Wednesday, November 15, 2023

Lahore日記 The Diary on Lahore

三 パンジャブ回廊

  10 中央アジアの風

 

 Lahore東部郊外の集落BegampuraMian Mirの聖廟がある。Mian Mir(15501635)はスンニー派の原理主義的傾向が色濃いQadiri派のスーフィーで、ムガール朝第五代君主Shah Jahan(15921666)の長子Dara Shikoh(16151659)の導師であることで知られる。またMian Mirは当時の新興宗教であるシーク教の教主からも敬われたことで名高い。その聖廟にMian Mirが死んだ時に彫られたペルシア語の四行詩が掲げられているということを「Old Lahore(H. R. Goulding/1924) を読んで知り、私はわざわざ乗合ワゴンとバスを乗り継いでMian Mirの聖廟を訪れた。ちょうど聖廟の前に生茂る大樹を背にしてQawwaliグループによる演奏と朗唱の最中だった。私は参拝者に混じって座し、いつになくリラックスした気分になってQawwaliに聴き入った。そして演奏が終わった後に演者に喜捨したことまでは覚えているのだが、おそらくその足で聖廟に向かったのだと思う。そのときの記憶が定かでないのだが、西側に向いた聖廟入口の上部に目的の彫られた四行詩を確認したのだろう、私のもとにその四行詩を書き留めたメモが遺っている。それにあらためて目を通したのだが、以下のような内容であった。

「ミアーン・ミール、叡智の藏庫の長、その扉の塵でさえ錬金術者(aksir)の妬みを買いしが、いまや永遠の都に向かう旅に出た。これにより人々の心は悲しみに打ちひしがれ、この地は悲しみの極みに達した。死の達成に捧げてまさにその年にここに記す。たちまちのうちに天国に在る者、それがミアーン・ミールなり (Mian Mir sar-e-daftar ‘aarfan/ keh khak-e-dwush rashk-e-aksir shad/ safar janab-e-shahar-e-jawid kard/ azin mehnat aabad dilgir shad/ khard bhar-e-sal-e wasalshan nowshat/ bafaur dwus-e-wala Mian Mir shad)。」

Mian Mirは高潔な人物で、相手がどんな地位の者であろうと世俗的で自己中心的な人物には決して面会しなかったと言われる。門前にファキールの身なりをした弟子を配置し、面会者を門前払いしたという。こうしたことから「蔵庫の扉の塵が妬まれた」という句が生まれたのだろうが、ここに「aksir(錬金術者)」の語があるのが興味深い。かつて私はこの「錬金術者」の語に惹かれてわざわざMian Mirの聖廟を訪れたのだった。アラビア語で「iksir」は「錬金術者の石」を意味し、ペルシア経由で「アラビア錬金術」の概念がインド世界にまで伝わっていたのである。「アラビア錬金術」はギリシア自然哲学の流れを受け継ぐものだが、そのような学問的伝統を有する自然哲学者からも妬まれたというほどMian Mirは博学だったのである。ちなみに「al-iksir」と、冠詞がついた語を発音した語が英語の「elixir(万能薬)」である。

Mian Mirの弟子であったDara Shikohは皇子の地位にありながらも熱心な学究の徒であった。Mian Mirに教えを請いにわざわざDelhiからLahoreまでやって来るほど博学なスーフィー賢者を信奉していたようだ。Dara Shikohはウパニシャッド哲学をペルシア語に訳したことで知られ、その内容は後に「Oupnekhat」として西洋世界に知られることになる。Mian Mirはまたムガール朝期のパンジャブ地方に興った新種の一神教であるシーク教の良き理解者でもあり、第五代グルArjan Dev(15631606)と親しく交わり、Lahoreで信仰に関する意見を交わしていたものと思われる。

 こうしたことからMian Mirは信仰についてはもとより、当時の学問世界にも広く通じていたことが分かる。しかし、イスラーム教が中央アジアに広汎した頃の、イスラーム世界を広く旅して知見を得た数々のスーフィー聖者たちと違って、Mian Mirはほとんど移動していない。Sindh地方に二代目正統カリフの子孫の家系に生まれ、二十五の時にLahoreに旅し、それ以来死ぬまでDharampuraに留まった。その出自ゆえにアラビア語とペルシア語を解し、Mian Mirはその博学的知識を主に書物から得たと思われる。すなわち、ムガール朝期にはインド諸語文献はもとより、西方のアラビア語やペルシア語の書物、さらには「Babur Nama」が書かれたチャガタイ・トゥルク語による書物等が北インドに流通していたのである。そして、そうした広範な書物をLahore郊外の修行場(khanqah)に居住するMian Mirでさえも手にすることができたと考えられる。

ムガール朝の支配の下で、パンジャブ地方の文化環境はそれ以前とそれ以後とでは劇的に変化したものと思われる。それ以前にモンゴル軍の襲来があり、中央アジア一帯は一時的に衰退したが、トゥルク化したモンゴル族のティムールがふたたびイスラーム帝国を打ち立て、イスラーム世界が中央アジアに復帰することになる。ティムール軍はパンジャブにも襲来したが、それによって中央アジアからパンジャブ回廊にかけて人と物、さらには情報の移動があり、イスラーム文化の流通を促進したと思われる。そして、ムガール朝の成立はそうした物と情報の流通状態を長期的に安定させることになったのである。すなわち、ティムール軍を最後に、遊牧民の一団が定期的に疾風怒涛のごとく襲来して各地の城市を略奪するといった古来よりの慣習はもはや過去のものとなったのである。

 

ムガール朝の歴史家の記録によれば、Delhiの「Darul Khilafa(帝国の座)」、Agraの「(Darul Mahal(宮廷の座)」と並べられて、Lahoreは「Darul Saltanat(統治の座)」と述べられている。これら三都市のうちDelhiAgraはガンジス河支流のYamuna河沿いに位置するが、Lahoreはインダス河支流のRavi河沿いに位置する。すなわち、DelhiAgraはベンガル湾に注ぐガンジス河に自ずと繋がっているが、一方のLahoreはアラビア海に注ぐインダス河と古来より結びついている。両大河の分水嶺はパンジャブ東北部の丘陵地帯にあり、北西インドの地にムガール朝の三都市が居並ぶにもかかわらずこの地政学的な相違は歴然としている。こうしたことから、中央アジアからやって来てインド亜大陸に深く入り込み、東西インドから中部インドにまで領土を拡張したムガール帝国のその範図からすれば、LahoreAkbar(15421605)の治世になって以来、帝国の西端に位置する新たな要衝地となったことが分かる。すなわちLahoreは帝国の西の要衝地として中央アジア方面に対峙し、インド亜大陸の他の帝国都市と異なり、ことに中央アジアから襲来する様々な風をたえず受け、それに対処してきたと言えるだろう。そうした意味での「統治の座」であり、中央アジアに通ずる北西インドの、すなわちパンジャブ回廊に構える要衝地として、Akbar帝によってLahore城市の北西部にかなりの規模の城塞が築かれることになった。そしてその後、Lahore城砦はJahangir(15691627)Shah Jahan帝によって拡張され、現在見られるような威容を誇ってきたのである。

そのLahore城塞は、城壁の一部を飾るタイル画が特徴的であることで知られている。城塞の西側と北側の城壁全体が色鮮やかなタイル画で飾られているのである。イスラーム世界にあっては建築にタイル・モザイクの技法が使われるのは珍しくない。その技法は主にモスクの外壁を覆うのに使われ、Lahore城市内に立つWazir Khanモスクは建築の内外を飾るその精妙なタイル・モザイクで名高い。しかし城壁をわざわざタイル画で飾るのは珍しく、あまり例がないように思う。とはいえ、私がLahoreにいた頃の城壁のタイル画はわざわざそれを見に行くほどの格別に印象的なものではなかった。というのも、ほとんどの部分でタイルが剥がれ落ち、それが城壁を覆うタイル画を構成しているかどうかさえ判然としない状態であったからである。Lahore 城塞は1981年に世界遺産に指定されるが、2000年に解除され、2012年にふたたび世界遺産に指定され、以来「Agha Khan財団」の援助によってタイル画の修復が行われている。城壁画の一部が修復されたその様子をネット上で見ると、私がLahoreで見た際には予想もつかなかったような光景が目の前に立ち現れた。色鮮やかな様々な内容のタイル画が城壁に並ぶ光景は見事である。その多様な内容によって城壁はいまや「Speaking Wall」と呼ばれているほどだ。

城壁画は城塞の北側の壁全体と西側の壁の一部分を覆っている。城壁を大小のいくつもの方形に区切り、それらのスペースに主題の異なるタイル画が描かれていて、全ての画が繋がっているわけではないが、大小の画のその広がりはタイルで描かれた「世界最大の壁画」とも呼ばれている。その広がりは1450フィートの長さにわたり、平均的な高さは50フィートあり、全体で8000平方ヤードの広さに描かれているという。はっきりしているのは、城塞西側の「Hathi Pol(象の門)」から始まり、「Shish Mahal(鏡の間)」やSha Jahan帝の中庭、そしてJahangir帝の中庭に至るまでの城塞内の壁に囲い込まれた領域である「Shah Burj(王の本丸)」に沿った城壁に画が描かれていることである。細かく方形に区切られた部分に116ものタイル・モザイク画が描かれていると言われ、その内容は主に、象や駱駝などの動物同士の戦い、猟犬を伴った鹿狩りや獅子狩り、馬上の騎士、戦いに挑む皇子、王家の行列、王宮内での舞踊や音楽場面など、ムガール皇帝家の生活スタイルを描写し、その合間合間にはイスラーム美術特有の抽象的な花模様や植物模様が描かれている。

ムガール朝はトゥルク化したモンゴル族であるティムール家の末裔であり、時代はもはや遊牧民の時代ではないが、遊牧民としての遠い記憶が働いているのだろうか、特徴的な動物画はそうした記憶を伝にして描かれるものとなったのだろう。そして、その動物画の意匠は明らかにスキタイ族に由来するものである。

様々な色彩の釉薬タイル片を組み合わせて描かれた花模様や植物模様が特徴的な画による装飾が城壁に施されたのはAkbar帝の後期の頃とされ、本格的なタイル画制作はJahangir帝の治世に開始された。そして次のShah Jahan帝の治世にも製作は受け継がれ、さらに大規模で意欲的なものになったようだ。人や鳥、動物の姿の描写を含む画はJahangir帝の時期に描かれたものと考えられ、Shah Jahan帝の治世になってShish Mahalが建設されると共にShah Burj周囲の壁画の規模と図象は著しく拡大され、その語り口や装飾が表す内容において異彩を放つものとなった、と考えられている。

