Thursday, April 30, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


三 能、歌舞伎、舞踏

 2. 歌舞伎

 織田信長は幸若舞を好んで自ら舞い、豊臣秀吉は能を習って自ら舞うばかりか、「太閤能」をつくらせて自身の前で演じさせたといいます。徳川家康もまた能を嗜み、能を幕府の式楽と定めました。
 いっぽう、それまでにない下克上の戦乱期を経験し、その戦乱期の混乱が閉じるのをうけて、都市の民衆の間では未曾有のエネルギーが渦巻いていたようです。慶長九年(1604)八月、家康が京で秀吉の七回忌を行ないます。その際に町衆が繰り出した「風流踊」は、史上空前のものであったといわれます。その様子は、「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を見るとよくわかります。派手な衣装を揃えて着飾り、陣笠のような被りものに扇を手にして群舞する人々、中心には巨大な天蓋が繰り出し、鳴り物や太鼓があり、軍配を手にした様々な異形・異相の風流姿の面々がきらびやかな色彩で描かれています。当然そこには、音頭取りや掛け声もかかっているわけです。中でも目を引くのは踊りのかたちです。一人一人の異なる動きが活写され、なおかつ全体が渦を巻くように描かれていますが、腰を器用に操り、肩を捻り、四肢を自在に踊る姿は、町衆の実に躍動的なすがたを伝える表現となっています。
 その前年の慶長八年四月には、「此頃カフキ踊ト云事有、出雲国神子女、名ハ国、但非好女仕出京都ヘ上ル。縱(タトエ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣装以下、殊更異相也、彼男茶屋ノ女トタハムル体有難シタリ」(松平忠明編集「当代記」)とあるように、いわゆる「出雲の阿国」による歌舞劇が北野社で催されていました。この様子についても、「阿国歌舞伎図屏風」(京都国立博物館蔵)から知ることができます。お国と見られる人物は、「異風ナル」男装をして、大刀をその肩に担いでいます。他には男性が女に扮した茶屋の女役と、道化役で六尺姿をした「猿若」が描かれています。舞台は能形式であり、楽器も、笛、小鼓、大鼓、太鼓を使っています。「茶屋ノ女トタハムル」とは、異形・異相の「カブキ者」が茶屋の女と遊ぶ当時の京風俗で、それを舞台で摸したのでした。ただし、男性と女性の役柄を逆転させて演じているところに、その表現の意味があるでしょう。さらに、お国の舞台を時系列的に描いた「国女歌舞妓絵詞」(京都大学付属図書館蔵)を見ると、ここでも能形式の舞台に、笛、小鼓、大鼓、太鼓が詰めています。その演目は、お国扮する念仏僧で始まり、覆面した「カブキ者」名古屋山三郎の亡霊が来訪すると、一転してお国は女性役となり、最後に賑やかな総踊りで終るという構成になっていて、能の表現形式を借りながらもその内容は別種のものになっているのがわかります。
 お国の「カブキ踊り」の評判とその成功は、若衆歌舞妓、女歌舞妓、遊女歌舞妓などの「歌舞妓踊」を続々と生むことになりました。その舞台の様子の一端も、「四条河原遊楽図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)から知ることができます。舞台上で、揃いの艶やかな衣装を着た踊り手たちが輪踊りしています。一見しただけでは、舞台で踊っているのが女性なのか男性なのかわかりません。注目すべきは、舞台上の踊りの輪の中心に、大仰な床几に腰掛けた三味線奏者がいることです。舞台脇にも何人かの三味線奏者が詰めています。音曲に新しい要素が加わっているのです。
 ここには時代の変動が起きているのを見ることができます。お国という女性芸能者が従来の表現形式をふまえたうえで、男女役を転倒させるという挑発的かつ現代的な内容の表現を提示し、それが京の民衆を熱狂させたのです。京にはすでに様々な芸能者や「カブキ者」が集まり、おそらく豊国祭礼の際に異形・異相の風流踊りの構成要素となっていると思われます。そして、四条河原にはたちまちのうちに諸芸を見せる小屋が立ち並び、京に居着いた芸能者たちが芸を競い合っています。中でも、揃いの艶やかな衣装を着た多数の踊り手で構成される「歌舞妓踊り」が、多くの人々を熱狂させたのです。その「歌舞妓踊り」の主体はといえば、少年・女性芸能者・遊女です。それまでになかった三味線の色彩感に富む音色に乗ってその性的身体をあらわにした踊りは、官能性に満ち満ちていたのです。
