Wednesday, June 21, 2017

Lahore 日記 The Diary on Lahore


   城市 (4) 上

 Bhati門を出たところにData Ganj Bakhshの聖廟、通称「Data Sahib(様)」がある。聖廟の他に広大なモスクや宗教施設等の建物が併置するため「Data Darbar(宮)」とも呼ばれていたが、私は「Data Ganj」と呼んでいた。「Ganj」の語が「市場」を意味すると思い込んでいたのである。今あらためて調べるとそうではなく、この場合は「富」を意味するようだ。Ganj Bakhshとは「富を授ける者」の意で、その名の通り、Hazrat() Data Ganj Bakhsh10091072)は、イスラームの富を人々に授けることによりLahore城市を守護してきたのだった。「Data(「ダータ」と発音する)」の語も「与える」もしくは「贈与者」の意で、これはサンスクリット語をそのまま使っているようだ。
 聖廟に至る狭い参道はつねに人波で溢れかえっている。参道に入るとまず祈禱用具を売る店が並び、それから聖者にまつわる本や何かかやの土産物を売る露店がひしめいている。次には乞食が列をなして座し、それから供物や花輪それに甘菓子を売る露店が並ぶ。そこを様々な風体の老若男女の参詣客が行き交っている。ある時、Ramazan(断食月)にもかかわらず昼間Lahore駅でShami Kababを食べてしまい、その日私はRoza(断食)を果たせず、夕暮れ前にData Ganjに寄ると参道でおばあさんに呼び止められた。「これでRozaを明けなさい」、そう言われて五ルピー札を手渡される。「その代わりに、火傷をした孫のために<Data様>にお祈りを捧げておくれ」、そう頼まれた。私は困惑したが、言われた通り聖廟に上がって祈りを捧げることにした。また別の時には参道の入口で盲目の老婆にいきなり腕を掴まれ、有無を言わせず五ルピー紙幣を握らされた。「これを<Data様>にお布施しておくれ」、そう頼まれた。目が見えないのでいつもそうして人に頼むのか、それとも人混みの中を歩くのを恐れたか、どちらか分からないが、「分かりました。きっとお布施します」、そう声をかけ、参道を通って聖廟に上がり、布施をした。Data Ganjの参道には頻繁に出かけて行ったが、聖廟にはその二度しか上がったことがない。もっぱら参道が尽きるところにある茶店に入り込み、そこから人波を眺めて時間をつぶすのが常だった。茶店は門前市に特有の立派な構えの建物で、内部は天井が高く広々としていた。その入口付近に陣取り、来る人行く人を眺めるのである。そこで見たものはあらかた忘れてしまったが、腐った果実の匂いのようにいつまでもこびりついて離れないものもある。参道一帯は市場のように人でごったがえしており、それで「Data市(Ganj)」というイメージが現在まで遺ったようだ。
 聖廟では年に一度Urs(祭礼)が行なわれ、その日は参詣者や熱心な信者の他に様々な人が集まって来る。いつになく参道に人群れが出来て、その中で少年たちが踊っていた。Dodak(両面太鼓)の単純なリズムに乗せて少年たちが思うままに踊っている。年端の異なる二人の少年がデユエットで踊り出すと、それはたちまち性的な表現を伴うものになった。一般にLahoreを徘徊する少年たちのちょっとした仕草や動作からは性的なものがスムーズに現れ出て来るのを見るが、それが踊りによって誇張され、あるいは様式化されて表わされると、ひじょうにエロティックな、というか猥褻なものとして見えてくる。その踊りはあたかも鶏姦を表している、という風だった。この白昼の路上で堂々と行われる野卑な踊りに、群衆は、といっても野郎ばかりだが、声援し、拍手を惜しまない。
 参道近くにはKhusrianwali Galliという小路があり、そこにはLahoreのほとんどのHijraa(去勢者)が住んでいるという話を聞いた。茶店の周辺でもよく見かけたが、彼らは派手に女装し、女性のように装飾品を身につけ、中には厚化粧を凝らした者もいる。Khusrianwaliとは「王に属する者」という意ではないかと思う。というのも、ムガール朝の王宮では、トルコ的な伝統により、後宮に仕えるHijraaが大きな力をもっていたからである。そんな伝統を背景にしているのか、現在のHijraaたちは子供が生まれた家やこれから生まれる家を訪れ、女子供を祝福するのを業務としているという。茶店の店先にも何かと理由をつけて金をせびりに来ていたが、その際に店の若い衆が発する野卑な言葉が耳に遺っている。野卑な言葉にも色々あり、Hijraaにも生まれつきの者と「選択」した者との違いがある。誰が生まれつきで誰が「選択」した者か、茶屋の若い衆はその違いをわきまえているようだった。
 こんな具合に、聖Data Ganjの参道はどこか中世的な猥雑さが遺るような場所として私の想起に立ち現れて来る。その周辺は時間が凝り固まって吹き溜りになったような、胡散臭さに満ちていたように思う。私はその胡散臭さが嫌いではなかった。
Data Ganj Bakhsh」とは後世に付けられた呼び名であり、聖者の本来の名は、Syed Ali bin Usman Jullabi wa Hajweriとか、Abul Hassan Ali Ibn Usman al-Jullabi al-Hajweri al-Ghaznawiと記されている。略してAli Hajweriという。Ali Hajweri は、ガズナ朝期の1040年頃、師であるAbu’l Fazl Al-KhuttaliからLahoreQutb(信仰の柱)となるよう要請され、アフガニスタンのガズナからLahoreにやって来た、そう伝えられている。あるいはまた、ガズナ朝のMahmud王を継いだ息子Masud王と共にLahoreへやって来た、という説もある。どちらにしても、それはMalik AyazLahore城市を再建している最中か、それとも再建を終えた頃のことである。それ以前のJayapala王の時代に、Sheikh Ismail Bokharaという人物がムスリム賢者としてLahoreに住んでいたことが知られているが、彼は城市の外の小丘に小屋を建て、その居住を許されていたという。それでAli Hajweriもまた、ヒンドゥー教徒が多く住む城市には入らず、城市の南側の、Lohari門近くに居を構えたのである。当時、Bhati門はまだない。おそらく目の前にはRavi河が流れていただろう。
