Sunday, May 14, 2017

Lahore日記 The Dairy on Lahore


  城市 (3)

 Lahoreの夏は耐え難い。その暑さの感覚をあえて想い出すことはない。暑かったというイメージは今でもあるが、その苦しみが感覚として想起されることはない。それで、あれほどの酷暑に苛まれたはずなのに、あの暑さをめぐる感覚はどこに失せてしまったのかと思うことがある。キプリングは、Lahoreの真夏に眠られぬ夜を悪夢めいた体験として、「Till the Day Break(1888/5/19) という記事に書いている。暑さから逃れようと冷えたシェリー酒などを飲み、そのため逆に意識の働きが高まり、思考が鎖を解かれたようになって一方的に際立ち、そのことに苦しんでいるようだ。思考すれば脳は自ずと発熱する。その発熱が酷暑にあっては意識の流れに悪夢を呼び込んでしまう。そして、そのことがさらに暑さの感覚を煽るという際限のない悪循環に陥っているようだ。そうやって、永遠に続くがごとき夜の時間、すなわち我身が発する思考と暑さの感覚に襲われる時間に苦しめられることになるのだ。Lahoreの酷暑は三月に始まり、五月から六月にかけてそれはピークに達する。その時期にはあまりの暑さに蚊もぱたりといなくなったのを覚えている。何でも涼を求めて水辺の木陰や叢に集まっているそうな…。

 思考をめぐらした途端、酷暑の熱気が目には見えない煙のように肌に絡みついてくるのが感じられる。それだけで、もうからだに熱が帯びてくる感じがする。ある夜、炎でからだを炙られる夢を見て、じりじりと身を灼かれる苦しさに思わず目を覚ましてしまった。しかし夢から覚めたとて、肌をも焦がさんとする部屋の熱気から逃れられはしない。いや、夢の中に逃げ込んでさえも暑さから逃れられないのであり、そこから目覚め出ようと、ふたたび暑さの中にいるのは当然のことだ。畢竟、自分がいる空間はただ一つでしかない。そんな単純な事実を、夜の暗闇の中で繰り返し思い知らされたのだった。この暑さから逃れ出るなんてとうてい不可能だ。頭上で天井ファンがうなっている。その回転が吹きつける熱風がからだを炎で炙られる夢を見させるのだった。とはいえ、ファンを停めようものならたちまち汗にまみれ、とうてい寝つけないだろうこともよく分かっている。
 また別の夜、ベッドでうとうとした後に停電になったらしい。Lahoreでは真夏になると頻繁に停電する。ファンが停まり、熱さに目覚めると真っ暗になっている。新月の前なのか、夜の闇のその暗さが尋常でない。目の前が真っ黒に塞がれたようになり、はたして今眼を開けたのかどうかも自分で判然としないほどだった。まだ夢の中だろうか。いや、からだが汗まみれになっている、その不快感は現実のものだ。試しに目の前に手の平をかざしてみる。が、その影さえ見えない。手の気配は感じられるがそれがまったく見えないことに、一部の感覚神経が混乱へと崩れそうになる。目が見えなくなったのか、そんな不安がよぎる。しばらくすると部屋の外で「Bijuri Band(停電だ!)」という声がして、中庭の方から懐中電灯の光が闇を切り裂き、自室の壁面を走るのを見た。すぐに消えたが、安堵した。脳の働きが落ち着きを取り戻し、汗まみれにもかかわらず眠ろうとした。この真の闇にあっては時間感覚も失せてしまうような気がして、一瞬恐ろしくなったからである。ファンが停まり、空気の流れも感じられない真の闇の中で、さきほどまでは空間の拡がりを把握する知覚さえ行場を失いかけていたように思う。(盲人の感覚とはこんなものだろうか)。空間感覚が失せると時間感覚も失せるものだろうか。いや、そうではないだろう。通常の時間感覚が失せたときに現われる<時間>というものもあるかもしれないぞ、などと考えてみる。ふたたび闇に包まれたが、安堵したせいか埒もないことが次から次へと思い浮かぶのだった。
 ファンが停まったせいか、しばらくして虫に刺されたようだった。熱気に苛まれながら、それも半睡状態で刺された箇所を掻いた。が、そこが刺された箇所ではないようだ。というのも、痒い場所を掻いたという感覚がいっこうに半睡状態の脳に伝わって来ないからである。さらに掻いた。それでも痒みを掻いたという感覚が伝わらない。そのとき、変な仕方で脳が目覚めたらしい。熱気に苛まれながらの半睡状態というのは何かしら神経の働きを欠いたような状態にある。そのうえ、この真の闇では痒い箇所と掻いた跡とを確認しようにもそれさえできない。確認できないということは、痒みを感じながら痒い場所を特定できないということだ。痒い場所を特定できないことは痒みに対して何もできないでいることに等しいから、かえって痒みが募ってくる。その苛立たしさに、半睡状態の脳からいっきに目覚めはしたが、見ることに関わる神経系の働きが行場を失っているので脳の一部が空回りするような状態に襲われた。からだは熱にまみれている。痒みがからだ中に拡がるような気がする。目は機能しない。その行場のなさにいっきに苛立ちが募り、一瞬、暗闇の中で気が狂いそうになった。
 まだ昼間の酷暑は耐えられる、と夜の熱気の中で思う。昼間はといえば、世界全体が巨大な火炉と化して燃えさかり、この熱地獄からとうてい逃れる術はない、そう早々と観念させられてしまうからである。冷房の効いた映画館やカフェに避難するという手もあるが、それは所詮一時しのぎに過ぎない。事前に結果は分かっている。ひとたびそこから出れば内外のギャップに容赦なく仕打されるのが落ちだ。昼間は、寮の自室か、城市の茶屋か、どこか陽の射し込まぬところで萎びた菜っ葉のようになり、ただ息を潜めているしか他になす術がない。そうやって昼間は人間であることを忘れ、奴隷のように暑さに屈服してしまえばそれで済むのだった。はたから見てどんな腑甲斐ない顔つきになっていようと、どんなにだらしない姿態をさらしていようとかまうことはない。周囲を見れば、そうやってみな時間をやり過しているのだから。
