Sunday, June 14, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


   三 能・歌舞伎・舞踏

 3 舞踏

 1960年代に始まる暗黒舞踏の表現は、70年代になって様々な流派を生み出して現在にまで至っていますが、ここでは土方巽の舞踏の表現に限って記述することにします。

 1) 初期の表現
 土方巽が踊りを始めたのは戦後すぐの秋田で、まず「ノイエ・タンツ」を習っています。少年の頃に学校で石井漠(18861962)の踊りを見て「いいなあと思った」のがその理由のようです。その後、上京を繰り返し、1953年頃から在京して「安藤三子舞踊研究所」に入門します。その年の二月に東京地区でのテレビの本放送が開始されると、テレビのダンス・ショーに出たり、研究所が発表する舞台に立つようになりました。そして、1959年の「全日本芸術舞踊協会・第六回新人舞踊公演」で男色を主題にした作品「禁色」を発表します。「子供の父兄から文句が出」るような、それは侵犯的な作品でした。日常的なものを侵犯するという意味での侵犯性が、初期の土方の表現を貫いています。
 敗戦を挟んで日本の政治体制は大きく変わりました。立憲君主制から民主制になり、占領国であるアメリカの主導により、治安維持法と特高警察の廃止、財閥解体、労働組合法公布、婦人参政権、農地改革、教育改革等が、短期間のうちに次々と実施されました。このときも敗戦という大きな傷口はたちまちのうちに塞がれたわけですが、私たちが知ることができるのは、多くの人が敗戦後の混乱を体験し、その体験がその後の経済成長と共に記憶の底へ折り畳まれることになったということです。いっぽう、世界的な現象として共産主義が台頭し、資本主義と対峙する冷戦状況が主に資本主義社会において第三極を生み出すことになりました。様々な局面において反体制的姿勢が表明され、既成概念を破壊しようとする運動が起こり、こうした動きが瞬く間に世界中に広がったのです。芸術の分野においても、従来の表現形式に抗してアヴァンギャルド芸術が起こり、ネオダダ、ハプニング、アンダー・グラウンドといった非—芸術を称する活動が、日本を含む世界各地に立ち現れました。中でも「ハプニング」はアメリカ人のアラン・カプロー(19272006)が提唱かつ実践し始めたもので、彼とその賛同者は、ギャラリーや市街地で非再現的で一回性のパフォーマンス・アートや作品展示を行ないました。その最初は、1959年にニューヨークのReuben画廊で行なわれた「18 Happenings in 6 Parts」で、「ハプニング」の語はこの作品に由来します。タイトルにある「Happenings」は、アーティストの表現行為には明確に系統立てるものがなく、行為のさなかに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こる(happen)もの」を指し示すための語であったといいます。とはいえ、その表現行為は二週間前から入念にリハーサルされていたといいます(RoseLee Goldberg Performance Art)
 カプローの「ハプニング」定義は、「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」(ウィキペディア)というものです。それは、「進行中の芸術作品」であり、また、「ハプニングと日常生活との境界は、できるかぎり、流動的で不明瞭であるべきである」(Wikipedia)ともいわれています。一般的には、「ハプニングはどこでも起こり、非線形的な物語と観衆の積極的な参加を伴う多角的な性格のものである。ハプニングに不可欠な要素は設計されているけれども、アーティストが即興する余地は失われてはいない。ハプニングのこうした新たなメディア・アート的な局面は、作品とそれを鑑賞する者との間の境界を取り払うことになる」(同上)とされています。このように、「ハプニング」の実践は最初からきわめて理論的に提示されたわけですが、作品形式を自ら否定するので、その作品は写真や映像による記録、あるいは証拠としてしか遺りようがありませんでした。カプローの提唱後、特に「ハプニング」を実践するアーティスト集団が形成されることはなく、また「ハプニング」宣言が唱えられたり、その種の雑誌が発行されて喧伝されることもなかったのですが、「ハプニング」の語だけは遺ったのです。そして、結果的に「ハプニング」の語は、カプローの厳密な考えに沿った表現活動であろうとなかろうと、ある種のパフォーマンスを指す語となったのです。
ハプニング」に形式はありません。というのも、「ハプニングを描写することは難しい。一つには、それぞれのハプニングが唯一のものであり、他のハプニングとは全く異なるからである(同上)。「ハプニング」は一回性の表現であり、再現のための形式をもたないのです。一回性である表現を前にして、観客はその表現の形式に関わることなく、その表現を支えるもの、そこに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こるもの」を見る、というよりは体験することになります。このように「ハプニング」は一回性の表現であるため、それゆえ人はそこに偶然的なものを思い浮かべるかもしれません。が、実はそうではありません。この世界に偶然というものはない、私たち人間がその摂理を知らないだけであって、すべてにおいて必然性が貫かれている、という見方もあるくらいです。だからどちらかといえば、「ハプニング」のように偶然的にみえる機会においてこそ、ふだん私たちの知らない必然性が開かれ、そこに立ち現れるものを体験するという意味で、人を惹きつけるものがあるのではないかと思います。言い換えれば、入念なリハーサルを経たうえで為される「ハプニング」の機会において、そこに一回性へと研ぎすまされた行為の強度を感覚することができるわけです。また、その一回性の表現行為には、行為が潜在的に抱える広がりが提出されることで、観客—参加者に重層的なインパクトを与えるようなプランがあったとも考えられます。そしてさらにいえば、観客—参加者がそうした潜在的なものが提示される一回性の表現を体験し、その体験を反省することで、私たちの日常を「ハプニング」と同様の強度の体験として捉え直すようにするという、きわめて思想的な企みがそこにはあったのではないかと思います。
 土方は身体表現をモダン・ダンスから始めましたが、その初期の表現は、こうした「ハプニング」が企てるものと連動していたのではないかと考えられます。というのも、日常的なものを侵犯しようとする土方の表現が、「ハプニング」と同様に、観客—参加者に一回性へと研ぎすまされた表現行為が示す強度の体験を与え、そこに孕む潜在的なものを提示することで日常体験を見直すよう要請するものである、そう考えられていたと思われるからです。「禁色」後の土方は、自身の舞踊作品を発表するのに「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」(19601963)と名打っています。そのことについて土方は、「私の第一回目のときは舞踊会じゃなく、ダンスを体験する会という名目でやっている。この体験という言葉はいまだ尾をひいて残っている。(中略)…二、三年前のハプニングとか路頭演劇とか、自分の暮らしている生活をダンスに仕上げてしまうことはきわめて当然のことなのであって、そういう意味でも系統だてて、方法論化してとらえることがなかなかやりづらかったんじゃないか」(「土方巽と暗黒舞踏派」・「映画評論1972年・10月号?所収」)、と後になって語っています。ここで土方も指摘しているように、「ハプニング」はその内容に見合った形式をもたないという問題を抱えているのです。言い換えれば、「ハプニング」はその形式が脆弱であるがゆえに理論的な提示を必要としたといっていいでしょう。「ハプニング」のこうした問題に関わりつつ、土方は自らの踊りを組織化する際に、少年期の<現前性>体験を「ハプニング」の視点から見つめ直しているようです。たとえば、「…ハプニングなんて生まれたときから毎日やっているんですよ」(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」1969)。そして、その内容はといえば、「酔っ払ったオヤジが帰ってきて家の中であばれる。こわい。おふくろが泣かされる。こどもはその間でオロオロする。そんなことが毎晩起こる。そういう名子役が東京の舞台で名子役として出られないのか。そういうライフダンス、生活が全部ダンスだった、生きていることがダンスだったという土壌をそのまま生き残すことが昔あって、いまさぐっている」(「土方巽と暗黒舞踏派」)、というものです。こうした言説は、日常を強度の体験として捉え直すという「ハプニング」の理論に拠っているのではないかと思います。いうまでもなく、少年期の真の記憶、すなわち、その<現前性>体験は壊れやすいものです。ましてやそれが写真や映像を介して対象化されてしまうと、視点が変わることでその記憶はいつの間にかすり替えられて、自ずとその記憶は変質し、少年時の神経アレンジメントと一体となっている<現前性>体験は見失われてしまうのです。それが、いわば「肉体をはぐれる」ことの第一歩でもあります。それに対して、行為のさなかに「自発的に現われるもの、起こるべくして起こるもの」であるという「ハプニング」の原理が、土方のからだに必然性を見る眼を開かせ、翻って少年期の<現前性>体験にアプローチするよう要請したのではないかと考えられます。
 少年期の<現前性>体験をどのように踊りへと組織化するかについて、たとえば土方は次のように語っています。「よく子供がお金をなめると、なめるものではないと親が叱るでしょう。ところがどうしてもなめたいとかしゃぶりたいとかいう金属への関係が人間にはあるわけです。この金属へのメタモルフォーゼがあって、あきることのない行為の中に関係しているものがあって、その欲望のままに従っていけば当然そういう舞踏の展開が行なわれるはずだと思うわけです。それは偶発的にやるということよりも、まったく日常的な次元で、舞台という日常、日常という舞台でみさかいなく犯し合うのです」(「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」)。子供は、手近にある物質を欲望の対象とします。その欲望には、欲望する対象への変容を志向するものがあるというのです。そうした欲望が子供を規律に反する行為へと推し出すわけですが、欲望する対象への変容に関わる当の行為は必然的なものなのです。そして、それが過去の行為であるとはいえ、その必然的なもの(舞踏)の展開を、現在のからだに関わる表現という環境の中で、際限なく捉え直すことができるというのです。
 対談の相手である画家の宇野亜喜良は、次のように応答しています。「お金には使うという一つの目的があるのに、子供の生理的欲求として口に入れちゃうような関係があの作品(「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ(1965)」)にもあって、その代表的なのが浴衣をさかさまに着ちゃうとか、ひどく安っぽいピンクとかブルーの帯しめを足に縛りつけてみる行為ですね。その色が実にきれいに見えたりするんですよ。きれいに見えるという純美学的なもの以外に、それらがもっている一つのハプニングというイメージがあるわけですよね。そこに日本人にしか判らない体験的歴史がふと出て来る」(同上)。土方の初期のパフォーマンス的作品の魅力を髣髴させる発言です(当時はまだパフォーマンスという言い方はしないので、以後は表現行為と言い換える)。発言からその舞台内容を推測すると、表現行為のさなかに欲望する対象としての物質が推し出されるいっぽうで、物質自体と物質への変容を抱える表現行為との関係をさらす表現にあって、逆に物質に照らし出されるようにして、その行為のうちに潜在的なものの広がり、すなわちあたかも連綿と続いているかのような記憶が浮上してくるようです。
 一回性の表現になぜ歴史性が立ち現われてくるのでしょうか。その表現行為に必然的なものが開かれ、行為が潜在的に抱える広がりがあらわになるからではないかと思われますが、そのことを方法的にみるとすれば、表現者のうちに物質への変容に関わる体験がまずあって、その変容に関わろうとする行為が示されるわけですが、その際に表現者の行為に「私」が取り払われているからではないでしょうか。物質への変容に関わろうとするその表現行為は、おそらく物質と対等になるほど物質的な度合が大きいのです。そのため、そこに表現者個人のものに限定されない、物質それ自体に関わるような記憶を立ち現わせることになるのです。たとえば、「ハプニング」に一定の形式はありませんが、とはいえそこには、参加者が立会う場で表現行為をすることで参加者と表現者がその場における逐一の体験をすることを表現環境とする、といった漠然とした形式があるといっていいでしょう。そして、その逐一の体験はその場に居合わせる者の記憶によって構成されるけれども、必然性を見る眼を開かせるという機会であることにおいて、その記憶から日常的な「私」という枠が取り払われることを意図しているといっていいと思います。それと同じようにして、一回性の表現行為においても、観客と表現者共々が日常的な「私」という枠を取り払うことができるような表現環境がそこにはあるのだ、そういっていいでしょう。「私」という枠が取り払われるその環境において、物質と物質への変容を抱える表現行為との関係をさらすような表現に歴史性が立ち現れてくるのです。「私」という枠が取り払われるというのは主体意識が受身的になることであり、また歴史性が立ち現れてくるとはいえ、それはあくまでも潜在的な仕方においてです。潜在的なものが孕む広がりが表現行為によって示唆されるることで、観客は受身的に重層的な記憶を呼び起こし、そのことが「実にきれいに見えたりする」といった、単純にしてかつ歴史性を抱えるインパクトが与えられることになるのです。
 土方はその表現において終始一貫して強い方法意識をもって臨んでいましたが、これまで述べてきたように、それは「ハプニング」における形式と内容の問題に由来すると考えられます。「ハプニング」において、その表現内容とは、必然性を見る眼を開かせる機会を与えることにあります。すなわちそのことは、一回性の表現行為のさなかで観客と表現者共々の<現前性>を体験することにも通底します。<現前性>とはその性格上、意識において<闇>同然の出来事です。それゆえ、その表現を形式化することは難しい。

