Thursday, December 19, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


  Lahoreの友人 二

  Shah SahabMaktab  下

 朝もとうに明るくなって目覚めるとラジオの声が聞こえてきた。隣のベッドでSaeedが横になって耳に小型ラジオをくっつけるようにして聴いている。そこから漏れ出る声を耳にして目が覚めたのだった。私が目覚めたのに気づき、Saeedがラジオのボリュームをあげ、「ほら、インディラ・ガンディーが演説している」、と興奮気味に言う。その名を耳にして、反射的に私もラジオから流れ出て来る声に耳を傾けた。録音ではなく、実況放送による声だった。目覚めたばかりの半覚醒状態ではあったが、私はインディラ・ガンディーが語る声を耳ではっきりと把握することが出来た。そのとき初めて耳にするその力強い口調に心なしか感銘したのを覚えている。1980815日のことだ。インディラ・ガンディー首相がインドの独立を記念する演説をしていたのである。ヒンドゥー語はウルドゥー語と文法が同じである。しかし同じであるとはいえ、ヒンドゥー語にはサンスクリット語の単語がちりばめられ、話し言葉の音感を大切にするウルドゥー語がその語句の流れるような甘い響きに囚われがちになってしまうのとは対照的に、サンスクリット語の破裂音が押し出されるようにして発音され、そのせいでとても明晰な言語のように聞こえてくる。ヒンドゥー語はウルドゥー語と異なり、どちらかといえば政治演説に向いた言葉になったようだ。
 Saeedはといえば、夢見るような表情でインディラ・ガンディーの声を聴いていた。その表情をいま私は鮮明に想い出すことができる。国民会議派はその年の一月に政権に返り咲いていた。インディラ・ガンディーは六月に次男で後継者のサンジャイ・ガンディーを飛行機事故で亡くしたばかりだった。おそらく暗殺されたのだろう。サンジャイ・ガンディーは悪名高い人物として知られていた。しかし、その視線をつねにインドに向けていたSaeedは、とにかくインド人民党から国民会議派への政権移行を歓迎していた。インドばかりでなく、彼はその視線をつねに外国に向けていた。社会主義社会を熱烈に支持し、また国際派を自認して世界語としてのエスペラント語を学んでいた。ちなみに、Shah SahabMaktabは「パキスタン・エスペラント協会」の事務局となっていた。おそらく当時から彼は国外に出ることを考えていたと思う。私を大学寮内でめざとく見出して付き合うようになったのも、私が外国人であったからにちがいない。部屋の中はすでに陽射しが満ちあふれ、すばらしいような明るさだった。Jhelum郊外の叔父さん宅で用意された部屋にはベッドが二つとその間に木製の小机が置かれ、それ以外の無用な家具類は何もなかった。街中とはまったくと言っていいほど異なり、どこまでも広がる大地の静寂な空気に包まれた郊外の地には慌ただしい朝の時間が微塵も流れることがなかった。家屋は木材と煉瓦と泥でできている。簡素なゆえにこぎれいな田舎の部屋で、私とSaeedはしばしインド亜大陸における〈解放の八月〉という、夢見るような時間を過ごすことができたのだった。時間が止まったようだった、そう想い出すことがある。「時間が止まる」というその感覚は、自ら時間を生み出しているという感覚に等しい。
 八月になって私はふたたびJhelumを訪れた。五月にはShah Sahabに手紙を書くことを約束して別れを告げたのだが、手紙を書く代わりにふたたびJhelumを訪れることにしたのである。しかし、そのときどうしてSaeedJhelumにいて、どのような経過でいっしょに叔父さん宅に泊まったのかをどうしても想い出せない。おそらく彼が帰省していた折りにちょうど私がJhelumを訪れたということなのだろう。私はバスでIslamabadへ行く途中にJhelumへ立ち寄ることにした。八月はRawalpindiからバスでインダス河渓谷沿いにつくられたインダス・ハイウェイを行き、山岳地帯のGilgitHunzaを旅行する予定でいた。前年の夏は、同じく山岳地域のChitralをジープで発って険しい山道を進み、途中からジープ道がないのでトレッキングしてGilgitへ入った。3800mの峠を越えるきつい旅だった。インダス・ハイウェイのルートはそれとは別の方向からGilgitへ入ることになる。外国人がインダス・ハイウェイを通るには通行許可証が要る。それでIslamabadの観光局に行き、許可証を申請するつもりでいたのである。
 朝も遅い時間になって叔父さんと三人で朝食を摂った。泥塀に囲まれた広い敷地を見渡すことのできるベランダにテーブルと椅子を出し、香辛料入りのチャイと自家製プラターの味を楽しんだ。叔父さんの話によれば、Jhelum市内と郊外とでは地価の差が歴然としていて、20対3の割合であるという。Saeedの家の出自がどこか聞いたことはないが、叔父さんは郊外のような不便でも自若泰然とした環境を好んでいるのがよく分かった。「Jhelum の語はJal()と、Ham()からなっているという。その名はカシミールの雪山に源を発する大河の流れを言い表しているんだ。でも、こんな美しいイメージも昔の話になってしまった。Jhelum河の水はインドとの<Indus Waters Treaty(インダス系河川水条約)によってパキスタンに割り当てられるようになった。しかしインドはといえば、その条約によりJhelum河の水をパキスタンよりも先に使用する権利があって、それに則ってJhelum河の支流のあちこちで水力発電所を建設している。河の流れにまで国境が影響を及ぼしているなんて、考えると憂鬱になるよ」。
 朝食を済ませた頃にSaeedの弟がやって来て、みなで近くのRhotas Fort(要塞)へ行こうという話になった。近くといってもJhelumから16Kmの距離にある。Saeedはあまり興味を示さなかったが、弟が主導して行くことになった。たしか彼は自動車の修理関係の仕事をしており、自分で車をチャーターして来たのだった。Saeedとちがって父親譲りのずんぐりした体型の弟は、インテリの兄と異なり実践家タイプの人間だった。車は廃車同然の小型トラックで、助手席に叔父さんが、荷台に私とSaeedが乗り込んだ。Jhelumから西に向かって地方道を走り、途中で河を渡って悪路を進む。河は乾期には涸れ河になると弟が大声で言う。土埃が舞い上がり、揺れが激しくひどい乗り心地だが、みなピクニック気分だった。むし暑い雨季を乗り越えたのでこの時期になるとそれほど暑さが苦にならない。Rhotas要塞はSalt Range(山系)の丘陵地帯へと通ずる小丘に広がる中世に築かれた広大な規模の要塞だった。私はその規模に目を見張った。車から降りて要塞内部に入る際に、見事なというか、「Massive」という形容がぴったりの石造りの門があった。三人がそれぞれ門の名前を口にするが、どれもこれも曖昧なものだった。いま調べてみると、Sohali 門という。「この門の稜堡の外南西側に、Sohail Bukhari という聖者が埋められているのに由来する」とある。その門を背景にして写真を撮ろうということになり、近くの高台に上がってまずみなで写真を撮った。そこから要塞を見渡すと、要塞を囲う城壁がおそらく小丘の形状に合わせるかのようにして築かれ、そのためうねるようなかたちになっているのがよく分かる。それから内部を見て廻ったが、様々な建築物がかなりの荒廃状態にあるのを見るばかりだった。人気はまったくない。かろうじて立つ案内板を読むと、要塞を築いたのは、アフガンSuri王朝のパターン人王 Sher Shah Suriで、16世紀に築かれたという。このRhotas要塞が占拠する位置は、古代から中世にかけてアフガン高地とパンジャブ平原を結ぶ交通路の途上にあり、要塞は西方からLahoreへ入る通路をブロックするようにして建てられている。つまり、Sher Shahは、ムガール王朝のフマユーン帝がイラン方面からインドに帰還するのを阻止するためにRhotas要塞を築いたのである。さらには、Salt山系一帯に跋扈するGakhar族の力を殺ぐ目的があった。Gakhar族はSalt山系の統治権をめぐり外部からの侵入者との戦いに明け暮れていた。要塞は三万人の守備兵を擁することができたという。要塞内部には、「三つのBaoli(階段井戸)がある。門のうちの一つLangar Khani要塞側に向かって開かれ、それは侵入者を罠に陥れるための門である。この門は要塞内部の稜堡に据え付けられた大砲がまっすぐに照準を合わせるそのライン状にある。Khwas Khani門は二重壁をもつ門の好例である。…要塞の建築費用は膨大なもので、『Waqiat-i-Jahangiri(ジャハンギール年代誌)』によれば、34,25,000インド・ルピーを見積もっている」。
 私たちは要塞の中へ南側の門から入ったが、主要な門は十以上あり、その門の配置の仕方からして要塞が北西部のSalt山系に向かって対峙しているのがよく分かる。そのSalt山系側の峡谷では二つの河(Kahan河とParnal 涸河)が合流して南へと向かい、すぐにJhelum河に流れ込んでいるが、そのKahan河の周囲には起伏の激しい荒地が形成され、そこはとても通行できるような場所でなく、要塞が建つ地が地形的に要衝地であることも分かる。要塞の遥か西方に目を向けると、Tilla Jogianの山並みが見える。その頂点にはヒンドゥー教徒の聖地があると叔父さんは言う。私は要塞が対峙する先に広がるGakhar族が支配したというSalt山系に興味をそそられた。Gakharは要塞の建造に際して労働力を要請されたが、自領地内に要塞が築かれるのに当然その要求を拒否したのだった。