 問題は夜だ。夜には内部からめらめらと炎が立ち上がる。この熱気を帯び、閉ざされたような時間にあっては、意識の炎のゆらめきからどうあっても逃れようがない。かつて仏陀が「意識は苦しみの源である」と教えたように、このインド亜大陸の酷暑にあっては意識というものは耐え難い発熱であるように思われてくる。だから、こんなふうに考えをめぐらすのもやめた方がいいにきまっているのだ。所詮堂々巡りの思考では、現実から別の次元への移動を望むとしても、それに何ら手を貸すことはできないのだから。逆に思考と感覚の悪循環に陥るや、いっそうの発熱となって自身に襲いかかってくることになる。思考が猛威を奮うことがある。思考は差異をつくり、その差異が怪物的なものになる。それで考えをめぐらすのをやめ、少しでも冷えた感触を味わおうと石床の上に仰向けに寝転がったのだった。さっきは思考する熱のせいで後頭部あたりがちんちんと焦げついたように感じられ、何だ、煙でも立っているんじゃないかとあわてて後ろを振り向くことさえあった。これはもう異常である。
 この暑さは今日とか明日とか、そんな一日かぎりのことではない。明日も明後日もその次の日も、いや一ヶ月後も二ヶ月後も変わることなく続くことが分かっている。ここにいるかぎりとうてい暑さから逃れられはしないのだ。そう考えると、それだけで発熱する。ああ、またしても思考にしてやられている。ふと、生きているかぎり永遠にこの暑さから逃れられないのではないか、そんな妄想が顔をのぞかせることもある。すると次には、この頭を首から切り落としたらどんなにすっきりするだろうかと妄想する。その首の切り口がいかにも涼しげに感じられるではないか。首なしの人間というイメージがあるが、それが何かしら清々とした感じがするのはそういうことなのかもしれない…。
 ムハッマドの言行録である「ハディース」には次のような言葉があるという。「人々は皆眠っている。死んで初めて目を覚ます」。酷暑の夜にあって、この「目を覚ます」という表現がいかにも涼しげに感じられてならない。暑さで眠れないが、実は目を覚ましたいのである。涼しい空間で目を覚ましたい。そうできるような、ある種の次元の移動がこの「目を覚ます」の語から感じられてならない。酷暑の夜に苦しむのは、この状態から移動したくても現実は一つときまっていて、それから逃れることのできるような次元移動が不可能と知らされるからである。とはいえ、「死んで初めて目を覚ます」とは、どんな次元移動を示しているというのか…。
 また「ヨハネ行伝」を見ると、「苦しむことを知りなさい。そうすれば苦しみのない状態を得るだろう」とある。この教えは、昼間の酷暑に奴隷のように屈服する方法に似ているようにみえて実はそうでない。より積極的な姿勢がそこには認められる。この教えもまた、ある種の次元移動を企てるものの一つではないだろうか。ひょっとして、永遠に続くかと思われる地獄の暑さを克服するための方法とは、暑さに苦しむことを知る、それのみであるかもしれない。この逆説的な、意識とからだをもって臨む姿勢には絶大な効果が秘められているのではないかと思われてくる。たとえば、こんなふうに考えることができる。「苦しむことを知る」ことで、意職は苦痛の中で苦痛しか認識できなくなるところまでいくだろう。すると、「苦痛」という相対的な認識は消え、その代わりに「刺激」という感覚の純粋現象しか経験されないような境地に至るだろう。つまり、「苦痛」という名称が意識の蔵庫から消えると同時に、「苦痛」という名の体験も自動的に単なる「刺激」へと移行することになるのである。この「刺激」はある種の強度として感覚され、そのことが難なく人をして、苦しみのすり替え、たとえば陶酔へと移行させる。それが、「苦しみのない状態を得る」ということではないだろうか。そこでは、苦しみを受け入れるという認識を介して、ある神経状態から別の神経状態への移動が起きているように思われる。酷暑の苦しみが人を「陶酔」へと誘うのだ。ありそうなことだが、しかしこうした「陶酔」には、自己を失うというわけの分からない状態が指針となっているようにも思われる。Lahoreでは「陶酔」する人をよく見かけたものだ。あれは、神経に隙間がなくなるほどびっしりと苦しみを受け入れた人たちだったのか。
 今想い出そうとしても、Lahoreの五月の酷暑は非常にして、想像を絶する。夜の熱気と、熱気に苛まれつつ「夜明けまで」の時間に苦しめられた感覚としてしか想い出すことができない。夜の熱気とそれに伴う時間感覚は、思考が猛威を奮うことで異常なものとなる。さらには感覚の混乱も苦しみを増すのに手を貸していたようだ。感覚の混乱は思考の背景のようなものを際立たせ、そこに立ち現れた不穏さは夜の熱気にあって制御できないものとなるのだった。酷暑にあっては、思考のなすがままであれ、感覚のなすがままであれ、どちらにしても安らぎは与えられないのだった。とはいえ、思考も感覚も必ずしも苦しみの源であるとは言えないような気もする。所詮、酷暑が一時的な生活体験であると考える、異邦人意識が苦しみを増幅していたのかもしれない。だから、こうも考えてみる。「陶酔」が信仰に基づく何らかの移動の仕方であるとすれば、それに対して、信仰本来が目指す思考と感覚を抑制する仕方、すなわち<良き思考>というものがあるのではないか。良き感覚を生み出すような<良き思考>の働きがあるのではないか。過酷な自然環境に対峙してきた当地の人間にとって、それに馴染むためには、酷暑の場から移動することなく感覚神経の次元を移動させるような、別の移動の仕方があってもおかしくはない、そう思うからである。
 夏の夜に、濃厚な甘い匂いをさせてそれと分かるが、すがたが見えない樹花がある。夜にだけ匂いを放つからである。その名を、「Rat ki Rani(「夜の女王」の意)」という。ジャスミン系の樹花らしいが、狂おしい名前だ。

