Thursday, September 17, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

  五. 枠物語の効用

 

十九世紀にポーランド人貴族によって書かれた「サラゴサ手稿」は奇書と言われる。その「手稿」はナポレオン戦争(1803〜1815)の際にスペインのサラゴサで発見されたスペイン語の遺稿をフランス語に訳したものという設定になっており、そこには様々な身分の人たちによって語られる物語が記されている。そこで語られるのは「山賊盗賊、更には降神の術、魔術に長けるカバリストの輩の縦横無尽の所業」といった内容で、一つの語りの中にさらにまたいくつもの語りが嵌め込まれるようにして語られ、時代は古代エジプト時代からナポレオン戦争まで幅広く、また地理的にもヨーロッパ全体を含んでいる。こうした内容からして「千一夜物語」のような枠物語として扱われているが、しかしそうとは言えない。というのも、誰がつくり出したかも知れぬ多くの口承話を誰が編纂したかも分からぬ「千一夜物語」とは異なり、「サラゴサ手稿」は一人の作者による意識的に書かれた枠物語であるからである。どちらかと言えば舞台がイベリア半島南部ということからして、「サラゴサ手稿」は「ドン・キホーテ(前編/1605・後編/1615)」を念頭において書かれたのではないだろうか。イベリア半島南部はイスラーム文化の影響が色濃く、どちらの作品にも枠物語の中でムスリムたちとの交流が描写されている。「サラゴサ手稿」の中の物語が語られる主要舞台は山賊や追剥ぎが出没するシエラ・モレナ山中で、その荒涼とした山地は「ドン・キホーテ」にも登場する。二つの作品の共通点については後述する。

作者は啓蒙時代を代表する総合文化人と評されるヤン・ポトツキで、八カ国語に通じていたという。ポーランド人であるが広くヨーロッパを旅行し、それから「1784年、イスタンブールのカフェで職業的語り手の実演を見聞し、東方風の手法を用いていくつかの話を試作した後、1791年、モロッコでアラビアン・ナイトの写本を探したが、これは不成功に終わった。当地で出回っている唯一の物語集が『三百五十四の夜』であることは分かった…。モロッコよりの帰途、スペインを通ったポトツキは、アンダルシア地方に残るイスラーム文化の痕跡を目の当たりにし、盗賊が出没する辺鄙なシエラ・モレナを越えてマドリッドに至った」(ロバート・アーウィン「必携 アラビアン・ナイト(1994)」)とある。少なくとも「千一夜物語」は意識されていたようだ。しかし、「千一夜物語」に代表される枠物語にはそれ以前の口承伝統との深い繋がりがあり、こうした古代から中世にかけて形成された形式をそのまま近代にもってくることには意味がない。そこで枠物語とは何かをまず考えてみたい。

 

枠物語とは、導入部の物語を外枠として、その中に複数の物語を嵌め込んでいくといった入れ子構造の物語形式である。口頭で物語が語られながら一連の出来事を描いてゆくもので、そこでは枠物語の中の一人もしくは多数の登場人物が嵌め込まれた物語の中の語り手となり、新たに物語を語ることになる。このように物語中に嵌め込まれた物語がその物語に登場する語り手によってさらに別の物語を呼び込む表現であることからすれば、枠物語の発生とその構造には当時の口承伝統が深く関係していると考えられている。そして、それまで口承で伝えられてきた物語を文芸としての表現というかたちにするために筆記したとすれば、そこには何かしらの意思が働いているだろう。そのいっぽうで、語りという話芸の技術には伝統的に「枠づけされた語り」という仕掛け、すなわち物語の中に別の物語を語るというスタイルがいつとは知れず受け継がれていたのではないかと考えられる。

枠物語を代表する「千一夜物語(Alf Laylah wa Laylah)」の基になる作品は九世紀頃にはある程度の文芸書のかたちを成していたと考えられている。その後の成立過程においては無名の多数の人の手がかかっており、また新たに物語が付け加えられたりして複数の版がつくられ、十五世紀にはアントワーヌ・ガラン(1646〜1715)が翻訳することになる「千一夜物語」の版がシリアで出来ていたと考えられている。枠物語としては他に十一世紀にカシミールで編纂されたインド古典説話集「Kathasaritsagara(物語の大海)」があるが、これはソーマデヴァ一人の手による編纂であり、それに比べれば「千一夜物語」という枠物語の成立過程は特異なものであり、その形式と内容は格別なものである。何よりもまず「千一夜物語」と成ることは文字にして記されることであった。すなわち、シェヘラザードが王に語るに至る経緯について語られる物語枠と最も初期に知られたいくつかの物語は別の言葉からアラビア語に翻訳されたのであり、そしてそれらの物語は「千一夜物語」全体の一部に過ぎない。というのも枠物語という独特の形式ゆえに後から物語が次々と追加され嵌め込まれ書き足されて「千一夜」という量にまでなったのであり、それゆえ「千一夜物語」とは「作者のいない本」なのである。

「千一夜物語」という枠物語の様相は次のようである。まず最初に誰かがたとえば冒険語りを述べると、その中に登場する人物が自ら体験した奇妙な話を物語り、その中で語られている人がさらに自身の数奇な体験話をすると、その中の登場人物がさらに自身の話を語り…といった具合にいくつもの層を形成するようにして語り続けられていくのである。したがって、「千一夜物語」とはそのように誰のものとも知れぬ多層な時空に貫かれたテキストということになる。たとえば、マルドゥリュス版「千一夜物語」の二十四夜から三十二夜にかけての話で、バグダッドに代わってカイロが隆盛を極めた十三世紀頃の、「せむしの男および仕立屋とキリスト教徒の仲買人と御用係とユダヤ人の医者との物語」がある。それはシェヘラザードが語る物語枠の中でシナの回教王国での話が語られるのだが、登場するのは仲買人や御用係や医者や仕立屋といった王国城内の人たちで、彼らが順に物語を語ってゆく。さらにはそれぞれの物語の中で共通して身体の一部を切断された若者が登場し、自身に起きた数奇な出来事を順に物語ってゆくというものである。仲買人も御用係も医者も仕立屋も身に降りかかった死刑から逃れようとして王の面前で世にも稀なる話を語るのだが、この状況はシェヘラザードが物語を語る状況と同じくしている。死から逃れるための方策として稀有な物語を語ろうとするのは「千一夜物語」に通底する語りの条件である。最後に仕立屋が話をするのだが、その中に跛の若者が出て来て話をするが、さらにその話の中に床屋が出て来て話をするというのが興味深い。アラブ社会でも床屋は「血を取る」仕事を請け負っていたようだ。「私の職業はと申すと、頭や髭を剃り、腿や脚に亂刺術を施し、折れたる骨を整え、吸い玉と蛭を当てること」だとある。そう言って何をするにも持参するアストロラーベを使ってその場の処方の吉兆を割り出している。床屋といえばどんな社会にあってもおしゃべりと決まっており、それは刃物をもって客に接するからであるが、とすれば人に危害を与えそうな者が物語を語るという、シェヘラザードが命を賭して語る「千一夜物語」の前提とは逆の立場にいる者であることが分かる。床屋という職業は両義的な役割をもっていたのであり、聴衆はそのことをよく弁えていたし、語りの中で床屋が登場すればすぐさま何か面白いことが起きると期待しただろう。

シェヘラザードが命を賭して物語を語るという物語枠の性格からすれば、「千一夜物語」の多くは命と引き換えの「身代金話」でもある。そのとき語り手は自分の命が助かるようにと話をことさら奇妙なものへと凝らしていることになる。それゆえ、「せむし男の話」の中で仕立屋、仲買人、御用係、そして医者がそこそこ不思議でしかない物語しか話さないのでそこに死の危険が匂わされているが、しかるに、その後を引き継いだ床屋が長々と物語を語り、死刑を宣告されるすんでのところで彼らすべてを助けることになる。その床屋が語るすべての物語には身体の一部を切断された若者が登場するが、これは奇妙な符号ではある。けれども、彼らすべてが不幸な状況における犠牲者であり、罪がないにもかかわらず彼らは罪人とされ、相応の罰を科された者たちであることから、それは仕立屋と仲買人と御用係そして医者が、自らに科されるだろう刑罰のイメージも含めて、陥っている状況そのものをも示していることになる。このとき、そうした状況にあってさえ語り手はといえば、煌くばかりの御屋敷やそこで催される華やかな宴、そして人物の華麗な衣装や宝飾品等といったその視覚的に優れた事物の細部や、またその場での官能的な振る舞いを語るのを楽しんでいるように思われる。自身の死を恐れ、他の語り手と容赦なく競い合っている場面であってさえもそうである。これは「千一夜物語」では人物の評価を行為が規定しているため、話の中に新たに登場した人物は聴衆を魅了し珍奇で稀有な話を自ら語ることでそこに居場所を得ることになるからである。物語ることがまさに彼らの命を左右するのであるから、稀有な物語を語ることで死を逃れるという展開は「千一夜物語」という枠物語の理によく適っているのである。「千一夜物語」では登場人物の存在は物語を巧妙に語ることの出来る能力にかかっている。物語に挿入される様々な詩歌は語り芸の名残であり、本来は読むよりも聴いてその語感を楽しむものであるが、いっぽうこれらの詩歌の内容と技巧はそれを吟じる人物の評価を定めるものとなっているのである。

前述の床屋が兄の話をするのだが、その兄が昼の陽中のバザールで店を開きながら白昼夢を見るその夢想の内容が語られる。またもうひとりの兄の話ではそこにないものをあるように想像しながら動作をするパントマイムのような身振りがこと細かく語られる。こうした現実に起こっているのではないことを語る際には、むろん物語のすべての内容は想像上のことであるが、それとは区別してこうした抽象的な内容を示すためには語り手も巧みな身振りを混じえて話す必要があったのではないか。「千一夜物語」とは何よりも聴衆一般もしくは読者一般に向けて、その感覚の働きを想像的に豊かなものにする刺激と共に進行する物語である。それらの物語は総じて人間の感情、行為の動機、それに対する反応の機微といった人間の心理的な展開等によって構築されてはいない。そうではなく、物語の狙いは登場人物のみならず聴衆や読者の感情、そして心理状態が重要でないような<公の場>を創り出すことにある。それは庭園、建物、衣装、顔つき、ことに目鼻立ちの世界であり、またそれは月のような、龍涎香のような、真珠のようななどと描写される、他より秀でた対象世界で出来ている。それらはすべて読者や聴衆の想像力を刺激する力をもっており、また登場人物のみならず読者や聴衆によっても触感できる冒険的な体験を提供しようとしているのである。「千一夜物語」はそのように想像力による富が展開する世界であり、そしてその富はといえば、比喩の積み重ねとその繰り返しによって豊かにあるいはむしろ繁殖的になっていく。登場するすべての少年少女たちは驚くべき若さであり、誰よりも美しく、また優雅さと弁に長け、各々が稀有なものの中の稀有なものである。とはいえ、その存在は言葉の比喩によって成り立ち、彼らの行動を左右するのは欲望もしくは信仰心のどちらかであり、その姿はといえば周囲の事物を通じて屈折されている。読み進むにつれてそれぞれの物語は他の物語に反映し、もしくは他の物語に似るかその枠組みが繰り返されることになるが、中身の表現に置いて稀有なものの中の稀有なものは絶えずそれ自身を上回り、そしてまた引き続く物語によって増幅されてゆく。そして物語のほとんどは決まって思いがけない出来事によって終わりを告げるが、それでも後続の話が展開されるその仕方はそのつど驚くほど洗練されてゆき、さらにはそれらの物語の枠組みが繰り返されることで多層な重なりとなって現われ、表現の機能においてより複雑になっているのが分かる。そこには単なる反復でない反復があり、そのおかげで読者もしくは聴衆は次にはどんな趣向が凝らされるのかと思って読みまた聴くのを中途でやめることができない。こうした反復を優れた仕方で許容するその表現機能が「千一夜物語」の魅力ではないだろうか。

シェラザードがペルシア王に語る話の枠の中で「千一夜物語」全編が語られるわけであるが、この設定では多くの枠づけられた物語が枠物語と時代的に逆転することになる。こうした時代錯誤を許容しているということからすれば、「千一夜物語」の物語枠は時系列に関係なく物語を取り込める超時間的なものだということになる。物語枠は空間的にばかりでなく時間的にも特別な効力を発揮しているのである。枠物語におけるこうした時間の流れもしくは在り方はまた口承伝統と文芸の伝統との間のやりとりをも示しているだろう。どんな物語における話運びにもいくつもの異なる時間の枠が課されていていることになり、それゆえ枠づけの層が増えれば増えるほど物語られている時間との関係の複雑さは増してくる。第三十夜の「せむし男の話」の中で仕立屋の話を介して床屋が彼の兄弟の話を語るとき、聴衆はそれがシェヘラザードが話す物語枠を頭に思い浮かべるとすれば、同時に四つの文脈(シェヘラザード/シナの回教国に住む仲買人・御用係・医者/仕立屋/床屋)が層となっている語りを経験することになる。とはいえ、おそらく話芸と聴衆という関係の中ではそうした時間の層の重なりが意識されているのだろうが、本を読むという個人的な体験の中ではそうした時間の層に関する認識は希薄になっていることも確かだ。本を読めば登場人物の様々な声が聞こえてくるが、そのすべてがシェヘラザードによって、すなわちシェヘラザードの声で語られているとは本を読みながらどうしても思えない。しかし実際はそうであるはずなのである。それなのに、そうとは思えないという認識との間に絶えずずれが生じている。語り手のシェヘラザードの存在を否応なく知らされるのは、夜が明けようとする薄明の時間帯に彼女が物語を中途にして口を噤むその時でしかない。このようにシェヘラザードという存在は物語を本で体験する者からすれば、その声を聞きながらも感知していないといった逆説的な位置にある。このことは物語に次々と登場する人物が多層化された物語枠の中で次々と物語を供給する、そのことがシェヘラザードをまさに死から免れさせている、そのような機能を果たしているということになるのだが、とはいえ、そのことは枠物語の背後で主物語枠を司る、いやすべての物語を語っているはずであるシェヘラザードの存在を逆に覆い隠すことになっているようだ。

したがって、おそらく話芸においてはその様相は異なっていたのにちがいない。話芸では語り芸人が聴衆に向けて語るのであり、シェヘラザードが王に語るのではない。つまり、必ずしもシェヘラザードの声が聞こえなくてもいいのである。物語のすべては語り芸人が統括するのであり、聴衆はその芸の力に左右されることになる。とはいえ枠物語の特性として、読者と聴衆共々に物語が提供することになる共通した局面はある。一連の物語の中でそれぞれの登場人物が物語を語るので、そのつど語り手は聴衆もしくは読者にその前の一連の物語を想い出させることになる。想い出させられることで、物語枠の中の時間はそれぞれの登場人物の行動がそれ以前のものを繰り返すようにしてなされるのでどちらかといえば物語を体験する時間は循環的になっていると感じられる。語られる内容はまったく異なるけれども、そこでは語りの状況そのものが繰り返されるからである。そうであるからして、おそらく伝統的な語りの形式も物語が依拠する時間枠と同じように循環的なものであったにちがいない。しかしながら、枠物語の特質としてつねにそのとき語られているレベルより外部の枠レベルがあり、そこで働いているもう一つの時間システムがあることになる。読者もしくは聴衆は結果もしくはある種の解決へと向かっているが、そこに達するためにはいくつもの語りが嵌め込まれた物語によって表わされる反復的な時間を経なければならない。そして反復的時間を通過するこの直線的な時間パターンは一般的な文芸的物語の基準というよりも、枠物語独特のものであるようみえるのだ。そこには時間に関する二つの相対立する概念が存在するからである。枠物語の直線的時間を伴う語りは、嵌め込まれた物語の反復を収めるためにそのつど時間の滞留を伴わずにはいられない。同様の展開が同様の結果を伴って繰り返されることになるからである。しかしそれとは逆に、嵌め込まれた物語は物語枠の直線的時間の力によって引っ張られている。こうして読者もしくは聴衆のうちに必ずしも意識的にはならないが、この二つの時間のせいで物語のうちに緊張感が生じているはずなのである。二重の時間感覚を伴うこうした現象が中世の時期に枠物語が広まった一つの理由であると考えられている。しかし旧来の語りの時間についての概念が変化するにつれて、物語は聴衆が枠の外部の現実世界において常々対処している考えをまさに示すものとなっていった。そのようにしてより文学的な要素が増してゆく社会にとって、また直線的時間のより強い概念をますます伴ってゆく社会と共に、物語はすぐさまそうした新たな考えを肯定するようになっていったが、そうした状況になっても「千一夜物語」は馴染み深い伝統的な語りの世界にいまだ窓を開いていたようだ。それは口承伝統と枠物語の間には親密な関係があり、そのような関係の中からまさに「千一夜物語」は生まれて来たからである。

