Sunday, March 19, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


    城市 (2)

 Ashuraの祭礼の日から一週間後、Multan Roadにある映画撮影所に行った。そう日記には記されている。何という撮影所だったのかと思い、試みにネットで検索すると、<Evernew Studio>とあるのがそれではなかったかと思う。かつて敷地内にあったという噴水の画像に見覚えがある。そう感じるやいなや、撮影所の中に引き込まれていった。入口でUsmanと彼の仕事仲間二人が私を出迎えていた。撮影所の敷地はかなりの広さと知れた。建物の中に入る際に守衛が私たちをフリーパスで通した。たしか守衛とのその親しげなやりとりを見て、あらためて彼らのことを信用したのだった。異国の地にあって、私はつねに猜疑心にとらわれていたのを想い出す。それから映画撮影用にセッティングされたスタジオに案内されたが、これが撮影所なのかと訝るほど活気がみられない。不審に思って尋ねると、1977年の夏の軍事クーデターでZia-ul-Haq将軍が政権を掌握して以来、保守的なウラマー(スンニー派宗教学者)たちを取り込んで社会の再イスラーム化が推し進められている。その影響で映画製作の自由も制限されるようになったという。「カメラの前では女優はみなドゥパッタで顔を隠さなくちゃあいけないんだ」、そう言って仲間の一人が私をからかった。みなで撮影所内のカフェに行き、円テーブルを囲んで雑談した。たしかSahdat Husain Manto(19121955)の話をしていたと思う。当時、私はMantoの名さえ知らなかった。Mantoはウルドゥー語で書いた短編作家で、インドの娼婦街やBombayの映画界等を題材にして、人物の内面をその形態から描写するのに秀でた作品を遺している。こんな時代にMantoなら何を書くだろうかという話から始まり、彼が撮影所に近いChauburjiの庭園門の、そのすぐ東側にあるMiani Saheebの墓地に埋葬されているという話になった。すると、Abdul Hameedがあの墓地の墓掘り人夫の話を書いていたぞと、Karachi出身のHabib Khanという名の太った男が言い出した。そのときAbdul Hameedの名も初めて耳にした。
 Miani Saheebの墓地にはLahoreの様々な人が埋葬されている。ウラマーや独立運動の闘士、詩人に作家、神秘家や政治的指導者といった面々がだ。ある日のこと、Abdul Hameedは沐浴をした後に墓地を散策した。すると、一人の墓掘り人夫が墓穴を掘っているのに出くわした。もう初老にさしかかる年頃の男だったという。以前は遺体が埋葬される穴に横室がつくられ、遺体はそこに埋葬されたものだが、今はそうした慣習がなくなったようだ。最近はといえば、長方形に掘られた穴に遺体はそのまま埋められる。墓掘り人夫の仕事は半分まではかどり、ちょっと小休止といったところだった。Hameedは墓掘り人夫に近寄り、話しかけた。もうどのくらいここで仕事をしているのかと。墓掘り人夫は、「覚えているかぎり自分はここで墓を掘ってきたんです。きつい、骨の折れる仕事でさあ。掘っているあいだじゅう腰をかがめていないといけないんで、臓腑がくっついてしまうような感じがするときがありますよ。一度なんか掘っている最中に腹が痛くなって倒れ、そのまま土の中に埋まってしまうんじゃないかと思ったことがあります」、そう答えた。Hameedが、「夜には亡霊となって現われる者がいないかね」と尋ねるので、墓掘り人夫は、「私はこの墓地に住んでいるんですが、夜であろうが昼であろうが、亡霊なんぞに出くわしたことは一度だってありません。霊は神の采配の下にありますから、きっと私たちより良い世界にいることでしょう」、と答えた。Hameedがしつこく、「今までに驚かされた経験はないかね」と聞くと、「ええ、一度だけあります。遺体を埋葬する穴の横室を掘っていたときに、スコップが他の墓を掘り起こしてしまったんでさあ。見ると、まだきれいな経帷子に包まれた遺体が出てきた。おかしいぞ。ここには自分が知らない墓穴はこれっぽっちもないんですから。私のスコップが他の墓穴を掘り起こすなんてあり得ないんでさあ。少なくともこの五十年の間に、この辺りに埋められた遺体はないはずだ。それでもそこに、今埋められたかのように、一点の染みもない経帷子がある。驚いたのは、経帷子を覆うようにしてある薔薇の花びらが乾ききってはいるんだが、その香りがまだそこに生き生きと遺っていることで…。私は思わず掘るのをやめ、死者のために祈りを捧げました。たしかに、この世で善行を積めばその遺体は腐敗せずに遺るといわれます。しかし、そんなことは神のみぞ知るでさあ」。Hameedは話題を変え、妙な質問をした。「今掘っているのは誰の墓穴かね」。「この墓穴にはまだ遺体が決まっていないんです」。「どういうことかね」。「いつもこんな風にしてるんです。ときには遺体が来たらすぐに埋めなくちゃあいけない場合もあるんでさあ。だから、そういうときのためにつねに墓を掘っておくんですよ。その遺体が誰で、いつ来るのかなんてわからないんです。つまり、今の今、街のどこかでぴんぴんしていて普通に生活している誰かが、ひょっとしてここに横たわることになるんでさあ。誰が来るかは知れないが、墓穴の方が死者を待っているんです」。最後にまたしてもHameedは、「これまでにこの墓地で怖いと思ったことはなかったかね」、と尋ねた。墓掘り人夫は答えた。「この墓地で恐れるものといえば神のみでさあ。でも、怖いことはあります。それはこの墓地から一歩外に出て、Lahoreの街を歩くときですよ。いつあのぶっ飛ばして走るバスやトラック、それにオート・リキシャに轢かれるかと、恐ろしくて仕方がないんです」。
「いやはや、この墓掘り人夫が街を歩いていたら、はたから見ると、彼はいま墓穴から出てきたばかりの死人かなんかに見えないものかね」、そう最後にHabib Khanは話に落ちをつけた。
