Sunday, July 04, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

 三 パンジャブ回廊


 4 Maitreya(弥勒)信仰とKushan王朝

  Peshawarはパキスタン北西部の中心都市で古くはPurusapuraと言った。Kushan朝のKanishka(二世紀前半?)によって夏の首府が築かれ、ガンダーラ地方の中心都市として栄えた。当時の人口は一説に十万を越えていたという。Kushan(45年〜375)は<パンジャブ回廊>を呑み込むようにして北西インドと中央アジアを中心に築かれた帝国で、およそ三百年余りの間続いた。その領域はパミール高原を含む広大なもので、多様な民族と文化を抱え込み、Kushan族について何かしら特定するのは難しい。その彫刻像からして、遊牧民特有の革製のタイトな服を身につけ、ズボンにブーツを履いていたようだ。文字をもたなかったので先例に倣ってコインにはギリシア文字とカロシュティー文字が使用されているが、まとまったテキストを遺していないので彼らがどんな考えを抱いていたのか分からない。「Kushan」の名は、前135年頃に東トルキスタンから出てOxus河流域地帯にまで移動していた月氏()の一部族である「Kuei Shang(漢字で貴霜[Guei Shuang]と表記)」に由来するとされ、一説には月氏()は原アーリア人が東トルキスタンへ移動(1800年〜前1000年頃)してTochara人となったその系統の遊牧民であるという。その場合、Tochara語かどうかは分からないが、彼らはアーリア語系の言葉を話していたことになる。Kushan族が侵入するまではガンダーラ地方はギリシア人のBactria王国やイラン系のParthia王国の支配下にあった。すでにそこにはゾロアスター教やイラン系の様々な信仰が入っており、Kushan族の中でもゾロアスター教が優勢であったと思われるが、Kanishka王は仏教を手厚く保護し、その結果、様々な民族の手になる様式と内容による仏教美術の黄金時代を見ることになった。

 私が訪れた頃のPeshawarは旧市街に中央アジアの陰影をまだ遺していると言っていいような魅力的な街だった。街行く人々は様々な顔つきをして、様々なキャップを被り、中には肩に長銃を担いだ者もいて、「frontier(辺境)」という言葉が実に似合う場所だった。名高いQissa Kahani Bazarを通って旧市街の外れに出るとPeshawar博物館がある。ガンダーラ出土の仏教美術品のコレクションを中心に展示している小さな博物館で、初代館長はAurel Stainだったという。そこで私は口髭を生やした青年風の菩薩立像を初めて見た。体つきは逞しく、長髪をバンダナのような装飾具で束ね、足にはchappal(サンダル)を履いている。その両目は真っ直ぐ前に見開かれている。最初は違和感があったが、そのギリシア的な風貌に何故かすぐに私は慣れてしまった。上半身は裸で、腰に巻いたdhoti(腰布)を袈裟懸けに纏い、瓔珞や臂釧で身を飾るのは東アジアの菩薩像と同じである。頭部には光輪を背負っている。髭を生やした仏陀像はシャカムニであるFasting Buddha像にしか見られないが、当時の菩薩像には口髭を生やしたものが圧倒的に多い。おそらくそれらの像が制作されたKushan朝の時代を反映しているのだろうが、髭を生やしているのはまだ覚醒状態(buddha)に至っていないbodhisattva状態を示しており、そうしたbodhisattvaを自覚した、sangha(仏教徒共同体)に所属しない青年修行者が普通にいたのだろう。数ある仏像の中にMaitreya(弥勒)菩薩像もあった。これもたくましい体つきをした男性像で、長髪で口髭を蓄え、彫りの深い顔つきをしている。日本で弥勒菩薩像といえば仏像彫刻による抽象表現の極致だが、それはおそらく観想用に定型化されたものであり、もとからそうであったわけではない。当時Maitreyaはことに「救済者」として北西インドで信仰されていた。「救済者(taraka)」とは「彼岸へと渡してくれる者」の意で、「大般若波羅蜜経(Mahaprajnaparamita Sastra)」に、「buddhadharma(覚醒した目から見た現象世界)は大海であり、信仰心をもつとはこの大海に乗り出すことであり、智慧がtaraka(渡守)となる」と述べられている。したがって「taraka」が「救済者」であることは一般には河の向こう岸へ船で渡す「渡守」から連想されただろうから、それは身近にいる人間の姿をしていなければならないのかもしれない。興味深いのは、この救済者/渡守という考えが、ザラスシュトラの教えにある死後に人の魂を審判する想像上の「チンワット橋」と、「渡る」ことによって彼岸に至るという点において通底していることである。

大乗仏教の中央アジアへの広がりはKushan朝という異民族による北西インドへの侵入と切り離せない。つまり、仏教の教えは古来異民族による往来盛んな<パンジャブ回廊>において様々な民族に受け入れられることで大きく変容し、そのことによって中央アジア、さらには東アジアにまで広がったのである。仏像が造られるようになったこと、それによって観想法が定着したこと、さらには観想体験によって「救済」の考えが確立されたことがその大きな理由であるのに違いない。大乗派が前一世紀頃に南インド(Andhra Pradesh)に現れたのは、支配者間で争いに明け暮れる当時の社会状況が影響しているようだ。そうした不安定な状況において他者を救済するという大乗派の運動が目的とするその救済とは、人々の心の不安に対処することであり、すなわち現世における心の救済であり、信仰心をもち智慧を達成することであり、彼岸への救済ではなかったはずである。そうした現実的な意味において、「Mahayana(大乗)」の「yana(乗物)」とは具体的には「渡し舟」を示しているだろう。当時は河には橋はかけられず渡し船が一般的だったという。その後、説一切有部(Sarvastivadin)の勢力圏であった一〜五世紀の北西インドでMaitreyaによる<救済>の観念は<救世主>思想へと変容していった。一世紀の北西インドにはすでにAmitabha信仰が流布しており、西方浄土の思想と共にそこには様々な形による西方文化の影響があったものと考えられる。そこで大乗派の考えは内側から変容せざるを得なかったというよりも、Kushan族のような異民族の信仰者が積極的に教えを変容していったのではないだろうか。このことは大乗経典の翻訳者に中央アジア出身者が多いことによっても推測される。大乗仏教はそうした変容を取り込むことで、異民族の侵入によってインド全土に急激な社会変化と新たな秩序を見るのと同時に展開された瑜伽行者派(Yogacara)と中観派(Madhyamika)という二つの主要な思想体系以上のものになったのである。

Maitreya」の語はサンスクリット語の「maitr(友愛の)」に由来し、「友愛者(もしくは友愛で繋がる者)」の意である。「maitr」の語はVeda期のMitra神の「mitr(結びつき・契約)」にまで遡る古い語である。Maitreyaについて最も早くに言及しているのはパーリ語の「Digha nikaya(長篇集録)」の中の「Cakkavatti Sutta(転輪王経)」で、それによれば、Maitreyaは人間が善法を復興して再び八万年生きるようになったときにKetumati(Varanasi)で生まれるだろう。そのときの王はCakkavatti Sankhaで、素晴らしい宮廷に住んでいるだろう。そこはそれ以前にMahapanada王が住むだろうが、王は宮廷を人に譲りMaitreyaの信奉者になるだろう、と述べられている。この内容は<救済者>の概念からほど遠いものだが、後に述べるようにMaitreyaの本質的な性格を言い表している。そして打って変わって、Maitreyaが将来の仏陀としてこの世に現れ、人々を救済するという仏陀による予言が「Maitreya Vyakarana(弥勒下生成仏経)」に述べられている。このように将来Maitreyaが仏陀となって地上に現れ法を説く「下生経典」に対して、Tusita(兜率天)Maitreyaが法を説くこと、すなわちTusita天で人間が善法を復興するまでMaitreyaが待機していることを主たる内容とするものを「上生経典」と言う。つまり、Maitreyaによる<救済>をめぐっては二つの異なる考えがあったということである。仏陀には過去に何人かの前身が現れ、また将来も別の仏陀によって受け継がれるという話はAsoka王の時代(268年〜前232)にすでにあったようだ。こうした未来の仏陀として現れるMaitreyaについての予言は仏教徒の全ての部派の文献で述べられており、その内容についてもほとんど同じであるという。上座部(Sthaviravada)のような旧守派までがMaitreya(菩薩)だけは認めており、その信仰を否定していない。多くの仏教徒には、仏陀と同じ時代にMaitreya(Tissa-Metteya)という人がいて、仏陀に帰依してすでに菩薩の<道>を実践していた、そう考えられていたようだ。仏陀は無限の寿命をもつが、その教えの存続には限界がある。なおかつ初期の「Anguttara nikaya(増支部集成)」には将来仏陀の教えが衰退するとも述べられている。それゆえ、過去の仏陀がシャカムニとして現れたように未来においてはMaitreya仏陀が現れる、そう期待されるようになったのである。ただし<救済>に関わるMaitreyaの在り方については異なる考えがあり、共有されていなかった。いずれにしてもKushan朝で最も広範した菩薩信仰は「将来やって来る救済者」Maitreyaに向けられたものであり、399年に中国の地を発ってインドに向かった法顕が述べているように、Maitreya(菩薩)崇拝は当時の北インドで最も盛んなものだったのである。

 

初期の匈奴(前三世紀〜一世紀)がそうであるが、ある程度の規模の遊牧社会は自らの牧畜生産物を定着民の農産物や工芸品と交換したがる傾向にあった。しかし、その交換の仕方は定着民の慣習である市場での自由売買や制度的に裏づけされた契約売買といった仕方によるのでなく、自ら定着民側にやって来て一方的な価値判断によって物と物との交換を強いるという仕方だった。むろん事前の通告もなかったはずだ。これは定着民側からしたら交換の強制、すなわち強奪とみられたに違いない。とはいえこうした状況を見ると、ザラスシュトラの時代やVeda期の遊牧(放牧)社会と異なり、周囲の定住民による交換経済の発達と共に遊牧民の生活行動も変化していったことが分かる。彼らは定着民の交換システムに暴力的に関わるのと同時に、交換を目的とした新たなネットワークを遊牧部族間で広範囲に形成し始めてもいたのである。こうした遊牧民の交換意欲は、彼らがシルクロードの交易に介入するようになったとき交換をめぐる活動をいっきに活発化させた。彼らは長距離を移動する交易者に安全な移動を保障する代わりに物品を掠め取るような仕方でまず利益を得たわけだが、もともと交換経済に意欲をもっていたため、物品で利益を得るよりも通行税を取るような仕方で抵抗なしに貨幣経済に入っていくことができた。さらには長距離交易の間に入って交易を仲介してマージンを得る一方で、交易者に食糧や商品運搬用の家畜を供給した。その結果、遊牧生活を放棄することなしに膨大な富を得ることになった。当初、ユーラシアの交易ルート一帯を支配していたのはスキタイ族で、彼らは獲得した金を加工して見事な装飾品をつくっている。それを見れば分かるように、彼らはことに動物の<デザイン化>に優れていた。前三世紀から三世紀にかけてローマ帝国と漢が隆盛し、ユーラシア大陸の東西での交易が盛んになった。というよりは、遊牧民が分散的に創り出していた交易ルートに東西の帝国が参入してきたと言う方が現実に近いだろう。交易をめぐる主導権争いが始まり、スキタイや匈奴は討伐の対象になった。Kushan朝は王朝初期(一世紀)に、交易をめぐってローマと敵対するようになっていたOxus河流域を支配していたイラン系のParthia王国を西方へ追いやり、さらにはインドへの交易路であるKabul地域を支配し、自ら東西交易ルートを支配するようになった。ローマ帝国と漢との長距離交易を仲介する位置にあたる中央アジア一帯を統率することで、さらにはローマ帝国とインドとの海洋貿易に介入することで、ローマ帝国の金貨がKushan朝の下に大量に入ってきた。その金を使ってKushan朝は独自の金貨を発行し、さらには新たにいくつもの都市を交易ルートに建設し、東西の商品を集積して交易の核となるような場を設けるといった新たなかたちの交易ネットワークを創り上げることに着手した。すなわち、それまでになかったような世界的規模の交易活動の<デザイン化>を推し進め、その業務を見事に果たしたのである。もはや移動生活を捨てて都市に定着するようになると、領内の農業生産を増やすために農地を灌漑し、地域権力をも交易ネットワークに取り込むことで領内の異民族同士の交易もさらに活発になり、地域社会の安定化を実現させた。そしてその結果を見れば、彼らはOxus河流域から北西インド、さらには中央インドにかけて、ハラッパ文明以来の都市文化と都市ネットワークによる交易社会を創り出すまでになった。それがガンダーラ文化を生み出すことになる基盤である。

まず一連の城塞都市が中央アジアから北西インドにかけて計画的に築かれた。城塞内部は主に宮殿と寺院、作業場と住居で成り立っていた。宮殿のある要塞は高い土台と堅固な城壁で囲まれ、内部の部屋は広々として天井も高く、壁画や彫刻で装飾されていた。中でも現在のKabulの北方に建設されたBegramは特徴的な都市である。城塞内部の宮殿に沿って大通りがあり、その大通りの反対側には店舗が並び、奥には区画された作業場があった。そして店舗には、インド産の象牙彫刻や宝石、ヒマラヤ産の香料、中国産の絹織物や漆塗り箱、エジプトやローマ産のガラス製品や青銅製品、石膏材の装飾レリーフ、その他シルクロードの交易品が並べられていた。おそらくそこで売られていたものだろうが、それらはまた注文に応じて調達もしくは複製できるものの目録品でもあったと考えられている。そうだとすれば、 Begramには多彩な職人が住み、多様な資材が運ばれてきたはずだ。またOxus河沿いの都市Termezの北方に位置するKhalchayanには前一〜二世紀の宮殿遺構があり、その内部の壁は土製彫刻や絵画によって装飾されている。絵画や彫刻は以前からあったどの都市にも匹敵する洗練度で表現されており、その装飾内容からして、月氏族が遊牧社会から定着社会へ移行したことの証拠とされている。この他にBactria南部のSurkh Kotalにはゾロアスター教の巨大な拝火神殿が建造された。広々とした階段が神殿へと導き、多くの者が参加して拝火儀礼が行われたと想定される。また西トルキスタンのMervKushan帝国下での仏教都市として知られ、それはおそらくアジアで最も西に栄えた仏教都市であった。そしてPeshawarでは、Kanishka王によって多くの仏教寺院と巨大なストゥーパが建造された。

