Sunday, September 13, 2015

土方巽研究 三 <土方巽と日本人>


三 能・歌舞伎・舞踏

 3 舞踏
 3)「病める舞姫」と舞踏の表現
 舞踏符の方法によって舞踏の表現がいったんは形式化されたかにみえますが、「東北歌舞伎」も「白桃房」もその表現様式は一時的なものであったと考えられます。ことに「白桃房」の表現に際しては、土方は自ら踊ることから、踊り手に舞踏符を振付けながらそこに立ち現われる過程を逐一採集し、対象化する作業へと移行しており、そうすることで舞踏符の舞踏としての舞踏の表現の成立に深く関わりながらも、舞踏符については外に向けて一切語っていません。それはおそらく、舞踏符が踊りの構成要素となることで舞踏の表現に形式がもたらされたというのではなく、あくまでも舞踏符は土方の指導によって踊り手の表現内容を引き出すための媒体にすぎないと考えられていたからではないでしょうか。もとより土方には舞踏の表現形式を確立しようとする考えはなかったと思われます。表現の形式化よりも表現内容を、すなわち「土方巽と日本人」を契機にして、女性的なものに関わる姿勢を優先してきたのではないでしょうか。女性的なものに関わることへの<屈折>、そしてそこに派生する現象を受容することは、その結果として、「包まれている病芯」にも述べられているような、表現における時間(意識)の介入に注目させることになります。表現における時間(意識)は、「ハプニング」から継続する主題でもあります。というのも、パフォーマンスにあっては独特の時間が流れるからです。そこでの時間(意識)は日常的な時間とは異なっています。日常的時間は尺度として機能するもので、もともとそれは古代から中世にかけて支配のための尺度として定められ、権力から与えられたものです。それに対して、パフォーマンスにあっては時間(意識)そのものが立ち現れてくるのです。言い換えれば、パフォーマンスがもたらす特異な空間はそうした時間(意識)に支えられているわけです。そのため、そこでは支配時間という瘡蓋はむしられようとします。そうすることで、時間は尺度的な支配から解かれ、より潜在的な局面をあらわにして意識に噛み合わせられることになるのです。
「包まれている病芯」で、土方は「病体」について、「内蔵が皮膚に、皮膚が内臓になるという裏返された連続性のなかにこそ、さまざまな思い出の蘇生が始源の姿を鮮明に保ち得ている」、そうした状態として説明しています。この「病体」をもたらす「裏返された連続性」への関わりが、舞踏符を単に踊りを構成する要素として扱うことから、舞踏符から舞踏符への「連続性のなかに」示される(振付ける側と踊り手両者の)神経アレンジメントの変動する過程や、「裏返された」ものとして立ち現われる神経アレンジメントの成り立ちと(振付ける側から踊り手への)変容に注目することへと、すなわち舞踏符を(振付ける側の神経アレンジメントと踊り手の神経アレンジメントとの、あるいは内容と表現との)媒体として意識することによる振付けへと、その視点を移行させていったと考えられます。そのことは、「静かな家」において土方が自ら意識化し、自らに課した課題でもあったと考えられますが(たとえば「皮膚への参加」がある)、「白桃房」作品を連続的に制作するに際し、振付けに専念することで舞踏符の媒体としての性格がさらに精査され、そのさなかに時間(意識)の主題が表現する自己と絡み合うようにして新たなかたちで浮上してきたと思われます。この点について「病める舞姫」を通して考えてみたい。というか、「包まれている病芯」の視点から「病める舞姫」について検討してみたいと思います。
 まず「病める舞姫」の「病める」とは、「包まれている病芯」で示されている「病体」の状態をいう、と考えられます。さらに、「病める舞姫」の第二景(ここでは各章を「景」とする)では次のように語られています。「崩れるということをぼんやりと知りながら立った記憶の始まりを、しっかり外側から取り押さえているような白い顔が、こちらを向いて停止しているのだった。その選り好みできない白い顔に、捲かれている写真のように、私のからだは包まれてしまうのだった。私のからだの疼きの中に病芯のようなものが感じられる。病芯の震えにふれているのは、尻をはしょって首に手拭いを巻いた小柄な老人や、お日様をよぎる蝙蝠傘、ゴムの短靴をはいた固い額を持っている半島女の、もうもうたる塵埃をあびている姿だった。