Saturday, December 23, 2017

Lahore日記  The Diary on Lahore


   城市 (5)


「そんなことをすると恐ろしい顔したモンゴル軍がやって来て、お前の鼻をちょん切って持って行ってしまうよ」、子供の頃に悪さをするとそう言って母親が脅かすのだ。そんなことをぽつりと口にしたのは友人のAkhtar Aliか、それとも茶屋の主人Rufeeqか、いや、城市に住む他の誰かだったか、もう記憶が定かでない。とにかく城市に住む者から聞いたのには間違いない。というのも、かつてLahore城市はモンゴル軍による凄惨な襲撃を経験しているからである。襲撃は幾度も繰り返され、その度に城市は壊滅的な打撃を受けたという。両目の端っこを指でつり上げてみせ、「どうだ、モンゴル軍はこんな顔をしているんだぞ」、とからかわれた。その奇態な面相が誰のものともなく想い出される。パンジャブ人は鼻腔が高く、眼窩もくっきりしている。だから目尻をつり上げ、切れ長の目をつくるだけで妙に歪んだ面相になる。そんな歪みを示すことで、おそらくモンゴル軍による襲撃の記憶が現在まで城市内に語り継がれているのだろう。襲撃は十三世紀のことだから、およそ七百年前のことになる。目端のつり上がったモンゴル騎馬兵が大挙して遥かアジア平原からヒンドゥー・クシィ山脈を越えてインドの地にまでやって来たのである。その時空が今にいたるまで連続していること、さらにはその出来事の地理的な広がりを想うと、当時の私は目の眩むような感覚に襲われたものだった。
 アジア大陸の広大さは格別である。大陸の一点に立っていると意識すればするほど、この大地がいったいどこまで続いているのか、どこまで行けば果てがあるのか想像がつかなくなる。そんなとき、私の貧弱な二本の脚は膝から崩れそうになる。どこまでも地続きであるという感覚はこんなにも足下を不安にさせるものなのか。Ravi河の畔に広がる州都Lahoreにしても、四方を見わたすかぎりどこまでも真っ平らな平原上にあり、たとえ城市内のミナレットから遥か遠方を眺めても、方角の指標となるような凸型地形は何ら見あたらない。ただ平原から陽が昇り、また平原に沈むだけといった地形の上にある。たとえば、Delhiからプロペラ機でLahoreへと飛ぶ間中、窓下に真っ平らと思える畑地がどこまでも続くのを見ることができる。この緑のパンジャブ平原が、インダス河の支流であるJhelum河まで西方へ広がっているのだ。その先がヒマラヤ山脈から分肢するKoh-i-Jud(Salt Range)の乾燥丘陵地帯で、起伏のある岩山が幾重にも重なる荒野が続き、その上に軍都Rawalpindiが位置している。そしてさらに旧都Peshawarまで行けば、その西方に峻厳なヒンドゥー・クシィ(「Hindu-Kushi/インド人殺し」の意)山脈の青黒い影が行く手に立ち塞がるのが見える。そこまでは難なく分かる。Lahoreから幾度も通った道筋から眺める地形だからだ。しかし、私の観点はあくまでもインド側から見た大陸の地形図を知らず知らずのうちになぞっているのにほかならない。その先はKabulまで行ったが、Khyber峠を越えてJalalabadを過ぎると風景は一変し、赤や青の岩肌が波打つ高原、そして深く刻まれた暗い峡谷を通り抜ける。村落や移動民の影すらなく、ただ荒涼とした大地に囲まれ続ける。Kabulは山脈の只中にある盆地で、四方を山に囲まれ、そのせいでまるで迷路に嵌まり込んだような感覚に陥り、その向こうがどうなっているのか私は考えることさえできなかった。
 おそらく、アジア平原を自在に移動するモンゴル軍にはまったく異なる地形図が考えられていたに違いない。1219年、モンゴル軍はアラル海東方にある、当時交易で繁栄していたホラズム王国への遠征に着手した。その襲撃は前代未聞の規模と残虐性を誇ったという。アラル海に注ぐアム川の畔にあったホラズム・シャーの本拠地は破壊され、そればかりかモンゴル軍はわざわざ河道を変更させ、廃墟となった城市の上を流れるようにさえしたのである。抵抗する城市の住民は皆殺しにして、その凶行の噂を遠くまで広めさせた。ホラズム王は国を棄て、アム河を渡り、ヒンドゥー・クシィの山塊を越えて命からがらインド方面へと逃げて来た。モンゴル軍は王の後を執拗に追いかけ、その果てにパンジャブ地方になだれ込んで来たのである。
 1241年、モンゲ・カーン率いるQara’unas族の三万という「獰猛で手に負えない」モンゴル軍がLahore城市を包囲し、「城市を地表から抹殺する」と宣言した。Qara’unas族というのは、それ以前からアフガンに定住していたモンゴル部族で、モンゴル軍によるペルシアやインド侵攻における主力の役目を果たしたようだ。モンゴル軍はその宣言通りに仕事に取りかかった。二十一日間の掠奪のあいだにすべての男が虐殺され、女たちは犯され、その後に喉をかっ切られた。「通りという通りが血で真っ赤になった」。生き残ったものは一人としていなかった。彼らは馬や雄牛を使って、当時は泥でできていたすべての家屋を壊し、城市は「真っ平らにされた」。その後、モンゴル軍は「あらゆる種類の鍋釜と財貨」と共に去って行った。そのとき、「Lahore城市はその存在をやめた」という。

 とはいえ、Lahore城市に攻め入って来たのはモンゴル軍だけではない。「Tarikh-i-Lahore(ラホール誌)」には城市が外部民族から受けた襲撃が記録されているが、それによれば襲撃は十三回にも及んでいる。十一世紀のガズナ朝のMahmud王の襲撃から数えているから、十一世紀初頭のHindu-Shahi(王朝)の崩壊時期から十八世紀のシーク教徒による襲撃までの記述である。八百年の間に十三回といえば、およそ一世代に一回は攻撃を受けているということになる。とてつもない頻度である。むろん「ラホール誌」に記録されていない襲撃も数えきれないほどあるから、Lahore城市の歴史は襲撃と破壊の歴史と言ってもいいくらいなのだ。アフガニスタンから、ホラサーンから、中央アジア平原から、騎馬の大軍が続々とやって来ては城市を取り囲み、城壁を壊して住民に襲いかかり、物資をことごとく強奪したのである。
 ここにその十三回の襲撃記録を書き出してみよう。ただし十九世紀に書かれた「Tarikh-i-Lahore(1886)」には歴史的に不正確と思われる点が少なからずあるが、あえてそのままにしておく。
 最初の襲撃は1021年、ガズナ朝のMahmud王が率いる軍によるもので、Mahmudが北インドに侵攻した際にLahoreJayapala王が背信したことが理由とされる。Jayapala王は戦いにあっけなく敗れ、Mahmudは部下の反対に耳をかすことなく城市を襲撃した。「王の命令で襲撃が始まり、城市の物資は強奪され、家という家が焼かれた。多くの人が殺され、生き残った者は城市から逃げ出した。優美な城市は二日間にわたって破壊し尽された」。その後、「数年の間Lahore城市は廃墟のまま打ち捨てられていた」が、Mahmudの寵臣Malik Ayazがパンジャブ司令官に任命されると、彼は城市の再建に意を尽した。
 次に1186年、ゴール朝のMuhammad王がガズナ朝の支配に取って代わるために城市を襲撃した。「一日中、城市は略奪され続けた。多くの聖職者が殺された。夜になってやっと安全を保障するお触れが出された」。この襲撃によってガズニ朝の支配は終わり、ゴール朝による北インド支配が始まる。Delhiを本拠地としたMuhammadLahoreを冬の首府とした。
 三度目は1215年、ゴール朝のトゥルク系司令官であり、シンド地方の王Tajuddin Yalduzが北インド支配の野望の下に城市を襲撃した。しかし、「Tajuddinは最悪かつ無慈悲にも城内を略奪し始めたが、何も得られなかった。というのも、人々は襲撃を恐れて各々がみな財産を城内から外に移してしまっていたからである」。住民はあらかじめ城市郊外に隠れ場所をつくり、女子供を匿うと共に財産もそこに隠したようだ。ゴール朝は内紛のうちに崩壊し、TajuddinDelhiから「血に飢えて殺気立つ軍隊」を率いてやって来た Qutbddin Aibak王に敗れ、その結果、LahoreDelhi奴隷王朝の支配下に入る。
 そして、四度目が1241年のモンゴル軍による襲撃である。三万の騎馬兵が中央アジアからやって来た。「当時、パンジャブ地方は旱魃に見舞われていた。それにもかかわらず敵の掠奪と蹂躙がパンジャブ全域を破壊し尽した。何千という村々と町が廃墟となった。Lahore城市もこのときは灯りが消え、人々は死を恐れて城市を捨てて逃げ去った」。この後Delhi奴隷王朝のBalban王が城市を再建するまでの三十年間、城市は息絶えたようになり、人が住まなかったという。
 五度目もモンゴル軍の襲撃で、1298年のことである。今度は二万の騎馬兵がやって来た。「Lahoreと(その南方の城塞都市)Dipalpurの二つの城市が襲撃された。パンジャブ司令官は奮闘したが、敵軍を追い出すことができなかった。ついにはみなDelhiに逃走したのでタタール軍は非常に満足して掠奪しにかかった」。モンゴル軍はその後の1303年、1305年、1306年と打ち続けて北インドに侵入し、モンゴル軍に対するDelhiの軍事的戦略が功を奏するまで各地への襲撃が繰り返された。
 六度目は1398年、ティムール軍によるもので、地方の皇子に対する反逆を理由にティムールの息子が率いる騎馬軍がやって来た。Delhiの掠奪と献上品取得が目的で、その途上のLahore城市も掠奪された。「城市はふたたび恐ろしいほどの損害を被り、例のごとく、掠奪と蹂躙のためにパンジャブには一人残らず住民が居なくなった」。その惨状たるや、「ティムール軍がやって来たら街には梟しか鳴かなくなる」、と伝えられている。その後、遠征から戻ったDelhiFiroz Shah Tughluq王がやって来て、「一回の殺気立った戦いの後にタタール軍をパンジャブから追い出した」。
 七度目はSalt Rangeに住むGhakkar族による襲撃で、ティムール軍の北インド侵入によるDelhi王朝の混乱に乗じたものである。「Sekha Ghakkarが再びSalt RangeからLahoreまで降りて来た。そして城市を襲撃し、物資を掠奪し、あげくの果てにLahoreを統治し始めた。城市の人々はSekhaの悪行と暴政のために生きた心地がしないほどの思いをした」。
 八度目もDelhi王朝の混乱に乗じたGhakkar族による襲撃で、DelhiKhizil Khan王が死に、その息子Mubalk Shahが王位に就いた年に起きた。「Sekha Ghakkarの兄弟であるMusmi Jasratがパンジャブで反乱を起こした。その際の襲撃は、今までに城市が受けたどんな襲撃にも劣らないほどのものだったと見積もられている」。「Delhi側の司令官は戦いに敗れて逃走したが、城市の人々は戦い続けた。二ヶ月後に城市側が制圧された。それから殺害と掠奪が始まった。何千という人が殺された。いたるところに収穫物が山積みされた。大きな建物には火が放たれ、打ち壊された。城市は破壊し尽された」。JasratはさらにDelhi方面へ侵攻するが、Mubalk Shah王の軍隊に阻まれた。「Mubalk ShahLahoreへやって来て城市が廃墟になっているのを見た。いたるところに無数の死体が腐敗したまま転がっていた。王は死体をどこでもよいから穴を掘らせて埋めるよう命じた。すべての死体が埋葬され、殉教者の盛り土があちこちにつくられた。それから、城市にやって来て住む者には六ヶ月分の費用が王から与えられると布告した。すると、三ヶ月のうちにふたたび城市に人が住みつき、住民が生活する様を取り戻した」。
 九度目は1524年、ムガール朝の始祖Babur王がKabulから北インドへ大軍を率いてやって来た。「Lahore城市に入城し、いくつかの場所を掠奪し、いくつかの家屋に火を放った。人々は襲撃を恐れて城市から逃れるしか術がなかった」。その後Babur軍は幾度も襲来し、「三度目にBaburはシンド方面からやって来たが、軍隊を率いて二度目の城市破壊を行い、建物を焼き尽くした」。その後は、北インドを平定したムガール朝のAkbar帝がLahore城市の大規模な再建をし、城市は百年間ことのほか繁栄することになる。
 十度目の襲撃は1739年、イランのNadir Shah王による北インド侵略である。「Nadir Shah自らLahore城塞を包囲した。城市の門という門は閉じられたが、城市の外に住む城市内の四倍にあたる住民が戦い始めた。Nadir Shahの軍隊は城市に押し入った。二軍団が城市内を掠奪しにかかった」。ムガール朝・パンジャブ大守の「Zakaria KhanNadir Shahへの服従を受け入れ、たちまち臣下となって仕えた。するとNadir Shahは城市の安全を保障し、二十万ルピーの現金と十頭の象を贈与(Nazranah)として与えた。こうした処置をした後、Nadir Shahは(北インド侵略を続けるために)Delhiへ向かって出発した」。
