Sunday, February 15, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


   三 能・歌舞伎・舞踏

 土方巽は踊りをモダンダンスからはじめたので伝統芸能とはまったく繋がりがありません。けれども、舞踏の表現は結果的にモダンダンスから大きく逸脱しています。むしろ土方がからだの機構に関わりつつ表現したものは、日本の伝統芸能が関わるものの方へ近づいているようにも思われます。とはいえ、舞踏による土方の表現意識およびその表現内容、そしてその方法論等はすぐれて現代的なものですから、舞踏を伝統芸能の系列において考えるのには無理があるでしょう。また、能は物語り芸であり、歌舞伎は演劇、そして舞踏は踊りという表現ジャンルの違いがあるわけですから、単純に比べることもできません。それにもかかわらず、ここで舞踏を伝統芸能と並べて考えようとするのは、からだの機構にアプローチする姿勢に何かしらの繋がりがあるのではないかと思うからです。またそのことは、「土方巽と日本人」の<日本人>の<内容>に関わるのではないかと考えられ、あえて時代を遡って検討してみたいと思います。
 能にしろ歌舞伎にしろ、その身振り・動きは、当時の諸芸能はもちろん、その他様々な<日本人>の領域から採集してきたものを素材にして成立しているといっていいでしょう。言い換えれば、能や歌舞伎の表現は、様々な<日本人>の神経アレンジメントの働きを独自の観点から見出し、それらを演技に取り込みながら成立しているのです。こうした観点は土方のそれと同様であり、舞踏の表現が日本の伝統芸能にあたかも近づいていくかのようにみえる理由でもあるのではないかと思います。
 また、前章でひっかかっていた、土方の舞踏の表現が女性形を軸にしたものであることは、モダンダンスの枠組の中では解答を得られないように思います。能にはシテが仮面をつけ、女性に扮して演じる演目が多くあります。歌舞伎は女形をつくりあげました。またここでは論じることはできませんが、人形浄瑠璃の女人形を老練な男性が実に艶っぽく操ってみせる光景というのはまさに驚きです。舞台に女性が立つことができないという制約があったとはいえ、こうした女性形を借りた表現、あるいはからだの軸を二重にとる表現といってもいいですが、そうした表現の姿勢が日本の芸能に連綿と伝わっていることに注目したいと思います。

 1. 能
 能の成立については多くの研究があります。というのも、現在までに伝わる能は、江戸期に幕府の式楽となって以来様式化されたかたちが遺ったもので、室町期に成立した<能>とは異なっていると考えられているからです。要するに、能の形式は改変されながら伝わっているわけですが、その成立期の<内容>は、様々な歴史的記述から知られる事実から推測するしかないということです。
 能は、往来で滑稽な寸劇を演じた猿楽、「修正会・修二会」の法会の際の後戸猿楽、神事の「翁猿楽」等を前身としているわけですが、そうした猿楽と称された諸芸から能への成立過程を考えるには、そのあいだに猿楽の<能>という段階を考える必要があるでしょう。すなわち、「猿楽」と周囲から称されてはいるが、演者によって新しい<能>としての表現形式がつくりあげられていく、流動的かつ生成的な段階です。年代的には、十四世紀から十五世紀のことです。この時代に猿楽の<能>は、それ以前の諸猿楽芸から脱して、勧進などの人の集まる場での純粋な鑑賞芸能として成立しました。十三世紀にはまだ祭祀的芸能である咒師猿楽「翁」の延年(余興芸能)であった猿楽が、不特定多数の者に見せる芸能として猿楽の<能>という本芸になったのです。とはいえ、猿楽の<能>のはじまりは物真似芸であり、それまでの物語り芸を演技によって観客の目に見えるようにした写実芸でした。そこから出発して、当時の諸芸を取り入れることで、抽象性も加味した綜合芸として「能」は成立したのです。
