Sunday, July 05, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


三 能・歌舞伎・舞踏

 3 舞踏

 2) 舞踏の表現
 それまでのパフォーマンスで構成された表現から一歩踏み出し、<暗黒>性を打ち出そうとする舞踏の表現であるとはいえ、「土方巽と日本人」の舞台はそれ以前の土方のパフォーマンスと同様、きわめて侵犯性の強い表現にみえます。冒頭の登場場面の行列に豚を連ね、舞台に上がるや模造男根を誇示し、背景パネルに鶏を逆さ吊りにし、フィナーレにキリストを思わせるパフォーマンスをして、これみよがしに観客を挑発しています。舞台は踊りを中心に構成されたましたが、その踊りは構造的な視点から作舞されているというよりも、どちらかといえば即興性を感じさせる内容のものです。そこには土方のからだが抱える過剰なものが原石のまま打ち出されている、といった印象を受けます。こうしたことから、内容に見合った表現形式が模索されながらも、一回性の表現において必然性を打ち出すような踊りが意図されていた、そう考えていいように思います。ただし、特徴的なのは土方がソロで踊り通したことであり、さらにいえば、髪を長く伸ばし、主にドレスを着て踊り、姉や少女に関わる姿勢を見せたことです。そこには女性的なものに関わろうとする<屈折>がはっきりと見てとれます。欲望する対象がその位置を変えれば、欲望する主体にも変化があると考えていいでしょう。つまり、そうした<屈折>に関わることが主体のベクトルを内向きにさせるのであり、その<観点>に新たな要素をもたらすことになったと考えられるのです。
 それから四年後の1972年、「四季のための二十七晩」において「暗黒舞踏」の旗のもとに「東北歌舞伎」の様式が打ち出されました。その様式は、それまでの土方の表現とは格段に異なるものでした。土方の表現に特有の侵犯性は封じられ、それと引き換えにして舞踏のエロティシズムが打ち出されたかのようです。演目は「疱瘡譚」・「すさめ玉」・「硝子考」・「なだれ飴」・「ギバサン」と五部に分かれ、二十七日という長い期間にわたって公演されました。最初の「疱瘡譚」は映像に記録され、その具体的な内容を知ることができます。あとの四演目については幾枚かの写真からその内容を推測するほかないのですが、その内容はたとえば、「すさめ玉」は「夏の日の蚊帳と日本刀が醸し出すエロティシズムであった」、「硝子考」は「土手の上を走る汽車の窓から見えた農家の庭先の老婆の生涯であった」、「なだれ飴」は「田舎の祭の日の屋台の、又は駄菓子屋の店先の、きらびやかな子供の夢のようなものであった」、「ギバサン」は「農家の土間に放置された人間を含めたがらくたを救いにやって来たものの英雄的な話であった」(以上、鈴木志郎康・「『燔犠大踏鑑』極私的感想」1973)、そう指摘されています。また土方の踊りに関しては、「(土方が)暗幕の前で、透明なアクリル板の後で、徐々に、一本足を撰んで立つと、死のエクスタシーを呼び起こした」(郡司正勝・「死という古典舞踏」1973)といわれるように、その踊りには総じて「死者」が重ねられていたと思われます。
 全体的にみれば東北の人物と光景が描かれているといった風でありますが、人は短期間にこれほど異なる表現スタイルをつくりあげることができるものでしょうか。「四季のための二十七晩」の発表に先立って、土方は次のように語っています。(今度の新作は)肉体そのものを極限的に追求してきたこれまでの舞台とはまるきり違う『東北歌舞伎』の世界です。津軽三味線、瞽女、田んぼと空と風と、塩からい食べものと…、私が見聞きしたものがびっしりと詰まっている。それは私の舞踏の原形が、実は田んぼの中にあるからです。田んぼでの労働があまりに過酷なものだから、もう働く気力も失せると、人々がニセの労働をするのを私は見たのですよ―そこに舞踏性がある。無知と悲惨、それは私の作風から絶対除外できない」(「朝日新聞19721024日」)たしかに、踊り手の髪型や衣装が和風になり、歌舞伎役者のように白塗りし、舞台床に黒の地がすりを敷きつめ、その踊りも型に嵌められたようになったのを、「歌舞伎」的であるということができるでしょう。とはいえ、「歌舞伎」表現の淵源とは前にみたように、中世から近世への転換期に開かれた過剰なものにこそあると考えられます。それゆえ「東北歌舞伎」の<歌舞伎>を、過剰なものを表現することと解することもできます。とすれば、「歌舞伎」に似せた様式であるというよりも、<東北の過剰なもの>を表現するための独自の様式が提出された、そう考えることができるでしょう。実際に「四季のための二十七晩」の舞台には全篇を通して衣装や飾りやモノが過剰なほど溢れています。ことにその過剰さは最後の「ギバサン」にいたって頂点に達しています。