 昼間は四十五度近くまでになる熱気がLahoreの街をしんとさせている。街を歩けばしきりに喉が乾く。露店の飲料をいくら飲んでも汗にならない。そのうち着ている服が灼けて、肌身に熱く感じられるようになる。外気が体温よりも高いということはこういうことかと実感する。それにもかかわらず、こともあろうかこの昼の陽中に、Anarkali Bazarにあるカフェ<Nagina Bakery>近くの路上で、腰布一枚をつけただけの裸で、からだをボールのように蹲らせて物乞いする者がいる。「者」というが、それは人のかたちというよりは肉の塊に見える。ただの肉塊が路上に転がっている、そう言った方が正しく描写することになるだろう。その両足は萎え、両腕も中途で伐られている。頭部は肉塊に埋まっているのでその目鼻さえ見えない。肉の表面にうっすらと汗が滲んでいるのだけが人間らしい。そこに塩分を求めて蠅がたかっている。むろん声など耳にしたことはなく、というよりは、それはしんと静まりかえったただの肉の塊にすぎなかった。その肉塊は見るも悲惨な状態にあり、いやそう見えるように仕組まれているのだろうが、それにしても私には何かしら強靭なもの、というよりは恐ろしいもののように感じられてならなかった。
 その乞食は、夏であろうと冬であろうとAnarkali Bazarの路上で転がっていた。どこから来るのかさえ分からない。あの肉塊の中ではどんな想念が働いているのだろうか。それも想念が働いていればの話だが…。それとも、あの乞食の意識は苦痛を越えた領域に至っているのだろうか。すなわち、昼間の酷暑にもはや何ら抗することもなく、たとえばからだを煙のような状態に仕立て上げ、この炎天下と同調させるような技を心得ているのだろうか。そうであれば、それはひたすら感覚神経を操作することの技ではないかと思う。夏の真っ盛りにまともな思考ができるはずがない。この炎天下ではそんなものは生まれた途端に真っ黒焦げになってしまう。感覚神経を操作することなくして、アスファルトをも溶かすこの陽光の中でどうしてあの乞食は裸のからだを往来に転がせて物乞いできようか。そんなふうに勝手に想像してはみるが、実際にあの乞食の感覚神経と時間意識はどうなっているのか、そんな疑問が、私にその肉塊を恐ろしいもののように感じさせる理由であった。
 この乞食のことが脳裏から去ることはなかった。その在り方がつねに気掛かりだった。折りにふれて色々と解釈してみるが、いっこうに疑問は解消されない。人には様々な人生があるが、中にはとうてい測り知れないものもある。どんないきさつがあるか知れないが、その肉塊が何を想っているかなど私には知ることもできないし、また知ってどうするというのか。それは自分とはあまりにかけはなれた存在であり、考えるだけ無駄なこともあるだろう。確かなことは、あの乞食は苦行をしているのではなく、日々の糧のためにああやって仕事をしているということだ。彼はひたすら肉塊と化すことでその道の勝負をしているのである。だらりと静脈まで曝すようにして人目を引きつける乞食もあるが、そうではなかったのである。
 そんなことを想いつつ、今日も私はLohari門をくぐり抜けた。Lohari Bazarの雑踏を足早に通り抜け、一目散にChowk Chakklaにある茶屋の穴蔵に入り込む。もう先客が席を占めている。みな暑さに惚けたふうだ。グラス一杯の水をいっきに飲み干し、チャイを舐めるように飲んで一息ついた後、穴蔵を出てSutar Mandi Bazarへと通ずる辻を曲がる。人通りのない狭く長い通りをだらだらと歩き、途中から天幕のあるGumti Bazarに逃げ込み、やっとRang Mahalの賑わいに出る。と、ここでまた冷飲料を飲む。喉の乾きが半時間も経たないうちにやって来る。この炎天下に水分を摂らなければくたばってしまうのだ。そんな強迫感がある。それからKasaira Bazarのアーケードをくぐり抜け、Kashmiri Bazarに出る。陽光を避けるようにしてKashmiri Bazarを東に向かって歩く。崩れかけたChatti門をくぐり抜けるとすぐにWazir Kahnモスクの尖塔が通りの右側に現われる。ようよう辿り着いた。Wazir Khanモスクはムガール朝初期に建てられた歴史的建造物として名高く、内外の壁面を埋め尽くす装飾には美術的価値があることで知られる。しかし、酷暑の時期に私がWazir Khanモスクまで足繁く通うのはその装飾美を愛でるためではない。その内部の空間がいかにも涼しげに感じられるからである。Wazir Khanモスクに入ればきっと暑さから逃れることができた。いや、正確にいえば、暑さを忘れることができたのである。
 酷暑の時期にはとにかくモスクへ行って礼拝することにしていた。それが、私がLahoreに暮らして身につけた知恵である。知恵も追い込まれるようにしないと身につかないようだ。モスクは、暑さを逃れようとやって来る者にある種の次元の<移動>を提供してくれる、見事にあつらえられた人工空間のように思われる。そこには宗教建造物に特有の、外界の喧噪から護られた空間がある。城市随一のBazarに接していながらも、Wazir Khanモスクもその例外ではない。入口の門をくぐれば、その内部の空間には別種の時間が流れ、つねに静謐さが保たれていた。モスクの中庭広場に足を踏み入れれば、見知った信者と抱擁の挨拶を交わす。気温が四十度を越えるとなると、人肌の方がひんやりと感じられるものだ。
 しかし、Wazir Khanモスクに入ると暑さを忘れることができるのは、それだけの所為ではない。Wazir Khanモスクに独特なのは建物内部の壁面を埋め尽くすNaqqashi(絵画・彫刻・刺繍等の技法による意匠)であり、この場合はフレスコ画である。その画が提供するものは、歴史的価値とか美術的価値といった観点をもってしては言い尽せないように思う。モスクの入口や礼拝堂のIwan(前面に開放空間を擁したイスラーム特有の建造物)の内壁が漆喰で塗られ、その壁面に高度に精密なフレスコ画がびっしりと描かれているが、それこそが私にとって暑さを忘れさせてくれるものだったその内容は様々な草花の画とそれらを取り囲むようにして描かれた植物的な幾何学模様で、あたかもまじないであるかのように、それによって外部の熱気をぴしゃりと遮断していたのである。
