Tuesday, January 30, 2018

Lahore日記 The Diary on Lahore


   城市 (6)


 1960年代から始まる<ヒッピー現象>は欧米の若者たちを続々とインドへと向かわせ、パキスタンは彼らが西から東へと移動する際の通過地点となった。<ヒッピー現象>が退潮し、アジアのイスラーム諸国においてにわかに政治転換が起きる1970年代の終わりになっても、その影響はパキスタンの諸都市にまだ残っていたようだ。Karachi Peshawarといった都市がそうである。ホテル・スタッフが外国人旅行者に慣れており、近辺には洋風メニューを掲げるいかにもチープな感じのレストランがあった。小路を歩けばマリファナ売人が擦り寄って来ては声をかけ、断れば「チェンジ・マネー」と耳元で囁きかける。同様に、RawalpindiMultanといった中都市に滞在した際にも、そこに何かしらの影響があったことが知れた。ところが、Lahoreにはそうした影響がいっさい見られない。Lahore人はヒッピー風の旅行者をどこか冷ややかな目で見ていたようだ。当時はまだ、駅前広場に沿った通りに路上で木製ベッドを貸すだけの昔ながらの簡易宿が二、三軒あり、そこでヒッピー風の若い欧米人カップルを見かけたことがあった。おそらくその日にLahoreに着いて、翌朝にはもう国境の町Wagahへ向かうのだろう。警戒心によるものと思われるが、「ナチュラルな」その風体を寒々と感じさせるほど緊張した雰囲気を漂わせていた。私は毎日のように城市に通い詰めたが、そこで欧米人の旅行者に出くわしたことがない。城市は歴史遺産というよりは、古くから人が棲み続ける生活圏として、当然ながら外部の者には無愛想な相貌を見せていた。迷路のように入り組んだ小路に足を踏み入れればいたるところで時間の闇のようなものがほころび顕われ、「いま・ここ」を謳歌するヒッピーには無縁の場所であったように思う。他にもFaisalabadHyderabadといった中都市に滞在した際にも影響は見られなかった。Faisalabad は繊維産業の街として近代的に整備されていたが、いっぽうのHyderabadはシンド地方の旧都で、城塞と共にOld City(城市)が遺る。近辺には名高い聖者廟もあり、私には魅力的な場所だった。しかし、両都市共に、人々は異邦人にそっけなかった。
 陸路でインドへ入るには誰しもが必ずLahoreを通過しなければならない。それだけに、バックパッカーにはすこぶる悪名高い街としてLahoreは知られていた。たとえば、チープ・ホテルでドラッグ入りチャイをそれと知らずに飲まされ、うっかり眠りに落ちた隙に金品を盗まれるといった被害が頻発していたようだ。警察に訴えても何も対処しない。それどころか、かえって賄賂を要求されるだけだ。私はインド旅行中にその情報を耳にしたのだが、そんな<悪徳の街>を形容して、ある欧米人旅行者が私に言い放った。「Lahoreに住んでるって。さっさと通り過ぎるだけの場所なのに…。あそこといったら腐った果実の匂いが服についてとれない、そんな風な街だったぜ」と。私はそんな街で二年間暮らしたのだ。それで、今でも腐った果実の匂いのようなものがからだに染み付いたきり離れない。たった二年間という時間がからだに染み付いて、今でもその記憶が燻らす匂いにしばし陶然となり、つい身を竦ませることさえある。
 現在はLahore城市を歴史遺産と考え、その保存を声高に主張する知識人が少なからずいる。最近、<Agha Khan基金>によってDelhi門が修復され、Delhi門を通り抜けて門に隣接するようにしてあった<Shahi Hammam(王の浴場)>も見事に復元されたようだ。Wazir Khan モスクの壁面を飾るタイル画も全面的に修復された。どれも大規模な工事である。将来は、Delhi門からKashmir Bazarを通り、Lahore城塞へと通ずるMastiまで続く<Shahi Guzargah(王の通路)とその隣接するエリアを整備し、ムガール朝の歴史遺産を観光用に供するプランが立ち上げられている。それはそれで時代の流れに沿う事業であるのにちがいない。けれども、景観を観光用に整備することでかえって失われるものがある。修復はあくまでも修復であって、そこに実現された見栄えの良いものは歴史から逸脱している。そこには現代人による解釈とその具体化としてのイメージ世界が提供されるだけだ。それは往時のものに似せているだけで、往時のものではないからである。往時のものとして示しながら実はそうではないといった錯誤の光があてられることで歴史から逸脱し、歴史という時間の層に沈殿していた影のようなものを永久に見えなくさせてしまうのである。

