Saturday, July 29, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


    城市(4) 下

 Avicenna、すなわちIbn Sina9801037)はBukhara生まれのペルシア人で、Ali-Hajweriより一世代前の人である。彼はイスラームにおける<天使学>を創始した。Ibn Sinaの天使は神の命令を人間に伝える単なる使者ではなく、また神が人につける「守護天使」と言われるものでもない。それは認識として働く天使であり、<能動知性>という面をもつと言われる。つまり、その天使は私たちの認識の在り方と重なるようにして語られているのである。彼はシーア派に属していたと推測されるが、親や兄弟はシーア派から分派したイスマーイル派の信者であったという。
 Ibn Sinaの<天使学>をみるには、それ以前の思考に少し触れておかなければならない。イスラームにおける被造物の本質と存在をめぐる形而上学はAl Farabi(872950)に始まる。Al Farabiもまた中央アジア出身で、トゥルク系の人だったという。彼の理論によれば、被造物における存在は本質を構成する性格をもたず、それは本質に由来する偶然的なものにすぎない。いっぽう、創造者である神に由来する<存在>は、必然的に存在する<存在>と、それ自身では存在しえない<可能的存在>とに区別されることになる。この<可能的存在>は存在とも非存在ともいえず、その存在は<必然的存在>によって措定された場合にのみ、必然的に<在る>という状態に変貌するとされる。この変貌において<能動知性>の問題が取り上げられた。また、「一からは一しか生じない」という原理があり、その原理が要求する、神を原因とする叡智体とその<発出>をめぐる理論があった。この<発出>理論はネオ・プラトニズムに拠っている。
 Ibn Sinaは<可能的存在>についてさらに論を進め、もしも何らかの可能的なものが必然的に<在る>という状態に変貌するならば、すなわち<存在>として具現化されるとするならば、それはその<存在>がその原因により必然化されたからに他ならなく、それ以来それは存在しないことが不可能である、と考えた。したがって、それ自身では存在し得ないが、その原因によって可能的なものが<存在>として具現化されるプロセスがあり、その発生源としての<第一叡智体>があるというのである。この<第一叡智体>に端を発して、宇宙論から天使的認識の現象学までを形成する一連の<凝視>の行為によって存在の複数性が生ずることになるが、<凝視>という作用を介することで、あくまでも「一からは一しか派生しない」ことになっている。それは次のような次第になっている。
 まず<第一叡智体>はその始源を<凝視>する。自らを<存在>へと必然化する原因である己の始源を<凝視>することによって、次々と<可能的存在>を生み出すのである。最初の<凝視>から<第二叡智体>が生じ、第二の<凝視>から第一天の運動因たる<天体霊魂>が、第三の<凝視>から第一天のエーテル的物体が生じるが、この物体は<第一叡智体>の下位の、非存在の次元から生ずる。こうして、<存在>が創始する三重の<凝視>が叡智体の各段階で繰り返され、ついに二重の階層、すなわちケルビム(純粋知性)的な<十の叡智体>の階層と、<天体霊魂(天上の天使)>の階層とが出来上がる。これら<可能的存在>は感覚能力をもっていないが、純粋な状態にある想像力、つまり感覚から解放された想像力をもっているとされる。
 階層の最終局面である<第十叡智体>は、もはや他の叡智体や天体霊魂を創り出す能力をもっていないが、この段階から<溢出>が、多くの人間の魂として発現することになる。<能動知性(‘Aql Fa’al)>と呼ばれる知性がこの<溢出>であり、私たちの魂はここから発していると言われる。さらには、<能動知性>による<照明(‘Ishraq)>の働きは、私たち人間による観念ないし認識の形相を、<能動知性>に向かう適合性を獲得した魂へと投影することになる。人間の知性は、それだけでは感覚的なものから知的なものを抽象する能力も役割ももっていない。というのも、あらゆる知的認識とその奥底にある原記憶はこの<能動知性>、すなわち天使から発する<溢出>であり、<照明>であるからである。こうしたことから、人間の知性は可能的に天使的本性をもっていると考えられることになる。人間の知性における実践知性と瞑想知性という二重の構造によって、天使的本性と人間の知性という二つの局面は、<天上の天使(天体霊魂)>と、それに対応する<地上の天使>と呼ばれることになる。
 こうした階層的構造を成す叡智体をめぐる理論から生ずる局面において、Ibn Sinaの認識理論は一つの<天使学>となっているのである。その<天使学>は三重の階層を提示している。まず<大天使もしくは純粋知性(ケルビム)>があり、そこから発し、天上界を動く魂である<天上の天使>があり、そして人間の魂、もしくは地上の人間の身体を動かし支配する<地上の天使>がある。Ibn Sinaは、私たちがこの天体霊魂である<天上の天使>と人間の魂である<地上の天使>との親近関係とその相応関係を執拗に想い起こすべきことを、「Hayy Ibn Yakzanの物語」において強調している。人間の魂が、魂がそこから発する<能動知性>に関わるのは、各々が天上の魂であるケルビムの<十番目の天使>が自ら思考とその<存在>を発散する知性に関わる、それと同じ関係にあるのである。それゆえ、<地上の天使>もしくは人間の魂がその天使性を自覚するのは、天上の魂である<天上の天使>を模倣することの他においてない。
「能動知性(intellectus agens)」についていえば、その概念はアリストテレスの記述に発し、注釈者たちの間で異説を生んできたものである。要するに、「能動知性」の本性は中世スコラ哲学において論議の主題となっていた。イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の様々な思想家たちが、アリストテレスの身体と魂に関する記述に関わり、その非物質的であるところの魂が、永遠の生という本質を理解する際にどのように寄与するのかについて考えてきたのである。
 Ibn Sinaは<能動知性>について、この叡智体を神の観念と同一視せず、これを神ではなく<プレローマ(神性から満ち溢れるもの)としての存在>とし、人間は叡智体によって直接に<プレローマとしての存在>に結びつけられていると考えたのである。というのも、魂を有機体の一形相であると考えていたペリパトス派の考えに満足できなかったからである。
 こうした<能動知性>としての叡智体は、正統的一神論に脅威を与えるものだった。なぜなら、<プレローマとしての存在>と直接、かつ個人的に関係をもつことは、ことに哲学者をして、現世の大教主を崇敬しないことになる危険を孕んでいるからである。それゆえ、聖霊そのものである啓示の天使と、認識の天使である<能動知性>とを同一視する考えは、イスラーム思想において西欧とは全く別の霊的哲学を推し進めることになった。その結果、イスラームの正統派による神の創造をめぐる思想それ自体も根本的な変容を受けざるをえなくなった。創造は、自らを惟う神の思惟行為にあり、神的存在が自らについてもち続けるこの認識こそ第一の<発出>、第一のヌース(知性)、<第一叡智体>に他ならない。神の思惟行為であるこの創造的エネルギーの本来的で固有の力は、「一からは一しか派生しない」という原理を充たしつつ、<可能的存在>である<能動知性>としての叡智体の考えによって、一から多への移行を保証することになったのである。
 と、ここまで、Henry Corbinの「Histoire de la Philosophie Islamique(1964)」からメモをとった内容を書き写してきた。Corbinの著作がOriental Collegeの図書館の<Mysticism>の書架にあって、たまたま見つけて手にしたのである。フランス語はあまり読めず、内容も難解で、私はノートにただアルファベットを書き写す作業に熱中していた。それで膨大なメモが遺ったのである。現在は翻訳の「イスラーム哲学史(1974)」で読むことができ、ここまでIbn Sinaの項目を要約したにすぎない。
 Oriental Collegeの図書館は大英帝国時代の建物で、植民地特有の懐古的な雰囲気を今も遺している。二階建ての吹き抜けで天井が高く、その天井から長い管を伸ばして幾つものファンが吊り下がっている。けれども、冬場のこの時期には建物内は冷え込み、私の足下には電気ストーブが置かれていた。一階半分のスペースと二階の廻廊の壁を背にして周囲を廻るように書架が立ち並び、様々な言語で書かれた、様々な時代の、膨大な量の書物が収納されている。周囲を書架に囲まれた広々とした空間の中心に大机が並び置かれ、その一つの机にいくつもの辞書を拡げ、私は一生懸命メモをとる作業をしている。フランス語の文章はなかなか頭に入らないが、ある種の単語がひっかかってくる。HermeneutiqueとかGnosisSyzygyPleromaといった語である。私はときおりメモから目を離し、しばし想いに耽っていた。すると、可憐なパンジャブ服にショールを身に纏った女子学生が二人、いつものように私がメモをとる大机にやって来て向かいの席に座る。彼女たちはドゥパッタを被っていない。持参のテキストを開いたはいいが、もっぱらひそひそとおしゃべりに余念がない。その漏れ聞こえるパンジャブ語の音が実に美しいので、私は思わず耳を傾けてしまう。城市の男たちがパーンを噛みながら口の中を真っ赤にして発するパンジャブ語とはまったく違うもののように感じられるのだ。音感が柔らかく、耳に心地よい。ウルドゥー語も音感を基調にした耳に柔らかい言語だが、彼女たちが話すパンジャブ語と比べるといささか堅い感じがしてしまう。文法的なめりはりを削って円みを帯びたような音感がパンジャブ語にあることに気づいたのである。このことは、密かにしゃべっているのを耳にしないと気づかないようだ。主に話し言葉である地方語を守っているのはもしかして女性たちではないかと思う。そのひそひそ話の内容は私には聞き取れないが、話し言葉がもつ心身的なものをつぶさに表しているように感じられるからである。一人の女子学生の肌は白く、もう一人の方は浅黒い肌をしている。Collegeの構内でもよく見かける美しい女性たちだ。浅黒い肌の女子学生の方が話をリードしているが、いつものことだ。私は何気なく書物から顔を離し、女子学生の方を伺い始める。するとそのとき、毎度決まったように図書館の雑用係が分厚い本を何冊も持って現われ、大机に向かう私と女子学生の間に積み上げていく。と、あっというまに目の前に本の壁ができてしまう。ここはイスラーム教の国だ。男性と女性の区別は厳格だ。同じCollegeに通っていても、みだりに女性の顔を見つめるようなことをしてはいけないのだった。そう思ってふたたび私は書物に顔を埋める。それにしても、この国にはわずかばかりのどうでもいいような仕事と交換に薄給をもらい、人生を費やすかなりの数の人がいるのだった。