とはいえ、<東北の過剰なもの>とは、そうした表面的な過剰さをいうわけではありません。それは土方のからだに渦巻いているものであり、それまでの方法では思うにまかせず、型に嵌めずには表現できないような<内容>のことです。そのために舞踏符の方法が採用されたと思われます。舞踏符の方法は踊り手を<型>に嵌めることでもありますが、いっぽうでそれは、言葉の指示内容が神経アレンジメントを誘い出すことで作舞するという構造的な性格を備えた手法であり、そうした手法によって踊り手のからだが抱える抽象力がある種の風景となって推し出されてくる可能性がある、ここではそう考えられていると思います。土方は農作業に伴う「ニセの労働」を強調していますが、それは農作業に疲労して「働く気力も失せると」、からだを動かしたくないことがからだを動かすといった神経アレンジメントが働いてしまうことへの注目です。こうしたニセの労働」の神経アレンジメントに関わることは、からだが抱える抽象力(「田んぼと空と風と」といわれる風景)に関わることと同じでしょう。からだが抱える何らかの抽象力に関わろうとするその姿勢は日本の伝統芸能において連綿と保持されてきたものであると考えられますが、そうした抽象力に関わることにおいて「敏捷な構造」も見出されてくると思われます。そこに土方のいう「無知と悲惨」も透けてみえてきます。
 こうした表現スタイルの変化についていえば、土方は「土方巽と日本人」において女性的なものに関わろうとする<屈折>をみせていますが、その<屈折>点は女性的なものに関わることへの変化を、土方の記憶の底に折り畳まれているもの―<襞>へと導いていくことになったのではないかと思われます。そしてその<襞>が、「四季のための二十七晩」の準備をしたのではないかと思います。ですからまず、その準備段階をみることにします。
 1970年の8月から11月にかけて、新宿アート・ヴィレッジで「幻獣社」による連続公演があり、女性弟子たちによる「ギバサ」を発表しています。その間の10月には、「土方巽燔犠大踏鑑第一回京都公演」として京大西部講堂で「ギバサ」を公演しています(京都公演は、土方がこの頃に東映映画に出演し、撮影所があった京都に縁ができたためであると考えられる)。続く1971年にも新宿アート・ヴィレッジで「幻獣社」の連続公演があり、女性弟子たちによる「売ラブ」・「すさめ玉」等を発表しています。そして前回同様、翌年の19721月に京大西部講堂で「売ラブ」・「ギバサ」・「すさめ玉」・「残念記」を公演しています。そして、この年の6月は「燔犠大踏鑑公演」として「すさめ玉・前後篇」を発表し、次いで9月に「哈爾賓派結成記念公演・[玉野黄市作品集]」として「長須鯨」を発表し、そのまま10月の「四季のための二十七晩」へとなだれ込むようにして「新作」発表にこぎつけたことになります。この間、土方は弟子たちを振付し作品を構成・演出するのみで、いっさい舞台に立っていません。
 女性的なものに関わろうとする土方はこの間に主に女弟子たちを振付けているわけですが、それはそうした主旨からすれば、女弟子のからだをキャンバスにして動物や花や老婆や姉をデッサンするような作業であったと考えられます。そして同時にその作業は、踊りの振付けというよりも、踊りを要請するための何か別のことであったようです。当時の稽古状況を、小林嵯峨は次のように語っています。「土方が何よりも心血を注いだのは、踊り手の内部がいつも何かで溢れている(過度の充足)というか、何かに触れている、あるいはコトンと落としてしまっている状態を保つこと、つまり(内部が外部に露出している)ことだったのではないか」(小林嵯峨・「うめの砂草 舞踏の言葉」)。「内部が外部に露出している」というのは、「内側を外側へ、ぐるりと手袋をひっくり返すように入れ替える…その様な訓練がいつも行なわれていた…」(同上)という稽古内容を踏まえているようです。ここで土方が弟子たちに要請しているのが踊りを内側から支える過剰なものであることがわかりますが、いっぽうでその過剰なものを見定めながら土方が捉えようとしていたものは、女性がその内部を外部へと入れ替える仕方、もしくは内部とその入れ替えの仕方との関係だったのではないでしょうか。つまり、<入れ換え>の構造を見出すことです。そして、そうした内部を外部へと入れ換える仕方を構造として注目することが、土方の踊りのスタイルを全面的に変えたのではないかと考えることができます。一般的に男性よりも女性の方が内部と外部との差異の感覚に鋭敏であり、そしてその<入れ換え>に巧みであるというか、<入れ換え>を自然に行なうことができると思われますが、女性的なものに関わることがそうした点に目を向けさせたということです。
