Wednesday, May 20, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

   吸血鬼幻想

 

 ヨーロッパには吸血鬼物語を語らせる何かしらの衝動が働いているようだ。ジョン・ポリドリの「吸血鬼(1819)」をはじめとして小説の多くは十九世紀のロマン派によるものであるが、それ以外にもモーパッサンによる吸血鬼風の物語「オルラ(1887)」やA. K. トルストイの「吸血鬼の家族(1884)」があり、二十世紀の大戦後にはM. エリアーデの「令嬢クリスティーナ(1978)」がある。また十九世紀には上層階級の間でいわゆる吸血鬼話が流行し、「吸血鬼」というタイトルでいくつもの演目がパリをはじめとする都市の劇場で上演された。そして、映画が発明されて以来ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ(1897)」を下敷きにした作品が次々と製作されたが、中には初期カール・ドライヤーが撮影技法を駆使した秀作「吸血鬼(1932)」や、レ・ファニュの小説「吸血鬼カーミラ(1872)」を下敷きにしたロジェ・ヴァディムの「血と薔薇(1960)」といった異色作品もあり、そして野性味溢れるヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ(1979)」がある。「Nosferatu」は古ルーマニア語で「吸血鬼」と同義で、F. W. ムルナウが最初に「Nosferatu(1922)」というタイトルで吸血鬼映画を撮っている。ちなみにトルコ映画に「Dracula in Istanbul(1953)」があり、ドラキュラ伯爵が牙を生やしている最初の映画であるという。有名なハンガリー人ドラキュラ俳優ベラ・ルゴシが出る「魔人ドラキュラ(1931)」を見ると、なるほど牙を生やしていない。続編の「吸血鬼蘇る(1943)」もベラ・ルゴシが主演の映画だが、吸血鬼の手下として狼男が出てくるのが興味深い。イスタンブールになぜドラキュラが現われるのか、おそらくトルコ映画界がイスタンブールの都会性を西欧並みに強調したかったからではないか。

 吸血鬼物語や吸血鬼映画の内容はブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」がそうであるように、概ね主人公がルーマニアの辺境やスラブ地方に赴き、そこで吸血鬼に遭遇するという怪奇な体験を基に展開されている。つまり、吸血鬼の源は東欧にあるというのが西欧社会の一般的な考えだったのである。自身の外部に想定された吸血鬼という存在がなぜそれほど西欧社会の人々を惹きつけ、また作家たちを表現に向かわせたのか。当時の西欧からすればトルコ文化の影響が色濃い東欧に対する心理的環境がその衝動に影響しているのだろうか。ギリシア人やボスニアのトルコ系の人がラテンの土地に埋葬されると吸血鬼になる、そうまことしやかに信じられていた時代である。

十九世紀に西欧の文学作品の中で吸血鬼像が形になる以前に、東欧のスラブ社会では吸血鬼伝承が知られていた。さらにそれよりも古くから伝承が知られていたのがギリシアである。それは何らかの理由があって埋葬された遺体が生き返るというものである。死して埋葬された者が夜になって村をうろつき、他の遺体の肉を食べたり、生者の生き血を吸ったりすると考えられていた。ギリシア語の「vrykolakas」が生き返った死者を指す言葉として知られている。その死者というより亡霊は、「一口の血を啜れば生ける者の機能が与えられ、(肉を)貪り喰らえば英雄と対話するだけの力が出る」と考えられていた。たとえば「オデュッセイア」の中で、冥界の亡霊は実体的な姿を有しないので生者にはその声が聴き難い。それで血を飲ませずには亡霊たちと意志疎通ができないから、オデュッセウスは冥界に旅したとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう羊と山羊を犠牲に捧げたという。死者の声を聴くには生きた血が必要だと考えられていたのである。

vrykolakas」はブルガリア語の「varkolak」に由来するといわれるが、この語はスラブ民話では「狼人間(werewolf)」を言い表し、そこには吸血鬼と狼人間とを区別しがたい状況が見えてくる。スラブ世界では生きて狼人間であった者が死後に吸血鬼となるともいわれ、十世紀頃のギリシアではvrykolakasは狼人間を指す語でもあったという。また昏睡状態で夜に出歩き、人に害を与える者もそう呼ばれたという。しかし、もともとギリシアでは蘇生した屍体のことをvrykolakasと言い、スラブ文化の影響がない十八世紀のクレタ島では「katakhanades(破壊者の意)」の語が吸血鬼を指していたという。吸血鬼を指す言葉のこうした入り混じりは、ビザンツ帝国時代の七世紀にスラブ人がギリシアに大量に入り込み、ギリシアはスラブ化され、もしくはスラブ人がギリシア化したという経緯から推測されている。スラブ語で吸血鬼を表す語は「upior」で、これがvampireの語源である。

伝承によれば、Living Dead、すなわち死なずに生きている屍体というか死者が吸血鬼である。それは死の界に行ってはいない。そのため吸血鬼には居場所がなく、生者の世界を彷徨うしかない。そうした意味において、吸血鬼は一般的な生者と死者の関係に反している存在なのである。ルーマニアの民話に「ストリゴイ(strigoi)」という亡霊があり、それは墓から出てきて人に害を加えたり、獣に姿を変えたり、姿を見えなくしたり、人の血を吸って活力を得たりするという。このストリゴイにもLiving Deadという死者の界にも生者の界にも属さない吸血鬼同様の存在が考えられている。

吸血鬼現象は中世より東欧で多く報告され、また記録されている。それらのほとんどは曰く付きの人が死に、その後夜に徘徊して人に危害を加えたり、血を吸ったりするので墓を暴いたらあたかも生きたような状態だったというものである。そうした報告がローマ教会にまで届いて記録されているが、実際に吸血鬼が人の血を吸っている現場を押さえたという記録はない。事後に墓を暴いたら吸血鬼だった、そう認められているケースが多いようだ。そこには人の死をめぐる異常な事態と、伝承と判別がつかないような人々の妄念があるだけのようだ。したがって、吸血鬼現象と吸血鬼伝承、そして吸血鬼物語とは分けて考えなければならない。つまり、まず吸血鬼伝承があって、それに沿った吸血鬼現象が報告され、そして吸血鬼物語が語られる、といったプロセスがある。伝承と現象そして物語はそれぞれ異なる環境で語られ、テキスト化されている。そして、吸血鬼が人の生き血を吸う場面が初めて描かれるのは映画によってであり、映像イメージから遡行して過去の記録、すなわち伝承や現象をイメージする傾向があるが、それはまちがっていることになる。

伝承や現象と物語を区別する観点からすれば、吸血鬼物語はスラブ世界のものではない。その物語は西欧世界が作り出したものである。そうした物語に特徴的なのは、吸血鬼をめぐる血とエロティシズムの表現である。吸血鬼物語はM. プラーツが示唆するようにロマン派のエロティシズムを逸脱している。すなわち、そこには屍体でありながら生き生きした存在をめぐって過度の情動を伴った想像力が働いている。死者でありながら皮膚は新鮮で血色がよく、爪が長く生え、唇は異様に赤い、そのように死者でありながら死とは相反する邪悪な生のイメージが西欧の想像力のうちに生み出されている。その物語に触れる者は内なる情動を誘い出そうとする力に抵抗できない。逸脱した強度としてのエロティシズム、それこそ吸血鬼物語がもたらすものなのである。

一説には吸血鬼イメージは十八世紀の啓蒙主義を経験した西欧が、(吸血鬼をめぐる)説話や伝承を非合理的なものとして廃し、そのことによって新たにイメージ形成の表現領域へと移行していったことに因る産物であると考えられている。迷信という心身的に深く根づいていたものを廃したおかげで、その心性はイメージといういつでも取り替え可能なものを内に導入することができたのである。そしてその際に、死や血のイメージを伴うエロティシズムの表現、言い換えれば、あらゆるマイナス強度が吸血鬼の周囲に際限なく集約されていった。なぜそんなことが起きるのだろうか。ことにブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が発表されるやいなや、そのイメージが核となってあらゆる邪悪な局面がそこに集まってゆくようにみえる。そうしたマイナス・イメージを次々と懐胎し、そして形態化させてゆく思考の力とは何だろうか。それは何かしら刺激的なイメージを生み出そうとする思考の罠に陥っているだけなのか。肝心なのは何がそうさせているかである。

 

吸血鬼のイメージが形態化される際に最も威力を発揮したのがブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」である。ドラキュラとはいったい何か。ブラム・ストーカーは創作メモの中で、「ドラキュラとは悪魔を意味する。ワラキア人は勇気、残虐行為、狡猾さで目立つ者の姓に、この名を与える慣習があった」、そう書いている。当時は「ワラキア(Wallachia)」という語で語られていたようだが、現在のルーマニア南部地方のことである。このワラキアと北部のトランシルヴァニアとモルダヴィアの一部が合わさって1866年にオスマン帝国から独立して現在に至るルーマニアが出来た(トランシルヴァニアはその後一時、オーストリア・ハンガリー帝国に編入される)。ストーカーは東欧に行ったことがなく、東欧とトルコの関係についてもよく知らなかったようだ。ブダペスト大学の東洋語の教授(作中のヘルシング教授のモデル)からトランシルヴァニア地方に遺っている吸血鬼伝承を聞いて「ドラキュラ」物語を構想したという。

1453年にビザンツ帝国の首府コンスタンチノープルがオスマン帝国軍によって陥落したその三年後、ワラキアの王位についたのがヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes)である。彼はワラキア公、ヴラド・ドラクール(Vlad Dracul)の第二子であり、その姓の「Dracul」は中世ルーマニア語で「ドラゴン」を意味し、それゆえ彼は「Draculの息子」を意味する「Dracula」と呼ばれた。「Dracula」は「ドラクーラ」と発音するようだが、おそらくその名が西欧で「ドラキュラ」に転化したのである。したがって、「ドラキュラ」とはワラキア王のヴラド・ツェペシュを指す。

ヴラド・ツェペシュはその残虐性によって西欧に知られた。たとえば乞食同然の多数の貧民たちを宴会に招いてその闌に火を放って焼き殺し、また何千というトルコ兵を串刺しにして野に晒したという。とはいえ、ドナウ河南岸まで攻め入ってきたオスマン帝国軍に対峙したヴラド・ツェペシュにとってトルコ兵の串刺しは戦略的なものであったにちがいない。敵に恐怖を与えて戦意を挫くためである。彼は戦いに際しては勇敢にして狡猾であったようだ。トルコ兵の侵攻経路の井戸に毒を投げ込み、収穫物を焼き払い、家畜を殺すよう命令した。また伝染病に罹った市民たちに敵の兵隊と混ざるよう唆し、国内の罪人を解放してトルコ兵を攻撃するよう仕向けた。(これは現在、ロシアがウクライナ戦線で行なっていることで、かつて実際に行われたことを参照している可能性がある)。また彼は自国経済の発展に力を入れ、それゆえ乞食稼業をする者、すなわち非生産者を毛嫌いしていた。

