Friday, September 14, 2012

土方巽研究 二 <舞踏の表現形式について>


 四 舞踏の<主観性>

 わたしは、踊っているときに「自分」が踊るというふうな主体はないと思うんです。じゃ何によって踊るかというと、いろんな物の中に棲んでいるもの、動物だって同じです。舞台に立っている最中の子供はすぐにふけこんでいきますから、本当の意味の子供っていません。子供だって演じていると途端に成立しなくなるんではないかと思うんです。わたしはいろんなものにときほぐされていくのであって、「わたし」というふうなものは、舞台の上ではないように思うんですね。
                              (「新劇」1978年12月号)

 これまで推論を重ね、そのうえで「自己とは無縁の位置」と曖昧な物言いをしてきただけに、芦川羊子がこのように踊りの主体をめぐって明瞭に語るとき、今さらながら驚かざるをえません。舞台上で「<わたし>というふうなものはない」という発言は、舞踏の表現形式を考察するうえで傾聴に値する内容だと思います。さらにまた、この発言から、「自己とは無縁の位置」をめぐるわずかな情報を読みとることもできます。すなわち、踊りの現場にあってはいかなる客観的指示対象も自己とは無関係に自ずと変動するのであり、このことから、自己の不明とは主客が不分明になることによる主体の宙吊り状態である、と考えられます。そしてさらに一歩踏み込んで、自己は「いろんなものにときほぐされ」、その「いろんな物の中に棲んでいるもの」によって踊りは踊られる、そう語られています。このことを能動的に言い表せば、自己という主体形式が衰弱することでその時々に優位に立つものがあり、その優位に立つものが踊りの新たな「主体」となっている、ということになりはしないでしょうか。
 では、踊りの現場に見出されるこうした「主体」の位置取りは、土方にはどう考えられているでしょうか。その一端を、舞踏符の技法がほぼ確立された頃に書かれた「包まれている病芯 (1977)」から引用します。

 通常、具体的なフォルムと名づけられているものでも、裏返しされてそこにあるという世界ならば、ぬきさしならぬ時間ともどもに一種のサインとして、既に配列されている事物にすぎない。また、空間と呼ばれているものが時間そのものと化して「私」なる存在になっている―そういうことも起こりうるだろう。そういう仕ぐさや身振りによって浮かびあがってくる現象は、想うことが即座に征服されるように体に行き届き、それを解読した時間に体が結ばれ、また即座に解かれるように、溶解した現実の内側から内部の自己と連れ合って出てくる一種のよみがえりとしてあらわれてくる姿に違いない。こういう姿のまわりには「無」ですらちぎられるような熱気が漂っているものだ。どんな幻想も、極端にいえばこのような肉体を離れることはできない。

 難解な文章ですが、両者を照らし合わせてみましょう。芦川の発言は、踊りの現場を振り返って、踊る主体の位置を、その体験を、反省的に言い表していることになりますが、いっぽうの土方の語る内容は細部にわたっており、反省的なものを論理的に咀嚼したうえでの言表となっていることがわかります。その細部に迫るために、まずは語るその内容を追ってみることにします。
 通常からだのフォルムとして見出されているものがあってそれ自体が表面と思われていますが、舞踏の表現においては、実はそうではありません。それは、裏返しされて表面に立ち現れているという仕組みもしくは過程において、通常フォルムと認められるものとは別のものとしてそこに現れているのです。どういうことかと言えば、裏側と思われているもの、すなわちからだの現前性(ぬきさしならぬ時間)へと開かれてくる徴(サイン)となるものが内部に兆し、それが裏返しされて、すなわちアレンジメント(配列されている事物)となって表面に立ち現れているのであって、こうした意味で、フォルムはからだの現前性を徴しづけているアレンジメント(配列されている事物)を伴っている、というのです。