実際、「千一夜物語」は独特な過程を経て成立し、また伝統的に特別な仕方で読まれてきたという。その全貌は解らないが、アラブ人たちはまず様々な物語をアラブ語に翻訳した。そして話術の達人たちはそれを洗練させ、入念に練り上げ、巧みな語りの中で内容においてそれまでと同じものをつくり上げた。こうした素材から纏められた「千一夜物語」の写本の多くは朗読用に書かれたらしく、一般人もしくは職業的語り手たちがこれを使用したという。最も早い文献から、「千一夜物語」の基になるテキストが、語り手もしくは聴衆の好みにしたがって付け加えたり省略したりすることのできる朗読職人の材料となり、また文学的素養のある人たちによって書き直しされる生の素材であったことが知られている。朗読職人や書き手は自身もしくは聴衆の好みに応じて改作し、独自の写本さえ流通させてもいたのである。こうした経緯は枠物語という形式であればこそ可能であり、それゆえそのあり方は、例えて言えば<公の書斎>であり、それに接するあらゆる人に何かしらを提供する情報源としてあったとも言われる。いっぽう、こうした過程において写本は粗雑に扱われ、破れ、失われ、娯楽や流行のために部分のみが売られたり、また再構成されて書き直されたりもした。実際、「千一夜物語」集は貸し出しされており、十八世紀のアレッポの貸本屋によれば、回し読みにされて本がすり切れてくれば新しい話を挟み込み、ときにはそれが新しい版になっていることもあったという。こうしたことは「千一夜物語」に誰か作者がいるのではなく、そうした点からしても利用者がもてあそぶことが許容されていたからである。またテキストはそれ自体で価値をもたず、その価値は基本的に朗読のパフォーマンスに結びついていたようだ。「千一夜物語」は文芸的な関心に干渉されもしくは影響されながら作品として形となったが、実質的には大衆娯楽品の集成なのである。

こうして「千一夜物語」は二つの世界、すなわち語り手側の世界と聴衆側の世界との間から生まれて、文芸書として形となった。まずは書かれたものとして生まれ、その後、語り芸人や朗唱者や聴衆が協力し合うことで歴史的に存在するようになったのである。そのいっぽうで、文芸書としての「千一夜物語」がアラブ世界でその価値を一時は下げ、また価値を失いそうになりはしたが、ふたたび様々な情報源を通じて復活したであろうという事実は、「千一夜物語」の内容の豊かさとその成立過程における生命力をも物語っている。物語の多くは明らかにイスラーム起源ではない。アラビア語に翻訳されて、アラブ化もしくはイスラーム化しているのである。たとえば登場人物にはアラビア語の名前がついているし、物語の舞台はバグダッドやダマスクスやカイロになっている。しかし多くの場合、物語の構造やそもそもの着想はアラブ世界とは異なるどこか他の場所に源があったと考えられている。しかし多くの聴衆や読者にとって、そんなことはどうでもいいのである。

 

さて、ここで「サラゴサ手稿」に戻ることにする。「サラゴサ手稿」では様々な人物が登場して様々な物語が語られ、その物語の時代と場所は多岐にわたり、それぞれ独自の展開が語られるが、それらを語る人物たちは物語枠に沿ってイベリア半島南部のシエラ・モレナ山中にある隠れ家的な場所に現われ、そこで彼らの物語を語ることになる。それゆえ「千夜一夜物語」のシェヘラザードが王の寝間で語り続けるように、語りの場所は移動せず停滞したままにある。そして「ドン・キホーテ」にもそうした傾向がある。ことに前編にかぎって言えば、ドン・キホーテとサンチョ・パンサは村から数日離れた場所とその周辺からあまり動くことがない。次々と事件が起こって話が混み入り、移動がなされないのである。話の内容の多様さと語り手の場所の停滞というこの対比には何か意味があるのだろうか。

「ドン・キホーテ」という作品は、一次的な作者がいてセルバンテスがその記録を利用するという設定になっている。すなわち、シデ・ハメーテ・ベネンヘーリというイスラーム教徒の歴史家がアラビア語で記した原稿を見つけて、それを翻訳して紹介しているだけだという体裁をとっている。「サラゴサ手稿」もこれと同様の手法をとっていることは冒頭で述べた。「ドン・キホーテ」ではそのため、ときおり作者のセルバンテスが物語の中に顔を出すという事態が生じている。また前編と後編とでは執筆意図が異なるようで、前編では登場人物に長い体験話を語らせたり、小説とされる話を嵌め込ませたりして、物語枠の二重三重の層が認められるが、後編は前編の続編というよりも、前編を批判的に見るという視点を抱えており、ことに物語を嵌め込むという前編の手法は批判され、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの二人が体験する話を全面的に打ち出している。こうしたことからすると、セルバンテスは枠物語の形式を試みながらもそれには満足しなかったようだ。後編は前編の十年後に出版されているが、その執筆意図の違いは明白に見てとれる。後編は作品と作者との明確な差異を提示する一方で、小説としては完全ではなく、どちらかといえば破綻しているように見える。こうした小説という形式をめぐる不安定な要素を見てとってカフカは次のように語っている。「ドン・キホーテのもっとも重要な事績の一つは、風車との戦いよりももっと厄介なもので、それは自殺である。死せるドン・キホーテが死せるドン・キホーテを殺そうとする。しかし殺すためには生きている立場が必要なわけで、彼は剣の尖でこの立場を探すが、いくら探しても見つからない。こういうことに夢中になって、二人の亡者は、もつれ合ったまま威勢よくとんぼ返りを打ちながら、世紀から世紀へところがっていく」(マルト・ロベール「ドン・キホーテについて(1967)」より)と。ここでカフカが「ドン・キホーテ」を評して言う「自殺」とは、セルバンテスが自作品を自作品の中で対象化することによって「ロマン(小説)」が死に至っているということを言うのだろう。カフカは小説世界をそれ自体で守っていた。「(殺すためには)生きている立場が必要」だと考えていたし、「カフカは、<世界を高めて、真の、純粋な、不易なものの中にいれること>に成功しないかぎり、書くことの幸福は見出しえないと告白する」(同上)、そう考えていたようだからである。そうした点において、マルト・ロベールの言う「理論家」のセルバンテスとドン・キホーテの<死>との間に理論と表現の相克があるのは確かである。「ドン・キホーテ」は偉大な作品である。しかし、近代小説に連なる作品としては十九世紀から二十世紀にかけてのヨーロッパにおいて評価されることになったのである。十八世紀後半から十九世紀初めに生きたヤン・ポトツキについては「ドン・キホーテ」のこうした近代的評価は知る由もなかったにちがいない。とはいえ両者にとってのイベリア半島南部の世界とイスラーム世界との繋がりは注目に値する。「ドン・キホーテ」という作品設定自体がイスラーム教徒の原稿をもとに書かれたというものであり、それはセルバンテスがオスマン・トルコとの戦争に従軍していた経験からしてイスラーム世界をよく知っていたからである。そしていっぽうの「サラゴサ手稿」の中では、イスラームの秘教的一派による主人公への執拗な働きかけが最後まで通底音となって響いている。

枠物語という観点からすれば「ドン・キホーテ」はそれから逃れているという点でも近代的作品であり、いっぽうの「サラゴサ手稿」の方は枠物語の形をとってはいるがその物語枠は曖昧で、「発見された遺稿」という設定もその効果はほとんど生じていない。語られる物語は時代も場所も様々であるが、それらの物語の間に反復性は一切見られない。その代わりに、一つの事件が別々の人物から別々の視点で語られたり、語りと語りの関係が複雑に交錯するあまりに語り手に明らかな間違いを指摘させるケースさえ語られている。こうした意識的な手法は枠物語が抱える二つの対立する時間性に反している。「サラゴサ手稿」は「千一夜物語」の方に目を向けているのではなく、「ドン・キホーテ」の方を気にしているのではないだろうか。シエラ・モレナ山地のカルスト地形と神秘的な泉、そこではかつて銀や水銀が採掘されて、イベリア半島に留まったイスマーイール派の一分派が黄金を秘蔵する隠れ拠点であったという結末は、「ドン・キホーテ」の後編でドン・キホーテが夢見るモンテシーノスの洞窟の底なし穴の光景に通じる話でもある。「サラゴサ手稿」にはむろん「ドン・キホーテ」のように騎士物語への批判といった脱時代的な面はないが、その四方散乱的な内容をくまなく見わたせば、そこにはヨーロッパにおける不確かな啓蒙時代の姿が垣間見られるように思われる。この「不確かな時代」こそ、ポトツキが秘かに抱える主題ではなかったか。彼は晩年に自国であるポーランド・リトアニア共和国の崩壊に遭遇して時代の不確かさを痛感しているはずだ。それが原因でポトツキは自殺した(1815)とも考えられるのである。

さて長編にせよ短編にせよ、ヨーロッパの小説は「千一夜物語」やその他諸々のアラビア語作品や民話に極めて多くを負いながら発達したという考えがある。アラビアの学問、文学、娯楽作品がアラビア語から次々と翻訳されて中世ヨーロッパに伝えられたのは主にスペインやシチリア島だった。本格的に翻訳事業が行われたのは十二世紀以降のことであり、その中心地の一つが「ドン・キホーテ」の舞台であるラ・マンチャ州、その州都トレドであった。そのため「デカメロン(14c)」や「カンタベリー物語(14c)」といった中世の枠物語のみならず、近代に入ってヴォルテールやコールリッジの小説作品もその内容からして「千一夜物語」から多大に影響を受けたとされる。ことにウィリアム・ベックフォードの「ヴァテック(1786)」は「千一夜物語」の影響色濃い作品とされるが、その内容は「<オリエント>という考えと一般的に結びついた驚異と嫌悪と無慈悲にしてグロテスク等の混合物」であるとマリオ・プラーツが述べるように、それはベックフォードという異様な人物が夢想した極めて個人的な世界を描いた作品である。ゴシック小説「ヴァテック」はそうした意味で、「千一夜物語」の影響を受けながらも「千一夜物語」とはかけ離れた作品であると言える。とにかくヨーロッパではそれほど「千一夜物語」が読まれてきたのであり、それというのも、いまだ東方世界を見慣れぬ目と耳にはその描写は実に触感的で官能的なものであったからにちがいない。とはいえ、ゴシック派やロマン派の小説家は「千一夜物語」の何たるかを知ろうとせず、もっぱらそれを素材として取り込んだに過ぎなかったようだ。その枠物語としての核心は知られぬままであったろう。ヨーロッパ世界とは異なり、大量の物質が溢れる富の世界を介してあたかも触感することのできるような夢想の「オリエント世界」に彼らは翻弄され、かつ自らを翻弄していたと言える。

さて、数ある「千一夜物語」の映画化作品の中でも最も評価の高い作品にピエル・パオロ・パゾリーニの「アラビアン・ナイト(原題は「千一夜の花」/1974)」がある。「千一夜物語」という比喩で満たされた豊かな世界を映像化する場合、背景にどんな贅を尽くした美術を凝らしてもその実写化には幻滅するはずだ。それは人の感覚と想像力に訴えるようにして語られてきたのであり、決して形態化されるような作品ではない。それで「千一夜物語」の中でも「シンドバッドの冒険」や「アリババと四十人の盗賊」といったスペクタクルの物語が単独で取り上げられて映画化されてきたが、パゾリーニの「アラビアン・ナイト」は独自に枠物語形式を取り入れ、一部の物語(第百七夜から第百三十六夜にかけての物語「アジズとアジザと美わしき王冠太子の物語」)をかなり単純化して映像にしている。しかし、物語が形態化されたといった印象はまったくない。おそらく映画は自らの論理によって登場人物の心性も含めて物語を描いているからだろう。冒頭のエピグラフでパゾリーニは、「真実は一つの夢にではなく、複数の夢に現われる」と述べている。夢の強度は一つのかたちへと収斂されるわけではない。夢の強度は複数の夢として現われながらその強度を保っているのである。この見方は枠物語にも当てはまるだろうか。

市場での取引から始まるこの映画に登場するのは稀有なものの中の稀有なものではなく、ローカルな人物とその唯一無比な表情、それにローカルな衣装を身に付けたローカルな身体、そして唯一無比なるその身振りだ。映し出されるのはありのままのアラビア半島やアジア世界で、物語はあたかもいくつかの夢を見るようにして展開してゆく。パゾリーニは、「『千一夜物語』のあらゆる物語は、不合理が発生することでそれとわかる<運命の出現>で始まり、一つの不合理が必ず新たな不合理を生み出していく。こうして不合理の鎖が出来上がる。鎖の環がきっちりと筋の通ったつなぎ方になっていれば、それだけ物語も美しくなる。<美しい>という言葉で私が表したいのは、精気に溢れ、恍惚として、身震いするほどに高揚した状態だ。不合理の鎖は、絶えず常態に戻ろうとする。『千一夜物語』のあらゆる物語では話が終局へと至るや運命が<消滅>し、平々凡々たるけだるい日常が戻ってくる…物語の主人公は、実は運命そのものなのだ」(「必携 アラビアン・ナイト」より)と解釈している。映画の内容はまさにこうした考えを反映するものであるが、しかし、この<運命>の指摘は近代人的感覚であり、「千一夜物語」に<運命>の力などまったく似つかわしくない。<運命>は物語を語る者の手中にあるのにすぎない。この言葉はおそらくパゾリーニ自身の心性を映し出しているのではないかと思う。それよりも彼が見出したのは、枠物語の形式と彼が提示する自由間接話法的ショットの方法との親近性ではなかったか。パゾリーニ映画では場面と場面の繋ぎに独特の仕方があって、彼はそれを「(映像の)自由間接話法」と呼ぶ。「自由間接話法」とはむろん文学技法であり、登場人物の一人称の思考を三人称の語り手の視点で描写する、三人称語りの要素と一人称直接話法の本質を融合させた文章スタイルである。そこに挟み込まれるのは<語り>という形式を保持したままで書かれた文章である。すなわち、三人称の文体に一人称形式で独白部分が入り込むことになり、そうすることで同一文中に語り手と作中人物、両者の視点が混在する、というのが自由間接話法の最大の特徴である。直接話法では語り手とその話の主体は一致している。間接話法では誰かがこう言ったという形式になっているから語り手と話される内容の主体は別々であるが同一文中にあるにもかかわらず少なくとも誰が話をしたのかは示される。それに対して自由間接話法では語り手はその話の内容の主体とは別であり、そのうえ誰が話しているかは明言されずに話の内容が引用されていることもある。こうした機能は文章上ではある程度までは明確になりうるが、映像の場合はどうなっているのだろうか。自由間接話法の立ち位置が必ずしも明確であるとは限らないし、第一に映像の話法とは何だろうか。

パゾリーニの「ポエジーとしての映画(1965)」では、自由間接話法とは「直接話法とも間接話法とも異なって、人物の発言や思念をシームレスに(※途切れることなく)地の文に紛れ込ませる話法」とされる。パゾリーニは人物の行為を三人称的に捉える客観的なショットでもなく、人物の視点とカメラが一体化した主観ショットでもなく、人物や世界を外から捉えつつその人物の主観的ヴィジョンが反映された第三者的な視点のショットを自由間接話法として考えており、そこに映画表現の新たな可能性を見出しているというのである。というのも、こうした第三者的視点のショットにおいて映画作家は人物主観的ヴィジョンを借りて作家自身の表現主義的美学を実現することができるからだという。映像の話法とはショットに左右されるものであり、そのショットに主観的でも客観的でもない第三者的視点が実現する余地があるらしい。この第三者的視点についてジル・ドゥルーズは、「映画作家と被写体とが交流し、生成変化することで、支配者/被支配者のヒエラルキーが解体する」。そして「自由間接的であるとき、言語行為は、仮構作用の政治的行為、おとぎ話の道徳的行為、伝説の超歴史的行為となる」(「シネマ(1985)」)という。この「物語の行為であったり、神話の行為であったりするパゾリーニにおける言語行為」は「アラビアン・ナイト」にも適用されるのだと言う。つまり、外部からの視点に登場人物の主観的ヴィジョンが反映されたこの第三者的な視点のショットとは個人の視点ではなく、広く社会的(政治的・道徳的・超歴史的)な視点に還元されうるということになる。こうしたことからすれば、映像表現における自由間接話法では物語の流れの中に物語の<外部の>とされる第三者的存在が自ずと入り込んでくる余地があるのであり、そこには物語と物語を統括しながら物語からは(見えない)枠物語の形式との関連が考えられはしないだろうか。夢を見ることは、意識的でない意識が働くその強度を感知することでもある。

 

ルーマニア語の「千一夜物語」が遅くとも十七世紀までには出来ていたことを示す証拠があるという。このルーマニア語版はギリシア語版から翻訳され、そのギリシア語版はシリア語版から、シリア語版はペルシア語をアラビア語訳したものから翻訳されたのだという。ルーマニア語は民衆ラテン語やダキア・トラキア語などを起源にもつバルカン・ロマンス語の一方言がスラブ諸語などの強い影響を受けて早くも中世には成立していたようだ。いっぽうのルーマニアという国家の成立は十九世紀で新しく、それでも言語が早くから形成されていたのならばルーマニア語はそれ自体で外来文学を導入するほどの体裁を整えていたことに疑問の余地はない。もしそうであれば、フランスやイギリスよりも先に「千一夜物語」の一部の話が東欧に広まっていた可能性がある。つまり、一部の話が大衆に読み継がれ、語り継がれていた可能性がある。

