Sunday, July 04, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

 三 パンジャブ回廊


 4 Maitreya(弥勒)信仰とKushan王朝

  Peshawarはパキスタン北西部の中心都市で古くはPurusapuraと言った。Kushan朝のKanishka(二世紀前半?)によって夏の首府が築かれ、ガンダーラ地方の中心都市として栄えた。当時の人口は一説に十万を越えていたという。Kushan(45年〜375)は<パンジャブ回廊>を呑み込むようにして北西インドと中央アジアを中心に築かれた帝国で、およそ三百年余りの間続いた。その領域はパミール高原を含む広大なもので、多様な民族と文化を抱え込み、Kushan族について何かしら特定するのは難しい。その彫刻像からして、遊牧民特有の革製のタイトな服を身につけ、ズボンにブーツを履いていたようだ。文字をもたなかったので先例に倣ってコインにはギリシア文字とカロシュティー文字が使用されているが、まとまったテキストを遺していないので彼らがどんな考えを抱いていたのか分からない。「Kushan」の名は、前135年頃に東トルキスタンから出てOxus河流域地帯にまで移動していた月氏()の一部族である「Kuei Shang(漢字で貴霜[Guei Shuang]と表記)」に由来するとされ、一説には月氏()は原アーリア人が東トルキスタンへ移動(1800年〜前1000年頃)してTochara人となったその系統の遊牧民であるという。その場合、Tochara語かどうかは分からないが、彼らはアーリア語系の言葉を話していたことになる。Kushan族が侵入するまではガンダーラ地方はギリシア人のBactria王国やイラン系のParthia王国の支配下にあった。すでにそこにはゾロアスター教やイラン系の様々な信仰が入っており、Kushan族の中でもゾロアスター教が優勢であったと思われるが、Kanishka王は仏教を手厚く保護し、その結果、様々な民族の手になる様式と内容による仏教美術の黄金時代を見ることになった。

 私が訪れた頃のPeshawarは旧市街に中央アジアの陰影をまだ遺していると言っていいような魅力的な街だった。街行く人々は様々な顔つきをして、様々なキャップを被り、中には肩に長銃を担いだ者もいて、「frontier(辺境)」という言葉が実に似合う場所だった。名高いQissa Kahani Bazarを通って旧市街の外れに出るとPeshawar博物館がある。ガンダーラ出土の仏教美術品のコレクションを中心に展示している小さな博物館で、初代館長はAurel Stainだったという。そこで私は口髭を生やした青年風の菩薩立像を初めて見た。体つきは逞しく、長髪をバンダナのような装飾具で束ね、足にはchappal(サンダル)を履いている。その両目は真っ直ぐ前に見開かれている。最初は違和感があったが、そのギリシア的な風貌に何故かすぐに私は慣れてしまった。上半身は裸で、腰に巻いたdhoti(腰布)を袈裟懸けに纏い、瓔珞や臂釧で身を飾るのは東アジアの菩薩像と同じである。頭部には光輪を背負っている。髭を生やした仏陀像はシャカムニであるFasting Buddha像にしか見られないが、当時の菩薩像には口髭を生やしたものが圧倒的に多い。おそらくそれらの像が制作されたKushan朝の時代を反映しているのだろうが、髭を生やしているのはまだ覚醒状態(buddha)に至っていないbodhisattva状態を示しており、そうしたbodhisattvaを自覚した、sangha(仏教徒共同体)に所属しない青年修行者が普通にいたのだろう。数ある仏像の中にMaitreya(弥勒)菩薩像もあった。これもたくましい体つきをした男性像で、長髪で口髭を蓄え、彫りの深い顔つきをしている。日本で弥勒菩薩像といえば仏像彫刻による抽象表現の極致だが、それはおそらく観想用に定型化されたものであり、もとからそうであったわけではない。当時Maitreyaはことに「救済者」として北西インドで信仰されていた。「救済者(taraka)」とは「彼岸へと渡してくれる者」の意で、「大般若波羅蜜経(Mahaprajnaparamita Sastra)」に、「buddhadharma(覚醒した目から見た現象世界)は大海であり、信仰心をもつとはこの大海に乗り出すことであり、智慧がtaraka(渡守)となる」と述べられている。したがって「taraka」が「救済者」であることは一般には河の向こう岸へ船で渡す「渡守」から連想されただろうから、それは身近にいる人間の姿をしていなければならないのかもしれない。興味深いのは、この救済者/渡守という考えが、ザラスシュトラの教えにある死後に人の魂を審判する想像上の「チンワット橋」と、「渡る」ことによって彼岸に至るという点において通底していることである。

大乗仏教の中央アジアへの広がりはKushan朝という異民族による北西インドへの侵入と切り離せない。つまり、仏教の教えは古来異民族による往来盛んな<パンジャブ回廊>において様々な民族に受け入れられることで大きく変容し、そのことによって中央アジア、さらには東アジアにまで広がったのである。仏像が造られるようになったこと、それによって観想法が定着したこと、さらには観想体験によって「救済」の考えが確立されたことがその大きな理由であるのに違いない。大乗派が前一世紀頃に南インド(Andhra Pradesh)に現れたのは、支配者間で争いに明け暮れる当時の社会状況が影響しているようだ。そうした不安定な状況において他者を救済するという大乗派の運動が目的とするその救済とは、人々の心の不安に対処することであり、すなわち現世における心の救済であり、信仰心をもち智慧を達成することであり、彼岸への救済ではなかったはずである。そうした現実的な意味において、「Mahayana(大乗)」の「yana(乗物)」とは具体的には「渡し舟」を示しているだろう。当時は河には橋はかけられず渡し船が一般的だったという。その後、説一切有部(Sarvastivadin)の勢力圏であった一〜五世紀の北西インドでMaitreyaによる<救済>の観念は<救世主>思想へと変容していった。一世紀の北西インドにはすでにAmitabha信仰が流布しており、西方浄土の思想と共にそこには様々な形による西方文化の影響があったものと考えられる。そこで大乗派の考えは内側から変容せざるを得なかったというよりも、Kushan族のような異民族の信仰者が積極的に教えを変容していったのではないだろうか。このことは大乗経典の翻訳者に中央アジア出身者が多いことによっても推測される。大乗仏教はそうした変容を取り込むことで、異民族の侵入によってインド全土に急激な社会変化と新たな秩序を見るのと同時に展開された瑜伽行者派(Yogacara)と中観派(Madhyamika)という二つの主要な思想体系以上のものになったのである。