 いったん叔父さんの家に戻り、チャイを飲みながら叔父さんから話を聞いた。「ヒンドゥー教徒によれば、Salt山系はあの『Mahabharata』のPandava族がIndraprasthaの都から追放の憂き目にあった期間に亡命していた地であると言われる。要するにだ、それくらい歴史的に由緒がある場所なのだ。また往時には、肥沃なパンジャブ平原とその範囲を越えた地域とを十文字に結ぶ交通のネットワークがあった。つまり、東西南北へ向かう交通路があった。その一つに、Jhelum河を今日のRasul村近くで渡り、Nandnaに至る坂を上がってSalt山系に入り、Salt山系に点在する緑豊かな盆地を伝ってKalabaghに出る。そこではインダス河の流れが狭まっているんだよ。そこでインダス河を渡ってさらに西に向かい、Bannuに達し、Tochi河を遡ってGhazniまで出て、最終的にはKandaharの市場に通ずる主要道があったのさ。Salt山系は古代から良質な岩塩が採れるのでそう呼ばれている。つまり、英国人がそう呼んだのだ。西南部の峡谷地帯にはかつて仏教寺院もあったらしい。廃墟になっているけれど、Taxilaのギリシア様式を摸したヒンドゥー寺院や、カシミール様式のヒンドゥー寺院の遺跡を今も見ることができる…。Salt山系の中心都市がChakwalだ。ほら、Shah SahabMaktabに助手がいるだろう。彼はChakwalの出身だ。そうだ、彼の家系はヒンドゥー教徒だった。そのChakwalの町は、カシミール南部のJammuから来たChaudhry Chaku Khanに由来する。彼がムガール王朝のバーブル帝の時代にChakwalの町を建設したのだ。Chakwalの人はパンジャブ語のPotohar方言を話すようだ…」。
 Salt山系についての叔父さんの話を想い出すにつれて、私の内部に花開くようにして鮮明に想い出てくる光景がある。Lahoreに住む間、私はLahoreIslamabadをバスで何度も往復したが、その際にJhelumの街を通過した直後に一見荒野と見まがうばかりの光景が広がる一帯があった。そこは段丘状の斜面が両側に広がる渓谷で、草木もなく辺り一面ただ赤土と岩塊がむき出しになっていた。むき出しになっているのは荒涼とした大地ばかりでなく、人の手がつけられていない気の遠くなるような長い時間もそこにむき出しになっているように感じられた。バス道路はその渓谷と交差するように通っていた。それでバスはまず渓谷の底まで曲がりくねる坂を下りて行き、そしてふたたび渓谷をうねうねと上っていくのだった。渓谷の底はおそらく涸れ河か、通常は水の流れを見ないが、雨季には濁流となって雨水が流れる地点があった。最初は初めて目にするその手つかずの荒々しい地形に感激したが、何度も通るうちに見慣れた後には、バスで通るのにも気分的にひどく疲れるところとなった。ここを通り抜ければあと少しでRawalpindiだ。またRawalpindiから戻って来る際には、ここを過ぎれば豊かなパンジャブの平原に出る、そう安心したものだ。しかし、いまはその光景をなぜか初めて見たときのように想い出す。久しく想い出すことがなかったが、脳裏に焼きついている印象深い光景だ。そこはSalt山系が始まるところなのであり、Salt山系の山並みはその渓谷地帯から西側に向かって連なっているのだった。
 いま私はRohtas要塞で撮った写真をアルバムの中から出してきて見ている。要塞内部にあるShah Chandwali門とそれを囲む稜堡を背景にして撮った写真があった。要塞をぐるりと囲む城壁の上で叔父さんを中心にして両側に私とSaeedが並んで座っている。八月の大地が発散する水蒸気のせいか背後の空気が霞んで遠くまでは見通せないが、要塞内部は見渡すかぎり低草が生えるばかりで荒地になっているのが分かる。Saeedと叔父さんは日常服である裾広がりのパンジャブ服を着ており、私だけが半袖シャツにジーンズという格好だ。私は黒地に刺繍模様が入ったキルギス・ムスリムの帽子を被っている。前年にGilgitで買ったものだ。ムスリム帽を被っているとはいえ、華奢な体つきをした色白の日本人の若者のその表情が、周囲に広がる荒涼とした光景にまったくそぐわない感じがする。叔父さんとSaeedは自然な笑みを浮かべているが、一人だけのっぺりした顔つきをした当時の自分が何でそんな表情をしているのか分からない。その表情から何を思っているのかと考えるが、そんなことはもう分からない。分からないが、かつての自分の表情を凝っと覗き込んでみる。凝っと覗き込んでいると、いつしかその白い表情から逆に見つめられるような気がしてきた。

 あれはヒンドゥー教の祠だと言うので一瞬立ち止って深い峡谷に目をやるが、険しい岩山の頂にぽつんと崩れかけた小さな建物のようなものが見えるだけだ。周囲の斜面にはまばらに灌木が生えるばかりで、ところどころ赤土がむき出しになっている。雨季の後なのでこれでも緑がある方だと言う。ここまで上りっぱなしだったので私はしばらく立ち止って息を整えることにした。照りつける陽射しはさほど強くない。けれども、急勾配の斜面を上って来たのでそれだけで汗が吹き出てくる。道はごろごろとした岩で塞がれ、道があるようでいてはっきりとした道はない。ときおり崖が崩れたように削られ、岩肌がむき出し、その崖下を道の見当をつけながら進まなければならなかった。しばし大きく息をして息を整えるが、そうするだけで周囲の静けさが身に迫ってくるように感じられる。その威圧感を振り払うようにしてすぐにまた私は上りはじめた。目の前にはいくつもの岩塊がそそり立ち、それを迂回するようにして上って行った。暑さを感じるよりも、足を一歩一歩意識的に踏みしめて前に進んでいかないと、知らないうちに目の前の特異な地形に自分のエネルギーが吸い取られるのではないかと危ぶんだ。一陣の風も肌に感じることなく、ひっそりと辺りは静まり返るばかりだ。標高が高くなるほど人気が絶えたようになって、そのぶん不安になってくる。人気どころか、無意識のうちに耳を澄ましているが、生き物の気配をいっさい感じとれない。つい先ほどまで上を歩く助手の足運びを耳にしていたのに、それさえもいまは聞こえなくなった。どこまで先へ上って行ったのか。私はズック靴を履いているが、彼はパンジャブ服にサンダル履きだ。ようやく視界が開け、数時間前にそこから上り始めたひっそりと静まりかえるBhaganwala村を見下ろすことができる地点までやって来た。わずかに平らなスペースがある。そこで助手が座って待っていた。眼下に広がる光景を眺めながら満足気な表情をしている。あの村からSalt山系に通ずる隘路をここまで上って来たのだ。その遥か向こうにはJhelum河が銀の帯のように流れるのが見える。標高はまだ600メートルぐらいだろうか。Bhai Sahab、ここには生き物の気配がまったくないね」、そう声をかけると、「いや、ときおりJanuwarが出るんだよ」と真顔で言う。Januwarは「獣」という意味だが、それが何かは見当つかない。大型のネコ科の動物か、それとも狼のようなイヌ科の動物だろうか。こんな明るいうちから獣がうろついているだろうかと言い返すと、獣はいつだって人の臭いを嗅ぎ分けるさ、そう言ってにやりと笑ってみせる。
 今朝、助手といっしょにJhelumを発ち、Salt山系の入口までやって来た。それから険しい山道を息を詰めるようにして上がりながら、私は前日に叔父さんの話から聞きとった内容、すなわちSalt山系が歴史的に多層なものを抱えているということについて考えを巡らせていた。この山並みにはイスラーム教のMazar(聖者廟)Hankah(修行場)はもとより、かつてはヒンドゥー寺院、それに仏教寺院さえあったという。考えてみれば、この地を支配してきたのは古来より北方から幾度も侵入して来たトゥルク系民族の末裔であり、またモンゴル族とトゥルク系民族の混血すなわちムガール族であり、はたまたパターン人等のイラン系諸民族であった。この地には様々な人種と部族が行き交い、そのことによって様々な信仰の痕跡が遺されている場所なのである。その多層なものの在り方について考えを巡らしながら、いま私はこの山道を上り詰めたところにあるNandna要塞に向かっている。そこにはヒンドゥー王朝が築いた要塞跡と廃墟になったヒンドゥー寺院があるという。
 午頃ようやく山並みの頂き辺りに達した。そこからやや下った比較的平らな地にNandna要塞の跡がぽつぽつとあった。それほど広くない範囲内に、モスクの廃墟、ヒンドゥー寺院跡、といったものが見られる。すべての建造物が往時のかたちを留めず、ヴィシュヌ神が祀られていたという寺院は二つの崩れかけた壁が立っているにすぎない。屋根もない残骸といった状態にあった。しかし、その建造物はかなりの高さのものであり、往時の規模の壮大さが推測される。わずかに遺る壁に彫刻された文様からしてその様式はカシミールのものであり、カシミールの王が建てたものと断定されているという。寺院の廃墟を背にしてその足下に広がる峡谷を眺めれば、Salt山系の険しい地形に沿って築かれた古代の要塞壁の跡を見ることができる。粗雑に組まれた石壁ではあるが、間隔をおいてがっしりとした半円型の銃眼つきの胸壁が配置されているのがはっきりと見える。また石壁の周囲や要塞内の平らな一帯には古い住居跡らしきものが遺っているのが分かる。そこに地面を掘り返した跡が点々とあるのに私は気づいた。「盗掘が頻繁に行なわれ、往時を検証できるものはもう何も残っていない」、そう助手が言う。要塞壁には二つの稜堡があり、そのうちの一つに砂岩でできた大きな井戸の跡だけが遺っていた。「このNandna要塞はここを通る交易商人から税を徴収する目的でつくられた。そればかりでない。アフガンからの侵入者を防ぐ目的もあったという。この要塞のすぐ近くにNandna山道が通っていたんだ」。
 山並みの頂き付近を越え、北に向かってジグザグの道を下り、午後遅くにAraの盆地に出た。山並みの南斜面とは打って変わってその北側には灌木が茂る涼しげな場所がある。Araはオアシスのような小村で、そこにある簡素なレストハウスに泊まることにした。レストハウスと言っても名ばかりで、部屋の壁は崩れかけ、そこに設備された電球には電気も通じていない。むろん配線はされているが、通電されていないのだ。手洗いの水がかろうじて出る。年配の管理人が用意してくれたチャイと簡単な夕食を摂り、あとは石油ランプの明りで夜を過すほかなかった。ランプの明りに虫も集まって来ない。静かな夜だった。外に出れば夜空に無数の星が瞬いている。部屋に付属するベランダに出て、助手と向き合って彼の話を聴いた。助手は自然科学全般に興味を抱く合理的な考えの持主だった。顎髭を生やし、いつもイスラーム帽を被ってはいるが、その考え方はイスラームの思考形式にこだわらないものだった。口にはしなかったが、おそらく私が偽ムスリムであることもすでにお見通しだったろう。