インダス河口にはBaryagaza、インド西海岸のCambay湾にはBarbaricumの港があり、北インドから中央アジアにかけて支配するKushan朝が成立したことで、アラビア海沿岸からTaxilaPeshawarを経由し、Kabul河に沿ってBactriaに出て、そこからOxusを船で行き、アラル海まで出ることが容易にできるようになった。当時は水量も豊富で、アラル海からカスピ海へ、さらには黒海にまで出ることができたという。むろん、Begramは北西インドからインダス河に沿ってアラビア海に出て、地中海にまで繋がっていたことになる。その交易状況を見ると、インドからは、胡椒・生姜・サフラン・キンマ等の香料、香水、それに白檀油・甘松・麝香・肉桂・アロエ等の薬剤、さらには漆、そして藍・辰砂等の染料、絹、米、砂糖、胡麻油・ココナッツオイル等の植物油、綿、チーク・白檀・黒檀等の貴重木、真珠、ダイアモンド・ルビー・サファイア・碧玉等の宝石、象牙、珍奇な動物、そして奴隷などがある。反対にインドへ流れ込んで来たものは、金・銀の貴金属、銅・錫・鉛・アンチモン等の非鉄金属、馬、紫染料、珊瑚、ワイン、奴隷、美術陶芸品、ガラス製品などがある。こうして物品を列挙すると、当時の物流状況と人の欲望対象がよく分かる。例えば「Mahabharata」には、中央アジアの様々な使節団がYamna河沿いの首府Indraprasthaにやって来て、 Kuru王のYudhisthiraへ贈り物を献上したことが述べられている(II-47)。その中でBactriaからは「程よい大きさで美しく染め上げられ、心地良い感触の羊毛布」、様々な織物、羊皮、武器、宝石、そして中央アジアのSaka族やTochara族からは「長い距離を走行可能な」馬がもたらされるのが通例だったとある。Kushan朝がすでに存在していた無数の個別の交易ルートを繋ぎ合わせ、帝国を越えて広がる世界的交易ルートとして形づくることができた能力は、この時代における欲望を満たすためのずば抜けた経済感覚によるものであったろう。<デザイン化>とは欲望の流れを設計することであった。またそれまで個別の交易ルートを利用していた領土内の交易民は、それまでの支配者の場合と違ってさらに多方面にわたる大陸横断の交易ネットワークを創出することに一致協力することができた。こうした点についてもKushanの遊牧民性を考えずにはいられない。Kushan朝の<傘下>に集まった多様な利益集団は、それが遊牧民であろうと定着民であろうと、放牧民であろうと農業民であろうと、高地民であろうと低地民であろうと、商人であろうと原料供給者であろうと、原料産出者であろうと商品生産者であろうと、宗教人であろうと世俗人であろうと、彼らはこの<初期シルクロード>の時代にアジアのどこにでも見出されるような均一的な人たちではなかった。Kushan朝はこれら異なる全ての人々を一緒にまとめることのできる帝国を築いたアジアで最初の王朝だったのである。

領土が拡大するにしたがってKushan族は定着生活を選び取るようになった。定着によって農業生産力が増大することで必ずしも農業文化が遊牧文化を急激に凌ぐといった影響を与えることはなかったが、彼らは遊牧生活的な過去をより象徴的な形で定着生活に繋げていったと思われる。交易活動の<デザイン化>という、次々と欲望の流れを設計する局面に現れているのはかつての遊牧活動を象徴的に継承する形ではなかっただろうか。定着生活と交易活動の拡大による地域の政治的安定は人口を増加させ、食料生産物への要求がますます高まるようになると、新たな用水路がOxusSyrdarya()の間の各地域で造られるようになった。それらは以前のものと比べてより狭くより深く掘られ、同時に農地の端にではなく、主要用水路から鋭い角度で枝のように張り巡らすようにして農地の真ん中に掘られるようになったことが考古学的に確認されている。ペルシアのカナートは名高いが、古来よりOxus河下流域のKhwaresmでも灌漑技術者を養成していたと言われるほど灌漑への関心が高かったようだ。多くの灌漑事業によって以前は不毛であった(現在再び不毛であるが)海抜の低い土地がオアシスとなり、人も住めるようになった。領地内での農業生産は飛躍的に増え、農業従事者の居住地は丘陵地帯にまで広がった。都市には奴隷所有のシステムがあったが、領土の大半の農業地域では共同体内の自由民が部族や家系を軸にして旧来の生活を維持していた。こうして広大な領地における農業を主体とした様々な民族を含む混成社会をKushan朝が治めるようになったとき、その様々な民族とはすでに述べたように、様々な環境に住み、様々な労働に従事し、様々な信仰をもち、旧来の様々な言葉を語り、様々な文化をもつ民族であり、それぞれが独自の伝統と生活様式をもつ多様な民族であった。それにもかかわらず、Kushan帝国は帝国内で通ずる公的言語を設けなかったようだ。唯一ペルシア語のBactria方言であるAryan語が地域内の臣民が理解できる言語としてあり、数少ない石碑文が改定ギリシア文字で遺されている。Kushan朝はそれ以前の月氏族のままであるかのように領土の境界に関心がなかったようだが、公用語をもたなかったのもおそらく帝国が中央集権化されなかったことに由ると思われる。周縁の地域支配者はKushan朝の宗主権を直接的には認めていなかったが、交易による富を得んがために進んで王朝の協力者になった模様だ。かつてハラッパ文明は長距離交易を含む交易ネットワークを展開させたにもかかわらず文字をもたなかったが、交易を展開するだけならば限られた言語記号で事足れるということなのか。Kushan朝は王朝当初からコインを発行し、「Kushan」の語が初代Kujula Kadphises王からギリシア語かバクトリア語のどちらかで常にコイン発行の際に使われている。コインの表面には王の像が示され、そして裏面には様々な神が描かれ、Kushan族が一つの信仰を強いることなく逆に領地内の信仰を政策的に利用したことが窺われる。公用語がなくとも、通貨がその代替の役割を果たすだろうと考えたということか。

KabulPeshawarを繋ぐルートの途上にあるHaddaは、Kushan朝支配下の一世紀から三世紀の間、いくつかの仏教寺院と巡礼施設を擁する街だった。そればかりでなく、そこには経典の写本作業と翻訳作業を積極的に推し進める施設があった。写本と翻訳は専門的な作業であり、専門職の僧か、中央アジア系の大乗派の者がそこにいたことになる。またギリシア人もしくはギリシア人によって訓練された美術家たちがいて、ギリシア的な彫刻を「製造する街」でもあった。というのも、23000という数の彫刻とその破片が出土したからである。その中には仏像もある。多くが塑像で、そのどれもが高度なギリシア様式で造られている。その作風は写実的で、塑像であるがゆえにガンダーラ地方の表現とは異なる独特の優雅さを湛えている。こうしたことから、Haddaには様々な民族から成る仏教関係者が共に生活をしていたと考えられる。HaddaKabulPeshawarを繋ぐ交易ルートの途上に位置し、仏教巡礼者も同じ道を通ったはずだ。仏教施設は交易者から何らかの支援を受けていた。交易者というのは土地から離れた者で、土地制度的な身分や関係による束縛から自由な身である。そうした状態が仏教の教えと結び易いことは知られている。そのことは遊牧民であった支配者たちも同じで、彼らはインドという土地に根付いたバラモン支配体制を牽制するかのように仏教を支援したようだ。土地を離れ、西方に向かうにつれて、西方的な考えに触れた交易者たちが<救世者>を待望する機縁があると考えられる。Haddaからさらに西方のKabul周辺にも多くの僧院が造られた。Kabulから南東のMes Aynakには銅鉱山があり、その巨大な銅鉱を見下ろす丘にはかつて十以上の僧院が群れ集まっていたという。いったい彼らは何を求めていたのだろうか。Kushan帝国が仏教世界を取り込み、さらには仏教が帝国内に広がるにつれて、交易システムの方が仏教の教えとその実践に影響を与えるようになった。以前は富と現生の快楽に加担することを<苦>とみなす信仰であったのが、交易が拡大するにつれて富裕な商人による金銭的かつ物質的後援を許すようになったのである。仏教巡礼者は交易者のルートをそのまま辿り、巡礼者の宿泊所は商人の交易場やキャラバン・サライの隣に(ときにはその中に)設けられた。こうしたシステムは巡礼者と交易者双方にとって好都合だった。巡礼者は旅の安全を確保し、交易者は信仰についてさらなる情報を得ることができたからである。Kushan朝が商業的な場と信仰的な場との間に創り上げたこうした共生関係は、それ以前は地域的なものであった仏教に成功の鍵をもたらしたとも言える。教えを広めるために僧は交易ルートを最大限に活用し、商人は市場での売買の後に仏教寺院に供物をして来世のために功徳を積むことができたのである。

<交換>というものが商品と共に流れる知識と思考にいかに関わっているか、Kushan朝は同時代の誰よりもそのことを把握していたようだ。Kushan帝国は領地内での人の往来を活発にし、その結果、人々のコミュニケーションを増やし、異なる思想を論じ、また受け入れる機会を増やしたのだと思われる。しかしその反面、富める者が富み、不正も増えたのではないかと思う。贅沢な物品の流入や飲酒も常態化しただろう。<救済者>としてのMaitreya信仰が広範したということは一部に社会不安が兆しているということであり、それは急激な生産とそれを消費する社会の出現にその要因があると考えられる。莫大な寄付を受けていた仏教徒共同体もこうした動きの渦中にあり、そのことはHaddaでの経典写本や翻訳作業のシステム化が活発な経済活動を基盤にしていることからも分かる。仏教の信仰システムは交易者の援助を受けて安定したものとなり、仏陀本来の教えを省みることなく自ら貨幣経済の中へ突き進んでいったのである。

 

Kushan族は交易を設計する感覚に優れ、都市を次々と築き、商品の流通を促すと共に貨幣経済を推進した。こうした経済感覚が信仰における超越性を呼び寄せることになっても不思議ではない。彼らは貨幣のようにどこにでも自由に往来し、異なる民族や慣習、言語に触れても動じない。こうした流動性が自ずと超越的なものを呼び込むのではないだろうか。彼らはもともと遊牧民特有のそれぞれの部族の神々を信仰していただろうが、遊牧をやめて定着し、Oxus河流域で領土を確保した時点でゾロアスター教の影響を強く受けたようだ。したがってこの場合の超越性とは、古代アーリア人が部族別に異なる天上の神との関係を築くといった慣習にではなく、自分が従うものには他者も従わざるを得ない、そのように自他を超えたものがあり、そこに人知を超えた力を認めるといった認識である。それゆえ、自身の利益を乞い願う供犠を放棄して、人知と(超越的な)天とを結ぶ火を崇める儀礼はすぐに採用できるものだったろうし、ゾロアスター教にはすでに自他を超える世界についての理論的な構築も用意されていた。広大な領土を治めるためには世界に関するそうした理念が何よりも欠かせない。それゆえ、世界に関する何かしらの理念を携えたKushan朝の影響下でガンダーラの仏教信仰にも超越的な面が入ってきたのではないかと思われる。超越性は商人のように土地を離脱して平等意識に芽生えた者も潜在的に望むものであり、<救済者>の思想と連動すれば世俗であればあるほどその影響を受けやすい。実際、それはすぐに形になった。Amitabhaの住む浄土を信仰することや<救世主>としてのMaitreyaを信仰するといった形がそうであり、そうした信仰を表現するイコン的な仏像製作、仏像礼拝、仏像観想といった信仰にまつわる形式がその例である。そうであれば、そのときガンダーラでは仏教の一大変化が起きたことになるだろう。

いま一度ガンダーラ地方の歴史的経過を振り返れば、仏陀が教えを説いた時期(前五世紀)、ガンダーラ地方はアケメネス朝の管轄下にあった。それから一時的にアレクサンダー大王の軍に征服されたが(320年頃〜)、すぐに前305年にはマウルヤ朝の支配下に入った。前190年に再びギリシア系のBactria王国の領土となり、前90年に東部イラン系の遊牧民Saka族に侵入されるまでギリシア人による支配が続いた。次に西部イラン系のParthia人がOxusから攻め入って来て占領した。前130年頃、Kushan族がParthia人をOxus河流域地帯から追いやって旧Bactria王国の領地を占領し、そこで定着し始めた。そして一世紀に入るとKabulまで支配地域を広げ、50年頃にガンダーラに入り、Bactriaとガンダーラを共に掌握した。したがって、Kushan族が到来するまでのガンダーラ地方には、ペルシア、ギリシア、Parthiaの外来部族の影響が様々なかたちで醸成されていたことになる。30年頃にKujula Kadphisesが月氏を統一してKushan朝が起こり、80年頃に王位に就いたVima Kadphisesの発行した金貨には王が両肩から炎を吹き出す像が刻印されている。78年〜115()に王位に就いたKanishkaは金貨の表面に拝火壇に手をかざす王の姿を描いたが、その裏面には仏陀の像を刻印するというかたちで初めて仏陀のイメージ()を表している。コインにおける王権の炎は明確なKushan的表現であり、Kushan族がゾロアスター教徒の拝火儀礼から影響を受けたことを証している。おそらく前二世紀のBactria定着時代にそうした考えが醸成されたのだろう。