ルーマニア人作家ミルチャ・エリアーデの「ムントゥリャサ通りで(1968)」は枠物語ではないが、訳者の「あとがき」によれば、「物語の構成そのものが、ファルマという元小学校校長が秘密警察に提出する供述書、あるいは取り調べの際の話という形になっており、一種の枠物語なので、アラビアン・ナイト的な雰囲気を濃厚にただよわせている」とある。ブカレストのムントゥリャサ通りにある小学校で校長をやっていたファルマという人物は老人で、秘密警察に目をつけられて取り調べを受けるのだが、その話が縦横無尽で、天に放った矢の行方をめぐる話、ある家の地下室の水中深くに潜って二度と戻らなかった少年の話、お告げによって婚約者を求めて山の麓へ行き、そこで乱行騒ぎを繰り広げる巨体美女の話、結婚式の場で見た手品に魅了されて婚約が破談になった男の話、いなくなった友人を探して付近の家々の地下室を訪ねては玄関先で詩を吟じる男の話などが語られる。歴史的事件や民話、さたには神話的な物語といったそれらお互いに繋がりのない幻想的な話が次々と繰り出されるその連なりは、今語っていることを説明するには次のことを語る必要があり、そしてその話が進むと、その話を続けるにはまた別の話を語る必要があるといったふうに、今語っている話の中に別の話が挿入されながら延々と語られてゆく。そのため話が進むにつれて時間の進行が入り乱れ、登場人物の相互関係も入り組み複雑になってゆく。しかしそれでも秘密警察官は老人の荒唐無稽な話から都合よく体制内部の対立派分子を嗅ぎ分け、そして最終的に政府高官が権力闘争に巻き込まれてしまうという話である。

老人はかつて小学校の校長であり、いわば体制内で職に就いていた。秘密警察での取り調べという事態を受けて、ここでは自身に関わる疑念を払拭しようとして物語を語るという「千一夜物語」的な設定になっている。しかるに、こうした筋立てから「ムントゥリャサ通りで」に想定されている物語枠をあえて推測するならば、それはルーマニアにおける社会主義下の独裁体制であり、見えないその物語枠を炙り出そうとしてエリアーデはこの小説を書いたのではないだろうか。枠物語においては物語枠の存在は希薄であり、物語が切り替わる際にのみ語り手が顔を出す。そして物語の枠内では時間的な推移に制限されることなくどんな話でも語ることができる。物語枠内の時間の多層性による緊張感と反復による直線的時間のこの希薄さは「千一夜物語」のものである。とすれば、こうした枠物語の構造をエリアーデは逆手に取っているのだ。すなわち、社会主義独裁体制という見えない主物語枠を示唆しようとして、直線的時間の希薄な出来事を延々と物語っているのである。むろんエリアーデは「千一夜物語」を熟知していただろう。いわゆるエリアーデの幻想小説には直線的な時間感覚が欠け、時間の流れを無視した反復が多用されているのが特徴的であるが、おそらく東欧全域にわたる政治的かつ宗教的歴史の複雑さがそうした表現を推し出しているのにちがいない。

セルビアの作家ミロラド・パヴィッチの「ハザール事典(1984)」は奇書の中の奇書であり、また綺想の書でもある。<事典>といった体裁をとっているが物語として読めないこともない。キリスト教の書、イスラーム教の書、そしてユダヤ教の書と三つの書に分けて書かれており、それは歴史的に存在した「ハザール王国」の盛衰の一端を三つの宗教の視点から物語ろうとしているからである。それぞれの書は事典の体裁をとっているにもかかわらず、その項目の内容は事典には似つかわしくない綺想的な話で埋め尽くされている。

「ハザール王国」はハザール人の国で、その白色トゥルク系の遊牧民族が七世紀頃にカスピ海とアゾフ海の間のボルガ川流域に築いた強力な遊牧国家は、一時は周辺の民族ブルガール人やペチェネグ人をも支配下に置いた。そのため「ハザール帝国」と呼ばれることもある。九世紀頃の支配者層がユダヤ教に改宗したことでよく知られているが、その経緯と実態は謎に包まれている。「ハザール汗国」とも呼ばれ、十世紀に滅亡して歴史の舞台から姿を消した。このようにわずかな期間に歴史上存在したハザール王国を前提として、「ハザール事典」は「1692年に破棄されたダウプマンヌス版を再構成し、最新資料を加えた改訂版」として書かれている。すなわち作者パヴィッチは<事典>の編纂者の名前をあげて自身は作品から距離をとり、そしてあたかも<事典>の形式を物語枠としつつ、それゆえ自身が語る<事典>の中身の枠物語は空間的にも時間的にも制約されずに語ることができるよう意図しているように思われる。これは変形された枠物語なのだ。それは「千一夜物語」のような枠物語とちがって、<事典>形式にして書かれたこの枠物語はその内容を平面的に通覧することができるというものになっている。語られた物語が次々と過ぎ去っていく枠内物語とは異なり、この中で語られる枠内物語は項目を検索してページをめくればいつでも呼び出されてくるのである。その内容は、ハザール王国の宮廷でキリスト教(ギリシア正教)、イスラーム教、ユダヤ教の神学をそれぞれ代表する者が可汗の前で優劣を競って議論したという(歴史的)事件「ハザール論争」をめぐって展開するが、項目に書かれた一つ一つの物語は史実を混じえながらもそれとは関係なくあちこちへと進行する。また物語の中に様々な文献が挟み込まれてそこで別の物語が語られるが、それらの文献の真偽は不明である。さらには一つの項目が三つの宗教の視点から別々に語られるのでその内容は三重に多面的な様相を帯びてくる。そうした中でも、使節の男の全身に刺青によって隈なく描き込まれるハザール王国の歴史と地図、どの指もそろって同じ長さのウード弾きの名手、ハザール語には文法上の性が七つあること、嫁入り前はモーラ(人の屍を食べる女)だったのが結婚後は魔女となり死んだ後では三年のあいだ吸血鬼になると言われた女等といった記述はただ奇を衒うためだけに語られているのかもしれないが注目に値する。というのも、こうした記述はあえて<事典>の概念に反するものであるからである。

パヴィッチはベオグラード大学で文学教授を務めるほどの学者であるからして当然「千一夜物語」を熟知している。「ハザール事典」の中にも「千一夜物語」の語は出てくる。とすれば変形枠物語としてのこの「ハザール事典」は枠物語の枠を解体しようとする枠物語の流れの一つと考えられはしないだろうか。というのも、その内容における極度の綺想趣味のために<事典>の形式としての物語枠は解体し、その代わりにその枠物語の中には多民族と接し多言語を解するのを常とするあたかも国境のない世界、歴史的に多文化的な世界が立ち現われて来るからである。ああ、食屍鬼であり魔女であり吸血鬼である女!こうした表現においてパヴィッチの小説は東欧文学が駆使する想像力の産物と言える。その想像力は相対的な観点によって異なる文化を受け入れることを可能にしているからである。そのことはもともと存在しなかった国境を横断するという精神が色濃く残る多文化的なバルカン半島の状況に依拠しているだろう。とはいえ、実生活においてパヴィッチはセルビア民族主義者として知られていたようだ。その小説は彼の民族主義的感情を表現していると言われる。そうであるならば、影も形もなくなったハザール王国の悲劇的な運命は現代セルビアの比喩として、すなわち旧ユーゴスラビアの盟主であったセルビアの比喩として考えられてもおかしくない。しかし、「ハザール事典」には一元的な思考が働いている寸分の影もない。これは小説ではない。言ってみれば綺想物語を意図的に詰め込み、自ら規定した<事典>の形式をあえて解体しようとする反<事典>なのである。このような文学的な試みは、おそらく(ユーゴスラビア)解体寸前の多様な破片の集積というヴィジョンによって促されているのにちがいない。

東欧文学はまた偉大なアルバニア作家イスマイル・カダレを生み出している。彼は政治的に不安定なバルカン半島の小国家が抱えてきた歴史について次のように自虐的に述べている。「アルバニアの位置は、二つの世界、すなわちローマ教会世界とビザンチン教会世界との間で締めつけられるようにして、西方と東方の間にある。二世界の衝突は不可避的にぞっとするような混乱をもたらしてきた。そのたびにアルバニアは自らを守るための新たな方策を見出さなければならない。すなわち、アルバニアはその法を、その行政を、その監獄を、その裁判所を、そのすべてを変えなければならない。それらを変えて外部の世界と関係を断ち、それから嵐が近づくにつれ、男たちの中に強い結びつきをもたらすことになるだろう。こうしたことをしなければいけないのであり、さもなければ地球の表面から消し去られることだろう」(1988)と。

彼の最初の小説「死者の軍隊の将軍(1963)」は、第二次世界大戦後に戦死した自国兵の遺骨回収のためにアルバニアを訪れたイタリア人の将軍と司祭の体験を描いている。彼らはアルバニア人をあたかもアフガニスタン人であるかのように見ているが、それはアルバニア人であるカダレが描くものである。小説は枠物語の形式とは無縁だが、読み進むにつれて、戦没兵が残した日記やかつて彼らが人に語り告げたこと、さらには現地の村の人々の語る往時の記憶などが<物語>のように綴られてゆく。そしてそれらの証言が積み重なってイタリア人将軍の意気を沈めていき、やがては死せる兵隊たちが生ける将軍の行動を強く縛ってゆくようになる。アルバニアの風景、山岳地帯の降りしきる雨と泥濘、余所者を拒む口を閉ざしたままの山岳民、生者を圧倒する死者たち、「生きている人間が過去の亡霊から逃れられないという構図はカダレが繰り返し語るテーマである」。こうしたことによって、そこには<歴史/記憶>という見えない物語枠が浮かび上がってくる。戦争中、森林や洞窟で過ごして戦った山岳パルチザンの一人が歌った歌があり、「歌が古くからあるのは切り株のようなものだ。それでも枝や花びらは若々しいのだ」と歌われる。この<歌>が意味するのは、<歴史>というか数千年にわたる人々の記憶のことにちがいない。この小説の重要な局面は歴史責任を負うことにある。個人的にも、そして国家としても責任を負うことにある。しかし、自身の過去と戦争で犯した残虐さに悩まされる将軍は現在の権力を守るために歪められた過去をつくり出そうとする。物語は政治目的を永続するためにいかに過去が武器化されるか、いかに個人が自ら始めたのではない歴史的出来事によって罠に陥るかを強調している。こうした主題は<歴史>をディストピア的なものに陥らせるが、いっぽうのパルチザンの<歌>は、連綿と受け継がれる民衆の記憶をいつでも<若々しく>花開かせるものとなっている。「死者の軍隊の将軍」は西欧より早く1966年のブルガリア語、ついでセルビア・クロアチア語やトルコ語などに訳された。西欧ではようやく1970年になってフランス語に訳された。東欧と西欧の間にはむろん歴史認識に大きな開きがある。

カダレの「夢宮殿(1990)」にも描かれ、またダニロ・キシュの「死者の百科事典(1983)」でも描かれるが、一人の人間に関する逐一の調書や、人の一生を逐一記録する回想的描写ということにどんな意味があるのだろうか。アルバニアとセルビアで同様に経験された独裁政権下で意味があるとすれば、そのような仕方でしか一人一人の生の意味を回復できないということを示そうとしているのだろうか。それほどの権力が人々を圧していたということなのか。東欧は西と東からつねに力を加えられてきたが、自らが自らを圧してきた世界でもある。それゆえ、東欧という存在はそれ自体によって創造されるというよりも、その存在は相対的なものを助けにして自らを発露してきたのにちがいない。また語りを聞くのと書物になったものを読むのでは、一方では語り手の声によって他者の存在を容易に感じられるが、他方では自身の想像力のうちで済ましてしまうといった大きな違いがある。この問題にどう対処するかという点に後世の枠物語の形式があるのかもしれない。その点において近代小説が見落としているものがある。東欧文学には他者の存在が生々しく感じられる。他者とはむろん<大きな他者>をも含む。

最後に2025年のノーベル賞作家でハンガリー人クラスナホルカイ・ラースローの「サタンタンゴ(1985)」について述べておきたい。クラスナホルカイの文体は特異でその文章は「うねるように長く続く」。段落が一切なく一つの章を読み切るまで余白に出会うことがないので「章の終わりでしか一息つけない」。さらには時間軸に沿って進行しない登場人物の語りや同じ出来事が異なる視点から繰り返し語られて話は行きつ戻りつしつつそのため読む方にしてみれば薄暗闇の中を手探りで進んでいくといった感じがある。それでも「サタンタンゴ」では「すべてを徹底的に観察し、継続して記録する」医者の存在が一種の物語枠になっているようにみえる。冒頭の医者の意識の流れが最後にふたたび繰り返されているからである。医者以外のすべての登場人物は「それなら、むしろここで待っていて会えない方がまし」(カフカ「城」から引用された「サタンタンゴ」のエピグラフ)といった人たちばかりでカフカの「城」の主人公の想いと一致させられているような人々である。「城」では主人公の測量技師Kは雇われて城のある村に出かけるがいつまでたっても城内に入れない。しかし城の長官に会えそうにないと解ってもその場で待ち続けることを選ぶのであった。「サタンタンゴ」に登場する人物もそのような人たちである。彼らのみならずそのような彼らを監視する独裁体制の当局も最終的には物語枠に繰り込まれているようだ。医者だけが例外なのはそれが作者と同型であるからだろう。こうした物語の構造はともかくとしてとにかく物語枠(社会主義独裁政権)に封じられてその中で今にも爆発しそうなテンションをもった意識の流れの描写が圧倒的である。人の意識の流れを描写するのに作者は様々な次元を含む状態を同時間の内に包括して表現しようとしているようにみえる。様々な異質な局面を即時性において抱え込もうとしているから脈絡はなく叙述が進むにつれて今にも爆発しそうな緊張を抱え込んでゆく。そのテンションはやがて物語枠を粉砕してしまうだろう。「短い文章は自然ではない」とクラスナホルカイは考えている。物語枠を粉砕した後の小説世界を考えるとすればそれはあたかもジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」的表現へと開かれるのか。いや、そうではないだろう。

 

東方世界(Orient)と西洋世界は歴史的にずっと対立してきたし、現在も対立している。そして西欧と東欧には中世以来優劣感が厳然と存在している。それでは東方世界と東欧世界にはどのような関係が続いているのだろうか。東方世界に対して東欧世界は一枚岩となってきたわけではないが、そこには見知らぬ繋がりが様々なあり方でもって異民族移動の時代から続いていたのではないかと考えられる。しかし、必ずやあったはずの多様な繋がりは今もって歴史の闇の中に埋もれているばかりだ。とはいえ、その闇を見つめれば闇は少なくとも次のようなことを現代の私たちに知らせてくれるのではないだろうか。現在、人は誰しもが物語枠の何たるかを知らないでその中で語られる枠物語を生きている。その見知らぬ物語枠を知るためには文学の力でそれを炙り出すか、それとも意識の流れを爆発しそうなほど昂めて物語枠を粉砕し、その向こう側を一瞬でも感知しようとするか、そのどちらかではないかと。

Friday, July 17, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

 三 錬金術と東方世界

 

錬金術とは「鉱物を熟させ、金属を純化する技術である」(M. エリアーデ)といわれる。「純化された金属」とは金(Au)のことであり、鉱物から精錬される(熟される)金属は成分的に余分なものを含み、それを取り除いて純粋な金属にすれば<金>になると考えられていた。ラテン語で錬金術を「alchemia」といい、それはアラビア語の「al-kimia」から来ている。この「al-kimia」の語は古代エジプト人が不死薬を調合する際の言葉として知られてきたとされ、「kimia」はコプト語の「khem」、すなわちナイル・デルタの豊穣な黒土を示唆する語であったという。ナイル・デルタでは農地を灌漑することなく、毎年の氾濫効果によって堆積した黒土には肥料をやることなく作物を栽培し収穫することができるほど自然の養分が含まれていたようだ。人為を施さなくても毎年決まったように作物が収穫される土壌、こうしたことからそこに「不死」というイメージが重ねられたのだろう。いっぽう、al-kimyaの語はギリシア語圏となった古代エジプトで「汁」を意味し、植物からエキスを搾り出す、すなわち本質的なものを取り出す技術を示すという説もある。他にも説があり、語の起源は定まらないが、いずれにしてもその語は古代エジプトを起源としている。そしてその通り、錬金術自体は紀元前のアレキサンドリアで培われた技術と思想がイスラーム世界に伝わり、イスラーム錬金術の書がラテン語に翻訳されて西洋世界で研究されるようになったことは広く事実とみなされている。また中世西洋においても錬金術は東方起源の技術として知られていたのである。つまり、中世西洋の錬金術は、意識的であろうと意識的でなかろうと東方世界と深く関わるものであった。

