Saturday, May 16, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


  三 能、歌舞伎、舞踏

  2. 歌舞伎
 2) 女形について
 歌舞伎表現に大きなダメージを与えたのは明治維新による文明開化です。髪型や衣装がいっきに変わり、街の風景も価値観も短期間に大きく変わりました。こうした変化によって歌舞伎表現の型はその意味を成さなくなり、その表象力も失われたのです。役者の演技も、演技に伴う色気も、おそらく本物の虚構となったでしょう。歌舞伎の表現が現実を写すものとはならず、役者の芸は誰しもが認めざるをえない虚構となったのです。というのも、近代化に拍車がかかり、西洋的な合理主義が幅をきかせるようになって、その表現は逆に現実社会から区切られるものとなったからです。歌舞伎が蓄積してきた資本は前近代的な遺産であったから、資本を活用するそのシステムを変えるのは容易ではなかったと思われます。そのため、それまでの前近代的な形象をただ額縁的に表現することによって、歌舞伎の表現は形骸化したのです。そうしたなかで、女形の表現だけは形骸化から逃れたのではないかと思います。女形の表現は、その型が蓄積されてきたというよりも、それより以前から継続する<欲望>を受け継ごうとする志向がかたちになっている、そう思われるからです。たとえば世阿弥の能の表現が抽象力に関わろうとするのと同様に、女形の表現は男性が女性以上に女性らしく見せようとすることにおいて、からだが孕む抽象力に関わる表現だといえるでしょう。
 歌舞伎表現における役柄の形象化が虚構であることは早くから「女方」の存在があることから知られますが、それにもまして男性が女性以上に女性らしく見せるというのは虚構の粋といえるでしょう。女形においては、最初から純粋に虚構であることの意識が芸を構成しているのです。女形は、そうした虚構性を条件にしてからだが孕む抽象力に関わっているといってもいいでしょう。それゆえ、女形という役者の形象化には独特の姿勢と方法があることになります。
 たとえば、初代・芳沢あやめ(16731729)は、「女形はがく屋にても、女形といふ心を持つべし。辨當なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、扨(さて)やがてぶたいへ出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆゑ、たがひに不出来なるべし」(「あやめぐさ」)、と語っています。彼は舞台の外での振舞いにおいても女形であることを意識せざるを得なかったのです。そうでないと、女形役者としての「色がさめる」ともいいます。さらに初代・瀬川菊之丞(16931749)になると、日常生活においても女装で通したといいます。いっぽう、坂田藤十郎は日常でも極力男らしく振舞い、そうすることで立役の芸を磨いたといわれますが、女形が日常を女装で通すのは、それと同じようでいて実は同じではありません。というのも、男性が女性らしく暮らすことには無理があるからです。それは自然に反しています。とはいえ、そうした無理が女形の方法の始まりであったのであり、そのようにして自らからだに虚構を強いることが、逆に女形をからだが孕む抽象力に関わらせているのだともいえます。こうしたことからすれば、女形役者の形象化の方法は立役とはまったく異なっているのです。
「おやま」とは本来は遊女の古称です。初期の歌舞伎の「女方」は主に傾城役であり、そこから女形の俗称になったといわれます。それで、女形の成立、その虚構性への関わりについて考えるためには、ふたたび転換期に戻って考える必要があるでしょう。女形が関わろうとする抽象力が、具体的には転換期の官能的身体があらわにしていた表現に由来するのではないかと考えられるからです。
 織田信長は、尾張・津島の盆踊の際に行なわれた風流踊に、天人に扮して「女踊」を踊ったといいます。下克上の時代を象徴する信長は青年期からその異装で知られ、「カブキ者」に相当する一面をもっていたのです。名古屋山三郎(1572または15761603)という人物がお国の舞台に亡霊役で登場しますが、彼は実在した戦国武将であり、その異装から「カブキ者」といわれ、かつ美少年であったようです。戦国時代は、いっぽうで信長の小姓である森蘭丸が美少年として名を馳せた時代でもあります。戦国時代も終わって時代が転換期に入ると、「若衆」という、武士や僧侶を相手に遊ぶのを業とする少年たちが現れました。先に「若衆歌舞伎」があって、その中から「若衆」が出て来たのか、それとも「若衆」のなかでも容貌の優れた少年のみを取り集めて「若衆歌舞伎」が始められたのか、その経緯はわかりません。お国の「カブキ踊」をうけてまず「女歌舞妓」が起こり、同じ頃に「若衆歌舞伎」も起こって、京の民衆の人気を集めたのです。ただし、「女歌舞伎」にしろ「若衆歌舞伎」にしろ、どちらにおいても役者は売色を兼業していたようです。
