Sunday, June 14, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


   三 能・歌舞伎・舞踏

 3 舞踏

 1960年代に始まる暗黒舞踏の表現は、70年代になって様々な流派を生み出して現在にまで至っていますが、ここでは土方巽の舞踏の表現に限って記述することにします。

 1) 初期の表現
 土方巽が踊りを始めたのは戦後すぐの秋田で、まず「ノイエ・タンツ」を習っています。少年の頃に学校で石井漠(18861962)の踊りを見て「いいなあと思った」のがその理由のようです。その後、上京を繰り返し、1953年頃から在京して「安藤三子舞踊研究所」に入門します。その年の二月に東京地区でのテレビの本放送が開始されると、テレビのダンス・ショーに出たり、研究所が発表する舞台に立つようになりました。そして、1959年の「全日本芸術舞踊協会・第六回新人舞踊公演」で男色を主題にした作品「禁色」を発表します。「子供の父兄から文句が出」るような、それは侵犯的な作品でした。日常的なものを侵犯するという意味での侵犯性が、初期の土方の表現を貫いています。
 敗戦を挟んで日本の政治体制は大きく変わりました。立憲君主制から民主制になり、占領国であるアメリカの主導により、治安維持法と特高警察の廃止、財閥解体、労働組合法公布、婦人参政権、農地改革、教育改革等が、短期間のうちに次々と実施されました。このときも敗戦という大きな傷口はたちまちのうちに塞がれたわけですが、私たちが知ることができるのは、多くの人が敗戦後の混乱を体験し、その体験がその後の経済成長と共に記憶の底へ折り畳まれることになったということです。いっぽう、世界的な現象として共産主義が台頭し、資本主義と対峙する冷戦状況が主に資本主義社会において第三極を生み出すことになりました。様々な局面において反体制的姿勢が表明され、既成概念を破壊しようとする運動が起こり、こうした動きが瞬く間に世界中に広がったのです。芸術の分野においても、従来の表現形式に抗してアヴァンギャルド芸術が起こり、ネオダダ、ハプニング、アンダー・グラウンドといった非—芸術を称する活動が、日本を含む世界各地に立ち現れました。中でも「ハプニング」はアメリカ人のアラン・カプロー(19272006)が提唱かつ実践し始めたもので、彼とその賛同者は、ギャラリーや市街地で非再現的で一回性のパフォーマンス・アートや作品展示を行ないました。その最初は、1959年にニューヨークのReuben画廊で行なわれた「18 Happenings in 6 Parts」で、「ハプニング」の語はこの作品に由来します。タイトルにある「Happenings」は、アーティストの表現行為には明確に系統立てるものがなく、行為のさなかに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こる(happen)もの」を指し示すための語であったといいます。とはいえ、その表現行為は二週間前から入念にリハーサルされていたといいます(RoseLee Goldberg Performance Art)
 カプローの「ハプニング」定義は、「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」(ウィキペディア)というものです。それは、「進行中の芸術作品」であり、また、「ハプニングと日常生活との境界は、できるかぎり、流動的で不明瞭であるべきである」(Wikipedia)ともいわれています。一般的には、「ハプニングはどこでも起こり、非線形的な物語と観衆の積極的な参加を伴う多角的な性格のものである。ハプニングに不可欠な要素は設計されているけれども、アーティストが即興する余地は失われてはいない。ハプニングのこうした新たなメディア・アート的な局面は、作品とそれを鑑賞する者との間の境界を取り払うことになる」(同上)とされています。このように、「ハプニング」の実践は最初からきわめて理論的に提示されたわけですが、作品形式を自ら否定するので、その作品は写真や映像による記録、あるいは証拠としてしか遺りようがありませんでした。カプローの提唱後、特に「ハプニング」を実践するアーティスト集団が形成されることはなく、また「ハプニング」宣言が唱えられたり、その種の雑誌が発行されて喧伝されることもなかったのですが、「ハプニング」の語だけは遺ったのです。そして、結果的に「ハプニング」の語は、カプローの厳密な考えに沿った表現活動であろうとなかろうと、ある種のパフォーマンスを指す語となったのです。