 長い戦乱の終息による経済成長、それに伴う急激な貨幣流通、様々な娯楽の集中、さらに海外貿易による異国趣味感覚の流通等によって、都市の民衆の身体感覚はいっきに変動したのです。歌舞伎の表現は、こうした時代の転換を背景にしていっきょに噴出した民衆による官能もあらわな身体感覚を基盤にしているのです。言い換えれば、能の多様な表現空間から演者の官能的身体へと、仮面をつけて偽装した身体表現から生々しい存在を直に感じさせる身体表現へと、その身体表現をめぐってからだの内なる位相(欲望)へと食い入るようにさせる衝動がこの時代にはあり、そうした衝動と共に歌舞伎の表現もかたちを成していったのです。こうした転換期の視点に立って、江戸時代に成立した歌舞伎表現を検討してみたいと思います。なお、歌舞伎に関する史実については、渡辺保著「江戸演劇史 上下」を参照しました。

 1) 江戸期の歌舞伎
 江戸幕府は、あらゆる制度的な面での一元化を進めました。官能性を打ち出す表現は風紀を乱すと同時に、その蔓延は江戸幕府の政治秩序を揺るがす恐れがあることから、「歌舞妓踊り」も統制されることになります。早くも慶長十三年(1608)、前年に伏見から駿府に入った家康が、駿府から女歌舞妓の追放を命じます。寛永六年(1629)には女歌舞妓が禁止され、翌年には男女が交じる興行も禁止となります。そして承応元年(1652)、衆道取締の政策に沿って、若衆歌舞妓もとうとう上演禁止となります。結局、成人男性演者による非官能的な表現以外は道が閉ざされることになるわけですが、江戸時代の歌舞伎二百年の歴史は、幕府の統制に抗する身体表現の歴史でもあります。
 寛永元年(1624)、元祖・猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)が、「能狂言を歌舞伎に取仕組興行致したく」(「中村座由緒書」)と、江戸に猿若座を開きました。これが江戸における歌舞伎興行座の始まりで、自前の劇場を幕府の膝元にもつに至ったという点で、日本芸能史上画期的な事例となります。「猿若」の名は、お国の「カブキ踊り」に道化役・後見役として登場した「猿若」を引き継ぐものであるといい、その演目に「猿若」がありました。その内容は、「前段が伊勢の女郎たちの客引きの物真似で女形である。後段になって岡崎の橋普請の材木を引く音頭取り。これが猿若の本芸である。続いて五段の獅子、鶴の舞。猿若の出から終わりまで唄、三味線入りである」(「江戸演劇史 上」)とあるように、物真似芸ではあるが、女形芸があり、音頭取りがあり、舞がありという風に、従来の物真似芸とは異なっているようです。それは滑稽を売り物にした物真似ではなく、中世の物語り芸とは距離をおいた見世物的な表現になっているようです。そして何よりも、ここに全編、三味線音楽が入っていることに注目したいと思います。
 そもそも、歌舞伎表現の成立と三味線音楽とは切っても切れない関係にあります。三味線は、戦国時代に商業都市・堺で、琵琶法師等が中国の三弦に改良を加えてつくった楽器にその発祥があるといわれます。その三味線が、座頭が演奏する地歌と共に遊里に流れ、それが遊女歌舞妓を通していっきに市井に広まりました。「四条河原遊楽図屏風」に描かれた舞台では、すでに踊りの伴奏に幾棹もの三味線が使われているのを見ることができます。三味線音楽のこうした爆発的な広がりは、当時の身体表現において三味線の音色があるのとないのとでは格段の違いがあったことを物語っています。三味線は、それまでの能管や鼓、琵琶が奏でる音曲と異なり、その音色は色彩感に富み、軽快な副旋律を自在につくりだすことができます。また発声と相乗し、かつ発声と一体化した音曲をつくりだすことができました。こうした三味線音楽がもたらす感覚豊かで身体と相乗効果をもつ音色と共に、まず人形浄瑠璃が生まれ、そして歌舞伎芸能も成立したのです。三味線を伴奏にした「猿若舞」は江戸中の人気を集めたといいます。このことは、「歌舞妓踊り」の官能的な身体表現がかたちを変えて三味線音楽のうちに受け継がれ、翻ってその三味線音楽を介して、官能性を保持するものとしての歌舞伎表現が現れたのではないか、そう考えさせるわけです。歌舞伎表現と三味線音楽とのこの濃密な関係は、後に歌舞伎音楽である江戸長唄を完成させました。また一中節、河東節、豊後節などの浄瑠璃三味線音楽から影響をうけて、歌舞伎表現においてもその展開と並行するようにして、常磐津、富本、清元といった異なる特性をもった三味線音楽の流派が生み出されていきました。その豊穣な音色が、歌舞伎の身体表現を支えていくことになります。
 猿若座以後の歌舞伎表現は、「物真似狂言尽し」、「歌舞伎浄瑠璃」といった風に、幕府の規制をすり抜けるようにして、狂言や浄瑠璃といった物語り的な側面を取り込みつつその表現形態を変化させていきますが、江戸と上方において、現在のような演劇形式の歌舞伎表現として成立するのは、十七世紀中頃から元禄期にかけての頃です。この間に、短い狂言を連続的なものへと演技構成したり、浄瑠璃の長い物語りを役者の身体が実際に演じ通すことで、歌舞伎表現の創造がなされていったのです。この時代にすでに、「荒事」、「和事」等の表現が成立しています。また、「立役」、「敵役」、「女方」、「若衆方」、「花車方」、「道化方」などの決まり役と共に、「和事」の中にも、「やつし事」、「濡れ事」、「口説事」などのカテゴリーができてきます。そこには総じて、演技の型が生まれているのが見てとれます。歌舞伎表現における型の成立は、元禄期以前から元禄期にかけての役者の功績であるといえるでしょうし、彼らが自ら戯曲も書いたことからすれば、主に役者たちがその演技の型を核として歌舞伎という舞台表現を創造していったのです。そのことはすなわち、転換期の「踊り芝居」から役柄を表す演技による身体表現へと、その技芸の質を高めたということができます。歌舞伎表現は、それまでの役者の外見といった感覚的なものを売り物にする見世物ではなく、個々の演技から推し出されてくる表現の意匠、すなわち芸を打ち出す身体表現となったわけです。
