Sunday, February 05, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


  城市 (1)

 街を歩けば想い、想い出るものがある。想い出るもの、すなわち想起の内容は、それを追尾しようとすれば断片的に把握され、いっぽう、想起それ自体に身をまかせるようにして進むならば、そこには渦巻くような力として感じられるものがからだに引きずり出されてくる。私は断片的に把握されるもののあちこちへと滑るようにして、その背景としての渦巻くような力をからだで感じとるようにして歩きはじめた。
 Lohari門をくぐり抜けると両側に朽ちかけた建物が立ち並び、通りに面して間口の狭い店がひしめいていた。物売りが天幕を拡げて通りにはみ出るようにして店を構え、様々に客寄せする声が耳に入ってくる。両側の建物にはところかまわず大小の看板が掛かり、彩色されたアラビア文字が目に飛び込んでくる。その乱雑な看板と物売りのあいだを人と荷車がひっきりなしに通っていく。その頭上には無闇やたらに電線が走っていた。通りをまっすぐ北に進むとすぐに三叉路に突き当たる。Bukhari Chowk(辻)だ。正面に土台を高くして甘い菓子を売る店構えが見え、左側のさらに北の方へ抜ける通りの角には煤けた穴蔵のような茶屋がぽっかり口を開けていた。店先で仕方なさそうに喚いている老人がいる。もう一方の東へ抜けるBukhari Bazarの小路を進むとさらに道幅は狭くなり、道の両側に隙間なくそびえる建物や店の天幕が影をつくって急に薄暗くなる。そこを人と人がからだを触れ合うようにして往来する。それはもう息も伝わってくるほどの狭さだ。すぐ脇を裸足の子供たちが駆け抜けていった。
 眼はすぐに暗さに慣れ、立ち停まることなく辺りを窺うようにして進むと、小路は進むにつれて曲がりくねり、曲がるにつれて小路はいくつもの小路を生み出し、そのはてに極度に狭まりながらPapar Mandi(市場)の広場に出る。その先はShah Alami大通りへと通じている。この小路には染料屋、仕立屋、靴修繕屋、穀物屋、食料油屋、そして冬期にはRavi河で獲れた大きな魚の鱗を路上で鉄刃を使ってそぎ落としている魚屋など様々な店があったが、それがどんなであったか今はとても想い出せない。ただ網の目のごとく交合する小路と、それら小路の分岐する光景とが私の脳裏に焼き付いているばかりだ。
 Bukhari Bazarの通りをすぐ左に折れ、北へ伸びるSutar Mandi Bazarを行くと、そこは住宅街になっているのかもう天幕はなかった。陽光が頭上にも路上にも直に降り注ぐ。小路の西側に沿って家屋の土台が高まり、その並びに一軒の茶屋があった。反対側の煉瓦造りの家の軒並みは低く、閑散としたその家並の合間には機械を使って製本や製箱業を営む油染みた家内工場があった。狭い場所で汗まみれになって仕事をする人たちが見え、その真っ白な製品とは不釣り合いなくらいに油で汚れた半裸の男たちがいた。そして、さらに奥に進むにつれて道は狭まり、東側の低い地面に沿って穿たれた側溝を避けて歩く人と西側の高くなった家屋敷の土台とに挟まり、人とすれ違う際には否応なしにからだが触れ合うようになる。すると、いつのまにか陽光はふたたび天幕にさえぎられ、いきなり色鮮やかな反物、ショール、模様入り服地、金糸銀糸の刺繍飾り等が、昼でも煌々と灯された無数の裸電球の明かりの中に現われる。この唐突な転換にはいつも心躍らされる。
 Gumti Bazarの狭い通りを挟むようにして数知れないほどの小さな店がひしめいている。気がつくと店と店との間に通路が走り、その通路の向こうにも同じように店がひしめいているといった反物市場に入り込んでいる。どの店も反物の山と狭い売場座敷からなり、店という店の壁に張られた鏡に極彩色の布地が映し出され、その無限とも見えるような空間にありとあらゆる色彩が氾濫している。その間を黒や紺や茶といった暗色のブルカに身を包んだ女たちが、二つの巴旦杏の眼を輝かせながら行き交っていた。すっぽりとブルカに被われているが、その下にはどんな派手な服と装飾品で着飾っているか想像がつかない。さらに奥へ進むと、今度は金銀細工に宝石、それに色ガラスの反射に目も眩む宝飾店の売棚が連なっている。合わせ鏡の間に、ルビーやサファイアの輝き、金銀が放つ光沢、それらが念入りに設定された照明によって際立たせられている。ことに店の奥壁に様々な角度で張られた様々な形の鏡片は人の心をときめかせるのに絶大な効果を発揮していた。どこに視線を走らせようとその空間は光に満たされている、あたかもそんな神秘学的な考えのもとに配列されているかのようだ。売棚の向こうには商いする人がいて、こちらを窺い見ているはずなのがその表情には焦点が結ばない。私が買物目当てでないことを疾うに見抜いているような様子をしているからだろうか。
