Monday, January 12, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


二 敏捷な構造

 3 風だるま

「土方巽と日本人」の後に、「暗黒舞踏」と呼ばれる舞踏の表現の様式化が始まります。様式化と共に<暗黒>や<闇>が強調され、<現前性>に関わる姿勢はあたかも舞踏の表現様式の背後に後退してしまったかのようにみえます。しかしそうではなく、「暗黒舞踏」の表現様式に連れ添ってくる<暗い背景>として、<現前性>のその<内容>が提示されていると思います。そしてまた、舞踏の表現の様式化には新たな作舞の方法である舞踏符が不可欠であったわけですが、その舞踏符の方法を駆使することのうちに、<現前性>に関わる姿勢が込められているのではないかと考えます。
「暗黒舞踏」の表現様式を打ち出した最初の土方出演作品である「疱瘡譚」の冒頭、それは「四季のための二十七晩(1972)」の冒頭でもあるわけですが、それはこんなふうに始まります。
 吹きすさぶ風の音が薄暗い舞台を駆けめぐるなか、大髷を結い、どてらを着込んだその袖に手を隠し、太鼓帯を大きく前に結んでダルマのような姿の土方が柱の陰から登場する。全身白塗りで、なおかつ顔に石膏片がまとわりつき、その表情は生きた者のようでない。動きはかじかんだようにゆっくりで、観る者を緊張させる。それはたとえば、能の亡霊、すなわち死者でありながらこの世にさまよい出てくる後ジテの登場を想起させる。吹きすさぶ風の音と顔の石膏片から、それが吹雪の中をやって来た人だと思わせる。それは、「風だるま」のようである。
「風だるま」の話は、「衰弱体の採集(1984)」で初めて語られるわけですが、それよりもずっと以前に、「疱瘡譚(1972)」の冒頭の踊りで表現されているものは「風だるま」に相当するのではないかと思われてなりません。風の音を背負い、どてら姿の土方が亡霊のごとく登場する。その姿が、時間的には後先になるけれども、「風だるま」の話を想起させるのです。「風だるま」は、死とすれすれのところにいる。いや、「死んだ後の異界をのぞいて来た顔」と語られているように、いったん「死者」となってふたたびこちら側に還ってきた者のようです。とすれば、何よりも「死者」に関わる表現が、土方の最初の舞踏の表現様式として打ち出された作品において展開されている、そういえるのではないでしょうか。
 時間的には逆行しますが、「衰弱体の採集」の<観点>から初期の暗黒舞踏の表現を顧みるために、まず「風だるま」の話を検討することにします。
「衰弱体の採集」の講演では、初めに土方が「日本霊異記」の話を例に出して、夢で自身が火葬にされるのを見て、その「死者」であることの体験を後になって記述する際にそれが対象化されて語られているのはおかしいのではないかと前置きしています。そうではなく、これから語る「風だるま」の話は、「死者」であることの<現前性>体験そのことについて語ろうとするものである、そうわざわざ強調しています。
 それはどんなふうに語られるのかといえば、まず「風だるま」は、自分のからだを風葬していて、「自分の骨の焼けてゆく思いを考えながら畷を歩いてくる」といった、死を体験しつつある存在として提示されます。その「風だるま」が、吹雪の日に風に巻かれて、風に運ばれるようにして家に入って来ると、自分の身の上に起こったことを語るのですが、その語り方は、「最初に荷物がチッキで届いて後から手紙が来る」といったような、言葉に先行するものが語ろうとする語り方なのだといいいます。そして、その声はといえば、「風だるま」が叫んでるのか、吹く風が哭いているのか、声と風が入り混じって不分明きわまりない。そして、「その顔は何か、死んだ後の異界をのぞいて来た顔なんですね。お面みたいになってるわけです。生身の身体でもないし、虚構を表現するために、物語を語るために、何かの役に扮しているのでもなくて、身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人なんです」。こうして、「風だるま」の話は、最終的に舞踏の表現が意図するものへと結ばれているわけです。