 この入り組んだ内容を理解するには、「包まれている病芯」の文章の冒頭に引用されている〈でんぐり〉という紙製のおもちゃを参照する必要があります。それは紙で花を模した遊具で、手で操ると、「めくられてゆく花弁が包み込んでいるようにも、包み込まれているものが包み込んでいるようにも描写」するといいます。要するに、その紙の花弁を閉じ開くことで、「包むものが包まれている」ように、すなわち、外部の働きかけを契機として外部が内へと埋もれると、内部が外部へと裏返されたようにして内部が見えることになるのです。こうした「包まれるものが包み込む」、すなわち表面が「裏返しされてそこにある」という視点から、内部が外部へと裏返ったものとして見えるフォルム、すなわちフォルムを裏付けながら内部から表面へと立ち現れているものに、土方は注目しているわけです。そのとき、すなわち裏返しされるその過程において、空間が時間化する、すなわち時間が新たに綜合されることで成立する「私」がありうる、そう語られています。そして、その新たな「私」の成立を説明して、裏返しされたものとしてのアレンジメントがそこに連れ立ってくるものは、心的なものがすぐさま身体的なもののうちに抱握され、そのように身体的なものへと統合されたからだが時間形式と絡み合うようにして連れ立ってくることで、よみがえりの姿をしている、といいます。このよみがえりの姿には、今生を受けたばかりのような熱気が孕まれている。そして、(自己を解かれた)どんな想起も肉体に条件付けられていることで、こうしたよみがえりの姿に伴う熱気と共にある、そう指摘しています。
 込み入った内容ですが、要点は、裏返しそのものでありまた裏返しされたものとしてからだに立ち現れるアレンジメント、その裏返しの過程に伴う時間形式、時間が新たに綜合されることで成立する新たな主体、そして新たな主体の内容です。さらに、こうしたことの関係を検討するならば、裏返しそのものであり裏返しされてそこに立ち現れる事物としてのアレンジメントは、からだの現前性を徴しづけている。言い換えれば、事物としてのからだのアレンジメントは、時間が新たに綜合されることで成立する主体の徴となるものである、そう言い表されています。そして、その新たな主体の内容は、新たに綜合された時間に沿っているがゆえに、「<無>ですらちぎられるような熱気が漂っている」。この新たな主体の内容は、「自明でない自己」と言い表されたものから連想させられるような、冷めたものでは決してないのです。
 芦川の発言と照らし合わせてみれば、芦川が反省的に語る、舞台上の「わたし」はないという状態は、土方の見方からすれば、そこに別の「私」があるだろう、ということになります。それは熱気すら漂わせており、また「よみがえりとしてあらわれてくる姿」と言い表されているように、それは土方の舞踏表現の核心であると考えられるものです。その新たな主体の成立過程とその把握は、踊り手が「<わたし>というふうなものはない」という経験的断言と比べれば、ある種の論理的な明晰さを保持しているように思われます。いっぽう、芦川の場合は、主体形式の衰弱が新たな「主体」をもたらしていると経験的にはっきり言い表していますが、土方の場合は、新たな「主体」が成立するそのプロセスを問題とする意識が濃厚です。ここに舞踏表現に関わる局面の違いを見ることができますが、「自己とは無縁な位置」の語の使用は、この二つの位置取りが背中合わせになるようなポイントを見定めようとしてきたのです。とはいえ、ここでは舞踏の表現形式を考察するうえで、経験を執拗に反芻することで打ち出されている土方独特の論理を検討し、そこに注目されているものに焦点を合わせていきたいと思います。
 まず、からだのアレンジメントが裏返しそのものであるのは、それが心的抱握を身体的抱握へと統合することでからだに立ち現れているからです。すなわち、舞踏符による指導言語が踊り手によって心的に抱握されるのを契機として、以下のようなからだに関わる展開が見られるからです。踊り手は、心的抱握の内容を具体的に神経に関わらせることで結果的に身体的抱握へと展開させることになりますが、その過程において、身体的抱握という心的抱握にとって内部と考えられていたものが、からだのアレンジメントという仕方で逆に心的抱握を統合することで表面化するのです。身体的抱握が心的抱握にとって内部であるのは、それが心的抱握にとって通常は知られない、あるいは見えない働きであるからです。それは、心的抱握を逆に抱握することで初めて全体的なものとして表面化するのです。すなわち、事物的なものが事物性へと裏返しされて表れるのです。そのとき、その全体的なものは、事物性を示していることで、徹底的に内部と知られるからだの現前性を徴しづけているのです。こうした身体的抱握への統合とアレンジメントとしてのその現れは、たとえば人に接するときにその人の内心を見抜く仕方においても知られていることです。その内心が身体的抱握を引き起こしていることに注目すれば、目の前にからだのアレンジメントとして現れているものがその人の内心であるからだの現前性を徴しづけている、そう知られるからです。土方は、舞台において踊り手の身体的抱握への統合が表面化し、からだの現前性を徴しづけているものが垣間見える現象を「(時空が)めくれる」という言い方をして、そこに内部であるものが外部へと展開される表現を示唆し、その踊りを評価する条件としています。