 LahoreでのAli Hajweriについて次のような挿話がある。
 Lahoreに身を落ち着けるや、Ali Hajweriはまず自身の修行場とモスクを建てた。モスクの建設中にウラマーがやって来て、モスクのQibla(メッカのある方向)が正しくないと大声で異を唱えた。Ali Hajweriは意に介さなかった。モスクが完成すると、彼はウラマー、スーフィー、イスラーム聖職者、それに主立った市民等をモスクに招待した。彼らはみなAli Hajweriの背後に並び、礼拝した。礼拝が終わると、彼は居合わせる人たちに話しかけた。「モスクのQiblaについて疑いを表明した人たちがいるが、それで、まずみなに目をつぶって瞑想してもらい、それから、Qiblaが正しいかどうか決めてもらいたい」と。そう言って、彼が一同と共に瞑想すると、人々の目から覆いが取り除かれた。そこに居るすべての人が聖なるKa'ba神殿が目の前にあるのを見て、Qiblaが正しいことを知ったという。
 この話から、当時Lahoreウラマーやスーフィーやイスラーム聖職者がいたのが分かる。彼らは、Ali Hajweriとはおそらく意見を異にしていた。ウラマーはスンニー派の法学者であり、ムスリムの生活全般について厳格な考えをもっていた。スーフィーはスンナ派から出来した神秘主義的な考えをもつ修道者にして布教者であるが、そのTariqah(修行方法)の違いを主張することですでに様々な教団に分かれていた。聖職者はイスラームの儀礼を司っていたと思われる。Ali Hajweriはそのどれとも異なっていた。そして彼は、ウラマーやスーフィーやイスラーム聖職者の思考や行動をはるかに越える能力をもっていたのである。
 Ali Hajweri自身もスーフィー学者であり、バグダッドを本拠とするJunaidia 教団に属していたという。名高いJunaid(835910)の教えを引き継ぐ教団である。JunaidAli Hajweriと同じイラン系の人だった。彼は、「Tauhid Al-Khas(<神の唯一性>の特殊様態)とは、アッラーの前で人は死体のように振舞うしかない、ということを意味する」、そう言い遺すような人だった。Ali Hajwerの時代のスーフィーは広く旅をして各地のスーフィーから教えを乞うのが習いであって、彼もまた若い頃に中近東やホラサーン地方を旅し、様々なスーフィーに会って教えを乞うという経歴をもっている。そして、スーフィーの在り方が、単に禁欲を守り、神との神秘的合一を説く段階から、神秘的経験を介して練り上げられた高度に神智学的な学問の段階へとゆっくり移行するのを見てきたようだ。スーフィーについて、彼はその著作「Kashf-ul-Mahjoob(掩蔽されているものの開示)」の中で次のように語っている。
「修行僧とは隠喩としての貧者であり、そこに付随するあらゆる様相のうちには超越的な原理がある」。「スーフィーの真髄は、人間的な性質を消滅させることを含む」。「スーフィーは人間的なものから離れていることで成り立つがゆえに、必然的にかたちがないのである」。「以前は、スーフィーの実践が知られ、その偽物は知られていなかった。今は偽物が知られ、実践が知られていない」。「私たちの時代にあっては、スーフィーの知識は荒廃した」。「踊りは、宗教的原理においても、神秘主義の道にあっても、土台となることはない」。「スーフィーを成り立たせるのは内部の輝きであって、その衣装ではない」。「信仰が根であり、スーフィーの道は枝にすぎない」。
 こうした考え方から、神秘主義的な実践を経たうえでイスラームの理念を説く、といったAli Hajweriの姿勢が察知される。彼はスーフィーの学問にスンナ派の中の Hanafi学派の神学を調和させたと言われるから、心的な実践を土台にした理念的思考を展開することができたと考えられる。また逆に言えば、異教徒の心に信仰心を植え付けるためには、明確な理念に基づく心的な実践を示すこともまた欠かせなかったにちがいない。
 八世紀にすでにアラブ・ウマイヤ朝がアラビア海からシンド地方への侵出を試みたが、北西インド方面へ侵出するまでには至らなかった。Hindu Shahi(王朝)とそれに連合する諸ヒンドゥー王国がイスラーム勢力の侵入を防いでいたからである。十一世紀になってトゥルク・ガズナ朝のMahmudHindu Shahi(王朝)を倒して北西インドに侵出し、パンジャブ地方一帯を支配するようになった。Ali HajweriLahoreにやって来たのはそのような時期だった。要するに、当時のLahoreはインド方面におけるイスラーム布教の最前線だったのである。その際に彼は、結果的に見れば、ペルシアやホラサーン地方で展開されていた高度な神秘主義的学問が北インドでかたちとなる、そのための橋渡し役を果たしたのだと考えることができる。すなわち、その後に続く北インドにおけるスーフィーたちの布教活動にとって、その理念的な背景を与えることになったと言っていいだろう。
 北インドへのイスラームの伝播は、侵出するトゥルク系・アフガン系の諸イスラーム王朝の政治的政策によるというよりも、Ali Hajweriのような、神秘主義的な実践を経たうえでイスラームの理念をきちんと説くことができる者たちによってなされたのである。たとえば、Moinuddin Chishti11411230)やQutbddin Bakhtiar Kaki11731235)といった人たちがペルシア方面から続々とやって来て、Ali Hajweriに倣ってAjmerDelhiといった交通の要衝地に修行場を設け、人々にイスラームの教えを説いたのである。その後、北インドからNizamuddin Auliya12381325)のような人が出て、それ以前の流れを受け継いでDelhi修行場を設け、イスラームの布教に生涯を捧げた。彼らはムスリム権力者に取り入ることなく、ことにあっては対立を恐れなかった。そうやって、イスラーム王権が主にヒンドゥーKayastha(書記階級)を取り込むいっぽうで、彼らは都市部の商人階級や職人階級の人々をムスリムに改宗させていったのである。イスラームという普遍的な理念と神の下では平等であることの実践が、彼らに改宗を受け入れさせたと考えられる。こうしてみれば、Ali Hajweriは、北西インドの非イスラーム教徒にイスラームの理念を実践的に説き、彼らをムスリムに改宗させることにおいて先駆けの人だったことが分かる。それゆえ、彼はLahoreにおける信仰の建設者であるばかりでなく、北インドにおける信仰の建設者とみなされているのである。だから、Lahoreの「Data Ganj」の聖廟が北インドのムスリムにとってどれだけ価値のあるものであるかが分かるだろう。