 一回性の表現において必然性を企画する「ハプニング」の表現に沿うような、一定の形式をもたない土方の初期の表現が、どのようにして踊りを主体にした表現形式を帯びていったのでしょうか。土方は、その試行錯誤の過程を次のように語っています。「いまはガルメラ商会、前は暗黒舞踏、その前は体験舞踏と称して、体験舞踏からまた暗黒舞踏になって、それからチョッとバラ色ダンスになり、それからガルメラ商会になって、また暗黒舞踏に逆戻りです」(同上)。これは1969年の時点で回顧された話です。整理すると、1)体験舞踏 → 2)暗黒舞踏 → 3)バラ色ダンス → 4)暗黒舞踏(ガルメラ商会)という順序になりますが、これは必ずしも明確な区分ではありません。明確な区分ではないけれども、とりあえずこの区分に従ってみていくと、まず1)の「体験舞踏」ですが、「650 EXPERIENCEの会」あるいは「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」主催の作品群が、1959年から1963年にかけて発表されています。その内容は「禁色」(1959)から「あんま」(1963)まで幅広く、一括りにすることはできません。また、この時期にはまだ「舞踏」という語は使用されていないので、ここでは「体験舞踊」と言い直すことにします。2)の「暗黒舞踏」については、1960年の「650 EXPERIENCEの会」のパンフレットに「暗黒舞踊」と題した土方の文章が掲載されています。そして、1961年の「半陰半陽者の昼下がりの秘儀・参章」になって「暗黒舞踊派」を称し、そこには「バラ色DANCE派」も参加しています。また、1963年の「あんま―愛慾を支える劇場の話」は、「暗黒舞踊派結成八周年記念」と名打たれています。したがって、2)の「暗黒舞踏」も、「暗黒舞踊」を言い換えていると考えます。「暗黒舞踊派」は、3)の「バラ色ダンス」段階である1965年の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」に際しても、「暗黒舞踊派提携記念公演」として掲げられています。この「バラ色ダンス」は翌年の「性愛恩懲学指南図絵—トマト」まで続くと考えられ、このときは「暗黒舞踏派解散公演」と名打たれています。このときの「暗黒舞踏」が示すものが何であるかわかりません。というのも、4)の「暗黒舞踏」の段階は、その翌年である1967年の「ゲスラー・テル群論」で土方がソロで踊る表現に始まるかと思われるからです。これ以後、「ガルメラ商会謹製」作品が1968年まで続きますが、それらは表現行為ではなく、明確に踊りによって構成された作品となっているからです。
 土方の意識においてはつねに踊りであったと思われますが、それでも大雑把にみれば、「体験舞踊」から「バラ色ダンス」まではモダン・ダンス的表現から逸脱していくような表現行為、すなわちパフォーマンス的な作品であり、そして、その後の「暗黒舞踏」の段階から踊りに移行しているのがわかります。中でも「あんま」は映像作家・飯村隆彦による映像記録が残っていますが、ダンスというよりも行為の連続であり、表現行為がピークに達した土方の作品として評価されているようです。次の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」も外見的には主に表現行為で構成された作品でありますが、その中身は踊りを軸にして構成されているともみえます。笠井叡・石井満隆・大野慶人等による踊りがあり、中でも白いロング・ドレスに身を包んだ大野一雄と土方のデュエットがあり、それはいかにも優雅なダンス・シーンという印象を受けます。それでも、ここまで土方が表現行為を主体にして作品を発表し続けているのは、あくまでも一回性の表現において必然性を企画する「ハプニング」を自らの表現の核としながら踊りへと移行しようとしていたからである、と考えることができます。それゆえ、その移行過程には、まず「体験舞踊」において、一回性の表現において必然性が立ち現われてくるような踊りの<素材>を求める段階があり、そして次に、「バラ色ダンス」から「暗黒舞踏」へと、必然性の表現を実現すべく踊りを組織化する段階がある、そう考えることができるでしょう。
 19607月の「土方巽 DANCE EXPERIENCEの会」のパンフレットに掲載された文章に、「中の素材」(仮題)があります。このとき土方は「種子」・その他を踊り、モダン・ダンスから逸脱していくような作品を発表しています。たとえばそれは、「小児麻痺のように痙攣的な、衝動的な手脚の不均整な動きを示しつつ、ぎくしゃくした足どりで舞台の上を歩き出したり、脚を棒のようにして急に立ち止まったり、意味のない短い叫び声をあげたりする」(澁澤龍彦・評)といったふうですが、どちらかといえばそれは、生命の実存的な局面に関わる表現であったようです。この文章の中で土方は、「劇薬ダンス」、「テロダンス」、「滑稽ダンス」等の語を使いつつ、「バラ色ダンスも暗黒舞踊もなべて悪の体験の名のもとに血をふきあげねばならぬ。神秘な危機感を伝統した肉体はそのために用意されているものである」と、この時点ですでに「バラ色ダンス」と「暗黒舞踊」を共に提唱しています。また、作舞の中心に「無知や悲惨さ」を据え、踊りの淵源を「供儀」に求めるのは、「暗黒舞踏」の登場以後も一貫する姿勢です。そして、この時期にすでに土方は自身の踊りのための<素材>を求めているのです。たとえば、「陽のとどかぬ場所に私はいつもどうしてだか素材と一緒に立っている。…彼等の昼の労働の彼方にそれこそみたこともない多彩な舞踊を発見していたから。此の様な素材が私を興奮させる。素材が従来の私の作舞法に激しく挑戦する。この素材と私の隔絶の真中に、原初体験の危機を伝統とした肉体の相互につくるめくるめき出合いの祭典が進行する。それは一切の肉体の象徴性の背後にあるものにちがいない。鮮明な標識に私と素材は殉ずる汗ばんだ投企に、様々なものを予知し乍ら、動きの処理場へ第一歩をふみ出す。…素材が汗ばみ素材が縮まる。私は伸びる」、とあります。そして、翌年の「刑務所へ」の文章では、「考えることが危険であるという防衛本能を、身につけた今日の素材たちである。ぼくは立ち、彼等は立たされているという構図を、ぼくは先ず出発点として仮定してみる。ぼくは歩き、彼等は歩かされていると。不意に彼等は走り出す、ぼくも走る。ぼくは倒れる。彼等は走る。彼等は倒れた場所で、怪我することもなく起き上がる。ぼくが血を流し立ち上がる場所と、彼等の場所が、何故、一致し得ないのだろう」、とあります。ちなみに、「素材が汗ばみ素材が縮まる。私は伸びる」、「ぼくは歩き、彼等は歩かされていると。不意に彼等は走り出す、ぼくも走る。ぼくは倒れる。彼等は走る」とありますが、こうした言い回しは後に、「私は私の身体の中に一人の姉を住まわしている。私が舞踏作品を作るべく熱中すると、私の体のなかの闇黒をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまう。彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず座りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。という、かかわりあい以上のものがそこにはある」、といわれているのとほぼ同形です。この点については後で述べることにします。
 最初の文章の<素材>は青年肉体労働者であり、「刑務所へ」の<素材>は犯罪者です。それゆえ、<素材>へのアプローチの仕方は異なっている、というよりも変化しています。最初の<素材>があらわにするものが「汗ばみ、縮ま」って鮮明となるのにつれて、土方のからだも<素材>への意欲を伸ばしています。しかし、次に見定めようとする犯罪者という<素材>についてはそうはいきません。なぜなら、犯罪者は外部の現実に対して受身になるよう強いられてきた存在だからです。彼らは倒れて血を流すことを何とも思わないのです。このときの<素材>へのアプローチの仕方の変化について、土方が対象の<素材>性をからだに回収しようとする感覚に則していえば、土方は踊りの<素材>を外に求めてはいますが、最初の<素材>については、土方の内部を外部に映し出しているものと考えられ、それゆえ内部と外部は一致し、からだに回収するというよりは、ただからだを鏡のようにさせて外部を映しているだけだと考えられます。しかし、次の<素材>については、内部とそれが外部に映し出されたものとの関係だけではなく、その関係がからだに回収されようとする感覚が語られていますが、そこにどうしようもないずれがあるわけです。そこで、「刑務所へ」では、「犯罪舞踊」を志向するにつれて、<素材>としての死刑囚が考えられていきます。死刑囚は、「歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間……この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。…かかる状態こそ舞踊の原形であり、かかる状態を舞台の上につくり出すことこそ、ぼくの仕事でなければならない」、とあります。死刑囚とは、その刑によってすべてが剥奪された存在です。土方はそうした裸の存在と連帯しようと考えているのです。そのことは、主体的な意識が進んで受身であることを享受することによって実現することになります。すなわち、内部とそれが外部に映し出されたものとの関係において完全に受動的になることで、そこに「人間的自然の根源的なヴァイタリティ」といった開かれた状態が見出されることになるのです。そして、その開かれた状態において<素材>を基にした動きが推し出され、踊りが成立してくる、と考えられているようです。とはいえ、そこに開かれた状態はすぐに閉じようとするでしょう。だから、そこに立ち現われる、今までからだに知られることのなかった神経アレンジメントの構造にも目を向けなければいけません。その神経アレンジメントにはおそらく、現われたと思うとすぐに消え入るような「敏捷な構造」が内蔵されているはずなのです。
「刑務所へ」では、最後に東北に言及し、「貧農地のある単作地帯では六歳児に罹る肛門の病気に、一家して回復を見出している現状だ。親達の手が、神様いじめする手につながり、ほほえましい暗黒のユーモアを図柄にしたものが、ぼくにとってそれは、不思議な舞踊に思える」、とあります。この「暗黒」の図柄、すなわち自らのからだが抱える「敏捷な構造」に目を向けるのに伴って、「暗黒」の意味するものがここに初めて提出されているように思います。<素材>を求め、求めることの受動性においてからだに自ずと「敏捷な構造」を見い出すことになるのだと思われますが、それは基本的にからだに関わる姿勢があらわにする意識過程であると考えられます。このとき、「敏捷な構造」は、その背景(東北)を伴って現われてくることに注目したいと思います。現れたと思うとすぐに消えてしまう「敏捷な構造」は、一回性の表現が必然的なものを見る眼を開くことにも通底しています。そこに一瞬立ち現われるものは少年時の<現前性>である可能性があり、それは意識にとっての<闇>であるけれども、「暗黒」の背景を伴っていると考えることができるわけです。おそらく、土方にとってからだに関わる際に見出されたこうした「暗黒」への視線が、「ハプニング」における形式と内容の問題を解消する方向を示すことができたのではないでしょうか。
 さて、前に述べたように、土方は「バラ色ダンス」の段階ですでに、対象への変容を志向する少年時の欲望を踊りへと組織化する作業にかかっていると考えられますが、「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」に際して、土方には次のような具体的イメージがあったといいます。一つは、「物を消す踊りをやりたい…」こと、もう一つは、「二、三メートルくらいの耳かきをつくり、二人がその耳かきを持ってお互いの耳に入れる。…微妙に動かすと耳かきができる、そういうダンスをやりたい…」(笠井叡「意識の変革を目指した舞踏家」・「土方巽の舞踏」2003年所収)、というものです。「消す」とはそこにあるものを見えなくすることであり、そこにあるものを消滅させることではありません。それゆえ「物を消す踊り」をするためには、物がそこにあっても物を見せるのではなく、踊りを見えるようにしなければならないということです。したがって、一つには、物に対して踊りを際立たせたいという意図があったと考えられます。物への変容に関わろうとするその表現行為は物質的な度合が大きいけれども、表現者個人のものに限られない、物自体に関わる記憶を逆に立ち現わせようとすることで、物に対して踊りを際立たせようという意図があったのではないでしょうか。「耳かき」のダンスも、物との関係において受身であることで逆に踊りを成立させるという意味で、同じことを示していると思います。いっぽうは物に際立たせられるようにして、他方は物によって動かされるという、物を軸にして踊りを組織する二つの方向が考えられていたのではないでしょうか。物についていえば、「バラ色ダンス」の表現行為をいっぽうで構成していたのは、美術家の中西夏之や赤瀬川原平といった「ハイレッド・センター」(1960年代前半)のメンバーであり、彼らは日常的な場所において非日常的な行為をする侵犯的な「イベント」を繰り返していました。物は、そうした美術家たちが周到に用意したものです。そうした美術家との共同作品のピークが1965年の「バラ色ダンス—澁澤さんの家の方へ」であるといっていいでしょう。こうしたことからあえていえば、「バラ色」とは、美術感覚的—侵犯的と言い換えることができるかもしれません。美術感覚的なものは物を通じて立ち現れ、物を操作することで日常を侵犯するわけですが、それだけに、そこにはからだに関わる意識の構造が定かでありません。土方は自らの踊りを組織化しようとする段階において、美術感覚的なものよりも、物との関係から踊りの内的構造を突き詰めていこうとしていると思われます。そこでは侵犯性というよりも、潜在的なものであることで意識においてより背景的な「暗黒」が見定められようとしていると思われるのです。
 踊りの<素材>を見定め、踊りを組織化する過程において、「種子」の踊りにみられるような実存的な視点から、「耳かき」のダンスとして発想されるような構造的な視点への転換がある、そう考えることができます。言い換えれば、内的なものが表現行為をさせることから、内部も外部も区別しない構造的なものによってからだが動かされることへの移行があるといっていいでしょう。そうした構造的な視点をもつことができるようになって、踊りを構成するのに詩の言葉が使われることになります。1967年の「形而情學」は、加藤郁也の詩集を基に踊りを構成した作品です。言葉を介した作舞の仕方は、土方を後に舞踏符の方法へと向かわせることになります。舞踏符の方法は、言葉に関わることで相応の神経アレンジメントが推し出されてくるという点において、そこには構造的な視点が不可欠なのです。とはいえ、構造的な視点をもって踊りを組織化するに際しても、いっぽうで一回性の表現において必然性を企画する表現行為であるという「ハプニング」の原理は頑に守られてきたのだと考えます。そのことは何よりも、細江英公との共同作業である「鎌鼬」の写真撮影(19651967)が示しています。秋田の農村と人物を背景に敢行されたその作業はまさに「ハプニング」の連続であり、そこに一回性における必然的な行為が記録されています。このとき、からだに開かれて閉じられるような「敏捷な構造」が見定められつつ、少年時の<現前性>体験が土方において実質的に再構成されるような契機があったのではないかと思われます。
 土方のいう「体験舞踊」と「暗黒舞踊」とは区別がつけ難いものです。次の「バラ色ダンス」だけは「暗黒」と区別することができます。「体験舞踊」にも「暗黒」性の萌芽があるわけですが、その「暗黒」性は、「バラ色ダンス」から「暗黒舞踏」へと移行する際に明確な相貌を帯びるようにして変容しています。その際に、美術感覚的なものがもたらす日常的なものへの侵犯性という、その実存的な局面から解かれるようにして、「敏捷な構造」が(肉体史的な)背景を連れ添ってくる「暗黒舞踏」の「暗黒」性へと土方は移行していったというか、未定の領域へと一歩踏み出したのだと考えられます。そのことは、「私はやはりバラ色より暗黒のほうが好きなんだな。白砂糖より黒砂糖の方が好きだしね。(中略)…やはり無知とか悲惨というのが私の作品から絶対に除外できないですね」(「土方巽と暗黒舞踏派」映画評論)と、かなりはっきりした理由づけがなされています。こうした経緯から1968年の「土方巽と日本人」をみると、それは、「体験舞踊」、「暗黒舞踊」、「バラ色ダンス」等で混然とした土方の表現を、そこから一歩抜け出すために総まとめにした、土方による集大成的作品であるようにみえます。それは土方巽による唯一のソロ作品です。それゆえ、それは例外的な表現なのです。その例外性において、そこに土方巽という<観点>が特別に掲げられているのではないかと考えます。それは、「舞踏」という思考と共に土方の表現が初めて提示されたということです。このとき以来、土方は「舞踏」という表現形式を掲げることになりますが、それ以後、何をするにもその表現は「舞踏」であるべきであると提唱するようになります。<現前性>という内容に見合う表現形式を練りに練ってきたのでしょう、土方にとって「舞踏」とは単なる表現形式ではなかったはずなのです。単なる表現形式であれば、それは踊りの一形式になってしまい、そうであれば、<現前性>という内容を見失ってしまったに違いありません。「土方巽と日本人」において、「舞踏」は欲望や表現形式であるばかりでなく、ある種の理念として提唱されようとした、そう考えることができます。土方巽という<観点>は、そうした「舞踏」の理念と重ねられることで<現前性>への視線をつねに要請するものなのです。その目論見はといえば、<現前性>を提示する「舞踏」の表現によって日常の体験を今一度捉え直させ、そうすることで、かつての無知と悲惨の体験を記憶の底に畳み込み、その結果はぐれてしまった人間の肉体—意識を回復させることにあった、そう考えるわけです。