…青い顔に白いマスクをつけ、下駄をはいた男が理髪店から出て来た。親しい死者達の貎。歩くことが仕事みたいな人達や、屋根の上で髭をはやした大人が頬被りして腕を組み、遠くの空を眺めたりしているのだ。説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮が、白い顔の中にびっちりと詰まっていた。私のからだに描かれた絵は、こうして現われて、私の毛並みの衰えを思い知らされたり、犬の目付きに変えてしまうのであった」。この中の、「崩れるということをぼんやりと知りながら立った記憶」、<死者>の顔に「私のからだは包まれる」、「私のからだの疼きの中に病芯のようなものが感じられる」、「病芯の震えにふれている」、「説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮」等は、すべて「包まれている病芯」の用語そのままです。
 ここで「包まれる」とは、「選り好みできない白い顔に、捲かれている写真のように、私のからだは包まれてしまう」と、あたかも像が焼き付けられたフィルムに捲かれるようにして、否応のない仕方でからだが死者たちの記憶に包まれることであると描写されています。それはからだの芯から疼くような体験であり、そうしたところに「病芯」が感じられるといいます。また「包まれている病芯」で、「裏返し」の構造を促す「病芯」が導き出してくるものとされている、「人の根底が震えているような状態」の「震え」について、ここではその「震えにふれている」ものとして<死者>がその例として語られています。ここで主題となっている「白い顔」とは<死者>であり、すなわち土方が少年時代に見た者たちに関する記憶でありかつそのすがたであるわけですが、特異なのはそれが土方のからだを否応なく包み、「私のからだに描かれた絵」として現われるということです。それは記憶というよりもからだに関わる現象として提示されており、いわば少年の土方が経験したはずのかつての神経アレンジメントとして示されようとしている、そう考えることができるでしょう。そうした<死者>との関わりには、「説明しにくい視線を保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮」が詰まっている。要するに、すばやく関わる距離にありながらも言葉では捉え難い「敏捷な構造」がそこに見出されているのです。土方はこうした「敏捷な構造」としてからだに立ち現われるものを、すなわち少年の土方が経験したはずのかつての神経アレンジメントであると考えられる、からだにあって包み包まれているものをめくっていく、すなわち言葉にしようとしていくのです。
「病める舞姫」の構成は次のようになっています。まず冒頭部があり、続いて四季の変化に沿って土方の<少年>を核とする光景が語られます。夢が日常的時間の支配を逃れているように、<少年>をめぐる光景が語られる際にもそれに似た状況にあります。あるいは、その語り方は盲人の世界を思わせます。たとえば、(盲人は)空間にいるという感覚が希薄だ。…空間は自分自身の身体にまで縮小され、身体の位置はどのようなものを通り過ぎたかではなく、どれくらいの時間動いたかで測られる。…盲人には、声がしないかぎり他者は存在しない。…ひとは動くもので、一時的なもので、来て去るものだ。どこからともなく現われ、どこかへ消えていく」(V.S.Ramachandran他「脳の中の幽霊」)といわれます。このように、空間を基盤にする意識であるよりもどちらかといえば時間を基盤にする意識が、死者に関わる<少年>が織り成す光景を支えているように思われます。言い換えれば、その光景は遠くにある過去の記憶を想い出すようにして語られるのではなく、あたかも盲人が現在世界を感知するようにして、すぐそこにあるかつての神経アレンジメントを感知しようとしているふうに思われます。空間は、どこからともなく現われてはどこかへ消えていくものと共に意識されます。そのように空間についてはそれが生まれるところに関わざるを得ないことから、それよりも時間意識が先行しているという印象を受けるのです。そうした盲人の手つきを思わせる作業が、「病める舞姫」の主要部分になっています。そして最後に、<少年>に替わって二人の人物が登場し、一面に雪積もる光景の中で踊りが踊られ、踊りについての会話が交わされます。この最終部はどちらかといえば舞台場面を思わせ、会話や仕草が目に見えるように語られ、それゆえ、全体からみれば別枠の印象を受けます。