東インド会社で動物治療の外科医として働いていたW. Moorcroft1820Lahore城塞のMaharaja Ranjit Singh訪れ、「<Saman Burj>と呼ばれる囲い込まれた敷地内の宮殿は多層階の構造物で、(その敷地に沿った城壁には)ある種のエナメル陶器で全体が覆われていた。その上には、王の行列、人と動物の戦い等が描かれていた。それらの画は最初に壁に配置されたときの如く完全であった」と述べている。城壁画は十九世紀になってもその精彩を放っていたようだ。

城壁画にはムガール皇帝家の生活描写ばかりでなく、それとは異なる内容のものがある。それらはShah Jahan帝の時代に描かれたと考えられ、翼の生えた妖精(parri)や天使、ジン()や蹄をもった悪魔といった図象である。さらにはSimurghや龍といった想像上の動物の図象もある。Simurghはペルシア起源の霊鳥で、龍は中国に由来する。インド世界で龍の図象が描かれるのは稀で、実際、Lahore城塞は龍の図象が描かれたムガール朝唯一の建造物であるようだ。

城塞の西側壁には五つの大きなアーチ窓が設けられており、窓脇両側のスペースである三角小間に天使もしくは妖精(parri)と、投げ縄で捕らえられたかのようなジンもしくは霊(div)が対になった図象が描かれている。腰にロープを巻きつけられたdivは意識がないかのような状態で中空に漂っているが、その姿は鮮やかな黄色を背景にして際立っている。divは鉤爪のような脚をもち、左側のdivは下を向き、右側のdivは顔を真っ直ぐに向けている。さらには大きなアーチ窓の近くの小さな二つのアーチ窓の三角小間の両側には手に棍棒と丸盾を持って戦っている最中のdivが描かれている。このようにとても興味深い主題が描かれているので、北側壁のアーチ窓がまだ修復中で、図象の詳細が分からないのが残念だ。

他の大きなアーチ窓脇の三角小間ではSimurghが龍に襲いかかる態勢にあるが、その鋭い鉤爪から龍を放そうとするかの如く頭は後ろにねじり向けられている。こうした体のねじれを伴った動物の姿、そのデザイン化の仕方からも、かつてのスキタイ族による金属細工の意匠がうかがえる。ここでも背景は鮮やかな黄色で、龍のからだの明るい緑色、トルコ石色、深い青色、そして上部の羽の一部を際立たせている。中国の伝統にしたがって龍は突き出た鉤爪をもち、脚の上部に炎のような小翼をもった四足動物として示されている。長い鱗に覆われたからだを示すかのように背に沿って白い斑点が印され、曲がりくねった長い尾が描かれている。その形状は明らかにドラゴンではない。こうしたSimurghや龍といった幻想動物についての叙述は中世の寓話詩や叙事詩にあふれている。例えば、Firdowsiのペルシア語叙事詩「Shahnameh(王書)」やAttarの長編詩「Mantiq Ut-Tair(鳥の言葉)」等が挿絵入りの手稿本として出回り、さらには「Kitab Manafi’al-Hayawan(動物の有用性についての書)」といった挿絵入りの手稿本はムガール宮廷でもよく知られ、広く読まれていたようだ。

絵画を通じて表象に親しむこうした環境にあって、通常は目に見えない存在や幻想上の動物の間には善と悪の対立、もしくは地上的な生き物に対する天上的生き物の勝利といった解釈がなされていたと思われる。またdiv()は聖クラーンに述べられている「ジン(視覚から隠れ、人間の目には見えない存在)」に匹敵し、これらの存在については書物での身体的描写は限られているはずであるが、城壁画での視覚的表現ではそれらは複合的な生き物として示されている。聖クラーンの観点からすれば、それら「人間の目には見えない存在」は煙の立たない火から造られており、光からできた天使とは異なっているとされるが、それらは動物の頭をもった人間のからだで、体色は黒もしくは灰色がかった青、その口からは牙が突き出し、腕や脚の代わりに鉤爪が伸びている、といった風に描かれている。要するに、城壁画においてはそうした目に見えない存在をことさら可視化する努力がなされていることになる。またイスラームではdivやジンは天使とは異なり、人間と同じように自由意志をもっているとされ、それゆえ善でありまた悪である幅広い存在として考えられていたようだ。

様々な手稿本やそれに伴う観念が中央アジアを経由してムガール朝に流れ込んで来たのと並行して、最新の建築技法や建築物を装飾する釉薬タイルによるモザイク画の技法がイランや中央アジアから伝わって来た。イランでは青と白によるタイル・モザイクが主流であり、いっぽうLahore城塞の城壁画で多く使われている黄色や緑色の明るい彩色は中央アジア特有のものである。ティムール朝を受け継ぐムガール朝は基本的に中央アジアで開花したイスラーム文化を受け継いでいる。とはいえ、Lahore城塞の城壁画で随所に使われている明るい緑色のタイルは他で見られないもので、Lahore特有の色彩であるようだ。イスラーム建築の外壁を覆うタイル・モザイクの色彩はふつう明るさと光度に差異をもった冷色で構成されており、赤や黄色はあまり使われない。この点についてもLahoreWazir Khanモスクのタイル画の色調は赤や黄色であり、イラン世界とは相容れない表現様式を示している。パキスタンでは釉薬タイルによる技芸は「kashikari」と呼ばれ、主に建造物を装飾するタイルの、釉薬をかけて焼く焼物製造技術を指すが、そのkashikariの伝統はもともとパンジャブ南部のMultanSindh地方の砂漠地帯にかけての地方にのみ特有なものであった(Sindh地方のTattaShah Jahan帝が建てた、タイル・モザイクを駆使した見事なブルー・モスクがある)。現在では「kashikari」の語はパキスタンの他の歴史的なタイル作品のみならず工芸品にも適用されているように、Lahoreやパンジャブ北部地帯で見られる工芸品の明瞭な様式のものにも使われている。しかし、もっぱら青と白が支配的なことで特徴づけられるSindh地方やMultanタイプのタイル焼成技術の方が古く、それは十四世紀頃から絶えることなく続く伝統として現在まで行われている技法である。いっぽうのLahoreのタイル作品は様々な色彩のタイル・モザイクの多様な使用によって特徴づけられ、十七世紀の初期に現れ、同世紀の終わりには製作が衰退してしまうというきわめて短い期間に花開いたものであるに過ぎない。この一時的な現象は何故かと思う。

 

イランではタイル画の最も核心的な表現はそのデザインにある。庭園画、樹々や花々をデザイン化した画がモザイク画の主要部分を占めているが、それは偶像崇拝を禁ずるイスラームでは具象的な画が避けられているゆえであり、タイル画のデザイン、すなわち対称性や成長といった原理を目に見えるようにする意図をもったその表現は、ことに信仰や宗教心を反映するものとして提出されている。たとえば、ドームの天井に描かれた太陽とその光の放散を示すデザイン画は、一つの中心をもった円の広がりは単一なものが複数的なものとして顕れるという、アッラーの神の顕現の在り方に関する哲学的な象徴として示されているのである。また鳥のデザインは具象的であるにも関わらず例外的に描かれているが、というのもそれは天空や天国の象徴であるからである。言い換えれば、具体的に描かれたこうしたヴィジョンはイスラーム特有の<想像力の世界>を表しているのである。イスラーム超越論哲学の創始者であるMullah Sadra(15721641)は芸術を神の属性と理解し、それゆえ芸術表現を神による<優雅な作品>と解釈した。彼は世界のあらゆる絵画とその意匠は神の顕現以外の何ものでもないと主張し、芸術がイスラーム社会とムスリムの心理に与える効果を強調している。そして、芸術による創造を音楽のメロディーに例えている。音楽という振動は神の愛ゆえに奏でられ、その神の愛(振動)は宇宙のあらゆる粒子に伝えられ、宇宙を調和のとれたダンスのうちに包み込む。芸術による創造活動はそのような包摂原理のうちにあり、人類が美、創造者、画家というような名が顕わすものとなっていることからすれば、このことによって神が自らと同じ属性と本質において人間を創造した、そう結論できると主張している。それゆえMullah Sadraは人間の芸術的才能を強調し、芸術を「創造的想像力の世界(Alam al-mithal)」として言い表している。

こうした<神の属性>としての芸術理論がイスラーム建築や絵画にどのように反映されていたのかをここでは詳述できないが、イスラーム建築やその装飾が可能なかぎり具象性を排し、表現の抽象性のうちに心血を注いだことは明白である。表現の抽象性の界面に隠れたものが隠れたままで顕れている。そうした抽象性を支える理論を展開させてきたのである。いっぽう、北インドに花開いたイスラーム・ムガール芸術は抽象性においてそれほど厳密ではなかったように思われる。というか、インド表現のめくるめく具象性に惹かれたのか、それともインド諸族に対する宥和的な政策でもあったか、それとも古来よりその血に受け継がれた遊牧民の意匠に惹かれたのか、イランやアラブのイスラーム世界で提出された表現とはその性格において一線を画している風に見受けられる。

いっぽう、ムガール帝国時代の芸術表現はまた別の面を孕んでいると考えられている。ムガール帝国はインドという自らと人種も信仰も異なる領土を征服して成立したという経緯があり、Jahangir帝やShah Jahan帝はその権威や栄光を維持するために、いわば帝王の聖性や精神性といった考えをインドの地に広めるに際してことさら象徴や隠喩に頼る必要があった。そしてそのことは宮廷文書や碑文に限るのではなく、むしろ全ての文学、絵画芸術、建築等による表現を総動員して行われていたのではないかと考えられている。そうした理由から、Lahore城塞の城壁画が、その表象を通じて公式化された王家の声明を注意深く広めるための手段として使われた<Picture Wall>であった可能性が研究者たちによって唱えられている。