Saturday, May 16, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


  三 能、歌舞伎、舞踏

  2. 歌舞伎
 2) 女形について
 歌舞伎表現に大きなダメージを与えたのは明治維新による文明開化です。髪型や衣装がいっきに変わり、街の風景も価値観も短期間に大きく変わりました。こうした変化によって歌舞伎表現の型はその意味を成さなくなり、その表象力も失われたのです。役者の演技も、演技に伴う色気も、おそらく本物の虚構となったでしょう。歌舞伎の表現が現実を写すものとはならず、役者の芸は誰しもが認めざるをえない虚構となったのです。というのも、近代化に拍車がかかり、西洋的な合理主義が幅をきかせるようになって、その表現は逆に現実社会から区切られるものとなったからです。歌舞伎が蓄積してきた資本は前近代的な遺産であったから、資本を活用するそのシステムを変えるのは容易ではなかったと思われます。そのため、それまでの前近代的な形象をただ額縁的に表現することによって、歌舞伎の表現は形骸化したのです。そうしたなかで、女形の表現だけは形骸化から逃れたのではないかと思います。女形の表現は、その型が蓄積されてきたというよりも、それより以前から継続する<欲望>を受け継ごうとする志向がかたちになっている、そう思われるからです。たとえば世阿弥の能の表現が抽象力に関わろうとするのと同様に、女形の表現は男性が女性以上に女性らしく見せようとすることにおいて、からだが孕む抽象力に関わる表現だといえるでしょう。
 歌舞伎表現における役柄の形象化が虚構であることは早くから「女方」の存在があることから知られますが、それにもまして男性が女性以上に女性らしく見せるというのは虚構の粋といえるでしょう。女形においては、最初から純粋に虚構であることの意識が芸を構成しているのです。女形は、そうした虚構性を条件にしてからだが孕む抽象力に関わっているといってもいいでしょう。それゆえ、女形という役者の形象化には独特の姿勢と方法があることになります。
 たとえば、初代・芳沢あやめ(16731729)は、「女形はがく屋にても、女形といふ心を持つべし。辨當なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、扨(さて)やがてぶたいへ出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆゑ、たがひに不出来なるべし」(「あやめぐさ」)、と語っています。彼は舞台の外での振舞いにおいても女形であることを意識せざるを得なかったのです。そうでないと、女形役者としての「色がさめる」ともいいます。さらに初代・瀬川菊之丞(16931749)になると、日常生活においても女装で通したといいます。いっぽう、坂田藤十郎は日常でも極力男らしく振舞い、そうすることで立役の芸を磨いたといわれますが、女形が日常を女装で通すのは、それと同じようでいて実は同じではありません。というのも、男性が女性らしく暮らすことには無理があるからです。それは自然に反しています。とはいえ、そうした無理が女形の方法の始まりであったのであり、そのようにして自らからだに虚構を強いることが、逆に女形をからだが孕む抽象力に関わらせているのだともいえます。こうしたことからすれば、女形役者の形象化の方法は立役とはまったく異なっているのです。
「おやま」とは本来は遊女の古称です。初期の歌舞伎の「女方」は主に傾城役であり、そこから女形の俗称になったといわれます。それで、女形の成立、その虚構性への関わりについて考えるためには、ふたたび転換期に戻って考える必要があるでしょう。女形が関わろうとする抽象力が、具体的には転換期の官能的身体があらわにしていた表現に由来するのではないかと考えられるからです。
 織田信長は、尾張・津島の盆踊の際に行なわれた風流踊に、天人に扮して「女踊」を踊ったといいます。下克上の時代を象徴する信長は青年期からその異装で知られ、「カブキ者」に相当する一面をもっていたのです。名古屋山三郎(1572または15761603)という人物がお国の舞台に亡霊役で登場しますが、彼は実在した戦国武将であり、その異装から「カブキ者」といわれ、かつ美少年であったようです。戦国時代は、いっぽうで信長の小姓である森蘭丸が美少年として名を馳せた時代でもあります。戦国時代も終わって時代が転換期に入ると、「若衆」という、武士や僧侶を相手に遊ぶのを業とする少年たちが現れました。先に「若衆歌舞伎」があって、その中から「若衆」が出て来たのか、それとも「若衆」のなかでも容貌の優れた少年のみを取り集めて「若衆歌舞伎」が始められたのか、その経緯はわかりません。お国の「カブキ踊」をうけてまず「女歌舞妓」が起こり、同じ頃に「若衆歌舞伎」も起こって、京の民衆の人気を集めたのです。ただし、「女歌舞伎」にしろ「若衆歌舞伎」にしろ、どちらにおいても役者は売色を兼業していたようです。
「若衆歌舞伎」は、歌舞や滑稽な物真似をするのに少年が女装をして演じる芸の始まりです。女装した「若衆」が見せるその姿態に見物が熱狂したのです。いっぽうの「女歌舞伎」の役者たちも、そのほとんどが男装して演じていました。女性芸能者が男装するのは中世の白拍子の伝統をふまえていると思われますが、「若衆」も女装して演じていたことからして、この転換期の舞台にあっては、男女の区別のなさのうちに身体の官能性が打ち出されていたことがわかります。男女という対の概念が取り払われ、男でも女でもない独特の魅力を打ち出した所作事が演じられたのです。それゆえ、演じるのは当然に若い身体でなければならなかったでしょう。
「若衆歌舞伎」が禁止されると、次は「物真似狂言」と名を改めて幕府の許可を得ることになりました。この「物真似」の語は、模写を意味するというよりも「似せる」の意であり、似せ事=偽せ事、すなわち虚構に近いといいます。狂言を演じる際の「虚構」意識がすでにここに示されているわけです。この「物真似狂言」も上方が始まりで、美少年は見物を惑わすから額髪を剃り、茶筅髪を結った野郎姿で舞台に出ました。そして「女方」はといえば、月代の上に手拭いを置いて月代を隠し、女性に似せて演じたのでした。これを「野郎歌舞伎」といいます。ちなみに美少年の魅力について、たとえば、「脇ふさげば雨ふり、角入るれば風立ち、元服すれば落花よりはつれなし」、といわれます。ここでは、年少の頃は匂うような容姿であったのが、やがて着物の脇がふさがれて肌を垣間見ることができなくなり、前髪に角を入れて額を剃り、元服すればただの野郎頭となって、少年の魅力が失われる、そう歎いているのです。「少年愛」は古今東西に普遍的な現象ですけれども、俗に「少年の命は夏の一日」といわれるように、「若衆」の外見的な魅力はいったんピークに達するや、その後は落花のごとくであったのでしょう。
 初期の「女方」の演技がどんなもので、見物の反応がどうであったかといえば、女形の租と伝えられる村山左近(生没年不詳)と、その弟子右近源左衛門(1622〜没年不詳)について、次のようにいわれています。
「村山左近は、髪を鬱金色の練絹で長く包み、女姿で、短冊をつけた花の枝を持ち、三味線入りの唄で踊りを踊って、たちまち満都の人気を博した」(「江戸演劇史 上」)。しかし、寛永十九年(1642)、村山座の興行半ばに、町奉行から「男子を女子に仕成し、物真似致させ、なまめきし事致間敷候事」というお達しがあって、興行が禁止されました(同上)。「女歌舞伎」に似た「なまめかしさ」がそこに見られたからです。いっぽうの右近源左衛門は、慶安二年(1649)、彦作座の演目「海道下り」で「三十歳ばかりで女の姿になり、二人の少女を従えて東寺の野に若菜摘みに出る。そこへ好色な大名が来て酒宴になり、源佐衛門は道行を舞う。その美しさに満員の見物は『生るは死ぬるは』と叫ぶ声、そのどよめき雷のようだったという」(同上)、とあります。
 姿態の「なまめかしさ」や見物の「生るは死ぬるは」のどよめきから、男性が女装して演じるそのすがたに、「若衆歌舞伎」から根強く受け継がれる官能的身体があらわにするものの一端が知れます。それは男とも女ともいえぬ未分化な性的魅力であり、若い身体に特有のものなのです。したがって、右近源左衛門が三十歳でそのような魅力を見せることができた「女方」の芸に注目すべきでしょう。
 泰平期に入って歌舞伎が演劇形式の表現として成立すると、女形が定着し、その演技も型において形象化されてきます。元禄期以前からの名女形である荻野左馬之丞(16561704)は器量は良くなかったけれども、その芸は見物をして、「肥前瘡を熱湯にてたでるに等し」(同上)、そう言わしめたといいます。すなわち、痒い疥癬を熱湯の湯気にあてて蒸すときの、肌がうずくような快感を見物に与えたというのです。外見的な魅力のない分その芸は姿態というよりも身振りにあったのであり、男性が女装して見せるだけでなく、女性の身振りをする芸のうちに何ともいえない官能的な表現があったのでしょう。
 初代・芳沢あやめは舞台の外においても女形であることを意識していたばかりか、「平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし」(「あやめぐさ」)、と後輩に向けて説いています。その芸は、科白まわしと身のこなしの演技にあったといいます。彼はその頃の多くの女形同様に色子(男娼)の出であったから、女性に似せた仕草を早くから身につけていたのかもしれません。所作事(舞踊)よりも地芸を良くし、女性の情を表現する地味な芸風で評判だったといいます。ちなみに色子は稚児の流れをうけた習俗であり、虚構の形態ではありません。
 それに対して、上方随一の名女形といわれる初代・瀬川菊之丞は、舞踊の基礎を築いたことで知られます。彼は日常生活も女装で通したことから、女性として暮らすことで、男性でありながら男性の神経アレンジメントを極力打ち消そうとしたのだと思われます。そのからだには代わって、男性が女性を取り込もうとする、というか女性を区別しない神経アレンジメントが立ち現れてくるのではないでしょうか(※ここではあくまでも江戸期における都会の洗練された生活環境を条件に考えている)。女性としての生活をするとはいえ、それで女性特有の神経アレンジメントがからだに立ち現れてくるのではないからです。とすれば、所作の連続で成り立つ舞踊を構成するのに、女性の身振りを取り込むとはいえ、それは男女の区別のないような、いわば男女に未分化な神経アレンジメントを軸にして演じられたのではないかと思われます。そうであれば、女形のからだが孕む抽象力が、男性が女性の神経アレンジメントを取り込もうとしてそこに立ち現われる男女の未分化なかたち、そうしたものとして表されることになったのではないか、そう考えるわけです。そして、そのかたちはといえば、中性的とか両性具有的とかいうのではなく、<若さ>をおいて他にないだろうと思います。たとえば、芳沢あやめは、「女形といふもの、たとへ四十すぎても若女形といふ名有。ただ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそ()はりたるにて、花やかなる心のぬけぬやうにすべし。わづかなる事ながら、此若といふ字、女形の大事の文字と心得よと稽古の人へ申されしを聞侍りし」(「あやめぐさ」)、と語っているからです。女形にとって、役者の形象化もさることながら、何をおいても<若さ>が命だったのです。
 瀬川菊之丞も色子の出であるけれども、外見が人並みだったので二十代で役者を一度廃業しています。いったん日常生活を経験したため(これは男との生活だった)、女形という存在が現実とは相容れない虚構であることをよく知っていたといわれます。言い換えれば、女形の芸が、虚構を自らに強いることによってからだが孕む抽象力に関わるものであることを彼は理解していたのです。そして、そのことを敷衍すれば、江戸期の女形は男性が女性を演じるという虚構を生きることになるけれども、それは男性でありながら自らのうちに女性を区別しない神経アレンジメントを軸にする生活と共にあり、そのことはいわば男性が自らのうちに女性をも含んだ生を演じることだったといっていいでしょう。その結果、男性という個人的な生の境界を取り払うことになったと思われます。そして、そうした個人的な生を逸脱するところにこそ、女形の表現の可能性が見出されたのではないでしょうか。男性が女性以上に女性らしく見せるという点で女形は虚構性を条件にしているとはいえ、女性としての生をも生きようとするという点において個人の生を逸脱して表現することができるという、そのような芸を志向する<欲望>に沿うような現実性がそこにあったのではないか、そう考えるわけです。もとをたどればその表現は、転換期という数少ない契機における男女の区別のなさにおける官能的身体にあるでしょう。立役が漂わせる色気も転換期の官能的身体に基づいていますが、女形は、色気という個人的表現をも踏み越えて大きく逸脱していったのです。立役が型に嵌まることで役者としての形象化を実現するのに対して、女形は型に嵌まることで逆に個人の生を逸脱していくのです。そこには男女の未分化な神経アレンジメントの働きが息づいているでしょう。そのような個人の生を逸脱した、ある意味では自由な場において女形の芸が生まれ、女形役者の形象化がなされることになったのです。それゆえ、女形がその芸において実現する<若さ>には、個人の生を逸脱することによる、より意識の深層に触れるような身体表現があったのではないかと思われます。
 転換期特有の開放感覚は「カブキ踊」を生み、さらに女性が男装し男性が女装するという「女歌舞伎」や「若衆歌舞伎」において、男女の区別のなさにおける身体の官能性が打ち出されました。しかし、歴史において開放期はつねに短い。傷口が瘡蓋へと塞がれるようにして開かれたものはすぐに閉じられるのです。けれども、開放感覚が泰平期へと閉じられるとはいえ、かつて開かれたものをめぐる記憶は<襞>となってからだのうちに潜在化することになったと考えます。そして、その<襞>は、次元を変えてふたたび開かれようとするのです。すなわち、男女の区別のなさにおける身体の官能性は、女形という虚構の生の形式において、からだが孕む抽象力に関わることを軸にして展開されるようになったのです。転換期の開放期に開かれそこに立ち現れたものは、泰平期になって一転して女形の芸という異なる次元において(個人の生を逸脱する次元において)、からだが孕む抽象力として立ち現われることになったのです。そして、その抽象力は、演技すなわち役柄の形象化においてではなく、所作の連続において表現される舞踊によってさらに開かれ、その果てに女形舞踊という新たな表現形式を生み出すことになりました。女形の実現がそこにあると思われます。女形が男女の区別のなさにおける官能的身体を潜在的に抱えるとすれば、その表現は女性以上に女性らしく見せるということにあるわけではなく、官能的身体というからだに潜在するものをふたたび開くことにあるでしょう。そのことが、虚構の女性というかたちにおいてなされるという条件がそこにあるだけなのです。女形舞踊には女性の身振りが取り込まれているけれども、それは女形を女性らしく見せるという以上に、その身振りは抽象力そのものへと昇華された表現となっているのです。