 心躍らせ、しかも息を詰めるようにしてSuha Bazarをずんずん奥に抜けて行くと、化粧水に香水、口紅や白粉でむせかえるほどの匂いは薄まり、替わって香辛料の刺激的な香りと色彩の渦に圧倒されはじめる。通りはアーケードとなり、過剰な光はさえぎられ、うって変って様々な人で賑わう食料品市場に押し出される。それまで細分されていた空間は一体化し、そのため見通しが良くなり、わけのわからぬ緊張がいっきに緩んでいくのが分かる。幾種類ものナッツ類や干葡萄、異なる産地のナツメヤシやココナッツ片等が、店という店の売場に山となって積まれている。香辛料屋の店先には様々な香辛料が山となって連なっている。その山々の連なりが鮮やかな色彩のグラデーションをつくりだしている。山の連なりはきわめて意図的につくられ、物を商う際の一つの様式となっているようだ。野菜屋の店先には様々な野菜が積まれたなだらかなスロープをした山の連なり、果物屋の店先にも様々な色をした果物の山の連なり、乾物屋の店先には缶詰や瓶詰め、そして香辛料による漬物のアチャールの山の連なりがある。その光景は大げさにいえば、あたかもこの世に提示された天国の表現であるかのようだ。今想い出しても豊かさの感覚に充たされる、それは夢見るような光景だった。
 ふつふつと五感が刺激で沸騰しそうになる。今はもう何も考えなくていいのだった。そのまま食料品市場をゆっくりと東へ抜け出ると、向こう側は金物製品の山が連なるKasaira Bazarで、そこには四方から幾つもの小路が集まっている。南側がRang Mahalで、そこにはShah Alami大通りが南から入り込んでいる。「ラング・マハール」、この音を想うだけでなぜかしら陶然とした気分になってくる。その音が核となり、そこから時空が十全に展開してゆく、そんな充実感に浸されるのだ。「Rang」は「色彩」、「Mahal」は「特別な建物あるいは場所」を意味する。たとえば、ムガール朝期のShah Jahan帝が建てたあのMumtaz妃の廟を「Taj Mahal」と言うように、ここには「Rang Mahal」と呼ばれる、十七世紀に建てられた貴族の私邸があった。「Rang Mahal」とは赤砂岩でできたその堂々とした建物のことを言うのだが、しかし通常「Rang Mahal」といえばこの辺りの空間全体を、すなわちRang Mahal Chowk(広場)という特別な空間を指していた。
 Lahoreの人は、かつて城壁で囲まれていた都市(walled city)を「Andarun Shahar」と呼んでいる。「Andar」は「内側の」、「Shahar」は「都市」の意で、すなわち「城壁の内側にある都市=城市」を意味する。Rang Mahal Chowkはこの城市の心臓部に位置しているのだが、私のような城市の外からやって来る者からすれば、そこは城市であって城市でないような、何かしら特異な場所に感じられてならなかった。そのRang Mahal Chowkはいつも人でごったがえしている。その賑わいは、ここが城市にとってのターミナル的な場であることに由る。この広場は、城市内で唯一、乗合ワゴンや大型の乗合バス、オート・リキシャ、タンガー(乗合馬車)といったLahoreの主要交通機関が、「Beron Shahar(城壁の外側に拡がる都市部)」から乗り入れることのできる場となっている。そのためRang Mahalは、小路が網目のごとく交合する城市の中心、その心臓部に位置していながらも、内部と外部とが直に触れ合う場となっている。私にはそのRang Mahalが、あたかも城市の内部がくるりと裏を返すようにしてめくれ、そんな風な仕方で外部と繋がっている、何かしら特別な場所のような気がしてならなかった。
 城市内にはいくつもの市場があり、そこにはありとあらゆる種類の品物が揃い、買物客にとって手に入らないものはない。そのため、Lahore市街地から城市へと、人はまずRang Mahalへやって来るのだ。そして買物を済ませれば、城市の時空をからだに抱えるようにしてRang Mahalから帰っていく。知るも知らぬも来ては帰るこのRang Mahalの雑踏にはそうした様々な時空が入り混じっているようで、人は誰しも容易にその場に融け込むことができるのだった。乗合ワゴンの車掌が行き先を大声で告げながら車両の扉を叩いている。タンガーの御者が馬を制御しながら集客する声が聞こえる。次々と赤色の公営バスが発車しては到着する。私は待合スペースで冷えた石のベンチに座り、No.27の公営バスを待っている。周囲に目をやれば、広場を取り囲むようにして四階・五階建てのホテルが立ち並んでいる。Ahmad Ayazモスクの尖塔がひときわ高くそびえ、礼拝時間になれば礼拝を呼びかけるアザーンの声を朗々と響かせる。地上に視線を落とせば、食堂や茶屋はもちろん、飲料屋、果物屋、パーン(噛み煙草)屋、軽食屋等といった物売りがいたるところに簡易の店を構え、ひっきりなしに客を呼び込んでいる。次から次へと客が来てはまた入れ替わる。外から城市にやって来る者はまずこのRang Mahalに足を停め、外と内とが自ずと転換するのに備えるような時間を過ごすのを好むかのようだ。
