Saturday, November 02, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


 Lahoreの友人 二

 Shah SahabMaktab 中

 眠りが浅くなっているのか、何かしらざわめくような感覚にからだが包まれる。明け方のおのずと目が覚める頃になって、意識になる前の意識のようなものがざわざわと介入してくるのだろうか。それとも意識になろうとするもののざわざわとした活動が目覚めを呼び込むのだろうか。そんな目覚めへと押し出されるような動きがからだにざわめくようなものとして感じられる。深い眠りにあっては感覚の一部が外部と遮断されているとすれば、それは眠りから覚める頃になって感覚の一部が再び外部と繋がろうとする際の特有の現象なのだろうか。深く静謐な水底で安らいでいたのが、いや応なく水面近くへと押し上げられる。そのとき水面の向こうにぼんやりとした陽の光が射し込み、その陽光を通しておのずとからだが外界を感知し、光の雑音をかたちへと感じとろうとする。
 朝まだきの暗いうちから異様にざわざわとした体感に襲われた。ふと目覚めてベッドから起き上がり、そのまま冷えたフロアに裸足を下し、ざわざわとした空気がそこから圧するように伝わって来るガラス窓に向かった。外は濃い霧に包まれている。が、夜明けは近いようだ。ガラス窓越に見える深い霧の合間から人が蠢くような気配が感じとれた。何かが蠢いているそのかたちは定かでない。ただざわざわと動くようなものが目に感じられるだけだ。夜がゆっくりと明け、霧が解けていくうちに、その蠢きがしだいにはっきりとしたものになってきた。地上のあちこちに襤褸のテントが立ち、また簡易ベッドが雑然と並び、そこに群れ集う夥しい数の人が目に入ってきた。襤褸布を纏っただけのような人たちが、大陸の底冷えに身を温めようとして仕方なく息をし始めている。私を目覚めさせたのは、彼らが一斉に息をし始めるそのざわめきだったのだ。
 日本を発って初めての異国の地、インドの首都ニューデリーで迎えた朝のことだ。前夜遅くに空港に到着したので、まだ宿を決めていないのを心配してくれた隣の席のアングロ・インド系のビジネスマンが空港の電話で自らホテルを予約してくれた。人波と共に〈Exit〉へと流され、その扉が開くと目の前に現地の人が群れ集まっている。その人群れが騒々しくこちらを見つめている。人の群れを、その視線を、力づくで押しのけてようやくタクシーに乗り込んだ。そのまま闇夜の街並を走ってホテルへと直行した。神経が異様に高ぶっていた。ボーイに部屋へ案内されたが、チップも渡さずにすぐさまベッドに潜ったのだった。そして、朝暗いうちから異様なざわめきを感じ、おのずと目が覚めたのだった。窓から外の光景を見下ろすうちに、霧が這うように包み込む地上に貧相な人の姿が蠢いているのを目にした。それが夥しい数であることが見分けられると、私はインドに着たと初めて実感した。19781125日の朝のことである。
 そこはデリーの街を周回する環状道路Ring Road沿いにあるホテルで、Vikram Hotelといった。空港に近いニューデリー南部に位置していた。むろん当時は何も分からなかったが、そこがデリーにおける中流階級の住宅街Lajpat Nagarのすぐ近くであることを後で知った。その数年後、私はこのLajpat Nagarに住んでいたのである。部屋の大家はよりによって〈印パ分割〉時にLahoreから逃れて来た人で、〈分割〉当時のLajpat Nagarはパキスタンから逃れて来た難民の避難地に指定されていたと聞かされた。ということは、この辺りは〈分割〉から三十年経た後になっても、まだ避難地の余韻を抱えていたということになるのだろうか。

 Eidの夜はSaeedと共にShah SahabMaktab(私塾)に泊まることになった。他にも泊まりの客がいた。Islamabadで高校教師をしているという初老の男性だった。名前を失念したので名刺を探し出して見ると、Muztar Abbasiとある。パンジャブ出身だが、若い頃Karachiに職を得て長く住んでいたという。そのせいか、それとも教師をしているせいなのか、私にも十分聞き取れるきれいな発音のウルドゥー語で話をする。Shah Sahabは早くに自室に籠り、代わりに助手が居残って客の相手をした。広い教室の床に蓙が敷かれ、みな思い思いの姿勢で座り、話を交わし始めた。私は主に三人が話をするその内容に傍で耳を傾けるだけだった。暑い夜だった。夜が更けるにつれて教室内に熱が籠り、天井ファンが吹きつける熱風が肌を刺すようになる。それにもかかわらず、彼らの話は政権批判をめぐる議論で熱くなった。
 あるきっかけでSaeedが私に耳打ちしたのだが、Shah Sahabは昨年、Bhuttoが逮捕された翌日から六ヶ月の間Jhelumの刑務所に入れられていたという。Shah Sahabはシーア派のイマームだ。礼拝後の説教の際に礼拝者に向かって前首相のBhuttoを擁護する発言をしたのかもしれない。先代のMulangは英帝国の植民地政策に抵抗してMultanの刑務所に入っていたことがある。礼拝後にモスクで政治的な演説をしていたようだ。Shah Sahabは、私がイメージする中央アジア由来のイスラーム賢者というよりは、Mulangのように理不尽な権力には抵抗する、どちらかといえば反植民地運動の流れを受け継ぐ人であったのだ。英帝国支配下のインドは長い独立運動を経験している。非暴力主義の下、たとえばネルーやガンジーは幾度も逮捕され、刑務所に勾留された。けれども、独立運動家の刑務所服役にはさほど悲観的な趣はなかったようだ。刑務所を受刑者で溢れさせるために、「刑務所に行こう」という運動も展開されたほどだった。