 その主要部分の内容は、土方が<少年>の神経アレンジメントを感知しようとして試行錯誤する過程でもあります。まず土方の少年時代の記憶があり、それに対して土方のからだが現在も抱えると考えられる<少年>の神経アレンジメントがあり、それらは区別して考えられなければならないわけですが、その区別は必ずしも明確ではなく、それゆえ土方の試行錯誤とは、<少年>の神経アレンジメントという曖昧なもののうちに「迷う」ことでもあります。とはいえ、<少年>の神経アレンジメントは「敏捷な構造」として立ち現れるのであり、そこに土方の<現前的な>意識が噛み合されるとき、時間意識をもたらすもの、すなわち持続力として体験されるものに向き合うことで、その曖昧なものは感知されるようです。少年時代の記憶が単なる記憶として示される場合と、<少年>の神経アレンジメントとして示される場合があるわけですが、土方は意識的に<少年>の神経アレンジメントを感知しようとして、感知しようとしながらその神経アレンジメントのあり方を表現的な視点から解釈しています。記憶とは区分けされるかつて経験したはずの神経アレンジメントをこうだろうああだろうと解釈しながら、土方は神経アレンジメントの波打つ大海を舵を切って進んで行くのです。そこには、少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメント、そして土方の内省と思考とが入り混じって語られているわけです。読み進めながらその差異を腑分けしさえすれば、「病める舞姫」は読めるのです。「病める舞姫」は、「〜のような」、「〜のように」という表現が多いことで知られていますが、この点についても、かつての体験を現在の意識のうちに還元するのではなく、現在もからだに潜在する神経アレンジメントとして対象化しようとするからであると考えることができます。そこで一つの読み方として、「〜のように」のその内容を、舞踏符のようにして、読む側のからだで捉える仕方があります。すると、「〜のように」のその内容を、土方は自身に振付けし、そして語ると同時に踊っているのではないかと思われてきます。おそらく土方はそうした語り方によって、舞踏符の媒体としての性格を自身のからだを使って精査しているのではないでしょうか。
 少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメントの関係は、私がわからなくなっても、わかってくれているようなものが、からだの内側から現われてきていた。私のからだの着換えが始まっていた」(三景)、そう内省されるようになります。その<少年>の神経アレンジメントに、<死者>のかたちがくっついてきます。「私が見たその人達には何か怖ろしいものがあり、彼らの忍んだものは、みんな死んだかたちで現われていたのだった」(三景)、というように。当時の人たちが必ずしもあらわにしなかったものが、いまや神経アレンジメントとして土方のからだに立ち現れようとしているのです。こうした状態に、少年時代の記憶と<少年>の神経アレンジメントとのそれまでの優劣関係が入れ換わっているのがわかると思います。そんな人達には、あまりにも、やさしい皮膜がついていたから、視覚だけではとらえられないのだった。その人達はみんな、くるりと裏返しされたばかりの人で、裏返されたばかりの世界に住んでいたから、あのようにはっきりと配列されていたのかもしれない。欲していることが、抱きすくめられるような暗がりにさしかかって、ようやく動きが少なくなっていることに私は気付いた」(三景)。ここでも、「くるりと裏返しされた」、「配列」等という、「包まれている病芯」の用語が使われています。ここでの「裏返しされる」ことについていえば、たとえば、夢にうなされる人がその反応をからだの痙攣的な動きに表すのを見るとき、そこに夢自体が神経アレンジメントとなってあらわにされているのを知ることができます。そこに夢の内容が神経アレンジメントへと「裏返しされ」ているのです。要するに、土方のからだが感知する<死者>をめぐる<入れ換え>とは、そこに「何か怖ろしいもの」があるといわれるように、私たちが夢にうなされるその内容が痙攣となってからだに表れる、そうしたよくある体験に似た現象であると考えることもできるでしょう。