 いくつものBazar、いくつものKucha(小路)を通り抜けて、このRang Mahalに幾度行き着いたことか。あるときは城市東端のDelhi門から入り、あるときは南端のBhati門から入って、BazarからBazarへ、小路から小路へと伝いながら、ときにはGalli(袋小路)に迷い込み、詮方なくいま来た道をひき返し、ようようRang Mahalへと繋がる大小の通りに目鼻をつける。小路と小路とが交わるその光景を今想い出すとき、足ばかりがずんずんと先に進み、その後を追いすがるようにして周囲の様子を想い描く現在の私がある。想い描くと同時に、それに付随する感覚が蔭のようにからだに下りて来て、そのことが私の足取りを遅らせることもある。そのために何もかもがばらばらで、想起の内容は曖昧にして曇りがちになってしまう。いっぽう、断片的な内容だけが浮き上がってしまうようなことになると、私の足取りは完全に消えてしまう。つまり、すべてが現在のものになってしまうのだ。とはいえ、からだに下りてくるようにして感じられる感覚は現在のものでありながら、とうてい現在のみを拠りどころにしているのではないように思う。過去の感覚の再現()は、たとえば夢がそうであるように、現在進行形の感覚とはその質が異なり、内から突き上げてくるような神経の興奮を伴っているからだ。私はずっと眼をつぶっていたわけではなかったが、かつて身に生じた感覚が、瞳が開かれるようにして今ふたたび開いてゆくのを感じている。その際の、かつての感覚が開かれるのに伴う神経の()配列といったものが、私が追いすがろうとする勝手な足取りに確かな道筋をつけているようにも思われる。けれども、開かれるのはあくまでも現在においてであり、その起源はといえば、すでに過ぎ去ったものであるという意味で閉じられている、ということも私は十分わきまえている。現在においては、ただ想起する他はない過去の経験、すなわち記憶とそれに付随する感覚や神経の興奮といったものから成る、ある漠然とした総体があるだけなのだ。だから、今開きつつ閉じているようなもの、言い換えれば、かつての感覚が開かれるのに伴う神経の()配列というようなものに関わろうとするといっても、そこには在るかなきかのものに照準を合わせようとする現在の衝動のようなものがあるだけだ、ということになるだろう。そんなものの命令に従い、なおかつかたちにしようとするのは、よくある病なのかもしれないが、いったいそこにはどんな仕掛けが働いているというのか。
 かつて私はパキスタンの州都であるLahoreで学んでいた。私が通うOriental CollegeからいつものようにAnarkali Bazarの雑踏に出て、南北に長く貫くその繁華な商店街を北へと通り抜けると、城市をぐるりと取り巻く環状道路の向こうにLohari門が現われる。往来の激しいその環状道路を横切り、煉瓦造りに漆喰塗りのLohari門の前に立つ。それから、Lohari門をくぐり抜ける。と、両側を朽ちかけた建物に挟まれた雑然とした通りに出る。雑然としていながらも、そこには不思議と周囲の光景を押しのけるようにしてかたちがくっきりとしてくるものがつねにある。門扉の傍に腰掛けて水パイプを吸う老人が今日も来たかという顔つきでサラーム(挨拶)する。物売りの男が軽く首を横に傾け「Theek he?(元気かい)」という挨拶を送ってくる。茶屋の店先で背筋を伸ばしてチャイをつくる主人がこちらを見て「Achaa Achaa(そうか、そうか)」と何度も頷いている。中で小麦でも挽いているのか、軒先まで真っ白に粉だらけになった店があった。菓子箱をつくる家内工場からはガシャガシャと小気味よいリズムの機械音が聞こえてくる。
 Bukhari Chowkの三叉路に面して薄汚れた茶屋があった。間口は狭いが奥の深い穴蔵のような茶屋で、奥に入るにつれてヒョウタン形に広くなっている。石造りの内部は昼間でも薄暗く、木のテーブルが六つほど置かれていただろうか。どん詰まりが洗い場になっていた。入り口に目線ほどの高さの竃場があり、薪で炊く炉が二つあった。その薪炉の一つにいつも大鍋がかけられていてミルクをぐつぐつ沸かしている。その甘ったるい湯気に顔をあてると蕩けるような気分になる。湯気にあたりながら鍋の中を覗き、表面に煮詰まったマライの層が浮いているのを確かめる。もう一つの炉には鍋にチャイ()が用意されていた。入り口付近にも水場があり、ここにしょっちゅうやって来ては顔を濯いでいく狂人がいた。店の土間はパーンを吐き出した褐色の唾で汚れ、店内には嗅ぎ煙草の鼻につく匂いが充満している。客は界隈の老人、荷車引きや荷担ぎの肉体労働者、得体の知れない裸同然のなりをした男、他所から来てちょっと息をつくだけの客、たまにファキールらしい長髪で長衣を着た放浪の者が来るなど、様々だ。荷担ぎ労働者は店に入って席につくなり、チャイに揚げパンをひたしてさっと口に入れ始めた。どうやらそれが昼食らしい。