Maitreya」の語はサンスクリット語の「maitr(友愛の)」に由来し、「友愛者(もしくは友愛で繋がる者)」の意である。「maitr」の語はVeda期のMitra神の「mitr(結びつき・契約)」にまで遡る古い語である。Maitreyaについて最も早くに言及しているのはパーリ語の「Digha nikaya(長篇集録)」の中の「Cakkavatti Sutta(転輪王経)」で、それによれば、Maitreyaは人間が善法を復興して再び八万年生きるようになったときにKetumati(Varanasi)で生まれるだろう。そのときの王はCakkavatti Sankhaで、素晴らしい宮廷に住んでいるだろう。そこはそれ以前にMahapanada王が住むだろうが、王は宮廷を人に譲りMaitreyaの信奉者になるだろう、と述べられている。この内容は<救済者>の概念からほど遠いものだが、後に述べるようにMaitreyaの本質的な性格を言い表している。そして打って変わって、Maitreyaが将来の仏陀としてこの世に現れ、人々を救済するという仏陀による予言が「Maitreya Vyakarana(弥勒下生成仏経)」に述べられている。このように将来Maitreyaが仏陀となって地上に現れ法を説く「下生経典」に対して、Tusita(兜率天)Maitreyaが法を説くこと、すなわちTusita天で人間が善法を復興するまでMaitreyaが待機していることを主たる内容とするものを「上生経典」と言う。つまり、Maitreyaによる<救済>をめぐっては二つの異なる考えがあったということである。仏陀には過去に何人かの前身が現れ、また将来も別の仏陀によって受け継がれるという話はAsoka王の時代(268年〜前232)にすでにあったようだ。こうした未来の仏陀として現れるMaitreyaについての予言は仏教徒の全ての部派の文献で述べられており、その内容についてもほとんど同じであるという。上座部(Sthaviravada)のような旧守派までがMaitreya(菩薩)だけは認めており、その信仰を否定していない。多くの仏教徒には、仏陀と同じ時代にMaitreya(Tissa-Metteya)という人がいて、仏陀に帰依してすでに菩薩の<道>を実践していた、そう考えられていたようだ。仏陀は無限の寿命をもつが、その教えの存続には限界がある。なおかつ初期の「Anguttara nikaya(増支部集成)」には将来仏陀の教えが衰退するとも述べられている。それゆえ、過去の仏陀がシャカムニとして現れたように未来においてはMaitreya仏陀が現れる、そう期待されるようになったのである。ただし<救済>に関わるMaitreyaの在り方については異なる考えがあり、共有されていなかった。いずれにしてもKushan朝で最も広範した菩薩信仰は「将来やって来る救済者」Maitreyaに向けられたものであり、399年に中国の地を発ってインドに向かった法顕が述べているように、Maitreya(菩薩)崇拝は当時の北インドで最も盛んなものだったのである。

 

初期の匈奴(前三世紀〜一世紀)がそうであるが、ある程度の規模の遊牧社会は自らの牧畜生産物を定着民の農産物や工芸品と交換したがる傾向にあった。しかし、その交換の仕方は定着民の慣習である市場での自由売買や制度的に裏づけされた契約売買といった仕方によるのでなく、自ら定着民側にやって来て一方的な価値判断によって物と物との交換を強いるという仕方だった。むろん事前の通告もなかったはずだ。これは定着民側からしたら交換の強制、すなわち強奪とみられたに違いない。とはいえこうした状況を見ると、ザラスシュトラの時代やVeda期の遊牧(放牧)社会と異なり、周囲の定住民による交換経済の発達と共に遊牧民の生活行動も変化していったことが分かる。彼らは定着民の交換システムに暴力的に関わるのと同時に、交換を目的とした新たなネットワークを遊牧部族間で広範囲に形成し始めてもいたのである。こうした遊牧民の交換意欲は、彼らがシルクロードの交易に介入するようになったとき交換をめぐる活動をいっきに活発化させた。彼らは長距離を移動する交易者に安全な移動を保障する代わりに物品を掠め取るような仕方でまず利益を得たわけだが、もともと交換経済に意欲をもっていたため、物品で利益を得るよりも通行税を取るような仕方で抵抗なしに貨幣経済に入っていくことができた。さらには長距離交易の間に入って交易を仲介してマージンを得る一方で、交易者に食糧や商品運搬用の家畜を供給した。その結果、遊牧生活を放棄することなしに膨大な富を得ることになった。当初、ユーラシアの交易ルート一帯を支配していたのはスキタイ族で、彼らは獲得した金を加工して見事な装飾品をつくっている。それを見れば分かるように、彼らはことに動物の<デザイン化>に優れていた。前三世紀から三世紀にかけてローマ帝国と漢が隆盛し、ユーラシア大陸の東西での交易が盛んになった。というよりは、遊牧民が分散的に創り出していた交易ルートに東西の帝国が参入してきたと言う方が現実に近いだろう。交易をめぐる主導権争いが始まり、スキタイや匈奴は討伐の対象になった。Kushan朝は王朝初期(一世紀)に、交易をめぐってローマと敵対するようになっていたOxus河流域を支配していたイラン系のParthia王国を西方へ追いやり、さらにはインドへの交易路であるKabul地域を支配し、自ら東西交易ルートを支配するようになった。ローマ帝国と漢との長距離交易を仲介する位置にあたる中央アジア一帯を統率することで、さらにはローマ帝国とインドとの海洋貿易に介入することで、ローマ帝国の金貨がKushan朝の下に大量に入ってきた。その金を使ってKushan朝は独自の金貨を発行し、さらには新たにいくつもの都市を交易ルートに建設し、東西の商品を集積して交易の核となるような場を設けるといった新たなかたちの交易ネットワークを創り上げることに着手した。すなわち、それまでになかったような世界的規模の交易活動の<デザイン化>を推し進め、その業務を見事に果たしたのである。もはや移動生活を捨てて都市に定着するようになると、領内の農業生産を増やすために農地を灌漑し、地域権力をも交易ネットワークに取り込むことで領内の異民族同士の交易もさらに活発になり、地域社会の安定化を実現させた。そしてその結果を見れば、彼らはOxus河流域から北西インド、さらには中央インドにかけて、ハラッパ文明以来の都市文化と都市ネットワークによる交易社会を創り出すまでになった。それがガンダーラ文化を生み出すことになる基盤である。

まず一連の城塞都市が中央アジアから北西インドにかけて計画的に築かれた。城塞内部は主に宮殿と寺院、作業場と住居で成り立っていた。宮殿のある要塞は高い土台と堅固な城壁で囲まれ、内部の部屋は広々として天井も高く、壁画や彫刻で装飾されていた。中でも現在のKabulの北方に建設されたBegramは特徴的な都市である。城塞内部の宮殿に沿って大通りがあり、その大通りの反対側には店舗が並び、奥には区画された作業場があった。そして店舗には、インド産の象牙彫刻や宝石、ヒマラヤ産の香料、中国産の絹織物や漆塗り箱、エジプトやローマ産のガラス製品や青銅製品、石膏材の装飾レリーフ、その他シルクロードの交易品が並べられていた。おそらくそこで売られていたものだろうが、それらはまた注文に応じて調達もしくは複製できるものの目録品でもあったと考えられている。そうだとすれば、 Begramには多彩な職人が住み、多様な資材が運ばれてきたはずだ。またOxus河沿いの都市Termezの北方に位置するKhalchayanには前一〜二世紀の宮殿遺構があり、その内部の壁は土製彫刻や絵画によって装飾されている。絵画や彫刻は以前からあったどの都市にも匹敵する洗練度で表現されており、その装飾内容からして、月氏族が遊牧社会から定着社会へ移行したことの証拠とされている。この他にBactria南部のSurkh Kotalにはゾロアスター教の巨大な拝火神殿が建造された。広々とした階段が神殿へと導き、多くの者が参加して拝火儀礼が行われたと想定される。また西トルキスタンのMervKushan帝国下での仏教都市として知られ、それはおそらくアジアで最も西に栄えた仏教都市であった。そしてPeshawarでは、Kanishka王によって多くの仏教寺院と巨大なストゥーパが建造された。

