、自身よりも大きなものをただ漉しているだけのフィルターのような神経アレンジメントがそこに考えられますが、そこには随分といろいろなことがあるものだ。骨に映ったものや、皮に移ったものだけでも、大変なことになる」(八景)、といいます。
 後半の晩夏(七・八景)から秋(九・十景)にかけての表現の持続力は、むしろ土方の<現前的な>意識の流れを示しているようです。たとえば、「菓子袋」(十景)への執着を語る仕方は色々なものを取り込んでいて、少年時の記憶と<少年>の神経アレンジメントと解釈の間の行き来が自在な感じがします。「私は…どうしても荒治療で生きているような菓子袋が必要だった」が、その中身は空白になっています。中身よりもむしろ「菓子袋」をめぐる<少年>の神経アレンジメントを扱う際の速度や強度が重要だと考えられているのでしょう。秋になって語りが散漫になりかけたのが、「菓子袋」や「老婆」に関わる神経アレンジメントと共に持続力を強め、それは「竈」のメタファーへと繋がっていきます。そこには舞台という「竈」が想定されているのかもしれません。その周辺では「白桃房」の振付けの際に採集された様々な神経アレンジメントが言葉になって構成されているかのようです。老婆については、「あれはもう人間というものではなくなっている、飛ばない一つの軽さのようなものではないか」(十景)。「老婆はどこに隠れたのか。その隠れたところをどこまでもどこまでも追っかけていけば、赤子の頬についている涙腺のようなところに出て行きそうな気がする。そんなところで、その老婆に変なまじめな約束をさせられるような気がしてならない」(十景)。どうやら行き先に目鼻がついてきたようです。
 (十一景・十二景)になって持続力はいっきに高まります。「女の話」(十一景)があって、そこから「震え」が見出されます。「忘れられたような風のそばに、露の玉が一つ眺め透かされて震えている。それが私だ」(十一景)。「震え」とは、一滴の自己とは比べようのないほど大きなものに触れている、そのことによる「震え」なのです。そこから、「変な流体」として湯気(神経アレンジメント)が渦巻く中に、湯気とは正反対の「つらら鳥」(十二景)が一気呵成に見出され、場面はいっきに転換して雪の中の「道行」といった光景となります。
「つらら」が湯気の中に現われることはないから、これは<少年>の神経アレンジメントに関わるのではなく、土方の<観点>的なものがそうさせるといっていいでしょう。「つらら鳥」は飛ぶのではなく、それはいままさに飛ぼうしているものを示しています。それは湯気と正反対の状態にあるけれども、湯気と同じ成分でできています。それは一体になり得ないものを噛み合わせる局面への飛躍を示唆していると考えられます。こうした<観点>的なものに連れ出されてくる事態が、それまでとは別枠の、次の光景に進ませていると思われます。<少年>と母親らしき黒マントの語り(十三景)があり、最後に<少年>は消え、替わって二人の人物による踊りに関する会話が展開されます(十四景)。<観点>的なものによって連れ出されたところでそれまでの試みは終えられ、<少年>が退場するこの最終章はそれまでの土方の試みから逸脱しているような印象を受けます。しかし、「病める舞姫」という女性的なものに関わるタイトルを掲げながらそれに反してここまで<少年>をめぐる描写が続けられてきたことを考えれば、それは逸脱ではなく、飛躍と考えるべきでしょう。つまり、最終景ではそれまで主旋律の基底音となっていたものがいっきに現れている、そう解釈することができるのではないかと思います。そこでは、「白マント」の土方がさらなる舞台構想を練ろうとしているのか、それまで精査してきた<少年>の神経アレンジメントのあり様を言葉にして差異を増幅するのではなく、翻って踊りに噛み合わせようとする光景が描かれているように思います。
 とはいえ、この最終景への飛躍の意図を判断するのは難しい。けれども、その光景については、「包まれている病芯」との関連にこだわれば、その中で最後に語られている弟子への指導方法と比べることができるかもしれません。その内容を要約すれば、「何の心の準備もなく、犬が仔を生んでいるのに遭遇して観察したその内容を女生徒に話す際に、たとえばその犬が今していることを知っているかのような犬側の視線について話をする。説明しにくい視線を相手に保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮をもってである。或る対象を観察する際には、観察側の『感覚の論理』にただ迷い込むようにして観察しているわけではないからである。それに対して女生徒の中には、『私はできるだけ対象に接していたいし、その状態から離れてもいきたいが、その中間に宙吊りになった自己を取り出すことができないか』、そう反応する者もいる。女生徒の中から、現在はこうした夜尿症的タイプを嗅ぎ分ける作業に力を入れている」、というものです。そこでは、対象を観察した内容を対象の側から話すこと、その際の「敏捷な構造」を話す仕方、その話に反応する宙吊り的な自己が見分けられること、そうしたことが指導方法として語られています。こうしたことを考慮に入れながら、「病める舞姫」の最終景の内容を、白マントが黒マントに踊りを指導する光景として読むことができるかもしれません(その分析はここでは煩瑣になるので省きます)。「夜尿症的タイプ」とは、「感覚の論理」に沿う自己から漏れ出すものを示すことができるタイプであり、たとえばそのことは、「からだのなかでぬくめたことを、そこいらの雪にばら撒くように、持ちこたえられなくなったように散ってな、ばら撒くことが肝心なのよ。細かい気持ちなどさらさらいらないんだよ」(十四景)、という指導と関連づけることができると思います。また「尿を漏らす」というのは、最終景の最後の場面に繋がる光景でもあります。