 とはいえ、そんなことを言っていられない状況がある。現在のLahore城市は資本の強欲の餌食になっているようだ。土地マフィアに狙われ、その<悪徳>じみた手法によって街の環境と景観がいっきに変貌している。奴らは歴史はおろか、観光政策になど目もくれない。どれほど深刻な状況かといえば、「良くなる以前にむしろますます悪くなっている」のだという。そう訴える、<Dawn>記者Intikhab Hanifの記事をここで簡約して引用しておきたい。
「歴史的なLahore城市が、市当局や市民の無関心のせいで、構造的かつ伝統的に受け継がれてきたその個性を今や急速に失い、その存在が危ぶまれている。非の打ちどころのない街設計やその公共設備によってかつて暮らし易い地区の一つとして知られていたのが、今や多くの問題が横行する事態となっている。土地横領屋、土地不法占拠者、麻薬密売人、銃器密輸人者といった連中が何の恐れもなく仕事をし、住民はといえば街がますます不衛生になっていくのを見過ごしているだけだ。最新の問題は強盗事件の増加で、かつては安全だった居住域を危険な場所にしている。城市は事実上、迷路の如き小路に逃げ込む犯罪者にとって恰好の避難場所になっている。城市に通ずる十三の門はみなその骨格を失うか、もしくは損壊し、もはや歴史的城市への入口としてのアウラを生み出していない。街路もあちこちで損壊し、明りは灯らず、薄汚いままになっている。Mohallahはといえば、土地と金とガードマンの力で支配する強欲者たちのマーケットと化している。彼らの言葉が法となり、それに抵抗するのは住民にとって不可能だ。
 (かつての赤線地帯である)Hira Mandiでさえ一種独特のその性格を失ってしまった。踊り娘たちは新たな場所へその仕事場を移し、替わりに靴職人やHijra、薬物中毒者といった連中が入り込んで建物を占領し、その雰囲気を一変させてしまったのである。かつて賑わった食堂も、街のいたるところに出来た新しい直販店に顧客をとられて店を閉めている。城市は支配者が城塞に居住していた時期には繁栄したが、今や城塞は人気のない場所になっている。古くからの住民は城市の外に転居し、その跡には廃品投棄場が残るばかりだ。かつて城市に住んでいたLahore人の中にはBasant(春祭)にやって来ては昔を懐かしく想い出している者もいるが、すぐに彼らは新しい居場所に戻って行ってしまう。
 不法占拠は城市に横行する大きな問題である。前のパンジャブ州知事Shahbaz Sharifが罰を重くして不法占拠を取り締まる法律をつくり、軍の手まで借りてあらゆる種類の不法建築物を撤去したときに問題は一時的に軽減したが、今や不法占拠者はSharifの<浄化作戦>に報復するかのように、小路やBazarの通りを商品で塞いでいる。店主の誰もが店の前を拡張して使用し、そこに商品を置くのを権利とみなしている。そのため狭い小路が通行できなくなっている。住民は不法占拠するその規模によって業者の影響力を判断せざるを得ない。市当局にいくら訴えても聞き入れられないので、不法占拠を続けることが不平を黙らせてしまっている。市は<不法占拠対策部門>を永久に閉ざしてしまったかのようだ。