 十一度目は、アフガン王のAhmad Shah Duraniによる襲撃で、1748年にKabulから二万五千の兵を率いてLahoreにやって来た。このときは、「最初にLahore城市の外にあるMugalpura(そこには貴族階級の大邸宅や地方で財を築いた者の大層な家屋があった)が掠奪された。Duran軍はMugalpuraを一日中掠奪し続けた。運ぶのに困難なほどの量の財が強奪された。夜になって城市の住民はDuran軍を恐れて震えながら時を過した」。その二日後、パンジャブ大守の代理長官であるMir Mumin Khanが囚われの身から解放され、Ahmad Shahに服従の意を示した。Ahmad Shah王はそれに対して敬意を払い、城市にNazranahを支払った。
 十二度目は、1760年前後、中部インドのマラータ軍によるLahore侵攻に際してパンジャブ地方一帯が権力空白状態に陥ったのに乗じたシーク教部族(一族まるごとシーク教徒に改宗した部族)による襲撃である。「マラータ軍がまだLahoreへ達しないうちに、城市周辺は盗賊の被害に遭い続け、次第に街は衰退していった。シーク教部族は城市の外にある邸宅を掠奪した。城塞の門は閉ざされたままで、城市の外へ足を踏み出すような、息する者のどんな気配も見られなかった」。シーク教部族は城市外の集落にやって来て、「すべての邸宅を襲撃し、破壊した。人々は為す術がなく、無惨なのは、盗賊たちが人々が身につけた服も見逃すことなく奪い去ったことである。多くの貞節な貴夫人たちが井戸に身を投げ込んで死んで行った。男たちは為す術なく殺され、多くの人が別の領地へ逃げ去った。盗賊たちは持ち出せる物資を掠奪してしまうと、次には城塞に侵入し、建物という建物を襲い、屋根の木材、門扉等、誂えの良い物を取り外しては持ち去った。そして、その後に火を放ったので、数日間その優美な街は燃え続けた。城市の外の集落はすべて燃え、灰と化した。それから盗賊たちは城市内部に目を向け、力ずくで中に入り込み、物資を掠奪した」。Lahore司令官がシーク教部族による三万ルピーの金銭要求に応じてやっと盗賊たちは去って行った。1758年にはマラータ軍がLahoreを制圧したが、その二ヶ月後、マラータ軍を懲らしめるためにKabulからAhmad Shah Duraniが莫大な数の「血に飢えた軍隊」を率いて北インドにやって来た。「マラータ軍司令官は恐れをなして震え出し、Sutlej河を渡ってパンジャブを後にし」、インドへと退却した。
 十三度目、すなわち最後の襲撃もシーク教部族によるもので、1767年前後のことである。ムガール朝の凋落と共に彼らは勢力を増したようで、「シーク軍団」と記されている。Lahoreに新たな司令官が就任すると、「シーク軍団がふたたびあちこちで活動を始めた」。Lahore区に駐留軍が少ないのを見計らい、シーク軍団はLahore城市を包囲し、城市を殲滅すると威嚇してきた。代理長官がその威嚇を無視すると、「とうとうシーク軍団はDelhi門を壊して城市になだれ込み、掠奪を始めた。代理長官Kabuli Malはシーク軍団の要求を呑み、幾人かの城市住民の鼻や耳を削ぎ落として城市の外に追いやり、さらにシーク軍団に莫大な金額の贈り物をして城市から退却させた」。その後、三人のシーク将軍がやって来てLahoreを支配した。「城市の人々は、城市が掠奪されないこと、住民の安全が保障されることを求めた。城市の門が開かれた。シーク軍は城市内に入るや掠奪を始めた。そして、<Jab tak Thik na Gaye, Baaz na Aae./首尾良くいかなくなるまで、(掠奪を)やめなかった>」。三人のシーク将軍はLahoreを三つの区域に分け、各々がその区域を思うままに支配し始めた。1799年、Ranjit Singhがシーク王国の王位に就くと、Lahoreはその首府として一時的に繁栄する。が、息子のSher Singh王が暗殺されると再びLahoreは政治的混乱に陥ってしまう。「KashmirHira Singh王がシーク軍を率いてLahore城塞を奪取するため(Delhi門から)城市内に入って来るや、城塞に至るまでのBazarの店という店を掠奪しにかかった。住民は、召使いたちが喜んで軍隊の配下とならぬよう部屋に閉じ込めた」。

 何と陰惨な歴史だろう。城市の富とその支配をめぐって戦闘が繰り返され、異なる民族が果てしなく殺し合う。強奪し、殺戮し、破壊し、焼き尽くす。鼻や耳を削ぎ落とし、首を切り落とし、生きたまま焼き殺す。高貴な女性は井戸に身を投げ、女子供は袋詰めにされて連れ去られ、中央アジアの奴隷市場で売られたに違いない。城市の懐を開いてみれば、そんな陰惨な記憶が詰め込まれているはずなのだ。
「…大地は頭蓋骨に満ちあふれ、雨が無理矢理彼らを不快にむき出させる/誰しもが、Lahoreが少なくとも都市六つ分の墓場であることを知っている/そして今日は昨日の、もしくはそれ以前の日々の、人間の塵から成る泥壁で築かれている/でも、人はいつも雨が降っているという事実を想い出さないようにしている…」。キプリングは城市の陰惨な歴史を良く知っていたのである。城市の小路という小路の下には旧城市を生きた者の死体が積み重なっているのだった。この陰惨な歴史が、アジア大陸のいたるところに築かれた城市を囲む城壁の意味を否応なく解らせてくれる。いつどこから敵が襲来するか分からない。いつ味方が敵に寝返り、自分を襲って来るか分からない。領土には境界もないし、城市の外では領主の支配がどこまで及んでいるのかも分からない。どこまでが信じることのできる領土なのか。信頼に値するかどうか分からないが、城市を囲む壁は目に見える最低限の境界なのである。内側にはよく見知った者が住む馴染んだ空間があり、いっぽう、その外側には広大な大地が広がり、市井の人にとっては自分で自分の身を守らなければならない果てしない空間だ。その内と外の区別を、城壁の存在は伝えている。
 現在の私はアジア大陸の東端に浮かぶ島国に定住しているのでその感覚も遠のいてしまったが、Lahoreに居住している時には外部からの十三回の襲撃と破壊の記録を読み、その凄惨な事態を想って驚愕した。今その感覚を想起しかけているところだ。大陸の地を踏みしめているにもかかわらず足が地に着かないような感覚、その不安の感覚の原因がそこにあると思う。その欠片が今でもからだのどこかに抱え込まれているような気がする。記録によれば、外部民族からの襲撃を受けるたびに城市は徹底的に破壊され、掠奪された。城市にとって言語も文化も異なる<他者>である民族が外部からやって来て、城市を<真っ平になるまで>破壊している。破壊者は、アフガニスタンから、イランから、中央アジアから、さらにはモンゴルのように遥か中央アジアの草原からやって来た。そのいっぽうでパンジャブの丘陵地帯の部族から、また異なる宗派からも頻繁に襲撃を受けている。その度にLahore城市に<他者>がなだれ込み、富も人も破壊し尽されたのである。この広大なアジア大陸にあっては、どこからどんな民族が陸続きにやって来て凄惨な襲撃を仕掛けるか予想もつかないのだった。その種の不安の感覚が途轍もないことのように思われた。「彼らは運命のように、原因もなく、理由もなく、考慮もなく、口実もなく到着する」(ニーチェ)からである。とはいえ、ノマドにはノマドの理由がある。彼らは時空に関して異なる感覚をもっているのだ。そのいっぽうで、定住民は訳もなく恐れるばかりなのだ。
 削ぎ落とした鼻の数で功績を量るというのはモンゴル軍の慣例だった。その数に応じて恩賞を得るのである。それ以前のトゥルク族による襲撃では男たちは殺され、女子供は奴隷市場で売るために連れ去られたから、それとは異なる利益に絡むシステムが働いていたのである。イスラーム軍はヒンドゥー教徒を殺し、ムスリムに改宗して死を免れた者からは税を搾り取ったが、モンゴル軍の前ではヒンドゥーもムスリムもない。ただ鼻の数があるだけだ。鼻数に応じて、掠奪された物資が部下に分配されたのである。
 総じて侵略者は、自分に従わない者に対しては厳しい処置で応じた。頑強に抵抗し、その使者を殺害したために、とりわけ過酷な攻撃に遭い、あたかも地上から削り取られてしまったかのようになった城市もある。そのいっぽうで、襲撃による荒廃を繰り返してもそのつど復活し、生き続けた城市もある。Lahore城市がそうだ。とはいえ、現在城市内を歩き廻ったところでかつての陰惨な歴史を物語り、また想起させるようなものは一切遺っていない。すべて破壊されてしまったからである。城市を囲んでいた城壁さえ遺っていないのである。その代わりに、城市の地面の高さは上がり続けてきたという。襲撃によってそのつど建物が壊され、死者が折り重なり、その上に住居が建てられ、自ずと通りができて地が馴らされ、その上で人が生活してきたからである。
 死者の上に死者が積み重なっている…、そう考えながら今日も私はLohari門をくぐり抜ける。この一見ムガール風の門も、1864年に大英帝国によって造り代えられたものだ。それ以前の門は城壁と共に壊され、そのかたちさえ分からない。印パ独立前の1940年頃まで、城市のすべての門は不審者を中に入れないために夜になると閉じられたという。門を抜けてLohari Mandiの小路を歩けば、さらに狭まる小路の入口のところどころに小さな門があった痕があるのが分かる。かつてはMohallahの内と外を区切る小門がいたるところにあったという。城市で最も古いMohallah MaullianGalliを歩く。迷路になった細路、その石壁、石畳の階段、建物の出窓のそこここに<中世風>の趣を感じるが、その感覚には何の意味もないのだった。それはお仕着せのイメージと共に捏造される空虚な感覚だ。目に見えるものではなく、一歩一歩踏みしめる小路のその足下深くの地層に注意を傾けなければならない。そこの地層、あそこの地層、どこに注意を向けようとも、その下には確実に死者が眠っているはずなのだ。
 記憶は現在をつくり上げているものだが、その材料は過去のものである。過去の記憶は層を成している。相互に複雑に噛み合い、そして絡み合う、そうした記憶の層に支えられた現在がある。いわば、そうした記憶作用を核とした意識の<自然>があるように思う。そう考えて城市の陰惨な歴史の流れを想うとき、現在に至るまで、そこには大陸の自然が何らかの仕方で凝縮されていはしないかと思う。自然の営みが、それに対する人間による自然の変様が、城市の陰惨な歴史として凝縮されていはしないかと。夏の酷暑、冬の底冷え、雨季の前の砂嵐、雨季の大雨といった過酷な自然環境にあって、この地域の果実は甘く、実りは豊かだ。いっぽう、そのむきだしの自然と対峙しながらその自然が容赦なく人間の情動を熟させ、その果を求めるようにして人間の情動を外へと駆り立てる。その果てに、人間の<自然>を血腥い戦闘へと凝縮させるのだ。戦争機械の背後にある要素である情動は、人間の<自然>を凝縮させたものなのである。戦闘行為には人間の<自然>が変様した力がむきだしになっている。馬を疾駆させ、弓を引き、剣を振り下ろす。その神経配列には人間の<自然>が反映されて、容赦のない<自然>の変様した力がありのままに凝縮されている。そして、人間が自然を凝縮させているように、城市もそうした自然を凝縮させているのだ。凝縮させているというか、城市には自然が地層化されている。人間が抱える情動という<自然>があるように、城市における生産と消費の流動力に伴う<自然>がある。城市は生産し消費する流動状態において何かしらを凝縮させているのだ。人間の<自然>もそうであるが、ことに城市の<自然>を凝縮させる仕方は、富と政治権力を醸成するような地層化へと展開してゆく傾向がある。城市の破壊と復活の歴史を見ればそのことが分かるだろう。そうであれば、人間の<自然>もまた次の段階へと醸成されると考えれば、人間の<自然>にとって超自然的なものがそこに要請されることになりはしないか。

 繰り返し破壊されてもその度によみがえる城市がある。あたかも地上から削り取られたかのようになりながらも、その後必ず復活し、生き続けてきた城市がある。何ものかに護られているのだろうか。