 いっぽう、日本の芸能史において「能」の成立過程が意味するものは別にあるように思います。猿楽の<能>はそれまでの諸芸と異なり、表現空間を設定することができたことに何よりもその特色があるのではないでしょうか。「能」の成立が日本の芸能史において重要な局面となっているのは、「能」という技芸が初めて表現の空間を設定し、そのことによって舞台表現の形式をかたちづくることができたからではないかと思うのです。表現の空間は「庭場」と称されていました。そのことは、具体的な表現の場を示すのみでなく、抽象性に富む表現空間を設定することができたことを意味しているのだと考えます。すなわち、現在まで伝えられている能の演目からすれば、猿楽の<能>の表現は、世俗の物語りや歴史物語りや夢物語り、また死者が現われる空間や祝いの空間を提示するばかりでなく、植物の成仏まで語られ、また「複式夢幻能」に提示されているように時空の変幻等といった多義的空間等、驚くべきほど多様な空間を表現できたのです。端的にいえば、「能」の成立とはそのことであるように思います。こうした多様な空間が具体的に提示されたのはこのとき初めてであり、時の室町権力が目をつけたのも、「能」が扱うことのできるこうした空間の多様性だったのではないだろうかと考えます。
 それゆえ、多様な空間を表現し、それを支えるのが<能>を演じる者の身体技術であったと考えられることから、彼らがそうした<観点>からからだの機構に関わった跡を見ることにしたいと思います。猿楽の<能>から「能」に至る段階の代表的表現者が、観阿弥、世阿弥、音阿弥、金春禅竹等といった面々です。観阿弥とその子である世阿弥とでは「能」の<観点>は異なっています。また世阿弥に強く影響を受けた禅竹と世阿弥とでもその<観点>は異なっています。音阿弥は<能>の名人でしたが、作品をつくらず、猿楽の<能>を幕府に重用させるのに尽力したという点からその<観点>が推測されます。

 観阿弥(1333〜1384)が継承した大和猿楽は、「物まね・似せ事は、当芸に限りたる人形なるほどに…」(「遊楽習道風見」)といわれるように、観客の理解に応じて語り物を具体的に演じてみせる、「人形(ひとがた)」芸でした。それは、「一切の物真似の風体は、云ひ事の品によりての見聞也」(「花鏡」)というように、物語を語って聞かせる芸とは打って変わって、謡が語るその内容を生身のからだで演じて観客の目に見えるようにした技芸です。観阿弥は、そうした物真似芸を体現するうえでの写実的技法を得意としたようです。
 観阿弥はまた、民俗芸能的な猿楽を猿楽の<能>にまで高めるのに尽力しました。物真似芸に田楽の舞や「曲舞」を取り入れる新しい演出をしたのです。「曲舞」は、それまでの猿楽の音曲である拍子に合わせない小唄節と違って、「拍子が体をもつ」といわれるように、拍子に合わせた謡を語り舞う芸でした。また「曲舞」の謡は言語が明晰で、文意がはっきりわかるという長所がありました。物真似主体の物語り芸に歌舞を取り入れ、それもリズミックで具体的な描写を推し出すものとなり、猿楽の空間構成を大きく変えたのです。それは以前にまして現実描写的な物語りとなり、さらに歌舞による空間の変幻があるといった風で、不特定多数の観客を相手にし得た最初の綜合芸であったと考えられます。それゆえ、そうした綜合芸を支える身体表現が求められたのであり、それが観阿弥の芸が意図するところだったと思われます。
 観阿弥は大柄な人でその演技には迫力があり、ことに大和猿楽伝来の仮面をつけた鬼の演技にすぐれていたといいます。そのいっぽうで、「女能にては細々となり、自然居士などに、黒髪着、高座に直られし、十二・三ばかりに見ゆ」(「申楽談儀」)と、変幻自在な表現を見せ、芸能者特有の技量をもっていたようです。空間の広がりを示すことのできる身体技術を備えていたわけです。観阿弥作の「自然居士」は、観阿弥の表現とその芸域を示す好例です。その内容は、宗教者と人買い商人との間で交わされる対話を核とした劇的な構成をとっているいっぽうで、曲舞・ササラ擦り・羯鼓の舞を見せるという「芸尽し物」となっています。
 観阿弥の言葉は記録されていませんが、賤民身分でありながら子の世阿弥に知的教養を得る機会を与えたり、敵対する興福寺に接近して奈良坂を越えて京に出たのも彼です。都に出て、新たな猿楽の<能>を呈示しようとするなみなみならぬ意欲をもっていたわけです。当時、都では猿楽よりも田楽の<能>の方が評判をとっていました。