ハプニング」に形式はありません。というのも、「ハプニングを描写することは難しい。一つには、それぞれのハプニングが唯一のものであり、他のハプニングとは全く異なるからである(同上)。「ハプニング」は一回性の表現であり、再現のための形式をもたないのです。一回性である表現を前にして、観客はその表現の形式に関わることなく、その表現を支えるもの、そこに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こるもの」を見る、というよりは体験することになります。このように「ハプニング」は一回性の表現であるため、それゆえ人はそこに偶然的なものを思い浮かべるかもしれません。が、実はそうではありません。この世界に偶然というものはない、私たち人間がその摂理を知らないだけであって、すべてにおいて必然性が貫かれている、という見方もあるくらいです。だからどちらかといえば、「ハプニング」のように偶然的にみえる機会においてこそ、ふだん私たちの知らない必然性が開かれ、そこに立ち現れるものを体験するという意味で、人を惹きつけるものがあるのではないかと思います。言い換えれば、入念なリハーサルを経たうえで為される「ハプニング」の機会において、そこに一回性へと研ぎすまされた行為の強度を感覚することができるわけです。また、その一回性の表現行為には、行為が潜在的に抱える広がりが提出されることで、観客—参加者に重層的なインパクトを与えるようなプランがあったとも考えられます。そしてさらにいえば、観客—参加者がそうした潜在的なものが提示される一回性の表現を体験し、その体験を反省することで、私たちの日常を「ハプニング」と同様の強度の体験として捉え直すようにするという、きわめて思想的な企みがそこにはあったのではないかと思います。
 土方は身体表現をモダン・ダンスから始めましたが、その初期の表現は、こうした「ハプニング」が企てるものと連動していたのではないかと考えられます。というのも、日常的なものを侵犯しようとする土方の表現が、「ハプニング」と同様に、観客—参加者に一回性へと研ぎすまされた表現行為が示す強度の体験を与え、そこに孕む潜在的なものを提示することで日常体験を見直すよう要請するものである、そう考えられていたと思われるからです。「禁色」後の土方は、自身の舞踊作品を発表するのに「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」(19601963)と名打っています。そのことについて土方は、「私の第一回目のときは舞踊会じゃなく、ダンスを体験する会という名目でやっている。この体験という言葉はいまだ尾をひいて残っている。(中略)…二、三年前のハプニングとか路頭演劇とか、自分の暮らしている生活をダンスに仕上げてしまうことはきわめて当然のことなのであって、そういう意味でも系統だてて、方法論化してとらえることがなかなかやりづらかったんじゃないか」(「土方巽と暗黒舞踏派」・「映画評論1972年・10月号?所収」)、と後になって語っています。ここで土方も指摘しているように、「ハプニング」はその内容に見合った形式をもたないという問題を抱えているのです。言い換えれば、「ハプニング」はその形式が脆弱であるがゆえに理論的な提示を必要としたといっていいでしょう。「ハプニング」のこうした問題に関わりつつ、土方は自らの踊りを組織化する際に、少年期の<現前性>体験を「ハプニング」の視点から見つめ直しているようです。たとえば、「…ハプニングなんて生まれたときから毎日やっているんですよ」(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」1969)。そして、その内容はといえば、「酔っ払ったオヤジが帰ってきて家の中であばれる。こわい。おふくろが泣かされる。こどもはその間でオロオロする。そんなことが毎晩起こる。そういう名子役が東京の舞台で名子役として出られないのか。そういうライフダンス、生活が全部ダンスだった、生きていることがダンスだったという土壌をそのまま生き残すことが昔あって、いまさぐっている」(「土方巽と暗黒舞踏派」)、というものです。こうした言説は、日常を強度の体験として捉え直すという「ハプニング」の理論に拠っているのではないかと思います。いうまでもなく、少年期の真の記憶、すなわち、その<現前性>体験は壊れやすいものです。ましてやそれが写真や映像を介して対象化されてしまうと、視点が変わることでその記憶はいつの間にかすり替えられて、自ずとその記憶は変質し、少年時の神経アレンジメントと一体となっている<現前性>体験は見失われてしまうのです。それが、いわば「肉体をはぐれる」ことの第一歩でもあります。それに対して、行為のさなかに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こるもの」であるという「ハプニング」の原理が、土方のからだに必然性を見る眼を開かせ、翻って少年期の<現前性>体験にアプローチするよう要請したのではないかと考えられます。
