Sunday, May 30, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

  三 パンジャブ回廊

  4 瞑想の展開

 

シャカムニ(シャカ族の賢者)は断食したまま瞑想を続け、「私の皮膚、腱、そして骨のみが残り、血は乾き、肉は萎れたけれども、私は全き覚醒を得るまでこの座から決して動くことがないだろう」と考えた。しかし、極度に衰えた身体では<楽>は得難いと考え、河の畔に出て乳粥の施し物を受けて食べ、それから(後に菩提樹と呼ばれることになる)Asvattha樹の下に座し、再び瞑想に入った。「呼吸に意識を集中させ、初めて瞑想による意識の安定状態(dhyana)に入っていった」。それから段階的に、第二の安定状態、第三の安定状態、第四の安定状態へと進んでいった。そのようにして意識を構成している汚れを取り除き、明澄な意識に至ると、その意識を過去に生を受けたものを次々と想起する認識へと向かわせた。これは夜の初更に得た最初の認識だった。それから彼は多様な姿をした生命それぞれがその行いとかけ離れて、良い状態でまた苦難の状態で、消えそして再び現れ来る認識へと意識を向かわせた。これは夜の深まる時間帯に得た二番目の認識だった。次に彼は、それらの認識の痕跡を消した()認識へと意識を向かわせた。そして、()認識に向かわせた意識に没入してから七日目の終わりになって、「彼は意識の没入状態(samadhi)から抜け出すと、夜の間の起きている最初の時間帯に、物事がどのように生じているかについての<縁起>の知見を確かなものにし」、「我が無明からの解脱は不動である」と自覚した。そのとき、シャカムニはbuddha(覚醒した)者となった。

初期の仏教文献はヨーガや瞑想の実践について述べている。シャカムニがsramana(出家)となったときには様々なタイプの苦行者がおり、彼らが伝えていたものをシャカムニは借用したようだ。パーリ語の経典は、そのときシャカムニは飢えや意識を統御する目的で口蓋を舌で圧していたと述べている。瞑想する際には脚を組み、その踵を会陰にあてて圧する姿勢をとった。これはクンダリーニを刺激する現代的なヨーガの姿勢である。瞑想の実践を論じる主要な経典には「Satipatthana(意識を集中させることについての経典)」やAnapanasati(呼吸に意識を向けることについての経典)」があり、「Majjhima nikaya(中篇集録)」のような初期の仏教文献に含まれている。当時、dhyana(瞑想)samadhi(意識の没入状態)あるいはyogaといった方法がすでに苦行者たちによって心の平静状態を保つのに用いられていた。シャカムニはいくつかの大樹の下で瞑想している。樹木信仰は古来定住民のもので、ことに Asvattha樹はハラッパ文明の印章に刻まれており、その印章画の内容からしてそれが特別な樹であったことが分かる。Asvattha樹の信仰が広く行き渡っていたのか、それとも長い時間をかけてインド中原にまで伝わっていたのだろうか。

シャカムニは断食の苦行をやめ、Asvattha樹を背にしてまず四つの段階の瞑想に取り組んだ。その結果、意識は明澄になり、次にその明澄な意識を過去の生命を想起することに向かわせた。それからそこに次々と現れて来るものが無常であることに意識を向かわせ、次にそうした自身の意識の働きがもたらす現れを消したところに意識を向かわせ、その超意識ともいうべき相を経験した。その後、意識の没入状態から抜け出し、「縁起」の認識を確かなものにした。すなわち、「明(vidya)」から「無明(avidya)」へと、心というものが展開して来るそのプロセスを自覚したのである。

繰り返しになるが、このことを言い換えれば、最初の瞑想(dhyana)において、雑念が伴うことのない、ある主題に集中できる安定しかつ明澄な意識をまず実現させ、その状態において、具体的にある主題に繰り返し意識を集中して向かわせるという次の段階の瞑想(dhyana)にとりかかった。過去生を見るということは、生あるもの全てが条件づけられて生まれ、成長し、死についた、ということの認識を確認することである。生あるもの全ての意識はこの現世の流れの中で各々の意向によってではなく、他に条件づけられたものとして現象している、それゆえそれは確かなものではない、そうした認識を確かなものにしたのである。そして、その主題の内容として現れて来るものの痕跡を消した状態というのは、それは意識の集中というよりも、明澄な意識があるがままに働くような状態に留まること(samadhi)ではないだろうか。それは意識が概念形成の働きをすることのない<明>の状態であり、そうした<明>の状態を経験し、その経験の余韻を遺したまま意識がふたたび<無明>へと展開し始める場に確かな認識が立ち現れてくる。そのとき、意識があるがままに働く状態が主題形成するようになる意識活動のそのプロセスを丸ごと見た、すなわち直感的に見たことになる。