 では、こうした裏返しの過程において時間が綜合されるとはどういうことなのでしょうか。空間の時間化とは、逆に空間をめぐる意識の変動と変動の方向性を示しているでしょう。それゆえ、空間の時間化とは、そうした空間把握する意識の変動とその変動の方向性が、新たな統合形式、すなわち時間の形式に沿うようになることを意味している、と考えられます。この時間形式は、自己および自己をめぐる心的抱握を内に包み込むものへと開かれた、新たな時間形式なのです。たとえば、私たちはつねに時間を計測可能なものとしているのでそれを外部と考えていますが、そうではなく、私たちの意識の方が時間の内部において立ち現れている、ということになります。言い換えれば、時間は私たちの内部に流れるのではなく、私たちの意識が時間の内部に包み込まれ、時間の内部において変動しているのです。私たちはその変動を生きていることになるのです。とすれば、こうした時間に関わる視野の転換においても、「裏返しされてそこにある」過程がある、と考えることができます。要するに、からだのアレンジメントと新たな時間形式は共に「裏返しされてそこにある」という過程のうちにある、そう考えることができるわけです。こうしたことから、舞踏の表現において、からだのアレンジメントが配置される裏返しの過程において、同じ裏返しの過程である、時間が新たに綜合されるという事態が伴ってくる、と推測することもできるでしょう。そして、そのように時間が新たに綜合され、新たな時間形式と身体的抱握による統合が重なり合うところに、踊りの新たな主体である「私」も成立する、そう解釈することができます。
 土方によれば、この新たな主体はかなり生々しいすがたとして描写されています。それがいかなるものなのか、手順を踏んで検討することにします。
 裏返しそのものとしてのからだのアレンジメントが表面化するものは、からだの現前性を徴しづけるものを伴っています。というよりは、アレンジメントと共に内部が外部へとめくられる段階以前に、からだの現前性を徴しづけるものがすでに内部に兆している、と考えられています。「サイン(徴)」の兆しとは、「包まれている病芯」という文章の主題となっている「病芯」を言い換えたものですが、その「病芯」はといえば、「疼き」のうちにある、そう描写されています。「疼き」とは、陰にこもっているが何がしかの熱を帯びた事象であるように、それは特異なものです。それが特異であるのは、「疼き」とはその事物性が心的に抱握されている状態であるからです。しかし、そのいっぽうでそれは、からだのよみがえりのすがたを発信するものとして、ある種の方向性を孕んだ現象と知られてもいます。その方向性の兆しが、「疼き」という言い回しにおいて主体的に言い表されていると考えられます。そして、「病芯(疼き)がめくられていく花弁の構造を促している」と語られているように、この「疼き」という方向性をもった一つのものにおいて、からだのアレンジメントと時間形式という二つの裏返しされる過程の線が分岐してくるのではないかと考えられています。この主体的な響きをもち、分岐する現象をも左右しようとする「疼き」に、焦点を当ててみたいと思います。
 まず、そこから分岐する二つの線の関係を検討してみましょう。事物としてのからだのアレンジメントがかならず行為を伴って立ち現れるとすれば、新たな時間形式は未来を意図して、行為の評価を促すことになります。そして、行為と評価が相対し、お互いに入り組むところに、それ自身における差異が展開します。土方は、「食べる」という行為を例にあげて、そこに評価が入り組んでくる際に差異がどのように展開するのかを具体的に語っています。

 例えば、食べるとき、歯が途中で休息するんです。物を咀嚼する途中で歯が単独に止まっちゃう。しかしストローで吸い上げていく生理は残っている。歯でかみくだくというのはすごい労働で、歯がホコリのようになってしまう、もうかまない。こんなふうに、食べるということも、貴重なレッスンになっていくし、これがそのまま舞踏につながっていくのですね。自分に振付けているわけですよ、舞台で。ところが食べられるほうが、食わしている方を食ってしまう。するとなくなりますよ、この無化の運動のさきに無尽蔵な世界が拡がってくる。舞台があって、自分という舞台もある。しかしそれだけでは終わらなくて、その二つの関係をもう一つの肉体が見ている。両方翻訳しているわけですね、…。