「若衆歌舞伎」は、歌舞や滑稽な物真似をするのに少年が女装をして演じる芸の始まりです。女装した「若衆」が見せるその姿態に見物が熱狂したのです。いっぽうの「女歌舞伎」の役者たちも、そのほとんどが男装して演じていました。女性芸能者が男装するのは中世の白拍子の伝統をふまえていると思われますが、「若衆」も女装して演じていたことからして、この転換期の舞台にあっては、男女の区別のなさのうちに身体の官能性が打ち出されていたことがわかります。男女という対の概念が取り払われ、男でも女でもない独特の魅力を打ち出した所作事が演じられたのです。それゆえ、演じるのは当然に若い身体でなければならなかったでしょう。
「若衆歌舞伎」が禁止されると、次は「物真似狂言」と名を改めて幕府の許可を得ることになりました。この「物真似」の語は、模写を意味するというよりも「似せる」の意であり、似せ事=偽せ事、すなわち虚構に近いといいます。狂言を演じる際の「虚構」意識がすでにここに示されているわけです。この「物真似狂言」も上方が始まりで、美少年は見物を惑わすから額髪を剃り、茶筅髪を結った野郎姿で舞台に出ました。そして「女方」はといえば、月代の上に手拭いを置いて月代を隠し、女性に似せて演じたのでした。これを「野郎歌舞伎」といいます。ちなみに美少年の魅力について、たとえば、「脇ふさげば雨ふり、角入るれば風立ち、元服すれば落花よりはつれなし」、といわれます。ここでは、年少の頃は匂うような容姿であったのが、やがて着物の脇がふさがれて肌を垣間見ることができなくなり、前髪に角を入れて額を剃り、元服すればただの野郎頭となって、少年の魅力が失われる、そう歎いているのです。「少年愛」は古今東西に普遍的な現象ですけれども、俗に「少年の命は夏の一日」といわれるように、「若衆」の外見的な魅力はいったんピークに達するや、その後は落花のごとくであったのでしょう。
 初期の「女方」の演技がどんなもので、見物の反応がどうであったかといえば、女形の租と伝えられる村山左近(生没年不詳)と、その弟子右近源左衛門(1622〜没年不詳)について、次のようにいわれています。
「村山左近は、髪を鬱金色の練絹で長く包み、女姿で、短冊をつけた花の枝を持ち、三味線入りの唄で踊りを踊って、たちまち満都の人気を博した」(「江戸演劇史 上」)。しかし、寛永十九年(1642)、村山座の興行半ばに、町奉行から「男子を女子に仕成し、物真似致させ、なまめきし事致間敷候事」というお達しがあって、興行が禁止されました(同上)。「女歌舞伎」に似た「なまめかしさ」がそこに見られたからです。いっぽうの右近源左衛門は、慶安二年(1649)、彦作座の演目「海道下り」で「三十歳ばかりで女の姿になり、二人の少女を従えて東寺の野に若菜摘みに出る。そこへ好色な大名が来て酒宴になり、源佐衛門は道行を舞う。その美しさに満員の見物は『生るは死ぬるは』と叫ぶ声、そのどよめき雷のようだったという」(同上)、とあります。
 姿態の「なまめかしさ」や見物の「生るは死ぬるは」のどよめきから、男性が女装して演じるそのすがたに、「若衆歌舞伎」から根強く受け継がれる官能的身体があらわにするものの一端が知れます。それは男とも女ともいえぬ未分化な性的魅力であり、若い身体に特有のものなのです。したがって、右近源左衛門が三十歳でそのような魅力を見せることができた「女方」の芸に注目すべきでしょう。
 泰平期に入って歌舞伎が演劇形式の表現として成立すると、女形が定着し、その演技も型において形象化されてきます。元禄期以前からの名女形である荻野左馬之丞(16561704)は器量は良くなかったけれども、その芸は見物をして、「肥前瘡を熱湯にてたでるに等し」(同上)、そう言わしめたといいます。すなわち、痒い疥癬を熱湯の湯気にあてて蒸すときの、肌がうずくような快感を見物に与えたというのです。外見的な魅力のない分その芸は姿態というよりも身振りにあったのであり、男性が女装して見せるだけでなく、女性の身振りをする芸のうちに何ともいえない官能的な表現があったのでしょう。