Kushan朝が到来してガンダーラ地方は仏教の一大中心地となった。Kabul河とSwat河がインダス河に合流する盆地帯にはTakhte-bahiをはじめとする多くの寺院が建造された。とはいえ、それ以前のガンダーラ地方には外来部族の影響と共に土着の信仰も深く根付いていた。ことにインド全域に見られるYaksi信仰はハラッパ文明における聖樹と一体化した女性精霊に由来するものと思われるが、豊饒と多産を司る女神となり、ことにガンダーラ地方ではHariti(鬼子母神)という形になって信仰されていた。伝説によれば、仏陀がHaritiを改宗させたのはPeshawar 渓谷であったとされるからである。多くのHariti像が発掘されているが、仏陀や菩薩像がその姿勢や装飾など決められた規格内での表現であるのに対して、元来土着民に根付いていた神格は様々な形で描かれ、自由に表現されている。例えばコルヌコピア(豊饒の角)を持つHariti像がある。この表現自体はローマの影響だろうが、ハラッパ文明の印章には動物の角が女性精霊と共に繰り返し描かれてきたのである。仏教内部に取り込まれながらも、仏教に先行すること千年〜二千年、それほど長い間続いてきた信仰としてその本質は変わらず、仏教説話による加工によっても民衆の信仰形態には基本的に影響を与えることがなかったのである。民衆に潜在する心理がガンダーラ文化と共に具体的な像となって表されたということであり、こうした表現は何らかのイメージを形にする機会があれば必ず現れて来るものなのである。

Taxilaには一世紀頃の女神像があるが、二世紀になるとガンダーラ地方では仏陀像がいっきに製作されている。あたかも触媒が働いて化学変化が速やかに起こるように、あらかじめ励起状態にあった分子がいっきに結晶化して形になって現れたようだ。仏像製作は、仏教徒共同体に捧げられた記念碑、僧院、ストゥーパなどの建設と軌を一つにしている。中でも仏陀を人の形として表すものはガンダーラ地方とYamna河沿いのMathuraで同時に出現したが、両者は本質的に異なる様式の下に製作されている。ガンダーラ表現のように人の姿を描くのにリアルな表現はインドの美的感覚に反するので、Mathuraでは仏陀を表現するのに現実的な描写を和らげる試みがなされているようだ。またMathuraの仏陀像に捧げられた銘文には、彫像は「仏陀像」というより単に「pratima()」と述べられているものがある。銘文の中には「菩薩坐像」とその像を同定させるものがあり、また「仏陀坐像」とするものもある。彫像に関連して使われる用語は様々で、そのことはおそらく彫像の使用が異なることを示している。つまり、単なる崇拝の対象か観想用かである。

Kushan朝の彫像表現で最も際立った特徴の一つはガンダーラ地方からのMaitreya像が多いことだと言われる。ガンダーラ地方やその北部のSwatTaxilaなどでMaitreya像が数多く出土している。その作例は大小様々だが、おおよそ全長50cmから等身大ほどの丸彫りの像が全体としては多いようだ。それらは当地産出の石材による彫刻であり、また持ち運びに不便であることから、Maitreya信仰が当地で流行を見た可能性を具体的に物語っている。また菩薩形のMaitreya像が多いのが特徴的である。この場合、Tusita天のMaitreya菩薩にまみえることができるよう、彫像が民衆による崇拝の対象として使用されたと考えられる。Maitreyaは両手で転法輪印を執る場合を除けば左手に水瓶を持つ。禅定印を執る場合も組んだ両指の間に水瓶を挟み持つ。水瓶は油壺と解釈される場合もあり、その場合はメシア的な仮説が強く押し出されることになる。ガンダーラ地方は位置的にもペルシア世界に近く、ゾロアスター教の<救世主>による影響を色濃く反映しているように思われる。またガンダーラからは一世紀のAmitabha青銅像とAmitabhaの石像が確認されており、その時代に「Dhyani Buddha(観想に現れる仏陀イメージ)」としてのAmitabha仏陀の信仰が広範していたことをも示している。Amitabha信仰は北西インドが起源とされ、その教えはおそらく一世紀から二世紀にかけて展開された。Amitabhaの過去生とされる菩薩譚が頻出するように、Amitabha信仰は浄土経成立以前からあるようだ。もともとその名からしてAmitabha(無量光)信仰は西方の要素を強くもっているが、仏陀の慈悲を説く大乗派の考えの下でDhyani Budhhaという観想上のイメージが付随して、多くの人々に「浄土信仰」が広く行き渡るようになったと考えられる。Dhyani Budhhaという考えおよびイメージの基には「Samboghakaya(楽身[報身]/菩薩過程をすでに完成させた身体)」の考えがあり、仏陀はあらゆる方角に赴いてその姿を顕し、あらゆる人に教えを説くと考えられるようになったからである。さらに<浄土のヴィジョン>は、空間的な広がりの認識、ことに西方に開かれた世界観、そしてそこから様々な贅沢品が流入して来るという物質的な豊かさの感覚を現実に経験しなければ、そのヴィジョンは実際に観想できないに違いない。知らないもの、見たことも聞いたこともないものを観想するのは難しい。交易ルートの中心地としての北西インドはまさにDhyani BuddhaとしてのAmitabha仏陀を観想するのに適した環境にあった。こうしたことに比べれば、主にインド中原世界で展開されたNikaya仏教が説く「三界」はあくまでも観念的な現象世界に限られ、空間の広がりや多様性、運動性に欠けている。一方、大乗派が目を向けたSamboghakayaの身体レベルは、コミュニケーションのレベルと言われる無限の広がりを抱えている。都市の発達と物質的な豊かさ、それに伴う異民族との交流・交換は、コミュニケーション・レベルにおいてSamboghakayaの表現に拍車をかけたのではないだろうか。こうしたSamboghakayaの身体レベルはその性質からして潜在的な感覚神経にまで影響を及ぼすだろう。そのとき例えば、Yaksi-Hariti信仰の<母と子供>の関係は、Amitabha仏陀の信仰における<浄土と現生の人間>という関係に置き換えられる可能性がある。一部の女性にとって、自分だけが子宝を願うといった信仰対象が、そこに超越的なものが介在して、全ての者が平等に願うことができる浄土という対象があるといった信仰へと容易く移行できるのである。そこではまた母が子を包み込むという包含関係は、浄土が自分を包み込むという包含関係へと感覚的に変容され得るのではないかと思う。そしてさらに言えば、<浄土のヴィジョン>に初めから唯一神を想定している<Saosyant/救世主>の考えが加わるとき、西方のメシア的なMaitreya信仰が発生する可能性がある。浄土という<空間>を志向する局面から、<救世主>であるMaitreyaが出現する未来というその<時間>を志向する局面への移行に際しては、かなり研ぎ澄まされた超越性をめぐる思考が介在しているはずだ。イラン的思考の中には<時間>は天地創造以前から働くという考えがあり、グノーシス思想のように、現生を否定するような超越性が考えられようとしているからである。

とはいえSamboghakayaの身体レベルを考えるとき、ガンダーラの写実的な仏像は観想に向いてないのではないかと思う。仏陀の思考がそうであったように、むしろそこには内在的なものを表現しようとする傾向がある。いっぽう、それよりも観想に向いていると考えられる仏像がこの時代にある。ガンダーラからさらに西方の交易都市Begramを含むKapisi地方はVima Kadphises王が夏の首府を築いたところで、周辺にはいくつかの仏教寺院があった。その仏像表現はガンダーラのものとは異なり、明らかにKushan族の意図の下に製作された思われる稚拙さを含むが、その表現手法には観想を前提として造られたのではないかと考えられる点がある。観想の際にはイメージは定型化していた方がいい。KapisiKhum ZargarPaitava出土の仏陀像は肩から炎もしくは光線(prabha)を吹き上げている。これはVima Kadphisesの金貨像と同じイメージである。そしてPaitavaの仏陀像の足元からは水流が流れ出ている。これらの像は仏陀による「Sravasti(舎衛城)の神変」の場面を描写したものだが、仏像を含む全体の構図はそれが極楽の場面を表すと考えられ、Dhyani BuddhaとしてのAmitabha仏陀の信仰を具体化する用意をしていると思われる。というのも、肩から炎を吹き出した燃灯仏像(三〜四世紀)Amitabha仏陀のイメージに近いからである。炎を吹き上げたり水流が流れ出したりといった具体的な表現の方が観想しやすいのは、そのイメージが審美的な感覚に関わるよりも、観想する身体の神経にくまなく関わるからである。このように観想に特化した仏陀像が、仏教諸派の伝統をもたないより西方域で造られたようだ。本来Amitabha仏陀は四つのDhyani Buddhaによるマンダラ状のヴィジョンに関わるものであるが、「観無量寿経」ではAmitabha仏陀はSukhavati、すなわち「仏界」と関連し、信仰者がそこに生まれ変わることができる場を創出する姿として描かれている。Sukhavatiは仏陀が住む場でもあるが、こうしたAmitabha仏陀の独立した役割が、Dhyani Buddhaのヴィジョンが明瞭な形になった後に書かれた経典において主要なものとなっている。そこではAmitabha仏陀に関する主題は、仏界すなわち生まれ変わりの場であるSukhavatiに移ってしまっている。そして、その最も肝要とされる教えは、Amitabha仏陀をめぐる空間を極楽として観想することにある。こうした教えは神と神の国を想起させる。「観無量寿経」では、観想対象としてのAmitabha仏陀と慈悲の体現としてのAmitabha仏陀が結合され、Amitabha仏陀の誓願とその名を唱えるだけで修行なしに浄土に生まれ変わることができるとも述べられている。深い誓願は疑念に汚れた心を一掃するとされるからである。こうしたことからすれば、Amitabha仏陀の信仰をめぐる諸現象は著しく仏陀本来の教えを変えてしまったに違いない。Amitabha仏陀の信仰では、Nirvana(涅槃)は、罪人でさえ後悔することで永久に幸福になり得るような浄土に置き換えられ、その教えは、仏性が全ての衆生に備わっていると宣言した。そうした意味において民衆にとって崇拝する価値のあるAmitabha仏陀が提出されたことで、歴史的仏陀はといえば、永遠に全知なる最高存在へと追いやられ、実在的な面において後退せざるを得なくなってしまったようだ。たしかに仏教の指導者がその実践を時代に適合させ、仏教の教えをより魅力的なものにするためにイデオロギーの一部の内容を改変する可能性もあるだろう。例えば、仏陀が堰を切ったように人の形で表された一つの理由は、民衆が聖なるイメージを使用している領域に信仰が広がりつつあり、人々の要求にしたがって物理的な表現を許したからでもある。そして、それに輪をかけてKushan朝のコインに仏陀が描かれたことは、この時代に異民族の支配者が仏教と提携する価値へと大きな変換したことを示しているが、それは仏教が清貧と謙虚さを信奉することから離れ、交易と富を受け入れなければならないということをも意味するだろう。しかしながら、ガンダーラの寺院施設を飾る現生の贅沢な生活表現が来世の極楽生活を信ずることの裏返しとなっているというのであれば、それは明らかに仏教信仰の倒錯した状況を示していると思う。 

Maitreyaが将来の仏陀となるという伝承は北西インドの説一切有部系を中心に早くから知られていたようだ。また瑜伽行者派とMaitreyaとの関係は深く、ことに瑜伽行者派の創始者であるAsanga(無着)Tusita天を訪れてMaitreya菩薩に会い、教えを受けたという伝承は広く知られている。したがって、瑜伽行者派を媒介にしてTusita天のMaitreya菩薩への信仰が新たに展開されていた可能性も想定できる。しかし、その場合の<救済者>Maitreya菩薩を信仰する内容は、<救世主>Maitreyaを待望する信仰とは異なっている。順番としては、未来のMaitreyaによる救済について説く「上生経典」に後続するかたちで、現在のMaitreyaの行状を説く「下生経典」が成立したと考えられている。「上生経典」が目指していることの一つとして、「Tusita天にはMaitreya菩薩が待機している」ことを伝えようとする点がまず挙げられる。「上生経典」は「六観経(「観仏三昧海経(トゥルファン成立説)」、「観無量寿経(トゥルファン成立説)」、「観普賢菩薩行法経」、「観虚空蔵菩薩経」、「観薬王薬上二菩薩経」、「観弥勒菩薩上生兜率天経(五世紀))」の一つとみなされてきた。こうした観仏経典はその性格上極めて視覚的な内容をもっており、「上生経典」も西北インドで見られるレリーフ彫刻同様、<上生信仰>の隆盛とともにその制作を要請されたものであると考えられる。ガンダーラや後にシルクロード上のTarim盆地周辺の仏教信仰地で行われた観想が「上生経典」成立以後もMaitreya信仰と密接に関わることから、<上生信仰>が伝統的に大乗派の中の観想を重視するグループと関係し、その関係が長らく続いたことが想定できる。AsangaMaitreyaの関係はまた、歴史上の人物と考えられていたMaitreya-nathaに関わるものでもある。そのMaitreya-natha には、瑜伽行者派の主要論書であるMadhyanta Vibhaga(中辺分別論)」、大乗派の綜合書Mahayanasutra Alankara(大乗荘厳経論)」、そして「空性」に対して「仏性(dharmadhatu)」を説くRatnagotra Vibhaga(宝性論)」が帰せられている。あるいは、例えば「中辺分別論」はTusita天でのMaitreya菩薩の説法をAsangaが筆録して人間の言葉にして表し、約百十の詩頌としたとも言われる。このようにAsangaMaitreyaの関係におけるMaitreyaは、一方は歴史的人物であり、他方はMaitreya菩薩であるという複雑なものになっているが、それに輪をかけて複雑にしているのが上述の三つの論書を含む「Maitreyaの五書」と言われる実際に存在する作品群であり、その著者はMaitreya-nathaなのかAsangaなのかという問題である。以下、その問題について考えてみたい。