 茶屋を出た向かいに甘い菓子を売る店がある。店先のガラス棚には銀箔をちりばめた色鮮やかなバルフィー(「雪菓子」とでも訳せるか)が並び、奥には壁いっぱいに甘菓子を折詰めする店のネーム入り紙箱が積み上げられている。店先には様々な揚げ菓子も並び、冬期にはジャラビー(油菓子の一種)が山と積まれる。通りにはみ出すようにして焜炉に大鍋が置かれ、ジャラビーを揚げる油の跳ねる音がたえない。その甘い蜜の強烈な香りに魅せられて子供たちが群がって来る。ジャラビーを買い求め、新聞紙にくるんで渡されたその手でジャラビーを口先にもっていき蜜を吸う者がいる。対面の角には小さな店が軒を連ね、入り口にミシンを置いていつもそこに座ってミシンを回している痩せた男がいた。仕立屋である。その店先のショーケースの後ろには、一日中暇そうにして座り、通りを窺っているだけの若い男がいた。ときどき声を張り上げ、外に向かって何やらしゃべり出す。ひまつぶしの冗談である。チャイをつくる男も、ジャラビーを揚げる男も、そして仕立屋も、それを聞いてにやにや顔をくずしている。
 Bukhari Chowkから北へ向かう通りは、城市随一の歓楽街であるHira Mandiに通じている。その途中にLohari Mandi Chowk(広場)があり、広場を囲むようにして穀物屋、雑貨屋、鍋屋、玩具屋、額縁屋、反物屋、肉屋、香辛料屋、床屋、パーンを売る露店といった日々の需要を用立てる店々があり、それから様々なタイプの茶屋があった。そのChwok近辺にはたしか、かつてHaveli(邸宅)であった豪壮な建物を利用した学校もあったはずだ。道はやや勾配があり、緩やかに上っていくという感じで、奥に入れば入るほど住宅区域となって閑散としてくる。堂々とした肌の濡れた黒牛が静かに群れをなして繋がれている広い中庭や、あてもなく歩いていると、白いすばらしい毛並みの赤い眼をした馬が繋がれていて、思わずはっとさせられる瀟酒なHaveliもあった。路上で羊の頭をまるごと焼いて食べさせる露店もこのSyed Mitha Bazar通りの一角にあったはずだ。その長い通りは進むにつれて左右に幾つもの小路を生み出し、そのどれもが何処かかしこに通じているのだった。
 Hira Mandiの昼間は疲れたような風情をしているが、夜になると煌々と明りが灯り、男たちが連れ合って徘徊するようなところだった。そこには映画館もあれば洒落た茶屋もあり、夜遅くまで食事ができるレストランもある。ちょっとした賭事をする場があり、一角の小路を入ると、踊り娘が楽器の演奏をバックに客に踊りを見せる小座敷がいくつも並ぶ建物があった。古めかしい建物だった。近辺には売春宿もあると聞いた。このHira Mandiには、かつてLahoreの著名な古典音楽家たちが住んでいたという。すぐ北側には大通りが走り、その向こうにはもうLahore城塞の分厚い壁が立ち塞がっている。Hira Mandiから西へ行けばTakasali門に通じ、Hakiman Bazarを通って南のBhati門に出ることができる。東に行けば城市随一の商店街であるKashmiri Bazarが始まり、それは城市東端のDelhi門まで、途中Rang MahalBazarを経由しながら東西に一直線に続いている。
 人が死ぬと不思議とそのかたちがくっきりとしてくるものだ。そんなふうに、雑然とした流れのその流れが止まることでことさらくっきりしてくる光景もある。けれどもそのことは同時に、くっきりとした光景とひきかえにして流れるものを封じることで、その起源がますます隠されていくことのような気がしないでもない。とはいえ、これとても現在進行形といえるその想起の過程には、どこからやって来るのか神経の興奮が伴っているのもたしかなのだ。その神経の興奮は現在進行形の感覚とは異なり、対象なしでやって来る。いや、現在の感覚にしても対象を目の前にしながらもっぱら記憶を基にして起こるという例もあるから、こう言った方がいいだろうか。その興奮は想起が呼び込む在るかなきかの対象を目指してやって来ると。そして、そのような神経の興奮は、想起に伴いながらも想起の次元とは異なっているように思われる。すると、お前はいったい何を見ていたのかという声がするので後ろをふり返ると、そんな風にして後ろをふり返る、Lahoreにいた頃の私の表情がちらっと見えたような気がした。まだ何にも染まっていないといった風の、白々と乾いたような表情だった。

 その日Rang MahalBazarに行くと店はすべて閉まっていた。金曜日ではなかった。交通機関が出入りする気配や物売りの影すらなく、いつになく広場からどよめくような声が聞こえてくる。好奇に駆られて行ってみると、広場は大勢の黒い服を着た男たちで埋め尽されていた。私は躊躇することなく目の前の人群れの中に分け入った。すると、広場では上半身裸になった男たちが円陣を組み、誰もが声を発しながら大きく腕を振り回している。手に手に短い鎖のようなものを持って背後に振り上げ、その先がきらりと光っている。見ると、背中の肩甲骨辺りから血を流している者がいる。周囲の黒服の男たちも一様に声を発し、両腕を交互に振り上げ、突き出した自身の胸をこれみよがしに叩いている。