 それはさておき、次はこれも図書館の同じ書架で見つけたCorbinの真新しい著作、「Avicenne et le Recit Visionnaire (1979)」をみてみよう。前述の、Ibn Sinaの「Hayy Ibn Yakzanの物語」を精察した研究書である。
 天使の存在は全てのムスリムによって認められているが、どんな敬虔な信者であろうとクラーンから知ることができるのは、天使が二つか四つ、もしくはそれ以上の翼をもった、捉え難くて光り輝く身体をしている、というものである。天使には完全な知識が賦与され、その行為に適った力を天使はもっている。その職務は神を讃えることだ。天使は、預言者やその精神的継承者に、聖なるものとの交流をまさに示すために自らそのすがたを顕わすのである。しかし、天使についてそれ以上を言うこと、たとえば天使の超越性を断言すること、あるいは天使の概念を人間の知性や魂の領域へと繰り戻すこと、つまりその本性の力もしくは人間の機能へと取り戻すことは、正しい道からはずれていることになる。一方に正統イスラームの天使学があり、他方に天使的階層を純粋知性もしくは天使と魂の二重性として示す、Ibn Sinaの<天使学>があるというわけだ。
 Ibn Sinaの<天使学>によれば、天使は一定の人物の特徴のもとにおのれを個別化する。その際の告知は、その人自身が用意を告げる魂の経験の程度と一致するという。つまり、天使と人間の魂は対になっていると考えられている。<Syzygy()>の天上における対応者が、堕天使、あるいは身体を支配するよう任命された天使、さらには天上の住処にとどまる天使といった区分けを構成するのは、「その人物において」なのである。こうした、天使と人間の魂を<Syzygy>とする考えは、Ibn Sinaの<天使学>のあらゆる段階に顕われている。知性の<溢出>と大天使の<溢出>との間の等価性は、Ibn Sinaの信条の一部を形成しているのである。
 こうしたSyzygy>の考えから、<能動知性>は二重性とみなされる。まず、第十の大天使(もしくはその人を個別化する姿)は、それが生ずる大天使と各々の<天上の魂>との関係と同じなのである。それゆえ、魂にとって、それ自身の知識は天使の認識であることになる。さらには、この<二重の知性力>について知ることにおいて、<存在>が、<天上的知性(‘Aql)>と<人間の魂(Nafs)>が対であるような各々の知性と魂を結びつけている<プレローマとしての存在>と同種であり、かつ相同することが明らかとなる。第十のケルビムである<能動知性>は、成長する闇がその最大に達するプロセスの終わりにもはや一つの知性、一つの霊、一つの天上界を生産する強さをもってはいない。したがって、この知性と霊と天上界の三つ組みの統一体は、私たち一人一人の魂の多数性へとばらばらになっているのである。それにもかかわらず、もし各々の<天体霊魂>がそれから発散する知性との関係のように、各々の人間の魂が<能動知性>と同じ関係に立つならば、相同性は今もって可能でなければならない。それゆえ、人間の魂が知ることそれ自体に意識的になる<二重の知性力>は、<知る>ことのうちに、天使の世界へ知ることそれ自体を運命づけるという構造をもっている。それ自身の観照的な力は、各々の<天体霊魂>が<能動知性>のうちに待機しているように、活動知性のうちに待機している。そして、その活動的で実際的な力は同様に、同じ関係において、もしくは各々の<天体霊魂>がその動きを支配する魂のうちに待機するようにして、それ自身の観照的な力のうちに待機するのである。こうして、人間の魂が天上の魂の模倣としての魂として振舞うことを学ぶのは、天使的宇宙の構造をめぐる意識を獲得することによってなのである。
 こうした<二重の知性力>を意識する方法としての<Ta’wil>がある。<Ta’wil>とは、「それがやって来た場所へ呼び戻すこと」、「起源に立ち戻らせること」の意であり、それは、「テキストの記述をその皮相な外見から引き離し、それをその真理に立ち返らせ、結果的にテキストの真実と元々の意味に戻す」ことである。それは、あるものをその始源へ戻すこと、Zahir(外的な現れ)からBatin(内的な顕われ)へ、外的実在から内的実在へと進むことである。こうして<Ta’wil>を実行する人は、その言葉を外見的な内容(Zahir)から内なる真実(Haqiqat)へと戻すことになる。テキストを<Ta’wil>することには、魂の<Ta’wil>が想定されている。とはいえ、そのことによって魂が回復されることはなく、ただテキストの意味をその真実へと戻すのみである。言い換えれば、<Ta’wil>の真実とは、<Ta’wil>を働かせる意識作業とそこに生ずる心理的な出来事という同時に起こる真実に基づいている。人は<Ta’wil>を通じて、感覚的な形態を(創造的)想像力の形態へと連れ戻すことになる。その根源、すなわち天使である<天上の魂>の真実へと連れ戻すのは、私たちの<能動知性>に他ならない。この<能動知性>の働きの下に大天使ガブリエルもしくは聖霊のすがたが明らかにされる<Ta’wil>の働きは、天上の魂が人間知性へと<縮減する>と解釈すれば、まさに合理的であるとみなすことができるだろう。
 大天使の<存在>と可能的天使としての人間の魂の<存在>との間の連続性において、そこに裂け目はない。その人に<存在>や事物の知覚を、すなわちその人の思考として各々の天使がその天上を思考するように、各々の天上が天使の思考であるように象徴化を伴って可能にさせるのは、この<能動知性>である。このことを証示することは、Ibn Sinaの<東方哲学>としての<照明学>思想の大きな願望だった。それ自身の<存在>をもつ仲介的世界に、そのような象徴世界に、もしくは<原型的なイメージ構造(‘Alam al-Mithal)>に導くのは、この願望であった。その構造は<仲介的東方(Al-Mashriq al-Aswat)>と呼ばれ、大天使のプレローマという純粋な<東方(照明世界)>に先行するものである。それは創造的に想像可能な世界であり、天上世界を移動する、感覚器官をもたない天使である<天上の魂>たちの世界なのである…。

Bullhe ShahShah Husainといった人たちは、いわば大衆を相手に教えを説いていたのだよ。多くの人がこの世で生き易いようにすることが彼らの一番の目的だった。だから、人々が解り易いように教えを説いて廻ったのさ。このパンジャブの大地に生きる人たちが連綿と抱き続けてきた力に向かって、方便としての教えを説いたのだ。それだから、天使については触れなかった。天使にはかたちがない。その点、ちょっと難しいところがある。その人その人の、つまり個人の資質によるものに天使は関係するのであって、それは決して一般的なものではない。天使に関わることで、かえって生きにくくなる場合もあるだろう。だから、天使については、その教えの次元は全く違うはずなのだ。それに、天使という考えはもともとイスラームよりもずっと古い教えに由来する」。
 少年はHakimの話が少しずつ解るような気がしてきた。けれども、イスラームより古いということについてはその意味が分からなかった。学校でイスラーム以前の歴史を教えられていないからである。
「天使については<能動知性>という考えがあるようですが、何故なのですか。それに、<能動知性>とはどういうものなのですか」、そうKhalidが尋ねた。
「君は難しいことを知っているね。天使が<能動知性>であるというのは、天使と人間の知性は私たちの魂のうちで二重性として現われるということだ。言い換えれば、<能動知性>とは私たち人間の知性であると共に天使の働きでもある、ということだよ。逆に言えば、天使に似なければ天使の働きを理解することはできない。私たちの魂が天使と天使の世界を知ることができるのは、魂それ自身、つまり魂の原因について目覚めることによってである。そのような魂それ自身の自覚が、<能動知性>を働かせることだと言っていい…」。
「それはシーア派の考え方ではないですか」、そうKhalidが口を挟んだ。
「ふむ。たしかに私はシーア派に属しているが、私の考えでは、イスラームの教えにシーア派とかスンナ派とかの区別はない。というのも、イスラームの教えはただ一つのことにあるからだ。それを知って、私に聞いているのかね」。
 Khalidは何か言おうとしたが、口ごもってしまった。
「良き思考、良き言葉、良き行為をもって生きること。何が<良い>かについて保証することができるのは神のみであること。良き思考と良き言葉と良き行為に生きることで、人はこの現世において目覚めることができる。これがイスラームの教えの核心だ。これを守ることができなければシーア派もスンナ派もない。良き思考、良き言葉、良き行為、こうした実践が現実にあることこそが、この地上の世界にあって天上のものである天使を感じることのできる証でもあるのだ。たとえば、良き思考をすることそのことによって、天使によって思惟された<存在>となる、と言われている」。
「良き思考、良き言葉、良き行為というのを神のみが保証すると言ったけれど、それは実際にはどんなものなの」、少年は尋ねた。
「現実には、それは悪に対して決まってくるだろう。もともと良きものが先にあり、その後に悪が生まれたのだから。悪は様々なかたちを生み出し、様々なかたちとなり、様々なかたちを示して人を誘惑する。そのかたちは見せかけで、始源とは縁を切っている。そうしたかたちを真実と思わぬことが、<良き>思考につながるのだよ。真実は判明であるものの、人間にとっては曖昧に見えるところがある。つまり、ここが難しいところだが、かたちをつくり出すその力を認めるのはよいが、そのかたちに留まってはならない。かたちをつくり出すその力はかたちになることで自ずと力を抜き取られてしまうからだ。そのいっぽうで、かたちに留まることが悪の意図を支えてしまうことになる。だから逆に言えば、<良い>ことを意識することとはつねに悪を意識することでもあるのさ。そうやって、人はつねにより良い次元を想い、より良い次元に移行することで、この現世において目覚めるのだよ。天使は、『生ける者たちよ、起きなさい』、そう言うのだ。<神が存在する>と言うとき、人間の存在の仕方はそれとは当然異なっている。それはより劣り、制限されているものだ。そう考えるときに、<良き>ものが、神の<存在>を人間存在に投影する、そんなふうに考えられているのだよ」。
「それでは、シーア派の人たちは、このあいだ見たけれど、何であんなことをするんですか」、そうKhalidは執拗に尋ねた。
「あんなこととは何かね」。
Ashuraの儀式の時に、男たちが輪になって、みな自分の胸を叩き続けるでしょう。まるで決まり事のようにして…」。