                              (「極端な豪奢」1985年)

「食べる」ことをめぐる評価が「食べる」行為のさなかでなされています。さらに、その行為と評価が入り組む局面は絶えず変動している、そう言っていいでしょう。具体的には、行為のさなかに「休息」と「労働」という評価がなされています。そして、そのあいだに行為を「生理」と呼ぶ評価が介入しています。おそらく、まず「歯が止まる」感覚が注目されて、それを「休息」と呼び、次に食物を吸い上げる「生理」が注目されて、そこに「労働」という観念が入り込んできます。こうした過程は心的展開であるというよりも、おそらく「止まる」、「吸い上げる」、「かみくだく」、「ホコリのようになっていく」といった、からだのアレンジメントを伴う展開となって現れているでしょう。つまり、行為のさなかに評価に先立ってまず心的な磁場が立ち現れるわけですが、それがつねに次の行為を志向するのであり、そこに土方は注意を払っていると考えられるからです。それゆえ、土方はこうした行為と評価が入り組むところに、「自分に振付ける」という舞踏の稽古を認めているのです。すると、ある時点で行為の主体と客体が逆転して、主客関係が無化してしまうのだといいます。要するに、そのとき内部が外部へとめくられたようになって、内部であるところの主客の不明な事態にさらされている、という体験報告をしているのです。主客関係の不明さへと裏返しされることで、自身に振付けること、すなわち行為と評価が交互に入り組みながらなされるさらなる展開の可能性が無限に拡がると語られていますが、そのとき、舞台という表現形式である現場と、自身が裏返しされる現前性の現場とを、「もう一つの肉体が見ている」、そう土方は報告しています。すなわち、さらに別の仕方で評価するものがからだに際立ってくるのですが、その別の仕方の評価を、土方は特に「翻訳」と名付けているのです。
 重ねて解釈すれば、まず行為のさなかになされるその行為の評価と行為との無限のやりとりがある。行為と評価は次々と交互に入り組み、あたかもそれは、現れそして消えるアレンジメントのように連続する事態となっています。そのとき、主客関係の不明さという事態へのめくれは、行為と評価の入り組みと共に連続して起こっている、そう考えられるわけです。そうした過程を「自分に振付ける」という言い方をしていますが、そうすることで、土方は行為と評価の入り組むところに際立ってくるからだの現前性を捉えようとしているかのようです。それゆえ、行為と評価が相互に入り組むところにこそ、からだの現前性を徴しづける「疼き」が示唆されているでしょう。具体的には、そのとき他者の視線において裏返しの過程が見出される形式である「舞台」と、自身の視線が自らの内部が裏返しされる過程を見出している「自分という舞台」、すなわちからだの現前性がそこに重なってくると言われていますが、その両方の関係を見て、「翻訳」する「肉体」があるといいます。要するに、表現の形式と表現する内容とを差異化して、差異を見るものを指摘しているわけですが、このとき「翻訳」する「肉体」とは、表現の形式と表現する内容の両者に通ずるものとして、踊りという表現の「主体」を示唆するものだと考えられますから、そしてそれは事物性であると考えられていることから、すなわちそれはからだの「疼き」である、そう考えていいように思います。では、そのとき何から何へと翻訳されるというのでしょうか。
「包まれている病芯」から先に引用した文章の後に続けて、土方はまたしても食事の例をあげてそのことを打ち明けています。

 食事の際には食事の記憶というものが、咀嚼行為自体のなかに溶解しているのだなと気づいたりする。そしてそれも夢にしゃぶられて漂流している姿のように思えてくる。名づけえぬものに私たちが最終的に同化する際、私たちを襲うものは、見慣れぬものだ。それが自分の体のなかに入ってくるとき、私は微笑としてあらわされた存在になっている。この微笑は、目論まれた表情ではない。しかしそこにも時間は介入している。このぬきさしならぬ時間に自己を重ねることが最大の難関事であると思う。