「古代から現代に至るまで、Salt山系が重要であるのは大量の岩塩が採れることだが、中世になってこの方、岩塩と石炭は火薬製造に使用するためにも採掘されてきた。それで、その支配権をめぐる攻防が絶えなかったのだろう。けれども、そうした戦略的な面だけがこの地を特徴づけているのではない。Salt山系は特異な地形であり、そのことによって多くの宗教者を魅了し続けてきた場所でもあったのだ。一千年の間、Salt山系のいたるところにあった聖なる森や洞窟は何百人ものヒンドゥーのヨガ行者やムスリム修行者にその隠遁場を与えてきたと言われる。それでシーク教の創始者Guru Nanakもこの辺りまでやって来て四十日間の瞑想をしたそうだ。さらにその昔には、Salt山系の西の果て、インダス河のすぐ東に位置する辺りに仏教王国があった。中国僧がそう記している。おそらくその王国にはTaxilaに遡ることのできる仏教寺院があっただろうかのVasbandhu(世親)Taxilaからこの辺りまで来ていたのではないか。その仏教寺院について言えば、その内部に外界とは異なる特別な空間を現出させるためにつくられたのではないかと思う。外から見ても解らないが、いったんその内部に入ると、そこには時間や空間が生まれて来るような空間がある。そういうことを昔の仏教徒は考えたのだ。こうした空間をつくるのは雑多なものに汚染された市井においては難しい。そのためにわざわざ過酷な自然環境が支配する場所を好んで選び、そこに特別な空間をつくり出し、それを維持することに傾注したのだ。それに倣って、ヒンドゥー寺院はその後からつくられるようになった。とにかく、寺院というものの基本はこの特別な空間にあると思う」。
 前年にインドでAjanta石窟寺院を経験した私は、彼の言う<特別な空間>という考えを理解することができた。石窟寺院は自然洞窟に似るがそうでない。その空間はわざわざ岩を刳り貫いてつくられ、そのせいで空間の密度が肌に染み入るように濃く感じられる。空間を占めるその充満感覚は外界とは異なる<特別な空間>そのものであり、そこで瞑想する仏教徒はそうした<特別な空間>を翻って自身の内部に見出そうとしていたのである。
Nandnaはもともとヒンドゥー教徒の地であり、また学問の重要な中心地でもあったようだ。天文学者Al-Biruni(9731050)のような人を魅了し、Ghazniにいた彼はサンスクリット語やインド科学を学びにNandnaまでやって来た。ここで彼は何と地球の外周距離の測定をするという偉業を成し遂げた。1017年のことだ。中世の時代であるにもかかわらず、その数値はきわめて精確なものだった。彼が研究のために居住した建物がどんなものだったか今となっては分からないが、おそらく今日見たヒンドゥー寺院の規模からして、あそこに間違いないだろう…」。
 仕事を片付け終わったのか管理人がやって来て、Nandna要塞をわざわざ見に来る人は少ない。それというのも、要塞に女の幽霊が彷徨っているからだと言う。聞くと、昔、要塞の王が村の娘を要塞のハレムに連れ込もうとしたのが、女は要塞から飛び降り自殺して幽霊となったというお決まりの物語だ。おそらく盗掘を案じた者がでっちあげた話だろうが、その効き目はなかったわけだ。しかし、管理人はわざわざ幽霊話をしに来たのではなく、私たちに早く部屋に入って休むよう催促しに来たのだと私たちにはぴんときた。そそくさとランプの明りを消し、私たちは渋々黴臭い部屋に入って各々のベッドに戻った。私はすぐにベッドに横になったが、今日の旅程とそれを巡る思考のせいで気が高ぶっていた。まんじりともしなかったが、要塞を彷徨う哀れな女の霊に想いを馳せつつ、何とか眠りについた。

 朝早くにJhelumのバス・スタンドからローカル・バスに乗り込み、Rawalpindiへ向かった。いつもLahoreから乗り込む直行バスと違って走行が遅く、乗り心地は最悪だ。赤土がむき出す渓谷に至るとそのまま大地の底の底まで下りていくような気がしていつになく疲れを感じる。ようよう午近くにRawalpindiに着くと、いつものように新市街のSaddarにある冷房の効いたレストランでビーフ・バーガーの昼食を摂る。Rawalpindiは暑い。Saddarからワゴン車を乗り継いでIslamabadへ向かった。Islamabadの観光局でインダス・ハイウェイの通行許可書を申請する。係官はことのほか愛想が良く、申請は難なく受理され、一時間後には許可書を手にすることができた。その足でIslamabadの商店街まで歩き、Abparaのバス・スタンドでPirwadhai行きのバスを待つが、バスが来る度に我先に乗り込む乗客でいっぱいになり、数台を見送った後にようやくバスに乗り込むことができた。もう四時だ。バスはRawalpindi台地の西の果てに位置する、荒地に佇むイスラーム聖者(Pir)Wadhaiの修行場があることで名づけられたバス・スタンドに着いた。バス・スタンドには大型バスがひっきりなしに到着しては出発し、その乗降客でごったがえしている。バスを降りてすぐにGilgit行きのバスを予約しにチケット売場に直行した。Gilgit行きを告げると、売場の男が明日のバスの最後のチケットだと言ってにやりとする。バスは朝四時半の未明に出発するのでどうしてもこの周辺で宿をとらなければならない。しかし、バス・スタンド周辺を歩き回っても<Hotel>の看板は見当たらない。仕方なく茶店に入ってチャイを注文すると、リュックをもった私を目敏く見定めた店の主人がGilgitへ行くのかと声をかけてくる。そうだと答えると、バスは朝早いから店の屋上で宿泊するといいと勧められる。どんな場所かと屋上へ案内してもらうと、フラットなスペースに幾つもの簡易ベッドが並ぶだけで、雨風を防ぐものは何もない。主人に雨が心配だがと言うと、ちらっと空模様を見て、雨は降らない、心配ならばブランケットを貸すから持って行けと言う。その夜、雨は降らなかった。しかし、夜中の砂嵐には往生した。

 夜中に物音で目が覚めると、助手が部屋の扉を開けて外に出るところだった。どこに行くのだろうと訝り、自分も起きて部屋の窓から外を覗くと、外は真っ暗だが、助手がベランダの前の空地に立って夜空を凝っと見上げているその影が見える。影は身動ぎもしない。星の観測でもしているのか。私はベッドに戻って横になり、ふたたび考え事の徒労に陥ったがそのうち寝入ってしまった。翌朝、チャイとトーストとオムレツの朝食を摂りながら、私たちはふたたびNandna要塞を訪れることに決めた。助手はAl-Biruniの仕事場を確認したかったようだ。前日歩いたのと同じ道を行くので不安はない。というよりは、インドへの侵入者たちはすべて山側からインド平原へとアクセスしたのであり、そう考えれば、その方向へ進む方がどちらかと言えば違和感がないような気がした。歩きながら助手が話をし始めた。
Al-Biruniはアラビア人ではなく、Khorazm出身のイラン系の人だ。多くの言葉を解したという。かのIbn Sinaとも手紙を交わすことができるくらいの有能な人物だった。GhazniMahmud王による侵攻の際に囚われの身となり、Ghazniの宮廷に連れて来られた。不自由な身ではあったが、Al-Biruniにとっては幸いにもそこからインド世界は目と鼻の先だった。彼はインドの科学に興味をもっていたのだ。そのときに北インドは初めてイスラーム勢力に攻略されたとはいえ、パンジャブ地方はまだヒンドゥー教徒が住みつく世界だった。Al-Biruniがサンスクリット語や他のインド諸語を学ぶことのできる環境は十分に残されていた。そのおかげで、彼はインドの著名な天文学者にして数学者であるAryabhata(476550)Brahmagupta(598668)が著した書物を読むことができたのだ。当時はNandna要塞のヒンドゥー寺院も完全なかたちであり、その尖塔の内部には、その中に折り畳まれるようにして三つの階層の空間がつくられていたようだ。そして、その最上部の階には部屋と歩廊があった。その最上部の部屋は、Nandnaの要塞がMahmud王の侵攻を受けたことを考えると、防御的な必要のために造られたのかもしれない。いや、最上部の部屋があるいは宗教的な儀式のためのものだったか、それとも、その覗き穴から敵の侵攻を〈見張る〉ものだったのか、それについては分からない。が、その構造はSalt山系にある寺院特有のものであるという説がある。それで、いずれにしてもAl-Biruniはその<見張台>から天体観測したのではないかと私は考えたんだ。昨夜はそう考えついて眠れなかったよ。瞳の花が咲いたようになって、つい外に出てみたんだ。すばらしい満天の星に釘付けになってしまった。そのうち東の空が明るくなったと思ったら、満月に近い浩々とした月が出てきた。その月明かりで足下も明るくなったよ。この月明かりなら、あの寺院の尖塔の最上部の部屋からJhelum河が銀の蛇のように這っているのが見えるに違いない、Al-Biruniはそれを見たのに違いない、そう思って胸がいっぱいになった…」。
 Al-Biruni は「Tarikhul’Hind(インド誌)」という本を著している。その内容はその時代にしては特異なものだ。インドのサーンキヤ哲学の紹介に始まり、サンスクリット語の詩の音韻論、インドの度量衡について、インド天文学批判、太陽の周期や月の公転によるインドの時間概念について、その微細な時間と天文学的な時間について、それに相応する数論等、多岐にわたっている。「インド誌」とはいえ、その内容は主に科学的なものであり、身分制度についてもきわめて合理的な解釈がなされている。
 八月にしては気候が穏やかだった。西からやって来たインドへの侵攻者がすぐにJhelum河畔に下りずに、Salt山系の山並みに沿うようにしてインドへとアクセスしたのはその気候的な面が大きいように思われる。いったん平原に下りれば、そこは暑さで耐え難かったに違いない。またSalt山系の南側斜面の水は塩分を含み、飲料用には向かないようだ。うねうねとした穏やかな坂を上りきって私たちはふたたびNandna要塞に出た。助手が活発な調子で話し続ける。