 とはいえ、Zia政権下では逮捕はいきなりやって来た。それも真夜中にだ。Lahoreある弁護士は、「Zia-ul-Haqの時代は警察と警察署の時代だった。毎夜私の電話は真夜中から午前三時頃まで鳴り続けた」という。詩人のHabib JalibZia-ul-Haq政権下で三度逮捕された。1981年にも逮捕されたというから、私が出会った後にも逮捕されたのである。独裁者は、Habib Jalibの名高い詩の一行を削除するよう要求したそうだ。その一行とは、「Zulmat ko ziasarsar ko sababande ko khuda kya likhna?(闇を光(Zia)と、強風をそよ風と、人間を神と、どうして描かなければいけないのか?)」というものである。Habib Jalibはインドの独立運動の闘士の伝統を受け継いでいる。その点では筋金入りのようだ。彼は逮捕された時のことを次のように語っている。「逮捕された後に、私はLahoreAnarkali Bazarを通って警察に連行された。そのとき多くの人が店の中で立ち上がって私に挨拶をした。通行人は私に手を振って答えた。私を信じて励ましの言葉をかけてくれる人もいた。…私は雑多な人が集まる群衆の中にいた。勾留される理由を私は誰からも聞くことができなかった。後に私がKot LakhpatLahoreの刑務所)で詩を書いていることが分かると、彼らはMianwali(パンジャブ西部の町)に移送することで私を罰しようとした。Mianwaliでは詩を書くことができないとでも考えたのだろうか…」。
 Saeedはもう額に汗をじっとりかいている。それでもいつになく真顔になって喋り続けていた。「Zia-ul-Haqの政権になってこれ見よがしにサウジアラビアから多額のオイルマネーがこの国に流れ込んでいる。Ziaはその金でウレマたちを政治の舞台や教育の場面に引き出してきて、彼らをいい気にさせている。そればかりじゃない。いっぽうではアメリカから大量の武器が流れ込んでいる。アフガンの共産主義と戦うイスラーム原理主義者を支援するためというのがその名目だ。その武器がいったいどこへ流れているのか分からない。その一部は国内の過激なイスラーム政治組織の下部セクトに流れているという噂もある。これでは、Bhuttoを支持してきた民衆との分断はますます深まっていくだろう」。
 サウジアラビアはイスラーム・スンニー派の盟主を演じ、社会主義が浸透するイスラーム諸国にオイルマネーを注ぎ込み、イスラームの厳格な要素を支援することでその影響力を及ぼそうとしていた。Zia-ul-Haq将軍はその動きを国内政治に利用していたのである。時に隣国シーア派のイランではイスラーム革命が進行中であり、もう一つの隣国アフガニスタンへはソ連軍が侵攻していた。それに対して、ベトナム戦争後のアメリカがもう動き出していたのである。
 Saeedの発言を受け、教師が落ちつき払った表情で言う。その顔には汗の微塵も見られない。「もっと視野を広げて見るならば、独立後三十余年を経て、この国にZia-ul-Haq政権が出て来たその歴史的必然性があるのではないだろうか。…Zia-ul-Haqによるこの国のイスラーム化が、〈Jamaat-e-Islam(イスラーム党)をつくったAbul Ala Maududi(19031979)の理論に影響されているのは明白だ。Maududiがなぜあのようにイスラームの政治化、あるいは社会のイスラーム化を熱心に説いたのには理由がある。このことはおそらくムガール帝国の崩壊に原因している。まずはそこまで遡ってみなければならない…」と。
 助手に尋ねたところによれば、Maududiはイスラーム学者で、ウレマのような聖職者ではないという。Jamaat-e-Islam(通称JI)」とは、彼が英帝国統治下の1941年に創設した政治的な宗教組織で、イスラームの価値の実践化を促進することを目的としてつくられた。それと共に彼はこれまでに多くの著作を出版し、その中でイスラーム国家の在り方を説いてきたという。彼とその党派はイスラームを政治化し、パキスタンにおけるイスラーム国家を支持する動きを生み出してきた先駆者と考えられている。今日、JIはアジア最大のイスラーム組織となっているようだ。