 午後の時間を私は雑談に耳を傾けるのに費やしたが、結局、彼らが撮影所でどんな仕事をしているのかは分からずじまいだった。

 Lohari門をくぐり抜けるとLohari Bazarの往来があり、通りを真正面につき当たった三叉路がBukhari Chowkだ。この辻は、通称Chowk Chakklaと呼ばれていた。「Chakkla」とは、「女郎もしくは女郎屋」の意である。このChowk Chakklaを基点に北東側に扇を拡げたようにしてMohallah Maulianと呼ばれる地区があり、そこはLahore城市内でも最古の居住区の一つであると考えられている。その一帯はムガール朝以前、すなわち十一世紀にトゥルク系のガズニ朝によって築かれた城市にまで遡るとされるが、さらにそれよりも古いヒンドゥー王朝時代の城邑にまで遡ることができるとも考えられている。おおよそ九世紀から十世紀頃のことである。Mohallah Maulianの「Maulian」はパンジャブ語で、それはヒンドゥー教徒の祝い事であるRaksha Bandhanの際に、神の加護がありますようにと姉妹がその兄弟の手首に結ぶ聖紐を言うらしい。ヒンドゥー語ではその紐のことを「お護り」を意味する「Rakhi」と呼んでいるが、「Maulian」は「聖紐」そのものを指す語のようだ。
 また、「Mohallah」は「Mahal」から派生した語で、通りを核として一つにまとまった居住地区、すなわち「町」を意味する。したがって、Mohallah Maulianは「聖紐町」といった意味になる。ちなみに、「Bazar」は一定の商品を扱う店が並ぶ通り、もしくは様々な日用品を売る店が並ぶ商店街を言い、それに対して「Mandi」はより規模が大きいもので、ある一定の商品を売る店が集まる市場空間を言う。たとえば、Akbar Mandiといえば香辛料と穀物の市場、Hira Mandiといえば歓楽街、Nakhas Mandiといえば家畜や馬の市としてLahore中に知られている。また小規模な市場空間をいう語に「Kattra」がある。「Bazar」や「Mandi」がペルシア語起源であるのに対して、「Kattra」はイスラームによるインド侵入以前からある語のようだ。そして、「Kucha」は小路、もしくは小路の周辺域をいい、「Kucha」が生み出すさらに狭い小路を「Galli」という。「Galli」には袋小路になっている箇所がある。Bazar Kucha Galli の順に道は狭まっていく。血管を想い起こせばいいだろう。BazarKuchaから分岐しながら、Galliの先はいくつもの家々、すなわち生きた細胞に繋がっているのである。それら一つ一つの細胞が一つの有機的なまとまりになったものがMohallahであるといえる。そうしてみれば、各々のKuchaMohallahには、その機能を異にする、目に見えない神経のようなものも通っているはずなのだ。
 そして、「Chowk」は複数の通りが自ずと集まったところ、すなわち広場や辻をいう。私が現在住む金沢市の旧市街域には、城下町の名残で狭く曲がりくねった小路がいくつも走り、それらが互いに交差する辻や広場が今でも昔のままに遺っているところがある。たとえば、私が三十年来住む横山町には金沢でも著名な「広見(ひろみ)」と呼ばれる場所がある。場所というより、小路を進むと家々が建て込む街並の中に突然現われる何もない開けた空間、そう言った方が似つかわしい。前田家の家臣であった横山家の邸宅の門前広場だったところらしく、そこには今も大小七つの道が入り込んでいる。それは、いわばChowkである。我が「広見Chowk」の中心には地蔵堂があり、その傍には小立野台地から流れ落ちる雨水を浅野川へと排水する水路がChowkを横断するようにして走っている。おそらくその水路は、かつては季節的に現われるような流水路であっただろう。このChowkに集まる七つの道のうちの三つが主要道路であり、一つが商店街すなわちBazar、二つが小路すなわちKucha、そして最後の一つが袋小路すなわちGalliである(惜しくも最近の公共工事によって袋小路ではなくなってしまったが…)。私が住む家は、Kuchaを入って一つ、二つ、三つの角を曲がった通り沿いにある。しかし、そのKuchaに、私の知るかぎり名前はない。
 Lahore城市内にはおよそ二千五百もの大小の通りがあるといわれている。(その総延長は、城市の周囲6.4kmに対して128kmの距離にもなるといわれる)。その通りのほとんどに名前がついているようだ。むろん、場所にちなんだそれ特有の名前がついている。たとえば、Lohari門は城市で最も古い門、というより、最も古い時期からそこに位置する門であると考えられているが、そのLohari門をくぐり抜けてすぐ右側に入る通りを行くと、真直ぐに延びているにもかかわらず何処へ通じているのかよくわからない薄暗い小路があった。Nilgaran de Galliと、パンジャブ語で呼ばれていた。「Nilgaran」とは「藍染料をつくる者」のことで、「藍染料づくりの小路」の意である。ここにはいつ頃からか知れないが、かつて藍染料をつくる作業場とそれを扱う市場があった。今はないが、おそらく近辺に水場があったのである。かつては藍で手足が染まった職人が小路に見かけられたはずが、今はその一点の染みさえ遺ってはいない。その名残さえ失せてしまっているが、現在でもそう呼ばれているのである。ここでつくられた染料の浸透力は強力で、たとえば、鶏卵を黄身まで二十四時間で真っ青に染め上げてしまう、そうムガール朝期の記録に伝えられているという。
 Nilgaran de GalliからLohari Bazarに戻り、Chowk Chakklaを経由してSutar Mandi Bazarを行くと、途中にNilli Galli(「藍染料の小路」)がある。ここにはかつて綿糸を藍でコーティングする作業場があったという。藍を糊代わりに使っていたのだろうか。ムガール朝期のことらしい。このことから、Nilgaran de GalliからLohari Bazarに出て、Chowk Chakklaを経てSutar Mandi Bazarへという、藍染料の運搬ラインがそこに見えてくる。藍染料はブロック状に固められ、おそらく荷車を使って運ばれたのだろう。ちなみに、「Sutar Mandi」とは「綿糸市場」の意である。この通りではかつて様々な綿糸が売られていたのである。