「ターヒルBhai(「兄弟」の意で親しい間で呼びかけに使う)、Al-Biruniがアストロラーベを使って地球の円周距離を実際の距離の二%の誤差で計測したのはここからなんだよ。ここは人類にとって記念すべき場所なんだ。彼は地球の自転や太陽を周回する公転、それに月が地球を周回する公転についても知っていた。だから、日蝕や月蝕の仕組みを明確に示すことが出来たんだ。Al-Biruniの手になる太陽と地球と月が運動するその関係を描いた相関図があるんだが、そこには月や日の際に三つの天体がとる位置が示されている…」。
 私はといえば、Nandnaの地からあらためてインド平原を見下ろして新たな感慨を深くした。アレクサンドロス王とその兵士たちもここからJhelumの河を見下ろしたに違いない。そして、とうとうインドの地にやって来たと実感したはずだ。しかし、雑多な人種から成る兵士たちがその心中で何を考えていたかは千差万別だ。同じ時に中世インドに触れたAl-BiruniMahmudという対照的な二人は、一人はトゥルク系の人でインドを破壊し、強奪し、もう一人はイラン系の人でインドの地について科学的な書物を著したのである。二人とも西からやって来たがインドに対する姿勢はまったく異なるものだった…。
「ターヒルBhaiSalt山系では昔から岩塩が採れるので英国人がそう呼ぶようになったのだけれども、ここでなぜ岩塩が採れるのか知っているかい」。
 私は彼が何を言おうとしているのかすぐに理解した。<ゴンドワナ大陸説>について本で読んで知っていたからである。このSalt山系は地質学的にも特別なところなのだ。インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかって出来た褶曲がヒマラヤ山脈やヒンドゥークシ山脈であるが、その周縁部にはかつて海底であった地層が押し上げられて地上にむき出しているところがあり、それがSalt山系なのだ。岩塩が採れて当然な場所なのだ。いま調べてみると、それを<Salt山系断層>と言う。赤土がむき出しになって段丘状の斜面が走るところは、そこが断層の一部であることを示している。このSalt山系一帯に前カンブリア紀からカンブリア紀にかけての堆積岩層が広がり、その周囲を白亜紀の地層が取り囲んでいる。
Salt山系の岩塩はこの山並みの南側斜面で、凝集した岩というかたちで産出される。その岩塩層は世界でも最大規模の埋蔵量をもつと言われている。このSalt山系はもともとイスラームの歴史家にはMakhialah丘陵、あるいはKoh-i-JudJud丘陵)という名で知られていた。主な山系は、3,701フィート(1214m)あるChail山から始まっている。その山系はJhelum河の西側から生じる三つの尾根が合わさって形成されていて、その北東部に生じた渓谷によってヒマラヤ山脈の外側の層から隔てられているんだ。これらの尾根のうち最も北側のものがSultanpur辺りで河岸から突然に隆起し、それからJhelum河とほとんど並行するようにして25マイルの距離を西側に向かって走り、それから40マイルの距離の後にふたたび山系に合流している。それはNilli丘陵と呼ばれている。そしてRohtas丘陵として知られる二つ目の尾根は、Nilli丘陵とJhelum河の間の中間を走り、それと並行している。そこにRohtas要塞があり、3224フィートのTilla丘陵もある。三つ目の尾根はPabbi丘陵で、Jhelum地区の南部に隆起し、しばらくして河谷に向かって沈み、ふたたびJhelum河の北岸で隆起し、最終的にChailの山頂で他の二つの尾根と合流している。その合流した山系はふたたび二つの山並みに分岐して西に向かって走り、最終的にSakesar丘陵で最高点に達する。その標高は5010フィート(1644m)ある。これらの丘陵から構成される山系の間には、いくつもの山の頂、肥沃な高原、絵のように美しい渓谷がある。その中央部にはKallar Kaharの美しい湖もある。Sakesar丘陵から西側で山系はインダス河に向かって北西部へ食い込むように走り、対岸にKalabaghがあるMariに接すると西側にふたたび隆起して、Khattak-Maidani丘陵へと続いている。Kalabaghにはかつてダイアモンド鉱があった…。以上がSalt山系の全貌だ。総じて山系の光景は荒涼として険しく、しばしば崇高な美を露わにするときもあるが、柔和さや自然の美しさに欠けたものだ。しかし、それはそれとして十分なのだ…」。
 この地には人間の歴史ばかりでなく、地球の壮大な時間も刻まれている。インド平原を見下ろしつつ二人でそんな想いを共有し、私たちは断層から成る山道を下って行った。

 まだ暗いうちに起きて旅支度をした。夜中の砂嵐で体中砂まみれだが構っていられない。バス・スタンドはもう人で溢れかえり、あちこちの茶屋の軒先で湯気が立っている。Rawalpindi台地の朝は八月でも気温が下がる。下の茶店でチャイを飲み、身体を温めて一息つく。湯のように薄いチャイだが、旅行中の朝はこれがないと何事も始められない。いよいよインダス河渓谷を遡ってGilgitまで行くのだ。逸る気持ちでバスに乗り込むと、座席はGilgitへ戻る地元の人ですでに埋まっている。やむなく最後部に座ることになった。なぜシート・ナンバー方式にしないかと車掌に尋ねると、以前はそうだったのが、一度座席のことで乗客の間で大喧嘩になり、それ以来廃止になったという。一人おいて隣の席にKarachで勉学しているというHunza出身の若者が座った。彼は隣のパキスタン人に、「これからは教育が大事だ」と力説している。Hunzaの人はそのほとんどがイスマーイル派で、外国に住むAgha Khanをイマームとして信奉しているようだ。そのHunzaでは氷河が山を削って流れて来る水があり、その水には黒雲母が混じり黒く濁っている。地元の人は本物の〈Mineral Waterで28種類の鉱物質を含み、身体にいいと言って目の前で飲んで見せる。私も勧められたが断った。おそらくこの若者も飲まないのではないかと後になって想い出した。私は初めて旅するルートに夢中でそれ以上バスの中の会話に注意が向かなくなった。バスは予定出発時刻よりも三十分早い四時に出発した。まだ暗いのでどこを走っているのか見当もつかなかったが、辺りがぼんやり薄明るくなる頃にはもう山中を走っていた。AbbottabadMansehraの山岳地帯にある街を通り、五、六時間山道を走った後にようようインダス河に出た。<Mighty Indus>の美しい緑の谷が目の前に開けてくる。渓谷は深く、そしてかなり広い。バスはハイウェイを走るが、インダス河には幾つもの支流が流れ込み、その度にハイウェイは小さな谷に入り、またインダス河に戻るという経過をたどるのでいやというほど時間がかかる。支流の谷にはわずかしか橋がかけられていない。同じような行程で同じような光景が目の前を過ぎてゆく。私はバスに揺られてついうとうとしてしまう。その間に渓谷の深さはさらに増し、周囲は三千メートル以上はある山に囲まれていた。Chillasまで上がってくると緑はなくなり、山の岩肌が迫って来る荒涼とした光景が続くようになる。夜の十時過ぎになってようやく寝静まるGilgitの街に着いた。前年に宿泊した<Hotel Indus>に宿をとる。朝を迎えてもGilgitの街は静かなままだ。バザールは閑散とし、旅行者の姿も見かけない。夜になるとぐっと冷え込み、ここではもう夏は終わり、すでに避暑のシーズンは過ぎたようだ。翌日、ジープでHunzaに向かう。助手席に座ると中年の運転手が気さくに話しかけてくる。きれいなウルドゥー語を話す。「昔はGilgitHunzaとの間の谷道はとても危険な道のりだった。それでジープのドライバーは女性にもてて、美女と結婚できたんだよ。というのも、ジープでいつでもGilgitまで買物に出かけられるからさ」。また、「Agha Khanは未来を語ることができる。それに対して、Moulvi(イスラーム正統派教説師)は嘘をつく」。Hunzaの部落に着いても道行く人は少なく閑散としていた。<Tourist Hotel>に部屋をとるが、シャワーから出る水の冷たさに驚いてしまう。まだ午を過ぎた頃なので農道を歩いてMir-e-HunzaHunza城)に行く。700年前の建造物だという。石を積み上げて土台となし、その上に建てられた巨大な木造建築である。残念ながら中には入れない。背後には五千メートル級の雪山が迫り、そこにルビー鉱があるという。何を言っているのだろうと思って聞き流していたが、その帰る途、農道で赤黒いガラス状の小さな鉱石が落ちているを見つけた。拾って見ると研磨されかけて途中でやめたようなルビー原石の欠片らしかった。いまさっき聞いた話が頭の中で突如として現実となった。翌日にHunzaを発ってGilgitに戻り、Gilgitで一泊した後、運良く天候が良かったのでGilgitからIslamabadまでプロペラ機で飛んだ。IslamabadからふたたびJhelumに寄り、Saeedといっしょに列車でLahoreへ帰って来た。SaeedがまだJhelumにいたのは、おそらく彼はLahoreでの職を失っていたのである。Lahore駅からRana Sahab邸へと直行し、私はその夜Rana Sahab邸で泊まったのだ。慌ただしい旅の時間を過ごして疲れていた。その夜遅くになって詩人のHabib Jalibが泥酔状態で現われた。すでに八月も下旬に入っていた。
 Lahoreに戻る列車の中でSaeedが、Gilgitくんだりまで行くよりもせっかくMaktabの助手がSalt山系のヒンドゥー寺院行きを誘っていたのにどうして断ったのかと言う。私は、ヒンドゥー寺院へも行きたかったが、どうしてもHunzaへ行っておきたかったのだと答えた。

Saturday, November 02, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


 Lahoreの友人 二

 Shah SahabMaktab 中