Shah Jahan帝期の宮廷記録家であるMuhammad Warisが、Delhi城塞内部の壁に描かれた図象について、「寓意的な主題(tamasil)をもった意匠をもたらしている」と記している。ペルシア語の「tamasil」は「寓意、例え話、ことわざ、手本」を意味する語であり、WarisShah Jahan帝が、注意深く選択されたメッセージを通じて公衆に関わるために帝国の公共の場を選んでいる、そう自ら述べているという。こうした歴史上の説明が、「Picture Wallの視覚的語りが帝国の思考と公衆の視線の間に具体的なつながりをももたらす可能性を強化する」(The Picture Wall’s Iconography and Aesthetic Analysis2019)という。また「Picture Wallに描かれ生命を吹き込まれたかのように残存する図象の範囲は魅力的で多方面に渡る。中身が詰まって膨らんだ視覚的語彙と審美的にアピールする表現は、Picture Wallを<muraqqa>もしくは<アルバム展示>という革新的なアイデアとして目論まれ、宮廷記録に反響する自己肯定的なメッセージを伝達するという意味での描かれた手稿というよりも、それはある種のtamasil(手本)として目論まれた図象を広く示すことになった。すなわち、図象が伝える全体的な印象は遠目に見れば壮麗さでありまた威厳さであるが、近づいて見ればPicture Wallが<立ち止まり見つめる>人すべてに何か興味深いものを提供していることから、そうした優越的な印象を和らげている」(同上のだという。要するに、Lahore城塞の壁画は公衆の無意識的な心理に広く浸透するような仕方で示された帝国の表象ではないかというわけである。

しかし、こうした考えに私は疑問を感じる。第一に、当時、Lahore城市の北側から城塞の北面にかけてRavi河が流れていたはずだ。城市に通ずる北側の門の一つにKhizir門があるが、この「Khizir」の名はここが船着場であったことに由来する。つまり、城市の北側に実際に河が流れていたのである。このKhizir門から入った城市一帯は、十六世紀にAkbar帝が新たにLahore城市を築いた際に旧城市の東側にその範囲を拡張した区域に含まれる。それゆえ、十二世紀にガズニ朝がLahore城市を築いたときには城市の南側に流れていたRavi河は、Akbar帝がLahoreを支配する以前にはその流れを北側に変えていたと思われる。城塞壁の北側にRavi河が流れているとしたら、誰がわざわざ船を浮かべて壁画に近づき、壁画の内容の仔細を「立ち止まり見つめる」だろうか。要するに、城壁画は広く人々に開かれたものではなかったと考えられるのである。Ravi河が清流であれば河面にタイル画が映し出され、その光景を河の対岸に立つ人が楽しむこともできたかもしれないが、Ravi河は古代より暴流として知られ、おそらく蛇行してつねに河岸を削っているからだろう、私が見たRavi河はつねに濁流だった。

また前述したように、十九世紀初頭にLahore城塞を訪れたW. Moorcroftは「Saman Burj>と呼ばれる囲い込まれた敷地内の宮殿は多層階の構造物で…」と述べている。当時はシーク教徒がパンジャブ地方を支配する時代で、「Shah Burj」は「Saman Burj」と呼ばれていたようだ。その「囲い込まれた敷地内」に広がる王家の居住スペースが「多層階の構造物」であったと述べられている。すなわち、Lahore城塞のShish Mahalを含む北側スペースの「Shah Burj」は三層階の城塞のいわば屋上階に位置し、その階下には空きスペースが設けられているといった構造を成していたのである。なぜ階下にわざわざ空きスペースが設けられていたかといえば、西壁と北壁に設けられたアーチ型の大窓から風が吹き込むようになっていて、空きスペースを介して階上に空冷効果をもたらしていたのではないかと考えられている。さらにはShish Mahalには雨水を利用した井戸が設けられており、その水が三層構造の建物を降下して、風が吹き込むと流水を介して空冷効果をもたらすようになっていたのではないかとも考えられている。Lahore城塞はムガール宮廷にとって夏季の避暑地としても使われたと考えられ、そうした面から城塞の酷暑対策に最新の建築技術が取り入れられたのであれば、それも当然と思われる。大窓にはjaliと呼ばれる技法で石に細密な透かし彫りが施され、外部から射し込む光を制御すると共に外から風を呼び込むようになっていた。この技法はインドの石窟寺院にその初期のかたちが見られ、酷暑のインド特有のスタイルであるが、華麗な装飾性を伴った見事な技芸として発展していた。おそらく、夏の暑さに対処するために様々な工夫がなされていたのである。酷暑のAgraから移動してくるムガール朝の夏の宮廷として、Lahore城塞のShah Burj域は少しでも暑さ和らげるような構造をもった建造物として造られたのに違いない。

その夏の宮廷の周囲の城壁に限ってタイル壁画が施されたのである。ことに大窓の三角小間に描かれた翼のあるものの画は、その窓に吹き込む風と関係があるのではないかと思う。西や北から大小の風が吹き込み、上階のShishi Mahalの床面にたえず触れる。その風は良い風でなければならない。それは決して悪い風であってはならないのだ。それゆえ、窓に吹き込むそうした様々な風を、画に描かれた翼をもったものたちが制御しているのである。良い風であれば心地よく迎え、悪い風であればそれを打ち負かす。すなわち悪い霊が風に乗じて皇妃たちが安らぐハレムに忍び込むことのないように、あるいは夜に悪い霊が忍び込んできて皇妃たちに悪い夢を見させないよう、あらかじめ威嚇するのである。Shah Jahan帝の皇妃Mumtaz MahalAgra出身で、随伴する女たちも同地の出身であったと思われる。彼女たちは森に囲まれたインド平原に育ち、遠く中央アジアの山岳地帯から吹いて来る風に慣れることが出来なかったかもしれない。涼風であるけれども逆にそれを疎んだかもしれない。かりにこうしたある種の偏見を制御するために何かしらの処置が建築物の装飾に反映されたのだと考えるならば、そのことはおそらく当時構築されていた世界観と関係しているのである。たとえばLahore城市内には近代まで女性の霊媒師がいて、その邸に女性のみが定期的に集って交霊会を催し、霊媒師が中心となってparri()の力を制御していた。そうしたことからすれば、ムガール朝の時期には女性霊媒師が何らかの役割を果たしていた社会が城市内にすでにあったのではないだろうか。そうであれば、Lahore城塞の壁画は逆に城市の生活を反映していたことになるだろう。

Lahore城塞の城壁画が城塞を飾るものとしては独特というか奇異なものであるように、AgraTaj Mahal廟の白亜建築はイスラーム世界にあって独特のものであり、ムガール建築の中でも特に異彩を放っている。全身を大理石で包み、色彩を一切排除している。ドームを大理石で覆うのはDelhiHumayun(15031556)廟が最初ではないかと考えられている。赤砂岩を土台にした建築物で、ドームだけが大理石の白色に輝いている。中央アジアのBukharaでいくつかの建築物を遺しているペルシア人建築家によって設計されたというこのドームの白色がTaj Mahal廟に影響を与えたと考えられ、次いでそのスタイルはDelhiLahoreの「Jama Masjid(金曜集会モスク)」であるJehan NumaモスクとBadshahiモスクに受け継がれている。当時、この大理石によるドーム建築のスタイルが何かしらの影響力を示し、Lahoreでのタイル・モザイク画技法kashikariを廃れさせたのではないだろうか。Taj Mahal廟は遠目に見るとその形状の美しさに見惚れるが、建物の内部に足を踏み入れた途端その威容に圧倒される。その巨大な何もない内部空間もさることながら、アラビア語のカリグラフィーとpachikari(宝石象嵌細工)の装飾以外全てが大理石で覆われ、その完璧な空間志向性が人を圧倒する。それは遠近によって見る者の感覚を左右するかなり異様な建築物なのである。Shah Jahan帝が皇妃Mumtaz Mahalの墓として造らせたこのTaj Mahal廟から連想させられるのは、全身白亜の姿が悪い霊を一切排除しているのではないか、というものである。私はTaj Mahal廟においても悪霊を排する世界観がそこに反映されているのを感じてしまう。それはこの世に善と悪があり、相互に対立しているという世界観でもあるが、その土台には、この世界には見えない存在がいたるところにうろつき、そうした見えない存在、その善悪も区別できないでいる存在を解釈し、善は善、悪は悪、もしくは人のためになる霊とそうでない霊とを明確にしなければならないといった世界観である。こうした世界観がことに北インドのムスリム社会に浸透していたのではないだろうか。というのも、当然のことながらイスラームにとってインド世界はそこに深く入り込めば入り込むほど自らとは極めて異質な世界であり、そこには最低限の規範が必要だと認識され始めたのではないかと考えるからである。

中央アジアに出自をもつムガール朝は当時の宗教文化的に優れた中央アジアの風を北インドにもたらしたが、インド支配を継続させるのに伴いその優位的な姿勢は自ずと変容していったように思われる。理念的にはイスラーム支配であるが、実際には広大な領土支配の継続のために北インドのヒンドゥー勢力を権力中枢に取り込まざるを得なかった。その多くがRajput諸族で、彼らはムガール朝と同じ遊牧民の出自であり、インドにおける広範囲の領土支配を自ら望んではいなかったようだ。自らを最上位に立たせる強力なカースト制度(土地のみならずそこに住む人、物全てを所有しているという考えの上に成り立つシステム)を基盤にして一定範囲の領地での部族支配という旧体制を維持していた。一方のムガール朝は農業生産物に課す税制を基にした経済体制を採用し、その内に様々な民族を抱える帝国的な支配形態という新たな段階に入っていった。そのため、インド諸勢力の頂点としての権威を維持するための威光を外に向けてつねに示さなければならなかったと考えられる。それがAkbar帝からShah Jahan帝に至る皇帝たちが大規模な建築にことさら精力を注いだ理由であるようだ。また代々のトゥルク・イスラーム王朝が征服地での都市建築に力を注いだように、そこにはトゥルク的な要素も引き継がれているのだろう。