 初代・芳沢あやめは舞台の外においても女形であることを意識していたばかりか、「平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし」(「あやめぐさ」)、と後輩に向けて説いています。その芸は、科白まわしと身のこなしの演技にあったといいます。彼はその頃の多くの女形同様に色子(男娼)の出であったから、女性に似せた仕草を早くから身につけていたのかもしれません。所作事(舞踊)よりも地芸を良くし、女性の情を表現する地味な芸風で評判だったといいます。ちなみに色子は稚児の流れをうけた習俗であり、虚構の形態ではありません。
 それに対して、上方随一の名女形といわれる初代・瀬川菊之丞は、舞踊の基礎を築いたことで知られます。彼は日常生活も女装で通したことから、女性として暮らすことで、男性でありながら男性の神経アレンジメントを極力打ち消そうとしたのだと思われます。そのからだには代わって、男性が女性を取り込もうとする、というか女性を区別しない神経アレンジメントが立ち現れてくるのではないでしょうか(※ここではあくまでも江戸期における都会の洗練された生活環境を条件に考えている)。女性としての生活をするとはいえ、それで女性特有の神経アレンジメントがからだに立ち現れてくるのではないからです。とすれば、所作の連続で成り立つ舞踊を構成するのに、女性の身振りを取り込むとはいえ、それは男女の区別のないような、いわば男女に未分化な神経アレンジメントを軸にして演じられたのではないかと思われます。そうであれば、女形のからだが孕む抽象力が、男性が女性の神経アレンジメントを取り込もうとしてそこに立ち現われる男女の未分化なかたち、そうしたものとして表されることになったのではないか、そう考えるわけです。そして、そのかたちはといえば、中性的とか両性具有的とかいうのではなく、<若さ>をおいて他にないだろうと思います。たとえば、芳沢あやめは、「女形といふもの、たとへ四十すぎても若女形といふ名有。ただ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそ()はりたるにて、花やかなる心のぬけぬやうにすべし。わづかなる事ながら、此若といふ字、女形の大事の文字と心得よと稽古の人へ申されしを聞侍りし」(「あやめぐさ」)、と語っているからです。女形にとって、役者の形象化もさることながら、何をおいても<若さ>が命だったのです。
 瀬川菊之丞も色子の出であるけれども、外見が人並みだったので二十代で役者を一度廃業しています。いったん日常生活を経験したため(これは男との生活だった)、女形という存在が現実とは相容れない虚構であることをよく知っていたといわれます。言い換えれば、女形の芸が、虚構を自らに強いることによってからだが孕む抽象力に関わるものであることを彼は理解していたのです。そして、そのことを敷衍すれば、江戸期の女形は男性が女性を演じるという虚構を生きることになるけれども、それは男性でありながら自らのうちに女性を区別しない神経アレンジメントを軸にする生活と共にあり、そのことはいわば男性が自らのうちに女性をも含んだ生を演じることだったといっていいでしょう。その結果、男性という個人的な生の境界を取り払うことになったと思われます。そして、そうした個人的な生を逸脱するところにこそ、女形の表現の可能性が見出されたのではないでしょうか。男性が女性以上に女性らしく見せるという点で女形は虚構性を条件にしているとはいえ、女性としての生をも生きようとするという点において個人の生を逸脱して表現することができるという、そのような芸を志向する<欲望>に沿うような現実性がそこにあったのではないか、そう考えるわけです。もとをたどればその表現は、転換期という数少ない契機における男女の区別のなさにおける官能的身体にあるでしょう。立役が漂わせる色気も転換期の官能的身体に基づいていますが、女形は、色気という個人的表現をも踏み越えて大きく逸脱していったのです。立役が型に嵌まることで役者としての形象化を実現するのに対して、女形は型に嵌まることで逆に個人の生を逸脱していくのです。そこには男女の未分化な神経アレンジメントの働きが息づいているでしょう。そのような個人の生を逸脱した、ある意味では自由な場において女形の芸が生まれ、女形役者の形象化がなされることになったのです。それゆえ、女形がその芸において実現する<若さ>には、個人の生を逸脱することによる、より意識の深層に触れるような身体表現があったのではないかと思われます。