「あのかたちにはHusainの死の<時間>にまで遡ろうとする意図があるのだが、それはシーア派の人たちが、物事の始まりに帰ろうとする意識が強いからだと思われる。これをイラン系民族に特有の傾向と片付ける訳にはいかないから、イスラーム以前の<時間>に関する考え方に由来すると言っておこう。<時間>とは本質的に儀礼的な<存在>で、その儀礼の<時>は<永遠の時>の顕われである、という考え方があったのだ。その儀礼において、一つの<存在>が自らの全体を映し出し、自らの永遠を先取りするようにして自らの始源を体験するのだといわれる。話が難しくなったが、Khalidと言ったね、君は<ダエーナー>の話を知っているかい」。
 Khalidは知りませんと答えたが、それがどんな話なのかすぐに好奇の目を輝かせた。
「少し話が長くなるが、聞かせてあげよう。<ダエーナー> とはもともと神的能力をもった神性だったと言われている。神ではないが、神に直接由来する力だったのだ。けれども、霊的な働きをするうちに、神という底なしの次元から離脱して、次第にそこに人間的なすがたが与えられ、最終的に美しい少女のすがたに純化したのだと言われている。<ダエーナー>が霊の磨かれたすがたであることは、<良き人>にしかそのすがたを現さないということにもはっきりと示されている。だからこの話には、人間の意識の方向性をはっきり示そうとする意図があることにもなる。それ以前の、霊がいまだ霊的エッセンスとしての<フヴァルナ>であり続けた世界では、確かに花は美しく、鳥は軽快で、動物は力に満ちていただろうが、これから話すような、<ダエーナー>のような美しい少女が語りかける、つまり自らの純化した霊が自らに語りかける、そのような働きはいまだ現われてこなかったにちがいない。それは、<ダエーナー>が現われるということは、人間の霊の純化ということに深く関わっているからなのだよ。<フヴァルナ>の働きはその点では、いまだ黎明の揺らぎのうちに沈静していたように思われる。<フヴァルナ>の働きは繊細で、壊れ易いのだ」。
「さて、ゾロアスター時代のペルシアでは、この世で良き行為を積んだ<良き人>の魂は、死後の三日間はその人の身体の近くに留まると考えられていた。三番目の夜明け近く、南から良い香りを含んだ風が吹き寄せてきて、死んだ者の<ダエーナー>、すなわち死者その人自身の魂が、『美しく、輝かしい、腕の白い、力強い、すがたの美しいすらりとした肢体の、丈高い、乳房の張り出した、十五才の少女のすがたで』、死者の前に現われるという。そして自らの<ダエーナー>は、死者にその正体(すなわちその人自身の魂であること)を明らかにし、次のように語りかけると言われている。『あなたは良き思いによって、良き言葉によって、良き行いによって、良き信仰によって、愛らしかったわたしをいっそう愛らしくしてくれたし、美しさをいっそう美しく、願わしさをいっそう願わしいものにしてくれました…』と。それから死者の魂はわずか四歩で三つの天上世界を跨いで、<無始の光>の次元、つまり天界に到達するのだという。ああ、この神話の感動的なところは、人の魂が磨かれ、美しい少女のすがたをした霊に純化し、そして死に際して、その美しい少女の霊が感謝ともいえる言葉を投げかけてくれることにある。さらには、この死の際に投げかけられる言葉は、自らが自らに向かって発せられるという、あたかも絡繰りの解き明かしのような構造になっていることに不思議な感動がわいてくる。美しい少女の霊が私自身のうちに生き、その霊が純化された時に私の前に現われ、私に語りかけてくるというのだから。君の<ダエーナー>が現われ、私の<ダエーナー>が現われる、というわけだ」。
 少年は話を聴くだけで、すぐに<ダエーナー>に心を奪われてしまった。
「<ダエーナー>とは、いわば地上の魂の行為が生み出す果実だといえる。それは、良き思考をすることが天使によって思惟された<存在>となり、その結果、魂がその人自身の前に告知者として遣わすその人自身の姿なのだ。その良き思考は、始源的な世界から出た天使となり、その良き言葉はこの天使から出た<霊>となり、その良き行為はこの<霊>から出た身体となる。地上の人間にあっては、そうした魂の行為の積み重ねは、自らを天上的実在と対をなすことのできるようにするものなのだ。だから、<ダエーナー>は死者に向かってこう言うのだよ。『わたしはあなたの永遠であり、あなたの永遠的時間である』と…」。
「さて、もともとこれはとても古い話なのだ。おそらく死者に関する儀礼がつとに関心をもたれていた時代にまで遡ることになるだろう。<ダエーナー>は夜明け、すなわち魂が完全に個別化され、統合されるという夜明けの刻にのみ、死者の魂に自らを表明するという。というのも、その刻にのみ、人間にとって聖なるものとの関係が際立つからである。さらに言い足せば、<ダエーナー>は人が死んだ後にのみその姿を現わすという。我を失う状態が、幻視から恍惚状態までの様々な程度において、死よりも先にやって来るが、死こそ最高の忘我の状態であるだろう。だから、ときにはこうした<我のない状態>について考えることも大事なことだ。この<我のない状態>とは、人間が生まれたばかりの状態でもある。それは自分というかたちのない状態とも言えるだろう。それに、死や死者について考え廻らすことも大切だ。Ashuraの儀礼の際には、男たちはみなHusainの死に近づこうとして、その死を体験しようとして、自分の胸を叩くというかたちをして見せるわけだからね。逆に言えば、死者に想いを馳せることは自らの死を想うことでもある。そうした想いの力に支えられて、みなあんなに真剣な顔つきになっているのだよ…」。

 石造りの建物は酷暑の時期には適しているが、冬季には寒くて適わない。ムガール朝の建物は同じ石造りでも扉がなく、壁も少ないが、部屋は布幕で仕切られている。それで、夏は空間を開放し、冬は部屋を隔離できるという利点がある。英国人との自然に対する姿勢の違いがわかるというものだが、とにかく石造りの建物の中は寒くて適わない。寒さをこらえながら一心にメモを採るのも疲れてくる。それで、ときおり書架から書架へと書物の間をうろついて廻るか、あるいはいったん図書館を出る。外は陽射しがあって暖かい。外に出るとこの時期に建物の中でじっとして居るのがもったいない気がするくらいだ。中庭を通ってCollege前のKachahri Roadに出る。この通りを最初は埃っぽい道路としか感じられなかったが、一年も経つと、街路樹が茂る緑豊かな通りだと感じられるようになった。歩く人も少なく、車もたまにしか通らない。通り沿いの大樹の木陰に建つ、植民地時代風の小さな家屋を改造したカフェに入る。中に入ると清潔で簡素な内装で、城市内の茶屋や新市街のMall沿いのカフェにはない独特の雰囲気がある。今想えば<パルシー・カフェ>のような趣があった。表面が大理石の丸テーブルの席につき、紅茶にクッキーを注文する。ここはCollegeの学生か職員ぐらいしか利用しないようだ。Jinnah帽を被り、顎髭をたくわえた、大柄で眼光の鋭い老主人が給仕する。Collegeに通い出した頃はここで朝食を摂っていたので主人とは顔なじみである。初めは言葉が通じなかったが、何の問題もなく応対してくれた。漆喰壁の横木の上に肖像画がいくつか掛かり、最近になってその一つの口髭を生やした人物がAlama Iqbal(18771938)であると分かるようになった。他にターバン風の古風な帽子を被った口髭と顎髭だらけの人物の肖像画に目が留まるが、それが誰だか分からない。というか、あまりに古めかしい人物像で、奇異な感じがして主人に尋ねると、「Ibn ‘Arabi(Shaikh)ですよ」と言う。「翁は、すべての信仰を肯定しました」と言い、それから、「翁は、Khidrの弟子だったのです」、そう付け加えた。
 それを聞いて私はさっそく図書館に戻り、イスラーム関係の書架の間を廻ってIbn ‘Arabiについて英語かフランス語で書かれた研究書がないか探したが、なかなか見当たらない。ようやく<Criticism>の書架で、Henry Corbinの「L’Imagination Creatrice dans le Soufism d’Ibn ‘Arabi(1958)」を見つけた。これは難解な本だ。字面を追っても何が書いてあるかさっぱり解らない。現在この本は、「Alone with the Alone(1997)」というタイトルで読むことができる。
 Ibn ‘Arabi(11651240)はスペイン南部のムルシア生まれのアラビア人で、イスラーム思想家にして神秘家であり、幻視者であった。後世、<’Irfan>と呼ばれる神秘主義哲学の、その祖となった。Ibn ‘Arabiの教えによって、瞑想する力をもつスーフィーはその実践によって形而上的な理論を体現し得る<道>へと導かれることになったという。その思想の核心は、<存在>について神が神自身を映し出すという観点から、<Wahdat al-Wujud(存在の唯一性)>を説いたことにある。それは端的に言えば、「<存在>のなかにあるのは神以外にない」、という考えである。Ibn ‘Arabiは、「神以外に何か他のものが存在するか否か知らなかった」、とさえ言っている。コルドヴァからチュニス、そしてメッカ、ダマスカスと遍歴しながら、Ibn ‘Arabiは膨大な著作を遺しているが、その思想と実践を綜合的に研究し、明らかにした人はまだいないようだ。
 Ibn ‘Arabiの思考において特徴的なのは、<Ta’wil>の方法によって開かれる<‘Alam al-Mithal>というものである。この語を、Corbinは「創造的想像力(L’Imagination Creatrice)の世界」と訳しているが、逐語的に訳せば、「類似像の世界」という意味である。この世界は<二重の知性力>、すなわち<能動知性>と天使に深く関わっている。それゆえ、<類似像(al-Mithal)>の語は、人間の魂と<地上の天使>との<類似>を示そうとするものと思われる。「Khidrの弟子である」ということについても、<Khidr>が現実に存在する人物ではなく、つねに象徴的に語られる預言者的人物であることから、それはIbn ‘Arabiが<‘Alam al-Mithal>という<仲介的>な全面的に世界に従っていた、ということを示しているように思う。
 Ibn ‘Arabiは存在を三つに区分している。第一のものは<Ahadiyah(絶対的一性)>と呼ばれる絶対的な<存在>であり、第二のものは、感覚的事物の総体として展開する現象的存在、すなわち私たち<存在者>のことであり、そしてその中間に、<Haqiqat al-Haqaqi(実在の実在)>と呼ばれる<存在>次元を考えている。これが、<‘Alam al-Mithal>という<仲介的>世界のことである。それは、「有であるとも無であるともいえない」とか、「無始の過去から在る真の実在と共に在るものであるから、宇宙に対して時間的に先とも後とも決定できない」と言われる。これら三つの存在は三つに区分されはするが、<存在の唯一性>として一つのものである。というのも、絶対的な<存在>は<存在者>とは区別され、<存在者>に対して超越的ではあるが、いっぽうの<存在者>はといえば、それらを何らかの仕方で包含する絶対的な<存在>からいかなる点でも切り離されていないからである。全ては神が神自身を映し出すことから始まっているからである。そのことを、私たち<存在者>は、<Qalb(「心臓」の意)>という幽微な身体器官である<眼>によって知ることができるという。