 以上みてきたように、「病める舞姫」を語る土方の作業には一貫した姿勢がみられます。そこでは<少年>の神経アレンジメントに関わること、汎用的には「肉体の闇」に関わること(意識が神経アレンジメントに関わること)が、結果的にそこに派生する持続力をもたらすことになります。持続の状態それ自体には時間(意識)が伴わないわけですが、「自明でない自己」に関わることにおいて自己の体験として感知されるはずの時間(意識)があるわけです。そしてそうした体験は、おそらく土方がパフォーマンスによってもたらすものと同じなのです。さらにはその体験は、舞踏符を踊り手に振付けるその過程において知られるものでもあると考えられます。舞踏符はそうした時間(意識)を体験させる媒体となっているのです。時間(意識)ほど「敏捷な構造」を伴うものはありません。おそらく、女性的なものに関わるといっても、それは歌舞伎の女形のようにジェンダー的に関わることではないのです。それは受容的になることであり、何に受容的になるかといえば、「敏捷な構造」のように隠れてかたちのないものに受容的になる、そういっていいと思います。土方は女性的なものに関わろうとして、時間(意識)に支えられて空間が生まれるところ、そうした隠れてかたちのないものにふたたび還ろうとしたのではないでしょうか。表現することで空間を生み出そうとするのではなく、「敏捷な構造」としての時間(意識)に支えられて空間が生まれるところにとどまろうとすること、それが「舞踏」の内容として考えられたわけです。それはつねに「見慣れぬもの」として立ち現われます。「包まれている病芯」で語られる「微笑」とは、そのように今まさに生まれようとしている空間をいうのではないでしょうか。「病める舞姫」において、土方は自らつくりあげた舞踏の様式を離れて、「舞踏」の内容にあらためて迫ろうとする時期を迎えているのだと思います。

「病める舞姫」の後に土方が発表するのは、実験的作品としての「景色へ一瓲の髪型」(1983)です。実験的というのは、この作品で土方は、「東北歌舞伎」から「白桃房」までの表現様式をかなぐり捨てているからです。また舞踏符の方法も大きく修正されています。「景色へ一瓲の髪型」に関する資料がないので、ここでは私自身が見たことを述べておきます。会場の「プランB」に開場時間前に入ると、舞台で土方が芦川羊子を振付けていました。土方が自ら動きを示し、その動きを芦川羊子がなぞっていくという手順でなされ、それが開場時間ぎりぎりまで続けられました。弟子の一人がその一部始終をメモしていました。本番では、開場時間ぎりぎりまで振付けされていたその場面になると、芦川羊子が踊りながら観客席正面に座るプロンプターに矢継ぎ早に舞踏符の指示を求め、プロンプターが大声で次々と舞踏符を指示し返します。そのやりとりが観客に聞こえる、といった異様な展開となりました。これでは踊り手は舞踏符の間合いをとりにくいのではないかという印象を受けましたが、踊り手が舞踏符を求めながら踊るそのこと自体が踊りになっているという、その緊迫した展開の方が勝っています。途中、暗転時に舞台の上手奥に設えられたスペースで踊り手が着替えをしますが、そのときスペース内に灯りが点いて着替えが観客に見えるという新たな演出もなされています。舞台背景も何もなく、コンクリート壁がむきだしの狭い空間に、踊りも含めて何もかもがむきだしにされた表現がそこにありました。
 とりわけ最後の「縄跳び」の踊りは見事でした。「病める舞姫」の最終景に、「白マントの女は、顎をはずしたビッコの縄跳びをしはじめた。迷い子よけの匂いを嗅ぎにいっていたような鼻が戻ってきて、その縄跳びの顔にひっついた。すると顔の皺や、うっすらと生えた産毛が一緒によじれ、よじれて飛んでいる縄と一つのものになった」、とあります。縄跳びはサイクル的な運動です。その周期的な時間を私たちは縄の回転と共に感知することができます。舞台では、その周期的な時間がまずビッコで狂わされ、さらには「感覚の論理」に迷うものが動きとくっつくことで、踊り手の主体意識の衰弱に拍車がかかります。そして縄が見えないことをいいことに、踊り手の主体意識の衰弱と共にその周期的な時間に「よじれ」がかけられ、「よじれて飛んでいる縄と一つのものになった」時空がまるごとそこに立ち現われました。私はそこに、芦川羊子でありながら芦川羊子でないものが踊っているのを見ました。つまり、踊り手のかたちよりも踊り手を動かす「名づけえぬもの」の方が優っている、そうした踊りを見たのです。そこにはかたちから脱してかたちのないものが微笑む、といった時空が実現していたのです。