こうしたことから、最初の「catur dhyana/四段階の瞑想」は、「Yoga Sutra」などで言われる心身の平衡状態を保つ瞑想とは異なる瞑想の仕方であったことが分かる。それはまず何よりも明澄な意識の働きを実現させるための瞑想だった。そして意識の概念形成の働きに伴う迷妄を取り除き、心身の浄化を促進するためには、倫理的主題に向けた意識の集中が不可欠であったように思われる。それは、明澄な意識の場に明敏な認識力が働くよう導くためであり、各々の段階において明敏な認識力を働かせるための瞑想でなければならなかったからである。そのとき、明敏な認識力が顕す思考は、表象や対象を形成する思考から、直感的に現象の意味を自覚するようなものへと移行していったのである。

四段階の瞑想」によって明澄な意識を実現させると、シャカムニの瞑想は、「四聖諦(catvari aryasatyani)」と「縁起(pratityasamutpada)」という倫理的主題に意識を向けることで、その主題の意味を直感的に捉える方へと展開されていった。「四聖諦」とは「四つの真理」の意で、それらは、人間の(生・老・病・死をめぐる)苦は現存在における生得的なものであること、苦の意識は執着と共に生まれること、苦の意識は執着を断つことで終わらせることができること、執着を断ち、苦の意識を終わらせることのできる<道>があること、の四つである。これら、苦の意識による膠着状態、苦の意識の始まり、苦の意識からの解放、解放に向かう<道>という四つの真理とは、ある意味で世界にインストールされた私たち人間の限界的な状況と、その状況が人間のためにいまだ保持している可能性とを言い表しているように思う。そして、この限界的な状況が、「これを条件としてあれがあるという現象の生起」を意味する「縁起」として言い表され、それはまた、自身の心をも含めたあらゆる現象の成り立ち方をも示していると直感された。すなわち、「無明(根本的無知)によって、生活作用その他が生ずる」と言われるように、この「縁起」という網状をした世界原理を現象させている、私たち人間にとって最初の構成要素であるものが、認識の働きという励起状態が、表象や対象を形成することで低下すること(avidya/無明)である。この励起低下(それと共に知性の働きも低下する)は、二つ目の構成要素である、現実を構成する働き(samskarah/人の行い)と結びついている。人の行為は、私たちの現実感覚がつねにそれ以前においてすでに評価された現実感覚に基づいているという事実からすれば、その実際の働きにおいては各々の倫理的な<姿勢>を前提としている。そしてその<姿勢>は、三つ目の構成要素である知覚の働き(vijnana/)に結びついている。その知覚の働きについても、ここでは個々の知覚による実際の判断というのではなく、すでに評価された判断に向かう否応のない流れとしての働きと考えなければならない。このような仕方で「縁起」は生起している、そう仏陀は自覚したのである。そうであれば、人間をめぐる限界的な状況が、限界的であるにも関わらずいまだ可能性を保持しているというその可能性とは、「縁起」を丸ごと自覚し、現象が展開してくるそのプロセスの流れを遡行するようにして逆に進むところに見出せるだろう。それが、仏陀が示すことになる<道>である。

実践的であるという信念に基づいて、仏教徒はdhyana(瞑想)samadhi(意識の没入状態)といった方法に特別な注意を払ってきた。Veda時代の言葉である「dhi(思考)」のもともとの意味は、「何かが自分自身に(あたかも)現れている(ように)させること/保つこと」であったようである。すなわち、それは強い視覚的な意味合いを含んでいる。したがってそれは、象徴表現や、内と外の両方の世界から成る現実を再現することにおいて最も活動的である意識の働きと考えられていたに違いない。そうした意識の意図的な働きを基にして「dhyana」や「samadhi」という用語もつくられてきたと考えられるが、前にも述べたように、仏陀の捉え方はそれとは異なっていたようだ。

