Friday, July 17, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

 三 錬金術と東方世界

 

錬金術とは「鉱物を熟させ、金属を純化する技術である」(M. エリアーデ)といわれる。「純化された金属」とは金(Au)のことであり、鉱物から精錬される(熟される)金属は成分的に余分なものを含み、それを取り除いて純粋な金属にすれば<金>になると考えられていた。ラテン語で錬金術を「alchemia」といい、それはアラビア語の「al-kimia」から来ている。この「al-kimia」の語は古代エジプト人が不死薬を調合する際の言葉として知られてきたとされ、「kimia」はコプト語の「khem」、すなわちナイル・デルタの豊穣な黒土を示唆する語であったという。ナイル・デルタでは農地を灌漑することなく、毎年の氾濫効果によって堆積した黒土には肥料をやることなく作物を栽培し収穫することができるほど自然の養分が含まれていたようだ。人為を施さなくても毎年決まったように作物が収穫される土壌、こうしたことからそこに「不死」というイメージが重ねられたのだろう。いっぽう、al-kimyaの語はギリシア語圏となった古代エジプトで「汁」を意味し、植物からエキスを搾り出す、すなわち本質的なものを取り出す技術を示すという説もある。他にも説があり、語の起源は定まらないが、いずれにしてもその語は古代エジプトを起源としている。そしてその通り、錬金術自体は紀元前のアレキサンドリアで培われた技術と思想がイスラーム世界に伝わり、イスラーム錬金術の書がラテン語に翻訳されて西洋世界で研究されるようになったことは広く事実とみなされている。また中世西洋においても錬金術は東方起源の技術として知られていたのである。つまり、中世西洋の錬金術は、意識的であろうと意識的でなかろうと東方世界と深く関わるものであった。

西洋中世には著名な錬金術研究者としてスコラ学者のアルベルトゥス・マグナス(1200頃〜1280)や出版業者のニコラ・フラメル(13301418)、そして医師パラケルスス(14931541)等が挙げられているが、市井には「純粋な金属」を得ようと様々な錬金術師たちが実験に傾注していたのであり、またその思想を研究する者たちが少なからずいた。ピーター・ブリューゲル()の版画下絵に錬金術師の仕事場を描いたものがあり、十六世紀の市井の錬金術工房の一端を伺うことができる。都市の民家の一隅で導師が書見台に開かれた錬金術書に目を通しながら職人たちに指図し、その周囲には床で鞴を操る者たち、机上で物質を調合したり、液体が入った容器を炉にかける者が仕事に精を出している。そして、部屋のいたるところには様々な器具と様々な形をした容器が散乱している。

西洋では錬金術における最大の目標は「賢者の石」を創り出すことにあった。それは非金属を金などの貴金属に変え、また人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられていたからである。エリアーデは錬金術について、それは「自然の活動に協同すること、永遠に増加する速度で産出するように自然を援けること、物質の形体を変化させること」と言うが、というのも、「ヨーロッパでは大地の胎内にあるすべてのものは懐妊の状態にあると考えられていた。鉱石はある意味で胎児であり、地下の鉱脈は植物や動物とは異なる時間のスケールとリズムに則ってであるけれども、地中で樹木のように生い茂り生長し続けていると信じられていた」(山本義隆「十六世文化革命」)からである。

具体的には錬金術とは、物質の変成を支配している自然原理を主に実験と観察を通して解読し、そこから得た知見に基づいて加熱、蒸留、溶解、沈殿、濾過、発酵といった物理学的かつ化学的手段を用いてこの変成過程を人為的に促進させ、自然の活動に協同するようにして不完全なものを完全ならしめ、最終的に純粋で有用な成分を分離抽出するまでの一連の技術を指していた。錬金術の達人たちは、蒸留や濾過の仕掛けをより効率の良いものへと改良しつつ作業を繰り返し、目の前の化学変化のプロセスを実に正確に記録した。錬金術はもともと自然哲学を土台にしており、世界を説明することを第一目的としていたからである。そうして、錬金術がそれまでに開発してきた夥しいテクニックが近代化学と近代技術の財産目録に加えられていったのは、十六世紀の実際的な職人や技術者の努力による。技術者による錬金術技術の継承というワン・クッションを置いてはじめて、錬金術の知識と技術が十七世紀の化学者の手に届いたことになる」(同上)という。すなわち、西洋において錬金術の展開は近代化学を準備したのである。

しかしこうした錬金術の方法は、中世西洋におけるアカデミズム世界では実験や観察によって得られる認識は低く見られていたために、当時は何ら重要視されていなかった。大学ではもっぱら古代の書物の知識から得られる認識がまかり通っていたのである。それに対して実験を基にした自然研究である錬金術はあくまでも経験を重視する<知>としてその形をとり始めたのであり、言い換えれば、試行し観察する、そして新たな条件でまた試行するといった一連の過程が要請する<知>こそが近代に通じる新たな方法(科学)を用意したのである。

 

マルチン・ルター(14831546)と同時代を生きたパラケルススは医師であり、錬金術師ではないが、医療行為に従事するに伴い錬金術(化学)を包括的に捉えていた人物である。当時はいくつもの<知>がそれぞれ特定の成員にだけ伝授されるかたちで外部に開示されることなく並存して営まれていたが、パラケルススはアカデミズムを含むそうした閉鎖的な<知>のシステムを公然と批判し、自然研究に際しては徹底して経験主義者であらねばならないことを主唱した。すなわち、自らの経験を基にして医療行為をするにあたり、伝統医学に従うよりも症状を観察することで積極的に民間医療も導入しながら治療を行ったのである。しかも彼は死刑執行人、理髪外科医、羊飼い、ユダヤ人、ジプシー、産婆、占い師等、社会の周辺的な人たちと交流し、学識者のみならずあらゆるところから有用な情報を収集したという。そうした情報を基に、治療のための薬剤を自然成分から自ら創り出しさえした。さらにはその考えを書物にして著し、当時の新技術である活版印刷によって出版した。こうした行動からしてパラケルススは当時から特異な人物として知られていたようだ。身分的な制限上、自ら医療行為ための場を構えることなく、生涯を通じて放浪の医師として過ごし、「私は医学博士たちのもとだけではなく、理髪師や浴湯師のもとにも、学識ある内科医のもとにも、産婆や呪術師のところへも、治療の術を行う者ならどこへでも出かけた。錬金術師や修道院の僧のもとへも、貴族にも賤しい身分の者のところにも、熟練した者のところへも俗人のところへも行った」とその著作「大外科学」の中で述べている。これには少し説明を要するが、当時、農村や山岳地帯はもとより、都市の大部分の住民にとってさえ、医療は理髪外科医や薬種商や助産婦、公衆浴場で吸角や瀉血といった療法に従事する浴湯主、経験豊かな古老や薬草師や呪術師たちによって営まれていたという。ことに都市に店を構える理髪師という職は事実上外科医の仕事を担っていたようだ。理髪屋が外科医を兼ねていたのは彼らが日常的に鋏や剃刀を使って仕事をしたからだと思われる。彼らは整髪や顔剃りだけでなく、切開手術やヘルニアの整復から抜歯、果ては梅毒の治療までこなす理髪外科医であった。「外科医」とは器具を使って自らの手で治療する医療職人を指していたが、理髪外科医はこうした外科医のさらに下級の職人とみなされていた。彼らは正規の医師とは異なり、手を汚す作業全般を引き受け、たとえば病院では外科医の監督下で行う切開や四肢切断の手術、また簡単な傷の手当てといった治療まで任されていたという。また彼ら職人外科医は戦争に従軍し、戦場で負傷者を治療することで多くの経験を積んでいった。当時、頻発するようになった火器による戦争はこうした実践的な外科医の需要を促し、パラケルススも従軍を経験した実践的外科医の一人であった。

医学的観点からすれば、彼の著書「大外科学」は、人体そのものに備わる自然治癒力に信頼を寄せ、ことに戦争の現場で培った創傷治療については、衛生観念の乏しい当時は通常行われていた不潔で危険な処置をできるだけ避け、傷口を清潔に保つように注意している点で現代においても高く評価されているという。彼は一般的な常識を考慮に入れながら治療現場で観察することの価値を強調し(患者は教本だ。病床は学習場だ)、医療改革のいくつかの面においてパイオニアとして知られる。パラケルススは伝染病を治療する独自の療法に成功したと言われる。深刻な感染病に対する効果的な薬剤は十九世紀を待たねばできなかったことからすれば、パラケルススが感染症状を観察することで調合薬を見出したことはこの時代にとび抜けた偉業であった。彼の多くの療法には名高い「解毒薬」が含まれているが、熱を伴う感染病に少なくとも一時的な安静を与えるのに発汗剤や強壮剤を処方するのは一般的なことだったが、彼は痛みを緩和させるのに阿片(Laudanumと彼は名付けている)を用いた。また水銀含有塩の使用が梅毒に最も効果的な治療であることを見出したことでも知られている。こうしたパラケルススによる薬剤に特徴的なのは、彼は古代から用いられていた牛糞や蛇の脂肪、鳥の羽といった有機材料を薬学的に調合する方法とは対照的に、不純物を取り除いた(精製した)無機物化合物を、それぞれを特定の病気を対象にして使用した点にあるだろう。

パラケルススがこうした薬剤を主に鉱物成分を化学的に調整して創り出すことが出来たのは、スイスの山村に生まれた彼が地域の病院に通う医師である父に同伴して鉱山での怪我や鉱山特有の毒素による鉱山病を知るようになり、その際に精錬工から錬金術(鉱物変成術)の考えを耳にし、不純物から余分なものを取り除いて純粋物へと変容させる技術について学んだからであるという。後に彼はチロル地方の鉱山地帯を訪れた際に鉱山や精錬所の危険で劣悪な労働環境と、そこで働く労働者が施す応急処置について知った。「職人たちはふだん使っている道具で処置していた。鋳掛屋は銅のスラグ(鉱滓)で止血し、化膿した傷口をもそれで乾かし、鍛冶屋は火星のクローカスと呼ばれる焼いた鉄粉(酸化鉄)で傷を治療し、陶工は銀密陀と金密陀(一酸化鉛)で同じようにやっている」(「大外科学」)と書き留めている。また彼は鉱夫の慢性呼吸器疾患としてその症状を記録し、原因を塵肺および砒素や水銀や鉛の蒸気によるものであると特定した。後に化学的に調整された医薬の優れた効能を確信し、ことに鉱物成分による薬剤を重視するパラケルスス医療は、このように鉱山地帯で鉱夫たちと交流した経験に基づいている。無機物化学の分野でパラケルススは、ビスマス(蒼鉛)、アンチモン、亜鉛、そして砒素を識別した。砒素についてはおそらく成分の形で取り出したのは最初であるという。彼の主要作品「鉱夫病と他の病気」には、鉱夫の病気の観察と様々な鉱物や金属がもつ人体組織への効能が書かれている。こうした医薬品の開発、水銀や硫黄、亜鉛等の鉱物成分の分析を通じて、あくまでも経験主義者の立場からパラケルススは錬金術に接しており、自身で工房を構えて錬金術による鉱物変成の研究に精を出すというようなことはしなかったが、彼の錬金術理論は壮大なコスモロジーを土台にしたもので、錬金術というものを大きな視野から捉えているのが分かる。根っからの経験主義者がそのような理論的局面を説くのは何故だろうか。それゆえ以下、その理論を簡単に検討したい。

パラケルススの医学思想は、哲学(自然哲学)、占星術(天文学)、錬金術(医化学)、徳(医療倫理)という四つの柱を基本とする体系をなしている。すなわち、「第一の柱は土と水に関するすべての哲学である(自然哲学)。第二の柱は天文学と占星術で、これが二つの元素すなわち空気と火の完全な知識へと導く。第三の柱は錬金術(化学)であり、特性(を知ること)(精製)技術、調剤によって四元素を支配する。第四の柱は徳であり、これは死にいたるまで医学のなかに留まり、他の三つの柱を包み支える。医師はこの学問の奥深くに立ち入り、四つの柱を知らねばならぬ」(「奇蹟の医の糧」)そのうちの一つである錬金術については、それは人の身体の健康や病気は人間という小宇宙と自然という大宇宙との調和に左右されているという考えが土台となっている。すなわち、人間は身体中の鉱物成分が調和のとれた状態にあらなければいけないという観点がまずあり、それに対して身体におけるある種の病気はそれを治すことができる自然の化学的治療力を人はもっているという観点があり、そして宇宙というマクロコスモスはミクロコスモスとしてのあらゆる人間のうちに顕われているはずであるから、宇宙ことに惑星の力が人間の身体中の鉱物成分の調和に影響を及ぼしている、そう考えられた。「人間の中には天空があり、その天空には体の惑星や星の力強い運行が行われている」(「奇蹟の医書」)。このことは当時の医学理論、すなわち身体の健康は四つの体液、黒色の胆汁(/悲しみ)、黄色の胆汁(短気/怒り)、血(多血質/陽気)、粘液(粘液質/冷静)の適切なバランスに左右されているという考えとは異なるもので、ここで説かれる性格的な四つの体液のバランスに対して、パラケルススが説く<調和>という概念は、金(Au)はその成分が最も調和のとれた金属であるという意味で錬金術のものなのである。彼にとって医療行為とは、あたかも錬金術が鉱物を純化する技術であるように、身体の症状を仔細に観察し、不純なものを薬剤で除去もしくは中和させながら、あくまでも身体内の成分が調和する状態へと回復させる技術に他ならないと考えられていた。つまりパラケルススにとって医者であることは、身体をもたらしている物質成分が最もバランスのとれた状態へと自然治癒力を促すことだったのである。それは、「我々は自分の中に錬金術師をもっており、…それが我々が不利益を被らないように毒を体のためになるものから選別してくれる」(「奇蹟の医書」)からである。ところが、「体内の錬金術師の力が弱く、完全な精巧なやり方で毒が体に良いものから分けられることなく、毒と良いものが一つになった腐敗が生じ、腐敗的な消化が続いて行われる場合」は、「ある器官にその毒が留まり、その器官を劣化損傷させ病気が生じる」(同上)。こうしたことから、医師パラケルススにとって錬金術は、薬剤成分の中にそれぞれどのような効力があるのかを研究し、器官ごとに毒を除去するための医薬を化学的に調合するための技術として切り開かれていったようだ。そしてパラケルスス独自の思考のうちでは、その究極において<星界の力>を媒介する霊薬と考えられていた「Arcana(秘薬)」を精製抽出するという奥義が志向されていった。この<星界の力>とはパラケルススとって錬金術理論の核となるものであり、かくして「医師はまずもって占星術師でなければならない」のであり、同時に「医師はまた錬金術師であることをも必要とされる」のである。<星界の力>をめぐってこうした考えが唱えられるのは、医師にとって必要とされるこの占星術と錬金術に通底する知と技術の形態が、他でもない十六世紀の自然魔術として認められるといった状況があったからである。「天の力を媒体に引き入れ、その媒体の中で天の働きを発揮させる術が魔術(magica)である。ここに媒体とは中心のことであり、中心とは人間を指す。…魔術師は星辰の力をおのれが指示した物体に移し入れることができる」(「大天文学あるいは大宇宙と小宇宙に関する知の哲学」)とある。

当時はフィチーノ(14331499)やピコ・デラ・ミランドラ(14631494)が示した世界観である、ルネサンスの中心となったヘルメス主義や新プラトン主義、ピタゴラス派の思想が自然魔術の思想を支えていた。フィチーノとピコは占星術を批判的に見ていたようだが、それでもマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づく占星術はパラケルススの医療の重要な部分を占めていたのであり、当時のヨーロッパの大学で訓練を受け、働いていた多くの医療者と同様に、彼は実践的占星術師であったという。「医術は星の意思次第であり、星によって手ほどきされ指導される。すなわち脳に属するのは月によって頭脳へと導かれ、脾臓に属するのは土星によって脾臓へと導かれ、心臓に属するものは太陽によって心臓へと導かれる。同様に腎臓へは金星によって、肝臓へは木星によって、胆嚢へは火星によって導かれる」(「奇蹟の医の糧」)とある。こうしてパラケルススと共に、錬金術の範囲は金属の変成と精製物抽出に限られることなく、それは広い意味ではどんな物質の中にも<星辰>による隠れた可能性と利点を展開させる技術として考えられたのである。そして、この<星辰>による「目に見えぬ影響(たとえば磁力や重力)」を理解しようとするいわば当時の自然科学すなわち自然魔術こそ、この時代において科学思想の先駆けであったのである。パラケルススのような経験主義者はおそらく経験主義者であるがゆえに、外部の見えない情報に対してもつねに心身的に開かれていたのにちがいない。すなわち、知覚・感覚的に開放状態にあったのだ。そのように開かれた状態においてこそ、自然に内在する<科学>は、自らに霊感をもたらす直感がその人のうちに照らし出されるようにして、その働きを明らかにするのである。