 Lahoreの城邑はインダス文明にまで遡るという説がある。インダス文明はイラン高原からやって来た人々が創り上げたMohenjodaro周辺文化と、土着の人々が創り上げたHarappa周辺文化の二つに分けられるが、Lahoreの場合はむろん土着のHarappa文化に属する。1959年にLahore城塞の小丘を発掘した際に、炭素測定で3950年〜4050年前の土器の破片が出たという。さらには城市内のMohallah Maullianでも、炭素測定で2950年〜3150年前の土器が出土したという。Ravi河は幾度も流れを変えているが、Lahoreの小丘の位置は変わっていないはずだ。「Rigveda」に記された内容を信じるならば、3700年前にはパンジャブ地方に主要な城市があった。そこに土着の民が築いた城市があったと考えられている。また「原始仏典」の内容から、2500年前にLahoreは仏教都市であり、仏陀がMohallah Maullianに滞在したと考える者がいる。この時代にはすでにアーリア人が周辺地域を支配していただろう。前850年頃のことを描いたとされる叙事詩「Mahabharata」は、パンジャブが舞台であるからだ。その戦いはLahore城市の北方、現在のMahmood Booti Bundであったと主張する者がいる。それから一千年後、Lahoreはブラフマンの王が統治するパンジャブの首府であったとされる。小丘に首府機能としての城塞が築かれていただろうか。後代の記録によれば、「Lahoreは、(「Mahabharata」で描かれる主要部族の)Pandava族の子孫であるParachit王によって築かれた」とある。城市は飢饉や侵略によって何度も衰退したが、「人口が減少するたびに再生した。こうした事態が何世紀も続いた」とある。この間、中央アジアからエフタル族やトゥルク系民族等の侵入があり、その結果、クシャーン王朝が中央アジアから北インドにかけての広い領域を支配した。「Vikramjit王が住民を増やし、それからJogi Samandpalが城市を拡張し、街は栄えた。Lohar Chandがやって来て以来、街は<Loharpur>と呼ばれていた。Loharpurに近接する城塞は<Loharkot>と呼ばれていた」という。また十世紀のイスラーム教徒による記録によれば、「Lahoreにはたくさんの寺院と市場があり、市場には豊富な物資が揃い、街路には石畳が敷かれて清潔このうえない。ムスリムはまだいない」、と記されている。
 十世紀の終わり頃、パンジャブのPrithvipalaの息子Jayapala王が率いる軍がLahoreを制圧する。城市が外部から制圧される初めての記録である。このHindu Shahi(王朝)の一族はクシャトリヤに属し、Kabulを含む広い領土を支配していたのは、歴史的に中央アジア(Tukharistan)に由来するか、もしくは中央アジアとの繋がりが深いからだとされる。ホラサーンを支配するトゥルク系のSabuktigin王がインダス河を越えて侵攻して来たとき、LahoreJayapal王が立ち向かった。その後、再度Sabuktigin王がガズニからパンジャブに侵攻してJayapal王の軍を打ち破った。Jayapalaの治世は、Sabuktiginが興したガズニ朝のMahmud王が率いる軍にPeshawarで敗れて終わる。その息子Anandapala王はインド諸王たちによる連合軍を招集してMahmud軍のインド侵攻を遅らせたが、MahmudHindu Shahi(王朝)の大部分の領土を奪うことに成功した。こうしてヒンドゥー王朝によるLahore支配は終わりを告げた。
 古来よりLahore城市をめぐる攻防が繰り返されていたことが分かる。最初はアーリア人の侵入であった。それ以来、城市は城壁で囲まれるようになったのだろう。一説に、「Lahore」とは「Loh-war」、すなわち「Lohの城塞(war)」が訛ったものといわれる。ただし、十世紀頃のLahore城市は小丘を中心に泥壁で囲まれた小規模なもので、本来はMahmudの直接の攻撃対象ではなかったようだ。だから、その襲撃にいたる経緯は「不運だった」と考えられている。とはいえ、パンジャブにおける富の集積地であった城市は掠奪の対象になり易かっただろう。
 ガズニ朝のMahmud王は十七回もインドに侵攻した。インドの富が目当てだったといわれる。最初は1001年で、一万五千の騎馬兵と共にパンジャブにやって来た。当時のインドは大小の王国に分かれ、互いに戦い合っていた。それゆえ外部から攻められ易かったと考えられる。その後、Mahmud軍に対してヒンドゥー諸王国が連合し、そのことが逆にLahore城市が攻撃されるという皮肉な結果を生んでしまう。Mahmudは抵抗者や裏切り者には必ず報復したからである。Lahoreを攻撃した軍団の規模は、たとえばインド侵攻の際に十万の騎兵と二万の歩兵を準備したというから、それと同様の規模だったにちがいない。徴用された歩兵や騎馬兵は掠奪品という<恩賞>を目当てに集まった。ガズニ朝の軍隊はトゥルク族主体であったが、Salt RangeGhakkar族はヒンドゥー教徒であるにもかかわらず、Lahoreの王にその領土を力ずくで自分たちに譲渡させようとしてトゥルク族側についた。LahoreBussa族はトゥルク族の侵攻に対抗したが、Bhati Rajput族はMahmud側について戦った。ヒンドゥー教徒側はそれぞれの利害に乗じて戦ったのである。この戦いでJayapala王は十万の兵士を失ったという。
 1021年、Lahore城市はMahmud軍に包囲される。あらかじめ学者や職人、技能者等は南部へ逃げ去り、農民や低カースト者が侵略の矢面に立たされた。王はまず城市を兵糧攻めにし、それから泥壁を壊しにかかった。頑強な抵抗に遭い、城市を破壊することに決めたのである。泥壁は堅固に出来ていて、真っ平らにされるのにまる七日間かかったという。襲撃が始まり、当時、城市の唯一の城門であったLohari門の内側のLohari Bazarから旧城塞があったと思われるKaccha Kotへ通じる街路沿いの市場という市場は掠奪の憂き目に遭っただろう。Mohallah Maullianの小丘の頂上にあたるKaccha Kot周辺の建物は破壊し尽されただろう。襲撃の後、抵抗者は皆殺しにされ、女子供は家から引きずり出され、ガズニの奴隷市場で売るために連れ去られた。Mahmudは少年を好むことで知られ、王のために一塊の少年が選び出されたようだ。運良く生き残った者も生きるためにムスリムに改宗せざるを得なかった。奴隷になるのを免れるために改宗を選択したのである。
 Mahmudの襲撃によってLahore城市はそれ以前の古い建物をすべて失った。さらにAl-Biruniが記している。「王は、パンジャブの富を徹底的に破壊した。…これがなぜヒンドゥー科学がこの地からはるか遠くへと後退し、我々の手の届かない別の地、すなわちKashmirBenares等に移ってしまったことの理由である」と。つまり、Lahoreは交易都市であったばかりでなく、そこではインド科学の研究、たとえば数学や言語学の研究であるが、そうした研究が展開されていた学問都市だったのである。
 その後の数年間、城市は廃墟のまま放置された。「Malik Ayazがパンジャブ司令官に任命されると、彼は城市に人を居住させることに傾注し、(Mahmudを継いだ)Masud王からその旨の許可を得た。そして誠心誠意をもって城市を再建した。すなわち、彼は数年間のうちに廃墟を、学識のある人と良き人が集まる宝庫となした。そして、Ali Hajweri(Data Ganj Bakhsh)といった卓越した人たちがガズニ朝やゴール朝からやって来て、Lahore城市の名声を確かなものにしたのである」(Tarikh-i-Lahore)Malik Ayazはまず城市の北側の小丘に城塞を建設し、さらに城市を拡張し、城市を囲む泥壁も堅固なものにした。これは新たなLahore城市の出現である。それまで学問・宗教都市であったヒンドゥー城市をMalik Ayazがイスラーム式に再建したのである。イスラーム都市は交易都市という意味合いが強い。その後Lahoreはガズニ帝国の首府となり、ガズニ朝の北西インド支配は百七十年間に及ぶ。LahoreはパンジャブからDelhi方面を伺う軍事戦略的に重要な位置を占めていたので、ムスリム勢力にとって最も東の砦として、さらに東方への侵出拠点として重要視された。とはいえ、城市は兵士と商人だけでなく、歴史的に聖者と知識人が集まる都市だったのである。
 ガズニ朝を興したトゥルク族は、当時東トゥルキスタンでのトゥルク族相互の戦いに敗れ、そこから押し出されるようにしてイラン系民族が支配していた西トゥルキスタンにやって来た。東トゥルキスタンと西トゥルキスタンの境域にはすでに奴隷市場があった。そして、帝国にも奴隷の需要があった。Mahmudによるパンジャブ征服はガズニの奴隷市場に多くの奴隷を供給したが、奴隷は私的な快楽の他に、シルクロード交易のために製造される様々な手工芸品を供給するためにも利用されたという。そのため、ガズニとその周辺地域は様々な商品交易と共に奴隷交易に依存していたようだ。ガズニから中央アジアにかけて知られた奴隷市場は中央アジアやロシアから捕えられた奴隷を扱っていたが、後にはインドから捕えられてくる奴隷を扱い、その数が最も多くなったという。ガズニとその隣接地域は帝国の繁栄を維持するために莫大な量の農産物と奴隷を必要としており、このことが、豊かな資源と奴隷となる多くの人口を擁するパンジャブがガズニ朝を惹き付ける理由だったのである。
 中央アジアのソグド人の商人はしばしば奴隷(Chaakar)を購入し、番人ないし私兵として自分たちが旅に出かける間に家を守らせた。この慣習が後世のイスラーム社会、とりわけトゥルク・イスラーム社会における奴隷軍人制度のモデルになったと考えられている。サマルカンドのチャーカルについて玄奘は、「彼らは非常に多くのチャーカル(柘羯/戦士)をもっている。チャーカルである者は生まれつき勇敢で気性が荒い。彼らは死ぬことを故郷に帰ることのように考える。戦いでは立ち向かう敵がないほどである」と記している。中央アジアのチャーカル(戦士)は、アラビア語化してシャーキリイヤ、後にはマムルークもしくはグラーム(奴隷)と言われたが、支配者個人に忠誠を誓うという、それまでとは異なる新しいかたちの帝国防衛隊を構成した。いわば近衛兵の発生である。たとえば、ガズニ朝を興したトゥルク人奴隷であるSabuktiginがそうであった。彼らは主人のために戦場で死ぬことは「故郷へ帰るようなこと」で、死後においてもすべてが生きていたときと同様であるというイスラーム式の考えを取り入れていた。彼らは荒々しい騎馬戦士で、熟練した射手や剣士からなる精鋭部隊を構成し、王と親密であることやその地位を示す金の装飾品(腕輪、帯、耳飾り等)によって際立っていた。それらの強く勇ましい好戦的な戦士は王の友であり、宴会や謁見の際には御殿の広間で王の近くに席を占めた。こうした王の従士ないし護衛は出身部族との紐帯を断ち切り、王のみに忠誠を誓うよう訓練を受けるようになった。
 サマルカンドのような中央アジアのオアシス地域にとって、遊牧トゥルク人との交易はつねに大きな経済的意義をもっていた。実際にはこの交易関係は、定住民よりも遊牧民にとってより不可欠であった。というのも、遊牧民が自分たちの衣服の供給源となる農業生産品なしで生活することは、農耕民が草原の畜産品なしで生活するよりもいっそう困難だったからである。それゆえ遊牧民はいたるところで、自らの生産品を売るためにオアシス地域との境界に進んで家畜を運び入れた。つまり、オアシス地域の商人が家畜や肉、毛皮などの買い付けに草原にやって来るのを待ちはしなかったのである。これがノマドの考え方である。
 ガズニ朝が滅び、トゥルク族に替わってイラン系のゴール朝のMuhammad王が北インドに侵攻し、Lahore城市を襲撃する。そのゴール朝は一時的に北インドを支配したが、内紛によって崩壊する。その後、Qutab-ud-din AibakLahoreで奴隷王朝の王位に就き、Lahoreを首府とする。北インドは再びトゥルク系のDelhi奴隷王朝が支配するに至る。こうしためまぐるしい政権交替のうちに、北インドにおけるイスラーム支配が確立されていったようだ。
 1241年、モンゴル軍が襲来する。モンゴルは中央アジアの交易拠点としてのホラズムを自ら支配したいと考えたのである。そしてこの後二百年の間、モンゴル軍はノマドの考え方に則り、北インドの富を掠奪するために襲来し続ける。このとき彼らはLahore城市を焼き尽くし、真っ平らにしたが、五年後に再びやって来て掠奪した。彼らが襲来しなかった二十年の間にDelhi奴隷王朝Balban王が城市の城壁を再建し、さらには城市の北西部に一連の新たな城塞を築いた。そして再び城市が栄えると、1285年に再びモンゴル軍も襲来する。城市が繁栄したのを見計らって襲来したのである。Ravi河岸の戦いでBalbanの息子のMuhammad皇子が戦死し、名高い音楽家で、Qawwaliの生みの親であるAmir Khusroも戦いに参加して囚えられる。この頃のパンジャブの富はモンゴル軍に掠奪されるがままという状況にあった。そして息つく暇もなく、モンゴル軍に替わってティムール軍が襲来する。