インダス河口にはBaryagaza、インド西海岸のCambay湾にはBarbaricumの港があり、北インドから中央アジアにかけて支配するKushan朝が成立したことで、アラビア海沿岸からTaxilaPeshawarを経由し、Kabul河に沿ってBactriaに出て、そこからOxusを船で行き、アラル海まで出ることが容易にできるようになった。当時は水量も豊富で、アラル海からカスピ海へ、さらには黒海にまで出ることができたという。むろん、Begramは北西インドからインダス河に沿ってアラビア海に出て、地中海にまで繋がっていたことになる。その交易状況を見ると、インドからは、胡椒・生姜・サフラン・キンマ等の香料、香水、それに白檀油・甘松・麝香・肉桂・アロエ等の薬剤、さらには漆、そして藍・辰砂等の染料、絹、米、砂糖、胡麻油・ココナッツオイル等の植物油、綿、チーク・白檀・黒檀等の貴重木、真珠、ダイアモンド・ルビー・サファイア・碧玉等の宝石、象牙、珍奇な動物、そして奴隷などがある。反対にインドへ流れ込んで来たものは、金・銀の貴金属、銅・錫・鉛・アンチモン等の非鉄金属、馬、紫染料、珊瑚、ワイン、奴隷、美術陶芸品、ガラス製品などがある。こうして物品を列挙すると、当時の物流状況と人の欲望対象がよく分かる。例えば「Mahabharata」には、中央アジアの様々な使節団がYamna河沿いの首府Indraprasthaにやって来て、 Kuru王のYudhisthiraへ贈り物を献上したことが述べられている(II-47)。その中でBactriaからは「程よい大きさで美しく染め上げられ、心地良い感触の羊毛布」、様々な織物、羊皮、武器、宝石、そして中央アジアのSaka族やTochara族からは「長い距離を走行可能な」馬がもたらされるのが通例だったとある。Kushan朝がすでに存在していた無数の個別の交易ルートを繋ぎ合わせ、帝国を越えて広がる世界的交易ルートとして形づくることができた能力は、この時代における欲望を満たすためのずば抜けた経済感覚によるものであったろう。<デザイン化>とは欲望の流れを設計することであった。またそれまで個別の交易ルートを利用していた領土内の交易民は、それまでの支配者の場合と違ってさらに多方面にわたる大陸横断の交易ネットワークを創出することに一致協力することができた。こうした点についてもKushanの遊牧民性を考えずにはいられない。Kushan朝の<傘下>に集まった多様な利益集団は、それが遊牧民であろうと定着民であろうと、放牧民であろうと農業民であろうと、高地民であろうと低地民であろうと、商人であろうと原料供給者であろうと、原料産出者であろうと商品生産者であろうと、宗教人であろうと世俗人であろうと、彼らはこの<初期シルクロード>の時代にアジアのどこにでも見出されるような均一的な人たちではなかった。Kushan朝はこれら異なる全ての人々を一緒にまとめることのできる帝国を築いたアジアで最初の王朝だったのである。

領土が拡大するにしたがってKushan族は定着生活を選び取るようになった。定着によって農業生産力が増大することで必ずしも農業文化が遊牧文化を急激に凌ぐといった影響を与えることはなかったが、彼らは遊牧生活的な過去をより象徴的な形で定着生活に繋げていったと思われる。交易活動の<デザイン化>という、次々と欲望の流れを設計する局面に現れているのはかつての遊牧活動を象徴的に継承する形ではなかっただろうか。定着生活と交易活動の拡大による地域の政治的安定は人口を増加させ、食料生産物への要求がますます高まるようになると、新たな用水路がOxusSyrdarya()の間の各地域で造られるようになった。それらは以前のものと比べてより狭くより深く掘られ、同時に農地の端にではなく、主要用水路から鋭い角度で枝のように張り巡らすようにして農地の真ん中に掘られるようになったことが考古学的に確認されている。ペルシアのカナートは名高いが、古来よりOxus河下流域のKhwaresmでも灌漑技術者を養成していたと言われるほど灌漑への関心が高かったようだ。多くの灌漑事業によって以前は不毛であった(現在再び不毛であるが)海抜の低い土地がオアシスとなり、人も住めるようになった。領地内での農業生産は飛躍的に増え、農業従事者の居住地は丘陵地帯にまで広がった。都市には奴隷所有のシステムがあったが、領土の大半の農業地域では共同体内の自由民が部族や家系を軸にして旧来の生活を維持していた。こうして広大な領地における農業を主体とした様々な民族を含む混成社会をKushan朝が治めるようになったとき、その様々な民族とはすでに述べたように、様々な環境に住み、様々な労働に従事し、様々な信仰をもち、旧来の様々な言葉を語り、様々な文化をもつ民族であり、それぞれが独自の伝統と生活様式をもつ多様な民族であった。それにもかかわらず、Kushan帝国は帝国内で通ずる公的言語を設けなかったようだ。唯一ペルシア語のBactria方言であるAryan語が地域内の臣民が理解できる言語としてあり、数少ない石碑文が改定ギリシア文字で遺されている。Kushan朝はそれ以前の月氏族のままであるかのように領土の境界に関心がなかったようだが、公用語をもたなかったのもおそらく帝国が中央集権化されなかったことに由ると思われる。周縁の地域支配者はKushan朝の宗主権を直接的には認めていなかったが、交易による富を得んがために進んで王朝の協力者になった模様だ。かつてハラッパ文明は長距離交易を含む交易ネットワークを展開させたにもかかわらず文字をもたなかったが、交易を展開するだけならば限られた言語記号で事足れるということなのか。Kushan朝は王朝当初からコインを発行し、「Kushan」の語が初代Kujula Kadphises王からギリシア語かバクトリア語のどちらかで常にコイン発行の際に使われている。コインの表面には王の像が示され、そして裏面には様々な神が描かれ、Kushan族が一つの信仰を強いることなく逆に領地内の信仰を政策的に利用したことが窺われる。公用語がなくとも、通貨がその代替の役割を果たすだろうと考えたということか。