こうした前科学の時代には結局、いっぽうに医療的な観察と治療の試みといった経験優先の作業があり、そしてもういっぽうにはプロセスを方法へと理論的に高める作業がまたあり、両者はこの時代に(魔術的に)絡み合っていたので、おそらくそのどちらかを抜きにしては何も理解されなかった時代であったのである。そう考えることで、パラケルススの言葉もやや明瞭になってくる気がする。パラケルススによる錬金術の仕様書としては「錬金術師のための宝の中の宝(The Treasure of Treasures for Alchemist)」がある。

(水銀の原鉱である)辰砂を以下の仕方で準備せよ。石の容器に入れて雨水で三時間加熱せよ。それから注意深く精製して王水(Aqua Regia/貴金属を溶解する液体)に入れて溶解させよ。王水は硫酸、硝石、そして塩化アンモニウムを調合してできる。ただし硫酸、硝石、明礬、塩を調合してもできる。これを蒸留器(alembic/二つの容器を管で接続した蒸留器)に入れて蒸留せよ。繰り返し注ぎ、不純物から純粋物を注意深く分離させよ。そしてそれを馬糞の中で一ヶ月発酵させる。それから次の仕方で(目的の)成分を分離させよ。それが徴候を萌したら、蒸留器を用いて最初の程度の火で蒸留を開始せよ。水と空気が上昇し、火と土が底に溜まる。その後、それらを再び一緒にし、ゆっくりと灰と共に処理をせよ。すると水と空気は再び上昇し、その後、火の成分が上昇するが、それは熟練の職人だけが認めるものである。土は器の底に残り、これが徐々に溜まっていく。それは多くの人が求めるものであるがわずかな者しか見出せない。反射炉の中のこの生気のない土を、(錬金)技術の規程にしたがって準備するように。その後、最初の程度の火を五昼夜加えよ。時が過ぎたら、二番目の程度の加熱を同じように五昼夜の間加えなければいけない。そして、(錬金)技術にしたがって共に封入した物質と一緒に続行するように。長時間にわたって薄いアルカリのような、火と土のアストラム(星辰)をそれ自体の内に含んだ揮発性の塩を見出すだろう。これを保存された二つの成分、水と土で混ぜよ。そして再びそれを灰の上に八昼夜にわたり置いたままにせよ。すると、多くの(錬金)技術者によって無視されてきたものを見出すだろう。これを経験にしたがって分離し、すなわちSpagyricの技術(発酵、蒸留、洗浄、灰化、結合という過程をへてエキスを抽出する)の規定にしたがって白い土を得るだろう。というのも色彩がそこから取り除かれているからである。アルカリ化した土に火と塩の成分を加えよ。成分を抽出するためにペリカン型の蒸留器の中で分解せよ。そうすると新たな土が傍に沈殿するだろう。その後、ペリカン型蒸留器の中の最初にも見出された獅子(硫酸鉄)を取り、その色合いを見ると、いわばそれは水と空気と土よりもはるかに優れた火の成分である。それを粉砕して沈殿物から分離せよ。かくして真のAurum potabile(飲薬用金)が得られる…(以下省略)」。

繰り返しの実験と観察の成果である加熱の塩梅や発酵にかかる日数、容器の中に見出される物質の正確な描写、そこに様々な器具を駆使しつつ、変成する物質が入った容器を注意深く見つめるパラケルススの顔つきがちらりと見えてくるではないか。

実験はすべて試行錯誤のプロセスであり、科学用語はまだ確立されていない。硫酸鉄を「緑の獅子」と呼ぶように、様々な局面で錬金術特有の象徴言語が使われていた。というのも、それは単なる化学実験ではなかったからである。物質の内に最高の<調和>を取り戻す、そうした理念がまずあって着手される実験なのである。こうした実験活動の支えとなるものはおそらく壮大なコスモロジーしかない。パラケルススの言葉はまさにそうした意味において自然の多様な資質に言及するものであるが、それらの用語は自然を観察する際にそこに差異を見分けるためのものというよりも、絶対的な創造者が創造物に付与した無数の霊的要素を見出すためのものであると言えるだろう。このようにして、<錬金術>とは目の前の現象とそれに呼応する心性の一致を求める探索なのであり、そうした意味での人間をめぐる全体性を維持しようとする探索が、自然物質を扱う応用技術に注意を向けさせたのである。そうすることで、意識的でない意識を、物質の変成過程に深く関わらせることができたのである。そのとき物質を<純化>する作業がことさら肝要であるのは、そこに宇宙という全体運動を自覚するに至る行程が働いているからである。

こうした錬金術思想があるそのいっぽうで、同時期に冶金術に関する書「ピロテクニア」を出版したビリングッチョ(14801539)は、鉱山採掘に関わる知識を広く知らしめることを重視し、そうした点から錬金術特有の象徴用語の表現や職人組合の秘密主義から脱していた。この時代は出版技術が確立したこともあり、職人がその技術を書物によって広く公開した時代である。その背景には手工業が急速的に資本主義的経営に移行し、技術者自身が自立して生産・経営する環境が整ったことにある。そのためには何よりも精密な情報が必要とされ、錬金術から神秘性を取り除き、数値や正確な図面を開示して経済的合理性の獲得に努めることが肝要であった。しかしそのことによって錬金術はその核心である神秘主義という片翼を捨て去り、確かな生産技術に取って代わられたのである。おそらくこのとき、壮大なコスモロジーに支えられた、いわば「魂の錬金術」が見失われたのである。

したがって、資本が台頭し、経済的合理性が瞬く間に押し寄せる西洋中世後期においても、パラケルススはまだ魂中心の世界観を保持し続けていたのだと言える。彼は神的な宇宙に向き合いつつも物質分析の合理性にしたがって化学的発見に努めたが、言ってみればそのような仕方で宇宙の神秘のただなかにいることを望み続けたのである。

しかしここまで述べてきたようなことは、若年時より科学的な考察の教育を受けている私たちには実際のところ何も理解できていないにちがいない。とはいえ、こと化学(alchemy)に関する限り、実際には錬金術によるマクロコスモス的な観点があってこそ、近代に受け継がれる分析的な化学の手法を展開させることを可能にしたのである。すなわち、それまで神の創造に任せるだけの状況であったのが、独自のコスモロジーに支えながら手狭な工房での実験による観察を繰り返すことによって物質に対する分析的な思考を可能にさせたのである。そして結果的にそのことは、今ふり返ってみれば、私たちはそのとき全体的な思考が分岐する機会に直面したということ、そしてその際にどちらかといえば合理的な方法を選択する道が与えられることになった、ということではないだろうか。錬金術には霊的な要素に関わろうとする東方の思考が垣間見られるが、しかし西欧においては錬金術の展開は科学技術への道という確かな選択をもたらしたのである。それに対して、錬金術の東方的局面であるイスラーム錬金術の思考とはどのようなものであったのか、そのことについて考えてみたい。

 

アラビア数学はギリシア数学やインド数学の影響を受けて発展したものであり、中でもアラビア数字の簡潔さは記号による数式の使用によって代数学(al-gebra)を発展させ、そのことはヨーロッパでもローマ数字がアラビア数字に取って替わられることで後の代数学の圧倒的な展開に寄与したのである。代数学によって様々な値を数式計算によって求めることができるようになり、その正確な数値は冶金分析に従事する技術者や錬金術職人の間でもとりわけ重要視された。こうしたことによっておそらく、錬金術とその周辺技術は西洋と東方とで<共通感覚>をもつ職人技術であっただろうイスラーム錬金術の主要目的は、ありふれた金属を他の貴金属、特に金や銀に変容させることにあった。この目的を達成するために錬金術師はelixir(al-iksir)もしくは「哲学者の石(hajar al-falasifa)」と呼ばれる神秘的な物質を必要とし、それゆえイスラーム世界では錬金術は一部の人たちの間で伝授される技術として伝えられたようだ。そうしたこともあり、アラブ・イスラーム錬金術に特徴的なのはスーフィズムと強い親近性を保持していることで、錬金術の専門書は、al-Hassan al-Basri(728)Dhul-Nun al-Misri(861)al-Junayd(910)Abu Hamid al-Ghazzali(1111)といった権威あるスーフィーに帰せられている。それゆえスーフィーの中には自身の体験を述べるのに錬金術の用語を使う者がいたという。

前述の「ピロテクニア」にはイスラーム伝来の蒸留法が詳しく語られているという。おそらく西洋の錬金術(化学)はイスラームの成分精製技術にその多くを負っていたのである。Jabir ibn Hayyan(721頃〜806-816)はゲーベルの名で中世西洋に知られていた錬金術の師であり、その「ジャービル文献」と呼ばれる著作群は膨大なもので、その内容も多岐にわたり、その中に金属の変成について書かれた「Kitab al-Kimya(黒き地の書)」がある。彼の業績は化学や薬学の分野でめざましく、塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法は彼に帰せられている。金などの貴金属を融かすことのできる王水(aqua regia)の発明や、クエン酸、酢酸、酒石酸などの有機化合物を発見したとされる。その業績は化学器具にも及び、彼が工夫した蒸留装置はアランビック(al-‘anbiq)として現在でも使われている。化学にとって重要なアルカリの概念も彼によって生み出されたという。また西洋錬金術でことさら取り上げられる、硫黄と水銀の比率で金属の性質が変わるという説も彼によるものである。さらにジャービルに帰せられる業績には、化学物質に関する最も古く知られる分類体系や、有機物質(植物、血液、毛髪)から無機化合物(塩化アンモニウム)を化学的方法によって推定する最も古く知られる指示書があるという。おそらくこうした知識を、成分精製を行う際にはパラケルススも参照したにちがいない。そして、おそらくそこには彼が説く<調和>の概念も伝えられていたはずなのである。

ゲーベルもしくはジャービルその人については不明な点が多いが、彼の思考についてアンリ・コルバンが語るところによれば、「ジャービルの<量的>科学は、われわれが今日科学という言葉から理解するものの前史の一章をなすばかりでなく、一つの世界観なのである。秤の学は、人間知識の問題とすべきあらゆるものを包括しようとする。…秤の科学の目的は、個々の物体の中に、外に現われた者と内に秘められたもの(非秘教的なものと秘教的なもの)との関係を見出すことであった。このように錬金術的操作は、ターウィル(ta’wil)の、つまり明らかなものを隠し、隠れたものを顕わにする最上の例として登場する。…一つのものの自然的本性(熱さ、冷たさ、湿気、乾燥)を計ることは、世界霊魂がそれに自らを順応させる量、つまり物質の中に下降する際の世界霊魂の欲望の強度を計ることに他ならない。この欲望は、諸々の秤(mawazin)の根元にある原理が派生する諸元素に対する世界霊魂の欲望なのである。したがってそれは、物体の変質を条件づけようとする世界霊魂自身に回帰する世界霊魂の変質であるともいえよう。この際、世界霊魂は、この変質の場そのものなのである。したがって錬金術的操作は、自らをとりわけ精神的心的操作でもあるとする。ただし錬金術の文書が<世界霊魂の寓意>であるというわけではなく、具体的に存在する物質の上に具体的に実現された錬金術的操作の諸位相が、世界霊魂の自己帰還の位相と符合するということなのである」(「イスラーム哲学史」)という。この中でコルバンが言う世界霊魂とは、人に霊的=叡智的な世界を受け入れられる心性があるかどうかでその理解を左右することになるが、それは唯一神に触れながら唯一神の下位に広がる次元であり、その次元が人にも影響を与えている霊魂(ruh)の充溢した世界ないし場である。イスラーム世界、ことに神秘主義を奉じる者たちの間ではこうした考えは絶対的なものであり、それゆえその(霊魂)世界は実体的なものとして考えられていた。したがって、コルバンはジャービルの「量的化学」は「秤」すなわち「均衡状態(mizan)を軸にして物質の霊魂と世界霊魂とを対応させていると考えている。とすれば、ここには絶対神に起因するコスモロジーがあって初めて展開できる「量的科学」があることになる。こうした作業は、「世界霊魂自身に回帰する世界霊魂の変質」の場、その場こそ霊魂の充溢する世界であるが、それについて知ることにあっただろう。それゆえ、ジャービルの錬金術(化学)は自らの「精神的心的操作」でもあることになり、さらには「具体的に存在する物質の上に具体的に実現された錬金術的操作の諸位相が、世界霊魂の自己帰還の位相と符合する」という仕方で、いわばマクロコスモスとミクロコスモスの照応が考えられていることになる。

自然の出来事につねに関心を抱いていたジャービルは、自然世界の事実をその象徴的で霊的な内容から分離しなかったのである。彼が重要視する「均衡状態」を目指す量的科学は、それゆえ近代的な意味で自然の対象を量化する試みではなかった。そうではなく、自然を介して世界霊魂の性向を測るものだったのである。彼が数と文字の象徴主義(<文字の秤>)やあらゆる自然現象が世界霊魂による決定であること、またとりわけ錬金術の象徴に熱中していたことは、そのすべてが自然現象の内的意味を理解するためにジャービルがターウィルのプロセスを適用していたことを物語っている。

いっぽう、Abu Bakr al-Razi(864頃〜925/935)は医師であり、アリストテレスに遡るペリパトス派の哲学者であることで預言やターウィルの方法を拒否し、それゆえ自然研究にその方法を適用することも拒否した。そうすることで、彼はジャービルの錬金術を化学に変えたと言われる。ジャービルは事物の究極の原因を発見しようと探求していたが、ラージーはペリパトス派の見解にしたがって、そうした<可能性>が存在することを公然と否定していたのである。ラージーは、鉱物が硫黄と水銀とで構成されているというジャービル派の成分構成的な見解にしたがわず、それらは物体(jasad)と霊(ruh)と魂(nafs)でできていると信じていた。彼はカテゴリー論に従っていたのである。そのため、ラージーの著作には鉱物物質、化学プロセス、実験器具等についての記述と分類が見られるが、こうした仕事は近代化学の用語にたやすく翻訳できるものであるという。また彼は錬金術の象徴的な側面、魂の変容の象徴としての金属やその変容に関する論議には何ら関心を払っていない。錬金術の世界観に特徴的な自然世界と霊的世界の間の照応は姿を消している。ターウィルの方法は、自然に適用する際にはそこに隠れているヌーメン(神性)を見出すために自然現象を(垂直に)貫くことを意味する。その垂直性は、事実を象徴もしくは自然というヴィジョンすなわち霊的世界を覆うものとしてではなく、それを明らかにするものとしてのヴィジョンへと変容することを意味する。そしてイスラーム錬金術はまさにそのような自然科学であったのである。それに対して、西洋に医師ラゼスとして知られたラージーという人物は、錬金術に関して科学への道に通じる分岐点として西洋に考えさせることを可能にした化学研究者だった、そう言っていいかもしれない。

 

伝統的な錬金術師は、仕事場の窓を通して霊的世界の光が自然の領域を輝き照らす、そんなふうにして作業に努めるのだという。彼の目的は純粋に物理学・化学的な観点から完全に純粋な物質を得るために働くことではない。それは燃焼炉の仕事である。彼は自然を原初の完全さに戻すために自然を変容させることを目的としているのである。自然を真実のうちにある天国的な至福へと変容させるために。