ヴラド・ツェペシュに関する歴史記録を読めば、総じて彼が南のオスマン帝国や西のマジャール人のハンガリー王国からワラキアの国を守るために全力を注いだ人物であることが分かってくる。それに対して彼について書かれた物語は異なっている。事実が意図的に歪められているようだ。当時ワラキアの一部にサクソン人が移住していたが、彼らを通してドイツでの物語はヴラド・ツェペシュの残酷さが誇張されているか、もしくはでっち上げられているという。十五世紀末に書かれた「ドラクーラ物語(ドイツ語版)」によれば、ヴラドは「銅製の大釜を造らせ、その上に穴の開いた木製の蓋を置き、そして大釜の中に罪人を入れてその頭を蓋の穴をくぐらせるようにして出させて窯に繋ぎ止めた。それから窯に水を満たし、底で火を焚き、罪人を泣き叫ばせ、彼らが煮え死にするまでそうさせた」という。また彼は女性に対して残虐性を振るったとされ、ことに夫に忠実でない女性や結婚前に不貞を働いた女性に対して、「母親と乳飲み子を一緒に一つの杭に串刺しするよう命令した」という。これに対してスラブ版の「ドラクーラ物語」では、ブラドの残虐性はワラキアの国を強固にするためであったと強調されている。たとえば泉にある誰も盗もうとしない金杯について伝えられている。なぜ誰も金杯を盗まないかといえば、ヴラドが「窃盗行為を激しく嫌ったので、何らかの悪事もしくは強奪を引き起こすものは(厳しく罰せられて)長くは生きられない」とされ、厳格な社会規制と過酷な刑罰によって公衆秩序が奨励されたのだという。またドイツ語の物語ではオスマン帝国へのヴラドの遠征に際して行われた残虐行為が強調されているが、スラブ語の物語では彼の外交手腕が「悪賢い(zlomudry)」ものと評されているだけである。またヴラドは多くの拷問の方法を編み出し、何千もの人々を殺したのは確かであるが、それについても研究者たちによれば、事実が誇張され、彼を恐れる者たちや彼の評判を傷つけようとする敵対勢力が仕組んだ可能性があると注意している。

十五世紀の東欧諸侯国の力関係は複雑で、オスマン帝国の侵攻という危機的事態がそれに輪をかけて複雑にしていた。中欧の諸王国はヴラドをオスマン帝国の侵攻を防ぐ盾にしようと考えたようだ。こうしたことから、ブラド・ツェペシュは歴史的にはコンスタンチノープル陥落後のオスマン帝国の侵攻に対して勇敢に戦ったキリスト教徒とみなされている。しかし当時の政治状況からするならば、オスマン帝国侵攻の前哨地であるワラキアの統治者として周囲の諸侯国からそうせざるを得ない立場に立たされたという考えが支配的である。少年時代にワラキアの宗主国であったオスマン帝国に人質として過ごしたブラド・ツェペシュの立場は心理的にも地政学的に複雑なものだった。時にビザンチン帝国が消滅してオスマン帝国による威圧下にあるワラキアは西側に接するハンガリー王国ともトランシルヴァニアめぐる確執を抱えていた。ワラキアの王となったヴラド・ツェペシュは自身の生地である北部トランシルヴァニアをも支配しようとその影響力を強めていたからである。彼はことに黒海とハンガリー両方面への経由地点であるブラショブ(Brasov)の支配に努めた。ブラショブはドイツ移民系の商人が力をもつ商業都市で、ハンガリーにも影響力をもっており、そのためワラキアの支配下に入ることに反発していた。こうした状況にあって、ブラド・ツェペシュによる貧民虐待、残虐な刑罰、トルコ兵の串刺しといった事例が西欧によってことさら取り上げられることになったようだ。1464年のローマ法王への報告によれば、彼は四万人の様々な国籍と年齢の男女を虐殺したという。また1475年のカソリック司教の報告によれば、十万人の処刑を認可したという。こうした誇張の背後にあるのは、おそらく西欧が東欧に抱く不条理な心性ではなかったろうか。とはいえ、総じてスラブ文化圏自体が民族と歴史が複雑に入り組む状態を呈し、資料によって必ずしも中世東欧の歴史的事実が明確になることはない。

スラブ世界の歴史は複雑だ。ルーマニアはスラブ世界にありながらもともとはロマンス語系の言葉を話すラテン民族の国であるが、しかしビザンツ教会に属する。モルダヴィアとワラキアに分かれていた時代が長く、国家が成立したのも前述したように十九世紀になってからである。また旧ユーゴスラヴィアを構成していた諸国家は同じスラブ系でありながらも部族が異なり、ローマ教会とビザンツ教会に挟まれて文字は異なり、オスマン帝国による支配の間にイスラーム教に改宗した者もおり、宗教的にはパッチワーク状態になっている。ルーマニアはドナウ河口を擁し、西は民族的に異質なマジャール人のハンガリーに接し、しかるにその流れは西欧に通じているが、ハンガリー北側のチェコ(ボヘミア)は神聖ローマ帝国の一部でありながらも独自のスラブ文化を守ってきた。また十世紀になるとドイツ人(サクソン人)の「東方植民」があり、東欧の各地に拠点を築いてドイツ人による交易を活発化させてきた。そのためドイツでは東欧はゲルマン民族の「レーベンスラウム(生活圏)」であるという考えがあり、ドイツ人にとってバルカン半島も含めた東欧は自分たちの裏庭という意識があるようだ。東欧にナチスが浸透したのもこうした背景があるからだろう。そして大戦後の東欧諸国がソ連圏となり、独裁政権に支配されたことは衆知のことである。

十九世紀に中欧に多民族国家のオーストリア・ハンガリー帝国が成立し(18671918)、ゲルマン人とマジャール人によって一部のスラブ国家は支配されることになった。その際にトランシルヴァニアが帝国に編入されたことは、おそらく「ドラキュラ」の読者に影響を与えたと思われる。たとえばドラキュラ伯爵がヴィクトリア朝のイギリスへやって来ることは異質な領域からの侵入、もしくは人種汚染に対する恐怖の投影として読まれうるという。どういうことかと言えば、帝国の辺境の地であるトランシルヴァニアの吸血鬼がイギリスに侵入し、住民の生き血を吸って国内秩序を乱す。それによって人種を弱体化させる異質な侵入者はアングロ・サクソン人種の純度を弱め、その恐怖を描写した「ドラキュラ」は辺境地による<逆植民地化>の事例となるというのだ。また「ドラキュラ」物語はことに西欧でのユダヤ人に対する固定観念に結びつけられ、その吸血鬼描写が十九世紀末のイギリスへの東欧系ユダヤ人の流入と関係づけられている。オーストリア・ハンガリー帝国下で反ユダヤ法やポグロム(大虐殺)から逃れて来たユダヤ人の数がイギリスでは急激に増えていた。古風な格式と金銭の富、血を吸うことで同族を増やし、種族の反映のみを図り国家への忠誠心に欠けたドラキュラ伯爵の描写は、反ユダヤ主義的概念が描写するユダヤ人そのものだというのである。ヴィクトリア朝文学ではユダヤ人を寄生虫のように描写することが多く、ことにユダヤ人が血液の病気を広めているのではないかという恐怖が存在したようだ。こうした漠然とした嫌悪感の背景には、他の列強国の台頭による大英帝国の衰退、帝国植民地における道徳性を疑問視する国民の不安の高まりがあったとされる。さらにはドラキュラ伯爵がロマ人を手懐けて幼子を誘拐させるのはロマ人が子供を誘拐するという噂話や昔からの伝承を想起させ、また狼人間のごとく変身する能力もロマ人が動物的だからという流民嫌悪症と関連づけられた。ロマ人は動物と共に暮らす生活慣習のために<汚れた肉>を好むとされ、市民による迫害対象となっていたのである。こうしたユダヤ人やロマ人への迫害とわけもなく結び付けられるドラキュラ伯爵は、それゆえその周囲にあらゆる悪の要素を集約させることのできるイメージ()となっている。むろん作家が意識的にそのようなドラキュラ像を作り出したのではないが、それを読む者が無意識的に悪の要素を付け加えることになるのである。その背後にはすでに述べたような社会状況がある。ことに「ドラキュラ」は書簡文で構成されているので、そのぶん読者のイメージを喚起しやすい表現になっている。ストーカーは大学時代に「小説における扇情と社会」という論文を書いているので、ひょっとして世間を煽ることが出来る小説を書くという潜在的な意図があったのかもしれないが…。

こうしたことから、西欧で流布した「ドラキュラ」という名の吸血鬼は、東欧に実在した「ドラクーラ」と呼ばれたブラド・ツェペシュ王とはまったく無関係なのである。それは西欧でまったく独立して想像されたイメージ()であり、そしてその内容はといえば、東欧で一般的に知られていた吸血鬼伝承とはまったく別物なのである。こうした現象はなぜ起きてきたのだろうか。

十八世紀以前のヨーロッパでは人々は吸血鬼に怯えていた。というのも、もし吸血鬼が疑われる事例に関わっていたり、それに触れていたならば、死後に天国にいく機会を不可能にさせると信じていたからである。啓蒙の時代となって以来、伝承される吸血鬼の身体特徴や具体性が客観的に観察され、述べられ、そして分析されている。そうした特徴は、早すぎる埋葬、土壌による正常ではない腐敗の遅れ、伝染病といった見地から科学的に論議された。それゆえ現象や伝承が現実のものであるという見方は次第に消えていったが、とはいえ人々はそのぶん吸血鬼イメージに魅了されるようになり、その吸血鬼イメージは人々の心理的/内面的な場を支配するようになったのである。そのことは、吸血鬼イメージに触発されるものを人々がいまだ心の奥深くに抱えているという現実があったからにちがいない。要するに、迷信による内面支配が終わった後も、吸血鬼イメージは文化的レベルで存在する恐怖というよりも、個々人の心理に深く潜む情動を恐怖として表象するものへと変容することができたのである。

当時、流行小説が提示する表象は人々の意識に特別な影響を与えていたようだ。語り伝えられる話に耳を貸すのではなく、人はプライベートな時空をつくって小説本に面と向かってその字面を読むようになる。迷信から解き放たれてはいるが、いっぽうでは吸血鬼表象が個人の内面に強烈なイメージと化して侵入する。その体験はそれ以前にはなかった新たなもので、そのような体験こそが読書の魅力となった。こうしたタイプの体験を誘発する吸血鬼物語は疑いなくロマン派の時代に由来する。十八世から十九世紀のロマン派の文学期は、吸血鬼を私たちが現在知るような創造物へと変容させたことに大いに影響を与えている。というのも、ロマン派による吸血鬼イメージは血みどろの表現から離れて、代わりに性的魅力と情欲の表現という近代の産物となったからである。すなわち、吸血鬼は人間の姿をしていてその獣性は稀薄になり、代わりに永遠に飢え、永遠に孤独な存在という、思考する上でも近づきやすいものと化した。それは死ぬこともできずに地上をあてどなく彷徨い、安らぐ場所のないその空虚な魂を近代特有の悪の要素である性や富や暴力といった力によって満たすことで生きるものとなったのである。