またAkbar帝は帝国維持のためにRajput諸族との絆を深めようとしてRajput諸族と婚姻関係を結んだ。Akbar帝とJaipurRajput族の妻との間に生まれたのがJahangirであり、Shah Jahanの場合もJahangir帝とJodhpurRajput族の妻との間に生まれたので、Shah Jahanにあってはムガールの血はもう四分の一しか占めていない。それにもかかわらずShah Jahan帝はその肖像画にペルシア皇帝を淵源とする光輪を描かせ、その威光を示そうとしている。その息子のDara Shikohは学究肌とはいえ、インド土着のウパニシャッド哲学に関心を持ち、その思想を逆にイスラーム世界に広めようとするかのようにペルシア語への翻訳作業まで行っている。Rajput族の皇妃たちはヒンドゥー教徒のままだったようで、輪廻を信じる彼女たちにとってことにイスラームの<復活>の観念は不安の種であったと思われる。そうした女性たちがムガール宮廷に影響力を保持していたのである。そしていっぽうでは、「預言者に帰せられる言葉である、<人は眠っている。彼らは死に際して目覚める>は、人間が地上の生活で見るものは全て夢の中で見る光景と同じ仕組みの内にある、という内容をほのめかしている。目覚めている間の肯定的な情報を超える夢の優位性は、夢が全ての情報を超越するような解釈を許している、もしくは要求しているからである。というのも、情報は明らかにされるものよりも他の何かを示しているからである。それははっきりと示し、(そしてそこには神顕現的な機能の完全なる重要性が横たわっている)。私たちは私たちに教えることのないもの、もしくはそれが何かということ以上のことを示さないものを解釈することがない。というのも、世界は神顕現的な想像力の世界であり、それは解釈され、超越されることを要求する<幻影>から成り立っているからである」(Henry Corbin)。この「幻影」はインド世界の「maya」とはその内容を全く異にするものである。イスラーム世界にこうした「幻影」すなわち「目覚めている間の肯定的な情報」の解釈を要求する考えがあったことは確かであろう。

 

ムガール朝はインドの地に着実にイスラームの跡を遺し、遺すほどにいわばインド世界に引き込まれるようにして自らを変容するといった風だが、そうしたインドに定着したムガール朝・イスラームの変容、すなわち中央アジアの風を記憶しながらその風の感触に視線を向けつつも自らは否応なくインド化していくといった変容を、いわば二重現象としての変容と考えることができる。この二重性は、イスラームとインド世界との間に根本的な違いがあることに拠ると思われる。言い換えれば、根本的な違いが互いに排斥されるのではなく、違いが違いであるまま重ならざるをえない状況にあったと考えられるのである。たとえばイスラームとインド世界との根本的な違いに、イスラームでは死後の復活が説かれ、ヒンドゥー・バラモン教では輪廻と輪廻からの解脱が説かれる点がある。これは人間の生死をめぐる世界の在り方についての全く異なる観点である。さらにいえば、輪廻という循環する生死を観念する世界観には<時間>の意識が希薄であるというか、そこには<時間>をめぐる独特の認識があるように思われる。生は死で終わることなく次の生へと生まれ変わる。その転生に終わりはないとされる。つまり、反復のうちに意識されるような<時間>があり、その認識は滅することがない。それで生死のこの無限反復から脱れることが生の最終的目標として示されるが、その<解脱>の次元は超現実的で、そこにはもはや個人としての意識さえないとされる。したがって、そこでは<時間>をめぐる認識も何もかもが滅すると仮定されている。いっぽうのイスラームでは生は死をもって終わるが、「復活の日」に人は再び目覚めて神の審判を受ける。そして、この「復活の日」をもって<時間>は終わるとされる。それゆえ通常の<時間>は生が死をもって終わるという前提の上に意識されていると考えられる。そして、将来に<時間>の終わりがあるという観念があることで、現在において過去の時間に戻ることの、すなわち現在に過去が再現される感覚をもつことが出来るのだ。この再現感覚は記憶とは異なる次元のものである。このように、イスラームの通常の<時間>意識には過去の再現感覚が自ずと伴うのではないかと考えられるが、いっぽうの輪廻の生においては、過去も未来も明確に判別されることがないような<時間>をめぐる認識があるように思われる。

またインド世界には雨季と乾季の繰り返しがあり、その繰り返しと共に生活行事が繰り返され、繰り返しのうちに生が、もしくは<時間>が体験されるといった感覚がある。いっぽうのイスラームは陰暦を採用しているので季節と暦は一致しない。たとえば「断食月」のRamazanは雨季にも乾季にも関係なく巡って来る。それゆえ、そこには季節にとらわれることのない人間中心の<時間>意識が立ち上がって来る契機があるように思う。そしてこの人間を中心にした<時間>意識が、世界の転変を超越論的に把握しようとする歴史意識に繋がっていくような気がしてならない。一般にインドに歴史意識が希薄なのはインド亜大陸がいくつもの王国に分かれて生成と衰退を繰り返すような展開をし、そのためインド世界全体を見渡すような統一された記録が生まれなかったからだと言われる。しかし、歴史意識は直線的で人間中心の<時間>意識と共に展開されてきたものであり、輪廻という循環的な<時間>意識を土台にした思想をもつゆえにインド世界では生じにくいものだったのではないか。インドで「歴史」を意味する「itihasa」はサンスクリット語で、それは「iti-ha-asa」、逐語的に訳せば「そのようであった」という意味であり、単に<過去の出来事の次第>を示すものである。いっぽうアラビア語の「tarikh」はもともと「日付、年代記、時代」などを意味し、おそらくギリシア文化の影響下にある言葉であると思われる。インド世界では諸王国の由来は神話から説き始められ、事実としての歴史記録のようなものが現れるのはムガール朝期になってからである。いっぽう、イスラーム世界では1337年にはイブン・ハルドゥーンによる「歴史序説(Al Muqaddimah)」が著されている。それは歴史意識を方法にして過去の事象とその展開を分析した最初の著作と考えられている。

おそらく、イスラームがインド世界にもたらしたに違いない人間中心の<時間>概念は、当時インド世界には希薄であった新たな観念だったのではないか。そして、むろんインド世界においてはイスラームが新たな<時間>概念をもたらし来ることに何らかの抵抗があっただろうと思われる。しかし、人間中心の<時間>概念がいったんもたらされると、人の意識はそこから後戻りすることが出来ないに違いない。循環的な<時間>意識は未来も過去も同等に扱い、いったん外部の歴史形式を軸にする世界に触れたならば、自らの<時間>をめぐる認識がいかなる<発展>形式をも満たさないことを知るほかないからである。イスラーム勢力による北インド進出は新たな<時間>概念をインド世界に導入したのである。いわば<時間>概念という楔を、それまでまどろむような<時間>認識をもっていたインド世界に打ち込んだのである。そうした点において、トゥルク族の侵入後、インド世界に何らかの亀裂が入れられたのは確実である。

 とはいえ、この<時間>概念というか<時間イメージ>についても、インド世界は自らの<時間イメージ>の内に取り込んでいる。というか、<時間イメージ>としてその違いが重ならざるをえない状況へと導いているように思う。この<時間イメージ>は記憶作用に関わるが、インド世界とイスラームの<時間イメージ>が融合された形式として北インド古典音楽の表現を挙げることができるだろう。

ガズニ朝期にLahore城市にイラン系の音楽が入ってきたことは前に述べたが、それは西方発祥の弦楽器を主体とする音楽であった。イラン音楽は「dastgah(旋法)」と呼ばれる演奏技法によって特徴づけられている。「dast」は「手」を意味し、「gah」は「位置」を意味する。そして、その(手を駆使する)旋法は「gushe(曲がり角)」と呼ばれる短い旋律を基にした即興演奏によって順次展開されていく。イラン音楽は詩と密接に結びついており、長短二種類の音価から成る韻律的基準を土台にして展開されていくので、それはとうていリズミカルな音楽ではない。つまり、その音楽は安定した持続性をもたず、ただ相対的に持続するだけである。その結果、非常に流動性に富み、即興性を発揮し、それゆえに詩的な価値を有する音楽となっている。このような弦楽器による即興演奏によって構成された楽曲がインド世界に入って来たのである。いっぽう、当時のインド世界の音楽は声楽が主体であったと思われる。楽器は主にBansuri(横笛)や太鼓といったもので、弦楽器には Veenaがあった。声楽理論はVeda期に遡るほど古く、声楽の一様式Dhrupadはムガール朝期には確立されていたと考えられる。Akbar帝の臣下であったヒンドゥー教徒のTansen(15001589)は声楽家にして作曲家であり、北インド古典音楽をかたちにした人物であると言われる。その北インド古典音楽は主にragatalaの理論から構成されているが、「raga」は「(心を)彩る」という意味であり、それは旋律を示すというよりも音階の理論に関する語である。ragaの種類は数多く、その多くが一日の時刻の、季節の、特定的な情感を表すとされる。例えば「朝のraga」があり、「夕べのraga」があり、それぞれのragaによる音の動き(振動)によって音楽を聴く人の心にそれ特定的な情感的色彩を与えると言われる。そして音楽の時間的な側面を支えるのがtalaの原理である。「tala」は「腕を手で軽く叩く」の意で、「拍子」を意味するようになった。Sitarは北インド古典音楽を代表する弦楽器であるが、それは「三弦」を意味するペルシア語であることからして、インド土着のVeenaのかたちをしているがイラン系の楽器に由来すると思われる。SitarVeenaとは明らかにその音色が異なっている。他のSarangiSarodといった弦楽器もイラン系の楽器である。こうしたイラン音楽特有の自由自在な音階を生み出す弦楽器があって初めてragaの音階理論が構成されたのではないかと思われる。とはいえ、ragaが意図するところの感覚はインド世界の<時間イメージ>に通じるものである。というのも、その音階規則を通じて特定の時間や季節に通ずる情感を表すことができるというのであるから。そして、それぞれのragaの音階規則に厳格に従いつつも、即興を駆使した演奏が展開されるのはイラン音楽を核としているからかとも思われる。またtalaにはそのテンポ(laya)を変化させて音曲を展開させる機能がある。その速度変化は後戻りすることがないので、ここには直線的<時間>意識に沿う感覚が設定されていることになる。その速度にはvilambit(遅く)madhya(中位)drut(速く)の三つがあり、最後にギアを「速く」に入れてその頂点で演奏が終わる瞬間には全てが消滅するのに伴う昂揚感がある。この感覚は<解脱>を模した感覚だろうか。このように、北インド古典音楽はイスラームとインド世界の<時間イメージ>を重ねたような形式と共に成立している。その形式の形成は宮廷音楽、すなわち室内楽として形成され、その点においても歴史感覚が薄弱で、それゆえその形式は将来的にも変わりようがないような気がする。

 