 こうした<存在の唯一性>という考えによって、一から多へと、<存在>が<存在者>へと自ら鏡に映すような仕方で次々と展開されるその仕方のゆえに、<存在者>の多様性を肯定することができるわけである。また<存在>の在り方が三つに区分されて中間態が積極的に認められることになり、それによって<‘Alam al-Mithal>が肯定されたわけである。あるいは、Ibn ‘Arabiに「Khidrの弟子」というヴィジョンがまず体現されていて、その<‘Alam al-Mithal>の次元を肯定するためにヴィジョンの体現という中間的な<存在>の在り方が認められたのだろうか。そこのところは分からない。この<‘Alam al-Mithal>をIbn ‘Arabiの個人的解釈に帰するか、それを一般的な考えと認めるかで大きな違いがあり、そこには問題がある。
 この中間的ともいえる存在次元は、「幽玄な身体、霊性的次元における感覚界」とも言われるが、それは、意識内に生起した心象が対象となって外界に形象化される、といった現象といえる。とはいえ、そこに形象化された対象は誰もが認識できるものではない。それは、いわば幻視の世界と言っていい。その形象は客観的なものではなく、脳においてつくり出された像であるからである。それをCorbinのように「創造的想像力の世界」と積極的に解釈することもできる。実際、チベット密教などの修行を積めば、自ら創造的に思い描く神々の心象をあたかも外界に形象化したかのように対象として観ることができる。それゆえ、ある意味で解り易いが、現代的な解釈すぎるという点があるようにも思う。私自身は、<能動知性>をいわゆる天使的世界という潜在的な力へと繋げようとするならば、当然<’Alam al-Mithal>も存在しなければならないだろうと考える。しかし、ここまで考えると、もうその先は考えることではなくなってしまう。考えるのではなく、中世の信仰のレベル、その意識レベルにまで足を踏み入れなければならなくなるのだ。Ibn ‘Arabiはとても信仰心の強い人だった。Ibn Sinaが理論家であるのに比べると、Ibn ‘Arabiの神秘家的傾向は際立っている。一方は個人を形成するそれ以前の歴史的な特異性へと向かうが、他方は個人の形成というか、個体化の方向へと真直ぐに向かっている。だから、その内容に深く立ち入るにはそれ相応の準備が必要だ。その思考の内容に強く惹き付けられはするが、その<深さ>へと身を乗り出していく気持ちを私は奮い立たせることができないでいた。なぜ個体化の方向へ、その強度へと向かうことができなかったのか。おそらく何かがそうさせないようにしていたのだ。自分に何か別の<土台>のようなものがあって、それがそうさせないようにしていたのである。
 私のLahoreでのイスラーム研究というか、拙いスーフィー研究は、Ibn ‘Arabiの<’Alam al-Mithal>の次元に触れることで大きな壁にぶち当たってしまったと思う。Ibn ‘Arabiの思考に立ち入ることができなければ、Ibn Sinaの思想についてのわずかな理解も崩壊するように思われた。足場を失って思考が空回りするような、途方に暮れた感覚を想い出す。図書館の大机を前にして途方に暮れるうちに、次第に暗く重い気分へと突き落とされていったのを想い出す。そのとき、私はなぜか急にAnarkali Bazarの乞食の肉塊を見てみたいと思ったのだ。一切の書物を片付けて図書館を出て、Kachahri Roadを通ってBazarに出ると、今日も肉塊はいつもの場所に、いつものようにしてあった。私はちらりと横目で見るだけで通り過ぎた。もう見慣れたせいか、その肉塊は何の変哲もないもののようにしてあった。ただ背中の肉がぴくぴく痙攣するのが目についただけである。その肉の痙攣のうちに神の<存在>が感じられるだろうか。そこには悲惨な<存在者>があるが、<存在>が感じられるだろうか。多なるもののなかにあるはずの<一なるもの>を直観することができるだろうか。<存在者>という外的なもの(Zahir)のうちには必ず内的なもの(Batin)が隠れているというが、そんなことは一切分からない。<存在の唯一性>を体現するために、スーフィーたちは<Tawhid(「アッラー以外に神はなし」の宣唱)>について目眩を感ずるほどの瞑想と省察を積み重ねてきたと言われる。私はそのことについて本で読んで知っていたが、私自身には何の関係もないと考えていた。結局、Ibn ‘Arabiの思想には近づけそうもない。翁はとても遠いところにいる人なのだ。私はそんな遠いところへは行けないのだ。私はAnarkali BazarからLohari門を通り抜けた。Rang Mahalに向かい、そこから学生寮があるNew Campus行きのバスに乗るためである。重い気分を引きずるようにして、雑然とするLohari Bazarを歩いた。雑多なものがみなぎるBazarを行けば様々に感覚されるものがあるが、この一千年を生きる城市に神の<存在>が感じられるだろうか。ひとたびその光景と人々を凝視すれば、そこには暗い影ばかりが宿っているように感じられてならなかった。
 昨年の夏には大英帝国式の刑法の一部がイスラーム式に置き換えられる<Hudood(制限)令>が軍事政権によって施行された。たとえば、姦通罪が強化され、鞭打ち、手足切断、投石などのイスラーム法に則った刑罰が導入されることになった。それで、さっそく公開の鞭打ち刑が、先日、たしかYakki門外の広場で行なわれという写真付きの記事が「Nawai Waqt」の一面を飾っていたのを想い出す。顔を黒く塗られた罪人が半裸の刑吏に鞭打たれて泣き叫んでいる。時計が逆廻りしている、そう誰もが思ったのではないだろうか。

 まだ暗いうちから起きてFajrの礼拝の準備をする人がいる。夜明け前になると城市にも霧が流れて来る。いや、もともと城市を取り囲むようにして流れていたRavi河の跡があり、その辺りの地の底から今でも霧が発生するのだろうか、まず城市の東西にわたって霧に包まれる。少年の家があるMaya Bazarは古い城市があった小丘に位置するので、周囲から霧が這い上がるようにしてやって来る。いつの間にかすっぽり霧に包まれた街路を少年が歩いている。東西から立ち昇る霧が対抗するようにして互いに押し合うのか、幾重にも大小の渦になって少年の目の前に立ちはだかる。自在に動き廻り、何にも拘束されないかのように振舞う霧の運動は、また対立し、拡散する運動でもある。互いに流れを巻き込み合い、それぞれの流れが一方を包み込み、かつ一方に包み込まれる。そんな霧の運動が、何の力によってか拘束され、少年にかたちとして見えるようになる一瞬がある。そうやって、霧は少年に様々なかたちを見せたかと思うと、またすぐにかたちを崩してしまう。その形成と崩壊の繰り返しが息をしているように感じられる。その霧の動きを見つめていると、動きの線に沿って、面が、かたちが、何の前置きもなく浮んで来る。が、すぐにその線は幾重にも重複し、その結果、抽象的なものに変貌することさえある。さらには面が面を襲い、一方の面の中に取り込まれると、その面を喰い破るようにして中から新たな面が現われてくる。面の運動は線を生み、線は重複してそこに何やら抽象的といっていい<時間>が少年には感じられるときがある。自分の秘密がそこに現れている、そんな直観が少年をさらに霧を凝視させるのだった。霧の運動は凝縮し、また拡散し、拡散のうちに別の凝縮が生起する。少年はいつしか霧に包まれ、霧と一体になったかのように身を任せながらも、逆に霧を、そのかたちを、その面を、掴もうとしてみる。掴んだ掌を拡げるとそこには何もない。ただ掌の平がぐっしょり濡れているだけだ。その掌の平の背後の霧から何か黒い影のようなものが現われてくるのを目にしたが、それが何か分からない。牛だろうか。ぬっと現れ出たのは、はたして大きな耳を立てた驢馬の首だった。こんなところで驢馬が放し飼いにされているのか。驢馬はすぐに霧の中に溶けるように消えてしまったが、あれは本当に驢馬だったろうか。首しか見えなかった。いや、自分は驢馬を見たのだろうか。あれは幻想だったのかもしれない。もう夜が明けたのか、どこからか小鳥のさえずる声が聞こえる。
 幾つもの霧の流れが激しく対抗し合ってできる霧の渦の中から、ふたたび何かが現れようとしていた。いや、今度はその渦が凝縮するようにしてはっきりとしたかたちとなり、そのかたちのうちに姿をとるようにして現れたのは、薄汚れた麻袋を手に持った貧相な身なりの男だった。血走った眼をしたその表情から、あのトカゲ売りと知れた。少年がその姿を凝視すると、それは見る見るうちに細部までかたちを結び、その姿が逆に自分の方に何か嫌な力を加えるように感じられた。それは、そこに留まれと命ずるような力だった。そんな邪悪なものと直面する感じに襲われたが、少年はけっしてひるまなかった。目の前のトカゲ売りと対決しようと思ったのである。死んだトカゲのためにも対決しなければいけない、そう思ったのである。トカゲ売りの姿は霧の渦をあちらからもこちらからも凝縮させ、精一杯の力を集めるようにして、その姿をはっきりと現してくるようだった。力を集めてこっちに向かって来ようとするのだな。少年はもうトカゲ売りの姿を見ないようにした。トカゲ売りは少年に向かって何か言いかけたが、その言葉を聴かないようにした。少年は先手を打つようにして、「死んだトカゲはどこだ」、そうトカゲ売りに向かって声を発した。トカゲ売りは黙っていた。「死んだトカゲはどこだ。僕はあのトカゲの声を聞きたいだけだ」、そう少年が強く声に出して言うと、トカゲ売りの渦は、今度は慌てたようにその動きをあちこちに分散させたかと思うと、渦の中心近くの小さな渦の中から渦が渦を喰い破るようにして、死んだトカゲの姿らしきものを示してみせた。ああ、あのトカゲだ。可哀想なトカゲだ。少年がその姿を凝視すると、死んだトカゲはつぶっていたその眼をゆっくりと開いてみせた。何やら悲しそうな眼をしていた。トカゲは何も言わなかったが、その眼の光が発するものをからだで聴いたたような気がして、トカゲも<存在者>であることを知った。そうであれば、そこに<存在>が感じられるはずだ。しかし、そう思うと同時に、トカゲ売りの渦の背後から何か別の力が強く押しのけて来る気配がした。その気配と共に、トカゲ売りもトカゲも自らの霧の渦にすばやく巻き込まれ、そのかたちを封じられるかのようにして渦のうちに吸い込まれ、やがて消えてしまった。その渦巻く霧の背後から押しのけるようにして霧が晴れ、ぽっかりと穴の空いたようなその空間に、判然としてはいるが曖昧な姿をした女性の半身が現われた。表情は曖昧だが、その口許の、いかにも優しげな微笑が際立って見えた。微笑を伝って温かい力が自分に注がれるのが感じられた。少年にはすぐにそれが自分の母親であると知れた。すると、その姿は夢にいつも現われるようなパンジャブ服にドゥパッタを被った母親の似姿となり、その微笑を絶やさぬまま、「お前にはまだまだ力がある。まだ十分にそれを発揮していないだけだ。母さんはそれを知っているよ」、そう少年に向かって言った。静かな、どこからともなく聞こえて来るような声だった。すると、そうだ、自分を生んだのは母親だ。母親が自分を生んだ時にはまだ自分という考えさえなかったのだ。でも、母親は自分を優しく見守ってくれていた。そんなふうに、自分が生まれた時のことがいきなり感じられ、その感覚が少年の中で強い力に変貌するようだった。この霧の渦のように在るか無いかのように儚いものであったのが、母親が自分を生み、自分に<存在>の可能性を授けてくれたのだった。そのときから、きっと自分は二重性を孕んだ<存在者>となったのだ。