 Saeedは反論する。「印パ独立以前には、Maududiはインド亜大陸を分断してムスリム国家が創られることに反対していたんじゃないか。実際、ムスリムが多数を占める独立国家を求める〈ムスリム・リーグ〉に対抗して彼はJIをつくったのだ。その主張と運動は矛盾したものだ。自分たちは独立運動を主導しなかったにもかかわらず、パキスタン独立後になって、イスラームの理想を掲げつつもイスラームの支配にこだわらないMuhammad Ali Jinnah(18761948)を〈不信心者〉と批判し、Jinnahに対抗してMaududiJIAmeer(指導者)として、イスラーム国家とはムスリム国家であり、クラーンとSunna預言者ムハンマドの言行・範例)に基づいた憲法をもたない限りイスラーム国家ではないとぶちあげ始めたのだから。その国家においては、イスラームが生活のあらゆる領域を主導することになるとさえ考えていたわけだ。その考えは確かにムガール帝国崩壊後のムスリムの惨憺たる状態を顧みてのことかもしれない。しかし、彼自身はその原因である圧政的な植民地政府に抵抗することなく、独立運動に身を捧げることがなかったのだ」。
 うっすらと額に汗を浮かべはじめた教師は言う。「確かにMaududiは独立運動の傍観者だったかもしれない。しかし、彼が目論むイスラームを政治化する流れはこの国が独立する以前から出来ていたんだよ。おそらく、この国での〈Ahmadiyya問題〉が、その問題に政府が対処する仕方が、彼とその党派に大いに力を与え、潜在する流れに大きなかたちを与えるようにしてZia-ul-Haqの登場を促したのだろうと私は思っている。独立後の1953年、MaududiJIはまず、この国のAhmadiyya共同体を認めるべきでないとするイスラーム保守派による〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉に参加した。彼らは、Ahmadiyyaムハンマドが最後のかつ最も偉大な預言者であることを受け入れていないと強く主張した。Maududiはこの国の保守的ウレマといっしょになって、AhmadiAhmadiyyaの人)を名指しでムスリムではないと言い放ち、Muhammad Zafarullah KhanのようなAhmadiを政府の高級官僚職から追放し、Ahmadiと他のムスリムとの婚姻を禁止するよう要求し始めたのだ」。
 Saeedは言う。「確かにAhmadiyya運動を異端とする批難は運動が興ってしばらくして後の1915年から本格的になり始めた。が、正統派のウレマたちが〈Ahmadiyya問題〉を声高に唱え始め、インドのムスリム指導層に圧力をかけ始めたのはやっと1940年代頃だ。しかし興味深いことに、Ahmadiyya運動は当時、Jinnahの〈全インド・ムスリム・リーグ〉と提携していたのである。当時の〈ムスリム・リーグ〉は、近代主義的ムスリム、世俗的民主主義者、Jinnahを支持するウレマ、そしてマルクス主義者の混合から成り立っていた。実際、1946年のパンジャブでの選挙における〈ムスリム・リーグ〉のマニフェストは、ほとんど社会主義者やマルクス主義者によって書かれたものだ。いっぽう、イスラーム・ロビーはJinnahに〈ムスリム・リーグ〉とAhmadiyyaとの関係を断つよう忠告したが、Jinnahはその提案を無視した。重要なのは、当時Jinnahがイスラーム・ロビーの忠告を無視できたことだ」。
 話の内容に困惑する私を見てすかさず助手が助け舟を出してくれた。「Ahmadiyyaとは、正式には〈Ahmadiyya(ムスリム)共同体〉と言い、そのメンバーをAhmadiと言うんだ。その歴史は、Mirza Ghulam Ahmad(18351908) という人物が1889年にパンジャブ州のLudhianaの家で、彼の幾人かの仲間たちから忠誠の誓いを得たときに始まる。そこでMirzaは、自身が〈イスラームにおける百年の改革者(Mujaddid)〉であると宣言したという。それは、彼がイエスの再来、もしくはムスリムが待望したMahdi(救済者)であると宣言したのと同じことを意味した。そのことによって、ことに北インドにおいて彼は相当な数の信奉者を獲得することになった。Ahmadiyyaはイスラーム内の改革運動としてインドに立ち現れたわけだが、それは十九世紀のインドで広く行なわれたキリスト教徒やヒンドゥー教徒による近代的な再伝道活動へのイスラームからの反応でもあった。たとえば、ヒンドゥー教徒の〈Arya Samaj(アーリア協会)〉はこのパンジャブでもその活動を強化していた。それでこの国の〈Ahmadiyya問題〉であるけれども、それは、Mirza Ghulam Ahmadの死後、その信奉者たちの一部がMirzaを預言者かつメシアであると主張し、彼はイスラームの真の信仰を取り戻すよう神から委託されたのであり、それゆえこのことに同意しないムスリムすべてを不信心者と批難したことにある。彼らは、預言者ムハンマド自身がイエスの後にAhmadという名の使者を予言し、それをAhmadiyyaと呼んだ、そう主張したのだ。自ら預言者であると主張するのは、ほとんどのムスリムによって重大で許し難い罪であるとみなされているから、このことが大きな問題となっている」。