 入口のIwanティムール様式のもので、その内壁はいくつもの壁龕状の面に区切られ、各々の面に異なる草花が描かれている。憶えているかぎりでは、チューリップ、アイリス、紫陽花、雛菊、金盞花、向日葵といった草花が描かれていた。いかにもヨーロッパ風の草花と考えるかもしれないが、たとえば、チューリップはムガール王朝からオランダ商人がヨーロッパへもたらしたものである。球根をこっそり盗み出したと言われている。草花は赤や黄色や青色等を背景にして描かれ、その背景の色が見事な深さをたたえている。それら草花は花瓶に収まり、花瓶には様々な風景も描かれ、その画風はヨーロッパの影響を受けているのが分かる(これはShah Jahan帝の好みを反映しているのだろう)。各々の草花がその種を同定できるような表現を見れば、それは植物意匠というよりも植物画であることが分かる。が、その表現は独特のもので、抽象と具象の間にある。草花を取り囲む植物的な幾何学模様と対比すればそのことがよく分かるだろう。その草花たちを何と形容したらいいだろうか。たとえば、この世のことを何も知らずに想像の生を授けられた草花たちが、色彩に身を絡ませるようにしてフレスコ画面に密封されている、そう言っていいだろうか。そこには時間であるとか、移ろいゆくものを感じさせない効果がある。移ろいゆくものがあるとすれば、それはあたかも草花柄の衣装といったものの内部に隠されているかのようだ。そんなふうに、個々の草花たちにはそれぞれの生が与えられていたが、全体として見れば植物意匠となって、その壁面は不思議に奥行が感じられるものと化していた。
 その装飾スタイルは、ムガール朝の初期から中期にかけてLahoreに建てられたモスクや霊廟に独特のもので、ムガール様式とパンジャブの土着的要素が結びつけられたものと考えられている。ということは、パンジャブ地方へのイスラームの浸透によってそれまでの具象表現が禁じられたことが、その表現に影響しているのではないかと思われる。またイスラーム世界からやって来たモスクという建築様式が構築的な力をもつものであるのに対して、その構築的な力を蕩けさせるようにして、植物画がその壁面を生き生きとした線の運動と無限で包み込んでいるようにも感じられる。その表現の精密さからして、インド世界ではイスラーム世界とは別に細密画の技法がすでに確立されていたものと思われる。それはさておき、モスクの内壁を埋め尽くす草花の画がいかにも涼しげな想いを提供してくれるのは、草花たちがこの世とは別の世界を生きながら、その別世界の次元があたかもその壁面に薄膜のようにして立ち現れている、そんな風に描き表されているからではないかと思う。その草花たちは壁面上に表わされているというよりも、その別世界の次元がどこにも属さない宙吊り状態のようにして壁面上に現れ、その薄膜において草花たちは生きているかのようなのだ。そして、そんな宙吊り感覚へと引き込まれることで、外は酷暑にもかかわらず、その暑さを忘れることができるのだった。酷暑の現実からどこにも属さない宙吊り感覚の次元へと、あたかも<移動>できるような気にさせられるのである。もしその草花がより具体的な表現であったならばそうはいかないに違いない。対象に向かうようにして思考が生じ、逆に画の内容に引き込まれ、そうやって画に閉じ込められてしまうかもしれないのだ。しかし、その草花たちは具体的な対象としてあるのではない。そのすがたには肉がない。草花の生には肉がない。とはいえ、その画を支えるものが生き生きとしていないわけではない。それどころか、草花たちは<若さ>を生き、<若さ>を楽しんでいるかのように感じられる。というか、対象なしに、あるいは対象に囚われることがない。ここに至ってそうした視点をもつようになることで、私の感覚が勝手にそんなふうに生起しているのだと知らされる。いわば、見るのではなく感じる。色彩を、線を、そのリズムを、さらに色彩と線とリズムそれぞれの対比を感じる、ということだ。とはいえそのとき、ことさら神経の興奮が伴うのではない。むしろ私の意識は、目の前の色彩、線、そのリズム、それぞれの対比といったものを(内部に)映し出す鏡のようになって、そこに伴う感覚を働かせているかのようだ。こうしたことから、フレスコ画を製作する上での観点がどういうものかと考えるならば、そこには<楽園>的なものを製作するという明確な観点があると思われ、そのことが別世界の次元をもたらすという結果を生み出しているのではないかと考える。<楽園>的なものは十全な感覚で満たされた世界に通ずるものと考えられるが、その感覚の働きのうちに閉じ込められてしまうようではいけないのである。
 そんなふうに、モスクの内壁に細密に描かれた人工的な光景が私の内部に映し出され、そのことによって、炎天下に萎びた私の感覚にも微かに官能の水が振る舞われていたのだ。それが、Wazir Khan モスクの涼しさの秘密なのである。フレスコ画に秘められた<楽園性>が私を暑さから救っていたのである。すなわち、Naqqashi独特の抽象性が、外部の暑さ(の感覚)が思考に侵入して来るのを防いでいる。さらにモスクの空間に入れば、<楽園>的なもので完全に護られているというアジールの感覚さえ体感できるのだった。さて、Anarkaliの肉塊はこの秘密を知っているだろうか。あの肉塊の内壁にも暑さを遮断するような装飾がなされているということがあるだろうか。そんなことがあるわけがない。肉塊の内壁は世俗の想いで汲々とし、その想いが描くものだけで他に思い及ぶことなどないだろう。とはいえ、もし彼が信仰者であれば話は違ってくる。信仰心をもっていれば、その心が内面を装飾し、そこに微小であるとはいえ<楽園>的な満足が広がる余地がある、ということがあるやもしれないではないか。この考えは、あの乞食に対するわけの分からない恐れを和らげるものだった。