 パフォーマンスにはそれ特有の時間が流れます。また、そうした時間(意識)を前提にしてパフォーマンスを構成することが可能でしょう。「景色へ一瓲の髪型」では、パフォーマンスのかたちよりも、パフォーマンスを通じて立ち現われる舞踏独自の時間が目指されていたのです。そのため、踊り手は空間が生まれるところにつねにとどまるよう要求されたのではないかと考えます。そして、おそらくそのことと連関した舞踏符の修正があったのです。パフォーマンスの際中に次々と舞踏符を要求し舞踏符が指示されるという仕方では、踊り手は自らの間合いで一つ一つの舞踏符に見合った神経アレンジメントに関わることができません。そうした仕方では、確実に踊り手の主体意識は変調させられると思います。そうした変調に基づく表現がそこには意図されていたのであり、このとき「舞踏」の表現の新たなモデルが提出されたのです。媒体としての舞踏符の方法は、より高次の段階に移っていったのです。
 表現様式が反復されると、表現内容およびその時間(意識)が定型化するという問題があります。土方は舞踏の表現様式を一代でつくりあげましたが、そうした問題のゆえにそれを手放したのだと考えられます。土方が本来的に「型」を重視しない現代作家であることの証が、この実験的作品にみられます。「東北歌舞伎」や「白桃房」の表現様式をつくりあげる際には、土方は歌舞伎や能を参照しつつ、舞踏の表現を総合的なものにするべく試みていると思われます。けれども、「白桃房」連続公演の後にすべての様式を投げ打っていることからすれば、その試みは要するに、伝統芸能を参照しながら舞踏の表現様式をつくりあげるために、からだが抱える抽象力に関わる方法にかぎって取り出そうとする作業であったとも考えられます。かつての<能>役者や女形が厳しい身分制度の中でそうせざるを得なかったのとは異なり、普通の人間をしてからだが抱える抽象力に関わらせること、そのことにこそ土方の考える「舞踏」の核心があるように思います。端的にいえば、「景色へ一瓲の髪型」とはそうした表現なのです。
 死の前年である1985年に行なわれた「衰弱体の採集」は、土方が初めて一般人を前にして語った講演です。語るというよりも、講演を演じたといっていいでしょう。それは踊りを踊らなくなった土方が、踊りも文章表現も講演もすべて<現前性>を素材にするという点において舞踏である、そう考えることによって演じられた表現であると思います。あらゆるジャンルを串刺し的にする表現基盤としての「舞踏」を土方は遺そうとした、そう考えてもいいかもしれません。この「衰弱体の採集」には、おそらく「病める舞姫」の体験が色濃く反映していると思われ、その内容は、かつての神経アレンジメントを立ち現せるためには主体意識を衰弱させなければならないという主旨であり、その例を土方自ら演じているのだと思います。主体意識が衰弱すると共に立ち現われるのはかつての神経アレンジメントに関わることの持続力であり、それはパフォーマンスとしての舞踏表現がもたらす独自の時間と共通するものでもあります。まず「風だるま」が演じられるように語られ、かつての<少年>の神経アレンジメントが断続的に語られていきます。そうすることで、土方は自身の<衰弱体>を採集しようとしているのであり、その採集状態をも観客に示そうとしているように思われます。そして、話も押し詰まって最後に、自身のからだに住まわせている姉が次のように語るといいます。「表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい」と。この<死者>による言葉は「敏捷な構造」の性格を指摘していると思われますが、表現する姿勢に関わる点からすれば、空間が生まれるところにとどまるよう表現者に要請しているのです。そして、最後に「イズメ」の話が語られるのは、土方にとって時空が生まれるところとしてつねに田圃の広がりがあったからである、そう考えることができるでしょう。 
 その後、四回にわたる「東北歌舞伎計画」(1985)の合間に、「親しみの奥の手」(1985)と「油面のダリア」(1985)がアスベスト館で発表されます。共に芦川羊子主演の実験的な作品です。自ら様式にまで高めた表現を、自らの手で抽象化して表現するにまで至っています。土方は踊れなくなりましたが、「舞踏」作品とその思考を短期間のうちに次々と遺していったのです。こうした「病める舞姫」以後の表現が、土方が考える「舞踏」の真のかたちではないかと考えます。そこでは伝統的なものの影響はまったく払拭されていますが、からだが抱える抽象力に関わるという点において連綿と受け継がれてきた表現姿勢がそこにはみられます。そのことが、「舞踏」という現代の表現の広がりを支えているのだと思います。伝統に深く繋がりながらも土方の表現の現代性は独特のものです。それを何と言っていいかわかりません。他に共通する表現があれば比較できますが、そうはいかないからです。
 土方の死は1986年。その後、1995年にソ連が崩壊します。それ以後、マルクスによる「共産主義宣言」を軸にして二極的世界が展開されてきたのが、資本制社会による一元的世界へと急速に包摂されてしまいました。そこには、貨幣という、将来を不確実なままに約束するものが価値と認められ、その脆弱な価値を必死に守ろうとする社会があるだけです。今のところ出口は考えられていません。土方の「舞踏」が息を吹き返す場所はどこにあるでしょうか。