チベット人Taranatha(15751634)の「仏教史(1608)」によれば、Asanga(無着)Purusapura(Peshawar)で生まれた。ガンダーラ地方の仏教寺院が破壊の憂き目にあったすぐ後だったという。三世紀になるとKushan朝は東西に分裂し、その後ササーン朝が一時的に北西インドに侵入して来る。ガンダーラ地方の政情は急激に不安定化したと思われる。そして360年にはBactriaにいたKidara族が反乱を起こし、Kushan朝はまもなく崩壊する。Asangaが生まれたのがその頃であれば、おそらくKushan朝崩壊前の四世紀前半ということになるだろうか。いずれにしても、北西インドが社会的に不安定になりつつある時代にAsangaは生まれたと言える。Asangaの父は宮廷バラモン司祭で、彼はヒンドゥー教家系の長男だった。青年期に母親から学芸と科学の教育を受け、その全ての科目に秀でていたという。Kushan朝期の文化的柔軟性は社会にプラグマティズムの認識を広め、例えばこの時代にあらゆる宗派の僧や司祭は、薬学、音楽、文法学、天文学といった世俗の教えに日常的に関心を持ち、そうした学問を宗派の理論と共に奨励したというAsangaしかし、若い頃より宗教生活に傾倒し、他の学問の道には見向きもせずに仏教教団に入った。ガンダーラ地方には多くの寺院があったが、破壊された寺院もあり、Asangaがどこの教団に属したのかは定かでない。Pindolaという名の学識者の下でNikaya仏教と大乗派の教えを共に学び、その内容を理解することに秀でていたという。彼はこのとき大乗派に「改宗した」といわれるが、おそらく初めは「化地部(Mahisasaka)」もしくは「根本説一切有部(Mulasarvastivadin)」に属し、その後大乗派に転向したと考えられている。Tusita天に住むと言われるMaitreya菩薩と比べても劣らない大乗の優れた師から教えを受けるために、Asangaはその身を捧げる探求の道へと参入した。この探求の表向きの理由はAsangaが<空>の教えを測り知ることができないというものだったという。十二年間にわたる瞑想修行を積み重ね、その間様々な師の下で学び、その結果、師中の師であるMaitreyaに会うことができたという。あるいは、Paramartha(真諦/六世紀)の伝記によれば、Asangaは自分の理解に満足できず、瞑想中にその瞑想力によってたびたびTusita天を訪れ、Maitreya菩薩 から<空>について直接教えを授けられたという。インドの天界の考えではそれはsamadhiを通じて行くことができる処とされ、瞑想の熟達者が夜中にTusita天を訪れたという同じような経験を記録している例がある。とはいえ、この点については「聖人伝」特有の内容であり、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、その内容には無視できない事柄も含まれている。こうしたAsangaの行動はまだガンダーラ地方でのことかと思われるが、瞑想は人の住む処から離れたところでしなければならず、AsangaTaxila郊外の丘陵地帯か、それともガンダーラ南部に広がる荒凉としたPotwar高原で瞑想修行をしたに違いない。Taranathaの「仏教史」に戻れば、これもParamarthaの伝記と同じような内容であるが、AsangaMaitreya-nathaに伴ってTusita天に行き、そこで仏教の教義について詳しく教えを受けたとある。そして「Maitreyaの五書」と知られるものを持って地上に戻り、後にそれについて解説し、他の者に教え説いたという。そうした作業を進めるうちにAsangaは多くの弟子を魅了し、多くの作品を執筆した。彼はインド王Gambhirapaksaの注意を引き、その後、王の支援の下で多くの僧院、一説に二十五の僧院を設立したという。Asangaは瑜伽行者派に関する多くの文献、例えば「Mahayana Samgraha(摂大乗論)」や「Abhidharma Samuccya(大乗阿毘達磨集論)」などを著したが、「Yogacarabhumi(瑜伽師地論)」については様々な時代と論者のテクストを編集したものと考えられている。AsangaNalandaの大僧院で何年か教えた後に、Nalanda近くのRajagrha(王舎城)で亡くなった。Asangaの死後、実弟のVasubandhuAsangaの著作を広めると共に自らも作品を著して名声を得た。「仏教史」によれば、Asangaは仏教の全ての部派の教えを解説する能力によって名高く、大乗派とNikaya仏教の経典双方を分かり易く説くことができるという評判を得ていた。どんな経典も先入観なく教えることができると称えられ、全ての部派の仏教徒が彼から経典やAbhidharmaを学んだという。Asangaは鋭い知性を持ち、「誤った教義や誤った実践に従う者たち」を巧妙に論破することができた。またAsangaは出家者と在家の信者が共に学ぶことができるsangha(仏教徒共同体)を設立した。sanghaとそこで学ぶ者はAsanga個人の資産によって支えられ、それゆえ世俗の人々の崇敬を受け、みな広く経典を学んだという。このことは、Asangaの時代(四世紀)にはまだ大乗派がNikaya仏教と明らかに異なる別の教団を確立していなかったことを示唆している。

ざっとAsangaの生涯を見渡した中でも、AsangaMaitreyaの関係は注目に値する。この点だけが非現実的な説明によって曖昧にされ、Asangaの聖人的な性格を打ち出している。「仏教史」によれば、Asangaの主要な著作もMaitreya菩薩から直接受けた教えであるとされ、Asangaは「聖なる真理」の伝達者、もしくは来たるべき仏陀が送った使者であるという。Sthiramati(安慧/六世紀)によれば、MaitreyaAsangaの「Ista devata(守護神)」であったという。こうしたことから、Maitreyaを特別な師と考えるAsangaが瞑想(dhyana)によってsamadhi状態に至り、その状態で得た洞察力を後に駆使して作品群を著したという可能性は考えられる。しかし一般的には、聖人的なMaitreya-nathaは信仰上の空想的人物ではなく実際の人物であると学者たちによって認められ、それゆえMaitreya-nathaも瑜伽行者派の共同創始者の一人に数え上げられてきた。とはいえMaitreyaに関しては、例えばMaitreya-nathaという人物がAsangaに帰せられる著作に関して言及され、また研究者によっては「五書」の著者はAsangaその人であると考える者もいるが、そうではなく、おそらくもう一人の歴史上の人物である別のMaitreya-nathaがいたという説もある。Asangaと結び付けられるこうした付加的な存在があり、信頼できる資料はないけれどもその存在はつねにMaitreyaという人物であるとされてきたのである。こうしたAsangaの人生におけるMaitreya-nathaの存在は、瑜伽行者派の瞑想手引書である「Yogacarabhumi」の中の「Bodhisattvabhumi(菩薩地論)」の主題と思想に関連があるようだ。

Maitreya-nathaを伝説的かつ聖人的人物とする考えにはそれなりに十分な理由がある。聖なる菩薩のヴィジョンやその菩薩との出会いは大乗派の伝統で受け入れられてきた特徴であり、大乗派の教えの正当性を価値づけるものとみなされているからである。この種の価値づけが、Maitreya菩薩がAsangaの人物伝における物語の一部として難なく受け入れられている主な理由であると思われる。当時、北西インドでMaitreya菩薩を信仰し観想することが広く行われていたことはすでに述べた。したがって、Asanga自身がこうした風潮に関わっていると考えてもいいだろう。Maitreyaについてはほとんどの仏教部派の文献中に見出されているが、それによれば、Maitreyaは遠い将来に現れると運命づけられ、そのときMaitreyaはシャカムニが当時そうしたように再び法輪を廻すのだとされる。またMaitreyaは現在Tusita天に住み、そこで仏性への道の最後の段階を終えようとしている。将来来たるべきMaitreyasasana(正統な教え)の復活に関わっており、個人の倫理と社会倫理の衰退そして回復という文脈の中で、かくあるべきとされる姿が詳細に述べられている。それらの中で最も早く、そしてよく知られたものが最初に述べた「Cakkavatti Sutta」で表明されているわけである。おそらく「Bodhisattvabhumi」の著者はこの経典の内容に気付いていたと思われ、その中で非常によく似た物語が述べられている。「Cakkavatti Sutta」の主題は、世界における正当な秩序(Dhamma)を失うことによって倫理が衰退してゆくプロセスに直面する人類の描写である。倫理の衰退は堕落や混沌、そして戦争に導いてゆく。「Bodhisattvabhumi」でも<堕落時代>が述べられており、著者が「Cakkavatti Sutta」の予言通り世界が現実的に衰退期の状態に近づいていると信じているのがよく分かる。このことが現実的にKushan朝期の経済的繁栄とそれに伴う消費生活に関連していることは明らかだが、最後には倫理が再生し、人類史の新たな<黄金時代>が遠い将来やって来るとき、Maitreyaは来るべき仏陀であり、次なる正義の王に手ほどきをする教師であるという。両書におけるこうした予言的な物語におけるMaitreyaと人間世界との関係に注目すると、その重要な特徴は、世の中が底知れぬ低迷状態にあってもMaitreyaは人に倫理をとりなさないという点にある。むしろMaitreyaは世界が自ら進んで倫理を再生しようとするときに現れるとされる。物語の最悪の時になって、倫理的振る舞いにおいて徐々に人間世界の向上を引き起こすのは、一掴みの生き残った人間たちの徳である。それから、長い世代を介して正しい倫理の状態へと回復していくのである。Maitreyaが現れるのはこうしたプロセスが完遂した時のみであり、倫理をとりなす者としてではない。Maitreyaは復活の物語の完成者として現れるのである。

AsangaMaitreyaとの関係については、Asanga が熱心な祈りと瞑想を通じてMaitreya に接することはできるけれども、Maitreyaが世界に現れる時期は未だ来ないというのは明らかであるとされている。Maitreyaに会って言葉を交わすことができるのはAsangaのみであり、厳密にはMaitreyaは精神的な功徳に欠けている者には見えない存在ということになっている。こうしたAsanga-Maitreyaの関係と「Bodhisattvabhumi」の主題を考え合わせると、Asanga が直接にMaitreyaと会って共に作品を著したとされているそのことは、物語に予言されている倫理の再生の模範となる土台として、その教えに、それらの作品内容に、力強い信任を与えることになったのではないだろうか。そして、こうした観点からAsangaの研究活動とその宗教活動をみれば、Asangaは、将来のMaitreyaの現れを要求するより高い倫理的な状態に向かって人々を指導するという仏教の教えにとって最も重要な役割を果たすべく日々活動していたということがよく分かるのである。「Bodhisattvabhumi」はことに倫理(sila)に注意を向けるよう読者に促している。それは倫理のための行為の規定と、大乗派における「律(vinaya)」を構成する規則とその説明をするのに最も長い章を割いている。というのも、人類の復活をめぐる物語の論理は、復活という結果を追求するには倫理の再生が実現するまでMaitreyaは現れないと指摘しているからである。さらには、Asangaが他の菩薩ではなく、Maitreyaと親密に提携したという事実にもまた重要性がある。Maitreyaは仏教の最初期の層に由来し、仏教における全ての部派において崇敬されている。非大乗派の徒には採用されない大乗派の天上的な菩薩とは異なり、Maitreyaはすべての仏教徒から敬われる人物なのである。もしAsangaがもっぱら大乗派の菩薩であるAmitabha仏陀や他の菩薩と提携したのだとしたら、彼ははっきりと大乗派の趣向を示したことになり、その教えを非大乗派の徒に受け入れさせることはできなかったと思われる。Asangaという人物についての実際的な描写は、彼が仏教研究者にして哲学者であるのみでなく、仏教文献を広範囲に引用することのできる偉大な教師であり、仏教の教えを守るのに十全に装備した守護者でありまた布教者でもあったということを如実に示している。Maitreyaとの提携、大乗派以前と大乗派の知識を等しく備えていること、仏教の思考のあらゆる局面を体系化して人々に教えたというAsangaは、Maitreyaを将来する者という役割に関して強力なイメージを創り出していると言える。おそらく「Maitreyaの五書」の一部はAsangaかあるいは名の知れぬ大乗派の学究の手になるものであり、当時からか、それとも時代を経てMaitreya-nathaに帰せられたのは、仏教の衰退期にあってAsangaMaitreya菩薩との提携を強く打ち出し、その内容の正当性を価値づけるためであったのだろう。そう考えるならば、このことには、仏教信仰が大きな変化に晒された時代にあって、それに対処するための正統的な学問仏教からの強いアピールが感じられる。Kushan朝期を境にして仏教の教えとそれをめぐる在り方は元に戻ることができないほど決定的に変容してしまった。それ相当の切迫感があってこのようなAsanga-Maitreya像を打ち出すことになったのだろう。

 