 教師が額に汗して論じ続けていた。「〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉はLahoreで大きな暴動を生み出した。少なくとも二百人のAhmadiが殺されたといわれる。一部には戒厳令が発動された。Maududiは軍によって逮捕され、煽動に関わった罪により死刑を宣告された。ところが、〈反Ahmadiyyaキャンペーン〉は多くの大衆の支持を得たので、政府はその強い社会的圧力によって最終的にはMaududiを二年の服役で解放することを余儀なくされた。この解放は、保守的な大衆にとって、〈イスラームでないものに対するイスラームの勝利〉であり、またMaududiの指導力とゆるぎない信仰の証しであるとみなされた。その後、キャンペーンはMaududiの主導によって、イスラーム国家の政治の在り方に焦点が向けられるようになった。1956年憲法がJIの要求を受け入れて採択され、Maududiがこの憲法に支持を示し、あらためてイスラームの勝利を保守的な大衆に向けて訴えたのだ。ここに保守的な流れが大きなかたちをとって水面上に現われたのだ…」。
 すぐさまSaeedが反論する。「いや、Ayub Khan将軍によるクーデターが起きて、あの1956年憲法は棚上げされたじゃないか。そして、Maududiとその党派は弾圧され、ふたたび彼は1964年と1967年に服役した。JIはイスラームの政治化という方針を変更せざるを得ず、野党の世俗政党との連合に参加し、1965年の大統領選挙では、Ayub Khanの対立候補であるFatima Jinnahを支持するために政策的に譲歩さえした。そして1970年の、この国で初めてと言っていい総選挙では、Maududiは〈次の指導者〉として国内を遊説し、JI151人の候補者を立ててそのエネルギーと資力を費やしたが、それにもかかわらず、党は国会と地方議会共に四つの議席を得たに過ぎなかった。この敗北は、1971年にMaududiを政治活動から手を引かせ、学究生活へと戻らせた。1972年にはMaududiJIAmeerを健康上の理由で辞職した。つまり、あなたが言う大きな流れはかたちにならなかったのだ」。
 Saeedは社会主義を信奉するあまり、教師が指摘する、パキスタンにおける保守的イスラームの連綿たる流れという事実をどうしても認めたくないようだった。
 教師もすかさず反論する。「そのすぐ後に、イスラーム保守主義者の潮流が集い、〈Nizam-i-Mustafa(預言者の組織)運動が興ったじゃないか。JIが構想を提示し、かつ補強したこの保守的政治グループの同盟は、Bhuttoのパキスタン人民党(PPP)に対して一致結束することができたのだ。そして、1977年になってMaududiはふたたび〈中央の場に戻って来た〉のだ。この1970年代後半からの流れは、我々が見ての通り、結果的にZia-ul-Haq将軍がBhutto政権を転覆させ、政権を掌握するという事態を招くことになった。政権掌握後にZiaMaududiに元老議員の地位を与え、彼の助言を求めた。さらには彼の助言の言葉を新聞の一面に掲げるよう画策した。そして君も知っているとおり、MaududiZiaの政策予備交渉を受け入れ、その場でBhuttoを処刑する決定を支持したのだ。Maududiの理論によれば、Sharia(イスラーム法)は政権によって上から実施されるよりも、教育によって下から実現させるべきだと考えられていたが、そうした政策的な違いにもかかわらず、MaududiZiaとそのイスラーム化、すなわちこの国の〈Sharia化〉計画を熱烈に支持したのだ。JIZia-ul-Haq将軍がこの国に〈Sharia〉を導入するのに大いに手助けをし、またいっぽうで、Ziaによって司法や行政内にJIのメンバーやその支持者一万人が職を与えられたが、それによってJIの組織は驚くほど強大化したのだ」。
 Saeedが反論できずにいるその隙をついて、今まで発言を控えていた助手がAhmadiyyaについて付言した。「二十世紀の初め頃までは、Ahmadiyya運動は、Sir Syed Ahmed Khan(18171898)Syed Ameer Ali(18491928)のような近代主義的で改革主義的なムスリムが指導する、精神主義的で福音主義的なイスラーム運動の一派とみなされていたことを忘れてはなりません。実際に、かなりの数のインドのムスリム知識人がAhmadiyya運動に密接に連係しており、Mirza Ghulam Ahmadをインドにおけるイスラーム信仰の救い主とみなしていたのです。あの輝かしき詩人にして思想家でもあるMuhammad Iqbal(18771938)さえも、かつてはAhmadiyya運動の賞賛者であったのです。また、Ahmadiはパキスタンの成立に際して主導的な役割を果たしたので、軍、官僚、政府内の重要な地位に配置されることにもなりました。そのことはまた、我が国の発生期の産業界においても同様です。Ahmadiyyaの信者は世界で1000万人から2000万人いるとされています。Ahmadiyyaはクラーンの翻訳を積極的に進めており、またAhmadiyyaへの改宗にも積極的です。世界の多くの地域で、Ahmadiyyaを通してイスラームの信仰を見出し、イスラームへ改宗したという例は枚挙にいとまがないほどです。そのいっぽうで、多くのイスラーム国家でAhmadiyyaは異教であり、ムスリムではないと定義され、迫害され、しばしば組織的に抑圧されています。我が国では1974年に可決された法案によってAhmadiyyaはムスリムではない少数派と定められました。