 こんなふうに、<楽園>の感覚を生み出すような、城市独特の<良き思考>の働きがあるように思う。そうであれば、思考を良きものとして働かせるのに何らかのモデルが知られていなければならないが、その<楽園>的なものはどこに由来するのだろうか。むろんイスラームも<楽園>を説いてはいるが、それは大審判の後に入ることができる<場>として提出され、いわば彼岸的なヴィジョンと言っていい。さて、Naqqashiの技法が内壁を装飾するとすれば、外壁を装飾するのがKashi Kariの技法である。それはイラン起源の彩釉タイルを使ったモザイク装飾の技法をいい、その技法を駆使して様々な文様を表してモスクの外観を美しく仕立て上げている。彩釉タイルの方が裸の焼成煉瓦よりも厳しい気候に耐え得るという点も見逃せない。LahoreKashi Kariは、中国式とイスラーム式が混合することで特徴づけられたティムール朝文化の独自な技法を継承しているといわれる。要するに、内壁のNaqqashi が地方的表現であるのに対して、LahoreKashi Kariは中央アジア的なものなのである。そうであれば、Wazir KhanモスクのNaqqashi による<楽園>的な表現は、城市自らがそのモデルを独自に知っていなければあのような表現に至らなかったのではないだろうか。その場合、モスクがKashmiri Bazarに隣接していること、もしくはモスクに隣接してKashmiri Bazarができたことは、その表現にカシミール的な要素があることを思わせる。カシミール地方はインド世界にとってまさに<楽園>の地としてあり続けてきた。そこは酷暑から逃れているばかりでなく、山岳地帯にあってなお水と緑に包まれ、下界とはかけ離れた美しい光景が一望の下に広がる、まさに<楽園の地>なのである。そこでは古来より仏教思想やシヴァ派の思想が展開され、イスラームが入って来てからは様々な技芸も花開いていた。往時よりパンジャブ地方とは商人が行き来するような関係にあり、その交易によって密接に繋がり、その交流の歴史は相当古い。カシミールという<楽園の地>をモデルと考えれば、Wazir Khanモスクの内壁の表現様式も、その<良き思考>の在り方も、いっそう理解できるのではないかと考える。けれども、現在のカシミールは<楽園>とはほど遠く、とても悲惨な状況に陥っている。宗教対立に政治対立が重なることで問題の糸がこんがらがり、もはや解くのが困難な状況になりつつある。何らかの解決の糸口を見出すために、一時的に時間が止まってほしいと思うほどだ。

 燃える陽光が内部へ侵入するのを許さぬために、Lahoreの部屋という部屋の壁は分厚く設えられていた。窓も限られている。そのためにどこへ行っても室内は薄暗い。Collegeの事務室や冷房の効いたレストランなどに入ると、一瞬目の前が真っ暗になるほどだ。寮の部屋の壁は煉瓦が重ねられた上にセメントが塗られたもので、厚さ四十センチはあったと思う。入口扉の木枠の幅を見ればそうと分かる。その入口扉の蝶番側の隙間に、小さな褐色の蛾の群れがびっしりと潜むようにはりついていたのが、ある時すっかりいなくなっていた。もうすぐ砂嵐がやって来るのだ。砂嵐になると、扉という扉の隙間、窓という窓の隙間を砂塵が意のままに通り抜け、部屋の中で踞る私のからだに降ってかかる。砂嵐の時期が過ぎると、その後にモンスーンが大足でやって来て、土砂降りの雨をひっきりなしに降らすようになる。雨が何日も降り続けば雨音に疲れ、からだの芯から崩れるような気分にさせられたものだ。また雨か、といや応なくからだが湿気を吸い込み、ずるずると崩れかけるようで、それまで分厚く威張っていたさすがの壁もたらたらと崩れてくるのではないかと懸念された。壁よ、もっとしっかりしてくれ、そう壁に向かってつい弱音を吐いたこともある。部屋は一階にあり、中庭に面した開き窓からひたひたと増してくる水かさが、床に転がって寝ている私の項から胸のあたりにかけて脅しをかけてくる。すると、雨がさっと上がった時に、細い糸でもこんがらがったかのような騒ぎがすぐ近くの部屋で起きたことがあった。次いで、「Heart Attack!」という声が洩れ聞こえ、開き窓を開けて見ると、青黒くこわばったような顔をした学生が担架で中庭を運ばれて行った。壁の向こうを察知するような時間など私にはとうていあろうはずがなかったが、あの耐えがたい熱気と湿気に包まれてはどこもかしこも同じであったろう。容赦ない自然の圧力を前にしては、分厚い壁に隔てられていてもみな同じ時間で結ばれていたのに違いない。そう力ずくで知らされ、私は自分だけが眼の玉の奥にこびりつかせていた煙のようなものをここではなるたけ振り払わなくてはならないのだと決意した。Lahoreという、ただ広大なるものの力にねじ伏せられているような土地では誰しも為す術がないときがある。私はそんなふうに、幾度この地で行方不明の身になったか知れないのだった。
 Lahoreの夏は三月に始まり、四月から五月にかけてしばしば砂嵐が襲来する。南のタール砂漠から褐色の砂を運んで、Andhi(砂嵐)が吹き荒れる。砂は太陽を覆い隠し、そのために辺り一面暗くなり、突然の夕暮れかと思わせるほど辺りの光景を一変させる。人は慌ただしく屋内へと避難する。しかし、どんなに頑丈に閉め切られた扉や窓であろうとも、この砂嵐が吠える成力にはかなわない。ひとたび吹き荒れたなら何処にいようと、どんな身分であろうと、その後必ずやシャツの下から、はたまた口の中から、タールの砂粒を吐き出さねばならないのだった。口の中も鼻の中も砂の微粒子でざらざらになった。もし戸外にいたならば、おそらく血管の中までざらざらになってしまっただろう。そうやって砂嵐に襲われると、誰しもがいっぺんに裸にされてしまうのだ。すると、冷えた突風が熱波を追いかけるようにしてやって来て、裸にされた腹の辺りに侵入してくる。それから、からだの熱が凝縮して額の一点に封じ込められるかのようになり、その瞬間、雨がざぁーっと落ちてくるのだ。Andhiの冷たい嵐は暑気を追い払う恵みの雨をもたらし、そのためにさながら女神の接吻のような爽快さをも秘めている。尤も残念なことに、イスラームでは女神の信仰は禁じられているが…。