 この「風だるま」の話を、「風だるま」、すなわち「死者」であるものがその体験を「語る」という主題を軸にして考えることができると思います。つまり、「風だるま」を語ることは、「死者」であることの内容を設定し、その<現前性>体験を語るということに迫ろうとするものなのです。ここで「死者」であることは、死を体験しつつある存在であるように語られていますが、その内容はといえば、火葬にされて五体が否応なくばらばらになっていると同時に、風葬にされて意識が今にも遠のく寸前の者として示されています。要するに、からだも意識も思うように統御できない状態にあるというわけです。そしてそのような「死者」が、言葉に先行するものが働いてその働きが自らを語るといった仕方で語り、そのため発せられる言葉は不分明である。不分明とはいえ、その言葉はけっして無内容ではないのです。そのとき、自らを語るすがたは、何かを表現しようとしているのではなく、語ろうとするために「身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人」といったふうに、「語る」ことの神経アレンジメントの働きを除いては、「死者」であるようなすがたをしているのです。
 こうして「風だるま」という雪国特有の話から、1)「死者」であることの設定、2)「死者」が語る仕方、3)「死者」であることの表現という、「死者」が語るという主題をめぐる三つの要点を取り出すことができると思います。そしてさらに、この三つの要点に照準を定めながら、「土方巽と日本人」後の土方の表現の転換を計測してみたいと思うのです。それはつまるところ、土方が舞踏の表現様式を初めて打ち出した作品において、「死者」への関わり、すなわち「死者」が語るという表現主題が舞踏符の方法とどう関わり、さらに一転して舞踏符の方法によってその表現がどのように支えられているかをみることでもあります。
 まず「疱瘡譚」の映像記録から、その構成を示しておきます。なお「」内は、私が勝手につけた場面名です。
一) 「風だるま」。大髷を結い、どてらを着込んだ土方が登場。瞽女歌に乗って踊る。
二) 「馬の群れ」。男性舞踏手による群舞。
三) 「田舎女郎」。高下駄を穿き、腰を低く沈め、髷を結った着物姿の女性舞踏手三人が登場。義太夫節が、あたかも目に見えるようにして踊り手にかぶさっている。
四) 高下駄を穿いた男性・女性舞踏手たちによる群舞。
五) 「姉と少年」。着物姿の芦川羊子と洋服の少年に扮した和栗由紀夫によるデュエット。ワルツ曲に乗って軽快に踊る。
六) 「癩病者」。土方ソロ。女性歌曲が舞台に鳴り響くなかで、半裸の土方が終始舞台に板付きになって踊る。
七) 「フラマン」。土方と男性舞踏手たちによる群舞。
八) 女性舞踏手三人と土方の踊り。
九) 「夢見る死者」。土方ソロ。
十) 「癩病者たち」。女性舞踏手五人による踊り。
十一) 全員でフィナーレ。
 土方の踊りは、その踊りの神経が「土方巽と日本人」とはまったく異なり、見た目にはかなり抑制されたものになっています。とはいえ、その動きは観る者の意表をつくものであり、その形態模写的な動き、そして白塗り姿から、土方は総じて「死者」のようであり、あたかもその「死者」が想い、見る夢のような光景が、荒縄を綯うようにして次々と展開されるわけです。その展開のうちに、舞踏の表現が孕む<内容>の強さが感じられます。土方は「死者」をソロで踊り、あるいは群舞のうちに溶け入るようにして踊っています。夢を想い、見つつ、かつ夢に溶け入るそのすがたは、あたかも夢を出入りする者であるかのようです。それが、舞台における「死者」の役割ではないかとも思われます。