Ahmadiyyaはほぼ一夜にしてこの国における非ムスリム少数派に変わったのです。法案可決後に保守的大衆による暴力はおさまったけれども、ビジネス、科学、教育、公務員の分野に積極的に関わっていた多くのAhmadiたちがこの国から去りはじめました。我が国は、Ahmadiyyaがムハンマドを最後の預言者であると考えないので、それを非ムスリムであると公式に宣言する世界で唯一の国です。彼らの宗教的自由は一連の法令や憲法の修正によって縮小されてきました。…つまるところ、我が国の〈Ahmadiyya問題〉とはこういうことではないでしょうか。それは、印パ独立以前に、すなわちムガール王朝崩壊後の十九世紀後半のインドに〈Ahmadiyya〉というイスラーム改革運動が興り、それに伴うイスラームの新たな一派が形成されたのですが、1970年代の現代になってそれがイスラームではないと法的に宣言される、パキスタンというイスラーム共和国の問題です。イスラームがイスラームの改革を異端として否定するとは、中世ならともかく、現代においていったい何故こんな異様なことが起きるのでしょうか。こんなことが起きるこの国のイスラーム社会とは何なのでしょうか」。
 助手の話を聞いて、思いがけなくも彼は明晰な話をする人だと私は感じ入った。彼にはイスラームの党派性を微塵も感じさせないところがあり、イスラームの形式に囚われない自由な精神の持主だと感じさせられた。おそらく師のShah Sahabがそうなのだろう。
 この〈Ahmadiyya問題〉のその後の経過について、現在の私が報告しておこう。1984年、Zia-ul-Haq政権は、Ahmadiyyaがその信条を広めかつ教えることを禁止する法令を発し、Ahmadiyyaに対するパキスタンの立場をさらに強化した。〈反イスラーム的活動〉を抑えることを名目的に制定されたその法令は、Ahmadiに自身をムスリムと呼ぶこと、もしくはムスリムであるかのように振る舞うことさえ禁じている。つまり、彼らは「アッサラーム・アライクム」の挨拶も公に交わせないのである。彼らの礼拝所はモスクと呼ぶことができなくなり、礼拝の呼びかけをする行為(アザーン)、クラーンからの公然たる引用、他信徒に改宗を求めること、さらには書物を出版し、普及させることも禁じられた。法令を犯すと最高三年間の禁固が課される。またパスポートを申請する際には、申請書に「Ahmadiは自ら名乗り出なければならない」という条項があり、それにサインしなければいけない。もし名乗り出ず、係官がムスリムとして申請を受理すると、後にその変更さえできない。さらには、あらゆる公的な書類、例えば大学入学証、IDカード、銀行口座の申請書類には、Ahmadiである旨告知しなければいけないことになっている。
 さて、その場にいた誰もが分かっていながら、それまであえて誰も口にしなかったことがあった。それは、〈Ahmadiyya問題〉が保守派の手に落ちるのは、1974年のBhutto政権のときであり、そのときパキスタンの国会はAhmadiyyaを非ムスリムと宣言する法律を採択したことである。その憲法は、ムスリムを「預言者ムハンマドの最終性を信じる者」、そう定義する旨修正された。
 重い雰囲気を背負うようにしてSaeedが口を開く。「Bhuttoは、後に暴力に訴えることになる宗教的かつ政治的な党派の要求に屈し、1970年の選挙期間中に徹底的に打ちのめされた彼らの信用と地位を無意識のうちに取り戻させてしまったかもしれない。確かに〈Ahmadiyya問題〉ではBhuttoは失敗を犯したのだ」。
 教師がそれを受けて言う。「1971年に東西パキスタンの分裂があり、それ以前の西パキスタンの支配階級や経済エリートが東パキスタンの人を扱うのに粗野な仕方であったのを認めていたのにもかかわらず、西パキスタン政府は、東パキスタン、すなわちバングラデシュという国家の敵対的な出発を、こともあろうか〈イスラームの敵〉によって企てられた悪魔的な陰謀と説明し始めた。というのも、BhuttoPPPによる新しい政府は、その同じ〈敵〉がいまや西パキスタンの他の州でも民族ナショナリズムの炎を煽るかもしれないという恐れを強く抱いていたからである。東パキスタンを失ったその衝撃に次いで、独立時にJinnahが提唱した二国家理論が疑問に付されるのではないかという懸念も生じていた。共にムスリム国家として出発した東パキスタンが、ベンガル民族主義を土台にしてバングラデシュとして独立したからである。つまり、国内のあちこちに民族主義的な要素が台頭していて、Bhuttoは〈Ahmadiyya問題〉を軸にして国がさらなる分裂をし、その果てにインドに呑み込まれてしまうという事態になることを恐れていたんだ」。