 行為と評価の入り組みが、ここでは行為と記憶の入り組みとして言い表されています。その入り組みの果てに自身が「見慣れぬもの」へとめくられるというそのプロセスは、前の語りと同じ内容です。そして、その「見慣れぬもの」が身体的抱握へと統合されると、そこに「微笑」という主体が立ち現れることになるといいます。この「微笑」は新たな時間形式に沿ったものでもあり、それゆえそれは、新たにそこに生まれた主体と言っていいものです。この主体は翻訳に関わっているはずです。つまり、何から何へと翻訳されるのかということですが、最終的にはここで語られているように、「微笑」と共に立ち現れているからだの現前性に自己を照らし合わせることのようです。この自己について言えば、土方は「自己を懐かしがる」という例をこの「包まれている病芯」の中でいくつか示していますが、そのため、自己に対してとる距離を対象化することで自己をその中心からはずし、かえって自己を多様なものとしています。翻訳とは二つの観念が重なることなく無限に照らし合わせられることの評価ですから、その一方には必ず潜在的に多様なものがあります。舞踏の表現の場合、それは最後まで表現の現場に付き添っていなければならないために自己として仮設されると考えられますが、その自己は中心としてではなく多様なものとしてあるから、それは具体的には舞踏表現の舞台において駆使させられる、あくまでも潜在的なものが現働する場となるものでしょう。したがって、自己という多様性のギアにからだの現前性を噛み合わせる、そのことの困難さが問題となっているのでしょう。つまり、一般的なかたちで言えば、表現形式へとその表現内容を一致させる問題があるということになりますが、舞踏の表現の場合、確固たる表現形式(すなわち舞台形式)がまずあって、それに沿って表現する内容が示されるというわけではないのです。むしろ「疼き」が内容と形式の両方に通じていて、表現の方向を示そうとするのです。
 少し廻り道をしましたが、新たな主体についていえば、特異的である「疼き」は、行為と評価(記憶)の入り組みの果てに、裏返しされて「微笑」となって立ち現れています。この「微笑」は、その命名から時空の萌芽であるものと考えられることから、それは踊り手にとって主体的に立ち現れているものであるのに違いありません。主体的な響きをもった「疼き」が、主体的な表れである「微笑」へとめくられたのです。表現の内容と形式の両方に通じるものとして、方向性を兆した「疼き」はそもそも事物性に起原があります。それが「微笑」へと裏返しされたのであれば、「微笑」は事物性に裏づけられ、事物性を伴っているのです。「裏返し」の過程とは、心的なものが身体的なものに抱握されて、事物性としての内部が表面化することだと言えますが、その結果、心的なものと身体的なものとの関係が、通常の関係を逆転させて認識されることになるのです。「疼き」の事物性は、たとえば、「食べられるほうが、食わしている方を食ってしまう」という事態としてからだに際立ってくるのであり、そして、そのからだに伴っている具体的な時空の萌芽が、「微笑」と呼ばれているのです。
「疼き」が「微笑」へと転換する「疼き」に始まる過程が考えられるわけですが、こうした行為と評価の入り組みを介して、結果的に内部が「裏返しされてそこにある」ものとしてあらわになるその過程を、自らを(事物のうちに事物性として)立ち現わせる眼差しという意味で、<主観性>と言い換えてみたいと思います。通常「主観性」とは初めから表面に立ち現れているものと考えられているようですが、そうではなく、通常の「主観性」へ裏返しされるところへ向けて始まる過程、その始まりをも含めて〈主観性〉と呼びたいのです。要するに、「疼き」が「微笑」へと裏返しされるその過程を、舞踏表現における新たな「主体」が働く過程であるという意味で、舞踏の<主観性>、あるいは、舞踏家の<主観性>と考えてみたいのです。その過程において、<主観性>という舞踏家の眼がその舞踏表現を主導している、そう考えるのです。ということは、「疼き」を<主観性>の前身とみなすことです。そこに<主観性>への「曲がり角」を見ることになりますが、それはこれまで述べてきたように、意識を抱握する事物の配列があたかも意識の抱握となって全体として見えてくるような、裏返しされてそこにある<主観性>の過程というものが考えられ、そのような仕方で、半ば事物の配列である「疼き」が<主観性>へと展開する過程があるだろうと考えるからです。「裏返しされてそこにあるもの」がつねに事物に始まり事物性に裏づけられているのであれば、舞踏の<主観性>はつねに事物性に裏づけられているのです。「疼き」を契機として事物性としてまず立ち現れる<主観性>、その事物性が「疼き」と共に励起し、心的なものを抱握するのです。こうした過程は、からだのアレンジメントや新たな時間形式と同じ型に沿ってそこに現れていると考えられますが、同じ型ではありますが、むろんそこには差異もあるでしょう。ただし、「裏返し」というトポロジーはあくまでも便宜的な見方であることを言い添えておきます。なぜかといえば、「裏返し」は身体的抱握に伴うものであり、それについては、心的な表現においてはその概要をいっさい判断することができないからです。