二十世紀の大戦後にM. エリアーデによって書かれた「令嬢クリスティーナ1978)」はそこら辺の事情を鑑み、スラブ伝承に基づく吸血鬼物語が意識的に語られているようだ。舞台は二十世紀初頭のルーマニアで吸血鬼伝承のいわば本場である。とはいえトランシルヴァニアの山中ではなく、ドナウ河の土の匂いがするワラキア南部の平原に建つ旧地主の広大な邸である。1907年の土地貸借制度をめぐる大農民暴動という歴史的背景が示唆されているが、それはその際の鎮圧に軍隊が出動し、犠牲者が一万人を超えたという血腥いものである。令嬢クリスティーナは残虐性と性的放縦という性格において描かれ、性的関係にあった同じく残虐な差配人によって農民暴動の際に射殺された。しかし、その屍体はきちんと埋葬されていなかった。村人は令嬢クリスティーナが幽霊になったと噂している。次々と家畜が死に、子供たちも死して亡霊となる。不貞な女性はキリスト教のモラルに反し、なおかつ悲惨な死に方をしたことでその死は呪われたものとなった。つまり、死者であってもなお生きている存在となった。これが伝承における吸血鬼の条件である。主人公は令嬢クリスティーナに向かって、「あなたは死んでいる。あなたは自分が死んだことを知っている」、そう吸血鬼の本性を突きつける。しかし、吸血鬼は生者との繋がりを維持するために生きた血を求めざるを得ない。過去を生き続けるその死者が生者である主人公の思考を制御しようとするというのが「令嬢クリスティーナ」の主題になっている。そこに嫌な感じがある。死者に制御された生者の思考は生気のない自らの過去の光景を繰り返し眼前に映し出すことになるからだ。それはもう生きた死者と同じ状態と言えるだろう。

 

こうした吸血鬼物語自体は実際にあったとされる吸血鬼現象には直接的には繋がらない。かろうじて吸血鬼伝承を想い起こさせるだけだ。吸血鬼物語は西欧の啓蒙主義による近代意識が作り出したものであるからそういうことになるのだろうが、それ以前の吸血鬼現象もしくは吸血鬼伝承とはいったいどんなものだったのか。意識が啓かれたからといって物語を物語の枠内だけで考えるのでは不十分である。吸血鬼現象もしくは伝承を考慮してこそ、物語に通底する何かしらを知ることができるにちがいない。

吸血鬼現象についていえば、それは考古学的発掘からも推測されている。たとえばギリシアのレスボス島ではオスマン帝国時代からのトルコ人墓地から、首と骨盤、それに両脚を二十センチの釘で留められた大人の隔離された墓が見つかった。同島の同じ頃のもう一つの墓には六十才の男性が入れられていたが、その骨に三本の曲がった十六センチの大釘が混じっていた。また教会の特別地下室の二つの墓地には中年の男性が埋められ、二つとも首、鼠蹊部、踝に二十センチの大釘と共に埋められていたが、それらは「蘇る者」と疑われた者に対するバルカン地方の典型的な埋葬の仕方だったという。またNational Geographic(2012)によれば、数千年前の墓から、杭を打ち込まれたり縛られたりした遺骨がいくつも見つかっているという。うつ伏せや首を切断された状態で埋葬される場合もあり、それらはいずれも死者が墓から出て襲って来ないようにするためであったという。 また十二~十四世紀のブルガリアでは異教のボゴミール派信仰が広がり、現世で悪行を働いた人間は死後に吸血鬼となって蘇ると考えられ、吸血鬼になるのを防ぐために埋葬時に遺体に鉄の棒などを打ち込んだという。そして東欧で根深く広まっていた吸血鬼信仰は十六世紀頃から西欧にも浸透していったようだ。吸血鬼と疑われて口をレンガでふさがれた十六世紀の女性の骨がベネチアで発掘されたという

こうした埋葬形態は、とりわけ死して蘇る者に周囲の者が警戒したという事実を知らせてくれる。発掘例はまだまだ少ないが、それに対して吸血鬼伝承は広範囲に渡っている。しかしその内容は多岐にわたり今ひとつ明瞭さに欠ける。

スラブの吸血鬼伝承ではvrykolakasは生肉を食べる。血を飲むよりもことに肝臓を好むという。肝臓は血液を満たした臓器である。動物は獲物の肝臓を真っ先に食べる。varkolakはもともと「狼人間(werewolf)」の意で、近代スラブ語およびルーマニア語ではそうした意味をいまだにもっているようだ。生肉を食べるという伝承には狼人間的な要素が色濃いことを示している。しかしバルカン地方についていえば、vrykolakasはクロアチアやモンテネグロの伝承の中で「吸血鬼」の意味に使われるようになったという。いっぽう、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ブルガリアでは「vampir」の語が共通語となっている。スラブ地方では吸血鬼と狼人間の概念が混じり合っているが、もともとトゥルク系のブルガリアでは一般にvarkolakを狼人間のような姿ではなく、吸血鬼の亜種として描写しているという。民間信仰によれば、狼人間への変身はスラブ人の中では人が獣的に変容する一般的な形態とみなされている。その概念は古代のもので、すべてのスラブ人の中で様々な程度に顕れるが、ベラルース人、ポーランド人、ウクライナ人の間で最も詳しく記録されているという。それに対して南スラブの伝承は狼人間と吸血鬼とを合成していることになる。その合成というのは、吸血鬼現象だけをみれば、前に述べたようにバルカン半島もしくはギリシア世界にスラブ人が混合して両者の世界を見分けつきにくくしていることを理由としていると考えられる。

ギリシア人は、伝統的に人が破門されたり、浄められていない場所に埋葬されたり、狼もしくは狼人間によって傷つけられた羊の肉を食べたりといった冒涜的な行為が理由で死ぬと、その人はvrykolakasになると信じていた。殺された後に狼人間が強力な吸血鬼になり、狼のような牙と毛深い手の平をした上に、人を釘付けにする爛々とした眼をもつようになると信ずる者もいる。バルカン地方の伝承ではvrykolakasの屍体は吸血鬼の屍体と同様の際立った性格をしている。それは腐敗しない。それは(吸血して)膨張し、「太鼓のような」大きなものになりさえする。肌は血色が良く、報告によれば、「肌は紅潮し新しい血で満腹になっている」。vrykolakasの行動は墓から出て来て人家を彷徨うといったことから、ポルターガイストのような行動をしたり、共同体に疫病を広めるといったことに至るまで、人に害を及ぼすものである。吸血鬼が夜に彷徨い歩く町や村には必ず腐臭が広がり、疫病の発生を見ると伝えられている。おそらくそれは血液による伝染性を示していると考えられるが、吸血鬼伝承におけるこの伝染性は興味深い。

伝承は、vrykolakasは放って置いたらますますその力を増してくるのでその屍体を打ち砕いてしまわなければいけないとしている。その仕方は様々で、最も普通なのは屍体を祓い清めること、屍体に杭を打ち込むこと、頭を切り落とすこと、屍体をバラバラにすることである。また特別な仕方として、疑いのある屍体を焼却することもある。そうすれば生者は生きた死者から解放されて安全に暮らすことができるとされた。ギリシアでは1941年から1942年にかけての大飢饉の際におよそ三十万人のギリシア人が餓死した。墓地は満杯になり、多くの家族が遺体を墓地の外に埋葬せざるを得なかった。餓死者が大量に出たため、当時の敵方協力者による政府(Hellenic State)は遺体を集め、共同墓地をつくって投棄した。浄められていない地に埋葬された者は生きてvrykolakasとなって彷徨い、戻って来ると信じられていたので、この可能性が教会の墓地に死者を埋葬することができなかった家族を悩ませる原因となった。ある家族は最愛の者がvrykolakasになるのを防ぐために、遺体の首を切り離すという予防的な手段をとったという。

生きたままの死者という忌まわしい状態に抱く恐怖は知れるが、伝染性について言われながら吸血の現象があまり伝えられていないのはなぜだろうか。屍体が腐敗していないように見えた、肌は血色のよいままだったということから、生きた人の血を吸って生きていると推測されたようだが、吸血鬼による疫病の広がりから、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になるという伝染性が異なる文脈によって強調されるようになったのだろうか。吸血鬼物語では、ことに吸血鬼になる伝染性が読者に言いようのない恐怖を与えている。

 トルコ人の吸血鬼という例があるにはあるが、一般的に吸血鬼はキリスト教社会に特有の現象である。吸血鬼は十字架を避け、教会内部のような聖なる空間へ入ることはできない。吸血鬼はその存在のあり方ゆえにその魂は決して超越しない。それは永遠にその容器、すなわち身体に繋がれ、天国に行くこともできないし、生きている者の生活に飢えて満足することなく地上を彷徨うことを強いられている。とはいえ、こうした条件はいつしか吸血鬼の伝承に色づけされてきたものであるにちがいない。

血は命であり、血統を示すものであるが、伝染性があり、それゆえ忌むべきものである。また血は生命であり、血を受け取ることは生命を受け取ることでもある。死者の魂は生きることを欲し、それゆえ血を渇望する。この血の主題を基にスラブ世界の吸血鬼が伝承されているのは確実である。それは血の両義性を伝えるといったような血への信仰の成せるものなのか。だとしたら吸血鬼現象とは何か。いったい吸血鬼を生み出す血への信仰の<光源>はどこにあるのだろうか。血は生命であり、そこには力と同時に不浄さが籠められている。不浄さは血によって病原が伝染するからであるが、いっぽう血が力であるとは、血は生命の源であるからである。しかし、血が力であるとは別の局面においてあるようだ。

前に述べたように、「オデュッセイア」の中で、亡霊は実体的な姿をもたず生者にはその声が聴き難いので血を飲ませないでは意志の疎通ができないとある。それでオデュッセウスは冥界に旅するとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう犠牲を捧げたという。死者と意思疎通を試みるというその背景には、死者は生者には知られないことを知っている、といった伝承がおそらくあったからにちがいない。そこには次々に現われる死者たちが犠牲獣の血を飲み、オデュッセウスに<真実>を語るという展開がある。

「オデュッセイア」によれば、オデュッセウスはトロイア戦争に勝利し、故郷のイタケーに戻る航海も中盤の頃、魔女キルケーの助力によって冥界に行く。そして「死者の国」の章でオデュッセウスの船は、キンメリア人が住むという、太陽が決して輝くことなく一日中霧に包まれた「大洋の河」が流れるところに停泊する。乗員たちは冥府に足を踏み入れるのにびくびくしながら松明を手にして下船するが、オデュッセウスは緊張しながらも断固とした心構えで進んで行く。彼はある地点で止まり、穴を掘り出す。そこは生贄の動物を潔斎させておいたところだ。オデュッセウスは腰の剣を引き抜き、前腕の長さと深さの穴を掘った。そしてその周囲に、すべての死者のために神酒を注いだ。最初は乳と蜂蜜と一緒に、そして熟したワインと共に、そして水を、最後に真っ白な大麦を撒いた。そしてそこに実在しない死者のために祈り、誓いを立てた。私はイタケーに戻ったら宮殿で自分が所有する中でも一番良い牛を屠るだろう。そして予言者ティレシアスには別に、宝物と一緒に薪を積み、肉付きの良い黒い子羊を捧げるだろうと。

オデュッセウスの誓いと祈りが死者の国に呼びかけると、彼は生贄の動物を捉え、穴の上でその喉を切り裂き、暗色の血を流す。するとErebus(暗黒界)から死者たちが溢れ出て来て彼のもとに群れ集まってきた。花嫁や未婚のまま死んだ若者たち、ひどく患った老人たち、悲しみに今も傷ついているかつて幸福だった娘たち、また戦いで死んだ戦士たち、銅の槍が体に突き刺ささったままで、血塗れの鎧に身を包んだ者たちだ。彼らは穴の周りをうろつき不気味な叫び声をあげる。恐怖でオデュッセウスの顔から血の気が失せた。