 Saeedが言う。「分裂前の1970年の選挙では、パンジャブの労働者階級や小市民派と共に、Ahmadiyyaの圧倒的な数の人がPPPに投票した。つまり、都市部ではPPPを軸にまとまっていた。それにAhmadiたちは西パキスタンの経済においてはゆるぎない立場を占めていた。それなのにBhuttoがこの問題に神経質にならざるを得なくなったのは確かに東パキスタンという一翼を失ったからなのかもしれない。西パキスタンの人々は総じて分裂の事態に打ちひしがれていた。それでもBhuttoは、Ahmadiyyaを少数派と宣言して彼らを国家や政府機関から追放することは、国家経済や政治的安定性を損なうことになると主張し続けた。彼はまた、問題は宗教的なものであり、それゆえ国会はそのことについて可否を問うべきではないと異議申し立てた。しかし、宗教政党は承認しなかった。彼らは、憲法がパキスタンをイスラーム共和国と宣言していること、それゆえどうして宗教的問題が国会で論議される余地がないと主張できるのか、そうBhuttoに詰め寄ったのだった」。
 教師が言う。「東パキスタンを失ったことで、ことに宗教政党はいっそうイスラームの信仰的側面を人々の感情に訴えてきた。人心の不安を宗教的感情へと置き換えるようにして集中させ、それによって政治的な大きなうねりをつくり出そうとしたのだ。Bhuttoの助言者たちが、もしこの危機が煮詰まり、打開されないままにしておくと、党は野党の要求に同情的である国会とパンジャブ州での何人かの議員を失うだろうとBhuttoに警告したのはこのときだった。パンジャブ州では州知事の無策によって経済的不安が広まり始めていたからである。国家、政治家、社会の様々な影響力のある分子たちが、自分たちのしでかした失敗が呼び寄せてしまった危機的状況へ民衆の注意が向くのを塞ごうとして、もしくはその注意を逸らそうとして、宗教的プロパガンダを利用しているとしばしば批難されてきたが、まさにその通りなのだ。そしてこうした問題の背後には、この国のイスラーム社会が育んできた宗教感情をめぐる長い歴史がある…」。
 バングラデシュの独立は、パキスタン人にとってできれば避けたい話題だったにちがいない。私はLahoreに滞在していた二年間、学生はもとより、Lahoreの知人からバングラデシュに関して話を聞いたことがなかった。次第に、彼らの認識はお互いに収束し始めたようだった。しかしその分、私は蚊帳の外におかれはじめたような気がしてきた。それに議論の具体的な事例についてその詳細が解らなくなってきた。彼らはといえば、自身の意見を披瀝するにつれて気分が高まり、高まるほどに議論の内容の詳細さとそれを話す所作において熱くなるいっぽうだった。この国の人は議論することにおいて異様な逞しさを見せる。私はといえば、心身共に暑さで耐えられないほどだった。議論についていけないので、議論にも暑さにも息苦しさを感じる。それで私はしばし外の空気にあたろうと思い、こっそり教室を出ることにした。
 外はすっかり闇に覆われていた。見知らぬ土地なので西も東も分からない。その闇の中にいきなり足を踏み入れて、あたかも山道で迷って気分が動揺し、自己を失って酩酊するような感覚がある。そんなふうに、夜の闇はかえって人間の身体感覚を自律的なものへと移行させ、そしてそのことが逆に意識の平衡感覚を失わせるかのようだった。ただ教室の中よりは居心地がいいので、闇の中にいても安堵感に包まれていた。ふと耳を澄ませば、暗闇の向こうにJhelum河が流れる音が聞こえてくる。微かな音だが耳には感じられる。ふと息をすれば、夜の闇の中に充満する河の匂い、それにどこからか漂ってくる夜の花の香りがする。こうした一部の突出した感覚がさらに酩酊感覚を駆り立てるようだった。私は、私を包む濃厚な闇に酔ってしまったかのようだった。今さっきまでいたMaktabの中よりはずっと心地よく、私は教室の建物の端に掛かる廂の下に置かれたチャルパイ(簡易ベッド)に腰を下ろした。そして、いつのまにか横になって眠り込んでしまった。
 ふとからだがざわめくような感覚に目覚めると、Maktabの向かいのMazar(聖廟)に夥しい人が集まる気配が感じられる。しかし、闇に目を凝らすようにして見つめても、気配のうちに人影が見えるようで、そのくせかたちは定かにならない。闇の中で揺らめく影が暗い炎のように瞬いているのが見える、というよりは、ただそう脳裏に感じられるだけだ。あの影は何なのか。こんな真夜中に人が集まって何をしているのだろうか。助手に尋ねてみないといけない。そう思ってMaktabの建物の方をうかがってみる。と、教室の明りはまだ煌々と灯り、いつのまにか戻ってみると三人が声を上げて議論しているのが耳に入って来る。それからいつのまにか教室に入っている自分に気がつくと、彼らの議論の中身は先ほどとは違ったものになっていた。
 イスラームの政治化はパキスタンの建国理念に反している。イスラームが〈神の下の平等〉を説くのなら、それはまず社会主義に通じると主張するSaeedの意見を受けて、教師がそれをたしなめるように言う。「イスラームと社会主義との並立はとうてい認められない。社会主義には神がいないからだ。それでは社会主義に必要な土地改革さえ行なうことができないだろう。この国の人々とその土地所有との関係は極めて歴史的なものであって、それを神の采配によってではなく、制度によって決め直すことなどとうていできない相談だ。それに社会主義とはいえ、それはあくまでも人間がつくり出した制度だ。制度は人をしてその自然力の抑制へと追い込ませるだけだ。さらには人間の自然的な地位と諸能力の否認に至らせる。現に共産主義国家を見るかぎり、制度的社会を制御する者だけがこの抑制から逃れているかのように見えるわけだから…、つまり、もうそこに不平等が生じているのだ」。