 深刻な問題は、一つのMohallah全体が無計画なマーケットに呑み込まれてしまうのではないかというものである。住民の抵抗を強行に排除する手段をもつ土地マフィアたちが幅をきかせているからである。最も影響を受けているのはShah Alami Market周辺とAzam Cloth Market地区で、その一帯では強欲が最大限に支配している。Shah Alami Marketを支配するのは様々な有力者たちであるが、Azam Cloth Market一帯を支配するのは、Sheranwala門周辺にたむろする暴力団まがいの者たちである。彼らの手口は単純だ。家の居住者にメッセージを送りつけ、一方的に提示する金額で家を売るよう迫るのである。そのメッセージが脅かしとなり、必要な事を運ぶことになる。抵抗しようとする者は防御ための手段がすでになくなっていることを知るだけだ。一つの地域の土地家屋が罠や詐欺まがいの行為によって騙し取られるや、そこら辺一帯の建物は壊され、その跡に二、三階の地下室がある多層階ビルが建てられ、億単位の金を扱うビジネス・センターに変貌する。
 Ayub Khanの時代(19581969)に、Shah Alami門を入ったところに新装の商店街が設けられたが、今やその商店街は先端を蛸のように隣接する街路に拡げている。Papar MandiPari MahalRang MahalNoor Gali、そしてGujjar Galiまでもが商店街の一部となった。Azam Cloth Market一帯の商店街もそれに倣ったかのように、Haveli Kabuli MallChoona Mandiまで、果てはKashmiri門やSheranwala門内側のSatt Garraにまで拡げている。Masti門内側のMoti Bazarは靴と靴用品を扱う最大のマーケットと化した。この靴マーケットはMian Yousaf SalahuddinHaveliにまで拡がっている。Shah Alami Marketにあったもともとの靴市場は、印パ分離前までは伝統的ヒンドゥー教徒地区だったWacchowali Bazarにまで達している。Kashmiri Bazarはおそらく本来のかたちをいまだに遺している城市唯一の商店街であるが、このBazarも密集、不衛生、不法占拠、不法な改築といった独自の問題を抱えている。Lohari門やBhati門、それにMori門の内側にある家屋という家屋はノート製造所や靴製造所になってしまった。そこでは城市の外から通って来る労働者たちが荷車で物品を大量に搬送するので、住民に多大な不便を余儀なくさせている。
 かつては城市内に井戸やゴミ置場がいたるところに設備されていたが、そうした設備は水道での飲料水供給やゴミ収集車によるゴミ回収によって不要になった。それが今は地方政府職員の黙認によって土地横領屋が不法に占拠している。遺憾なのは、城市の長い歴史を語り継いできた井戸の取り壊しが許可されてきたことである。また城市には多くの歴史的なモスクがあり、<宗教局>が所有し、その責任を負っているが、彼らはその役目を忘れてしまったかのようだ。Kashmiri Bazar にあるSonehriモスクは、なすがままに放置されてきたモスクの一つである。モスクへの階段は行商人に占拠され、Kashmiri Bazarに面する側は無数の業者が不法占拠し、そのためモスクの入口がまったく見えなくなっている。Wazir Khanモスクは現在修復中だが、その周辺は不法占拠されたままである。Kashmiri Bazarに面する側にはいくつもの売店が立ち並び、その小屋という小屋がモスクの眺めを遮っている。<ヒンドゥー教局>に属する土地や建物の状況は最悪である。Rang MahalにあるBauli Bagh(庭園)は不法占拠建造物で取り囲まれて見えなくなっているし、Wacchowali Bazarにある古風な家屋は屋根が崩れ落ちるか、もしくは新しい店に変わっている。Suha Bazarにあるヒンドゥー寺院は最近になって壊され、人々の抗議にもかかわらずその跡に商業ビルを建設中だ。