西洋中世には著名な錬金術研究者としてスコラ学者のアルベルトゥス・マグナス(1200頃〜1280)や出版業者のニコラ・フラメル(1330〜1418)、そして医師パラケルスス(1493〜1541)等が挙げられているが、市井には「純粋な金属」を得ようと様々な錬金術師たちが実験に傾注していたのであり、またその思想を研究する者たちが少なからずいた。ピーター・ブリューゲル(父)の版画下絵に錬金術師の仕事場を描いたものがあり、十六世紀の市井の錬金術工房の一端を伺うことができる。都市の民家の一隅で導師が書見台に開かれた錬金術書に目を通しながら職人たちに指図し、その周囲には床で鞴を操る者たち、机上で物質を調合したり、液体が入った容器を炉にかける者が仕事に精を出している。そして、部屋のいたるところには様々な器具と様々な形をした容器が散乱している。

西洋では錬金術における最大の目標は「賢者の石」を創り出すことにあった。それは非金属を金などの貴金属に変え、また人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられていたからである。エリアーデは錬金術について、それは「自然の活動に協同すること、永遠に増加する速度で産出するように自然を援けること、物質の形体を変化させること」と言うが、というのも、「ヨーロッパでは大地の胎内にあるすべてのものは懐妊の状態にあると考えられていた。鉱石はある意味で胎児であり、地下の鉱脈は植物や動物とは異なる時間のスケールとリズムに則ってであるけれども、地中で樹木のように生い茂り生長し続けていると信じられていた」(山本義隆「十六世文化革命」)からである。

具体的には錬金術とは、物質の変成を支配している自然原理を主に実験と観察を通して解読し、そこから得た知見に基づいて加熱、蒸留、溶解、沈殿、濾過、発酵といった物理学的かつ化学的手段を用いてこの変成過程を人為的に促進させ、自然の活動に協同するようにして不完全なものを完全ならしめ、最終的に純粋で有用な成分を分離抽出するまでの一連の技術を指していた。錬金術の達人たちは、蒸留や濾過の仕掛けをより効率の良いものへと改良しつつ作業を繰り返し、目の前の化学変化のプロセスを実に正確に記録した。錬金術はもともと自然哲学を土台にしており、世界を説明することを第一目的としていたからである。そうして、「錬金術がそれまでに開発してきた夥しいテクニックが近代化学と近代技術の財産目録に加えられていったのは、十六世紀の実際的な職人や技術者の努力による。技術者による錬金術技術の継承というワン・クッションを置いてはじめて、錬金術の知識と技術が十七世紀の化学者の手に届いたことになる」(同上)という。すなわち、西洋において錬金術の展開は近代化学を準備したのである。

しかしこうした錬金術の方法は、中世西洋におけるアカデミズム世界では実験や観察によって得られる認識は低く見られていたために、当時は何ら重要視されていなかった。大学ではもっぱら古代の書物の知識から得られる認識がまかり通っていたのである。それに対して実験を基にした自然研究である錬金術はあくまでも経験を重視する<知>としてその形をとり始めたのであり、言い換えれば、試行し観察する、そして新たな条件でまた試行するといった一連の過程が要請する<知>こそが近代に通じる新たな方法(科学)を用意したのである。

 

マルチン・ルター(1483〜1546)と同時代を生きたパラケルススは医師であり、錬金術師ではないが、医療行為に従事するに伴い錬金術(化学)を包括的に捉えていた人物である。当時はいくつもの<知>がそれぞれ特定の成員にだけ伝授されるかたちで外部に開示されることなく並存して営まれていたが、パラケルススはアカデミズムを含むそうした閉鎖的な<知>のシステムを公然と批判し、自然研究に際しては徹底して経験主義者であらねばならないことを主唱した。すなわち、自らの経験を基にして医療行為をするにあたり、伝統医学に従うよりも症状を観察することで積極的に民間医療も導入しながら治療を行ったのである。しかも彼は死刑執行人、理髪外科医、羊飼い、ユダヤ人、ジプシー、産婆、占い師等、社会の周辺的な人たちと交流し、学識者のみならずあらゆるところから有用な情報を収集したという。そうした情報を基に、治療のための薬剤を自然成分から自ら創り出しさえした。さらにはその考えを書物にして著し、当時の新技術である活版印刷によって出版した。こうした行動からしてパラケルススは当時から特異な人物として知られていたようだ。身分的な制限上、自ら医療行為ための場を構えることなく、生涯を通じて放浪の医師として過ごし、「私は医学博士たちのもとだけではなく、理髪師や浴湯師のもとにも、学識ある内科医のもとにも、産婆や呪術師のところへも、治療の術を行う者ならどこへでも出かけた。錬金術師や修道院の僧のもとへも、貴族にも賤しい身分の者のところにも、熟練した者のところへも俗人のところへも行った」とその著作「大外科学」の中で述べている。これには少し説明を要するが、当時、農村や山岳地帯はもとより、都市の大部分の住民にとってさえ、医療は理髪外科医や薬種商や助産婦、公衆浴場で吸角や瀉血といった療法に従事する浴湯主、経験豊かな古老や薬草師や呪術師たちによって営まれていたという。ことに都市に店を構える理髪師という職は事実上外科医の仕事を担っていたようだ。理髪屋が外科医を兼ねていたのは彼らが日常的に鋏や剃刀を使って仕事をしたからだと思われる。彼らは整髪や顔剃りだけでなく、切開手術やヘルニアの整復から抜歯、果ては梅毒の治療までこなす理髪外科医であった。「外科医」とは器具を使って自らの手で治療する医療職人を指していたが、理髪外科医はこうした外科医のさらに下級の職人とみなされていた。彼らは正規の医師とは異なり、手を汚す作業全般を引き受け、たとえば病院では外科医の監督下で行う切開や四肢切断の手術、また簡単な傷の手当てといった治療まで任されていたという。また彼ら職人外科医は戦争に従軍し、戦場で負傷者を治療することで多くの経験を積んでいった。当時、頻発するようになった火器による戦争はこうした実践的な外科医の需要を促し、パラケルススも従軍を経験した実践的外科医の一人であった。

医学的観点からすれば、彼の著書「大外科学」は、人体そのものに備わる自然治癒力に信頼を寄せ、ことに戦争の現場で培った創傷治療については、衛生観念の乏しい当時は通常行われていた不潔で危険な処置をできるだけ避け、傷口を清潔に保つように注意している点で現代においても高く評価されているという。彼は一般的な常識を考慮に入れながら治療現場で観察することの価値を強調し(「患者は教本だ。病床は学習場だ」)、医療改革のいくつかの面においてパイオニアとして知られる。パラケルススは伝染病を治療する独自の療法に成功したと言われる。深刻な感染病に対する効果的な薬剤は十九世紀を待たねばできなかったことからすれば、パラケルススが感染症状を観察することで調合薬を見出したことはこの時代にとび抜けた偉業であった。彼の多くの療法には名高い「解毒薬」が含まれているが、熱を伴う感染病に少なくとも一時的な安静を与えるのに発汗剤や強壮剤を処方するのは一般的なことだったが、彼は痛みを緩和させるのに阿片(Laudanumと彼は名付けている)を用いた。また水銀含有塩の使用が梅毒に最も効果的な治療であることを見出したことでも知られている。こうしたパラケルススによる薬剤に特徴的なのは、彼は古代から用いられていた牛糞や蛇の脂肪、鳥の羽といった有機材料を薬学的に調合する方法とは対照的に、不純物を取り除いた(精製した)無機物化合物を、それぞれを特定の病気を対象にして使用した点にあるだろう。

パラケルススがこうした薬剤を主に鉱物成分を化学的に調整して創り出すことが出来たのは、スイスの山村に生まれた彼が地域の病院に通う医師である父に同伴して鉱山での怪我や鉱山特有の毒素による鉱山病を知るようになり、その際に精錬工から錬金術(鉱物変成術)の考えを耳にし、不純物から余分なものを取り除いて純粋物へと変容させる技術について学んだからであるという。後に彼はチロル地方の鉱山地帯を訪れた際に鉱山や精錬所の危険で劣悪な労働環境と、そこで働く労働者が施す応急処置について知った。「職人たちはふだん使っている道具で処置していた。鋳掛屋は銅のスラグ(鉱滓)で止血し、化膿した傷口をもそれで乾かし、鍛冶屋は火星のクローカスと呼ばれる焼いた鉄粉(酸化鉄)で傷を治療し、陶工は銀密陀と金密陀(一酸化鉛)で同じようにやっている」(「大外科学」)と書き留めている。また彼は鉱夫の慢性呼吸器疾患としてその症状を記録し、原因を塵肺および砒素や水銀や鉛の蒸気によるものであると特定した。後に化学的に調整された医薬の優れた効能を確信し、ことに鉱物成分による薬剤を重視するパラケルスス医療は、このように鉱山地帯で鉱夫たちと交流した経験に基づいている。無機物化学の分野でパラケルススは、ビスマス(蒼鉛)、アンチモン、亜鉛、そして砒素を識別した。砒素についてはおそらく成分の形で取り出したのは最初であるという。彼の主要作品「鉱夫病と他の病気」には、鉱夫の病気の観察と様々な鉱物や金属がもつ人体組織への効能が書かれている。こうした医薬品の開発、水銀や硫黄、亜鉛等の鉱物成分の分析を通じて、あくまでも経験主義者の立場からパラケルススは錬金術に接しており、自身で工房を構えて錬金術による鉱物変成の研究に精を出すというようなことはしなかったが、彼の錬金術理論は壮大なコスモロジーを土台にしたもので、錬金術というものを大きな視野から捉えているのが分かる。根っからの経験主義者がそのような理論的局面を説くのは何故だろうか。それゆえ以下、その理論を簡単に検討したい。

パラケルススの医学思想は、哲学(自然哲学)、占星術(天文学)、錬金術(医化学)、徳(医療倫理)という四つの柱を基本とする体系をなしている。すなわち、「第一の柱は土と水に関するすべての哲学である(自然哲学)。第二の柱は天文学と占星術で、これが二つの元素すなわち空気と火の完全な知識へと導く。第三の柱は錬金術(化学)であり、特性(を知ること)、(精製)技術、調剤によって四元素を支配する。第四の柱は徳であり、これは死にいたるまで医学のなかに留まり、他の三つの柱を包み支える。医師はこの学問の奥深くに立ち入り、四つの柱を知らねばならぬ」(「奇蹟の医の糧」)。そのうちの一つである錬金術については、それは人の身体の健康や病気は人間という小宇宙と自然という大宇宙との調和に左右されているという考えが土台となっている。すなわち、人間は身体中の鉱物成分が調和のとれた状態にあらなければいけないという観点がまずあり、それに対して身体におけるある種の病気はそれを治すことができる自然の化学的治療力を人はもっているという観点があり、そして宇宙というマクロコスモスはミクロコスモスとしてのあらゆる人間のうちに顕われているはずであるから、宇宙ことに惑星の力が人間の身体中の鉱物成分の調和に影響を及ぼしている、そう考えられた。「人間の中には天空があり、その天空には体の惑星や星の力強い運行が行われている」(「奇蹟の医書」)。このことは当時の医学理論、すなわち身体の健康は四つの体液、黒色の胆汁(鬱/悲しみ)、黄色の胆汁(短気/怒り)、血(多血質/陽気)、粘液(粘液質/冷静)の適切なバランスに左右されているという考えとは異なるもので、ここで説かれる性格的な四つの体液のバランスに対して、パラケルススが説く<調和>という概念は、金(Au)はその成分が最も調和のとれた金属であるという意味で錬金術のものなのである。彼にとって医療行為とは、あたかも錬金術が鉱物を純化する技術であるように、身体の症状を仔細に観察し、不純なものを薬剤で除去もしくは中和させながら、あくまでも身体内の成分が調和する状態へと回復させる技術に他ならないと考えられていた。つまりパラケルススにとって医者であることは、身体をもたらしている物質成分が最もバランスのとれた状態へと自然治癒力を促すことだったのである。それは、「我々は自分の中に錬金術師をもっており、…それが我々が不利益を被らないように毒を体のためになるものから選別してくれる」(「奇蹟の医書」)からである。ところが、「体内の錬金術師の力が弱く、完全な精巧なやり方で毒が体に良いものから分けられることなく、毒と良いものが一つになった腐敗が生じ、腐敗的な消化が続いて行われる場合」は、「ある器官にその毒が留まり、その器官を劣化損傷させ病気が生じる」(同上)。こうしたことから、医師パラケルススにとって錬金術は、薬剤成分の中にそれぞれどのような効力があるのかを研究し、器官ごとに毒を除去するための医薬を化学的に調合するための技術として切り開かれていったようだ。そしてパラケルスス独自の思考のうちでは、その究極において<星界の力>を媒介する霊薬と考えられていた「Arcana(秘薬)」を精製抽出するという奥義が志向されていった。この<星界の力>とはパラケルススとって錬金術理論の核となるものであり、かくして「医師はまずもって占星術師でなければならない」のであり、同時に「医師はまた錬金術師であることをも必要とされる」のである。<星界の力>をめぐってこうした考えが唱えられるのは、医師にとって必要とされるこの占星術と錬金術に通底する知と技術の形態が、他でもない十六世紀の自然魔術として認められるといった状況があったからである。「天の力を媒体に引き入れ、その媒体の中で天の働きを発揮させる術が魔術(magica)である。ここに媒体とは中心のことであり、中心とは人間を指す。…魔術師は星辰の力をおのれが指示した物体に移し入れることができる」(「大天文学あるいは大宇宙と小宇宙に関する知の哲学」)とある。

当時はフィチーノ(1433〜1499)やピコ・デラ・ミランドラ(1463〜1494)が示した世界観である、ルネサンスの中心となったヘルメス主義や新プラトン主義、ピタゴラス派の思想が自然魔術の思想を支えていた。フィチーノとピコは占星術を批判的に見ていたようだが、それでもマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づく占星術はパラケルススの医療の重要な部分を占めていたのであり、当時のヨーロッパの大学で訓練を受け、働いていた多くの医療者と同様に、彼は実践的占星術師であったという。「医術は星の意思次第であり、星によって手ほどきされ指導される。すなわち脳に属するのは月によって頭脳へと導かれ、脾臓に属するのは土星によって脾臓へと導かれ、心臓に属するものは太陽によって心臓へと導かれる。同様に腎臓へは金星によって、肝臓へは木星によって、胆嚢へは火星によって導かれる」(「奇蹟の医の糧」)とある。こうしてパラケルススと共に、錬金術の範囲は金属の変成と精製物抽出に限られることなく、それは広い意味ではどんな物質の中にも<星辰>による隠れた可能性と利点を展開させる技術として考えられたのである。そして、この<星辰>による「目に見えぬ影響(たとえば磁力や重力)」を理解しようとするいわば当時の自然科学すなわち自然魔術こそ、この時代において科学思想の先駆けであったのである。パラケルススのような経験主義者はおそらく経験主義者であるがゆえに、外部の見えない情報に対してもつねに心身的に開かれていたのにちがいない。すなわち、知覚・感覚的に開放状態にあったのだ。そのように開かれた状態においてこそ、自然に内在する<科学>は、自らに霊感をもたらす直感がその人のうちに照らし出されるようにして、その働きを明らかにするのである。

こうした前科学の時代には結局、いっぽうに医療的な観察と治療の試みといった経験優先の作業があり、そしてもういっぽうにはプロセスを方法へと理論的に高める作業がまたあり、両者はこの時代に(魔術的に)絡み合っていたので、おそらくそのどちらかを抜きにしては何も理解されなかった時代であったのである。そう考えることで、パラケルススの言葉もやや明瞭になってくる気がする。パラケルススによる錬金術の仕様書としては「錬金術師のための宝の中の宝(The Treasure of Treasures for Alchemist)」がある。

