Sunday, February 15, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


   三 能・歌舞伎・舞踏

 土方巽は踊りをモダンダンスからはじめたので伝統芸能とはまったく繋がりがありません。けれども、舞踏の表現は結果的にモダンダンスから大きく逸脱しています。むしろ土方がからだの機構に関わりつつ表現したものは、日本の伝統芸能が関わるものの方へ近づいているようにも思われます。とはいえ、舞踏による土方の表現意識およびその表現内容、そしてその方法論等はすぐれて現代的なものですから、舞踏を伝統芸能の系列において考えるのには無理があるでしょう。また、能は物語り芸であり、歌舞伎は演劇、そして舞踏は踊りという表現ジャンルの違いがあるわけですから、単純に比べることもできません。それにもかかわらず、ここで舞踏を伝統芸能と並べて考えようとするのは、からだの機構にアプローチする姿勢に何かしらの繋がりがあるのではないかと思うからです。またそのことは、「土方巽と日本人」の<日本人>の<内容>に関わるのではないかと考えられ、あえて時代を遡って検討してみたいと思います。
 能にしろ歌舞伎にしろ、その身振り・動きは、当時の諸芸能はもちろん、その他様々な<日本人>の領域から採集してきたものを素材にして成立しているといっていいでしょう。言い換えれば、能や歌舞伎の表現は、様々な<日本人>の神経アレンジメントの働きを独自の観点から見出し、それらを演技に取り込みながら成立しているのです。こうした観点は土方のそれと同様であり、舞踏の表現が日本の伝統芸能にあたかも近づいていくかのようにみえる理由でもあるのではないかと思います。
 また、前章でひっかかっていた、土方の舞踏の表現が女性形を軸にしたものであることは、モダンダンスの枠組の中では解答を得られないように思います。能にはシテが仮面をつけ、女性に扮して演じる演目が多くあります。歌舞伎は女形をつくりあげました。またここでは論じることはできませんが、人形浄瑠璃の女人形を老練な男性が実に艶っぽく操ってみせる光景というのはまさに驚きです。舞台に女性が立つことができないという制約があったとはいえ、こうした女性形を借りた表現、あるいはからだの軸を二重にとる表現といってもいいですが、そうした表現の姿勢が日本の芸能に連綿と伝わっていることに注目したいと思います。

 1. 能
 能の成立については多くの研究があります。というのも、現在までに伝わる能は、江戸期に幕府の式楽となって以来様式化されたかたちが遺ったもので、室町期に成立した<能>とは異なっていると考えられているからです。要するに、能の形式は改変されながら伝わっているわけですが、その成立期の<内容>は、様々な歴史的記述から知られる事実から推測するしかないということです。
 能は、往来で滑稽な寸劇を演じた猿楽、「修正会・修二会」の法会の際の後戸猿楽、神事の「翁猿楽」等を前身としているわけですが、そうした猿楽と称された諸芸から能への成立過程を考えるには、そのあいだに猿楽の<能>という段階を考える必要があるでしょう。すなわち、「猿楽」と周囲から称されてはいるが、演者によって新しい<能>としての表現形式がつくりあげられていく、流動的かつ生成的な段階です。年代的には、十四世紀から十五世紀のことです。この時代に猿楽の<能>は、それ以前の諸猿楽芸から脱して、勧進などの人の集まる場での純粋な鑑賞芸能として成立しました。十三世紀にはまだ祭祀的芸能である咒師猿楽「翁」の延年(余興芸能)であった猿楽が、不特定多数の者に見せる芸能として猿楽の<能>という本芸になったのです。とはいえ、猿楽の<能>のはじまりは物真似芸であり、それまでの物語り芸を演技によって観客の目に見えるようにした写実芸でした。そこから出発して、当時の諸芸を取り入れることで、抽象性も加味した綜合芸として「能」は成立したのです。
 いっぽう、日本の芸能史において「能」の成立過程が意味するものは別にあるように思います。猿楽の<能>はそれまでの諸芸と異なり、表現空間を設定することができたことに何よりもその特色があるのではないでしょうか。「能」の成立が日本の芸能史において重要な局面となっているのは、「能」という技芸が初めて表現の空間を設定し、そのことによって舞台表現の形式をかたちづくることができたからではないかと思うのです。表現の空間は「庭場」と称されていました。そのことは、具体的な表現の場を示すのみでなく、抽象性に富む表現空間を設定することができたことを意味しているのだと考えます。すなわち、現在まで伝えられている能の演目からすれば、猿楽の<能>の表現は、世俗の物語りや歴史物語りや夢物語り、また死者が現われる空間や祝いの空間を提示するばかりでなく、植物の成仏まで語られ、また「複式夢幻能」に提示されているように時空の変幻等といった多義的空間等、驚くべきほど多様な空間を表現できたのです。端的にいえば、「能」の成立とはそのことであるように思います。こうした多様な空間が具体的に提示されたのはこのとき初めてであり、時の室町権力が目をつけたのも、「能」が扱うことのできるこうした空間の多様性だったのではないだろうかと考えます。
 それゆえ、多様な空間を表現し、それを支えるのが<能>を演じる者の身体技術であったと考えられることから、彼らがそうした<観点>からからだの機構に関わった跡を見ることにしたいと思います。猿楽の<能>から「能」に至る段階の代表的表現者が、観阿弥、世阿弥、音阿弥、金春禅竹等といった面々です。観阿弥とその子である世阿弥とでは「能」の<観点>は異なっています。また世阿弥に強く影響を受けた禅竹と世阿弥とでもその<観点>は異なっています。音阿弥は<能>の名人でしたが、作品をつくらず、猿楽の<能>を幕府に重用させるのに尽力したという点からその<観点>が推測されます。