 こうして歌舞伎は、主に浄瑠璃の長い物語を枠にした演劇表現として成立したわけですが、それでも総合的に見れば、三味線音楽とその伴奏による舞踊、物真似芸や台詞回しの芸、「荒事」等といった、細部の技芸も交えた綜合芸として元禄期に成立したのです。その表現は、たとえば顔に紅白粉を塗って演じられたように、決して写実的なものではありませんでした。写実的な表現ではないけれども、それは転換期の「歌舞妓踊」に由来する、あくまでも具体的な身体があらわにする表現だったのです。役柄という要素を軸にして、役者の具体的な発声と表情と身振りとが見物の前に打ち出される表現がそこにあったわけです。そして、その具体的な発声や表情や身振りのうちに、現実世界を映し出すような多様な風俗・身振りを取り込んでいるのが、転換期の身体をルーツとしている歌舞伎表現の特徴なのです。たとえば、「六方」のような歩き芸がそうです。「六方」とはもともと転換期の無頼の徒のことをいい、その意は風流などの練り物を繰り出す際の異相や足の踏み方に出自があるといわれます。無頼の徒は幕府によって取り締まられたわけですが、当時、江戸の都市普請に従事する下層労働者の台頭があり、その人目を引く出で立ち、俠気や粗豪の荒々しい気風が舞台に取り入れられ、立役の登場の際に気負ったスタイルで歩く「出端」の芸として「六方」があったといわれます。またそれとは対照的な、願人坊主等の大道芸を摸した、後の「浮かれ坊主」のような軽妙な所作事があったり、また髪結い、畳刺し、風呂焚きなどといった市井の風俗がその身振りと共に舞台に取り込まれました。また、歌舞伎表現の代表的作品である「助六」は、その演目全体が吉原遊郭の描写であり、登場人物の衣装や身振りや台詞回しも含めて、吉原をそのまま舞台上に取り込むようにして再現した表現であることに特徴があります。さらには、「暫」の過剰な衣装と隈取した姿かたちには土着信仰の要素が取り込まれていますし、女形舞踊には女性の身振りが抽象化されて取り込まれています。抽象化されてというのは、女性以上に女性らしく見せようとして、ということです。またさらには、「見得」や「睨み」いった彫刻的な表現手法が取り入れられ、さらに後には、「暗闘(だんまり)」という身振りだけを見せる演出が取り入れられたりして、実に多面的な身体表現となっています。このように、広い演劇形式の中に様々な身振りや風俗を取り込むことができたのは、元禄期に様々な身振りが型として演じられ、身振りを型として定着させていく方法意識があったからではないかと思います。そして、その型が代々継承されていくことで、歌舞伎表現はその表現形式を変えることなく、江戸二百年を生き延びることができたのではないでしょうか。
 歌舞伎表現における型の形成は、身体の官能性として現われるような、からだが抱える過剰なものを表現する、といった志向性が表現者のうちにあったからではないかと思われます。たとえば「荒事」の所作は、過剰なものを身振りの型へと封じ込めるようにしてできています。身体に渦巻く過剰なものを表そうとするのですから、型に封じ込めなければその表現は成り立たないでしょう。なかでも、「引くという動作に「荒事」のエッセンスがあるといわれます。「象引」、「草摺引」、「車引」などの型が伝えられています。「引く」という動作にはたいした動きがないにもかかわらず、そこには力が感じられます。その動作というか、「引く」という緊張を孕んだ身振りにおいて、そこに力が封じ込められているのが実際に見てとれるからです。そのすがたは人の目を惹きつけます。からだ全体に力が拮抗するのがあらわになり、その強度の現われが官能的だからです。そうした観察に長けていた者があり、「荒事」の型がつくりだされたのではないかと思います。そして、最初は現実世界をそのまま写す身振りであったのが、様々な試行錯誤の果てに、力すなわち過剰なものは型に封じ込められることでその背景的なものから切り離され、身振りが推し出す純粋に官能的なものとして方法的に表されることになったのではないでしょうか。転換期の官能的身体のような直接的な表現から変質したとはいえ、それが過剰なものを表現することであるのに変わりありません。