 イスラームの教えを説くのに、Ali Hajweriは土着の言葉を交えたペルシア語で語ったと考えられる。しかし、その後の世代のスーフィーたちは外来者ではなく土着のムスリムであり、そのためパンジャブ地方ではパンジャブ語で教えを説くようになった。たとえば、Fariduddin Ganj Shakkar1173/11881266/1280)は祖父の時代にペルシアからパンジャブ地方にやって来た家に生まれたが、神を讃える神秘主義的な詩をパンジャブ語で朗誦し、それによって信仰心を説いた。今も唱えられるそのパンジャブ語の「スーフィー詩」は音感的で、そのためにきわめて情感的な性質をもち、民衆が受け入れ易いものであったことが分かる。さらには、DelhiNizammudin Auliaに師事したAmir Khusrow12531325)は音楽家であり、彼は「Qawwaliの父」と呼ばれている。彼が生み出したQawwaliの音楽は、それまで朗誦されていた「スーフィー詩」を、楽器の伴奏と共に複数の歌い手によって歌い上げることを可能にさせた。それによってスーフィー詩」にメロディーと歌唱法が与えられ、そこに新たな表現形式が生まれたのである。すなわち、信仰心を詠い上げる宗教歌として、スーフィー聖者の廟で集団によって詠われるといった表現が生まれることになった。さらには、このQawwaliの音楽表現に陶酔的な踊りが伴うようになった。こうして、Ali Hajweriの教えには反するが、宗教歌としてのQawwaliや神への帰依を示す踊りとしてのDhamalをスーフィー聖者の教えの中に組み込むことで、つまり、歌や踊りによる表現を神への帰依を実践的に示すものとして認めることで、パンジャブでは新たな仕方でイスラームの布教が展開されていったのである。十七世紀にAurangzeb帝が権力の座に就くと、イスラームをめぐるその厳格な政策に反発するようにして、スーフィーたちはよりインド文化に接近していった。たとえば、Vedantaの思考やKrishna信仰等を取り入れ、信仰心を核にして様々な民俗信仰をその周りに寄せ集めていったのである。こうしてパンジャブのみでなく、北インドのイスラームは土着文化と融合して重層的なものとなり、大衆レベルでは混沌としたものになっていった。そうした中から、情動的な局面を理知的な局面へと回帰させるようにして教えを説いたのがBulleh Shah16801757)であり、ヒンドゥー教とイスラーム教を隔てのないものとするその内容は、アラブやペルシアのイスラームとは本質的に異なるものとなった。
 十九世紀にムガール王朝が崩壊し、ヒンドゥー教の側から西洋近代思想を背景とする改革運動が起こってくると、北インドのイスラームの中からBarelviDeobandiという二つの異なる運動が起きてくるのも、インドのイスラームが本来のすがたとは異なる重層的なものになっていった経緯があることに由るだろう。Barelviはスンナ派のHanafi学派から起こったもので、預言者ムハッマドへの帰依とSharia(イスラーム法)の遵守と共に、聖人崇拝をイスラーム信仰に融合することを改めて強調した。そのため、聖廟でスーフィー聖者を讃えつつ信仰心を表明するQawwali等の宗教歌を、信仰心を深める手段として積極的に活用した。それに対してDeobandiはアラブのWahabi運動の影響を受けたもので、ヒンドゥー教の近代思想との差別化を図って、あくまでもムハッマドへの帰依とShariaに基づく厳密なイスラームの在り方を近代的な考えに基づいて訴えた。そして、パキスタン独立運動に際して、聖人崇拝といったスーフィー文化的で土着的な要素を強烈にもつBarelvi主義がパキスタンの独立を熱狂的に支持したのに対して、Deobandiはイスラーム国家の成立を支持しなかった。イスラームという普遍的なものを、国家という地域的で世俗的なものに結びつけることに批判的だったからである。パキスタン独立後、北インドのBarelvi主義者は東パキスタンや、西パキスタンのパンジャブ州やシンド州に流れ込み、Deobandiはインドに留まった。しかし、西パキスタンでは、スンナ派の原理主義的なパターン人が多数派であるNWFP(北部辺境州)の一部にその影響力を保つことができた。またパキスタンがイスラーム共和国として成立すると、「イスラーム共和国」の意義が国内で議論され始め、そのことは、「イスラーム」を土着的な文化と切り離すようにして考えさせることを可能にさせた。西パキスタンの都市部では、スーフィー文化、すなわち<聖廟文化>の保守性を嫌悪する一部中産階級も成長していたのである。その後、1971年にBarelvi主義が色濃い東パキスタンがバングラデシュとして独立し、国家の一翼を失うと、パキスタンでは、Zulfikar Ali Bhutto19281979)が「Pakistan People’s Party(パキスタン人民党)」を立ち上げ、<聖廟文化>を積極的に取り込むことでパンジャブ州やシンド州のBarelvi主義者、すなわち大衆の支持を得て国政選挙に勝利した。その結果、穏健なイスラームを基盤とする大衆的で社会主義的な政治が展開された。それに対して、すぐさま反動が起きた。1977年のZiaul Haq将軍による軍事クーデターである。その背景にはオイル・マネーによって勢いづくスンナ派・Wahab派の王国サウディ・アラビアの台頭と、湾岸経済に価値を見出した都市部の中産階級による支持がある。時を経ずして1979年、イランでイスラーム革命が起き、続いてソ連がアフガニスタンに侵攻した。シーア派主導のイスラーム共和国イランの成立にサウディ・アラビアは警戒の色を強め、米国と一体となって、アフガニスタンの共産主義に対抗するパキスタンのTalibanによる聖戦を支援する方針を打ち出すことになる。TalibanNWFPを地盤とするスンナ派原理主義者を基にした勢力である。