「(水銀の原鉱である)辰砂を以下の仕方で準備せよ。石の容器に入れて雨水で三時間加熱せよ。それから注意深く精製して王水(Aqua Regia/貴金属を溶解する液体)に入れて溶解させよ。王水は硫酸、硝石、そして塩化アンモニウムを調合してできる。ただし硫酸、硝石、明礬、塩を調合してもできる。これを蒸留器(alembic/二つの容器を管で接続した蒸留器)に入れて蒸留せよ。繰り返し注ぎ、不純物から純粋物を注意深く分離させよ。そしてそれを馬糞の中で一ヶ月発酵させる。それから次の仕方で(目的の)成分を分離させよ。それが徴候を萌したら、蒸留器を用いて最初の程度の火で蒸留を開始せよ。水と空気が上昇し、火と土が底に溜まる。その後、それらを再び一緒にし、ゆっくりと灰と共に処理をせよ。すると水と空気は再び上昇し、その後、火の成分が上昇するが、それは熟練の職人だけが認めるものである。土は器の底に残り、これが徐々に溜まっていく。それは多くの人が求めるものであるがわずかな者しか見出せない。反射炉の中のこの生気のない土を、(錬金)技術の規程にしたがって準備するように。その後、最初の程度の火を五昼夜加えよ。時が過ぎたら、二番目の程度の加熱を同じように五昼夜の間加えなければいけない。そして、(錬金)技術にしたがって共に封入した物質と一緒に続行するように。長時間にわたって薄いアルカリのような、火と土のアストラム(星辰)をそれ自体の内に含んだ揮発性の塩を見出すだろう。これを保存された二つの成分、水と土で混ぜよ。そして再びそれを灰の上に八昼夜にわたり置いたままにせよ。すると、多くの(錬金)技術者によって無視されてきたものを見出すだろう。これを経験にしたがって分離し、すなわちSpagyricの技術(発酵、蒸留、洗浄、灰化、結合という過程をへてエキスを抽出する)の規定にしたがって白い土を得るだろう。というのも色彩がそこから取り除かれているからである。アルカリ化した土に火と塩の成分を加えよ。成分を抽出するためにペリカン型の蒸留器の中で分解せよ。そうすると新たな土が傍に沈殿するだろう。その後、ペリカン型蒸留器の中の最初にも見出された獅子(硫酸鉄)を取り、その色合いを見ると、いわばそれは水と空気と土よりもはるかに優れた火の成分である。それを粉砕して沈殿物から分離せよ。かくして真のAurum potabile(飲薬用金)が得られる…(以下省略)」。

繰り返しの実験と観察の成果である加熱の塩梅や発酵にかかる日数、容器の中に見出される物質の正確な描写、そこに様々な器具を駆使しつつ、変成する物質が入った容器を注意深く見つめるパラケルススの顔つきがちらりと見えてくるではないか。

実験はすべて試行錯誤のプロセスであり、科学用語はまだ確立されていない。硫酸鉄を「緑の獅子」と呼ぶように、様々な局面で錬金術特有の象徴言語が使われていた。というのも、それは単なる化学実験ではなかったからである。物質の内に最高の<調和>を取り戻す、そうした理念がまずあって着手される実験なのである。こうした実験活動の支えとなるものはおそらく壮大なコスモロジーしかない。パラケルススの言葉はまさにそうした意味において自然の多様な資質に言及するものであるが、それらの用語は自然を観察する際にそこに差異を見分けるためのものというよりも、絶対的な創造者が創造物に付与した無数の霊的要素を見出すためのものであると言えるだろう。このようにして、<錬金術>とは目の前の現象とそれに呼応する心性の一致を求める探索なのであり、そうした意味での人間をめぐる全体性を維持しようとする探索が、自然物質を扱う応用技術に注意を向けさせたのである。そうすることで、意識的でない意識を、物質の変成過程に深く関わらせることができたのである。そのとき物質を<純化>する作業がことさら肝要であるのは、そこに宇宙という全体運動を自覚するに至る行程が働いているからである。

こうした錬金術思想があるそのいっぽうで、同時期に冶金術に関する書「ピロテクニア」を出版したビリングッチョ(1480〜1539)は、鉱山採掘に関わる知識を広く知らしめることを重視し、そうした点から錬金術特有の象徴用語の表現や職人組合の秘密主義から脱していた。この時代は出版技術が確立したこともあり、職人がその技術を書物によって広く公開した時代である。その背景には手工業が急速的に資本主義的経営に移行し、技術者自身が自立して生産・経営する環境が整ったことにある。そのためには何よりも精密な情報が必要とされ、錬金術から神秘性を取り除き、数値や正確な図面を開示して経済的合理性の獲得に努めることが肝要であった。しかしそのことによって錬金術はその核心である神秘主義という片翼を捨て去り、確かな生産技術に取って代わられたのである。おそらくこのとき、壮大なコスモロジーに支えられた、いわば「魂の錬金術」が見失われたのである。

したがって、資本が台頭し、経済的合理性が瞬く間に押し寄せる西洋中世後期においても、パラケルススはまだ魂中心の世界観を保持し続けていたのだと言える。彼は神的な宇宙に向き合いつつも物質分析の合理性にしたがって化学的発見に努めたが、言ってみればそのような仕方で宇宙の神秘のただなかにいることを望み続けたのである。

しかしここまで述べてきたようなことは、若年時より科学的な考察の教育を受けている私たちには実際のところ何も理解できていないにちがいない。とはいえ、こと化学(alchemy)に関する限り、実際には錬金術によるマクロコスモス的な観点があってこそ、近代に受け継がれる分析的な化学の手法を展開させることを可能にしたのである。すなわち、それまで神の創造に任せるだけの状況であったのが、独自のコスモロジーに支えながら手狭な工房での実験による観察を繰り返すことによって物質に対する分析的な思考を可能にさせたのである。そして結果的にそのことは、今ふり返ってみれば、私たちはそのとき全体的な思考が分岐する機会に直面したということ、そしてその際にどちらかといえば合理的な方法を選択する道が与えられることになった、ということではないだろうか。錬金術には霊的な要素に関わろうとする東方の思考が垣間見られるが、しかし西欧においては錬金術の展開は科学技術への道という確かな選択をもたらしたのである。それに対して、錬金術の東方的局面であるイスラーム錬金術の思考とはどのようなものであったのか、そのことについて考えてみたい。

 

アラビア数学はギリシア数学やインド数学の影響を受けて発展したものであり、中でもアラビア数字の簡潔さは記号による数式の使用によって代数学(al-gebra)を発展させ、そのことはヨーロッパでもローマ数字がアラビア数字に取って替わられることで後の代数学の圧倒的な展開に寄与したのである。代数学によって様々な値を数式計算によって求めることができるようになり、その正確な数値は冶金分析に従事する技術者や錬金術職人の間でもとりわけ重要視された。こうしたことによっておそらく、錬金術とその周辺技術は西洋と東方とで<共通感覚>をもつ職人技術であっただろう。イスラーム錬金術の主要目的は、ありふれた金属を他の貴金属、特に金や銀に変容させることにあった。この目的を達成するために錬金術師はelixir(al-iksir)もしくは「哲学者の石(hajar al-falasifa)」と呼ばれる神秘的な物質を必要とし、それゆえイスラーム世界では錬金術は一部の人たちの間で伝授される技術として伝えられたようだ。そうしたこともあり、アラブ・イスラーム錬金術に特徴的なのはスーフィズムと強い親近性を保持していることで、錬金術の専門書は、al-Hassan al-Basri(〜728)、Dhul-Nun al-Misri(〜861)、al-Junayd(〜910)、Abu Hamid al-Ghazzali(1111)といった権威あるスーフィーに帰せられている。それゆえスーフィーの中には自身の体験を述べるのに錬金術の用語を使う者がいたという。

前述の「ピロテクニア」にはイスラーム伝来の蒸留法が詳しく語られているという。おそらく西洋の錬金術(化学)はイスラームの成分精製技術にその多くを負っていたのである。Jabir ibn Hayyan(721頃〜806-816)はゲーベルの名で中世西洋に知られていた錬金術の師であり、その「ジャービル文献」と呼ばれる著作群は膨大なもので、その内容も多岐にわたり、その中に金属の変成について書かれた「Kitab al-Kimya(黒き地の書)」がある。彼の業績は化学や薬学の分野でめざましく、塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法は彼に帰せられている。金などの貴金属を融かすことのできる王水(aqua regia)の発明や、クエン酸、酢酸、酒石酸などの有機化合物を発見したとされる。その業績は化学器具にも及び、彼が工夫した蒸留装置はアランビック(al-‘anbiq)として現在でも使われている。化学にとって重要なアルカリの概念も彼によって生み出されたという。また西洋錬金術でことさら取り上げられる、硫黄と水銀の比率で金属の性質が変わるという説も彼によるものである。さらにジャービルに帰せられる業績には、化学物質に関する最も古く知られる分類体系や、有機物質(植物、血液、毛髪)から無機化合物(塩化アンモニウム)を化学的方法によって推定する最も古く知られる指示書があるという。おそらくこうした知識を、成分精製を行う際にはパラケルススも参照したにちがいない。そして、おそらくそこには彼が説く<調和>の概念も伝えられていたはずなのである。

ゲーベルもしくはジャービルその人については不明な点が多いが、彼の思考についてアンリ・コルバンが語るところによれば、「ジャービルの<量的>科学は、われわれが今日科学という言葉から理解するものの前史の一章をなすばかりでなく、一つの世界観なのである。秤の学は、人間知識の問題とすべきあらゆるものを包括しようとする。…秤の科学の目的は、個々の物体の中に、外に現われた者と内に秘められたもの(非秘教的なものと秘教的なもの)との関係を見出すことであった。このように錬金術的操作は、ターウィル(ta’wil)の、つまり明らかなものを隠し、隠れたものを顕わにする最上の例として登場する。…一つのものの自然的本性(熱さ、冷たさ、湿気、乾燥)を計ることは、世界霊魂がそれに自らを順応させる量、つまり物質の中に下降する際の世界霊魂の欲望の強度を計ることに他ならない。この欲望は、諸々の秤(mawazin)の根元にある原理が派生する諸元素に対する世界霊魂の欲望なのである。したがってそれは、物体の変質を条件づけようとする世界霊魂自身に回帰する世界霊魂の変質であるともいえよう。この際、世界霊魂は、この変質の場そのものなのである。したがって錬金術的操作は、自らをとりわけ精神的心的操作でもあるとする。ただし錬金術の文書が<世界霊魂の寓意>であるというわけではなく、具体的に存在する物質の上に具体的に実現された錬金術的操作の諸位相が、世界霊魂の自己帰還の位相と符合するということなのである」(「イスラーム哲学史」)という。この中でコルバンが言う世界霊魂とは、人に霊的=叡智的な世界を受け入れられる心性があるかどうかでその理解を左右することになるが、それは唯一神に触れながら唯一神の下位に広がる次元であり、その次元が人にも影響を与えている霊魂(ruh)の充溢した世界ないし場である。イスラーム世界、ことに神秘主義を奉じる者たちの間ではこうした考えは絶対的なものであり、それゆえその(霊魂)世界は実体的なものとして考えられていた。したがって、コルバンはジャービルの「量的化学」は「秤」すなわち「均衡状態(mizan)」を軸にして物質の霊魂と世界霊魂とを対応させていると考えている。とすれば、ここには絶対神に起因するコスモロジーがあって初めて展開できる「量的科学」があることになる。こうした作業は、「世界霊魂自身に回帰する世界霊魂の変質」の場、その場こそ霊魂の充溢する世界であるが、それについて知ることにあっただろう。それゆえ、ジャービルの錬金術(化学)は自らの「精神的心的操作」でもあることになり、さらには「具体的に存在する物質の上に具体的に実現された錬金術的操作の諸位相が、世界霊魂の自己帰還の位相と符合する」という仕方で、いわばマクロコスモスとミクロコスモスの照応が考えられていることになる。

自然の出来事につねに関心を抱いていたジャービルは、自然世界の事実をその象徴的で霊的な内容から分離しなかったのである。彼が重要視する「均衡状態」を目指す量的科学は、それゆえ近代的な意味で自然の対象を量化する試みではなかった。そうではなく、自然を介して世界霊魂の性向を測るものだったのである。彼が数と文字の象徴主義(<文字の秤>)やあらゆる自然現象が世界霊魂による決定であること、またとりわけ錬金術の象徴に熱中していたことは、そのすべてが自然現象の内的意味を理解するためにジャービルがターウィルのプロセスを適用していたことを物語っている。

いっぽう、Abu Bakr al-Razi(864頃〜925/935)は医師であり、アリストテレスに遡るペリパトス派の哲学者であることで預言やターウィルの方法を拒否し、それゆえ自然研究にその方法を適用することも拒否した。そうすることで、彼はジャービルの錬金術を化学に変えたと言われる。ジャービルは事物の究極の原因を発見しようと探求していたが、ラージーはペリパトス派の見解にしたがって、そうした<可能性>が存在することを公然と否定していたのである。ラージーは、鉱物が硫黄と水銀とで構成されているというジャービル派の成分構成的な見解にしたがわず、それらは物体(jasad)と霊(ruh)と魂(nafs)でできていると信じていた。彼はカテゴリー論に従っていたのである。そのため、ラージーの著作には鉱物物質、化学プロセス、実験器具等についての記述と分類が見られるが、こうした仕事は近代化学の用語にたやすく翻訳できるものであるという。また彼は錬金術の象徴的な側面、魂の変容の象徴としての金属やその変容に関する論議には何ら関心を払っていない。錬金術の世界観に特徴的な自然世界と霊的世界の間の照応は姿を消している。ターウィルの方法は、自然に適用する際にはそこに隠れているヌーメン(神性)を見出すために自然現象を(垂直に)貫くことを意味する。その垂直性は、事実を象徴もしくは自然というヴィジョンすなわち霊的世界を覆うものとしてではなく、それを明らかにするものとしてのヴィジョンへと変容することを意味する。そしてイスラーム錬金術はまさにそのような自然科学であったのである。それに対して、西洋に医師ラゼスとして知られたラージーという人物は、錬金術に関して科学への道に通じる分岐点として西洋に考えさせることを可能にした化学研究者だった、そう言っていいかもしれない。

 

伝統的な錬金術師は、仕事場の窓を通して霊的世界の光が自然の領域を輝き照らす、そんなふうにして作業に努めるのだという。彼の目的は純粋に物理学・化学的な観点から完全に純粋な物質を得るために働くことではない。それは燃焼炉の仕事である。彼は自然を原初の完全さに戻すために自然を変容させることを目的としているのである。自然を真実のうちにある天国的な至福へと変容させるために。

イスラーム世界で「偉大なる導師」と呼ばれるイブン・アラビー(1165〜1240)は、その主著「メッカ啓示(Al-Futuhat al-Makkiyya)」で、「事物の存在は、そこに内在する原因である霊的現実(その垂直性)のそれ自身によって存在するという資質と、病であり、外に明らかにしようと現われる傾向(その水平性)との連携による」と述べている。黄金は完全さという資質をもった垂直性を帯びた金属である。それはまた差異化されていない潜在能力であり、諸段階を進むことでそれ自身の達成に至る。その達成もしくは実現が<黄金性>と言われる。黄金は完全なる現われであり、それゆえそれは均衡状態のうちにある。それに対して、均衡状態を逸脱し、特定的な性格を帯びたものは特定の金属となる。イブン・アラビーは錬金術師ではないが、彼が提示する錬金術に関する二つの方法、すなわち除去と原物復帰は、彼の出生地であるアンダルシア地方の二人の師から受けた霊的教えにおける二つの方法に相応するという。それらは、「自身の魂に自身を関わらせよ(欠陥を取り除け)」と「自身を神のみに関わらせよ(原物形成)」である。こうしたことからも知れるように、イブン・アラビーの錬金術による観点は、物質変成に関わるというよりも、人間を完全性へと復帰させる道に関わっている。イブン・アラビーによる錬金術の小冊子があり、そのタイトルを「人間の幸福の錬金術(fi ma’rifat kimiya’ al-sa’ada)」という。このタイトルの「幸福」とは、その状態が完全(純化)を示すからであるという。この完全さとは最も高度な段階に達し、それと合流することを意味する。すなわちそれは起源と同じ姿のものとして想定されているのである。本質的に霊はつねに調和と均衡状態にあると考えられるが、そのことも私たちの身体との関係を通じてそう理解される。それゆえ人の幸福は完全さにあるといえども、それは相対的な世界に関わり、そこでは均衡状態と不均衡状態とが共にあることになる。身体を診る医者が病を治し、自然の均衡状態を回復させるように、魂の不均衡を治すのが、イブン・アラビーが考える聖なる医師(錬金術師)の仕事なのである。

 試みに、「人間の幸福の錬金術」の英訳文(「The Alchemy of Human Happiness」Stephen Hirtenstein)から、核心的と思われる部分を抜粋して訳出する。

「錬金術のElixirは、存在の領域で改めたり置き換えたりできるものを示す明らかな証拠である/もし敵が神の恩寵のelixirを適切なバランスの基準に向けたならば/彼はその敵意を判断と布告の力をもってして友情の段階にまでやがてきっと移り変わらせることになるだろう/我らに啓示された秤を用いて重さを正せ。任務につけ/錬金術とは確定した基準の科学である。形あるこの世界にどれだけの(測るべき)姿があるか/熟考する者ならば、透明な観察力から欲望を取り除かないことがないよう注意せよ/さすれば、純粋な天使の段階に進むことを認められ、単なる人間の世界を超えた地位へと上昇できるだろう/

(中略)

錬金術の科学はelixirについての知識であるが、それには活動において二つの部分がある。一つは、金鉱石を元に回復させる。もう一つは、錬金術で自然金と同等とみなされる黄金をつくるようにして、欠陥を除去する。これは、均衡状態の探求において、この世界ともう一つの世界とによる展開があるということと同じである。

すべての鉱物が一つの根本的な起源に由来することを知れ。そして、その内在的自然による起源的なものはつねに完全な成就と充実なる位階との一体を求めている。それが<黄金性>である。しかしながら、聖なる名の効果のゆえに、起源的なるものが自然世界によって条件づけられるようになって以来、様々なその特性と共に諸段階を進むその行程において、夏の暑さ、冬の寒さ、秋の乾燥、春の湿気といった時間の大きな変化のゆえに、また鉱床の熱や冷えといった場所の性質における変化のゆえに、そこに病と欠陥が降りかかった。