 Sheranwala門とMasti門の間に拡がる公園には、かつて城市の境界を示し、その歴史を物語る城壁の跡が遺っていた。今はないが、それはかつて城市防備のために築かれた城壁の貴重な痕跡である。ところが、それさえも有力な土地マフィアの餌食にかかり、住民の反対にもかかわらず商業ビルの建設を容易にするために根こそぎ壊されようとしている。城市の門という門は修復が必要なほど崩れ、その近辺の大きな家屋は業者のための駐車場と化している。Mian Yousaf SalahuddinHaveli近くにある映画館<City>や、Haji Maqsood Buttが住むSaid Mitha Bazarのマンション近くにあるHaveliも壊され、いつのまにか駐車場になっている。かつては城市の美と謳われた<環状公園(城壁に沿ってかつて堀があったのが、大英帝国がそれを埋めたことによりできた空地)>もまた不法占拠者によって荒廃してしまった。Lohari門とMori門の間に拡がる環状公園は土地横領のはなはだしい事例である。環状道路に面した外側の境界には薬問屋の店が建ち並び、公園の中はといえば家屋や窯まで建てられている。伝統的なAkhara(レスリング場)でさえ周囲に壁を設けて境界とし、私的な所有物であるかのように見える。こうした場所を管理している者には法が及ばないとみえる。
 環状公園の簒奪は、およそ五十年前にあるPehalwan(レスラー)Lohari門の外にレストランを建てたのが始まりである。その後すぐに、Shah Alami門側に隣接したところにモスクが建てられた。レストランに反対する者の声を抑えようとしたのである。モスクの地上階には店が設けられ、贔屓の者に与えられた。内部には何台かの印刷機が置かれ、それもまたPehalwanの贔屓の者が所有している。Zia’ul Haqの時代(19771988)には、Anarkali Bazarの行商人にShah Alami門近くの環状公園に設けられた店が与えられ、さらにはData Ganjの聖廟を拡長するために周囲の住居を取壊す際に、Bhati門の外に当の住民たちに家が与えられた。そのため、Bhati門からMori門にかけての公園の眺めは塞がれてしまった。またYakki門の前の環状公園にも市当局によって行商人のために店が建てられた。Bhati門からTaxali門にかけて環状公園だったところにはすでに学校や役所の建物等があるが、取り残された空間はそのまま放置され、薄汚くて何の役にも立たない場所と化している。Kashmir門からSheranwala門の間に拡がる環状公園はかつて公衆のためにきちんと整備されていたのが、いつのまにかPehalwanがそこに巨大なモスクを建ててしまった。環状公園はのきなみ汚れ、夜でさえ車の通行によって塞がれ、通勤者が通るのを困難にしている。Akbari門の外側にあるトラック・スタンドは不愉快このうえない。通りを塞がれ、車が通るのさえ不可能にしているからだ。Tonga(乗合馬車)がかつては主要な公共交通機関であった。しかし、今ではオート・リキシャに取って代わられ、大気汚染と騒音の大きな原因となっている」(Getting worse before it gets better2007/1/4)
 これが、私がここまで語ってきた城市の現状である。マーケットの駐車場や行商店舗の乱立によって城市周域のいたるところで境界がなくなり、城市は内部から崩壊している。というか、溶解している。武力でなく、資本の力によってその境界を失い、境界を失うことで外部と繋がり、外部に曝され、やがて城市は「真っ平ら」になっていくのだろう。しかし、そんなことに誰が構うだろうか。多くの人はただ日々の変化について行こうとするだけで精一杯の暮らしをしているのだから。

 私はといえば、城市を離れて久しぶりに訪れてみたらそこは随分と変わってしまったというような、よくある状況に打ちひしがれている。ネットでKashmiri Bazar沿いに建てられた商業センター・ビルの画像を見たが、ショー・ウィンドウに派手な電飾がきらびやかに映え、私が想起する城市にはそぐわぬ光景だ。その場所にかつて何があったのか想い出すことさえできない。総じて、城市では過去を想起するつてとなるような対象がいっきに失われつつあるようだ。そんなことは世界のどの都市にでも起きている現象だ、いちいちそんなことに構っていられないだろう、というのが一般的な考えにちがいない。現代の都市は古い衣装を脱ぎ捨てて新たな衣装を身に纏い、その姿を変貌させている。