KabulPeshawarを繋ぐルートの途上にあるHaddaは、Kushan朝支配下の一世紀から三世紀の間、いくつかの仏教寺院と巡礼施設を擁する街だった。そればかりでなく、そこには経典の写本作業と翻訳作業を積極的に推し進める施設があった。写本と翻訳は専門的な作業であり、専門職の僧か、中央アジア系の大乗派の者がそこにいたことになる。またギリシア人もしくはギリシア人によって訓練された美術家たちがいて、ギリシア的な彫刻を「製造する街」でもあった。というのも、23000という数の彫刻とその破片が出土したからである。その中には仏像もある。多くが塑像で、そのどれもが高度なギリシア様式で造られている。その作風は写実的で、塑像であるがゆえにガンダーラ地方の表現とは異なる独特の優雅さを湛えている。こうしたことから、Haddaには様々な民族から成る仏教関係者が共に生活をしていたと考えられる。HaddaKabulPeshawarを繋ぐ交易ルートの途上に位置し、仏教巡礼者も同じ道を通ったはずだ。仏教施設は交易者から何らかの支援を受けていた。交易者というのは土地から離れた者で、土地制度的な身分や関係による束縛から自由な身である。そうした状態が仏教の教えと結び易いことは知られている。そのことは遊牧民であった支配者たちも同じで、彼らはインドという土地に根付いたバラモン支配体制を牽制するかのように仏教を支援したようだ。土地を離れ、西方に向かうにつれて、西方的な考えに触れた交易者たちが<救世者>を待望する機縁があると考えられる。Haddaからさらに西方のKabul周辺にも多くの僧院が造られた。Kabulから南東のMes Aynakには銅鉱山があり、その巨大な銅鉱を見下ろす丘にはかつて十以上の僧院が群れ集まっていたという。いったい彼らは何を求めていたのだろうか。Kushan帝国が仏教世界を取り込み、さらには仏教が帝国内に広がるにつれて、交易システムの方が仏教の教えとその実践に影響を与えるようになった。以前は富と現生の快楽に加担することを<苦>とみなす信仰であったのが、交易が拡大するにつれて富裕な商人による金銭的かつ物質的後援を許すようになったのである。仏教巡礼者は交易者のルートをそのまま辿り、巡礼者の宿泊所は商人の交易場やキャラバン・サライの隣に(ときにはその中に)設けられた。こうしたシステムは巡礼者と交易者双方にとって好都合だった。巡礼者は旅の安全を確保し、交易者は信仰についてさらなる情報を得ることができたからである。Kushan朝が商業的な場と信仰的な場との間に創り上げたこうした共生関係は、それ以前は地域的なものであった仏教に成功の鍵をもたらしたとも言える。教えを広めるために僧は交易ルートを最大限に活用し、商人は市場での売買の後に仏教寺院に供物をして来世のために功徳を積むことができたのである。

<交換>というものが商品と共に流れる知識と思考にいかに関わっているか、Kushan朝は同時代の誰よりもそのことを把握していたようだ。Kushan帝国は領地内での人の往来を活発にし、その結果、人々のコミュニケーションを増やし、異なる思想を論じ、また受け入れる機会を増やしたのだと思われる。しかしその反面、富める者が富み、不正も増えたのではないかと思う。贅沢な物品の流入や飲酒も常態化しただろう。<救済者>としてのMaitreya信仰が広範したということは一部に社会不安が兆しているということであり、それは急激な生産とそれを消費する社会の出現にその要因があると考えられる。莫大な寄付を受けていた仏教徒共同体もこうした動きの渦中にあり、そのことはHaddaでの経典写本や翻訳作業のシステム化が活発な経済活動を基盤にしていることからも分かる。仏教の信仰システムは交易者の援助を受けて安定したものとなり、仏陀本来の教えを省みることなく自ら貨幣経済の中へ突き進んでいったのである。

 

Kushan族は交易を設計する感覚に優れ、都市を次々と築き、商品の流通を促すと共に貨幣経済を推進した。こうした経済感覚が信仰における超越性を呼び寄せることになっても不思議ではない。彼らは貨幣のようにどこにでも自由に往来し、異なる民族や慣習、言語に触れても動じない。こうした流動性が自ずと超越的なものを呼び込むのではないだろうか。彼らはもともと遊牧民特有のそれぞれの部族の神々を信仰していただろうが、遊牧をやめて定着し、Oxus河流域で領土を確保した時点でゾロアスター教の影響を強く受けたようだ。したがってこの場合の超越性とは、古代アーリア人が部族別に異なる天上の神との関係を築くといった慣習にではなく、自分が従うものには他者も従わざるを得ない、そのように自他を超えたものがあり、そこに人知を超えた力を認めるといった認識である。それゆえ、自身の利益を乞い願う供犠を放棄して、人知と(超越的な)天とを結ぶ火を崇める儀礼はすぐに採用できるものだったろうし、ゾロアスター教にはすでに自他を超える世界についての理論的な構築も用意されていた。広大な領土を治めるためには世界に関するそうした理念が何よりも欠かせない。それゆえ、世界に関する何かしらの理念を携えたKushan朝の影響下でガンダーラの仏教信仰にも超越的な面が入ってきたのではないかと思われる。超越性は商人のように土地を離脱して平等意識に芽生えた者も潜在的に望むものであり、<救済者>の思想と連動すれば世俗であればあるほどその影響を受けやすい。実際、それはすぐに形になった。Amitabhaの住む浄土を信仰することや<救世主>としてのMaitreyaを信仰するといった形がそうであり、そうした信仰を表現するイコン的な仏像製作、仏像礼拝、仏像観想といった信仰にまつわる形式がその例である。そうであれば、そのときガンダーラでは仏教の一大変化が起きたことになるだろう。

いま一度ガンダーラ地方の歴史的経過を振り返れば、仏陀が教えを説いた時期(前五世紀)、ガンダーラ地方はアケメネス朝の管轄下にあった。それから一時的にアレクサンダー大王の軍に征服されたが(320年頃〜)、すぐに前305年にはマウルヤ朝の支配下に入った。前190年に再びギリシア系のBactria王国の領土となり、前90年に東部イラン系の遊牧民Saka族に侵入されるまでギリシア人による支配が続いた。次に西部イラン系のParthia人がOxusから攻め入って来て占領した。前130年頃、Kushan族がParthia人をOxus河流域地帯から追いやって旧Bactria王国の領地を占領し、そこで定着し始めた。そして一世紀に入るとKabulまで支配地域を広げ、50年頃にガンダーラに入り、Bactriaとガンダーラを共に掌握した。したがって、Kushan族が到来するまでのガンダーラ地方には、ペルシア、ギリシア、Parthiaの外来部族の影響が様々なかたちで醸成されていたことになる。30年頃にKujula Kadphisesが月氏を統一してKushan朝が起こり、80年頃に王位に就いたVima Kadphisesの発行した金貨には王が両肩から炎を吹き出す像が刻印されている。78年〜115()に王位に就いたKanishkaは金貨の表面に拝火壇に手をかざす王の姿を描いたが、その裏面には仏陀の像を刻印するというかたちで初めて仏陀のイメージ()を表している。コインにおける王権の炎は明確なKushan的表現であり、Kushan族がゾロアスター教徒の拝火儀礼から影響を受けたことを証している。おそらく前二世紀のBactria定着時代にそうした考えが醸成されたのだろう。

Kushan朝が到来してガンダーラ地方は仏教の一大中心地となった。Kabul河とSwat河がインダス河に合流する盆地帯にはTakhte-bahiをはじめとする多くの寺院が建造された。とはいえ、それ以前のガンダーラ地方には外来部族の影響と共に土着の信仰も深く根付いていた。ことにインド全域に見られるYaksi信仰はハラッパ文明における聖樹と一体化した女性精霊に由来するものと思われるが、豊饒と多産を司る女神となり、ことにガンダーラ地方ではHariti(鬼子母神)という形になって信仰されていた。伝説によれば、仏陀がHaritiを改宗させたのはPeshawar 渓谷であったとされるからである。多くのHariti像が発掘されているが、仏陀や菩薩像がその姿勢や装飾など決められた規格内での表現であるのに対して、元来土着民に根付いていた神格は様々な形で描かれ、自由に表現されている。例えばコルヌコピア(豊饒の角)を持つHariti像がある。この表現自体はローマの影響だろうが、ハラッパ文明の印章には動物の角が女性精霊と共に繰り返し描かれてきたのである。仏教内部に取り込まれながらも、仏教に先行すること千年〜二千年、それほど長い間続いてきた信仰としてその本質は変わらず、仏教説話による加工によっても民衆の信仰形態には基本的に影響を与えることがなかったのである。民衆に潜在する心理がガンダーラ文化と共に具体的な像となって表されたということであり、こうした表現は何らかのイメージを形にする機会があれば必ず現れて来るものなのである。