 眠りが浅くなっているのか、何かしらざわめくような感覚にからだが包まれる。明け方のおのずと目が覚める頃になって、意識になる前の意識のようなものがざわざわと介入してくるのだろうか。それとも意識になろうとするもののざわざわとした活動が目覚めを呼び込むのだろうか。そんな目覚めへと押し出されるような動きがからだにざわめくようなものとして感じられる。深い眠りにあっては感覚の一部が外部と遮断されているとすれば、それは眠りから覚める頃になって感覚の一部が再び外部と繋がろうとする際の特有の現象なのだろうか。深く静謐な水底で安らいでいたのが、いや応なく水面近くへと押し上げられる。そのとき水面の向こうにぼんやりとした陽の光が射し込み、その陽光を通しておのずとからだが外界を感知し、光の雑音をかたちへと感じとろうとする。
 朝まだきの暗いうちから異様にざわざわとした体感に襲われた。ふと目覚めてベッドから起き上がり、そのまま冷えたフロアに裸足を下し、ざわざわとした空気がそこから圧するように伝わって来るガラス窓に向かった。外は濃い霧に包まれている。が、夜明けは近いようだ。ガラス窓越に見える深い霧の合間から人が蠢くような気配が感じとれた。何かが蠢いているそのかたちは定かでない。ただざわざわと動くようなものが目に感じられるだけだ。夜がゆっくりと明け、霧が解けていくうちに、その蠢きがしだいにはっきりとしたものになってきた。地上のあちこちに襤褸のテントが立ち、また簡易ベッドが雑然と並び、そこに群れ集う夥しい数の人が目に入ってきた。襤褸布を纏っただけのような人たちが、大陸の底冷えに身を温めようとして仕方なく息をし始めている。私を目覚めさせたのは、彼らが一斉に息をし始めるそのざわめきだったのだ。
 日本を発って初めての異国の地、インドの首都ニューデリーで迎えた朝のことだ。前夜遅くに空港に到着したので、まだ宿を決めていないのを心配してくれた隣の席のアングロ・インド系のビジネスマンが空港の電話で自らホテルを予約してくれた。人波と共に〈Exit〉へと流され、その扉が開くと目の前に現地の人が群れ集まっている。その人群れが騒々しくこちらを見つめている。人の群れを、その視線を、力づくで押しのけてようやくタクシーに乗り込んだ。そのまま闇夜の街並を走ってホテルへと直行した。神経が異様に高ぶっていた。ボーイに部屋へ案内されたが、チップも渡さずにすぐさまベッドに潜ったのだった。そして、朝暗いうちから異様なざわめきを感じ、おのずと目が覚めたのだった。窓から外の光景を見下ろすうちに、霧が這うように包み込む地上に貧相な人の姿が蠢いているのを目にした。それが夥しい数であることが見分けられると、私はインドに着たと初めて実感した。19781125日の朝のことである。
 そこはデリーの街を周回する環状道路Ring Road沿いにあるホテルで、Vikram Hotelといった。空港に近いニューデリー南部に位置していた。むろん当時は何も分からなかったが、そこがデリーにおける中流階級の住宅街Lajpat Nagarのすぐ近くであることを後で知った。その数年後、私はこのLajpat Nagarに住んでいたのである。部屋の大家はよりによって〈印パ分割〉時にLahoreから逃れて来た人で、〈分割〉当時のLajpat Nagarはパキスタンから逃れて来た難民の避難地に指定されていたと聞かされた。ということは、この辺りは〈分割〉から三十年経た後になっても、まだ避難地の余韻を抱えていたということになるのだろうか。

 Eidの夜はSaeedと共にShah SahabMaktab(私塾)に泊まることになった。他にも泊まりの客がいた。Islamabadで高校教師をしているという初老の男性だった。名前を失念したので名刺を探し出して見ると、Muztar Abbasiとある。パンジャブ出身だが、若い頃Karachiに職を得て長く住んでいたという。そのせいか、それとも教師をしているせいなのか、私にも十分聞き取れるきれいな発音のウルドゥー語で話をする。Shah Sahabは早くに自室に籠り、代わりに助手が居残って客の相手をした。広い教室の床に蓙が敷かれ、みな思い思いの姿勢で座り、話を交わし始めた。私は主に三人が話をするその内容に傍で耳を傾けるだけだった。暑い夜だった。夜が更けるにつれて教室内に熱が籠り、天井ファンが吹きつける熱風が肌を刺すようになる。それにもかかわらず、彼らの話は政権批判をめぐる議論で熱くなった。
 あるきっかけでSaeedが私に耳打ちしたのだが、Shah Sahabは昨年、Bhuttoが逮捕された翌日から六ヶ月の間Jhelumの刑務所に入れられていたという。Shah Sahabはシーア派のイマームだ。礼拝後の説教の際に礼拝者に向かって前首相のBhuttoを擁護する発言をしたのかもしれない。先代のMulangは英帝国の植民地政策に抵抗してMultanの刑務所に入っていたことがある。礼拝後にモスクで政治的な演説をしていたようだ。Shah Sahabは、私がイメージする中央アジア由来のイスラーム賢者というよりは、Mulangのように理不尽な権力には抵抗する、どちらかといえば反植民地運動の流れを受け継ぐ人であったのだ。英帝国支配下のインドは長い独立運動を経験している。非暴力主義の下、たとえばネルーやガンジーは幾度も逮捕され、刑務所に勾留された。けれども、独立運動家の刑務所服役にはさほど悲観的な趣はなかったようだ。刑務所を受刑者で溢れさせるために、「刑務所に行こう」という運動も展開されたほどだった。
 とはいえ、Zia政権下では逮捕はいきなりやって来た。それも真夜中にだ。Lahoreある弁護士は、「Zia-ul-Haqの時代は警察と警察署の時代だった。毎夜私の電話は真夜中から午前三時頃まで鳴り続けた」という。詩人のHabib JalibZia-ul-Haq政権下で三度逮捕された。1981年にも逮捕されたというから、私が出会った後にも逮捕されたのである。独裁者は、Habib Jalibの名高い詩の一行を削除するよう要求したそうだ。その一行とは、「Zulmat ko ziasarsar ko sababande ko khuda kya likhna?(闇を光(Zia)と、強風をそよ風と、人間を神と、どうして描かなければいけないのか?)」というものである。Habib Jalibはインドの独立運動の闘士の伝統を受け継いでいる。その点では筋金入りのようだ。彼は逮捕された時のことを次のように語っている。「逮捕された後に、私はLahoreAnarkali Bazarを通って警察に連行された。そのとき多くの人が店の中で立ち上がって私に挨拶をした。通行人は私に手を振って答えた。私を信じて励ましの言葉をかけてくれる人もいた。…私は雑多な人が集まる群衆の中にいた。勾留される理由を私は誰からも聞くことができなかった。後に私がKot LakhpatLahoreの刑務所)で詩を書いていることが分かると、彼らはMianwali(パンジャブ西部の町)に移送することで私を罰しようとした。Mianwaliでは詩を書くことができないとでも考えたのだろうか…」。
 Saeedはもう額に汗をじっとりかいている。それでもいつになく真顔になって喋り続けていた。「Zia-ul-Haqの政権になってこれ見よがしにサウジアラビアから多額のオイルマネーがこの国に流れ込んでいる。Ziaはその金でウレマたちを政治の舞台や教育の場面に引き出してきて、彼らをいい気にさせている。そればかりじゃない。いっぽうではアメリカから大量の武器が流れ込んでいる。アフガンの共産主義と戦うイスラーム原理主義者を支援するためというのがその名目だ。その武器がいったいどこへ流れているのか分からない。その一部は国内の過激なイスラーム政治組織の下部セクトに流れているという噂もある。これでは、Bhuttoを支持してきた民衆との分断はますます深まっていくだろう」。
 サウジアラビアはイスラーム・スンニー派の盟主を演じ、社会主義が浸透するイスラーム諸国にオイルマネーを注ぎ込み、イスラームの厳格な要素を支援することでその影響力を及ぼそうとしていた。Zia-ul-Haq将軍はその動きを国内政治に利用していたのである。時に隣国シーア派のイランではイスラーム革命が進行中であり、もう一つの隣国アフガニスタンへはソ連軍が侵攻していた。それに対して、ベトナム戦争後のアメリカがもう動き出していたのである。
 Saeedの発言を受け、教師が落ちつき払った表情で言う。その顔には汗の微塵も見られない。「もっと視野を広げて見るならば、独立後三十余年を経て、この国にZia-ul-Haq政権が出て来たその歴史的必然性があるのではないだろうか。…Zia-ul-Haqによるこの国のイスラーム化が、〈Jamaat-e-Islam(イスラーム党)をつくったAbul Ala Maududi(19031979)の理論に影響されているのは明白だ。Maududiがなぜあのようにイスラームの政治化、あるいは社会のイスラーム化を熱心に説いたのには理由がある。このことはおそらくムガール帝国の崩壊に原因している。まずはそこまで遡ってみなければならない…」と。
 助手に尋ねたところによれば、Maududiはイスラーム学者で、ウレマのような聖職者ではないという。Jamaat-e-Islam(通称JI)」とは、彼が英帝国統治下の1941年に創設した政治的な宗教組織で、イスラームの価値の実践化を促進することを目的としてつくられた。それと共に彼はこれまでに多くの著作を出版し、その中でイスラーム国家の在り方を説いてきたという。彼とその党派はイスラームを政治化し、パキスタンにおけるイスラーム国家を支持する動きを生み出してきた先駆者と考えられている。今日、JIはアジア最大のイスラーム組織となっているようだ。
 Saeedは反論する。「印パ独立以前には、Maududiはインド亜大陸を分断してムスリム国家が創られることに反対していたんじゃないか。実際、ムスリムが多数を占める独立国家を求める〈ムスリム・リーグ〉に対抗して彼はJIをつくったのだ。その主張と運動は矛盾したものだ。自分たちは独立運動を主導しなかったにもかかわらず、パキスタン独立後になって、イスラームの理想を掲げつつもイスラームの支配にこだわらないMuhammad Ali Jinnah(18761948)を〈不信心者〉と批判し、Jinnahに対抗してMaududiJIAmeer(指導者)として、イスラーム国家とはムスリム国家であり、クラーンとSunna預言者ムハンマドの言行・範例)に基づいた憲法をもたない限りイスラーム国家ではないとぶちあげ始めたのだから。その国家においては、イスラームが生活のあらゆる領域を主導することになるとさえ考えていたわけだ。その考えは確かにムガール帝国崩壊後のムスリムの惨憺たる状態を顧みてのことかもしれない。しかし、彼自身はその原因である圧政的な植民地政府に抵抗することなく、独立運動に身を捧げることがなかったのだ」。