 それならば、パキスタンという、現代において新たに創建された〈イスラーム国家〉とはどうあるべきなのか、そうSaeedが問いかける。このイスラーム社会に何か他の社会とは異なる飛び抜けた利点があるのだろうか。イスラームという理念を掲げるのなら、新たなパキスタンは、様々な民族と信仰をそのまま抱え込むことができるような、どちらかといえば歴史的な綜合として表現されるべきだろう、そう問いかける。
 教師は、「おそらく人間のつくり出した制度によっては、この国の、〈Dost Dushman(敵と味方)〉という考え方がどうしようもなくある社会を変えることはできないだろう。〈敵と味方〉という関係が根強くある社会は、かのホッブスが唱えた〈万人の万人に対する闘争〉という人間の自然状態が、そこに抱える欲望を抑制し、諸能力において譲歩しながら行き着いた帰結であると考えられる。社会は人のためにつくられるが、人はかえって社会のために犠牲を強いられる。なおかつ、多数が決めた社会の方向性に少数派は従わなければいけない。社会を維持するためにはいつだって誰かが割を食わなければいけないのだ。社会と個人のこうした逆説的で矛盾した関係についていえば、ホッブスが〈万人の万人に対する闘争〉という問題を解消しようとして解釈づけたその〈議会民主制〉の考えは、社会の制度を決める機関、すなわち議会のことだが、その決定機関への畏怖(Awe)に基づくものから発想されていると言わなければならない。つまり、社会制度の決定機関への畏怖の感情こそが個人の不満を抑えることができる、そう考えられているわけだ。いっぽう我々のイスラーム社会は、個人と社会の関係の正当性を神に託してきた。神は絶対的なものとして個人と関係している。神の名において、ということは深い信仰をもってして、そう言ってもいいが、イスラームでは社会と個人の関係には問題がない。つまり、そこには矛盾がないのだ」。
 そこに助手が決然として口をはさんできた。最初は口ごもっていたが、次第にその内容は明確になっていった。「我々人間の社会は、むろん人間自身がつくった制度によって成り立っています。社会主義の制度はイデオロギーによって決められるから、人間をしてその自然力を抑制させることになるのです。いっぽうの資本制社会も次々と新たな制度をつくり、あるいはあらたに決め直していますが、それは人間の欲望に深く根付いた制度だからでしょう。私は制度を強いるこうした社会に力点を置くよりも、どちらかといえば、社会の中の個人の在り方を見直したいと考えます」。助手の告白によれば、彼の家系はそう遠く遡らない時期にヒンドゥー教徒から改宗したムスリムであり、その経験から、イスラーム教徒とはいえ、その内部には様々な歴史環境を抱えている人がいるのだと言う。そうした視点から、社会の単位である<個>というよりも、内部に心身的な多層性を抱える<個人>を強調する。「今拝聴したところによれば、民主主義の〈個人〉にはいまだにホッブスの〈万人の万人に対する闘争〉の影が映し出されているのが分かります。つまり、<個人>を〈個〉という単位で見る見方があるわけです。そうではなく、〈民主主義〉における社会と個人との関係について、そこには新たに考えることのできる余地があるのではないでしょうか。それが、〈多層なものを抱える個人〉と、そうした<個人>を基盤に据える社会との関係です。〈多層なものを抱える個人〉は、社会主義社会や資本制社会における〈個人〉とは異なるのです。それはもう、一個の〈単位〉と考えることができません。たとえばこのJhelumの地に住むムスリムは、ムスリムでありなおかつパンジャブ人であり、パンジャブ人はかつてヒンドゥー教徒でもあったわけであり、またさらにはパンジャブが無定型な時代であった民族の流動状態をも引継いでいる人たちなのです。今はパキスタン人と言われていますが、そんな単純なものではないのです。ほら、ここにいるターヒルをご覧なさい、彼はムスリムであり、日本人でもある。いやもしかして日本が日本でなかった時代の民族的な流動状態をも引継いでいるのかもしれません。そうしたお互いに多層なものを抱えた存在がいつも出会っているのが、実際、この人間社会なのです。私は、まずみながお互いにそう考えることのできる社会概念から出発して、それに沿って議論できればと考えるのですが…」。
 突如として、議論は新たな振出しに戻るかのようだった。私は助手の指摘を受けて、いきなり三人の鋭い視線を浴びた。そのうえさらには、天井ファンが吹き付ける熱風が肌を刺すようで、からだ中がちくちくと痒くなった。