 それから数日後の学校からの帰り途、少年とKhalidが何やら話しながらHakiman BazarからChapra Galliに通ずる小路を歩いている。もう夏の気配が辺りに感じられる午後だった。
「母さんは自分のことをあまりしゃべらないけど、僕のことをきちんと見守ってくれている。僕はもう大丈夫だ」。
「女の人たちはあまり自分のことを語らないけど、女たちだけで<交霊会>をしているんだよ。どこかのBaithakに集まって霊を呼び出し、色々と相談しているらしい。いいかい、そこで決まったことに男は反対できないんだ。親戚の伯父さんが、霊の許可を得た縁談には反対できないってぶつぶつ文句を言っていた…」。
 少年はKhalidの話をさえぎり、自分の気持ちを素直に打ち明けた。
「そうじゃないんだ。僕はもっともっと信仰を深めたいと思うんだ」。
「そうかい。僕は色々なことをもっと理論的に考えたいと思う」、とKhalidが答える。
 お互いに相手の言葉を聞いて二人は立ち止り、鏡に映った姿を見るようにしてお互いを見つめ合った。
「世の中には、神秘家と学者と素朴な信仰者がいる。素朴な信仰者は修練を積めば神秘家になる可能性があるけれど、神秘家と学者の間には越えられない溝が広がっているそうだ」。
「誰がそう言ったの」。
Ibn ‘Arabiという人が言ったんだって。とても昔の話さ。今はそんな区分けは通じないと思うけど」。
「そうさ、今は通じないよ」。
「それに、LahoreにはData Ganjのような人もいたんだし…」。
「ちょっと暑くなってきたね。陽射しがもう強くなってきたみたいだ。遠回りでも、Chatti Chappat(天幕のある通り)>を通って行こうよ」。
「そうだ、今度のJuma’にはMochi門を入ったところのLal Khooの井戸に遊びに行こう。水がとっても冷たいよ」。
「それに、あそこの甘菓子屋のBarfiは実に美味いときてる」。
First Classだ」。
「そう、First Classだ」。

 陽射しに暑さが戻ってきた。夏の気配がする。もう夏か、と思う。二年目の夏を想うと、真っ先にKharbuza(メロン)の甘い味を想い出す。あの酷暑の苦しみを想い出すよりは、甘いKharbuzaの味を想うのに越したことはない。そんな想いにふけりながら、私はRang Mahalのバス停の冷えた石のベンチに座り、No.27のバスを待っていた。次から次へと市営バスが停まり、客を吐き出してはまた客を詰め込んで出発した。バスを降りた客の流れはDabba Bazarの方へと向かい、Dabba Bazarの方からまた人波が押し寄せて来る。茶屋では荷物を抱えた人たちが一服し、路上の出店という出店も手に手に荷物を持った人たちに囲まれている。ワゴン車の行き先を告げる車掌の掛け声と扉を叩く音が響き渡り、タンガーの御者が鞭を揮う音が聞こえる。人また人の波で、ここには誰がいようと人に気遣う必要がない。Rang Mahal広場は外部が内部へと、内部が外部へと反転するところだ。表が裏に、裏が表へと、開き包み込まれる、「とても不思議なところだ」、そう私は心の中でつぶやいた。
 目の前に、今到着したばかりの市営バスが停まった。市営バスは車両の前半分が女性用で、後半分が男性用になっている。その間を通れぬよう、車両を真二つに割ったように金網で仕切られている。異様な光景だが、今はもう何とも思わなくなった。前の降り口からブルカに身を包んだ太った女性たちがどっと降りて来た。見ると、窓越しに一人の美しい少女の顔に目がとまった。よく見ようと思うが、少女は席から離れたのか、女性たちの陰に隠れて見えない。と、空色のパンジャブ服を着た少女がステップを降りる姿がいきなり正面から目に飛び込んできた。美しい少女だ。少女だが、どこか大人のような雰囲気を漂わせている。ステップを降りて先へ歩むその動作は子供のままだが、その身振りが何かしら完成されたもののように見える。歩む少女のその神経の配列から<時間>が感じられ、私はその姿に見惚れてしまった。一瞬のことだった。少女が広場の方へ歩み出すと、私も思わずベンチから立ち上がり、少女の行方を視線で追いかけた。少女はそのままRang Mahal広場の雑踏へ紛れ込み、Chabakswaran Bazar方面へと消え入ってしまった。その姿を見失った後に想い起こせば、「絶世の」と、形容していいような美少女だったではないか。一瞬のことだったが、それ以後私の記憶から消え去らない。その少女をその後、城市で見かけたことはなかった。

Sunday, July 02, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


   城市 (4) 中

 東の空が群青色に深さを湛える頃、地上では夜明け前の大地からみるみるうちに霧が這い出し、それは生き物のように拡がり、辺りを覆い始める。あるいは霧はRavi河から流れて来るのか、Taxali門前の環状道路はいっとき灰色に靄り、視界を遮ってしまった。その靄の中からいきなり白い牛が現われる。見るとその肌がびっしょり濡れている。さらには馬の頸が靄の中からぬっと姿を現す。その背後から現われ出たのは荷馬車の御者だ。彼らのように夜明けと共に仕事に就く者は毛布を頭からひっ被り、手に白い息を吐きつけるが、霧に包まれて息とも霧とも見分けがつかない。しばらくしてようやく太陽が顔を出したのか、陽光が霧を射し抜くと、霧は追い払われるように、あたふたと逃げるように、中空へと上昇するので、辺りはうっすらと明るくなった。その際に霧は地上から水分を吸い上げ、それと同時に水分が熱を吸い上げるので、ひどく底冷えがする。陽が昇りきると大気は急激に熱せられ、すると中空の霧は渦巻くように、さらに上空へ昇るように地上から散じると、辺りは嘘のように晴れわたり、さらに底冷えがする。足下から冷気がからだを包み込む。その冷えた朝の空気がからだを包み、からだに沁み入るような感覚を私は今でも想い出すことがある。北陸の冬の晴れた朝にいきなりからだがLahoreの朝の感覚に包まれ、足下の感覚が冷気を包み込む。それだけで心ときめく感じがするのだ。冬のインド亜大陸の朝の<底冷え>感覚は特別な仕様でからだに記しづけられているようだ。
 夜明けと共にベッドから起き出し、霧が晴れないうちに部屋を出る。ロビーの床で頭から毛布を被って寝ているChowkidar(守衛)を起こし、玄関を開けさせ、ホテルを出る。「Jubilee Hotel」の看板を掲げているが、このホテルはつい最近建てられたばかりのようだ。アフガニスタン情勢が逼迫してパターン人が続々とLahoreに流れて来るので、おそらくパターン人用に新たな需要があり、慌ててつくられた宿だと思われる。見ると、ホテルの裏の部分はむきだしの鉄筋に煉瓦が積まれ、まだ建設途上にある。うっすらと霧がかかる環状道路を歩いてLohari門前まで新聞を買いに行く。今日はJum’aで、大通りには人も車もほとんど見かけない。馴染みの新聞屋はまだ新聞を用意していなかった。多くの店が閉まったままだが、飲食店はすでに開き、あるいは店開きの準備にかかっている。ことに若い衆がきびきびと立ち廻り、冷えた空気のせいもあるが、朝のLohari門周辺は昼間とは趣が異なり、引き締まった感じがする。霧が晴れ、ようやく新聞が来たので、地元紙の「Nawai Waqt」と「The Pakistan Times」を買う。Karachiが本社の「Dawn」はいつも遅れてやって来るようだ。ロビーに明りの点いたホテルに戻り、一階の食堂で新聞に目を通しながらNashta(朝食)をとる。「ターヒル Bhaiya(兄さん)!」と声をかけられ、給仕の少年Shahbazがポット・チャイを運んで来る。彼はパターン系で、年は十一、二才ぐらいか。肌の色が白く、端正な顔立ちで、笑顔が愛くるしい美少年だ。朝食に新聞に美少年の給仕、それだけで満ち足りた気分になる。
 ホテルを出てTaxali門から城市に入り、Jum’aで閑散とした街路を散策する。Chowkはクリケットに興じる少年たちに占領されている。Rang Mahalに出る前にRufeeqの茶屋に寄ってみることにする。朝からJabbarがいるのでSandha油について尋ねると、「ターヒル Ji(さん)、あれを精力剤だと言って売っているようだが、まやかしですよ」、と素っ気ない。来たる州議会選挙をめぐってRufeeqとの議論に忙しく、私は蚊帳の外だ。チャイを給仕する少年Jammuがもう店に出ている。Jamalという名前だが、Jammuはその愛称だ。彼はArainで、浅黒い肌をしている。まだ十才そこそこの年頃だろうか、ふっくらした顔に目鼻立ちがはっきりしている。睫毛が長く、目がくりくりとして可愛らしい。ふとその表情に愁いを含む陰のようなものが射すのを目にすることがある。と、それだけで美しいと思う。

「明日も<Geet Mala>を観に来るんだろう、Tahir」。Jum’aの礼拝の後、Khalidはいつものように声をかけてきた。昨日のことはもう忘れたのだろうか。Sutar Mandi ChowkにあるKhalidの家にはテレビがあり、土曜日になると学校から帰った午後の遅くから、Amritsarからの放送電波に合わせてインド映画のダイジェスト版を連ねた歌番組を観るのが常だった。「Geet Mala(歌謡シリーズ)」とはその番組の名前だ。
 少年は、明日の午後はKasmiri BazarにあるHakim(医師)の店に行って色々と尋ねてみようと思っていたところだった。Hakimはカシミール人だ。学識があり、何でも知っている。Delhi門を入ったところに小さな店を構えていて、店先の看板には、「どんな病もTibb-e-Yunani(ギリシア医学)で直します」と大書されていた。店頭の棚には様々な形状のガラス瓶が並び、背後の棚には革装丁の医学全集本がずらりと並んでいる。Sherbat(調合飲薬)が評判で、それを求めてよく客が来るようだった。その隣には冷えた水牛のミルクを専用のステンレス容器に入れて売る店があった。聞くところによれば、Hakimは気難しい人で、こんな話を聞かされたことがある。