 世阿弥(1363?〜1443)は、観阿弥がつくり上げた物語りと歌舞の空間に死者を積極的に登場させました。夢の中に現われる死者というのは当時の人々の一般的な体験であったと思われます。ですから、勧進の場での死者の登場とその成仏という内容は、観客の期待に沿う大きな効果があっただろうと思われます。
 とはいえ、世阿弥が<能>の表現空間に死者を登場させるのには別の意図があったのではないかと考えます。というのも、観阿弥の写実主義に対して、世阿弥には当時の最先端の教養に裏づけられた抽象志向が顕著だからです。死者へのアプローチは、むしろそうした抽象志向に関わるのではないかと思うのです。
 世阿弥は「伝書」である「風姿花伝」に「能を尽くし、工夫を窮めて後、この花の失せぬ所をば知るべし」と記しています。「能」とは演技の意であり、演技能力を支えるものが「花」です。世阿弥は、「能に花を知る」ようことさらに説いています。「花」とは、中世歌論から引き継いだ概念であり、世阿弥によって演技の評価に関わる概念として練り上げられました。当時、複数の猿楽座が同じ場で次々と演じ合う「立ち合い」という興行様式がありましたが、その際の競争意識もあり、当事者である世阿弥に「花」の研究を促したと思われます。その結果、次のような境地を打ち出しています。
「時分の花・声の花・幽玄の花、かやうの条々は、他人の目にも見えたれども、その当人の技より出て来る花なれば、咲く花の如くなれば、またやがて散る時分あり。されば久しからねば、天下の名望少なし。ただ真の花は、咲く道理も散る道理も、心の儘なるべし。されば久しかるべし」(「風姿花伝」)
 ここには、舞台表現のあり方に関する世阿弥の考えがよく表れていると思います。「時分の花」という個人の外見や技術による特殊的表現に対して、「真の花」は、内面的な技術が培われることによって得られる普遍的表現とされています。要するに、表現における特殊的で外面的なものと普遍的で内面的なものとが区別されているのであり、普遍的で内面的なものを重視する姿勢が、世阿弥を抽象的な思考に向かわせているのです。
 また、観世座太夫の座を退いた頃に書かれたといわれる「花鏡」には次のように記されています。
「又舞に、『目前心後』と云ふ事有り。『目は前に見て、心は後に置け』となり。是は、以前申しつる、舞智風体の用心也。見所より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、則、見所同心の見也。其時は、我が姿を見得する也。我が姿を見得すれば左右前後を見る也。しかれ共、目前左右までを見れども、後姿をばいまだ知らずか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をばわきまへず」。
 この考えというか、舞台経験をふまえたうえでの見地は注目に値すると思います。演技をしながら自身を客観的な視線によって観るその視点の必要性が説かれています。さらに、そうすることができれば、自身の後ろ姿をも自覚する視点が得られ、そのことによって演技が抽象力を備えた表現になるというのです。世阿弥が理想とする普遍的表現の演技の内側では、こうした経験に裏打ちされた視線が働いて、からだ使いを操作しているのだと考えられます。
 さて、死者の存在の仕方は生者とは異なります。したがって、死者に関わる表現も通常の表現とは異なるのに違いありません。第一に、その演技はなまなしい身体を感じさせてはならないでしょう。ですから、死者のからだを表現しようとする演者は、生者とは別の仕方でそのからだを操作しなければならないわけです。死者を演じるのに、生者があたかも死者であるごとく演じるとなるとすれば、演者の内面に何らかの抽象的な要素が求められ、その抽象的なものを軸にしてからだ使いが計られようとするのではないでしょうか。