 少年期の<現前性>体験をどのように踊りへと組織化するかについて、たとえば土方は次のように語っています。「よく子供がお金をなめると、なめるものではないと親が叱るでしょう。ところがどうしてもなめたいとかしゃぶりたいとかいう金属への関係が人間にはあるわけです。この金属へのメタモルフォーゼがあって、あきることのない行為の中に関係しているものがあって、その欲望のままに従っていけば当然そういう舞踏の展開が行なわれるはずだと思うわけです。それは偶発的にやるということよりも、まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯し合うのです」(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」)。子供は、手近にある物質を欲望の対象とします。その欲望には、欲望する対象への変容を志向するものがあるというのです。そうした欲望が子供を規律に反する行為へと推し出すわけですが、欲望する対象への変容に関わる当の行為は必然的なものなのです。そして、それが過去の行為であるとはいえ、その必然的なもの(舞踏)の展開を、現在のからだに関わる表現という環境の中で、際限なく捉え直すことができるというのです。
 対談の相手である画家の宇野亜喜良は、次のように応答しています。「お金には使うという一つの目的があるのに、子供の生理的欲求として口に入れちゃうような関係があの作品(「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ(1965)」)にもあって、その代表的なのが浴衣をさかさまに着ちゃうとか、ひどく安っぽいピンクとかブルーの帯しめを足に縛りつけてみる行為ですね。その色が実にきれいに見えたりするんですよ。きれいに見えるという純美学的なもの以外に、それらがもっている一つのハプニングというイメージがあるわけですよね。そこに日本人にしか判らない体験的歴史がふと出て来る」(同上)。土方の初期のパフォーマンス的作品の魅力を髣髴させる発言です(当時はまだパフォーマンスという言い方はしないので、以後は表現行為と言い換える)。発言からその舞台内容を推測すると、表現行為のさなかに欲望する対象としての物質が推し出されるいっぽうで、物質自体と物質への変容を抱える表現行為との関係をさらす表現にあって、逆に物質に照らし出されるようにして、その行為のうちに潜在的なものの広がり、すなわちあたかも連綿と続いているかのような記憶が浮上してくるようです。
 一回性の表現になぜ歴史性が立ち現われてくるのでしょうか。その表現行為に必然的なものが開かれ、行為が潜在的に抱える広がりがあらわになるからではないかと思われますが、そのことを方法的にみるとすれば、表現者のうちに物質への変容に関わる体験がまずあって、その変容に関わろうとする行為が示されるわけですが、その際に表現者の行為に「私」が取り払われているからではないでしょうか。物質への変容に関わろうとするその表現行為は、おそらく物質と対等になるほど物質的な度合が大きいのです。そのため、そこに表現者個人のものに限定されない、物質それ自体に関わるような記憶を立ち現わせることになるのです。たとえば、「ハプニング」に一定の形式はありませんが、とはいえそこには、参加者が立会う場で表現行為をすることで参加者と表現者がその場における逐一の体験をすることを表現環境とする、といった漠然とした形式があるといっていいでしょう。そして、その逐一の体験はその場に居合わせる者の記憶によって構成されるけれども、必然性を見る眼を開かせるという機会であることにおいて、その記憶から日常的な「私」という枠が取り払われることを意図しているといっていいと思います。それと同じようにして、一回性の表現行為においても、観客と表現者共々が日常的な「私」という枠を取り払うことができるような表現環境がそこにはあるのだ、そういっていいでしょう。「私」という枠が取り払われるその環境において、物質と物質への変容を抱える表現行為との関係をさらすような表現に歴史性が立ち現れてくるのです。「私」という枠が取り払われるというのは主体意識が受身的になることであり、また歴史性が立ち現れてくるとはいえ、それはあくまでも潜在的な仕方においてです。潜在的なものが孕む広がりが表現行為によって示唆されるることで、観客は受身的に重層的な記憶を呼び起こし、そのことが「実にきれいに見えたりする」といった、単純にしてかつ歴史性を抱えるインパクトが与えられることになるのです。