 観阿弥(1333〜1384)が継承した大和猿楽は、「物まね・似せ事は、当芸に限りたる人形なるほどに…」(「遊楽習道風見」)といわれるように、観客の理解に応じて語り物を具体的に演じてみせる、「人形(ひとがた)」芸でした。それは、「一切の物真似の風体は、云ひ事の品によりての見聞也」(「花鏡」)というように、物語を語って聞かせる芸とは打って変わって、謡が語るその内容を生身のからだで演じて観客の目に見えるようにした技芸です。観阿弥は、そうした物真似芸を体現するうえでの写実的技法を得意としたようです。
 観阿弥はまた、民俗芸能的な猿楽を猿楽の<能>にまで高めるのに尽力しました。物真似芸に田楽の舞や「曲舞」を取り入れる新しい演出をしたのです。「曲舞」は、それまでの猿楽の音曲である拍子に合わせない小唄節と違って、「拍子が体をもつ」といわれるように、拍子に合わせた謡を語り舞う芸でした。また「曲舞」の謡は言語が明晰で、文意がはっきりわかるという長所がありました。物真似主体の物語り芸に歌舞を取り入れ、それもリズミックで具体的な描写を推し出すものとなり、猿楽の空間構成を大きく変えたのです。それは以前にまして現実描写的な物語りとなり、さらに歌舞による空間の変幻があるといった風で、不特定多数の観客を相手にし得た最初の綜合芸であったと考えられます。それゆえ、そうした綜合芸を支える身体表現が求められたのであり、それが観阿弥の芸が意図するところだったと思われます。
 観阿弥は大柄な人でその演技には迫力があり、ことに大和猿楽伝来の仮面をつけた鬼の演技にすぐれていたといいます。そのいっぽうで、「女能にては細々となり、自然居士などに、黒髪着、高座に直られし、十二・三ばかりに見ゆ」(「申楽談儀」)と、変幻自在な表現を見せ、芸能者特有の技量をもっていたようです。空間の広がりを示すことのできる身体技術を備えていたわけです。観阿弥作の「自然居士」は、観阿弥の表現とその芸域を示す好例です。その内容は、宗教者と人買い商人との間で交わされる対話を核とした劇的な構成をとっているいっぽうで、曲舞・ササラ擦り・羯鼓の舞を見せるという「芸尽し物」となっています。
 観阿弥の言葉は記録されていませんが、賤民身分でありながら子の世阿弥に知的教養を得る機会を与えたり、敵対する興福寺に接近して奈良坂を越えて京に出たのも彼です。都に出て、新たな猿楽の<能>を呈示しようとするなみなみならぬ意欲をもっていたわけです。当時、都では猿楽よりも田楽の<能>の方が評判をとっていました。
 世阿弥(1363?〜1443)は、観阿弥がつくり上げた物語りと歌舞の空間に死者を積極的に登場させました。夢の中に現われる死者というのは当時の人々の一般的な体験であったと思われます。ですから、勧進の場での死者の登場とその成仏という内容は、観客の期待に沿う大きな効果があっただろうと思われます。
 とはいえ、世阿弥が<能>の表現空間に死者を登場させるのには別の意図があったのではないかと考えます。というのも、観阿弥の写実主義に対して、世阿弥には当時の最先端の教養に裏づけられた抽象志向が顕著だからです。死者へのアプローチは、むしろそうした抽象志向に関わるのではないかと思うのです。
 世阿弥は「伝書」である「風姿花伝」に「能を尽くし、工夫を窮めて後、この花の失せぬ所をば知るべし」と記しています。「能」とは演技の意であり、演技能力を支えるものが「花」です。世阿弥は、「能に花を知る」ようことさらに説いています。「花」とは、中世歌論から引き継いだ概念であり、世阿弥によって演技の評価に関わる概念として練り上げられました。当時、複数の猿楽座が同じ場で次々と演じ合う「立ち合い」という興行様式がありましたが、その際の競争意識もあり、当事者である世阿弥に「花」の研究を促したと思われます。その結果、次のような境地を打ち出しています。
「時分の花・声の花・幽玄の花、かやうの条々は、他人の目にも見えたれども、その当人の技より出て来る花なれば、咲く花の如くなれば、またやがて散る時分あり。されば久しからねば、天下の名望少なし。ただ真の花は、咲く道理も散る道理も、心の儘なるべし。されば久しかるべし」(「風姿花伝」)
 ここには、舞台表現のあり方に関する世阿弥の考えがよく表れていると思います。「時分の花」という個人の外見や技術による特殊的表現に対して、「真の花」は、内面的な技術が培われることによって得られる普遍的表現とされています。要するに、表現における特殊的で外面的なものと普遍的で内面的なものとが区別されているのであり、普遍的で内面的なものを重視する姿勢が、世阿弥を抽象的な思考に向かわせているのです。
 また、観世座太夫の座を退いた頃に書かれたといわれる「花鏡」には次のように記されています。
「又舞に、『目前心後』と云ふ事有り。『目は前に見て、心は後に置け』となり。是は、以前申しつる、舞智風体の用心也。見所より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、則、見所同心の見也。其時は、我が姿を見得する也。我が姿を見得すれば左右前後を見る也。しかれ共、目前左右までを見れども、後姿をばいまだ知らずか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をばわきまへず」。
 この考えというか、舞台経験をふまえたうえでの見地は注目に値すると思います。演技をしながら自身を客観的な視線によって観るその視点の必要性が説かれています。さらに、そうすることができれば、自身の後ろ姿をも自覚する視点が得られ、そのことによって演技が抽象力を備えた表現になるというのです。世阿弥が理想とする普遍的表現の演技の内側では、こうした経験に裏打ちされた視線が働いて、からだ使いを操作しているのだと考えられます。
 さて、死者の存在の仕方は生者とは異なります。したがって、死者に関わる表現も通常の表現とは異なるのに違いありません。第一に、その演技はなまなしい身体を感じさせてはならないでしょう。ですから、死者のからだを表現しようとする演者は、生者とは別の仕方でそのからだを操作しなければならないわけです。死者を演じるのに、生者があたかも死者であるごとく演じるとなるとすれば、演者の内面に何らかの抽象的な要素が求められ、その抽象的なものを軸にしてからだ使いが計られようとするのではないでしょうか。
 世阿弥は、父の観阿弥と違って小柄でした。そのため、女役を演じるのに適していたといわれます。世阿弥の時代には、女役は鬘をつけ、直面で演じました。そのため、世阿弥は女役の視線使いに工夫を凝らしています。けれども、女神を演じる際には人間と区別して仮面をつけたのであり、そうであれば、死者を演じる際にも仮面をつけていたのではないかと考えられます。そうでなければ、生者と死者とを区別つけ難く、観客の理解を得られなかったのではないでしょうか。仮面をつけると発声がこもり、また視野は当然に狭くなります。そのため、からだ使いにも変化を強いられ、結果的に内面的な軸の位置付けがどうしても必要になってくるのではないかと思われます。つまり、演技をしながら自身を客観的に観ることができるような心的な軸が、からだ使いにおいて自ずと要求されてくるでしょう。
 世阿弥は、物語りと歌舞の空間に死者を積極的に登場させることで「夢幻能」の様式を編み出し、最終的に「複式夢幻能」の様式を完成させました。「複式夢幻能」では、最初は生者と思われていたシテが実は死者であり、後半になって、後ジテの死者が自身の身上を語るという構成になっています。世阿弥晩年期の作品である「井筒」では、後ジテが女性の亡霊として登場しますが、その女性の亡霊が男装し、その男装姿が水面に映るのを見て過去の恋情に感じ入るといった複雑な設定がなされています。このとき、亡霊—死者が仮面をつけていればこそ、その複雑な設定に見合った抽象表現を展開することができたのではないかと考えます。また、死者の登場とその表現様式の関係についてみれば、「夢幻能」に死者を登場させることが、翻って、その役柄を複雑な設定のものにし、そのことによって死者をめぐるさらに抽象的なものの表現に駆り立てることになった、とも考えられます。要するに、死者へのアプローチと表現様式が孕む抽象性に関わることで、世阿弥をしてそれ自身における差異に関わらせることになったのではないかということです。登場人物の複雑な設定には存在理由があるわけです。空間表現を意識する者のからだに否応なく立ち現われる差異があるのであり、死者へのアプローチはまず表現様式に関わらせることになったと考えられますが、それ以上に、そこに立ち現われる差異に関わらせることになったのではないでしょうか。
 その結果、「井筒」はもはや語り物を演じるという作品ではなくなっています。死者といえどもその性的身体が演じられることで、語り物とは別次元のまさにパッショネートな表現を最終場面にもたらしています。この死者は、あたかも性的身体に達することで成仏するのです。それがたとえワキ僧の夢の中という設定であっても、「亡婦魄霊の姿は、しぼめる花の、色なうて匂ひ」と、その残り香が賞味されているのです。この死者は、死者の側から生を欲するという事態において救われるのです。そうであるならば、そのことを具体的に演じようとする者のからだに、死者における生という抽象的なものが要請されて、そのことは結果的に、ある種の二重性を演者のからだに招来することになりはしないでしょうか。
 このように世阿弥は、観阿弥の劇的な<能>から内面的な<能>へと、その表現の質を変えたのです。
 金春禅竹(1405〜1471)は、自然へのアプローチを通じて、生命をもたぬものも含めて草木国土悉皆成仏するという汎神論的思想を背景に独特の作品をつくり上げました。世阿弥の「複式夢幻能」の様式に植物の精霊を登場させたのです。「芭蕉」に登場するのは、女性の姿をした芭蕉の精霊です。精霊も夢に現われますが、それは死者とは異なる在り方をしているでしょう。また植物は仏教でいう「非情」、すなわち意識をもたないものであり、意識をもたないものの精霊というあるかなきかの存在に禅竹はアプローチしたのです。「芭蕉」では、そのあるかなきかの存在がワキ僧に法を説くといった複雑な設定になっています。こうした設定にも存在理由があるわけです。そのため、その具体的な描写に際しては独自の抽象力が要求されたのではないかと思われます。また「定家」に見られるような、後ジテが演じる、植物霊(定家)に執心された死者(式子内親王)やその舞の演出は、わけもなく朦朧としていながらある種のエロティシズムを匂わせています。こうした感覚的なものに関わる表現は、歌道の「幽玄」概念を念頭においていると考えられています。たとえば、「駒とめて袖うちはらうかげもなし佐野のわたりのゆきの夕ぐれ」という藤原定家の歌があります。ここには、雪の光景にさっと貴人の衣装と馬具が彩られたと思うと、たちまちその色彩とかたちは一面真っ白な雪の中に溶け込み消えてしまうといった、そこに感覚を惹起させる具体的な対象がないにもかかわらず、言葉だけで一瞬感覚を生起させ、また途絶えさせるという技法が見事に示されています。こうした技法にならって禅竹は、世阿弥が用意した抽象力が孕む空間に、色彩や匂いや肌触りといった感覚的なタッチをほどこしたのです。その感覚の励起は、あくまでもその背後の抽象力を孕む空間を連れ出してくるためであると思われます。感覚に関わろうとするその視点と手法は、表現空間とは何かを吟味した先駆けといってもいいのではないでしょうか。
 禅竹は、大和猿楽最古の流派である咒師猿楽・円満井座を継承する金春座の太夫でした保守的な大和の地にあって、都の政情不安を避けて疎開してきた文化人らと交流したといいます。世阿弥とは異なり、「六輪一露」や「明宿集」といった、<能>芸に関する理論書を著しています。和歌論や宗教理論の抽象性に通じ、猿楽<能>という物語り芸を、歌道にも匹敵する純粋な舞台表現にまで高めようとする欲求があったのだと思われます。
 音阿弥(1398〜1467)は禅竹と同時代で、観世座の太夫を継承しました。将軍足利義教の支援のもと、その芸は連歌師・心敬に、「今の世の最一の上手」と評されるほどでした。その演技の技倆によって、観世流の猿楽<能>を他流の追随を許さぬものにまで高めることになりましたが、そのいっぽうで<能>の表現は形式化に向かったといわれます。音阿弥が都で権力相手に<能>の実践に邁進し、いっぽうで禅竹が大和で<能>の理論的な作業をしながら<能>の表現の可能性を窮めていた、という二分する状況がこのときあったわけです。
 その後、室町時代も末期になると戦乱の世となり、観客の嗜好が<能>にも反映されるようになります。「船弁慶」や「道成寺」といった、空間に躍動感のあるスペクタクルな内容の作品がつくられています。