 こうした準備過程において、一回性の行為における必然的なものに関わる仕方は、踊りを内側から支える過剰なものを抱えることへと、さらにその内側を外部へと<入れ換え>る仕方へと、その内容をより具体的なものにしていったといっていいと思います。一回性の行為における必然性の表現は、踊り手が孕む過剰なもの、すなわち「内部がいつも何かで溢れている」状態を、「内部が外部に露出している」状態として、あくまでも方法的に求められるようになったわけです。侵犯性も日常を侵犯することにおいて日常の内部に潜むものを外部へと露にするわけですが、それよりも、内部を外部に露出する仕方としてはより能動的な方法が追求され始めたわけです。
「土方巽と日本人」において土方の踊りに見られた女性的なものに関わろうとする<屈折>は、土方が抱える変化を記憶の底に折り畳まれているもの―<襞>へと導いていった思われますが、いまやその<襞>が開かれつつあります。そのことはおそらく、土方をして死者である姉との関係にそのベクトルを向けさせることになったのであり、そしてさらに、土方巽という<観点>に新たな線をもたらすことにもなったのだと考えます。
 そのうちの一つの線は、死者である姉との関係にからだを関わらせることが、関わりそれ自体を無限なものへと導くというものです。それは「肉体の闇」といわれています。姉との関わりについて土方は、「なぜ髪の毛を長くしているのか、と聞かれるでしょう。私は死んだ姉を私の中で飼っているんです」(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」・1969)と説明しています。すなわち、自分のからだというキャンバスに姉の神経アレンジメントを描こうとしている、そういっていいと思います。このことは、歌舞伎の女形役者が女性の生活をすることで結果的に男性の生を逸脱し、そのようにして個人的な生の境界-限界を取り払うことで独自に芸を切り開いていった例から考えますと、土方は死んだ姉をからだに描き、そのようにして姉を取り込むことで個人的な生を逸脱し、そうすることで姉との二重性へとからだが開かれるような状態を意図していたのではないかと考えられます。たとえば、土方がからだに姉の神経アレンジメントを立ち上がらせる。すると自身は思わず座り込んでしまう。土方が転ぶことは姉の神経アレンジメントが転ぶことでもある、「そうした関わり合い以上のものがそこにはある」といわれます。そこに二様の神経アレンジメントのせめぎ合いが現象するのは当然ですが、とはいえそうした神経アレンジメントの二重性は、それ以上に、意識がからだに関わることそれ自体を無限なものへと開くような関係として見出されることになるでしょう。というのも、死者である姉の神経アレンジメントは死者のアレンジメント(記憶)をも土方のからだに開かせることになるからですし、そのように個人の生に死者の記憶を導入することは、記憶に関して個人的な生の境界-限界を取り払おうとする試みとなり、そこには限りがないからです。そしてそのとき、逆に土方の<少年>が別の相貌を帯びて立ち現れてくるようです。すなわち、<少年>は死者のアレンジメントを伴うものとなり、土方に替わって死者である姉の神経アレンジメントに関わる主体は<少年>となり、<少年>と姉との二重性という関係は土方個人の枠を越えて「死者」の枠組の中で立ち現れてくることになるようです。そのような経緯において、姉とは踊りの<素材>以上の次元へと、すなわち「肉体の闇」という無限なものへ開いていく関係において捉えられるものとなるでしょう。土方は「疱瘡譚」で大髷を結った女性形の姿で癩者を踊っていますが、その踊りにあれほどの<若さ>を秘めているのは、それが<少年>を核とした表現であるからだと思われます。そこには二つの神経アレンジメントの拮抗が見てとれます。この<少年>を核とする身体表現は、能(稚児舞)や女形(<若さ>)の芸に連なるものであるように思われます。
 二つ目の線は、土方に入れ替わるようにして土方の<少年>が主体として立ち現れることにおいて、消えるからかたちが遺るという、舞踏の表現における規範的な認識を生み出すものです。たとえば、「行ったきり戻らない足」はそうしたかたちとして現れています。そこには現れたと思う先にもはやそれは消えているという構造があり、言い換えれば、消えるからかたちが遺るという「敏捷な構造」と否応なく面接することになるのです。「舞踏は消えていくからかたちが残る」といわれるように、そこに踊りのかたちを支える構造が見出されることになります。このことは要するに、つねに消えていくものは<現前性>としての意識であり、そうした<現前性>としての意識と共に働く神経のアレンジメントにおいて遺るものがあり、それが踊りのかたちを構成することになるというものです。それゆえ、「消えていくからかたちが残る」その舞踏の表現を構成するのには、かつてアレンジメントされた神経に因っていると考えていいでしょう。<現前性>としての意識にはつねに何らかの神経アレンジメントの働きが伴い、それは次々と消えて新たなアレンジメントを生み出していきますが、その痕跡は「目をかけてやった記憶もないのに」からだに遺っていると考えられているのです。そしてそのことは、後から振り返れば「私は私でない体験を何度もしてきた」、という経験として呼び込まれることになるのです。