Nikaya仏教では、仏陀が瞑想を通じて覚醒を得たことに基づいて、瞑想が修行の主体となっている。そして、仏陀がまず四段階の瞑想をしたとされるように、その認識状態に応じて瞑想には様々な段階が識別されていた。瞑想の段階に応じた認識の相が明らかにされ、修行者は瞑想の習熟度に応じてその認識に向き合ったのである。ちなみに、最近は「小乗仏教」と言う代わりに「Nikaya仏教」という言葉が使われている。「nikaya」は「集まる(集められる)もの(こと)」の意味で、仏陀の言葉をパーリ語で集めた「nikaya(集録)」が、例えばMajjhima nikaya」のように初期仏教徒の経典となっている。「hinayana」すなわち「小さな乗物」という表現は、後世に生まれた大乗派が初期のagama(阿含/仏陀の教え)のみを経典とするsravaka(声聞)から成る諸学派を指すのに使ったもので、自ら「大乗(mahayana/大きな乗物)」と名乗るのに対して相手を卑下した表現である。「hinayana」と呼ばれた諸学派はそれに対して「大乗派」の経典を仏陀の言葉ではないという理由で受け入れなかった。こうした卑下・対立のニュアンスをなくすために、ここでも「小乗仏教」の代わりに「Nikaya仏教」と言うことにする。

Nikaya仏教においてsamadhi」の語は、明澄な意識を保ち、そして一つの主題に意識を向け、その結果得られる精神集中もしくは意識の没入状態を言い表している。それは、「結びつける」を意味する「yuj」から派生した「yoga」の語が表すものとは異なっているようだ。yogaは精神集中の状態が鎮静した際の心身一体的な結びつき状態に関わり、それに対してsamadhiでは主に意識の働きが集中的に主題に向けられ、その果ての心身一体的な結びつき状態()から抜け出した際の意識の没入状態、あるいは意識のあるがままの働きに関わるからである。いっぽう、「dhyana」の語は、samadhiという没入状態に至る前の意識集中の諸段階に関わるのに使われている。yogaの方法については、初期仏教ではあまり用いられていないようだ。

シャカムニがsamadhiに至る前に「四段階の瞑想(dhyana)」をしたと言われることから、dhyanaの実践は四つの段階に分かれている。その実践が四段階を通じて進展するにつれて、瞑想する者の意識の集中の仕方が高まっていく。具体的には、最初のdhyanaでは、外的世界の成り立ちに関して「調査(vitarka)」し、さらに「精査(vicara)」することに意識を向かわせる。次の、第二段階のdhyanaから先は、外的世界に向けられた知覚が遮断され、<調査>と<精査>にはもはや意識を向かわせない。そして、第三段階のdhyanaを通じて瞑想者は身体的な「楽(sukha)」の状態を経験するが、第四段階ではこの「楽」の状態は消滅する。いっぽう、意識はより明澄となり、心の「平静状態(upeksa)」が定まる。これら四段階のdhyanaの核心は、最終的に「一つの主題に意識を向かわせ、意識の働きを集中させる(ekagrata)」ことにあると言われる。

繰り返しになるが、これら四段階のdhyanaの経過を説明的に言い表せば次のようになる。

最初のdhyanaにおいては、外部の対象に意識の働きを向け(vitaka)、対象を精査する(vicara)ことに意識を向かわせる。すなわち、意識が体験する(感覚し・知覚する)形とその領域を「探り・入念に調べあげる(vitarka-vicara)」のである。「vi」という前置詞的な語は「距離を取る」を意味し、意識がそこに生み出す内容から意識自体が距離を取る態勢がうかがわれる。

二番目のdhyanaは、意識が自ら体験する形とその領域を「探り・入念に調べあげる(vitarka-vicara)」段階から、形や領域が現れ来る方へと意識を導き/向かわせる修練をする。つまり、感覚的で形があるものとして現れ来る対象(所縁)にではなく、それが現れ来る仕方(行相)の方に注意を向けるのである。そうすることで、感覚的で形があるものへと束縛しようとする意識の働きから解放される喜び(priti)を味わうと言われる。とはいえ、この段階にあっても、人はまだ意識の働きをそれが注意を向けるものに応じて枠づけていることになる。この段階は、「探り・入念に調べあげる」働きに伴う心の相対的な落ち着きのなさがないことによって印づけられるという。「探り・入念に調べあげる」働きは、いまや静かな喜びと心の安定状態に取って代わられようとしているのである。

三番目のdhyanaは、心が安定することによって意識に動的な均衡状態がもたらされ、そこに潜在的で肯定的な意識の力が初めて働くようになると言われる。このとき意識は、体験された内容へのより深い理解と、より一層の明澄さに特徴づけられている。身体には心地よい興奮が伴い(sukha)、そのことが身体を生き生きとしたものにするという。