Taxilaには一世紀頃の女神像があるが、二世紀になるとガンダーラ地方では仏陀像がいっきに製作されている。あたかも触媒が働いて化学変化が速やかに起こるように、あらかじめ励起状態にあった分子がいっきに結晶化して形になって現れたようだ。仏像製作は、仏教徒共同体に捧げられた記念碑、僧院、ストゥーパなどの建設と軌を一つにしている。中でも仏陀を人の形として表すものはガンダーラ地方とYamna河沿いのMathuraで同時に出現したが、両者は本質的に異なる様式の下に製作されている。ガンダーラ表現のように人の姿を描くのにリアルな表現はインドの美的感覚に反するので、Mathuraでは仏陀を表現するのに現実的な描写を和らげる試みがなされているようだ。またMathuraの仏陀像に捧げられた銘文には、彫像は「仏陀像」というより単に「pratima()」と述べられているものがある。銘文の中には「菩薩坐像」とその像を同定させるものがあり、また「仏陀坐像」とするものもある。彫像に関連して使われる用語は様々で、そのことはおそらく彫像の使用が異なることを示している。つまり、単なる崇拝の対象か観想用かである。

Kushan朝の彫像表現で最も際立った特徴の一つはガンダーラ地方からのMaitreya像が多いことだと言われる。ガンダーラ地方やその北部のSwatTaxilaなどでMaitreya像が数多く出土している。その作例は大小様々だが、おおよそ全長50cmから等身大ほどの丸彫りの像が全体としては多いようだ。それらは当地産出の石材による彫刻であり、また持ち運びに不便であることから、Maitreya信仰が当地で流行を見た可能性を具体的に物語っている。また菩薩形のMaitreya像が多いのが特徴的である。この場合、Tusita天のMaitreya菩薩にまみえることができるよう、彫像が民衆による崇拝の対象として使用されたと考えられる。Maitreyaは両手で転法輪印を執る場合を除けば左手に水瓶を持つ。禅定印を執る場合も組んだ両指の間に水瓶を挟み持つ。水瓶は油壺と解釈される場合もあり、その場合はメシア的な仮説が強く押し出されることになる。ガンダーラ地方は位置的にもペルシア世界に近く、ゾロアスター教の<救世主>による影響を色濃く反映しているように思われる。またガンダーラからは一世紀のAmitabha青銅像とAmitabhaの石像が確認されており、その時代に「Dhyani Buddha(観想に現れる仏陀イメージ)」としてのAmitabha仏陀の信仰が広範していたことをも示している。Amitabha信仰は北西インドが起源とされ、その教えはおそらく一世紀から二世紀にかけて展開された。Amitabhaの過去生とされる菩薩譚が頻出するように、Amitabha信仰は浄土経成立以前からあるようだ。もともとその名からしてAmitabha(無量光)信仰は西方の要素を強くもっているが、仏陀の慈悲を説く大乗派の考えの下でDhyani Budhhaという観想上のイメージが付随して、多くの人々に「浄土信仰」が広く行き渡るようになったと考えられる。Dhyani Budhhaという考えおよびイメージの基には「Samboghakaya(楽身[報身]/菩薩過程をすでに完成させた身体)」の考えがあり、仏陀はあらゆる方角に赴いてその姿を顕し、あらゆる人に教えを説くと考えられるようになったからである。さらに<浄土のヴィジョン>は、空間的な広がりの認識、ことに西方に開かれた世界観、そしてそこから様々な贅沢品が流入して来るという物質的な豊かさの感覚を現実に経験しなければ、そのヴィジョンは実際に観想できないに違いない。知らないもの、見たことも聞いたこともないものを観想するのは難しい。交易ルートの中心地としての北西インドはまさにDhyani BuddhaとしてのAmitabha仏陀を観想するのに適した環境にあった。こうしたことに比べれば、主にインド中原世界で展開されたNikaya仏教が説く「三界」はあくまでも観念的な現象世界に限られ、空間の広がりや多様性、運動性に欠けている。一方、大乗派が目を向けたSamboghakayaの身体レベルは、コミュニケーションのレベルと言われる無限の広がりを抱えている。都市の発達と物質的な豊かさ、それに伴う異民族との交流・交換は、コミュニケーション・レベルにおいてSamboghakayaの表現に拍車をかけたのではないだろうか。こうしたSamboghakayaの身体レベルはその性質からして潜在的な感覚神経にまで影響を及ぼすだろう。そのとき例えば、Yaksi-Hariti信仰の<母と子供>の関係は、Amitabha仏陀の信仰における<浄土と現生の人間>という関係に置き換えられる可能性がある。一部の女性にとって、自分だけが子宝を願うといった信仰対象が、そこに超越的なものが介在して、全ての者が平等に願うことができる浄土という対象があるといった信仰へと容易く移行できるのである。そこではまた母が子を包み込むという包含関係は、浄土が自分を包み込むという包含関係へと感覚的に変容され得るのではないかと思う。そしてさらに言えば、<浄土のヴィジョン>に初めから唯一神を想定している<Saosyant/救世主>の考えが加わるとき、西方のメシア的なMaitreya信仰が発生する可能性がある。浄土という<空間>を志向する局面から、<救世主>であるMaitreyaが出現する未来というその<時間>を志向する局面への移行に際しては、かなり研ぎ澄まされた超越性をめぐる思考が介在しているはずだ。イラン的思考の中には<時間>は天地創造以前から働くという考えがあり、グノーシス思想のように、現生を否定するような超越性が考えられようとしているからである。