 三つ目の線は、土方が土方の<少年>との関係に関わることにおいて、からだが<入れ換え>する構造を見ようとするものです。土方はそこに「肉体史」というものを見ようとしていると思います。<入れ換え>の構造とは、内部が外部へと入れ換わる際にどのような仕組みがあるかということを示すものであり、ここではまず土方の<少年>という内部が土方に入れ換わって主体となるその仕組みに注意を向けることです。おそらく<少年>という内部が<入れ換え>する経験があってはじめて舞踏符の方法が考案されているだろうと考えられます。この<入れ換え>について、「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私たちの先祖から伝わっている」(1970)では蟹股の例が示されています。ここでは「ニセの労働」が前提となっています。田んぼの畔を滑らないように歩くのに人は知らず知らずのうちに蟹股になりますが、その「貧相な印鑑体」と入れ換わるようにして死体が迫ってくるのが怖いというのです。どのようにして蟹股が入れ換わって死体が迫ってくるというのでしょうか。<入れ換え>とは内部が外部へひっくり返すようにするということからすれば、死体であるものが内部にあって、蟹股という外部へとひっくり返すようにして現れている、ということになります。要するに、その蟹股のすがたには死体であるものが露出しているのです。この死体であるものとは農民のからだが抱える抽象力に伴うものであって、蟹股は必要上求められてきたかたちに他なりません。そこにはからだが抱える抽象力が蟹股という「ニセの労働」のかたちを契機にして立ち現れているのです。そして肝心なのは、この<入れ換え>過程は土方の<少年>の視線において起きている、という条件を考慮に入れることです。
「疱瘡譚」の冒頭に「風だるま」が登場します。「東北では、人は風を着て戸口に立つのです。風だるまが座敷に入ってくると、もうそれが舞踏ですね。それをそっくり無傷のままとりあげたいという願望が根強くある」(「朝日新聞19721024日」)、そう土方がいうのですからそれは「風だるま」なのです。そして、この「風だるま」のかたちにも、<死者>であるものがひっくり返すようにして現れているはずなのです。その仕組みは次のようになるのではないかと考えます。土方が土方の<少年>の眼で蟹股のすがたに死体であるものが孕む抽象力を見るように、「風だるま」も土方の<少年>の眼が見るものです。とはいえ、それが踊りの表現となる場合には事態は異なってきます。土方は「風だるま」の姿になっているから、土方は「風だるま」を踊りながら、なおかつそこに土方の<少年>の眼をもって踊りながら、内部の<死者>であるものをひっくり返すようにしてからだの表現へと露にしなければならないからです。そのとき内部の<死者>は土方の<少年>の眼が見るものであるというよりは、それは<少年>とくっついている。くっついているようにして外部へと連れ出されて来るような仕方があると思います。<少年>が<死者>とくっついている、あるいは重なっているといってもいいですが、そのことは、そうした状態がある意味で自己をめぐる全体的なものを示そうとしている、そういう現象がある、と思えてなりません。そこに「肉体史」という<暗黒>的なものが見定められようとしていると考えるわけですが、土方が示そうとする「肉体史」とは決して自己について部分的なものをいうのではない、そう思うからです。「肉体史」については、後の章で述べたいと思います。
 以上述べたように、こうした線を抱える<観点>があってはじめて、土方は「暗黒舞踏」という独自の踊りを組織化することができたのではないかと思います。その踊りはそれまでとはまったく異なるスタイルによって打ち出されたばかりでなく、今までにない新たな表現として創造されたのです。そして、少なくとも「肉体の闇」・「敏捷な構造」・「肉体史」という三つの線を抱える<観点>から、「東北歌舞伎」の表現様式はその後も継続されたのです。19736月に京大西部講堂で公演された「肉体の根拠を求めて」は、同年9月の「静かな家」に向けた準備作品であると考えられ、土方が踊る場面は限定的なものになっています。舞台を記録した映像作品「夏の嵐(2003)」を見ると、舞台の背後全面に古い戸板が吊られ、その封じ込められたような空間に次々と場面が展開し、あたかも絵巻物を見るような印象を受けます。注目すべきは、女性の踊る場面が多いことです。二人、三人、五人と、それぞれ異なる内容の様々な場面が設定されています。女性のそうした多彩な踊りに比べると、男性の踊りは「四季のための二十七晩」から退行しているようにみえます。この「肉体の根拠を求めて」から「静かな家」にかけて、男性群舞が「盆の精霊」から「亡者」へと定形化されていく過程さえみてとれるかもしれません。後の「白桃房」の舞台では、男性群舞による「亡者」は背景として完全に定形化されました。