オデュッセウスはすぐに生贄の皮を剥ぐよう命じ、それらを燃やし、全能の死の神であり恐ろしきペルセポネーに祈るよう命じた。しかし、剣を抜いていたオデュッセウスは警戒してその場に座り込み、うろつく死者の亡霊たちを、彼が予言者ティレシアスに問いかけるまで血に近寄らないようにさせた。

しかるに、共に戦ったエルペーノールの亡霊がオデュッセウスに向かってやって来た。オデュッセウスたちは彼の屍体をキルケーの宮殿に置き去りにしたままで、彼はまだ大地の懐に埋葬されていなかった。オデュッセウスが声をかけた。「エルペーノール、お前はどうやって暗黒の世界に降りて来たのか。歩くよりも速く、さらには私の黒い船よりも速く」。それに対してエルペーノールの亡霊が恨みがましく事の顛末を語る。エルペーノールの亡霊が話し続ける最中にオデュッセウスの母親の亡霊が現われるが、またしてもオデュッセウスはティレシアスに問いかけるまで母親を血の近くまで来ないようにさせた。ようやく名高いテーベの予言者ティレシアスの亡霊がやって来た。黄金の笏を持ち、オデュッセウスをすぐに認め、語りかけてきた。「お前の剣を収め、穴から下がって立っていろ。そうすれば私は血を飲み、お前にすべての真実を語ることができる」。後に下がって剣を鞘に収めると、ティレシアスは暗色の血を飲むやいなや力のこもった言葉を辺りに響き渡るように発した。ティレシアスとの話が続き、最後にオデュッセウスは問いかけた。「もう一つ聞きたいことがあります。はっきりと話してください。私は長いこと会っていない母の亡霊をこの目で見ました。死者は黙って這うようにして血に近づき、息子である私を見るのも言葉をかけるのも耐えがたい様子でした。どうしたら私は母に私であることを知らしめることができるでしょうか」と。ティレシアスが答える。「単純な規則がある。ここではあなたはそれを学ばなければならない。あなたが血に近づけさせる亡霊は真実を語り、あなたが拒む亡霊は引き返すでしょう」と。そう言ってティレシアスは消え、母親の亡霊が近づいて血を飲むやいなや、オデュッセウスを認めて語り出す。

以上がオデュッセウスの冥府めぐりの内容の一部であるが、ここには血が力であることが明瞭に示されている。死者の亡霊は血を飲むことである程度の実体を取り戻し、それによって生者と対等になり、生者とコミュニケーションができるようになるとされているからだ。要するに、血が死者を生者に近づけ、生者に向かって<真実>を語らせるのである。

ギリシア悲劇ではエウリピデスの「ヘカベ」でアキレスの亡霊が墓の上に現れて乙女の生贄の血を飲んで欲求を満たしたとか、ソフォクレスの「オイディプス」でオイディプスが死後にテーベ人の生き血を飲むだろうと宣言したという表現がある。ギリシア世界には実際に血を飲む事例はないにしろ、「血を飲む」という表現には特別な意図が籠められていたのにちがいない。こうした言葉の表現は「オデュッセイア」の冥府めぐりの話にリアリティを与えてくれる。そして、この冥府めぐりの話がギリシアの吸血伝承の条件を満たしているのが分かる。不幸な死を遂げた者や埋葬されずにいる者の亡霊が現われ、彼()らは姿をもつが実体のない者とみなされ、そして生贄の血を飲むことで生者と等しく言葉を交わすことができる。これらの亡霊たちは冥府の入り口に彷徨い続け、血を飲むことで微かな実体を帯び、生者と接触できることを知っているのである。やがては地上に出て人の生血を吸う者と化してもおかしくはない存在である。おそらくホメーロスは「冥府めぐり」の話をどこかで聞き及び、「オデュッセイア」の中で書き起こしたと思われる。そうした「冥府めぐり」の基になる話が伝承されていれば、後にスラブ人によってそこに狼人間の伝承が重ねられて吸血鬼の伝承が出来上がった、すなわち<吸血鬼>という像が曖昧ながらも形をもつようになったのではないかと想像する。

死者に血を飲ませて<真実>を語らせること、血の信仰の<光源>はここにあるだろう。そのとき血は死者を生者に繋げる<霊的>な力を持っていると考えられている。そのようにして死者の言葉は過去を語る。過去の<真実>を語る。つまり、「血が<真実>を語る」のである。したがって、吸血鬼伝承における血の力とは冥界との繋がりを示すことにあり、そこには死者の世界を体験した者は<真実>を知る、もしくは何某かの力を得る、という考えに通底する要素があることになる。

前に述べたようにルーマニアにはストリゴイの伝承がある。墓に埋葬された者が人界に出て来る亡霊で、人の生き血を吸う。映画「Strigoi(2009)」ではストリゴイは過去の真実を語る死者として描かれている。興味深い場面がある。すでにストリゴイになっている父親が息子の血を吸う。息子は血を吸うのはやめてくれと言うが、父親は、俺の血でお前は生まれて来たのだから血を吸うのは当然だと言って吸血を正当化する。現代のルーマニアの農村を舞台とする物語だが、このやりとりには古代的な感覚が示唆されているように思えてならない。胎児は母親から栄養を得て血をつくり、母親の内から血まみれになって出てくるのだ。血の信仰とはとりもなおさず、誰しもがその血を母親の胎内で受け継いでいるという<真実>に求められはしないか。母親の血はまたその母親の胎内からという…。

ブルガリアには墓が生贄を求めているという古い迷信があったという。そのいっぽうで大地に拒まれながら生きている死者があった。その背景には大地に受け入れられる者と大地に受け入れられない者があるという考えがあったのであり、おそらく死という現象は大いなる大地と直接結びついていたのである。吸血鬼は人の生き血を吸うことで生者に近づこうとするが、いつしか<真実>に背き、人に害を与える者となった。こうした転換は吸血鬼が死者でありながら死の世界に足を踏み入れていないから起きるのにちがいない。死の世界に足を踏み入れたならば生者の世界を彷徨うことがない。吸血鬼は大いなる大地に拒まれている。また生者の世界を彷徨いながら生者の世界にも受けいれられていない中途半端な存在だ。その中途半端な状態にこそ様々な属性が結び付けられる条件がある。

近代の吸血鬼イメージ()に至って、血が死者と生者との交流を妨げるものとなっている。妨げながら、そこにエロティシズムの強度を現出させている。それゆえそれは偽の強度である。近代において怪異を主題とする中で反心理の物語を語ることができるようになったせいか、吸血鬼には欲望があらゆる形をとって集約されるようになり、そのぶん血や吸血をめぐる想像力の強度を失っているようにみえる。欲望は詳細に分析されているが、それはアンチ強度的なものになっている。「悪魔はつねに人間の後を歩き、人間に先行することはない」からである。

 

 啓蒙主義以後、西欧がそれまで怪奇なものとして東欧というスクリーンに投影していた潜在的な心性が形となっていっきに表現上に現われることになった。その表現は東欧の心性を表すものではなく、まぎれもなく西欧が抱く心性であり、西欧が抱えるマイナーな要素の集積であった。東欧に自らの不安を映し出す鏡を通じてそこに西欧は東欧を物語化していった。スラブ人にとって西欧は自分たちを物語化する存在となったのである。吸血鬼物語という<幻想>への悪魔的な要素の集約はそうした意味をもっていなかっただろうか。その底流には西欧近代の問題があると考えられる。十九世紀になって西欧では資本による社会が本格的に展開されることで、資本が産み出す商品はそれを通じて資本側の物語を社会に押し付けていった。次々と新たに生産される商品が洪水のように押し寄せてきた。それらの新たな商品は人間の欲望を次々と意識上に、もしくは目に見えるような形で<つくり出して>いったのである。そのことによって逆に意識的でない意識の働きはいわゆる<無意識>として定式化されてゆく。そこには意識的でない意識の働きから阻害されて、分裂した心性を抱えた人間がいる。そして分裂した心性は漠然とした不安を他者に向けて映し出そうとするのだ。自身の内部で人は欲望をますます活発化させているが、商品の消費者となることで欲望を自己完結させている。人はその情動を型枠に嵌め込むようにして流すだけである。そこにはのっぺりとして特徴のないゾンビ(living dead)を大々的に生み出してゆくような社会が兆しているようにも思われる。

 最近では吸血鬼を<資本>のメタファーとして考える傾向もあるようだ。マルクスは、資本家は労働者の血を吸うことでのみ生きることができる吸血鬼であると述べているという。労働者がその労働を余剰価値として工場主に支払われた賃金と交換に売るとき、確かにマルクスはそのことを「彼の生命を犠牲にする」と言っている。労働者の労働から最終的に利益を蓄積するのは工場主であり、この<犠牲>の過程は、吸血鬼の犠牲者が自身から疎外されているように、労働をそれ自身の本質から疎外している。彼ら労働者の血は吸血鬼がその犠牲者から血を吸い取るのと同じ仕方で雇用主から吸い取られているからである。そしてこの吸血の仕方は伝染性をもち、やがて世界を包摂してゆくのだ。映画「デモンズ(1985)」の表現はそのことを簡潔に提示している。

資本家は<死んでいる労働者(dead labour)>だという。吸血鬼のように、生きた労働者の血を吸い取ることによってのみ生きているからである。そして生きれば生きるだけ、労働者の生き血を吸い取っていく。結果的に、このような仕方で生きた労働力を取り入れることで、資本自体が生き生きとした怪物になっていくと。資本家はこの地上において利益によってのみ動かされ、経済的吸血鬼のかたちとなって現われている<死んでいる労働者(dead labour)>なのである。いっぽう、資本家の甘言に誘惑され、すなわちネット経済やスポーツ観戦といった新たな消費文化や気晴らしによって慰められて、労働者は「自己喪失」を患い、歩く屍と化す。この行き場のないゾンビたち(living dead)の彷徨こそひょっとして資本性社会の帰結なのか、そう思うとぞっとする。

すでに世界は資本という吸血鬼の餌食と化したようだ。いっぽう、現代の吸血鬼表現の方はあたかも血を抜かれて貧血状態に陥ったようになり、総じて象徴的なものになっている。奇妙な現象だが、血が<真実>を語らせるという伝承が見失われてしまったのは確実である。もはや血の信仰を語ることは困難であるからだ。

 

Tuesday, March 24, 2026

闇の光  Light subsumed under Dark

 一 闇の歴史

 

    夢の強度

 