 歌舞伎表現における女形舞踊は独特な位置を占めています。もともと歌舞伎表現の構造は立役によって支えられ、女形はその構造の一端に役割を占めていただけであるわけですが、後になって立役の役者も女形舞踊をするようになるのは、そこにからだが孕む抽象力がありありと示されているからであり、その表現価値が見定められたからではないかと思われます。早くから女形舞踊に「変化舞踊」という様式ができましたが、その様式が後に歌舞伎表現において独立した作品となっていったのをみれば、そうしたことがわかると思います。
 まず長い狂言の演目の一部に舞踊が挿入されました。そのことによって狂言の展開に広がりを見せることができるようになったといいます。舞踊を挿むことによって、歌舞伎表現が音楽的な身体表現を基調にするものとなったのです。こうした舞踊による表現の革新には、ことに元禄期からの三味線音楽の展開が欠かせません。
 宮古路豊後掾(生年不詳〜1740)は浄瑠璃太夫で、都一中の弟子になります。彼の創始した豊後節の流行によって三味線音楽は一変したといいます。さらに豊後節の流布という基盤によって歌舞伎舞踊も一変することになりました。その流行については次のようにいわれます。「豊後節の流行はその風俗にも及んだ。豊後掾の風俗を真似て、髷の腰を直線で上に突立て、巻鬢と称して鬢の毛を下から上へかきあげて月代の際で巻き込んで結ぶ。このヘアスタイルに、着物よりもちょっと短いと思う程度の長い羽織を着た上に、羽織の紐を小さく結んで長く下げる。これに小刀の落し差しだから、一見だらしがないほどのゾロリとしたなりである。これを『文金風』といった」(「江戸演劇史 上」)。大店の若旦那、といった姿が目に浮かびます。豊後節は都市のファッションに影響を及ぼすほど人々に感覚的な作用を与えたのです。豊後節はそれまでの長唄や竹本といった三味線音楽の形式に比べて、時代の風俗により敏感であったのです。そのため、豊後節を介して時代の流行曲を歌舞伎舞踊にも取り込むことができたわけです。さらに豊後節から出た流派に、常磐津、富本、新内、清元などがあり、「常磐津は古風で豪宕、タッチが太く、富本は優雅典麗、繊細で細いタッチ、新内は官能的で煽情的である」(同上)、といった音曲趣向の違いが現われるようになりました。三味線音楽がより豊かになり、それと共に音曲の広がりができたのがわかります。こうした新しい音曲と共に、ことに初代・瀬川菊之丞と初代・中村富十郎(17191786)の二人の女形によって、「音楽に乗った舞踊による新しい身体が成熟した」(同上)のです。
 音曲は感覚的なものであり、それはおのずと女形には欠かせない<若さ>と同調し、その抽象力にかたちを与えることになっただろうと思います。また、音曲による感覚作用、その官能性は、女形の生をさらなる逸脱へと駆り立てたかもしれません。音曲の豊かさと共に、女形の芸も成立したのです。たとえば、女形の先達である「芳沢あやめのせりふ中心の身体とくらべて、菊之丞の身体はせりふのない舞踊的な動きと思い入れのものであった…。この時点で女形の身体は大きく変化したのであり、それはまさに『女方』から『女形』へという呼称の変化に比例している」(同上)、といわれます。
 初代・中村富十郎は、初代・芳沢あやめの三男で、十歳のときに色子として舞台に立ちました。舞踊に天才的才能を示したといいます。とんぼ返りを打つなど身が軽く、晩年まで若い役者に劣らぬ身の軽さで見物を驚かし、それでいて息切れ一つしないほどの身体的な柔軟さと強靭さとを備えていたといいます。その<若さ>について、たとえば次のようにいわれています。「元禄時代の女形四天王はいずれもその器量のおとろえを克服することができなかった。左馬之丞やあやめでさえ晩年は苦しんだのである。それを克服したのは初代・菊之丞と、それに続いて富十郎であった。彼らは気量が衰えても美しく見せるだけの美学をもった。その美学の中核は踊りである。踊りによる身体の改造であり、形の美しさであった。菊之丞がお染やお七で大当たりをとったとき、富十郎は四十歳から四十一歳である。しかも富十郎は年ごとに若くなる、逆に年をとるといわれたのである」(同上)。ここでいわれる舞踊による「身体の改造」とは、前に述べたような、男性である女形が自らの神経アレンジメントを男女の未分化な領域へと開いていく、そのような神経アレンジメントの操作にあると考えられます。
 中村富十郎の舞踊で画期的な作品が、現在にも伝わる「娘道成寺」です。「娘道成寺」は「男伊達初買曾我」の三番目で、外題「京鹿子娘道成寺」として宝暦三年(1753)に初演されました。もともと能の「道成寺」(鬼女物・作者不詳)を原作とし、それまでにも「娘道成寺物」と呼ばれる演目がいくつかありましたが、現在までその曲目と振付けが残っているのは富十郎のこの「娘道成寺」のみであるといいます。それは女形舞踊の始まりといってもいい作品なのです。たとえば、菊之丞の「百千鳥娘道成寺」は舞踊を含みながらもその構成は物語であったのが、富十郎の「京鹿子娘道成寺」は各段に当時の流行唄を組み込んだ歌舞によるメドレー形式という構成になっていて、明らかに作品全体が舞踊化されているのがわかります。その内容は現在においても舞台を観れば知ることができますが、まず「道行から能がかり、それがくだけて『鐘に恨みは数々ござる』。さらに一転して当世風の手踊り『いわず語らぬ』。リズミカルな鞠唄、姿の一変した花笠の『わきて節』、さらに『恋の手習』のくどき。ふたたび一転して壮大な山づくし。ふたたび当世風の手踊りという風に、各段が独立した細部の集りである。その取り合わせが対照の妙を生んでいる。(中略)…『恋の手習』のくどきは三つの唄から成り立つ。最初は『恋の手習』の少女の唄、次は『末はこうじやにな』の遊女の唄、最後は『ふっつりりん気』の人妻の唄。三つの唄は多分独立した唄を寄せ集めたものであり、それがどう見ても一つの曲に思えるようにつながっている」(同上)、というものです。場所は紀州・道成寺で、全山に桜が咲き誇り、その満開の花を背景にしてひたすら一人の女性が踊り続けます。一時間近くをほぼ一人で踊りきるのです。歌舞伎舞踊の頂点をなす作品といわれ、女形は科白を語る役柄を演じるのでも、「道成寺」の物語を表すのでも、芝居をするのですらありません。「ひたすら一人の女が桜の下で踊り抜くという放縦といってもいい官能、ほしいままに享楽的な気分」(同上)に満ちた作品がつくりあげられたわけです。また、その踊りの振りに何らかの意味が込められているというわけでもありません。富十郎は、複雑な振付けで踊るとそこに意味が生じてしまい、意味が生まれることによって「踊りの実体」が失われてしまうと考えていたといいます。女形による、そのからだに孕む抽象力の実現がここにあると思います。そして「踊りの実体」、すなわちからだの抽象力に関わることにおいてこそ、自ずとそのからだに蛇体という異形のものも立ち現れて来るのです。それは女形の抽象力を掘り下げることによる自然力=潜在的なものが立ち現われることの表現なのであり、それは得体の知れない官能性を孕み、また<死者>にも通ずるものとして立ち現れてくるのではないかと考えます。そうしたことすべてが、白拍子の「横笛」が踊りながら釣鐘へ向ける幾度もの視線から感じられます。白拍子は中世に男装して舞を舞った女性芸能者(であり遊女)ですが、その役柄を男性が女装した女形が演じるわけです(「娘道成寺」では烏帽子を着けるだけで白拍子を表している)。こうした複雑な設定は「道成寺」が能に由来しているからですが、歌舞伎の女形舞踊の表現と共に作品全体が音楽化し舞踊化したことにより、女形の関わる抽象力がかたちとなって表され、その主題がより明らかになったともいえるのではないかと思います
 富十郎の「京鹿子娘道成寺」以前に、すでに述べたように、「変化舞踊」という女形舞踊の独自の様式がありました。一人の女形が次々と異なる役柄に扮して踊るもので、一曲ごとに衣装、伴奏の音楽ジャンルも変わります。元禄の水木辰之助(16731745)に「七化け」があり、初代・瀬川菊之丞にも「七小町」があったといいます。しかし、中村富十郎の「娘道成寺」によって、舞踊の変化の展開の仕方が「俳諧のつけ合いのような」洗練された構成になったといわれます。こうした洗練が、四代目・岩井半四郎(17471800)や三代目・瀬川菊之丞(17511810)へと受け継がれ、文化・文政の「変化舞踊」大流行の基礎になったといわれます。たとえば、よく知られた作品として、長唄舞踊の「汐汲み」(1811初演)や「藤娘」(1826初演)があります。様々な短い踊りを組み合わせて全体をつくり上げるという作品展開の仕方は、もとはといえば、「娘道成寺」のメドレー形式の構成に端を発しているわけです。したがって、このメドレー形式という発想は恣意的なものではなく、意識的にであれ、無意識的にであれ、そこには部分から全体を構成するという表現手法を明確にみてとれます。
 最後に付け加えれば、からだが孕む抽象力とは過剰なものであり、ことに女形がその過剰なものに関わることは、男性が女性を演じるという虚構的身体を介して関わざるを得ないゆえに、またその神経アレンジメントを介して男女の未分化な意識領域に関わらざるを得ないゆえに、自ずとからだのモノ性に関わることでもあるといっていいでしょう。意識が、意識とモノの差異に関わることにおいては、自ずとそこに無限を開く傾向があります。それゆえ女形の表現は、たとえば「八百屋お七」にしても「お染め」にしても、見物に<表象>として結ばれることが幸いにもなかったのではないかと思います。

 個人の生を逸脱するということにおいて、女形の芸は歌舞伎の表現の中でも、芸のストックに対する個人のフローの比率が高いといえるでしょう。昭和期になって、六代目・中村歌右衛門(19172001)や五代目・坂東玉三郎(1950)という希有の表現者が出て来たのは、歌舞伎表現の凋落に抗して、こうした個人のフローの比率を高める傾向に従っているからだと思われます。中村歌右衛門は、女形が関わる抽象力に初めて個人的な表現を与えたといわれます。歌右衛門は女形でありながら、立役のように舞台の中心に立って女役を演じたのです。歌右衛門の個性的な芸態に比べれば、いっぽうの玉三郎の芸態は古風にみえますが、それだけに、転換期に始まって江戸期に実現し、明治期の凋落期を耐えて現代にまで生き延びてきた、女形の芸をまざまざと見る思いがします。
 こうした女形の表現者が出て来たおかげで、近代になっても歌舞伎表現はその生命を維持することができたのではないでしょうか。現代の歌舞伎に女形の役割がなかったら、つまり、歌舞伎が男女が演じる演劇であったなら、これほど世界に好評を博すことがないにちがいありません。歌右衛門や玉三郎の女形の芸には<若さ>が保たれています。<若さ>は世阿弥の「花」にも喩えられますが、それよりもそれは生き生きしたもののことであり、喩えていえば、魚がぴちぴちと跳ねる活きの良さを示しているでしょう。富十郎ではないけれども、年を重ねるほど神経の働きは逆にぴちぴちとしたものになってくることがある、そうしたものなのです。「女方は歌舞伎の花である。老練な偉大な女方が必要な一方で、莟の花の若女形がゐなければ、歌舞伎は成り立たぬ。(中略)…世阿弥以来、日本の芸道は、少年の『時分の花』と、老年の『まことの花』とが、両々相俟って支へて来たのである」、と三島由紀夫が書いていますが、「時分の花」には言うに及ばず、「まことの花」にも<若さ>がなければならないのです。<若さ>は「時分の花」における特権ではないのです。

Thursday, April 30, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


三 能、歌舞伎、舞踏

 2. 歌舞伎

 織田信長は幸若舞を好んで自ら舞い、豊臣秀吉は能を習って自ら舞うばかりか、「太閤能」をつくらせて自身の前で演じさせたといいます。徳川家康もまた能を嗜み、能を幕府の式楽と定めました。
 いっぽう、それまでにない下克上の戦乱期を経験し、その戦乱期の混乱が閉じるのをうけて、都市の民衆の間では未曾有のエネルギーが渦巻いていたようです。慶長九年(1604)八月、家康が京で秀吉の七回忌を行ないます。その際に町衆が繰り出した「風流踊」は、史上空前のものであったといわれます。その様子は、「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を見るとよくわかります。派手な衣装を揃えて着飾り、陣笠のような被りものに扇を手にして群舞する人々、中心には巨大な天蓋が繰り出し、鳴り物や太鼓があり、軍配を手にした様々な異形・異相の風流姿の面々がきらびやかな色彩で描かれています。当然そこには、音頭取りや掛け声もかかっているわけです。中でも目を引くのは踊りのかたちです。一人一人の異なる動きが活写され、なおかつ全体が渦を巻くように描かれていますが、腰を器用に操り、肩を捻り、四肢を自在に踊る姿は、町衆の実に躍動的なすがたを伝える表現となっています。
 その前年の慶長八年四月には、「此頃カフキ踊ト云事有、出雲国神子女、名ハ国、但非好女仕出京都ヘ上ル。縱(タトエ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣装以下、殊更異相也、彼男茶屋ノ女トタハムル体有難シタリ」(松平忠明編集「当代記」)とあるように、いわゆる「出雲の阿国」による歌舞劇が北野社で催されていました。この様子についても、「阿国歌舞伎図屏風」(京都国立博物館蔵)から知ることができます。お国と見られる人物は、「異風ナル」男装をして、大刀をその肩に担いでいます。他には男性が女に扮した茶屋の女役と、道化役で六尺姿をした「猿若」が描かれています。舞台は能形式であり、楽器も、笛、小鼓、大鼓、太鼓を使っています。「茶屋ノ女トタハムル」とは、異形・異相の「カブキ者」が茶屋の女と遊ぶ当時の京風俗で、それを舞台で摸したのでした。ただし、男性と女性の役柄を逆転させて演じているところに、その表現の意味があるでしょう。さらに、お国の舞台を時系列的に描いた「国女歌舞妓絵詞」(京都大学付属図書館蔵)を見ると、ここでも能形式の舞台に、笛、小鼓、大鼓、太鼓が詰めています。その演目は、お国扮する念仏僧で始まり、覆面した「カブキ者」名古屋山三郎の亡霊が来訪すると、一転してお国は女性役となり、最後に賑やかな総踊りで終るという構成になっていて、能の表現形式を借りながらもその内容は別種のものになっているのがわかります。
 お国の「カブキ踊り」の評判とその成功は、若衆歌舞妓、女歌舞妓、遊女歌舞妓などの「歌舞妓踊」を続々と生むことになりました。その舞台の様子の一端も、「四条河原遊楽図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)から知ることができます。舞台上で、揃いの艶やかな衣装を着た踊り手たちが輪踊りしています。一見しただけでは、舞台で踊っているのが女性なのか男性なのかわかりません。注目すべきは、舞台上の踊りの輪の中心に、大仰な床几に腰掛けた三味線奏者がいることです。舞台脇にも何人かの三味線奏者が詰めています。音曲に新しい要素が加わっているのです。
 ここには時代の変動が起きているのを見ることができます。お国という女性芸能者が従来の表現形式をふまえたうえで、男女役を転倒させるという挑発的かつ現代的な内容の表現を提示し、それが京の民衆を熱狂させたのです。京にはすでに様々な芸能者や「カブキ者」が集まり、おそらく豊国祭礼の際に異形・異相の風流踊りの構成要素となっていると思われます。そして、四条河原にはたちまちのうちに諸芸を見せる小屋が立ち並び、京に居着いた芸能者たちが芸を競い合っています。中でも、揃いの艶やかな衣装を着た多数の踊り手で構成される「歌舞妓踊り」が、多くの人々を熱狂させたのです。その「歌舞妓踊り」の主体はといえば、少年・女性芸能者・遊女です。それまでになかった三味線の色彩感に富む音色に乗ってその性的身体をあらわにした踊りは、官能性に満ち満ちていたのです。
 長い戦乱の終息による経済成長、それに伴う急激な貨幣流通、様々な娯楽の集中、さらに海外貿易による異国趣味感覚の流通等によって、都市の民衆の身体感覚はいっきに変動したのです。歌舞伎の表現は、こうした時代の転換を背景にしていっきょに噴出した民衆による官能もあらわな身体感覚を基盤にしているのです。言い換えれば、能の多様な表現空間から演者の官能的身体へと、仮面をつけて偽装した身体表現から生々しい存在を直に感じさせる身体表現へと、その身体表現をめぐってからだの内なる位相(欲望)へと食い入るようにさせる衝動がこの時代にはあり、そうした衝動と共に歌舞伎の表現もかたちを成していったのです。こうした転換期の視点に立って、江戸時代に成立した歌舞伎表現を検討してみたいと思います。なお、歌舞伎に関する史実については、渡辺保著「江戸演劇史 上下」を参照しました。