四番目のdhyanaは、動的な均衡状態がもたらす潜在的にして肯定的な意識の働きのそのプロセス(upeksa)に関わる。それは身体的な心地よさというよりも、明澄な知覚/意識の働く状態である。このとき、dhyanaは時間推移と空間変化とが結びついているような意識状態にあり、この対象化できないような場に、「新たに生まれ来る」意識の位相を集中的に投影すること(ekagrata)に関わっていくのだという。

 Nikaya仏教には、生まれ変わりに関する考え(輪廻/samsara)と共に「三界(triloka)」の考えがあり、それは主に人間の<欲望>をめぐる論議と共にある。「欲望世界(kamadhatu)」は日々意識が散乱し、焦点の定まらない心が支配する世界であり、「形象世界(rupadhatu)」と「非形象世界(arupadhatu)」が「瞑想の領域(dhyana bhumi)」であるのに対して、それは「瞑想の領域」ではない。<欲望世界>と最初のdhyana段階との間に瞑想のための「予備的段階(anagamya)」があり、この予備的段階と最初のdhyanaにおいて、<調査>と<精査>に意識の働きを向けることになる。そして、最初のdhyanaと第二のdhyanaとの間の「中間段階(dhyana antara)」では<精査>のみがあるとされる。この段階では<調査>は自ずと消滅する。<調査>と<精査>は共に知覚の働きであるにもかかわらず<調査>が先に消滅するのは、それが意識活動のより粗雑な形態であるからという。第二のdhyanaから先は、意識の働きが主に自らが働くそのプロセスに向けられることから、対象に関わる<調査>も<精査>も自ずと消滅する。そして、四段階目のdhyanaには、「感覚の生じない意識の集中状態の達成(asamjna samapatti)」があり、そこでは全ての感覚が完全に消滅するとされる。非仏教徒はことにこの種の忘我状態に入るのを好むと言われ、しばしばそれを「nirvana(涅槃/解脱状態)」と思い込むという。この忘我状態にありながらもしその人が死ねば、その人は四段階目の<瞑想天>の一部である感覚のない世界に生まれ変わるとも言われている。「nirodha samapatti(意識集中への没入達成)」は、この「感覚の生じない意識の集中状態の達成」に似た状態であると言われる。その状態では、感覚による興奮が抑えられた意識の機能のみが働き、仏教徒だけがこの種の瞑想段階へと分け入っていくと考えられている。この状態にありながらもしその人が死ねば、その人は<非形象世界>における感覚も無感覚もない世界に生まれ変わることになると言われる。こうした想定話は非本質的なものではあるが、欲望を制御しきった<非形象世界>とは何かを考えるうえで参考になる。四段階目のdhyanaにあっても、そのとき瞑想者は身体感覚から完全に自由になるというわけでは決してないが、それでも、より高次の瞑想はいかなる(物理的な)身体感覚も欠いた意識のみで成り立っているとされる。こうしたより高次の瞑想においては四つの「非形象的没入状態(arupa samadhi)」があるとされる。この場合の<形象>とは物理的な身体のことを述べており、その四つの忘我状態において瞑想者は瞑想しながら自身の身体に気づいてもいる。しかし、そこに身体があるとは言えない状態にあるのだという。すなわち<非形象世界>とは、そこには物質を欠いている(物質感覚を欠いている)ので、物理的な場として存在すると言うことができない、というような場を意味しているのである。したがって、物理的な場として存在しないとみられる<場>には欲望は生まれない、そう<欲望>について観念していることになる。

この「忘我の四段階」のために準備するいくつかの瞑想実践が述べられている。それらの瞑想は一転して心身的なものに関わっている。まず呼吸を数えながら瞑想する、それから身体の不浄を想い瞑想する、そして「四つの想起(catvarismrtyupasthanai/身体の不浄・感覚興奮による苦悩・心の無常・現象が無実体であること等を心に呼び起こす)」に関わり瞑想する、「四無量心(catvaryapramanani/友愛心・慈悲心・同情心・平等心)」に関わり瞑想する、解放への三つの門(全ての現象には実体がないこと/空・現象には標がないこと/無相・望みをもたないこと/無作)に関わり瞑想する、等である。このとき、瞑想(dhyana)は主に二つの状態に分類されている。一つは「samatha(心を平静に保つ状態/)」であり、もう一つは「vipasyana(平静な心を土台として真理への洞察力を得る状態/)」である。「四つの想起」と「四無量心」はvipasyanaが主に関わるものである。vipasyanaの瞑想は「明敏な洞察力(prajna/智慧)」を働かせるのに特化しているが、その中で最も重要なものは、「五蘊(人間存在を構成する五要素/色・受・想・行・識)」と「縁起」に関わる「四聖諦」の瞑想である。「五蘊」については、その各々の要素は無常で非実体であり、苦悩の源であることに意識を向ける。このとき、正しい<智慧>が働くにつれて、意識の「汚染(klesa)」、すなわち諸々の概念を構成する働きが除去されていくと言われる。すなわち、<無明>から<明>へ逆進する<道>に向けて一歩踏み出すことになるのである。