 ここで土方は「少女」を踊っています。土方の「少女」の踊りはあたかも内部の強度がめくられるようで、そのめくられるようにして露になる強度の連続が踊りとなっているようにみえます。また、最後の女性三人による「ベルメール」の踊りの展開が印象的です。その展開は、からだの内部の仕組みを外部へとひっくり返すようにして露わにする仕掛けに関わっているようにもみえます。最初は裸同然の下着姿で、からだの内部へと遡行するように手探る姿勢が示されますが、次いで前面だけ和風の衣装に鬘をつけ、後ろは下着すがたのままでベルメールが踊られます。そこに何ともいえぬ痛ましさがあらわれています。そして和風の衣装を脱ぎ捨て、ふたたびもとの「ベルメール」の踊りになり、あっさりとしたエンディングをもって舞台は終了します。そこには踊りを見せるというよりも方法的なものが示唆されている、そうはっきりと感じられる場面です。全体としてみれば、「肉体の根拠を求めて」の表現は具体的な踊りのかたちに満たされています。とはいえ、そのかたちをすばやく消していくような、単純過去というか、次から次へと点滅するかたちによって作品が構成されている、そんな印象を受けます。
「静かな家 前篇・後篇」の舞台も、「三方を床から天井まで古い戸板をはりめぐらせた舞台は、無人の英霊の家だという。薄暗い舞台に次々と登場する人物は、亡者のように突っ立ち、霊のように緩慢な動きで現われては消える」(「土方巽と舞踏」より・2003)、といった内容の作品です。「静かな家」については、土方がソロで踊る場面に関する舞踏符の一部を参照できます。「土方巽全集Ⅱ」(1998)に所収されている「<静かな家>覚え書き」ですが、それを少し検討することにします。そこには以下のように記されています(意味がわかりやすいように一部ひらがなを漢字に変換し、()内に語や句読点を補った)。
 「赤い神様」
 雨の中で悪事を計画する少女
 ()床の顔に終始する
 鮭の顔に変質的にこだわる
 〇剥製にされた春
 〇森の巣だ()目の巣だ、板の上に置かれた蛾
 〇気化した飴職人または武者絵のキリスト
 〇額を走る細い蜘蛛の糸
 〇乞喰
 〇猫の腰
 〇背後の世界
 〇ごみ処理場
 〇鏡をこすると揺れる花影があった
 〇納屋の中でもろい物音がくずれた
 〇勧工場
 〇Xによる還元を再生
 〇鏡の裏
   重要
「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ。彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさ()備用することも珍らしくない」。
 ここでは「赤い神様」という主題がまずあり、その構成要素として、<雨の中で悪事を計画する少女/()床の顔に終始する/鮭の顔に変質的にこだわる>が考えられているのがわかります。他の箇所に「赤いシャケの頭に関わる魔女が気化している」とあるから、「赤い神様」は「赤い鮭」であり、それは産卵前の魚体を紅色にさせた鮭であると考えることができます(土方が赤の衣装で踊る場面がある)。それは「神様」と主題化されているように、何らかの抽象力として捉えられているのでしょう。つまり、この主題には、内に孕んだものを産み落とそうとする、というゲシュタルトが込められていると考えられるのです。そうしたゲシュタルトが、悪事を孕む少女・寝床の顔が孕む夢・卵を孕む鮭の表情、といった複数の<型>で支えられることになるわけです。「絡み合う曲線なしに直線はない」からです。そして、その後に舞踏符を指示する言葉が続きますが、それらは具体的な動きや神経アレンジメントを誘い出す言葉であるわけです。そうした舞踏符の機能も、主題とその構成要素によって支えられていなければなりません。これらの舞踏符群もその内容からして、複数の意識の層に働きかけるものであることがわかります。ただし、「鏡をこすると揺れる花影があった」や「Xによる還元を再生」、そして「鏡の裏」は、これらの舞踏符群に属しながらも群を自ら総覧し、かつ反省する仕方として機能するものであると考えられます。