 夢のなかに幾度も出てくる街があり、その街並みを繰り返し歩くにつれて頭のなかで自ずと街の見取図をつくろうとしている。新たに現われ出る街並みがあり、その街並みも何度か歩くことで製作中の街の一部に関連づけられてゆく。そうやって夢の街並みは我知らずに繋がり、街は拡がり、その全体像が把握されようとするはずだが、そういうことは決してない。どの街並みも断片的にはかなり詳しい姿を現わすけれども、それらが繋がって示されるのはわずかな機会でしかない。というよりは、たとえ繋がって示されるとしてもそれは夢のさなかではなく、夢から覚めつつある途上で働く意識的な意識においてであると思われる。つまり、夢のさなかの内容ではなく、意識的な意識の働きによる形態化、脈絡化といったような操作を経た後に〈夢〉として手に入れているものがある。そうやって目覚めた後に夢を想い出し、街の全体像を思い浮かべようとするわけであるが、そこにはすでに夢のさなかでの出来事とはまったく異なる意図が働いているのである。だから、夢見るさなかに、ある街並みと別の街並みが繋がって見出されるというのは実は稀であって、そうした場合にはまた別様の、意識的ではない意識といった働きがそうさせているのにちがいないと思う。たとえば見慣れた街並みを行くと辻があって、そこから一つの小路が分かれていて、その行先が分からないままであったのが、別の夢の流れのなかで現われた小路を歩いて行くとその見慣れた辻に出る、つまり逆の方向から見知った辻に出る。そのような発見、夢のさなかの出来事があるが、そうしたことは目覚めつつある際に働き始める意識がもたらすものとは異なっているように思われる。また夢のさなかでよく見知った街が一変して現われることがある。夢であるからして当然のことであるが、見慣れた市場と知りながら歩いて行くと様相が変わっているのを見て気分が一変する。何か知れないが、そうした様相の変化をもたらすのにはまた別の力が働いているのではないかと思う。

何もかもが混み入った市場から抜け出ると開けた空間がある。目の前に河が流れていて、河に沿って馬車が行き交うほどの幅の道路があり、河の反対側を見れば城砦のような建造物がそびえ、高い石壁が道路に沿って築かれている。城塞の内部に通じる切り通しのような坂道があるが、いったんその道に足を踏み入れると両側が石壁に囲まれ、次々と分岐する道がどこへ通じているのか分からない。その坂道を通る際には決まってどこにも行き着くことがなく、糸が切れるごとくぷつりと夢は終わってしまう。別の石畳の道を上って来ると河沿いの道に出る。見ると、河の水面を巨大な海蛇のような海獣がのたうちまわっている。その姿を目の当たりにするやいなや、驚きというよりも、気分が一変して昂まるのを感じる。こうした夢のなかでの気分の高まり、その変動は、夢のさなかで働く意識の次元での何かしらの変容を知らせているのではないかと思う。

ときおり見る思いがけない夢の内容について、たとえば夢見の内容とその働きに関して陽(ポジ)と陰(ネガ)というふうに考えてみることもできるだろう。たとえば夢のなかで意図しない繋がりが発見される場合、それは通常の意識、すなわち目覚める途上で駆動する意識的な意識の働きの陰につねに隠れている意識の働きがあって、そうした陰の意識が夢のさなかで働くのではないかと考えることもできる。また夢の内容が一変し、それが理由で気分が変動するように感じられるのは、それは逆で、夢のさなかでの気分の変動が夢の内容を一変させるのである。なぜ気分が変動するかといえば、夢見の前後の内容にその一因があると思われる。ここで〈前後〉というのは、夢の内容には因果関係がなく、それで時間の〈前後〉も曖昧だからである。夢で見る内容には時間概念が伴わない。時間の極度の長短が強調されることはよくあるが、そうした時間の感覚ではなく、長い展開の夢であっても、それは必ず短時間のうちに体験されているということである。たとえば明け方の五分の間に長い夢を見ることがある。夢は時間を伴わせるのではなく、言うならば、夢は「持続する」。そのため、夢にはある種の強度が伴っている。夢のなかでの意図しない発見がある際には、強度とまでは言えないが、きまって何かしらの〈明るさ〉が身体に感じられる。夢のさなかでの気分の高まりや感情の昂まりにおいてもそれが〈明るさ〉と感じられる。その〈明るさ〉が夢の強度を示していると言ってもいい。

夢の内容もしくは展開に連動するようにして〈明るさ〉が感じられると考えられるが、その陰の局面には通常の意識とは異なるどのような働きがあるのだろうか。とはいえその働きへと、通常の意識の手をこちらから差し伸べることはできそうにないように思われる。夢という作用をこちら側の意識的な意識から考えれば、そこには〈暗がり〉と言っていいような、意識的な意識の意向を働かせるのが難しい局面があるからだ。難しいと言い、不可能だと言わないのは、意識的な意識の意向を働かせるのが可能な場合もあると考えられるからである。すなわち〈暗がり〉に通じ、〈暗がり〉が転じて〈明るさ〉になるものがある。

ある種の夢見はその体験が異様に鮮明なため、それが脳の働きだとしても多くの局面では身体的な感覚が優っていることがある。夢の内容に興奮し、圧倒され、脱我的と言っていいような体験さえある。自分では〈暗がり〉のうちにいながら、わけの分からぬ〈明るさ〉の体験がもたらされているのはそういった状況である。そうした夢は夢が始まるときから際立っている。何かに引き連れられるようにして夢に入ってゆく、何かに呼ばれるようにして夢に陥ってゆく、そのような夢の始まりが確かにある。そのとき意識を何ものかに預けてしまうような感覚に陥り、そのためふだん経験しないような不安と緊張感に襲われることがある。

夢には不思議なところがある。夢だから不思議ではないと思うかもしれないが、どこか遠くの見知らぬ場所で見知った人に出会ったり、そこでふだん出来ないような体験をしたりする。辺りの光景もあたかも宙空から眺めるようにして俯瞰的に捉えられることがあり、さらには空を飛ぶといった体験さえする。そうした夢を見ているとき、大概そこには〈明るさ〉というか強度がついてまわる。脱我的体験とか、魂が身体から抜け出すといった体験は、おそらくそのような強度を伴う場合ではないだろうか。夢では死んだ人とも改めて出会うことができる。相手はすでに死んでいるが、生前と同じふうにして対面することができる。また人によっては、鳥や獣、草や樹木や岩とすら言葉を交わすことができるという場合もある。そのように人は夢のさなかに、いわば別の世界へと自分を拡げてゆくことができるのである。夢は何の脈絡もなく糸が切れるようにして終わり、そのため目覚めつつある意識的な意識が夢で起きたことの意味を執拗に考えるのに対して、はたして夢の閾の向こう側では、意識的でない意識、いわば夢の思考が、意識的な意識による問いを必死に考えているのかもしれない。子供の頃、夢のなかに自分の家のどこかにある部屋が、しかし実際にはない部屋が幾度も現われ、大人になってから母親に話してみて分かったことがある。自分が幼い頃に土地を処分してなくなった部屋の夢を見ていたのである。その部屋を生まれてから一歳までの頃に経験しただけで、意識的な意識を操る記憶には知られることはなく、夢のなかの思考がそのことを覚えていて知らせていたのである。

夢はあくまでも現実の記憶を素材として紡がれるものであり、目覚めたあとの記憶の生々しさも現実を回想するときの生々しさと本質的に同じだ。現実に関する記憶と夢に関する記憶とは、記憶として同じものなのである。しかし、夢は語られたり、文字にされたりして何らかの形相を帯びるとその強度は失われてしまう。夢の強度は夢見のさなかで、あくまでも夢という形になる以前の状態においてもたらされているのである。

こうした夢の現象は太古から経験され、おそらくその働きはつねに、意識的でない意識や神経に留まったままの記憶も含めた生の全体性に照準を合わせてきただろう。それゆえ、夢は現実と同じであるどころか、神の啓示や未来の予知を示すものとして、個人を超えた超現実的な現象と考えられてきたのである。たとえば古代ギリシアでは、夢の機能の一つとして、運命の論理を明らかにする力があると考えられた。また心身の疾患が治癒されるのを夢に見るためや、幸運や未来についての予知を神的なものから求めるために、聖なる場所に籠もって眠り、夢見に臨んだ。それゆえこうした夢は夢とはっきり認識され、人のうちに現われる夢のその内容がいかにリアルなものであろうとも、その内容は夢という現象であり、現実の体験とははっきりと区別されていたのである。

 

しかしこうしたこととはうって変わって、夢にもかかわらず、夢の内容がその人が現実に体験したこととして語られる場合がある。たとえば「ベナンダンティ」と呼ばれる人たちの場合である。「ベナンダンティ」とは「善き歩行者」の意で、「十六世紀から十七世紀における、イタリアの北東部フリウーリ地方の農民たちの幻視伝統にかかわった人々のことで、…彼らは寝ている間に自身の体から抜け出し、次の季節によい作物が実るのを保証するために邪悪な魔女と戦おうとする、とされた。1575年から1675年の間、近世の魔女裁判の真っただ中に、ベナンダンティのメンバーは異端や魔女としてローマの異端審問において告発された。彼らの信仰は悪魔崇拝と同一視された」(ウィキペディア)とある。どういうことかといえば、このベナンダンティについて初めて詳述した歴史家カルロ・ギンズブルグは、その著書「ベナンダンティ(1972)」の中で、彼らは「年に四回ある斎日期間中の木曜日に、魔術師たちと必ず出かけなければならない、…ときにはヴェローナの野原まで足をのばすことがある。そしてその野原で戦い、遊戯をし、飛び跳ね、様々な動物の背に跨がり、それこそ色々なことをする。そして…女たちは唐黍の茎で男たちに打ちかかるが、男たちも茴香の束で応戦する」という。彼らは「夜になって、魂に変じて、体は残し、目に見えない姿で出て行く」。彼らの多くは「シャツを着て(羊膜に包まれて)生まれてきた者たち」で、「二十歳になって、兵士を召集する時のように太鼓の音で呼び出され、呼びかけには必ず応じなければならない」という。複数のベナンダンティたちによる初期の証言では、(夢の中で)戦いに行くという彼らの強い使命感は何よりも作物の豊穣を勝ち取るためであることが強調されている。それゆえ、魂に変じて夜の戦いに参加するその行動は現実のことであると彼らはかたく信じていたのである。羊膜を「シャツ」と表現している(日本では「胞衣」に相当する)ところに、裸で生まれて来たのではないという特別な心性が感じられ、すなわちそこには何かに守護されているという考えが読み取れる。ことに出産は死に触れていると考えられていたから、そこには死に守られているといった心性が働いており、特別な時期に特別な仕方で見る夢現象を現実の体験と考える、そうした考えの基になっているように思われる。中世ヨーロッパで羊膜は幸運のお守りとして魔術的な意味が与えられていたり、「アイスランドでは、羊膜袋をかぶって生まれてきたものたちは第二の視覚をもつとされた」(カルロ・ギンズブルグ「闇の歴史(1989)」)という。この「第二の視覚」とは、おそらく夢見の能力のことにちがいない。

ギンズブルグが提出したベナンダンティの告白の内容は夢のなかでの体験をめぐるものであり、その内容が裁判記録に書き留められているわけであるが、実際の、つまり夢のさなかの体験の内容がどうであったかはよく分からない。というのも、異端審問官の尋問によってその証言内容は形態的、脈絡的なものへと強制され、それゆえ体験の内容が歪曲されている可能性があるからである。とはいえ、幾人かの証言が記録されているが、驚くべきことにその内容には共通する特徴があった。それらは、四季の斎日の木曜の夜に昏睡状態に陥り、魂に変じて目に見えない姿となって、農作物の豊穣のための戦いに参加するために野原に行く。そこで茴香の束をもって戦い、動物の背にまたがったり、飛び跳ね回ったり、帰りには喉が乾いているので家の地下蔵に降りてぶどう酒を飲んだりする、というものであった。こうした内容の一致に、ギンズブルグはその証言の背後に「ある重層的な信仰が存在した事実を告げている」と考えた。そのいっぽうで、こうした証言に対して審問官の方はその内容の細部にわたって明確な知見を得ようと繰り返し尋問する。夢の体験のその内容は明晰で興奮を伴っているはずであるが、それは決して具体的なものとはなり得ない。とはいえ、主に農民であり、神学知識などないベナンダンティは審問官による執拗な追及に迫られて、つい自分の想像を働かせて夢のさなかに体験したのとはかけ離れた光景を述べてしまう傾向があり、次第に証言の内容は変化していかざるを得なくなった。それゆえその内容は、審問官の意図的な誘導によってもたらされているものと、ベナンダンティがもつ何らかの古代的な知識とが混淆したものになっていると考えられている。