 1) 江戸期の歌舞伎
 江戸幕府は、あらゆる制度的な面での一元化を進めました。官能性を打ち出す表現は風紀を乱すと同時に、その蔓延は江戸幕府の政治秩序を揺るがす恐れがあることから、「歌舞妓踊り」も統制されることになります。早くも慶長十三年(1608)、前年に伏見から駿府に入った家康が、駿府から女歌舞妓の追放を命じます。寛永六年(1629)には女歌舞妓が禁止され、翌年には男女が交じる興行も禁止となります。そして承応元年(1652)、衆道取締の政策に沿って、若衆歌舞妓もとうとう上演禁止となります。結局、成人男性演者による非官能的な表現以外は道が閉ざされることになるわけですが、江戸時代の歌舞伎二百年の歴史は、幕府の統制に抗する身体表現の歴史でもあります。
 寛永元年(1624)、元祖・猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)が、「能狂言を歌舞伎に取仕組興行致したく」(「中村座由緒書」)と、江戸に猿若座を開きました。これが江戸における歌舞伎興行座の始まりで、自前の劇場を幕府の膝元にもつに至ったという点で、日本芸能史上画期的な事例となります。「猿若」の名は、お国の「カブキ踊り」に道化役・後見役として登場した「猿若」を引き継ぐものであるといい、その演目に「猿若」がありました。その内容は、「前段が伊勢の女郎たちの客引きの物真似で女形である。後段になって岡崎の橋普請の材木を引く音頭取り。これが猿若の本芸である。続いて五段の獅子、鶴の舞。猿若の出から終わりまで唄、三味線入りである」(「江戸演劇史 上」)とあるように、物真似芸ではあるが、女形芸があり、音頭取りがあり、舞がありという風に、従来の物真似芸とは異なっているようです。それは滑稽を売り物にした物真似ではなく、中世の物語り芸とは距離をおいた見世物的な表現になっているようです。そして何よりも、ここに全編、三味線音楽が入っていることに注目したいと思います。
 そもそも、歌舞伎表現の成立と三味線音楽とは切っても切れない関係にあります。三味線は、戦国時代に商業都市・堺で、琵琶法師等が中国の三弦に改良を加えてつくった楽器にその発祥があるといわれます。その三味線が、座頭が演奏する地歌と共に遊里に流れ、それが遊女歌舞妓を通していっきに市井に広まりました。「四条河原遊楽図屏風」に描かれた舞台では、すでに踊りの伴奏に幾棹もの三味線が使われているのを見ることができます。三味線音楽のこうした爆発的な広がりは、当時の身体表現において三味線の音色があるのとないのとでは格段の違いがあったことを物語っています。三味線は、それまでの能管や鼓、琵琶が奏でる音曲と異なり、その音色は色彩感に富み、軽快な副旋律を自在につくりだすことができます。また発声と相乗し、かつ発声と一体化した音曲をつくりだすことができました。こうした三味線音楽がもたらす感覚豊かで身体と相乗効果をもつ音色と共に、まず人形浄瑠璃が生まれ、そして歌舞伎芸能も成立したのです。三味線を伴奏にした「猿若舞」は江戸中の人気を集めたといいます。このことは、「歌舞妓踊り」の官能的な身体表現がかたちを変えて三味線音楽のうちに受け継がれ、翻ってその三味線音楽を介して、官能性を保持するものとしての歌舞伎表現が現れたのではないか、そう考えさせるわけです。歌舞伎表現と三味線音楽とのこの濃密な関係は、後に歌舞伎音楽である江戸長唄を完成させました。また一中節、河東節、豊後節などの浄瑠璃三味線音楽から影響をうけて、歌舞伎表現においてもその展開と並行するようにして、常磐津、富本、清元といった異なる特性をもった三味線音楽の流派が生み出されていきました。その豊穣な音色が、歌舞伎の身体表現を支えていくことになります。
 猿若座以後の歌舞伎表現は、「物真似狂言尽し」、「歌舞伎浄瑠璃」といった風に、幕府の規制をすり抜けるようにして、狂言や浄瑠璃といった物語り的な側面を取り込みつつその表現形態を変化させていきますが、江戸と上方において、現在のような演劇形式の歌舞伎表現として成立するのは、十七世紀中頃から元禄期にかけての頃です。この間に、短い狂言を連続的なものへと演技構成したり、浄瑠璃の長い物語りを役者の身体が実際に演じ通すことで、歌舞伎表現の創造がなされていったのです。この時代にすでに、「荒事」、「和事」等の表現が成立しています。また、「立役」、「敵役」、「女方」、「若衆方」、「花車方」、「道化方」などの決まり役と共に、「和事」の中にも、「やつし事」、「濡れ事」、「口説事」などのカテゴリーができてきます。そこには総じて、演技の型が生まれているのが見てとれます。歌舞伎表現における型の成立は、元禄期以前から元禄期にかけての役者の功績であるといえるでしょうし、彼らが自ら戯曲も書いたことからすれば、主に役者たちがその演技の型を核として歌舞伎という舞台表現を創造していったのです。そのことはすなわち、転換期の「踊り芝居」から役柄を表す演技による身体表現へと、その技芸の質を高めたということができます。歌舞伎表現は、それまでの役者の外見といった感覚的なものを売り物にする見世物ではなく、個々の演技から推し出されてくる表現の意匠、すなわち芸を打ち出す身体表現となったわけです。
 こうして歌舞伎は、主に浄瑠璃の長い物語を枠にした演劇表現として成立したわけですが、それでも総合的に見れば、三味線音楽とその伴奏による舞踊、物真似芸や台詞回しの芸、「荒事」等といった、細部の技芸も交えた綜合芸として元禄期に成立したのです。その表現は、たとえば顔に紅白粉を塗って演じられたように、決して写実的なものではありませんでした。写実的な表現ではないけれども、それは転換期の「歌舞妓踊」に由来する、あくまでも具体的な身体があらわにする表現だったのです。役柄という要素を軸にして、役者の具体的な発声と表情と身振りとが見物の前に打ち出される表現がそこにあったわけです。そして、その具体的な発声や表情や身振りのうちに、現実世界を映し出すような多様な風俗・身振りを取り込んでいるのが、転換期の身体をルーツとしている歌舞伎表現の特徴なのです。たとえば、「六方」のような歩き芸がそうです。「六方」とはもともと転換期の無頼の徒のことをいい、その意は風流などの練り物を繰り出す際の異相や足の踏み方に出自があるといわれます。無頼の徒は幕府によって取り締まられたわけですが、当時、江戸の都市普請に従事する下層労働者の台頭があり、その人目を引く出で立ち、俠気や粗豪の荒々しい気風が舞台に取り入れられ、立役の登場の際に気負ったスタイルで歩く「出端」の芸として「六方」があったといわれます。またそれとは対照的な、願人坊主等の大道芸を摸した、後の「浮かれ坊主」のような軽妙な所作事があったり、また髪結い、畳刺し、風呂焚きなどといった市井の風俗がその身振りと共に舞台に取り込まれました。また、歌舞伎表現の代表的作品である「助六」は、その演目全体が吉原遊郭の描写であり、登場人物の衣装や身振りや台詞回しも含めて、吉原をそのまま舞台上に取り込むようにして再現した表現であることに特徴があります。さらには、「暫」の過剰な衣装と隈取した姿かたちには土着信仰の要素が取り込まれていますし、女形舞踊には女性の身振りが抽象化されて取り込まれています。抽象化されてというのは、女性以上に女性らしく見せようとして、ということです。またさらには、「見得」や「睨み」いった彫刻的な表現手法が取り入れられ、さらに後には、「暗闘(だんまり)」という身振りだけを見せる演出が取り入れられたりして、実に多面的な身体表現となっています。このように、広い演劇形式の中に様々な身振りや風俗を取り込むことができたのは、元禄期に様々な身振りが型として演じられ、身振りを型として定着させていく方法意識があったからではないかと思います。そして、その型が代々継承されていくことで、歌舞伎表現はその表現形式を変えることなく、江戸二百年を生き延びることができたのではないでしょうか。
 歌舞伎表現における型の形成は、身体の官能性として現われるような、からだが抱える過剰なものを表現する、といった志向性が表現者のうちにあったからではないかと思われます。たとえば「荒事」の所作は、過剰なものを身振りの型へと封じ込めるようにしてできています。身体に渦巻く過剰なものを表そうとするのですから、型に封じ込めなければその表現は成り立たないでしょう。なかでも、「引くという動作に「荒事」のエッセンスがあるといわれます。「象引」、「草摺引」、「車引」などの型が伝えられています。「引く」という動作にはたいした動きがないにもかかわらず、そこには力が感じられます。その動作というか、「引く」という緊張を孕んだ身振りにおいて、そこに力が封じ込められているのが実際に見てとれるからです。そのすがたは人の目を惹きつけます。からだ全体に力が拮抗するのがあらわになり、その強度の現われが官能的だからです。そうした観察に長けていた者があり、「荒事」の型がつくりだされたのではないかと思います。そして、最初は現実世界をそのまま写す身振りであったのが、様々な試行錯誤の果てに、力すなわち過剰なものは型に封じ込められることでその背景的なものから切り離され、身振りが推し出す純粋に官能的なものとして方法的に表されることになったのではないでしょうか。転換期の官能的身体のような直接的な表現から変質したとはいえ、それが過剰なものを表現することであるのに変わりありません。
「荒事」を得意とした江戸の初代・市川團十郎(16601704)は、役者としては「異色の出身」であったといわれます。その身体にもともと過剰なものを抱えていたからこそ、それを型へと封じ込め、かたちを変えてその過剰なものに関わる表現ができたのではないかと思います。その團十郎の自作狂言に「参会名護屋」(1697)がありますが、その物語の展開には過剰なものが溢れ、その果てに神話的な時空を出現させているほどです。この物語は後の「歌舞伎十八番」の源泉になっているわけですが、その一部が「暫」になりました。「暫」を演じる役者は、その人間離れした衣装と隈取りをして花道に出るだけで、すなわち観客を前にして鎌倉権五郎景政の型に嵌まるだけで、身も心も別人のようになるのだといいいます。身につけた大仰な仁王襷は一種の呪力を表すともいわれます。「荒事」の型には特異な意義が伴っているのであり、それが能の仮面と一面で通ずるようなものであることがわかります。