変化することがいつの時代においても都市というものの性格だった。とはいえ、Lahore城市は一千年にわたる城壁都市だ。一千年の間、幾度も外部から襲撃を受けながらも城市としてのかたちを保持してきたのである。だから、その境界が現代において溶解するという事態には、現代という時代の方にその原因があると考えなければいけない。いったん過去を失ってしまえば未来も見えなくなる。過去も未来も見ないとなれば、そこには薄っぺらな現在が残るだけだ。その現在には<時間>が流れない。現代とはそういう時代なのかもしれない。それも私たちが直面している深刻な問題の一つである。しかし、それよりも私には目前に抱えている問題がある、というか表現の主題を抱えている。かつて城市で時間を過ごし、その匂いを染み付かせたからだが自ずと燻らすような想起のその対象がなくなりつつあり、それでもからだが想起するその作用自体は作動するとき、その想起の作用はどこへ向かおうとするのかということに関わるものだ。その作用にはどこにも行き場がない。とすれば、想起の行き場のないからだが無惨にも目前に立ち現われるばかりなのだろうか。ふつうは行き場のない想起は無意識の内にからだに(神経に)折り畳まれ、それが夢として新たに展開されるものだ。夢という線を選ぶようにして想起の作用が意識上に現われてくる。が、その選択自体は無意識的な作用である。そうではなく、意識作用が強引に舵を切るようにして、新たな想起の線を生み出すこともあり得るだろう。たとえば、幼児の記憶がどこにも行き場がなくなり、あたかも「行ったきり戻らない足」として、からだに(神経アレンジメントとして)規定し直される現象もあるからだ。それゆえ、想起の切断そのことが、その切断面に新たな想起の線を生み出すということもあるはずだと考える。
 ここまで現在という地点から、私が過したLahoreにおける過去の時間を振り返ってきた。おおよそ四十年前のことである。四十年といってもあっという間の時間ではあるが、一人の人間が振り返るには長いというか、遠い時間でもある。初老の男が青年期を振り返ることになるからである。つまり、身体的にも精神的にも格段の差がある現在と過去の間に視線を行き交わせようとするからである。その際に、「振り返る」というのは、ふつうは現在という地点からしかできない仕方である。つまり、過去から現在へと視線を向けることはできないとされる。けれども、もしや過去の神経配列が現在に至ってもからだに遺っていたとして、その神経配列が現在に向けてよみがえるという場合もあるだろう。その場合、そうした現象がそれなりに新たな想起の線を生み出すこともあるのではないか。そうとはいえ、その場合でさえも、現在のからだに起きることであるから、現在における視線が生むものであるということに変わりはないといえば、そういうことになるだろう。したがって、むしろ現在という地点にはそうした現象も含めて多様な視線が生まれる余地があるということになる。だから、そのことに注意を向ける必要があると思う。
 城市の内部はもともと、どこが始まりでどこが終わりか分からないといった雑多な方途を基に成り立っていた。無計画にというか、雨水の流れに沿って自ずとできた街路、街路と街路を短絡させるようにして通じる小路、小路は地形に従って上下し、また曲がりくねり、そこから地下茎のような夥しい脇道を生み出し、そのいくつかは袋小路となる。こうした街路、小路、脇道、袋小路こそが城市の成長してきたプロセスを表している。小路の複合で成り立つ城市には、昔から市場の空間以外の空地はほとんどなかったようだ。街路と街路が交叉するところにできたChowkは必ず市場空間となり、仮に空地があればそこには家屋が建ち、その周囲は小路となった。城市の家屋のほとんどは大きいものではない。が、その多層階の建物の内部にはたくさんの部屋がある。狭い土地に多層階の建物がひしめくようにして立ち、その中にはいくつもの部屋がつくられている。それゆえ窓は限られ、部屋の中に自然光が入ることはほとんどない。いっぽう、小路も市場も家屋内の中庭も含めて、その足下を見ればどこであろうと地肌はすでに覆われている。その下には過去の遺物が底なしに埋まっているばかりなのだ。