大量の武器と資金がZia政権下のパキスタンに流れ込んで来た。それと共に、サウディ・アラビアによる反Barelvi主義のプロパガンダがパキスタンで始まった。それはたとえば、「DeobandiWahabiが運営するMadrassa(宗教学校)が増え、加えてテレビ伝道師の急激な増加があり、そしてZia政権による独裁主義を、Shariahに基づいてつくりあげられるイスラームと同一視するような集中的なキャンペーンは、パキスタンの宗教社会に効果的なインパクトをもたらした」(Nadeem Paracha Café Black : The last bastion2016/6/6)。その結果、もともと土着的な要素を抱えて穏健なイスラームを奉じていたBarelvi主義が内部から変質し、かつてなかった政治勢力として、また一部武装勢力としても現れて来た。パキスタンの諸イスラーム組織内で、今後の行方を決定づけるような細胞分裂が始まっていた。私がLahoreにいたのは、今から振り返ってみればイスラーム社会のこうした変動期に当たる。
 ここで当時の動きを個人的な視点から記しておこう。私がLahoreにやって来たのは1978年の十一月で、翌年一月にはイランでイスラーム革命が起こり、それ以後、革命の進行状況が逐一新聞で報道されていた。最初は民主主義革命であったのが、暫定政権が崩壊して後は革命の主導権はイスラーム勢力の手に渡ってしまう。王政側の武装勢力との市街戦の際に、A. Khomeiniが政治的な役割を果たすことでイスラーム革命へと変質したのである。そして二月には前首相のBhuttoの死刑が確定し、四月四日に刑が執行された。その日の午前二時頃に執行されたため、そのNewsは朝から知れ渡っていたようだが、その日は市内で大きな抗議運動は見られなかった。その日の午後、私はAnarkali Bazarを突き進み、Lohari門の手前にある各種新聞を移動式露台に並べて売る店でいつものように新聞を買った。「Nawai-Waqt(新時節)」や「Mashriq(東方)」といったウルドゥー語新聞の見出しは強烈で、紙面から文字が大きく飛び出し、記事なのかポスターなのか分からないような逸脱した見出し構成になっている。それに対して、「Dawn」や「Imroz(今日)」、「The Pakistan Times」等の英字新聞の見出しは形式通りで、比較的抑制を保っていた。見出しには、ウルドゥー語で「Phaansi Paayi」、英語で「Hanged」の文字が大書されている。Bhuttoがまだ51才の若さで亡くなったことをそのとき知った。その前年に、パンジャブ州の民主的学生組織は、Barelvi主義の政治組織JUPJamiat Ulema-e-Pakistan)の配下である学生組織IJTIslamia Jamiat-e-Talaba)を選挙で打ち破っていた。聞くところによれば、1977年〜1978年には大学寮内でも銃器を使った武装闘争があったという。1979年も政権による締め付けは続いていたが、寮内でこれといった騒乱はみられなかった。しかし、どちらかといえば寮内ではIJTが支配的になりつつあった感がある。八月にKabulを訪れた際には軍部の一部による反乱事件に遭遇し、慌ててパキスタンに戻ってきた。そのままChitralの山岳地帯へ避暑に行くと、Nuristan(アフガニスタン東部山岳地帯)から逃げて来たというアフガン人の若者に出遭った。村が爆撃されたという。そのうちアフガニスタンで何か起こることは誰の目にも明らかだった。九月にはソ連高官がKabul入りしたという新聞報道がある。十一月、メッカのKa’ba神殿が武装勢力によって占拠された。サウディ・アラビアの対米協力がその理由である。それに呼応するように、LahoreFerozpur Roadにあるアメリカン・センターが襲撃された。翌日私は被害状況を見に行ったが、建物の一部が黒焦げになっていた。そして十二月、予想通りソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。すぐさまNWFPに何十万というアフガン難民が押し寄せて来た。翌年の夏、私はその様子をPeshawarへ見に行った。市内には多くのアフガン人がうろつき、私は街中でよくダリ語(Kabulのペルシア語)で語りかけられた。きっとHazara(Kabul周辺に住む、シーア派に属するモンゴル系のイスラーム教徒)と思われたのにちがいない。郊外では難民たちがすでに泥家を築いて住んでいた。確かにこの時期に、パキスタンのみでなく、イスラーム内で連動するようにして大きな変動が始まったのである。そして、その変動による混乱はおよそ四十年後の現在になっても治まっていない。それどころか、イスラーム内の亀裂は深まるばかりだ。かつてパレスチナの人々ために対イスラエルで一丸となっていたイスラーム圏のすがたはもはや影も形もない。

 夏がようやく終わりを告げたのか、少年は夕暮れになると急に息を吹き返し、水を得た魚のようになって辺りを動き回る。颯爽と街路に出て小路やChowkを歩き、人の顔つきや物の表情を見て廻る。ひと息つける季節がまたやって来たのだ。夕暮時のうだるような暑さが嘘のように消えていた。夕暮れ時の街を歩いていると、辺りの空気がほんのり紅く染まる一瞬がある。行き交う人の顔もみな一様に紅く染まり、空を見上げると深紅の夕焼けが西の方へ退いて行くところだ。しばらくして、上空から夜の帳が降りかかろうとする頃、それまで空半分を占めていた夕焼けが夜の帳に追われるようにして、紅い悲鳴を上げながら西の空へ逃げて行くのを目にした。すると、いまや血の滴るような叫びを発して夕焼けが退散してゆく頃合いを待ち構えていたように、すぐに漆黒の帳があたかも鉄製の格子戸がぎしぎしと軋み音をたてるかのようにして栄華の皺深く刻まれた城市の頭上にゆっくりと垂れ下がってくる。深い闇の帳が降り切り、地上を隈なく覆い尽すと、人間の世界にとっぷりと夜が更けてくる。夜の闇が城市を、市場を、街路を、辻という辻を、小路という小路を圧するように支配する。すると少年のすがたは闇の中に消え去り、いつのまにか夜の街を歩く私がいる。街は果たして夢に現われるような街と化し、歩くにつれて次から次へと変貌し、その見慣れた光景も勝手気ままに歪曲を繰り返してゆく。街は歩くにつれてその次元をも変貌させてゆくのだった。