 Muharramの行列が出発するNisar邸の南側に位置するMochi門を入ると、その一帯にはMohallah Teerandazanという地区が拡がっている。短い小路が方向を変えながらすぐに別の小路と出会い、そうした小路と小路の間に多くの辻ができて、そのせいか空間が密になったように感じられるところだ。「Teer Andaz」とは「矢を射る者」の意で、ここにはAkbar帝の時代に弓矢を射るのを専門とする戦士たちが住み着いていたと考えられている。この地区内にはKammangaran Galliという小路もあり、「Kamman」すなわち「弓矢」の意で、「弓矢づくりの小路」という。おそらく弓矢製造と弓矢の射手とが一体となった地区が城市の南東部にあったのである。往時、Lahore製の弓矢はその性能に定評があった。それはティムール軍に由来するといわれる小型の弓で、その弓の構造は、三つの異なるタイプの木を、これも城市内で製造された革で括り縛ったもので、その三本は膠を使わずに縒り合わせられて一体化されていた。そのため、柔軟性と強靱性においてたいへん優れていたようだ。その弓弦も革でできていた。矢もまた特有なもので、その先には現在でも成分の配合比率を特定できないような金属鏃がついているという。現存する当時の弓矢は少なく、Lahore博物館にもなかったと思う。ロンドンのVictoria & Albert Museumにはその何点かが収蔵されているという。
 あのRang Mahalへ南から入って来るShah Alami大通りは、1947年の印パ分離の際の混乱後に整備された近代的な商店街であるが、それ以前は城市の他の地区と同様にBazarと小路と辻とで構成されていた。それで現在は影もかたちもないが、大通りの北西部からRang Mahal Chowkにかけて、Maachi Hatta Bazarがあった。1920年の地図にはその名が記されている。「Maachi」はパンジャブ語で、水を運び、供給する人のことを言うようだ。サンスクリット語起源だが、パンジャブ語だけに使われているという。ウルドゥー語では水運び人を「Mashkee」と言い、それは水を容れる動物の革製袋の「Mashak」から来ている。Lahoreは大きな帯水層の上にあって地下水には恵まれている。それで、ムガール朝期にはモスクにはもちろん、城市のほとんどの家に井戸があったという。しかし中には、季節によって井戸の乾くGalliもあったようだ。Hattaは「手」の意で、ここでかつて水運び人たちが水不足の住民に手ずから水を供給したのである。城市には私がいた当時も水撒き人がいて、夏の乾期に革袋の水を通りに撒きながら行くのをよく見たものだ。この光景はとても古いものなのである。革袋にはおよそ30リットルの水が入ると聞いた。
 そのMaachi Hatta Bazarのあった辺りから西へ深く切り込むようにして通ずる小路に、これまた古くからあるといわれるGumiti Bazarがある。この通りは印パ分離前まではヒンドゥー教徒が占有した地区であり、今はないが、かつては通りに沿ってKali女神を祀る寺院など、いくつかのヒンドゥー寺院があったという。「Gumti」は動詞「Ghumna(迂回する、周遊する)」が訛ったもので、それはこの通りが南側に大きく湾曲していることに由るといわれる。その狭い通りを歩いていても、建物が密集して気づかないが、この湾曲は城市内の地形に沿っているのである。通りの北側から傾斜が始まり、大英帝国支配期につくられた城市の給水池があるPaniwala Talab一帯までは、城市内でも極めて標高が高い小丘の形をなしている。Gumti Bazarはその小丘の麓の地形に沿ってぐるりと南側に迂回するようにしてできた通りなのだった。ちなみに「Gumti」の語は、今では曲がりくねった小路一般のことも言う。Bazarから迷路のような小路に入る際に、「Gumtiに入る」、といったように。
 同じように、Gumti Bazarの湾曲に南側から通じている、かつて人と触れ合うようにして通ったSutar Mandi Bazarの小路も東側に大きく湾曲している。ここでは通りの西側と南側において小丘をなし、そのため起伏のある複雑な地形を呈している。南側の方の小丘を中心にして、城市最古の居住地区であるといわれるMohallah Maulianが拡がるが、通りの西側から南へと連なるこれら二つの小丘を中心にして、九世紀から十世紀頃に、泥煉瓦(日干煉瓦)の壁で囲われた城邑、すなわち「Kaccha Kot」があったと考えられている。「Kot」には村という意味もあるが、本来は「城塞」を意味する。二つの丘を繋ぐような地形にあるSutar Mandi Chowk()の辺りが、その城邑の中枢を占めていたという。このSutar Mandiの辻から西へPir Bhola Streetを行けば、南側にLohari Mandiへと開かれ、そこら辺一帯はかつてMohallah Kaccha Kotと呼ばれていたという。その名からして、Lohari Mandi辺りに小規模の城塞があったと考えられている。ここから南側へだらだらと下って行けばLohari門があり、かつてはそれが城邑に入ることのできる唯一の門であった。そして、二つの小丘の東端の湾曲と思われるWacchowali Bazarの南側から、Sutar Mandi Bazarを交差するようにしてPir Bhola Streetにかけて走る湾曲に沿って、城邑を囲む泥煉瓦の壁が築かれていたと唱える者もいる。この小規模の城邑を拡張して、より堅固な泥壁を築いて城市と成したのが、ガズニ王Mahmudの寵臣Malik Ayazである。彼はLahoreの最初のムスリム総督として、1037年から1040年にかけて城市を築いたとされる。