 もう一方の「和事」にも型があります。京の初代・坂田藤十郎(16471709)の当り役、近松門左衛門作の浄瑠璃「夕霧阿波鳴門」を歌舞伎に脚色した義太夫狂言である「夕霧名残りの正月」(1678)に登場する伊佐衛門は、かつて遊蕩児であったが、紙子(柿渋を塗った紙製の着物)一枚着たすがたで島原遊郭の揚屋に太夫の夕霧に会いに来ます。「やつし事」です。落ちぶれた姿をした二枚目役ですが、その演技に筋金が一本通っていなければいけないといいます。ここにもからだが抱える過剰なものがあるからです。それは、二年前まで夕霧の恋人であり、夜ごと島原で豪遊していた伊佐衛門の姿です。しかし、その演技の型はといえば、藤十郎が「実事(写実的演出・演技)」について、「おかしき事が実事也。つねにある事をするが故なり」(「役者論語」)という通りで、紙子姿をして、夕霧にのろけて馬鹿のようになっている、という背反的なものです。俗に、「二枚目は三枚目の心で、三枚目は二枚目の心でせよ」といわれます。この一見矛盾するような演技の型によって、逆に「傾城買い」という過剰なものがかたちを変えて推し出されることになるのです。すなわち、演じる役者の身体とその身振りに色気が漂うことになるのです。この色気が、とりわけ大事なのです。「和事」とは「傾城買い」を主題にした芝居であり、そもそも「傾城買い」とは、お国による「茶屋遊び」の物真似から「島原狂言」を経て、転換期から連綿と保持されてきた歌舞伎表現の大きな主題でありました。そこでは現実における過剰なもの(欲望)が型に嵌められることで表現されてきたのであって、そうした手法によって役者の身体が抱える官能的な面、すなわち色気が推し出されることになる、といった仕組みがよく知られてきたのではないかと思われます。
 このように、表現において型が形成されることで、からだが抱える過剰なものは転換期の官能的身体があらわにしていたものからおのずと変質することになりますが、「和事」にあっては、いっそうその内容の変質がみられるように思います。「荒事」を通じて、いっぽうでそれは身振りの型が推し出す純粋に官能的なもの、すなわち力へと変貌していますが、「和事」では、それは個々の役者の演技の型に伴う具体的な色気に変じているからです。この色気が大事なのは、それが役者が舞台で現す存在感を示すものにまでなっているからです。時代は転換期から大きく変わって泰平期に入ったのであり、時代の変化に伴うこうした表現内容の変質が、歌舞伎という演劇表現にまつわる「虚実」の問題を照らし出すことになるのではないかと思います。すでに、坂田藤十郎の先輩役者である杉九兵衛(生没年不詳)の芸論に、「狂言の実は虚よりおこり、おかしき事は実よりせねば、無理あてになる也」(「役者論語」)、とあります。役者が演技する際に「虚」の意識をもっていたのです。つまり、演技は偽事から始まるという意識があったわけです。
 歌舞伎はもはや、能や浄瑠璃のような中世的な物語り芸ではありません。それは幅広い意味での演劇です。物語り芸においてはその表現の形式上、語り手の位置が中心にあり、語り手の時空の枠の中においてすべてが展開されますが、演劇としての歌舞伎にはもうこの枠がありません。枠がないから、その表現は見物と直接に対峙することになります。たとえば、役者は狂言の役柄を演じている最中に見物に向かって口上を述べるなどして、役柄から一転して役者自身の顔を見せたりします。こうしたことは、歌舞伎という表現に重要な局面を与えていると思います。表現のさなかに、虚と実を差異化して見物に見せることになるからです。語り手の枠がなくなることで、虚から実を見せるという事実が前提となったのでした。
 中世的な物語り芸の中で演者が様々な役柄を演じるのと、歌舞伎の演劇形式において役者が役柄を演じるのとでは大きな違いがあります。演劇形式においては、その性質上、役者の演技に具体的な役柄の形象化が要求されるからです。おそらくこの役柄の形象化作業が、転換期の官能的身体があらわにしていたものを変質させることになったのではないかと思うのですが、さらにはこの役柄の形象化と共に、「虚実」の問題も立ち現われることになるのです。物語り芸の形式では、表現を軸にしてその場に立ち現われる想像力が演じる側と見物側共々にとってすべてであり、そうした虚も実も混淆している場に価値が見出されていたのが、演劇形式においては、役者が演じる役柄と見物がそこに観るものは形象的なものへと落下し、そこに演技をめぐる虚と実の区分けが否応なく問題とされるようになるからです。
 見物が観るその形象的なものについていえば、それは二重になっています。一つには役者の演技による役柄の形象化があり、もう一つには演技する役者の形象化があり、二つが重なっているのです。役者の形象化とは、役者が素の顔を消し、また日常的な身振りの癖をなくすなどして、あくまでも芸によって形成される役者のかたちを打ち出すことにあります。ここに役者生命がかかっているといってもいいでしょう。そして、舞台上で役者が自身の顔(素顔ではなく、あくまでも役者としての顔)を現していたことからして、この二重の形象化の間には最初から距離が示され、それゆえ、見物は役柄の形象と役者の形象との距離をも観てとるのです。演技の最中に見物から役者に向かって屋号がかかるのもそのせいです。さらに、この形象化の二重性があることで、後に「ハラ」や「ニン」といった、演技の方法や役向きに関わる概念が生まれることになったと思われます。
 役者が演じる役柄の形象化についていえば、役者は役柄を演じる、すなわち役柄を具体的に形象化させて見せることになるわけですが、次第に個々の役柄の形象に見合った演技の型が生まれてくることになります。というのも、役柄を形象化させて見せようとはするけれども、それを写実的なものとして示すのではないからです。その役柄が、変形された歴史人物であったり、実話をもとにしてつくりあげられた架空の人物であったりするのですから、それは当然です。要するに、役柄を演じるというのは、役者がみずから役柄をつくることであったのです。したがって、その演技が上手いというのは、それらしく演じる、あるいは役柄に真に迫る、つまり役柄を介して見物の感情に触れるということであり、その役柄自体にははなから真実味がないといっていいでしょう。とはいえ、この虚構の役柄をあたかも真に迫るようにしてつくり出すという手法が、演技の型を構成していくことにもなるのです。言い換えれば、役柄の形象化には、まず役者による意を尽した演技による形象化作業があり、それが型となり、その型によって役柄の人物が虚構として形象化されるという手順があると考えられるわけですが、こうした手順を前提にして、「虚実」が区分けされ、また「虚実」入り混じるといった視点も浮上して来ると思うのです。意を尽して役柄を形象化するその意匠にこそ役者の芸が見出されるわけですが、その果ての役柄の形象は見物の感情に触れるとはいえ、あくまでも虚構です。とはいえそこには、役者が意を尽して形象化の作業をする芸()と、見物に作用はするけれども真実味がない形象()との距離感がありながらも、真に迫るというピークにおいてその「虚実」の距離が見えなくなることもあるからです。とはいえ、役柄の形象化作業はその役柄が虚構であることによってはじめて着手できるのであり、虚構とわきまえなければ型も生まれるはずがないのです。演技をめぐるこうした「虚実」については、現在ではこのようなことをいうまでもないほど無意識のうちに理解されていますが、それもこれも歌舞伎表現の成立に由来するわけです。
 歌舞伎狂言に登場する役柄は典型であって、そもそも役柄をその内面も含めて写実的に表現するのではありません。典型を演じることで役者に色気が伴うのであり、また典型であることで見物に虚構である役柄を、虚実の入り混じる<表象>として差し出すことにもなります。典型には真実味がないにも関わらず、それは見物側の感情に触れ、そうした意味で見物側にとって確かな像を結ぶものとなるからです。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」(義太夫狂言。1749に大阪初演)の立役である大星由良ノ助(大石内蔵助/16591703)はそのようにしてできあがっています。その役柄は、現実の人物を基にしてつくりあげられた想像の産物です。この「実よりおこる虚」を、すなわち、役者が意を尽した形象化作業によって見物が共有する像を、<表象>として考えてみたいと思います。役柄が形象化され、ひいては型となって、見物にイメージ(像と力)として保持されるもの、そのような虚実入り混じるものとしての<表象>です。それは中世の見物の想像力が形象へと落下したものといっていいかもしれません。その<表象>は、<表象>であることでつねに同一的なものでなければならなかったはずです。つまり、誰が演じようと、その役柄のイメージ(像と力)は同一的なものとして保持されなければならなかったのです。(大石内蔵助/大石良雄は歴史上の人物であるが、「仮名手本忠臣蔵」が書かれたために私たちはその人物を<表象>として知っているにすぎない)。また<表象>としての像が多くの見物に結ばれることで、見物は役者が演じる役柄の身振りや声色を日常において真似することができたのです。
「虚実」については、浄瑠璃作家・近松門左衛門(16531725)の有名な発言が知られています。「難波土産」(1738)に、「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるものだ。…皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ」とあります。人形浄瑠璃では、人形に息を吹き込むのに、浄瑠璃語りと人形操りの両者が全身全霊をもってします。そうすることで、モノである人形()はあたかも生きているかのようにそこに存在()することになるのです。このような、モノに命を与えようとする「虚実」の手法に関わることで、人形浄瑠璃の技芸は、モノのリアリティと技巧のリアリティとの差異の感覚に触れていたと思われます。どちらのリアリティに偏してもその技芸が成り立たないのであり、それゆえ、その技芸は虚実の「皮膜の間にあるもの」として捉えられたのでしょう。
 歌舞伎には、「人形振り」の演出が元禄期にあったことが知られています。義太夫狂言で、女形が人形の動きを真似て演じたのです。現在でも、「本朝廿四孝」の「狐火」の段の八重垣姫による「人形振り」が伝えられています。演技において自身のからだをモノのように扱うことは、意識とモノとの差異の感覚をそこに生み出すことになるでしょう。その差異の感覚は本質的に無限なものです。それゆえ、からだをモノのように扱う「人形振り」は、人形浄瑠璃が関わる「虚実の皮膜の間」という視点を突破して、そこでは虚実が入り混じり、そのことがかえって役者のからだが潜在的に抱える過剰なものを新たなかたちで示す契機となったにちがいありません。元禄期に三味線音楽が新たな展開を見せ、その新たな音楽に乗った女形舞踊が狂言中に導入されることになりますが、この女形舞踊に、その表現の性格からして、からだの内部に向き合う傾向があったと考えられます。女形については別に述べることにしますが、踊りのような所作事、そして「荒事」は、最初からからだというモノに関わる技芸であったといっていいでしょう。女性の身振りに抽象力を関わらせることや、からだに渦巻く過剰なものを型に嵌めることは、からだをモノのように扱うことに通じているのです。こうした経験が最初からあればこそ、時代が大きく変化しようとも、舞踊や型の在り方は、歌舞伎表現をからだが潜在的に抱える過剰なものに関わらせ続けたともいえます。