「病める舞姫」における<少年>の神経アレンジメントを感知しようとするこうした作業は、折り畳まれていたものをふたたび開く作業であるといえますが、それよりもそれは、いわば「自明でない自己」のあり様としての<少年>に関わり、その内容を具体的に明示しようとする体験であると考えることができます。とはいえ、「自明でない自己」に向き合い、そのあり様に何がどのように関わることができるでしょうか。「自明でない自己」に向き合おうとするものが何かは当然に自明ではないし、それゆえ「自明でない自己」のあり様でさえ対象化できるものではありません。したがって、ここでは何が何に関わるのかというよりも、どのように関わるのかというのが主要な作業となっているでしょう。要するに、「病める舞姫」の主要部分は、「自明でない自己」にどのように関わるかの体験報告でもあると考えられわけです。その場合に、最低限の枠付けとしての季節があります。<少年>に関わる際に体感としての季節の移り変わりが前提とされ、それに伴って外に向けては植物等の生命の成長と衰微が示されます。そのようにして、<少年>を最低限に枠付けするものが「自明でない自己」を押し出していく、といった方法が採られているように思います。
 その際に、土方が次々と立ち現われる<少年>の神経アレンジメントを言葉にしようとする力には目を見張るものがあります。そこに立ち現れたものは次に立ち現われるもののためにすぐに消えてしまいますが、その「敏捷な構造」さえも検討対象とし、思考のうちに捉えようとしています。すなわち、要所要所で神経アレンジメントの過程と変容を解釈するようにして内省されています。こうした持続力はいったいどのようにしてあるのでしょうか。鏡に映るような光景を言葉にするのであればそれは単なる描写にすぎません。そうではなく、土方は、それだけでは何が何だかわからないかつての神経アレンジメントを言葉にすることで、神経アレンジメントそれ自体の差異を増幅させているように思われます。差異を増幅させることで、かつての神経アレンジメントというものを対象とすることができ、少なくともそれについて考えることができるわけです。そして、そうしたところに<死者>がくっついてくるのです。おそらく過去の記憶を語ろうとするだけではそうはならないのにちがいありません。かつての神経アレンジメントに関わろうとする体験が<死者>を連れてくるのです。どちらかといえば、<死者>を連れてかつての神経アレンジメントが実現される状態は明るく、それに対して、単なる記憶の想起はからだをほの暗いものとして構成しがちなようです。こうしたことは、意識が肉体に関わろうとする「肉体の闇」がもたらす一つの帰結ではないかと思います。私たちは少なくとも神経アレンジメントの差異を日常的に感知してはいるでしょうが、日常生活を優先させるためにそれを定常的なものに還元してしまう強い傾向をもっています。また曖昧な神経アレンジメントは、その曖昧さのゆえに、記憶や知識を基にした判断のうちに封じ込められてしまいます。こうしたことは、土方に持続力をもたらす体験とは真逆の事態であるわけです。
 かつての神経アレンジメントの波打つ大海を航海するに際して、その景が進むごとに土方はその方法を何度か修正しているようです。冒頭の景で主題が提出されるわけですが、二景ではまだあまりうまくいっていないようです。少年時の記憶がそのまま語られる傾向になっています。次の三景は記憶と解釈がうまく適合しています。<少年>の神経アレンジメントとそれにくっついてくる<死者>にアプローチする仕方を意識的に変えたのでしょうか。四景もやや記憶的な面が強いけれども、「泣いていた子供はもう、畳の上に溶けて流れたようになって寝ていた。逃げていた油虫がまた出てきた。皆、それぞれにそこに棲んでいた。恐がっていた私の姿もいつしか蒸発していた。こうしてすぐに消え去るものによって繋がれて現われてくる正体を、私は掴まえたような気がしていた」、とあります。そして、夏になって(五・六景)、することがわかってきたかのように表現のバランスがとれてきます。何を言って何を言わない方がいいのかという配慮が察せられます。さらに晩夏(七・八景)になると、「私がそこで何を見ていたかといえば、蹲る私の目のなかにふとはいってくる、虫の髭の迅さだった。この虫の髭より迅いものには用心するにこしたことはない。