一つの周期特性から他の周期特性に向かうようにして一つの展開段階から他の展開段階へと発展するその行程の間に、これらの欠陥の一つが起源的なるものにおいて優位的になり、その新たに住する場の力がその場のうちに統合されると、その場のうちに起源的なるものの実体をかたちという現実に変換するためのかたちが現われる。このかたちが硫黄もしくは水銀と呼ばれる。これらは二つの創始者と知られている。というのも、いっぽうでは、成果をもたらすことのできる確かな欠陥の結果として他の金属がそれら二つのものの結合から現われるからであり、もういっぽうでは、これら二つのものは一緒になり、構成において完全な最も崇高な実体、すなわち黄金と呼ばれる、合体することで二つの創始者がより高められたものを生み出すような仕方でお互いに結合するからである。これが、それぞれがそれ自身の鉱物性という観点から求めるところの位階である。その起源的なるものは聖なる領域における<呼吸>であり、自然界における<水蒸気>である。同様にして、二つの創始者は霊的原理と自然要素を兼ね備えるものである。

(中略)

二つの創始者は、特定鉱物の自然特性そして時間の自然効果を感受する特性と共に鉱物のうちに結合する。…結果として、このことが実体を決定づける。特定的性格の現実が与えるもののせいでそれが完全さに進むのを引きとめ、それを黄金である均衡の道から逸脱させるからである。均衡の道、それは目的地であるが、それは<黄金>という高潔な都市であり、完全なる達成をもたらすものである。<黄金>に達する者はより劣る水準に導くこうした変容に、決して、また二度と従わない。特定的性格が実体を支配するとき、それは本質的な性質に変わる。そしてそれを支配するものによって、そこに鉄や銅、錫や鉛や銀といったかたちが現われる。

こうして神の御言葉をより深い意味において知るようになる。<完全に形づけられ、そして不完全に形づけられた>。言い換えれば、<完全に形づけられた>は<金>についてのみ述べ、<完全に形づけられていない>は他のすべての金属について述べている。

(中略)

そこに錬金術的な手順に精通する者が現われると、彼は自身にとって何が最も容易い作業であるか詳細に調査する。そこから逸脱した均衡の自然な進路へと戻すために、彼にとって最も簡単な作業が金属体から欠陥を取り除くことであれば、それが最初の方法である。天文学者は惑星を観察する。今は天界におけるその真の位置にある、今はそれから逸脱している、その位置の下方か上方のどちらかへ(といった具合に)。そして、錬金術師は鉄もしくはそれがどんな金属であろうとも、そうさせる原因へと戻るだろう。彼は一つの要素がその中に異なる要素の量をもつがゆえに全実体を支配しているだけであることを知っている。それで彼は多すぎるところの量を減らし、少なすぎるところの量を増やすのである。これが医業と呼ばれる。そしてこれに従事し、精通する者が医者である。

それと同じ作業を用いて、彼は鉱物実体から例えば鉄のかたちを、もしくはそれがどのようなかたちをとっていようと、それを取り除く。彼が均衡の道にそれを戻すと、それを良き健康状態で保存しようとする。そのためそれはそこに留まることになる。病が治癒されると、病後の静養をする。彼は思いやり、痛みを和らげる栄養物で対処し、また冷たいすきま風から守ってやる。かくしてそれは、実体が黄金のかたちに身を包むまで、健康の直接的な道に沿って進んで行く。そのことがそれに起こると、医者の領域や病気を超えて行く。というのも、その全き完成に達した後、それは何かに欠けている段階に後戻り出来ないからである。ましてやそれに従うこともない。たとえ医者が希望したとしても、彼はそれをそれ以前の状態に戻すことが出来ないのである。

(中略)

いっぽう、この技術の達人が<elixir>と呼ばれるエキスを創り出したいと思うとき、それを彼が取り扱おうと望む鉱物体に適用するために、彼は(治療を)受ける鉱物体の自然構成によって決定されたものにしたがってそれを置き換える。この場合、そこには唯一の治療薬があり、それがElixirである。鉱物体の中にはElixirがそれ自身の特性へともたらすことができるものがある。そのため、それはElixirの仕事をするelixirになるのである。その場合にそれは<代理人>と呼ばれる。それは他の金属体の中に生じ、Elixirそのものの権威のおかげで金属体を支配する。

(中略)

我々は、霊的な智慧がいかに<二つの方法をもつ錬金術>と呼ばれるものに結びついているかを説明するためにここまでやって来た。しかし、なぜそれは真の幸福の錬金術と呼ばれるのか。それというのも、幸福はその中に必ずや存在するからである。さらには、神の人々のある者が言うには、そこにはそれ以上に良いものはない。というのも、それは真の人間の男性に属する全き完成の段階をもたらすからである。幸福を見出した者すべてが完成と一致するわけではない。というのも、完全なる者はすべて幸福であるが、幸福な者がすべて完全ではないからである。完全さは最高の段階に達し、そこに合流することを意味する。そしてそのことは起源であるものと同じであるとみなされる。それだから、預言者が<そこには完成を成し遂げた多くの男性がいる>と言ったときのことを想像してはならない。預言者は、ふつうの人々が語るある種の完成を言い表したのであり、それはむしろここで我々が述べたものであり、それはこの世俗の世界において知るという才能に与えられるものにすぎないからである。さあ、この前置きの後は、神が望むならば、われわれは前に進むべきである。真の幸福の錬金術について語るために」。

 

「幸福の錬金術」とは、幸福すなわち全き完成の段階を人の存在のうちに錬成する術のことである。それは物質の変成の背後で働いている潜在力と、その力に歩調を合わせる観察者の心性との一致を目指している。背後で働く潜在力とは神の力であり、それに歩調を合わせようとするのは霊的な智慧の働きのことである。したがって、物質の成分を研究し、その変成プロセスを心血注いで観察し、目の前の自然の妙に没頭し、さらなる手順を繰り返し、自ずと意識は集中し、そして意識は広がり、そうやっていつしか意識は霊感を得る。そこに様々な圏域が展開し、様々な次元へと移行する意識がある。そのように意識が呼吸するかのように変動する、その変動のうちに浮かび上がり、そこに顕われてくるもの、それは「神の似姿(完全さ)」なのである。

イスラーム社会では神は絶対であり神の方から人間に伝えることはあるが、人間の方からは神に接近できないという神の絶対性の考えが保持されていた。そのいっぽうで、イブン・アラビーのように、「神の似姿」を人のうちに見ることができるという考えも萌芽していたのである。あらゆるコスモロジーは無限(闇)を内包している。無限は愛の唯一の対象である。この無限を内包しようとする愛の感覚が、イブン・アラビーに「神の似姿」をもたらしているのだろう。

 

Wednesday, May 20, 2026

闇の光 Light subsumed under Dark

 闇の歴史

   吸血鬼幻想

 

 ヨーロッパには吸血鬼物語を語らせる何かしらの衝動が働いているようだ。ジョン・ポリドリの「吸血鬼(1819)」をはじめとして小説の多くは十九世紀のロマン派によるものであるが、それ以外にもモーパッサンによる吸血鬼風の物語「オルラ(1887)」やA. K. トルストイの「吸血鬼の家族(1884)」があり、二十世紀の大戦後にはM. エリアーデの「令嬢クリスティーナ(1978)」がある。また十九世紀には上層階級の間でいわゆる吸血鬼話が流行し、「吸血鬼」というタイトルでいくつもの演目がパリをはじめとする都市の劇場で上演された。そして、映画が発明されて以来ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ(1897)」を下敷きにした作品が次々と製作されたが、中には初期カール・ドライヤーが撮影技法を駆使した秀作「吸血鬼(1932)」や、レ・ファニュの小説「吸血鬼カーミラ(1872)」を下敷きにしたロジェ・ヴァディムの「血と薔薇(1960)」といった異色作品もあり、そして野性味溢れるヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ(1979)」がある。「Nosferatu」は古ルーマニア語で「吸血鬼」と同義で、F. W. ムルナウが最初に「Nosferatu(1922)」というタイトルで吸血鬼映画を撮っている。ちなみにトルコ映画に「Dracula in Istanbul(1953)」があり、ドラキュラ伯爵が牙を生やしている最初の映画であるという。有名なハンガリー人ドラキュラ俳優ベラ・ルゴシが出る「魔人ドラキュラ(1931)」を見ると、なるほど牙を生やしていない。続編の「吸血鬼蘇る(1943)」もベラ・ルゴシが主演の映画だが、吸血鬼の手下として狼男が出てくるのが興味深い。イスタンブールになぜドラキュラが現われるのか、おそらくトルコ映画界がイスタンブールの都会性を西欧並みに強調したかったからではないか。

 吸血鬼物語や吸血鬼映画の内容はブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」がそうであるように、概ね主人公がルーマニアの辺境やスラブ地方に赴き、そこで吸血鬼に遭遇するという怪奇な体験を基に展開されている。つまり、吸血鬼の源は東欧にあるというのが西欧社会の一般的な考えだったのである。自身の外部に想定された吸血鬼という存在がなぜそれほど西欧社会の人々を惹きつけ、また作家たちを表現に向かわせたのか。当時の西欧からすればトルコ文化の影響が色濃い東欧に対する心理的環境がその衝動に影響しているのだろうか。ギリシア人やボスニアのトルコ系の人がラテンの土地に埋葬されると吸血鬼になる、そうまことしやかに信じられていた時代である。

十九世紀に西欧の文学作品の中で吸血鬼像が形になる以前に、東欧のスラブ社会では吸血鬼伝承が知られていた。さらにそれよりも古くから伝承が知られていたのがギリシアである。それは何らかの理由があって埋葬された遺体が生き返るというものである。死して埋葬された者が夜になって村をうろつき、他の遺体の肉を食べたり、生者の生き血を吸ったりすると考えられていた。ギリシア語の「vrykolakas」が生き返った死者を指す言葉として知られている。その死者というより亡霊は、「一口の血を啜れば生ける者の機能が与えられ、(肉を)貪り喰らえば英雄と対話するだけの力が出る」と考えられていた。たとえば「オデュッセイア」の中で、冥界の亡霊は実体的な姿を有しないので生者にはその声が聴き難い。それで血を飲ませずには亡霊たちと意志疎通ができないから、オデュッセウスは冥界に旅したとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう羊と山羊を犠牲に捧げたという。死者の声を聴くには生きた血が必要だと考えられていたのである。

「vrykolakas」はブルガリア語の「varkolak」に由来するといわれるが、この語はスラブ民話では「狼人間(werewolf)」を言い表し、そこには吸血鬼と狼人間とを区別しがたい状況が見えてくる。スラブ世界では生きて狼人間であった者が死後に吸血鬼となるともいわれ、十世紀頃のギリシアではvrykolakasは狼人間を指す語でもあったという。また昏睡状態で夜に出歩き、人に害を与える者もそう呼ばれたという。しかし、もともとギリシアでは蘇生した屍体のことをvrykolakasと言い、スラブ文化の影響がない十八世紀のクレタ島では「katakhanades(破壊者の意)」の語が吸血鬼を指していたという。吸血鬼を指す言葉のこうした入り混じりは、ビザンツ帝国時代の七世紀にスラブ人がギリシアに大量に入り込み、ギリシアはスラブ化され、もしくはスラブ人がギリシア化したという経緯から推測されている。スラブ語で吸血鬼を表す語は「upior」で、これがvampireの語源である。

伝承によれば、Living Dead、すなわち死なずに生きている屍体というか死者が吸血鬼である。それは死の界に行ってはいない。そのため吸血鬼には居場所がなく、生者の世界を彷徨うしかない。そうした意味において、吸血鬼は一般的な生者と死者の関係に反している存在なのである。ルーマニアの民話に「ストリゴイ(strigoi)」という亡霊があり、それは墓から出てきて人に害を加えたり、獣に姿を変えたり、姿を見えなくしたり、人の血を吸って活力を得たりするという。このストリゴイにもLiving Deadという死者の界にも生者の界にも属さない吸血鬼同様の存在が考えられている。

吸血鬼現象は中世より東欧で多く報告され、また記録されている。それらのほとんどは曰く付きの人が死に、その後夜に徘徊して人に危害を加えたり、血を吸ったりするので墓を暴いたらあたかも生きたような状態だったというものである。そうした報告がローマ教会にまで届いて記録されているが、実際に吸血鬼が人の血を吸っている現場を押さえたという記録はない。事後に墓を暴いたら吸血鬼だった、そう認められているケースが多いようだ。そこには人の死をめぐる異常な事態と、伝承と判別がつかないような人々の妄念があるだけのようだ。したがって、吸血鬼現象と吸血鬼伝承、そして吸血鬼物語とは分けて考えなければならない。つまり、まず吸血鬼伝承があって、それに沿った吸血鬼現象が報告され、そして吸血鬼物語が語られる、といったプロセスがある。伝承と現象そして物語はそれぞれ異なる環境で語られ、テキスト化されている。そして、吸血鬼が人の生き血を吸う場面が初めて描かれるのは映画によってであり、映像イメージから遡行して過去の記録、すなわち伝承や現象をイメージする傾向があるが、それはまちがっていることになる。

伝承や現象と物語を区別する観点からすれば、吸血鬼物語はスラブ世界のものではない。その物語は西欧世界が作り出したものである。そうした物語に特徴的なのは、吸血鬼をめぐる血とエロティシズムの表現である。吸血鬼物語はM. プラーツが示唆するようにロマン派のエロティシズムを逸脱している。すなわち、そこには屍体でありながら生き生きした存在をめぐって過度の情動を伴った想像力が働いている。死者でありながら皮膚は新鮮で血色がよく、爪が長く生え、唇は異様に赤い、そのように死者でありながら死とは相反する邪悪な生のイメージが西欧の想像力のうちに生み出されている。その物語に触れる者は内なる情動を誘い出そうとする力に抵抗できない。逸脱した強度としてのエロティシズム、それこそ吸血鬼物語がもたらすものなのである。

一説には吸血鬼イメージは十八世紀の啓蒙主義を経験した西欧が、(吸血鬼をめぐる)説話や伝承を非合理的なものとして廃し、そのことによって新たにイメージ形成の表現領域へと移行していったことに因る産物であると考えられている。迷信という心身的に深く根づいていたものを廃したおかげで、その心性はイメージといういつでも取り替え可能なものを内に導入することができたのである。そしてその際に、死や血のイメージを伴うエロティシズムの表現、言い換えれば、あらゆるマイナス強度が吸血鬼の周囲に際限なく集約されていった。なぜそんなことが起きるのだろうか。ことにブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が発表されるやいなや、そのイメージが核となってあらゆる邪悪な局面がそこに集まってゆくようにみえる。そうしたマイナス・イメージを次々と懐胎し、そして形態化させてゆく思考の力とは何だろうか。それは何かしら刺激的なイメージを生み出そうとする思考の罠に陥っているだけなのか。肝心なのは何がそうさせているかである。

 

吸血鬼のイメージが形態化される際に最も威力を発揮したのがブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」である。ドラキュラとはいったい何か。ブラム・ストーカーは創作メモの中で、「ドラキュラとは悪魔を意味する。ワラキア人は勇気、残虐行為、狡猾さで目立つ者の姓に、この名を与える慣習があった」、そう書いている。当時は「ワラキア(Wallachia)」という語で語られていたようだが、現在のルーマニア南部地方のことである。このワラキアと北部のトランシルヴァニアとモルダヴィアの一部が合わさって1866年にオスマン帝国から独立して現在に至るルーマニアが出来た(トランシルヴァニアはその後一時、オーストリア・ハンガリー帝国に編入される)。ストーカーは東欧に行ったことがなく、東欧とトルコの関係についてもよく知らなかったようだ。ブダペスト大学の東洋語の教授(作中のヘルシング教授のモデル)からトランシルヴァニア地方に遺っている吸血鬼伝承を聞いて「ドラキュラ」物語を構想したという。

1453年にビザンツ帝国の首府コンスタンチノープルがオスマン帝国軍によって陥落したその三年後、ワラキアの王位についたのがヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes)である。彼はワラキア公、ヴラド・ドラクール(Vlad Dracul)の第二子であり、その姓の「Dracul」は中世ルーマニア語で「ドラゴン」を意味し、それゆえ彼は「Draculの息子」を意味する「Dracula」と呼ばれた。「Dracula」は「ドラクーラ」と発音するようだが、おそらくその名が西欧で「ドラキュラ」に転化したのである。したがって、「ドラキュラ」とはワラキア王のヴラド・ツェペシュを指す。