「死者」とは、単に死者をめぐる記憶を表すのではありません。またいうまでもなく、「死者」は、死んでいると仮定されたものでもない。舞踏の表現の方法において「死者」なのであり、「死者」とは死者であることの設定であり、冒頭で「風だるま」を演じるという想定からすれば、死者へのアプローチの仕方でもあります。見たところ土方の踊りは、その神経アレンジメントの働きを除いて「死者」である、という表現になっているとみえます。言い換えれば、「死者」のからだは神経アレンジメントの働きを浮き立たせて見せることになる、ということです(そのことは、「命がけで突っ立った死体である」と言い表されている)。そして、その神経アレンジメントの働きが複合的であればあるほど、そこに広がりを抱えたからだと共に強い空間が立ち現われることになるのではないかと思われます。それが、暗黒舞踏を打ち出した土方の表現が意図するものだったのではないでしょうか。とはいえ、その特異な表現は他の踊り手たちからは際立って見えます。土方の踊りは複雑な動きを自らに課しながらもなめらかであり、そうしたからだ使いが空間の広がりを生み、あるいは空間に溶け入るような踊りを見せています。土方自身は万全を期したでしょうが、「四季のための二十七晩」を構成する五作品にはそれまでの土方の作品には例を見ないほど多数の踊り手が出ており、その内容を「死者」が語る表現とするためには、土方は自ら「死者」であることの設定を演じるばかりでなく、「死者」が語るという<観点>から多数の踊り手を振付けなければならなかっただろうと考えられます。このとき、舞踏符の方法が全面的に採用されたのではないかと思われます。
 以前にも述べたように、舞踏符の方法は、振付けられる側が、transparent、つまり裸の状態でなくては機能しません。振付けられる側が「私」という瘡蓋がむしられた状態にあってはじめて、舞踏符を振付けられることによってそのからだに潜在する神経アレンジメントの働きを開くことになるのです。その結果、踊り手のからだに未規定な多層の空間が呼び出されることになるわけです。この手続きは、土方が自身のからだに向けて振付けるに際しても同様です(ただし、土方はこの時期、芦川羊子という希有の弟子を見出し、いったん芦川羊子に振付けしたうえで、それを見て自身に振付けている可能性がある)。そして、舞踏符の方法が前提とする裸の状態は、「死者」であることの設定が示すものと通じているのです。つまり、五体は「私」が制御できるものでなくなり、「私」の意識はかじかみ、現在から遠のいていなければならないわけです。こうした条件が通ずることから、「死者」であることの設定を通じて舞踏符の方法に拍車がかかり、その果てに、未規定な多層の空間、すなわち<日本人>であるからだに潜在する多層な空間にアプローチできることになった、と考えられるのです。そして結果的に、そこに膨大な未規定の神経アレンジメントが働く領域が発見されたのです。その領域は、舞踏の表現の素材として取り扱われることになりました。言い換えれば、舞踏符の方法を介して、いったん「死者」へと折り畳まれたものが<日本人>のからだの多層な神経アレンジメントの働きとなって押し出されるようにして開かれることになる、そうしたプロセスが見出されたわけです。その発見によって、舞踏符は初めて表現技法となったと言えるでしょう。
 また「死者」であることが自身において設定され、自身の領域において開かれようとも、「死者」はあくまでも向こう側からやって来る。つまり、「私」という瘡蓋をつくり出すものの側からやって来るのですから、その声を「死者」のものとして聞かなければなりません。そうすることで、そこに開かれるものは「死者」であり続けるのであり、その声を聞くからだは半ば流動状態であり続けることになります。こうしたことから、「四季のための二十七晩」で打ち出された暗黒舞踏の表現様式は、「死者」の声、すなわち、踊り手のからだに開かれる<日本人>のからだの多層な<内容>を語らせるための最初の形式として、極めて方法的に展開されたのではないかと考えられます。