 1341年、Ghakkar族の援軍と共にティムール軍が三万の騎兵でLahoreを包囲した。当時のLahore司令官はMalik Shekha Khokharで、大量の金塊と馬、それに奴隷に美女という貢ぎ物を請われたが、モンゴル軍への継続的な支払いに疲弊していたので断った。ティムールはトゥルク族に由来する有名なBarlas部族の猛烈な戦士だった。Shekha Khokharが貢納を拒否したのを聞いて激怒し、「奴らのすべての富と馬と職人と奴隷を集め、それから街を真っ平らにしろ。街がRavi河の水位まで真っ平らになるのをこの目で見たい」、そう命令した。城市は再び破壊され、真っ平らになり、蓄積された富が奪われるのを目の当たりにした。部下が、「城市を破壊するのにまる七日間を要しました。もしAmir(ティムールのこと)が馬に乗って城市を望めば、城市が尽きてその向こう側を見ることができるでしょう」と報告した。ちなみにティムール軍は、パンジャブの諸河川の河岸に住んでいたジプシーを捕えては、移動し続ける兵士の奴隷にしたという。
 ティムールには名高い「首の塔」がある。戦いで殺害した敵の首を集めて漆喰でかため、塔(マナーラ)の形にしたものでそう呼ばれる。敵対する者への警告や見せしめを目的としていたようだ。イスパハンやバグダッドのティグリス河岸に築いたものがあり、イスパハンでは城市の壁に沿って、その半周の間に約1500人分の「首の塔」が28ヶ所確認できたという。
 ティムール軍の襲撃を受けて衰退した城市はとうとうSalt Range Ghakkar族に制圧されてしまう。Ghakkar族が住むSalt Rangeはヒマラヤ山脈が分枝する岩山地であり、三千年前にPandava族が国外追放にあった際に避難所としたところと言われ、インド亜大陸で最高の兵士を生み出すところとしても知られる。そこは最良の岩塩を産出し、植物の成長は乏しく、樹木は少ない。鉱脈が走り、中程度の質の石炭を埋蔵する。前326年の夏、アレクサンドロス大王とPorus王との戦いがSalt Range 南端のJhelum河岸であった。Pind Dadan Khan 平原よりかなり東の場所で、現在のJalal Pur Sharif の街にあるBukephalaがその場所といわれる。古来この地域の人々はつねに必要に応じて戦争準備をしており、マケドニアの征服者たちに対する戦いは自由を守るための戦いであったという。Mahmudのインド侵攻に対してヒンドゥー諸王が連合して対抗した際、Ghakkar族は最初Mahmud側についたが、後には裏切ってAnandpala側につき、容赦のない抵抗をした。Mahmudの息子Masud王はKabulからLahoreへの侵攻途中に激しい抵抗に合い、装備を身軽にするために贅沢品をすべて手放さねばならなかった。「持っていた酒類をJhelum河に投げ込んで」敵に対抗することができたのである。モンゴル軍やティムール軍もまたGhakkarの抵抗を鎮圧しないかぎり北インドに侵攻できなかったという。Delhi奴隷王朝のFiroz Shah Khilji王は、Salt Range攻略に際して次のように言ったとされる。「私は、(Jhelum河岸の)Janjuaで、小舟が(Salt Rangeにある)Judの丘まで滑空するほどの血を流させた」と。Sher Shah SuriSalt Range一帯に法と秩序をもたらすために大規模なRohtas城塞を建設し、そこに三万の騎馬兵を配備した。地域は強力な政治的一体性に欠けていたため混乱と権力空白がはびこり、部族と部族の対抗関係がつねに不和と流血騒ぎを起こしていたからである。
 十六世紀に入るとパターン系のIbrahim LodhiLahoreを制圧し、城市を破壊する。その際に多くのBhati Rajput族が殺害された。1519年、Baburが北インドに侵攻し、Lahore城市を徹底的に破壊するよう命じる。Lahore司令官Daulat Khan Lodhiが進貢を拒否したからというのが理由である。城市は真っ平らにされ、住民はすべて斬り殺され、多くの奴隷がKabulに送られた。Baburもまた自身の領土をウズベク人に奪われ、敵に追われて押し出されるようにしてインドに侵攻して来たのである。その後Baburは城市を襲撃する。再び城市の抵抗に遭って激高し、一切合切掠奪するよう命じ、さらには城市に火が放たれた。城市にムガール朝以前に遡る建築物が遺っていないのは、このときムガール朝の租であるBaburが城市を破壊し尽くしたからである。1526年、BaburPanipatの戦いでIbrahim Lodhiに勝利し、北インドにムガール帝国の基礎を築いた。しかし、シーク教の教祖Guru Nanakは、この時代について次のように語っている。「今の時代はナイフであり、支配者は肉屋だ。もし真の人間が真実を語れば、そのために刑罰を受ける」。
 1560年、城市南部のKucha Pir Shirazi辺りに「Niveenモスク」が造られる。おそらくヒンドゥー寺院の跡に建てられたのではないかと思われるが、これが現在まで唯一遺るムガール期以前の建築物である。その後Akbar帝が北インドを平定し、Lahoreを一時的にムガール帝国の首府とする。Kashmir制圧のためである。Akbarの治世に城市はそれ以前の三倍に拡張され、その周囲は高さ三十フィートの重厚な城壁で囲まれた。城塞は大規模に再建され、内部に宮廷が設けられた。城市はMardan KhanWazir Khan といった有能な人物によって統治され、十七世紀のLahoreは繁栄の極みに達する。当時の城市の職人仕事については皮革製本技術の優秀性が知られている。有名な画工にMian Imam Bakhsh Dusty Shabiahがいた。彼は少しの判断もすることなくいっきに線を描いたという。城市のBazarには下絵画工、刺繍靴職人、紐職人等がいた。織物工場もたくさんあり、無地の綿布、絹布等を生産していた。ショール職人もいたが、Kashmirの人以外にその仕事をする技術をもたなかったという。
 城市を拡張したせいか、Ravi河の氾濫によって城市の一部が損壊するようになった。Aurangzeb帝の命令で、河の東岸四マイルにわたって煉瓦を積み上げた強固な堤防が築かれた。Aurangzeb帝は五十年間にわたって帝国を統治し、城市に北インド最大の規模を誇る「Badshahiモスク」を建造した。それは現在もなおその威容を誇っている。
 Aurangzeb帝の死後、シーク教部族が反乱を起こし、城市はふたたび深刻な脅威にさらされる。Bahadur Shah Zafar帝がDelhiからLahoreに進撃したが、戦死する。ムガール朝は衰退し、1738年のイランのNadir Shah軍による城市包囲、1770年のアフガンのAhmed Shah Abdali軍による城市襲撃が続き、とうとう城市はシーク教Bhangi 族のLanha Singhに売り渡されてしまう。Ahmad Shah Abadali の下でKabuli Malが城市を統治していた時に、シーク教部族Kabuli Malの軍を破り、城市の全ての肉屋の鼻を切り落すという口実でDelhi門から城市に打ち入った。それ以前に起きた肉屋によるシーク教徒大虐殺の仕返しである。シーク教部族Kashmir Bazarのありとあらゆる香辛料と蔗糖の店を掠奪し、その後BazarというBazarに火を放った。その結果、かなりの歴史遺産が失われたという。
 1753年、Kashmiri Bazarの西端、Rang Mahal北側のDubbi Bazar地区に「Sonehriモスク(黄金モスク)」が建てられる。名前の通りその優美なモスクは、現在もなお街に溶け込むようにして立っている。
 Lahoreシーク軍団が支配する領土の一部となり、Bhangi族の将軍たちが三十年以上掠奪し続けるいっぽうで、1797年には再びアフガン人の侵攻を受ける。Ranjit Singh がシーク王国をつくるまでLahoreの統治は不安定で、外部からの定期的な侵略に翻弄される状態が続いた。この時期、城市は巨大都市から城壁居住地へと衰退し、とうとうその居住区域はAkbarが築いた城壁に囲まれた一帯までに狭まってしまったようだ。城壁の外は廃墟となり、盗賊に蹂躙されるがままになった。生き物の徴候といえば、城市郊外一帯を見張るために建てられたシーク軍団の二つの城塞のみになったという。Ranjit SinghLahoreを四十年近く統治したが、その間、城市にあるムガール建築ははなはだしく被害を受ける。Ranjit Singh は城塞とBadshahiモスクの間にあったSarai(隊商宿)を私的な庭園に造り変え、さらには城市内にSiva神を祀るかなりの数の寺院を愛人や踊り子のために建てた。
 1846年、パンジャブ地方は大英帝国の一部となる。大英帝国はまず城市を取り囲む城壁を取壊した。そればかりでなく、城市に入る十三の門のうちの一つShah Alami門を跡形もなく壊し、城市の中心Rang Mahalまで一直線に走る大通りを通した。これによって城市の姿は一変する。1857年にセポイの反乱が起こり、Lahoreでも見せしめのために、Lohari門前からセポイたちが生きたまま大砲からぶっ放された。当時のLahore人口はおよそ十七万人という。大英帝国はムガール朝の再来を望まないシーク教徒のセポイを信頼していたが、いっぽう、パンジャブのシーク教徒は、東パンジャブに住むRajput兵であるPurbia族を憎悪していた。というのも、彼らがシーク教徒に対抗するために大英帝国を支援していたからである。当時から大英帝国とシーク教徒との間には複雑な力関係が見られ、後に印パ分離の際にシーク教徒が受けた惨状にその結果を見ることになる。

 記憶の中に迷い込んだようになり、なぜか打ちひしがれている自分を自分が責めていた。後になってそのことを想い出す。どういうことだろうかと思う。私はLahoreに関する歴史記述を読みながら、城市に棲む少年のように身をすくませていた。あたかも自分の半身である少年が今も城市に居続けるかのように…。
 Akbar帝が城市を拡張するまではLohari門が唯一の城市門だった。城市へ入るには必ずLohari門を通り抜けねばならなかったのである。そこでは門衛がつねに他所者や敵の内通者に対して目を光らせていた。夜間には門は閉じられ、城市に入ろうとする者が敵対する者でないこと、あるいは敵対する者の協力者でないことが確かめられて初めて門が開かれた。敵襲来の報があったときには、ほとんどの城市の住民はまず事態の推移を見守るために近くの城壁の内に避難した。城壁の厚みに空間がところどころに設けられていたのである。もし事態が悪くなれば、女子供たちを郊外に設えた隠れ場に避難させなければならない。
 敵の襲撃に際しては、城市は閉じた貝殻のようになってその機能を一変させた。まずMohallahを内と外に区切る小路の門という門がすべて閉ざされ、どのMohallahも外部の者を中に入らせないようにすることが出来た。どのMohallahにも飲料用の井戸があり、どの家にも数日間生き延びることのできる量の小麦や砂糖、食用油などを蓄えておく貯蔵庫があった。自分の敷地に井戸を備えている家もあった。敵が襲撃してきたという知らせがあれば、城壁を越えてやって来る侵入者に浴びせるために、すぐに竃場の大鍋に湯を沸かし、さらにはぐつぐつ煮えたぎる油を用意した。
 数日間にわたって城壁が壊される音が城市を揺るがしていたかと思うと、あっという間に外部の者が城市になだれ込んで来る気配がした。住民らしき者の悲鳴と共に、ひゅるひゅると喉を震わせるような鋭く耳慣れない声が辺りを飛び交っている。いきなり恐ろしいほどの数の馬の蹄がなだれ込み、辺りに崩れ落ちる物音となって響き渡った。「Tahir、どこまでも逃げなさい」、という母親の声が最後だった。気がつくと上も下も分からない。四方から上下から、のしかかってくるものの重みを感じていた。人の頭が自分の頭にのしかかっている。そののしかかってくる頭から生暖かいものが流れ落ちて来て初めて上下を感じとった。その生暖かく流れるものが少年の顔を真っ赤に染め上げた。すぐ傍をひゅるひゅると声を出す者たちが馬の蹄の音と共に慌ただしくやって来たが、辺りを物色するような声音を発した後すぐにいなくなった。運良く少年は生き残った。神が同胞の血で生きたすがたを隠してくれたからである。
 Lohari Mandi Bazarの小路が跡形もないので、幾つもの壊れた家の中を通り抜けてMori門に出た。その狭い穴のような通路を抜けて目の前のRavi河の流れに脚を濡らすと、水が紅色に染まっている。いたるところに兵士の死骸が浮かび、どれもこれも顔の真ん中から血を流して真っ赤になっていた。Data Ganjの聖廟がある方の岸辺を伺い、河岸に沿って近くの叢に転がり込んだ。聖廟もことごとく破壊され、辺りに死体が折り重なっている。どこもかしこも血の匂いがする。血塗られた大地、血塗られた大地、血塗られた大地、大地はどこもかしこも血塗られている。少年はわけの分からない憎悪で胸が張り裂けんばかりだった。城市の方に目をやると、頭上に広がる空が異常にだだっ広いものに感じられた。空なんか大馬鹿野郎だ。からだが煉瓦のようにこわばり、二本の脚が膝から崩れ落ちそうだった。この膝小僧は自分といっしょにどこまで行けるだろう。「どこまでも逃げなさい」と扉の向こうから母親は叫んだが、一体どこまで行けるというのか。足は泥のように重く、自分のもののようではない。少年は緊張の極限にあってからだが突っ張り、瞼を閉じて眠ろうとしてもからだが眠ろうとしない。逆にからだの内部からばりばりと裂けたようになって、そこから何かが飛び出てきそうな感覚に襲われる。からだの中から大きな樹がぎしぎしと声をたてるようにして四方八方へ現われてきそうだ。枝を伸ばすように、何かを語るように、内部から大きな樹が現われて来るかのようだ。少年は以前に母親から聞いたことがある。