イスラーム世界で「偉大なる導師」と呼ばれるイブン・アラビー(11651240)は、その主著「メッカ啓示(Al-Futuhat al-Makkiyya)」で、「事物の存在は、そこに内在する原因である霊的現実(その垂直性)のそれ自身によって存在するという資質と、病であり、外に明らかにしようと現われる傾向(その水平性)との連携による」と述べている。黄金は完全さという資質をもった垂直性を帯びた金属である。それはまた差異化されていない潜在能力であり、諸段階を進むことでそれ自身の達成に至る。その達成もしくは実現が<黄金性>と言われる。黄金は完全なる現われであり、それゆえそれは均衡状態のうちにある。それに対して、均衡状態を逸脱し、特定的な性格を帯びたものは特定の金属となる。イブン・アラビーは錬金術師ではないが、彼が提示する錬金術に関する二つの方法、すなわち除去と原物復帰は、彼の出生地であるアンダルシア地方の二人の師から受けた霊的教えにおける二つの方法に相応するという。それらは、「自身の魂に自身を関わらせよ(欠陥を取り除け)」と「自身を神のみに関わらせよ(原物形成)」である。こうしたことからも知れるように、イブン・アラビーの錬金術による観点は、物質変成に関わるというよりも、人間を完全性へと復帰させる道に関わっている。イブン・アラビーによる錬金術の小冊子があり、そのタイトルを「人間の幸福の錬金術(fi ma’rifat kimiya’ al-sa’ada)」という。このタイトルの「幸福」とは、その状態が完全(純化)を示すからであるという。この完全さとは最も高度な段階に達し、それと合流することを意味する。すなわちそれは起源と同じ姿のものとして想定されているのである。本質的に霊はつねに調和と均衡状態にあると考えられるが、そのことも私たちの身体との関係を通じてそう理解される。それゆえ人の幸福は完全さにあるといえども、それは相対的な世界に関わり、そこでは均衡状態と不均衡状態とが共にあることになる。身体を診る医者が病を治し、自然の均衡状態を回復させるように、魂の不均衡を治すのが、イブン・アラビーが考える聖なる医師(錬金術師)の仕事なのである。

 試みに、「人間の幸福の錬金術」の英訳文(The Alchemy of Human HappinessStephen Hirtenstein)から、核心的と思われる部分を抜粋して訳出する。

「錬金術のElixirは、存在の領域で改めたり置き換えたりできるものを示す明らかな証拠である/もし敵が神の恩寵のelixirを適切なバランスの基準に向けたならば/彼はその敵意を判断と布告の力をもってして友情の段階にまでやがてきっと移り変わらせることになるだろう/我らに啓示された秤を用いて重さを正せ。任務につけ/錬金術とは確定した基準の科学である。形あるこの世界にどれだけの(測るべき)姿があるか/熟考する者ならば、透明な観察力から欲望を取り除かないことがないよう注意せよ/さすれば、純粋な天使の段階に進むことを認められ、単なる人間の世界を超えた地位へと上昇できるだろう/

(中略)

錬金術の科学はelixirについての知識であるが、それには活動において二つの部分がある。一つは、金鉱石を元に回復させる。もう一つは、錬金術で自然金と同等とみなされる黄金をつくるようにして、欠陥を除去する。これは、均衡状態の探求において、この世界ともう一つの世界とによる展開があるということと同じである。

すべての鉱物が一つの根本的な起源に由来することを知れ。そして、その内在的自然による起源的なものはつねに完全な成就と充実なる位階との一体を求めている。それが<黄金性>である。しかしながら、聖なる名の効果のゆえに、起源的なるものが自然世界によって条件づけられるようになって以来、様々なその特性と共に諸段階を進むその行程において、夏の暑さ、冬の寒さ、秋の乾燥、春の湿気といった時間の大きな変化のゆえに、また鉱床の熱や冷えといった場所の性質における変化のゆえに、そこに病と欠陥が降りかかった。

一つの周期特性から他の周期特性に向かうようにして一つの展開段階から他の展開段階へと発展するその行程の間に、これらの欠陥の一つが起源的なるものにおいて優位的になり、その新たに住する場の力がその場のうちに統合されると、その場のうちに起源的なるものの実体をかたちという現実に変換するためのかたちが現われる。このかたちが硫黄もしくは水銀と呼ばれる。これらは二つの創始者と知られている。というのも、いっぽうでは、成果をもたらすことのできる確かな欠陥の結果として他の金属がそれら二つのものの結合から現われるからであり、もういっぽうでは、これら二つのものは一緒になり、構成において完全な最も崇高な実体、すなわち黄金と呼ばれる、合体することで二つの創始者がより高められたものを生み出すような仕方でお互いに結合するからである。これが、それぞれがそれ自身の鉱物性という観点から求めるところの位階である。その起源的なるものは聖なる領域における<呼吸>であり、自然界における<水蒸気>である。同様にして、二つの創始者は霊的原理と自然要素を兼ね備えるものである。

(中略)

二つの創始者は、特定鉱物の自然特性そして時間の自然効果を感受する特性と共に鉱物のうちに結合する。…結果として、このことが実体を決定づける。特定的性格の現実が与えるもののせいでそれが完全さに進むのを引きとめ、それを黄金である均衡の道から逸脱させるからである。均衡の道、それは目的地であるが、それは<黄金>という高潔な都市であり、完全なる達成をもたらすものである。<黄金>に達する者はより劣る水準に導くこうした変容に、決して、また二度と従わない。特定的性格が実体を支配するとき、それは本質的な性質に変わる。そしてそれを支配するものによって、そこに鉄や銅、錫や鉛や銀といったかたちが現われる。

こうして神の御言葉をより深い意味において知るようになる。<完全に形づけられ、そして不完全に形づけられた>。言い換えれば、<完全に形づけられた>は<金>についてのみ述べ、<完全に形づけられていない>は他のすべての金属について述べている。

(中略)

そこに錬金術的な手順に精通する者が現われると、彼は自身にとって何が最も容易い作業であるか詳細に調査する。そこから逸脱した均衡の自然な進路へと戻すために、彼にとって最も簡単な作業が金属体から欠陥を取り除くことであれば、それが最初の方法である。天文学者は惑星を観察する。今は天界におけるその真の位置にある、今はそれから逸脱している、その位置の下方か上方のどちらかへ(といった具合に)。そして、錬金術師は鉄もしくはそれがどんな金属であろうとも、そうさせる原因へと戻るだろう。彼は一つの要素がその中に異なる要素の量をもつがゆえに全実体を支配しているだけであることを知っている。それで彼は多すぎるところの量を減らし、少なすぎるところの量を増やすのである。これが医業と呼ばれる。そしてこれに従事し、精通する者が医者である。

それと同じ作業を用いて、彼は鉱物実体から例えば鉄のかたちを、もしくはそれがどのようなかたちをとっていようと、それを取り除く。彼が均衡の道にそれを戻すと、それを良き健康状態で保存しようとする。そのためそれはそこに留まることになる。病が治癒されると、病後の静養をする。彼は思いやり、痛みを和らげる栄養物で対処し、また冷たいすきま風から守ってやる。かくしてそれは、実体が黄金のかたちに身を包むまで、健康の直接的な道に沿って進んで行く。そのことがそれに起こると、医者の領域や病気を超えて行く。というのも、その全き完成に達した後、それは何かに欠けている段階に後戻り出来ないからである。ましてやそれに従うこともない。たとえ医者が希望したとしても、彼はそれをそれ以前の状態に戻すことが出来ないのである。

(中略)

いっぽう、この技術の達人が<elixir>と呼ばれるエキスを創り出したいと思うとき、それを彼が取り扱おうと望む鉱物体に適用するために、彼は(治療を)受ける鉱物体の自然構成によって決定されたものにしたがってそれを置き換える。この場合、そこには唯一の治療薬があり、それがElixirである。鉱物体の中にはElixirがそれ自身の特性へともたらすことができるものがある。そのため、それはElixirの仕事をするelixirになるのである。その場合にそれは<代理人>と呼ばれる。それは他の金属体の中に生じ、Elixirそのものの権威のおかげで金属体を支配する。

(中略)

我々は、霊的な智慧がいかに<二つの方法をもつ錬金術>と呼ばれるものに結びついているかを説明するためにここまでやって来た。しかし、なぜそれは真の幸福の錬金術と呼ばれるのか。それというのも、幸福はその中に必ずや存在するからである。さらには、神の人々のある者が言うには、そこにはそれ以上に良いものはない。というのも、それは真の人間の男性に属する全き完成の段階をもたらすからである。幸福を見出した者すべてが完成と一致するわけではない。というのも、完全なる者はすべて幸福であるが、幸福な者がすべて完全ではないからである。完全さは最高の段階に達し、そこに合流することを意味する。そしてそのことは起源であるものと同じであるとみなされる。それだから、預言者が<そこには完成を成し遂げた多くの男性がいる>と言ったときのことを想像してはならない。預言者は、ふつうの人々が語るある種の完成を言い表したのであり、それはむしろここで我々が述べたものであり、それはこの世俗の世界において知るという才能に与えられるものにすぎないからである。さあ、この前置きの後は、神が望むならば、われわれは前に進むべきである。真の幸福の錬金術について語るために」。

 

「幸福の錬金術」とは、幸福すなわち全き完成の段階を人の存在のうちに錬成する術のことである。それは物質の変成の背後で働いている潜在力と、その力に歩調を合わせる観察者の心性との一致を目指している。背後で働く潜在力とは神の力であり、それに歩調を合わせようとするのは霊的な智慧の働きのことである。したがって、物質の成分を研究し、その変成プロセスを心血注いで観察し、目の前の自然の妙に没頭し、さらなる手順を繰り返し、自ずと意識は集中し、そして意識は広がり、そうやっていつしか意識は霊感を得る。そこに様々な圏域が展開し、様々な次元へと移行する意識がある。そのように意識が呼吸するかのように変動する、その変動のうちに浮かび上がり、そこに顕われてくるもの、それは「神の似姿(完全さ)」なのである。

イスラーム社会では神は絶対であり神の方から人間に伝えることはあるが、人間の方からは神に接近できないという神の絶対性の考えが保持されていた。そのいっぽうで、イブン・アラビーのように、「神の似姿」を人のうちに見ることができるという考えも萌芽していたのである。あらゆるコスモロジーは無限()を内包している。無限は愛の唯一の対象である。この無限を内包しようとする愛の感覚が、イブン・アラビーに「神の似姿」をもたらしているのだろう。

 

Wednesday, May 20, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

   吸血鬼幻想

 

 ヨーロッパには吸血鬼物語を語らせる何かしらの衝動が働いているようだ。ジョン・ポリドリの「吸血鬼(1819)」をはじめとして小説の多くは十九世紀のロマン派によるものであるが、それ以外にもモーパッサンによる吸血鬼風の物語「オルラ(1887)」やA. K. トルストイの「吸血鬼の家族(1884)」があり、二十世紀の大戦後にはM. エリアーデの「令嬢クリスティーナ(1978)」がある。また十九世紀には上層階級の間でいわゆる吸血鬼話が流行し、「吸血鬼」というタイトルでいくつもの演目がパリをはじめとする都市の劇場で上演された。そして、映画が発明されて以来ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ(1897)」を下敷きにした作品が次々と製作されたが、中には初期カール・ドライヤーが撮影技法を駆使した秀作「吸血鬼(1932)」や、レ・ファニュの小説「吸血鬼カーミラ(1872)」を下敷きにしたロジェ・ヴァディムの「血と薔薇(1960)」といった異色作品もあり、そして野性味溢れるヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ(1979)」がある。「Nosferatu」は古ルーマニア語で「吸血鬼」と同義で、F. W. ムルナウが最初に「Nosferatu(1922)」というタイトルで吸血鬼映画を撮っている。ちなみにトルコ映画に「Dracula in Istanbul(1953)」があり、ドラキュラ伯爵が牙を生やしている最初の映画であるという。有名なハンガリー人ドラキュラ俳優ベラ・ルゴシが出る「魔人ドラキュラ(1931)」を見ると、なるほど牙を生やしていない。続編の「吸血鬼蘇る(1943)」もベラ・ルゴシが主演の映画だが、吸血鬼の手下として狼男が出てくるのが興味深い。イスタンブールになぜドラキュラが現われるのか、おそらくトルコ映画界がイスタンブールの都会性を西欧並みに強調したかったからではないか。

 吸血鬼物語や吸血鬼映画の内容はブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」がそうであるように、概ね主人公がルーマニアの辺境やスラブ地方に赴き、そこで吸血鬼に遭遇するという怪奇な体験を基に展開されている。つまり、吸血鬼の源は東欧にあるというのが西欧社会の一般的な考えだったのである。自身の外部に想定された吸血鬼という存在がなぜそれほど西欧社会の人々を惹きつけ、また作家たちを表現に向かわせたのか。当時の西欧からすればトルコ文化の影響が色濃い東欧に対する心理的環境がその衝動に影響しているのだろうか。ギリシア人やボスニアのトルコ系の人がラテンの土地に埋葬されると吸血鬼になる、そうまことしやかに信じられていた時代である。

十九世紀に西欧の文学作品の中で吸血鬼像が形になる以前に、東欧のスラブ社会では吸血鬼伝承が知られていた。さらにそれよりも古くから伝承が知られていたのがギリシアである。それは何らかの理由があって埋葬された遺体が生き返るというものである。死して埋葬された者が夜になって村をうろつき、他の遺体の肉を食べたり、生者の生き血を吸ったりすると考えられていた。ギリシア語の「vrykolakas」が生き返った死者を指す言葉として知られている。その死者というより亡霊は、「一口の血を啜れば生ける者の機能が与えられ、(肉を)貪り喰らえば英雄と対話するだけの力が出る」と考えられていた。たとえば「オデュッセイア」の中で、冥界の亡霊は実体的な姿を有しないので生者にはその声が聴き難い。それで血を飲ませずには亡霊たちと意志疎通ができないから、オデュッセウスは冥界に旅したとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう羊と山羊を犠牲に捧げたという。死者の声を聴くには生きた血が必要だと考えられていたのである。

vrykolakas」はブルガリア語の「varkolak」に由来するといわれるが、この語はスラブ民話では「狼人間(werewolf)」を言い表し、そこには吸血鬼と狼人間とを区別しがたい状況が見えてくる。スラブ世界では生きて狼人間であった者が死後に吸血鬼となるともいわれ、十世紀頃のギリシアではvrykolakasは狼人間を指す語でもあったという。また昏睡状態で夜に出歩き、人に害を与える者もそう呼ばれたという。しかし、もともとギリシアでは蘇生した屍体のことをvrykolakasと言い、スラブ文化の影響がない十八世紀のクレタ島では「katakhanades(破壊者の意)」の語が吸血鬼を指していたという。吸血鬼を指す言葉のこうした入り混じりは、ビザンツ帝国時代の七世紀にスラブ人がギリシアに大量に入り込み、ギリシアはスラブ化され、もしくはスラブ人がギリシア化したという経緯から推測されている。スラブ語で吸血鬼を表す語は「upior」で、これがvampireの語源である。

伝承によれば、Living Dead、すなわち死なずに生きている屍体というか死者が吸血鬼である。それは死の界に行ってはいない。そのため吸血鬼には居場所がなく、生者の世界を彷徨うしかない。そうした意味において、吸血鬼は一般的な生者と死者の関係に反している存在なのである。ルーマニアの民話に「ストリゴイ(strigoi)」という亡霊があり、それは墓から出てきて人に害を加えたり、獣に姿を変えたり、姿を見えなくしたり、人の血を吸って活力を得たりするという。このストリゴイにもLiving Deadという死者の界にも生者の界にも属さない吸血鬼同様の存在が考えられている。

吸血鬼現象は中世より東欧で多く報告され、また記録されている。それらのほとんどは曰く付きの人が死に、その後夜に徘徊して人に危害を加えたり、血を吸ったりするので墓を暴いたらあたかも生きたような状態だったというものである。そうした報告がローマ教会にまで届いて記録されているが、実際に吸血鬼が人の血を吸っている現場を押さえたという記録はない。事後に墓を暴いたら吸血鬼だった、そう認められているケースが多いようだ。そこには人の死をめぐる異常な事態と、伝承と判別がつかないような人々の妄念があるだけのようだ。したがって、吸血鬼現象と吸血鬼伝承、そして吸血鬼物語とは分けて考えなければならない。つまり、まず吸血鬼伝承があって、それに沿った吸血鬼現象が報告され、そして吸血鬼物語が語られる、といったプロセスがある。伝承と現象そして物語はそれぞれ異なる環境で語られ、テキスト化されている。そして、吸血鬼が人の生き血を吸う場面が初めて描かれるのは映画によってであり、映像イメージから遡行して過去の記録、すなわち伝承や現象をイメージする傾向があるが、それはまちがっていることになる。

伝承や現象と物語を区別する観点からすれば、吸血鬼物語はスラブ世界のものではない。その物語は西欧世界が作り出したものである。そうした物語に特徴的なのは、吸血鬼をめぐる血とエロティシズムの表現である。吸血鬼物語はM. プラーツが示唆するようにロマン派のエロティシズムを逸脱している。すなわち、そこには屍体でありながら生き生きした存在をめぐって過度の情動を伴った想像力が働いている。死者でありながら皮膚は新鮮で血色がよく、爪が長く生え、唇は異様に赤い、そのように死者でありながら死とは相反する邪悪な生のイメージが西欧の想像力のうちに生み出されている。その物語に触れる者は内なる情動を誘い出そうとする力に抵抗できない。逸脱した強度としてのエロティシズム、それこそ吸血鬼物語がもたらすものなのである。