「死者」が語るその仕方において、舞踏符の言葉に振付けられた踊り手のからだには、言葉の意味内容によってからだに織り成される表現よりも、言葉によって開かれた未規定の神経アレンジメントの働きがつねに先行して立ち現れ、そこにかえって空間の広がりと強さを示すことになります。そのことが多層な<日本人>のからだの領域として提出されたのが「四季のための二十七晩」の表現だと考えられるわけですが、ただし「疱瘡譚」での土方の踊りが独り際立っていることから、その舞台構成は、「死者」が想い・見る夢のようなものとなっているのではないか思われるのです。たとえば、夢の中でかつて知った死者に出会うとき、私たちはそれが死者と思わずに接し、語らっています。その死者はあり得ない状況において現われ、あり得ない仕方でコラージュされて目の前に現われます。夢における死者との出会いは、そうしたあり得ないものを志向する、夢見る者の<欲望>の現われの一例でもあるでしょう。それゆえ、そこに、ある種の力が支配する夢独自の表現があることがわかります。死者を見る夢はそうした意味で、純粋の<内容>なのであり、それゆえ、強さを孕んでいるのです。したがって、夢という純粋の<内容>を「死者」が語る仕方において表す、といった構成が当然考えられるわけです。
 さらに言えば、「死者」が語るその仕方とは、「死者」が表現することの在り方でもあります。意味内容を指示するはずの言葉が、その意味内容を伝えずにその<内容>を伝えることになる。要するに、つねに神経アレンジメントの働きが先行するため、その<語り>は言葉の記号性を追い越してしまうのです。その<語り>は不分明ではあるけれども無内容ではなく、朦朧としたアレンジメントとなって表現されるのです。たとえばそのことは、老人の神経アレンジメントの働きをみるとわかりやすいと思います。老人の動作は朦朧としてみえる。動作に不要なアレンジメントの働きが混じり、様々なアレンジメントの体制が脈絡なしに立ち現れては消えていくからです。そうした朦朧さが醸し出す魅力、というよりは、そうしたものに魅力を見出すことは、老人の<現前性>であるものを示す「敏捷な構造」をそこに見るからではないでしょうか。老人特有の朦朧とした神経アレンジメントの働きは、はっきりとした神経アレンジメントの働きとは明らかに異なっています。朦朧とした神経アレンジメントの働きが示すものには曖昧さがあるけれども、その曖昧さを構成しているのは、逆に「敏捷な構造」なのです。そこには何よりも、意味に拘束されない広がりが感じられるからなのですが、いったい何がこうした広がりを見せるのでしょうか。
 たとえば、八十七才になる老母が髪を梳く手の動作はまだ正確です。その手つきには曖昧さがありません。とはいえ、その動作は緩慢であり、動きの間に曖昧さが透けて見えるのです。そのとき、髪を梳くその手の動きが母親のものでないことがわかるのです。それは母親が少女時代に見様見真似で習った動きであり、おそらく母親が少女であったときに見たその動きも、それ以前の世代を見て習ったものであるはずなのです。そこに誰のものでもない神経アレンジメントの働きが立ち現れてくるからこそ、このとき、時の流れと共に連綿と続く身振りが抱えるその広がりを見ることができるのではないでしょうか。ですから、「死者」は「敏捷な構造」を朦朧とした動きのうちに示そうとするわけですが、動き自体が誰のものでもなくなることで、その動きに敏捷性を孕むことになるだろう、と思われます。
 土方が晩年になって語った「風だるま」の話には、「死者」が語るという主題が内蔵されていると考えますが、そこには土方がいう「敏捷な構造」のその<内容>も込められているのです。まず「風だるま」という折り目があって、それが「死者」へと収斂されようとする。「死者」はその性格からして、誰でもないという流動性において把握されます。そして「死者」というその折り目は、「死者」が語るという主題を伴って舞踏の表現において新たに開かれようとするのです。そこに、「死者」の設定から舞踏の表現へと展開される過程があるわけです。