Hakimは朝早くに店を開け、まず店の前の通りに水を撒き、それからSherbatの瓶や他の飲み薬を棚の決まったところに念入りに配置するような人だ。それから、店の座敷に置かれたクッションを覆うカバーの埃を丹念に払い、そうしてクッションに座り、『Tibb-e-Akbar(医学大全)』か、Avicennaの『Al Qanoon(医学典範)』やらの医学書を手にとるのさ。すると、Hakimはたちまち読書に熱中してしまうので、その日の最初の患者、あるいは客が来たのさえ気がつかないでいる。仕方がないから客は店の前でしばらく待って、それから声をかけなくっちゃあならないんだ。たとえば、『Hakimさん、白檀のSherbatを八アーナ(一アーナは1/16 ルピー)分いただけませんか』とな。でも、この声はかならず無視されてしまう。それで、客は何とかしてHakimに近づき、そのからだを手でゆするようにして、『Hakimさん、白檀のSherbatを八アーナ分いただけませんか』、そう声をかけるしかないってわけだ。するってえと、Hakimはようやく本から目を放し、客をいかにも不快であるといった目で見つめ、それから本をゆっくりと座敷の上に置き、うんざりしたような声でこう言うんだ。『みんな待つことさえ嫌なようだ。店は今開いたばかりなのにもう客が押し掛けて来るとはな。何と不愉快なことか…』ってな」。
 Khalidの方から先に声をかけられて、Tahirはちょっと躊躇した。
「明日は、ちょっと都合が悪いんだ」。
「何かわけがあるの。いつだって<Geet Mala>を観に来るじゃないか。昨日のこと、まだ気にしてるの」。
「気にしてないよ。ただ、ちょっと用があるんだ」。
「用って、何だよ。いつも何だって僕に話しているじゃないか」。
「実は、Kashmiri BazarHakimのところへ行って尋ねることがあるんだ」。
「それなら、僕もいっしょに行くよ」。
 昨夜、Tahirは<犠牲>とは何だろうかと考えながら、そんなことを考える自分がわけが分からないもののように感じられて、自分で自分の終始がつかなくなってしまった。こんな感じはKhalidに尋ねても分かることじゃない。それで、Hakimのところに行こうと決めたのだった。
 次の日の午後、学校が終わると二人はRang Mahalで待ち合せ、Kashmiri Bazarへ出かけて行った。
「<神は一方の手で根こそぎにし、一方の手で創造する>っていうよ」、そうKhalidがいわくありげに語りかけてくる。
「何、それ」。
「つねに気分を新たにする、ってことだよ。特に誰かと口論した後とかね。一方で古い自分を壊し、一方で新たな自分を見出すってことさ」。
「誰がそう言ったの」。
Bhulle Shahの師で、Shah Inayat Qadiriという人だ。彼はArainで、うちではみなこの言葉を金言にしているのさ。役に立つって言ってね」。
 Wazir Khanモスクを右手に通り過ぎて、Delhi門近くのHakimの店に辿り着くと、Hakimはクッションに身を沈めながら分厚い本の頁を繰っているところだった。二人が店の前で足をとめると、Hakimは何事かと本から目を放し、それから愛想の良い笑顔を少年たちに向かって浮かべてみせた。
Sandha油など何の役にも立ちはしない。そんなものを売るのはいかさま屋がやることだ」、Hakimは少年が尋ねるなり、そう吐き捨てた。
「じゃあ、あの生き物は何であんな目に遭うの。役に立たないって言うんなら、あの生き物が醜いからあんな目に遭うの」。
「神の前ではかたちの美しさも醜さもない。ただ内面の美しさと醜さの差異があるばかりだ」。
「じゃあ、あの生き物の内面が醜いってことなの。<内面>って何なの」。
「<内面>とは、外見からそこに何らかの深さが感じられるそのことだ。たとえば、夜明け前の東の空を見てごらん。もう闇ではない空の色に深さを感じるだろう。そのときは見えないが、空の遥か向こうから夜明けの光が射して、そう感じさせるのだ。<深さ>とは、いわばその距離のことだ。この喩えは<内面>を示しているとは言えないが、この喩えによって、少なくとも<内面>の美しさがどんなものかは推測できるだろう。<深さ>が感じられない者には<内面>の美しさがない。ただ動物については、外見からその<深さ>を推し量るのは難しい。いったいそんなことを知ってどうするのかね」。
「あの生き物があんな目に遭うなんて…。何かの<犠牲>になるんじゃなくて、ただあんな目に遭うだけだって言うのなら、天使はなぜ黙ってそれを見ているの。僕は声を、あの生き物の声を聴けばよかったんだ。もっとよく聴けばよかったって、そう思っているのだけれど…」。
「<犠牲>については慎重に考えないといけないな。今はどう言っても言葉が足りないだろう。人が神に<犠牲>を捧げるという考えがあるが、そればかりではないからだ。たとえば、母親は自分が生んだ子のために進んで<犠牲>になっている。神は人間を創造した。だから、神の方が人間のために進んで<犠牲>になっているとも考えられるからな。それで、お前は天使(Farishtah)がどうのこうのと言うが、天使については、その存在について考え廻らしても仕様がない。そうではなく、お前がそんなことを考えるっていうことに、そんなふうに考えているっていうことに、ひょっとして天使は関わっているかもしれないからな」。
 Tahirはそれ以上何も言えなかった。
「お前はたしか、Hasnain家の長男だったね。名はTahirと言ったか。お前の家はおじいさんの代に<Partition(印パ分離)>に遭って、Amritsarからこの城市に移って来たとお父さんから聞いているよ。1947年の九月のことだ。お前のお父さんがまだ子供の頃のことだよ。当時、Lahoreでは難民の家族は空家を見つけたらそれを無条件で取得することが出来た。城市の外にある、かつてヒンドゥー教徒やシーク教徒たちが住んでいた家屋は比較的良好な状態にあったが、城市内で空いていた家屋はどれもこれも屋根や壁が焼け落ちたような状態になっていた。ムスリムたちが寄って集って火を放ったからね。それでも、Hasnain家はMaya Bazarにある建物の最上階の部屋を見つけ、そこを家族のためのBarsati(雨風を凌ぐ場)とした。というのも、あそこからPaniwala Talabに出ればすぐにこのKashmiri Bazarに通じ、両親が何かとカシミールに縁があり、それを頼みにしていたからだと聞いている。ということは、お前とわしも浅からぬ縁があるということじゃ。天使(Malak)について考えるのなら、自身の<深さ>について考えるに越したことはない。また話を聴くから、いつでもいらっしゃい」。
 二人はもう明りがぽつぽつと灯り始めたKashmiri Bazarを歩き、家路についた。このBazarはいつも人通りがあって賑やかだが、明りが灯るとそれに加えて華やかさが増し、見違えるような場所になる。
Hakimはシーア派の人かい」。
「そうじゃないかな…」。
「天使についてああ言うことができるのは、きっとシーア派だよ」。
「ああ言うことって…」。
「人間にとって、天使が<能動知性(’Aql fa’al )>として働くと言ったのはAvicennaだ。ほら、本棚に『Al Qanoon』があったのを見ただろう。Avicennaはシーア派の人だ」。
「その<能動知性>というのは、内面の<深さ>っていうことに関係するの」。
「よく解らないけど…、Hakimが言う<深さ>とか<距離>というのは、神の<深さ>であり、神との<距離>ということじゃないかな…」。
 次のJum’aの日の午後、礼拝を済ますと少年は父親の用を言付かり、Rang Mahalに近いChabakswaran Bazarに一人で出かけて行った。Rang Mahalの店という店が閉まり、いつもの喧噪は失せ、辺りはひっそりとしていた。いつもと勝手が違うので、少年は一瞬別の場所へ迷い込んだような錯覚に襲われた。「ここは不思議なところだ」と思う。以前は毎朝ここからバスに乗って学校へ通っていたのに、今はその光景がまったく想い浮ばない。「ここには何かしら別の世界への通路が開けているかのようだ」、そう感じられてならなかった。Rang Mahalから東に入る小路に入ると、あまり来たことがないMohallahなのでさらに要領を得なくなった。ここら辺一帯はかつてMian KhanHaveliがあったところで、その広い敷地内にはムスリムの建てた幾つかの邸が城市に唯一遺っている、そうKhalidから聞いたことがある。見れば、立派な建物があちこちにあるのが分かる。今はこのMohallahに住んでいるのはパターン系の人が多いとも聞かされていた。そんなことを思いながら小路の奥へと進んで行くと、どうも道に迷ってしまったらしい。次々と現われる小さなChowkをどう行くのだったか、一つのChowkを曲がったのはいいが、そこから方向が分からなくなってしまった。今日はJum’aなので人通りも絶えている。少年は不安になり、立ち止まってしばし辺りを見回した。袋小路の奥に瀟洒な建物が見えた。行ってみると四階建てのお邸風の建物がある。各階に廂に欄干のついた出窓が設えられて、その突起の底が馬のかたちをした彫刻によって支えられているのが目についた。出窓の上には換気窓があり、そこには緑や赤、青の色ガラスが嵌め込まれていた。少年には珍しいものに見えた。各階から突き出た屋根の止まり木には明るい灰色をした鳩が群れていた。すると、その三階の一つの出窓の内扉が開かれ、中からいきなり月のように輝く女の子の顔が現れた。その突然の輝きに、一瞬少年は心臓が止まるような思いをした。女の子は窓の外へ首を伸ばすようにして、外の光景がどんなか窺うふうだ。ちょっと遠くの方に焦点を合わせるようにして見つめている。それから、ふと気を許した風にして今度は近辺を窺うように見やると、すぐに少年が見ているのに気づいたようだった。ちょっとびっくりした表情を見せた。それから、少年に何か声をかけようとしたのか、こちらに向かって前かがみになったので一房の髪が女の子の顔にかかった。少女がその髪をかきあげるのを少年はまじまじと見ることができた。美しい少女だった。けれどもその声は発せられることなく、なぜか少女はすぐに窓の奥に姿を消してしまった。しばらくして出窓の内扉が閉められ、それっきり少女は現われなかった。月のように肌が白く、天使のように美しい、少年はそう思った。その顔が輝くように見えたのは、きっとそれが少女の<内面>から現れているからだ、そう少年には感じられた。