とはいえSamboghakayaの身体レベルを考えるとき、ガンダーラの写実的な仏像は観想に向いてないのではないかと思う。仏陀の思考がそうであったように、むしろそこには内在的なものを表現しようとする傾向がある。いっぽう、それよりも観想に向いていると考えられる仏像がこの時代にある。ガンダーラからさらに西方の交易都市Begramを含むKapisi地方はVima Kadphises王が夏の首府を築いたところで、周辺にはいくつかの仏教寺院があった。その仏像表現はガンダーラのものとは異なり、明らかにKushan族の意図の下に製作された思われる稚拙さを含むが、その表現手法には観想を前提として造られたのではないかと考えられる点がある。観想の際にはイメージは定型化していた方がいい。KapisiKhum ZargarPaitava出土の仏陀像は肩から炎もしくは光線(prabha)を吹き上げている。これはVima Kadphisesの金貨像と同じイメージである。そしてPaitavaの仏陀像の足元からは水流が流れ出ている。これらの像は仏陀による「Sravasti(舎衛城)の神変」の場面を描写したものだが、仏像を含む全体の構図はそれが極楽の場面を表すと考えられ、Dhyani BuddhaとしてのAmitabha仏陀の信仰を具体化する用意をしていると思われる。というのも、肩から炎を吹き出した燃灯仏像(三〜四世紀)Amitabha仏陀のイメージに近いからである。炎を吹き上げたり水流が流れ出したりといった具体的な表現の方が観想しやすいのは、そのイメージが審美的な感覚に関わるよりも、観想する身体の神経にくまなく関わるからである。このように観想に特化した仏陀像が、仏教諸派の伝統をもたないより西方域で造られたようだ。本来Amitabha仏陀は四つのDhyani Buddhaによるマンダラ状のヴィジョンに関わるものであるが、「観無量寿経」ではAmitabha仏陀はSukhavati、すなわち「仏界」と関連し、信仰者がそこに生まれ変わることができる場を創出する姿として描かれている。Sukhavatiは仏陀が住む場でもあるが、こうしたAmitabha仏陀の独立した役割が、Dhyani Buddhaのヴィジョンが明瞭な形になった後に書かれた経典において主要なものとなっている。そこではAmitabha仏陀に関する主題は、仏界すなわち生まれ変わりの場であるSukhavatiに移ってしまっている。そして、その最も肝要とされる教えは、Amitabha仏陀をめぐる空間を極楽として観想することにある。こうした教えは神と神の国を想起させる。「観無量寿経」では、観想対象としてのAmitabha仏陀と慈悲の体現としてのAmitabha仏陀が結合され、Amitabha仏陀の誓願とその名を唱えるだけで修行なしに浄土に生まれ変わることができるとも述べられている。深い誓願は疑念に汚れた心を一掃するとされるからである。こうしたことからすれば、Amitabha仏陀の信仰をめぐる諸現象は著しく仏陀本来の教えを変えてしまったに違いない。Amitabha仏陀の信仰では、Nirvana(涅槃)は、罪人でさえ後悔することで永久に幸福になり得るような浄土に置き換えられ、その教えは、仏性が全ての衆生に備わっていると宣言した。そうした意味において民衆にとって崇拝する価値のあるAmitabha仏陀が提出されたことで、歴史的仏陀はといえば、永遠に全知なる最高存在へと追いやられ、実在的な面において後退せざるを得なくなってしまったようだ。たしかに仏教の指導者がその実践を時代に適合させ、仏教の教えをより魅力的なものにするためにイデオロギーの一部の内容を改変する可能性もあるだろう。例えば、仏陀が堰を切ったように人の形で表された一つの理由は、民衆が聖なるイメージを使用している領域に信仰が広がりつつあり、人々の要求にしたがって物理的な表現を許したからでもある。そして、それに輪をかけてKushan朝のコインに仏陀が描かれたことは、この時代に異民族の支配者が仏教と提携する価値へと大きな変換したことを示しているが、それは仏教が清貧と謙虚さを信奉することから離れ、交易と富を受け入れなければならないということをも意味するだろう。しかしながら、ガンダーラの寺院施設を飾る現生の贅沢な生活表現が来世の極楽生活を信ずることの裏返しとなっているというのであれば、それは明らかに仏教信仰の倒錯した状況を示していると思う。 

Maitreyaが将来の仏陀となるという伝承は北西インドの説一切有部系を中心に早くから知られていたようだ。また瑜伽行者派とMaitreyaとの関係は深く、ことに瑜伽行者派の創始者であるAsanga(無着)Tusita天を訪れてMaitreya菩薩に会い、教えを受けたという伝承は広く知られている。したがって、瑜伽行者派を媒介にしてTusita天のMaitreya菩薩への信仰が新たに展開されていた可能性も想定できる。しかし、その場合の<救済者>Maitreya菩薩を信仰する内容は、<救世主>Maitreyaを待望する信仰とは異なっている。順番としては、未来のMaitreyaによる救済について説く「上生経典」に後続するかたちで、現在のMaitreyaの行状を説く「下生経典」が成立したと考えられている。「上生経典」が目指していることの一つとして、「Tusita天にはMaitreya菩薩が待機している」ことを伝えようとする点がまず挙げられる。「上生経典」は「六観経(「観仏三昧海経(トゥルファン成立説)」、「観無量寿経(トゥルファン成立説)」、「観普賢菩薩行法経」、「観虚空蔵菩薩経」、「観薬王薬上二菩薩経」、「観弥勒菩薩上生兜率天経(五世紀))」の一つとみなされてきた。こうした観仏経典はその性格上極めて視覚的な内容をもっており、「上生経典」も西北インドで見られるレリーフ彫刻同様、<上生信仰>の隆盛とともにその制作を要請されたものであると考えられる。ガンダーラや後にシルクロード上のTarim盆地周辺の仏教信仰地で行われた観想が「上生経典」成立以後もMaitreya信仰と密接に関わることから、<上生信仰>が伝統的に大乗派の中の観想を重視するグループと関係し、その関係が長らく続いたことが想定できる。AsangaMaitreyaの関係はまた、歴史上の人物と考えられていたMaitreya-nathaに関わるものでもある。そのMaitreya-natha には、瑜伽行者派の主要論書であるMadhyanta Vibhaga(中辺分別論)」、大乗派の綜合書Mahayanasutra Alankara(大乗荘厳経論)」、そして「空性」に対して「仏性(dharmadhatu)」を説くRatnagotra Vibhaga(宝性論)」が帰せられている。あるいは、例えば「中辺分別論」はTusita天でのMaitreya菩薩の説法をAsangaが筆録して人間の言葉にして表し、約百十の詩頌としたとも言われる。このようにAsangaMaitreyaの関係におけるMaitreyaは、一方は歴史的人物であり、他方はMaitreya菩薩であるという複雑なものになっているが、それに輪をかけて複雑にしているのが上述の三つの論書を含む「Maitreyaの五書」と言われる実際に存在する作品群であり、その著者はMaitreya-nathaなのかAsangaなのかという問題である。以下、その問題について考えてみたい。