 能はもともと、現在のような抽象化された表現ではなく、写実性の濃い表現でした。観阿弥の猿楽能は写実性に特色があり、大衆を惹きつけるためにも写実的な表現が要求されたのです。実際、室町後期の戦乱期には、大衆受けする唐物や風流物、またスペクタクルな内容をもった具体的な表現が新たに生み出されています。しかし、現在にまで受け継がれている能は、あたかも写実性を狂言に引き渡してしまったかのように抽象性を表現の核としているようです。能の台本が江戸期に改変されて、抽象性の高い作品に仕上げられていることも確かです。それでも、そうしたこと以前に世阿弥と禅竹は、能の表現を成立させるために抽象的なものにこだわったのです。抽象的なものにこだわることは、抽象化の作業とは異なっています。抽象的なものにこだわり、その作業によって表現のうちに抽象性が孕まれると、そのとき新たな写実のかたちが必要とされるわけです。そして新たな様式が出来上がると、それに沿って抽象的なものがふたたび意図される。いわば、かたちが<内容>を孕み、その<内容>が新たなかたちを求めることになるのです。ですから、能の生成、すなわち能が表現空間を設定しその表現形式をつくり上げていったことと、その表現が物語りという写実的なものから抽象力を孕むものへと志向することは、密接に繋がっているのだと思います。
 世阿弥にとって抽象的なものにこだわることは、まず能の表現に和歌の世界を導入することであったでしょう。和歌の世界は多様な時空に関わっているからです。能の謡を読めばわかるように、その台詞は和歌に彩られています。和歌の世界が能の表現の広がりを支えていると言っていいほどです。また歌論から借用された「花」の概念は、表現空間の広がりを能の演技がどう支えるか、そしてその演技力がどう見えるかを評価するための基準概念となりました。そしてさらに、「花」が、普遍的表現を志向する世阿弥の<観点>となり、そうした<観点>から「夢幻能」のような具体的な様式が出来上がると、能の演技にさらなる抽象的なものを関わらせることになるわけです。世阿弥は死者(それはあくまでも和歌の世界に関わる死者である)へのアプローチとその複雑な設定を通じて演技を支える抽象的な局面にこだわりましたが、禅竹は世阿弥の表現空間をベースにして、和歌の「幽玄」にならって空間を感覚的なタッチで彩ることで、演者のからだ使いが表すことになる抽象的な局面にこだわることになった、と考えられます。
 能の演技とそのからだ使いに関するそうした抽象的な局面は、世阿弥と禅竹が記した「伝書」からいくらか知ることができます。身体表現を扱うだけに、そこには「風姿花伝」等の「伝書」とは別次元の抽象思考と論理展開があります。世阿弥は禅の思考から影響を受け、禅竹は密教思想から影響を受けており、それゆえその論理展開は型にはまったものではありますが、身体表現に関わる具体的な方途もそこには示されています。
 まず、世阿弥の「二曲三体人形図」をみてみましょう。
「二曲」とは、音曲()()舞であり、「三体」とは、能の演技が物真似る人体をいいます。謡については世阿弥の「音曲声出口伝」に、「節は形木、かかりは文字移り、曲は心也」とあります。節回しは型であり、謡の魅力は発音の移りゆく次第で生まれ、曲すなわち謡全体は心の働きである、とされています。世阿弥は謡に関して、節回し、発声といった物理的・対象的な現象を差異化しながら、謡そのものは心の働き、すなわち意識的・主体的な働きによって成っていると考えているのです。言い換えれば、歌に関して三つの働きの次元を区別したうえで、歌としてのまとまりは意識的・主体的な作用にある、と考えているわけです。また「至花道」に、「先ず、音曲と舞とを、師に付て、よくよく習ひ窮めて、十歳ばかりより童形の間は、しばらく三体をば習ふべからず」とありますが、このように二曲」である歌()と舞に表現の基礎を置くことは、物語りを演じるという写実芸からすでに離れているでしょう。
 とはいえ、「三体」は、能を演じる際に基本とする人体です。「三体」の人体とは、「老体・女体・軍体」です。最初に「二曲之人形(ひとがた)」として「童舞」、すなわち童子姿の図が描かれ、次に三体図が描かれています。「童舞」は衣装を着けた姿ですが、「三体之人形」はどれも裸のすがたで描かれています。そして、「三体之人形、正見体能々学為、裸絵露也」と記されています。「正見体」を能く学ぶためとされていますが、衣装を着けていては見えにくい、演じる者の神経アレンジメントを目に見えるようにするためでしょうか。とすれば、童子の姿には衣装の制約がなく、それ自体で「正見体」であることになります。
 最初の「児姿遊舞」、すなわち童子姿の舞は、「二曲之本風」とされています。
「至花道に云く、『最初の児姿幽風は三体に残り、三体之用風は万曲の生景に成る』と云ふ。児姿は幽玄の本風也。其の態は舞歌也。此の二曲を能々学得しぬれば、舞歌一心一風になりて、安久長曲之達人と成る可し。其の後、児姿を三体に移して二曲をなせば、をのづから幽玄の見風、三体に現はる可し。三体を児姿の間しばらくなさずして、児姿を三体残すこと、深き手立て也。ただ、最初の児姿二曲を習得して、長久の有主風に安得するゆへに、三体にも残り、万曲の生景にも成る也」。
 ここには、能の演技とその際のからだ使いの操作に関する、世阿弥の理論的な姿勢が示されていると思います。「児姿は幽玄の本風」であることから、「児姿」はすべての写実的な演技の核となるものと考えられています。ですから、「児姿を三体に移す」とは、演技する際に三体を演じるとはいえ、それに成り切らないということです。からだに内蔵されている核としての童子のすがたから投影されるようにして三体は写実的に演じられるのであり、そのことは、演技する人体とは別の微細な芯をからだに自覚しつつからだを操作することでもあるでしょう。からだ使いに関わるこの二重性は、いわば「離見の見」にも通ずるものです。
 世阿弥は「児姿」をことさら重要視し、それは禅の「赤心」に通じるようにも思われますが、その少年時の美しさによって権力に寵愛された経験からすれば、「児姿」は、世阿弥にとってその少年時の<現前性>体験を反映するもののようにも思われます。
 さて、写実的な演技をする際にも、別に微細な芯をからだに設定してそこから投影するようにして人体を演じるといった二重性の演技のあり方は、たとえば死者を演じる際にどのように作用するでしょうか。死者である後ジテは、その役柄の人体と共にそれが死者のからだであることをも演じなければなりません。このとき、役柄の演技は生死の二重性をもう帯びています。おそらく、演技が二重性を帯びていることで死者のからだを表現し得たのではないかと考えられますが、その死者のからだも、からだの内部の微細な芯から投影されるようにして演じられるわけです。すなわち、死者に成り切らないように死者を演じるわけです。具体的な役柄が設定されていて、それを死者として演じながら死者に成り切らないとき、その演技には無限の神経反復が課されて、そこに「感覚の論理」が働くと思われます。
 たとえば、「井筒」の後ジテが「児姿」を内蔵するからだで演じると想定すると、その演技はさらに複雑なものになるでしょう。いっぽうで死者のかたちを支え、他方で表現の核としての意識的・主体的なものを働かせるために、肝心の複雑に設定された役柄の演技には高度に抽象的操作が求められるのではないかと思うのです。死者である女性が男装し、そのすがたを水面に映して感じ入るその描写は、それ自体においてもう男女と生死の二重性を抱えています。そして、その登場はワキ僧の夢の中という設定でもあります。そうした幾重もの二重性に関わりつつ演技する神経を駆使しながら、その役柄を「児姿」が投影するものとしてからだに微細な芯を核として演じているとすれば、演じる役柄をあたかも冷めた「感覚の論理」において扱うような表現になるかと思われます。
 次に、禅竹の「五音三曲集」をみてみます。
「五音三曲集」はそもそも音曲についての「伝書」です。「五音」とは、「五音の位」があってそれらは「祝言・幽玄・恋慕・哀傷・闌曲」に分類されています。それに対して、「三曲」は「皮・肉・骨」とされています。「三曲」が「皮・肉・骨」という身体要素であることから憶測すれば、「五音」はおそらく仏教用語で不浄の身体をいう「五蘊」をもじっているのではないかと思います。
「此の不浄の種、骨・肉を知らずば、いかに皮を似せたりと思ふとも、其れにてはあるまじき也。種・骨を知りて肉にて隠し、肉を知りて皮に隠せば、真に美しやと見ゆる皮にてある也。種を知るは道、此の道を知る心は骨力也。それを和らぐ満風は肉身也。それを猶深めて、美しく見するは、表皮也。是、幽玄也。幽かに深きは、骨・肉二を知れる心を埋めば也。表皮ばかりにては、浅く近きにて、幽玄あるまじき也」。
 能を演じる者がからだを操作するのに、皮、肉、骨の三つの要素に分け、それらが「三曲」と、音曲を扱うごとくに考えられています。かりに「三曲」が世阿弥の謡についての考えである「節・かかり・曲」の三要素から影響を受けているとすれば、「骨」が演技の芯と同等のものとなり、演者の身体表現を全体として表すものになります。全体としての身体表現を音曲のように扱うという観点からすれば、この「皮・肉・骨」の「三曲」の考え方は、身体技術論として現代にも十分通ずるものであるように思います。言い換えれば、「骨」とは内面的・意志的なものであり、それに対して「皮」は表面的・物質的なものを指します。そして「肉」は両者を仲介する中間的・物理的なものであり、たとえば神経アレンジメントのような働きを考えることができるでしょう。「皮・肉・骨」をそうしたからだの三つの作用として考えることができると、そこからさらに、三つの作用が関わり合う局面を考えることができるわけです。
 禅竹は、からだを構成する三つの作用が関わり合う局面を説きつつ、次のように主張しています。表面的にかたちを似せた表現では十分ではない。演技の芯を心得たうえでそれをかたちへともたらそうとする働きと共に、それを表面へと仲介する神経アレンジメントの働きが織り成されることで、かたちとして十分な表現となる。そのように三つの作用が連係して作用し合う全体としての身体表現を扱うことにおいてこそ、内面的なものがかたちへと推し出されてくる深秘な表現があると。身体表現の芯となる意志的な働きが物理的働きを介して対象的なものを実現させるというからだの機構に関するこの考えには、何らかの根本的な実在(密教の考え方では法身、すなわち生命母体)が自ずと展開されてかたちを支えている、という考え方が根底にあるように思います。
 ここでも「芭蕉」の後ジテを、「骨・肉・皮」の機構が内蔵されたからだをもってして演じると想定するとどうなるでしょうか。芭蕉の精は、「非情」といわれる意識をもたない植物の精であり、そのかたちは捉え難いものです。それは死者よりも扱いにくいに違いありません。意識をもたない生命が意識をもった存在として演じられようとするのであるからまず意識をもたない生命が想定されなければならないし、そのようなあるかなきかの存在が僧に向かって法を説くのです。その演技は、意識的存在によりも、意識的存在を成り立たせている自然力にその芯を求めねばならない。そこで、意識的にからだの操作をするよりも、「骨・肉・皮」というからだの三つの作用が連係して自ずと表現されるからだの機構を軸にして演じる、という方法が考えられたのでしょうか。とすれば、もはや演じる者は演じるという意識から遠のいて、そこには、立ち現れたかと思うとさっと消えるような意識に彩られるだけの、キャンバスとしてのからだがあることになります。そのすがたにこそ、精霊の成仏が見出されるか…。