 その日、Anarkali Bazarに乞食の姿はなかった。BazarLohari門の方へ向かって歩いて行くうちに、陽射しが変なふうに揺らいでいるのが微かに感じられた。陽射しが淡く翳り、大気の微妙な変化が察知され、嫌な予感に襲われた。Lohari門まで足早に歩いて後を振り返ると、はや南の空が真っ黒になっている。足下に冷気を感じるやいなや、突然、もの凄い風が吹いた。急いでLohari Bazarを通り抜け、Chowk ChakklaからSutar Mandi Bazarを走る。風が吹き荒れ、周囲の物が音をたてて転がり、辺りが急に真っ暗になった。雨が降り出したところで、通りの中程にある馴染みの茶屋に飛び込んだ。ここなら大丈夫だと思った瞬間、大粒の雨がざっと降って来た。が、何とか濡れずに済んだと安堵した。
 すると、「どうしたってんだ、ターヒルの旦那(Sahab)ったら。まるでAndhiのおっかさんの腹の中で水浴びしてきたってふうだぜ」、茶屋の主人Rufeeqが精一杯楽しむように、声高に声をかける。そして毎度の、客向けの決まり文句をその場にいる面々に向かって披露する。「ほらほら、見なってんだ。こいつぁ日本人なんだぞ。それにムスリムときてる。正真正銘のMade in Japanのムスリムなんだぞ。俺たちゃあ友達(Dost)なんだ」。
 Sutar Mandi Chowkの近くにあるRufeeqの茶屋は狭いが、城市を散策し始めた頃からその人懐っこい表情に惹かれて通い出した。Mohallah Mauliyanの小丘に位置し、古くからある店のようだった。おそらく印パ分離以前からあるのだろう。Rufeeqはちょっと小太りな親父という風で、歳は四十代といったところか。可愛らしい少年を一人給仕に使っていた。私は、暑い昼間はRufeeqの茶屋に時化込み、目をつぶってRufeeqと客との話に耳を傾けながら時間を過ごすのを常としていた。彼は部類のKushti(レスリング)好きで、いつもPehlwan(レスラー)のことを話題にしている。Sutar Mandi Bazarの一画に有名なPehlwanが住んでいるらしく、店にはしばしば体格の良い常連客がたむろしていた。その話しぶりからして、Rufeeqも彼らもPPP(Pakistan People’s Party(パキスタン人民党))の支持者と思われた。彼らの話す城市特有のパンジャブ語は聞き取れなかったが、Kushti仲間の一人であるJaved Jabbarという人物に尋ねると、Bhati門前の広場に接したところに練習場があり、Kushtiファンが好んで集まるのだという。彼らはそこで、今までに見たKushtiの名勝負の話を交換し合うのだった。土俵のように砂で盛り上げられたその練習場であり試合場を、Akharaというのだそうだ。
Kushtiという職とその技芸はつねに倫理的な姿勢と共に考えられてきた。Pehlwanは肉欲の誘惑を避け、神を畏れるという特性をもつ人物であるよう求められたのである。たとえば、有名なRustan-e-ZamanGama PehlwanといったPehlwanは決して礼拝を欠かさなかったので、真夜中にジン()が希薄な大気から物質化するようにして現われ、彼らといっしょに練習をした、そんな聖人的な人物として語られている。Gama Pehlwan Ravi河西岸にあるKamran Baradari (「十二の入口」の意で、開放的な空間を有するインド・イスラーム特有の建築)に住んでいた。彼は見事な口髭を生やし、強靭な肉体をもった人物だったが、その顔は子供のような表情をしていた。彼の会話もまた単純にして無垢なもので、神を畏れる人のものだった。(中略)…私は今日のPehlwanについては知らないが、当時のPehlwanはオイルでからだをマッサージするために毎朝二時に起きた。その後に千回のボディプレスをし、それから同じ年代と体つきのPehlwanと組み練習をするためにAkharaに入った。その組み練習を注意深く見つめるKhalifa(師匠)は、必要なところだけを指導する。組み練習が終わると、Pehlwanは自身の弟子が用意した、身体に強靭さを与えるために特別に調合された飲料を飲む。それから、いったん沸騰させて冷ました大量の水牛ミルクを飲む。昼には二キロの赤肉から摂ったスープを飲み、昼食を食べた後に昼寝をする。夕方、練習のためにAkharaに戻り、Akhara仲間のPehlwanと友好試合をする」(Lahore’s wrestling pits2007/3/18)。そう、Abdul Hameedは回想している。
 Javed Jabbarもまたその腕っ節の太さに似合わぬ温厚な人物だった。彼の話によれば、練習のためにAkharaに入る前には、師匠であるKhalifaに向かって許可を求めねばならないという。周囲の者が聞こえるような声でこう言うのだ。「よろしいでしょうか、Khalifa jijiは敬称)」と。すると、師匠はAkharaから一つまみの土を掴み取り、弟子のからだに投げかけて言う。「アッラーの思し召すままに」と。
 こうしたことから、Kushtiが極めて倫理的な背景をもつ競技であることが分かる。それは相撲のように、礼儀の上に成り立っている技芸なのである。とはいえ、Pehlwanは相撲の力士のような神格を孕む存在ではない。彼はあくまでも人間的な存在であり、またヒンドゥー世界におけるハヌーマン神的な存在とも異なっている。