 かつてSpeaking Treeと呼ばれる樹が古代パンジャブの森に生えていたという。「アレクサンドロス大王が<インドの奥深くの森>にまで達すると、その土地の者がやって来て、王の運命を預言する樹のところに案内した。真夜中のことだった。その樹はどんな問いに対しても、問いかける者が語る言語で答えることができた。その樹の胴はいくつもの蛇が絡み合ってできており、枝という枝からは動物の頭が芽吹いていた。また美しい裸の女のすがたをした実がたわわになり、太陽と月を讃える歌を歌っていた。偽カリステネスによれば、その樹はインドの地を征服することの無益なことをアレクサンドロスに警告した、そう伝えられている」。
 からだの中でこわばっていたものが解け、いきなり得体の知れない力となって少年のからだを開いたようだった。少年はもう一度城市の方を振り返った。城壁の向こうに火の手が上がり、あちこちから黒い煙が燻っている。煙が犠牲を捧げるときのそれのように天上にゆっくりと昇っていく。それを見ながら少年のからだの芯から語り出そうとするものがある。その今にも発声するような動きにつれて、極度の緊張の原因である憎悪の感情が治まってきた。少年はそのとき、上空から城市を覆うようにして舞い降りて来るものの気配を感じて空を見上げた。目には見えないけれど何か確実に存在するものが上空に拡がり、それがゆっくりと地上に向かって舞い降りてくる。いやそうではない、ふたたび大地に視線を落としても、舞い降りて来るものの気配がからだに圧力となって強く感じられる。「天使だろうか」、そう口に出して、少年はやっと人間の<自然>を取り戻したように感じた。しかし、その<自然>はそれまでの人間の<自然>と同じではない。

Saturday, July 29, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


    城市(4) 下

 Avicenna、すなわちIbn Sina9801037)はBukhara生まれのペルシア人で、Ali-Hajweriより一世代前の人である。彼はイスラームにおける<天使学>を創始した。Ibn Sinaの天使は神の命令を人間に伝える単なる使者ではなく、また神が人につける「守護天使」と言われるものでもない。それは認識として働く天使であり、<能動知性>という面をもつと言われる。つまり、その天使は私たちの認識の在り方と重なるようにして語られているのである。彼はシーア派に属していたと推測されるが、親や兄弟はシーア派から分派したイスマーイル派の信者であったという。
 Ibn Sinaの<天使学>をみるには、それ以前の思考に少し触れておかなければならない。イスラームにおける被造物の本質と存在をめぐる形而上学はAl Farabi(872950)に始まる。Al Farabiもまた中央アジア出身で、トゥルク系の人だったという。彼の理論によれば、被造物における存在は本質を構成する性格をもたず、それは本質に由来する偶然的なものにすぎない。いっぽう、創造者である神に由来する<存在>は、必然的に存在する<存在>と、それ自身では存在しえない<可能的存在>とに区別されることになる。この<可能的存在>は存在とも非存在ともいえず、その存在は<必然的存在>によって措定された場合にのみ、必然的に<在る>という状態に変貌するとされる。この変貌において<能動知性>の問題が取り上げられた。また、「一からは一しか生じない」という原理があり、その原理が要求する、神を原因とする叡智体とその<発出>をめぐる理論があった。この<発出>理論はネオ・プラトニズムに拠っている。
 Ibn Sinaは<可能的存在>についてさらに論を進め、もしも何らかの可能的なものが必然的に<在る>という状態に変貌するならば、すなわち<存在>として具現化されるとするならば、それはその<存在>がその原因により必然化されたからに他ならなく、それ以来それは存在しないことが不可能である、と考えた。したがって、それ自身では存在し得ないが、その原因によって可能的なものが<存在>として具現化されるプロセスがあり、その発生源としての<第一叡智体>があるというのである。この<第一叡智体>に端を発して、宇宙論から天使的認識の現象学までを形成する一連の<凝視>の行為によって存在の複数性が生ずることになるが、<凝視>という作用を介することで、あくまでも「一からは一しか派生しない」ことになっている。それは次のような次第になっている。
 まず<第一叡智体>はその始源を<凝視>する。自らを<存在>へと必然化する原因である己の始源を<凝視>することによって、次々と<可能的存在>を生み出すのである。最初の<凝視>から<第二叡智体>が生じ、第二の<凝視>から第一天の運動因たる<天体霊魂>が、第三の<凝視>から第一天のエーテル的物体が生じるが、この物体は<第一叡智体>の下位の、非存在の次元から生ずる。こうして、<存在>が創始する三重の<凝視>が叡智体の各段階で繰り返され、ついに二重の階層、すなわちケルビム(純粋知性)的な<十の叡智体>の階層と、<天体霊魂(天上の天使)>の階層とが出来上がる。これら<可能的存在>は感覚能力をもっていないが、純粋な状態にある想像力、つまり感覚から解放された想像力をもっているとされる。
 階層の最終局面である<第十叡智体>は、もはや他の叡智体や天体霊魂を創り出す能力をもっていないが、この段階から<溢出>が、多くの人間の魂として発現することになる。<能動知性(‘Aql Fa’al)>と呼ばれる知性がこの<溢出>であり、私たちの魂はここから発していると言われる。さらには、<能動知性>による<照明(‘Ishraq)>の働きは、私たち人間による観念ないし認識の形相を、<能動知性>に向かう適合性を獲得した魂へと投影することになる。人間の知性は、それだけでは感覚的なものから知的なものを抽象する能力も役割ももっていない。というのも、あらゆる知的認識とその奥底にある原記憶はこの<能動知性>、すなわち天使から発する<溢出>であり、<照明>であるからである。こうしたことから、人間の知性は可能的に天使的本性をもっていると考えられることになる。人間の知性における実践知性と瞑想知性という二重の構造によって、天使的本性と人間の知性という二つの局面は、<天上の天使(天体霊魂)>と、それに対応する<地上の天使>と呼ばれることになる。
 こうした階層的構造を成す叡智体をめぐる理論から生ずる局面において、Ibn Sinaの認識理論は一つの<天使学>となっているのである。その<天使学>は三重の階層を提示している。まず<大天使もしくは純粋知性(ケルビム)>があり、そこから発し、天上界を動く魂である<天上の天使>があり、そして人間の魂、もしくは地上の人間の身体を動かし支配する<地上の天使>がある。Ibn Sinaは、私たちがこの天体霊魂である<天上の天使>と人間の魂である<地上の天使>との親近関係とその相応関係を執拗に想い起こすべきことを、「Hayy Ibn Yakzanの物語」において強調している。人間の魂が、魂がそこから発する<能動知性>に関わるのは、各々が天上の魂であるケルビムの<十番目の天使>が自ら思考とその<存在>を発散する知性に関わる、それと同じ関係にあるのである。それゆえ、<地上の天使>もしくは人間の魂がその天使性を自覚するのは、天上の魂である<天上の天使>を模倣することの他においてない。
「能動知性(intellectus agens)」についていえば、その概念はアリストテレスの記述に発し、注釈者たちの間で異説を生んできたものである。要するに、「能動知性」の本性は中世スコラ哲学において論議の主題となっていた。イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の様々な思想家たちが、アリストテレスの身体と魂に関する記述に関わり、その非物質的であるところの魂が、永遠の生という本質を理解する際にどのように寄与するのかについて考えてきたのである。
 Ibn Sinaは<能動知性>について、この叡智体を神の観念と同一視せず、これを神ではなく<プレローマ(神性から満ち溢れるもの)としての存在>とし、人間は叡智体によって直接に<プレローマとしての存在>に結びつけられていると考えたのである。というのも、魂を有機体の一形相であると考えていたペリパトス派の考えに満足できなかったからである。
 こうした<能動知性>としての叡智体は、正統的一神論に脅威を与えるものだった。なぜなら、<プレローマとしての存在>と直接、かつ個人的に関係をもつことは、ことに哲学者をして、現世の大教主を崇敬しないことになる危険を孕んでいるからである。それゆえ、聖霊そのものである啓示の天使と、認識の天使である<能動知性>とを同一視する考えは、イスラーム思想において西欧とは全く別の霊的哲学を推し進めることになった。その結果、イスラームの正統派による神の創造をめぐる思想それ自体も根本的な変容を受けざるをえなくなった。創造は、自らを惟う神の思惟行為にあり、神的存在が自らについてもち続けるこの認識こそ第一の<発出>、第一のヌース(知性)、<第一叡智体>に他ならない。神の思惟行為であるこの創造的エネルギーの本来的で固有の力は、「一からは一しか派生しない」という原理を充たしつつ、<可能的存在>である<能動知性>としての叡智体の考えによって、一から多への移行を保証することになったのである。
 と、ここまで、Henry Corbinの「Histoire de la Philosophie Islamique(1964)」からメモをとった内容を書き写してきた。Corbinの著作がOriental Collegeの図書館の<Mysticism>の書架にあって、たまたま見つけて手にしたのである。フランス語はあまり読めず、内容も難解で、私はノートにただアルファベットを書き写す作業に熱中していた。それで膨大なメモが遺ったのである。現在は翻訳の「イスラーム哲学史(1974)」で読むことができ、ここまでIbn Sinaの項目を要約したにすぎない。
 Oriental Collegeの図書館は大英帝国時代の建物で、植民地特有の懐古的な雰囲気を今も遺している。二階建ての吹き抜けで天井が高く、その天井から長い管を伸ばして幾つものファンが吊り下がっている。けれども、冬場のこの時期には建物内は冷え込み、私の足下には電気ストーブが置かれていた。一階半分のスペースと二階の廻廊の壁を背にして周囲を廻るように書架が立ち並び、様々な言語で書かれた、様々な時代の、膨大な量の書物が収納されている。周囲を書架に囲まれた広々とした空間の中心に大机が並び置かれ、その一つの机にいくつもの辞書を拡げ、私は一生懸命メモをとる作業をしている。フランス語の文章はなかなか頭に入らないが、ある種の単語がひっかかってくる。HermeneutiqueとかGnosisSyzygyPleromaといった語である。私はときおりメモから目を離し、しばし想いに耽っていた。すると、可憐なパンジャブ服にショールを身に纏った女子学生が二人、いつものように私がメモをとる大机にやって来て向かいの席に座る。彼女たちはドゥパッタを被っていない。持参のテキストを開いたはいいが、もっぱらひそひそとおしゃべりに余念がない。その漏れ聞こえるパンジャブ語の音が実に美しいので、私は思わず耳を傾けてしまう。城市の男たちがパーンを噛みながら口の中を真っ赤にして発するパンジャブ語とはまったく違うもののように感じられるのだ。音感が柔らかく、耳に心地よい。ウルドゥー語も音感を基調にした耳に柔らかい言語だが、彼女たちが話すパンジャブ語と比べるといささか堅い感じがしてしまう。文法的なめりはりを削って円みを帯びたような音感がパンジャブ語にあることに気づいたのである。このことは、密かにしゃべっているのを耳にしないと気づかないようだ。主に話し言葉である地方語を守っているのはもしかして女性たちではないかと思う。そのひそひそ話の内容は私には聞き取れないが、話し言葉がもつ心身的なものをつぶさに表しているように感じられるからである。一人の女子学生の肌は白く、もう一人の方は浅黒い肌をしている。Collegeの構内でもよく見かける美しい女性たちだ。浅黒い肌の女子学生の方が話をリードしているが、いつものことだ。私は何気なく書物から顔を離し、女子学生の方を伺い始める。するとそのとき、毎度決まったように図書館の雑用係が分厚い本を何冊も持って現われ、大机に向かう私と女子学生の間に積み上げていく。と、あっというまに目の前に本の壁ができてしまう。ここはイスラーム教の国だ。男性と女性の区別は厳格だ。同じCollegeに通っていても、みだりに女性の顔を見つめるようなことをしてはいけないのだった。そう思ってふたたび私は書物に顔を埋める。それにしても、この国にはわずかばかりのどうでもいいような仕事と交換に薄給をもらい、人生を費やすかなりの数の人がいるのだった。