 金春禅竹は「明宿集」で、翁の起源にとくにこだわっています。翁芸の起源についてはここで遡ることができませんが、翁のその柔和な面貌の裏側には、荒神や忿怒神が秘匿されているといわれます。猿楽が法咒師と組んで神事である咒師猿楽を演じていた時代があったのですし、そうしたところから能の翁芸が仮面を継承していることは、能が古来の宗教空間を継承していることを意味しているわけです。
 また、猿楽の能が、多様な表現が可能な空間を設定することができたのは、宗教空間を受け継ぐ咒師猿楽の翁芸を継承していたからではないかと思います。翁芸は仮面に通じているのです。咒師猿楽に付属した後戸猿楽は、「修正会・修二会」の法会の際に仮面をつけて鬼を演じたわけですが、その役割は鬼に象徴される荒ぶる自然力を身に帯びることでした。すなわち、自然力をそのままにではなく、その力を抽象して身に取り込むことでその役割を果たしていたわけです。そして、仮面の意義も、この抽象力を身に帯びることにあるのだと思います。仮面をつければ人であっても人でなくなるのであり、ここにからだが抽象力を宿す契機があります。仮面をつければ具体的なすがたを帯びることになりますが、人ではないという点において抽象性を孕むことになるのです。
 仮面は、鬼面を受け継いだ猿楽者が人間のかたちを逸脱し、抽象力としての自然を経験的に知る術を与えることになったのではないかと思います。仮面をつければ、神霊が出現する空間に関わることさえできるのです。仮面は、表現空間を多様なものにする原基だったのです。したがって、表現空間に仮面をつけた死者が登場するのも猿楽能の道理に適っているのです。とはいえ、能は鑑賞芸として成立したわけです。その技芸に抽象力を抱えながらも、写実的な表現に道を見出さなければなりませんでした。そのため、多様な空間を演者が支えるべく、具体的な身体技術を身につける新たな道を進むことになったと考えられます。そうして、死と生に関わる二重性を軸にしたからだの機構が考えられ、能の表現が練り上げられたわけです。さらに、からだの機構を認知することが能の演技術となって、死者が登場する「夢幻能」の様式を具体的なかたちで支えることになる。そしてさらに、その様式を前提としてからだのキャンバス化を見る表現に至る。要するに、空間構成に対応する演技の抽象力が具体的な表現のかたちを支えながら、その抽象力がさらに演者の技術を促していったわけです。それも、空間の多様性に対応することのできる表現者による具体的な能(演技)という<観点>が設定されていればこそです。
 このように能の表現にあっては、演技を中心にしてその技芸が展開されていったわけですが、演者のからだはあくまでも個人的で具体的なものです。ですから、内部の抽象力に関わる表現を優先させようとする際には、方法的には、個人的で具体的なからだを消して、別のかたちを借りて抽象力を推し出そうとする表現が採られたのではないか、そう考えてみたいと思います。抽象力に関わる表現をするのに自身とは別のかたちが求められることになる、というわけです。たとえばそれが、仮面をつけた女性の死者でした。