 Kushtiはもともと古代インド世界に由来し、「Mahabharata」では相手を死に至らせるまで戦う格闘技として描かれている。地方によって様々な形式があったのが、ムガール期になってイランの影響を受け、北インドではPehlwaniという呼称で、礼儀を土台にした技芸かつ競技として成立したようだ。そうとはいえ、その技芸—競技はイスラーム以前に遡るのであり、パンジャブ地方ではことにArain部族の間で行なわれてきたものであるようだ。ArainRajput族の中の一部族であり、城市のKaccha Kot付近に古くから定住する者として知られている。けれども、そのArainといえども土着の民ではない。Rajput族がそうであるように、彼らは古代にトゥルキスタン地方から北西インドに何度も侵入して来た、エフタルやトゥルク民族等といった遊動民のうちの一部族であったと考えられている。もともと移動する民であったArainが定住民となったということに、Kushtiの技芸化とその倫理的な背景の成立が考えられる。たとえばトルコ語には「剣は錆びると役に立たなくなり、男は定住化すると肉体が腐る」、という諺があるという。いったん移動生活を棄てた者は、定住化に伴う汚染を意識して、その腐敗から身体の強靭さと清潔さとを守ろうとしたことだろう。要するに、定住化した者の意識とその感覚神経には移動生活の跡が燠火のように遺り、その潜在するものによって、Kushtiという競技の倫理的な次元への<移動>が目指されるようになったのではないだろうか。礼儀を守ることが、肉体を内部から維持することになるのである。季節的な移動生活とは異なり、過酷な自然に対峙するような土地に定住するとあっては、その分厚い肉体さえ崩壊することがある。酷暑に際しては萎び、雨季にあっては腐敗する。それをどうにかしなければならない。唯一無二であるこの肉体の自壊を防ぐために、ここでも<良き思考>が内面を装飾するようにして働いていると思われる。
 酷暑の時期には暑さに屈し、私は茶屋の奥で萎びた菜っ葉のようになり、ため息をつくばかりでいた。すると、「暑いって言ったってしょうがないぜ、ターヒルの旦那。一度、Pehlwanでもやってみるがいい」、そうRufeeqが言い放った。

 夜、Bulbul(ナイチンゲール)が囀り出す頃には夏もようよう終わりを告げる。月明かりも心なしか冴えてくる。城市には、その月明かりさえ届かないほど狭い小路があるという。両側を建物に挟まれ、月光もつかのま過るしかない。小路にもいろいろあるようだ。Jorey Mori BazarにあるAkhtar Aliの家に行った時のことだ。その家は、通りに沿ってある建物へ入ったと思ったら、建物の階下を通り抜けてふたたび外に出て、階段状の小路を行くとすぐにまた別の建物に入って辿りつく、そんな場所だった。思いも寄らないアプローチに方向感覚を失い、今でもどんな順路で彼の家に辿り着いたのかはっきりと想い出せない。建物と建物の中間にある階段状の小路は、Akhtarの家のある建物へ行く者以外は利用できない通路になっていたようだ。だから、そこに通路があることは外からまったくわからないことになる。おそらく人が棲みつく場所であれば、そんな空間がすぐにできるのだろう。だから、城市を歩く際には通りの感覚をからだに畳み込ませるだけでなく、自ずと通りと通りの間にある空間を探ろうとする神経をも展開させていたことになる。その空間は必ずや秘密めいた空間としてからだに畳み込まれることになるだろう。というのも、通りの一面からしか推し量れないので、想像力と共にその神経が展開されるからだ。城市の空間は水平方向にも垂直方向にも、さらには思いも及ばぬ仕方で区切られている。その区切られ方は外部から隠されている。それで、つい想像力のうちに妙な拡がりをもつ空間として生まれることもあるのだった。
 城市の秘密めいた空間にはZanana、すなわち女たちの空間もあるはずだった。「はずだった」というのは、Zananaについては話でしか知らないからである。女性は来客があるとすぐに女部屋に隠れてしまう。Pardah(仕切り幕)の向こうへ行ってしまい、男の来客には顔を絶対に見せない。Akhtarの家でもそんなふうだった。城市の家にはたいがいBaithakと呼ばれる居間が設けられているが、そのBaithakに達する前に女たちは小鳥が飛び立つようにしてどこかへ散ってしまうのである。ところが、このBaithakを女たちが占領し、男は子供であっても一切寄せ付けないことがあるという。<交霊会>をするためである。その様子について、Akhtar Aliから何とか話を聞き出したことがある。
「これは人から聞いた話だ。だから、俺も確証はできない。ジン、つまり精霊は、古い家やHaveliにある暗い部屋に住んでいるという。Kashmiri門を入ったところに古い邸があって、そこに住む一人の中年女性がShah Purriという名の精霊を呼び出す霊媒をしていたそうだ。 Shah Purri>というのは、<精霊の王>を意味するらしい。    交霊会はきまって木曜日にすることになっていたようだ。その日は朝から知り合いの女たちが邸のBaithakに集まって来る。それで、その前に部屋はきれいに整えられ、床には清潔な白い綿布が敷かれていなければならない。それから、Mirasanと呼ばれる、女性だけから成る専門の歌い手たちがやって来る。彼女たちは演奏のために鐘と太鼓を持っている。その日、霊媒の女性は朝食を摂らないことになっており、まず沐浴し、それから洗ったばかりの衣装を身に着けるんだ。彼女の髪は解かれ、肩の上に垂らしたままにしているという。そうして、前もってBaithakの中央に薔薇水が撒かれて清められ、そこに座るんだ。それから、決められた時間になると歌い手たちが部屋に入って来て、霊媒の近くに座る。すると部屋の扉に閂がかけられ、外から誰も入ることができないようにしてしまうのさ。これで準備が整ったわけだ。ちょっと待て。チャイを飲まないか、ターヒル。さて、まず音楽が演奏され、それから歌が始まり、それがまずは最高潮に達する。