つまり、それまでの描写を鏡に映って揺れるものとして再構成したり、それまでの描写をいま一度別の物質密度に還元してから再構成したりする、という手順があると考えられるわけです。描写にフィルターをかけるといってもいいし、描写を粒子状態に還元してそこからいま一度再生させるといってもいいでしょう。こうして一つの踊りのフレーズが生まれることになると考えられますが、これほど複数の意識の層に働きかけながら誘い出される神経アレンジメントはおそらく複雑このうえないものであり、その微細な神経領域に踏み込んでいけばいくほど、そこでは「ほんのふとした何気なさ」として働くものが変動を促すと思われます。土方はその変動しやすい状態を「死者」とみなしているようです。「死者は静かに、しかし限りなくその姿を変える」といいます。
 この「死者」については、次のように考えることができます。たとえば私たちは他者の動作を目にしたり過去にあった話を聞くことでそれに反応するようにして神経をアレンジメント(配列)させていることがあります。そうした神経アレンジメントにことさら注目するわけではないけれども、それはからだに遺っていると土方には考えられています。そのとき、目にする他者の動作とは同じようにしてその人にとって他者である者の動作に反応してアレンジメントさせた神経に由来すると考えると、そこには(ある程度変容を受けながらも)連綿と継続されてきた神経アレンジメントがあるだろうということになります。また過去にあった話とは目にする世界とは別の世界を前提とすればいいだけで、そこにも同じようにして連綿と継続しているものがあると考えられます。このように考える場合、私たちのからだには見知らぬ神経アレンジメントが潜在していて、本来それは膨大な時空の広がりを痕跡するものとしてあるということになります。この膨大な時空の広がりを痕跡するものが「死者」と呼ばれるものであり、それは潜在するゆえに「静か」なのであり、そこに注目されることで「その姿を変える」のです。「死者」とはそうした広がりを孕んだ変動状態でありなおかつ変動状態へとつねに待機するものです。そうした「死者」としての内部が身体としての外部へくるりとひっくり返すようにして<入れ換え>られる、そうした表現がここでは意図されているのではないかと思われます。そのために舞踏符の指示に加えて、舞踏符群を総覧しかつ反省させる機能が要請されているのではないかと思われます。こうした機能をもつものとしては他に「複眼」や「皮膚への参加」があります。「複眼」とは文字通りもう一つの視線をもつことであり(たとえば、「熟視の状態を熟視する」)、それは舞踏符の指示に関わりながらも、広がりを孕む変動状態としての「死者」の訪れを受け入れる視線でもあるようです。そのようにしてすべての神経の働きは「死者」によって支えられるとすることで、「複眼と重層化は混濁し、一体のものとなる」。さらに「皮膚への参加」は意識されないほど極度に微細な神経に関わることであると考えられ、その過程においてオートマティカルな神経アレンジメントが立ち現われることになるようです。それはたとえば、「武将は女王になり、女王は関節の箱に収められるだろう。その箱の中からの生まれ変わりがフーピーという踊り子である」、というようにして展開するのです。ちなみに「静かな家」のサブタイトルは、「踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間」となっています。
 最後に「少女」についていえば、土方は「土方巽と日本人」で「少女」を踊り、「肉体の根拠を求めて」・「静かな家」と継続して踊っています。「静かな家」の公演に先立って土方の文章がありますが、そこには、前篇では「一度だけ愛して黒髪を切ったという昔の少女」が主役を踊る、そう告げられています。しかし、「少女」についてはこれまで土方による明確な規定がありません。強いていえば、「家屋敷は跡形もなく日本の少女だけが怪物的に生きのびているのを目撃しました」といわれるように、時代を経ても永続するものを「少女」にみようとしている感覚があると思われます。こうして、「静かな家」の内容とその表現の仕方の一端を検討したうえで考えられるのは、「四季のための二十七晩」に濃厚な「無知と悲惨」・<東北の過剰なもの>という限定から、土方は「少女」に込められた永続するものへと、その主題を大きく展開させているように思われることです。フィナーレ曲として「夕べの祈り」がこのとき初めて使われましたが、その永遠的な感覚を与える終曲は実に「鯨線上の奥方」まで使われ続けたのです。