「荒事」を得意とした江戸の初代・市川團十郎(16601704)は、役者としては「異色の出身」であったといわれます。その身体にもともと過剰なものを抱えていたからこそ、それを型へと封じ込め、かたちを変えてその過剰なものに関わる表現ができたのではないかと思います。その團十郎の自作狂言に「参会名護屋」(1697)がありますが、その物語の展開には過剰なものが溢れ、その果てに神話的な時空を出現させているほどです。この物語は後の「歌舞伎十八番」の源泉になっているわけですが、その一部が「暫」になりました。「暫」を演じる役者は、その人間離れした衣装と隈取りをして花道に出るだけで、すなわち観客を前にして鎌倉権五郎景政の型に嵌まるだけで、身も心も別人のようになるのだといいいます。身につけた大仰な仁王襷は一種の呪力を表すともいわれます。「荒事」の型には特異な意義が伴っているのであり、それが能の仮面と一面で通ずるようなものであることがわかります。
 もう一方の「和事」にも型があります。京の初代・坂田藤十郎(16471709)の当り役、近松門左衛門作の浄瑠璃「夕霧阿波鳴門」を歌舞伎に脚色した義太夫狂言である「夕霧名残りの正月」(1678)に登場する伊佐衛門は、かつて遊蕩児であったが、紙子(柿渋を塗った紙製の着物)一枚着たすがたで島原遊郭の揚屋に太夫の夕霧に会いに来ます。「やつし事」です。落ちぶれた姿をした二枚目役ですが、その演技に筋金が一本通っていなければいけないといいます。ここにもからだが抱える過剰なものがあるからです。それは、二年前まで夕霧の恋人であり、夜ごと島原で豪遊していた伊佐衛門の姿です。しかし、その演技の型はといえば、藤十郎が「実事(写実的演出・演技)」について、「おかしき事が実事也。つねにある事をするが故なり」(「役者論語」)という通りで、紙子姿をして、夕霧にのろけて馬鹿のようになっている、という背反的なものです。俗に、「二枚目は三枚目の心で、三枚目は二枚目の心でせよ」といわれます。この一見矛盾するような演技の型によって、逆に「傾城買い」という過剰なものがかたちを変えて推し出されることになるのです。すなわち、演じる役者の身体とその身振りに色気が漂うことになるのです。この色気が、とりわけ大事なのです。「和事」とは「傾城買い」を主題にした芝居であり、そもそも「傾城買い」とは、お国による「茶屋遊び」の物真似から「島原狂言」を経て、転換期から連綿と保持されてきた歌舞伎表現の大きな主題でありました。そこでは現実における過剰なもの(欲望)が型に嵌められることで表現されてきたのであって、そうした手法によって役者の身体が抱える官能的な面、すなわち色気が推し出されることになる、といった仕組みがよく知られてきたのではないかと思われます。
 このように、表現において型が形成されることで、からだが抱える過剰なものは転換期の官能的身体があらわにしていたものからおのずと変質することになりますが、「和事」にあっては、いっそうその内容の変質がみられるように思います。「荒事」を通じて、いっぽうでそれは身振りの型が推し出す純粋に官能的なもの、すなわち力へと変貌していますが、「和事」では、それは個々の役者の演技の型に伴う具体的な色気に変じているからです。この色気が大事なのは、それが役者が舞台で現す存在感を示すものにまでなっているからです。時代は転換期から大きく変わって泰平期に入ったのであり、時代の変化に伴うこうした表現内容の変質が、歌舞伎という演劇表現にまつわる「虚実」の問題を照らし出すことになるのではないかと思います。すでに、坂田藤十郎の先輩役者である杉九兵衛(生没年不詳)の芸論に、「狂言の実は虚よりおこり、おかしき事は実よりせねば、無理あてになる也」(「役者論語」)、とあります。役者が演技する際に「虚」の意識をもっていたのです。つまり、演技は偽事から始まるという意識があったわけです。
 歌舞伎はもはや、能や浄瑠璃のような中世的な物語り芸ではありません。それは幅広い意味での演劇です。物語り芸においてはその表現の形式上、語り手の位置が中心にあり、語り手の時空の枠の中においてすべてが展開されますが、演劇としての歌舞伎にはもうこの枠がありません。枠がないから、その表現は見物と直接に対峙することになります。たとえば、役者は狂言の役柄を演じている最中に見物に向かって口上を述べるなどして、役柄から一転して役者自身の顔を見せたりします。こうしたことは、歌舞伎という表現に重要な局面を与えていると思います。表現のさなかに、虚と実を差異化して見物に見せることになるからです。語り手の枠がなくなることで、虚から実を見せるという事実が前提となったのでした。
 中世的な物語り芸の中で演者が様々な役柄を演じるのと、歌舞伎の演劇形式において役者が役柄を演じるのとでは大きな違いがあります。演劇形式においては、その性質上、役者の演技に具体的な役柄の形象化が要求されるからです。おそらくこの役柄の形象化作業が、転換期の官能的身体があらわにしていたものを変質させることになったのではないかと思うのですが、さらにはこの役柄の形象化と共に、「虚実」の問題も立ち現われることになるのです。物語り芸の形式では、表現を軸にしてその場に立ち現われる想像力が演じる側と見物側共々にとってすべてであり、そうした虚も実も混淆している場に価値が見出されていたのが、演劇形式においては、役者が演じる役柄と見物がそこに観るものは形象的なものへと落下し、そこに演技をめぐる虚と実の区分けが否応なく問題とされるようになるからです。