 うっすらと額に汗を浮かべはじめた教師は言う。「確かにMaududiは独立運動の傍観者だったかもしれない。しかし、彼が目論むイスラームを政治化する流れはこの国が独立する以前から出来ていたんだよ。おそらく、この国での〈Ahmadiyya問題〉が、その問題に政府が対処する仕方が、彼とその党派に大いに力を与え、潜在する流れに大きなかたちを与えるようにしてZia-ul-Haqの登場を促したのだろうと私は思っている。独立後の1953年、MaududiJIはまず、この国のAhmadiyya共同体を認めるべきでないとするイスラーム保守派による〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉に参加した。彼らは、Ahmadiyyaムハンマドが最後のかつ最も偉大な預言者であることを受け入れていないと強く主張した。Maududiはこの国の保守的ウレマといっしょになって、AhmadiAhmadiyyaの人)を名指しでムスリムではないと言い放ち、Muhammad Zafarullah KhanのようなAhmadiを政府の高級官僚職から追放し、Ahmadiと他のムスリムとの婚姻を禁止するよう要求し始めたのだ」。
 Saeedは言う。「確かにAhmadiyya運動を異端とする批難は運動が興ってしばらくして後の1915年から本格的になり始めた。が、正統派のウレマたちが〈Ahmadiyya問題〉を声高に唱え始め、インドのムスリム指導層に圧力をかけ始めたのはやっと1940年代頃だ。しかし興味深いことに、Ahmadiyya運動は当時、Jinnahの〈全インド・ムスリム・リーグ〉と提携していたのである。当時の〈ムスリム・リーグ〉は、近代主義的ムスリム、世俗的民主主義者、Jinnahを支持するウレマ、そしてマルクス主義者の混合から成り立っていた。実際、1946年のパンジャブでの選挙における〈ムスリム・リーグ〉のマニフェストは、ほとんど社会主義者やマルクス主義者によって書かれたものだ。いっぽう、イスラーム・ロビーはJinnahに〈ムスリム・リーグ〉とAhmadiyyaとの関係を断つよう忠告したが、Jinnahはその提案を無視した。重要なのは、当時Jinnahがイスラーム・ロビーの忠告を無視できたことだ」。
 話の内容に困惑する私を見てすかさず助手が助け舟を出してくれた。「Ahmadiyyaとは、正式には〈Ahmadiyya(ムスリム)共同体〉と言い、そのメンバーをAhmadiと言うんだ。その歴史は、Mirza Ghulam Ahmad(18351908) という人物が1889年にパンジャブ州のLudhianaの家で、彼の幾人かの仲間たちから忠誠の誓いを得たときに始まる。そこでMirzaは、自身が〈イスラームにおける百年の改革者(Mujaddid)〉であると宣言したという。それは、彼がイエスの再来、もしくはムスリムが待望したMahdi(救済者)であると宣言したのと同じことを意味した。そのことによって、ことに北インドにおいて彼は相当な数の信奉者を獲得することになった。Ahmadiyyaはイスラーム内の改革運動としてインドに立ち現れたわけだが、それは十九世紀のインドで広く行なわれたキリスト教徒やヒンドゥー教徒による近代的な再伝道活動へのイスラームからの反応でもあった。たとえば、ヒンドゥー教徒の〈Arya Samaj(アーリア協会)〉はこのパンジャブでもその活動を強化していた。それでこの国の〈Ahmadiyya問題〉であるけれども、それは、Mirza Ghulam Ahmadの死後、その信奉者たちの一部がMirzaを預言者かつメシアであると主張し、彼はイスラームの真の信仰を取り戻すよう神から委託されたのであり、それゆえこのことに同意しないムスリムすべてを不信心者と批難したことにある。彼らは、預言者ムハンマド自身がイエスの後にAhmadという名の使者を予言し、それをAhmadiyyaと呼んだ、そう主張したのだ。自ら預言者であると主張するのは、ほとんどのムスリムによって重大で許し難い罪であるとみなされているから、このことが大きな問題となっている」。
 教師が額に汗して論じ続けていた。「〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉はLahoreで大きな暴動を生み出した。少なくとも二百人のAhmadiが殺されたといわれる。一部には戒厳令が発動された。Maududiは軍によって逮捕され、煽動に関わった罪により死刑を宣告された。ところが、〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉は多くの大衆の支持を得たので、政府はその強い社会的圧力によって最終的にはMaududiを二年の服役で解放することを余儀なくされた。この解放は、保守的な大衆にとって、〈イスラームでないものに対するイスラームの勝利〉であり、またMaududiの指導力とゆるぎない信仰の証しであるとみなされた。その後、キャンペーンはMaududiの主導によって、イスラーム国家の政治の在り方に焦点が向けられるようになった。1956年憲法がJIの要求を受け入れて採択され、Maududiがこの憲法に支持を示し、あらためてイスラームの勝利を保守的な大衆に向けて訴えたのだ。ここに保守的な流れが大きなかたちをとって水面上に現われたのだ…」。
 すぐさまSaeedが反論する。「いや、Ayub Khan将軍によるクーデターが起きて、あの1956年憲法は棚上げされたじゃないか。そして、Maududiとその党派は弾圧され、ふたたび彼は1964年と1967年に服役した。JIはイスラームの政治化という方針を変更せざるを得ず、野党の世俗政党との連合に参加し、1965年の大統領選挙では、Ayub Khanの対立候補であるFatima Jinnahを支持するために政策的に譲歩さえした。そして1970年の、この国で初めてと言っていい総選挙では、Maududiは〈次の指導者〉として国内を遊説し、JI151人の候補者を立ててそのエネルギーと資力を費やしたが、それにもかかわらず、党は国会と地方議会共に四つの議席を得たに過ぎなかった。この敗北は、1971年にMaududiを政治活動から手を引かせ、学究生活へと戻らせた。1972年にはMaududiJIAmeerを健康上の理由で辞職した。つまり、あなたが言う大きな流れはかたちにならなかったのだ」。
 Saeedは社会主義を信奉するあまり、教師が指摘する、パキスタンにおける保守的イスラームの連綿たる流れという事実をどうしても認めたくないようだった。
 教師もすかさず反論する。「そのすぐ後に、イスラーム保守主義者の潮流が集い、〈Nizam-i-Mustafa(預言者の組織)運動が興ったじゃないか。JIが構想を提示し、かつ補強したこの保守的政治グループの同盟は、Bhuttoのパキスタン人民党(PPP)に対して一致結束することができたのだ。そして、1977年になってMaududiはふたたび〈中央の場に戻って来た〉のだ。この1970年代後半からの流れは、我々が見ての通り、結果的にZia-ul-Haq将軍がBhutto政権を転覆させ、政権を掌握するという事態を招くことになった。政権掌握後にZiaMaududiに元老議員の地位を与え、彼の助言を求めた。さらには彼の助言の言葉を新聞の一面に掲げるよう画策した。そして君も知っているとおり、MaududiZiaの政策予備交渉を受け入れ、その場でBhuttoを処刑する決定を支持したのだ。Maududiの理論によれば、Sharia(イスラーム法)は政権によって上から実施されるよりも、教育によって下から実現させるべきだと考えられていたが、そうした政策的な違いにもかかわらず、MaududiZiaとそのイスラーム化、すなわちこの国の〈Sharia化〉計画を熱烈に支持したのだ。JIZia-ul-Haq将軍がこの国に〈Sharia〉を導入するのに大いに手助けをし、またいっぽうで、Ziaによって司法や行政内にJIのメンバーやその支持者一万人が職を与えられたが、それによってJIの組織は驚くほど強大化したのだ」。
 Saeedが反論できずにいるその隙をついて、今まで発言を控えていた助手がAhmadiyyaについて付言した。「二十世紀の初め頃までは、Ahmadiyya運動は、Sir Syed Ahmed Khan(18171898)Syed Ameer Ali(18491928)のような近代主義的で改革主義的なムスリムが指導する、精神主義的で福音主義的なイスラーム運動の一派とみなされていたことを忘れてはなりません。実際に、かなりの数のインドのムスリム知識人がAhmadiyya運動に密接に連係しており、Mirza Ghulam Ahmadをインドにおけるイスラーム信仰の救い主とみなしていたのです。あの輝かしき詩人にして思想家でもあるMuhammad Iqbal(18771938)さえも、かつてはAhmadiyya運動の賞賛者であったのです。また、Ahmadiはパキスタンの成立に際して主導的な役割を果たしたので、軍、官僚、政府内の重要な地位に配置されることにもなりました。そのことはまた、我が国の発生期の産業界においても同様です。Ahmadiyyaの信者は世界で1000万人から2000万人いるとされています。Ahmadiyyaはクラーンの翻訳を積極的に進めており、またAhmadiyyaへの改宗にも積極的です。世界の多くの地域で、Ahmadiyyaを通してイスラームの信仰を見出し、イスラームへ改宗したという例は枚挙にいとまがないほどです。そのいっぽうで、多くのイスラーム国家でAhmadiyyaは異教であり、ムスリムではないと定義され、迫害され、しばしば組織的に抑圧されています。我が国では1974年に可決された法案によってAhmadiyyaはムスリムではない少数派と定められました。Ahmadiyyaはほぼ一夜にしてこの国における非ムスリム少数派に変わったのです。法案可決後に保守的大衆による暴力はおさまったけれども、ビジネス、科学、教育、公務員の分野に積極的に関わっていた多くのAhmadiたちがこの国から去りはじめました。我が国は、Ahmadiyyaがムハンマドを最後の預言者であると考えないので、それを非ムスリムであると公式に宣言する世界で唯一の国です。彼らの宗教的自由は一連の法令や憲法の修正によって縮小されてきました。…つまるところ、我が国の〈Ahmadiyya問題〉とはこういうことではないでしょうか。それは、印パ独立以前に、すなわちムガール王朝崩壊後の十九世紀後半のインドに〈Ahmadiyya〉というイスラーム改革運動が興り、それに伴うイスラームの新たな一派が形成されたのですが、1970年代の現代になってそれがイスラームではないと法的に宣言される、パキスタンというイスラーム共和国の問題です。イスラームがイスラームの改革を異端として否定するとは、中世ならともかく、現代においていったい何故こんな異様なことが起きるのでしょうか。こんなことが起きるこの国のイスラーム社会とは何なのでしょうか」。