仏教のさらなる知識を得るために中国の使者が中央アジアを経由して派遣されたが、中には天山南路から南へ道をとってインドに直接向かう者もいた。伝説的な「石塔」がそのことを暗示しているという。その「石塔」の正確な位置を知ることはできないが、Kashgar を「越えた」ところにある「パミール高原の駅停」という指標として記録されている。その指標は現アフガニスタンのWakhan回廊周辺にあったのではないかと考えられている。おそらくKashgar南のパミール高原に位置する現在のTashkurgan近くにあったのだろうが、そこは天山山脈を経由して中央アジアと中国を結ぶ主要回廊からは外れたルート上にある。すなわちそれはそれ自身で独立した別のルートであったが、商業的な<交換>のみでなく非商業的な<交換>も支えていたようだ。こうした二次的な毛細血管のようなルートはキャラバンには向いていないが、新たに続々と出現していたようである。こうした別のルートはその後も存在し続け、単なる移動、交易、文化交流のいずれに関わらず、その需要に応じたのである。Aurel Steinは北インドとTarim盆地を繋ぐルートを調査して、岩絵、無名の銘、仏教徒の手稿、銘のある彫像などを記録している。その後の調査は、それらがカロシュティー文字やソグド語、チベット語、Bactria語、漢語、Parthia語、中世ペルシア語、シリア語、ヘブライ語で記されていると述べている。様々な民族の者が何らかの意図があって細々としたルートを通って目的地に向かったようだ。インドから中国へ行く者と中国からインドへ来る者の旅中の想いはその目的が異なるために違ったものであったに違いない。私はインドから中国へ仏教を伝えに行く者よりも中国から仏法を求めてインドに来る者の方にどちらかと言えば想いが寄せられる。Chitral河の渓谷に沿って砂利道をジープで行くときに、その渓谷の深さと聳える絶壁に三蔵法師が見た光景はこれではないかと思ったことを今でも覚えている。ChitralからShandur(3738m)を越えてGilgitへ出た。途中は幾日も徒歩の旅で、宿もなく苦しい思いをした。Gilgit側に入ると厚い毛に覆われた駱駝を見かけた。後に中国との国境が開いたので、GilgitからKhunjerab(4693m)を越えてTashkurganを経由してKashgarにも出た。むろんバスの旅だが、悪路が続く厳しいルートだった。ここでも厚い毛に覆われた駱駝が放牧されているのを見た。苦しかった旅の経験を想い出すと、往時の人がパミール山中を徒歩で旅したそのルートを地図上で辿ってみるのだが、いまだに信じがたい気持ちになる。この地域には無数のルートがあり、何らかの理由があって中央アジアのルートを避けなければならなかった人たちが通ったと言われるが、その苦難を想像しようとしても想像し難い。せめて彼らの後ろ姿を見ようと思うのだが、それさえも影だけがぼんやり浮かぶだけで、焦点は定まらない。 

Sunday, May 30, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

  三 パンジャブ回廊

  4 瞑想の展開

 

シャカムニ(シャカ族の賢者)は断食したまま瞑想を続け、「私の皮膚、腱、そして骨のみが残り、血は乾き、肉は萎れたけれども、私は全き覚醒を得るまでこの座から決して動くことがないだろう」と考えた。しかし、極度に衰えた身体では<楽>は得難いと考え、河の畔に出て乳粥の施し物を受けて食べ、それから(後に菩提樹と呼ばれることになる)Asvattha樹の下に座し、再び瞑想に入った。「呼吸に意識を集中させ、初めて瞑想による意識の安定状態(dhyana)に入っていった」。それから段階的に、第二の安定状態、第三の安定状態、第四の安定状態へと進んでいった。そのようにして意識を構成している汚れを取り除き、明澄な意識に至ると、その意識を過去に生を受けたものを次々と想起する認識へと向かわせた。これは夜の初更に得た最初の認識だった。それから彼は多様な姿をした生命それぞれがその行いとかけ離れて、良い状態でまた苦難の状態で、消えそして再び現れ来る認識へと意識を向かわせた。これは夜の深まる時間帯に得た二番目の認識だった。次に彼は、それらの認識の痕跡を消した()認識へと意識を向かわせた。そして、()認識に向かわせた意識に没入してから七日目の終わりになって、「彼は意識の没入状態(samadhi)から抜け出すと、夜の間の起きている最初の時間帯に、物事がどのように生じているかについての<縁起>の知見を確かなものにし」、「我が無明からの解脱は不動である」と自覚した。そのとき、シャカムニはbuddha(覚醒した)者となった。

初期の仏教文献はヨーガや瞑想の実践について述べている。シャカムニがsramana(出家)となったときには様々なタイプの苦行者がおり、彼らが伝えていたものをシャカムニは借用したようだ。パーリ語の経典は、そのときシャカムニは飢えや意識を統御する目的で口蓋を舌で圧していたと述べている。瞑想する際には脚を組み、その踵を会陰にあてて圧する姿勢をとった。これはクンダリーニを刺激する現代的なヨーガの姿勢である。瞑想の実践を論じる主要な経典には「Satipatthana(意識を集中させることについての経典)」やAnapanasati(呼吸に意識を向けることについての経典)」があり、「Majjhima nikaya(中篇集録)」のような初期の仏教文献に含まれている。当時、dhyana(瞑想)samadhi(意識の没入状態)あるいはyogaといった方法がすでに苦行者たちによって心の平静状態を保つのに用いられていた。シャカムニはいくつかの大樹の下で瞑想している。樹木信仰は古来定住民のもので、ことに Asvattha樹はハラッパ文明の印章に刻まれており、その印章画の内容からしてそれが特別な樹であったことが分かる。Asvattha樹の信仰が広く行き渡っていたのか、それとも長い時間をかけてインド中原にまで伝わっていたのだろうか。

シャカムニは断食の苦行をやめ、Asvattha樹を背にしてまず四つの段階の瞑想に取り組んだ。その結果、意識は明澄になり、次にその明澄な意識を過去の生命を想起することに向かわせた。それからそこに次々と現れて来るものが無常であることに意識を向かわせ、次にそうした自身の意識の働きがもたらす現れを消したところに意識を向かわせ、その超意識ともいうべき相を経験した。その後、意識の没入状態から抜け出し、「縁起」の認識を確かなものにした。すなわち、「明(vidya)」から「無明(avidya)」へと、心というものが展開して来るそのプロセスを自覚したのである。

繰り返しになるが、このことを言い換えれば、最初の瞑想(dhyana)において、雑念が伴うことのない、ある主題に集中できる安定しかつ明澄な意識をまず実現させ、その状態において、具体的にある主題に繰り返し意識を集中して向かわせるという次の段階の瞑想(dhyana)にとりかかった。過去生を見るということは、生あるもの全てが条件づけられて生まれ、成長し、死についた、ということの認識を確認することである。生あるもの全ての意識はこの現世の流れの中で各々の意向によってではなく、他に条件づけられたものとして現象している、それゆえそれは確かなものではない、そうした認識を確かなものにしたのである。そして、その主題の内容として現れて来るものの痕跡を消した状態というのは、それは意識の集中というよりも、明澄な意識があるがままに働くような状態に留まること(samadhi)ではないだろうか。それは意識が概念形成の働きをすることのない<明>の状態であり、そうした<明>の状態を経験し、その経験の余韻を遺したまま意識がふたたび<無明>へと展開し始める場に確かな認識が立ち現れてくる。そのとき、意識があるがままに働く状態が主題形成するようになる意識活動のそのプロセスを丸ごと見た、すなわち直感的に見たことになる。

こうしたことから、最初の「catur dhyana/四段階の瞑想」は、「Yoga Sutra」などで言われる心身の平衡状態を保つ瞑想とは異なる瞑想の仕方であったことが分かる。それはまず何よりも明澄な意識の働きを実現させるための瞑想だった。そして意識の概念形成の働きに伴う迷妄を取り除き、心身の浄化を促進するためには、倫理的主題に向けた意識の集中が不可欠であったように思われる。それは、明澄な意識の場に明敏な認識力が働くよう導くためであり、各々の段階において明敏な認識力を働かせるための瞑想でなければならなかったからである。そのとき、明敏な認識力が顕す思考は、表象や対象を形成する思考から、直感的に現象の意味を自覚するようなものへと移行していったのである。

四段階の瞑想」によって明澄な意識を実現させると、シャカムニの瞑想は、「四聖諦(catvari aryasatyani)」と「縁起(pratityasamutpada)」という倫理的主題に意識を向けることで、その主題の意味を直感的に捉える方へと展開されていった。「四聖諦」とは「四つの真理」の意で、それらは、人間の(生・老・病・死をめぐる)苦は現存在における生得的なものであること、苦の意識は執着と共に生まれること、苦の意識は執着を断つことで終わらせることができること、執着を断ち、苦の意識を終わらせることのできる<道>があること、の四つである。これら、苦の意識による膠着状態、苦の意識の始まり、苦の意識からの解放、解放に向かう<道>という四つの真理とは、ある意味で世界にインストールされた私たち人間の限界的な状況と、その状況が人間のためにいまだ保持している可能性とを言い表しているように思う。そして、この限界的な状況が、「これを条件としてあれがあるという現象の生起」を意味する「縁起」として言い表され、それはまた、自身の心をも含めたあらゆる現象の成り立ち方をも示していると直感された。すなわち、「無明(根本的無知)によって、生活作用その他が生ずる」と言われるように、この「縁起」という網状をした世界原理を現象させている、私たち人間にとって最初の構成要素であるものが、認識の働きという励起状態が、表象や対象を形成することで低下すること(avidya/無明)である。この励起低下(それと共に知性の働きも低下する)は、二つ目の構成要素である、現実を構成する働き(samskarah/人の行い)と結びついている。人の行為は、私たちの現実感覚がつねにそれ以前においてすでに評価された現実感覚に基づいているという事実からすれば、その実際の働きにおいては各々の倫理的な<姿勢>を前提としている。そしてその<姿勢>は、三つ目の構成要素である知覚の働き(vijnana/)に結びついている。その知覚の働きについても、ここでは個々の知覚による実際の判断というのではなく、すでに評価された判断に向かう否応のない流れとしての働きと考えなければならない。このような仕方で「縁起」は生起している、そう仏陀は自覚したのである。そうであれば、人間をめぐる限界的な状況が、限界的であるにも関わらずいまだ可能性を保持しているというその可能性とは、「縁起」を丸ごと自覚し、現象が展開してくるそのプロセスの流れを遡行するようにして逆に進むところに見出せるだろう。それが、仏陀が示すことになる<道>である。

実践的であるという信念に基づいて、仏教徒はdhyana(瞑想)samadhi(意識の没入状態)といった方法に特別な注意を払ってきた。Veda時代の言葉である「dhi(思考)」のもともとの意味は、「何かが自分自身に(あたかも)現れている(ように)させること/保つこと」であったようである。すなわち、それは強い視覚的な意味合いを含んでいる。したがってそれは、象徴表現や、内と外の両方の世界から成る現実を再現することにおいて最も活動的である意識の働きと考えられていたに違いない。そうした意識の意図的な働きを基にして「dhyana」や「samadhi」という用語もつくられてきたと考えられるが、前にも述べたように、仏陀の捉え方はそれとは異なっていたようだ。

Nikaya仏教では、仏陀が瞑想を通じて覚醒を得たことに基づいて、瞑想が修行の主体となっている。そして、仏陀がまず四段階の瞑想をしたとされるように、その認識状態に応じて瞑想には様々な段階が識別されていた。瞑想の段階に応じた認識の相が明らかにされ、修行者は瞑想の習熟度に応じてその認識に向き合ったのである。ちなみに、最近は「小乗仏教」と言う代わりに「Nikaya仏教」という言葉が使われている。「nikaya」は「集まる(集められる)もの(こと)」の意味で、仏陀の言葉をパーリ語で集めた「nikaya(集録)」が、例えばMajjhima nikaya」のように初期仏教徒の経典となっている。「hinayana」すなわち「小さな乗物」という表現は、後世に生まれた大乗派が初期のagama(阿含/仏陀の教え)のみを経典とするsravaka(声聞)から成る諸学派を指すのに使ったもので、自ら「大乗(mahayana/大きな乗物)」と名乗るのに対して相手を卑下した表現である。「hinayana」と呼ばれた諸学派はそれに対して「大乗派」の経典を仏陀の言葉ではないという理由で受け入れなかった。こうした卑下・対立のニュアンスをなくすために、ここでも「小乗仏教」の代わりに「Nikaya仏教」と言うことにする。

Nikaya仏教においてsamadhi」の語は、明澄な意識を保ち、そして一つの主題に意識を向け、その結果得られる精神集中もしくは意識の没入状態を言い表している。それは、「結びつける」を意味する「yuj」から派生した「yoga」の語が表すものとは異なっているようだ。yogaは精神集中の状態が鎮静した際の心身一体的な結びつき状態に関わり、それに対してsamadhiでは主に意識の働きが集中的に主題に向けられ、その果ての心身一体的な結びつき状態()から抜け出した際の意識の没入状態、あるいは意識のあるがままの働きに関わるからである。いっぽう、「dhyana」の語は、samadhiという没入状態に至る前の意識集中の諸段階に関わるのに使われている。yogaの方法については、初期仏教ではあまり用いられていないようだ。

シャカムニがsamadhiに至る前に「四段階の瞑想(dhyana)」をしたと言われることから、dhyanaの実践は四つの段階に分かれている。その実践が四段階を通じて進展するにつれて、瞑想する者の意識の集中の仕方が高まっていく。具体的には、最初のdhyanaでは、外的世界の成り立ちに関して「調査(vitarka)」し、さらに「精査(vicara)」することに意識を向かわせる。次の、第二段階のdhyanaから先は、外的世界に向けられた知覚が遮断され、<調査>と<精査>にはもはや意識を向かわせない。そして、第三段階のdhyanaを通じて瞑想者は身体的な「楽(sukha)」の状態を経験するが、第四段階ではこの「楽」の状態は消滅する。いっぽう、意識はより明澄となり、心の「平静状態(upeksa)」が定まる。これら四段階のdhyanaの核心は、最終的に「一つの主題に意識を向かわせ、意識の働きを集中させる(ekagrata)」ことにあると言われる。

繰り返しになるが、これら四段階のdhyanaの経過を説明的に言い表せば次のようになる。

最初のdhyanaにおいては、外部の対象に意識の働きを向け(vitaka)、対象を精査する(vicara)ことに意識を向かわせる。すなわち、意識が体験する(感覚し・知覚する)形とその領域を「探り・入念に調べあげる(vitarka-vicara)」のである。「vi」という前置詞的な語は「距離を取る」を意味し、意識がそこに生み出す内容から意識自体が距離を取る態勢がうかがわれる。