 転換期特有の開放感覚は「カブキ踊」を生み、さらに女性が男装し男性が女装するという「女歌舞伎」や「若衆歌舞伎」において、男女の区別のなさにおける身体の官能性が打ち出されました。しかし、歴史において開放期はつねに短い。傷口が瘡蓋へと塞がれるようにして開かれたものはすぐに閉じられるのです。けれども、開放感覚が泰平期へと閉じられるとはいえ、かつて開かれたものをめぐる記憶は<襞>となってからだのうちに潜在化することになったと考えます。そして、その<襞>は、次元を変えてふたたび開かれようとするのです。すなわち、男女の区別のなさにおける身体の官能性は、女形という虚構の生の形式において、からだが孕む抽象力に関わることを軸にして展開されるようになったのです。転換期の開放期に開かれそこに立ち現れたものは、泰平期になって一転して女形の芸という異なる次元において(個人の生を逸脱する次元において)、からだが孕む抽象力として立ち現われることになったのです。そして、その抽象力は、演技すなわち役柄の形象化においてではなく、所作の連続において表現される舞踊によってさらに開かれ、その果てに女形舞踊という新たな表現形式を生み出すことになりました。女形の実現がそこにあると思われます。女形が男女の区別のなさにおける官能的身体を潜在的に抱えるとすれば、その表現は女性以上に女性らしく見せるということにあるわけではなく、官能的身体というからだに潜在するものをふたたび開くことにあるでしょう。そのことが、虚構の女性というかたちにおいてなされるという条件がそこにあるだけなのです。女形舞踊には女性の身振りが取り込まれているけれども、それは女形を女性らしく見せるという以上に、その身振りは抽象力そのものへと昇華された表現となっているのです。

 歌舞伎表現における女形舞踊は独特な位置を占めています。もともと歌舞伎表現の構造は立役によって支えられ、女形はその構造の一端に役割を占めていただけであるわけですが、後になって立役の役者も女形舞踊をするようになるのは、そこにからだが孕む抽象力がありありと示されているからであり、その表現価値が見定められたからではないかと思われます。早くから女形舞踊に「変化舞踊」という様式ができましたが、その様式が後に歌舞伎表現において独立した作品となっていったのをみれば、そうしたことがわかると思います。
 まず長い狂言の演目の一部に舞踊が挿入されました。そのことによって狂言の展開に広がりを見せることができるようになったといいます。舞踊を挿むことによって、歌舞伎表現が音楽的な身体表現を基調にするものとなったのです。こうした舞踊による表現の革新には、ことに元禄期からの三味線音楽の展開が欠かせません。
 宮古路豊後掾(生年不詳〜1740)は浄瑠璃太夫で、都一中の弟子になります。彼の創始した豊後節の流行によって三味線音楽は一変したといいます。さらに豊後節の流布という基盤によって歌舞伎舞踊も一変することになりました。その流行については次のようにいわれます。「豊後節の流行はその風俗にも及んだ。豊後掾の風俗を真似て、髷の腰を直線で上に突立て、巻鬢と称して鬢の毛を下から上へかきあげて月代の際で巻き込んで結ぶ。このヘアスタイルに、着物よりもちょっと短いと思う程度の長い羽織を着た上に、羽織の紐を小さく結んで長く下げる。これに小刀の落し差しだから、一見だらしがないほどのゾロリとしたなりである。これを『文金風』といった」(「江戸演劇史 上」)。大店の若旦那、といった姿が目に浮かびます。豊後節は都市のファッションに影響を及ぼすほど人々に感覚的な作用を与えたのです。豊後節はそれまでの長唄や竹本といった三味線音楽の形式に比べて、時代の風俗により敏感であったのです。そのため、豊後節を介して時代の流行曲を歌舞伎舞踊にも取り込むことができたわけです。さらに豊後節から出た流派に、常磐津、富本、新内、清元などがあり、「常磐津は古風で豪宕、タッチが太く、富本は優雅典麗、繊細で細いタッチ、新内は官能的で煽情的である」(同上)、といった音曲趣向の違いが現われるようになりました。三味線音楽がより豊かになり、それと共に音曲の広がりができたのがわかります。こうした新しい音曲と共に、ことに初代・瀬川菊之丞と初代・中村富十郎(17191786)の二人の女形によって、「音楽に乗った舞踊による新しい身体が成熟した」(同上)のです。