Monday, January 12, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


二 敏捷な構造

 3 風だるま

「土方巽と日本人」の後に、「暗黒舞踏」と呼ばれる舞踏の表現の様式化が始まります。様式化と共に<暗黒>や<闇>が強調され、<現前性>に関わる姿勢はあたかも舞踏の表現様式の背後に後退してしまったかのようにみえます。しかしそうではなく、「暗黒舞踏」の表現様式に連れ添ってくる<暗い背景>として、<現前性>のその<内容>が提示されていると思います。そしてまた、舞踏の表現の様式化には新たな作舞の方法である舞踏符が不可欠であったわけですが、その舞踏符の方法を駆使することのうちに、<現前性>に関わる姿勢が込められているのではないかと考えます。
「暗黒舞踏」の表現様式を打ち出した最初の土方出演作品である「疱瘡譚」の冒頭、それは「四季のための二十七晩(1972)」の冒頭でもあるわけですが、それはこんなふうに始まります。
 吹きすさぶ風の音が薄暗い舞台を駆けめぐるなか、大髷を結い、どてらを着込んだその袖に手を隠し、太鼓帯を大きく前に結んでダルマのような姿の土方が柱の陰から登場する。全身白塗りで、なおかつ顔に石膏片がまとわりつき、その表情は生きた者のようでない。動きはかじかんだようにゆっくりで、観る者を緊張させる。それはたとえば、能の亡霊、すなわち死者でありながらこの世にさまよい出てくる後ジテの登場を想起させる。吹きすさぶ風の音と顔の石膏片から、それが吹雪の中をやって来た人だと思わせる。それは、「風だるま」のようである。
「風だるま」の話は、「衰弱体の採集(1984)」で初めて語られるわけですが、それよりもずっと以前に、「疱瘡譚(1972)」の冒頭の踊りで表現されているものは「風だるま」に相当するのではないかと思われてなりません。風の音を背負い、どてら姿の土方が亡霊のごとく登場する。その姿が、時間的には後先になるけれども、「風だるま」の話を想起させるのです。「風だるま」は、死とすれすれのところにいる。いや、「死んだ後の異界をのぞいて来た顔」と語られているように、いったん「死者」となってふたたびこちら側に還ってきた者のようです。とすれば、何よりも「死者」に関わる表現が、土方の最初の舞踏の表現様式として打ち出された作品において展開されている、そういえるのではないでしょうか。
 時間的には逆行しますが、「衰弱体の採集」の<観点>から初期の暗黒舞踏の表現を顧みるために、まず「風だるま」の話を検討することにします。
「衰弱体の採集」の講演では、初めに土方が「日本霊異記」の話を例に出して、夢で自身が火葬にされるのを見て、その「死者」であることの体験を後になって記述する際にそれが対象化されて語られているのはおかしいのではないかと前置きしています。そうではなく、これから語る「風だるま」の話は、「死者」であることの<現前性>体験そのことについて語ろうとするものである、そうわざわざ強調しています。
 それはどんなふうに語られるのかといえば、まず「風だるま」は、自分のからだを風葬していて、「自分の骨の焼けてゆく思いを考えながら畷を歩いてくる」といった、死を体験しつつある存在として提示されます。その「風だるま」が、吹雪の日に風に巻かれて、風に運ばれるようにして家に入って来ると、自分の身の上に起こったことを語るのですが、その語り方は、「最初に荷物がチッキで届いて後から手紙が来る」といったような、言葉に先行するものが語ろうとする語り方なのだといいいます。そして、その声はといえば、「風だるま」が叫んでるのか、吹く風が哭いているのか、声と風が入り混じって不分明きわまりない。そして、「その顔は何か、死んだ後の異界をのぞいて来た顔なんですね。お面みたいになってるわけです。生身の身体でもないし、虚構を表現するために、物語を語るために、何かの役に扮しているのでもなくて、身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人なんです」。こうして、「風だるま」の話は、最終的に舞踏の表現が意図するものへと結ばれているわけです。
 この「風だるま」の話を、「風だるま」、すなわち「死者」であるものがその体験を「語る」という主題を軸にして考えることができると思います。つまり、「風だるま」を語ることは、「死者」であることの内容を設定し、その<現前性>体験を語るということに迫ろうとするものなのです。ここで「死者」であることは、死を体験しつつある存在であるように語られていますが、その内容はといえば、火葬にされて五体が否応なくばらばらになっていると同時に、風葬にされて意識が今にも遠のく寸前の者として示されています。要するに、からだも意識も思うように統御できない状態にあるというわけです。そしてそのような「死者」が、言葉に先行するものが働いてその働きが自らを語るといった仕方で語り、そのため発せられる言葉は不分明である。不分明とはいえ、その言葉はけっして無内容ではないのです。そのとき、自らを語るすがたは、何かを表現しようとしているのではなく、語ろうとするために「身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人」といったふうに、「語る」ことの神経アレンジメントの働きを除いては、「死者」であるようなすがたをしているのです。
 こうして「風だるま」という雪国特有の話から、1)「死者」であることの設定、2)「死者」が語る仕方、3)「死者」であることの表現という、「死者」が語るという主題をめぐる三つの要点を取り出すことができると思います。そしてさらに、この三つの要点に照準を定めながら、「土方巽と日本人」後の土方の表現の転換を計測してみたいと思うのです。それはつまるところ、土方が舞踏の表現様式を初めて打ち出した作品において、「死者」への関わり、すなわち「死者」が語るという表現主題が舞踏符の方法とどう関わり、さらに一転して舞踏符の方法によってその表現がどのように支えられているかをみることでもあります。
 まず「疱瘡譚」の映像記録から、その構成を示しておきます。なお「」内は、私が勝手につけた場面名です。
一) 「風だるま」。大髷を結い、どてらを着込んだ土方が登場。瞽女歌に乗って踊る。
二) 「馬の群れ」。男性舞踏手による群舞。
三) 「田舎女郎」。高下駄を穿き、腰を低く沈め、髷を結った着物姿の女性舞踏手三人が登場。義太夫節が、あたかも目に見えるようにして踊り手にかぶさっている。
四) 高下駄を穿いた男性・女性舞踏手たちによる群舞。
五) 「姉と少年」。着物姿の芦川羊子と洋服の少年に扮した和栗由紀夫によるデュエット。ワルツ曲に乗って軽快に踊る。
六) 「癩病者」。土方ソロ。女性歌曲が舞台に鳴り響くなかで、半裸の土方が終始舞台に板付きになって踊る。
七) 「フラマン」。土方と男性舞踏手たちによる群舞。
八) 女性舞踏手三人と土方の踊り。
九) 「夢見る死者」。土方ソロ。
十) 「癩病者たち」。女性舞踏手五人による踊り。
十一) 全員でフィナーレ。
 土方の踊りは、その踊りの神経が「土方巽と日本人」とはまったく異なり、見た目にはかなり抑制されたものになっています。とはいえ、その動きは観る者の意表をつくものであり、その形態模写的な動き、そして白塗り姿から、土方は総じて「死者」のようであり、あたかもその「死者」が想い、見る夢のような光景が、荒縄を綯うようにして次々と展開されるわけです。その展開のうちに、舞踏の表現が孕む<内容>の強さが感じられます。土方は「死者」をソロで踊り、あるいは群舞のうちに溶け入るようにして踊っています。夢を想い、見つつ、かつ夢に溶け入るそのすがたは、あたかも夢を出入りする者であるかのようです。それが、舞台における「死者」の役割ではないかとも思われます。
「死者」とは、単に死者をめぐる記憶を表すのではありません。またいうまでもなく、「死者」は、死んでいると仮定されたものでもない。舞踏の表現の方法において「死者」なのであり、「死者」とは死者であることの設定であり、冒頭で「風だるま」を演じるという想定からすれば、死者へのアプローチの仕方でもあります。見たところ土方の踊りは、その神経アレンジメントの働きを除いて「死者」である、という表現になっているとみえます。言い換えれば、「死者」のからだは神経アレンジメントの働きを浮き立たせて見せることになる、ということです(そのことは、「命がけで突っ立った死体である」と言い表されている)。そして、その神経アレンジメントの働きが複合的であればあるほど、そこに広がりを抱えたからだと共に強い空間が立ち現われることになるのではないかと思われます。それが、暗黒舞踏を打ち出した土方の表現が意図するものだったのではないでしょうか。とはいえ、その特異な表現は他の踊り手たちからは際立って見えます。土方の踊りは複雑な動きを自らに課しながらもなめらかであり、そうしたからだ使いが空間の広がりを生み、あるいは空間に溶け入るような踊りを見せています。土方自身は万全を期したでしょうが、「四季のための二十七晩」を構成する五作品にはそれまでの土方の作品には例を見ないほど多数の踊り手が出ており、その内容を「死者」が語る表現とするためには、土方は自ら「死者」であることの設定を演じるばかりでなく、「死者」が語るという<観点>から多数の踊り手を振付けなければならなかっただろうと考えられます。このとき、舞踏符の方法が全面的に採用されたのではないかと思われます。
 以前にも述べたように、舞踏符の方法は、振付けられる側が、transparent、つまり裸の状態でなくては機能しません。振付けられる側が「私」という瘡蓋がむしられた状態にあってはじめて、舞踏符を振付けられることによってそのからだに潜在する神経アレンジメントの働きを開くことになるのです。その結果、踊り手のからだに未規定な多層の空間が呼び出されることになるわけです。この手続きは、土方が自身のからだに向けて振付けるに際しても同様です(ただし、土方はこの時期、芦川羊子という希有の弟子を見出し、いったん芦川羊子に振付けしたうえで、それを見て自身に振付けている可能性がある)。そして、舞踏符の方法が前提とする裸の状態は、「死者」であることの設定が示すものと通じているのです。つまり、五体は「私」が制御できるものでなくなり、「私」の意識はかじかみ、現在から遠のいていなければならないわけです。こうした条件が通ずることから、「死者」であることの設定を通じて舞踏符の方法に拍車がかかり、その果てに、未規定な多層の空間、すなわち<日本人>であるからだに潜在する多層な空間にアプローチできることになった、と考えられるのです。そして結果的に、そこに膨大な未規定の神経アレンジメントが働く領域が発見されたのです。その領域は、舞踏の表現の素材として取り扱われることになりました。言い換えれば、舞踏符の方法を介して、いったん「死者」へと折り畳まれたものが<日本人>のからだの多層な神経アレンジメントの働きとなって押し出されるようにして開かれることになる、そうしたプロセスが見出されたわけです。その発見によって、舞踏符は初めて表現技法となったと言えるでしょう。
 また「死者」であることが自身において設定され、自身の領域において開かれようとも、「死者」はあくまでも向こう側からやって来る。つまり、「私」という瘡蓋をつくり出すものの側からやって来るのですから、その声を「死者」のものとして聞かなければなりません。そうすることで、そこに開かれるものは「死者」であり続けるのであり、その声を聞くからだは半ば流動状態であり続けることになります。こうしたことから、「四季のための二十七晩」で打ち出された暗黒舞踏の表現様式は、「死者」の声、すなわち、踊り手のからだに開かれる<日本人>のからだの多層な<内容>を語らせるための最初の形式として、極めて方法的に展開されたのではないかと考えられます。
「死者」が語るその仕方において、舞踏符の言葉に振付けられた踊り手のからだには、言葉の意味内容によってからだに織り成される表現よりも、言葉によって開かれた未規定の神経アレンジメントの働きがつねに先行して立ち現れ、そこにかえって空間の広がりと強さを示すことになります。そのことが多層な<日本人>のからだの領域として提出されたのが「四季のための二十七晩」の表現だと考えられるわけですが、ただし「疱瘡譚」での土方の踊りが独り際立っていることから、その舞台構成は、「死者」が想い・見る夢のようなものとなっているのではないか思われるのです。たとえば、夢の中でかつて知った死者に出会うとき、私たちはそれが死者と思わずに接し、語らっています。その死者はあり得ない状況において現われ、あり得ない仕方でコラージュされて目の前に現われます。夢における死者との出会いは、そうしたあり得ないものを志向する、夢見る者の<欲望>の現われの一例でもあるでしょう。それゆえ、そこに、ある種の力が支配する夢独自の表現があることがわかります。死者を見る夢はそうした意味で、純粋の<内容>なのであり、それゆえ、強さを孕んでいるのです。したがって、夢という純粋の<内容>を「死者」が語る仕方において表す、といった構成が当然考えられるわけです。
 さらに言えば、「死者」が語るその仕方とは、「死者」が表現することの在り方でもあります。意味内容を指示するはずの言葉が、その意味内容を伝えずにその<内容>を伝えることになる。要するに、つねに神経アレンジメントの働きが先行するため、その<語り>は言葉の記号性を追い越してしまうのです。その<語り>は不分明ではあるけれども無内容ではなく、朦朧としたアレンジメントとなって表現されるのです。たとえばそのことは、老人の神経アレンジメントの働きをみるとわかりやすいと思います。老人の動作は朦朧としてみえる。動作に不要なアレンジメントの働きが混じり、様々なアレンジメントの体制が脈絡なしに立ち現れては消えていくからです。そうした朦朧さが醸し出す魅力、というよりは、そうしたものに魅力を見出すことは、老人の<現前性>であるものを示す「敏捷な構造」をそこに見るからではないでしょうか。老人特有の朦朧とした神経アレンジメントの働きは、はっきりとした神経アレンジメントの働きとは明らかに異なっています。朦朧とした神経アレンジメントの働きが示すものには曖昧さがあるけれども、その曖昧さを構成しているのは、逆に「敏捷な構造」なのです。そこには何よりも、意味に拘束されない広がりが感じられるからなのですが、いったい何がこうした広がりを見せるのでしょうか。
 たとえば、八十七才になる老母が髪を梳く手の動作はまだ正確です。その手つきには曖昧さがありません。とはいえ、その動作は緩慢であり、動きの間に曖昧さが透けて見えるのです。そのとき、髪を梳くその手の動きが母親のものでないことがわかるのです。それは母親が少女時代に見様見真似で習った動きであり、おそらく母親が少女であったときに見たその動きも、それ以前の世代を見て習ったものであるはずなのです。そこに誰のものでもない神経アレンジメントの働きが立ち現れてくるからこそ、このとき、時の流れと共に連綿と続く身振りが抱えるその広がりを見ることができるのではないでしょうか。ですから、「死者」は「敏捷な構造」を朦朧とした動きのうちに示そうとするわけですが、動き自体が誰のものでもなくなることで、その動きに敏捷性を孕むことになるだろう、と思われます。
 土方が晩年になって語った「風だるま」の話には、「死者」が語るという主題が内蔵されていると考えますが、そこには土方がいう「敏捷な構造」のその<内容>も込められているのです。まず「風だるま」という折り目があって、それが「死者」へと収斂されようとする。「死者」はその性格からして、誰でもないという流動性において把握されます。そして「死者」というその折り目は、「死者」が語るという主題を伴って舞踏の表現において新たに開かれようとするのです。そこに、「死者」の設定から舞踏の表現へと展開される過程があるわけです。こうした<観点>からみるとき、おそらく「死者」が語ることをめぐる三つの要点は、「四季のための二十七晩」の舞台を支えるものとなっているのではないかと思われます。そして、これら三つの要点は、いかなる形式へと還元されることがありません。というのも、「死者」が語ることとは、語ること、表現することの<現前性>をこそ示すものであるからです。それが「敏捷な構造」の<内容>でしょう。その<現前性>を前提としているから、舞踏符の方法が誘い出そうとするものがあるわけです。そこに立ち現われる未規定の神経アレンジメントの働きに、土方は舞踏の表現の広がりを見出しました。その広がりは、<日本人>のからだの多層性へと開く広がりでもあったのです。
 最後に言い添えておけば、「四季のための二十七晩」では、土方は大髷を付け、あるいは長髪を垂らし、あるいはドレスを着用し、総体的に女性形で通しています。女性形であるのは、「土方巽と日本人」の舞台から一貫しています。「土方巽と日本人」の時点でまず土方のからだに「姉」へと折り畳まれるものがあったのであり、その折り目が、暗黒舞踏の表現様式と共に「死者」にアプローチする表現へと新たに展開され、結果的に表現内容の広がりを獲得することになったのではないかと考えられるわけです。いっぽうで、それと同時に、踊りにかたちを与えるものとして「姉」という女性形が打ち出されていると考えられるのですが、こうした「姉」という女性形が、そのかたちが、必然的に表現の軸となるのには、まだ検討すべき理由があるのではないかと思います。