 城壁が焼成煉瓦で築き上げられたのは、Akbar帝がそれまでのLahore城市を東西にわたって拡張した1585年である。その際に、パンジャブ地方一帯を支配するRajput族と同盟関係を結び、その一氏族であるBhat族を新たに構築した城市の西側部分に住まわせた。そのことが、城市西南端にあるBhati門の名の由来となっている。なお、「Bhat」の名はヒンドゥー語の動詞「Bhatakna彷徨う)」に由来するが、それはこの氏族が負わざるをえなかった移動の歴史を示しているというBhat族が城市に住みついた際に、Marwari Kanjarという吟遊詩人の集団が共にやって来て、現在Hira Mandiと呼ばれる、Lahore城塞のすぐ南側の地区に住みついた。それで、当初その地区はKanjar が訛ってKangar Mohallahと呼ばれていたという。この「Kanjar」と呼ばれる、吟遊集団であると共に身体技芸を専門とする職層がもたらした歌舞等を基にして、北インドの宮廷舞踊や音楽が展開されていった。すなわち、Kathak舞踊、それにThumri Khyalといった声楽である。「Kanjarは生まれたその日からタブラやグングルー(踊り子が足首に付ける鈴輪)の音を聞く」と言われている。日本中世の白拍子集団を連想するが、彼女たちが自由な存在であったのに対して、Kanjarの技芸者たちはインドの階層社会に厳しく組み込まれていたようだ。とはいえ、一説によれば、Kanjarの出自は中世インド社会に広く活動していたDombaと呼ばれる身体技芸を専門とする低カースト集団にあり、その中の西方に流浪していったDombaRoma(ジプシー)になったともいわれている。
 それはさておき、Kangar Mohallahはやがてムガール朝の宮廷芸術の中心としてのShahi Mohallahへと発展していった。「Shahi Mohallah」とは「王侯地区」の意で、というのも、そこは宮廷人が音楽や詩を通して文化や教養を身につけるために出入りする場となっていたからである。多民族が入り混じる中世インド社会の分裂状態を考えれば、それはきわめて重要な場であったと思われる。極論すれば、音楽や詩に通じた踊り娘なくして、北インドにおける文化による統合意識は形成されなかったということにもなるだろう。ところが、十八世紀初頭にムガール朝とRajput族との関係が悪化して以来、北からアフガン人による侵入が繰り返され、その際にShahi Mohallahから多くの芸姑がKabulへ連れ去られたという。その数150人といわれる。アフガン人の侵入によってムガール朝も衰退し、それと共に技芸の中心であるShahi Mohallahも衰退していった。その後の混乱に乗じてパンジャブ地方を支配したのが、それまで抑圧されていたシーク教徒である。1799年にシーク王国の時代になって、Lohari門を入った現在のChowk Chakklaの北側一帯にShahi Mohallahに代わる遊郭街がつくられた。それがChowk Chakklaの名の由来である。当時、裕福な芸姑は近辺にHaveliを建てるような身分だったという。たとえば、Chowk Chakklaから東へPapar Mandi方面に行くとその手前にChowk Mattiがあり、その辻から北へ入るKucha Pir Shiraziを行くと、現在は廃墟同然になっているNoori(Poori) Haveliがある。かつては豪奢であったと偲ばせるそのHaveliは、持主であったPoori Baiという芸姑の名に由来する。さらには、Chowk Matti自体が、近辺に住んだMatti Baiという名高い芸姑の名に由来する辻なのである。この辺りが雑然としたわりにはいくぶん雅びた感じを今も遺しているのも、故なきことではなかったのだ。遊郭街はその後、シーク王Maharaja Ranjit Singh(17801839)によってふたたびShahi Mohallahに移され、Ranjit Singhの宰相の息子Hira Singh Dograの名にちなんで、Hira Mandiと改称された。それがHira Mandiの名の由来である。こうしてみれば、この界隈が、日が暮れると共に煌々と明りが灯り、男たちが繰り出して息を吹き返したようになるのはいわば当然で、そこにはあたかも過去の時間を取り戻そうとするかのような神経が働いているように思われる。その後、Hira Mandiが宮廷芸術を支える場から女郎街へと身を落としていったのは、Lahore1849年に大英帝国の支配下に入ってからである。Lahoreの大英帝国支配層はHira Mandiを「卑賤な場所」と指定し、英国人の出入りを禁止した。「Hira」とは「ダイアモンド」の意で、私がLahoreに住んだ当時は異邦人に対してはもっぱら「Diamond Market」と通称され、その名は暗に「売春街」を示唆していた。
 こうしてみると、Chowk Chakklaの名は二百年前に付けられたのであり、いっぽうのBukhari Chowkの名はまったく新しいものにすぎないことがわかる。一説によれば、イスラーム共和国である新生パキスタンが不道徳な名を嫌ったのだという。Bukhari Chowkの「Bukhari」とは、中央アジアのどこかからやって来たムスリム聖人めいた名前にはちがいないが、その名は城市の住民にとってことさら意味をもち得なかった。いっぽうのChowk Chakklaの名は、一時期に遊郭街であったことをそれは示しているにすぎないが、当時の繁栄を今にいたるまで引き延ばすようにして人々に親しまれ、現在でも通称として遺っているのである。しつこいといえばしつこい呼び名であるが、かつての「女郎屋の辻」の面目躍如といったところか。