チベット人Taranatha(15751634)の「仏教史(1608)」によれば、Asanga(無着)Purusapura(Peshawar)で生まれた。ガンダーラ地方の仏教寺院が破壊の憂き目にあったすぐ後だったという。三世紀になるとKushan朝は東西に分裂し、その後ササーン朝が一時的に北西インドに侵入して来る。ガンダーラ地方の政情は急激に不安定化したと思われる。そして360年にはBactriaにいたKidara族が反乱を起こし、Kushan朝はまもなく崩壊する。Asangaが生まれたのがその頃であれば、おそらくKushan朝崩壊前の四世紀前半ということになるだろうか。いずれにしても、北西インドが社会的に不安定になりつつある時代にAsangaは生まれたと言える。Asangaの父は宮廷バラモン司祭で、彼はヒンドゥー教家系の長男だった。青年期に母親から学芸と科学の教育を受け、その全ての科目に秀でていたという。Kushan朝期の文化的柔軟性は社会にプラグマティズムの認識を広め、例えばこの時代にあらゆる宗派の僧や司祭は、薬学、音楽、文法学、天文学といった世俗の教えに日常的に関心を持ち、そうした学問を宗派の理論と共に奨励したというAsangaしかし、若い頃より宗教生活に傾倒し、他の学問の道には見向きもせずに仏教教団に入った。ガンダーラ地方には多くの寺院があったが、破壊された寺院もあり、Asangaがどこの教団に属したのかは定かでない。Pindolaという名の学識者の下でNikaya仏教と大乗派の教えを共に学び、その内容を理解することに秀でていたという。彼はこのとき大乗派に「改宗した」といわれるが、おそらく初めは「化地部(Mahisasaka)」もしくは「根本説一切有部(Mulasarvastivadin)」に属し、その後大乗派に転向したと考えられている。Tusita天に住むと言われるMaitreya菩薩と比べても劣らない大乗の優れた師から教えを受けるために、Asangaはその身を捧げる探求の道へと参入した。この探求の表向きの理由はAsangaが<空>の教えを測り知ることができないというものだったという。十二年間にわたる瞑想修行を積み重ね、その間様々な師の下で学び、その結果、師中の師であるMaitreyaに会うことができたという。あるいは、Paramartha(真諦/六世紀)の伝記によれば、Asangaは自分の理解に満足できず、瞑想中にその瞑想力によってたびたびTusita天を訪れ、Maitreya菩薩 から<空>について直接教えを授けられたという。インドの天界の考えではそれはsamadhiを通じて行くことができる処とされ、瞑想の熟達者が夜中にTusita天を訪れたという同じような経験を記録している例がある。とはいえ、この点については「聖人伝」特有の内容であり、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、その内容には無視できない事柄も含まれている。こうしたAsangaの行動はまだガンダーラ地方でのことかと思われるが、瞑想は人の住む処から離れたところでしなければならず、AsangaTaxila郊外の丘陵地帯か、それともガンダーラ南部に広がる荒凉としたPotwar高原で瞑想修行をしたに違いない。Taranathaの「仏教史」に戻れば、これもParamarthaの伝記と同じような内容であるが、AsangaMaitreya-nathaに伴ってTusita天に行き、そこで仏教の教義について詳しく教えを受けたとある。そして「Maitreyaの五書」と知られるものを持って地上に戻り、後にそれについて解説し、他の者に教え説いたという。そうした作業を進めるうちにAsangaは多くの弟子を魅了し、多くの作品を執筆した。彼はインド王Gambhirapaksaの注意を引き、その後、王の支援の下で多くの僧院、一説に二十五の僧院を設立したという。Asangaは瑜伽行者派に関する多くの文献、例えば「Mahayana Samgraha(摂大乗論)」や「Abhidharma Samuccya(大乗阿毘達磨集論)」などを著したが、「Yogacarabhumi(瑜伽師地論)」については様々な時代と論者のテクストを編集したものと考えられている。AsangaNalandaの大僧院で何年か教えた後に、Nalanda近くのRajagrha(王舎城)で亡くなった。Asangaの死後、実弟のVasubandhuAsangaの著作を広めると共に自らも作品を著して名声を得た。「仏教史」によれば、Asangaは仏教の全ての部派の教えを解説する能力によって名高く、大乗派とNikaya仏教の経典双方を分かり易く説くことができるという評判を得ていた。どんな経典も先入観なく教えることができると称えられ、全ての部派の仏教徒が彼から経典やAbhidharmaを学んだという。Asangaは鋭い知性を持ち、「誤った教義や誤った実践に従う者たち」を巧妙に論破することができた。またAsangaは出家者と在家の信者が共に学ぶことができるsangha(仏教徒共同体)を設立した。sanghaとそこで学ぶ者はAsanga個人の資産によって支えられ、それゆえ世俗の人々の崇敬を受け、みな広く経典を学んだという。このことは、Asangaの時代(四世紀)にはまだ大乗派がNikaya仏教と明らかに異なる別の教団を確立していなかったことを示唆している。

ざっとAsangaの生涯を見渡した中でも、AsangaMaitreyaの関係は注目に値する。この点だけが非現実的な説明によって曖昧にされ、Asangaの聖人的な性格を打ち出している。「仏教史」によれば、Asangaの主要な著作もMaitreya菩薩から直接受けた教えであるとされ、Asangaは「聖なる真理」の伝達者、もしくは来たるべき仏陀が送った使者であるという。Sthiramati(安慧/六世紀)によれば、MaitreyaAsangaの「Ista devata(守護神)」であったという。こうしたことから、Maitreyaを特別な師と考えるAsangaが瞑想(dhyana)によってsamadhi状態に至り、その状態で得た洞察力を後に駆使して作品群を著したという可能性は考えられる。しかし一般的には、聖人的なMaitreya-nathaは信仰上の空想的人物ではなく実際の人物であると学者たちによって認められ、それゆえMaitreya-nathaも瑜伽行者派の共同創始者の一人に数え上げられてきた。とはいえMaitreyaに関しては、例えばMaitreya-nathaという人物がAsangaに帰せられる著作に関して言及され、また研究者によっては「五書」の著者はAsangaその人であると考える者もいるが、そうではなく、おそらくもう一人の歴史上の人物である別のMaitreya-nathaがいたという説もある。Asangaと結び付けられるこうした付加的な存在があり、信頼できる資料はないけれどもその存在はつねにMaitreyaという人物であるとされてきたのである。こうしたAsangaの人生におけるMaitreya-nathaの存在は、瑜伽行者派の瞑想手引書である「Yogacarabhumi」の中の「Bodhisattvabhumi(菩薩地論)」の主題と思想に関連があるようだ。

Maitreya-nathaを伝説的かつ聖人的人物とする考えにはそれなりに十分な理由がある。聖なる菩薩のヴィジョンやその菩薩との出会いは大乗派の伝統で受け入れられてきた特徴であり、大乗派の教えの正当性を価値づけるものとみなされているからである。この種の価値づけが、Maitreya菩薩がAsangaの人物伝における物語の一部として難なく受け入れられている主な理由であると思われる。当時、北西インドでMaitreya菩薩を信仰し観想することが広く行われていたことはすでに述べた。したがって、Asanga自身がこうした風潮に関わっていると考えてもいいだろう。Maitreyaについてはほとんどの仏教部派の文献中に見出されているが、それによれば、Maitreyaは遠い将来に現れると運命づけられ、そのときMaitreyaはシャカムニが当時そうしたように再び法輪を廻すのだとされる。またMaitreyaは現在Tusita天に住み、そこで仏性への道の最後の段階を終えようとしている。将来来たるべきMaitreyasasana(正統な教え)の復活に関わっており、個人の倫理と社会倫理の衰退そして回復という文脈の中で、かくあるべきとされる姿が詳細に述べられている。それらの中で最も早く、そしてよく知られたものが最初に述べた「Cakkavatti Sutta」で表明されているわけである。おそらく「Bodhisattvabhumi」の著者はこの経典の内容に気付いていたと思われ、その中で非常によく似た物語が述べられている。「Cakkavatti Sutta」の主題は、世界における正当な秩序(Dhamma)を失うことによって倫理が衰退してゆくプロセスに直面する人類の描写である。倫理の衰退は堕落や混沌、そして戦争に導いてゆく。「Bodhisattvabhumi」でも<堕落時代>が述べられており、著者が「Cakkavatti Sutta」の予言通り世界が現実的に衰退期の状態に近づいていると信じているのがよく分かる。このことが現実的にKushan朝期の経済的繁栄とそれに伴う消費生活に関連していることは明らかだが、最後には倫理が再生し、人類史の新たな<黄金時代>が遠い将来やって来るとき、Maitreyaは来るべき仏陀であり、次なる正義の王に手ほどきをする教師であるという。両書におけるこうした予言的な物語におけるMaitreyaと人間世界との関係に注目すると、その重要な特徴は、世の中が底知れぬ低迷状態にあってもMaitreyaは人に倫理をとりなさないという点にある。むしろMaitreyaは世界が自ら進んで倫理を再生しようとするときに現れるとされる。物語の最悪の時になって、倫理的振る舞いにおいて徐々に人間世界の向上を引き起こすのは、一掴みの生き残った人間たちの徳である。それから、長い世代を介して正しい倫理の状態へと回復していくのである。Maitreyaが現れるのはこうしたプロセスが完遂した時のみであり、倫理をとりなす者としてではない。Maitreyaは復活の物語の完成者として現れるのである。