Nikaya仏教では特に、意識を三つの主題、すなわち「解放への三つの門」へ向かわせることによるsamadhi(意識の没入状態)の段階が述べられている。それらは、「sunyata/空」へのsamadhi、「animitta/無相」へのsamadhi、「aparnihita/無作」へのsamadhiである。人が「samadhi」にある状態を言葉で説明するのは難しいが、それを推測すれば、意識の働きが生み出す対象(所縁)がどのように現れ来る(行相)のかという方へ意識を向かわせたときの意識の在り方と重なっているような状態を言うのだろう。その状態において、意識が働くそのプロセスがあるがままに見出される契機があるからである。これらのsamadhiは、大乗派の「般若波羅蜜経」でも高く評価されている。「prajna(明敏な洞察力/智慧)の修練にはsamadhi(意識の没入状態)を成り立たせる土台がなければならない」と言われている。このようにsamadhiの実践は<智慧>の達成に先行すると考えられていた。それは、samadhiにおいては心がかき乱されることがない、たとえ意識の向け方が移り変化しても、対象に関わることがないので心はかき乱されることがないからである。そのことによって新たにsamadhiの局面が見出され、初期の大乗文献の中でも述べられている。すでに述べたように、samadhiも、「samatha(意識の没入状態による心の静寂)」と「vipasyana(意識の没入状態における明敏な洞察力の働き)」との二つの基本的な局面に分けて考えられている。「心が平静に保たれ、一つの対象に意識を没入させることができると、そこに確かな洞察力が生起する」、と言われている。明敏な洞察力がsamadhiと共に働き始めると、その洞察力はsamadhiの進展と共により強まっていくのである。そうした samadhiの最良のかたちは、samadhiのそれら二つの局面、すなわち心が静寂のうちにあることと明敏な洞察力の働きとが釣り合っているときに生起すると言われる。そのとき、意識がそれ自身で働くような(認識)領域が確立されるのだと考えられる。その領域では、知覚における主体的な側面(時間認識)は客体的な側面(空間認識)と同等の役割をしており、それゆえ主客が判別されることなく意識が働くのを体験する。対象化できないこうした意識の真新しい態勢(認識の励起する場)においてbuddha(覚醒)状態が自覚される。むろんその<自覚>はその態勢から抜け出した直後に得られるのだろう。

ここまで瞑想する意識の位相の展開について言葉を尽くしてきたが、それらの段階における意識の働きは私たちの日常意識につきまとう主題形成的なものとは全く異なっているということが分かってくる。私たちが意識に浮かべる表象はすでにして何か他のものを装って何とかしてふたたび現れようとする別の何かをあらかじめ前提している。それゆえそこに現れ来るものとは、条件的に感受されたイメージとすでにイメージしたことのある感受作用のその両方なのである。それに対して、samadhiによる意識がそれ自身で働くような(認識)領域とは、かつて現れた何かがそこに現れ来るという状態では全くない。それは<意識の没入状態>と翻訳しているように主客が判別されることなく、なおかつそれは「つねに新たな」と言っていいような意識状態にある。とすれば、逆に考えれば、まさに意識に対象が現れ来るという現象自体が、生という開かれたもの(空・無相・無作)が制約されているというそのことを証言しているわけである。生という開かれたものは、その全体性を部分にして分析することができないし、それはまた一部に局限され得ない。この非局在性および非局限性が、「非形象世界/無色界」と呼ばれているのだと考えられる。そこにもし身体があるという知覚現象があるとすれば、それは何にも限定されることなく全体的な様相として生起しているだろう。