 土方はその表現において終始一貫して強い方法意識をもって臨んでいましたが、これまで述べてきたように、それは「ハプニング」における形式と内容の問題に由来すると考えられます。「ハプニング」において、その表現内容とは、必然性を見る眼を開かせる機会を与えることにあります。すなわちそのことは、一回性の表現行為のさなかで観客と表現者共々の<現前性>を体験することにも通底します。<現前性>とはその性格上、意識において<闇>同然の出来事です。それゆえ、その表現を形式化することは難しい。

 一回性の表現において必然性を企画する「ハプニング」の表現に沿うような、一定の形式をもたない土方の初期の表現が、どのようにして踊りを主体にした表現形式を帯びていったのでしょうか。土方は、その試行錯誤の過程を次のように語っています。「いまはガルメラ商会、前は暗黒舞踏、その前は体験舞踏と称して、体験舞踏からまた暗黒舞踏になって、それからチョッとバラ色ダンスになり、それからガルメラ商会になって、また暗黒舞踏に逆戻りです」(同上)。これは1969年の時点で回顧された話です。整理すると、1)体験舞踏 → 2)暗黒舞踏 → 3)バラ色ダンス → 4)暗黒舞踏(ガルメラ商会)という順序になりますが、これは必ずしも明確な区分ではありません。明確な区分ではないけれども、とりあえずこの区分に従ってみていくと、まず1)の「体験舞踏」ですが、「650 EXPERIENCEの会」あるいは「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」主催の作品群が、1959年から1963年にかけて発表されています。その内容は「禁色」(1959)から「あんま」(1963)まで幅広く、一括りにすることはできません。また、この時期にはまだ「舞踏」という語は使用されていないので、ここでは「体験舞踊」と言い直すことにします。2)の「暗黒舞踏」については、1960年の「650 EXPERIENCEの会」のパンフレットに「暗黒舞踊」と題した土方の文章が掲載されています。そして、1961年の「半陰半陽者の昼下がりの秘儀・参章」になって「暗黒舞踊派」を称し、そこには「バラ色DANCE派」も参加しています。また、1963年の「あんま―愛慾を支える劇場の話」は、「暗黒舞踊派結成八周年記念」と名打たれています。したがって、2)の「暗黒舞踏」も、「暗黒舞踊」を言い換えていると考えます。「暗黒舞踊派」は、3)の「バラ色ダンス」段階である1965年の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」に際しても、「暗黒舞踊派提携記念公演」として掲げられています。この「バラ色ダンス」は翌年の「性愛恩懲学指南図絵—トマト」まで続くと考えられ、このときは「暗黒舞踏派解散公演」と名打たれています。このときの「暗黒舞踏」が示すものが何であるかわかりません。というのも、4)の「暗黒舞踏」の段階は、その翌年である1967年の「ゲスラー・テル群論」で土方がソロで踊る表現に始まるかと思われるからです。これ以後、「ガルメラ商会謹製」作品が1968年まで続きますが、それらは表現行為ではなく、明確に踊りによって構成された作品となっているからです。
 土方の意識においてはつねに踊りであったと思われますが、それでも大雑把にみれば、「体験舞踊」から「バラ色ダンス」まではモダン・ダンス的表現から逸脱していくような表現行為、すなわちパフォーマンス的な作品であり、そして、その後の「暗黒舞踏」の段階から踊りに移行しているのがわかります。中でも「あんま」は映像作家・飯村隆彦による映像記録が残っていますが、ダンスというよりも行為の連続であり、表現行為がピークに達した土方の作品として評価されているようです。次の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」も外見的には主に表現行為で構成された作品でありますが、その中身は踊りを軸にして構成されているともみえます。笠井叡・石井満隆・大野慶人等による踊りがあり、中でも白いロング・ドレスに身を包んだ大野一雄と土方のデュエットがあり、それはいかにも優雅なダンス・シーンという印象を受けます。それでも、ここまで土方が表現行為を主体にして作品を発表し続けているのは、あくまでも一回性の表現において必然性を企画する「ハプニング」を自らの表現の核としながら踊りへと移行しようとしていたからである、と考えることができます。それゆえ、その移行過程には、まず「体験舞踊」において、一回性の表現において必然性が立ち現われてくるような踊りの<素材>を求める段階があり、そして次に、「バラ色ダンス」から「暗黒舞踏」へと、必然性の表現を実現すべく踊りを組織化する段階がある、そう考えることができるでしょう。