二番目のdhyanaは、意識が自ら体験する形とその領域を「探り・入念に調べあげる(vitarka-vicara)」段階から、形や領域が現れ来る方へと意識を導き/向かわせる修練をする。つまり、感覚的で形があるものとして現れ来る対象(所縁)にではなく、それが現れ来る仕方(行相)の方に注意を向けるのである。そうすることで、感覚的で形があるものへと束縛しようとする意識の働きから解放される喜び(priti)を味わうと言われる。とはいえ、この段階にあっても、人はまだ意識の働きをそれが注意を向けるものに応じて枠づけていることになる。この段階は、「探り・入念に調べあげる」働きに伴う心の相対的な落ち着きのなさがないことによって印づけられるという。「探り・入念に調べあげる」働きは、いまや静かな喜びと心の安定状態に取って代わられようとしているのである。

三番目のdhyanaは、心が安定することによって意識に動的な均衡状態がもたらされ、そこに潜在的で肯定的な意識の力が初めて働くようになると言われる。このとき意識は、体験された内容へのより深い理解と、より一層の明澄さに特徴づけられている。身体には心地よい興奮が伴い(sukha)、そのことが身体を生き生きとしたものにするという。

四番目のdhyanaは、動的な均衡状態がもたらす潜在的にして肯定的な意識の働きのそのプロセス(upeksa)に関わる。それは身体的な心地よさというよりも、明澄な知覚/意識の働く状態である。このとき、dhyanaは時間推移と空間変化とが結びついているような意識状態にあり、この対象化できないような場に、「新たに生まれ来る」意識の位相を集中的に投影すること(ekagrata)に関わっていくのだという。

 Nikaya仏教には、生まれ変わりに関する考え(輪廻/samsara)と共に「三界(triloka)」の考えがあり、それは主に人間の<欲望>をめぐる論議と共にある。「欲望世界(kamadhatu)」は日々意識が散乱し、焦点の定まらない心が支配する世界であり、「形象世界(rupadhatu)」と「非形象世界(arupadhatu)」が「瞑想の領域(dhyana bhumi)」であるのに対して、それは「瞑想の領域」ではない。<欲望世界>と最初のdhyana段階との間に瞑想のための「予備的段階(anagamya)」があり、この予備的段階と最初のdhyanaにおいて、<調査>と<精査>に意識の働きを向けることになる。そして、最初のdhyanaと第二のdhyanaとの間の「中間段階(dhyana antara)」では<精査>のみがあるとされる。この段階では<調査>は自ずと消滅する。<調査>と<精査>は共に知覚の働きであるにもかかわらず<調査>が先に消滅するのは、それが意識活動のより粗雑な形態であるからという。第二のdhyanaから先は、意識の働きが主に自らが働くそのプロセスに向けられることから、対象に関わる<調査>も<精査>も自ずと消滅する。そして、四段階目のdhyanaには、「感覚の生じない意識の集中状態の達成(asamjna samapatti)」があり、そこでは全ての感覚が完全に消滅するとされる。非仏教徒はことにこの種の忘我状態に入るのを好むと言われ、しばしばそれを「nirvana(涅槃/解脱状態)」と思い込むという。この忘我状態にありながらもしその人が死ねば、その人は四段階目の<瞑想天>の一部である感覚のない世界に生まれ変わるとも言われている。「nirodha samapatti(意識集中への没入達成)」は、この「感覚の生じない意識の集中状態の達成」に似た状態であると言われる。その状態では、感覚による興奮が抑えられた意識の機能のみが働き、仏教徒だけがこの種の瞑想段階へと分け入っていくと考えられている。この状態にありながらもしその人が死ねば、その人は<非形象世界>における感覚も無感覚もない世界に生まれ変わることになると言われる。こうした想定話は非本質的なものではあるが、欲望を制御しきった<非形象世界>とは何かを考えるうえで参考になる。四段階目のdhyanaにあっても、そのとき瞑想者は身体感覚から完全に自由になるというわけでは決してないが、それでも、より高次の瞑想はいかなる(物理的な)身体感覚も欠いた意識のみで成り立っているとされる。こうしたより高次の瞑想においては四つの「非形象的没入状態(arupa samadhi)」があるとされる。この場合の<形象>とは物理的な身体のことを述べており、その四つの忘我状態において瞑想者は瞑想しながら自身の身体に気づいてもいる。しかし、そこに身体があるとは言えない状態にあるのだという。すなわち<非形象世界>とは、そこには物質を欠いている(物質感覚を欠いている)ので、物理的な場として存在すると言うことができない、というような場を意味しているのである。したがって、物理的な場として存在しないとみられる<場>には欲望は生まれない、そう<欲望>について観念していることになる。

この「忘我の四段階」のために準備するいくつかの瞑想実践が述べられている。それらの瞑想は一転して心身的なものに関わっている。まず呼吸を数えながら瞑想する、それから身体の不浄を想い瞑想する、そして「四つの想起(catvarismrtyupasthanai/身体の不浄・感覚興奮による苦悩・心の無常・現象が無実体であること等を心に呼び起こす)」に関わり瞑想する、「四無量心(catvaryapramanani/友愛心・慈悲心・同情心・平等心)」に関わり瞑想する、解放への三つの門(全ての現象には実体がないこと/空・現象には標がないこと/無相・望みをもたないこと/無作)に関わり瞑想する、等である。このとき、瞑想(dhyana)は主に二つの状態に分類されている。一つは「samatha(心を平静に保つ状態/)」であり、もう一つは「vipasyana(平静な心を土台として真理への洞察力を得る状態/)」である。「四つの想起」と「四無量心」はvipasyanaが主に関わるものである。vipasyanaの瞑想は「明敏な洞察力(prajna/智慧)」を働かせるのに特化しているが、その中で最も重要なものは、「五蘊(人間存在を構成する五要素/色・受・想・行・識)」と「縁起」に関わる「四聖諦」の瞑想である。「五蘊」については、その各々の要素は無常で非実体であり、苦悩の源であることに意識を向ける。このとき、正しい<智慧>が働くにつれて、意識の「汚染(klesa)」、すなわち諸々の概念を構成する働きが除去されていくと言われる。すなわち、<無明>から<明>へ逆進する<道>に向けて一歩踏み出すことになるのである。

Nikaya仏教では特に、意識を三つの主題、すなわち「解放への三つの門」へ向かわせることによるsamadhi(意識の没入状態)の段階が述べられている。それらは、「sunyata/空」へのsamadhi、「animitta/無相」へのsamadhi、「aparnihita/無作」へのsamadhiである。人が「samadhi」にある状態を言葉で説明するのは難しいが、それを推測すれば、意識の働きが生み出す対象(所縁)がどのように現れ来る(行相)のかという方へ意識を向かわせたときの意識の在り方と重なっているような状態を言うのだろう。その状態において、意識が働くそのプロセスがあるがままに見出される契機があるからである。これらのsamadhiは、大乗派の「般若波羅蜜経」でも高く評価されている。「prajna(明敏な洞察力/智慧)の修練にはsamadhi(意識の没入状態)を成り立たせる土台がなければならない」と言われている。このようにsamadhiの実践は<智慧>の達成に先行すると考えられていた。それは、samadhiにおいては心がかき乱されることがない、たとえ意識の向け方が移り変化しても、対象に関わることがないので心はかき乱されることがないからである。そのことによって新たにsamadhiの局面が見出され、初期の大乗文献の中でも述べられている。すでに述べたように、samadhiも、「samatha(意識の没入状態による心の静寂)」と「vipasyana(意識の没入状態における明敏な洞察力の働き)」との二つの基本的な局面に分けて考えられている。「心が平静に保たれ、一つの対象に意識を没入させることができると、そこに確かな洞察力が生起する」、と言われている。明敏な洞察力がsamadhiと共に働き始めると、その洞察力はsamadhiの進展と共により強まっていくのである。そうした samadhiの最良のかたちは、samadhiのそれら二つの局面、すなわち心が静寂のうちにあることと明敏な洞察力の働きとが釣り合っているときに生起すると言われる。そのとき、意識がそれ自身で働くような(認識)領域が確立されるのだと考えられる。その領域では、知覚における主体的な側面(時間認識)は客体的な側面(空間認識)と同等の役割をしており、それゆえ主客が判別されることなく意識が働くのを体験する。対象化できないこうした意識の真新しい態勢(認識の励起する場)においてbuddha(覚醒)状態が自覚される。むろんその<自覚>はその態勢から抜け出した直後に得られるのだろう。

ここまで瞑想する意識の位相の展開について言葉を尽くしてきたが、それらの段階における意識の働きは私たちの日常意識につきまとう主題形成的なものとは全く異なっているということが分かってくる。私たちが意識に浮かべる表象はすでにして何か他のものを装って何とかしてふたたび現れようとする別の何かをあらかじめ前提している。それゆえそこに現れ来るものとは、条件的に感受されたイメージとすでにイメージしたことのある感受作用のその両方なのである。それに対して、samadhiによる意識がそれ自身で働くような(認識)領域とは、かつて現れた何かがそこに現れ来るという状態では全くない。それは<意識の没入状態>と翻訳しているように主客が判別されることなく、なおかつそれは「つねに新たな」と言っていいような意識状態にある。とすれば、逆に考えれば、まさに意識に対象が現れ来るという現象自体が、生という開かれたもの(空・無相・無作)が制約されているというそのことを証言しているわけである。生という開かれたものは、その全体性を部分にして分析することができないし、それはまた一部に局限され得ない。この非局在性および非局限性が、「非形象世界/無色界」と呼ばれているのだと考えられる。そこにもし身体があるという知覚現象があるとすれば、それは何にも限定されることなく全体的な様相として生起しているだろう。

<無明>から<明>へと誘導するための<道>は瞑想(dhyana)によって育成される。そのことは、<道>を指し示している「四聖諦」についてのより深い理解を達成することにある。ここまで述べてきたように、<道>は現象の成り立ちを知ることによって執着を断ち切るという限られた範囲での準備的局面と共に始まるが、その準備段階における最終局面は<道>の有効性に関してより広い範囲をもつことになる。そのために、<道>はどのようにして進んで行くかについての瞑想があり、それは意識を四つの「徹底的にして詳細にわたる評価に向ける(dhyana)」ことから成っている。それらは、現象への深い関心(dharma pravicaya)、たゆまぬ努力(virya)、精神的能力をそこに向けて注ぐこと(prajna)、細部まで行き届いた探査(smrti)、である。これら四つの評価は、「成功の足場(ruddhipada)」と名付けられている。この準備的局面は結果として、実践者をして世界を「生まれたての眼で」見る局面へと推し進め、すなわち<道>を進んでいるという認識に至らせることになる。この局面において、二つの主要レベルから成る階層秩序が現れてくるとされる。そのうちの低い方のレベルは「温かさ(usman/)」の開始から成ると言われている。というのも、その「温かさ」の熱は、瞑想実践者に立ち現れてくる信念の「熱」の徴と解されるものだからである。このレベルは強度を同じくする三つの等級へと増え、それら強度の三つの等級を経ることで「頂点(murdhan/)」において絶頂にいたる。というのも、そのとき瞑想実践者は<道>における最も高い頂に進んだという確信が得られるからである。「温かさ」とか「頂点」という言葉は、これらの局面の感覚体験的な性格を示している。この「温かさ」の状態が、yogaで調息によって体を発熱させる「tapas()」と類似した現象であれば、そこにはまだ身体感覚があることになる。いずれにしても、「暖かさ」とか「頂点」という<体験>を経て、瞑想実践者は確実に明敏な洞察力の<道>に入っていく。

 

Abhidharma哲学はNikaya仏教の展開を俯瞰的に捉えた諸論書から成る。その中心はdharmaの分析にある。すなわち、あらゆる現象(dharma)の分析を目的とした。彼らは自らの意識を含む「心」という現象を分析するのに瞑想(dhyana)をもってし、そのdhyanaは「止観(samathavipasyanaの両局面)」の段階を軸にして展開された。

パーリ語で書かれた最初のAbhidharma哲学の著作「Dhammasangani」は次のような言葉で始められている。「健全な姿勢が、欲望の支配する、人間の活動範囲に属しながらも、晴朗さに染まり、かつ晴朗さを伴い、そして真に叡智的な洞察力と結びつき、かつそれを携え、そこから生じるときに…」(Herbert Guentherによる英訳より 1989)と。この表現は、泥水の中から芽吹き、それにも関わらず晴朗に咲く蓮の花の開花プロセスを想い出させる。しかし、「姿勢(citta/)」についてのその内容は二重になっているので、蓮の花の喩えの枠には治らないような意味合いが含まれている。それは<欲望>という潜在的な力が生まれる領域にまで踏み込んで語られているようだ。すなわち、心は<欲望>という生命の全体的な活動から生じるものでありながらも、「叡智的な洞察力/prajna」という、概念構築に傾向づけられることのない明敏な判断力と「結びつき、それを携え、そこから生じる」とき、<欲望>という生の領域にありながらもその生命は、<欲望>がそのまま示す方向とは異なる、より倫理的に発展的な活動の領域へ向かって働くことになる、というのである。さらには、人間の活動を支配するその「欲望は二重になっている」とBuddhaghosa(覚鳴/五世紀)は言う。「すなわち、対象と情動のプロセスとにである。情動のプロセスとは熱烈な欲求を意味し、対象とは存在をめぐる三つの領域を意味する。情動のプロセスがこの意味で言われるのは、それが激しく欲するからである。対象がこの意味で言われるのは、それが激しく求められるからである」(Atthasalini/同上)。情動の本質である<欲望>を制御することが仏教徒の瞑想実践において重要な役割を果たしてきた。<欲望>は、激しく欲する情動のプロセスと激しく求められる対象で構成されているという。対象が、条件的に感受されたイメージとすでにイメージされた感受として現れ来ることに注意を向けるdhyanaが、<欲望>の二重性を洞察したのである。したがって、対象が求められるという働きに関わらなければ情動のプロセスも低下すると考えられたに違いない。対象に関してここでも、それは「三界」と同じく「存在をめぐる三つの領域」があると言われている。Buddhagosaによれば、三つの領域のうちの一つのみが「欲望が君臨する領域(kamavacara/欲界)」であり、そこでは欲望はそれに付随する否応のない衝動と行動を伴っている。他の二つの領域は、「形態化を志向する知覚の領域(rupavacara/色界)」と「形態化を志向する知覚を一時保留する領域(arupavacara/無色界)」で、前者はまだ欲望の領域と親密に繋がっており、後者は、形態化を志向する知覚、それも欲望であるが、その働きを保留しているとされる。すなわち、この領域でも欲望が再起するのを止めることはできないのである。「非形象世界」が非局在性および非局限性として身体感覚を逃れていたのとは異なり、そこには形態化を志向する知覚の働き(欲望)がまだ潜んでいると考えられている。これら三つの領域においてcitta(/姿勢)は働き、すべての領域にわたって協働し連携し合っているような「心」というシステムが考えられている。Abhidharma哲学では「心」の分析がより構造的に成されているのがよく分かる。