 世阿弥は、父の観阿弥と違って小柄でした。そのため、女役を演じるのに適していたといわれます。世阿弥の時代には、女役は鬘をつけ、直面で演じました。そのため、世阿弥は女役の視線使いに工夫を凝らしています。けれども、女神を演じる際には人間と区別して仮面をつけたのであり、そうであれば、死者を演じる際にも仮面をつけていたのではないかと考えられます。そうでなければ、生者と死者とを区別つけ難く、観客の理解を得られなかったのではないでしょうか。仮面をつけると発声がこもり、また視野は当然に狭くなります。そのため、からだ使いにも変化を強いられ、結果的に内面的な軸の位置付けがどうしても必要になってくるのではないかと思われます。つまり、演技をしながら自身を客観的に観ることができるような心的な軸が、からだ使いにおいて自ずと要求されてくるでしょう。
 世阿弥は、物語りと歌舞の空間に死者を積極的に登場させることで「夢幻能」の様式を編み出し、最終的に「複式夢幻能」の様式を完成させました。「複式夢幻能」では、最初は生者と思われていたシテが実は死者であり、後半になって、後ジテの死者が自身の身上を語るという構成になっています。世阿弥晩年期の作品である「井筒」では、後ジテが女性の亡霊として登場しますが、その女性の亡霊が男装し、その男装姿が水面に映るのを見て過去の恋情に感じ入るといった複雑な設定がなされています。このとき、亡霊—死者が仮面をつけていればこそ、その複雑な設定に見合った抽象表現を展開することができたのではないかと考えます。また、死者の登場とその表現様式の関係についてみれば、「夢幻能」に死者を登場させることが、翻って、その役柄を複雑な設定のものにし、そのことによって死者をめぐるさらに抽象的なものの表現に駆り立てることになった、とも考えられます。要するに、死者へのアプローチと表現様式が孕む抽象性に関わることで、世阿弥をしてそれ自身における差異に関わらせることになったのではないかということです。登場人物の複雑な設定には存在理由があるわけです。空間表現を意識する者のからだに否応なく立ち現われる差異があるのであり、死者へのアプローチはまず表現様式に関わらせることになったと考えられますが、それ以上に、そこに立ち現われる差異に関わらせることになったのではないでしょうか。
 その結果、「井筒」はもはや語り物を演じるという作品ではなくなっています。死者といえどもその性的身体が演じられることで、語り物とは別次元のまさにパッショネートな表現を最終場面にもたらしています。この死者は、あたかも性的身体に達することで成仏するのです。それがたとえワキ僧の夢の中という設定であっても、「亡婦魄霊の姿は、しぼめる花の、色なうて匂ひ」と、その残り香が賞味されているのです。この死者は、死者の側から生を欲するという事態において救われるのです。そうであるならば、そのことを具体的に演じようとする者のからだに、死者における生という抽象的なものが要請されて、そのことは結果的に、ある種の二重性を演者のからだに招来することになりはしないでしょうか。
 このように世阿弥は、観阿弥の劇的な<能>から内面的な<能>へと、その表現の質を変えたのです。
 金春禅竹(1405〜1471)は、自然へのアプローチを通じて、生命をもたぬものも含めて草木国土悉皆成仏するという汎神論的思想を背景に独特の作品をつくり上げました。世阿弥の「複式夢幻能」の様式に植物の精霊を登場させたのです。「芭蕉」に登場するのは、女性の姿をした芭蕉の精霊です。精霊も夢に現われますが、それは死者とは異なる在り方をしているでしょう。また植物は仏教でいう「非情」、すなわち意識をもたないものであり、意識をもたないものの精霊というあるかなきかの存在に禅竹はアプローチしたのです。「芭蕉」では、そのあるかなきかの存在がワキ僧に法を説くといった複雑な設定になっています。こうした設定にも存在理由があるわけです。そのため、その具体的な描写に際しては独自の抽象力が要求されたのではないかと思われます。また「定家」に見られるような、後ジテが演じる、植物霊(定家)に執心された死者(式子内親王)やその舞の演出は、わけもなく朦朧としていながらある種のエロティシズムを匂わせています。こうした感覚的なものに関わる表現は、歌道の「幽玄」概念を念頭においていると考えられています。たとえば、「駒とめて袖うちはらうかげもなし佐野のわたりのゆきの夕ぐれ」という藤原定家の歌があります。