 広場のいたるところで乾いた土埃が舞い立ち、「Yah HusainYah Husain」、そう声高に唱えながら、腕を大きく振ったその平手で胸を叩き続けている。その合唱がリズミカルなものであったのが、あたかも反復の魔力に魅せられるかのようにして、合唱と共に円陣の男たちの動きが次第に激しくなっていった。手に持った鎖の先についたナイフを大きく振り上げ、精度を測るようにして引き下ろす。そうやって自らの背中をナイフで傷つけようとする。目の前にいた若者の背中からいきなり鮮血が飛び散った。言い知れぬほどの強烈な陶酔感が男たちを支配しているようだった。血が流れ出る傷口の上にナイフが振り落とされてそこにさらに深い傷を切り開くほど、その動きは激しさを増してくる。苦痛を感じるどころか、陶酔が痛みを凌駕しているらしい。中には自身の動作を止められなくなるほど陶酔し、陶酔で終始がつかなくなり、立会いの男たちに背後から取り押さえられるようにして制止される若者もいる。
 いつものRang Mahalの雑踏は失せてしまった。いつもの日常生活に護られていた空が裂け目を開き、雲一つない真昼の空から強い陽光が直接に広場へ降ってくるようだった。血沫と土埃と強い陽射しとで、見物する方も我を失いそうな気分になってくる。そんな気分を抑えようと、今は何をすべきかなどと思いめぐらし、一息つくようにして周囲に視線をやると、背中を血まみれにした男たちの傍で、鮮やかな深紅の布と銀の装飾で身を飾られた見事な白馬が一頭、物怖じもせず静かに息をしている。その顔が紅潮しているようにも見える。そしてその背後に、極彩色の布と深紅の花びらで飾られた「ひとがた」のようなものが天に向かって高く掲げられているのが見えた。そのすがたを仰ごうとするが、陽光がまぶしく遮り、それがどんなかたちをしているのか定かでない。が、その胴部はどうやら竹のようなものでX字に組まれ、その上に極彩色の煌めくような布が懸けられ、それが揺らいでいるようだった。胸部には際立つようにして四角形の白布が懸けられ、それがべっとりと血塗られている。さらにその頂点には手の平を象ったようなものが陽の光を受けて光るのが見えた。
 その「ひとがた」のようなものは、あたかも男たちの血まみれの行為を高いところから見守っているかのようだった。それはたしかに「ひとがた」なのであり、今この場所で起きている出来事すべてを見守っているもののように感じられた。目の前の血沫と土埃と陽光が降り注ぐ光景から、そのときアントナン・アルトーの「ヘリオガバルス」に描かれている古代シリア世界を連想した私には、その「ひとがた」が大地母神を表しているかのように思えてならなかった。血まみれの男たちは女神に見つめられ、女神に護られ、女神のために自身を傷つけ、ある種の犠牲を捧げているのだ、そう考えたのである。しかし、そうではない。いや、そうした古代的な要素を隠し持っているのかもしれないが、そうではなかった。
「今日は、イスラーム暦で<MuharramAshura(「第一月の十日目」の意)>という、シーア派の祭礼日なのです。事の由来は、第四代正統カリファAli ibn Abi Talibの次男であり、Muhammadの孫でもあるHusain ibn Aliが、カリファ位を不当に奪ったウマイヤ朝の悪魔たちの手によって、Karbalaの地(現在のイラク南部にある都市)で残虐な仕方で殺されたことにあります。それはヒジュラ暦の61年、すなわち西暦680年に起こったことです。わかりますか。今日<MuharramAshura>は、Aliを初代イマームと認める私たちシーア派ムスリムが、裏切られたうえに虐殺された、我等がHusainの死を悼む日なのです。あの白馬はZuljanahと呼ばれ、Karbalaの戦いの際にHusainが乗っていた馬なのです。Zuljanahとはアラビア語で<翼をもつもの>という意味です。そして、君が言う<ひとがた>のようなものはAlamと呼ばれ、アラビア語で<旗>とか<標>を意味しますが、あれはKarbalaHusainの死に立会っていた旗標なのです」。
 その日出会ったパキスタン人が儀礼の由来を語ってくれた。Lahoreの映画撮影所で働いているというきちんとした身なりの男で、英語をしゃべった。齢は中年にさしかかる頃かと見えた。「アシュラ」という音にそのとき異様な感じを受けたが、アラビア語で「十」を意味するのだった。とはいえ、今でも「Ashura」という語から受ける、異様なものを伴う感覚が拭えないでいる。シーア派ムスリムであるその男はUsman Irfaniと名乗り、そのとき彼がHusainを惨殺したウマイヤ軍をあえて「Devils」と言い表した音がいまだに耳に残っている。さらに彼は、スンニー派の「カリファ」が預言者の代理人(agent)であるのに対して、「イマーム」はシーア派ムスリムにとって精神的かつ霊的な原理(principle)を表している、そう強調するのを忘れなかった。
 Rang Mahal広場にはシーア派ムスリムの男たちの血が染み込んでいるのである。目の前の黒服は弔意を表すものだった。