 19607月の「土方巽 DANCE EXPERIENCEの会」のパンフレットに掲載された文章に、「中の素材」(仮題)があります。このとき土方は「種子」・その他を踊り、モダン・ダンスから逸脱していくような作品を発表しています。たとえばそれは、「小児麻痺のように痙攣的な、衝動的な手脚の不均整な動きを示しつつ、ぎくしゃくした足どりで舞台の上を歩き出したり、脚を棒のようにして急に立ち止まったり、意味のない短い叫び声をあげたりする」(澁澤龍彦・評)といったふうですが、どちらかといえばそれは、生命の実存的な局面に関わる表現であったようです。この文章の中で土方は、「劇薬ダンス」、「テロダンス」、「滑稽ダンス」等の語を使いつつ、「バラ色ダンスも暗黒舞踊もなべて悪の体験の名のもとに血をふきあげねばならぬ。神秘な危機感を伝統した肉体はそのために用意されているものである」と、この時点ですでに「バラ色ダンス」と「暗黒舞踊」を共に提唱しています。また、作舞の中心に「無知や悲惨さ」を据え、踊りの淵源を「供儀」に求めるのは、「暗黒舞踏」の登場以後も一貫する姿勢です。そして、この時期にすでに土方は自身の踊りのための<素材>を求めているのです。たとえば、「陽のとどかぬ場所に私はいつもどうしてだか素材と一緒に立っている。…彼等の昼の労働の彼方にそれこそみたこともない多彩な舞踊を発見していたから。此の様な素材が私を興奮させる。素材が従来の私の作舞法に激しく挑戦する。この素材と私の隔絶の真中に、原初体験の危機を伝統とした肉体の相互につくるめくるめき出合いの祭典が進行する。それは一切の肉体の象徴性の背後にあるものにちがいない。鮮明な標識に私と素材は殉ずる汗ばんだ投企に、様々なものを予知し乍ら、動きの処理場へ第一歩をふみ出す。…素材が汗ばみ素材が縮まる。私は伸びる」、とあります。そして、翌年の「刑務所へ」の文章では、「考えることが危険であるという防衛本能を、身につけた今日の素材たちである。ぼくは立ち、彼等は立たされているという構図を、ぼくは先ず出発点として仮定してみる。ぼくは歩き、彼等は歩かされていると。不意に彼等は走り出す、ぼくも走る。ぼくは倒れる。彼等は走る。彼等は倒れた場所で、怪我することもなく起き上がる。ぼくが血を流し立ち上がる場所と、彼等の場所が、何故、一致し得ないのだろう」、とあります。ちなみに、「素材が汗ばみ素材が縮まる。私は伸びる」、「ぼくは歩き、彼等は歩かされていると。不意に彼等は走り出す、ぼくも走る。ぼくは倒れる。彼等は走る」とありますが、こうした言い回しは後に、「私は私の身体の中に一人の姉を住まわしている。私が舞踏作品を作るべく熱中すると、私の体のなかの闇黒をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまう。彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず座りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。という、かかわりあい以上のものがそこにはある」、といわれているのとほぼ同形です。この点については後で述べることにします。
 最初の文章の<素材>は青年肉体労働者であり、「刑務所へ」の<素材>は犯罪者です。それゆえ、<素材>へのアプローチの仕方は異なっている、というよりも変化しています。最初の<素材>があらわにするものが「汗ばみ、縮ま」って鮮明となるのにつれて、土方のからだも<素材>への意欲を伸ばしています。しかし、次に見定めようとする犯罪者という<素材>についてはそうはいきません。なぜなら、犯罪者は外部の現実に対して受身になるよう強いられてきた存在だからです。彼らは倒れて血を流すことを何とも思わないのです。このときの<素材>へのアプローチの仕方の変化について、土方が対象の<素材>性をからだに回収しようとする感覚に則していえば、土方は踊りの<素材>を外に求めてはいますが、最初の<素材>については、土方の内部を外部に映し出しているものと考えられ、それゆえ内部と外部は一致し、からだに回収するというよりは、ただからだを鏡のようにさせて外部を映しているだけだと考えられます。しかし、次の<素材>については、内部とそれが外部に映し出されたものとの関係だけではなく、その関係がからだに回収されようとする感覚が語られていますが、そこにどうしようもないずれがあるわけです。そこで、「刑務所へ」では、「犯罪舞踊」を志向するにつれて、<素材>としての死刑囚が考えられていきます。