一説には吸血鬼イメージは十八世紀の啓蒙主義を経験した西欧が、(吸血鬼をめぐる)説話や伝承を非合理的なものとして廃し、そのことによって新たにイメージ形成の表現領域へと移行していったことに因る産物であると考えられている。迷信という心身的に深く根づいていたものを廃したおかげで、その心性はイメージといういつでも取り替え可能なものを内に導入することができたのである。そしてその際に、死や血のイメージを伴うエロティシズムの表現、言い換えれば、あらゆるマイナス強度が吸血鬼の周囲に際限なく集約されていった。なぜそんなことが起きるのだろうか。ことにブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が発表されるやいなや、そのイメージが核となってあらゆる邪悪な局面がそこに集まってゆくようにみえる。そうしたマイナス・イメージを次々と懐胎し、そして形態化させてゆく思考の力とは何だろうか。それは何かしら刺激的なイメージを生み出そうとする思考の罠に陥っているだけなのか。肝心なのは何がそうさせているかである。

 

吸血鬼のイメージが形態化される際に最も威力を発揮したのがブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」である。ドラキュラとはいったい何か。ブラム・ストーカーは創作メモの中で、「ドラキュラとは悪魔を意味する。ワラキア人は勇気、残虐行為、狡猾さで目立つ者の姓に、この名を与える慣習があった」、そう書いている。当時は「ワラキア(Wallachia)」という語で語られていたようだが、現在のルーマニア南部地方のことである。このワラキアと北部のトランシルヴァニアとモルダヴィアの一部が合わさって1866年にオスマン帝国から独立して現在に至るルーマニアが出来た(トランシルヴァニアはその後一時、オーストリア・ハンガリー帝国に編入される)。ストーカーは東欧に行ったことがなく、東欧とトルコの関係についてもよく知らなかったようだ。ブダペスト大学の東洋語の教授(作中のヘルシング教授のモデル)からトランシルヴァニア地方に遺っている吸血鬼伝承を聞いて「ドラキュラ」物語を構想したという。

1453年にビザンツ帝国の首府コンスタンチノープルがオスマン帝国軍によって陥落したその三年後、ワラキアの王位についたのがヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes)である。彼はワラキア公、ヴラド・ドラクール(Vlad Dracul)の第二子であり、その姓の「Dracul」は中世ルーマニア語で「ドラゴン」を意味し、それゆえ彼は「Draculの息子」を意味する「Dracula」と呼ばれた。「Dracula」は「ドラクーラ」と発音するようだが、おそらくその名が西欧で「ドラキュラ」に転化したのである。したがって、「ドラキュラ」とはワラキア王のヴラド・ツェペシュを指す。

ヴラド・ツェペシュはその残虐性によって西欧に知られた。たとえば乞食同然の多数の貧民たちを宴会に招いてその闌に火を放って焼き殺し、また何千というトルコ兵を串刺しにして野に晒したという。とはいえ、ドナウ河南岸まで攻め入ってきたオスマン帝国軍に対峙したヴラド・ツェペシュにとってトルコ兵の串刺しは戦略的なものであったにちがいない。敵に恐怖を与えて戦意を挫くためである。彼は戦いに際しては勇敢にして狡猾であったようだ。トルコ兵の侵攻経路の井戸に毒を投げ込み、収穫物を焼き払い、家畜を殺すよう命令した。また伝染病に罹った市民たちに敵の兵隊と混ざるよう唆し、国内の罪人を解放してトルコ兵を攻撃するよう仕向けた。(これは現在、ロシアがウクライナ戦線で行なっていることで、かつて実際に行われたことを参照している可能性がある)。また彼は自国経済の発展に力を入れ、それゆえ乞食稼業をする者、すなわち非生産者を毛嫌いしていた。

ヴラド・ツェペシュに関する歴史記録を読めば、総じて彼が南のオスマン帝国や西のマジャール人のハンガリー王国からワラキアの国を守るために全力を注いだ人物であることが分かってくる。それに対して彼について書かれた物語は異なっている。事実が意図的に歪められているようだ。当時ワラキアの一部にサクソン人が移住していたが、彼らを通してドイツでの物語はヴラド・ツェペシュの残酷さが誇張されているか、もしくはでっち上げられているという。十五世紀末に書かれた「ドラクーラ物語(ドイツ語版)」によれば、ヴラドは「銅製の大釜を造らせ、その上に穴の開いた木製の蓋を置き、そして大釜の中に罪人を入れてその頭を蓋の穴をくぐらせるようにして出させて窯に繋ぎ止めた。それから窯に水を満たし、底で火を焚き、罪人を泣き叫ばせ、彼らが煮え死にするまでそうさせた」という。また彼は女性に対して残虐性を振るったとされ、ことに夫に忠実でない女性や結婚前に不貞を働いた女性に対して、「母親と乳飲み子を一緒に一つの杭に串刺しするよう命令した」という。これに対してスラブ版の「ドラクーラ物語」では、ブラドの残虐性はワラキアの国を強固にするためであったと強調されている。たとえば泉にある誰も盗もうとしない金杯について伝えられている。なぜ誰も金杯を盗まないかといえば、ヴラドが「窃盗行為を激しく嫌ったので、何らかの悪事もしくは強奪を引き起こすものは(厳しく罰せられて)長くは生きられない」とされ、厳格な社会規制と過酷な刑罰によって公衆秩序が奨励されたのだという。またドイツ語の物語ではオスマン帝国へのヴラドの遠征に際して行われた残虐行為が強調されているが、スラブ語の物語では彼の外交手腕が「悪賢い(zlomudry)」ものと評されているだけである。またヴラドは多くの拷問の方法を編み出し、何千もの人々を殺したのは確かであるが、それについても研究者たちによれば、事実が誇張され、彼を恐れる者たちや彼の評判を傷つけようとする敵対勢力が仕組んだ可能性があると注意している。

十五世紀の東欧諸侯国の力関係は複雑で、オスマン帝国の侵攻という危機的事態がそれに輪をかけて複雑にしていた。中欧の諸王国はヴラドをオスマン帝国の侵攻を防ぐ盾にしようと考えたようだ。こうしたことから、ブラド・ツェペシュは歴史的にはコンスタンチノープル陥落後のオスマン帝国の侵攻に対して勇敢に戦ったキリスト教徒とみなされている。しかし当時の政治状況からするならば、オスマン帝国侵攻の前哨地であるワラキアの統治者として周囲の諸侯国からそうせざるを得ない立場に立たされたという考えが支配的である。少年時代にワラキアの宗主国であったオスマン帝国に人質として過ごしたブラド・ツェペシュの立場は心理的にも地政学的に複雑なものだった。時にビザンチン帝国が消滅してオスマン帝国による威圧下にあるワラキアは西側に接するハンガリー王国ともトランシルヴァニアめぐる確執を抱えていた。ワラキアの王となったヴラド・ツェペシュは自身の生地である北部トランシルヴァニアをも支配しようとその影響力を強めていたからである。彼はことに黒海とハンガリー両方面への経由地点であるブラショブ(Brasov)の支配に努めた。ブラショブはドイツ移民系の商人が力をもつ商業都市で、ハンガリーにも影響力をもっており、そのためワラキアの支配下に入ることに反発していた。こうした状況にあって、ブラド・ツェペシュによる貧民虐待、残虐な刑罰、トルコ兵の串刺しといった事例が西欧によってことさら取り上げられることになったようだ。1464年のローマ法王への報告によれば、彼は四万人の様々な国籍と年齢の男女を虐殺したという。また1475年のカソリック司教の報告によれば、十万人の処刑を認可したという。こうした誇張の背後にあるのは、おそらく西欧が東欧に抱く不条理な心性ではなかったろうか。とはいえ、総じてスラブ文化圏自体が民族と歴史が複雑に入り組む状態を呈し、資料によって必ずしも中世東欧の歴史的事実が明確になることはない。

スラブ世界の歴史は複雑だ。ルーマニアはスラブ世界にありながらもともとはロマンス語系の言葉を話すラテン民族の国であるが、しかしビザンツ教会に属する。モルダヴィアとワラキアに分かれていた時代が長く、国家が成立したのも前述したように十九世紀になってからである。また旧ユーゴスラヴィアを構成していた諸国家は同じスラブ系でありながらも部族が異なり、ローマ教会とビザンツ教会に挟まれて文字は異なり、オスマン帝国による支配の間にイスラーム教に改宗した者もおり、宗教的にはパッチワーク状態になっている。ルーマニアはドナウ河口を擁し、西は民族的に異質なマジャール人のハンガリーに接し、しかるにその流れは西欧に通じているが、ハンガリー北側のチェコ(ボヘミア)は神聖ローマ帝国の一部でありながらも独自のスラブ文化を守ってきた。また十世紀になるとドイツ人(サクソン人)の「東方植民」があり、東欧の各地に拠点を築いてドイツ人による交易を活発化させてきた。そのためドイツでは東欧はゲルマン民族の「レーベンスラウム(生活圏)」であるという考えがあり、ドイツ人にとってバルカン半島も含めた東欧は自分たちの裏庭という意識があるようだ。東欧にナチスが浸透したのもこうした背景があるからだろう。そして大戦後の東欧諸国がソ連圏となり、独裁政権に支配されたことは衆知のことである。

十九世紀に中欧に多民族国家のオーストリア・ハンガリー帝国が成立し(18671918)、ゲルマン人とマジャール人によって一部のスラブ国家は支配されることになった。その際にトランシルヴァニアが帝国に編入されたことは、おそらく「ドラキュラ」の読者に影響を与えたと思われる。たとえばドラキュラ伯爵がヴィクトリア朝のイギリスへやって来ることは異質な領域からの侵入、もしくは人種汚染に対する恐怖の投影として読まれうるという。どういうことかと言えば、帝国の辺境の地であるトランシルヴァニアの吸血鬼がイギリスに侵入し、住民の生き血を吸って国内秩序を乱す。それによって人種を弱体化させる異質な侵入者はアングロ・サクソン人種の純度を弱め、その恐怖を描写した「ドラキュラ」は辺境地による<逆植民地化>の事例となるというのだ。また「ドラキュラ」物語はことに西欧でのユダヤ人に対する固定観念に結びつけられ、その吸血鬼描写が十九世紀末のイギリスへの東欧系ユダヤ人の流入と関係づけられている。オーストリア・ハンガリー帝国下で反ユダヤ法やポグロム(大虐殺)から逃れて来たユダヤ人の数がイギリスでは急激に増えていた。古風な格式と金銭の富、血を吸うことで同族を増やし、種族の反映のみを図り国家への忠誠心に欠けたドラキュラ伯爵の描写は、反ユダヤ主義的概念が描写するユダヤ人そのものだというのである。ヴィクトリア朝文学ではユダヤ人を寄生虫のように描写することが多く、ことにユダヤ人が血液の病気を広めているのではないかという恐怖が存在したようだ。こうした漠然とした嫌悪感の背景には、他の列強国の台頭による大英帝国の衰退、帝国植民地における道徳性を疑問視する国民の不安の高まりがあったとされる。さらにはドラキュラ伯爵がロマ人を手懐けて幼子を誘拐させるのはロマ人が子供を誘拐するという噂話や昔からの伝承を想起させ、また狼人間のごとく変身する能力もロマ人が動物的だからという流民嫌悪症と関連づけられた。ロマ人は動物と共に暮らす生活慣習のために<汚れた肉>を好むとされ、市民による迫害対象となっていたのである。こうしたユダヤ人やロマ人への迫害とわけもなく結び付けられるドラキュラ伯爵は、それゆえその周囲にあらゆる悪の要素を集約させることのできるイメージ()となっている。むろん作家が意識的にそのようなドラキュラ像を作り出したのではないが、それを読む者が無意識的に悪の要素を付け加えることになるのである。その背後にはすでに述べたような社会状況がある。ことに「ドラキュラ」は書簡文で構成されているので、そのぶん読者のイメージを喚起しやすい表現になっている。ストーカーは大学時代に「小説における扇情と社会」という論文を書いているので、ひょっとして世間を煽ることが出来る小説を書くという潜在的な意図があったのかもしれないが…。

こうしたことから、西欧で流布した「ドラキュラ」という名の吸血鬼は、東欧に実在した「ドラクーラ」と呼ばれたブラド・ツェペシュ王とはまったく無関係なのである。それは西欧でまったく独立して想像されたイメージ()であり、そしてその内容はといえば、東欧で一般的に知られていた吸血鬼伝承とはまったく別物なのである。こうした現象はなぜ起きてきたのだろうか。

十八世紀以前のヨーロッパでは人々は吸血鬼に怯えていた。というのも、もし吸血鬼が疑われる事例に関わっていたり、それに触れていたならば、死後に天国にいく機会を不可能にさせると信じていたからである。啓蒙の時代となって以来、伝承される吸血鬼の身体特徴や具体性が客観的に観察され、述べられ、そして分析されている。そうした特徴は、早すぎる埋葬、土壌による正常ではない腐敗の遅れ、伝染病といった見地から科学的に論議された。それゆえ現象や伝承が現実のものであるという見方は次第に消えていったが、とはいえ人々はそのぶん吸血鬼イメージに魅了されるようになり、その吸血鬼イメージは人々の心理的/内面的な場を支配するようになったのである。そのことは、吸血鬼イメージに触発されるものを人々がいまだ心の奥深くに抱えているという現実があったからにちがいない。要するに、迷信による内面支配が終わった後も、吸血鬼イメージは文化的レベルで存在する恐怖というよりも、個々人の心理に深く潜む情動を恐怖として表象するものへと変容することができたのである。

当時、流行小説が提示する表象は人々の意識に特別な影響を与えていたようだ。語り伝えられる話に耳を貸すのではなく、人はプライベートな時空をつくって小説本に面と向かってその字面を読むようになる。迷信から解き放たれてはいるが、いっぽうでは吸血鬼表象が個人の内面に強烈なイメージと化して侵入する。その体験はそれ以前にはなかった新たなもので、そのような体験こそが読書の魅力となった。こうしたタイプの体験を誘発する吸血鬼物語は疑いなくロマン派の時代に由来する。十八世から十九世紀のロマン派の文学期は、吸血鬼を私たちが現在知るような創造物へと変容させたことに大いに影響を与えている。というのも、ロマン派による吸血鬼イメージは血みどろの表現から離れて、代わりに性的魅力と情欲の表現という近代の産物となったからである。すなわち、吸血鬼は人間の姿をしていてその獣性は稀薄になり、代わりに永遠に飢え、永遠に孤独な存在という、思考する上でも近づきやすいものと化した。それは死ぬこともできずに地上をあてどなく彷徨い、安らぐ場所のないその空虚な魂を近代特有の悪の要素である性や富や暴力といった力によって満たすことで生きるものとなったのである。

二十世紀の大戦後にM. エリアーデによって書かれた「令嬢クリスティーナ1978)」はそこら辺の事情を鑑み、スラブ伝承に基づく吸血鬼物語が意識的に語られているようだ。舞台は二十世紀初頭のルーマニアで吸血鬼伝承のいわば本場である。とはいえトランシルヴァニアの山中ではなく、ドナウ河の土の匂いがするワラキア南部の平原に建つ旧地主の広大な邸である。1907年の土地貸借制度をめぐる大農民暴動という歴史的背景が示唆されているが、それはその際の鎮圧に軍隊が出動し、犠牲者が一万人を超えたという血腥いものである。令嬢クリスティーナは残虐性と性的放縦という性格において描かれ、性的関係にあった同じく残虐な差配人によって農民暴動の際に射殺された。しかし、その屍体はきちんと埋葬されていなかった。村人は令嬢クリスティーナが幽霊になったと噂している。次々と家畜が死に、子供たちも死して亡霊となる。不貞な女性はキリスト教のモラルに反し、なおかつ悲惨な死に方をしたことでその死は呪われたものとなった。つまり、死者であってもなお生きている存在となった。これが伝承における吸血鬼の条件である。主人公は令嬢クリスティーナに向かって、「あなたは死んでいる。あなたは自分が死んだことを知っている」、そう吸血鬼の本性を突きつける。しかし、吸血鬼は生者との繋がりを維持するために生きた血を求めざるを得ない。過去を生き続けるその死者が生者である主人公の思考を制御しようとするというのが「令嬢クリスティーナ」の主題になっている。そこに嫌な感じがある。死者に制御された生者の思考は生気のない自らの過去の光景を繰り返し眼前に映し出すことになるからだ。それはもう生きた死者と同じ状態と言えるだろう。