 4 暗黒舞踏

 土方は、自分の踊りは悲惨と無知でできているといいます。たしかに、踊りをつくりだすその要因は様々であるのにこしたことはありません。
 ジャン・ジュネは、「恋する虜」の中でベドウィン戦闘員の踊りを描写していますが、それはパレスティナ人に対する憎しみに満ちています。それと同様の、憎しみでできた儀礼の動作を見たことがあります。印パ国境で毎日、両国の国境警備兵が日没の「Retreat Ceremony(国旗下降式」を行なうのですが、その全身張りつめた動作から発散される憎しみは凄まじいものでした。それは、その様子をフィルムに記録した者に、「入念に振付けされた侮蔑を見せる儀礼」と言わせたほどで、まぎれもなく憎しみが支える儀礼動作(私には踊りのように見えた)なのです。
 クリスティーナ・オヨス率いるフラメンコ舞踊団のステージを観たとき、踊り子たちが、あたかもドレスの裾に火がつき、その炎が身に降り懸る切迫感のうちに踊っているように見えました。オヨスはさすがにその炎を身体のうちにとり込んで、切迫感というわずかの隙間感覚も与えないほどの緊張感をたたえて踊りました。フラメンコには決闘場面がよく見られますが、野外での焚火と決闘そして匕首、そうした背景が踊りの核心となっていることもあるのでしょう。
 出所はわかりませんが、土方も興味深い話を伝えています。「かつて中近東の舞踊手はどう教育されてきたか。聞くところによると、舞踊志願者が集まって舞踊特訓を受け、秀れた舞踊家が生まれたんじゃないそうだ。人さらいが村々をまわり子供をかっさらってくる。人さらいの眼力に伯楽の力量があるかないかだ。そして秀れた子供を集め、すぐレッスンするんじゃない。かっさらわれた子供たちは地下室のような闇に放り込まれ、闇の生活をしばらく続けさせる。なぜだって? からだに恐怖をしみこませるのさ。そして十分恐怖を味あわせた後の光の世界に連れ出す。そしてレッスンがやっと始まる。なぜだって? 闇の恐怖がしみこんだからだがあってこそ舞踊の諸色彩がそこに絵付けできるからだよ」(中村文昭「舞踏の水際」)
 おそらく、「闇の恐怖」をカンバスにしてできる踊りもあるのにちがいありません。土方は、東北地方では箪笥の角の装飾金具を間引きの道具に使ったと語っていますが、土方が提示する<少年>というカンバスも、本来そうした悲惨と無知をしみこませているものなのです。
 ベドウィン戦闘員や印パの警備兵の踊りには、くっきりとした形式のうちに、憎しみという<内容>が明確に示されています。中近東の舞踊手のカンバスはまず<内容>の土台となるものとして用意されるのですが、それを展開する踊りの形式のうちに、そこにしみこまされた「闇の恐怖」は逆に<内容>として明確に推し出されてくるのではないでしょうか。
 こうした踊りに共通するのは、それが個人の実現のための表現とはかけはなれていることです。踊りという人間がつくり出した技術の背景には、おそらく個人の実現よりもさらなる広がりが知られているのではないかと思います。悲惨と無知でできている暗黒舞踏には、<日本人>という層をなしているものが歴史事実であることを示そうとする、やむにやまれぬ意図があるのだと考えられます。そうした意図のもとに、わざわざ前近代的な装いを凝らしているわけです。とはいえ暗黒舞踏には、前に例にあげた伝統的舞踊に通じながらも、あくまでも現代の表現であるがゆえに、表現として一歩先んじた特徴があるのではないかと考えます。
 たとえば、土方はその作品を再現しませんでした。ただし、一つの作品を長期間公演しています。つまり、一時に集中的に繰り返して公演しているのです。この公演形態には明確な意味がありますが、ここではそれが再現ではないことを強調しておきます。いっぽう、踊りのフレーズは再現性を意図してつくられていたと考えられます。とはいえ、踊りのフレーズの再現の仕方は個々の踊り手の表現に重点が置かれるのではなく、おそらく個々の作品においてそのフレーズがどんな役割を示すのか、あるいは作品の主題にどう関わることができるのか、といった視点でなされているのであり、そのための、個々のフレーズを設定を変えて様々に組み合わせる、といった再現の仕方があったのではないかと思われます。
 土方が作品を再現しないのには十分な理由があると考えられます。それは土方が、作品の完成度よりも、むしろ踊りをつくりだす要因に終始こだわり、悲惨と無知の<内容>のさらなる展開を意図した表現を、そして何よりも<内容>を表現することのできる方法の発見に注意深く目を向けていたからではないかと思います。
 まず「四季のための二十七晩(1972)」という「死者」が想い・見る夢といった作品があり、次いですぐ翌年に、「静かな家(1973)」という戦争を背景に彷徨う亡霊の作品があり、それぞれの作品において、<内容>を表現する方法の発見に向けて独自に、執念深く模索しているようにみえます。そして、一転して<白桃房>の作品群(19741976)があり、ここでも土方は、一作ごとに、<内容>に関わるための表現方法の発見に努めているようにみえます。短期間のうちに立て続けに作品が発表されたわけですが、何よりもそこには、舞踏符の方法によって見出された未規定なものの処理へのこだわりがみられ、それを表現へともたらす方法の発見に意を尽しているように思われます。「鯨線上の奥方(1974)」に至って舞踏符による舞踏の表現が一応の完成度を見せると、次にはその表現方法をかなぐり捨てて、芦川羊子という踊り手を核とした「景色へ一トンの髪型(1983)」からの一連の作品へと、それまでとは打って変わった新たな表現方法の発見へと、ことさら<内容>にこだわる道を切り開いていきました。それがあたかも暗黒舞踏の宿命であるかのように…。
 こうしてみると、たゆまぬ表現方法の発見が暗黒舞踏の定めなのであり、そこに暗黒舞踏が<内容>をめぐる伝統的な表現の仕方に通じながらも現代的である理由があるのではないかと思います。それに対して、再現可能な表現とは、単に<モダン>の産物であるにすぎないのではないでしょうか。
 <モダン>なものは、「均質で空虚な時間に埋め込まれた新しい意識は、記憶喪失と疎遠の感覚を生み出したが、これは、人が思春期になると幼年時代を忘れてしまうこととまさに同じである。そこには深い裂け目がぱっくり口を開いている」(ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊」)、といった問題を抱えているのです。
 土方の暗黒舞踏は、幸いにもこの問題と無縁なのです。

Friday, December 05, 2014

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


  二 敏捷な構造

 1. イヅメ
「イヅメ」は、「飯詰め」と書きます。すなわち、「飯詰め」という、冬季に飯櫃を保温するための藁製の籠があり、ここでは、その籠の中に農繁期の忙しさのため親が赤子を入れておく風習をいいます。別段、東北だけにあった風習ではなく、日本各地でそれに類することが行なわれていたと考えられます。ひょっとして日本以外でもそうした例があるかもしれません。風習といえば、社会的な意味合いへと還元されてしまいますが、当の赤子にとっては悲惨な体験であるはずです。まずは土方の話を聞くことにします。

 そうすると飯詰ってのがあります。飯詰ってのは藁で編んだ保温器ですよ、ご飯を温める藁で編んだ籠ですね。その中に赤ンん坊を入れて野良仕事に一緒に連れてゆくわけだ、大人たちが。そして田んぼの中にポーンポーンと置くわけですね。四つか五つね。そうするとポンポンと置かれた子供がやっぱり糞小便たれ流すわけです。すると下半身がむず痒くなるわけだ。だけどいろんなものをつめられて、身体と籠が動かないように結えられているわけだからビャーッと泣くわけですね。あっちの田んぼでもこっちの田んぼでもビャーッと泣くわけだ。ところがいくら泣いたって働いている親爺たちは振り向かないんだよ。親爺も大変なんだ、労働が過労の向う側へ行って何か妖しい労働をしてるんです。カタカナで書けば「フ」の字になって働いているわけだ。振り返れないわけですよ。ところが子供は際限なくビャービャーって泣く。だだっ広い湿気を帯びた空に、大飯食いの風がその子供の声をかき消すんですね。泣いても泣いても働いている大人には届かない。喉ははれる、そして目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね。そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ。すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる。流した涙も洟もみんな顔にくっついてるんですね。それをむしって食ってるんですよ。闇をむしって食べてるわけだ。そういう時に子供はどう思ったか、子供はそんなこと考えないけど私が想像するには、空はなんて大馬鹿野郎だい、こんなの墓場じゃないか、と思ったかも知れない。それで空の大馬鹿野郎もいいけれど、子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている。そこで自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える、闇をむしって食うことを覚える。そして夕暮れになるとその飯詰から抜かれるわけだ。すると足が折り畳まれてるものだから、立てない、もう足が伸びないんですね。すると大人たちはそれを囲んで見てるわけですよ、薄ら笑いを浮かべて。しかし子供の顔は厳粛ですよ。もう親の顔なんて見ようとしない。その時私は折り畳まれた足の行方はどこへ行ったんだ? 喋っても喋っても喋り切れない。
                              「衰弱体の採集(1984)