インド世界の懐は深く、ムガール朝によるインド支配はイスラームのインド化といった現象をその信仰や文化の局面で惹き起こした。トゥルク・アフガン様式の建築スタイルから独自のインド・ムガール様式への変容、そしてスーフィー思想のインド化、すなわちBhakti思想との融合、そしてペルシア音楽のインド化、すなわち北インド古典音楽の成立といった現象がみられる。そうとはいえ、北インドはこれまでいくたびか異民族の侵入を受けてきたけれども、イスラーム・ムガール朝による支配はインド側からすればこれほど意欲的な文化が入って来たことはかつてなかったと感じられたに違いない。歴代のインド・イスラーム王朝は中央アジアの諸都市を範にしてことにDelhiの地に幾つかの城市(都市)を創り出した。彼らは道路を縦横に走らせ、運河を掘り、キャラバン・サライや貯水池をつくり、Bazarを整備し、庭園やモスクといった空間を創造した。キャラバン・サライは公共の領域で、様々な文化的背景をもった人々が集まる場として創出された。そしてこうした空間の創出が、地方においても個人レベルでの文化交流と相互影響、諸派融合の可能性へと導くことになったと考えられる。要するに、こうした<交換>を呼び込む空間がイスラームとインド世界の根本的な違いの重なりを可能にさせたのである。人々が平等に集い、そして商うことのできる空間はそれまでインドの地になかったもので、中央アジアから携えられた独特のコスモポリタン感覚をもってしてこうした<重なりの場>が造りあげられることで、ヒンドゥー・バラモン体制という閉鎖空間に情報の嵐をもたらしたと考えられる。そのことは、さながら八世紀のムーア人がイベリア半島に幾何学的に高度に発達した文化をもたらしたように、インドという極めて不活発な空間に初めて<都市>という流動的で総合的なコンセプトをもたらした、そう言ってもいいように思われる。

こうした都市空間がムガール朝の支配によって北インド全域に広がり、それによって物と人の流通スピードはさらに増大し、ことに一般人も含めた様々な人の往来はこの頃飛躍的に増加したと考えられる。インドに「都市」という人と人とが交通可能な機能が創られ、平等な商取引が可能になり、共通に食事をする場ができ、宿場ができ、その結果として流通する社会のダイナミズムをもたらすことができたのではないかと思う。言うまでもなく、<流通する人々>は土地に縛られてその信仰が大地の力といっしょくたになっているような人々よりも<普遍的>といった観念もしくは情報を受け入れやすい状態にある。イスラームの、神の前ではすべて平等であるというコスモポリタン的な思想は、大地を離れて広く世界を考えようとする人々にこのとき都合良く吸収されたのではないか。ムガール朝が北インドに広めたもの、それはインドという階層社会の中に組み込まれた人間は実はそれぞれ<分子である人間>なのだ、という思想であったかもしれない。

 

十六世紀の帝国記録である「Ain-e-Akbar(アクバル帝記)」には、<帝国>はペルシア語で「Bilad-i-Hindustan(インドの地)」と記されている。「Hindustan」の語はペルシア帝国がインドの地を指したペルシア語に由来するが、このようにインドを包括する概念として示されるのはムガール朝の時代になってからだと考えられる。そしてこの「Hindustan」の語が、ムガール朝が東インド会社に向けて示した国名である可能性があり、そうであれば、「Hindustan」の語が「India」という英名を決定づけたと言えるだろう。「Hindustan」の語はヒンドゥー教徒の国を意味したのではない。ともあれ、ムガール朝が東インド会社に向ける姿勢のうちに初めて<India/インド>のかたちが成り立ったことは確かであるように思われる。それ以前には北インドから東西インド、そしてデカン高原まで統一した帝国はなかったからである。ムガール朝は自身のアイデンティティであるはずの<トゥルク・ムガール>という名称を使わなかったようだ。自らを<トゥルク>の出自から切り離し、様々な民族と言語、宗教を抱える<帝国>という自負がすでにあったからだろうか。

後にムガール朝に替わって東インド会社がインドを支配するようになると、それまで北西インドが中央アジアに開いていた扉は閉じられた。それはロシアと清が協定を結んで中央アジアを分割したことにもよるが、英国も政策的にインドの国境を確定しようとしたからのようにも思う。この後、中央アジアの風がパンジャブ回廊に吹くことはなくなった。

Sunday, July 16, 2023

Lahore日記 The Diary on Lahore

  三 パンジャブ回廊

  九 イスラーム勢力の進出

 

 八世紀初頭にアラブ人ムスリムがアラビア海沿いのMakran地方を経由してSindh地方に攻め入ってきた。それ以前にもアラブ人は交易のためにアラビア海沿岸やインド西海岸にまでやって来ていたが、軍事遠征はこのとき初めてだった。アラブ軍は地元のヒンドゥー勢力を制圧し、Sindh地方を支配下においた。この711年のMuhammad bin QasimによるSindh征服から、パキスタンの中学・高校用の歴史教科書は始められている。少なくとも私がLahoreに滞在していた1979年の時点ではそうであった。それ以前の歴史についてはわずか数ページの記載があるのみである。二十世紀にイスラーム共和国として新たに出発した国としては当然かもしれない。パキスタンという国が成立した経緯からすれば、イスラーム以前の歴史を扱うのには何かしら無理があるのではないか、そんなふうにも思われる。要するに、イスラーム国家として成立したその時点で様々な制約を抱えてしまったのである。

 アラブ人による軍事遠征は主にアラビア海沿岸の交易を安定的に確保するためのものだったが、このときMuhammad bin Qasim率いる遠征隊はインダス河を遡ってパンジャブのMultanにまで進出した。当時Multanにはヒンドゥー教の太陽神(Aditya)を祀る大寺院があり、その規模はインド世界から巡礼者が絶え間なく参拝に訪れるほどのものだった。そうした状況を考慮して、Muhammad bin Qasimは偶像崇拝を禁止することなく、巡礼者を受け入れた。また地域の政治体制をも存続させた。すなわち、当時のアラブ軍は領土を拡げ、イスラームの布教を目的としていたのではなく、あくまでも交易による利益を確保するという経済的な目的を掲げていたのである。とはいえ、アラブ軍による支配地域が遥か東方のSindh地方にまで確立されたことにより、そこに西方からイスラーム教徒が移り住むようになった。またその後バグダッドのアッバース朝によるカリフ体制が定着したことは、スンニー派以外のイスラーム諸派の信者にカリフ領土の辺境である東方への移動を促した。後に(十〜十五世紀)Multanはイスマーイール派の拠点となった。

 Multanの太陽神寺院は仏教がこの地に広まる紀元前一世紀にはすでにあり、またアレクサンダー大王遠征時(紀元前四世紀)には土着勢力がギリシア軍に頑強に抵抗したという記録もあることからして、Multanはかなり古くからあった城市であることが分かる。Ravi河とChenab河が交わるところに位置するMultanの地は河川交易に有利であり、おそらくハラッパ文明の中核都市であったのではないか。本格的な発掘はなされていないが、ハラッパ文明の印章に刻まれた文字と同様の文字が刻まれた土片が太陽神寺院跡で見出されているという(Tarikh-e-Multan(ムルタン誌)1968)。かつてハラッパ文明地域とメソポタミアとの間で盛んに交易が行われており、Multanがその時代にインダス河を介してメソポタミアと交流していたとするなら、古代バビロニアやペルシア帝国を通じてアラブ商人はその存在をよく知っていたに違いない。

 

一九八十年五月の早朝、LahoreからMultanに夜行バスで着いた。Multanの猛暑は名高く、早朝にもかかわらず暑さに見舞われた。バス・スタンドでハルワとプーリーの朝食を摂ると元気が出た。何かしら時間の層が積み重なる地にやって来たという感覚がからだの芯から立ち上がって来たのを想い出す。旧城市内にあるホテルは昔ながらの古い建物で部屋はやけに広く、壁は分厚く内部はなぜか凹凸のある構造で、いたるところうっすらと砂埃に被われていた。部屋の中はもうたっぷり暖まり、淀んだ空気が立ち込めていたが、少なくとも戸外の暑気は遮られていたので一息つくことが出来た。夜行の旅だったのですぐさまベッドに倒れ込み熟睡した。目を覚ました後、たしかバスルームのようなスペースに置かれた大甕に水が満たされていて、その水を使ってからだを洗ったような記憶がある。それからすぐにホテルを出て街を散策した。街中は砂埃が霧のようにたちこめ、そのおかげで陽射しが弱まり、太陽の直射日光に当たる酷さからは逃れられた。バザールで新聞を買おうと思うが英字紙を見かけない。旧城市北側に広がる小丘が城塞跡であり、今は「Qasim Bagh(Qasimの庭)」という名の公園になっている。そこに八角形の基壇の上に白いドームがそびえる美しいRukhn-e-Alam(12511335)廟が立っている。この周辺にかつて太陽神の大寺院があったのだが当時は知る由もない。正確にはSuhraward派のスーフィー 、Bahaudin Zakariya(11701262)の聖廟が立つところにあったというが、寺院の片鱗さえ遺っていなかったのだから。Zakariya廟の片隅に一人のファキール(乞食僧)がいて、ブルカに身を包んだ参拝女性が連れて来た子供に何やら浄めのような振舞いをしている。頭をなでたり、肩をたたいたりしている。すると、順番に子供の浄めをしているうちにはたとうつぶせになり、そのまま身動きしなくなった。Qasim Baghを見て廻ると他にもたくさんのファキールを見かけた。みな一様にぼろ布をパッチワークした長衣を着ている。かつて太陽神寺院があった小丘跡にはいくつかのムスリム聖者の廟が立ち、そこでいまや霊力を示そうとする修行者が脱魂状態になっている。いま考えれば、この小丘には古代から連綿と続く何かしらの力が籠っていたのではないか、そうに違いないと思う。Qasim Baghの一角に鳩市が立ち、人で賑わっていた。聞くと「闘鳩」用の鳩だという。様々な鳩が一羽100ルピー前後で売られており、鳩は平和の象徴と先進諸国では知られているが、鳩にも様々な相貌があるものだと知った。

 