 

こうした吸血鬼物語自体は実際にあったとされる吸血鬼現象には直接的には繋がらない。かろうじて吸血鬼伝承を想い起こさせるだけだ。吸血鬼物語は西欧の啓蒙主義による近代意識が作り出したものであるからそういうことになるのだろうが、それ以前の吸血鬼現象もしくは吸血鬼伝承とはいったいどんなものだったのか。意識が啓かれたからといって物語を物語の枠内だけで考えるのでは不十分である。吸血鬼現象もしくは伝承を考慮してこそ、物語に通底する何かしらを知ることができるにちがいない。

吸血鬼現象についていえば、それは考古学的発掘からも推測されている。たとえばギリシアのレスボス島ではオスマン帝国時代からのトルコ人墓地から、首と骨盤、それに両脚を二十センチの釘で留められた大人の隔離された墓が見つかった。同島の同じ頃のもう一つの墓には六十才の男性が入れられていたが、その骨に三本の曲がった十六センチの大釘が混じっていた。また教会の特別地下室の二つの墓地には中年の男性が埋められ、二つとも首、鼠蹊部、踝に二十センチの大釘と共に埋められていたが、それらは「蘇る者」と疑われた者に対するバルカン地方の典型的な埋葬の仕方だったという。またNational Geographic(2012)によれば、数千年前の墓から、杭を打ち込まれたり縛られたりした遺骨がいくつも見つかっているという。うつ伏せや首を切断された状態で埋葬される場合もあり、それらはいずれも死者が墓から出て襲って来ないようにするためであったという。 また十二~十四世紀のブルガリアでは異教のボゴミール派信仰が広がり、現世で悪行を働いた人間は死後に吸血鬼となって蘇ると考えられ、吸血鬼になるのを防ぐために埋葬時に遺体に鉄の棒などを打ち込んだという。そして東欧で根深く広まっていた吸血鬼信仰は十六世紀頃から西欧にも浸透していったようだ。吸血鬼と疑われて口をレンガでふさがれた十六世紀の女性の骨がベネチアで発掘されたという

こうした埋葬形態は、とりわけ死して蘇る者に周囲の者が警戒したという事実を知らせてくれる。発掘例はまだまだ少ないが、それに対して吸血鬼伝承は広範囲に渡っている。しかしその内容は多岐にわたり今ひとつ明瞭さに欠ける。

スラブの吸血鬼伝承ではvrykolakasは生肉を食べる。血を飲むよりもことに肝臓を好むという。肝臓は血液を満たした臓器である。動物は獲物の肝臓を真っ先に食べる。varkolakはもともと「狼人間(werewolf)」の意で、近代スラブ語およびルーマニア語ではそうした意味をいまだにもっているようだ。生肉を食べるという伝承には狼人間的な要素が色濃いことを示している。しかしバルカン地方についていえば、vrykolakasはクロアチアやモンテネグロの伝承の中で「吸血鬼」の意味に使われるようになったという。いっぽう、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ブルガリアでは「vampir」の語が共通語となっている。スラブ地方では吸血鬼と狼人間の概念が混じり合っているが、もともとトゥルク系のブルガリアでは一般にvarkolakを狼人間のような姿ではなく、吸血鬼の亜種として描写しているという。民間信仰によれば、狼人間への変身はスラブ人の中では人が獣的に変容する一般的な形態とみなされている。その概念は古代のもので、すべてのスラブ人の中で様々な程度に顕れるが、ベラルース人、ポーランド人、ウクライナ人の間で最も詳しく記録されているという。それに対して南スラブの伝承は狼人間と吸血鬼とを合成していることになる。その合成というのは、吸血鬼現象だけをみれば、前に述べたようにバルカン半島もしくはギリシア世界にスラブ人が混合して両者の世界を見分けつきにくくしていることを理由としていると考えられる。

ギリシア人は、伝統的に人が破門されたり、浄められていない場所に埋葬されたり、狼もしくは狼人間によって傷つけられた羊の肉を食べたりといった冒涜的な行為が理由で死ぬと、その人はvrykolakasになると信じていた。殺された後に狼人間が強力な吸血鬼になり、狼のような牙と毛深い手の平をした上に、人を釘付けにする爛々とした眼をもつようになると信ずる者もいる。バルカン地方の伝承ではvrykolakasの屍体は吸血鬼の屍体と同様の際立った性格をしている。それは腐敗しない。それは(吸血して)膨張し、「太鼓のような」大きなものになりさえする。肌は血色が良く、報告によれば、「肌は紅潮し新しい血で満腹になっている」。vrykolakasの行動は墓から出て来て人家を彷徨うといったことから、ポルターガイストのような行動をしたり、共同体に疫病を広めるといったことに至るまで、人に害を及ぼすものである。吸血鬼が夜に彷徨い歩く町や村には必ず腐臭が広がり、疫病の発生を見ると伝えられている。おそらくそれは血液による伝染性を示していると考えられるが、吸血鬼伝承におけるこの伝染性は興味深い。

伝承は、vrykolakasは放って置いたらますますその力を増してくるのでその屍体を打ち砕いてしまわなければいけないとしている。その仕方は様々で、最も普通なのは屍体を祓い清めること、屍体に杭を打ち込むこと、頭を切り落とすこと、屍体をバラバラにすることである。また特別な仕方として、疑いのある屍体を焼却することもある。そうすれば生者は生きた死者から解放されて安全に暮らすことができるとされた。ギリシアでは1941年から1942年にかけての大飢饉の際におよそ三十万人のギリシア人が餓死した。墓地は満杯になり、多くの家族が遺体を墓地の外に埋葬せざるを得なかった。餓死者が大量に出たため、当時の敵方協力者による政府(Hellenic State)は遺体を集め、共同墓地をつくって投棄した。浄められていない地に埋葬された者は生きてvrykolakasとなって彷徨い、戻って来ると信じられていたので、この可能性が教会の墓地に死者を埋葬することができなかった家族を悩ませる原因となった。ある家族は最愛の者がvrykolakasになるのを防ぐために、遺体の首を切り離すという予防的な手段をとったという。

生きたままの死者という忌まわしい状態に抱く恐怖は知れるが、伝染性について言われながら吸血の現象があまり伝えられていないのはなぜだろうか。屍体が腐敗していないように見えた、肌は血色のよいままだったということから、生きた人の血を吸って生きていると推測されたようだが、吸血鬼による疫病の広がりから、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になるという伝染性が異なる文脈によって強調されるようになったのだろうか。吸血鬼物語では、ことに吸血鬼になる伝染性が読者に言いようのない恐怖を与えている。

 トルコ人の吸血鬼という例があるにはあるが、一般的に吸血鬼はキリスト教社会に特有の現象である。吸血鬼は十字架を避け、教会内部のような聖なる空間へ入ることはできない。吸血鬼はその存在のあり方ゆえにその魂は決して超越しない。それは永遠にその容器、すなわち身体に繋がれ、天国に行くこともできないし、生きている者の生活に飢えて満足することなく地上を彷徨うことを強いられている。とはいえ、こうした条件はいつしか吸血鬼の伝承に色づけされてきたものであるにちがいない。

血は命であり、血統を示すものであるが、伝染性があり、それゆえ忌むべきものである。また血は生命であり、血を受け取ることは生命を受け取ることでもある。死者の魂は生きることを欲し、それゆえ血を渇望する。この血の主題を基にスラブ世界の吸血鬼が伝承されているのは確実である。それは血の両義性を伝えるといったような血への信仰の成せるものなのか。だとしたら吸血鬼現象とは何か。いったい吸血鬼を生み出す血への信仰の<光源>はどこにあるのだろうか。血は生命であり、そこには力と同時に不浄さが籠められている。不浄さは血によって病原が伝染するからであるが、いっぽう血が力であるとは、血は生命の源であるからである。しかし、血が力であるとは別の局面においてあるようだ。

前に述べたように、「オデュッセイア」の中で、亡霊は実体的な姿をもたず生者にはその声が聴き難いので血を飲ませないでは意志の疎通ができないとある。それでオデュッセウスは冥界に旅するとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう犠牲を捧げたという。死者と意思疎通を試みるというその背景には、死者は生者には知られないことを知っている、といった伝承がおそらくあったからにちがいない。そこには次々に現われる死者たちが犠牲獣の血を飲み、オデュッセウスに<真実>を語るという展開がある。

「オデュッセイア」によれば、オデュッセウスはトロイア戦争に勝利し、故郷のイタケーに戻る航海も中盤の頃、魔女キルケーの助力によって冥界に行く。そして「死者の国」の章でオデュッセウスの船は、キンメリア人が住むという、太陽が決して輝くことなく一日中霧に包まれた「大洋の河」が流れるところに停泊する。乗員たちは冥府に足を踏み入れるのにびくびくしながら松明を手にして下船するが、オデュッセウスは緊張しながらも断固とした心構えで進んで行く。彼はある地点で止まり、穴を掘り出す。そこは生贄の動物を潔斎させておいたところだ。オデュッセウスは腰の剣を引き抜き、前腕の長さと深さの穴を掘った。そしてその周囲に、すべての死者のために神酒を注いだ。最初は乳と蜂蜜と一緒に、そして熟したワインと共に、そして水を、最後に真っ白な大麦を撒いた。そしてそこに実在しない死者のために祈り、誓いを立てた。私はイタケーに戻ったら宮殿で自分が所有する中でも一番良い牛を屠るだろう。そして予言者ティレシアスには別に、宝物と一緒に薪を積み、肉付きの良い黒い子羊を捧げるだろうと。

オデュッセウスの誓いと祈りが死者の国に呼びかけると、彼は生贄の動物を捉え、穴の上でその喉を切り裂き、暗色の血を流す。するとErebus(暗黒界)から死者たちが溢れ出て来て彼のもとに群れ集まってきた。花嫁や未婚のまま死んだ若者たち、ひどく患った老人たち、悲しみに今も傷ついているかつて幸福だった娘たち、また戦いで死んだ戦士たち、銅の槍が体に突き刺ささったままで、血塗れの鎧に身を包んだ者たちだ。彼らは穴の周りをうろつき不気味な叫び声をあげる。恐怖でオデュッセウスの顔から血の気が失せた。

オデュッセウスはすぐに生贄の皮を剥ぐよう命じ、それらを燃やし、全能の死の神であり恐ろしきペルセポネーに祈るよう命じた。しかし、剣を抜いていたオデュッセウスは警戒してその場に座り込み、うろつく死者の亡霊たちを、彼が予言者ティレシアスに問いかけるまで血に近寄らないようにさせた。

しかるに、共に戦ったエルペーノールの亡霊がオデュッセウスに向かってやって来た。オデュッセウスたちは彼の屍体をキルケーの宮殿に置き去りにしたままで、彼はまだ大地の懐に埋葬されていなかった。オデュッセウスが声をかけた。「エルペーノール、お前はどうやって暗黒の世界に降りて来たのか。歩くよりも速く、さらには私の黒い船よりも速く」。それに対してエルペーノールの亡霊が恨みがましく事の顛末を語る。エルペーノールの亡霊が話し続ける最中にオデュッセウスの母親の亡霊が現われるが、またしてもオデュッセウスはティレシアスに問いかけるまで母親を血の近くまで来ないようにさせた。ようやく名高いテーベの予言者ティレシアスの亡霊がやって来た。黄金の笏を持ち、オデュッセウスをすぐに認め、語りかけてきた。「お前の剣を収め、穴から下がって立っていろ。そうすれば私は血を飲み、お前にすべての真実を語ることができる」。後に下がって剣を鞘に収めると、ティレシアスは暗色の血を飲むやいなや力のこもった言葉を辺りに響き渡るように発した。ティレシアスとの話が続き、最後にオデュッセウスは問いかけた。「もう一つ聞きたいことがあります。はっきりと話してください。私は長いこと会っていない母の亡霊をこの目で見ました。死者は黙って這うようにして血に近づき、息子である私を見るのも言葉をかけるのも耐えがたい様子でした。どうしたら私は母に私であることを知らしめることができるでしょうか」と。ティレシアスが答える。「単純な規則がある。ここではあなたはそれを学ばなければならない。あなたが血に近づけさせる亡霊は真実を語り、あなたが拒む亡霊は引き返すでしょう」と。そう言ってティレシアスは消え、母親の亡霊が近づいて血を飲むやいなや、オデュッセウスを認めて語り出す。

以上がオデュッセウスの冥府めぐりの内容の一部であるが、ここには血が力であることが明瞭に示されている。死者の亡霊は血を飲むことである程度の実体を取り戻し、それによって生者と対等になり、生者とコミュニケーションができるようになるとされているからだ。要するに、血が死者を生者に近づけ、生者に向かって<真実>を語らせるのである。

ギリシア悲劇ではエウリピデスの「ヘカベ」でアキレスの亡霊が墓の上に現れて乙女の生贄の血を飲んで欲求を満たしたとか、ソフォクレスの「オイディプス」でオイディプスが死後にテーベ人の生き血を飲むだろうと宣言したという表現がある。ギリシア世界には実際に血を飲む事例はないにしろ、「血を飲む」という表現には特別な意図が籠められていたのにちがいない。こうした言葉の表現は「オデュッセイア」の冥府めぐりの話にリアリティを与えてくれる。そして、この冥府めぐりの話がギリシアの吸血伝承の条件を満たしているのが分かる。不幸な死を遂げた者や埋葬されずにいる者の亡霊が現われ、彼()らは姿をもつが実体のない者とみなされ、そして生贄の血を飲むことで生者と等しく言葉を交わすことができる。これらの亡霊たちは冥府の入り口に彷徨い続け、血を飲むことで微かな実体を帯び、生者と接触できることを知っているのである。やがては地上に出て人の生血を吸う者と化してもおかしくはない存在である。おそらくホメーロスは「冥府めぐり」の話をどこかで聞き及び、「オデュッセイア」の中で書き起こしたと思われる。そうした「冥府めぐり」の基になる話が伝承されていれば、後にスラブ人によってそこに狼人間の伝承が重ねられて吸血鬼の伝承が出来上がった、すなわち<吸血鬼>という像が曖昧ながらも形をもつようになったのではないかと想像する。

死者に血を飲ませて<真実>を語らせること、血の信仰の<光源>はここにあるだろう。そのとき血は死者を生者に繋げる<霊的>な力を持っていると考えられている。そのようにして死者の言葉は過去を語る。過去の<真実>を語る。つまり、「血が<真実>を語る」のである。したがって、吸血鬼伝承における血の力とは冥界との繋がりを示すことにあり、そこには死者の世界を体験した者は<真実>を知る、もしくは何某かの力を得る、という考えに通底する要素があることになる。

前に述べたようにルーマニアにはストリゴイの伝承がある。墓に埋葬された者が人界に出て来る亡霊で、人の生き血を吸う。映画「Strigoi(2009)」ではストリゴイは過去の真実を語る死者として描かれている。興味深い場面がある。すでにストリゴイになっている父親が息子の血を吸う。息子は血を吸うのはやめてくれと言うが、父親は、俺の血でお前は生まれて来たのだから血を吸うのは当然だと言って吸血を正当化する。現代のルーマニアの農村を舞台とする物語だが、このやりとりには古代的な感覚が示唆されているように思えてならない。胎児は母親から栄養を得て血をつくり、母親の内から血まみれになって出てくるのだ。血の信仰とはとりもなおさず、誰しもがその血を母親の胎内で受け継いでいるという<真実>に求められはしないか。母親の血はまたその母親の胎内からという…。

ブルガリアには墓が生贄を求めているという古い迷信があったという。そのいっぽうで大地に拒まれながら生きている死者があった。その背景には大地に受け入れられる者と大地に受け入れられない者があるという考えがあったのであり、おそらく死という現象は大いなる大地と直接結びついていたのである。吸血鬼は人の生き血を吸うことで生者に近づこうとするが、いつしか<真実>に背き、人に害を与える者となった。こうした転換は吸血鬼が死者でありながら死の世界に足を踏み入れていないから起きるのにちがいない。死の世界に足を踏み入れたならば生者の世界を彷徨うことがない。吸血鬼は大いなる大地に拒まれている。また生者の世界を彷徨いながら生者の世界にも受けいれられていない中途半端な存在だ。その中途半端な状態にこそ様々な属性が結び付けられる条件がある。