 それはさておき、次はこれも図書館の同じ書架で見つけたCorbinの真新しい著作、「Avicenne et le Recit Visionnaire (1979)」をみてみよう。前述の、Ibn Sinaの「Hayy Ibn Yakzanの物語」を精察した研究書である。
 天使の存在は全てのムスリムによって認められているが、どんな敬虔な信者であろうとクラーンから知ることができるのは、天使が二つか四つ、もしくはそれ以上の翼をもった、捉え難くて光り輝く身体をしている、というものである。天使には完全な知識が賦与され、その行為に適った力を天使はもっている。その職務は神を讃えることだ。天使は、預言者やその精神的継承者に、聖なるものとの交流をまさに示すために自らそのすがたを顕わすのである。しかし、天使についてそれ以上を言うこと、たとえば天使の超越性を断言すること、あるいは天使の概念を人間の知性や魂の領域へと繰り戻すこと、つまりその本性の力もしくは人間の機能へと取り戻すことは、正しい道からはずれていることになる。一方に正統イスラームの天使学があり、他方に天使的階層を純粋知性もしくは天使と魂の二重性として示す、Ibn Sinaの<天使学>があるというわけだ。
 Ibn Sinaの<天使学>によれば、天使は一定の人物の特徴のもとにおのれを個別化する。その際の告知は、その人自身が用意を告げる魂の経験の程度と一致するという。つまり、天使と人間の魂は対になっていると考えられている。<Syzygy()>の天上における対応者が、堕天使、あるいは身体を支配するよう任命された天使、さらには天上の住処にとどまる天使といった区分けを構成するのは、「その人物において」なのである。こうした、天使と人間の魂を<Syzygy>とする考えは、Ibn Sinaの<天使学>のあらゆる段階に顕われている。知性の<溢出>と大天使の<溢出>との間の等価性は、Ibn Sinaの信条の一部を形成しているのである。
 こうしたSyzygy>の考えから、<能動知性>は二重性とみなされる。まず、第十の大天使(もしくはその人を個別化する姿)は、それが生ずる大天使と各々の<天上の魂>との関係と同じなのである。それゆえ、魂にとって、それ自身の知識は天使の認識であることになる。さらには、この<二重の知性力>について知ることにおいて、<存在>が、<天上的知性(‘Aql)>と<人間の魂(Nafs)>が対であるような各々の知性と魂を結びつけている<プレローマとしての存在>と同種であり、かつ相同することが明らかとなる。第十のケルビムである<能動知性>は、成長する闇がその最大に達するプロセスの終わりにもはや一つの知性、一つの霊、一つの天上界を生産する強さをもってはいない。したがって、この知性と霊と天上界の三つ組みの統一体は、私たち一人一人の魂の多数性へとばらばらになっているのである。それにもかかわらず、もし各々の<天体霊魂>がそれから発散する知性との関係のように、各々の人間の魂が<能動知性>と同じ関係に立つならば、相同性は今もって可能でなければならない。それゆえ、人間の魂が知ることそれ自体に意識的になる<二重の知性力>は、<知る>ことのうちに、天使の世界へ知ることそれ自体を運命づけるという構造をもっている。それ自身の観照的な力は、各々の<天体霊魂>が<能動知性>のうちに待機しているように、活動知性のうちに待機している。そして、その活動的で実際的な力は同様に、同じ関係において、もしくは各々の<天体霊魂>がその動きを支配する魂のうちに待機するようにして、それ自身の観照的な力のうちに待機するのである。こうして、人間の魂が天上の魂の模倣としての魂として振舞うことを学ぶのは、天使的宇宙の構造をめぐる意識を獲得することによってなのである。
 こうした<二重の知性力>を意識する方法としての<Ta’wil>がある。<Ta’wil>とは、「それがやって来た場所へ呼び戻すこと」、「起源に立ち戻らせること」の意であり、それは、「テキストの記述をその皮相な外見から引き離し、それをその真理に立ち返らせ、結果的にテキストの真実と元々の意味に戻す」ことである。それは、あるものをその始源へ戻すこと、Zahir(外的な現れ)からBatin(内的な顕われ)へ、外的実在から内的実在へと進むことである。こうして<Ta’wil>を実行する人は、その言葉を外見的な内容(Zahir)から内なる真実(Haqiqat)へと戻すことになる。テキストを<Ta’wil>することには、魂の<Ta’wil>が想定されている。とはいえ、そのことによって魂が回復されることはなく、ただテキストの意味をその真実へと戻すのみである。言い換えれば、<Ta’wil>の真実とは、<Ta’wil>を働かせる意識作業とそこに生ずる心理的な出来事という同時に起こる真実に基づいている。人は<Ta’wil>を通じて、感覚的な形態を(創造的)想像力の形態へと連れ戻すことになる。その根源、すなわち天使である<天上の魂>の真実へと連れ戻すのは、私たちの<能動知性>に他ならない。この<能動知性>の働きの下に大天使ガブリエルもしくは聖霊のすがたが明らかにされる<Ta’wil>の働きは、天上の魂が人間知性へと<縮減する>と解釈すれば、まさに合理的であるとみなすことができるだろう。
 大天使の<存在>と可能的天使としての人間の魂の<存在>との間の連続性において、そこに裂け目はない。その人に<存在>や事物の知覚を、すなわちその人の思考として各々の天使がその天上を思考するように、各々の天上が天使の思考であるように象徴化を伴って可能にさせるのは、この<能動知性>である。このことを証示することは、Ibn Sinaの<東方哲学>としての<照明学>思想の大きな願望だった。それ自身の<存在>をもつ仲介的世界に、そのような象徴世界に、もしくは<原型的なイメージ構造(‘Alam al-Mithal)>に導くのは、この願望であった。その構造は<仲介的東方(Al-Mashriq al-Aswat)>と呼ばれ、大天使のプレローマという純粋な<東方(照明世界)>に先行するものである。それは創造的に想像可能な世界であり、天上世界を移動する、感覚器官をもたない天使である<天上の魂>たちの世界なのである…。

Bullhe ShahShah Husainといった人たちは、いわば大衆を相手に教えを説いていたのだよ。多くの人がこの世で生き易いようにすることが彼らの一番の目的だった。だから、人々が解り易いように教えを説いて廻ったのさ。このパンジャブの大地に生きる人たちが連綿と抱き続けてきた力に向かって、方便としての教えを説いたのだ。それだから、天使については触れなかった。天使にはかたちがない。その点、ちょっと難しいところがある。その人その人の、つまり個人の資質によるものに天使は関係するのであって、それは決して一般的なものではない。天使に関わることで、かえって生きにくくなる場合もあるだろう。だから、天使については、その教えの次元は全く違うはずなのだ。それに、天使という考えはもともとイスラームよりもずっと古い教えに由来する」。
 少年はHakimの話が少しずつ解るような気がしてきた。けれども、イスラームより古いということについてはその意味が分からなかった。学校でイスラーム以前の歴史を教えられていないからである。
「天使については<能動知性>という考えがあるようですが、何故なのですか。それに、<能動知性>とはどういうものなのですか」、そうKhalidが尋ねた。
「君は難しいことを知っているね。天使が<能動知性>であるというのは、天使と人間の知性は私たちの魂のうちで二重性として現われるということだ。言い換えれば、<能動知性>とは私たち人間の知性であると共に天使の働きでもある、ということだよ。逆に言えば、天使に似なければ天使の働きを理解することはできない。私たちの魂が天使と天使の世界を知ることができるのは、魂それ自身、つまり魂の原因について目覚めることによってである。そのような魂それ自身の自覚が、<能動知性>を働かせることだと言っていい…」。
「それはシーア派の考え方ではないですか」、そうKhalidが口を挟んだ。
「ふむ。たしかに私はシーア派に属しているが、私の考えでは、イスラームの教えにシーア派とかスンナ派とかの区別はない。というのも、イスラームの教えはただ一つのことにあるからだ。それを知って、私に聞いているのかね」。
 Khalidは何か言おうとしたが、口ごもってしまった。
「良き思考、良き言葉、良き行為をもって生きること。何が<良い>かについて保証することができるのは神のみであること。良き思考と良き言葉と良き行為に生きることで、人はこの現世において目覚めることができる。これがイスラームの教えの核心だ。これを守ることができなければシーア派もスンナ派もない。良き思考、良き言葉、良き行為、こうした実践が現実にあることこそが、この地上の世界にあって天上のものである天使を感じることのできる証でもあるのだ。たとえば、良き思考をすることそのことによって、天使によって思惟された<存在>となる、と言われている」。
「良き思考、良き言葉、良き行為というのを神のみが保証すると言ったけれど、それは実際にはどんなものなの」、少年は尋ねた。
「現実には、それは悪に対して決まってくるだろう。もともと良きものが先にあり、その後に悪が生まれたのだから。悪は様々なかたちを生み出し、様々なかたちとなり、様々なかたちを示して人を誘惑する。そのかたちは見せかけで、始源とは縁を切っている。そうしたかたちを真実と思わぬことが、<良き>思考につながるのだよ。真実は判明であるものの、人間にとっては曖昧に見えるところがある。つまり、ここが難しいところだが、かたちをつくり出すその力を認めるのはよいが、そのかたちに留まってはならない。かたちをつくり出すその力はかたちになることで自ずと力を抜き取られてしまうからだ。そのいっぽうで、かたちに留まることが悪の意図を支えてしまうことになる。だから逆に言えば、<良い>ことを意識することとはつねに悪を意識することでもあるのさ。そうやって、人はつねにより良い次元を想い、より良い次元に移行することで、この現世において目覚めるのだよ。天使は、『生ける者たちよ、起きなさい』、そう言うのだ。<神が存在する>と言うとき、人間の存在の仕方はそれとは当然異なっている。それはより劣り、制限されているものだ。そう考えるときに、<良き>ものが、神の<存在>を人間存在に投影する、そんなふうに考えられているのだよ」。
「それでは、シーア派の人たちは、このあいだ見たけれど、何であんなことをするんですか」、そうKhalidは執拗に尋ねた。
「あんなこととは何かね」。
Ashuraの儀式の時に、男たちが輪になって、みな自分の胸を叩き続けるでしょう。まるで決まり事のようにして…」。
「あのかたちにはHusainの死の<時間>にまで遡ろうとする意図があるのだが、それはシーア派の人たちが、物事の始まりに帰ろうとする意識が強いからだと思われる。これをイラン系民族に特有の傾向と片付ける訳にはいかないから、イスラーム以前の<時間>に関する考え方に由来すると言っておこう。<時間>とは本質的に儀礼的な<存在>で、その儀礼の<時>は<永遠の時>の顕われである、という考え方があったのだ。その儀礼において、一つの<存在>が自らの全体を映し出し、自らの永遠を先取りするようにして自らの始源を体験するのだといわれる。話が難しくなったが、Khalidと言ったね、君は<ダエーナー>の話を知っているかい」。
 Khalidは知りませんと答えたが、それがどんな話なのかすぐに好奇の目を輝かせた。
「少し話が長くなるが、聞かせてあげよう。<ダエーナー> とはもともと神的能力をもった神性だったと言われている。神ではないが、神に直接由来する力だったのだ。けれども、霊的な働きをするうちに、神という底なしの次元から離脱して、次第にそこに人間的なすがたが与えられ、最終的に美しい少女のすがたに純化したのだと言われている。<ダエーナー>が霊の磨かれたすがたであることは、<良き人>にしかそのすがたを現さないということにもはっきりと示されている。だからこの話には、人間の意識の方向性をはっきり示そうとする意図があることにもなる。それ以前の、霊がいまだ霊的エッセンスとしての<フヴァルナ>であり続けた世界では、確かに花は美しく、鳥は軽快で、動物は力に満ちていただろうが、これから話すような、<ダエーナー>のような美しい少女が語りかける、つまり自らの純化した霊が自らに語りかける、そのような働きはいまだ現われてこなかったにちがいない。それは、<ダエーナー>が現われるということは、人間の霊の純化ということに深く関わっているからなのだよ。<フヴァルナ>の働きはその点では、いまだ黎明の揺らぎのうちに沈静していたように思われる。<フヴァルナ>の働きは繊細で、壊れ易いのだ」。