ヴラド・ツェペシュはその残虐性によって西欧に知られた。たとえば乞食同然の多数の貧民たちを宴会に招いてその闌に火を放って焼き殺し、また何千というトルコ兵を串刺しにして野に晒したという。とはいえ、ドナウ河南岸まで攻め入ってきたオスマン帝国軍に対峙したヴラド・ツェペシュにとってトルコ兵の串刺しは戦略的なものであったにちがいない。敵に恐怖を与えて戦意を挫くためである。彼は戦いに際しては勇敢にして狡猾であったようだ。トルコ兵の侵攻経路の井戸に毒を投げ込み、収穫物を焼き払い、家畜を殺すよう命令した。また伝染病に罹った市民たちに敵の兵隊と混ざるよう唆し、国内の罪人を解放してトルコ兵を攻撃するよう仕向けた。(これは現在、ロシアがウクライナ戦線で行なっていることで、かつて実際に行われたことを参照している可能性がある)。また彼は自国経済の発展に力を入れ、それゆえ乞食稼業をする者、すなわち非生産者を毛嫌いしていた。

ヴラド・ツェペシュに関する歴史記録を読めば、総じて彼が南のオスマン帝国や西のマジャール人のハンガリー王国からワラキアの国を守るために全力を注いだ人物であることが分かってくる。それに対して彼について書かれた物語は異なっている。事実が意図的に歪められているようだ。当時ワラキアの一部にサクソン人が移住していたが、彼らを通してドイツでの物語はヴラド・ツェペシュの残酷さが誇張されているか、もしくはでっち上げられているという。十五世紀末に書かれた「ドラクーラ物語(ドイツ語版)」によれば、ヴラドは「銅製の大釜を造らせ、その上に穴の開いた木製の蓋を置き、そして大釜の中に罪人を入れてその頭を蓋の穴をくぐらせるようにして出させて窯に繋ぎ止めた。それから窯に水を満たし、底で火を焚き、罪人を泣き叫ばせ、彼らが煮え死にするまでそうさせた」という。また彼は女性に対して残虐性を振るったとされ、ことに夫に忠実でない女性や結婚前に不貞を働いた女性に対して、「母親と乳飲み子を一緒に一つの杭に串刺しするよう命令した」という。これに対してスラブ版の「ドラクーラ物語」では、ブラドの残虐性はワラキアの国を強固にするためであったと強調されている。たとえば泉にある誰も盗もうとしない金杯について伝えられている。なぜ誰も金杯を盗まないかといえば、ヴラドが「窃盗行為を激しく嫌ったので、何らかの悪事もしくは強奪を引き起こすものは(厳しく罰せられて)長くは生きられない」とされ、厳格な社会規制と過酷な刑罰によって公衆秩序が奨励されたのだという。またドイツ語の物語ではオスマン帝国へのヴラドの遠征に際して行われた残虐行為が強調されているが、スラブ語の物語では彼の外交手腕が「悪賢い(zlomudry)」ものと評されているだけである。またヴラドは多くの拷問の方法を編み出し、何千もの人々を殺したのは確かであるが、それについても研究者たちによれば、事実が誇張され、彼を恐れる者たちや彼の評判を傷つけようとする敵対勢力が仕組んだ可能性があると注意している。

十五世紀の東欧諸侯国の力関係は複雑で、オスマン帝国の侵攻という危機的事態がそれに輪をかけて複雑にしていた。中欧の諸王国はヴラドをオスマン帝国の侵攻を防ぐ盾にしようと考えたようだ。こうしたことから、ブラド・ツェペシュは歴史的にはコンスタンチノープル陥落後のオスマン帝国の侵攻に対して勇敢に戦ったキリスト教徒とみなされている。しかし当時の政治状況からするならば、オスマン帝国侵攻の前哨地であるワラキアの統治者として周囲の諸侯国からそうせざるを得ない立場に立たされたという考えが支配的である。少年時代にワラキアの宗主国であったオスマン帝国に人質として過ごしたブラド・ツェペシュの立場は心理的にも地政学的に複雑なものだった。時にビザンチン帝国が消滅してオスマン帝国による威圧下にあるワラキアは西側に接するハンガリー王国ともトランシルヴァニアめぐる確執を抱えていた。ワラキアの王となったヴラド・ツェペシュは自身の生地である北部トランシルヴァニアをも支配しようとその影響力を強めていたからである。彼はことに黒海とハンガリー両方面への経由地点であるブラショブ(Brasov)の支配に努めた。ブラショブはドイツ移民系の商人が力をもつ商業都市で、ハンガリーにも影響力をもっており、そのためワラキアの支配下に入ることに反発していた。こうした状況にあって、ブラド・ツェペシュによる貧民虐待、残虐な刑罰、トルコ兵の串刺しといった事例が西欧によってことさら取り上げられることになったようだ。1464年のローマ法王への報告によれば、彼は四万人の様々な国籍と年齢の男女を虐殺したという。また1475年のカソリック司教の報告によれば、十万人の処刑を認可したという。こうした誇張の背後にあるのは、おそらく西欧が東欧に抱く不条理な心性ではなかったろうか。とはいえ、総じてスラブ文化圏自体が民族と歴史が複雑に入り組む状態を呈し、資料によって必ずしも中世東欧の歴史的事実が明確になることはない。

スラブ世界の歴史は複雑だ。ルーマニアはスラブ世界にありながらもともとはロマンス語系の言葉を話すラテン民族の国であるが、しかしビザンツ教会に属する。モルダヴィアとワラキアに分かれていた時代が長く、国家が成立したのも前述したように十九世紀になってからである。また旧ユーゴスラヴィアを構成していた諸国家は同じスラブ系でありながらも部族が異なり、ローマ教会とビザンツ教会に挟まれて文字は異なり、オスマン帝国による支配の間にイスラーム教に改宗した者もおり、宗教的にはパッチワーク状態になっている。ルーマニアはドナウ河口を擁し、西は民族的に異質なマジャール人のハンガリーに接し、しかるにその流れは西欧に通じているが、ハンガリー北側のチェコ(ボヘミア)は神聖ローマ帝国の一部でありながらも独自のスラブ文化を守ってきた。また十世紀になるとドイツ人(サクソン人)の「東方植民」があり、東欧の各地に拠点を築いてドイツ人による交易を活発化させてきた。そのためドイツでは東欧はゲルマン民族の「レーベンスラウム(生活圏)」であるという考えがあり、ドイツ人にとってバルカン半島も含めた東欧は自分たちの裏庭という意識があるようだ。東欧にナチスが浸透したのもこうした背景があるからだろう。そして大戦後の東欧諸国がソ連圏となり、独裁政権に支配されたことは衆知のことである。

十九世紀に中欧に多民族国家のオーストリア・ハンガリー帝国が成立し(1867〜1918)、ゲルマン人とマジャール人によって一部のスラブ国家は支配されることになった。その際にトランシルヴァニアが帝国に編入されたことは、おそらく「ドラキュラ」の読者に影響を与えたと思われる。たとえばドラキュラ伯爵がヴィクトリア朝のイギリスへやって来ることは異質な領域からの侵入、もしくは人種汚染に対する恐怖の投影として読まれうるという。どういうことかと言えば、帝国の辺境の地であるトランシルヴァニアの吸血鬼がイギリスに侵入し、住民の生き血を吸って国内秩序を乱す。それによって人種を弱体化させる異質な侵入者はアングロ・サクソン人種の純度を弱め、その恐怖を描写した「ドラキュラ」は辺境地による<逆植民地化>の事例となるというのだ。また「ドラキュラ」物語はことに西欧でのユダヤ人に対する固定観念に結びつけられ、その吸血鬼描写が十九世紀末のイギリスへの東欧系ユダヤ人の流入と関係づけられている。オーストリア・ハンガリー帝国下で反ユダヤ法やポグロム(大虐殺)から逃れて来たユダヤ人の数がイギリスでは急激に増えていた。古風な格式と金銭の富、血を吸うことで同族を増やし、種族の反映のみを図り国家への忠誠心に欠けたドラキュラ伯爵の描写は、反ユダヤ主義的概念が描写するユダヤ人そのものだというのである。ヴィクトリア朝文学ではユダヤ人を寄生虫のように描写することが多く、ことにユダヤ人が血液の病気を広めているのではないかという恐怖が存在したようだ。こうした漠然とした嫌悪感の背景には、他の列強国の台頭による大英帝国の衰退、帝国植民地における道徳性を疑問視する国民の不安の高まりがあったとされる。さらにはドラキュラ伯爵がロマ人を手懐けて幼子を誘拐させるのはロマ人が子供を誘拐するという噂話や昔からの伝承を想起させ、また狼人間のごとく変身する能力もロマ人が動物的だからという流民嫌悪症と関連づけられた。ロマ人は動物と共に暮らす生活慣習のために<汚れた肉>を好むとされ、市民による迫害対象となっていたのである。こうしたユダヤ人やロマ人への迫害とわけもなく結び付けられるドラキュラ伯爵は、それゆえその周囲にあらゆる悪の要素を集約させることのできるイメージ(像)となっている。むろん作家が意識的にそのようなドラキュラ像を作り出したのではないが、それを読む者が無意識的に悪の要素を付け加えることになるのである。その背後にはすでに述べたような社会状況がある。ことに「ドラキュラ」は書簡文で構成されているので、そのぶん読者のイメージを喚起しやすい表現になっている。ストーカーは大学時代に「小説における扇情と社会」という論文を書いているので、ひょっとして世間を煽ることが出来る小説を書くという潜在的な意図があったのかもしれないが…。

こうしたことから、西欧で流布した「ドラキュラ」という名の吸血鬼は、東欧に実在した「ドラクーラ」と呼ばれたブラド・ツェペシュ王とはまったく無関係なのである。それは西欧でまったく独立して想像されたイメージ(像)であり、そしてその内容はといえば、東欧で一般的に知られていた吸血鬼伝承とはまったく別物なのである。こうした現象はなぜ起きてきたのだろうか。

十八世紀以前のヨーロッパでは人々は吸血鬼に怯えていた。というのも、もし吸血鬼が疑われる事例に関わっていたり、それに触れていたならば、死後に天国にいく機会を不可能にさせると信じていたからである。啓蒙の時代となって以来、伝承される吸血鬼の身体特徴や具体性が客観的に観察され、述べられ、そして分析されている。そうした特徴は、早すぎる埋葬、土壌による正常ではない腐敗の遅れ、伝染病といった見地から科学的に論議された。それゆえ現象や伝承が現実のものであるという見方は次第に消えていったが、とはいえ人々はそのぶん吸血鬼イメージに魅了されるようになり、その吸血鬼イメージは人々の心理的/内面的な場を支配するようになったのである。そのことは、吸血鬼イメージに触発されるものを人々がいまだ心の奥深くに抱えているという現実があったからにちがいない。要するに、迷信による内面支配が終わった後も、吸血鬼イメージは文化的レベルで存在する恐怖というよりも、個々人の心理に深く潜む情動を恐怖として表象するものへと変容することができたのである。

当時、流行小説が提示する表象は人々の意識に特別な影響を与えていたようだ。語り伝えられる話に耳を貸すのではなく、人はプライベートな時空をつくって小説本に面と向かってその字面を読むようになる。迷信から解き放たれてはいるが、いっぽうでは吸血鬼表象が個人の内面に強烈なイメージと化して侵入する。その体験はそれ以前にはなかった新たなもので、そのような体験こそが読書の魅力となった。こうしたタイプの体験を誘発する吸血鬼物語は疑いなくロマン派の時代に由来する。十八世から十九世紀のロマン派の文学期は、吸血鬼を私たちが現在知るような創造物へと変容させたことに大いに影響を与えている。というのも、ロマン派による吸血鬼イメージは血みどろの表現から離れて、代わりに性的魅力と情欲の表現という近代の産物となったからである。すなわち、吸血鬼は人間の姿をしていてその獣性は稀薄になり、代わりに永遠に飢え、永遠に孤独な存在という、思考する上でも近づきやすいものと化した。それは死ぬこともできずに地上をあてどなく彷徨い、安らぐ場所のないその空虚な魂を近代特有の悪の要素である性や富や暴力といった力によって満たすことで生きるものとなったのである。

二十世紀の大戦後にM. エリアーデによって書かれた「令嬢クリスティーナ1978)」はそこら辺の事情を鑑み、スラブ伝承に基づく吸血鬼物語が意識的に語られているようだ。舞台は二十世紀初頭のルーマニアで吸血鬼伝承のいわば本場である。とはいえトランシルヴァニアの山中ではなく、ドナウ河の土の匂いがするワラキア南部の平原に建つ旧地主の広大な邸である。1907年の土地貸借制度をめぐる大農民暴動という歴史的背景が示唆されているが、それはその際の鎮圧に軍隊が出動し、犠牲者が一万人を超えたという血腥いものである。令嬢クリスティーナは残虐性と性的放縦という性格において描かれ、性的関係にあった同じく残虐な差配人によって農民暴動の際に射殺された。しかし、その屍体はきちんと埋葬されていなかった。村人は令嬢クリスティーナが幽霊になったと噂している。次々と家畜が死に、子供たちも死して亡霊となる。不貞な女性はキリスト教のモラルに反し、なおかつ悲惨な死に方をしたことでその死は呪われたものとなった。つまり、死者であってもなお生きている存在となった。これが伝承における吸血鬼の条件である。主人公は令嬢クリスティーナに向かって、「あなたは死んでいる。あなたは自分が死んだことを知っている」、そう吸血鬼の本性を突きつける。しかし、吸血鬼は生者との繋がりを維持するために生きた血を求めざるを得ない。過去を生き続けるその死者が生者である主人公の思考を制御しようとするというのが「令嬢クリスティーナ」の主題になっている。そこに嫌な感じがある。死者に制御された生者の思考は生気のない自らの過去の光景を繰り返し眼前に映し出すことになるからだ。それはもう生きた死者と同じ状態と言えるだろう。

 

こうした吸血鬼物語自体は実際にあったとされる吸血鬼現象には直接的には繋がらない。かろうじて吸血鬼伝承を想い起こさせるだけだ。吸血鬼物語は西欧の啓蒙主義による近代意識が作り出したものであるからそういうことになるのだろうが、それ以前の吸血鬼現象もしくは吸血鬼伝承とはいったいどんなものだったのか。意識が啓かれたからといって物語を物語の枠内だけで考えるのでは不十分である。吸血鬼現象もしくは伝承を考慮してこそ、物語に通底する何かしらを知ることができるにちがいない。

吸血鬼現象についていえば、それは考古学的発掘からも推測されている。たとえばギリシアのレスボス島ではオスマン帝国時代からのトルコ人墓地から、首と骨盤、それに両脚を二十センチの釘で留められた大人の隔離された墓が見つかった。同島の同じ頃のもう一つの墓には六十才の男性が入れられていたが、その骨に三本の曲がった十六センチの大釘が混じっていた。また教会の特別地下室の二つの墓地には中年の男性が埋められ、二つとも首、鼠蹊部、踝に二十センチの大釘と共に埋められていたが、それらは「蘇る者」と疑われた者に対するバルカン地方の典型的な埋葬の仕方だったという。また「National Geographic」(2012)によれば、数千年前の墓から、杭を打ち込まれたり縛られたりした遺骨がいくつも見つかっているという。うつ伏せや首を切断された状態で埋葬される場合もあり、それらはいずれも死者が墓から出て襲って来ないようにするためであったという。 また十二~十四世紀のブルガリアでは異教のボゴミール派信仰が広がり、現世で悪行を働いた人間は死後に吸血鬼となって蘇ると考えられ、吸血鬼になるのを防ぐために埋葬時に遺体に鉄の棒などを打ち込んだという。そして東欧で根深く広まっていた吸血鬼信仰は十六世紀頃から西欧にも浸透していったようだ。吸血鬼と疑われて口をレンガでふさがれた十六世紀の女性の骨がベネチアで発掘されたという。

こうした埋葬形態は、とりわけ死して蘇る者に周囲の者が警戒したという事実を知らせてくれる。発掘例はまだまだ少ないが、それに対して吸血鬼伝承は広範囲に渡っている。しかしその内容は多岐にわたり今ひとつ明瞭さに欠ける。

スラブの吸血鬼伝承ではvrykolakasは生肉を食べる。血を飲むよりもことに肝臓を好むという。肝臓は血液を満たした臓器である。動物は獲物の肝臓を真っ先に食べる。varkolakはもともと「狼人間(werewolf)」の意で、近代スラブ語およびルーマニア語ではそうした意味をいまだにもっているようだ。生肉を食べるという伝承には狼人間的な要素が色濃いことを示している。しかしバルカン地方についていえば、vrykolakasはクロアチアやモンテネグロの伝承の中で「吸血鬼」の意味に使われるようになったという。いっぽう、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ブルガリアでは「vampir」の語が共通語となっている。スラブ地方では吸血鬼と狼人間の概念が混じり合っているが、もともとトゥルク系のブルガリアでは一般にvarkolakを狼人間のような姿ではなく、吸血鬼の亜種として描写しているという。民間信仰によれば、狼人間への変身はスラブ人の中では人が獣的に変容する一般的な形態とみなされている。その概念は古代のもので、すべてのスラブ人の中で様々な程度に顕れるが、ベラルース人、ポーランド人、ウクライナ人の間で最も詳しく記録されているという。それに対して南スラブの伝承は狼人間と吸血鬼とを合成していることになる。その合成というのは、吸血鬼現象だけをみれば、前に述べたようにバルカン半島もしくはギリシア世界にスラブ人が混合して両者の世界を見分けつきにくくしていることを理由としていると考えられる。