 少年はそのまま為す術もなく袋小路を引き返し、幾つかの小路を辿り、何とかして人通りのあるBazarに出た。見れば、そこはWazir Khanモスクに通ずるChatti門のすぐ近くだった。手に持っていた、知人に返すよう父親に頼まれた書籍はそのままになってしまった。仕方がない。今日は素晴らしいものに巡り合ったから、父親に弁解でも何でもしよう。Asrのアザーンはとうに過ぎていた。少年は急いで家路についた。
 その後あの少女の姿を見ることはなかったが、その印象は強く少年の内部に刻み込まれた。あの天使のように美しい、月の顔をした女の子はその後どうしているだろうか。今あの女の子に街で偶然に出会ったら、自分はすぐに見分けられるだろうか。むろん、見分けられるだろう。というのも、「神は一方の手で根こそぎにし、一方の手で創造する」、これだと思い、少年は自分の内部で何か新たな力が働くのを感じていたからである。

 大英帝国行政官の要望を受けて、Lahoreの地誌を記したNoor Ahmad ChishtiによるTahqiqat-i-Chishti(チシュティ調査録)」(1864)は、Shah Husainを初めて「Madho Lal Husain」と呼んだ(記した)記録であるとされている。それまで、Shah Husainは「Lal Husain」と呼ばれ、そう記されていたようだ。この場合、「Lal」は「赤い」の意ではなく、「親愛なる」の意になるという。たとえば、他にもシンド地方の有名なスーフィー聖者、Lal Shahbaz Qalandar(11771274)の例がある。Chishti は、Madho Lal Husainの「Madho」は、Husainが「Madho」という名のブラフマンの少年を愛したことによってその名に付けられたのだといい、その詳細を記している。それによれば、あるとき街を行く馬上の美少年をHusainが一方的に見初め、幾多の試練と年月を経た果てに、晴れて共に行動をするようになったのだという。Husainの少年への気持ちは、たとえば次の詩の中に暗に示されている。
 夜が満ち、彼を待って立つにつれて私は夜と溶け合った
 RanjhaYogiになったその日以来、私は古い自己をほとんど失くし、どこに行っても人は私を狂人扱いした
 私の若い肉は、若い骨がぎしぎしと軋む頭蓋だけを残して、皺のうちに忍び込んだ
 愛の道を知るには私はあまりに若く、いまや夜が満ちて私は夜と溶け合った
 乞食僧Husainは、無情にも客との別れを主催する主人を演じている。
RanjhaYogiになったその日」というのは、「Heer Ranjha」の恋物語の主人公Ranjhaが愛するHeerに会いに行くためにYogiになる、という内容をふまえている。Husainは街で少年を見初めると、すぐさまRavi河を渡って、少年が住む竹薮生い茂る村を訪れに行ったという。たとえば彼の詩に、「私は独り、深い河の流れ/壊れかけた筏、野獣が岸辺をうろつく/夜毎の苦しみ、悶え苦しむ日々」とあるが、少年の姿を一目見ようと筏のようなものに乗ってRavi河を渡ったようだ。昼に少年の村を訪れ、その家の周囲を何度か廻るような行をし、夜になって街に戻る。そんなふうに筏で渡河し、村で苦行すること数年、その果てにHusainは、「夜が満ちて私は夜と溶け合った」、そう夜の感覚を言い表しているのではないだろうか。古い自己が失せ、夜の闇に自己が溶け込むほどの夜がそこに立ち現れている。夜に包み込まれ、夜を包む。それ自身において夜を巻き込み、夜に巻き込まれる。この夜の感覚は、ブラフマンの少年という別社会の人間を愛したということからすれば、イスラームやヒンドゥー教という信仰の区別を越えた、自然との融合感覚を讃えることの表明なのである。その自然との融合感覚に底知れない深さが感じられる。この自然との融合感覚があるからこそ、そのことが逆に彼の詩を、神との隔絶、孤立感を強調するものとしていると考えられるが、いっぽうでその隔絶感、孤立感が、おそらく大衆が共感できるような信仰心を紡ぎ出しているという特徴がある。どうもそういう仕掛けになっているようだ。ここには、北インドのヒンドゥー教世界に広まっていくイスラームの逆説的な面が現れているように思う。まず底知れぬ自然の深さとの一体感を示し、それを基にして唯一神との絶望的な距離感を訴え、その訴えにおいて信仰心を表明するがゆえに、ヒンドゥー教世界にあってHusainはその評判を獲得し、多くの信徒を従えるようになっていったのだと思われる。ヒンドゥー教徒はイスラームとは異なり、大地の力に繋がっているからである。その絆を断ち切るのは難しい。
 剃髪し、赤い長衣を着て(Yogiはサフラン色の布を纏う)、一方の手にはワイン、もう一方の手には土製の鉢を持ち、いささかの恐れもなくLahore城市の街路を歌い、踊り、信仰心を説いて歩く。自在なFaqirとして、Shah Husainはムスリムのみでなくヒンドゥー教徒にも崇敬されたという。ワインと少年愛は本来インド的なものではないが、それでも彼がイスラームの規則に縛られることなく、ブラフマンの少年と共に行動し、ヒンドゥー教の考えにも理解を示したから崇敬されたのである。むろん、そうすることが出来たのは時代状況にも因るだろう。Akbar帝の寛容な治世がそうすることを許したのであり、その時代にはインド全土で、イスラームとヒンドゥー教の区別なく神の愛に帰依するよう説くBhakti思想の展開がピークに達していた。
 その後、Madho少年はHusainの教えを受けるようになり、ムスリムの場に出入りし続けたことでバラモン社会から放逐され、いや応なくムスリムに改宗せざるを得なくなったようだ。二人は常に共に行動し、Madho Lal Husainという呼び名があるのは、彼らがいつもいっしょなので、Husainと Madhoを一人の人物として言い表すようになったからだといわれる。二人は「Madho Lal Husain」という名前のうちに溶け合い、一人の人物において語られることになったのである。Madhoの遺体は、Shah Husainの墓と並ぶようにして埋葬されている。
 Madhoはどんな美少年だったのか。「Tahqiqat-i-Chishti」にも、他の参考資料にも、Madhoがどんな容貌をして、どんな言葉を発したかといった記述はない。その人物像も一切わからない。「Madho Lal Husain」という一人の人物に一体化されたとはいうが、奇妙なことだ。ブラフマンであるから、端正なその顔立ちを勝手に想像する。肌は浅黒く、利発な感じの少年だったに違いない。そういう少年を実際に見かけるからである。いま、想い出した。少年ではなく、大学の寮の同じ棟にKarimという名の青年がいた。パンジャブ西部のSargodha出身で、たしか経営学を学んでいると言っていた。肌は浅黒いというよりは黒く、鼻腔が高く、目鼻立ちがくっきりとした美青年で、肌の色が黒いその分、眼の輝きが際立っていた。一見して理知的な趣があった。が、彼の場合、その理知的な趣がとかく冷徹なものへと変貌することがあった。おそらく内部の神経配列の変化があって、そうさせるのだろう。さらには何かの拍子に眼光が異様に鋭くなると、獣のような雰囲気を醸し出すこともあった。思うに彼はかつて美少年であったにちがいない。しかし、青年期にかかるにつれて心身に急激な変化が起きていたのだろう。内なる情動があらわになる瞬間を公然と、何の抑制もなく表すことができたのである。サンスクリット語に「Vratya」という語がある。本来は、果たすべき儀礼を行なわないために上層階級から脱落した者を意味するが、一般には「退廃・堕落した者」とも訳される。その意味の次元は異なるが、Karimの内部で起こっている変化にこの語が当てはまるように思えてならない。どんな美少年も放っておけば退廃するのである。Madhoはブラフマンであり、Husainと共に行動するようになっても、その信仰心によって退廃への変化を免れていたにちがいない。信仰心が内部の壁を装飾し、Karimが襲われるようなような情動を抑えることができたにちがいない。さらには内部の装飾が外部である壁の崩壊を防ぎ、表情の堕落をも防いでいたかもしれない。もしそうでなかったら、美少年といえどもその相貌に内なる退廃のすべてが現れて来る。この地では、厳しい自然環境がいや応なく人の相貌を変えてしまうからだ。とはいえ、環境は外的なもの、いわば形態的なものに影響を与えはするが、翻って内部の壁を装飾することで自然環境に抵抗する者もいる。たとえば、Pehlwanの中には無垢な表情を保っている者もいる。
 一般に、パンジャブ地方の少年の成長は速い。少年は否応なく成長し、何の抗することなく、内部の情動を際限のないものにしていくようだ。それだから、成長とは別に保たれるはずの<若さ>に留まることがない。ことに街を徘徊する少年や露店で店番をするような少年は学校に行かず、その時間をつねに大人たちを相手にして過ごしているからだろうか、ちょっと見ぬ間に大人の顔つきになっている。たとえば、Rufeeqの茶屋を給仕する少年Jammuも、一夏過ぎるとずいぶん顔つきが変わり、さらにはこんなに早く大人の表情を学びとるものかと驚いたものだ。その内部の神経配列はどのようにして組み立てられていくのか。十才そこそこの表情に官能の雲が漂う、そんな神経配列が見えたかと思うと、すぐさまそれに身振りがついてくる。その瞬間を目の当たりにして、私の心は痛むばかりだ。むろん、Jammu 自身にはその身振りの意味は解っているはずがない。私の方が、Data Ganjの参道で踊る少年たちを連想するからである。Jammuは学校には行かず、Madrassahに行っているという話を聞いた。
 街を徘徊する少年たちはつねに何かを企んでいるかのように見える。その表情の奥には何か否応なしに成長するものがあって、それが外面とは裏腹に大きく成長し、少年たちは一見それを隠しているように見えながら、実はそれに従っているのだ。自分の物であるからだがただあると知ってはいるが、その物は単なる物ではないことも知っている。そうした居心地の悪さを抱えるからだをつねにもてあましているのか、彼らはべたべたと擦り寄るようにして異邦人である私に近づき、私を標的にすることがある。また想い出した。今度は質の悪い想い出だ。「ときに想い出すと、頬の一点が熱病にうなされるがごとくひくひくと痙攣する。あの若者の指先がつねった頬、そのことを想い起こしただけで目が眩みそうになる。つやつやと黒光りする美声年、端正な顔立ちに蛇のように冷たい肌、その感触に頬の神経が勝手にざわめきはじめる。肉厚の唇が薄桃色にめらめらとほのめく、あの下素野郎。野生の瞳をぎらつかせた美しき野郎。三文の値打ちもないその頭蓋の中身。下品で野卑で汚らしい、愚鈍な腐敗物。美しい肉。想い起こすだけで身体の芯までめまぐるしくざわめく、あの下素野郎。汚臭を匂わせたままの、怠惰で熟れた美声年。その艶かしさ、その冷たい指の感触。冷たいながらもその感触はさながら焼鏝が頬に押されたごとく、もうこの頬の刻印は消えることがない。わけの解らぬ暗い炎、めらめらと燃える悪のような振舞い。一閃された頬のその暗く燃える部分を凝視するのに私は耐えられない。その暗い深淵を覗こうとするだけで頭の中が張り裂けそうになる」。相手の指先の冷たい感触がこちらの神経に熱を帯びさせるというのは、思えば奇妙な感覚だ。何から何まで敏感になっている。過剰な自然と過剰な情動をつねに相手にしているせいで、神経ばかりが過敏になっているのだろう。