 この舞踏の<主観性>について、すなわち、裏返しされてそこにあるものとしての<主観性>について、具体的に考えてみたいと思います。
 まず、行為と評価の相互的なやりとりがどうして舞踏の稽古になるのか、そのことをからだのアレンジメントを例にとって示してみたいと思います。たとえば、「背中で、グラスに入った氷の音を飲む」という指示があり、そうすることの神経の「配列」があるとします。通常の主観性ではなしえませんが、舞踏の表現形式に沿えば、そうすることができる<主観性>が介在することになります。この場合、「背中で飲む」という心的抱握と「音を飲む」という心的抱握の両方を、身体的抱握へと統合しなければなりません。どちらもイメージだけの把握で済ませてしまうと、抱握は空回りすることになるでしょう。その場合は、通常の主観性に捉えられていることになります。「背中で、音を飲む」という心的抱握とそのことを実践する神経の関係設定に「命がけで」関わらなければならないのです。すなわち、関わる神経が疼きとして励起し、そこに舞踏の<主観性>が起動し、神経に関わる行為と疼きによる方向性をもった評価が入り組み、何かしらの身体的抱握への統合へとめくれることで主客不明な事態がからだに際立ち、「微笑」という時空の萌芽へと表面化するようでなければならないのです。
 たとえば、暑い夏の盛りには、氷の音にすぐさまからだで反応する。氷をすぐに口に含むことのできる環境であればすぐにそうするにちがいないが、そうでない場合は、その音にからだがまず何らかの対処をするだろう。立ち止まって氷を求めに行くだろうか。いや、暑さのあまりに、氷の音に反応してすぐさまからだはその音を飲んでいる。まずうなじ辺りに、その氷の音を沁み入らせているだろう。風鈴の音が耳に聞こえるというよりも、あたかも後頭部に滲み入るようにして暑さを和らげるように…。そのため、微かな喜悦が表情にもうあらわれているかもしれない。いや、それは見慣れたフォルムにすぎないかもしれない…。逆に氷の音に喜悦を吟味されて、からだの細部に別種の喜悦が…。
 こうした評価は心的抱握に過ぎませんが、その評価は身体的抱握へと統合されることで、少なくとも事物性の現れとして、すなわちからだのアレンジメントとして反射されて、からだに際立つことになるでしょう。このとき働く<主観性>を、疼きに関わる神経から身体的抱握への統合、そして微笑へのめくれへと、表面への展開を実現するものとして一貫性のあるものと考えることができます。そのとき働く<主観性>のその具体的な経緯やその内容にはとうてい言及できませんが、それは内部を外部へと裏返しする過程を主導する眼として働いているに違いありません。
 さらに言えば、舞踏符の言葉に触発されて神経の関係設定に関わる行為は、そこにとうてい実現することのない内容が心的抱握されるために、たえず何がしかの評価にさらされることになります。そのことはたとえば、「死者」が与えるものが分節的でないのは「死者」が実在的でないからというのと同じ局面にあることになります。こうした行為と評価の無限に入り組む過程であることで、初めて心的抱握は身体的抱握へと統合され続けるのです。そして、そこにどのような線であっても招き入れる余地をからだに開くことになるのです。さらに付け加えれば、「背中で、音を飲む」ことをめぐる行為と評価の入り組みは、「飲むことによって背中は音に飲まれ、音に背中を聴かれている」、といった主客の逆転した関わりを孕むことになるでしょう。その逆転の徴は、氷の音を背中で飲む人の微かな喜悦のうちに現れているでしょう。(もし氷を口にしてしまえば、たとえ喜悦の表情が浮かべられてもそれは評価なしの単なる行為に止まり、からだは通常のアレンジメントのうちに解消されることになります。つまり、その表情は内部が外部へと裏返しされて現れたものではない)。この主客の逆転は、おそらく何がしかの評価においてあるわけです。その評価のうちに、内部であるものがめくれて立ち現れることになりはしないでしょうか。すなわち、<主観性>が「疼き」に裏づけられながら「微笑」となって立ち現れるとき、主客の逆転も何がしかの評価においてあるとすれば、評価のカタストロフィックな局面のうちに、「疼き」の事物性が裏返しされて「微笑」という時空の萌芽があるだろう、そう考えることができるのではないでしょうか。またさらに言えば、「疼き」は方向性を孕んでいます。この「疼き」が行為を、すなわちからだのアレンジメントを絶えず方向性を帯びながら評価し、「微笑」へと裏返される連続があるとすれば、その方向性に(アレンジメントの連続である)踊りとして表現されるものがあるわけですから、裏返しの過程としての<主観性>において、踊りの表現が操作されることにもなる、そう考えることができはしないでしょうか。