 歌舞伎の演技はまず型から入るといいます。「荒事」の一見荒唐無稽な所作も、「和事」の柔らかなからだ使いを介して一見内面的なものを抱えた仕草も、型に嵌め、型を写すことでその表現が成っています。型はまず日常的な身振りの癖をなくす、つまり素の身振りを消して、演技において日常的な神経アレンジメントを見えないようにすることにその目的があります。いっぽう、役柄の型を写すことによって、役柄のかたちや、役柄のかたちが背景とするものをはっきりと示すことができます。そればかりでなく、いったん型に嵌まれば、その後、個々の役者が入念に凝らす形象化作業によって役柄のかたちの変容も見せることができるようになるでしょう。言い換えれば、型に嵌まり、型を写すことは、歌舞伎という演劇表現の手法に深く関わり、そのために型は代々受け継がれ、演技をする際に型から入ることはその技芸の基本となっているわけですが、そのいっぽうで、演技において型を繰り返し写すことで、型に埋没するか、はたまた型から逸脱するか、といった個々の役者の姿勢が目に見えるようになるわけです。型を逸脱する場合には、役柄のかたち以外のものがそこに立ち現れることになります。それは、役柄の形象化作業 → 型の変容というプロセスであり、そこに現われるのは役者の芸であり、型に対する役者のこうした流動的な姿勢こそが役者を形象化するのです。多くの役者芸談が、演技に独自の工夫が必要であると説いているのはそのためでしょう。強いていえば、役柄の形象化に現実味はなく、その演技に変容を抱える役者の形象化の方に大きな意義があるのです。
 歌舞伎の演技が型から入り型に従うとは、身振りや台詞回しに写実的ではない形式的な操作があることを意味しますが、そのいっぽうで個々の役者の芸を通じて型は不変なものなのではなく、型は芸において変容する、そう考えてもいいわけです。そのように個々の役者の芸という流動的な局面があり、そのために型は様々な型へと分岐するものとしてその方向性が見出されていったのではないでしょうか。いわば型自体が別の型を生んでいくわけです。型はこうした意味で、歌舞伎表現の資本といってもいいと思います。資本としての型が、歌舞伎の表現形式には欠かせないのです。
 さて、転換期の官能的身体という視点から歌舞伎表現の原則というものを考えるとすれば、その表現は、からだが潜在的に抱える過剰なものを、役柄の形象化作業 → 型の変容というプロセスにおいて新たなかたちで示すことであり、そこにこそ純粋な官能的身体も役者の存在感覚—色気も立ち現れてくるというものです。こうした点からすれば、演技とはまず役柄の形象化であり、役者の形象化を育むものであるわけですが、それ以上に、過剰なものを型に封じ込める、あるいは存在の強度(色気)を示すという点において、その演技には役者自身の<現前性>が目指されていたのではないかと考えます。それに対して、型が単に<表象—再現前化>となると、その再現前化の作用ばかりがそこに見えて、そこに演じられるのは単に形象でしかない場合もあるわけです。そうではなく、逆説的にも、真実味がない役柄に息が吹き込むこまれる瞬間に役者の形象化が果たされ、そこにおいてこそ歌舞伎の芸が成立していたのです。