もう少しで私もこの虫と似たものになれる。こうして粘る必要もなく、からだを衰弱させていく効能を私のからだが知り始めているのだった」。「もう二度と見ることもあるまいと思われた少年の私が、犬の動悸をつけて帯を垂らして、今そこの手の届く暗がりにぼんやりと立っているのだ」。「こうして私は私の少年を激励しているのだ。しかし、その少年の臓腑や虹門の動きが、こうまで鮮やかに思い出されてくるとはどいうことなのか。その少年と同じように動いている息だけの生き物が後からついてきていたからであろうか。その息に私がつけた名前は忘れたが、そんな奴の動きにあまりにも絡まり過ぎていたのだ。後年、舞踏であらかた整理をつけたが…」、とあります。いまや<少年>の神経アレンジメントを感知する仕方を身につけ、そこに<現前的>な意識を噛み合わせることができるようになったかのようです。方法的にも、記憶を単に告白するだけでは「ものの形を真似ることができず…」、そうではなく、おそらく「自明でない自己」をからだに「変な流体に仕上げる」方へと修正されているようです。そして、たとえば「玩具の蛇」を使って<少年>の神経アレンジメントと(捏造された)記憶との区別に目鼻をつけて選り分けられるようになると、その向こうに<少年>がいる、そう手応えを解釈として述べています。「玩具の蛇」とは、<少年>という「自明でない自己」を対象として扱うことのできる道具なのでしょう。とはいえ、その対象化は、「未発達の霊の働きによってか…私の向こう側で嵌め込まれたような動物になって、私の少年は私を不審そうに覗き返しているようだ」(七景)といわれるような、向こうから見られることによる対象化なのです。「玩具の蛇」とは、「誰に頼まれたのでもない粗造りの自分のからだなのだった」(七景)。いわば、自身よりも大きなものをただ漉しているだけのフィルターのような神経アレンジメントがそこに考えられますが、そこには随分といろいろなことがあるものだ。骨に映ったものや、皮に移ったものだけでも、大変なことになる」(八景)、といいます。
 後半の晩夏(七・八景)から秋(九・十景)にかけての表現の持続力は、むしろ土方の<現前的な>意識の流れを示しているようです。たとえば、「菓子袋」(十景)への執着を語る仕方は色々なものを取り込んでいて、少年時の記憶と<少年>の神経アレンジメントと解釈の間の行き来が自在な感じがします。「私は…どうしても荒治療で生きているような菓子袋が必要だった」が、その中身は空白になっています。中身よりもむしろ「菓子袋」をめぐる<少年>の神経アレンジメントを扱う際の速度や強度が重要だと考えられているのでしょう。秋になって語りが散漫になりかけたのが、「菓子袋」や「老婆」に関わる神経アレンジメントと共に持続力を強め、それは「竈」のメタファーへと繋がっていきます。そこには舞台という「竈」が想定されているのかもしれません。その周辺では「白桃房」の振付けの際に採集された様々な神経アレンジメントが言葉になって構成されているかのようです。老婆については、「あれはもう人間というものではなくなっている、飛ばない一つの軽さのようなものではないか」(十景)。「老婆はどこに隠れたのか。その隠れたところをどこまでもどこまでも追っかけていけば、赤子の頬についている涙腺のようなところに出て行きそうな気がする。そんなところで、その老婆に変なまじめな約束をさせられるような気がしてならない」(十景)。どうやら行き先に目鼻がついてきたようです。
 (十一景・十二景)になって持続力はいっきに高まります。「女の話」(十一景)があって、そこから「震え」が見出されます。「忘れられたような風のそばに、露の玉が一つ眺め透かされて震えている。それが私だ」(十一景)。「震え」とは、一滴の自己とは比べようのないほど大きなものに触れている、そのことによる「震え」なのです。そこから、「変な流体」として湯気(神経アレンジメント)が渦巻く中に、湯気とは正反対の「つらら鳥」(十二景)が一気呵成に見出され、場面はいっきに転換して雪の中の「道行」といった光景となります。