AsangaMaitreyaとの関係については、Asanga が熱心な祈りと瞑想を通じてMaitreya に接することはできるけれども、Maitreyaが世界に現れる時期は未だ来ないというのは明らかであるとされている。Maitreyaに会って言葉を交わすことができるのはAsangaのみであり、厳密にはMaitreyaは精神的な功徳に欠けている者には見えない存在ということになっている。こうしたAsanga-Maitreyaの関係と「Bodhisattvabhumi」の主題を考え合わせると、Asanga が直接にMaitreyaと会って共に作品を著したとされているそのことは、物語に予言されている倫理の再生の模範となる土台として、その教えに、それらの作品内容に、力強い信任を与えることになったのではないだろうか。そして、こうした観点からAsangaの研究活動とその宗教活動をみれば、Asangaは、将来のMaitreyaの現れを要求するより高い倫理的な状態に向かって人々を指導するという仏教の教えにとって最も重要な役割を果たすべく日々活動していたということがよく分かるのである。「Bodhisattvabhumi」はことに倫理(sila)に注意を向けるよう読者に促している。それは倫理のための行為の規定と、大乗派における「律(vinaya)」を構成する規則とその説明をするのに最も長い章を割いている。というのも、人類の復活をめぐる物語の論理は、復活という結果を追求するには倫理の再生が実現するまでMaitreyaは現れないと指摘しているからである。さらには、Asangaが他の菩薩ではなく、Maitreyaと親密に提携したという事実にもまた重要性がある。Maitreyaは仏教の最初期の層に由来し、仏教における全ての部派において崇敬されている。非大乗派の徒には採用されない大乗派の天上的な菩薩とは異なり、Maitreyaはすべての仏教徒から敬われる人物なのである。もしAsangaがもっぱら大乗派の菩薩であるAmitabha仏陀や他の菩薩と提携したのだとしたら、彼ははっきりと大乗派の趣向を示したことになり、その教えを非大乗派の徒に受け入れさせることはできなかったと思われる。Asangaという人物についての実際的な描写は、彼が仏教研究者にして哲学者であるのみでなく、仏教文献を広範囲に引用することのできる偉大な教師であり、仏教の教えを守るのに十全に装備した守護者でありまた布教者でもあったということを如実に示している。Maitreyaとの提携、大乗派以前と大乗派の知識を等しく備えていること、仏教の思考のあらゆる局面を体系化して人々に教えたというAsangaは、Maitreyaを将来する者という役割に関して強力なイメージを創り出していると言える。おそらく「Maitreyaの五書」の一部はAsangaかあるいは名の知れぬ大乗派の学究の手になるものであり、当時からか、それとも時代を経てMaitreya-nathaに帰せられたのは、仏教の衰退期にあってAsangaMaitreya菩薩との提携を強く打ち出し、その内容の正当性を価値づけるためであったのだろう。そう考えるならば、このことには、仏教信仰が大きな変化に晒された時代にあって、それに対処するための正統的な学問仏教からの強いアピールが感じられる。Kushan朝期を境にして仏教の教えとそれをめぐる在り方は元に戻ることができないほど決定的に変容してしまった。それ相当の切迫感があってこのようなAsanga-Maitreya像を打ち出すことになったのだろう。

 

仏教のさらなる知識を得るために中国の使者が中央アジアを経由して派遣されたが、中には天山南路から南へ道をとってインドに直接向かう者もいた。伝説的な「石塔」がそのことを暗示しているという。その「石塔」の正確な位置を知ることはできないが、Kashgar を「越えた」ところにある「パミール高原の駅停」という指標として記録されている。その指標は現アフガニスタンのWakhan回廊周辺にあったのではないかと考えられている。おそらくKashgar南のパミール高原に位置する現在のTashkurgan近くにあったのだろうが、そこは天山山脈を経由して中央アジアと中国を結ぶ主要回廊からは外れたルート上にある。すなわちそれはそれ自身で独立した別のルートであったが、商業的な<交換>のみでなく非商業的な<交換>も支えていたようだ。こうした二次的な毛細血管のようなルートはキャラバンには向いていないが、新たに続々と出現していたようである。こうした別のルートはその後も存在し続け、単なる移動、交易、文化交流のいずれに関わらず、その需要に応じたのである。Aurel Steinは北インドとTarim盆地を繋ぐルートを調査して、岩絵、無名の銘、仏教徒の手稿、銘のある彫像などを記録している。その後の調査は、それらがカロシュティー文字やソグド語、チベット語、Bactria語、漢語、Parthia語、中世ペルシア語、シリア語、ヘブライ語で記されていると述べている。様々な民族の者が何らかの意図があって細々としたルートを通って目的地に向かったようだ。インドから中国へ行く者と中国からインドへ来る者の旅中の想いはその目的が異なるために違ったものであったに違いない。私はインドから中国へ仏教を伝えに行く者よりも中国から仏法を求めてインドに来る者の方にどちらかと言えば想いが寄せられる。Chitral河の渓谷に沿って砂利道をジープで行くときに、その渓谷の深さと聳える絶壁に三蔵法師が見た光景はこれではないかと思ったことを今でも覚えている。ChitralからShandur(3738m)を越えてGilgitへ出た。途中は幾日も徒歩の旅で、宿もなく苦しい思いをした。Gilgit側に入ると厚い毛に覆われた駱駝を見かけた。後に中国との国境が開いたので、GilgitからKhunjerab(4693m)を越えてTashkurganを経由してKashgarにも出た。むろんバスの旅だが、悪路が続く厳しいルートだった。ここでも厚い毛に覆われた駱駝が放牧されているのを見た。苦しかった旅の経験を想い出すと、往時の人がパミール山中を徒歩で旅したそのルートを地図上で辿ってみるのだが、いまだに信じがたい気持ちになる。この地域には無数のルートがあり、何らかの理由があって中央アジアのルートを避けなければならなかった人たちが通ったと言われるが、その苦難を想像しようとしても想像し難い。せめて彼らの後ろ姿を見ようと思うのだが、それさえも影だけがぼんやり浮かぶだけで、焦点は定まらない。