 見物が観るその形象的なものについていえば、それは二重になっています。一つには役者の演技による役柄の形象化があり、もう一つには演技する役者の形象化があり、二つが重なっているのです。役者の形象化とは、役者が素の顔を消し、また日常的な身振りの癖をなくすなどして、あくまでも芸によって形成される役者のかたちを打ち出すことにあります。ここに役者生命がかかっているといってもいいでしょう。そして、舞台上で役者が自身の顔(素顔ではなく、あくまでも役者としての顔)を現していたことからして、この二重の形象化の間には最初から距離が示され、それゆえ、見物は役柄の形象と役者の形象との距離をも観てとるのです。演技の最中に見物から役者に向かって屋号がかかるのもそのせいです。さらに、この形象化の二重性があることで、後に「ハラ」や「ニン」といった、演技の方法や役向きに関わる概念が生まれることになったと思われます。
 役者が演じる役柄の形象化についていえば、役者は役柄を演じる、すなわち役柄を具体的に形象化させて見せることになるわけですが、次第に個々の役柄の形象に見合った演技の型が生まれてくることになります。というのも、役柄を形象化させて見せようとはするけれども、それを写実的なものとして示すのではないからです。その役柄が、変形された歴史人物であったり、実話をもとにしてつくりあげられた架空の人物であったりするのですから、それは当然です。要するに、役柄を演じるというのは、役者がみずから役柄をつくることであったのです。したがって、その演技が上手いというのは、それらしく演じる、あるいは役柄に真に迫る、つまり役柄を介して見物の感情に触れるということであり、その役柄自体にははなから真実味がないといっていいでしょう。とはいえ、この虚構の役柄をあたかも真に迫るようにしてつくり出すという手法が、演技の型を構成していくことにもなるのです。言い換えれば、役柄の形象化には、まず役者による意を尽した演技による形象化作業があり、それが型となり、その型によって役柄の人物が虚構として形象化されるという手順があると考えられるわけですが、こうした手順を前提にして、「虚実」が区分けされ、また「虚実」入り混じるといった視点も浮上して来ると思うのです。意を尽して役柄を形象化するその意匠にこそ役者の芸が見出されるわけですが、その果ての役柄の形象は見物の感情に触れるとはいえ、あくまでも虚構です。とはいえそこには、役者が意を尽して形象化の作業をする芸()と、見物に作用はするけれども真実味がない形象()との距離感がありながらも、真に迫るというピークにおいてその「虚実」の距離が見えなくなることもあるからです。とはいえ、役柄の形象化作業はその役柄が虚構であることによってはじめて着手できるのであり、虚構とわきまえなければ型も生まれるはずがないのです。演技をめぐるこうした「虚実」については、現在ではこのようなことをいうまでもないほど無意識のうちに理解されていますが、それもこれも歌舞伎表現の成立に由来するわけです。
 歌舞伎狂言に登場する役柄は典型であって、そもそも役柄をその内面も含めて写実的に表現するのではありません。典型を演じることで役者に色気が伴うのであり、また典型であることで見物に虚構である役柄を、虚実の入り混じる<表象>として差し出すことにもなります。典型には真実味がないにも関わらず、それは見物側の感情に触れ、そうした意味で見物側にとって確かな像を結ぶものとなるからです。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」(義太夫狂言。1749に大阪初演)の立役である大星由良ノ助(大石内蔵助/16591703)はそのようにしてできあがっています。その役柄は、現実の人物を基にしてつくりあげられた想像の産物です。この「実よりおこる虚」を、すなわち、役者が意を尽した形象化作業によって見物が共有する像を、<表象>として考えてみたいと思います。役柄が形象化され、ひいては型となって、見物にイメージ(像と力)として保持されるもの、そのような虚実入り混じるものとしての<表象>です。それは中世の見物の想像力が形象へと落下したものといっていいかもしれません。その<表象>は、<表象>であることでつねに同一的なものでなければならなかったはずです。つまり、誰が演じようと、その役柄のイメージ(像と力)は同一的なものとして保持されなければならなかったのです。(大石内蔵助/大石良雄は歴史上の人物であるが、「仮名手本忠臣蔵」が書かれたために私たちはその人物を<表象>として知っているにすぎない)。また<表象>としての像が多くの見物に結ばれることで、見物は役者が演じる役柄の身振りや声色を日常において真似することができたのです。