近代の吸血鬼イメージ()に至って、血が死者と生者との交流を妨げるものとなっている。妨げながら、そこにエロティシズムの強度を現出させている。それゆえそれは偽の強度である。近代において怪異を主題とする中で反心理の物語を語ることができるようになったせいか、吸血鬼には欲望があらゆる形をとって集約されるようになり、そのぶん血や吸血をめぐる想像力の強度を失っているようにみえる。欲望は詳細に分析されているが、それはアンチ強度的なものになっている。「悪魔はつねに人間の後を歩き、人間に先行することはない」からである。

 

 啓蒙主義以後、西欧がそれまで怪奇なものとして東欧というスクリーンに投影していた潜在的な心性が形となっていっきに表現上に現われることになった。その表現は東欧の心性を表すものではなく、まぎれもなく西欧が抱く心性であり、西欧が抱えるマイナーな要素の集積であった。東欧に自らの不安を映し出す鏡を通じてそこに西欧は東欧を物語化していった。スラブ人にとって西欧は自分たちを物語化する存在となったのである。吸血鬼物語という<幻想>への悪魔的な要素の集約はそうした意味をもっていなかっただろうか。その底流には西欧近代の問題があると考えられる。十九世紀になって西欧では資本による社会が本格的に展開されることで、資本が産み出す商品はそれを通じて資本側の物語を社会に押し付けていった。次々と新たに生産される商品が洪水のように押し寄せてきた。それらの新たな商品は人間の欲望を次々と意識上に、もしくは目に見えるような形で<つくり出して>いったのである。そのことによって逆に意識的でない意識の働きはいわゆる<無意識>として定式化されてゆく。そこには意識的でない意識の働きから阻害されて、分裂した心性を抱えた人間がいる。そして分裂した心性は漠然とした不安を他者に向けて映し出そうとするのだ。自身の内部で人は欲望をますます活発化させているが、商品の消費者となることで欲望を自己完結させている。人はその情動を型枠に嵌め込むようにして流すだけである。そこにはのっぺりとして特徴のないゾンビ(living dead)を大々的に生み出してゆくような社会が兆しているようにも思われる。

 最近では吸血鬼を<資本>のメタファーとして考える傾向もあるようだ。マルクスは、資本家は労働者の血を吸うことでのみ生きることができる吸血鬼であると述べているという。労働者がその労働を余剰価値として工場主に支払われた賃金と交換に売るとき、確かにマルクスはそのことを「彼の生命を犠牲にする」と言っている。労働者の労働から最終的に利益を蓄積するのは工場主であり、この<犠牲>の過程は、吸血鬼の犠牲者が自身から疎外されているように、労働をそれ自身の本質から疎外している。彼ら労働者の血は吸血鬼がその犠牲者から血を吸い取るのと同じ仕方で雇用主から吸い取られているからである。そしてこの吸血の仕方は伝染性をもち、やがて世界を包摂してゆくのだ。映画「デモンズ(1985)」の表現はそのことを簡潔に提示している。

資本家は<死んでいる労働者(dead labour)>だという。吸血鬼のように、生きた労働者の血を吸い取ることによってのみ生きているからである。そして生きれば生きるだけ、労働者の生き血を吸い取っていく。結果的に、このような仕方で生きた労働力を取り入れることで、資本自体が生き生きとした怪物になっていくと。資本家はこの地上において利益によってのみ動かされ、経済的吸血鬼のかたちとなって現われている<死んでいる労働者(dead labour)>なのである。いっぽう、資本家の甘言に誘惑され、すなわちネット経済やスポーツ観戦といった新たな消費文化や気晴らしによって慰められて、労働者は「自己喪失」を患い、歩く屍と化す。この行き場のないゾンビたち(living dead)の彷徨こそひょっとして資本性社会の帰結なのか、そう思うとぞっとする。

すでに世界は資本という吸血鬼の餌食と化したようだ。いっぽう、現代の吸血鬼表現の方はあたかも血を抜かれて貧血状態に陥ったようになり、総じて象徴的なものになっている。奇妙な現象だが、血が<真実>を語らせるという伝承が見失われてしまったのは確実である。もはや血の信仰を語ることは困難であるからだ。

 

Tuesday, March 24, 2026

闇の光  Light subsumed under Dark

 一 闇の歴史

 

    夢の強度

 

 夢のなかに幾度も出てくる街があり、その街並みを繰り返し歩くにつれて頭のなかで自ずと街の見取図をつくろうとしている。新たに現われ出る街並みがあり、その街並みも何度か歩くことで製作中の街の一部に関連づけられてゆく。そうやって夢の街並みは我知らずに繋がり、街は拡がり、その全体像が把握されようとするはずだが、そういうことは決してない。どの街並みも断片的にはかなり詳しい姿を現わすけれども、それらが繋がって示されるのはわずかな機会でしかない。というよりは、たとえ繋がって示されるとしてもそれは夢のさなかではなく、夢から覚めつつある途上で働く意識的な意識においてであると思われる。つまり、夢のさなかの内容ではなく、意識的な意識の働きによる形態化、脈絡化といったような操作を経た後に〈夢〉として手に入れているものがある。そうやって目覚めた後に夢を想い出し、街の全体像を思い浮かべようとするわけであるが、そこにはすでに夢のさなかでの出来事とはまったく異なる意図が働いているのである。だから、夢見るさなかに、ある街並みと別の街並みが繋がって見出されるというのは実は稀であって、そうした場合にはまた別様の、意識的ではない意識といった働きがそうさせているのにちがいないと思う。たとえば見慣れた街並みを行くと辻があって、そこから一つの小路が分かれていて、その行先が分からないままであったのが、別の夢の流れのなかで現われた小路を歩いて行くとその見慣れた辻に出る、つまり逆の方向から見知った辻に出る。そのような発見、夢のさなかの出来事があるが、そうしたことは目覚めつつある際に働き始める意識がもたらすものとは異なっているように思われる。また夢のさなかでよく見知った街が一変して現われることがある。夢であるからして当然のことであるが、見慣れた市場と知りながら歩いて行くと様相が変わっているのを見て気分が一変する。何か知れないが、そうした様相の変化をもたらすのにはまた別の力が働いているのではないかと思う。

何もかもが混み入った市場から抜け出ると開けた空間がある。目の前に河が流れていて、河に沿って馬車が行き交うほどの幅の道路があり、河の反対側を見れば城砦のような建造物がそびえ、高い石壁が道路に沿って築かれている。城塞の内部に通じる切り通しのような坂道があるが、いったんその道に足を踏み入れると両側が石壁に囲まれ、次々と分岐する道がどこへ通じているのか分からない。その坂道を通る際には決まってどこにも行き着くことがなく、糸が切れるごとくぷつりと夢は終わってしまう。別の石畳の道を上って来ると河沿いの道に出る。見ると、河の水面を巨大な海蛇のような海獣がのたうちまわっている。その姿を目の当たりにするやいなや、驚きというよりも、気分が一変して昂まるのを感じる。こうした夢のなかでの気分の高まり、その変動は、夢のさなかで働く意識の次元での何かしらの変容を知らせているのではないかと思う。

ときおり見る思いがけない夢の内容について、たとえば夢見の内容とその働きに関して陽(ポジ)と陰(ネガ)というふうに考えてみることもできるだろう。たとえば夢のなかで意図しない繋がりが発見される場合、それは通常の意識、すなわち目覚める途上で駆動する意識的な意識の働きの陰につねに隠れている意識の働きがあって、そうした陰の意識が夢のさなかで働くのではないかと考えることもできる。また夢の内容が一変し、それが理由で気分が変動するように感じられるのは、それは逆で、夢のさなかでの気分の変動が夢の内容を一変させるのである。なぜ気分が変動するかといえば、夢見の前後の内容にその一因があると思われる。ここで〈前後〉というのは、夢の内容には因果関係がなく、それで時間の〈前後〉も曖昧だからである。夢で見る内容には時間概念が伴わない。時間の極度の長短が強調されることはよくあるが、そうした時間の感覚ではなく、長い展開の夢であっても、それは必ず短時間のうちに体験されているということである。たとえば明け方の五分の間に長い夢を見ることがある。夢は時間を伴わせるのではなく、言うならば、夢は「持続する」。そのため、夢にはある種の強度が伴っている。夢のなかでの意図しない発見がある際には、強度とまでは言えないが、きまって何かしらの〈明るさ〉が身体に感じられる。夢のさなかでの気分の高まりや感情の昂まりにおいてもそれが〈明るさ〉と感じられる。その〈明るさ〉が夢の強度を示していると言ってもいい。

夢の内容もしくは展開に連動するようにして〈明るさ〉が感じられると考えられるが、その陰の局面には通常の意識とは異なるどのような働きがあるのだろうか。とはいえその働きへと、通常の意識の手をこちらから差し伸べることはできそうにないように思われる。夢という作用をこちら側の意識的な意識から考えれば、そこには〈暗がり〉と言っていいような、意識的な意識の意向を働かせるのが難しい局面があるからだ。難しいと言い、不可能だと言わないのは、意識的な意識の意向を働かせるのが可能な場合もあると考えられるからである。すなわち〈暗がり〉に通じ、〈暗がり〉が転じて〈明るさ〉になるものがある。

ある種の夢見はその体験が異様に鮮明なため、それが脳の働きだとしても多くの局面では身体的な感覚が優っていることがある。夢の内容に興奮し、圧倒され、脱我的と言っていいような体験さえある。自分では〈暗がり〉のうちにいながら、わけの分からぬ〈明るさ〉の体験がもたらされているのはそういった状況である。そうした夢は夢が始まるときから際立っている。何かに引き連れられるようにして夢に入ってゆく、何かに呼ばれるようにして夢に陥ってゆく、そのような夢の始まりが確かにある。そのとき意識を何ものかに預けてしまうような感覚に陥り、そのためふだん経験しないような不安と緊張感に襲われることがある。

夢には不思議なところがある。夢だから不思議ではないと思うかもしれないが、どこか遠くの見知らぬ場所で見知った人に出会ったり、そこでふだん出来ないような体験をしたりする。辺りの光景もあたかも宙空から眺めるようにして俯瞰的に捉えられることがあり、さらには空を飛ぶといった体験さえする。そうした夢を見ているとき、大概そこには〈明るさ〉というか強度がついてまわる。脱我的体験とか、魂が身体から抜け出すといった体験は、おそらくそのような強度を伴う場合ではないだろうか。夢では死んだ人とも改めて出会うことができる。相手はすでに死んでいるが、生前と同じふうにして対面することができる。また人によっては、鳥や獣、草や樹木や岩とすら言葉を交わすことができるという場合もある。そのように人は夢のさなかに、いわば別の世界へと自分を拡げてゆくことができるのである。夢は何の脈絡もなく糸が切れるようにして終わり、そのため目覚めつつある意識的な意識が夢で起きたことの意味を執拗に考えるのに対して、はたして夢の閾の向こう側では、意識的でない意識、いわば夢の思考が、意識的な意識による問いを必死に考えているのかもしれない。子供の頃、夢のなかに自分の家のどこかにある部屋が、しかし実際にはない部屋が幾度も現われ、大人になってから母親に話してみて分かったことがある。自分が幼い頃に土地を処分してなくなった部屋の夢を見ていたのである。その部屋を生まれてから一歳までの頃に経験しただけで、意識的な意識を操る記憶には知られることはなく、夢のなかの思考がそのことを覚えていて知らせていたのである。

夢はあくまでも現実の記憶を素材として紡がれるものであり、目覚めたあとの記憶の生々しさも現実を回想するときの生々しさと本質的に同じだ。現実に関する記憶と夢に関する記憶とは、記憶として同じものなのである。しかし、夢は語られたり、文字にされたりして何らかの形相を帯びるとその強度は失われてしまう。夢の強度は夢見のさなかで、あくまでも夢という形になる以前の状態においてもたらされているのである。

こうした夢の現象は太古から経験され、おそらくその働きはつねに、意識的でない意識や神経に留まったままの記憶も含めた生の全体性に照準を合わせてきただろう。それゆえ、夢は現実と同じであるどころか、神の啓示や未来の予知を示すものとして、個人を超えた超現実的な現象と考えられてきたのである。たとえば古代ギリシアでは、夢の機能の一つとして、運命の論理を明らかにする力があると考えられた。また心身の疾患が治癒されるのを夢に見るためや、幸運や未来についての予知を神的なものから求めるために、聖なる場所に籠もって眠り、夢見に臨んだ。それゆえこうした夢は夢とはっきり認識され、人のうちに現われる夢のその内容がいかにリアルなものであろうとも、その内容は夢という現象であり、現実の体験とははっきりと区別されていたのである。

 

しかしこうしたこととはうって変わって、夢にもかかわらず、夢の内容がその人が現実に体験したこととして語られる場合がある。たとえば「ベナンダンティ」と呼ばれる人たちの場合である。「ベナンダンティ」とは「善き歩行者」の意で、「十六世紀から十七世紀における、イタリアの北東部フリウーリ地方の農民たちの幻視伝統にかかわった人々のことで、…彼らは寝ている間に自身の体から抜け出し、次の季節によい作物が実るのを保証するために邪悪な魔女と戦おうとする、とされた。1575年から1675年の間、近世の魔女裁判の真っただ中に、ベナンダンティのメンバーは異端や魔女としてローマの異端審問において告発された。彼らの信仰は悪魔崇拝と同一視された」(ウィキペディア)とある。どういうことかといえば、このベナンダンティについて初めて詳述した歴史家カルロ・ギンズブルグは、その著書「ベナンダンティ(1972)」の中で、彼らは「年に四回ある斎日期間中の木曜日に、魔術師たちと必ず出かけなければならない、…ときにはヴェローナの野原まで足をのばすことがある。そしてその野原で戦い、遊戯をし、飛び跳ね、様々な動物の背に跨がり、それこそ色々なことをする。そして…女たちは唐黍の茎で男たちに打ちかかるが、男たちも茴香の束で応戦する」という。彼らは「夜になって、魂に変じて、体は残し、目に見えない姿で出て行く」。彼らの多くは「シャツを着て(羊膜に包まれて)生まれてきた者たち」で、「二十歳になって、兵士を召集する時のように太鼓の音で呼び出され、呼びかけには必ず応じなければならない」という。複数のベナンダンティたちによる初期の証言では、(夢の中で)戦いに行くという彼らの強い使命感は何よりも作物の豊穣を勝ち取るためであることが強調されている。それゆえ、魂に変じて夜の戦いに参加するその行動は現実のことであると彼らはかたく信じていたのである。羊膜を「シャツ」と表現している(日本では「胞衣」に相当する)ところに、裸で生まれて来たのではないという特別な心性が感じられ、すなわちそこには何かに守護されているという考えが読み取れる。ことに出産は死に触れていると考えられていたから、そこには死に守られているといった心性が働いており、特別な時期に特別な仕方で見る夢現象を現実の体験と考える、そうした考えの基になっているように思われる。中世ヨーロッパで羊膜は幸運のお守りとして魔術的な意味が与えられていたり、「アイスランドでは、羊膜袋をかぶって生まれてきたものたちは第二の視覚をもつとされた」(カルロ・ギンズブルグ「闇の歴史(1989)」)という。この「第二の視覚」とは、おそらく夢見の能力のことにちがいない。

ギンズブルグが提出したベナンダンティの告白の内容は夢のなかでの体験をめぐるものであり、その内容が裁判記録に書き留められているわけであるが、実際の、つまり夢のさなかの体験の内容がどうであったかはよく分からない。というのも、異端審問官の尋問によってその証言内容は形態的、脈絡的なものへと強制され、それゆえ体験の内容が歪曲されている可能性があるからである。とはいえ、幾人かの証言が記録されているが、驚くべきことにその内容には共通する特徴があった。それらは、四季の斎日の木曜の夜に昏睡状態に陥り、魂に変じて目に見えない姿となって、農作物の豊穣のための戦いに参加するために野原に行く。そこで茴香の束をもって戦い、動物の背にまたがったり、飛び跳ね回ったり、帰りには喉が乾いているので家の地下蔵に降りてぶどう酒を飲んだりする、というものであった。こうした内容の一致に、ギンズブルグはその証言の背後に「ある重層的な信仰が存在した事実を告げている」と考えた。そのいっぽうで、こうした証言に対して審問官の方はその内容の細部にわたって明確な知見を得ようと繰り返し尋問する。夢の体験のその内容は明晰で興奮を伴っているはずであるが、それは決して具体的なものとはなり得ない。とはいえ、主に農民であり、神学知識などないベナンダンティは審問官による執拗な追及に迫られて、つい自分の想像を働かせて夢のさなかに体験したのとはかけ離れた光景を述べてしまう傾向があり、次第に証言の内容は変化していかざるを得なくなった。それゆえその内容は、審問官の意図的な誘導によってもたらされているものと、ベナンダンティがもつ何らかの古代的な知識とが混淆したものになっていると考えられている。