 音曲は感覚的なものであり、それはおのずと女形には欠かせない<若さ>と同調し、その抽象力にかたちを与えることになっただろうと思います。また、音曲による感覚作用、その官能性は、女形の生をさらなる逸脱へと駆り立てたかもしれません。音曲の豊かさと共に、女形の芸も成立したのです。たとえば、女形の先達である「芳沢あやめのせりふ中心の身体とくらべて、菊之丞の身体はせりふのない舞踊的な動きと思い入れのものであった…。この時点で女形の身体は大きく変化したのであり、それはまさに『女方』から『女形』へという呼称の変化に比例している」(同上)、といわれます。
 初代・中村富十郎は、初代・芳沢あやめの三男で、十歳のときに色子として舞台に立ちました。舞踊に天才的才能を示したといいます。とんぼ返りを打つなど身が軽く、晩年まで若い役者に劣らぬ身の軽さで見物を驚かし、それでいて息切れ一つしないほどの身体的な柔軟さと強靭さとを備えていたといいます。その<若さ>について、たとえば次のようにいわれています。「元禄時代の女形四天王はいずれもその器量のおとろえを克服することができなかった。左馬之丞やあやめでさえ晩年は苦しんだのである。それを克服したのは初代・菊之丞と、それに続いて富十郎であった。彼らは気量が衰えても美しく見せるだけの美学をもった。その美学の中核は踊りである。踊りによる身体の改造であり、形の美しさであった。菊之丞がお染やお七で大当たりをとったとき、富十郎は四十歳から四十一歳である。しかも富十郎は年ごとに若くなる、逆に年をとるといわれたのである」(同上)。ここでいわれる舞踊による「身体の改造」とは、前に述べたような、男性である女形が自らの神経アレンジメントを男女の未分化な領域へと開いていく、そのような神経アレンジメントの操作にあると考えられます。
 中村富十郎の舞踊で画期的な作品が、現在にも伝わる「娘道成寺」です。「娘道成寺」は「男伊達初買曾我」の三番目で、外題「京鹿子娘道成寺」として宝暦三年(1753)に初演されました。もともと能の「道成寺」(鬼女物・作者不詳)を原作とし、それまでにも「娘道成寺物」と呼ばれる演目がいくつかありましたが、現在までその曲目と振付けが残っているのは富十郎のこの「娘道成寺」のみであるといいます。それは女形舞踊の始まりといってもいい作品なのです。たとえば、菊之丞の「百千鳥娘道成寺」は舞踊を含みながらもその構成は物語であったのが、富十郎の「京鹿子娘道成寺」は各段に当時の流行唄を組み込んだ歌舞によるメドレー形式という構成になっていて、明らかに作品全体が舞踊化されているのがわかります。その内容は現在においても舞台を観れば知ることができますが、まず「道行から能がかり、それがくだけて『鐘に恨みは数々ござる』。さらに一転して当世風の手踊り『いわず語らぬ』。リズミカルな鞠唄、姿の一変した花笠の『わきて節』、さらに『恋の手習』のくどき。ふたたび一転して壮大な山づくし。ふたたび当世風の手踊りという風に、各段が独立した細部の集りである。その取り合わせが対照の妙を生んでいる。(中略)…『恋の手習』のくどきは三つの唄から成り立つ。最初は『恋の手習』の少女の唄、次は『末はこうじやにな』の遊女の唄、最後は『ふっつりりん気』の人妻の唄。三つの唄は多分独立した唄を寄せ集めたものであり、それがどう見ても一つの曲に思えるようにつながっている」(同上)、というものです。場所は紀州・道成寺で、全山に桜が咲き誇り、その満開の花を背景にしてひたすら一人の女性が踊り続けます。一時間近くをほぼ一人で踊りきるのです。歌舞伎舞踊の頂点をなす作品といわれ、女形は科白を語る役柄を演じるのでも、「道成寺」の物語を表すのでも、芝居をするのですらありません。「ひたすら一人の女が桜の下で踊り抜くという放縦といってもいい官能、ほしいままに享楽的な気分」(同上)に満ちた作品がつくりあげられたわけです。また、その踊りの振りに何らかの意味が込められているというわけでもありません。富十郎は、複雑な振付けで踊るとそこに意味が生じてしまい、意味が生まれることによって「踊りの実体」が失われてしまうと考えていたといいます。女形による、そのからだに孕む抽象力の実現がここにあると思います。そして「踊りの実体」、すなわちからだの抽象力に関わることにおいてこそ、自ずとそのからだに蛇体という異形のものも立ち現れて来るのです。それは女形の抽象力を掘り下げることによる自然力=潜在的なものが立ち現われることの表現なのであり、それは得体の知れない官能性を孕み、また<死者>にも通ずるものとして立ち現れてくるのではないかと考えます。そうしたことすべてが、白拍子の「横笛」が踊りながら釣鐘へ向ける幾度もの視線から感じられます。白拍子は中世に男装して舞を舞った女性芸能者(であり遊女)ですが、その役柄を男性が女装した女形が演じるわけです(「娘道成寺」では烏帽子を着けるだけで白拍子を表している)。こうした複雑な設定は「道成寺」が能に由来しているからですが、歌舞伎の女形舞踊の表現と共に作品全体が音楽化し舞踊化したことにより、女形の関わる抽象力がかたちとなって表され、その主題がより明らかになったともいえるのではないかと思います