 いっぽう、Jubilee Hotelの給仕をしているShahbazは礼儀をわきまえた少年だ。自分はパンジャブの人間とは違うという意識があるのか、彼はパンジャブの少年とは交わらないようにしているようだ。パターン人はパンジャブ人とは異なり、成長しても端正な顔立ちとその表情を保持し続けているようにみえる。Shahbazも体型的に成長してはいるが、その愛くるしさには変化が見られない。彼の背後には酷暑のパンジャブ平原ではなく、遥か西方の高原世界が広がっているからだろうか。そんな高原世界の涼しげな表情を、天使のような涼しげな表情を、彼はいつまでも保っているように見える。北インドにもともと天使の概念はなく、それはイラン方面からやって来たのである。

 学校へ行くにはまずRang Mahalへ行き、そこから市営バスに乗ってUrdu Bazarで降りた。Urdu Bazarを通り抜ければ学校はすぐそこだ。Khalid Aslamと友達になってからは歩いて学校に通うことにした。彼の親父さんはSutar Mandi Bazarに仕立て屋(Darzi)の店を持っている。そこで何人かの職人を雇っているのだ。少年はMaya Bazar からGumti Bazarに出て、それからGumti BazarChowkを真直ぐに進んでSutar Mandi Bazarに出る。それからSutar Mandi ChowkにあるKhalidの家に寄ると、KhalidといっしょにLohari門を通り抜け、環状道路を渡ってMori門の向かいにあるUrdu Bazarに入る。あるいは、Khalidの家からPir Bhola Streetを通ってAwami Bazarにまず出て、Ranjit Singhの孫の名にちなんだHaveli Nau Nahalへと通ずる小路を通り、そこからMori Galli Bazarを通ってUrdu Bazarの向かい側のMori門に出る。Muslim Model SchoolUrdu Bazarの西端にあった。その間、およそ一キロを越える距離を少年は歩いて学校に通っていた。
 少年は七時に家を出て、七時半には学校に着いた。その前に、六時に家を出て、Maya Bazarに行ってDahi(ヨーグルト)Kulcha(バター入りパン)Channay(ヒヨコ豆のカリー)の朝食を取って来なければならなかった。朝食を用意するその店先はいつも早朝から顧客でいっぱいになっていた。それから朝食を家に持って帰り、七時に家を出ることができるように食べ終えるのだった。そして、二時頃に学校が終わり、途中までKhalidといっしょに歩いて家に帰ると、冬期には時折、両親が「Bare Mian(お大尽)」と呼ぶ、ウルドゥー語を話す年配の紳士が経営する「Tandoor(窯屋)」へ、母親が用意した捏ねたパン生地を持って行くことがある。そこでチャパティーを美味しく焼いてもらうためだ。ふつうは、母親が用意したパン生地で十枚から十二枚のチャパティーを受け取った。時には、「Tandoori Paratha(バターを表面に塗って焼いたチャパティー状のパン)」をつくるためのGhee(バター)もいっしょに持って行った。それは熱いうちに食べたなら、少年が知るかぎり最も美味しいParathaだった。
 少年は、肉や野菜、氷や他の品物を買いに、Gumti Bazarの店に頻繁に行った。野菜はいつもBilluの店で買った。BilluとはBilwarという名の商店主の愛称だが、彼は印パ分離以前に、少年の父親家族が住んでいたAmritsarの家の近くのKatra(市場)で同じような店をやっていたのである。ある日、父が店の傍を通ってBilluを認めたのだった。Gumti Bazarにある少年のお気に入りの食料品店は、太ったカシミール人兄弟がやっている「Moton ki Dukan(太っちょの店)」だ。とても公正な店だったからである。夏になると、その兄弟はLungi(腰布)以外に何も着ていず、Lungiを下にずり下ろしてそこから太っ腹の肉を垂らしていた。そこではミルクやDahiも売っていた。
 父親の話によれば、1947年のLahoreは今のLahoreとはまったく違っていたという。Amritsarから逃れて来た家族がLahore駅に着くと、「Muslim League(ムスリム連盟)のボランティアが難民をプラットフォームで出迎えていた。そこには難民のために大量の食料も用意されていた。難民たちは駅の正門からではなく、横門から出るよう指図された。何故なのか聞くと、シーク教徒が、駅南方のShaheed Ganjから難民を狙撃するからだという。自分たちはDogra(シーク教徒の一部族)の民兵が侵入して来たAmritsarから逃れてLahoreにやって来たのに、ここでも敵から逃れることはできないのか、そう幼いながらも父親は思ったという。そのとき、Lahore駅の外に死体が二つ転がっているのを見たという。当時はそうした光景が日常的だった。今は駅前にたくさんのホテルが建っているが、当時は空地で、一方には移動式の床屋がせっせと働き、他方には簡素な茶屋や食べ物屋があって活気があった。またベッドや寝具一式を貸す店があり、夜になると家のない者たちで駅前の道路は占領されてしまったという。
Lahoreにやって来た頃はよくLahoreの街を歩いたものだ。街がどんなか知りたかったからね。ある日、Lohari門から城市を出て、Anarkali Bazarの小路に入ったところで、木陰に座ってグアバを売る若い男を見かけた。その顔に見覚えがあった。AmritsarBazarでよく果物を売っていた男だ。彼は果物を売るために色々と新工夫をして商売をしていたが、そのときは、緑や黄色、ほんのり赤いグアバを山と積んだ籠があって、それがなぜかクリスマス・ツリーのようなかたちに盛られていたよ。彼の手元にはAmritsarでも見た一匹の鸚鵡がいて、グアバをかじって食べていた。私は、この鸚鵡はAmritsarにいたのと同じ鸚鵡なのか、それともLahoreで新たに買い求めたのか尋ねてみた。彼はにやりと笑みを浮かべ、Amritsarにいたのと同じ鸚鵡だと答えた。自分が住んでいた区域がシーク教徒に襲撃されたとき、鸚鵡を放す前に、国境を越えてLahore駅まで飛んで来るよう教え込んだのだと言う。『Amritsarから何とかLahore駅まで逃げて来て、駅の外で途方に暮れて立っていました。すると、そこに一羽の鸚鵡が樹上から飛んで来て、私の肩にとまったんです。いいですか、これは本当の話なんですよ。信じてください。だからこれはAmritsarの鸚鵡なんです』、そう彼は言ってのけたよ」。
 祖父は、生涯早起きを通した人だったという。祖父はAmritsarではよく近辺のモスクに行って沐浴していたらしい。その日課を同じようにLahoreでも始めたようだ。Maya BazarからChatta Bazarに出る側のGujjar Galliにも小さなモスクがあり、そのモスクには井戸があり、そこには手動で水を汲むポンプもあった。
「父はいつもFazrのアザーンの前に起きて、私を沐浴させるためモスクへ連れて行ったよ。モスクにはシャワー室があり、その脇に小さな水タンクがあり、その六フィートぐらいの高さのところに蛇口があった。タンクはシャワー質の外側からも利用できるようになっていて、井戸から水を汲んで来てタンクに満たすことができた。父は、<Boka(革製のバケツ)>に水を汲んでタンクを満たし、私を沐浴させた。それからまた水を汲んでタンクを満たして自分が沐浴したが、今度は私が木箱に上がってタンクを水で補給する番だった。夏の間は午前四時頃に礼拝があるので、私と父は、その前の午前三時頃にはモスクに出かけなければならなかったよ」。
「当時は陽が出ると共に起き、陽が沈むと共に眠るというのが普通だった。冷蔵庫や電気器具がないので、一日中、家の様々な雑用があって忙しかった。<Barsati>に住んだ最初の二年間は、建物の最上階には電気が来ていなかった。電気のない生活は、1960年代には珍しいことではなかったんだ。最上階の部屋で夏は暑かった。実に暑かった…。二年目の夏に、セールスマンの職を得ていた父は、水クーラー(「Khas ki Tatti」と言う。乾燥させたある種の草(Khas)のスクリーン(Tatti)に水をかけて使う)を二つ買って来て、それを部屋にある二つの窓に吊り下げた。それに水を入れると、天国のような涼風が沁み出て来たのを私は覚えているよ。やっと電気が通ったとき、父は<Muhammad Din Sons>製の扇風機を買って来た。父はまたドイツ製のAM/SWラジオも買って来た。夕方にはラジオをセイロン局に合わせ、みなで「Geet Mala」や、Ashfaq Ahmadの脚本による対話ドラマ・シリーズ「Talqeen Shah」を聴いたよ。楽しかったな。現在の住まいは、私が結婚するときになって階下の部屋を新装してそこに移り、そのとき以来構えることになったものさ」。
Wazir Khan ChowkからDabbi Bazaarの方へ行くと、当時はまだムガール時代に遡るような建物があり、その一階部分はどこも商店になっていた。そこでは黒色の房がついたトルコ帽(Rumi帽)だけでなく、Dhussaと呼ばれる見事なカシミール製ショールも買うことができた。子供の頃、父といっしょに出かけると、父がそこでRumi帽をよく買っていたのを覚えているよ
 祖父は1975年の八月に亡くなった。心臓が悪かったと聞いている。70才だった。もう一度Amritsarの街を歩きたいというのが口癖だったが、とうとうその夢を果たせなかった。父は、最近テレビでイスラームの教えを厳格に説く者がいるようだが、あれは災いの種だと言う。
 父親の話を聞いて、少年は時々過去に想いを馳せることがある。色々な出来事があって、その積み重ねの上に現在があり、それに加えて、現在まで失われずに連綿と連なるものもある。歴史とはそういうものだ。それに比べたら、あの女の子はどうだ。あの天使のような女の子はいきなり自分の目の前に現れ、何かしら新たなものを創造するよう自分に要請しているかのようではないか。こんなことが起きるなんて、少年にはその出来事が自分にだけの特異なもののように思われた。これはどういうことなのだろう。色々な出来事の積み重ねとは異なるもう一つの世界、もう一つ別の連なりというものがあるのだろうか。歴史とは異なる別の流れがあるのだろうか。公然と話したり話されたりすることなく、隠され続けているものがあるのだろうか。でも、お父さんと違って、お母さんはなぜ自分のことを話さないのだろう。お母さんは僕のために<犠牲>になっているのだろうか。それに、Khalidが言う<能動知性>とは何のことだろう。