ここには、雪の光景にさっと貴人の衣装と馬具が彩られたと思うと、たちまちその色彩とかたちは一面真っ白な雪の中に溶け込み消えてしまうといった、そこに感覚を惹起させる具体的な対象がないにもかかわらず、言葉だけで一瞬感覚を生起させ、また途絶えさせるという技法が見事に示されています。こうした技法にならって禅竹は、世阿弥が用意した抽象力が孕む空間に、色彩や匂いや肌触りといった感覚的なタッチをほどこしたのです。その感覚の励起は、あくまでもその背後の抽象力を孕む空間を連れ出してくるためであると思われます。感覚に関わろうとするその視点と手法は、表現空間とは何かを吟味した先駆けといってもいいのではないでしょうか。
 禅竹は、大和猿楽最古の流派である咒師猿楽・円満井座を継承する金春座の太夫でした保守的な大和の地にあって、都の政情不安を避けて疎開してきた文化人らと交流したといいます。世阿弥とは異なり、「六輪一露」や「明宿集」といった、<能>芸に関する理論書を著しています。和歌論や宗教理論の抽象性に通じ、猿楽<能>という物語り芸を、歌道にも匹敵する純粋な舞台表現にまで高めようとする欲求があったのだと思われます。
 音阿弥(1398〜1467)は禅竹と同時代で、観世座の太夫を継承しました。将軍足利義教の支援のもと、その芸は連歌師・心敬に、「今の世の最一の上手」と評されるほどでした。その演技の技倆によって、観世流の猿楽<能>を他流の追随を許さぬものにまで高めることになりましたが、そのいっぽうで<能>の表現は形式化に向かったといわれます。音阿弥が都で権力相手に<能>の実践に邁進し、いっぽうで禅竹が大和で<能>の理論的な作業をしながら<能>の表現の可能性を窮めていた、という二分する状況がこのときあったわけです。
 その後、室町時代も末期になると戦乱の世となり、観客の嗜好が<能>にも反映されるようになります。「船弁慶」や「道成寺」といった、空間に躍動感のあるスペクタクルな内容の作品がつくられています。

 能はもともと、現在のような抽象化された表現ではなく、写実性の濃い表現でした。観阿弥の猿楽能は写実性に特色があり、大衆を惹きつけるためにも写実的な表現が要求されたのです。実際、室町後期の戦乱期には、大衆受けする唐物や風流物、またスペクタクルな内容をもった具体的な表現が新たに生み出されています。しかし、現在にまで受け継がれている能は、あたかも写実性を狂言に引き渡してしまったかのように抽象性を表現の核としているようです。能の台本が江戸期に改変されて、抽象性の高い作品に仕上げられていることも確かです。それでも、そうしたこと以前に世阿弥と禅竹は、能の表現を成立させるために抽象的なものにこだわったのです。抽象的なものにこだわることは、抽象化の作業とは異なっています。抽象的なものにこだわり、その作業によって表現のうちに抽象性が孕まれると、そのとき新たな写実のかたちが必要とされるわけです。そして新たな様式が出来上がると、それに沿って抽象的なものがふたたび意図される。いわば、かたちが<内容>を孕み、その<内容>が新たなかたちを求めることになるのです。ですから、能の生成、すなわち能が表現空間を設定しその表現形式をつくり上げていったことと、その表現が物語りという写実的なものから抽象力を孕むものへと志向することは、密接に繋がっているのだと思います。
 世阿弥にとって抽象的なものにこだわることは、まず能の表現に和歌の世界を導入することであったでしょう。和歌の世界は多様な時空に関わっているからです。能の謡を読めばわかるように、その台詞は和歌に彩られています。和歌の世界が能の表現の広がりを支えていると言っていいほどです。また歌論から借用された「花」の概念は、表現空間の広がりを能の演技がどう支えるか、そしてその演技力がどう見えるかを評価するための基準概念となりました。そしてさらに、「花」が、普遍的表現を志向する世阿弥の<観点>となり、そうした<観点>から「夢幻能」のような具体的な様式が出来上がると、能の演技にさらなる抽象的なものを関わらせることになるわけです。世阿弥は死者(それはあくまでも和歌の世界に関わる死者である)へのアプローチとその複雑な設定を通じて演技を支える抽象的な局面にこだわりましたが、禅竹は世阿弥の表現空間をベースにして、和歌の「幽玄」にならって空間を感覚的なタッチで彩ることで、演者のからだ使いが表すことになる抽象的な局面にこだわることになった、と考えられます。