「虚実」については、浄瑠璃作家・近松門左衛門(16531725)の有名な発言が知られています。「難波土産」(1738)に、「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるものだ。…皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ」とあります。人形浄瑠璃では、人形に息を吹き込むのに、浄瑠璃語りと人形操りの両者が全身全霊をもってします。そうすることで、モノである人形()はあたかも生きているかのようにそこに存在()することになるのです。このような、モノに命を与えようとする「虚実」の手法に関わることで、人形浄瑠璃の技芸は、モノのリアリティと技巧のリアリティとの差異の感覚に触れていたと思われます。どちらのリアリティに偏してもその技芸が成り立たないのであり、それゆえ、その技芸は虚実の「皮膜の間にあるもの」として捉えられたのでしょう。
 歌舞伎には、「人形振り」の演出が元禄期にあったことが知られています。義太夫狂言で、女形が人形の動きを真似て演じたのです。現在でも、「本朝廿四孝」の「狐火」の段の八重垣姫による「人形振り」が伝えられています。演技において自身のからだをモノのように扱うことは、意識とモノとの差異の感覚をそこに生み出すことになるでしょう。その差異の感覚は本質的に無限なものです。それゆえ、からだをモノのように扱う「人形振り」は、人形浄瑠璃が関わる「虚実の皮膜の間」という視点を突破して、そこでは虚実が入り混じり、そのことがかえって役者のからだが潜在的に抱える過剰なものを新たなかたちで示す契機となったにちがいありません。元禄期に三味線音楽が新たな展開を見せ、その新たな音楽に乗った女形舞踊が狂言中に導入されることになりますが、この女形舞踊に、その表現の性格からして、からだの内部に向き合う傾向があったと考えられます。女形については別に述べることにしますが、踊りのような所作事、そして「荒事」は、最初からからだというモノに関わる技芸であったといっていいでしょう。女性の身振りに抽象力を関わらせることや、からだに渦巻く過剰なものを型に嵌めることは、からだをモノのように扱うことに通じているのです。こうした経験が最初からあればこそ、時代が大きく変化しようとも、舞踊や型の在り方は、歌舞伎表現をからだが潜在的に抱える過剰なものに関わらせ続けたともいえます。

 歌舞伎の演技はまず型から入るといいます。「荒事」の一見荒唐無稽な所作も、「和事」の柔らかなからだ使いを介して一見内面的なものを抱えた仕草も、型に嵌め、型を写すことでその表現が成っています。型はまず日常的な身振りの癖をなくす、つまり素の身振りを消して、演技において日常的な神経アレンジメントを見えないようにすることにその目的があります。いっぽう、役柄の型を写すことによって、役柄のかたちや、役柄のかたちが背景とするものをはっきりと示すことができます。そればかりでなく、いったん型に嵌まれば、その後、個々の役者が入念に凝らす形象化作業によって役柄のかたちの変容も見せることができるようになるでしょう。言い換えれば、型に嵌まり、型を写すことは、歌舞伎という演劇表現の手法に深く関わり、そのために型は代々受け継がれ、演技をする際に型から入ることはその技芸の基本となっているわけですが、そのいっぽうで、演技において型を繰り返し写すことで、型に埋没するか、はたまた型から逸脱するか、といった個々の役者の姿勢が目に見えるようになるわけです。型を逸脱する場合には、役柄のかたち以外のものがそこに立ち現れることになります。それは、役柄の形象化作業 → 型の変容というプロセスであり、そこに現われるのは役者の芸であり、型に対する役者のこうした流動的な姿勢こそが役者を形象化するのです。多くの役者芸談が、演技に独自の工夫が必要であると説いているのはそのためでしょう。強いていえば、役柄の形象化に現実味はなく、その演技に変容を抱える役者の形象化の方に大きな意義があるのです。
 歌舞伎の演技が型から入り型に従うとは、身振りや台詞回しに写実的ではない形式的な操作があることを意味しますが、そのいっぽうで個々の役者の芸を通じて型は不変なものなのではなく、型は芸において変容する、そう考えてもいいわけです。そのように個々の役者の芸という流動的な局面があり、そのために型は様々な型へと分岐するものとしてその方向性が見出されていったのではないでしょうか。いわば型自体が別の型を生んでいくわけです。型はこうした意味で、歌舞伎表現の資本といってもいいと思います。資本としての型が、歌舞伎の表現形式には欠かせないのです。