死刑囚は、「歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間……この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。…かかる状態こそ舞踊の原形であり、かかる状態を舞台の上につくり出すことこそ、ぼくの仕事でなければならない」、とあります。死刑囚とは、その刑によってすべてが剥奪された存在です。土方はそうした裸の存在と連帯しようと考えているのです。そのことは、主体的な意識が進んで受身であることを享受することによって実現することになります。すなわち、内部とそれが外部に映し出されたものとの関係において完全に受動的になることで、そこに「人間的自然の根源的なヴァイタリティ」といった開かれた状態が見出されることになるのです。そして、その開かれた状態において<素材>を基にした動きが推し出され、踊りが成立してくる、と考えられているようです。とはいえ、そこに開かれた状態はすぐに閉じようとするでしょう。だから、そこに立ち現われる、今までからだに知られることのなかった神経アレンジメントの構造にも目を向けなければいけません。その神経アレンジメントにはおそらく、現われたと思うとすぐに消え入るような「敏捷な構造」が内蔵されているはずなのです。
「刑務所へ」では、最後に東北に言及し、「貧農地のある単作地帯では六歳児に罹る肛門の病気に、一家して回復を見出している現状だ。親達の手が、神様いじめする手につながり、ほほえましい暗黒のユーモアを図柄にしたものが、ぼくにとってそれは、不思議な舞踊に思える」、とあります。この「暗黒」の図柄、すなわち自らのからだが抱える「敏捷な構造」に目を向けるのに伴って、「暗黒」の意味するものがここに初めて提出されているように思います。<素材>を求め、求めることの受動性においてからだに自ずと「敏捷な構造」を見い出すことになるのだと思われますが、それは基本的にからだに関わる姿勢があらわにする意識過程であると考えられます。このとき、「敏捷な構造」は、その背景(東北)を伴って現われてくることに注目したいと思います。現れたと思うとすぐに消えてしまう「敏捷な構造」は、一回性の表現が必然的なものを見る眼を開くことにも通底しています。そこに一瞬立ち現われるものは少年時の<現前性>である可能性があり、それは意識にとっての<闇>であるけれども、「暗黒」の背景を伴っていると考えることができるわけです。おそらく、土方にとってからだに関わる際に見出されたこうした「暗黒」への視線が、「ハプニング」における形式と内容の問題を解消する方向を示すことができたのではないでしょうか。
 さて、前に述べたように、土方は「バラ色ダンス」の段階ですでに、対象への変容を志向する少年時の欲望を踊りへと組織化する作業にかかっていると考えられますが、「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」に際して、土方には次のような具体的イメージがあったといいます。一つは、「物を消す踊りをやりたい…」こと、もう一つは、「二、三メートルくらいの耳かきをつくり、二人がその耳かきを持ってお互いの耳に入れる。…微妙に動かすと耳かきができる、そういうダンスをやりたい…」(笠井叡「意識の変革を目指した舞踏家」・「土方巽の舞踏」2003年所収)、というものです。「消す」とはそこにあるものを見えなくすることであり、そこにあるものを消滅させることではありません。それゆえ「物を消す踊り」をするためには、物がそこにあっても物を見せるのではなく、踊りを見えるようにしなければならないということです。したがって、一つには、物に対して踊りを際立たせたいという意図があったと考えられます。物への変容に関わろうとするその表現行為は物質的な度合が大きいけれども、表現者個人のものに限られない、物自体に関わる記憶を逆に立ち現わせようとすることで、物に対して踊りを際立たせようという意図があったのではないでしょうか。「耳かき」のダンスも、物との関係において受身であることで逆に踊りを成立させるという意味で、同じことを示していると思います。いっぽうは物に際立たせられるようにして、他方は物によって動かされるという、物を軸にして踊りを組織する二つの方向が考えられていたのではないでしょうか。物についていえば、「バラ色ダンス」の表現行為をいっぽうで構成していたのは、美術家の中西夏之や赤瀬川原平といった「ハイレッド・センター」(1960年代前半)のメンバーであり、彼らは日常的な場所において非日常的な行為をする侵犯的な「イベント」を繰り返していました。物は、そうした美術家たちが周到に用意したものです。そうした美術家との共同作品のピークが1965年の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」であるといっていいでしょう。こうしたことからあえていえば、「バラ色」とは、美術感覚的—侵犯的と言い換えることができるかもしれません。美術感覚的なものは物を通じて立ち現れ、物を操作することで日常を侵犯するわけですが、それだけに、そこにはからだに関わる意識の構造が定かでありません。土方は自らの踊りを組織化しようとする段階において、美術感覚的なものよりも、物との関係から踊りの内的構造を突き詰めていこうとしていると思われます。そこでは侵犯性というよりも、潜在的なものであることで意識においてより背景的な「暗黒」が見定められようとしていると思われるのです。