それでも、彼ら複数の人物の夢の内容が大まかな点で一致するということからすれば、まず作物の豊穣をもたらすための魂による夜の戦いが一年のある限定された期間に、すなわち四季の斎日に起きることは注目に値する。それが個々人の夢の体験であるにもかかわらず、その内容が自然の周期性に同調しているからである。このことは特に中世の農村生活では人の身体がつねに季節を抱握してその周期に同調する傾向が特徴的であり、そうした環境を包摂するような心身的局面が深い睡眠状態を引き起こし、そこに展開される夢見が様々な意識的ではない意識を駆動させていると思われる。そこにはキリスト教の四旬節の制度による抑圧に抗する農民がいる。というのも、四季の斎日はもともと古代の農耕暦に起源があり、本来は季節が移り変わるのに伴う危機感を継承するためのものであり、それが信仰と結びつけられて抽象的なキリスト教暦に取り入れられた祭礼日となっているからである。すなわち、古い季節から新しい季節に移行する危険な時期として考えられる日があり、その後日に、種まき、収穫、刈り入れなどが行われたのである。いうまでもなく農作物の出来は農民にとって、もしくは村落にとって自らの存亡に深く関わっている。彼らは飢饉への恐怖、それゆえ豊作の願望、それと連動する彼岸への懸念、死者への悔恨の念、死者の死後の運命への不安、そうした渇望と恐怖が入り混じった情動につねに苛まれていた。それゆえ、こうした行き場のない情動が農村の社会生活における特異点といった場に集中する現象があったと考えられる。それが集団のある人々に同調して起きる夢見の出来事ではないだろうか。ことに夢は見る者にとって時に畏怖と魅惑を同時に引き起こす異物的な出来事であり、しばしば恍惚状態を伴う特異な現象であった。それゆえベナンダンティの夢体験には〈明るさ〉の基調があったのではないかと考えるが、裁判での証言過程において具体的な説明を強要され、夢の体験の内容を形態にして証言するにしたがって次第に〈明るさ〉が減じていったと思われる。

イタリアの北東部に位置する東アルプス麓のフリウーリ地方には古い時代から農民たちのあいだで伝えられていた農耕儀礼があり、その儀礼はリトアニアからハンガリーを含むスラヴ諸国に広くみられるキリスト教以前の時代から伝えられているものであったという。たとえば古代の儀礼では、「それぞれ豊穣をもたらす精霊と破壊をもたらす悪霊を体現する若者たちが、二つの集団に分かれ、茴香と玉蜀黍の茎を使ってかたちばかりに腰を叩き、自分の生殖力を増大させ、それを関連させて村の畑の生産力を増そうとした」(「闇の歴史」)という。二つの集団に分かれて戦う儀礼は世界中に分布しているが、初めはこうしたのどかな儀礼が実際に行われていたと考えられる。しかし、作物の豊穣を勝ち取るためにそれが実際の戦いとなり、死者が出るほどの規模になった。それで一説には次第に戦いはそれを象徴するだけの形式へと移行し、そうして何らかの理由で行われなくなった後に夢のなかで体験するものとして受け継がれるようになったと考えられている。どうしてそうなるのだろうか。つまり、多くの者による共同の儀礼として、どうやって夢のなかで体験されるものとなり得るのだろうか。このことについて言えば、夜に昏睡状態に陥り、魂に変じて体は残し、目に見えない姿で出て行くという証言の状況が明らかに夢であることを言い表しているのと同時に、そこには何か、夢のなかでしか実現できないといった要素も言い表しているように感じられる。要するに、共同体の中では夢見の体験が何か特別なものであるという共通の心身的認識があったのではないか。

夢見の際の魂の身体離脱は一種の死として考えられ、ベナンダンティにとって危険な事態とみなされている。その状況は端から見れば生々しいもので、「深い眠りに襲われ、あおむけに横になります。すると魂が抜け出すのですが、その時三回うめき声を上げるのでした。それは死んでゆくものがしばしば発するうめき声と同じでした」(「ベナンダンティ」)という。この昏迷状態は、地上を彷徨する死者や霊魂のいる世界に辿り着くための必要不可欠な手段として考えられている。夢見の体験というのではなく、夢見の手前の昏睡状態についてギンズブルグは、アルプス周辺地域で、「四季の斎日に昏迷状態に陥り、短い時間、意識を喪失する者たち、ふつうは女たち、の一団が存在した」(「闇の歴史」)という。そして、「この者たちの魂は意識を失っているあいだに体から離れて、死者の行進に向かう。この死者の行進は女性神に率いられている」(同上)。フリウーリ地方では〈シャツ〉を着て生まれたものはベナンダンティになると言われ、そのことを多くの人が承知していたが、ベナンダンティになる者は幼年時代に母親から学ぶといわれ、母親はベナンダンティの伝承や迷信を伝えるいわば貯蔵庫となっていたという。そのようにしてベナンダンティ信仰は母親たちを軸として共同体における強い絆を形成し、彼らを生地に結びつけていたようだ。すなわち、母系的な継承によって夢見の伝統が保持されてきたわけである。

当時、夢見の身体的体験は中世ヨーロッパでは特別なものではなかった。たとえば十三世紀のフランスで書かれた「薔薇物語」には、「それだから人はしばしば、自分を夜ごと豊穣の女神と共にさまよう魔女であるという気違いじみた考えをもつのだ。彼らの語るところによれば、三番目の子供は週に三度そこに行く能力をもっているという。夜の放浪者たちは家と見るやこれを襲い、錠や格子も何のその、隙間や小穴から忍び込む。彼らはこれを実際の体験として語る。これらの奇妙な出来事は寝床の中で起こったのではなく、彼らの魂が活動し、こんなふうに世界を駆け巡ったと言うのである。彼らの話を聞いた人々は、もしこの夜の彷徨の間にその体を裏返したら、魂はそこに戻って来られなくなると信じている」と書かれている。夜に魂が体から抜け出し、その体験を現実のこととして語るのはベナンダンティと驚くべき一致を示している。「薔薇物語」は夢を見るという形式の中で様々な物語が語られているが、どちらかと言えば著者は、眠る身体を離れて彷徨する魂に対して警戒感を表しているようだ。というのも当時、「夢の前に、人は平等ではない。エリートのみが夢を見る〈権利〉をもっている」(パトリック・ギアリ「死者と生きる中世(1994))と考えられていたからである。こうした理由から、当時のキリスト教会は夢見の体験それ自体に神経を尖らせ、人々が見る夢の内容を取り締まっていた。それゆえ教会にとって、夢見の体験を現実の出来事として主張することはまったく許容できないことだったのである。

ベナンダンティと呼ばれる人々はある特定の時期の夜に昏睡状態に陥り、あたかも死んだ状態のようになり、それを契機として魂が身体から抜け出る体験をする。そして、その体験の内容を現実の出来事と考えた。すなわち夢見の状態にあってそこに現われている形象を現実と区別せず、さらには夢見を追体験する意識と現実とを区別しなかったのである。こうした夢見の体験はそれゆえに共同体的な性格を帯び、そしてその内容は死者を際立たせている。夢と死がひどく繋がっているように考えられているのは何故か。

 

毎夜、人は眠りにつき、死の状態に近づいている。そして夢に死者が現われる。夢の中の死者たちはその死を感じさせることなくまるで生きているかのように振る舞う。もし夢のなかの死者がすでに死んだ者であると夢のさなかに自覚したら、その途端にある種の恐怖を感ずるかもしれないが、そのようなことはない。夢に現われる死者とは生前と同じ態度で対面することができるのである。この夢に現われる死者とは何か。夢に現われる死者とははたしてよく見知っている死者の形象化だろうか。夢の形象は夢を見る者の意識的でない意識によってつくり出されているという観点からすれば、ふだんは私たちの意識的な意識の働きの陰に眠り、私たちが眠りにつくと夢のさなかに目覚めて立ち上がってくる何かしら名づけようのない力、それが〈死者〉ではないだろうか。私たちは、自身の内部から生じる見知らぬ力の現われを死者の形象に託しているのではないだろうか。その名づけようのない見知らぬ力、その働きを〈死者〉へと形象化することで、私たちはその力を、夢のなかの〈死者〉と面接することで捉えようとしているのではないか。そうだとすれば何故か。

ベナンダンティ信仰の基になっていると推測される農耕儀礼および信仰はかつてはるかに広い地域に、おそらく中央ヨーロッパ全域に流布していたと考えられている。めぐりめぐる季節と植物の成長といった自然の周期に同調して、名づけようのない見知らぬ力が彼らの夢見に影響を与え続けてきたのではないかと思われる。そればかりでなく、「ベナンダンティ信仰は多数の経路を通じて、より大きな伝承の集積に結びついている」(「闇の歴史」)という。すなわち、ベナンダンティ信仰はディアーナ女神信仰の一分岐であり、その基底にはより広汎な現象としての女神信仰、そしてそれに伴う「夜の集会(サバト)」というヴィジョン(幻視)があるとされる。

恍惚状態になり、身体を脱して魂に変身し、動物にまたがってはるか彼方への旅を経て集う「夜の集会」は、何よりも農作物の豊作を確保するために行われる(体験される)のだという。さらには「夜の集会」の幻視の変形として「死者の行進」への参加がある。十一世紀以降、ヨーロッパ大陸の大部分の地域で書かれたラテン語や俗語の文学作品が「荒ぶる軍勢」の出現について語っている。それはまた「野蛮な狩猟」とも呼ばれ、そこには死者の群れが幻視を通して認められている。この「野蛮な狩猟」とは夭折した死者の一団のことで、彼らは夜、村々の道を猛烈な勢いで辺りはばからず駆け抜けるので、村人たちは我が身を守るため家の扉を固く閉ざしたという。またディアーナ女神がいまだ平安を見出せない死者の一団を従えて夜に徘徊するという伝承がある。その一団は若死にした者、夭折した子供、事故にあった犠牲者たちから成っているという。こうした「死者の行進」の伝承は、キリスト教化される以前のゲルマン世界に起源をもつと考えられている。「ケルト暦では、十二月二十四日と一月六日との間の夜は、普通の日々に挿入された特別の意味を持つ。それは〈十二夜〉に相応し、その期間中は、ゲルマン世界では死者がさまよい歩くと考えられている」(同上)。それゆえ四季の斎日に、そして特にその聖性が顕著なクリスマスの斎日に「魔王の軍団」が現われるのだという。それは寿命の尽きる前に死んだ者たち、たとえば戦闘中に死に、死の期日まで地上をさ迷うよう運命づけられた兵士たちなどで構成されている。あるいはまた、洗礼前に死んだ子供や戦争で死んだ者、恍惚者すなわち魂が体から抜け出してふたたび体に戻れなかった者たちから成っていたといわれる。幻視とは、想っているものがかたちへと目の前に投影される現象であると言っていい。ことに夜は闇に支配されて目の前のかたちが定まらず、そのためふだんでも想いがかたちになりやすい。ベナンダンティ信仰の死者をめぐる体験はある種の〈明るさ〉を伴っていたにちがいない。ところがいっぽうの幻視の体験はそうではない。それは〈暗さ〉を伴い、その基底は闇であるように思われる。