 この「イヅメ」の話を、土方は澁澤龍彦との対談(1968)でも語っていますが、他にも文章中で描写したりして、幾度もその体験にアプローチしようとしています。この「衰弱体の採集」は土方晩年の講演であり、思う存分語っている風でその内容がよくわかります。とはいえ、それが本当に土方が体験したことなのかはよくわからない。わからないが、それでもこの話は、土方の幼年時代の<現前性>体験の核心を示すものとなっていると考えられるのです。
 私事になりますが、遠州地方の農家に生まれた私の母親は、幼児期に養蚕の忙しい時季になると家の階下で動けないようにされて泣きじゃくっていたと、後になって出入りの大工から聞いて知ったといいます。大工から、子供が火がついたように泣いているのに親はどうして放っておけたのか、そう言われたというのです。私の母親は、幼児期のことなのでその体験を覚えていなかったようです。
 飯詰めに入れられた赤子が、その体験を詳しく覚えているはずがありません。むろん体験の一端をからだが覚えていることはあるでしょう。けれども、その感覚は言葉にしようにも、原理的に「喋り切れない」ものであるはずなのです。したがって、この「イヅメ」の話を<観点>的なものとして聞く必要があるでしょう。
 興味深いのは、「イヅメ」の話を土方が繰り返し語ることで、それが「宗教画」の構図を帯びていることです。すなわち、田圃を背景にして周囲を親たちに囲まれ、幼児が今まさに飯詰めからからだを引き抜かれるといった構図で、幼児の足は足萎えになっている。親たちは薄笑いをうかべ、中央におさまった幼児は「厳粛な」表情をしている。背後には夕暮れの光が射し、風が吹きさらしている。そして、足萎えの幼児のその「厳粛な」表情からは、「ひびわれたような明るさ」が射しているだろう。これは、どこかキリスト生誕画の構図を思わせますが、強いていえば、幼児の悲惨さを示顕しているという意味でその陰画として提示されている、そう思われます。その構図的な配置によって「宗教画」めいており、それゆえ、この「イヅメ」のイコンを介して土方のからだにすぐさま幼児の<現前性>体験が駆動するのだと考えられるわけですが、しかしその構図の奥にはさらなる構造が潜んでいるのです。土方は次のように語っています。「いざりの子供を囲んで立っている大人たち、こんな宗教画が一枚刷り上がる前に、縛られた虫や印鑑体や蟹股やらの敏捷な構造がそこから掻き消えている」(「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている(1975))。要するに、「イヅメ」のイコンができあがる前に、それへと入れ替わるようにして、幼児という「縛られた虫」をめぐる「敏捷な構造」がまず働いているのだ、というわけです。それはどういうことかといえば、「イヅメ」体験を語ることで、幼児のからだにまさに起きていたことが、土方にイメージされるのではなく、現在の土方のからだに神経アレンジメントの働きとして示されようとするわけですが、言い換えればそのことは、「闇をむしって食う」その幼児とは現在の土方がイコンという折り目を開くそのすがたにほかならないのですが、そのとき、過去の体験が現在の神経アレンジメントとして立ち現われる仕掛けのうちに「敏捷な構造」というものが展開している、というふうに考えられます。
 そのプロセスを見ることにします。話の前半では、「イヅメ」の風習が説明されています。「フ」の字とは、田植をする人の姿をいうのでしょう。後半からイコンの仕掛けに入っていくわけですが、まず「目の先が真っ暗になって失神するわけだ。寝ては覚め寝ては覚めというふうにね」と、幼児の意識の朦朧状態が語られますが、それは過去と現在を不分明にする土方の視線の朦朧状態でもあるといえます。そして、「そのうちにいつの間にか泣いたって駄目だってことがわかるんですよ」というのは、幼児の外に向けられた欲動が断ち切られ、その代わりに内に向けざるをえない状況になることをいいます。「すると涙の受け皿に目玉が一つ乾いてポーンと浮んでいる」を合図に、話はがらりと場面転換します。この「目玉」が指標となって、それまでとは別次元の視線が引き込まれているのがわかります(「風だるま」には、他の箇所にも「目玉」が視線を転換させる徴とみていい局面がある)。おそらくこの「目玉」は、折り目を新たに開くような<観点>的な視線として機能するのでしょう。そして、「子供は最初から泣き声の届かない仕掛けの中に置かれている」状況において、「自分の身体を玩具にして遊ぶことを覚える」、「闇をむしって食うことを覚える」、「足が折り畳まれてるものだから、立てない」といった幼児の<現前性>体験の内容は、幼児の体験であるよりも、むしろ土方が舞踏の方法論として獲得してきたものであるといっていいでしょう。ここでは視線の変化に伴って、幼児の<現前性>体験の次元が変容しているのがわかります。要するに、「イヅメ」体験を語ることで、「土方巽」という<観点>的な視線が「イヅメ」のイコンを新たな仕方で開くことになるわけです。そしてそのとき、「行ったきり戻らない足」という主題が訴えられるのですが、この主題こそ、「イヅメ」のイコンが開示しようとする「敏捷な構造」を連れ出してくる、そう考えられるのです。
「行ったきり戻らない足」の主題は、幼児が体験したはずの足萎えの感覚はどこに行ったのか、足萎えになってへなへなに折り畳まれた足の感覚は失われたのか、それとも、この二本足のうちに潜んでいるのに見出されないのだろうか、ということを訴えています。それに対して「敏捷な構造」は、その感覚は失われたのではなく、現在の二本足のうちに足萎えの神経アレンジメントとして潜んでいるのであり、その在り方と共に現れ方があるのだ、ということを示そうとしているのだと考えられます。
 たとえば、「行ったきり戻らない足」とは逆の現象とでもいっていいものに、東北地方では夏でも玄関の土間で下駄がはさんだ雪を落とそうとして足を踏むといった、足腰の神経アレンジメントの働きがみられる例があります。おそらく暗く冷えた土間に反応して、夏でもそうした仕草が意に反して出るのです。それは幻のような仕草であり、まったく無意味な動作なのですが、それでもからだは何かを伝えようとしてそうするわけです。一度覚えた神経アレンジメントは失われずにからだに潜み、現われる機会をうかがっているのです。神経アレンジメントの働きの内蔵と顕現のこうした違いは、「イヅメ」の体験では、幼児の外に向かう欲動が断ち切られて内向きになることに由るのではないかと考えられます。欲動が内向きに働かざるをえない状況が、「行ったきり戻らない足」という現象をつくりだしているのです。幼児の欲動が内向きに働かざるをえないのは、農作業に労働力を集中せざるをえない社会状況に原因があるのです。
「飯詰め」という風習は本来こうした苛酷な社会環境を伝えるものですが、そうであるばかりでなく、その犠牲者である幼児の悲惨な体験と共に歴史的事実としてある、そういえるのではないでしょうか。たとえば「飯詰め」の様相を、木村伊兵衛の写真集「秋田」に見ることができます。しかし、飯詰めに入れられた幼児のすがたを、そのひびわれたような表情を写真で見ることはできても、そこに「行ったきり戻らない足」という体験が見出されることはありません。その体験は説明しようがないものであるからでしょうが、それよりも、人の記憶が時間の経過とともに風化するからです。歴史的事実であるのになぜ体験としてふたたび見出されないのか、というのが土方が訴えるさらなる主題なのですが、この訴えの前には風習と体験の差異が立ちはだかっているわけです。風習として語り継がれて記録されはするが、幼児の体験として語り継がれることはない。それは語り得ないものであるからであり、またそれ以上に、時代の推移において遺るものは形式であり内容ではない、という原則が働いているからなのです。
 こうした見方をするならば、歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されることがないという現象は、いつでもどこにでもあるといっていいでしょう。たとえば、戦争という悲惨な状況はそうした現象を否応なくもたらしています。戦時を生きた子供が爆撃の「音」を聞いているはずなのに想い出せない、という報告があります。「あれだけの火災なら、一帯に風は起る。すぐ周囲の木の葉もざわめいていたことだろう。近隣にはようやく人の叫びも立つ。消防のサイレンの音も騒ぐ。しかし記憶から音はすっかり消えている」。古井由吉は「聖耳」で、東京空襲の体験をそう語っています。また、「焼夷弾の落ちた音は記憶にまるでない。音がまともに残ったら、少年は後から気が振れていたかもしれない」、とも語っています。からだにとって遺したくない体験として考えられているわけですが、それにしても、光景はいやましに遺るのに「音」はどこへ行ったのか、という問いは続くわけです。こうした、体験としてふたたび見出されないものを抱えたからだは悲惨であるといっていいでしょう。悲惨と無知を、土方は自らの舞踏表現の核にしているわけですが、それは歴史記録としてはけっして遺らないが歴史的事実として確かに遺っている体験に関わろうとするからであり、そうした理由から、舞踏の素材として、歴史から見捨てられた身振りを丹念に拾うわけです。
 土方は、「東北はどこにでもある」と言っていますが、そのことは、日本の東北地方に限らない<東北性>を示唆していると思われます。そして、その<東北性>は土方にとって、悲惨と無知を抱えるからだ、すなわち歴史的事実であるにもかかわらずふたたび体験として見出されないものを抱えるからだに関わる、そのための<観点>となるものであると考えることもできます。そうした<観点>から見ることで、「飯詰め」の風習とその体験をめぐる話は単なる体験として見出されるのではなく、イコンとなり得るからです。けっしてその逆ではないのだと思います。そして、悲惨と無知を核とする<からだの東北性>というような<観点>から照射されることで、逆に「イヅメ」のイコンは開示され、その「敏捷な構造」を現すことになるのです。
 したがって、「行ったきり戻らない足」、すなわち足萎えの体験は、それを本当に体験したかどうかにかかわらず、土方にとって「敏捷な構造」に関わろうとするための核となるものとしてあるのです。そして、その体験へと、悲惨と無知を核とする<観点>に沿ってアプローチすることによって、舞踏の表現が実現されていくわけです。
 かりに「足萎え」の神経アレンジメントに関わろうとすれば、下半身をへなへなにさせて立てなくなるような舞踏符が要請されるでしょう。たとえば、「フラマン」という舞踏符がありますが、それは床に横たわった人のすがたをとっています。この「フラマン」の舞踏符の背景には、ある物語が設定されています。それは、もう長いあいだ病で寝たきりになって歩けない、足が萎えてしまって立てない、それでも死ぬ前に一瞬でいいから歩きたいと思い必死に立とうとするのだけれども、それでも立てない、という設定です。この設定を「イヅメ」のケースと比べてみると、幼児ではなく病人であること、すなわちこれから人生を生きるのではなく死の間際にいること、また社会的な要因で立てないのではなく病で立てないという点で異なっているわけですが、立てないけれども必死に立とうとする想いにおいて両者は共通した設定となっているのがわかります。
 いっぽう、「フラマン」の舞踏符ができる以前に、まず絵画があります。「フラマン家の人々」という画があり、そこには立てないのではなく、ただ横たわった人の姿が描かれています。おそらくそこに衰弱するものが感知されたのでしょう、その横たわった人のかたちを介して、足萎えの体験へアプローチする仕方が採られていると思われます。すなわち、この「フラマン家の人々」の画のかたちを舞踏符とするために「感覚の論理」を働かせることになります。「立てない、どうしても立ちたい、立ちたいけれども立てない」といった条件に伴う感覚を、それが架空の作用でありながらも感覚神経に総動員するのです。そうすることで、足萎えの体験に基づいた踊りのかたちがまず保たれることになるわけです。したがって、まず表現のために見出されたかたちがあり、そこに<現前性>体験に基づく踊りのためのかたちを保つための言葉が採用され、そのための神経アレンジメントを要請する舞踏符が成立する、と考えることができます。こうしてみると、そこには足萎えの体験を現代的表現へと抽象化する方法意識が働いていることがわかります。足萎えの体験は、表現行為を介して、表現形式を伴う<現前性>へと大きく変化しているのです。
 繰り返せば、まず表現のために見出されたかたちがあり、その背後に物語を立ち上げることでそれに伴う「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを操作し、そうすることで踊りのためのかたちが保持される。さらに表現のかたちが女性型となることで神経アレンジメントの働きは屈折し、さらなる「感覚の論理」によって新たな意匠と共に開かれるもの、すなわち踊りが立ち現れることになる。こうしたすべての過程を、「フラマン」の場合には、内蔵する足萎えの体験が核となってそうさせるわけです。「フラマン」の舞踏符をめぐるこのような重層的な機構は本来「イヅメ」の体験に基づくものなのですが、その表現形にあっては、むろんそれは「イヅメ」とは別物として提示されることになります。別物であるけれども、そこに保持されているのは「敏捷な構造」にほかならない。とはいえ、「敏捷な構造」は、かたちの成立と交換に掻き消えるという在り方をしているわけです。たとえば、「疱瘡譚(1972)」の舞台で、土方が舞台正面で独り半裸で横たわり延々と踊る場面がありますが、その踊りは「フラマン」から派生したと思われます。この場面は、ハンセン氏病患者の踊り、天上的な西洋文化に立ち向かうすがた等、様々な解釈をもって評価されているわけですが、要するに、踊りの背後に様々な文脈の広がりを見せることができる表現となっているわけです。そうした広がりを見せる踊りのうちに、「敏捷な構造」として機能しているものがあるのでしょう。ともあれ、こうした「敏捷な構造」を見出し、展開するための舞踏符の設定、そして舞踏符の成立過程があると考えられるわけです。そしてさらに、「敏捷な構造」、それはかたちにおいて見出されるのではなく、神経アレンジメントとして現われそして掻き消えるような敏捷さ、すなわち一連の踊りのうちに見出されるわけですが、このとき舞踏符は、「感覚の論理」によって神経アレンジメントの働きを開くと同時にからだを型へと折り畳むことで、かえって踊りとしての敏捷さをあらわにする役割を果たす、そうした技法として見出されているのではないか、そう考えられるのです。
「フラマン」の舞踏符は、「疱瘡譚」の踊りへと練り上げられる以前に、「長須鯨(1972)」の舞台ですでに弟子たちに振付けられていると思われます。「フラマン」の舞踏符が他者に振付けられるとき、どんな重層的な機構をもってしても、振付けられる側のからだには、内蔵された「足萎え」体験といったものは知られないはずです。だからそのとき、振付けられる側のからだは否応なく「足萎え」へと開かれることになります。おそらくそうした徹底的に受身の態勢において、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>といったものが受け手の側で新たなすがたのもとに現われる、そのように想定されているのではないかと思います。舞踏符によって型へと折り畳まれたものは、他者のからだへと否応なくtransferされることで、他者のからだにおいて自ずとtransformされた神経アレンジメントの働きとなって開かれるわけです。「trans-」という接頭辞は、異なる二つの対象を横断する意を示していますが、「敏捷な構造」とはおそらく、他者のからだへと移されて変容するといった仕方でその<内容>が横断的に受け継がれていくものなのです。二者の間で、もしくは世代間で否応なくtransferされて、その<内容>は自ずとtransformされて継承されていくのです。そのような仕方で、「日本人のからだ」が内蔵する<内容>は、変動を受けながらも一貫したものとして連綿と受け継がれていくのではないか。その<内容>は「行ったきり戻らない」ことがあろうとも、けっして失われることがないのです。「土方巽と日本人」のタイトルには、土方巽という<観点>と共に、こうした「日本人のからだ」が内蔵する<内容>が込められているのではないか、そう思うわけです。