<無明>から<明>へと誘導するための<道>は瞑想(dhyana)によって育成される。そのことは、<道>を指し示している「四聖諦」についてのより深い理解を達成することにある。ここまで述べてきたように、<道>は現象の成り立ちを知ることによって執着を断ち切るという限られた範囲での準備的局面と共に始まるが、その準備段階における最終局面は<道>の有効性に関してより広い範囲をもつことになる。そのために、<道>はどのようにして進んで行くかについての瞑想があり、それは意識を四つの「徹底的にして詳細にわたる評価に向ける(dhyana)」ことから成っている。それらは、現象への深い関心(dharma pravicaya)、たゆまぬ努力(virya)、精神的能力をそこに向けて注ぐこと(prajna)、細部まで行き届いた探査(smrti)、である。これら四つの評価は、「成功の足場(ruddhipada)」と名付けられている。この準備的局面は結果として、実践者をして世界を「生まれたての眼で」見る局面へと推し進め、すなわち<道>を進んでいるという認識に至らせることになる。この局面において、二つの主要レベルから成る階層秩序が現れてくるとされる。そのうちの低い方のレベルは「温かさ(usman/)」の開始から成ると言われている。というのも、その「温かさ」の熱は、瞑想実践者に立ち現れてくる信念の「熱」の徴と解されるものだからである。このレベルは強度を同じくする三つの等級へと増え、それら強度の三つの等級を経ることで「頂点(murdhan/)」において絶頂にいたる。というのも、そのとき瞑想実践者は<道>における最も高い頂に進んだという確信が得られるからである。「温かさ」とか「頂点」という言葉は、これらの局面の感覚体験的な性格を示している。この「温かさ」の状態が、yogaで調息によって体を発熱させる「tapas()」と類似した現象であれば、そこにはまだ身体感覚があることになる。いずれにしても、「暖かさ」とか「頂点」という<体験>を経て、瞑想実践者は確実に明敏な洞察力の<道>に入っていく。

 

Abhidharma哲学はNikaya仏教の展開を俯瞰的に捉えた諸論書から成る。その中心はdharmaの分析にある。すなわち、あらゆる現象(dharma)の分析を目的とした。彼らは自らの意識を含む「心」という現象を分析するのに瞑想(dhyana)をもってし、そのdhyanaは「止観(samathavipasyanaの両局面)」の段階を軸にして展開された。

パーリ語で書かれた最初のAbhidharma哲学の著作「Dhammasangani」は次のような言葉で始められている。「健全な姿勢が、欲望の支配する、人間の活動範囲に属しながらも、晴朗さに染まり、かつ晴朗さを伴い、そして真に叡智的な洞察力と結びつき、かつそれを携え、そこから生じるときに…」(Herbert Guentherによる英訳より 1989)と。この表現は、泥水の中から芽吹き、それにも関わらず晴朗に咲く蓮の花の開花プロセスを想い出させる。しかし、「姿勢(citta/)」についてのその内容は二重になっているので、蓮の花の喩えの枠には治らないような意味合いが含まれている。それは<欲望>という潜在的な力が生まれる領域にまで踏み込んで語られているようだ。すなわち、心は<欲望>という生命の全体的な活動から生じるものでありながらも、「叡智的な洞察力/prajna」という、概念構築に傾向づけられることのない明敏な判断力と「結びつき、それを携え、そこから生じる」とき、<欲望>という生の領域にありながらもその生命は、<欲望>がそのまま示す方向とは異なる、より倫理的に発展的な活動の領域へ向かって働くことになる、というのである。さらには、人間の活動を支配するその「欲望は二重になっている」とBuddhaghosa(覚鳴/五世紀)は言う。「すなわち、対象と情動のプロセスとにである。情動のプロセスとは熱烈な欲求を意味し、対象とは存在をめぐる三つの領域を意味する。情動のプロセスがこの意味で言われるのは、それが激しく欲するからである。対象がこの意味で言われるのは、それが激しく求められるからである」(Atthasalini/同上)。情動の本質である<欲望>を制御することが仏教徒の瞑想実践において重要な役割を果たしてきた。<欲望>は、激しく欲する情動のプロセスと激しく求められる対象で構成されているという。対象が、条件的に感受されたイメージとすでにイメージされた感受として現れ来ることに注意を向けるdhyanaが、<欲望>の二重性を洞察したのである。したがって、対象が求められるという働きに関わらなければ情動のプロセスも低下すると考えられたに違いない。対象に関してここでも、それは「三界」と同じく「存在をめぐる三つの領域」があると言われている。Buddhagosaによれば、三つの領域のうちの一つのみが「欲望が君臨する領域(kamavacara/欲界)」であり、そこでは欲望はそれに付随する否応のない衝動と行動を伴っている。他の二つの領域は、「形態化を志向する知覚の領域(rupavacara/色界)」と「形態化を志向する知覚を一時保留する領域(arupavacara/無色界)」で、前者はまだ欲望の領域と親密に繋がっており、後者は、形態化を志向する知覚、それも欲望であるが、その働きを保留しているとされる。すなわち、この領域でも欲望が再起するのを止めることはできないのである。「非形象世界」が非局在性および非局限性として身体感覚を逃れていたのとは異なり、そこには形態化を志向する知覚の働き(欲望)がまだ潜んでいると考えられている。これら三つの領域においてcitta(/姿勢)は働き、すべての領域にわたって協働し連携し合っているような「心」というシステムが考えられている。Abhidharma哲学では「心」の分析がより構造的に成されているのがよく分かる。