夢にあっては、過去の時間はそこに何とかして留まろうと狡知を働かせているのか、もう一つの力と張り合うようにして時間次元をすぐさま変貌させる。そのとき、目の前で変貌するその動きはいったい何を示そうとしているのだろう。獲物を狙う亡霊のように、手を変え品変え、何かしらの狡知がそうさせるのか、街の時間次元は変動し続けるのだった。その目的は失われた光景を見出すことにあるのだろうか。そうであるなら、それは徒労というものだ。というのも、いったん夢から目覚めれば、時間は過ぎ去って留まることなく、ただ一寸先は闇の現在があるのを知るだけだから。とはいうものの、ときには分節作用が定着する以前の状態に触れようするかのような、そんなからだの曇らし方を夢のからだが抱えていることもある。しかし、そのときはそのときで、密かに触れようと熱烈に想っていたのが、逆にモノの方から搦めとられてしまうようなことにもなってしまう。そうなると、事態はそこに定着したものになってしまう。そうとはいえ、そうしたところには懐かしいような感覚がやたらと浸透してくることも確かなのだ。変動し、解放し、定着する、そしてまた変動し、解放し、定着する。何かがそうやって息をしているのだ、そんなふうに感じられることがある。
 Bhati門前の広場の路端で数匹のトカゲを地面に並べて商いをする貧相な身なりの男がいた。トカゲといってもその体調は2030cmもあり、皮膚は光沢のないざらざらとした灰色をしている。その男が手元に置く煤けた麻袋には、さらに幾匹ものトカゲが生きたまま詰め込まれているようだった。その売り文句から、トカゲは「Sandhaと言う種であると知れた。たしかPeshawarKhybar Bazarでは老婆が商っていたと記憶しているそれだ。
 いかにも野卑な表情をしたその男の前に見物が群がり、少年はつい好奇に駆られて中を覗き見た。男は卑しい笑みを口許に浮かべてトカゲのような生き物を素手で地面に押さえつけ、その動きを封じたところだった。それから生き物の首をぐいと捻り上げてその白い喉元を露にしてみせ、ひくひく動く喉元をいきなり鋭利な刃物でざっくりと切り裂いた。鮮血が流れ、今の今まで生きていたものが途端にぐったりとなった。男は不気味な笑いを浮かべながら、「さあ、これからだ」と言う。何が「これから」なのか、何が始まるのかと思い、その思いで頭の中が膨れ、少年は目を離すことができない。それから男は、息絶えたものの胴体を仰向けにして掴み直し、下っ腹に刃物を入れて胸元までいっきにその皮膚を切り開くと、中からびたびたと灰色に濡れた内臓が恥ずかしいほどに露になった。男は内臓の中に指を入れ、中からオレンジ色をした親指大の二対のものを探り出し、それをすばやく掴み出して見物に見せる。そのときは、「どうだい、満足がいくかい」と言わんばかりに奇態な笑いを浮かべてみせた。その笑いを操る血走ったような眼の輝きに、少年は魔法にかけられたようになってしまう。身がすくみ、その場に封じられたようになってしまった。男は二対のものを臓腑からぶっち切り、傍にある小さな金属製の器にさっと入れ、それをすばやくランプの火にかけた。すると次第に内臓から透き通った油のようなものがじくじくと滲み出し、それはすぐに器をいっぱいにした。内臓は縮み、からからに干涸び、代わりに先ほどまでの内臓の大きさに比べたらそれ以上の透明な液体が器の中に溜った。少年は目の前がくらくらするようだった。男はここぞとばかりに見物たちに口上を述べているが、少年の耳にはもう何を言っているのかさっぱり分からない。見物たちも執拗に男に向かって何かしら尋ねているようだが、その意味は分からなかった。
 昼下がりの刻だった。少年はUrdu Bazarにある学校からの帰途、Bhati門へ寄り道をしたところだった。Bhati門前広場はUrdu Bazarの目と鼻の先にある。家はPaniwala Talabに近いMaya BazarにあるのでLohari門を通って帰るのが常だが、その日は帰って家の用をしなくてもよかったからである。それに今日は一人だった。いつもはKhalidといっしょだが、彼と口論したのである。Khalidだったら今見たばかりのものについて何か知っているかもしれない。あいつの家は古くから城市に住んでいるArainだから。
 先日のMuharramAshuraの日のことだ。少年はKhalidといっしょにBhati門前広場までこっそり見物にやって来たのだった。Khalidの家も少年の家も共にスンナ派の家系だった。シーア派の儀礼を見る理由はない。けれども、今年に入って隣国イランのシーア派の噂が絶えないので、シーア派の儀礼がどんなか見てみようと思ったのだ。広場で待っていると、黒い服を着た男たちの行列がBhati門から出て来るのが見えた。行列は一頭の美しい白馬を囲んでいた。それから、男たちは広場まで来て円陣を組むと、「Yah Husain」の掛け声と共に一斉に胸を打ち始める。それだけのことが延々と続けられた。しかし、誰もが沈痛な想いに浸り、自らの手でその身を打ち、苦痛に嘖まれるることで、何かが起こるのを待っているかのように少年には感じられた。その光景を前にして、ふと少年は空から何かが舞い降りて来るような気配が感じられてならなかった。目には見えないが、肌に圧力のように感じられるものがある。からだの感覚としてしか知れないが、空から何か大きなものが、地上に向かって舞い降りてくるものがあり、それが何かと考えれば、あれは天使ではないだろうか、そう思ったのだった。もう午後も遅い時間だった。じきに陽も傾いてくる。今日は辺りの空気がいつもと違っているようだ。何かが空から舞い降りてくる。それが見えないにもかかわらず、何かが確かに上空を支配し、ゆっくりと地上に向かって降りてくるような感じがする。周囲の人々の押し黙ったような表情からも、みな一様にそのことを感じているのではないかと伺われる。今までに経験したことのない感じなので、少年はそのことをKhalidにも言わず、その日は黙っていっしょに歩いて帰った。そして今日、昼休みにそのことをKhalidに話してみようと思ったのだ。
「ねえ、Khalid。天使っていると思うかい」。
「天使がいるかどうかなんて、そんなこと、声を大きくして言っちゃあいけないよ。だって、天使はいるにきまっているんだから」。
「じゃあ、君は天使を見たことがあるの」。