 能の演技とそのからだ使いに関するそうした抽象的な局面は、世阿弥と禅竹が記した「伝書」からいくらか知ることができます。身体表現を扱うだけに、そこには「風姿花伝」等の「伝書」とは別次元の抽象思考と論理展開があります。世阿弥は禅の思考から影響を受け、禅竹は密教思想から影響を受けており、それゆえその論理展開は型にはまったものではありますが、身体表現に関わる具体的な方途もそこには示されています。
 まず、世阿弥の「二曲三体人形図」をみてみましょう。
「二曲」とは、音曲()()舞であり、「三体」とは、能の演技が物真似る人体をいいます。謡については世阿弥の「音曲声出口伝」に、「節は形木、かかりは文字移り、曲は心也」とあります。節回しは型であり、謡の魅力は発音の移りゆく次第で生まれ、曲すなわち謡全体は心の働きである、とされています。世阿弥は謡に関して、節回し、発声といった物理的・対象的な現象を差異化しながら、謡そのものは心の働き、すなわち意識的・主体的な働きによって成っていると考えているのです。言い換えれば、歌に関して三つの働きの次元を区別したうえで、歌としてのまとまりは意識的・主体的な作用にある、と考えているわけです。また「至花道」に、「先ず、音曲と舞とを、師に付て、よくよく習ひ窮めて、十歳ばかりより童形の間は、しばらく三体をば習ふべからず」とありますが、このように二曲」である歌()と舞に表現の基礎を置くことは、物語りを演じるという写実芸からすでに離れているでしょう。
 とはいえ、「三体」は、能を演じる際に基本とする人体です。「三体」の人体とは、「老体・女体・軍体」です。最初に「二曲之人形(ひとがた)」として「童舞」、すなわち童子姿の図が描かれ、次に三体図が描かれています。「童舞」は衣装を着けた姿ですが、「三体之人形」はどれも裸のすがたで描かれています。そして、「三体之人形、正見体能々学為、裸絵露也」と記されています。「正見体」を能く学ぶためとされていますが、衣装を着けていては見えにくい、演じる者の神経アレンジメントを目に見えるようにするためでしょうか。とすれば、童子の姿には衣装の制約がなく、それ自体で「正見体」であることになります。
 最初の「児姿遊舞」、すなわち童子姿の舞は、「二曲之本風」とされています。
「至花道に云く、『最初の児姿幽風は三体に残り、三体之用風は万曲の生景に成る』と云ふ。児姿は幽玄の本風也。其の態は舞歌也。此の二曲を能々学得しぬれば、舞歌一心一風になりて、安久長曲之達人と成る可し。其の後、児姿を三体に移して二曲をなせば、をのづから幽玄の見風、三体に現はる可し。三体を児姿の間しばらくなさずして、児姿を三体残すこと、深き手立て也。ただ、最初の児姿二曲を習得して、長久の有主風に安得するゆへに、三体にも残り、万曲の生景にも成る也」。
 ここには、能の演技とその際のからだ使いの操作に関する、世阿弥の理論的な姿勢が示されていると思います。「児姿は幽玄の本風」であることから、「児姿」はすべての写実的な演技の核となるものと考えられています。ですから、「児姿を三体に移す」とは、演技する際に三体を演じるとはいえ、それに成り切らないということです。からだに内蔵されている核としての童子のすがたから投影されるようにして三体は写実的に演じられるのであり、そのことは、演技する人体とは別の微細な芯をからだに自覚しつつからだを操作することでもあるでしょう。からだ使いに関わるこの二重性は、いわば「離見の見」にも通ずるものです。
 世阿弥は「児姿」をことさら重要視し、それは禅の「赤心」に通じるようにも思われますが、その少年時の美しさによって権力に寵愛された経験からすれば、「児姿」は、世阿弥にとってその少年時の<現前性>体験を反映するもののようにも思われます。