 たとえば、「裏返しされる」ことの観点からすれば、<物語の意匠>が消えて<写真の意匠>が際立つ過程を、二つの線の相反する過程としてではなく、表裏の連続したものの展開とみるならば、それは「裏返しされてそこにある」過程、すなわち<物語の意匠>が<写真の意匠>へとめくれる過程、そうみなすこともできるでしょう。要するに、<物語の意匠>が身体的なものへと抱握されることで、<写真の意匠>は抽象的諸力を帯びることになるのです。そうみなすには、二つの線が表裏をなしていること、そして表裏であることで、二つの線に関わる操作を表裏するものの抱握に関わる操作へと、その視点を転換しなければならないでしょう。線をめぐる心的抱握を、線をめぐる身体的抱握へと「入れ換える」操作から、心的抱握を身体的抱握へと統合する「裏返しされる」ことの操作へと置き換えることができるだろう、そうみなすわけです。
 ともあれ、主観性とは何らかの時空把握をいう現象ですから、そこには身体的抱握が関与しているはずなのです。こうした主観性のプロセスを検討することで初めて、客観的指示対象の変動や、主体の衰弱による何らかの優位に立つものの浮上について検討することができるのではないかと思います。舞踏の<主観性>とは通常の主観性ではなく、それは舞踏の表現形式にその内容を照らし合わせようとする際の、その内容であるところのからだの現前性に立ち会っている主観性です。こうした舞踏の<主観性>を想定することで、日常の主観性とは異なる働きをする<主観性>の線について考えることができるわけですが、考えるだけでなく、それについてさらに見極め、その結果、それとなく操作することも可能かもしれないのです。そうすることで、私たちの日常におけるからだの現前性に少しでも理解を深めることができるかもしれないのです。そして、そうすることができれば、たとえば、舞踏の舞台表現を評価するに際して、舞踏家の<主観性>に、観客自身が自らの<主観性>の波長を合わせる、といった取組みも可能となるでしょう。つまり、観客は自らの<主観性>に沿って、目前の踊りに息を合わせるといった仕方で、舞踏の表現を評価することができるようになるのです。心的抱握と通常のアレンジメントによる表現では、その表現が個別・具体化に傾き、そういうわけにはいかないように思います。その表現内容が目の前で対象化されて、観客は表現の現前性に立ち会うことがないからです。この点については、次の章であらためて検討したいと思います。
 以上に述べてきたように、「自己と無縁である」とは、自己と離れて、そこには何もないと言うのではありません。また、たとえば土方がセザンヌの絵画をめぐってそのキャンバス上の空白について指摘するように、そこに神が入り込んでくるわけでもありません。そこには神秘的なものはまったくありません。「自己と無縁である」ことで、かえってそこには、自己組織的に入り組んだ生命の過程といっていいような局面が、「よみがえりとしてあらわてくる」のです。
 土方はつねに自身の内部の展開に注目し続け、他の何も借りずに、身辺にあるものを材料にしたブリコラージュのようにしてその論理を展開してきました。そのせいか、具体物を伴って、その具体物に迫られて、とてもうまい言い方をするなと思わされることがあります。この章の最後に、論考の冒頭にあげた文章の続きの部分を引用しておきます。

 本来表情というものは、表情の起源を忘れたものの呼称であった。それはおのずから分泌したものであるから、何かのため(例えば襖に対する襖の絵)模様として表わされる類のものではない。しかしまた、行為は息のむひまもなく私共を貫通してしまうことがある。するとそこに、打ち抜かれた空虚のように、いきいきとして私達は—、私達の舞姫は実在している。こういう場合の叫びは、還るところへ還ったのであろう。このうすい平板な踊り子の誕生に私は大変な愛着を持っている。この踊り子はずれて動く。その分度器に似たような踊り子の動きを支えている留め金は、精神の留め金に似ている。
               (「線が線に似てくるとき」現代詩手帖1974年10月号所収)

「舞姫」が「うすい平板」なのはその事物性を描写しているからであり、「分度器に似た踊り子の動き」と「留め金」については、多様に変動するものを自己に噛み合わせようとする感覚を描写しているのでしょう。