 翌朝、私はMaktabの外に置かれたチャルパイで目が覚めた。全身を覆っている白い綿のシーツのいたるところが血で真っ赤に染まっている。どうやら一晩中蚊の襲撃を受けたようだ。むきだしの脚部や上腕部がひどく刺され、そこに小さな紅い斑点が無数に連なるのが目に入ってきた。しかし、痒みはもう治まっている。夕べSaeedが外で寝ている私のところへやって来て、教室の中は熱気が籠ってひどく暑いので、熱気を避けるためにチャルパイを外に出して寝てもいいが、その代わり蚊に襲われるがいいかと聞く。つまり、暑さか蚊の襲撃かの二者択一を迫られ、蚊の襲撃に備えてシーツを被って外で寝るという選択を昨夜したのだった。昨夜の記憶が断片的に再生されるが、二日酔いでもあるかのようにすぐに朦朧とした意識のうちに沈んでいく。私はまだ横になったままだった。Maktabの方を見ると、Saeedと教師も教室の外の廻廊にチャルパイを出して寝ている。私はチャルパイから身を起こし、寝不足気味の頭をぼんやりさせていた。すると、早くもそこに身支度をした助手が現われた。ここから二マイル離れたところにある学校へこれから教えに行くのだと言う。昨夜、Mazarにたくさんの人が集まっていたようだがと私が言うと、怪訝な顔をされ、「いい夢でも見たんだね」と、冗談めかした返答が返ってきただけだった。
 私はチャルパイから離れ、足下のチャッパルを履き、すぐそこを流れるJhelum河を眺めに行く。静かな流れだ。流れに見入っているとShah Sahabがやって来た。朝の挨拶を交わすと、二人で黙ってしばしJhelum河の流れを眺めた。中州に水牛の群れが戯れている。一人の老人が小さな船を操舵してこちらの岸辺からゆっくりと中州に行くところだ。水牛の持主か、それとも番人か。棹の竹が大きく撓っている。「ずっとこんな光景だ」、そうShah Sahabが穏やかな口調で私に声をかける。豊かな河の流れとその河を拠りどころとする生活は昔から変わりない光景となっているようだ。私はその変わることなく続く時間を味わうかのように河の光景に見入った。永遠の感覚は自己の意識が制約されたところに生まれるという。それも、そこに〈世界〉を信ずる姿勢があってこそである。しばらくして、私は戸惑いながらも、Shah Sahabに〈印パ分割〉について尋ねてみた。Shah Sahabの返答は、「難民状態は人から尊厳(Izat)を奪う」、と言うものだった。私が黙っていると、「Izatの意味は分かるかね」と私に念を押すように言う。私はIzatの語義的な意味は分かる。が、Izatとは自然状態にあるものではない。それは人と人との間に生まれる思念であり、それはまたある種の力でもある。人に尊厳を抱く人は、その人自身にも尊厳の状態が生まれ、それゆえ尊厳とは何かを知ることになるだろう。そうでなければ尊厳という言葉は成り立たない。それは人と人との真摯な関係性のうちに姿を顕わす現象的なものであるからだ。そのように現象的に存在するという意味で言えば、私にはIzatを弁えていると言う自信がなかった。そのことを察してかどうか今では分からないが、「私たちにはいつだってIzatが必要なのだよ」、そうShah Sahabは繰り返し私に念を押した。
 それに続けるようにしてShah Sahabが話をし始めた。昨夜〈Ahmadiyya問題〉について議論をしていたのをすでにShah Sahabは知っているようで、先代のMulangは、LahoreにあったAhmadiyyaのカレッジに入って勉学したと言う。1920年代後半のことらしい。しかし、Mulangは植民地政府に抵抗していたが、LahoreAhmadiyyaは植民地政府に協力的だったようだ。「このMaktabができたのは1932年だ。先代は植民地政府のために働くことを嫌っていた。そういう人物だったのだ。それで、その反帝国主義的な言動のせいで、植民地政府から圧力をかけられていた。そうしたこともあり、Ahmadiyyaの友人はMulangに失望してしまったのだ…。その状況は複雑だが、むろんAhmadiと私たちの間にIzatが必要であることは言うまでもない」。
 私はパキスタン近代史の「状況の複雑さ」を思い、自ずと口を閉ざしてしまった。すると、「ほら、Naseemだ」、そうShah Sahabがにこやかな表情をして声に出す。私は誰かこっちへやって来たのかと思い、すかさず辺りをうかがった。「朝の涼しい風をNaseemと言うのだよ」、そうShah Sahabが言う。「ナシーム」、美しい音だ。その音感にすばらしいものが含まれているような気がする。かつて耳にした音感が今でも遺っていて、いまそれを耳にすると途端にその音を中心にして意識の働きが広がるような感覚がある。というか、いままで微細に分散していたものがいっきに凝縮するような感覚がある。「ナシーム」の音がそれだ。「Naseemは人間ばかりでなく、草花や水牛にとっても心地よく感じられているにちがいない」、そうShah Sahabが表情を綻ばせて言う。それまで暑さによって自然と自分とが厳しく分け隔てられていたのが、Naseemに包まれることで、自然との分け隔てがとり払われるかのように感じられる。自然と人間との関係がそのようなものであることを、その関係が〈世界〉に通じるのだということを、Naseemに包まれることによって理解されるような気がした。これまで信仰が生き続けてきたところでは、つねに〈世界〉と人間の関係についてその思考が費やされてきた。そうした思考の一片に触れたような気がしたという意味で、そのとき私にとってShah Sahabは、やはりイスラーム賢者の伝統を受け継ぐ人のように思われた。
「八時だ。そろそろ生徒たちがMaktabへ集まって来る」、Shah Sahabはそう言い残し、その準備に取りかかるために、おそらくいつもと変わらぬゆったりとした足取りでMaktabの中に入って行った。