Tahir、そんな天使を見たのどうだのって、軽々しく言っちゃあいけないよ。天使を見るなんて簡単にできることじゃないんだから。徳を積んで、それによほどアッラーの思し召しのある人の前にしか現われないってきまっているんだから」。
「天使ってそんなに難しいものなのかい。僕はそうは思わないけれど」。
「じゃあTahir、君は天使を見たっていうのかい」。
「見たっていうか、どう言っていいか分からないけれど、感じたことがあるっていうかな…」。
「何だって、いつ、どこで感じたっていうの」。
「いつ、どこっていったって…」。
「いつ、どこで感じたんだよ。言えないのかい。じゃあ、僕に嘘をついているんだね。嘘はいけないよ」。
「嘘じゃあないってば」。
「じゃあ、言ってみろよ。いつ、どこで天使を感じたのさ」。
 少年には言えなかった。Ashuraの儀礼を見ていたときに空から天使が舞い降りてきたような感じがしたなんて、きっとKhalidだって信じないにきまっている。それで、今日は彼とは気まずい状態になったわけだ。Khalidだったら、あの生き物が何であんな目に遭うのか、ひょっとして何かの犠牲になったとか、そんなことについて何か知っているかもしれない。そうでなければ、あんなに辱められたうえに内蔵のかたちさえなくなるほど火に炙られたとあっては、いくら醜い生き物とあっても救われないじゃないか。もし救われないというんだったら、この世に天使のいる余地さえなくなってしまうだろう。少年はそんなことを考えながら、Bhati門をくぐり抜け、Hakiman Bazarを通り、途中からいくつものKuchaを経てLohari Mandi Chowkに出た。Chowkで背に荷を満載する驢馬に目がとまった。あんなに荷を積まれて、おまけに鞭打たれてばかりいるのに、驢馬はあまりに従順で、その姿は美しいままだ。一点の汚れも見せないでいる。Syed Mitha Bazarを行くと、途中にHaweli風の建物に囲まれた中庭でたくさんの水牛を飼っている。水牛は毎朝ミルクを授けてくれるからそれだけで救われているというものだ。それに水牛は美しいし、白い乳も美しい。Awami Bazarに入り、そこからGumti Bazarに出ればMaya Bazarはすぐそこだ。明日はJum’a(金曜日)だ。きっとSonehriモスクでKhalidに会うだろう。

 午後の暑さが和らぎ、木曜の夜にはData Ganj前の広場でQawwaliの会が催されていた。木曜日をウルドゥー語で「Jum’e Rat」という。「Jum’a」は金曜日で、語義的には「礼拝のための集会」を意味する。つまり、木曜日の「Jum’e Rat」には「礼拝集会前夜」という意味があり、それなりにイスラーム的な価値を有する曜日なのである。Qawwaliの会が木曜の夜に催されるのもそのためである。その日、私はあらかじめTaxali門の外にある安ホテルに投宿し、夕暮れ時にData Ganjに出かけて行った。夜の帳が降りようとする頃、Data Ganjの前ではすでに聴衆が輪になって座していた。会のために特別に明りが用意されているわけでなく、辺りは薄暗い。薄暗いなかで、聴衆が静かに座して待っている。人の輪は聖廟の入口側だけが開かれ、聖廟に向かうようにしてQawwaliを歌う五・六人のグループが待機しているのが街灯の明りでやっと見分けられる。私は輪の外側に立って見物することにした。しばらくするとタブラとハルモニウムの調音が始まり、それが済むと、開始の合図が告げられることもなくゆっくりとハルモニウムが奏でるメロディーが響き始めた。それから、主歌唱者が朗々と詠い始める。
 Tere Warian Saaiyan Mein Tere Warian…、主よ、あなたにこの身を捧げましょう/あなたにこの命を捧げましょう
 醜く、あまりに醜く、夜の闇のように醜い私を/主よ、あなたは美しく、あまりに美しく、夜明けのように美しい/あなたにこの身を捧げましょう
 主よ、私のために他の誰かにお気遣いなさらぬよう/でも、あなたは他の誰にも思いを懸けている/あなたにこの身を捧げましょう
 あなたは人々を優しく抱きしめる、でも私のような者には希望がなく、あなたに近寄ることすらできない/あなたにこの身を捧げましょう
 私にはあなたの愛を求める特別な資格さえない/私はただあなたの好意に乞いすがるだけ/あなたにこの身を捧げましょう
 この乞食僧Husainは、主の慈悲深さがあればうまくやっていける、ただそう言うことができるだけ/あなたにこの身を捧げましょう…
 途中からタブラがリズムを刻み始め、それと共に伴走歌唱者たちの手を打ち鳴らす音が響き出す。そして、「Tere Warian Saaiyan Mein Tere Warian…、主よ、あなたにこの身を捧げましょう」のフレーズを一斉に詠い上げる。
 スーフィー詩にはそれをつくった人の名前が必ず詠み込まれている。最後に「Faqir(乞食僧) Husain」と詠われているのがそれで、Madho Lal Husain15381599)のことである。一般にはShah Husainと呼ばれる、生涯Lahoreで教えを説いたスーフィー行者だ。彼の詩は「Kafi」と知られる短いもので、その四行から十行の中に繰り返しと押韻が折り込まれているのが特徴である。そのため、その詩はパンジャブ民謡の曲調に合わせて歌われてきたという。ちなみにイスラームの詩(アラビア文字による詩)には様々な形式があり、その形式毎に各地域や時代の潜在的な様態といったものがそこに封じ込められてきたものと考えられる。一地方語であるパンジャブ語もそうした仕方で詩や物語文学の展開と共にかたちをなし、十九世紀にその頂点に達したのだった。