 いつしか黒服の男たちはRang Mahalを発ち、白馬と「ひとがた」を中心とする行列が城市の狭い通りをゆっくりと練り歩いて行く。Bazarはすべて店を閉めている。Rang MahalからGumti Bazarを通り抜け、Awami Bazarから、いつのまにか通り慣れているSyed Mitha Bazarに出ていた。行列はそのままLohari Mandiに向かって進んでいるようだった。途中、城市の住民たちが群れ集まり、我も我もと白馬やAlamに触れ、こぞって「Yah Husain」と唱える。小路では黒いドゥパッタ(ヴェール)で顔を隠した女たちも行列に近づいて来た。白馬に触れて涙むせぶ老女もいる。
 Lohari Bazarまで来ると、行列はLohari門に向かわず、その手前で西側に折れ、狭いGalliに入って行った。見知らぬGalliだった。見ると、行列が進むにつれて膨れ上がった群衆で小路は身動きとれないほどになっている。最終的にBhati門から城市の外へ出ると人から聞いて、一足先にLohari門から出てBhati門まで行くことにした。Bhati門を出たところに大きな広場があり、そこで待っていると、しばらくして男たちの「Yah Husain」の合唱と共に、Ashuraの行列がBhati門をくぐり抜けて広場にその姿を現した。広場にやって来ると行列は散じ、男たちがふたたび円陣を組んで「Yah Husain」の声と共に両腕を振り上げて平手で胸を打つ儀礼を始める。その光景を我もなく見つめているときにUsmanから声をかけられたのだった。異邦人である私に躊躇することなく、こちらから求めもしないのに蛇口が自ずと開かれ、乾いた喉に水を流し込むようにして説明を聞かされた。そのとき、私はどんな顔つきをして耳を傾けていただろうか。
 Usmanは先ほどの説明を終えると、ゆっくりとした口調で目の前の儀礼の意義を私の耳元で強調しはじめた。
Karbalaで、第三代イマームであるHusainは殺されたうえに首を切り落され、首のない傷だらけの胴体は敵の騎馬兵によって踏みしだかれ、蹂躙されたのです。その悲惨を、私たちはずっと忘れることがないのです」。
「時がどれだけ経とうと、私たちシーア派は、すなわちAliを支持する<党派>という意味ですが、今なおHusainの死を悼み、Husainが受けた苦しみを自らのものとするのです。それがシーア派ムスリムであることの証し(identity)と言ってもいいでしょう。Alamは象徴的な表現になっていますが、あれはKarbalaHusainの死に立会っていた聖なる旗標であるし、ZuljanahHusainの馬そのものを表しているのです。ご覧なさい、Zuljanahの顔を紅く染めているあれは、Husainの返り血なのです。Karbalaの時間は今もなお、私たちシーア派ムスリムの内面に途切れることなく続いているのです」。
 私が個人的に想像した内容は他愛のないものだった。とはいえ、それでも古代的な感覚を呼び起こしてくれる呼び水になったのではないかとも思う。頭の中で凝らしたイメージは一瞬の内に消え失せ、Usmanの説明する言葉が耳から流れ込むことで、目の前の光景が確かな実体となって感覚されてきた。彼らは遥か1300年前の出来事であるKarbalaの時間へと遡るようにして<現在>を生きようとしているのだ。彼らは今、これまでずっと反復されてきた過去の時間にその照準を合わせようとしている。今から振り返ってみれば、そうすることができるのも彼らにとって過去の時間がいまなお開かれているからなのだろうと思う。その時間は連綿と反復され続けることで、すなわち集団の身体に傷を刻み、その結果として集団の神経に痛みを刻み続けることで、自然の摂理に反するようにして、時間が閉じられることの運命から救い出されてきたというのだろうか。そうすることのために彼らが保持し続けてきた受難の感覚、そのパッションが、今目の前で暗い炎のように燃えているのが感じられる。
 いつしか私は、頭上の空が濃度を増して、その濃度による圧力がからだに感じられるような気がしてならなかった。空から何かが降りて来るのか、そんな気配を感じて空を見上げると、空一面が青々と開かれ、巨大な天使が翼をばさばさと音をたてながら舞い降りて来る、そんなヴィジョンの一撃に襲われた。空から降って来る無数の微粒子のクリナメン運動、その一つ一つが虚空に舞い、輝いているのが見える。それが無数の天使のすがたなのか、それともそれら無数のものを集合して巨大な天使が構成されているのか、かたちもすがたもない巨大な天使が翼を拡げて今や空から舞い降りて来る、そんな気配を身に感じ、得体の知れない感覚に包まれたのだった。はたして目の前の、Husainの死とその悲惨を身をもって体験しようとする男たちの特異な時間に応答するようにして、大天使が舞い降りて来るのだろうか。延々と胸を打ち、自身の身体を苛み続け、繰り返し陶酔状態に陥る男たちの頭上に、何か得体の知れない気配が降りて来るようだった。