こうした<観点>からみるとき、おそらく「死者」が語ることをめぐる三つの要点は、「四季のための二十七晩」の舞台を支えるものとなっているのではないかと思われます。そして、これら三つの要点は、いかなる形式へと還元されることがありません。というのも、「死者」が語ることとは、語ること、表現することの<現前性>をこそ示すものであるからです。それが「敏捷な構造」の<内容>でしょう。その<現前性>を前提としているから、舞踏符の方法が誘い出そうとするものがあるわけです。そこに立ち現われる未規定の神経アレンジメントの働きに、土方は舞踏の表現の広がりを見出しました。その広がりは、<日本人>のからだの多層性へと開く広がりでもあったのです。
 最後に言い添えておけば、「四季のための二十七晩」では、土方は大髷を付け、あるいは長髪を垂らし、あるいはドレスを着用し、総体的に女性形で通しています。女性形であるのは、「土方巽と日本人」の舞台から一貫しています。「土方巽と日本人」の時点でまず土方のからだに「姉」へと折り畳まれるものがあったのであり、その折り目が、暗黒舞踏の表現様式と共に「死者」にアプローチする表現へと新たに展開され、結果的に表現内容の広がりを獲得することになったのではないかと考えられるわけです。いっぽうで、それと同時に、踊りにかたちを与えるものとして「姉」という女性形が打ち出されていると考えられるのですが、こうした「姉」という女性形が、そのかたちが、必然的に表現の軸となるのには、まだ検討すべき理由があるのではないかと思います。


 4 暗黒舞踏

 土方は、自分の踊りは悲惨と無知でできているといいます。たしかに、踊りをつくりだすその要因は様々であるのにこしたことはありません。
 ジャン・ジュネは、「恋する虜」の中でベドウィン戦闘員の踊りを描写していますが、それはパレスティナ人に対する憎しみに満ちています。それと同様の、憎しみでできた儀礼の動作を見たことがあります。印パ国境で毎日、両国の国境警備兵が日没の「Retreat Ceremony(国旗下降式」を行なうのですが、その全身張りつめた動作から発散される憎しみは凄まじいものでした。それは、その様子をフィルムに記録した者に、「入念に振付けされた侮蔑を見せる儀礼」と言わせたほどで、まぎれもなく憎しみが支える儀礼動作(私には踊りのように見えた)なのです。
 クリスティーナ・オヨス率いるフラメンコ舞踊団のステージを観たとき、踊り子たちが、あたかもドレスの裾に火がつき、その炎が身に降り懸る切迫感のうちに踊っているように見えました。オヨスはさすがにその炎を身体のうちにとり込んで、切迫感というわずかの隙間感覚も与えないほどの緊張感をたたえて踊りました。フラメンコには決闘場面がよく見られますが、野外での焚火と決闘そして匕首、そうした背景が踊りの核心となっていることもあるのでしょう。
 出所はわかりませんが、土方も興味深い話を伝えています。「かつて中近東の舞踊手はどう教育されてきたか。聞くところによると、舞踊志願者が集まって舞踊特訓を受け、秀れた舞踊家が生まれたんじゃないそうだ。人さらいが村々をまわり子供をかっさらってくる。人さらいの眼力に伯楽の力量があるかないかだ。そして秀れた子供を集め、すぐレッスンするんじゃない。かっさらわれた子供たちは地下室のような闇に放り込まれ、闇の生活をしばらく続けさせる。なぜだって? からだに恐怖をしみこませるのさ。そして十分恐怖を味あわせた後の光の世界に連れ出す。そしてレッスンがやっと始まる。なぜだって? 闇の恐怖がしみこんだからだがあってこそ舞踊の諸色彩がそこに絵付けできるからだよ」(中村文昭「舞踏の水際」)
 おそらく、「闇の恐怖」をカンバスにしてできる踊りもあるのにちがいありません。土方は、東北地方では箪笥の角の装飾金具を間引きの道具に使ったと語っていますが、土方が提示する<少年>というカンバスも、本来そうした悲惨と無知をしみこませているものなのです。