 富十郎の「京鹿子娘道成寺」以前に、すでに述べたように、「変化舞踊」という女形舞踊の独自の様式がありました。一人の女形が次々と異なる役柄に扮して踊るもので、一曲ごとに衣装、伴奏の音楽ジャンルも変わります。元禄の水木辰之助(16731745)に「七化け」があり、初代・瀬川菊之丞にも「七小町」があったといいます。しかし、中村富十郎の「娘道成寺」によって、舞踊の変化の展開の仕方が「俳諧のつけ合いのような」洗練された構成になったといわれます。こうした洗練が、四代目・岩井半四郎(17471800)や三代目・瀬川菊之丞(17511810)へと受け継がれ、文化・文政の「変化舞踊」大流行の基礎になったといわれます。たとえば、よく知られた作品として、長唄舞踊の「汐汲み」(1811初演)や「藤娘」(1826初演)があります。様々な短い踊りを組み合わせて全体をつくり上げるという作品展開の仕方は、もとはといえば、「娘道成寺」のメドレー形式の構成に端を発しているわけです。したがって、このメドレー形式という発想は恣意的なものではなく、意識的にであれ、無意識的にであれ、そこには部分から全体を構成するという表現手法を明確にみてとれます。
 最後に付け加えれば、からだが孕む抽象力とは過剰なものであり、ことに女形がその過剰なものに関わることは、男性が女性を演じるという虚構的身体を介して関わざるを得ないゆえに、またその神経アレンジメントを介して男女の未分化な意識領域に関わらざるを得ないゆえに、自ずとからだのモノ性に関わることでもあるといっていいでしょう。意識が、意識とモノの差異に関わることにおいては、自ずとそこに無限を開く傾向があります。それゆえ女形の表現は、たとえば「八百屋お七」にしても「お染め」にしても、見物に<表象>として結ばれることが幸いにもなかったのではないかと思います。

 個人の生を逸脱するということにおいて、女形の芸は歌舞伎の表現の中でも、芸のストックに対する個人のフローの比率が高いといえるでしょう。昭和期になって、六代目・中村歌右衛門(19172001)や五代目・坂東玉三郎(1950)という希有の表現者が出て来たのは、歌舞伎表現の凋落に抗して、こうした個人のフローの比率を高める傾向に従っているからだと思われます。中村歌右衛門は、女形が関わる抽象力に初めて個人的な表現を与えたといわれます。歌右衛門は女形でありながら、立役のように舞台の中心に立って女役を演じたのです。歌右衛門の個性的な芸態に比べれば、いっぽうの玉三郎の芸態は古風にみえますが、それだけに、転換期に始まって江戸期に実現し、明治期の凋落期を耐えて現代にまで生き延びてきた、女形の芸をまざまざと見る思いがします。
 こうした女形の表現者が出て来たおかげで、近代になっても歌舞伎表現はその生命を維持することができたのではないでしょうか。現代の歌舞伎に女形の役割がなかったら、つまり、歌舞伎が男女が演じる演劇であったなら、これほど世界に好評を博すことがないにちがいありません。歌右衛門や玉三郎の女形の芸には<若さ>が保たれています。<若さ>は世阿弥の「花」にも喩えられますが、それよりもそれは生き生きしたもののことであり、喩えていえば、魚がぴちぴちと跳ねる活きの良さを示しているでしょう。富十郎ではないけれども、年を重ねるほど神経の働きは逆にぴちぴちとしたものになってくることがある、そうしたものなのです。「女方は歌舞伎の花である。老練な偉大な女方が必要な一方で、莟の花の若女形がゐなければ、歌舞伎は成り立たぬ。(中略)…世阿弥以来、日本の芸道は、少年の『時分の花』と、老年の『まことの花』とが、両々相俟って支へて来たのである」、と三島由紀夫が書いていますが、「時分の花」には言うに及ばず、「まことの花」にも<若さ>がなければならないのです。<若さ>は「時分の花」における特権ではないのです。