 この「Tere Warian Mein Saayian」の曲をNusrat Fateh Ali Khanのグループが歌うのをDVDで視聴したが、すばらしい表現になっている。Qawwaliを世界に通用する音楽表現へと見事に形式化していると思う。Data Ganjの前で詠っていたのは、おそらく地元の名もないQawwaliグループであったろう。まだ雑然とした音楽表現ではあった。しかし、その詠唱からは咽び出るような信仰心が感じられ、私も含めてそこにいるすべての聴衆を心の底から酔わせるかのようだった。「Tere Warian Saaiyan Mein Tere Warian/あなたにこの身を捧げましょう」の繰り返しと押韻が、聴衆の身体に沁み入るかのように詠い上げられる。実際、矢も楯もたまらず立ち上がり、暗がりからいきなり踊り出て来る者もいた。踊りというよりも自らを制御できない態になっていて、すでに陶酔しているのである。「Warian Saayian」というのは字義的には「自らを犠牲に捧げる」の意であるが、その「犠牲」の語の背景には、スーフィー特有の思想で「Fana」、すなわち「自己を滅する」という境地が示唆されているように思う。Ali Hajweriの言う、「スーフィーは人間的なものから離れていることで成り立つがゆえに、必然的にかたちがないのである」という意味からすれば、そこには、人間的な性質を消滅させ、自己への囚われを脱するようにしてその身を神に捧げる、そんな意味が含まれているのではないだろうか。
 Madho Lal Husainの聖廟は、Bhati門から見れば城市の反対側、Lahore駅からさらに東方のBaghbanpuraの集落内にある。そこで年に一回のUrsが盛大に行なわれるが、「Chiraghan(燈明祭)」と呼ばれるその祭礼は、おそらくLahore随一のUrsである。パキスタン各地からFaqirたちが続々とやって来て、そこでMalang(狂信者)の踊りが踊られる。彼らは膝下までの長衣を身に纏い、長い髪に髭は伸ばしたまま、そしてこれみよがしの派手な装飾品で身を飾り、ハシッシュを吸い、聖廟の敷地内で踊り、歌う。Madho Lal Husainを慕って歌い、踊るのである。そのMadho Lal Husainの詩がなぜData Ganjの聖廟前で詠われるのだろうか。
 Shah Husainは十才にしてHafiz(クラーンを全て暗唱する者への称号)になるというほどの才能を示し、若い頃にData Ganjの聖廟でスーフィーの勉学に取り組んだという。十二年間、Ali Hajweriの遺骨に仕え、クラーンの教えに厳密に従った。ことにRavi河の流れに立ち、クラーンを朗唱する夜行をしたといわれる。だから、彼の出発点はこの地にあり、Data Ganjに縁がないわけではない。が、ここにRavi河の流れが忽然とその姿を現してくるのだ。Shah HusainKhanqah(修行場)ではなく、夜の河の流れに身を浸しながら修行したのである。Data Ganjの聖廟のあるこの辺りはかつてはRavi河の河原であって、その東側には暗い氾濫原が広がっていた。城市側にはヒンドゥー教徒の火葬場があり、死体を焼く炎がちらちら見える夜もあったろう。足を浸したその河の流れには燃え遺った骨や遺灰も混じっていただろう。そんな、夜の河の流れる光景が忽然と、Data Ganj前の広場に立つ私の足下から立ち現れて来る。Husainは、あるとき(一説によれば36才のとき)、いきなり神の秘密が開示されたと覚る。そして、クラーンを河の流れに放り投げた。その行為を人に咎められると、彼は水流からクラーンを取り出し、それがまったく濡れていないことを示してみせたという。これ以後、彼はあらゆる規則を放棄し、歌い、踊り、飲酒さえすることになる。彼は聖俗を越え、放下僧の身となり、「野の道」を行く者になったのである。つねに赤い長衣を着ていたので「Lal HusainLalは「赤い」の意)」と呼ばれるようになった。また彼はムスリムの倣いに反して自ら髪の毛を剃り、剃髪しない者を弟子としなかったともいう。
 Lal HusainRavi河の水流とは深い関係があるのだ。Data Ganjの聖廟があるBhati門前は城市の外にあるとはいえ、現在でも城市と深い繋がりをもつ独特の空間である。この空間は誰の支配も及ばない場として人々につとに認められてきた。ここでAshuraの儀礼が行なわれる。朝晩Pehlwanが集り、Akharaで肉体と精神の鍛錬に励む。時には大テントが張られてプロレスのイベントが催されることもある。Hijuraaが好んで住みついている。どこからともなく異形の行商がやって来てたむろする。物語芸人が来て、英雄物語や「Heer Ranjha」の恋物語を真に迫るように語って見せる。季節的に移動民が来て、誰の許可なく居を構えることができる。誰もがそこを特異な場所と嗅ぎ付け、集まって来るのだった。かつての夜の河原の匂い、死の匂いを嗅ぎ付けて集まって来るのだろうか。この場所が胡散臭い感じのするその源泉には、夜の河の流れる光景があるのかもしれない。夜の河の流れに月光が射し、河面にねっとりと銀の光が反射している。その銀の流れの背後に往時の城市が黒々と浮かび上がっている。この光景をかつて見たことがあると思う。どこか遠い異国の物語の中であったか、それとも実際に目にした光景か、いやそれよりも夢の中で見た光景だったか。そんなふうに、城市の一千年の息吹が人の鼻先を駆り立てるかのように、夜の河の光景が足下から立ち上がって来るのを私は感じる。夜の闇を深々と抱いて流れる河が、ここには今なお流れているのだ。「あなたにこの身を捧げましょう」、その闇はそう詠うのだ。そればかりか、夜の底から、河の流れる音が今でも聞こえて来る。その流れの音に安らぎを覚えたか、それとも不審を抱いたか、いずれにしてもHijuraaも移動民も、その夜の河という自然の深さを敏感にも感じつつ、安らかな眠りにつくのではないか。名もなきFakirLal Husainへと変貌したことには、そうした深い<自然>を呼び起こすような働きがあったのではないかと思う。彼は一説によれば、十万の信徒を擁していたという。
 いつのまにか月明かりが射している。満月を過ぎた月だろうか。
 夜の城市を私は歩く。夜更けの街路を歩く。月光が冴え、Bazar Hakimanをくっきりと照らし出す。もう店というは店を閉まっているが、それでもなおBazarの趣が、その寝息が、耳に忍び込んでくるかのように感じられる。昼間の賑わいは跡形もないが、賑わいの余韻がそこかしこに残り、その吐息がからだに伝わって来るようだ。通りに沿う家屋という家屋から薄明かりが漏れ、それだけで夜の街に人の生活が息づくのが手に取るように感じられる。もうみな眠りにつくところだ。ここには何百年と繰り返されてきた夜の時間がある。私は一人、足音を響かせて街路を歩く。もう何十年もこの街路を歩き通う人のように…。どこかで驢馬の嗎か、最初は天高く、それから地上にいっきに堕ちてくるような、耳障りのする鳴声が聞こえてきた。すると、遠くにぼおっと明りが灯るのが目に入ってきた。ちょっと冷えてきたなと思う。