 助手の話を聞いて、思いがけなくも彼は明晰な話をする人だと私は感じ入った。彼にはイスラームの党派性を微塵も感じさせないところがあり、イスラームの形式に囚われない自由な精神の持主だと感じさせられた。おそらく師のShah Sahabがそうなのだろう。
 この〈Ahmadiyya問題〉のその後の経過について、現在の私が報告しておこう。1984年、Zia-ul-Haq政権は、Ahmadiyyaがその信条を広めかつ教えることを禁止する法令を発し、Ahmadiyyaに対するパキスタンの立場をさらに強化した。〈反イスラーム的活動〉を抑えることを名目的に制定されたその法令は、Ahmadiに自身をムスリムと呼ぶこと、もしくはムスリムであるかのように振る舞うことさえ禁じている。つまり、彼らは「アッサラーム・アライクム」の挨拶も公に交わせないのである。彼らの礼拝所はモスクと呼ぶことができなくなり、礼拝の呼びかけをする行為(アザーン)、クラーンからの公然たる引用、他信徒に改宗を求めること、さらには書物を出版し、普及させることも禁じられた。法令を犯すと最高三年間の禁固が課される。またパスポートを申請する際には、申請書に「Ahmadiは自ら名乗り出なければならない」という条項があり、それにサインしなければいけない。もし名乗り出ず、係官がムスリムとして申請を受理すると、後にその変更さえできない。さらには、あらゆる公的な書類、例えば大学入学証、IDカード、銀行口座の申請書類には、Ahmadiである旨告知しなければいけないことになっている。
 さて、その場にいた誰もが分かっていながら、それまであえて誰も口にしなかったことがあった。それは、〈Ahmadiyya問題〉が保守派の手に落ちるのは、1974年のBhutto政権のときであり、そのときパキスタンの国会はAhmadiyyaを非ムスリムと宣言する法律を採択したことである。その憲法は、ムスリムを「預言者ムハンマドの最終性を信じる者」、そう定義する旨修正された。
 重い雰囲気を背負うようにしてSaeedが口を開く。「Bhuttoは、後に暴力に訴えることになる宗教的かつ政治的な党派の要求に屈し、1970年の選挙期間中に徹底的に打ちのめされた彼らの信用と地位を無意識のうちに取り戻させてしまったかもしれない。確かに〈Ahmadiyya問題〉ではBhuttoは失敗を犯したのだ」。
 教師がそれを受けて言う。「1971年に東西パキスタンの分裂があり、それ以前の西パキスタンの支配階級や経済エリートが東パキスタンの人を扱うのに粗野な仕方であったのを認めていたのにもかかわらず、西パキスタン政府は、東パキスタン、すなわちバングラデシュという国家の敵対的な出発を、こともあろうか〈イスラームの敵〉によって企てられた悪魔的な陰謀と説明し始めた。というのも、BhuttoPPPによる新しい政府は、その同じ〈敵〉がいまや西パキスタンの他の州でも民族ナショナリズムの炎を煽るかもしれないという恐れを強く抱いていたからである。東パキスタンを失ったその衝撃に次いで、独立時にJinnahが提唱した二国家理論が疑問に付されるのではないかという懸念も生じていた。共にムスリム国家として出発した東パキスタンが、ベンガル民族主義を土台にしてバングラデシュとして独立したからである。つまり、国内のあちこちに民族主義的な要素が台頭していて、Bhuttoは〈Ahmadiyya問題〉を軸にして国がさらなる分裂をし、その果てにインドに呑み込まれてしまうという事態になることを恐れていたんだ」。
 Saeedが言う。「分裂前の1970年の選挙では、パンジャブの労働者階級や小市民派と共に、Ahmadiyyaの圧倒的な数の人がPPPに投票した。つまり、都市部ではPPPを軸にまとまっていた。それにAhmadiたちは西パキスタンの経済においてはゆるぎない立場を占めていた。それなのにBhuttoがこの問題に神経質にならざるを得なくなったのは確かに東パキスタンという一翼を失ったからなのかもしれない。西パキスタンの人々は総じて分裂の事態に打ちひしがれていた。それでもBhuttoは、Ahmadiyyaを少数派と宣言して彼らを国家や政府機関から追放することは、国家経済や政治的安定性を損なうことになると主張し続けた。彼はまた、問題は宗教的なものであり、それゆえ国会はそのことについて可否を問うべきではないと異議申し立てた。しかし、宗教政党は承認しなかった。彼らは、憲法がパキスタンをイスラーム共和国と宣言していること、それゆえどうして宗教的問題が国会で論議される余地がないと主張できるのか、そうBhuttoに詰め寄ったのだった」。
 教師が言う。「東パキスタンを失ったことで、ことに宗教政党はいっそうイスラームの信仰的側面を人々の感情に訴えてきた。人心の不安を宗教的感情へと置き換えるようにして集中させ、それによって政治的な大きなうねりをつくり出そうとしたのだ。Bhuttoの助言者たちが、もしこの危機が煮詰まり、打開されないままにしておくと、党は野党の要求に同情的である国会とパンジャブ州での何人かの議員を失うだろうとBhuttoに警告したのはこのときだった。パンジャブ州では州知事の無策によって経済的不安が広まり始めていたからである。国家、政治家、社会の様々な影響力のある分子たちが、自分たちのしでかした失敗が呼び寄せてしまった危機的状況へ民衆の注意が向くのを塞ごうとして、もしくはその注意を逸らそうとして、宗教的プロパガンダを利用しているとしばしば批難されてきたが、まさにその通りなのだ。そしてこうした問題の背後には、この国のイスラーム社会が育んできた宗教感情をめぐる長い歴史がある…」。
 バングラデシュの独立は、パキスタン人にとってできれば避けたい話題だったにちがいない。私はLahoreに滞在していた二年間、学生はもとより、Lahoreの知人からバングラデシュに関して話を聞いたことがなかった。次第に、彼らの認識はお互いに収束し始めたようだった。しかしその分、私は蚊帳の外におかれはじめたような気がしてきた。それに議論の具体的な事例についてその詳細が解らなくなってきた。彼らはといえば、自身の意見を披瀝するにつれて気分が高まり、高まるほどに議論の内容の詳細さとそれを話す所作において熱くなるいっぽうだった。この国の人は議論することにおいて異様な逞しさを見せる。私はといえば、心身共に暑さで耐えられないほどだった。議論についていけないので、議論にも暑さにも息苦しさを感じる。それで私はしばし外の空気にあたろうと思い、こっそり教室を出ることにした。
 外はすっかり闇に覆われていた。見知らぬ土地なので西も東も分からない。その闇の中にいきなり足を踏み入れて、あたかも山道で迷って気分が動揺し、自己を失って酩酊するような感覚がある。そんなふうに、夜の闇はかえって人間の身体感覚を自律的なものへと移行させ、そしてそのことが逆に意識の平衡感覚を失わせるかのようだった。ただ教室の中よりは居心地がいいので、闇の中にいても安堵感に包まれていた。ふと耳を澄ませば、暗闇の向こうにJhelum河が流れる音が聞こえてくる。微かな音だが耳には感じられる。ふと息をすれば、夜の闇の中に充満する河の匂い、それにどこからか漂ってくる夜の花の香りがする。こうした一部の突出した感覚がさらに酩酊感覚を駆り立てるようだった。私は、私を包む濃厚な闇に酔ってしまったかのようだった。今さっきまでいたMaktabの中よりはずっと心地よく、私は教室の建物の端に掛かる廂の下に置かれたチャルパイ(簡易ベッド)に腰を下ろした。そして、いつのまにか横になって眠り込んでしまった。
 ふとからだがざわめくような感覚に目覚めると、Maktabの向かいのMazar(聖廟)に夥しい人が集まる気配が感じられる。しかし、闇に目を凝らすようにして見つめても、気配のうちに人影が見えるようで、そのくせかたちは定かにならない。闇の中で揺らめく影が暗い炎のように瞬いているのが見える、というよりは、ただそう脳裏に感じられるだけだ。あの影は何なのか。こんな真夜中に人が集まって何をしているのだろうか。助手に尋ねてみないといけない。そう思ってMaktabの建物の方をうかがってみる。と、教室の明りはまだ煌々と灯り、いつのまにか戻ってみると三人が声を上げて議論しているのが耳に入って来る。それからいつのまにか教室に入っている自分に気がつくと、彼らの議論の中身は先ほどとは違ったものになっていた。
 イスラームの政治化はパキスタンの建国理念に反している。イスラームが〈神の下の平等〉を説くのなら、それはまず社会主義に通じると主張するSaeedの意見を受けて、教師がそれをたしなめるように言う。「イスラームと社会主義との並立はとうてい認められない。社会主義には神がいないからだ。それでは社会主義に必要な土地改革さえ行なうことができないだろう。この国の人々とその土地所有との関係は極めて歴史的なものであって、それを神の采配によってではなく、制度によって決め直すことなどとうていできない相談だ。それに社会主義とはいえ、それはあくまでも人間がつくり出した制度だ。制度は人をしてその自然力の抑制へと追い込ませるだけだ。さらには人間の自然的な地位と諸能力の否認に至らせる。現に共産主義国家を見るかぎり、制度的社会を制御する者だけがこの抑制から逃れているかのように見えるわけだから…、つまり、もうそこに不平等が生じているのだ」。