 小路という小路、辻という辻には、かつて城市に生きた人々が繰り広げた、目には見えないような神経が網の目の如くに走っている。さらには、各々の小路と小路、各々の辻と辻には歴然たる差異があり、それら水準の異なるものの感覚が今に至るまで城市の人に受け継がれているようにも思われる。そうした通りと通りの差異を横断するような感覚が、私のからだに今立ち現れてくるような気がする。かつて城市の小路や辻を歩けば、そこに走る目に見えない多様な神経が感覚され、その感覚がからだに畳み込まれるようにして今も遺されているのだろうか。いっぽうの私の個人的な神経はといえば、目には見えない通りの神経を探るようにして、その行き場はないにもかかわらず、知らず知らずのうちに自らを展開させていたのだろうか。確実なのは、小路や辻を繰り返し歩くというのは、通りを走る目に見えない神経とその通りを歩く者のからだの感覚との間に親密な関係を結ばせることになるということだ。かつて私の感覚と神経は、城市を歩きながら、城市とのそんな親密さにおいて働いていたように思う。そして、かつて目に見えないものに向けて自らを展開させていた神経の働きがどこへ行ったのかといえば、それはあたかもかつての城市の神経と化して私の現在の感覚に強く働きかけているのであり、その差異の多様な力に今も私は襲われているのかもしれない。

 Rang Mahalから東へと通じる小路にKucha Kakezianがある。その名前についてはよく知られた話がある。
 Kucha Kakezianの「Kakezian」は「Kakezai」の形容詞形で、「Kakezai」とはアフガニスタン系のパターン人の一部族の名称である。要するに、「Kakezai族の小路」という意になるが、アフガニスタンから来てそこに住みついたKakezai族は「Chabukswar」(「乗馬者」の意)、すなわち馬の売買人の家系に属していた。そのため、Kakezai族は取引に関して抜け目がないことで知られていたという。どんなふうに抜け目がないかというと、あるときKakezai族の男が中庭に置かれた寝台で眼を見開いて寝ていた。それを死体だと考えた一羽のカラスが餌にしようと思って男の顔にとまった。男は口も開けていたので、カラスの足が口の中にすべり込んでしまった。その機を捉えて、男はカラスの足を噛んで放さなかった。罠にはまったと知ったカラスは一計を案じ、あなたの部族の名は何というのかと尋ねた。発音の際に歯を開いた隙を狙って逃げようと思ったからである。「Kakezai」という名前が返ってきた。が、歯は開かれず、カラスの足は噛まれたままだったという。
 こんな話はAkhtar Aliから聞いたのだった。
「アフガン人の馬商が<抜け目がない>というのは<ずる賢い>というのと同じさ。おそらくこの小話はKakezaiが自分でつくって、自分で広めたのにちがいない。Kakezaiは一見パターン人風の生活をしてはいるが、もうパシュトゥー語を話さない。英国統治の時代に<抜け目なく>最初のLahore警察署長官になったのが、Malik Khuda Baksh Kakezaiだ。奴は、英国がロシアに対抗するために喉から手が出るほどアフガンを欲しがっていたのを知りぬいていたに違いない。英国の足を噛んで放さないような、何らかの取引があったのだろう」、そうAkhtarは付け加えるのを忘れない。彼は城市内に住んでいたので城市のことをよく知っていた。彼の家は、Shah Alami大通りから西へ入るJourey Mori Bazarにあった。
「生来のChabukswarで、好戦的なアフガン人が、パンジャブ地方に侵略を繰り返すうちに、馬商となって早い時期から抜け目なくRang Mahal近辺に住みついたようだ。アフガンの北、つまり中央アジアの馬には昔からたいへんな需要があり、その交易はずっとアフガン人の手に握られてきた。馬を長距離移動させたり、丈夫な馬に育てるには、専門の知識や技術を要するからな。すでにAkbar帝の時代に馬を交易する場所がRang Mahal付近にあったともいわれる。Kakezaiの馬商はインドでたんまり金を稼ぎ、自分の持ち馬を見せるための厩舎と飼育場を確保するためにRang Mahalの地所を購入したわけだが、それはずっと後の時代のことになる」。
 そう言う彼は典型的なパンジャブ人といった風で、体毛が濃く、大きな眼と、背は低いがずんぐりとした体型をしていた。見た目だけでなく、性格も「抜け目ない」とは正反対の大らかさで、感情がすぐに顔に出るタイプだった。押しが強く、自分の考えを必ず通そうとした。私には分からなかったが、彼が野太い声で話すパンジャブ語は城市内で話されるパンジャブ語とは異なっているという。聞けば、彼の親も1947年の印パ分離の際にFirozpurから逃れて来たので、Lahore城市の古くからの住民ではないという。彼は当時、Oriental Collegeで日本語を学ぶ学生だった。
Rang Mahalのあの建物はもともと壮大な規模の邸宅の一部にすぎなかった。かつての大邸宅の敷地内には、Baoli(貯水池)Hammam(公衆浴場)さえあったという。Shah Jahan帝の時代に宰相だったMian Khanが建てたんだが、その邸宅の敷地は現在のKucha Kakezianはおろか、現在ある百以上の通りを含む広大さで、その面積は二あったというぜ。考えても見ろよ、そこにMian Khanが壮大な土地を取得できたのも、それ以前にはそこにいっさい建物がなかったからさ。つまり、もともとそこは城市内ではなかったんだよ。そこにはただRarra(荒れ地)が広がっていただけだ」。
 城市内をくまなく散策し、ここはもう何十世代と変らずに生き続けてきた街であるかのように存在している、当時そんなロマンティックな考えに浸っていた私は、かつてはRang Mahalから東は城市でなく、城市が現在の半分以下の広さしかなかったという彼の話を聞いて驚いたのを覚えている。
Ravi河だって今はLahoreの西方に流れているけど、以前はそうじゃなかったのさ。Ravi河は城市の北から東へと廻って南へと、城市をぐるりと囲むようにして流れていたんだ。その証拠に、なぜKhizri門がKhizri門と呼ばれているか知っているかい。<Khizr>という神秘的な存在は、城市の人にとっては、流水や船や旅などに縁があると知られていた。要するに、<Khizr>とは船旅につきものの災いを避ける守護的な存在と考えられていたんだ。その門を出ればかつて舟着き場があり、渡し船が待っていた。河の向こう岸にPir Bakhshwalaのお廟があるんだ。そこへお参りに行くんだよ。それで、Mir al-Bukharが舟着き場に通じる門をKhizri門と名づけたというわけだ。前の世紀、つまり十九世紀までそこにRavi河が流れ、河舟が繋留されていたそうだ。今でもそれとわかる地形があるよ。それに、門の内側にはMohallah Kishtiban(水夫地区)という地区だってある。かつて河舟輸送に従事する水夫たちが住んでいたんだ」。