それでも、彼ら複数の人物の夢の内容が大まかな点で一致するということからすれば、まず作物の豊穣をもたらすための魂による夜の戦いが一年のある限定された期間に、すなわち四季の斎日に起きることは注目に値する。それが個々人の夢の体験であるにもかかわらず、その内容が自然の周期性に同調しているからである。このことは特に中世の農村生活では人の身体がつねに季節を抱握してその周期に同調する傾向が特徴的であり、そうした環境を包摂するような心身的局面が深い睡眠状態を引き起こし、そこに展開される夢見が様々な意識的ではない意識を駆動させていると思われる。そこにはキリスト教の四旬節の制度による抑圧に抗する農民がいる。というのも、四季の斎日はもともと古代の農耕暦に起源があり、本来は季節が移り変わるのに伴う危機感を継承するためのものであり、それが信仰と結びつけられて抽象的なキリスト教暦に取り入れられた祭礼日となっているからである。すなわち、古い季節から新しい季節に移行する危険な時期として考えられる日があり、その後日に、種まき、収穫、刈り入れなどが行われたのである。いうまでもなく農作物の出来は農民にとって、もしくは村落にとって自らの存亡に深く関わっている。彼らは飢饉への恐怖、それゆえ豊作の願望、それと連動する彼岸への懸念、死者への悔恨の念、死者の死後の運命への不安、そうした渇望と恐怖が入り混じった情動につねに苛まれていた。それゆえ、こうした行き場のない情動が農村の社会生活における特異点といった場に集中する現象があったと考えられる。それが集団のある人々に同調して起きる夢見の出来事ではないだろうか。ことに夢は見る者にとって時に畏怖と魅惑を同時に引き起こす異物的な出来事であり、しばしば恍惚状態を伴う特異な現象であった。それゆえベナンダンティの夢体験には〈明るさ〉の基調があったのではないかと考えるが、裁判での証言過程において具体的な説明を強要され、夢の体験の内容を形態にして証言するにしたがって次第に〈明るさ〉が減じていったと思われる。

イタリアの北東部に位置する東アルプス麓のフリウーリ地方には古い時代から農民たちのあいだで伝えられていた農耕儀礼があり、その儀礼はリトアニアからハンガリーを含むスラヴ諸国に広くみられるキリスト教以前の時代から伝えられているものであったという。たとえば古代の儀礼では、「それぞれ豊穣をもたらす精霊と破壊をもたらす悪霊を体現する若者たちが、二つの集団に分かれ、茴香と玉蜀黍の茎を使ってかたちばかりに腰を叩き、自分の生殖力を増大させ、それを関連させて村の畑の生産力を増そうとした」(「闇の歴史」)という。二つの集団に分かれて戦う儀礼は世界中に分布しているが、初めはこうしたのどかな儀礼が実際に行われていたと考えられる。しかし、作物の豊穣を勝ち取るためにそれが実際の戦いとなり、死者が出るほどの規模になった。それで一説には次第に戦いはそれを象徴するだけの形式へと移行し、そうして何らかの理由で行われなくなった後に夢のなかで体験するものとして受け継がれるようになったと考えられている。どうしてそうなるのだろうか。つまり、多くの者による共同の儀礼として、どうやって夢のなかで体験されるものとなり得るのだろうか。このことについて言えば、夜に昏睡状態に陥り、魂に変じて体は残し、目に見えない姿で出て行くという証言の状況が明らかに夢であることを言い表しているのと同時に、そこには何か、夢のなかでしか実現できないといった要素も言い表しているように感じられる。要するに、共同体の中では夢見の体験が何か特別なものであるという共通の心身的認識があったのではないか。

夢見の際の魂の身体離脱は一種の死として考えられ、ベナンダンティにとって危険な事態とみなされている。その状況は端から見れば生々しいもので、「深い眠りに襲われ、あおむけに横になります。すると魂が抜け出すのですが、その時三回うめき声を上げるのでした。それは死んでゆくものがしばしば発するうめき声と同じでした」(「ベナンダンティ」)という。この昏迷状態は、地上を彷徨する死者や霊魂のいる世界に辿り着くための必要不可欠な手段として考えられている。夢見の体験というのではなく、夢見の手前の昏睡状態についてギンズブルグは、アルプス周辺地域で、「四季の斎日に昏迷状態に陥り、短い時間、意識を喪失する者たち、ふつうは女たち、の一団が存在した」(「闇の歴史」)という。そして、「この者たちの魂は意識を失っているあいだに体から離れて、死者の行進に向かう。この死者の行進は女性神に率いられている」(同上)。フリウーリ地方では〈シャツ〉を着て生まれたものはベナンダンティになると言われ、そのことを多くの人が承知していたが、ベナンダンティになる者は幼年時代に母親から学ぶといわれ、母親はベナンダンティの伝承や迷信を伝えるいわば貯蔵庫となっていたという。そのようにしてベナンダンティ信仰は母親たちを軸として共同体における強い絆を形成し、彼らを生地に結びつけていたようだ。すなわち、母系的な継承によって夢見の伝統が保持されてきたわけである。

当時、夢見の身体的体験は中世ヨーロッパでは特別なものではなかった。たとえば十三世紀のフランスで書かれた「薔薇物語」には、「それだから人はしばしば、自分を夜ごと豊穣の女神と共にさまよう魔女であるという気違いじみた考えをもつのだ。彼らの語るところによれば、三番目の子供は週に三度そこに行く能力をもっているという。夜の放浪者たちは家と見るやこれを襲い、錠や格子も何のその、隙間や小穴から忍び込む。彼らはこれを実際の体験として語る。これらの奇妙な出来事は寝床の中で起こったのではなく、彼らの魂が活動し、こんなふうに世界を駆け巡ったと言うのである。彼らの話を聞いた人々は、もしこの夜の彷徨の間にその体を裏返したら、魂はそこに戻って来られなくなると信じている」と書かれている。夜に魂が体から抜け出し、その体験を現実のこととして語るのはベナンダンティと驚くべき一致を示している。「薔薇物語」は夢を見るという形式の中で様々な物語が語られているが、どちらかと言えば著者は、眠る身体を離れて彷徨する魂に対して警戒感を表しているようだ。というのも当時、「夢の前に、人は平等ではない。エリートのみが夢を見る〈権利〉をもっている」(パトリック・ギアリ「死者と生きる中世(1994))と考えられていたからである。こうした理由から、当時のキリスト教会は夢見の体験それ自体に神経を尖らせ、人々が見る夢の内容を取り締まっていた。それゆえ教会にとって、夢見の体験を現実の出来事として主張することはまったく許容できないことだったのである。

ベナンダンティと呼ばれる人々はある特定の時期の夜に昏睡状態に陥り、あたかも死んだ状態のようになり、それを契機として魂が身体から抜け出る体験をする。そして、その体験の内容を現実の出来事と考えた。すなわち夢見の状態にあってそこに現われている形象を現実と区別せず、さらには夢見を追体験する意識と現実とを区別しなかったのである。こうした夢見の体験はそれゆえに共同体的な性格を帯び、そしてその内容は死者を際立たせている。夢と死がひどく繋がっているように考えられているのは何故か。

 

毎夜、人は眠りにつき、死の状態に近づいている。そして夢に死者が現われる。夢の中の死者たちはその死を感じさせることなくまるで生きているかのように振る舞う。もし夢のなかの死者がすでに死んだ者であると夢のさなかに自覚したら、その途端にある種の恐怖を感ずるかもしれないが、そのようなことはない。夢に現われる死者とは生前と同じ態度で対面することができるのである。この夢に現われる死者とは何か。夢に現われる死者とははたしてよく見知っている死者の形象化だろうか。夢の形象は夢を見る者の意識的でない意識によってつくり出されているという観点からすれば、ふだんは私たちの意識的な意識の働きの陰に眠り、私たちが眠りにつくと夢のさなかに目覚めて立ち上がってくる何かしら名づけようのない力、それが〈死者〉ではないだろうか。私たちは、自身の内部から生じる見知らぬ力の現われを死者の形象に託しているのではないだろうか。その名づけようのない見知らぬ力、その働きを〈死者〉へと形象化することで、私たちはその力を、夢のなかの〈死者〉と面接することで捉えようとしているのではないか。そうだとすれば何故か。

ベナンダンティ信仰の基になっていると推測される農耕儀礼および信仰はかつてはるかに広い地域に、おそらく中央ヨーロッパ全域に流布していたと考えられている。めぐりめぐる季節と植物の成長といった自然の周期に同調して、名づけようのない見知らぬ力が彼らの夢見に影響を与え続けてきたのではないかと思われる。そればかりでなく、「ベナンダンティ信仰は多数の経路を通じて、より大きな伝承の集積に結びついている」(「闇の歴史」)という。すなわち、ベナンダンティ信仰はディアーナ女神信仰の一分岐であり、その基底にはより広汎な現象としての女神信仰、そしてそれに伴う「夜の集会(サバト)」というヴィジョン(幻視)があるとされる。

恍惚状態になり、身体を脱して魂に変身し、動物にまたがってはるか彼方への旅を経て集う「夜の集会」は、何よりも農作物の豊作を確保するために行われる(体験される)のだという。さらには「夜の集会」の幻視の変形として「死者の行進」への参加がある。十一世紀以降、ヨーロッパ大陸の大部分の地域で書かれたラテン語や俗語の文学作品が「荒ぶる軍勢」の出現について語っている。それはまた「野蛮な狩猟」とも呼ばれ、そこには死者の群れが幻視を通して認められている。この「野蛮な狩猟」とは夭折した死者の一団のことで、彼らは夜、村々の道を猛烈な勢いで辺りはばからず駆け抜けるので、村人たちは我が身を守るため家の扉を固く閉ざしたという。またディアーナ女神がいまだ平安を見出せない死者の一団を従えて夜に徘徊するという伝承がある。その一団は若死にした者、夭折した子供、事故にあった犠牲者たちから成っているという。こうした「死者の行進」の伝承は、キリスト教化される以前のゲルマン世界に起源をもつと考えられている。「ケルト暦では、十二月二十四日と一月六日との間の夜は、普通の日々に挿入された特別の意味を持つ。それは〈十二夜〉に相応し、その期間中は、ゲルマン世界では死者がさまよい歩くと考えられている」(同上)。それゆえ四季の斎日に、そして特にその聖性が顕著なクリスマスの斎日に「魔王の軍団」が現われるのだという。それは寿命の尽きる前に死んだ者たち、たとえば戦闘中に死に、死の期日まで地上をさ迷うよう運命づけられた兵士たちなどで構成されている。あるいはまた、洗礼前に死んだ子供や戦争で死んだ者、恍惚者すなわち魂が体から抜け出してふたたび体に戻れなかった者たちから成っていたといわれる。幻視とは、想っているものがかたちへと目の前に投影される現象であると言っていい。ことに夜は闇に支配されて目の前のかたちが定まらず、そのためふだんでも想いがかたちになりやすい。ベナンダンティ信仰の死者をめぐる体験はある種の〈明るさ〉を伴っていたにちがいない。ところがいっぽうの幻視の体験はそうではない。それは〈暗さ〉を伴い、その基底は闇であるように思われる。

日本でも「百鬼夜行」が語られ、それは平安時代から室町時代にかけて説話などに登場する深夜に徘徊する妖怪の群れによる行進で、多くの物の怪が喧しく音をたて、火を灯しながら来る様子や、奇怪な姿かたちの鬼が歩く様子が描写されており、これに遭遇することが恐れられていたという。「百鬼夜行」に出遭うと死んでしまうと言われていたため、月毎にある「百鬼夜行日」には貴族などは夜の外出を控えたといわれている。武士が台頭し、戦乱がある度に多くの死者が出る時代に貴族は神経質になっていたのだろう。とはいえ、こうした現象は昔の話に限ったことではない。というのも、東日本大震災の際に、多数の人が津波に飲み込まれて海に流され、遺体が発見されず埋葬できないままにあり、そのため遺族や被害を受けた住民の中から〈幽霊〉現象が報告されているからである。被災地では震災から数か月たった頃から〈幽霊〉が出るという噂が飛び交っていた。震災から一年後の2012年三月には、AFP通信が復興の様子と共に〈幽霊〉が出没しているという話題をGhost with Tsunami」の記事にして世界に発信している。震災が起きた当初は「被災地で声が聞こえる」という話がよくあったという。「夜になると大勢の人たちが走って行く足音が聞こえる。見える人は姿も見えるらしい」。「肩に手を置いて前後に繋がった人らしき得体の知れないものの行列が目撃されている」。石巻に住むある女性は「幽霊の列」の噂を聞いたことがある。生きていた最後の瞬間の不毛な努力をなぞるかのように、幽霊たちは丘へ向かって殺到し、津波から何度も何度も逃げようとするのだという。おそらく被災者の心の中で処理しきれないほどの強い感情が、霊の投影というかたちで現われたのではないだろうか。また、「震災があった日から一週間後に夢を見ました。場所はどこかわかりませんが、朝方、丘の上に瓦礫の山があり、向こうが海で、海岸に大勢の、数千人ぐらいの人が集まっていて、自分の体をみな気にしていました。私も体が大丈夫かどうか、何人もの人から聞かれました」という。夢のさなかで海が輝いて見えたという。このように多くの被災者が死者を感じる体験をし、死者を幻視し、死者の群れを幻視したというのは、おそらく共同体の崩壊を目の当たりにした体験があったからである。幻視の体験とはそうした場面に現象する。彼らは失った者の消息を探し求めるようにして、知らず知らずのうちに〈死者〉の境域へ接近せざるを得なかったのではないか。幻視には〈暗さ〉がつきまとっているが、夢見には何かしらの〈明るさ〉も感じられる。

「生者の社会では、死者は、社会体制に不完全に組入れられているものたちによってしか体現できない」(レヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロース(2016))と言われる。このことはたとえば、死者と女性が同一視される儀礼においては、両者とも部族の参加者であると共に部外者であり、すなわち内部にいると同時に外部にいると考えられている。女性が内部と同時に外部にいるものと考えられているのは、女性は生命を生むものであり、それゆえ同時にいまだ生まれざるものという無定形なものを抱える世界との繋がりをもっていると漠然と感知されているからである。こうしたことから、ベナンダンティが生まれる際に身に付けていた羊膜、すなわち「〈シャツ〉とは、ヨーロッパや世界の各地の民間信仰では、〈外部の魂〉が宿る場所と考えられている。そこでシャツは放浪の魂、夭折した死者の世界に結び付けられる。それは死者の世界と生者の世界を結ぶ媒介、架け橋である。それゆえ、デンマークのような国では〈シャツ〉を着て生まれてきた子供は、幽霊を見る能力があるとされる。ベナンダンティにとって〈シャツ〉は〈外に出る〉ための必要条件になる」(「ベナンダンティ」)とされる。ここでも〈シャツ〉は霊を見る能力と関連づけられている。また死者の顔を覆うこと、死者と同一視されるものの顔を布で覆うことから、体を覆うものである羊膜は死者の世界、もしくは生まれなかったものの世界に属するのだともいわれる。羊膜を通じて死者の界と生者の界が結び付けられているのである。こうした繋がりが前提とされていなければおそらく夢見も幻視も成り立たないのだろう。実際、死者たちはときにこの世へ戻り、生者の魂を悩ませるのだと信じられてきた。そのように、この世とあの世は通じているのである。そうした伝統的な考えがあるいっぽうで中世ヨーロッパのキリスト教社会では、ことに貴族社会においては死者の界と生者の界とは厳密に区別されていたようだ。死者のための祈祷は宗教的な贈与と考えられ、すなわち祈祷する者が見返りとして死者(生き続ける者とみなされた)の土地を得るという贈与交換のメカニズムがあり、生者はそうした贈与交換によって死者と生者の間の均衡が保たれていれば、死者が生者の社会に敵意を抱いたり、支配したりすることを回避できたという。両者の関係はあくまでもキリスト教による物質界と霊界とを区別するイデオロギーを基にして考えなければならなかった。とはいえ、田舎においても都市においても、死者たちが彷徨するとされる場はアジールもしくは娯楽の場(無時間の場)であり、またそこで裁きが下され、和解が成立し、また何よりも市が立つ場であり続けたという。キリスト教のイデオロギーとは無縁の場があり、こうした場を彷徨する死者たちはしきりに喉の渇きを訴える。それは最近死んだ死者が、生者の社会に敵意を抱いていて、死者の訴えを聞く者がそう暗に感じているからである。このとき生者にとって、死者の界へ行き、そして死者の界から帰って来るといった願望が育まれはしないだろうか。死者の界にいると考えられた者の消息を知るためである。それゆえ、死者の界に行ったとされる者が語るその内容は特別視され、何かしらの効力をもつようになったにちがいない。そうした効力を発揮するために夢見の体験者は死者の界へ行ってふたたび生者の界に戻って来なければならないし、共同体内部でそうした役目を果たしていたのだと考えられる。いっぽう、幻視を見る者は死者の界に行くことなく、共同体の思考と深く関わりながら失われたものを求めるようにして、すなわち欠けたものを補おうとして、個人の意識的な意識を超えて幻視することになる。