Herbert Guentherが「From Reductionism to Creativity 1989」で、ふつう「心」と訳されているcittaを「姿勢」と訳しているのは、そこに<傾き>が働き、そうすることで私たちの意識がそれ自身による客観的指示対象に面と向かうようにさせられるその在り方を示そうとているからである。cittaは、意識をそれ自身が客観的に(見せるよう)指示する対象に限定させておくような働きであり、このことは、次には意識を繰り返しこの方向に<傾ける>ことをも意味しているのだという。ただしこの働きは、<姿勢>と呼ばれる進行中のプロセスに属する客観的指示対象に特有のものであり、すなわちそれは一瞬一瞬の<傾き>ではない。つまり、この<傾き>の働きが意識の連続性を裏づけるのではないという。

citta()と恊働して働く諸要素をcaitta(心所)と言い、主要に働くものと恊働的に働くものとの結びつきが非常に親密なので、通常は「citta-caitta」と言われる。その際に、cittacaittaのどちらが強調されているかは、その言葉が使われている文脈に左右されるようだ。Vasubandhu(世親)の「Abhidharmakosa Bhasya(阿毘逹磨倶舎論)」を注釈したYasomitra(称友/六世紀)は述べている。「姿勢(citta/)はその恊働者(caitta/心所)なしでは生じないし、恊働者は姿勢なしには生じない。しかしながら、すべての姿勢がすべての恊働者と共に必ずしも生じるのではないし、またすべての恊働者がすべての姿勢と共に必ずしも生じるのではない」(Sphutartha/同上)と。実際、この複雑な働きが示すものすべてを把握するためには、「姿勢(citta/)」という一つのまとまりのある概念と、フィードバック(行動の結果を参照して次の行動を修正・調節する)し、かつフィードフォワード(将来の行動を予測して未然段階で修正・調節する)する働きというより動的な概念とを、一つの動態的な<場>に融合させて考えなければならない。そうした<場>が、まさにcittaがそうであると考えられようとしているものなのである。しかし、一般にAbhidharma文献では、「citta」の語はcittaというただ一つの構成要素から成る集合を指示するのに使われ、それに対して「caitta」の語はいくつかの構成要素から成る集合を指示するのに使われている。例えば、説一切有部(Sarvastivadin)は「caitta/心所」を五つの構成要素から成る集合として示したが、上座部(Sthaviravada)Buddhaghosaは主要素cittaをも含めた五つの構成要素から成る集合を提示している。すなわち、{caitta(心所)/phassa(触知)vedanaa(感受)sannaa(構想)cetanaa(意思)citta()}である。説一切有部ではcittaの代わりにmanaskara(作意)が構成要素となっている。この両者の分類の仕方の違いを見ると、「心」を集合論的に分類することには明らかに矛盾が浮かび上がってくるのが分かる。おそらく瞑想さなかでの分析では「心」をシステム的に捉えていたのが、瞑想から離れて内省による、論議のための説明的な分析はそうではなくなった、ということだろうか。

いっぽう、Buddhagosaは、<健全でない姿勢>と<健全な姿勢>との間のやり取りが、どちらか一方の側を選択することで解消されるのではなく、正反対同士であることを越えて成長することでのみ解消される<張力場>のような力関係の場を構成していると考えた。すなわち、<健全な姿勢>と<健全でない姿勢>とが粒子状の要素として並ぶのではなく、二極間で引っ張り合っているような場として現れているというのである。このことに関してBuddhagosaは、社会行動的な意識の類型を取り出して、それらが相補的な関係にあることを示している。例えば、熱情と信頼、敵意と批判的洞察力、妄想と変動し易さ、である。こうした心理学的洞察は、人間はつねに二つのレベル、すなわち二重になった認識の場を土台にして行動している。すなわち、つねにどちらかに傾きながらも他方の力を考慮するような<張力場>を反映する認識に影響を受けながら行動している、そう考えていることを示している。ここには人の心理を単に要素に分類するばかりでなく、それは要素同士が生み出す相補的な力の<場>として作用しているという、動態的に捉える認識が示されている。