「つらら」が湯気の中に現われることはないから、これは<少年>の神経アレンジメントに関わるのではなく、土方の<観点>的なものがそうさせるといっていいでしょう。「つらら鳥」は飛ぶのではなく、それはいままさに飛ぼうしているものを示しています。それは湯気と正反対の状態にあるけれども、湯気と同じ成分でできています。それは一体になり得ないものを噛み合わせる局面への飛躍を示唆していると考えられます。こうした<観点>的なものに連れ出されてくる事態が、それまでとは別枠の、次の光景に進ませていると思われます。<少年>と母親らしき黒マントの語り(十三景)があり、最後に<少年>は消え、替わって二人の人物による踊りに関する会話が展開されます(十四景)。<観点>的なものによって連れ出されたところでそれまでの試みは終えられ、<少年>が退場するこの最終章はそれまでの土方の試みから逸脱しているような印象を受けます。しかし、「病める舞姫」という女性的なものに関わるタイトルを掲げながらそれに反してここまで<少年>をめぐる描写が続けられてきたことを考えれば、それは逸脱ではなく、飛躍と考えるべきでしょう。つまり、最終景ではそれまで主旋律の基底音となっていたものがいっきに現れている、そう解釈することができるのではないかと思います。そこでは、「白マント」の土方がさらなる舞台構想を練ろうとしているのか、それまで精査してきた<少年>の神経アレンジメントのあり様を言葉にして差異を増幅するのではなく、翻って踊りに噛み合わせようとする光景が描かれているように思います。
 とはいえ、この最終景への飛躍の意図を判断するのは難しい。けれども、その光景については、「包まれている病芯」との関連にこだわれば、その中で最後に語られている弟子への指導方法と比べることができるかもしれません。その内容を要約すれば、「何の心の準備もなく、犬が仔を生んでいるのに遭遇して観察したその内容を女生徒に話す際に、たとえばその犬が今していることを知っているかのような犬側の視線について話をする。説明しにくい視線を相手に保ちながら、すばやく手が相手に届くような配慮をもってである。或る対象を観察する際には、観察側の『感覚の論理』にただ迷い込むようにして観察しているわけではないからである。それに対して女生徒の中には、『私はできるだけ対象に接していたいし、その状態から離れてもいきたいが、その中間に宙吊りになった自己を取り出すことができないか』、そう反応する者もいる。女生徒の中から、現在はこうした夜尿症的タイプを嗅ぎ分ける作業に力を入れている」、というものです。そこでは、対象を観察した内容を対象の側から話すこと、その際の「敏捷な構造」を話す仕方、その話に反応する宙吊り的な自己が見分けられること、そうしたことが指導方法として語られています。こうしたことを考慮に入れながら、「病める舞姫」の最終景の内容を、白マントが黒マントに踊りを指導する光景として読むことができるかもしれません(その分析はここでは煩瑣になるので省きます)。「夜尿症的タイプ」とは、「感覚の論理」に沿う自己から漏れ出すものを示すことができるタイプであり、たとえばそのことは、「からだのなかでぬくめたことを、そこいらの雪にばら撒くように、持ちこたえられなくなったように散ってな、ばら撒くことが肝心なのよ。細かい気持ちなどさらさらいらないんだよ」(十四景)、という指導と関連づけることができると思います。また「尿を漏らす」というのは、最終景の最後の場面に繋がる光景でもあります。
 以上みてきたように、「病める舞姫」を語る土方の作業には一貫した姿勢がみられます。そこでは<少年>の神経アレンジメントに関わること、汎用的には「肉体の闇」に関わること(意識が神経アレンジメントに関わること)が、結果的にそこに派生する持続力をもたらすことになります。持続の状態それ自体には時間(意識)が伴わないわけですが、「自明でない自己」に関わることにおいて自己の体験として感知されるはずの時間(意識)があるわけです。そしてそうした体験は、おそらく土方がパフォーマンスによってもたらすものと同じなのです。さらにはその体験は、舞踏符を踊り手に振付けるその過程において知られるものでもあると考えられます。舞踏符はそうした時間(意識)を体験させる媒体となっているのです。時間(意識)ほど「敏捷な構造」を伴うものはありません。おそらく、女性的なものに関わるといっても、それは歌舞伎の女形のようにジェンダー的に関わることではないのです。それは受容的になることであり、何に受容的になるかといえば、「敏捷な構造」のように隠れてかたちのないものに受容的になる、そういっていいと思います。土方は女性的なものに関わろうとして、時間(意識)に支えられて空間が生まれるところ、そうした隠れてかたちのないものにふたたび還ろうとしたのではないでしょうか。