 さて、転換期の官能的身体という視点から歌舞伎表現の原則というものを考えるとすれば、その表現は、からだが潜在的に抱える過剰なものを、役柄の形象化作業 → 型の変容というプロセスにおいて新たなかたちで示すことであり、そこにこそ純粋な官能的身体も役者の存在感覚—色気も立ち現れてくるというものです。こうした点からすれば、演技とはまず役柄の形象化であり、役者の形象化を育むものであるわけですが、それ以上に、過剰なものを型に封じ込める、あるいは存在の強度(色気)を示すという点において、その演技には役者自身の<現前性>が目指されていたのではないかと考えます。それに対して、型が単に<表象—再現前化>となると、その再現前化の作用ばかりがそこに見えて、そこに演じられるのは単に形象でしかない場合もあるわけです。そうではなく、逆説的にも、真実味がない役柄に息が吹き込むこまれる瞬間に役者の形象化が果たされ、そこにおいてこそ歌舞伎の芸が成立していたのです。

 歌舞伎表現を構成する要素は、元禄期にほぼ出揃っていると考えられます。その後の歌舞伎表現は、転換期の記憶が薄れていくいっぽうで、経済的な発展を背景にした都市文化と共に展開していくことになります。歌舞伎が都市にまつわる<表象>を生み出す表現として江戸文化に影響を与えたその現象は、おそらく現代にまで通ずる事態をもたらしているのではないでしょうか。そうした視点から、元禄後の作品を見てみます。
「歌舞伎十八番」の一つである「助六」の舞台には変遷があります。現在では「助六」は一場通しの演目で、花の吉原を舞台とした群衆劇になっていますが、その始まりは、1703年に大阪で上演された「京助六心中」です。元禄以前に大阪で万屋助六の心中事件があり、それをもとに舞台化したものです。これが大当たりしたのですが、その内容は藤十郎の「夕霧」の二番煎じだったようです。都一中(16501724)の浄瑠璃による「道行」の場面があって、それが新鮮だったといいます。その浄瑠璃の評判をうけて、二代目・市川團十郎(16881758)が「花館愛護桜」(1713)で、万屋助六を江戸・花川戸の男伊達・助六として演じました。上方の「和事」であった助六に、「荒事」の要素を加えたのです。これが、いわゆる「助六」の初演です。喧嘩鉢巻で若い衆を相手に尺八を振りあげて花道を出て来るという演出だったといいます。次に、同じく二代目・團十郎が、「式例和曾我」(1716)で、助六を「曾我物」のうちに取り込み、このときの様式が以後踏襲されることになりました。今度は「荒事」に「和事」を交え、黒紋付の着流しに紫縮緬の鉢巻という現在に伝わる蔵前風の扮装で、浄瑠璃に合わせて花道に登場したのです。「曾我物」のうちに取り込むとは、助六実は曾我五郎時到という意味で、いわゆる「綯い交ぜ」といって、「曾我物語」と現実の吉原に登場する人物たちとの二つの世界を交錯させる、江戸の歌舞伎の表現手法を採ったことです。それによって、吉原の俠客の間でなされる「達引(やりとり)」の背後に「曾我物語」の世界が二重映しになって広がり、そのことによって登場人物の人間像に厚みを増し、また「曾我物」が背景とする御霊信仰の深層意識をも含めてより広がりのある時空を暗に見せることができると考えられていました。それは、「仮名手本忠臣蔵」で、「太平記」の塩冶判官惨死の事件と現実の赤穂事件とが重ねられているのと同じです。江戸の芝居は、正月に曾我狂言で始まり五月までその世界を続けるというほど、いわば御霊信仰の強い影響下にあったわけです。また、元禄期までの歌舞伎表現の特徴はそれが科白劇だったことにありますが、浄瑠璃に合わせた助六の花道の出は、科白がないにも関わらず「語り」であるといわれます。身振り・動作の連続において物語を「語る」からです。元禄期を経て、そこには身振りがあらわにするものに関わる表現が復活していることになりますが、その「語り」は、助六の「けれん」味のある身振り・動作の型によって演じられることで形象化されているわけです。さらに、助六の演技に弁舌の鮮やかさが加えられましたが、それも「けれん」味のある身振りとしての弁舌を示しているということです。その後、七代目・市川團十郎(17911859)が演じた「助六所縁江戸桜」(1811)になって、今日の「助六」の原型が成ったといいます。舞台一面に桜を飾り、打って変わって祝祭的な空間づくりになっています。こうした背景には、江戸の贔屓衆の力があったといいます。團十郎の「助六」は、京の「茶屋遊び」に通ずる江戸初期の「湯女通い」がかたちを変えて再現されているわけですが、この時点にいたって、それは江戸の町民の実力を<表象>するものとなっているのです。こうした変遷には表現をめぐる時代の感覚の推移が反映しています。金本位制に移行して江戸が経済の中心となったことで、名実共に江戸は文化の中心になったのです。