中世ヨーロッパでは、キリスト教によりゲルマン諸国家が社会的に統一されることで倫理的な制約が浸透していったが、そうした身体的な局面をも含むゲルマン社会に対する制約が様々な幻想を生み出している。キリスト教は人々の夢にまで注意を払い、夢見の内容に介入することで心的なものの制約をしていたが、たとえば浅い眠りのときに見た夢は真の幻視ではないとされ、というのも浅い眠りには悪魔が現われるからであるという。しかしゲルマン的な伝承では、特にサガ文学では、真実の幻視を見るのは眠りに入るときであると考えられていた(「死者と生きる中世」)。また古代ギリシア・ローマの幽霊とは異なり、「サガ」で描かれる死者(幽霊)は、「〈模像〉として描かれているのではなく、あたかも死体そのものが蘇生し、本物の肉体を帯びて墓から出て来たかのような印象を与える」(J=C・シュミット「中世の幽霊(1994))ものだという。ゲルマン人の死者たちは具体的なかたちとなって荒ぶる行為をする。そうした死者の振る舞いは霊的な概念としての〈死者〉にはそぐわないので、キリスト教は具体的なかたちをもった死者を禁じていたようだ。

たしかに夢もまた社会制度やその他諸々の伝統を反映するものであり、人が独力で夢を見、それを語りはじめることなどありそうにない。キリスト教会はそのことを見抜いていただろう。とはいえそれ以上に夢には、夢見という仮死状態にも似た身体で体験する世界と死の世界との深い関連がもたらされている。中世の農民社会ではキリスト教的な制約は緩やかな仕方で浸透していったと思われ、その分、制約に対抗する幻想も自由で放縦なものであったにちがいない。そうした傾向が、キリスト教以前のゲルマン社会に根ざした思考や儀礼的なものの残滓がベナンダンティの夢のなかに現われ出る要因となっているのではないか。アルプスの渓谷地帯では、孤立して住む村々の女性たちが夜の昏迷状態のさなかで、はるか遠い時空間を超えてやって来た神話をそれと知らずに体験していたのである。ベナンダンティ信仰がそうした夢見の現象を伴うものであるならば、そこには明らかに当時のキリスト教の権威から〈逃走〉しようとする線が見えてくるだろう。彼らが課されている様々な制約、逃れられない境遇、信仰によっても救済されない状態を鑑みれば、何らかの〈逃走線〉が自ずと生まれるのが道理であるように思割れる。現実社会からは逃れられないので、その〈逃走線〉は夢見という、唯一、自由に振る舞える意識の領域として実現されてきたのである。狭い共同体内の噂話に日常的に耳を澄ませ、その内容によって周囲の状況を把握し共同作業するといった世界に生きている彼らにとって、農作物の収穫が唯一重要な関心事であったことに疑いない。それゆえ彼らはもっぱら、厳しい生活を物質的に支えてくれる真の戦いである高次の夢の次元につねに神経を使っていたことだろう。

すでに314年に第一アンキュラ公会議で定められた教会法は、「異教徒の習慣に従い、卜占、鳥占いを行う者、夢や、その他のあらゆる徴を読む者、および、住まいに人を呼び魔術によって調べ物を行う者…、これらの者どもは告白し、五年の贖罪に服すべし」(J.=ゴフ「中世の身体(2003))と規定している。これはキリスト教側が夢見を悪魔と結びつけ、死者の界との往来に隠された真実を解釈する異教的伝統への巧妙な対応であった。農民たちがつねに触れている強度を伴った概念が、忌まわしい力を表すものと考えられるようになったのである。その果てに、十六世紀のマルチン・ルターでさえ、夢を神が見せているのか悪魔が見せているのかどうしても判らないので、もはや夢などまったく見せないようにと神に祈ったという。

 

一月の朔日の期間中に、西欧でも東方でも行われる多くの儀礼がある。すなわち子供たちが物乞いしながら家を廻ったり、夜の女神たちに食卓が用意されたり、動物に変身(仮装)したりといった儀礼は、古い年が終わり新しい年が始まるという決定的なこの時期に、何よりも富の分配者である〈死者〉たちと関係をもとうとする様々なやり方を示しているという。死者がもたらす豊穣のこの〈死者〉とは〈死者の界〉という意味だろうか。そうであれば、〈死者の界〉とは、充実した空白の体験として現われてくると考えられていたのではないか。昏迷状態になって陥る夢見の体験がそうである。その体験には強度がある。死を直接的体験として語ることはできないから、それはあくまでも生者の体験である。そう考えるとすれば、〈死者の界への旅〉とは、生者による夢見もしくは幻視の体験なのである。それゆえそれは、通常とは位相を異にする意識の働きの中で展開される世界である。そのことが豊穣さに繋げられているのは何故か。

かつて広く行われた古代社会の戦闘儀礼の痕跡が世界中にあり、その戦闘行為は豊穣儀礼であり、戦闘ゆえに人の死も伴っていた。それゆえいつしか形式的なものと化し、行為は廃され、いったん姿を隠すようにして儀礼を信仰する者の夢のなかに入り込み、なおかつ夢のなかにその様相を新たな仕方で現わすようになったと考えられている。それも昏睡という硬直状態による〈死〉という姿を伴うことで。前に述べたように、失われたものをめぐる記憶が行き詰まるとそれが幻視や夢見として現われる可能性がある。要するに、失われたものをめぐる意識的な意識が作動困難な状態になると、その状況に対して何らかの別の意識の処置が現象する。幻視や夢見は意識的でない意識(充実した空白)が生む現象であり、そうした体験およびその現象が知られていて、廃された儀礼が夢のさなかに実現されていくプロセスに関わっているのだろうか。そこにはまず何よりも欠けたものを補うという心性が働いている。というのも、それは死に対する人間の意識による処置として古来より連綿と共同体の内に働いてきた心性でもあるからである。そしてそのことはまず、先史期の狩猟民の意識が向かう主対象である動物への働きかけにおいて見ることができる。

動物の再生を図るために、「死んだ動物の骨を(できる限り完全に)集めることを中軸とする、神話や儀礼が、死者の行進やそれを率いる夜の女神によって奇蹟がなされたアルプス地方で記録されている」(「闇の歴史」以下同じ)という。その女神は「遊戯の女主人」とか「動物たちの女主人」と呼ばれていた。たとえば、「アボンド婦人の追随者たちは、魂になって、扉や壁を通り抜け、旅を開始する前に、硬直状態に陥ると言われていた。…慈悲深い女性神の世界には、仮の死を通じて入って行く。その世界は死者の世界なのである」。「十五世紀の初頭、ファルツ地方の農民たちは、豊穣をもたらす、ヘーラーという名の女神が、死者たちの帰還に捧げられた期間である、クリスマスと主顕節の間の十二夜に、空を飛びながらさまよう、と信じていた」。そして、「女神オリエンテが皮に入れられた骨を棒で打って、彼女の追随者たちによって殺され、食べられた牛たちを生き返らせた」とある。この骨を集めて動物を再生させる女神については、ヨーロッパのみでなくユーラシアにも古代ギリシア世界にも伝えられている。

殺した動物を再生させるために骨を皮に詰める儀礼が、すなわち狩猟民による儀礼が古代から行われてきた。こうした狩猟社会で生まれた思考が、半農半牧を軸とする社会にも受け入れられた可能性がある。とすれば、〈死者の界〉、それは作物の豊穣をもたらすというすでに農耕社会がもっていた概念であると思われるが、いっぽうの狩猟社会は他界に関して別の概念をもっていたと思われる。農耕社会になっても動物の欠けた骨を軸にした様々な神話や民話が伝えられているが、それらは狩猟社会の他界概念に関係しているようだ。狩猟民にとって骨の収集は死んだ動物の復活と密接に関連している。つまり、動物は死ぬけれども、他界からふたたび戻ってくると考えられていたのである。農耕社会において農作物の成長と播種の原理が知られているのとは違って、動物は人間が狩りをして殺され、食糧になるが、それはふたたび生きて戻ってきて、ふたたび人間の食糧になるのである。そのことが後に、動物が死んでふたたび生きて帰ってくる別の世界があると夢見られるようになり、その世界が動物を生きてふたたび狩猟民に帰すためには、死んだ動物の骨を元どおりにしておかなければならなかったのである。このように、動物とその骨、骨と他界との間には太古より培われてきた深い関係が存在する。動物が他界へ行きふたたび戻ってくるそのプロセスに狩猟民は骨を集めることで関わり、そうすることで食糧の豊かさが保証されると考えたにちがいない。そして、狩猟社会からまったく別次元の農耕社会に移行する間に失われてゆくものがあり、社会にとって重要な要素である他界と豊穣の関係を回復させようとする力が働き続けたのである。夢見の伝統がそのプロセスを補ったのかもしれない。

こうした他界と豊穣さの関係、そして動物の解体と復活の関係、それはユーラシア世界のシャーマンが実現しようとするものでもある。

ヨーロッパの特定地域に、クリスマスと主顕節との間の十二日間、足が跛行の少年の出現に促されて狼の姿になる人たちがいるという。また「ヘロドトスは、スキタイ人やスキティアに住むギリシア人の間で、ネウロイ人に関するある噂を聞きつけた。毎年、何日間か、彼らは狼に変身するという」(「闇の歴史」以下同じ)。古代世界では狼は死者の世界と関連づけられていたという。また「古代のゲルマン法では、共同体から追放され、象徴的な死者とみなされた追放者は、〈狼〉という言葉で呼ばれた」という。彼らは恍惚状態で豊穣のための戦いに臨むといわれ、こうしたことからギンズブルグはベナンダンティが夢見の内容を頑なに現実と主張したことについて、そこに古代的な要素、もしくはシャーマン的な要素があると考えた。「ベナンダンティはその背後に、バルカン半島のクレスニキ、ハンガリーのタルトス、バルト海沿岸の狼憑き、イラン近辺のコーカサス地方のブルクドゼウテの影をひきずっている」と。そのどれもが動物に変身して戦いに赴くといわれる者たちである。しかしながら、ユーラシアのシャーマンたちは会衆の面前で強硬症状態になって個々に決闘するのであり、それに対してヨーロッパの継承者たちとされる者たちは個人的な強硬症状態のなかで集団によって戦いを行うのである。またシベリアのいくつかの地域ではシャーマンは世襲制であったり、サモイェード人の間ではシャーマンは身体的特徴で定められたりといったように、ベナンダンティとは明白な違いがある。またシャーマンはベナンダンティと異なり、夢のさなかに意識的な意識を働かせることができるといわれる。しかしこうした特徴の相違は、長い期間を通じて異なる仕方で受け継がれた経緯を考慮するならばさして問題にならないように思われる。

 シャーマンはその身体をばらばらにされ、自分の骸骨を自ら凝視し、新しい生命を得て生き返る。そうやって共同体が死んだ動物に望むプロセスを自ら体験することになる。かつて狩猟民族は集団で動物を狩り、共同して獲物を解体し、一同会して食し、栄養を得て生きる糧とした。冬季になれば動物は減少し、やがていなくなる。彼らは暗い冬を洞窟で過ごし、あの動物の肉をまた食えるかと案じる。そして春がやって来る。洞窟の外に出て、緑が芽吹き始めるなだらかな丘陵や草原の向こうに動物の群れが現われ来る驚くべき光景を見て、彼らは死んだ動物たちが、自分たちに食べられた動物が、生き返ってふたたびやって来たのだと考えた。地平線に顔を出す動物はすべて、生き返った動物であった。ラスコーの洞窟の岩壁に描かれた動物群を見て、ジョルジュ・バタイユは恍惚として語っているではないか。「動物が持っていたにちがいない聖性というより大きな価値を、人間たちが認めた瞬間が表現されている」と。このときバタイユは、動物の再生を願った狩猟民族に還ろうとしているのだ。失った生をふたたび回復させようとする願望は、人間の心性として連綿と続いているものなのである。

 

中世ヨーロッパにイメージされた、もしくは幻視された悪魔崇拝の集まりであるサバトは夜の集会であり、夜にしか行われない。それは異端審問裁判というシステムが〈陰〉を〈陽〉ヘともたらす過程でつくりあげてきたイメージとして形成されたのである。〈陰〉というのは分析の差し手を受けつけない意識的でない意識の領野であり、それはもっぱら脳が関与する意識活動とは異なる心身的な次元であり、それゆえ〈存在〉に関わろうとする全体状態を示していると言える。ギンズブルグはサバトを軸にしてその起源へと遡るようにしてそこに含まれる異質な原因を探り、その果てにヨーロッパ外部の東方に至っている。そして、最終的に次のように記述した。「サバトの民衆文化的起源を探求する中で、われわれは、恍惚状態で、シベリアのシャーマンを思わせるような体験をした、男女に関する一連の証言が姿を現すのを見てきた。それは魔術的飛行と、動物への変容であった」と。すなわち、ギンズブルグは〈陰〉を〈陰〉のままであるようにして〈陽〉へと押し出したのである。裁判では夢見の内容が尋問のメスで屠り出されようとしているが、(存在の全体性を示そうとする)強度を伴った夢見の内容を具体的に描写することはその〈全体性〉を分節化することになり、そこには物語と化した〈陽〉としての夢見の抜け殻があるばかりである。それにもかかわらず、裁判記録に遺されたベナンダンティの夢見の証言を通じて成し遂げたギンズブルグの発見は、何よりもベナンダンティが証言する物語の中にも古代の心性が厳然と現われているということにある。

目覚めの思考()が夢の事件()の意味を執拗に考えるのに対して、閾の向こう側では夢の思考()が目覚めの世界の問い()を必死に考えている。そうした意味において、私たちにとって夢とは〈可能性そのもの〉であるだろう。そればかりでなく、夢は時空を超え、私たち個々人が別の時空へと繋がり、個々の心性の広がりを現在の人間にあっても与えてくれる唯一の現象なのである。いつの時代にあっても多くの人が感性の強度を誘導されてきた。現在においても、感性の強度を独自に抱えるのではなく、強度をなし崩し的に奪われている現代社会がある。刺激的なマスメディアが報じる情報に左右され、慣習に吸収されている感性の強度を個人のうちに回復させなければならない。それなくしては歴史を超えた〈死の界〉の豊穣さに触れられないだろう。

そもそも人は心身全体で自然を包摂しようとしている存在だ。そうした作業を人は夢見のさなかで表そうとしてきたのにちがいない。自然に関する共通の利害を抱える狭い共同体内では複数の人の夢見は同調する。そのように人は夢を見るのである。個人という境界を越えて夢を見てきたのである。意識世界の〈陰〉に触れつつ夢を見続けてきたのである。そうやって夢見の体験には個人を超えるものが蓄積され続けてきた。そして、そうあることで夢見は〈自己〉以外の領域から何かを知らせてくれるのである。西洋ではキリスト教と精神分析という二つの圧力によって夢見に圧力がかけられ、その内容が統制されようとしてきた。そのように夢見を統制しようとする圧力がいつの時代にもあるが、ここまで述べてきたように夢見を統制することはできない。夢見は言論の自由とはまったく異なる次元において〈自由な〉働きなのである。何ものにも統制されない〈裸の夢〉がある。たとえそれが意識世界の闇に触れていようとも。

「〈闇〉の光」という言い方はできるが「光の闇」という言い方はない。〈闇〉の方が根源的であるからだ。光がドップラー効果によってその光度が変質し、終には闇に到ろうとするが、その闇は根源的な〈闇〉ではない。光は〈闇〉のものであり、〈闇〉は光のものではない。

 

 

 

    お知らせ

 

前回のブログ文「Lahore日記」の第一部「Lahore城市」を、一部修正してこの度「ラホール日記」というタイトルで刊行することになりました。詳細は以下の<文芸社>サイトへ。

https://bunko.sumikko.info/item-select/4286274802