日本でも「百鬼夜行」が語られ、それは平安時代から室町時代にかけて説話などに登場する深夜に徘徊する妖怪の群れによる行進で、多くの物の怪が喧しく音をたて、火を灯しながら来る様子や、奇怪な姿かたちの鬼が歩く様子が描写されており、これに遭遇することが恐れられていたという。「百鬼夜行」に出遭うと死んでしまうと言われていたため、月毎にある「百鬼夜行日」には貴族などは夜の外出を控えたといわれている。武士が台頭し、戦乱がある度に多くの死者が出る時代に貴族は神経質になっていたのだろう。とはいえ、こうした現象は昔の話に限ったことではない。というのも、東日本大震災の際に、多数の人が津波に飲み込まれて海に流され、遺体が発見されず埋葬できないままにあり、そのため遺族や被害を受けた住民の中から〈幽霊〉現象が報告されているからである。被災地では震災から数か月たった頃から〈幽霊〉が出るという噂が飛び交っていた。震災から一年後の2012年三月には、AFP通信が復興の様子と共に〈幽霊〉が出没しているという話題をGhost with Tsunami」の記事にして世界に発信している。震災が起きた当初は「被災地で声が聞こえる」という話がよくあったという。「夜になると大勢の人たちが走って行く足音が聞こえる。見える人は姿も見えるらしい」。「肩に手を置いて前後に繋がった人らしき得体の知れないものの行列が目撃されている」。石巻に住むある女性は「幽霊の列」の噂を聞いたことがある。生きていた最後の瞬間の不毛な努力をなぞるかのように、幽霊たちは丘へ向かって殺到し、津波から何度も何度も逃げようとするのだという。おそらく被災者の心の中で処理しきれないほどの強い感情が、霊の投影というかたちで現われたのではないだろうか。また、「震災があった日から一週間後に夢を見ました。場所はどこかわかりませんが、朝方、丘の上に瓦礫の山があり、向こうが海で、海岸に大勢の、数千人ぐらいの人が集まっていて、自分の体をみな気にしていました。私も体が大丈夫かどうか、何人もの人から聞かれました」という。夢のさなかで海が輝いて見えたという。このように多くの被災者が死者を感じる体験をし、死者を幻視し、死者の群れを幻視したというのは、おそらく共同体の崩壊を目の当たりにした体験があったからである。幻視の体験とはそうした場面に現象する。彼らは失った者の消息を探し求めるようにして、知らず知らずのうちに〈死者〉の境域へ接近せざるを得なかったのではないか。幻視には〈暗さ〉がつきまとっているが、夢見には何かしらの〈明るさ〉も感じられる。

「生者の社会では、死者は、社会体制に不完全に組入れられているものたちによってしか体現できない」(レヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロース(2016))と言われる。このことはたとえば、死者と女性が同一視される儀礼においては、両者とも部族の参加者であると共に部外者であり、すなわち内部にいると同時に外部にいると考えられている。女性が内部と同時に外部にいるものと考えられているのは、女性は生命を生むものであり、それゆえ同時にいまだ生まれざるものという無定形なものを抱える世界との繋がりをもっていると漠然と感知されているからである。こうしたことから、ベナンダンティが生まれる際に身に付けていた羊膜、すなわち「〈シャツ〉とは、ヨーロッパや世界の各地の民間信仰では、〈外部の魂〉が宿る場所と考えられている。そこでシャツは放浪の魂、夭折した死者の世界に結び付けられる。それは死者の世界と生者の世界を結ぶ媒介、架け橋である。それゆえ、デンマークのような国では〈シャツ〉を着て生まれてきた子供は、幽霊を見る能力があるとされる。ベナンダンティにとって〈シャツ〉は〈外に出る〉ための必要条件になる」(「ベナンダンティ」)とされる。ここでも〈シャツ〉は霊を見る能力と関連づけられている。また死者の顔を覆うこと、死者と同一視されるものの顔を布で覆うことから、体を覆うものである羊膜は死者の世界、もしくは生まれなかったものの世界に属するのだともいわれる。羊膜を通じて死者の界と生者の界が結び付けられているのである。こうした繋がりが前提とされていなければおそらく夢見も幻視も成り立たないのだろう。実際、死者たちはときにこの世へ戻り、生者の魂を悩ませるのだと信じられてきた。そのように、この世とあの世は通じているのである。そうした伝統的な考えがあるいっぽうで中世ヨーロッパのキリスト教社会では、ことに貴族社会においては死者の界と生者の界とは厳密に区別されていたようだ。死者のための祈祷は宗教的な贈与と考えられ、すなわち祈祷する者が見返りとして死者(生き続ける者とみなされた)の土地を得るという贈与交換のメカニズムがあり、生者はそうした贈与交換によって死者と生者の間の均衡が保たれていれば、死者が生者の社会に敵意を抱いたり、支配したりすることを回避できたという。両者の関係はあくまでもキリスト教による物質界と霊界とを区別するイデオロギーを基にして考えなければならなかった。とはいえ、田舎においても都市においても、死者たちが彷徨するとされる場はアジールもしくは娯楽の場(無時間の場)であり、またそこで裁きが下され、和解が成立し、また何よりも市が立つ場であり続けたという。キリスト教のイデオロギーとは無縁の場があり、こうした場を彷徨する死者たちはしきりに喉の渇きを訴える。それは最近死んだ死者が、生者の社会に敵意を抱いていて、死者の訴えを聞く者がそう暗に感じているからである。このとき生者にとって、死者の界へ行き、そして死者の界から帰って来るといった願望が育まれはしないだろうか。死者の界にいると考えられた者の消息を知るためである。それゆえ、死者の界に行ったとされる者が語るその内容は特別視され、何かしらの効力をもつようになったにちがいない。そうした効力を発揮するために夢見の体験者は死者の界へ行ってふたたび生者の界に戻って来なければならないし、共同体内部でそうした役目を果たしていたのだと考えられる。いっぽう、幻視を見る者は死者の界に行くことなく、共同体の思考と深く関わりながら失われたものを求めるようにして、すなわち欠けたものを補おうとして、個人の意識的な意識を超えて幻視することになる。

中世ヨーロッパでは、キリスト教によりゲルマン諸国家が社会的に統一されることで倫理的な制約が浸透していったが、そうした身体的な局面をも含むゲルマン社会に対する制約が様々な幻想を生み出している。キリスト教は人々の夢にまで注意を払い、夢見の内容に介入することで心的なものの制約をしていたが、たとえば浅い眠りのときに見た夢は真の幻視ではないとされ、というのも浅い眠りには悪魔が現われるからであるという。しかしゲルマン的な伝承では、特にサガ文学では、真実の幻視を見るのは眠りに入るときであると考えられていた(「死者と生きる中世」)。また古代ギリシア・ローマの幽霊とは異なり、「サガ」で描かれる死者(幽霊)は、「〈模像〉として描かれているのではなく、あたかも死体そのものが蘇生し、本物の肉体を帯びて墓から出て来たかのような印象を与える」(J=C・シュミット「中世の幽霊(1994))ものだという。ゲルマン人の死者たちは具体的なかたちとなって荒ぶる行為をする。そうした死者の振る舞いは霊的な概念としての〈死者〉にはそぐわないので、キリスト教は具体的なかたちをもった死者を禁じていたようだ。

たしかに夢もまた社会制度やその他諸々の伝統を反映するものであり、人が独力で夢を見、それを語りはじめることなどありそうにない。キリスト教会はそのことを見抜いていただろう。とはいえそれ以上に夢には、夢見という仮死状態にも似た身体で体験する世界と死の世界との深い関連がもたらされている。中世の農民社会ではキリスト教的な制約は緩やかな仕方で浸透していったと思われ、その分、制約に対抗する幻想も自由で放縦なものであったにちがいない。そうした傾向が、キリスト教以前のゲルマン社会に根ざした思考や儀礼的なものの残滓がベナンダンティの夢のなかに現われ出る要因となっているのではないか。アルプスの渓谷地帯では、孤立して住む村々の女性たちが夜の昏迷状態のさなかで、はるか遠い時空間を超えてやって来た神話をそれと知らずに体験していたのである。ベナンダンティ信仰がそうした夢見の現象を伴うものであるならば、そこには明らかに当時のキリスト教の権威から〈逃走〉しようとする線が見えてくるだろう。彼らが課されている様々な制約、逃れられない境遇、信仰によっても救済されない状態を鑑みれば、何らかの〈逃走線〉が自ずと生まれるのが道理であるように思割れる。現実社会からは逃れられないので、その〈逃走線〉は夢見という、唯一、自由に振る舞える意識の領域として実現されてきたのである。狭い共同体内の噂話に日常的に耳を澄ませ、その内容によって周囲の状況を把握し共同作業するといった世界に生きている彼らにとって、農作物の収穫が唯一重要な関心事であったことに疑いない。それゆえ彼らはもっぱら、厳しい生活を物質的に支えてくれる真の戦いである高次の夢の次元につねに神経を使っていたことだろう。

すでに314年に第一アンキュラ公会議で定められた教会法は、「異教徒の習慣に従い、卜占、鳥占いを行う者、夢や、その他のあらゆる徴を読む者、および、住まいに人を呼び魔術によって調べ物を行う者…、これらの者どもは告白し、五年の贖罪に服すべし」(J.=ゴフ「中世の身体(2003))と規定している。これはキリスト教側が夢見を悪魔と結びつけ、死者の界との往来に隠された真実を解釈する異教的伝統への巧妙な対応であった。農民たちがつねに触れている強度を伴った概念が、忌まわしい力を表すものと考えられるようになったのである。その果てに、十六世紀のマルチン・ルターでさえ、夢を神が見せているのか悪魔が見せているのかどうしても判らないので、もはや夢などまったく見せないようにと神に祈ったという。

 

一月の朔日の期間中に、西欧でも東方でも行われる多くの儀礼がある。すなわち子供たちが物乞いしながら家を廻ったり、夜の女神たちに食卓が用意されたり、動物に変身(仮装)したりといった儀礼は、古い年が終わり新しい年が始まるという決定的なこの時期に、何よりも富の分配者である〈死者〉たちと関係をもとうとする様々なやり方を示しているという。死者がもたらす豊穣のこの〈死者〉とは〈死者の界〉という意味だろうか。そうであれば、〈死者の界〉とは、充実した空白の体験として現われてくると考えられていたのではないか。昏迷状態になって陥る夢見の体験がそうである。その体験には強度がある。死を直接的体験として語ることはできないから、それはあくまでも生者の体験である。そう考えるとすれば、〈死者の界への旅〉とは、生者による夢見もしくは幻視の体験なのである。それゆえそれは、通常とは位相を異にする意識の働きの中で展開される世界である。そのことが豊穣さに繋げられているのは何故か。