「静かな家」を構成する際に俎上にのせられた舞踏符の方法の複雑化は、土方を舞踏符の方法の精査へと確実に促していったと思われます。土方はそれまで舞踏符の稽古に際して弟子たちに自ら表現することを禁じ、完全に受動的であることを求めていたようです。そこでは、「踊り手の内部がいつも何かで溢れている」ような状態が要求されていたからです。そのため、踊り手がそうした状態になりきらないときは、「作品はいつでも崩壊の危機にさらされている。土方は躍起になってその危機を支えていた」(小林嵯峨「うめの砂草 舞踏の言葉」)といいます。要するに、「東北歌舞伎」の段階では舞踏符の方法はまだ確立されていなかったのです。それはまだまだ危うい方法でした。舞踏符によって得られる踊りの<型>は、踊り手が受身になって初めて内部に過剰なものを孕む状態に依存していたのです。そうでなければ、舞踏符の<型>が無に帰してしまう危うさにつねに直面していたわけです。土方は自身が抱える東北の過剰なものを<型>に嵌めることで表現しようとしてあえて「東北歌舞伎」を掲げたと思われますが、自身はその方法を自家薬籠中のものとしたけれども弟子たちにあってはそうではなかったわけです。弟子たちを指導するために、舞踏符の方法は、まず内部を<型>に嵌めるようにして外部へ露にする手法として採用されたと考えられます。歌舞伎の「型」には役柄を形象化すると共に役者の素の動きを消す機能があると考えられますが、舞踏符の<型>は、内部を<型>に嵌めるようにして外部へ推し出すその過程において「私」を消すことになると考えられます。この仕方はしかし、その<内容>をつねに舞台で実現するためにはかなり複雑な手続が必要とされたのではないかと思われます。そのため、弟子たちにあっては舞踏符を「型」として身につけてしまう怖れがあったのではないでしょうか。「型」としてのレベルの舞踏符には問題があります。舞踏符が「型」へと陥らないように、舞踏の表現を構成する重要な要素である舞踏符について、このとき土方はさらに考え抜こうとしたのではないでしょうか。それが、この後にアスベスト館に籠って「白桃房」の表現に向かわせた一つの理由であると思われます。そのことのために、土方はいっさい舞台に立つことがありませんでした。
「白桃房」の連続公演では、三年間で十六もの作品が発表されました。アスベスト館の舞台はコンパクトで、「東北歌舞伎」のスペクタクルな内容とは打って変わってそこでは多様にして微細な時空間を表現するのに神経が注がれました。その結果、舞踏符と舞踏符が連続するその過程、そこに立ち現われる「敏捷な構造」に拠って表現するという、舞踏符の技術に支えられた舞踏の表現が実現されたのです。それは、からだが抱える抽象力を直接に扱い、そのための技術を伴ったかつてない表現といっていいと思います。この間に「歩行」という舞踏符の基本も確立されました。また絵画や写真を介して様々な神経アレンジメントが採集され、舞踏符を「型」に陥らないようにさせるために「感覚の論理」が手法として採り入れらることになったと考えられます。(これら「白桃房」の表現については「舞踏の表現形式について」を参照のこと)。いっぽう、こうした「白桃房」の表現は、結果的に芦川羊子という希有な踊り手を核として構成される作品がつくられていく過程でもあります。女性的なものに関わり、内部に取り込もうとした土方よりも、内部を外部へと推し開くより明確な過程を見せることのできる女性舞踏手の存在が大きく前面に出てきたのです。それも土方の集中的な指導に由るわけですが、「小日傘(1975)」、「ひとがた(1976)」で芦川羊子が舞踏の圧倒的な表現をみせた後、最終的に「鯨線上の奥方(1976)」において舞踏符による舞踏の表現が完成されることになります。ちなみに、この「鯨線上の奥方」と歌舞伎の「娘道成寺」を比べてみると興味深いでしょう。「娘道成寺」では女の一生が踊られるとすれば、「鯨線上の奥方」では奥方がドラマティックな時間を通過して、最後には逆に「少女」を通り越して「幼児」にまで還るのです。また「娘道成寺」の深層にある大蛇は鯨(の腹の中)にとって代わられているし、舞台中、大水蛇に関わるゲルマン中世詩が原語で朗読される等…、検討すればいろいろとわかることがあるかと思います。
 さて、「白桃房」連続公演を通過したうえで書かれた文章に、「包まれている病芯(1977)」があります。前に「舞踏の<主観性>」でも検討しましたが、ここではその内容を要約することでこの時期の土方の方法意識を確認しておこうと思います。「包まれている病芯」は土方の文章の中でもよくまとまった文章であり、なおかつ考えが整理されていると思います。そこでは「白桃房」連続公演を経て得られた身体の表現に関する知見が語られ、さらなる方法の追求に目を向ける土方がいます。
 まず、「包まれている病芯」という前提が語られます。