 天使とは何か。天使とは内から湧き出る能動的な力のことである。その姿形は測り知れないが、その翼は極彩色をしていて、暁と黄昏にその彩りを変化させるといわれる。暁には燃えるがごとく輝き、黄昏には翳りを帯びるというのだ。イスラーム細密画にはそう描かれている。何故か。天使の翼には、物質的なもの(翳り)と肉眼では捉えることのできないもの(神の光輝)との間を仲介する、という意味が込められているからである。それは仲介する力に関わっているのである。言い換えれば、天使とは、感覚的なものを本質直観的なものへと仲介する、内なる能動的な力を示そうとするものなのだ。
 こんなことをかつて考えていただろうか。考えているわけがない。いや、ひょっとしたらそんなことを感じていたやもしれないとも想う。思考には、権利的にそれに先行する<feeling>のアレンジメントが跡づけられているはずだから。
 もう午後も遅い時間だ。もうすぐ陽も傾くだろう。今日は辺りの空気がいつもの感触と異なっている。何かが空から舞い降りてくる。それが見えないにもかかわらず、何か確実に存在するものが上空を支配し、ゆっくりと地上に向かって降りてくる。周囲の人々の押し黙ったような表情からも、みな一様にそのことを感じている風なのがうかがわれる。
 Lahore城市に夕暮れが迫り、空はますます青まってその濃さを増し、その底知れない深さを開こうとしていた。そこから大天使のようなものが舞い降りて来るというヴィジョンに襲われ、私は感覚の宙吊り状態になってBhati門前の広場でしばし立ち尽くしていた。そのとき私は、きっとあの少年時代特有の、芯の定まらないような表情をしていたにちがいないと思う。
 天使の翼が感覚的な次元へと翳りながらばさばさと音をたてている。その羽ばたきの音が、いま、過去の時間から微笑みかけてくるような気がする。
 1979年12月1日のことである。その年、シーア派の隣国イランでは、イスラーム革命が劇的に進行中だった。

 Muharramの祭礼について、まだLahoreの「Civil & Military Gazette」で記事を書いていた頃のラドヤード・キプリングは、白人の優越意識を露にして語っている。
「二年前の、暑い季節の終る頃、LahoreMuharramの際の小規模な衝突とそれに伴う多くのヒンドゥー商店主たちの怒号に活気づいた。Mian Mirに駐屯する英国連隊の第14ベンガル槍騎兵はベッドから叩き起こされ、平和を乱す者の出鼻をその槍尻で一撃を加えることになった。Lahore城塞は、暴動に加わろうとする有象無象の者たちでいっぱいになったのだ。(中略)…四十一年前には、その事件は偶然に起きたとされているが、熱狂的な(シーア派の)刀鍛冶師が早朝のDelhi門の外で首吊りの憂き目にあったとき、彼が主要な役割を果たしていた(Muharramの)夜作業は騒動以外の何ものでもなかったと今はみなされている。今年のMuharramはほとんど重苦しい平穏さのうちに終わった。誰も、金ぴかに飾られたイマーム廟を表す<Taziah>に煉瓦を投げつけなかったし、警官以外は、近隣の者たちに警棒を振り回して刺激するようなことがなかった。狭いGalli(袋小路)での行列に伴う小競り合いは、みなぎゅうぎゅう詰めになって互いに叫び罵り合うばかりで、それはそれは見ものである。さらに印象的なのは、<白人兵(Gora)が来るぞ>という噂が広まって起きる際の、群衆の猛烈な突進である」。(The City of the Two Creeds1887/10/1)
 当時のLahore城市内の人口はムスリムよりもヒンドゥー教徒の方が多かった。そして、英植民地政府の統治政策(すなわち身元分類による分離政策)を反映して、当時は「二つの信仰」の間で小競り合いが絶えなかったようだ。そうした状況にあって、少数派であるシーア派ムスリムにとって、Ashuraの行列は信仰確認のための示威行進としての意味が強かったのだと思われる。アラビア語で「追悼」を意味する「Taziah」は、ここではイマーム廟を型取ったつくりもののことを指しているが、その小さなつくりものを十八世紀初頭にGamay Shahという名のスーフィーの徒が頭上にかざして行進したのが、LahoreにおけるMuharramの行列の始まりだとされている。
 ちなみに、大英帝国がLahoreをシーク王国から奪取したのは1849年のことである。帝国軍の駐屯地は、最初は行政機構と共に城市の南側のAnarkali地区におかれていたのが、1857年のセポイの反乱の後、行政機構はそのままにして軍だけがLahore市東方のMian Mir地区に移動した。要するに、反乱勢力が東方のDelhi方面と連携する、そうした事態に対処するための軍備強化がなされたわけである。セポイの反乱後には周囲6.km ある城市の壁が取り壊され、Lahoreでも多くのセポイ(Sipahi:インド人傭兵)が処刑された。「第14ベンガル槍騎兵」は一部のセポイから成っていた。それに対して「Gora(<肌が白い>の意)」と呼ばれていたのは白人兵のことで、むろん騎馬兵であった。ちなみにウルドゥー語で「馬」を「Ghora」という。