 ベドウィン戦闘員や印パの警備兵の踊りには、くっきりとした形式のうちに、憎しみという<内容>が明確に示されています。中近東の舞踊手のカンバスはまず<内容>の土台となるものとして用意されるのですが、それを展開する踊りの形式のうちに、そこにしみこまされた「闇の恐怖」は逆に<内容>として明確に推し出されてくるのではないでしょうか。
 こうした踊りに共通するのは、それが個人の実現のための表現とはかけはなれていることです。踊りという人間がつくり出した技術の背景には、おそらく個人の実現よりもさらなる広がりが知られているのではないかと思います。悲惨と無知でできている暗黒舞踏には、<日本人>という層をなしているものが歴史事実であることを示そうとする、やむにやまれぬ意図があるのだと考えられます。そうした意図のもとに、わざわざ前近代的な装いを凝らしているわけです。とはいえ暗黒舞踏には、前に例にあげた伝統的舞踊に通じながらも、あくまでも現代の表現であるがゆえに、表現として一歩先んじた特徴があるのではないかと考えます。
 たとえば、土方はその作品を再現しませんでした。ただし、一つの作品を長期間公演しています。つまり、一時に集中的に繰り返して公演しているのです。この公演形態には明確な意味がありますが、ここではそれが再現ではないことを強調しておきます。いっぽう、踊りのフレーズは再現性を意図してつくられていたと考えられます。とはいえ、踊りのフレーズの再現の仕方は個々の踊り手の表現に重点が置かれるのではなく、おそらく個々の作品においてそのフレーズがどんな役割を示すのか、あるいは作品の主題にどう関わることができるのか、といった視点でなされているのであり、そのための、個々のフレーズを設定を変えて様々に組み合わせる、といった再現の仕方があったのではないかと思われます。
 土方が作品を再現しないのには十分な理由があると考えられます。それは土方が、作品の完成度よりも、むしろ踊りをつくりだす要因に終始こだわり、悲惨と無知の<内容>のさらなる展開を意図した表現を、そして何よりも<内容>を表現することのできる方法の発見に注意深く目を向けていたからではないかと思います。
 まず「四季のための二十七晩(1972)」という「死者」が想い・見る夢といった作品があり、次いですぐ翌年に、「静かな家(1973)」という戦争を背景に彷徨う亡霊の作品があり、それぞれの作品において、<内容>を表現する方法の発見に向けて独自に、執念深く模索しているようにみえます。そして、一転して<白桃房>の作品群(19741976)があり、ここでも土方は、一作ごとに、<内容>に関わるための表現方法の発見に努めているようにみえます。短期間のうちに立て続けに作品が発表されたわけですが、何よりもそこには、舞踏符の方法によって見出された未規定なものの処理へのこだわりがみられ、それを表現へともたらす方法の発見に意を尽しているように思われます。「鯨線上の奥方(1974)」に至って舞踏符による舞踏の表現が一応の完成度を見せると、次にはその表現方法をかなぐり捨てて、芦川羊子という踊り手を核とした「景色へ一トンの髪型(1983)」からの一連の作品へと、それまでとは打って変わった新たな表現方法の発見へと、ことさら<内容>にこだわる道を切り開いていきました。それがあたかも暗黒舞踏の宿命であるかのように…。
 こうしてみると、たゆまぬ表現方法の発見が暗黒舞踏の定めなのであり、そこに暗黒舞踏が<内容>をめぐる伝統的な表現の仕方に通じながらも現代的である理由があるのではないかと思います。それに対して、再現可能な表現とは、単に<モダン>の産物であるにすぎないのではないでしょうか。
 <モダン>なものは、「均質で空虚な時間に埋め込まれた新しい意識は、記憶喪失と疎遠の感覚を生み出したが、これは、人が思春期になると幼年時代を忘れてしまうこととまさに同じである。そこには深い裂け目がぱっくり口を開いている」(ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊」)、といった問題を抱えているのです。
 土方の暗黒舞踏は、幸いにもこの問題と無縁なのです。