 踊りの<素材>を見定め、踊りを組織化する過程において、「種子」の踊りにみられるような実存的な視点から、「耳かき」のダンスとして発想されるような構造的な視点への転換がある、そう考えることができます。言い換えれば、内的なものが表現行為をさせることから、内部も外部も区別しない構造的なものによってからだが動かされることへの移行があるといっていいでしょう。そうした構造的な視点をもつことができるようになって、踊りを構成するのに詩の言葉が使われることになります。1967年の「形而情學」は、加藤郁也の詩集を基に踊りを構成した作品です。言葉を介した作舞の仕方は、土方を後に舞踏符の方法へと向かわせることになります。舞踏符の方法は、言葉に関わることで相応の神経アレンジメントが推し出されてくるという点において、そこには構造的な視点が不可欠なのです。とはいえ、構造的な視点をもって踊りを組織化するに際しても、いっぽうで一回性の表現において必然性を企画する表現行為であるという「ハプニング」の原理は頑に守られてきたのだと考えます。そのことは何よりも、細江英公との共同作業である「鎌鼬」の写真撮影(19651967)が示しています。秋田の農村と人物を背景に敢行されたその作業はまさに「ハプニング」の連続であり、そこに一回性における必然的な行為が記録されています。このとき、からだに開かれて閉じられるような「敏捷な構造」が見定められつつ、少年時の<現前性>体験が土方において実質的に再構成されるような契機があったのではないかと思われます。
 土方のいう「体験舞踊」と「暗黒舞踊」とは区別がつけ難いものです。次の「バラ色ダンス」だけは「暗黒」と区別することができます。「体験舞踊」にも「暗黒」性の萌芽があるわけですが、その「暗黒」性は、「バラ色ダンス」から「暗黒舞踏」へと移行する際に明確な相貌を帯びるようにして変容しています。その際に、美術感覚的なものがもたらす日常的なものへの侵犯性という、その実存的な局面から解かれるようにして、「敏捷な構造」が(肉体史的な)背景を連れ添ってくる「暗黒舞踏」の「暗黒」性へと土方は移行していったというか、未定の領域へと一歩踏み出したのだと考えられます。そのことは、「私はやはりバラ色より暗黒のほうが好きなんだな。白砂糖より黒砂糖の方が好きだしね。(中略)…やはり無知とか悲惨というのが私の作品から絶対に除外できないですね」(「土方巽と暗黒舞踏派」映画評論)と、かなりはっきりした理由づけがなされています。こうした経緯から1968年の「土方巽と日本人」をみると、それは、「体験舞踊」、「暗黒舞踊」、「バラ色ダンス」等で混然とした土方の表現を、そこから一歩抜け出すために総まとめにした、土方による集大成的作品であるようにみえます。それは土方巽による唯一のソロ作品です。それゆえ、それは例外的な表現なのです。その例外性において、そこに土方巽という<観点>が特別に掲げられているのではないかと考えます。それは、「舞踏」という思考と共に土方の表現が初めて提示されたということです。このとき以来、土方は「舞踏」という表現形式を掲げることになりますが、それ以後、何をするにもその表現は「舞踏」であるべきであると提唱するようになります。<現前性>という内容に見合う表現形式を練りに練ってきたのでしょう、土方にとって「舞踏」とは単なる表現形式ではなかったはずなのです。単なる表現形式であれば、それは踊りの一形式になってしまい、そうであれば、<現前性>という内容を見失ってしまったに違いありません。「土方巽と日本人」において、「舞踏」は欲望や表現形式であるばかりでなく、ある種の理念として提唱されようとした、そう考えることができます。土方巽という<観点>は、そうした「舞踏」の理念と重ねられることで<現前性>への視線をつねに要請するものなのです。その目論見はといえば、<現前性>を提示する「舞踏」の表現によって日常の体験を今一度捉え直させ、そうすることで、かつての無知と悲惨の体験を記憶の底に畳み込み、その結果はぐれてしまった人間の肉体—意識を回復させることにあった、そう考えるわけです。