表現することで空間を生み出そうとするのではなく、「敏捷な構造」としての時間(意識)に支えられて空間が生まれるところにとどまろうとすること、それが「舞踏」の内容として考えられたわけです。それはつねに「見慣れぬもの」として立ち現われます。「包まれている病芯」で語られる「微笑」とは、そのように今まさに生まれようとしている空間をいうのではないでしょうか。「病める舞姫」において、土方は自らつくりあげた舞踏の様式を離れて、「舞踏」の内容にあらためて迫ろうとする時期を迎えているのだと思います。

「病める舞姫」の後に土方が発表するのは、実験的作品としての「景色へ一瓲の髪型」(1983)です。実験的というのは、この作品で土方は、「東北歌舞伎」から「白桃房」までの表現様式をかなぐり捨てているからです。また舞踏符の方法も大きく修正されています。「景色へ一瓲の髪型」に関する資料がないので、ここでは私自身が見たことを述べておきます。会場の「プランB」に開場時間前に入ると、舞台で土方が芦川羊子を振付けていました。土方が自ら動きを示し、その動きを芦川羊子がなぞっていくという手順でなされ、それが開場時間ぎりぎりまで続けられました。弟子の一人がその一部始終をメモしていました。本番では、開場時間ぎりぎりまで振付けされていたその場面になると、芦川羊子が踊りながら観客席正面に座るプロンプターに矢継ぎ早に舞踏符の指示を求め、プロンプターが大声で次々と舞踏符を指示し返します。そのやりとりが観客に聞こえる、といった異様な展開となりました。これでは踊り手は舞踏符の間合いをとりにくいのではないかという印象を受けましたが、踊り手が舞踏符を求めながら踊るそのこと自体が踊りになっているという、その緊迫した展開の方が勝っています。途中、暗転時に舞台の上手奥に設えられたスペースで踊り手が着替えをしますが、そのときスペース内に灯りが点いて着替えが観客に見えるという新たな演出もなされています。舞台背景も何もなく、コンクリート壁がむきだしの狭い空間に、踊りも含めて何もかもがむきだしにされた表現がそこにありました。
 とりわけ最後の「縄跳び」の踊りは見事でした。「病める舞姫」の最終景に、「白マントの女は、顎をはずしたビッコの縄跳びをしはじめた。迷い子よけの匂いを嗅ぎにいっていたような鼻が戻ってきて、その縄跳びの顔にひっついた。すると顔の皺や、うっすらと生えた産毛が一緒によじれ、よじれて飛んでいる縄と一つのものになった」、とあります。縄跳びはサイクル的な運動です。その周期的な時間を私たちは縄の回転と共に感知することができます。舞台では、その周期的な時間がまずビッコで狂わされ、さらには「感覚の論理」に迷うものが動きとくっつくことで、踊り手の主体意識の衰弱に拍車がかかります。そして縄が見えないことをいいことに、踊り手の主体意識の衰弱と共にその周期的な時間に「よじれ」がかけられ、「よじれて飛んでいる縄と一つのものになった」時空がまるごとそこに立ち現われました。私はそこに、芦川羊子でありながら芦川羊子でないものが踊っているのを見ました。つまり、踊り手のかたちよりも踊り手を動かす「名づけえぬもの」の方が優っている、そうした踊りを見たのです。そこにはかたちから脱してかたちのないものが微笑む、といった時空が実現していたのです。
 パフォーマンスにはそれ特有の時間が流れます。また、そうした時間(意識)を前提にしてパフォーマンスを構成することが可能でしょう。「景色へ一瓲の髪型」では、パフォーマンスのかたちよりも、パフォーマンスを通じて立ち現われる舞踏独自の時間が目指されていたのです。そのため、踊り手は空間が生まれるところにつねにとどまるよう要求されたのではないかと考えます。そして、おそらくそのことと連関した舞踏符の修正があったのです。パフォーマンスの際中に次々と舞踏符を要求し舞踏符が指示されるという仕方では、踊り手は自らの間合いで一つ一つの舞踏符に見合った神経アレンジメントに関わることができません。そうした仕方では、確実に踊り手の主体意識は変調させられると思います。そうした変調に基づく表現がそこには意図されていたのであり、このとき「舞踏」の表現の新たなモデルが提出されたのです。媒体としての舞踏符の方法は、より高次の段階に移っていったのです。