 2 瘡蓋をむしる
 瘡蓋は、傷口の内部組織の成分である膿(リンパ液)が傷口を塞ぐためにできます。いわば、傷口が自ら傷口を塞ぐわけです。瘡蓋になる前の段階では、傷口を満たす膿はまだ流動状態にあり、飴色に半ば透き通っています。そのtransparentな成分は流動状態にあり、光を通過させて内部組織と外部環境とを繋いでいるのです。そして、膿が瘡蓋と化せば、内部の流動性は封じ込められ、皮膚となって内と外の繋がりを可能なかぎりシャットアウトしてしまいます。「瘡蓋をむしる」ことは、こうした生理過程に逆行するわけです。あえてそうすることには、だから十分な理由があるのです。
「敏捷な構造」はなぜ「敏捷」なのかといえば、それはかたちの成立と交換に、すぐにその構造が掻き消されるといった性格のものであるからです。そして、「敏捷な構造」のその形跡は瘡蓋に塞がれ、喩えれば、傷口であるその「敏捷な構造」の<内容>は見えなくなってしまうわけです。要するに、瘡蓋が「敏捷な構造」を隠すのです。「瘡蓋をむしる」ことはだから、瘡蓋が塞ぐ以前の状態へと、すなわち傷口へと、意図的に戻ることなのです。そして、傷口とは裂け目であり、開かれた状態であり、半ばtransparentな膿の流動状態であるわけです。
 たとえば、「私」という瘡蓋があるとします。その瘡蓋をむしると傷口が開かれる。そこに裂け目としてあらわになるものがあるのです。それは、「私」の成立と交換に掻き消えているはずのものなのです。傷口が塞がれるとき、傷口を満たす膿が瘡蓋と化して内部を塞ぐわけですが、その膿はといえば、飴色の流動状態にあっては瘡蓋が隠そうとする当のものでもあるのです。そこで、「私」という瘡蓋にとって膿とは何かと考えるとすると、それは「私」から隠されているもの、あるいは「私」が隠しているもの、といえるでしょう。というのもそれは、「私」と化す以前の流動状態であり、半ばtransparentで、内部組織と外部対象とを直接的に繋いでしまうものであるからです。けれども、その状態は放っておけばすぐに「私」と化してしまうのです。だから「瘡蓋をむしる」ことで、流動状態へと、言い換えれば、「私」というものが生成する現場へ還ろうとする、そうした意図が示されていることになる、そう考えられるわけです。要するに、「私」を、膿という流動状態の方から見ようとする視点がそこにはあるのです。
 次に、この瘡蓋と膿、そして「瘡蓋をむしる」といった比喩を拡大してみます。そうするとまず、歴史的事実を覆い隠している歴史記録といった瘡蓋があり、そのいっぽうで、膿という、記録や歴史へと還元される以前のものがある、そう考えることができます。これは単なる比喩ではなく、というのもすでに述べたように、歴史的事実は諸個人の体験と共にあるのですが、その体験はといえば、そのままのかたちでは受け継がれ難いものとして確かにある、と考えられるからです。そして、その体験の内容はといえば、二者の間でtransferされて、受け手側でtransformされることで世代に受け継がれていくとみなすことができるとすると、その際に、そうした体験の内容を塞いでしまう記録や歴史という瘡蓋が当然考えられるでしょう。かりにそう考えて、瘡蓋をむしり、それ以前の膿の段階から見る仕方を採るならば、歴史記録と歴史的事実の関係も逆転するのではないでしょうか。たとえば、「日本人」とは明治にできた概念です。江戸時代で「くに」というのは藩のことであり、藩士は徳川幕府ではなく各藩主に仕えました。土地に所有権はなく、いっぽう農民には無主の入会地がありました。そこに「日本人」という概念は生まれにくいと思います。討幕の時代になってようやく地方藩士と京都の公家が話し合うことになりますが、言葉はなかなか通じなかったのではないでしょうか。維新によって初めて、国家機構と諸個人とが直接結びつけられることになります。すなわち、税制、土地所有、学制、徴兵制、そして言文一致の日本語を介して、「日本人」が政策的につくられたのです。そして、その政策はあくまでも対外国を意識したものでありました。こうしてできた歴史記録としての「日本人」を瘡蓋とみなせば、それは、それ以前の歴史的事実を覆い隠してしまっていることになります。それを歴史的段階とみなすならば、国家機構と共に「日本人」という瘡蓋を強化することになるだけです。
 歴史的事実としての<日本人>がまずあって、制度としての「日本人」がつくられる。その逆ではありません。「日本人」という層が形成されていて、その層は<日本人>が幾重にも重なってできあがっているのです。歴史的事実としての<日本人>は体験的かつ流動的に受け継がれるもので、その<内容>を把握し難いわけですが、ともあれ、下層に覆い隠されたものに触れようとするには、制度としての「日本人」を歴史的事実としての<日本人>から見るような<観点>が必要なのです。たとえば、「闇の歴史」を著したカルロ・ギンズブルグは、中世の裁判記録を調査することで知られた、イタリア東北部のフリウリ地方に住む人の一部に伝わる「ベナンダンティ」の体験が、途方もなく古い意識とからだの層に繋がっている可能性を示そうとしました。体験のその<内容>は現在では見失われてしまっているわけですが、その研究によって少なくとも、行ったきり戻らない体験の<内容>はどこに行ってしまったのか、という設問が生まれてくるのです。体験の<内容>は世代を経ればすぐに忘れられる傾向にあります。それゆえ、その<内容>を幾世代にもわたって保持するには、たとえばアボリジンの「チュリンガ」のような<ドリーム・マップ>を使って、ある構造のなかで個人の起源をつねに反復できるような仕掛けが必要となります。「瘡蓋をむしる」のも、それと意図を同じにしているのに違いありません。さもなければ、時間の推移のうちに形式という瘡蓋がつねに遺るだけなのです。
 とはいえ、「瘡蓋をむしる」ことは、起源を反復することではありません。それは傷口の膿をむきだしにし、膿という流動状態から逆に瘡蓋を見る視点をもとうとしているのです。そうすることで、土方の舞踏の方法は、瘡蓋という「私」へと形式化するもののうちに膿である幼年期の<現前性>体験の<内容>がつねに作用している、そうした構造に目を向けようとしているのです。幼年期の<現前性>体験のその<内容>は、子供が社会に組み込まれる思春期には忘れられる傾向にありますが、しかしその思春期にこそ、幼年期の<現前性>体験とそれを忘れることとの興亡において立ち現われるものがあるはずなのです。そして、その興亡を検証するのも思春期の自己なのです。膿とは、そうした思春期という傷口に流動する半透明の生成物なのです。
 幼年期の<現前性>体験の<内容>は、半ばtransparentな状況において、二者間のtransfer、受け手のtransformという、横断する運動と共にふたたび現われることになります。その運動は開かれ、流動状態にある。そうした流動状態において、<内容>は受け継がれることになるわけです。「感覚の論理」が、こうした運動を支えることになります。「敏捷な構造」というすばやいものに対して、イコンも含めて表象はすべて瘡蓋といえますが、ただしイコンはtransparentな状態を想起させるもので、瘡蓋であると同時に、「瘡蓋をむしる」場をも設定するのです。そのことによってイコンはつねに、表象の生成現場に還ろうとする働きを助けるわけです。
<内容>は形式のうちにそのすがたを現すけれども、形式をむしることで<内容>をそのつど新たに展開させ続けること、形式に還元されない<内容>をつねに保持すること、そのようにすることで、<内容>は形式から逃れるようにして、「敏捷な構造」として受け継がれていくのです。こうした形式を逃れようとする<内容>に関わる際には、誰しもが「死者」の声を耳にし、それに耳を傾けるのです。隠された流動状態に身をもって関わろうとするからでしょう。