 歌舞伎表現を構成する要素は、元禄期にほぼ出揃っていると考えられます。その後の歌舞伎表現は、転換期の記憶が薄れていくいっぽうで、経済的な発展を背景にした都市文化と共に展開していくことになります。歌舞伎が都市にまつわる<表象>を生み出す表現として江戸文化に影響を与えたその現象は、おそらく現代にまで通ずる事態をもたらしているのではないでしょうか。そうした視点から、元禄後の作品を見てみます。
「歌舞伎十八番」の一つである「助六」の舞台には変遷があります。現在では「助六」は一場通しの演目で、花の吉原を舞台とした群衆劇になっていますが、その始まりは、1703年に大阪で上演された「京助六心中」です。元禄以前に大阪で万屋助六の心中事件があり、それをもとに舞台化したものです。これが大当たりしたのですが、その内容は藤十郎の「夕霧」の二番煎じだったようです。都一中(16501724)の浄瑠璃による「道行」の場面があって、それが新鮮だったといいます。その浄瑠璃の評判をうけて、二代目・市川團十郎(16881758)が「花館愛護桜」(1713)で、万屋助六を江戸・花川戸の男伊達・助六として演じました。上方の「和事」であった助六に、「荒事」の要素を加えたのです。これが、いわゆる「助六」の初演です。喧嘩鉢巻で若い衆を相手に尺八を振りあげて花道を出て来るという演出だったといいます。次に、同じく二代目・團十郎が、「式例和曾我」(1716)で、助六を「曾我物」のうちに取り込み、このときの様式が以後踏襲されることになりました。今度は「荒事」に「和事」を交え、黒紋付の着流しに紫縮緬の鉢巻という現在に伝わる蔵前風の扮装で、浄瑠璃に合わせて花道に登場したのです。「曾我物」のうちに取り込むとは、助六実は曾我五郎時到という意味で、いわゆる「綯い交ぜ」といって、「曾我物語」と現実の吉原に登場する人物たちとの二つの世界を交錯させる、江戸の歌舞伎の表現手法を採ったことです。それによって、吉原の俠客の間でなされる「達引(やりとり)」の背後に「曾我物語」の世界が二重映しになって広がり、そのことによって登場人物の人間像に厚みを増し、また「曾我物」が背景とする御霊信仰の深層意識をも含めてより広がりのある時空を暗に見せることができると考えられていました。それは、「仮名手本忠臣蔵」で、「太平記」の塩冶判官惨死の事件と現実の赤穂事件とが重ねられているのと同じです。江戸の芝居は、正月に曾我狂言で始まり五月までその世界を続けるというほど、いわば御霊信仰の強い影響下にあったわけです。また、元禄期までの歌舞伎表現の特徴はそれが科白劇だったことにありますが、浄瑠璃に合わせた助六の花道の出は、科白がないにも関わらず「語り」であるといわれます。身振り・動作の連続において物語を「語る」からです。元禄期を経て、そこには身振りがあらわにするものに関わる表現が復活していることになりますが、その「語り」は、助六の「けれん」味のある身振り・動作の型によって演じられることで形象化されているわけです。さらに、助六の演技に弁舌の鮮やかさが加えられましたが、それも「けれん」味のある身振りとしての弁舌を示しているということです。その後、七代目・市川團十郎(17911859)が演じた「助六所縁江戸桜」(1811)になって、今日の「助六」の原型が成ったといいます。舞台一面に桜を飾り、打って変わって祝祭的な空間づくりになっています。こうした背景には、江戸の贔屓衆の力があったといいます。團十郎の「助六」は、京の「茶屋遊び」に通ずる江戸初期の「湯女通い」がかたちを変えて再現されているわけですが、この時点にいたって、それは江戸の町民の実力を<表象>するものとなっているのです。こうした変遷には表現をめぐる時代の感覚の推移が反映しています。金本位制に移行して江戸が経済の中心となったことで、名実共に江戸は文化の中心になったのです。
 もう一つ、大阪の夏狂言に「夏祭浪花鑑」(1745、京都初演)があります。現在でも上演される魅力的な作品です。元禄期の魚屋の殺人事件を劇化した、初代・片岡仁左衛門(16561715)の「宿無団七」(1698、大阪初演)をベースにして、前年に大阪で起こったもう一つの殺人事件をもとにして書かれた義太夫狂言です。大坂の街を舞台に男立てと義理人情が、果ては凄惨な「殺し場」が、夏祭を背景に描かれます。登場人物の誰しもが過剰なものを抱えており、そのことが江戸っ子とはまた違った大阪人の意気として形象化されています。衣装は夏の単衣、夏祭の風俗と音楽、「殺し場」の本水使いと、随所に夏の季節感が打ち出され、感覚的な効果を狙っているのがよくわかります。「殺し場」は、鮮やかな刺青に深紅の下帯をあらわにし、ざんばら髪となった団七役の役者が、泥場で何度も見得をきりながら演じ、場面は文字通り錦絵のように展開されます。背景に祭りの音楽が鳴り、それと対比するようにして凄惨な殺しが進行するという趣向です。これが大当たりして、いっとき大阪三座が揃って「夏祭浪花鑑」を演し物にしたといいます。折口信夫はその登場人物について、「九郎兵衛(団七)は、浮浪児から拾い上げられて、いかさま師に養われ、その家の娘と野合したという男である。もとより江戸風の俠客ではなく単なる無頼漢である。徳兵衛もまた、堺・住吉の間をうろつく中国喰いつめもので、乞食の仲間に身を落としていた」(「かぶき讚」)と、その上方的な背景を強調し、男立てを打ち出す江戸風の演出を本来とは異なるものとしています。また、彼らは「市井の最下級の無頼漢で」あり、彼らの「じんぎ(辞宜)」といったものが「極めて写実的に」描かれ、「こんな男たちが、薄着・半裸体、時としては全裸になって働く。…汗と脂と血と乱倫と悖徳でこね返す泥まぶれ―だが何処からか、団七の持つ無知にして清浄なものが、すべての道徳を蹴飛して、更に深い人道の涙に人を嗚咽せしめるように流れて来る」(同上)と、当時の舞台の印象を語っています。架空の人物である団七の形象化には、現実における過剰なものがありありと示されています。役者芸談に、「団七の性根は俠客に見えてはいけない。俠客の一足手前で留める」(中村歌六)とあります。団七はあくまでも「市井の最下級の無頼漢」なのであり、それゆえそれは、型に嵌まったような形象ではないのです。過剰なものがあらわになるその姿に、「無知にして清浄なものが…流れて来る」のですから。ここには<表象>が生まれる余地のないほど、現実を掘り下げて深みを備えた形象が表現されていたのです。
 現実の事件をもとにして、いっぽうでは空間的な広がりを見せ、他方では内面的な深みを見せています。「助六」は典型となっており、<表象>としての効果も備えています。そして、ここに歌舞伎表現の形式化が見事に成立しています。いっぽう「夏祭浪花鑑」の方は、局所的な世界模様とその風情や人間味を打ち出した作品であり、その分<表象>にはなり得ませんでした。しかし、現代にいたってもそのままのかたちで演じられているわけです。二つの作品に共通するのは、悪(=自然)の表現が始まろうとしていることです。後に四代目・鶴屋南北(17551829)や河竹黙阿弥(18161893)といった戯曲作者が出てきて、都市の資本制社会を背景にして、世相を反映した金銭をめぐる悪の表現が執拗に展開されることになります。そうした「生世話狂言」や「白浪狂言」の始まりを感じさせる、「助六」には「けれん」味、「夏祭浪花鑑」には「殺し場」があるのです。悪の表現は<表象>を越えた都市特有の主題であり、その表現はひとたび現われると雪だるま式に膨れ上がっていきます。その果てに、一つの金包みをめぐって意味のない殺人が繰り広げられたり、「強請り」や「悪態」が三味線伴奏付きで唄いあげられるといった様式ができあがりました。悪の表現は官能を装うのです。

 歌舞伎はその二百年の歴史において型を積み上げてきました。新たな戯曲によって新たな型が生まれ、その型がまた型を生み、なおかつ型は細かく分岐していくという、型という資本を生み出すシステムが歌舞伎表現においてできあがったのだと考えます。いわば、手元にある型を写す手法によって表現が成り立つようにしてきたわけです。そうした意味で、型はストックであり、いわば歌舞伎表現の資本に他なりません。それに対して、次から次へと出て来る個々の役者の表現は、一代で現われては消えるという意味でフローなものです。とはいえ、役者の形象化、ひいては歌舞伎の芸はこのフローなものに支えられており、そうであれば、型であるストックと個人の表現であるフローがあって歌舞伎の表現を成立させていることになります。けれども、そのストックとフローの比率、すなわち<型/個人の表現>の比率が、歌舞伎の表現では極めて高いといえます。そして、現在においてもこの比率が高いのが伝統芸能の特徴なのです。表現において型の比率が高いこのシステムは、明治維新後の歌舞伎表現を行き詰まらせることになりました。型に嵌まった身振りや演技は、江戸期という狭い時空でしか像を結ばない<表象>と共にあったからです。<表象>する力のない型は抜け殻のようなものです。それゆえ、もはや型をからだで知るということは困難になりました。型をからだで写すのに理解をもってするというのは、それはまったく別事なのです。