家屋の中には明らかに無許可で、石工や大工やそこに住む者の気紛れか、もしくは切羽詰まったようにして建てられた無秩序な様を呈したものがあちこちに見られる。さらには、何世紀も前に壊れたまま放置されていた建物から赤煉瓦が一つ一つ抜き盗られ、それによって一部が建てられている家屋さえある。部屋の壁にはふつう水漆喰が塗られ、その上に塗装がされている。しかし、壁が崩れ、塗装が剥げてもその修理は例外的だ。すでに数百年という時間を経た建物を土台にしているので、どこか一部だけ手を入れるというような作業が困難なのだ。城市内部の空間は何物かの指令によってではなく、こんなふうに雑多な方途に支えられてその姿を保持してきたのである。そこには街路や井戸、Mohallahを区切る小門や家屋といった事実をめぐる記憶の層だけが堆積するようにして存在してきた。各々の事実をめぐる記憶には沈殿するような時間が流れ、それゆえ、それなりの切羽詰まった状況もあることが知れるのだった。
 かつて城市のいたるところに見られた廃墟にも、それなりに廃墟の在り方というものがあったように思う。廃墟は時の変化とは無縁で、世相を流れる時間に曝されない。それゆえ、そこには時間の層がひっそりと維持されてきた。そこに一歩足を踏み入れれば沈殿するような時間の流れをからだ全体で浴び、訳の分からないような気分のうちに見知らぬ記憶の層に立会うことになる。そこに流れるものが(観光用に供された)偽りの時間ではないからである。それと同様に、城市内部の荒廃した場所にもそれなりの配列が人知れず潜んでいたように思う。人は薄汚く整理がつかないような場所とみていたようだが、そこにも一度は時間が流れ、その流れの痕跡を遺しつつ、しかもふいにやって来る時間をそこに溜めるといった、吹き溜まりのような配列がひっそりと働いているのだ。そんなふうにして、打ち棄てられた場所にも時間の層が溜っているのだ。そんな場所には何の規制もないし、そこでは何をしても好まれる。だから、子供たちに敏感に見出されて、そんなところが遊び場になるのだった。子供たちには好んで世相の流れから置き去りにされ、そのからだにかえって時間の層を溜めているようなところがある。それで、時間が手つかずに滞っているような子供の姿がそうしたところに見出されることもあるのだ。
 私の少年はどうしているだろうか。城市のどこかにまだ潜んでいるだろうか。それとも、とうに城市を去ってしまったか。いや、少年はまだ城市を彷徨しているはずだ。Lohari門をくぐり抜け、Bazarを通り過ぎたところで坂を上がり、そして坂を下る。脇道に逸れ、狭く曲がりくねる石畳の階段を上がるとそのまま小さなモスクに出ることがあり、また見知らぬGalliを行くといつのまにか人の住む場所に出るようなこともある。石積みの壁に囲まれた中庭に黒い水牛が群れ、その一頭一頭がたくさんの蠅にたかられていた。黒い肌が濡れているように光っている。Bazarの喧噪も届かず、ここは変に静かだ。あの赤い眼をした美しい白馬はどこへ行ったのか。羊の一群が小路から小路へと移動するのにもあまり出会わなくなった。Chowkのゴミ溜めで一頭の驢馬がゴミを選って食べている。その傍をパターン人の少年たちが駆け抜けて行った。ふたたびBazarに出ると、山猫のような眼をした少女が二人、頭を薄汚れたショールで覆い、路端に座って行商している。明らかに城市の者ではないとみえる。笊いっぱいの大蒜が白い湯気をたてるかのように少女たちの前に置かれていた。その表情から、値段の交渉には絶対にひるまないという決意が見てとれる。少女たちはどこからやって来たのだろうか。きっと遠い道のりを頭に笊を載せて、長い時間を徒歩でやって来たのにちがいない。少年のからだの中で流れ続けるものがあり、その流れの神経に慎重に耳を傾けた。私の少年は廃墟や打ち捨てられたような場所を好んで歩く。たとえば、得体の知れぬ、襤褸をまとっただけの修行者とか隠遁者が棲むような荒廃した場所を好んで彷徨するのだ。そんな人物が実際にいて、半裸に襤褸をまとっただけの姿で茶屋の店先の水場によく顔を濯ぎに来ていた。最初は狂人かと思ったものだ。昔ながらの茶屋がまだ城市の古い地区には遺っているようだ。その得体の知れない半裸の男の後をつけて行くと、私の少年が見つかった。しばらく行くと男はいきなり小路に座り込み、地面に向かって何かに耳をそばだてるかのような恰好になった。つられて少年も路端にしゃがみ込み、崩れかかる小路の足下から何かが語りかけてくるような気配を探ったり、下水の流れていく方向や、その溜まり具合に神経を使ってみたりした。辺りにはむきだしの水道管が束になって走り、そこかしこから水が滲み出ている。