 私はあっけにとられた。Ravi河はLahoreのずっと西に流れている。そのRavi河まで行くには乗合ワゴンを利用しなければならないほどの距離があった。それに、城市の周囲はといえば、水の気配さえないほど乾ききっている。
 実際に行ってみると、城市の北側にあるKhizri門は緩やかな坂を上がったやや高いところに築かれていた。おそらくそこら辺がRavi河の堤だったのだろう。そして、門の外側には河舟を繋留したと思われる突堤のような地形がまだ遺っていた。今は想像してみる他ないが、Ravi河がそこまで流れ、船を繋いでいたという証である。人に聞けば、付近にはかつて造船施設もあったという。Ravi河はパンジャブ地方南部のMultan辺りでChenab河に合流し、その後Indus河へと通じている。それで、ここからLahoreの水夫が遥かアラビア海まで出ることができたのである。実際、かつてLahoreには藍染料を扱う大きな市場があり、ここからインド藍が西欧へ積み出されたという。Lahore博物館の前にあるZam-Zammah砲も、大英帝国との戦いの際には、シーク軍がここから河舟に乗せてMultanまで運んだのである。
 とすれば、Ravi河はLohari門の前にも流れていたことになる。Nilgaran de Galliの藍染料を扱う市場がLohari門のすぐ近くにあったのは、Ravi河という水場があったからに違いない。これで話の辻褄が合う。その一帯はおそらく城市内でも低地に位置していたのだろう。Lohari門を出れば、Anarkali Bazarを含むLahore城市の南側一帯は見渡すかぎり平坦な地形が続いているが、それはおそらくRavi河の氾濫原で、河が西側に向けて洪水を起こしたことによってできたものなのだ。この氾濫原で藍も栽培されていたのに違いない。Akhtarが少年の頃にRavi河が氾濫してMall RoadにあるGPO(中央郵便局)まで水に浸かったというが、ということは、GPO辺りまでがかつてのRavi河の氾濫原の跡ということか。
 かつてLahore城市はRavi河にその周囲をぐるりと取り巻かれるようにしてあった。それは、私にはちょうど蛇が卵を抱え込むような光景に見えてくる。何と官能的な眺めだろう。
「城市の東端にあるDelhi門に近い、Wazir Khanのモスクがある一帯はどうだったか。Akbar帝がLahoreにやって来て、ここをムガール朝の首府にしようと城市を拡張する以前、そこにスーフィーのKhanqahがあったのは確かだ。いまモスクの中に入って、礼拝堂のすぐ前にあるSyed Muhammad Ishaq廟がそれだ。彼はトゥグルク朝(13201413)の初めの頃にLahoreにやって来て、そこにKhanqah、つまりスーフィーが修行をする場をつくったんだ。だから、当時その辺りは人が頻繁に行き来するような場所ではなかったはずなんだ。おそらく、その周囲にはRavi河の河原に生える草木や石ころ以外に何もなかったろう。いや、当時そこにはShiva神を祀る寺院があったはずだ。おそらくそれは、Syed IshaqKhanqahよりも前からあったはずだ」。
 かつて城市の東側半分は、地形的にはRavi河の水流と対峙するような場だったのだろう。Delhi門からRang Mahal辺りまでは、河原の延長のような「Rarra Maidan(荒れ地)」が広がっていたのである。それは、城市の周囲に人が住むのを許さないとする、統治者による安全保障上の政策もあったからだろう。
Delhi門の北側に、Mohallah Qasaban(「肉屋地区」)があるのを知っているだろう。そこはまだRanjit SinghLahoreを統治する以前、シーク教徒が肉屋たちを大虐殺したところだ。1746年と1762年に、城市の肉屋たちがシーク教徒を動物のように追い廻して虐殺し、首に値札をつけてDelhi門の外に吊るしたので、今度はそのお返しに肉屋の鼻を削り落としてやりたいと考えたからさ。何百人もの肉屋が襲われた。いや、俺が言いたいのはつまり、そこは当初から肉屋のような連中が住む地域だったということだ。Mohallah Qasabanのもっと北側、もう鉄道の線路に面したところにはChangar Mohallahもある。Changarというのは今でいえばジプシーのことだ。こうしたMohallahがあるということは、この辺りがずっと城市の外部的な地区であった証拠なんだよ。いいかい。Rarra Maidan>というのはそういう場所だったんだ。Rang Mahalから行くと、Chowk Wazir Khanの手前に今でもChitta門があるが、そこが城市の内と外との境だった時期があったと考えられる。Shah Jahanの宰相だったWazir Khanがモスクを建てたのはそういう場所だったのさ」。
 正確にいえば、Changarとはイラン方面から移動して来た遊動民で、現在はラジャスタン地方にまで分布している。私も見て知っているが、彼らはテントに簡易ベッドという生活を守り、決して家を持たなかった。それはさておき、Chitta門よりも西側にあるRang MahalにかのMalik Ayazの廟があるが、遺体は城市内に安置しないという当時の慣習から考えれば、Rang Mahalでさえもかつては泥壁で囲まれた城市の外であったのは確かである。その証拠に、Rang Mahalの西の、かつてのMaachi Hatta Bazarの西側から始まり、そこから南北へと連なる土地が尾根のように急に盛り上がったようになって、その東西のいたるところで坂になっている地形が見てとれる。それがGhatti(「坂」の意)で、Malik Ayazが泥壁を築いた跡なのである。