「さて、ゾロアスター時代のペルシアでは、この世で良き行為を積んだ<良き人>の魂は、死後の三日間はその人の身体の近くに留まると考えられていた。三番目の夜明け近く、南から良い香りを含んだ風が吹き寄せてきて、死んだ者の<ダエーナー>、すなわち死者その人自身の魂が、『美しく、輝かしい、腕の白い、力強い、すがたの美しいすらりとした肢体の、丈高い、乳房の張り出した、十五才の少女のすがたで』、死者の前に現われるという。そして自らの<ダエーナー>は、死者にその正体(すなわちその人自身の魂であること)を明らかにし、次のように語りかけると言われている。『あなたは良き思いによって、良き言葉によって、良き行いによって、良き信仰によって、愛らしかったわたしをいっそう愛らしくしてくれたし、美しさをいっそう美しく、願わしさをいっそう願わしいものにしてくれました…』と。それから死者の魂はわずか四歩で三つの天上世界を跨いで、<無始の光>の次元、つまり天界に到達するのだという。ああ、この神話の感動的なところは、人の魂が磨かれ、美しい少女のすがたをした霊に純化し、そして死に際して、その美しい少女の霊が感謝ともいえる言葉を投げかけてくれることにある。さらには、この死の際に投げかけられる言葉は、自らが自らに向かって発せられるという、あたかも絡繰りの解き明かしのような構造になっていることに不思議な感動がわいてくる。美しい少女の霊が私自身のうちに生き、その霊が純化された時に私の前に現われ、私に語りかけてくるというのだから。君の<ダエーナー>が現われ、私の<ダエーナー>が現われる、というわけだ」。
 少年は話を聴くだけで、すぐに<ダエーナー>に心を奪われてしまった。
「<ダエーナー>とは、いわば地上の魂の行為が生み出す果実だといえる。それは、良き思考をすることが天使によって思惟された<存在>となり、その結果、魂がその人自身の前に告知者として遣わすその人自身の姿なのだ。その良き思考は、始源的な世界から出た天使となり、その良き言葉はこの天使から出た<霊>となり、その良き行為はこの<霊>から出た身体となる。地上の人間にあっては、そうした魂の行為の積み重ねは、自らを天上的実在と対をなすことのできるようにするものなのだ。だから、<ダエーナー>は死者に向かってこう言うのだよ。『わたしはあなたの永遠であり、あなたの永遠的時間である』と…」。
「さて、もともとこれはとても古い話なのだ。おそらく死者に関する儀礼がつとに関心をもたれていた時代にまで遡ることになるだろう。<ダエーナー>は夜明け、すなわち魂が完全に個別化され、統合されるという夜明けの刻にのみ、死者の魂に自らを表明するという。というのも、その刻にのみ、人間にとって聖なるものとの関係が際立つからである。さらに言い足せば、<ダエーナー>は人が死んだ後にのみその姿を現わすという。我を失う状態が、幻視から恍惚状態までの様々な程度において、死よりも先にやって来るが、死こそ最高の忘我の状態であるだろう。だから、ときにはこうした<我のない状態>について考えることも大事なことだ。この<我のない状態>とは、人間が生まれたばかりの状態でもある。それは自分というかたちのない状態とも言えるだろう。それに、死や死者について考え廻らすことも大切だ。Ashuraの儀礼の際には、男たちはみなHusainの死に近づこうとして、その死を体験しようとして、自分の胸を叩くというかたちをして見せるわけだからね。逆に言えば、死者に想いを馳せることは自らの死を想うことでもある。そうした想いの力に支えられて、みなあんなに真剣な顔つきになっているのだよ…」。

 石造りの建物は酷暑の時期には適しているが、冬季には寒くて適わない。ムガール朝の建物は同じ石造りでも扉がなく、壁も少ないが、部屋は布幕で仕切られている。それで、夏は空間を開放し、冬は部屋を隔離できるという利点がある。英国人との自然に対する姿勢の違いがわかるというものだが、とにかく石造りの建物の中は寒くて適わない。寒さをこらえながら一心にメモを採るのも疲れてくる。それで、ときおり書架から書架へと書物の間をうろついて廻るか、あるいはいったん図書館を出る。外は陽射しがあって暖かい。外に出るとこの時期に建物の中でじっとして居るのがもったいない気がするくらいだ。中庭を通ってCollege前のKachahri Roadに出る。この通りを最初は埃っぽい道路としか感じられなかったが、一年も経つと、街路樹が茂る緑豊かな通りだと感じられるようになった。歩く人も少なく、車もたまにしか通らない。通り沿いの大樹の木陰に建つ、植民地時代風の小さな家屋を改造したカフェに入る。中に入ると清潔で簡素な内装で、城市内の茶屋や新市街のMall沿いのカフェにはない独特の雰囲気がある。今想えば<パルシー・カフェ>のような趣があった。表面が大理石の丸テーブルの席につき、紅茶にクッキーを注文する。ここはCollegeの学生か職員ぐらいしか利用しないようだ。Jinnah帽を被り、顎髭をたくわえた、大柄で眼光の鋭い老主人が給仕する。Collegeに通い出した頃はここで朝食を摂っていたので主人とは顔なじみである。初めは言葉が通じなかったが、何の問題もなく応対してくれた。漆喰壁の横木の上に肖像画がいくつか掛かり、最近になってその一つの口髭を生やした人物がAlama Iqbal(18771938)であると分かるようになった。他にターバン風の古風な帽子を被った口髭と顎髭だらけの人物の肖像画に目が留まるが、それが誰だか分からない。というか、あまりに古めかしい人物像で、奇異な感じがして主人に尋ねると、「Ibn ‘Arabi(Shaikh)ですよ」と言う。「翁は、すべての信仰を肯定しました」と言い、それから、「翁は、Khidrの弟子だったのです」、そう付け加えた。
 それを聞いて私はさっそく図書館に戻り、イスラーム関係の書架の間を廻ってIbn ‘Arabiについて英語かフランス語で書かれた研究書がないか探したが、なかなか見当たらない。ようやく<Criticism>の書架で、Henry Corbinの「L’Imagination Creatrice dans le Soufism d’Ibn ‘Arabi(1958)」を見つけた。これは難解な本だ。字面を追っても何が書いてあるかさっぱり解らない。現在この本は、「Alone with the Alone(1997)」というタイトルで読むことができる。
 Ibn ‘Arabi(11651240)はスペイン南部のムルシア生まれのアラビア人で、イスラーム思想家にして神秘家であり、幻視者であった。後世、<’Irfan>と呼ばれる神秘主義哲学の、その祖となった。Ibn ‘Arabiの教えによって、瞑想する力をもつスーフィーはその実践によって形而上的な理論を体現し得る<道>へと導かれることになったという。その思想の核心は、<存在>について神が神自身を映し出すという観点から、<Wahdat al-Wujud(存在の唯一性)>を説いたことにある。それは端的に言えば、「<存在>のなかにあるのは神以外にない」、という考えである。Ibn ‘Arabiは、「神以外に何か他のものが存在するか否か知らなかった」、とさえ言っている。コルドヴァからチュニス、そしてメッカ、ダマスカスと遍歴しながら、Ibn ‘Arabiは膨大な著作を遺しているが、その思想と実践を綜合的に研究し、明らかにした人はまだいないようだ。
 Ibn ‘Arabiの思考において特徴的なのは、<Ta’wil>の方法によって開かれる<‘Alam al-Mithal>というものである。この語を、Corbinは「創造的想像力(L’Imagination Creatrice)の世界」と訳しているが、逐語的に訳せば、「類似像の世界」という意味である。この世界は<二重の知性力>、すなわち<能動知性>と天使に深く関わっている。それゆえ、<類似像(al-Mithal)>の語は、人間の魂と<地上の天使>との<類似>を示そうとするものと思われる。「Khidrの弟子である」ということについても、<Khidr>が現実に存在する人物ではなく、つねに象徴的に語られる預言者的人物であることから、それはIbn ‘Arabiが<‘Alam al-Mithal>という<仲介的>な全面的に世界に従っていた、ということを示しているように思う。
 Ibn ‘Arabiは存在を三つに区分している。第一のものは<Ahadiyah(絶対的一性)>と呼ばれる絶対的な<存在>であり、第二のものは、感覚的事物の総体として展開する現象的存在、すなわち私たち<存在者>のことであり、そしてその中間に、<Haqiqat al-Haqaqi(実在の実在)>と呼ばれる<存在>次元を考えている。これが、<‘Alam al-Mithal>という<仲介的>世界のことである。それは、「有であるとも無であるともいえない」とか、「無始の過去から在る真の実在と共に在るものであるから、宇宙に対して時間的に先とも後とも決定できない」と言われる。これら三つの存在は三つに区分されはするが、<存在の唯一性>として一つのものである。というのも、絶対的な<存在>は<存在者>とは区別され、<存在者>に対して超越的ではあるが、いっぽうの<存在者>はといえば、それらを何らかの仕方で包含する絶対的な<存在>からいかなる点でも切り離されていないからである。全ては神が神自身を映し出すことから始まっているからである。そのことを、私たち<存在者>は、<Qalb(「心臓」の意)>という幽微な身体器官である<眼>によって知ることができるという。
 こうした<存在の唯一性>という考えによって、一から多へと、<存在>が<存在者>へと自ら鏡に映すような仕方で次々と展開されるその仕方のゆえに、<存在者>の多様性を肯定することができるわけである。また<存在>の在り方が三つに区分されて中間態が積極的に認められることになり、それによって<‘Alam al-Mithal>が肯定されたわけである。あるいは、Ibn ‘Arabiに「Khidrの弟子」というヴィジョンがまず体現されていて、その<‘Alam al-Mithal>の次元を肯定するためにヴィジョンの体現という中間的な<存在>の在り方が認められたのだろうか。そこのところは分からない。この<‘Alam al-Mithal>をIbn ‘Arabiの個人的解釈に帰するか、それを一般的な考えと認めるかで大きな違いがあり、そこには問題がある。
 この中間的ともいえる存在次元は、「幽玄な身体、霊性的次元における感覚界」とも言われるが、それは、意識内に生起した心象が対象となって外界に形象化される、といった現象といえる。とはいえ、そこに形象化された対象は誰もが認識できるものではない。それは、いわば幻視の世界と言っていい。その形象は客観的なものではなく、脳においてつくり出された像であるからである。それをCorbinのように「創造的想像力の世界」と積極的に解釈することもできる。実際、チベット密教などの修行を積めば、自ら創造的に思い描く神々の心象をあたかも外界に形象化したかのように対象として観ることができる。それゆえ、ある意味で解り易いが、現代的な解釈すぎるという点があるようにも思う。私自身は、<能動知性>をいわゆる天使的世界という潜在的な力へと繋げようとするならば、当然<’Alam al-Mithal>も存在しなければならないだろうと考える。しかし、ここまで考えると、もうその先は考えることではなくなってしまう。考えるのではなく、中世の信仰のレベル、その意識レベルにまで足を踏み入れなければならなくなるのだ。Ibn ‘Arabiはとても信仰心の強い人だった。Ibn Sinaが理論家であるのに比べると、Ibn ‘Arabiの神秘家的傾向は際立っている。一方は個人を形成するそれ以前の歴史的な特異性へと向かうが、他方は個人の形成というか、個体化の方向へと真直ぐに向かっている。だから、その内容に深く立ち入るにはそれ相応の準備が必要だ。その思考の内容に強く惹き付けられはするが、その<深さ>へと身を乗り出していく気持ちを私は奮い立たせることができないでいた。なぜ個体化の方向へ、その強度へと向かうことができなかったのか。おそらく何かがそうさせないようにしていたのだ。自分に何か別の<土台>のようなものがあって、それがそうさせないようにしていたのである。