かつて広く行われた古代社会の戦闘儀礼の痕跡が世界中にあり、その戦闘行為は豊穣儀礼であり、戦闘ゆえに人の死も伴っていた。それゆえいつしか形式的なものと化し、行為は廃され、いったん姿を隠すようにして儀礼を信仰する者の夢のなかに入り込み、なおかつ夢のなかにその様相を新たな仕方で現わすようになったと考えられている。それも昏睡という硬直状態による〈死〉という姿を伴うことで。前に述べたように、失われたものをめぐる記憶が行き詰まるとそれが幻視や夢見として現われる可能性がある。要するに、失われたものをめぐる意識的な意識が作動困難な状態になると、その状況に対して何らかの別の意識の処置が現象する。幻視や夢見は意識的でない意識(充実した空白)が生む現象であり、そうした体験およびその現象が知られていて、廃された儀礼が夢のさなかに実現されていくプロセスに関わっているのだろうか。そこにはまず何よりも欠けたものを補うという心性が働いている。というのも、それは死に対する人間の意識による処置として古来より連綿と共同体の内に働いてきた心性でもあるからである。そしてそのことはまず、先史期の狩猟民の意識が向かう主対象である動物への働きかけにおいて見ることができる。

動物の再生を図るために、「死んだ動物の骨を(できる限り完全に)集めることを中軸とする、神話や儀礼が、死者の行進やそれを率いる夜の女神によって奇蹟がなされたアルプス地方で記録されている」(「闇の歴史」以下同じ)という。その女神は「遊戯の女主人」とか「動物たちの女主人」と呼ばれていた。たとえば、「アボンド婦人の追随者たちは、魂になって、扉や壁を通り抜け、旅を開始する前に、硬直状態に陥ると言われていた。…慈悲深い女性神の世界には、仮の死を通じて入って行く。その世界は死者の世界なのである」。「十五世紀の初頭、ファルツ地方の農民たちは、豊穣をもたらす、ヘーラーという名の女神が、死者たちの帰還に捧げられた期間である、クリスマスと主顕節の間の十二夜に、空を飛びながらさまよう、と信じていた」。そして、「女神オリエンテが皮に入れられた骨を棒で打って、彼女の追随者たちによって殺され、食べられた牛たちを生き返らせた」とある。この骨を集めて動物を再生させる女神については、ヨーロッパのみでなくユーラシアにも古代ギリシア世界にも伝えられている。

殺した動物を再生させるために骨を皮に詰める儀礼が、すなわち狩猟民による儀礼が古代から行われてきた。こうした狩猟社会で生まれた思考が、半農半牧を軸とする社会にも受け入れられた可能性がある。とすれば、〈死者の界〉、それは作物の豊穣をもたらすというすでに農耕社会がもっていた概念であると思われるが、いっぽうの狩猟社会は他界に関して別の概念をもっていたと思われる。農耕社会になっても動物の欠けた骨を軸にした様々な神話や民話が伝えられているが、それらは狩猟社会の他界概念に関係しているようだ。狩猟民にとって骨の収集は死んだ動物の復活と密接に関連している。つまり、動物は死ぬけれども、他界からふたたび戻ってくると考えられていたのである。農耕社会において農作物の成長と播種の原理が知られているのとは違って、動物は人間が狩りをして殺され、食糧になるが、それはふたたび生きて戻ってきて、ふたたび人間の食糧になるのである。そのことが後に、動物が死んでふたたび生きて帰ってくる別の世界があると夢見られるようになり、その世界が動物を生きてふたたび狩猟民に帰すためには、死んだ動物の骨を元どおりにしておかなければならなかったのである。このように、動物とその骨、骨と他界との間には太古より培われてきた深い関係が存在する。動物が他界へ行きふたたび戻ってくるそのプロセスに狩猟民は骨を集めることで関わり、そうすることで食糧の豊かさが保証されると考えたにちがいない。そして、狩猟社会からまったく別次元の農耕社会に移行する間に失われてゆくものがあり、社会にとって重要な要素である他界と豊穣の関係を回復させようとする力が働き続けたのである。夢見の伝統がそのプロセスを補ったのかもしれない。

こうした他界と豊穣さの関係、そして動物の解体と復活の関係、それはユーラシア世界のシャーマンが実現しようとするものでもある。

ヨーロッパの特定地域に、クリスマスと主顕節との間の十二日間、足が跛行の少年の出現に促されて狼の姿になる人たちがいるという。また「ヘロドトスは、スキタイ人やスキティアに住むギリシア人の間で、ネウロイ人に関するある噂を聞きつけた。毎年、何日間か、彼らは狼に変身するという」(「闇の歴史」以下同じ)。古代世界では狼は死者の世界と関連づけられていたという。また「古代のゲルマン法では、共同体から追放され、象徴的な死者とみなされた追放者は、〈狼〉という言葉で呼ばれた」という。彼らは恍惚状態で豊穣のための戦いに臨むといわれ、こうしたことからギンズブルグはベナンダンティが夢見の内容を頑なに現実と主張したことについて、そこに古代的な要素、もしくはシャーマン的な要素があると考えた。「ベナンダンティはその背後に、バルカン半島のクレスニキ、ハンガリーのタルトス、バルト海沿岸の狼憑き、イラン近辺のコーカサス地方のブルクドゼウテの影をひきずっている」と。そのどれもが動物に変身して戦いに赴くといわれる者たちである。しかしながら、ユーラシアのシャーマンたちは会衆の面前で強硬症状態になって個々に決闘するのであり、それに対してヨーロッパの継承者たちとされる者たちは個人的な強硬症状態のなかで集団によって戦いを行うのである。またシベリアのいくつかの地域ではシャーマンは世襲制であったり、サモイェード人の間ではシャーマンは身体的特徴で定められたりといったように、ベナンダンティとは明白な違いがある。またシャーマンはベナンダンティと異なり、夢のさなかに意識的な意識を働かせることができるといわれる。しかしこうした特徴の相違は、長い期間を通じて異なる仕方で受け継がれた経緯を考慮するならばさして問題にならないように思われる。

 シャーマンはその身体をばらばらにされ、自分の骸骨を自ら凝視し、新しい生命を得て生き返る。そうやって共同体が死んだ動物に望むプロセスを自ら体験することになる。かつて狩猟民族は集団で動物を狩り、共同して獲物を解体し、一同会して食し、栄養を得て生きる糧とした。冬季になれば動物は減少し、やがていなくなる。彼らは暗い冬を洞窟で過ごし、あの動物の肉をまた食えるかと案じる。そして春がやって来る。洞窟の外に出て、緑が芽吹き始めるなだらかな丘陵や草原の向こうに動物の群れが現われ来る驚くべき光景を見て、彼らは死んだ動物たちが、自分たちに食べられた動物が、生き返ってふたたびやって来たのだと考えた。地平線に顔を出す動物はすべて、生き返った動物であった。ラスコーの洞窟の岩壁に描かれた動物群を見て、ジョルジュ・バタイユは恍惚として語っているではないか。「動物が持っていたにちがいない聖性というより大きな価値を、人間たちが認めた瞬間が表現されている」と。このときバタイユは、動物の再生を願った狩猟民族に還ろうとしているのだ。失った生をふたたび回復させようとする願望は、人間の心性として連綿と続いているものなのである。

 

中世ヨーロッパにイメージされた、もしくは幻視された悪魔崇拝の集まりであるサバトは夜の集会であり、夜にしか行われない。それは異端審問裁判というシステムが〈陰〉を〈陽〉ヘともたらす過程でつくりあげてきたイメージとして形成されたのである。〈陰〉というのは分析の差し手を受けつけない意識的でない意識の領野であり、それはもっぱら脳が関与する意識活動とは異なる心身的な次元であり、それゆえ〈存在〉に関わろうとする全体状態を示していると言える。ギンズブルグはサバトを軸にしてその起源へと遡るようにしてそこに含まれる異質な原因を探り、その果てにヨーロッパ外部の東方に至っている。そして、最終的に次のように記述した。「サバトの民衆文化的起源を探求する中で、われわれは、恍惚状態で、シベリアのシャーマンを思わせるような体験をした、男女に関する一連の証言が姿を現すのを見てきた。それは魔術的飛行と、動物への変容であった」と。すなわち、ギンズブルグは〈陰〉を〈陰〉のままであるようにして〈陽〉へと押し出したのである。裁判では夢見の内容が尋問のメスで屠り出されようとしているが、(存在の全体性を示そうとする)強度を伴った夢見の内容を具体的に描写することはその〈全体性〉を分節化することになり、そこには物語と化した〈陽〉としての夢見の抜け殻があるばかりである。それにもかかわらず、裁判記録に遺されたベナンダンティの夢見の証言を通じて成し遂げたギンズブルグの発見は、何よりもベナンダンティが証言する物語の中にも古代の心性が厳然と現われているということにある。

目覚めの思考()が夢の事件()の意味を執拗に考えるのに対して、閾の向こう側では夢の思考()が目覚めの世界の問い()を必死に考えている。そうした意味において、私たちにとって夢とは〈可能性そのもの〉であるだろう。そればかりでなく、夢は時空を超え、私たち個々人が別の時空へと繋がり、個々の心性の広がりを現在の人間にあっても与えてくれる唯一の現象なのである。いつの時代にあっても多くの人が感性の強度を誘導されてきた。現在においても、感性の強度を独自に抱えるのではなく、強度をなし崩し的に奪われている現代社会がある。刺激的なマスメディアが報じる情報に左右され、慣習に吸収されている感性の強度を個人のうちに回復させなければならない。それなくしては歴史を超えた〈死の界〉の豊穣さに触れられないだろう。

そもそも人は心身全体で自然を包摂しようとしている存在だ。そうした作業を人は夢見のさなかで表そうとしてきたのにちがいない。自然に関する共通の利害を抱える狭い共同体内では複数の人の夢見は同調する。そのように人は夢を見るのである。個人という境界を越えて夢を見てきたのである。意識世界の〈陰〉に触れつつ夢を見続けてきたのである。そうやって夢見の体験には個人を超えるものが蓄積され続けてきた。そして、そうあることで夢見は〈自己〉以外の領域から何かを知らせてくれるのである。西洋ではキリスト教と精神分析という二つの圧力によって夢見に圧力がかけられ、その内容が統制されようとしてきた。そのように夢見を統制しようとする圧力がいつの時代にもあるが、ここまで述べてきたように夢見を統制することはできない。夢見は言論の自由とはまったく異なる次元において〈自由な〉働きなのである。何ものにも統制されない〈裸の夢〉がある。たとえそれが意識世界の闇に触れていようとも。

「〈闇〉の光」という言い方はできるが「光の闇」という言い方はない。〈闇〉の方が根源的であるからだ。光がドップラー効果によってその光度が変質し、終には闇に到ろうとするが、その闇は根源的な〈闇〉ではない。光は〈闇〉のものであり、〈闇〉は光のものではない。

 

 

 

    お知らせ

 

前回のブログ文「Lahore日記」の第一部「Lahore城市」を、一部修正してこの度「ラホール日記」というタイトルで刊行することになりました。詳細は以下の<文芸社>サイトへ。

https://bunko.sumikko.info/item-select/4286274802