Mohallah Maulianの、Kucha Pir Shirazi から東へ入るKucha Dogranに、Naveenモスクがある。それは城市に遺る最古のモスクで、ロディー朝期(14511526)に建てられたのものだと考えられている。つまり、BaburLahore城市を破壊する以前に建てられ、城市内に今日まで遺っている唯一の建物が、このNaveenモスクだ。そのモスクの床が、なぜか通りの地面よりほぼ一階分低くなっているんだ。どうしてかって。ウルドゥー語を読めるんなら、Kanhaniya Lalの『Tarikh-i-Lahore(ラホール誌)』でも読んでみろよ。きっと何か書いてあるぜ」。
 大英帝国の官僚を務めあげ、ヒンドゥー教徒のKanhaniya Lalが定年後にウルドゥー語で著した「Tarikh-i-Lahore(1884)」には、当時城市内にあったヒンドゥー寺院、シーク教施設、モスク、ムスリム廟等について、その位置と内部の構造がかなり詳しく描写されている。興味深いのは、現存しないヒンドゥー寺院の内部構造の説明で、その中には、通りから地下へ下りていった洞窟のような場所に神像が祀られていた、という例があった。ヒンドゥー寺院に祀られる神々とその立地地形はとても関係が深い。ひょっとして、Naveenモスクは古くからあったヒンドゥー寺院をモスクに改造したものなのか。この辺りには起伏に沿って複数の湾曲する小路が走ったり、それが袋小路になったりして、かなり複雑な地形を示している。
「いいかい。雨が降ったときにGumti BazarからChowk Surjan Singhに向かって歩くと、GalliというGalliから恐ろしいほどの勢いで雨水が流れて来るのを君も知っているだろう。城市では雨水の流れは止まることがない。それは低い方へ低い方へとただ流れて行くだけだ。雨水はChowkのところでHatta Bazarの方へ流れを変えるにつれてわずかにその流れを広げ、それからKinari Bazarに向かって流れて行く。雨水はここで、Suha BazarGumti Bazarからやって来る流れと合流するんだ。そして、ここから初めて大量の雨水がRang Mahalに流れ込み、Shah Alami大通りに向かって猛烈な速さで流れるのを見るってわけだ。そして、最終的に雨水はすべて城市の外に吐き出されるのさ」。
 城市で雨に合うと、Rang Mahalには出ないことにしていた。そこが水浸しになるのが分かりきっているからだ。しかし、どんなに土砂降りの雨になって、通りという通りが水浸しになろうとも、一時間もすれば城市は元の乾いた状態に戻っている。茶屋の給仕の少年が勧めるように、一杯のチャイを飲んでいけば、それだけで履物を濡らさずに帰ることができたのである。
「さて、ここが肝心なところだ。Malik Ayazが築いた城市が、起伏のあるいくつかの丘の上に建てられているのはすでに君も知っているところだ。それで、複雑に起伏した土地による様々な方向への傾斜が自ずと雨水の流れる方向を決めている。要するに、KuchaKattraChowkをつくりだし、はたまたMohallahの範囲を決めているのは、この雨水の流れなんだ。つまり、流れは傾斜に従って曲がり、その方向を変え、さらに分岐し、そしてふたたび合流するだろう。そうやって、自然にできる境界をつくりだしている。そして、その流れの上に通りや小路ができ、流れが合流したところにChowkKattraができている。俺の見たところ、Bazarは傾斜に沿って分岐し、そうやっていくつものKuchaをつくり出している。そして、主なBazarはすべてChowkに合流する傾向がある。どうだ、城市の論理は明快だろう」。
 一瞬、自分の頭もクリアーになったような気がした。この網目の如く広がる複雑な迷路という迷路が、自然のルールに従ってできているというのだ。城市内を覆う雨水の流れが小路という小路、辻という辻をつくり出し、その流れに沿ってMohallahという居住区をも生み出している。それも城市がいくつかの小丘という地形の上にできているがゆえなのである。
 Lohari Bazarを行けばChowk Chakklaに通じ、そこから一方はChowk Mattiへと向かって流れ、他方はChowk Lohari Mandiから流れて来て合流する。Chowk Mattiの方はさらにPapar Mandiへと流れて行く。Kucha Pir Bholaの湾曲はWachowali Bazarの湾曲と合流している。Sutar Mandi Chowkの位置に立ってみればそのことがよくわかる。そのSutar Mandi Chowkからは、Kucha Sundar DasKucha Bulla MalKucha Arainへと、東側にいくつもの流れへと分岐して行く。しかし、南東側のKucha Pir Shiraziの方へは流れが滞り、ふたたびChowk Mattiへ向かって流れてしまう。Kucha Pir Shiraziからすぐ東側のJourey Mori Bazarへと流れが直接に向かわないのは、おそらくそこが急勾配の地形になっているからだろう。その急勾配の先にNaveenモスクがある。いや、そこはかつてヒンドゥー教の寺院だったかもしれない。
 歩くことは小路の光景やその分岐を脳裏に焼き付けるばかりでなく、その傾斜を、その勾配を、知らず知らずのうちにからだに描いていくことでもある。足裏の神経の働きが反復されて、それがからだに畳み込まれるようにして遺されているのである。その証拠に、小路や辻を含めた地区の光景を想い描けば、たちまちのうちにからだに浮上してくるものがある。そのわけの分からない感じであったものが、勾配に関わる神経なのだ。こうして、城市の小路や辻を繰り返し歩いたことが、泥壁に囲まれた旧城市の感覚をも自ずと与えてくれていたのだろう。その感覚をいま見出し、神経を興奮させた私のからだに、城市を歩くその姿がおぼろげながら象られてくる。狭い小路の異様な曲がり角に身を従わせ、Galliをまたぐ不思議な段差を訝りつつ歩み、あのGhatti跡の緩やかな勾配を上って行くときの奇妙なfeeling、それに伴って足裏にすばやく走る木目細やかな感覚が…。