七世紀から八世紀に書かれたSindh地方誌「Chach Nama(Chach朝の記録)」によれば、Muhammed Bin Qasimは周辺に住み付く外来のJat()に徴税等の負担を課すのは不可能だと判断したという。一つにはJatは家から出る際にはつねに犬を連れていたことが原因しているらしい。犬を連れていることで、それがJatであると分かったという。おそらく彼らは大きくて獰猛な犬を連れていたのだろう。それはともかくとして、Sindh征服によってイスラーム教がSindhやパンジャブ地方に住む人々に広がることはなかったようだ。アラビア人の記録によれば、Multanの多くの人が仏教徒やバラモン教徒であり、当時、アラビア語で「hulul(化身)」や「tanasukh(輪廻)」といった考えを信じていたという。そうした理由から高位のバラモンや仏教僧は人々に崇められ、「sadat(予言者の子孫)」としての地位をやみくもに求めていたアラブ人たちは逆にそうした慣習に共感を抱いたようだ。また土着の人がイスラームに改宗することで徴税を免れ、税収が減ることを恐れた初期のムスリム支配者たちは改宗活動を思いとどまり、在来社会の継続を認めたという。

アラブ人が支配するSindh地方とパンジャブの一部はカリフ領土の辺境であったがゆえに、もっぱら西方から追放された反逆者、異端信仰者、そして伝道者や交易人、旅行者、さらには何らかの理由で西方から避難して来る人たちのための格好の場となった。おそらく正統イスラームを布教するという状況にはなかったに違いない。正統イスラームを自認するムスリム支配者でさえMultanの太陽神寺院を巡礼者のために保護する約束をせざるを得ない状況にあったのだから。しかし、十世紀頃にイスマーイール派がMultanの覇権を握るとこうした状況は変わってくる。ヒンドゥー教や仏教の寺院は祀られていた偶像と共に壊され、寺院付属の貯水池での沐浴も禁止された。またイスマーイール派はウマイヤ朝が建てたモスクを壊したが、それはウマイヤ朝による不当な支配から自らのイスラームの教えの一貫性を際立たせるためだったと言われる。こうしたことから、Multanとその周辺地域の様相はその後のスンニー派のアッバース朝とイスマーイール派のファーティマ朝との対立が東方に持ち込まれる場となり、そこでは逆にイスラーム内での宗派闘争が展開されたようだ。959年までにMultanの支配者はイスマーイール派に切り替わり、968年にはアッバース朝から独立してファーティマ朝の属国であると宣言した。そしてそのことによって、中央アジアにトゥルク人が興したガズナ朝を含むアッバース朝体制は敵対勢力のファーティマ朝によって東西を囲まれるという事態に陥った。アッバース朝は迫り来る二方向からの侵略を恐れていた。Multanのイスマーイール派がガズナ朝を攻撃するためには、ガズナ朝の敵であるKabulのヒンドゥー王朝の領土を通る必要があるだけだったからである。敵の敵はたやすく味方になり得る。当時Kabulから北西インドにかけてはいくつかのRajput族系のヒンドゥー王朝がひしめき、彼らはKabulのヒンドゥーShahi王朝と共にガズナ朝による度重なる北西インド侵入に抵抗していた。このときトゥルク人がSindhやパンジャブの支配勢力として主に相手にしたのは、前章で述べたRajput族といったフン族の末裔やJatGhakkarといった外来民族の末裔ではなかったか。今や信仰や立場は異なれども、かつて遊牧民であった者同士である。

 

アラブ軍によるSindh地方とパンジャブ地方の一部の征服は714年までには成し遂げられるが、その後の三世紀間はイスラーム内での対立を反映するように、ムスリムによる支配領域がそれ以上拡大することはなかった。パンジャブ地方にとってイスラーム浸透の第二の段階は、アフガニスタンのガズニを拠点としたトゥルク人・ムスリム王朝の創立に始まるイスラーム勢力の拡張であり、そのガズナ朝によってインド侵入のためのパンジャブ回廊のルートが開かれたことにある。このトゥルク人によるムスリム王朝の成立は、それ以前のアラブ人ムスリムによる中央アジアへの進出によって引き起こされた。ムハッマドの死から一世紀も経たないうちにアラブ人はKhorasanBalkh、そしてOxus河を越えた地方を含む中央アジアの支配者となった。その頃、中央アジアに移動して勢力を張っていた遊牧民のトゥルク諸族は、アラブ人と接触することで主に奴隷としてイスラーム世界に組み込まれるようになった。やがてトゥルク人奴隷は有能な戦士として認められ、主にアラブ人とイラン人によって構成されるイスラーム社会の中で大きな役割を担うようになっていった。君主に直接仕える忠実な奴隷兵としての地位は、トゥルク人をイスラーム世界における一大勢力へとなさしめる契機となったのである。こうしてイスラーム世界の東にガズナ朝が興るや、イスラームの名の下に覇権を握ったトゥルク人は独自の野望をもってインドに侵入し、果てはインド亜大陸にイスラーム支配を実現する唯一の勢力となった。

パンジャブの地にイスラーム教が広がり始めたのは、こうしたトゥルク勢力が十世紀の終わりにアフガニスタン方面から侵入して来たことが契機となっている。パンジャブ回廊がガズナ朝のMahmud(9711030)が立て続けにインドを侵略するその経路であったこと、そしてその経路を利用してことにイラン系のムスリムによって中央アジアのKhorasan地方で展開されたイスラーム思想とスーフィー運動の潮流が当時繁栄していたガズニを経由して北西インドに流れ込んで来たことにより、初期スンニー派の教えとは異なる、理論に培われた実践的なイスラームの教えがパンジャブに広められることになったのである。

ガズナ朝がKhorasanから北西インドに至る広い地域を支配するようになったことは、東アジアの遊牧民に由来するトゥルク人勢力がアラブ人とイラン人両勢力の中に分け入るようにして初めて歴史の舞台に台頭してきたことを意味する。Mahmudの父はシーア派を支持していたが、Mahmudはアッバース朝の信仰であるスンニー派を受け入れた。それゆえ、Mahmudはイスラームの他の宗派に不寛容であったことで知られる。998年に王位に就き、ガズニを核としてアフガニスタンでの地位を固めると、1001年に彼はガンダーラとUddiyana(Swat)のヒンドゥー王朝を攻撃し、父の敵対者であったKabulヒンドゥー王朝のJayapala王を敗退させた。当時Uddiyana(Indrabhuti王やPadmasambhavaを輩出する)仏教タントラ派の中心地であったが、このときMahmudの攻撃によって繁栄する寺院を全て失ってしまった。1005年、MahmudJayapala 王の後継者であるAnandapala 王と提携するMultanを攻め落とし、ガズナ朝に併合した。イスマーイール派のファーティマ朝の支配下にあったMultanに先手を打って攻め入ることで、スンニー派のアッバース朝にとって東からの脅威であった要因を取り除いたのである。

こうしてMahmudは歴史上初めて「Sultan」の称号をもつ王となった。「sultan」とはアラビア語で「強さ」もしくは「権威」を意味し、そこから「支配者としての地位」を意味するようになり、カリフの支配が及ぶ地域内で十全たる統治権をもつ支配者の称号として使われるようになった。カリフの全幅の信頼を得て、Mahmudは自軍の兵士を「ghazi」、すなわち「信仰の戦士」と呼び、ghaziによる遠征をイスマーイール派の異端から正統スンニー派を守るための「jihad(聖戦)」と称した。こうした宗教的熱意がMahmudによる領土拡張の動機の一部ではあったが、それよりもむしろイスラーム世界のリーダーとしてアッバース朝の庇護者としての地位を確立しようとする明確な意図があったと思われる。北インドで略奪した戦利品はアッバース朝によるファーティマ朝攻略のための遠征資金として貢ぎ、そうした役割を果たすことでアッバース朝の下臣として東イスラーム圏の支配を合法的なものにしたのである。その結果としてのガズナ朝スルタン王国の設立は、東のイスラーム世界において土地固有のイラン人や他の民族に対してトゥルク人が優位な立場に立つ状況を初めてつくり出したと言える。そしてそれに続くパンジャブにおけるムスリム支配の確立は、インド亜大陸におけるイスラーム史の重要な出来事となった。イスラーム勢力はこのときインド支配のための最初の足がかりを築いたからである。またそのことによって、後にゴール朝のような他のトゥルク系ムスリム王朝やそれに続くトゥルク人勢力が続々とインド世界へ侵入するという事態へと導くことになったからである。

 

Mahmudのインド遠征に同行したAl Biruni(9731048)は、Mahmudによるパンジャブ征服後の男女の関係変化について記している。彼の観察によれば、パンジャブの男性はいつも妻に大事な用件について相談していたが、Mahmudによるパンジャブ征服の後、女性はそれ以前の地位を失い始めたという。ちなみに中央アジアは男性上位主義の社会であり、女性は重要な案件について助言を求めたりする存在とみなされなかったようだ。おそらくAl Biruniはパンジャブ地方の家庭内での女性の在り方に驚いたのに違いない。

いっぽう、多くの農民、職人、そして低カーストの人々が奴隷状態から逃れるためにイスラームへの改宗を選択した。改宗によって彼らは奴隷状態、高額な税(jazia)、そして高位のカースト者からの酷い仕打ちから逃れることができたのである。とはいえ、低カーストの新ムスリムは安定した宮廷の仕事や他の低位の仕事につくことが出来たが、改宗農民は北部からやって来たムスリム軍族のために土地の耕作をするという負役を余儀なくされたという。ヒンドゥー社会がつくり出していた階層意識にまでイスラーム教はまだ変化を及ぼすことが出来なかったと思われる。

ガズナ朝は北西インドに攻め入り、Lahoreに拠点を定めた。最初はLahore城市を破壊したが、その後に新たな城市を築き、現在あるLahore城市の基礎を築いた。MahmudLahoreを征圧したのは1021年のことである。その後十五年間にわたるムスリム支配によってLahoreは重要な軍事拠点となり、また周辺地域の交易者たちにとっての商業的中核都市となった。パンジャブでのイスラーム受容がどのようなものであったのか、Lahoreで鋳造されたコインから少なくとも推測できる。当時Mahmudpur(Mahmudの都市)として知られたLahore1028年に銀貨が鋳造されたが、面の表裏にはアラビア文字と、当時アフガニスタンやカシミール地方で使われていたデヴァナガリー文字系統のSharda文字が記されていた。コインの中にはイスラームの称号と共に、シヴァ神の牛Nandiや伝説的なSamanta神の像が描かれているものがある。そして、そこにはサンスクリット語で言い換えられたKalima(ムスリムがよく唱えるフレーズ)が記されていた。それを読むと、「avyaktam ekam muhammada avatara nripati mahamuda:顕現することのない唯一のもの、ムハマッドはその化身であり、(そしてMahmudは王である)」とある。これは「アッラーは唯一の神であり、ムハマッドはアッラーの使者である(la’ilaha’illallah Muhammadur rasulullah)」のインド的表現であり、おそらく新たに鋳造した通貨の流通を第一に考慮した、イスラーム側にとっては実用性に妥協した表現であると考えられる。「avyaktam」は「(本質が)未展開の」の意であり、「avatara」は「化身」すなわち「本質は同じながら姿かたちを変えたもの」の意である。いっさいの偶像を否定するイスラーム教と、神が顕れているモノを崇拝するヒンドゥー教の信仰をうまいこと調整して言い表された表現である。この二言語コインはLahoreのみで発行され、それも二年間のみであったという。おそらく二つの信仰は相容れないものだったが、交易に関わる人たちにとってはその違いは大きな問題にならなかったのではないだろうか。ことにLahoreの都市住民はかなりの寛大な態度をもってして外来の支配者とその宗教を受け入れたようだ。