 表現様式が反復されると、表現内容およびその時間(意識)が定型化するという問題があります。土方は舞踏の表現様式を一代でつくりあげましたが、そうした問題のゆえにそれを手放したのだと考えられます。土方が本来的に「型」を重視しない現代作家であることの証が、この実験的作品にみられます。「東北歌舞伎」や「白桃房」の表現様式をつくりあげる際には、土方は歌舞伎や能を参照しつつ、舞踏の表現を総合的なものにするべく試みていると思われます。けれども、「白桃房」連続公演の後にすべての様式を投げ打っていることからすれば、その試みは要するに、伝統芸能を参照しながら舞踏の表現様式をつくりあげるために、からだが抱える抽象力に関わる方法にかぎって取り出そうとする作業であったとも考えられます。かつての<能>役者や女形が厳しい身分制度の中でそうせざるを得なかったのとは異なり、普通の人間をしてからだが抱える抽象力に関わらせること、そのことにこそ土方の考える「舞踏」の核心があるように思います。端的にいえば、「景色へ一瓲の髪型」とはそうした表現なのです。
 死の前年である1985年に行なわれた「衰弱体の採集」は、土方が初めて一般人を前にして語った講演です。語るというよりも、講演を演じたといっていいでしょう。それは踊りを踊らなくなった土方が、踊りも文章表現も講演もすべて<現前性>を素材にするという点において舞踏である、そう考えることによって演じられた表現であると思います。あらゆるジャンルを串刺し的にする表現基盤としての「舞踏」を土方は遺そうとした、そう考えてもいいかもしれません。この「衰弱体の採集」には、おそらく「病める舞姫」の体験が色濃く反映していると思われ、その内容は、かつての神経アレンジメントを立ち現せるためには主体意識を衰弱させなければならないという主旨であり、その例を土方自ら演じているのだと思います。主体意識が衰弱すると共に立ち現われるのはかつての神経アレンジメントに関わることの持続力であり、それはパフォーマンスとしての舞踏表現がもたらす独自の時間と共通するものでもあります。まず「風だるま」が演じられるように語られ、かつての<少年>の神経アレンジメントが断続的に語られていきます。そうすることで、土方は自身の<衰弱体>を採集しようとしているのであり、その採集状態をも観客に示そうとしているように思われます。そして、話も押し詰まって最後に、自身のからだに住まわせている姉が次のように語るといいます。「表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい」と。この<死者>による言葉は「敏捷な構造」の性格を指摘していると思われますが、表現する姿勢に関わる点からすれば、空間が生まれるところにとどまるよう表現者に要請しているのです。そして、最後に「イズメ」の話が語られるのは、土方にとって時空が生まれるところとしてつねに田圃の広がりがあったからである、そう考えることができるでしょう。 
 その後、四回にわたる「東北歌舞伎計画」(1985)の合間に、「親しみの奥の手」(1985)と「油面のダリア」(1985)がアスベスト館で発表されます。共に芦川羊子主演の実験的な作品です。自ら様式にまで高めた表現を、自らの手で抽象化して表現するにまで至っています。土方は踊れなくなりましたが、「舞踏」作品とその思考を短期間のうちに次々と遺していったのです。こうした「病める舞姫」以後の表現が、土方が考える「舞踏」の真のかたちではないかと考えます。そこでは伝統的なものの影響はまったく払拭されていますが、からだが抱える抽象力に関わるという点において連綿と受け継がれてきた表現姿勢がそこにはみられます。そのことが、「舞踏」という現代の表現の広がりを支えているのだと思います。伝統に深く繋がりながらも土方の表現の現代性は独特のものです。それを何と言っていいかわかりません。他に共通する表現があれば比較できますが、そうはいかないからです。
 土方の死は1986年。その後、1995年にソ連が崩壊します。それ以後、マルクスによる「共産主義宣言」を軸にして二極的世界が展開されてきたのが、資本制社会による一元的世界へと急速に包摂されてしまいました。そこには、貨幣という、将来を不確実なままに約束するものが価値と認められ、その脆弱な価値を必死に守ろうとする社会があるだけです。今のところ出口は考えられていません。土方の「舞踏」が息を吹き返す場所はどこにあるでしょうか。