「最終的に、かつて城市の雨水の大きな流れはその傾斜に従って、Lohari門のすぐ西側にある、いわゆるMori門からRavi河に放出されていた。いわゆるというのは、この門がシークの時代になってから建てられたものだからさ。Mori門の<Mor>とは<排水もしくは排水溝>の意で、それ以前にそこには人や荷車が通るための門はなかったと考えられているんだ。そこには城市の雨水を吐き出すための排水門があったようだ。ちなみに、俺が住むJourey Mori Bazarは、何と<排水を集めて流れる通り>という意味さ。いったん雨が降ればその名の通りになるよ。それはさておき、このMorからは排水だけでなく、かつて城市で出た死者も送り出されたという」。
 死者を城市の外に送り出すという点については、少々歴史を振り返る必要がある。
 ガズニ朝によるパンジャブ地方侵入以前に、いわゆる「Hindu Shahi(王朝)」と呼ばれるヒンドゥー教徒の王国が、パンジャブ地方からカシミール地方、さらにKabul周辺地方をも含む北西インドを支配していた(それゆえKabul Shahiとも呼ばれる)。このHindu Shahiは自らクシャトリア階級を主張する王国で、クシャーン王朝の崩壊を受け、九世紀から十一世紀にわたって北西インドを支配した。Al-Birni(9731048)がそう記しているので、ヒンドゥー王国でありながらペルシア語で「王の」を意味する「Shahi」の名がついている。最初はKabulに首府があったが、ガズニ朝に追われたRaja Jaipala(964-1001)のときに、まずPeshawarへ、さらにLahoreへと首府を移してきた。Lahoreの城邑は三方をRavi河に囲まれていたので戦略的にみて好位地にあったのだろう。十世紀頃に築かれたその城市は、Ravi河に囲まれた三つの小丘を泥壁で囲んだものだったようだ。Paniwala Talab周辺の小丘、湾曲したWacchowali Bazar南部の小丘、そしてLohari Mandi辺りからPapar Mandiへと広がる小丘があった。十世紀の記述によれば、そこには「二つの集落が泥壁で囲まれて一つになり」、その周囲の「堂々とした寺院と大きな二つの市場、そして広大な果樹園」と共に、小さな城邑を形成していたという。Hindu Shahiによる城市が築かれたのはその後で、おそらく新たに城壁を築き上げ、南方に面してただ一つの門を造り、城市の南西部の角には「Mor」が設けられたのである。ヒンドゥー教徒の慣習に従い、死者を城市の外で火葬にするためである。城市内に死者が出た際には、Mori門を入ったところに今でもあるMaidan Bhaiyanwalla(「同胞広場」)に人が集まり、そこで死者を送る儀礼がなされたと考えられている。それから狭い「Mor」を通るのにからだをかがめるようにしてくぐり抜け、城市のすぐ南に流れるRavi河岸で火葬し、その灰を河に流したという。Jayapala王は、ガズニ王Mahmudとの戦いに二度も敗れたのを恥じて、「Mor」を出たところでJohar、すなわち自死を遂げたという。この場合の自死とは、生きたままの火葬と思われる。
 ムスリムが支配する時代になり、Malik Ayazが新たに城市を築いた後にも、城市のヒンドゥー教徒は「Mor」から死者を送り続けたに違いない。しかしそれも、Ravi河が城市南部に流れているかぎりであった。
「けれども実は、死者たちの多くは送り出されていない。というのは、死者たちはまだ俺たちの足下に埋まっているからだ」。
 1959年に旧城市内の一部で発掘調査が行なわれた。その際に、Lahoreにおける、初期の居住地が存在した跡が初めて確認されたという。その結果は「秘密」とされ、それがどういうものかは分からない。中には、城市がHarappa文明まで遡ると推測を立てる者もいる。それはさておき、ごく最近になって、Mohallah Maulianにある古い家を壊したら、家の土台の下からさらに古い建物の屋根の一部が出て来たという。それで住人は、古い建物の上に自分たちの家が建てられていたのを初めて知ったのだった。いっしょに真鍮製の容器や人骨も出て来たという。古い建物はガズニ朝期のもので、その建物を掘り起こして出てきたのは、侵略者の襲撃にあって殺された者たちと、その所有物なのである。
「…大地は頭蓋骨に満ちあふれ、雨が無理矢理彼らを不快にむき出させる/誰しもがLahoreが少なくとも都市六つ分の墓場であることを知っている/そして今日は昨日の、もしくはそれ以前の日々の、人間の塵から成る泥壁で築かれている/でも、人はいつも雨が降っているという事実を想い出さないようにしている…」、そうAkhtarは、キプリングの詩だと言って諳んじてみせる。
「要するに、こういうことだ。この城市の小路という小路の下には、旧城市を生きた者の死体が積み重なっている。だから、俺たちは死者を踏みしめながら城市について語っていることになるんだよ。そうだろ、Tahir」。
 Tahirだって。その名を聞いて私は一瞬たじろいでしまう。「ターヒル」、それは私のことだ。私はLahoreで「ターヒル」というムスリム名をもっていたのだった。そのため、周囲からはムスリムと認められていたのである。しかし、私はもはやムスリムであると言えないし、かつてムスリムであったとも言えないほどの年月が経ってしまった。だから、ターヒルという人物はもうこの世に存在しないのと同じなのだ。とはいえ、私はLahoreにいる間ずっとターヒルと呼ばれていたのである。Collegeでも、大学寮でも、城市の茶屋でも、ターヒルとして存在したのだった。そのターヒルは、今は存在しない。それは死者と同じだと言ってもいい。けれども、Akhtar Aliが過去から発するその声を聞く私の想起のうちに、かつてのターヒルがいまや怖ず怖ずとながらも蘇ろうとしている。