ギリシア人は、伝統的に人が破門されたり、浄められていない場所に埋葬されたり、狼もしくは狼人間によって傷つけられた羊の肉を食べたりといった冒涜的な行為が理由で死ぬと、その人はvrykolakasになると信じていた。殺された後に狼人間が強力な吸血鬼になり、狼のような牙と毛深い手の平をした上に、人を釘付けにする爛々とした眼をもつようになると信ずる者もいる。バルカン地方の伝承ではvrykolakasの屍体は吸血鬼の屍体と同様の際立った性格をしている。それは腐敗しない。それは(吸血して)膨張し、「太鼓のような」大きなものになりさえする。肌は血色が良く、報告によれば、「肌は紅潮し新しい血で満腹になっている」。vrykolakasの行動は墓から出て来て人家を彷徨うといったことから、ポルターガイストのような行動をしたり、共同体に疫病を広めるといったことに至るまで、人に害を及ぼすものである。吸血鬼が夜に彷徨い歩く町や村には必ず腐臭が広がり、疫病の発生を見ると伝えられている。おそらくそれは血液による伝染性を示していると考えられるが、吸血鬼伝承におけるこの伝染性は興味深い。

伝承は、vrykolakasは放って置いたらますますその力を増してくるのでその屍体を打ち砕いてしまわなければいけないとしている。その仕方は様々で、最も普通なのは屍体を祓い清めること、屍体に杭を打ち込むこと、頭を切り落とすこと、屍体をバラバラにすることである。また特別な仕方として、疑いのある屍体を焼却することもある。そうすれば生者は生きた死者から解放されて安全に暮らすことができるとされた。ギリシアでは1941年から1942年にかけての大飢饉の際におよそ三十万人のギリシア人が餓死した。墓地は満杯になり、多くの家族が遺体を墓地の外に埋葬せざるを得なかった。餓死者が大量に出たため、当時の敵方協力者による政府(Hellenic State)は遺体を集め、共同墓地をつくって投棄した。浄められていない地に埋葬された者は生きてvrykolakasとなって彷徨い、戻って来ると信じられていたので、この可能性が教会の墓地に死者を埋葬することができなかった家族を悩ませる原因となった。ある家族は最愛の者がvrykolakasになるのを防ぐために、遺体の首を切り離すという予防的な手段をとったという。

生きたままの死者という忌まわしい状態に抱く恐怖は知れるが、伝染性について言われながら吸血の現象があまり伝えられていないのはなぜだろうか。屍体が腐敗していないように見えた、肌は血色のよいままだったということから、生きた人の血を吸って生きていると推測されたようだが、吸血鬼による疫病の広がりから、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になるという伝染性が異なる文脈によって強調されるようになったのだろうか。吸血鬼物語では、ことに吸血鬼になる伝染性が読者に言いようのない恐怖を与えている。

 トルコ人の吸血鬼という例があるにはあるが、一般的に吸血鬼はキリスト教社会に特有の現象である。吸血鬼は十字架を避け、教会内部のような聖なる空間へ入ることはできない。吸血鬼はその存在のあり方ゆえにその魂は決して超越しない。それは永遠にその容器、すなわち身体に繋がれ、天国に行くこともできないし、生きている者の生活に飢えて満足することなく地上を彷徨うことを強いられている。とはいえ、こうした条件はいつしか吸血鬼の伝承に色づけされてきたものであるにちがいない。

血は命であり、血統を示すものであるが、伝染性があり、それゆえ忌むべきものである。また血は生命であり、血を受け取ることは生命を受け取ることでもある。死者の魂は生きることを欲し、それゆえ血を渇望する。この血の主題を基にスラブ世界の吸血鬼が伝承されているのは確実である。それは血の両義性を伝えるといったような血への信仰の成せるものなのか。だとしたら吸血鬼現象とは何か。いったい吸血鬼を生み出す血への信仰の<光源>はどこにあるのだろうか。血は生命であり、そこには力と同時に不浄さが籠められている。不浄さは血によって病原が伝染するからであるが、いっぽう血が力であるとは、血は生命の源であるからである。しかし、血が力であるとは別の局面においてあるようだ。

前に述べたように、「オデュッセイア」の中で、亡霊は実体的な姿をもたず生者にはその声が聴き難いので血を飲ませないでは意志の疎通ができないとある。それでオデュッセウスは冥界に旅するとき、亡霊がそこで血を飲み、意思疎通ができるよう犠牲を捧げたという。死者と意思疎通を試みるというその背景には、死者は生者には知られないことを知っている、といった伝承がおそらくあったからにちがいない。そこには次々に現われる死者たちが犠牲獣の血を飲み、オデュッセウスに<真実>を語るという展開がある。

「オデュッセイア」によれば、オデュッセウスはトロイア戦争に勝利し、故郷のイタケーに戻る航海も中盤の頃、魔女キルケーの助力によって冥界に行く。そして「死者の国」の章でオデュッセウスの船は、キンメリア人が住むという、太陽が決して輝くことなく一日中霧に包まれた「大洋の河」が流れるところに停泊する。乗員たちは冥府に足を踏み入れるのにびくびくしながら松明を手にして下船するが、オデュッセウスは緊張しながらも断固とした心構えで進んで行く。彼はある地点で止まり、穴を掘り出す。そこは生贄の動物を潔斎させておいたところだ。オデュッセウスは腰の剣を引き抜き、前腕の長さと深さの穴を掘った。そしてその周囲に、すべての死者のために神酒を注いだ。最初は乳と蜂蜜と一緒に、そして熟したワインと共に、そして水を、最後に真っ白な大麦を撒いた。そしてそこに実在しない死者のために祈り、誓いを立てた。私はイタケーに戻ったら宮殿で自分が所有する中でも一番良い牛を屠るだろう。そして予言者ティレシアスには別に、宝物と一緒に薪を積み、肉付きの良い黒い子羊を捧げるだろうと。

オデュッセウスの誓いと祈りが死者の国に呼びかけると、彼は生贄の動物を捉え、穴の上でその喉を切り裂き、暗色の血を流す。するとErebus(暗黒界)から死者たちが溢れ出て来て彼のもとに群れ集まってきた。花嫁や未婚のまま死んだ若者たち、ひどく患った老人たち、悲しみに今も傷ついているかつて幸福だった娘たち、また戦いで死んだ戦士たち、銅の槍が体に突き刺ささったままで、血塗れの鎧に身を包んだ者たちだ。彼らは穴の周りをうろつき不気味な叫び声をあげる。恐怖でオデュッセウスの顔から血の気が失せた。

オデュッセウスはすぐに生贄の皮を剥ぐよう命じ、それらを燃やし、全能の死の神であり恐ろしきペルセポネーに祈るよう命じた。しかし、剣を抜いていたオデュッセウスは警戒してその場に座り込み、うろつく死者の亡霊たちを、彼が予言者ティレシアスに問いかけるまで血に近寄らないようにさせた。

しかるに、共に戦ったエルペーノールの亡霊がオデュッセウスに向かってやって来た。オデュッセウスたちは彼の屍体をキルケーの宮殿に置き去りにしたままで、彼はまだ大地の懐に埋葬されていなかった。オデュッセウスが声をかけた。「エルペーノール、お前はどうやって暗黒の世界に降りて来たのか。歩くよりも速く、さらには私の黒い船よりも速く」。それに対してエルペーノールの亡霊が恨みがましく事の顛末を語る。エルペーノールの亡霊が話し続ける最中にオデュッセウスの母親の亡霊が現われるが、またしてもオデュッセウスはティレシアスに問いかけるまで母親を血の近くまで来ないようにさせた。ようやく名高いテーベの予言者ティレシアスの亡霊がやって来た。黄金の笏を持ち、オデュッセウスをすぐに認め、語りかけてきた。「お前の剣を収め、穴から下がって立っていろ。そうすれば私は血を飲み、お前にすべての真実を語ることができる」。後に下がって剣を鞘に収めると、ティレシアスは暗色の血を飲むやいなや力のこもった言葉を辺りに響き渡るように発した。ティレシアスとの話が続き、最後にオデュッセウスは問いかけた。「もう一つ聞きたいことがあります。はっきりと話してください。私は長いこと会っていない母の亡霊をこの目で見ました。死者は黙って這うようにして血に近づき、息子である私を見るのも言葉をかけるのも耐えがたい様子でした。どうしたら私は母に私であることを知らしめることができるでしょうか」と。ティレシアスが答える。「単純な規則がある。ここではあなたはそれを学ばなければならない。あなたが血に近づけさせる亡霊は真実を語り、あなたが拒む亡霊は引き返すでしょう」と。そう言ってティレシアスは消え、母親の亡霊が近づいて血を飲むやいなや、オデュッセウスを認めて語り出す。

以上がオデュッセウスの冥府めぐりの内容の一部であるが、ここには血が力であることが明瞭に示されている。死者の亡霊は血を飲むことである程度の実体を取り戻し、それによって生者と対等になり、生者とコミュニケーションができるようになるとされているからだ。要するに、血が死者を生者に近づけ、生者に向かって<真実>を語らせるのである。

ギリシア悲劇ではエウリピデスの「ヘカベ」でアキレスの亡霊が墓の上に現れて乙女の生贄の血を飲んで欲求を満たしたとか、ソフォクレスの「オイディプス」でオイディプスが死後にテーベ人の生き血を飲むだろうと宣言したという表現がある。ギリシア世界には実際に血を飲む事例はないにしろ、「血を飲む」という表現には特別な意図が籠められていたのにちがいない。こうした言葉の表現は「オデュッセイア」の冥府めぐりの話にリアリティを与えてくれる。そして、この冥府めぐりの話がギリシアの吸血伝承の条件を満たしているのが分かる。不幸な死を遂げた者や埋葬されずにいる者の亡霊が現われ、彼(女)らは姿をもつが実体のない者とみなされ、そして生贄の血を飲むことで生者と等しく言葉を交わすことができる。これらの亡霊たちは冥府の入り口に彷徨い続け、血を飲むことで微かな実体を帯び、生者と接触できることを知っているのである。やがては地上に出て人の生血を吸う者と化してもおかしくはない存在である。おそらくホメーロスは「冥府めぐり」の話をどこかで聞き及び、「オデュッセイア」の中で書き起こしたと思われる。そうした「冥府めぐり」の基になる話が伝承されていれば、後にスラブ人によってそこに狼人間の伝承が重ねられて吸血鬼の伝承が出来上がった、すなわち<吸血鬼>という像が曖昧ながらも形をもつようになったのではないかと想像する。

死者に血を飲ませて<真実>を語らせること、血の信仰の<光源>はここにあるだろう。そのとき血は死者を生者に繋げる<霊的>な力を持っていると考えられている。そのようにして死者の言葉は過去を語る。過去の<真実>を語る。つまり、「血が<真実>を語る」のである。したがって、吸血鬼伝承における血の力とは冥界との繋がりを示すことにあり、そこには死者の世界を体験した者は<真実>を知る、もしくは何某かの力を得る、という考えに通底する要素があることになる。

前に述べたようにルーマニアにはストリゴイの伝承がある。墓に埋葬された者が人界に出て来る亡霊で、人の生き血を吸う。映画「Strigoi(2009)」ではストリゴイは過去の真実を語る死者として描かれている。興味深い場面がある。すでにストリゴイになっている父親が息子の血を吸う。息子は血を吸うのはやめてくれと言うが、父親は、俺の血でお前は生まれて来たのだから血を吸うのは当然だと言って吸血を正当化する。現代のルーマニアの農村を舞台とする物語だが、このやりとりには古代的な感覚が示唆されているように思えてならない。胎児は母親から栄養を得て血をつくり、母親の胎内から血まみれになって出てくるのだ。血の信仰とはとりもなおさず、誰しもがその血を母親の胎内で受け継いでいるという<真実>に求められはしないか。母親の血はまたその母親の胎内からという…。

ブルガリアには墓が生贄を求めているという古い迷信があったという。そのいっぽうで大地に拒まれながら生きている死者があった。その背景には大地に受け入れられる者と大地に受け入れられない者があるという考えがあったのであり、おそらく死という現象は大いなる大地と直接結びついていたのである。吸血鬼は人の生き血を吸うことで生者に近づこうとするが、いつしか<真実>に背き、人に害を与える者となった。こうした転換は吸血鬼が死者でありながら死の世界に足を踏み入れていないから起きるのにちがいない。死の世界に足を踏み入れたならば生者の世界を彷徨うことがない。吸血鬼は大いなる大地に拒まれている。また生者の世界を彷徨いながら生者の世界にも受けいれられていない中途半端な存在だ。その中途半端な状態にこそ様々な属性が結び付けられる条件がある。

近代の吸血鬼イメージ(像)に至って、血が死者と生者との交流を妨げるものとなっている。妨げながら、そこにエロティシズムの強度を現出させている。それゆえそれは偽の強度である。近代において怪異を主題とする中で反心理の物語を語ることができるようになったせいか、吸血鬼には欲望があらゆる形をとって集約されるようになり、そのぶん血や吸血をめぐる想像力の強度を失っているようにみえる。欲望は詳細に分析されているが、それはアンチ強度的なものになっている。「悪魔はつねに人間の後を歩き、人間に先行することはない」からである。

 

 啓蒙主義以後、西欧がそれまで怪奇なものとして東欧というスクリーンに投影していた潜在的な心性が形となっていっきに表現上に現われることになった。その表現は東欧の心性を表すものではなく、まぎれもなく西欧が抱く心性であり、西欧が抱えるマイナーな要素の集積であった。東欧に自らの不安を映し出す鏡を通じてそこに西欧は東欧を物語化していった。スラブ人にとって西欧は自分たちを物語化する存在となったのである。吸血鬼物語という<幻想>への悪魔的な要素の集約はそうした意味をもっていなかっただろうか。その底流には西欧近代の問題があると考えられる。十九世紀になって西欧では資本による社会が本格的に展開されることで、資本が産み出す商品はそれを通じて資本側の物語を社会に押し付けていった。次々と新たに生産される商品が洪水のように押し寄せてきた。それらの新たな商品は人間の欲望を次々と意識上に、もしくは目に見えるような形で<つくり出して>いったのである。そのことによって逆に意識的でない意識の働きはいわゆる<無意識>として定式化されてゆく。そこには意識的でない意識の働きから阻害されて、分裂した心性を抱えた人間がいる。そして分裂した心性は漠然とした不安を他者に向けて映し出そうとするのだ。自身の内部で人は欲望をますます活発化させているが、商品の消費者となることで欲望を自己完結させている。人はその情動を型枠に嵌め込むようにして流すだけである。そこにはのっぺりとして特徴のないゾンビ(living dead)を大々的に生み出してゆくような社会が兆しているようにも思われる。

 最近では吸血鬼を<資本>のメタファーとして考える傾向もあるようだ。マルクスは、資本家は労働者の血を吸うことでのみ生きることができる吸血鬼であると述べているという。労働者がその労働を余剰価値として工場主に支払われた賃金と交換に売るとき、確かにマルクスはそのことを「彼の生命を犠牲にする」と言っている。労働者の労働から最終的に利益を蓄積するのは工場主であり、この<犠牲>の過程は、吸血鬼の犠牲者が自身から疎外されているように、労働をそれ自身の本質から疎外している。彼ら労働者の血は吸血鬼がその犠牲者から血を吸い取るのと同じ仕方で雇用主から吸い取られているからである。そしてこの吸血の仕方は伝染性をもち、やがて世界を包摂してゆくのだ。映画「デモンズ(1985)」の表現はそのことを簡潔に提示している。

資本家は<死んでいる労働者(dead labour)>だという。吸血鬼のように、生きた労働者の血を吸い取ることによってのみ生きているからである。そして生きれば生きるだけ、労働者の生き血を吸い取っていく。結果的に、このような仕方で生きた労働力を取り入れることで、資本自体が生き生きとした怪物になっていくと。資本家はこの地上において利益によってのみ動かされ、経済的吸血鬼のかたちとなって現われている<死んでいる労働者(dead labour)>なのである。いっぽう、資本家の甘言に誘惑され、すなわちネット経済やスポーツ観戦といった新たな消費文化や気晴らしによって慰められて、労働者は「自己喪失」を患い、歩く屍と化す。この行き場のないゾンビたち(living dead)の彷徨こそひょっとして資本性社会の帰結なのか、そう思うとぞっとする。

すでに世界は資本という吸血鬼の餌食と化したようだ。いっぽう、現代の吸血鬼表現の方はあたかも血を抜かれて貧血状態に陥ったようになり、総じて象徴的なものになっている。奇妙な現象だが、血が<真実>を語らせるという伝承が見失われてしまったのは確実である。もはや血の信仰を語ることは困難であるからだ。