 もう一つ、大阪の夏狂言に「夏祭浪花鑑」(1745、京都初演)があります。現在でも上演される魅力的な作品です。元禄期の魚屋の殺人事件を劇化した、初代・片岡仁左衛門(16561715)の「宿無団七」(1698、大阪初演)をベースにして、前年に大阪で起こったもう一つの殺人事件をもとにして書かれた義太夫狂言です。大坂の街を舞台に男立てと義理人情が、果ては凄惨な「殺し場」が、夏祭を背景に描かれます。登場人物の誰しもが過剰なものを抱えており、そのことが江戸っ子とはまた違った大阪人の意気として形象化されています。衣装は夏の単衣、夏祭の風俗と音楽、「殺し場」の本水使いと、随所に夏の季節感が打ち出され、感覚的な効果を狙っているのがよくわかります。「殺し場」は、鮮やかな刺青に深紅の下帯をあらわにし、ざんばら髪となった団七役の役者が、泥場で何度も見得をきりながら演じ、場面は文字通り錦絵のように展開されます。背景に祭りの音楽が鳴り、それと対比するようにして凄惨な殺しが進行するという趣向です。これが大当たりして、いっとき大阪三座が揃って「夏祭浪花鑑」を演し物にしたといいます。折口信夫はその登場人物について、「九郎兵衛(団七)は、浮浪児から拾い上げられて、いかさま師に養われ、その家の娘と野合したという男である。もとより江戸風の俠客ではなく単なる無頼漢である。徳兵衛もまた、堺・住吉の間をうろつく中国喰いつめもので、乞食の仲間に身を落としていた」(「かぶき讚」)と、その上方的な背景を強調し、男立てを打ち出す江戸風の演出を本来とは異なるものとしています。また、彼らは「市井の最下級の無頼漢で」あり、彼らの「じんぎ(辞宜)」といったものが「極めて写実的に」描かれ、「こんな男たちが、薄着・半裸体、時としては全裸になって働く。…汗と脂と血と乱倫と悖徳でこね返す泥まぶれ―だが何処からか、団七の持つ無知にして清浄なものが、すべての道徳を蹴飛して、更に深い人道の涙に人を嗚咽せしめるように流れて来る」(同上)と、当時の舞台の印象を語っています。架空の人物である団七の形象化には、現実における過剰なものがありありと示されています。役者芸談に、「団七の性根は俠客に見えてはいけない。俠客の一足手前で留める」(中村歌六)とあります。団七はあくまでも「市井の最下級の無頼漢」なのであり、それゆえそれは、型に嵌まったような形象ではないのです。過剰なものがあらわになるその姿に、「無知にして清浄なものが…流れて来る」のですから。ここには<表象>が生まれる余地のないほど、現実を掘り下げて深みを備えた形象が表現されていたのです。
 現実の事件をもとにして、いっぽうでは空間的な広がりを見せ、他方では内面的な深みを見せています。「助六」は典型となっており、<表象>としての効果も備えています。そして、ここに歌舞伎表現の形式化が見事に成立しています。いっぽう「夏祭浪花鑑」の方は、局所的な世界模様とその風情や人間味を打ち出した作品であり、その分<表象>にはなり得ませんでした。しかし、現代にいたってもそのままのかたちで演じられているわけです。二つの作品に共通するのは、悪(=自然)の表現が始まろうとしていることです。後に四代目・鶴屋南北(17551829)や河竹黙阿弥(18161893)といった戯曲作者が出てきて、都市の資本制社会を背景にして、世相を反映した金銭をめぐる悪の表現が執拗に展開されることになります。そうした「生世話狂言」や「白浪狂言」の始まりを感じさせる、「助六」には「けれん」味、「夏祭浪花鑑」には「殺し場」があるのです。悪の表現は<表象>を越えた都市特有の主題であり、その表現はひとたび現われると雪だるま式に膨れ上がっていきます。その果てに、一つの金包みをめぐって意味のない殺人が繰り広げられたり、「強請り」や「悪態」が三味線伴奏付きで唄いあげられるといった様式ができあがりました。悪の表現は官能を装うのです。

 歌舞伎はその二百年の歴史において型を積み上げてきました。新たな戯曲によって新たな型が生まれ、その型がまた型を生み、なおかつ型は細かく分岐していくという、型という資本を生み出すシステムが歌舞伎表現においてできあがったのだと考えます。いわば、手元にある型を写す手法によって表現が成り立つようにしてきたわけです。そうした意味で、型はストックであり、いわば歌舞伎表現の資本に他なりません。それに対して、次から次へと出て来る個々の役者の表現は、一代で現われては消えるという意味でフローなものです。とはいえ、役者の形象化、ひいては歌舞伎の芸はこのフローなものに支えられており、そうであれば、型であるストックと個人の表現であるフローがあって歌舞伎の表現を成立させていることになります。けれども、そのストックとフローの比率、すなわち<型/個人の表現>の比率が、歌舞伎の表現では極めて高いといえます。そして、現在においてもこの比率が高いのが伝統芸能の特徴なのです。表現において型の比率が高いこのシステムは、明治維新後の歌舞伎表現を行き詰まらせることになりました。型に嵌まった身振りや演技は、江戸期という狭い時空でしか像を結ばない<表象>と共にあったからです。<表象>する力のない型は抜け殻のようなものです。それゆえ、もはや型をからだで知るということは困難になりました。型をからだで写すのに理解をもってするというのは、それはまったく別事なのです。