 いっぽう、パキスタン人の短編作家Abdul Hameed(19282011)は、Lahore城市内を横断するようにして進む、かつてのAshuraの行列の様子を懐かしく想い起こしている。彼は1947年の印パ分離の際にAmritsarからLahoreへ移り住んで来たから、その想起の対象はおそらく、新生パキスタンにおける日常生活が安定した1960年代のことかと思われる。
Muharramの十日目に、Zuljanahの行列のための最後の準備が仕上げられる。人々が集まって祈りを捧げるこの大切な場は、Nawab Shah Chowk(辻)にあるNisar Haveli(邸宅)で行なわれる。邸宅から(南にある)Mochi門側のすべての通りに人々が群れ集まり、そのときZuljanaha、すなわちイマームであるHusainの惜し気もなく飾られた白馬が、Nisar邸の外に引き出されて披露される。その光景はとても感動的で、その象徴はとても力強いものなので、それを見た者は泣き叫び、胸を打ち始める。行列はまずいったんMochi門まで進むと、そこから踵を返してNawab Shah Chowkへ還って来るが、ちょうどそのときモスクから朝の礼拝が呼びかけられる時間で、Husainの死を悼む者たちが地区の中心モスクに集まって来たところだ。誰もがその力強い象徴性のゆえにZuljanahを見たいと望んでいる。Husainの死を悼む者にとっては、このとき鎖にナイフを束ねて繋げたもので自身の背中を打ち、血を流す時でもある。それは自身の信仰の力を示すためであり、またイスラームのために殉死した英雄のために燃えるような情熱を捧げるためである。彼らは自身の身体に自らの手で科す苦痛の内に喜びを見出すのである。彼らの<Yah Husain>、<Yah Ali>という魂を揺さぶるような声で、辺りの空気は引き裂かれたようになる」。
Husainの死を悼む者たちによる小規模のAshuraの行列もNawab Shah Chowkにやって来て、そこからLakkar MandiChowhatta Mufti BaqirMohallah Kakezianと経由して、いったんPurani Kotwali Chowk(旧警察署前広場)に至る。ここでHusainの死を悼む者たちは鎖の付いたナイフで背中を打ち、それからKashmiri BazarDabbi BazarSuha BazarBazar Hatta、それからKabuli Malの邸宅を経由して進んで行く。彼らは黒と緑色の旗を掲げ、どの旗の頂点にも銀の手の平の形をしたものを飾り付けている。その真直ぐ立つ五本の指は、預言者を含むイスラームの聖家族、すなわち、AliFatimaHassan、そしてHusainを象徴的に表している。午前二時頃、Zuljanahの行列は城市内を横断するようにして小路という小路を通り抜けてBhati門に到着する。この時間のBhati門は何千人もの群衆で溢れかえっている。屋根の上に上がる者や、窓やバルコニーにぶら下がる者もいる。若者たちはみな揃って途方もないほど胸を打ち、それがすばらしいリズムを生み出すので、シーア派もスンニー派もないほどにみな心を動かし、感じ入っている」。
Bhati門の(城市)内側では、Husainの死を悼む者たちがFaqir Khana(<Faqirの家>)がある小路にやって来て、しばし留まることになる。そこにはSyed Mubarak BegamImambara(「イマンバラ」は「十二イマーム」の意味で、シーア派の信仰の場)があり、そのとき捧げもの儀礼が行なわれ、Zuljanahが敬意と愛情をもって出迎えられる。それはとても感動的な瞬間だ。Faqir KhanaLahoreで最も敬われているSyed家の一つで、そこでは一日中食事が振る舞われる。行列がKarbala Gamay Shahに入ると、ここでAshuraの儀礼は終了する。白馬は名高いImambaraにゆっくりとした足取りで入って行くので、その場面はとても感動的で、こみ上げる感情を抑えることができず、一同涙を流すのを禁じ得ない。これがLahore城市の人々にとって、HusainKarbalaでの殉死に心を捧げる最後の瞬間である。とはいえ、この後三十日間は、各々の家やImambaraで記念行事が続けられることになる」。(いずれも「Lahore remembers Islam’s fallen2007/4/8)
 行列の最終地点は、Bhati門の外にある、十九世紀に建てられたGamay Shahの廟があるImambaraであり、現在もそうである。真夜中にBhati門を通過するとは、かつては暑い時期には行列は夜に行なわれたのだろうか。
 なお2016年のLahoreでのAshuraの行列は、パキスタン日刊紙<Dawn>のネット版ニュースによれば、スンニー派原理主義者のテロを警戒する警察隊による厳戒態勢の中で、1011日の真夜中にNisar邸を出発し、翌12日の夕にKarbala Gamay Shahに着いて終わっている。おそらく、Bhati門を通過したのは私が見たのと同じく午後遅くだったろう。