そこから音楽の拍子がさらに速められていくんだが、速まるにつれて、Shah Purriの霊が霊媒の女性に憑依し始めるようだ。その次第はといえば、まず彼女は頭を左右に揺らし、最初はゆっくりと、それから速く前後に揺らしていく。そのとき顔は紅潮し、眼は充血したようになっている。彼女がすっかり変様状態に至ると、演奏者は拍子をさらに速めていき、たとえばパンジャブ民謡でKafiを歌い始め、それから、Shah Purriにこの場に現われるよう求めるのだそうだ。そのときもう霊媒の女性はトランス状態に入っていて、髪を激しく振り乱しながら、いきなり充血した眼をかっと開く。と突然、そこにいるすべての人がShah Purriの到来を感じたかのように押し黙ってしまうという。ちょっと待ってくれ。チャイを飲むから。それから、歌い手のリーダーが霊媒の女性にこう呼びかけるんだ。『多大なお祝い、大いなる歓迎、Shah PurriAllahの祝福あれ』と。それから、部屋にいるすべての女たちが声を合わせてShah Purriに挨拶する。『アッサラーム・アライクム、妖精たちの女王よ』と。そのとき、霊媒の女性がどんな表情をしているかを言うのは難しい。というのも、誰もがそう言いうからさ。おそらく何かが憑依した人間の表情というのは言い尽くせないのではないかと思うよ。このとき初めて彼女は語りはじめるんだが、それも普段とは異なる声で語るのだそうだ。どんな声かって。それさえ分からないよ。それから、Baithakに集まった女たちが順番に、霊媒に向かって自分たちが抱える問題について色々と尋ねることになるわけだが、それに対して霊媒はいちいち答えていく。その際に、歌い手たちは霊媒の気分が変わったと見てとるや演奏し始め、すぐにその催眠的な拍子が霊媒をトランス状態に戻してしまうのだという。つまり、Shah Purriが語るときと、霊媒のトランス状態とが交互に繰り返されながら事が進行する、ということになるな。すべてが終わると、Shah Purriは自らの王国に戻り、いっぽうの霊媒の女性も正気を取り戻す。彼女はまずマライの入った一杯の熱いミルクを飲み、それから床についてしまうのだそうだ。これでおしまいだ。俺が聞いた話はここまでなんだ。でも、この話には自信がないから誰にも話すなよ。いいか、ターヒル」。
 Akhtarは秘密にしておきたかったようだが、こうした機会は別段異常なことではない。それは秘密めいた空間というよりも、細部まで見通せるような明るい空間だ。女性たちは男性を排除し、束の間女性たちだけの世界へ<移動>している。この場に一人でも男の性が紛れ込んだら、その世界は成立しないに違いない。おそらく霊媒の女性は独身であったろう。女性たちは、この機会に女性特有の自然性を回復させようとしているかのようだ。かつては城市のヒンドゥー教徒の間でも別種の<交霊会>が行なわれていたというから、それはイスラーム特有の場とは思えない。おそらくイスラームが侵入する以前から、城市の邸の奥にある女部屋では、次元の<移動>を求めるようにして、女性たちだけの世界が培われてきたのである。そして、逆にそうした機会は、「霊との交流」というかたちで男性たちにも承認され、それゆえ畏敬の念を抱かれてきたのではないかと思う。普段は社会的に封じ込められてきた女性が一転してBaithakを占領するということには、そうした意味があるのに違いない。ここにも<良き思考>が働いているように思う。
 男は肉体と精神という個人的なものを保持することに終始するいっぽうで、女性たちは集団内部の問題を解決することにおいて社会的な役割を果たしている。というのも、男たちは厳しい自然に各々が対峙し、女性はといえば、彼女たちは自然を内部に包み込むようにして、一団になって自然に相対してきたからではないだろうか。

 Bhati門を出たところに毛色の変わった人たちが住んでいた。住んでいるというより、幌付きの荷馬車にテントという構えで、キャンプ生活をしている風だった。彼らの肌は白く、髪の毛も茶色がかっていた。中には青い目をした少女もいた。女性はChangarのように、テュニック風の服を身につけていた。しかし、毛色といい肌の色といい、Changarとは種族が異なるようだ。彼らは周辺の住民との交流を断ち、また住民も彼らに関わらぬようにしていた。夏になるとどこかへ移動するのか姿を消し、いつの間にかまた戻っているのだった。気候の穏やかな時期になると、テュニックの裾を揺らした茶髪に青い瞳の少女がCollege前のTollinton Marketの入口で物乞いするのによく出くわした。その愛くるしい表情をいま鮮明に想い出すことができる。
 彼らは季節的に移動する生活をしていたようだ。インド世界を複数の近代国家が分割して占有するようになった当時においても、季節的にアフガニスタンとパキスタンの国境を越えて移動する集団があった。おそらく査証なしで国境を越えているのだろう(現在は不可能だと思われる…)。彼らはKuchiという呼び名で知られていた。パンジャブ西部のインダス河付近の荒野をバスで移動をしていた際に、彼らの駱駝のキャラバンを私も見たことがある。幾つもの小さな集団が群れをなすようにして移動していた。夏の始まりに暑さを避けるようにしてパキスタンからアフガニスタンの山岳地帯へ移動し、夏が終わる頃には寒さから逃れるようにしてアフガニスタンの山岳地帯からパキスタンの平地に下りて来る。彼らはもともとイラン起源の遊動民であるといわれ、「Kuchi」の語は、「移動する人」を意味するらしい。それで想い出したのだが、六月から八月にかけての暑い時期にはCollegeが休校になるので、私はさっさと北部の山岳地帯へと移動し、平地の暑さから逃れていたのだった。GilgitChitralの山岳地帯では、どこに行っても昼間は蠅にたかられていたのを想い出す。山岳地帯にいればいたで、涼しい夜にはLahore城市の賑わいを懐かしく想うのだった。はたしてそこで、私は目を覚ましただろうか。