Lahoreはいっとき四万の兵を供給するほどの人口を擁していたという。軍隊(Lashkar)には多くの異国人が集まっていた。ガズニ、ゴール、トゥルキスタン、その他の国々からやって来たトゥルク人兵士たちは多くの富を稼ぐと故郷に帰って行ったが、中にはLahoreに留まるために戻って来る者もいた。そして彼らが都市住民と交わることでLahoreに新たな現象を生むことになった。地元民と異国人との交流は、Lahoreに当時「Lashkar-i Zaban(軍隊の言葉)」と呼ばれたウルドゥー語を生み出したのである。「Urdu」はもともとトゥルク語で、「軍の野営地」の意味である。兵士たちが使うトゥルク語の単語を多用したHindustani語が形成され始めたのである。

イスラーム勢力によって支配され始め、西方世界から様々な人々が流れ込んで来たこの時期にLahoreは飛躍的に都市化した。そして政治的にも戦略的にもLahoreは非常に重要な場所になった。このとき以来イスラームがインド亜大陸の非ムスリムの間でゆっくりと永続的に広まることになるが、パンジャブとことにLahoreはこの点に関して極めて重要な役割を果たしたのである。ガズナ朝の支配者たちは実力をもつ者を手厚くもてなし、学識のある人物は大いに評価され、それを伝え聞いてイスラーム世界のいたるところから多くの学者が集まって来た。彼らはLahoreにやって来て住民に尊敬され、仕事にありつき、生活の糧を得た。それと同時に多くの地元のヒンドゥー教徒がイスラームの教えを受け入れ、やがて北西インドで初めてのムスリム社会の一つが築かれることになる。

Lahoreが文化的にも十全に花開いたのはこのガズナ朝期のことである。Lahoreはガズナ朝の首府ガズニと同格に扱われ、その芸術文化の傾向は二つの都市で共有されるほどだった。Lahoreghazal(恋愛を主題にした定型抒情詩)を朗唱する者が集う場となり、おそらくMushairaのような場で掛け合いで朗唱されるghazalを通じて、この時期イスラームの感覚が上層階級を中心にして次第に植え付けられるようになったと思われる。また中央アジアの建築スタイルがLahoreにもたらされ、念入りに表現された庭園に囲まれたモスクや豪華な宮殿が建てられた。さらには著名な詩人や芸術家、思想家や歴史家、建築家や工芸家等が宮廷の庇護の下に集まった。Lahore城市の住民はつねに大宴会を好んでいたという。城市の住人がLahoreに支配者としてやって来たSherzadを歓待するために壮大な宴会をしたが、その祝祭は延々と祝われ、誰もが二週間の間眠らなかったという。

Lahore城市はまた外来の音楽家、歌い手、舞踊家といった興味深い人物像に満ちていた。技芸集団を率いる音楽家で、Ney()を吹くのでNey Nawazと呼ばれた人物は、その音色が非常に美しく、人々の悲嘆に暮れた心を幸福感で満たしたという。彼の一座には男女の踊り子と多くの演奏家がいた。「Ney Nawazは時には彼らを小枝のようなもので打ちながら集団をまとめていた。Usman Khawanindaは偉大な歌い手だった。その歌声は聴衆を魅了したが、彼は個性のない若者で、通りを徘徊する酔っ払いであり、賭場で寝起きしていた。Asfand Yar ChangiChang(竪琴)を演奏したが、いつも王から高価な褒美を受け取っていた。しかし最終的には着ている服さえ賭けてしまい、Changも賭けのために売ってしまった。彼は放浪の犬のように街を彷徨い、人はあらゆる種類の悲しみから自由で、多くの幸せと、酔っ払った状態で生活をするのが一番だと呟いていたという。Mutraba Pariは歌い手で、その声はジュズカケバトの鳴くのに似ていたので宮廷の花々に生気をもたらした。Bano Qatalは才能あふれる踊り手で、背が高く、長い首をしていた。彼女は賢く、陽気な性格をしていた。男性の踊り手Mahoは非常に優美なスタイルで踊ったので、Lahoreの上流社会の人々は彼に熱狂した」(Journal of the Punjab University Historical Society Vol.322019)NeyChangもペルシア系の音楽に使用される楽器である。すなわちこの技芸集団はイラン系の音楽家集団で、おそらくKhorasan方面からやって来たのだろう。

ちなみにイラン人は長い定着民としての歴史をもち、ゾロアスター教を基にしたマズダー教の思考を抱えており、イスラーム教を受容してからはイスラームに対して独特な思考を展開させていた。それは「歴史的な過去によって限界づけられず、またそれに関する教えを教義といったかたちで定着させる文字、あるいは理性的な論理の法則とその可能性が限定する地平に制限されぬような思考を要求している」(「イスラーム哲学史」Henry Corbin 1964)というものである。こうしたことから、イラン人の思考は新たな思想の契機としてアラブ人のイスラームを受容したのだと考えられる。その際にアラビア語の概念をも駆使して新たな思考を展開させることになった。主にイラン系ムスリムから成るシーア派やイスマーイール派はイスラーム以前の思考を取り込んでおり、その思考は外的な現象と内的な運動を区別し、内的な運動をより重視する傾向をもっていた。こうした哲学的思考はイスラーム世界における文化的に優れたイラン人の立場をもたらすようになった。そして、イスラームへの新たな参入者であるトゥルク人は務めて彼らの思考を吸収しようとしたのである。とはいえ、イスラーム内での宗派対立は予言者から全てが始まるスンニー派と、歴史を超越しようとするシーア派やイスマーイール派との考え方の相違に原因がある。トゥルク人は新参者であるゆえか、どちらかといえば目に見える部分を重視したようだ。たとえば大規模な建築によるイスラーム文化の誇示、そして洗練された武器の製造や戦略に関する技術を磨くのに余念がなかった。

 

ムスリム戦士と共に北インドにイスラームを広めるためにイスラーム聖者やスーフィーたちが続々とやって来た。中でも最も重要な人物がShaykh Ali al-Hujwiri(10091072)であり、LahoreではData Ganj Bakshとして名高い。彼はLahoreのみでなくパンジャブ地方一帯にイスラームの教えを広めたスーフィー聖者である。ペルシア語で書かれたその著作「Kashf al-Mahjub(覆われているものの開示)(十一世紀)は、スーフィズムについてまとめた最初の信頼できる書物と考えられている。彼はスンニー派のムスリムではあるが、シャリーア(イスラーム法体系)に基づく立法的イスラームによる一辺倒な教えではなく、信仰の実践とそれを支える理論に基づく教えを説いた。

al-Hujwiriはガズニに生まれたが、民族的な出自は不明である。若年の頃より各地を旅し、四十年もの間にシリアからトゥルキスタン、カスピ海からインダス河流域までのイスラーム諸国を訪れた。彼が訪れた場所の中にはアゼルバイジャン、ダマスカス、トゥース、メルヴ、サマルカンドなどがあり、そこで多くのスーフィー聖者に出会ったという。彼はイラクにしばらく住み着き、バグダッドで彼の精神的指導者であるAl Khuttali(825864)を知り、彼が言うところの「<素面>の神秘的な意味を体験することは<酩酊>状態より好ましい」というJunayd(830910)の理論に同意したという。最終的にLahoreに身を落ちつけるためにやって来て、そこで生涯を終えた。しかしながら、al Hujwiri自身の発言によれば、彼は<囚われ人>として、すなわち自分の意思に反してそこに連れて来られたという。Mahmudが死んだ1030年にはal Hujwiriはまだ青春の真っ盛りにあったに違いないが、かつてal HujwiriMahmudの面前でインド人哲学者と論争したとされ、その際に奇跡的な力を示して哲学者を打ち負かしたとも言われる。それはともかくとして、彼は死後に聖者として敬われ、Lahoreの廟には巡礼者による訪問が絶えることがなかったようだ。al HujwiriMahmudとの関係についてはいろいろな挿話があって定かでないが、少なくともLahoreal Hujwiriはイスラームの伝道事業を成功裡に始めることが出来、支配者側による後援は彼の伝道のための努力を成功に見合うものにしたようだ。彼は、Malik Ayazが再建したというLahore城市の南側の外部に、すなわち現在Bhati門の外にある聖廟のある場所にkhanqah(修道場)をつくって住み着いた。当時の城市は現在ほど大きいものではなく、多くても四つか五つの門をもっていただけであった。

Kashf al-Mahjub」は十一世紀に編纂されたスーフィズムについての最初の公式的な論文である。「kashf(開示する/明らかにする)」というのは不明瞭な被いを取り外すということであり、「mahjub」は「hejab(覆い)」から派生した語で、「覆われた状態」を意味する。この書の中でスーフィズムの体系がその教義と実践と共に完全なかたちで言い表されているが、そのことによって、「Kashf al-Mahjub」が「vaseela(援助)」、すなわち多くのスーフィー行者にとって神聖なるものへの霊的上昇を可能にする手段として提供されていると考えられている。とはいえ、al Hujwiriはいかなるスーフィーも、たとえ最高位の聖性を達成した者でさえも、シャリーアに従う義務から逃れてはいない、そう忠告している。シャリーアと神秘への道とは一体でなければならないという教えは彼が強調した重要な点である。たとえば、一方だけに偏る神学者とスーフィーを批判して、「神学者はilm(知識)marifat(神智/グノーシス)の間の違いが分からない。一方で<arif>と呼ぶものの意味と現実を知る者があり、他方で単にそれを言葉の表現としてしか知らず、霊的現実を伴うことなく記憶している者がおり、それを<alim>と呼んでいる。こうした理由からスーフィーがライバルを批判しようとする際に彼らは相手を「danishmand (知識を持つ者)」と呼ぶが、このことは実に腹立たしいことである。というのもスーフィーはその人が知識をもっているからと言って非難しないからである。むしろ、スーフィーは宗教の実践を怠っているという理由で人を非難するのである。というのも、<alim>はその人自身に拠る<知っている>であるが、<arif>は主に拠る<知っている>であるからである」、と言われている。