 それならば、パキスタンという、現代において新たに創建された〈イスラーム国家〉とはどうあるべきなのか、そうSaeedが問いかける。このイスラーム社会に何か他の社会とは異なる飛び抜けた利点があるのだろうか。イスラームという理念を掲げるのなら、新たなパキスタンは、様々な民族と信仰をそのまま抱え込むことができるような、どちらかといえば歴史的な綜合として表現されるべきだろう、そう問いかける。
 教師は、「おそらく人間のつくり出した制度によっては、この国の、〈Dost Dushman(敵と味方)〉という考え方がどうしようもなくある社会を変えることはできないだろう。〈敵と味方〉という関係が根強くある社会は、かのホッブスが唱えた〈万人の万人に対する闘争〉という人間の自然状態が、そこに抱える欲望を抑制し、諸能力において譲歩しながら行き着いた帰結であると考えられる。社会は人のためにつくられるが、人はかえって社会のために犠牲を強いられる。なおかつ、多数が決めた社会の方向性に少数派は従わなければいけない。社会を維持するためにはいつだって誰かが割を食わなければいけないのだ。社会と個人のこうした逆説的で矛盾した関係についていえば、ホッブスが〈万人の万人に対する闘争〉という問題を解消しようとして解釈づけたその〈議会民主制〉の考えは、社会の制度を決める機関、すなわち議会のことだが、その決定機関への畏怖(Awe)に基づくものから発想されていると言わなければならない。つまり、社会制度の決定機関への畏怖の感情こそが個人の不満を抑えることができる、そう考えられているわけだ。いっぽう我々のイスラーム社会は、個人と社会の関係の正当性を神に託してきた。神は絶対的なものとして個人と関係している。神の名において、ということは深い信仰をもってして、そう言ってもいいが、イスラームでは社会と個人の関係には問題がない。つまり、そこには矛盾がないのだ」。
 そこに助手が決然として口をはさんできた。最初は口ごもっていたが、次第にその内容は明確になっていった。「我々人間の社会は、むろん人間自身がつくった制度によって成り立っています。社会主義の制度はイデオロギーによって決められるから、人間をしてその自然力を抑制させることになるのです。いっぽうの資本制社会も次々と新たな制度をつくり、あるいはあらたに決め直していますが、それは人間の欲望に深く根付いた制度だからでしょう。私は制度を強いるこうした社会に力点を置くよりも、どちらかといえば、社会の中の個人の在り方を見直したいと考えます」。助手の告白によれば、彼の家系はそう遠く遡らない時期にヒンドゥー教徒から改宗したムスリムであり、その経験から、イスラーム教徒とはいえ、その内部には様々な歴史環境を抱えている人がいるのだと言う。そうした視点から、社会の単位である<個>というよりも、内部に心身的な多層性を抱える<個人>を強調する。「今拝聴したところによれば、民主主義の〈個人〉にはいまだにホッブスの〈万人の万人に対する闘争〉の影が映し出されているのが分かります。つまり、<個人>を〈個〉という単位で見る見方があるわけです。そうではなく、〈民主主義〉における社会と個人との関係について、そこには新たに考えることのできる余地があるのではないでしょうか。それが、〈多層なものを抱える個人〉と、そうした<個人>を基盤に据える社会との関係です。〈多層なものを抱える個人〉は、社会主義社会や資本制社会における〈個人〉とは異なるのです。それはもう、一個の〈単位〉と考えることができません。たとえばこのJhelumの地に住むムスリムは、ムスリムでありなおかつパンジャブ人であり、パンジャブ人はかつてヒンドゥー教徒でもあったわけであり、またさらにはパンジャブが無定型な時代であった民族の流動状態をも引継いでいる人たちなのです。今はパキスタン人と言われていますが、そんな単純なものではないのです。ほら、ここにいるターヒルをご覧なさい、彼はムスリムであり、日本人でもある。いやもしかして日本が日本でなかった時代の民族的な流動状態をも引継いでいるのかもしれません。そうしたお互いに多層なものを抱えた存在がいつも出会っているのが、実際、この人間社会なのです。私は、まずみながお互いにそう考えることのできる社会概念から出発して、それに沿って議論できればと考えるのですが…」。
 突如として、議論は新たな振出しに戻るかのようだった。私は助手の指摘を受けて、いきなり三人の鋭い視線を浴びた。そのうえさらには、天井ファンが吹き付ける熱風が肌を刺すようで、からだ中がちくちくと痒くなった。

 翌朝、私はMaktabの外に置かれたチャルパイで目が覚めた。全身を覆っている白い綿のシーツのいたるところが血で真っ赤に染まっている。どうやら一晩中蚊の襲撃を受けたようだ。むきだしの脚部や上腕部がひどく刺され、そこに小さな紅い斑点が無数に連なるのが目に入ってきた。しかし、痒みはもう治まっている。夕べSaeedが外で寝ている私のところへやって来て、教室の中は熱気が籠ってひどく暑いので、熱気を避けるためにチャルパイを外に出して寝てもいいが、その代わり蚊に襲われるがいいかと聞く。つまり、暑さか蚊の襲撃かの二者択一を迫られ、蚊の襲撃に備えてシーツを被って外で寝るという選択を昨夜したのだった。昨夜の記憶が断片的に再生されるが、二日酔いでもあるかのようにすぐに朦朧とした意識のうちに沈んでいく。私はまだ横になったままだった。Maktabの方を見ると、Saeedと教師も教室の外の廻廊にチャルパイを出して寝ている。私はチャルパイから身を起こし、寝不足気味の頭をぼんやりさせていた。すると、早くもそこに身支度をした助手が現われた。ここから二マイル離れたところにある学校へこれから教えに行くのだと言う。昨夜、Mazarにたくさんの人が集まっていたようだがと私が言うと、怪訝な顔をされ、「いい夢でも見たんだね」と、冗談めかした返答が返ってきただけだった。
 私はチャルパイから離れ、足下のチャッパルを履き、すぐそこを流れるJhelum河を眺めに行く。静かな流れだ。流れに見入っているとShah Sahabがやって来た。朝の挨拶を交わすと、二人で黙ってしばしJhelum河の流れを眺めた。中州に水牛の群れが戯れている。一人の老人が小さな船を操舵してこちらの岸辺からゆっくりと中州に行くところだ。水牛の持主か、それとも番人か。棹の竹が大きく撓っている。「ずっとこんな光景だ」、そうShah Sahabが穏やかな口調で私に声をかける。豊かな河の流れとその河を拠りどころとする生活は昔から変わりない光景となっているようだ。私はその変わることなく続く時間を味わうかのように河の光景に見入った。永遠の感覚は自己の意識が制約されたところに生まれるという。それも、そこに〈世界〉を信ずる姿勢があってこそである。しばらくして、私は戸惑いながらも、Shah Sahabに〈印パ分割〉について尋ねてみた。Shah Sahabの返答は、「難民状態は人から尊厳(Izat)を奪う」、と言うものだった。私が黙っていると、「Izatの意味は分かるかね」と私に念を押すように言う。私はIzatの語義的な意味は分かる。が、Izatとは自然状態にあるものではない。それは人と人との間に生まれる思念であり、それはまたある種の力でもある。人に尊厳を抱く人は、その人自身にも尊厳の状態が生まれ、それゆえ尊厳とは何かを知ることになるだろう。そうでなければ尊厳という言葉は成り立たない。それは人と人との真摯な関係性のうちに姿を顕わす現象的なものであるからだ。そのように現象的に存在するという意味で言えば、私にはIzatを弁えていると言う自信がなかった。そのことを察してかどうか今では分からないが、「私たちにはいつだってIzatが必要なのだよ」、そうShah Sahabは繰り返し私に念を押した。
 それに続けるようにしてShah Sahabが話をし始めた。昨夜〈Ahmadiyya問題〉について議論をしていたのをすでにShah Sahabは知っているようで、先代のMulangは、LahoreにあったAhmadiyyaのカレッジに入って勉学したと言う。1920年代後半のことらしい。しかし、Mulangは植民地政府に抵抗していたが、LahoreAhmadiyyaは植民地政府に協力的だったようだ。「このMaktabができたのは1932年だ。先代は植民地政府のために働くことを嫌っていた。そういう人物だったのだ。それで、その反帝国主義的な言動のせいで、植民地政府から圧力をかけられていた。そうしたこともあり、Ahmadiyyaの友人はMulangに失望してしまったのだ…。その状況は複雑だが、むろんAhmadiと私たちの間にIzatが必要であることは言うまでもない」。
 私はパキスタン近代史の「状況の複雑さ」を思い、自ずと口を閉ざしてしまった。すると、「ほら、Naseemだ」、そうShah Sahabがにこやかな表情をして声に出す。私は誰かこっちへやって来たのかと思い、すかさず辺りをうかがった。「朝の涼しい風をNaseemと言うのだよ」、そうShah Sahabが言う。「ナシーム」、美しい音だ。その音感にすばらしいものが含まれているような気がする。かつて耳にした音感が今でも遺っていて、いまそれを耳にすると途端にその音を中心にして意識の働きが広がるような感覚がある。というか、いままで微細に分散していたものがいっきに凝縮するような感覚がある。「ナシーム」の音がそれだ。「Naseemは人間ばかりでなく、草花や水牛にとっても心地よく感じられているにちがいない」、そうShah Sahabが表情を綻ばせて言う。それまで暑さによって自然と自分とが厳しく分け隔てられていたのが、Naseemに包まれることで、自然との分け隔てがとり払われるかのように感じられる。自然と人間との関係がそのようなものであることを、その関係が〈世界〉に通じるのだということを、Naseemに包まれることによって理解されるような気がした。これまで信仰が生き続けてきたところでは、つねに〈世界〉と人間の関係についてその思考が費やされてきた。そうした思考の一片に触れたような気がしたという意味で、そのとき私にとってShah Sahabは、やはりイスラーム賢者の伝統を受け継ぐ人のように思われた。
「八時だ。そろそろ生徒たちがMaktabへ集まって来る」、Shah Sahabはそう言い残し、その準備に取りかかるために、おそらくいつもと変わらぬゆったりとした足取りでMaktabの中に入って行った。