Herbert Guentherが「From Reductionism to Creativity 1989」で、ふつう「心」と訳されているcittaを「姿勢」と訳しているのは、そこに<傾き>が働き、そうすることで私たちの意識がそれ自身による客観的指示対象に面と向かうようにさせられるその在り方を示そうとているからである。cittaは、意識をそれ自身が客観的に(見せるよう)指示する対象に限定させておくような働きであり、このことは、次には意識を繰り返しこの方向に<傾ける>ことをも意味しているのだという。ただしこの働きは、<姿勢>と呼ばれる進行中のプロセスに属する客観的指示対象に特有のものであり、すなわちそれは一瞬一瞬の<傾き>ではない。つまり、この<傾き>の働きが意識の連続性を裏づけるのではないという。

citta()と恊働して働く諸要素をcaitta(心所)と言い、主要に働くものと恊働的に働くものとの結びつきが非常に親密なので、通常は「citta-caitta」と言われる。その際に、cittacaittaのどちらが強調されているかは、その言葉が使われている文脈に左右されるようだ。Vasubandhu(世親)の「Abhidharmakosa Bhasya(阿毘逹磨倶舎論)」を注釈したYasomitra(称友/六世紀)は述べている。「姿勢(citta/)はその恊働者(caitta/心所)なしでは生じないし、恊働者は姿勢なしには生じない。しかしながら、すべての姿勢がすべての恊働者と共に必ずしも生じるのではないし、またすべての恊働者がすべての姿勢と共に必ずしも生じるのではない」(Sphutartha/同上)と。実際、この複雑な働きが示すものすべてを把握するためには、「姿勢(citta/)」という一つのまとまりのある概念と、フィードバック(行動の結果を参照して次の行動を修正・調節する)し、かつフィードフォワード(将来の行動を予測して未然段階で修正・調節する)する働きというより動的な概念とを、一つの動態的な<場>に融合させて考えなければならない。そうした<場>が、まさにcittaがそうであると考えられようとしているものなのである。しかし、一般にAbhidharma文献では、「citta」の語はcittaというただ一つの構成要素から成る集合を指示するのに使われ、それに対して「caitta」の語はいくつかの構成要素から成る集合を指示するのに使われている。例えば、説一切有部(Sarvastivadin)は「caitta/心所」を五つの構成要素から成る集合として示したが、上座部(Sthaviravada)Buddhaghosaは主要素cittaをも含めた五つの構成要素から成る集合を提示している。すなわち、{caitta(心所)/phassa(触知)vedanaa(感受)sannaa(構想)cetanaa(意思)citta()}である。説一切有部ではcittaの代わりにmanaskara(作意)が構成要素となっている。この両者の分類の仕方の違いを見ると、「心」を集合論的に分類することには明らかに矛盾が浮かび上がってくるのが分かる。おそらく瞑想さなかでの分析では「心」をシステム的に捉えていたのが、瞑想から離れて内省による、論議のための説明的な分析はそうではなくなった、ということだろうか。

いっぽう、Buddhagosaは、<健全でない姿勢>と<健全な姿勢>との間のやり取りが、どちらか一方の側を選択することで解消されるのではなく、正反対同士であることを越えて成長することでのみ解消される<張力場>のような力関係の場を構成していると考えた。すなわち、<健全な姿勢>と<健全でない姿勢>とが粒子状の要素として並ぶのではなく、二極間で引っ張り合っているような場として現れているというのである。このことに関してBuddhagosaは、社会行動的な意識の類型を取り出して、それらが相補的な関係にあることを示している。例えば、熱情と信頼、敵意と批判的洞察力、妄想と変動し易さ、である。こうした心理学的洞察は、人間はつねに二つのレベル、すなわち二重になった認識の場を土台にして行動している。すなわち、つねにどちらかに傾きながらも他方の力を考慮するような<張力場>を反映する認識に影響を受けながら行動している、そう考えていることを示している。ここには人の心理を単に要素に分類するばかりでなく、それは要素同士が生み出す相補的な力の<場>として作用しているという、動態的に捉える認識が示されている。

このように、Abhidharma哲学は存在の分類にその全注意を向けた。しかし、分類するものを分類することはできない。というか、分類作業においてはつねに分類するものがいつの間にか生の全体から疎外されている。そうやって分類の袋小路に入り込んでしまったのは、<欲望>という生の力が自らの意識では捉えられない局面で働くのを知りながらも、その実態を見過ごしたからではないだろうか。そこで差異を見分ける仕方、すなわち意識/心の働きにおけるその差異を見分ける仕方において大きな発想の転換があった。ガンダーラ出身であるVasubandhu(世親/四世紀と言われるが諸説有り)Abhidharma哲学の諸論を批判し、cittaの分析について見直しを図った。説一切有部に属していた彼は後に大乗派に転向し、その唯識論(vijnyanapti matra)を、理論としてはもとより、瞑想実践による立証としても著した。こうした点において瞑想の在り方は大乗思想と密接に関連しており、その思想の表現においても際立っている。dharma(存在)の分類が分類すればするほど多岐にわたってしまうのは、dharmaの分析が人間にとって<思考/意味>を促すからである。瞑想によって、その明敏な洞察力によって、自らの<思考>を分析すればするほどそこに自ずと<意味>が次々と付与されてゆくのに違いない。そのような意識のあるがままの働きを目の当たりにして、Vasubandhuは究極的に「思考する思考」を経験したのではないか。彼は分析(瞑想)のさなかで、意識の働きが変動する局面に注意を向けているからである。さらには、仏陀は「縁起」の成り立つ根源に<無明>を洞察したが、VasubandhuAbhidharma哲学を批判的に考察した際、おそらくそれとは異なる見方をせざるをえなかったのではないか。彼は、「縁起」は無数の特異点で構成されている、すなわち現象世界の無数の点は唯一無二の点であって、そこには<変動性>がつねに駆動している、そう考えたのではないか。実際、「縁起」は後に「華厳経」によってその意味が新たなものへと創造的に描き直された。Vasubandhuはまた、後に述べる「alaya識」の考えとその<転変>を説くことによって、潜在力としての<欲望>に対処したのだと思う。

Vasubandhuによれば、「abhidharmaとは、一点の染みもなく、それが働く環境に伴う感情による汚染因子によって汚されることのない、人が分析し評価する際に働く洞察力(prajna)のことであり/そのように一点の染みもない分析し評価する洞察力へと導くもののみでなく、そのように教えを伝える論書に書き記されたものも、またそうである」(Abhidharmakosa」同上)という。ここには分類の視点がない。その代わりにprajna、すなわち明敏な洞察力の働きが前面に打ち出されている。それが「一点の染みもない」のは分断されることなく全体的なままで働くからであり、「分析し評価する」のは励起状態にある認識強度として働くからであり、「洞察力」とは連続性を体現するものである、ということを示している。その明敏な洞察力は、内省することで現れ・特定された意味群に自ら注意を向けつつ、自らそこに熱中するようにして、そのとき内省する働きと内省されたものとの両方に関与している、そう見出されている。そのとき、特定された意味群は次々と数量化され、測定され、そして制御されようと、自ずとその身を貸し出してくるのである。従来のAbhidharma哲学が指し示すものは、こうした対象として次々と取り出すことのできる意味群であった。いっぽう、Vasubandhuはといえば、内省する働きのうちに次々と変動する様相を伴いつつ連続する、その力動するものの在り方に注意を向けたのである。

カシミールで説一切有部の考えを習得したVasubandhuAbhidharma哲学を批判し、実兄のAsanga(無着)が創始する瑜伽行者派(Yogacara)に転向した。瑜伽行者による唯識派は、「唯だ、識のみが存在する」、すなわち、この現象世界は言葉によって物質的な現実と信じられるものへと具体化された概念体系である、そう明言した。そして、言葉による表象的思考の枠内で意識というまとまりを探求し続け、その注意をcittaというたった一つの(分離も部分化もできない)構成要素から成るシステムに絞ったのだった。彼らはそのことを「citta matra/唯識」という語で示した。この語は、cittaは私たちの複合的な認識体験の場もしくは認識状況を指し、matraは他のすべての条件を排除するということを示している。言い換えれば、cittaは、洞察力と行為は一つであること、知識と評価は一つであること、思考と感覚は一つであることを示しているのである。このことは、cittaを何かと結びつけまたは関連づけようとしてそれを粒子状の実体と考えようとした初期仏教の集合論的な概念とは著しく異なっている。瑜伽行者派が使用したもう一つの語がvijnapti()で、この語は「情報」を指しているという(H. Guenther From Reductionism to Creativity)。それは、知識を人から人へ移すという意味での情報ではなく、人の自己生成を推し進めるその自己組織化において、生体内部がどのような事態になっているかを「知らせている」という意味においての<情報>を指しているという。人という生体システムは自らを全体としてあらかじめ知るがゆえに、そうした<情報>によってたえず自らを更新している。そして、この自己組織化の働きは、生体システムをくまなく組織化すると同時に心身一体の力動的な局面と考えられ、そうした確信によって瑜伽行者派はいかなる二元論の想定も必要としなかった。<情報>に伴う自己組織化の働きを見出し、そのことを強調した「yogaを行ずる者による一派(Yogacara)」は、人においてその生命が倫理的にも発展的に展開されるという力動的な視野を初めて提示した人たちだった。その結果、彼らはこうした生命発展的な力動にすみからすみまで心身的に「波長を合わせる」という意味で「yoga」を理解し、その<道>を進んだのである。samadhiにおける意識の没入状態は明澄な洞察力が駆動する場であるが、yogaの実践における視野は心身的なものへと拡張され、それは生体エネルギーにまで「波長を合わせる」方法へと更新されたのである。

こうした瑜伽行者派の観点から、Vasubandhucittaを「dharmaによって構築されているもの」であると同様に「構築しているもの」でもあると説明している。cittaは内外の環境から情報を受動的に受け取るだけの反応装置にすぎないのではなく、みずから<情報>を発する創造的な動因と考えられた。いわば、Vasubandhuにとって「citta」の語は、そう呼ばれているものが働いているその状況から、すなわち瞑想実践のさなかにおいてその意味が生じているのである。それを判別したり分類したりする者がなければ、cittaはそこから分離できない生体環境の中で、そしてそれが働くのに欠かせない生体環境の中で働いている、そう見出されたのである。

瑜伽行者派が意識を集中させることで行き着いた、一つの構成要素から成るcittaというシステムのそのプロセス的な性格は「alayavijnana/阿頼耶識)」の語によって示されている。このalaya識は、体験によって起動した潜在力(vasana/習気)を積極的に「貯蔵する」と共に、さらにはそうした潜在的な層までにも及んでフィードバックしフィードフォワードする働きであるという動的な性格をもっている。そして、このとき決定的に革新的な点は、alaya識が、生命発展的な仕方でそれ自身の連続性を確かなものとする「識転変(vijnana parinama)」という現象を伴っていると考えられていることである。それは一定の要素のままではなく、絶えず変容している。この「識転変」と呼ばれる現象において三つの次々と<変容>するものがあり、それらは「異なる方向へ成熟する(異熟/vipaka)」一切の種子であるalaya識、それ自体を構想する「マナ識(思量/manana)」、対象を現象させている「知覚し思考する(了別/vijnapti)」六識で、Vasubandhuが「唯識三十論(Trimsika)」で提示している。このうちの「vipaka(異熟)」の語を改めて動的に解釈するに際しては、一定の狭い範囲内でのみ有効なシステム内の要素同士による因果性の考えは、<流出プロセス>として、全面的に生命発展的な考えに置き換えられた。すなわち、Vasubandhuが絵を見るが如く描き出したように、「それ(alaya)は氾濫した河のように流れている」のだと。

「ここ、すなわちalaya(蔵庫)と呼ばれるvijnana()に、結果として生じ(vipaka)、そのようなものとして発芽(bija)の位相にあるミクロ構造すべてを合わせたものがある/さらにそれは、自身の能力を知る意図的な構造であるばかりでなく、主体となるべくものへの組織化がいまだ潜在的にあるようなものでもある/それはいつも、触知のプログラム(sparsa)、システムの傾き(manaskara)、感触受容の調子(vit)、記号と象徴を構想するシステム(samjna)、そして企画し遂行するもの(cetana)等を(起動する)諸々の働きを伴っている/さらにそのうえ、ここでは感触受容は中立的な性格のものであり(すなわち感触受容の調子であって、感触受容による審判ではなく)、これ(vijnana)はまだ特定の場に封じ込められることなく、また無評価でさえあるものである/プログラムの諸々の働きを伴うこれ(vijnana)はそのようであり、そのようにそれは氾濫した河の如く進むのである」(「唯識三十論」/同上)