 タイトルのKashf al-Mahjub」が示す意義、すなわち「真義は隠されている」という点からすれば、al Hujwiriの思考には、外に現れたもの(zahir)と内に秘められたもの(batin)」の区別をつねに念頭に入れて教えを説くシーア派の影響があるように思われる。十一世紀に生きたal Hujwiriは何ら特別のスーフィー一派に属していなかった。「Data Ganj Bakhshの普遍性」とはそのことを言うらしいが、当時はまだスーフィーの一団が組織化し、その教えが制度化されていなかったからである。とはいえ、Khorasan地方のヘラートにはすでにChishti派が形を成そうとしており、ガズニ出身のal Hujwiriも若年の頃よりすでに中央アジアのスーフィー思想の影響の下にあったと考えられる。Chishti教団についてその「tariqah(/方法)」を簡単に述べておけば、アッラーの神への熱烈な愛を説く歌を歌い、その音楽を聴き、そのリズムと気息と詩の陶酔の中でついに神との直接的な合一という神秘体験を直観するというものである。この歌唱のための集まりを「Sama」と言う。また北インドでは会衆が神に捧げる歌を「Qawwali」と言う。このQawwaliは、男性歌手が独特の節回しで詩を歌いあげるもので、その音楽はペルシア音楽のインド的表現、およびインド的解釈を強烈に実現しており、インド・イスラームの成立という意義を現在にいたっても良く象教しているものと思われる。またChishti派は清貧、質朴を旨としており、さながらヨーガ行者のように人里離れた荒れ地にそのkhanqahを設け、日夜瞑憩に耽ったと言われる。一般的にスーフィーの傾向として、彼らはイスラーム正統派の思弁的でアリストテレス的な論理を好まず、理論によるのでなく、身体の全感覚を解放して「din()」に捧げるという方法を軸にして、体験的な表現を駆使しながら神との合一を大衆に向けて説いていったものと思われる。おそらくその表現はインドの「Bhakti(最高神への絶対的帰依)」思想によく合致したものだったと思われる。

 

 十一世紀、中央アジアのKhorasanKhwarazmのいくつかの都市はイスラームの影響下にあってコスモポリタン的な雰囲気がつくりだされていた。Khwarazm出身の傑出した学者Al Biruniはイラン系の人で、ガズナ朝のMahmud王の人格に惹かれてインド遠征に同行したと言われる。そのMahmudについて、おそらく十二世紀頃にペルシア語で書かれたものがムガール朝期にウルドゥー語に翻訳され、編纂された「Jamiul Hikayat-e-Hind(インド小話集)」に話がある。短い話であり、また当時の雰囲気が感じられるのでウルドゥー語から訳してみた。

 

 或る夜のこと、マフムード王は心地よき寝台にて安らかな眠りについていた。と突然、真夜中に目が覚めると、一切の眠りが何処へともなく消えてしまった。寝返りを打ちながら過しつつさらなる眠りを望んだが、一瞬も眠気を催すことがなかった。瞳の花がいつまでも同じように咲き続けていた。おそらく何者かがこの地上で邪悪なる者の掌中に巻き込まれているのではないかという想いが脳裏をよぎると、マフムードは心痛の余り不安にとらわれた。

 

 暴君の圧政に打ちひしがれし者、真夜中にため息つけば、

 一抹の閃光の如きこの現し世、塵芥にとどめしなり。

 その(ため息の)矢こそ、決していたずらに誤ち放たれることなし。

 全ての創造物ひとつの瞼の内にあらば、ただちに崩壊すべくなり。

 驚くべし、痛みこそ打ちひしがれし心の炎。

 綿毛詰められし口、何処かでため息告げれば、

 それこそ激情を映す鏡、それ弾薬庫なり。

 爆発何処に起きようとも、治める者視線を送るべし。

 

 このように思い、王は警備の者を呼びつけ、命じた。

「見てくれ、入り口のところに誰がいるのか」。

 警備の者はあちこち廻り、どこにも人の姿が見えぬ旨申し立てた。王はふたたび寝台に伏したが眠気は訪れず、不安はつのるばかりだった。ふたたび命令を下した。

「見てくれ、外に誰がいるのか」。

 傭兵が走り、全てを見廻り、申し立てた。ここには誰も居りませぬ、と。ただちに王は理解した。この者たちは不注意であると。王は短剣を脇の下に忍び込ませ、後宮より抜け出し、全てを見廻りはじめた。謁見所の先に礼拝所があり、その中に入って行った。と、悲嘆にくれたささやきが王の耳をとらえた。見やると、一人の人物が地に頭を擦りつけて拝し居り、力なく、泣きながら栄えある神に嘆願していた。

 

 たとえ王の夢うつつにして、怠慢の極みにあろうとも、

 何ぞ心の痛みがあろうことか、その身が名君の名に値しないことに。

 (本当の)王はことさら聖なるところにおわします、その扉を封じつつ。

 けだし、あなた様の聖なる地におきましては、つねに御身を感じつつ。

 

 その者が頭を上げると、王は問いかけた。

「貴候、そなたを捜してわしは一晩を費やした。いまや尋ねるが、そなたの意図は何か?」

 その者は言った。

「あなた様の臣下のおひとりが、私のような貧しい者の家に夜ごと無理矢理押し入り、私の妻の閉居の帳(pardah)を力づくで開けようと欲するのでございます。今や、あなた様の研ぎ澄まされたその剣で、あのうす汚れた者を私の汚れなき家族のもとから追い払うことができないのなら、私の手とあなた様の境界線とが出会うことになりましょう」。

 王は妬みの感情を覚え、そして問うた。

「今、その悪党はお前の家にいるのか」。

 その者は答えた。

「いいえ、おりませぬ。が、いつまたやって来るかと恐れおののいているのでございます」。

 王は申しつけた。

「行け、心配することはない。今この時より、もしその悪党が来たならば直ちに王に知らせよ」。

 そして、王は伝令官たちに次のように申しつけた。すなわち、彼の者が来たならばすみやかに我が面前に通せ、と。その者は祈りをささげながら退出した。

 二晩が過ぎた後、彼の悪党がその不幸な家にやって来て、居座った。彼の者は王のもとへ知らせに走った。心獅子の如き王は研ぎ澄ました剣を肩にかけ、彼の者と共に後宮を飛び出した。

 あの犬畜生のことをわしに話したのはお前だ。一刀のもとにそやつを、うさぎの夢(短い夢)の代わりに闇の夢へと、審判の日まで眠らしてやる。

 王が彼の者の家に着いた時、はたしてそこでは王が来たことはまったく気づかれずにあった。

 王は言った。

「燭台の灯を消せ」。

 そして、一歩進み出るや一刀のもとに真っ赤な鮮血を浴びた。

 そしてその後、燭の灯を点させ、そやつの顔を見た。神に拝頭して感謝の意を表し、彼の者に言った。

「今ここに食い物があったならそれを持って来てくれ」。

 彼の者は、少しの水と干からびたパンの切れはしを王の前に持って来て置いた。王はそのパンを次のごとき期待を抱いて食べた。すなわち、一生のうちで自分はこのような味をもう味わうことがないように、と。

 そのとき、この貧しき者は手を合わせつつ申し立てた。

「ソロモン王のもてなしを蟻のごとき私がいつになったらできましょうか。そのような期待で食物と飲物を申しつけた理由は何でありましょう。また、燭の灯を一度消し、再度点けさせたのはいかなるおつもりであったのでしょうか」。

 王が答えた。

「お前がわしに正義を欲した彼の時に、わしは心の中でこう決めたのだ。悪党をお前の妻の閉居から追い出すことができなかった場合には食事はするまいと。またこういうことも考えた。自分の血の繋がった者以外の者のために、あるいは誰か他の者の勇気のためといっていいか、王の身分にもかかわらずわしはこのような事をしでかした。なぜかといえば、王家というものはその自尊心に酔う余り、しばしば溺れた生活をしているからだ。また燭台の灯を消したのは、もし悪党がわしの血の繋がった者であったなら、明るいところではその者の顔をつぶさにし、親の情が湧いて殺せぬのではないか、そう考えたからである。だから一刀のもとに斬りすて、そして見ると、見も知らぬやつの顔があった。それゆえ、我が息子でないことに神に感謝したのである」。

 

 燃える如き情熱が、偽善の顔をしていることがあるだろうか、

 友と敵は公正の秤に一つにして、このうちに湿(tar)と乾(khushk)あり。

 

ガズナ朝のMahmudは北インドを何度も侵略し、インド世界においては評判が芳しくない人物である。そうでありながら統治におけるこうした倫理的な内容を含む物語が語られるのは興味深いと思う。友が敵に寝返ることもある統治の場での判断が最後に説かれているが、そこにイスラームの治世に対するムガール朝期の人々の感慨が感じられる。つまり、統治の場においては情熱に潜む欲望の強度(湿・熱・乾・冷)を計ることが肝要だ、そう考えられていたのではないか。

ちなみに中世イスラーム自然哲学では「<秤の科学>の目的は、個々の物体の中に、外に現れたものと内に秘められたもの(zahirbatin)との関係を見出すことであった」(「イスラーム哲学史」)と言われている。つまり、「一つのものの自然的本性(熱さ、冷たさ、湿気、乾燥)を計ることは、世界霊魂がそれに自らを順応させる量、つまり物質の中に下降する際の世界霊魂の欲望の強度を計ることに他ならない。この欲望は、もろもろの秤(mawazin)の根源にある原理が派生させる諸元素に対する、世界霊魂の欲望なのである」(同上)と。Mahmudの話を伝えた話者はこうした考えを知っていたのではないか、そんな考えに想いを巡らすのは実に楽しい。