 さて、写実的な演技をする際にも、別に微細な芯をからだに設定してそこから投影するようにして人体を演じるといった二重性の演技のあり方は、たとえば死者を演じる際にどのように作用するでしょうか。死者である後ジテは、その役柄の人体と共にそれが死者のからだであることをも演じなければなりません。このとき、役柄の演技は生死の二重性をもう帯びています。おそらく、演技が二重性を帯びていることで死者のからだを表現し得たのではないかと考えられますが、その死者のからだも、からだの内部の微細な芯から投影されるようにして演じられるわけです。すなわち、死者に成り切らないように死者を演じるわけです。具体的な役柄が設定されていて、それを死者として演じながら死者に成り切らないとき、その演技には無限の神経反復が課されて、そこに「感覚の論理」が働くと思われます。
 たとえば、「井筒」の後ジテが「児姿」を内蔵するからだで演じると想定すると、その演技はさらに複雑なものになるでしょう。いっぽうで死者のかたちを支え、他方で表現の核としての意識的・主体的なものを働かせるために、肝心の複雑に設定された役柄の演技には高度に抽象的操作が求められるのではないかと思うのです。死者である女性が男装し、そのすがたを水面に映して感じ入るその描写は、それ自体においてもう男女と生死の二重性を抱えています。そして、その登場はワキ僧の夢の中という設定でもあります。そうした幾重もの二重性に関わりつつ演技する神経を駆使しながら、その役柄を「児姿」が投影するものとしてからだに微細な芯を核として演じているとすれば、演じる役柄をあたかも冷めた「感覚の論理」において扱うような表現になるかと思われます。
 次に、禅竹の「五音三曲集」をみてみます。
「五音三曲集」はそもそも音曲についての「伝書」です。「五音」とは、「五音の位」があってそれらは「祝言・幽玄・恋慕・哀傷・闌曲」に分類されています。それに対して、「三曲」は「皮・肉・骨」とされています。「三曲」が「皮・肉・骨」という身体要素であることから憶測すれば、「五音」はおそらく仏教用語で不浄の身体をいう「五蘊」をもじっているのではないかと思います。
「此の不浄の種、骨・肉を知らずば、いかに皮を似せたりと思ふとも、其れにてはあるまじき也。種・骨を知りて肉にて隠し、肉を知りて皮に隠せば、真に美しやと見ゆる皮にてある也。種を知るは道、此の道を知る心は骨力也。それを和らぐ満風は肉身也。それを猶深めて、美しく見するは、表皮也。是、幽玄也。幽かに深きは、骨・肉二を知れる心を埋めば也。表皮ばかりにては、浅く近きにて、幽玄あるまじき也」。
 能を演じる者がからだを操作するのに、皮、肉、骨の三つの要素に分け、それらが「三曲」と、音曲を扱うごとくに考えられています。かりに「三曲」が世阿弥の謡についての考えである「節・かかり・曲」の三要素から影響を受けているとすれば、「骨」が演技の芯と同等のものとなり、演者の身体表現を全体として表すものになります。全体としての身体表現を音曲のように扱うという観点からすれば、この「皮・肉・骨」の「三曲」の考え方は、身体技術論として現代にも十分通ずるものであるように思います。言い換えれば、「骨」とは内面的・意志的なものであり、それに対して「皮」は表面的・物質的なものを指します。そして「肉」は両者を仲介する中間的・物理的なものであり、たとえば神経アレンジメントのような働きを考えることができるでしょう。「皮・肉・骨」をそうしたからだの三つの作用として考えることができると、そこからさらに、三つの作用が関わり合う局面を考えることができるわけです。
 禅竹は、からだを構成する三つの作用が関わり合う局面を説きつつ、次のように主張しています。表面的にかたちを似せた表現では十分ではない。演技の芯を心得たうえでそれをかたちへともたらそうとする働きと共に、それを表面へと仲介する神経アレンジメントの働きが織り成されることで、かたちとして十分な表現となる。そのように三つの作用が連係して作用し合う全体としての身体表現を扱うことにおいてこそ、内面的なものがかたちへと推し出されてくる深秘な表現があると。身体表現の芯となる意志的な働きが物理的働きを介して対象的なものを実現させるというからだの機構に関するこの考えには、何らかの根本的な実在(密教の考え方では法身、すなわち生命母体)が自ずと展開されてかたちを支えている、という考え方が根底にあるように思います。