 私のLahoreでのイスラーム研究というか、拙いスーフィー研究は、Ibn ‘Arabiの<’Alam al-Mithal>の次元に触れることで大きな壁にぶち当たってしまったと思う。Ibn ‘Arabiの思考に立ち入ることができなければ、Ibn Sinaの思想についてのわずかな理解も崩壊するように思われた。足場を失って思考が空回りするような、途方に暮れた感覚を想い出す。図書館の大机を前にして途方に暮れるうちに、次第に暗く重い気分へと突き落とされていったのを想い出す。そのとき、私はなぜか急にAnarkali Bazarの乞食の肉塊を見てみたいと思ったのだ。一切の書物を片付けて図書館を出て、Kachahri Roadを通ってBazarに出ると、今日も肉塊はいつもの場所に、いつものようにしてあった。私はちらりと横目で見るだけで通り過ぎた。もう見慣れたせいか、その肉塊は何の変哲もないもののようにしてあった。ただ背中の肉がぴくぴく痙攣するのが目についただけである。その肉の痙攣のうちに神の<存在>が感じられるだろうか。そこには悲惨な<存在者>があるが、<存在>が感じられるだろうか。多なるもののなかにあるはずの<一なるもの>を直観することができるだろうか。<存在者>という外的なもの(Zahir)のうちには必ず内的なもの(Batin)が隠れているというが、そんなことは一切分からない。<存在の唯一性>を体現するために、スーフィーたちは<Tawhid(「アッラー以外に神はなし」の宣唱)>について目眩を感ずるほどの瞑想と省察を積み重ねてきたと言われる。私はそのことについて本で読んで知っていたが、私自身には何の関係もないと考えていた。結局、Ibn ‘Arabiの思想には近づけそうもない。翁はとても遠いところにいる人なのだ。私はそんな遠いところへは行けないのだ。私はAnarkali BazarからLohari門を通り抜けた。Rang Mahalに向かい、そこから学生寮があるNew Campus行きのバスに乗るためである。重い気分を引きずるようにして、雑然とするLohari Bazarを歩いた。雑多なものがみなぎるBazarを行けば様々に感覚されるものがあるが、この一千年を生きる城市に神の<存在>が感じられるだろうか。ひとたびその光景と人々を凝視すれば、そこには暗い影ばかりが宿っているように感じられてならなかった。
 昨年の夏には大英帝国式の刑法の一部がイスラーム式に置き換えられる<Hudood(制限)令>が軍事政権によって施行された。たとえば、姦通罪が強化され、鞭打ち、手足切断、投石などのイスラーム法に則った刑罰が導入されることになった。それで、さっそく公開の鞭打ち刑が、先日、たしかYakki門外の広場で行なわれという写真付きの記事が「Nawai Waqt」の一面を飾っていたのを想い出す。顔を黒く塗られた罪人が半裸の刑吏に鞭打たれて泣き叫んでいる。時計が逆廻りしている、そう誰もが思ったのではないだろうか。

 まだ暗いうちから起きてFajrの礼拝の準備をする人がいる。夜明け前になると城市にも霧が流れて来る。いや、もともと城市を取り囲むようにして流れていたRavi河の跡があり、その辺りの地の底から今でも霧が発生するのだろうか、まず城市の東西にわたって霧に包まれる。少年の家があるMaya Bazarは古い城市があった小丘に位置するので、周囲から霧が這い上がるようにしてやって来る。いつの間にかすっぽり霧に包まれた街路を少年が歩いている。東西から立ち昇る霧が対抗するようにして互いに押し合うのか、幾重にも大小の渦になって少年の目の前に立ちはだかる。自在に動き廻り、何にも拘束されないかのように振舞う霧の運動は、また対立し、拡散する運動でもある。互いに流れを巻き込み合い、それぞれの流れが一方を包み込み、かつ一方に包み込まれる。そんな霧の運動が、何の力によってか拘束され、少年にかたちとして見えるようになる一瞬がある。そうやって、霧は少年に様々なかたちを見せたかと思うと、またすぐにかたちを崩してしまう。その形成と崩壊の繰り返しが息をしているように感じられる。その霧の動きを見つめていると、動きの線に沿って、面が、かたちが、何の前置きもなく浮んで来る。が、すぐにその線は幾重にも重複し、その結果、抽象的なものに変貌することさえある。さらには面が面を襲い、一方の面の中に取り込まれると、その面を喰い破るようにして中から新たな面が現われてくる。面の運動は線を生み、線は重複してそこに何やら抽象的といっていい<時間>が少年には感じられるときがある。自分の秘密がそこに現れている、そんな直観が少年をさらに霧を凝視させるのだった。霧の運動は凝縮し、また拡散し、拡散のうちに別の凝縮が生起する。少年はいつしか霧に包まれ、霧と一体になったかのように身を任せながらも、逆に霧を、そのかたちを、その面を、掴もうとしてみる。掴んだ掌を拡げるとそこには何もない。ただ掌の平がぐっしょり濡れているだけだ。その掌の平の背後の霧から何か黒い影のようなものが現われてくるのを目にしたが、それが何か分からない。牛だろうか。ぬっと現れ出たのは、はたして大きな耳を立てた驢馬の首だった。こんなところで驢馬が放し飼いにされているのか。驢馬はすぐに霧の中に溶けるように消えてしまったが、あれは本当に驢馬だったろうか。首しか見えなかった。いや、自分は驢馬を見たのだろうか。あれは幻想だったのかもしれない。もう夜が明けたのか、どこからか小鳥のさえずる声が聞こえる。
 幾つもの霧の流れが激しく対抗し合ってできる霧の渦の中から、ふたたび何かが現れようとしていた。いや、今度はその渦が凝縮するようにしてはっきりとしたかたちとなり、そのかたちのうちに姿をとるようにして現れたのは、薄汚れた麻袋を手に持った貧相な身なりの男だった。血走った眼をしたその表情から、あのトカゲ売りと知れた。少年がその姿を凝視すると、それは見る見るうちに細部までかたちを結び、その姿が逆に自分の方に何か嫌な力を加えるように感じられた。それは、そこに留まれと命ずるような力だった。そんな邪悪なものと直面する感じに襲われたが、少年はけっしてひるまなかった。目の前のトカゲ売りと対決しようと思ったのである。死んだトカゲのためにも対決しなければいけない、そう思ったのである。トカゲ売りの姿は霧の渦をあちらからもこちらからも凝縮させ、精一杯の力を集めるようにして、その姿をはっきりと現してくるようだった。力を集めてこっちに向かって来ようとするのだな。少年はもうトカゲ売りの姿を見ないようにした。トカゲ売りは少年に向かって何か言いかけたが、その言葉を聴かないようにした。少年は先手を打つようにして、「死んだトカゲはどこだ」、そうトカゲ売りに向かって声を発した。トカゲ売りは黙っていた。「死んだトカゲはどこだ。僕はあのトカゲの声を聞きたいだけだ」、そう少年が強く声に出して言うと、トカゲ売りの渦は、今度は慌てたようにその動きをあちこちに分散させたかと思うと、渦の中心近くの小さな渦の中から渦が渦を喰い破るようにして、死んだトカゲの姿らしきものを示してみせた。ああ、あのトカゲだ。可哀想なトカゲだ。少年がその姿を凝視すると、死んだトカゲはつぶっていたその眼をゆっくりと開いてみせた。何やら悲しそうな眼をしていた。トカゲは何も言わなかったが、その眼の光が発するものをからだで聴いたたような気がして、トカゲも<存在者>であることを知った。そうであれば、そこに<存在>が感じられるはずだ。しかし、そう思うと同時に、トカゲ売りの渦の背後から何か別の力が強く押しのけて来る気配がした。その気配と共に、トカゲ売りもトカゲも自らの霧の渦にすばやく巻き込まれ、そのかたちを封じられるかのようにして渦のうちに吸い込まれ、やがて消えてしまった。その渦巻く霧の背後から押しのけるようにして霧が晴れ、ぽっかりと穴の空いたようなその空間に、判然としてはいるが曖昧な姿をした女性の半身が現われた。表情は曖昧だが、その口許の、いかにも優しげな微笑が際立って見えた。微笑を伝って温かい力が自分に注がれるのが感じられた。少年にはすぐにそれが自分の母親であると知れた。すると、その姿は夢にいつも現われるようなパンジャブ服にドゥパッタを被った母親の似姿となり、その微笑を絶やさぬまま、「お前にはまだまだ力がある。まだ十分にそれを発揮していないだけだ。母さんはそれを知っているよ」、そう少年に向かって言った。静かな、どこからともなく聞こえて来るような声だった。すると、そうだ、自分を生んだのは母親だ。母親が自分を生んだ時にはまだ自分という考えさえなかったのだ。でも、母親は自分を優しく見守ってくれていた。そんなふうに、自分が生まれた時のことがいきなり感じられ、その感覚が少年の中で強い力に変貌するようだった。この霧の渦のように在るか無いかのように儚いものであったのが、母親が自分を生み、自分に<存在>の可能性を授けてくれたのだった。そのときから、きっと自分は二重性を孕んだ<存在者>となったのだ。
 それから数日後の学校からの帰り途、少年とKhalidが何やら話しながらHakiman BazarからChapra Galliに通ずる小路を歩いている。もう夏の気配が辺りに感じられる午後だった。
「母さんは自分のことをあまりしゃべらないけど、僕のことをきちんと見守ってくれている。僕はもう大丈夫だ」。
「女の人たちはあまり自分のことを語らないけど、女たちだけで<交霊会>をしているんだよ。どこかのBaithakに集まって霊を呼び出し、色々と相談しているらしい。いいかい、そこで決まったことに男は反対できないんだ。親戚の伯父さんが、霊の許可を得た縁談には反対できないってぶつぶつ文句を言っていた…」。
 少年はKhalidの話をさえぎり、自分の気持ちを素直に打ち明けた。
「そうじゃないんだ。僕はもっともっと信仰を深めたいと思うんだ」。
「そうかい。僕は色々なことをもっと理論的に考えたいと思う」、とKhalidが答える。
 お互いに相手の言葉を聞いて二人は立ち止り、鏡に映った姿を見るようにしてお互いを見つめ合った。
「世の中には、神秘家と学者と素朴な信仰者がいる。素朴な信仰者は修練を積めば神秘家になる可能性があるけれど、神秘家と学者の間には越えられない溝が広がっているそうだ」。
「誰がそう言ったの」。
Ibn ‘Arabiという人が言ったんだって。とても昔の話さ。今はそんな区分けは通じないと思うけど」。
「そうさ、今は通じないよ」。
「それに、LahoreにはData Ganjのような人もいたんだし…」。
「ちょっと暑くなってきたね。陽射しがもう強くなってきたみたいだ。遠回りでも、Chatti Chappat(天幕のある通り)>を通って行こうよ」。
「そうだ、今度のJuma’にはMochi門を入ったところのLal Khooの井戸に遊びに行こう。水がとっても冷たいよ」。
「それに、あそこの甘菓子屋のBarfiは実に美味いときてる」。
First Classだ」。
「そう、First Classだ」。

 陽射しに暑さが戻ってきた。夏の気配がする。もう夏か、と思う。二年目の夏を想うと、真っ先にKharbuza(メロン)の甘い味を想い出す。あの酷暑の苦しみを想い出すよりは、甘いKharbuzaの味を想うのに越したことはない。そんな想いにふけりながら、私はRang Mahalのバス停の冷えた石のベンチに座り、No.27のバスを待っていた。次から次へと市営バスが停まり、客を吐き出してはまた客を詰め込んで出発した。バスを降りた客の流れはDabba Bazarの方へと向かい、Dabba Bazarの方からまた人波が押し寄せて来る。茶屋では荷物を抱えた人たちが一服し、路上の出店という出店も手に手に荷物を持った人たちに囲まれている。ワゴン車の行き先を告げる車掌の掛け声と扉を叩く音が響き渡り、タンガーの御者が鞭を揮う音が聞こえる。人また人の波で、ここには誰がいようと人に気遣う必要がない。Rang Mahal広場は外部が内部へと、内部が外部へと反転するところだ。表が裏に、裏が表へと、開き包み込まれる、「とても不思議なところだ」、そう私は心の中でつぶやいた。
 目の前に、今到着したばかりの市営バスが停まった。市営バスは車両の前半分が女性用で、後半分が男性用になっている。その間を通れぬよう、車両を真二つに割ったように金網で仕切られている。異様な光景だが、今はもう何とも思わなくなった。前の降り口からブルカに身を包んだ太った女性たちがどっと降りて来た。見ると、窓越しに一人の美しい少女の顔に目がとまった。よく見ようと思うが、少女は席から離れたのか、女性たちの陰に隠れて見えない。と、空色のパンジャブ服を着た少女がステップを降りる姿がいきなり正面から目に飛び込んできた。美しい少女だ。少女だが、どこか大人のような雰囲気を漂わせている。ステップを降りて先へ歩むその動作は子供のままだが、その身振りが何かしら完成されたもののように見える。歩む少女のその神経の配列から<時間>が感じられ、私はその姿に見惚れてしまった。一瞬のことだった。少女が広場の方へ歩み出すと、私も思わずベンチから立ち上がり、少女の行方を視線で追いかけた。少女はそのままRang Mahal広場の雑踏へ紛れ込み、Chabakswaran Bazar方面へと消え入ってしまった。その姿を見失った後に想い起こせば、「絶世の」と、形容していいような美少女だったではないか。一瞬のことだったが、それ以後私の記憶から消え去らない。その少女をその後、城市で見かけたことはなかった。