仏教徒にとって、ことに瑜伽行者派にとって思考と感情は別々の実体ではない。それゆえ、<変容>において感情は方向と量としての流出を明らかにしているにすぎない。こうした点でベクトル特定的ではあるけれども、感情による汚染因子はまだ評価のない仕方で働いている。いっぽうで、このベクトル的な流出が、人が自身の能力を知り、自身であることに基づいて自己組織的な活動を開始する、そうした生命発展的な場をあらかじめ「知らせている」、ということも暗に示されている。最後の「知覚し思考する六識」の<変容>が人の自己認識を形成するのに重要な働きをしているのは明らかであるけれども、それはまた、人をして特定の<場>に固着させることなく、そこに設定されるべく狭い視野を越えてゆく可能性をもそこに孕んでいると考えられる。最後の<変容>の複雑さを、Vasubandhuは次の言葉で要約している。

「第三(の変容)は、六重の認識領域における知覚である。それらは健全であるか、健全でないか、さもなくばそのどちらでもないかである/この(変容)は、広範囲にわたる諸々の働きと提携しており、健全な姿勢に付随する働きと同じように、主題特定的な働きと提携している/それはまた汚染因子の集合と準汚染因子の集合(と提携しており)、そしてそれはさらに三重の感情資質をもっている」(「唯識三十論」/同上)

 こうした<変容>の考えは、<明>から<無明>へと転変する自らの意識を、瞑想を繰り返すことによってそのプロセスを俯瞰するに至った体験に由るのに違いない。そのとき「氾濫した河の如く」という比喩によって言い表されたその内容は体験通りのことと受け取っていいと思う。意識の汚れを次々と取り除いて明澄な認識に辿り着くといった段階的な認識を獲得した果てに、このように逆方向に流出するものを見出すということは、そこに先入観の全くない瞑想の実践を通じての体験的な転換があるということである。それは仏陀の自覚とはその方向において異なっている。その瞑想体験は、仏陀の「四聖諦」に相対して、人間の状況はつねに変容し、成長し、自己組織化するものとして、それは決して状況に限界づけられたままなのではないということを示しているからである。この世界にインストールされた人間の在り方とその可能性は、alaya識という潜在的に働くものの方から得られる<情報>によって切り開くことができるのである。「氾濫した河」の比喩は、意味形成的な思考に陥りがちなNikaya仏教に対する叛乱であるようにも思われる。

 

大乗派の出現はストゥーパ崇拝と結びついているという考え方がある(Hirakawa AkiraA History of Indian Buddhism1990)それによれば、大乗仏教の出現に寄与したものとして三つが挙げられている。それらは、Nikaya仏教、仏陀を讃える人たちによって編纂されたJataka(仏伝)、そしてストゥーパ崇拝である。Nikaya仏教にはすでに「三身(trikaya)論」がある。すなわち、仏陀が身体を持って現れたその姿は三重になっているという考えがあり、それらは法身(dharmakaya)、報身(sambhogakaya)、変化身(nirmanakaya)とされ、仏陀を一個人を超えた存在として描くことのできる契機はすでにあったと考えられることである。そして、Jatakaは仏陀の活動を様々な次元において描いており、「仏性(buddhadhatu/覚醒の場)」が考えられ、その仏性への道、菩薩の存在、さらには過去仏や未来仏にも関心を寄せている。そしてストゥーパ崇拝であるが、出家者の共同体であるsanghaで修行する仏教徒は仏陀の教えを強調したが、いっぽう、世俗の仏教徒は仏陀に救済者(彼岸へ渡してくれる者)としての役割を求め、そのことを強調した。そのため、世俗の仏教徒が集まり、その教えを実践する場として世俗の信者のためのストゥーパがあったのだという。ストゥーパ崇拝はもともと土着の信仰形態で、死者を火葬にした灰塚であるchaityaを礼拝することに由来する。そうした信仰形態を基にして各地のchaityaに世俗の信者によってストゥーパが造られ、また管理されるようになった。後になってsanghaに付随して造られたが、sanghaの生活域とは厳しく区別されていた。というのも、花、香、幟旗、音楽、舞踊などがストゥーパ崇拝の儀礼に伴っていたからである。ストゥーパを管理し、また仏陀の教えを専門に伝えることを生業とする特殊な人たちがいて、おそらく彼らはストゥーパの巡礼者たちにストゥーパに付随する建造物に彫刻されて描かれた仏伝を説明した。またそうした世俗の仏教徒が巡礼者のために宿泊設備も用意したとも考えられている。こうしたことから、ストゥーパ崇拝を軸にして、それを管理する人、仏伝を説明する人、巡礼者の世話をする人たちがいて、各々が巡礼者に仏陀の救済力を説いたと考えると、そこに教団めいたものが形作られる余地があるのだというのである。そしてさらには、ストゥーパでの礼拝に際しては、彼らは巡礼者たちを仏陀がありありと姿を現すような瞑想へと導いたのではないか、そう考えられている。その瞑想というよりも観想は、死者礼拝と深く関連していたと考えられる。sanghaの出家者と違って、たとえ修行中の身であってもその教えを他者に伝えることに努めたのが大乗派の実践者たちである。彼らは自ら仏性を実現する可能性をもっていると考えたからである。その可能性を自ら知るものを「bodhisattva/菩薩」と言い、全ての人がそうした可能性をもつと考えたわけである。こうした考えは世俗の信者たちを惹きつけたに違いない。「bodhisattva」の語は「十地経」においてその存在が超自然めいたものとなり、それゆえ後には稀な存在を言い表すようになったが、当時は極めて一般的に使われたようだ。sanghaに対して菩薩信仰者による共同体があり、「bodhisattvagana」と呼ばれた。初期の大乗派の<菩薩>には世俗者と出家者という二つのタイプがあり、出家者のタイプの<菩薩>はとりわけ宗教的修行と禁欲を実践するkumaraであった。「kumara」は「若年者」の意で、思春期前に出家した者を言う。そのため生涯純潔を守る者として世俗者の<菩薩>とは区別される存在であった。kumaraは人里離れた森で瞑想修行し、世俗者の<菩薩>はストゥーパでkumaraから教えを受けたという。

最初期の大乗信者は「六つの智慧の達成(般若波羅蜜/prajnaparamita)」の実践と共にsurangama samadhiの瞑想実践とその深化に努めたという。そして、瞑想のための場所が築かれた。「surangama」とは「果敢なる進展(に臨む)」の意である。「般若経」の集成である「Mahaprajnaparamita Sutra(大般若経)」の中の大乗の章には最初にsurangama samadhiが述べられ、108samadhiのリストが掲げられている。これらのsamadhiが初期の大乗経典「Surangamasamadhi Sutra(楞嚴三昧経)」で述べられており、surangama samadhiと呼ばれる意識の没入状態において瞑想の実践者に授けられる、超自然現象、超自然力、変身の偉業等を示す神通力などに焦点が当てられている。また「Pratyutpannasamadhi Sutra(般舟三昧経)」は前一世紀頃にガンダーラで書かれた初期の大乗仏典で、仏陀のイメージを観想(pratyutpanna)する実践、さらにはその観想を拡張したsamadhiについて述べている。それによれば、修行者がひとたびsamadhiの状態に入れば、その面前に仏陀が立ち現れるという。あるいは、ストゥーパでの仏陀像の崇拝と過去の過った行いを告白することと深く関連して、「pratyutpanna samadhi(仏陀に直に面するsamadhi)」が生じるのだという。この経典には瞑想者がその面前にAmitabha Buddha(阿弥陀仏)を観想することができるとも述べている。観想の対象としてのAmitabhaと慈悲の体現としてのAmitabhaはすでに「観無量寿経」において結合されている。また「無量寿経(Sukhavativyuha)」ではAmitabhaへの誓願とその名を唱えるだけで、修行なしに浄土(sukhavati)に生まれ変わることができるとも述べられている。深い誓願は疑念(意識の汚れ)を一掃すると考えられたからである。北インドにおけるAmitabha信仰は「Pratyutpannasamadhi Sutra (Bhadrapala Sutra」とも呼ばれる)」が編纂される前にはすでに確かなものとなっていたようだ。また北西インドでのAmitabha信仰は「浄土三部経」が成立する以前からあり、「amitabha」とは「無量光」すなわち「無限の光」を意味するから、その信仰には西方のイランの宗教の影響があるのではないかとも考えられている。仏陀やAmitabhaに限らず、崇拝の対象を観想する際には、眼前に観想されるその姿はつねにと言っていいほど光り輝いたものとして観想されるが、それは別段不思議なことではない。

Bhadrapala Sutra」の版は仏陀像が最初に現れた一世紀の後半頃に編纂されたと考えられているが、仏陀像は仏陀の観想にとって必ずしも必要とされるものではない、仏陀像なしでの仏陀の観想の方が先に展開されてきたのではないか、という考えもある。観想を土台として、後に仏陀の初期の彫刻が現れてきたのではないかというのである。仏像彫刻はガンダーラやインドのMathuraで一世紀の前半、Kusana朝の初期に現れた。仏陀が初めて人の姿をして描かれたのである。二世紀になると仏教彫刻は急速に増えてくる。その仏陀イメージは、最初はその生涯や初期の生活を描く浮き彫りというかたちで表現された。それ以前にも中央インドのBharhutSanchiで、ストゥーパやその周囲の建造物を装飾するのに浮き彫りは描かれたが、これらの初期の浮き彫りでは仏陀は象徴化され、人の姿としては表されなかった。ガンダーラの仏陀像は、最初は浮き彫りの中で中心を占めていても仏陀は他の人物と同じ大きさで描かれていた。しかし、後になると仏陀の姿は他の人物よりも大きく描かれるようになり、最終的には仏陀は仏伝の場面から移され、仏陀の独立した像が彫刻されるようになった。こうした仏陀の独立した像は崇拝の対象とみなされ、結果的に初期の仏伝を描いた浮き彫りの仏陀とは異なる機能をもつようになったのである。こうした崇拝の対象としての仏陀像は、ストゥーパ崇拝の信仰形態に応じて仏伝を浮き彫りに描く人々によって展開されてきたと考えられる。仏伝を語る者や諸文献がそうした展開に役割を果たしたと思われるが、仏陀を人の姿で描くことが北西インドにいたギリシア人彫刻家による影響か、あるいは仏教の教えを広めるために避けられない展開の結果であったのか、それについてはいまだ明確な説明がなされていない。もし仮に仏教の教えの展開によるものであれば、おそらくそれはストゥーパ崇拝に伴うようにして生まれたのであり、救済者としての仏陀を拝する信仰がそこにはあっただろう。北西インドが主要な大乗派の発生の地と考えれば、そこにストゥーパ崇拝と仏陀像の最初のかたちが一緒に起こっているのも理解できる。そうでなくとも、ストゥーパ崇拝と大乗派の発生は少なくとも連携していと思われる。大乗派の経典を繙けば分かるが、ストゥーパの観想と仏陀の教えが語られる場の表現は相似している。

ストゥーパでの瞑想はそれまでのdhyanasamadhiとはもう異なっている。それは仏陀のイメージを眼前にするという能動的な姿勢で臨むpratyutpanna(眼前に生起する/観想)であり、その観想対象は<無限>であるはずであり、それゆえ観想対象は光で輝いているのであり、というのもそこでは瞑想者の意識の働きは個人を超えた次元で働く感覚に染め上げられているはずだからである。こうした瞑想の在り方は、Bodhisattvaのイデオロギーと結びつくことで必然的に展開されるようになったのではないか。dhyanaは、Nikaya仏教では心を静めるという受動的な姿勢で臨むことで<内部化>に向かう在り方をしていたのが、菩薩の<道>では、瞑想は、たとえば仏陀や諸々の菩薩を目の前に立ち現せることができるような、それも色とりどりに光り輝く姿として想い描くことができるという、瞑想者の全神経感覚に関わるような能動的なものに変貌している。その瞑想は仏陀を目の前に対象化し、菩薩をめぐる主題形成をしているが、それは通常の思考における対象化・主題形成の在り方とは全く異なり、<果てしのないもの>に向けられる意識の在り方になっているはずだ。その在り方は、仏陀が「四聖諦」と「縁起」によって自覚した世界における人間の限界状況を突破して、生命自らの創造的な力に機会が与えられるかのような開放レベルへと移行しているのである。その移行は、瞑想の(制御者としての)主体と(制御されるものとしての)客体の間の境界が溶解することで特徴づけられている。その主客の溶解のうちに現れる超感覚的なヴィジョンによって、私たちが「心」と呼ぶものは、それ自身を知れば知るほどそのことによって自己を新たに組織してゆくような自己の原理となっている、ということをおそらく体験的に自覚することができるようになるのである。

 

Nikaya仏教の教え、すなわち出家者たちによって定式化された教えによれば、仏陀は死の際に「何も遺すことなしにNirvanaに入った」、そのように身体を放棄したと言われる。そして、仏陀はもはや見ることができない存在であるがゆえに、その存在はいかなるかたちをもっても表すことはできないとされた。こうした考えに反して仏陀の像は造られたのである。Lahore博物館には有名なFasting Buddha像が展示されている。ガンダーラで制作されたもので、断食の極限状態にあり、骨と皮だけになったシャカムニのリアルな姿を描いている。イスラームの地にあって私はその像をよく見に行った。仏教がかつて浸透した国に育った者として他の誰よりも自分と繋がりがあるものがそこにあると漠然と考えていたからであるように思う。しかし、それは今までに私が目にした仏像とは全く違っていた。そのあまりに人間的な仏陀の姿に最初は驚かされたが、歴史的に見ればそれは遥か西方のギリシア文化の影響を強く受けた表現であるという方に次第に理解が深められていった。あれから時が経って、このようなリアルな姿を描くことができたのはギリシア人ならではあるが、そのギリシア人がガンダーラの地で想像をたくましくして彫り上げたというよりも、激しい修行をした仏陀という人のありありとしたイメージが制作当時においても失せることなく一部に伝わっていたのではないか、今ではそう考えるようになった。おそらくその時までまだ、Buddhaと呼ばれる優れた人がいた、そんな実感が人々のうちにあったのだと思う。