 ここでも「芭蕉」の後ジテを、「骨・肉・皮」の機構が内蔵されたからだをもってして演じると想定するとどうなるでしょうか。芭蕉の精は、「非情」といわれる意識をもたない植物の精であり、そのかたちは捉え難いものです。それは死者よりも扱いにくいに違いありません。意識をもたない生命が意識をもった存在として演じられようとするのであるからまず意識をもたない生命が想定されなければならないし、そのようなあるかなきかの存在が僧に向かって法を説くのです。その演技は、意識的存在によりも、意識的存在を成り立たせている自然力にその芯を求めねばならない。そこで、意識的にからだの操作をするよりも、「骨・肉・皮」というからだの三つの作用が連係して自ずと表現されるからだの機構を軸にして演じる、という方法が考えられたのでしょうか。とすれば、もはや演じる者は演じるという意識から遠のいて、そこには、立ち現れたかと思うとさっと消えるような意識に彩られるだけの、キャンバスとしてのからだがあることになります。そのすがたにこそ、精霊の成仏が見出されるか…。

 金春禅竹は「明宿集」で、翁の起源にとくにこだわっています。翁芸の起源についてはここで遡ることができませんが、翁のその柔和な面貌の裏側には、荒神や忿怒神が秘匿されているといわれます。猿楽が法咒師と組んで神事である咒師猿楽を演じていた時代があったのですし、そうしたところから能の翁芸が仮面を継承していることは、能が古来の宗教空間を継承していることを意味しているわけです。
 また、猿楽の能が、多様な表現が可能な空間を設定することができたのは、宗教空間を受け継ぐ咒師猿楽の翁芸を継承していたからではないかと思います。翁芸は仮面に通じているのです。咒師猿楽に付属した後戸猿楽は、「修正会・修二会」の法会の際に仮面をつけて鬼を演じたわけですが、その役割は鬼に象徴される荒ぶる自然力を身に帯びることでした。すなわち、自然力をそのままにではなく、その力を抽象して身に取り込むことでその役割を果たしていたわけです。そして、仮面の意義も、この抽象力を身に帯びることにあるのだと思います。仮面をつければ人であっても人でなくなるのであり、ここにからだが抽象力を宿す契機があります。仮面をつければ具体的なすがたを帯びることになりますが、人ではないという点において抽象性を孕むことになるのです。
 仮面は、鬼面を受け継いだ猿楽者が人間のかたちを逸脱し、抽象力としての自然を経験的に知る術を与えることになったのではないかと思います。仮面をつければ、神霊が出現する空間に関わることさえできるのです。仮面は、表現空間を多様なものにする原基だったのです。したがって、表現空間に仮面をつけた死者が登場するのも猿楽能の道理に適っているのです。とはいえ、能は鑑賞芸として成立したわけです。その技芸に抽象力を抱えながらも、写実的な表現に道を見出さなければなりませんでした。そのため、多様な空間を演者が支えるべく、具体的な身体技術を身につける新たな道を進むことになったと考えられます。そうして、死と生に関わる二重性を軸にしたからだの機構が考えられ、能の表現が練り上げられたわけです。さらに、からだの機構を認知することが能の演技術となって、死者が登場する「夢幻能」の様式を具体的なかたちで支えることになる。そしてさらに、その様式を前提としてからだのキャンバス化を見る表現に至る。要するに、空間構成に対応する演技の抽象力が具体的な表現のかたちを支えながら、その抽象力がさらに演者の技術を促していったわけです。それも、空間の多様性に対応することのできる表現者による具体的な能(演技)という<観点>が設定されていればこそです。
 このように能の表現にあっては、演技を中心にしてその技芸が展開されていったわけですが、演者のからだはあくまでも個人的で具体的なものです。ですから、内部の抽象力に関わる表現を優先させようとする際には、方法的には、個人的で具体的なからだを消して、別のかたちを借りて抽象力を推し出そうとする表現が採られたのではないか、そう考えてみたいと思います。抽象力に関わる表現をするのに自身とは別のかたちが求められることになる、というわけです。たとえばそれが、仮面をつけた女性の死者でした。