 内部が外部へと裏返される描写に関わるとき、内部であるかつての神経アレンジメントを立ち現せようとするものに<病>の兆しがある。内部を外部へと<入れ換え>するその過程は皮膚に見ることができる、というよりは皮膚において感覚することができるものほど良い。その過程は生そのものである。内蔵と皮膚の<入れ換え>の連続性、その過程においてこそ、私たちの記憶の始源のすがたが保持されていると考えられる。こうした内部の描写に関わる状態を<病体>と呼ぶ。この<病体>のうちから<病芯>が励起し、その<病芯>が内部を皮膚へと<入れ換え>する表現の構造を促すことになる。この表現の構造は、「人の根底がふるえているような状態のとき」に現れてくる。こうした<入れ換え>の過程も表現の構造も開かれてはいるが、そこにアプローチするための出入口はない。<病>、すなわちかつての神経アレンジメントを用意するものは内部に潜在状態としてあるからである。こうしたことは精神分析とは何の関係もない。内部に潜在状態としてあるのは<自明でない自己>であり、その<自明でない自己>は時間の問題にも関わっているのである。そこで、「自己を懐かしがる」ということを考えてみると、崩壊するのを知ったうえで立ち現われてくる記憶が大事なものにみえてくる。自己から解放されようとしたり、自己を紛らわすように思考を重ねる場合もあるが、自己の状態も様々である。物事に決まったように反応する模型的自己、空虚な自己に忘れられていた自己を代用する嵌め絵的自己がある。また記号のように感知される自己があり、自己から解放されたような状態であっても実は虚構の生に関わっているという場合がある。総じてそこには自己というものにあるはずの拘束性がみられない。
 ここまでが前提で、次に舞踏の表現の問題が例示されています。
 迷うもの・迷うことを前提にしていない舞踏や陶酔感に浸る舞踏は、皮膚へと現れるものを摘出することができないだろう。外部に露になるものがあればそれでよいというのではない。舞踏を修得する際に大事なことは「同じことが二度起こりうるというメカニズムに抵抗する作業である」が、その際にも「一回性を過大視」してはいけない。
 そして、核心部に入ります。
 具体的なフォルムであっても裏返しされてそこにあるならば、<自明でない自己>が関わる時間と共に一種の記号として「既に配列されている事物(神経配列−アレンジメント)にすぎない」こともある。そこに空間が時間化するようにして自己を存立させているとも考えられる。裏返しされてそこに現われる仕草や身振りがもたらすもの、およびその過程には、想いが即座に神経アレンジメントとなってそこに時間が結ばれ、また即座にその神経アレンジメントが解かれることでそこに溶解したものの内部から、<自明でない自己>が「よみがえりとして」連れ添ってくるすがたがある。こうした過程における<自明でない自己>が「よみがえりとして」連れ添ってくるすがたには、「無」以上の何かが孕まれている。どんな思考も、こうした過程とその過程が孕むものと無縁ではない。例えば、食事する際に食事の記憶がその咀嚼行為の内に溶解していると気がつくことがある。こうした瞬間でさえも、夢に見られている状態と同じであると思えてくる。そこには名づけることができない現象があり、つねに私たちは見慣れぬ体験に襲われているといっていい。そのとき「私は微笑として現された存在になっている」。この「微笑として現された存在」は決して意図されるものではない。そこには<自明でない自己>が関わる時間も介入している。この時間を意識する、というよりも、この時間の中に意識を噛み合せる、そのことが難しい。
 最後に弟子への指導方法を模索している現況を述べて、文章を終えています。
「白桃房」の連続公演では一つの作品が平均して一週間は演じられています。最後の「鯨線上の奥方」にいたっては二週間にわたる公演が行なわれています。マチネーがあるから、その公演回数はかなり多くなっています。「白桃房」公演以前でも、「四季のための二十七晩」が二十七間、「静かな家」が十五日間の公演です。このように公演日が長いのは、踊りの手順が厳密に決まっていて、それを何度も繰り返すことで上手くこなせるようにすることにあるのではなく、何度も繰り返すことでからだが抱える抽象力に関わらせる機会を多くするためであったと思われます。舞台上で<必然性>の表現をなるべく多く体験することによって習得するものがある、そう考えられていたのではないでしょうか。一回一回の舞台で踊りのプロセスを更新すること、その更新を経験すること、そうした意味において本舞台に立つことも一種の稽古として捉えられていたのではないかと思います。とはいえ、舞台に立つことは、観客共々その場を体験するという意味で、稽古とは異なる環境にあります。稽古とはちがって、何よりもそこには自明でない切羽詰まった時間があります。そうした時間に迫られるさなかで表現がなされる、そのことにこそ習得するものがあり、舞踏の表現においてそうした経験が何よりも重要であることを土方は見定めていたのだろうと思います。