 今夜は寝付けない。瞳の花が開いたようになっている。夜なのにまるで頭の中はますます明るくなってくる。いつもは想いもしないことが次から次へと頭に浮かんでくるからだ。天使(Farishta)がいるならきっと悪魔(Shaitan)もいるにちがいない。いや、天使がいるから悪魔もいる、ということになるのだろうか。それとも、悪魔は天使とは関係なくいるのだろうか。そうだとしたら戦いになる。そうじゃない。悪魔は堕天使だという人もいる。かつて天使だったのに地に堕ちて悪魔になったのだ。何故そんなことが起きたのか。悪魔がそれ以前は天使だったなんて誰が考えついたのか。それとも昼と夜があるように、天使の在り方も闇の世界では変わるのだろうか。夜にはわけの分からないものが感じられる時があるから…。外で何かがざわめくような気配がする。夜も冷え込んできたせいで鳥も寝付けないでいるのだろうか。
 アザーンの声が悪魔を退散させるという。そうだとすれば、日に五回のアザーンが響き渡るたびに悪魔は身を隠さなきゃいけない。悪魔にとって見るも恐ろしいアッラーの怒りから逃れるためだ。太陽がメッカの方向に沈んだ後の夜の闇、その暗い闇が支配する間だけが悪魔の彷徨する時だ。夜、悪魔が生あるものをたぶらかせ、生臭い夜風を吹かせておびやかす。鳥たちが樹上でざわめき始めた。「何かいやらしいものが近くに来ている、眠れない」、そう雛たちが怯えて言う。と、母鳥が言い聞かせる。「悪魔、悪魔が来ているのだわ。ほら、あそこに、あの人間の傍に忍び寄っているわ。何て、いやらしい顔つき!」。
 悪魔とはあのトカゲ売りのように、なんてかたちがはっきりしているものなのだろう。それに比べると、天使にははっきりしたかたちがない。光り輝き、翼を羽ばたかせている。堕天使とは、かたちの世界に堕ちてしまった天使なのか。
 あのとき、天使はなぜ僕の肌に感じられたのだろう。いや、そうじゃない。何かが肌に感じられたから、それが天使だと思ったのだった。なぜだろう。男たちが犠牲を捧げるようにして胸を打っていたからか、それともそこにいる人々がみな何かを待っているように感じられたからだろうか。そうでもあるが、天使は翼を羽ばたかせるから、もし天使に声があるとすれば、あれは天使の声だったんじゃないか。僕は天使の声をからだで聴いたのかもしれない。からだ全体が耳になって、そのからだが耳を澄ますようにして、天使の声を聴いたのかもしれない。そうだとすれば、あのトカゲ売りの気味の悪い言葉を聴かずに、からだを耳にしてトカゲの声を聴けばよかったのだ。辱められるトカゲの声に耳を澄まし、その声を聴くだけでよかったのかもしれない。それだけでトカゲは救われたかもしれない。何かの<犠牲>に値したかもしれない。本当にそうだろうか…。いったい<犠牲>とは何だろう。
 自分の中で、自分じゃないものが考えているような気がしてくる。考えているっていうことは感じられるけれども、何を考えているのか僕には分からない。手を届かせようとしても、手が届かないような深いところで何かが考えている。今、僕はこの夜の深い闇の中でいったい何に耳を澄ましているというのだろう。驢馬はあの大きな耳で何を聴こうとしているのか…。

 底冷えがしてきた。夜遅くにもかかわらず煌々と明りが灯るHira Mandiに出た。Taxali門を出れば宿はもうすぐそこだ。映画が終わったのだろう、映画館から掃き出されてきた人がぞろぞろ通りを歩いている。その人波が、ガス・ランプを灯す<Mungfali(炒り落花生)売り>の屋台を襲っている。その人群れに混じってPakizahがいるのを見た。彼と目が合った。Pakizahというのは女名だが、彼は身体をもはや使い切ったという感じの、年の頃十四、五才の少年で、周囲の話からするとどうも男娼をしているらしい。昼間ときおり姿を見かけるが、夜見るのは初めてだ。むろん、もっぱら夜に徘徊するのは彼の方であって自分ではない。いつも見かける異邦人に親しみを感じたのか、彼の方から近づいて声をかけてきた。迷ったが、いっしょにチャイを飲むことにした。人目をはばかって暗がりにある露店茶屋に腰掛け、チャイを飲みながら彼と話をした。名前を尋ねられたので、ターヒルだと答えた。「それじゃあ、Tahir Bhaiya(ターヒル兄弟)、あなたは天使を信じているか」。彼は意外にもきれいなウルドゥー語を話した。私は戸惑い、微妙なニュアンスも言い表すことができないから、「分からない」と答えるだけだった。「あたしは信じている」、そう彼はきっぱりと言う。ガス・ランプの明りで彼の顔をよく見ると、その出自は判然としないが、その表情にはどこか山岳地帯の神経を隠しもっているような気がした。彼ははにかむようにして笑う。「天使はあなたに何か示してくれるの」と尋ねると、「そう、示してくれる。だから、あたしはスーフィーになることに決めたの」、そう率直に語る。Rang MahalからBazar Hattaを通り、Hira Mandiを抜け、Bazar Hakimanを経由してBhati門に出るまで、足輪の鈴を鳴らしながら歌い踊り続けるあのスーフィーたちのように、そう眼を輝かせて語る。そのFakirたちなら私も知っている。長い髪に髭、それに女のような衣装を身につけ、街行く人に分け隔てなく屈託のない笑いを浮かべながら踊り歩く者たちだ。杖のようなものを振りかざしながら彼らは歌い、足踏みしながらリズムをとり、回転しながら踊る。彼らにはいささかの束縛もないようだった。初期のスーフィーが次のように詠ったというのを私は想い出す。
 <真実>を私たちは見つけていない/だから、舞い、地を踏むのです
 舞踏が私のうちで叱責するのです/誰があなたを求めて心を取り乱し、彷徨うでしょうか
 あなたの懐で私たちは巡っているのですから/だから、地を踏むのです
 はるか昔、Bistami(874)と同時代のYahya Ibn Mu’adh al-Raziというスーフィーが詠ったアラビア語詩である。
 夜、闇の中で輝きを放つ者があるいっぽうで、昼にその姿を輝かせる者もいる。昼の仮面があり、夜の相貌がある。それに対して、昼が夜へと移行する夕暮れがあり、夜が朝へと交替する夜明けがある。夕暮れの感覚があり、夜明けの創造がある。だから、夕暮れになる度に息を吹き返し、夜明けが来る度に心臓をときめかせる、そんな世界もあるのだ。