 半裸の男の頭は縮れ毛で、そのからだは垢まみれで、あまり寝ていないのか眼が赤く血走っている。傍に少年がいるのにやっと気づき、ぞんざいな風に言葉を投げかける。
「死者は何を食べているか知っているか。死者は時間を食べているんだ。時間を食べて生きているんだよ。だからほら、時間を食べるようにすれば、お前の中にも死者がよみがえってくるんだぞ」。
 少年には男が何を言っているのか分からなかった。
「お前はパターン人か」。
「そうだよ」。
「学校には行かないのかね」。
「僕らの仲間はみんな学校になんか行っていないよ」。
「親は何をしているんだ」。
「お父さんは靴の職人だ。Hira Mandiで働いている。近くの古い家にみんなといっしょに住んでいるんだ」。
「みんなとは誰だ」。
「アフガンからいっしょに逃げて来た一族みんなだよ」。
「名前は何という」。
Achakzai。僕はTahir Achakzaiだ」。
Achakzai一族は死者を信じないのか」。
 少年はふと何かが自分を見つめているような気配をからだに感じて見上げると、崩れ落ちそうな古い建物の階上の飾り窓から何かが顔をのぞかせ、その視線のようなものがからだに降ってくるのが感じられた。いつもそうだ。何も見えはしないが、からだに感じられる。あれは死者が霊に姿を変えて自分を見つめているのだ、そう思うことにした。
「死んだ人を見慣れてきたんだ。戦争で死んだ人を何人も見てきたからね。死者を信じるかって。信じるというよりも、死者はすぐそこにいるよ。自分の傍に…。ほら、あそこにもいるんだ。この人もあの人もみんな死んでいくのを見てきたんだ。時間を食べろって…。そんな暇がないほど僕は死者といっしょだ」。
「ふむ、死者といっしょだというのか。それなら、お前にはまだまだ力があるようだ」。
 どこからか建物を壊す重機のうなる音が聞こえてきた。煉瓦が木材と共に崩れ落ちる音なのか、もの凄い響きと共に工事現場を仕切る監督か誰かがパンジャブ語で声を荒げている。作業員を罵るような口調で、その声が何かしら別世界からのもののように聞こえてきた。
 男はすっと立ち上がり、音がする工事現場の方へ切羽詰まったような足取りで歩き始めると、またしても少年はその後について行った。
「あっちの工事現場、こっちの工事現場から死者が続々と掘り起こされては陽に曝され、いきなりQiyamat(「最後の審判」による復活)の日までの眠りを覚まされ、ひとときの安らぎの場から追い立てられている。俺はそうした死者の様子をよーく見ておかなければいけないと考えている。何しろ、この城市は千年の都だからな」。
 古い建物がまるごと壊され、その跡にビルを建てるための深い穴が掘られている最中だった。その底なしのように見える暗い穴を覗きながら、掘り起こされる土の中から現われ出るものを待っているのだと男は言う。目には見えないけれど、深い息をしているもの、それもいまだに新鮮な息吹をしているようなものもあり、その気配で辺りが充満しているという。どの工事現場にも、建物の建っていた跡には過去の時間の層が、その流れのようなものがまだ遺っているからだ。建物の下の土を掘り起こせば、きまって時間という闇が、煙が立つようにしてそこに立ち現れてくるのだ。とはいえ、それはあくまでもそこに立会う者の個人的な体験でしかない…。
 すると、「何を言っているんだ。死者なんてQiyamatの日までは腐ったゴミでしかないんだぞ」、という罵声が耳に飛び込んできた。
 一瞬、城市に流れる時間が凍りついたように停止したが、すぐに流れは取り戻した。

                            城市 (了)