このように、Abhidharma哲学は存在の分類にその全注意を向けた。しかし、分類するものを分類することはできない。というか、分類作業においてはつねに分類するものがいつの間にか生の全体から疎外されている。そうやって分類の袋小路に入り込んでしまったのは、<欲望>という生の力が自らの意識では捉えられない局面で働くのを知りながらも、その実態を見過ごしたからではないだろうか。そこで差異を見分ける仕方、すなわち意識/心の働きにおけるその差異を見分ける仕方において大きな発想の転換があった。ガンダーラ出身であるVasubandhu(世親/四世紀と言われるが諸説有り)Abhidharma哲学の諸論を批判し、cittaの分析について見直しを図った。説一切有部に属していた彼は後に大乗派に転向し、その唯識論(vijnyanapti matra)を、理論としてはもとより、瞑想実践による立証としても著した。こうした点において瞑想の在り方は大乗思想と密接に関連しており、その思想の表現においても際立っている。dharma(存在)の分類が分類すればするほど多岐にわたってしまうのは、dharmaの分析が人間にとって<思考/意味>を促すからである。瞑想によって、その明敏な洞察力によって、自らの<思考>を分析すればするほどそこに自ずと<意味>が次々と付与されてゆくのに違いない。そのような意識のあるがままの働きを目の当たりにして、Vasubandhuは究極的に「思考する思考」を経験したのではないか。彼は分析(瞑想)のさなかで、意識の働きが変動する局面に注意を向けているからである。さらには、仏陀は「縁起」の成り立つ根源に<無明>を洞察したが、VasubandhuAbhidharma哲学を批判的に考察した際、おそらくそれとは異なる見方をせざるをえなかったのではないか。彼は、「縁起」は無数の特異点で構成されている、すなわち現象世界の無数の点は唯一無二の点であって、そこには<変動性>がつねに駆動している、そう考えたのではないか。実際、「縁起」は後に「華厳経」によってその意味が新たなものへと創造的に描き直された。Vasubandhuはまた、後に述べる「alaya識」の考えとその<転変>を説くことによって、潜在力としての<欲望>に対処したのだと思う。

Vasubandhuによれば、「abhidharmaとは、一点の染みもなく、それが働く環境に伴う感情による汚染因子によって汚されることのない、人が分析し評価する際に働く洞察力(prajna)のことであり/そのように一点の染みもない分析し評価する洞察力へと導くもののみでなく、そのように教えを伝える論書に書き記されたものも、またそうである」(Abhidharmakosa」同上)という。ここには分類の視点がない。その代わりにprajna、すなわち明敏な洞察力の働きが前面に打ち出されている。それが「一点の染みもない」のは分断されることなく全体的なままで働くからであり、「分析し評価する」のは励起状態にある認識強度として働くからであり、「洞察力」とは連続性を体現するものである、ということを示している。その明敏な洞察力は、内省することで現れ・特定された意味群に自ら注意を向けつつ、自らそこに熱中するようにして、そのとき内省する働きと内省されたものとの両方に関与している、そう見出されている。そのとき、特定された意味群は次々と数量化され、測定され、そして制御されようと、自ずとその身を貸し出してくるのである。従来のAbhidharma哲学が指し示すものは、こうした対象として次々と取り出すことのできる意味群であった。いっぽう、Vasubandhuはといえば、内省する働きのうちに次々と変動する様相を伴いつつ連続する、その力動するものの在り方に注意を向けたのである。

カシミールで説一切有部の考えを習得したVasubandhuAbhidharma哲学を批判し、実兄のAsanga(無着)が創始する瑜伽行者派(Yogacara)に転向した。瑜伽行者による唯識派は、「唯だ、識のみが存在する」、すなわち、この現象世界は言葉によって物質的な現実と信じられるものへと具体化された概念体系である、そう明言した。そして、言葉による表象的思考の枠内で意識というまとまりを探求し続け、その注意をcittaというたった一つの(分離も部分化もできない)構成要素から成るシステムに絞ったのだった。彼らはそのことを「citta matra/唯識」という語で示した。この語は、cittaは私たちの複合的な認識体験の場もしくは認識状況を指し、matraは他のすべての条件を排除するということを示している。言い換えれば、cittaは、洞察力と行為は一つであること、知識と評価は一つであること、思考と感覚は一つであることを示しているのである。このことは、cittaを何かと結びつけまたは関連づけようとしてそれを粒子状の実体と考えようとした初期仏教の集合論的な概念とは著しく異なっている。瑜伽行者派が使用したもう一つの語がvijnapti()で、この語は「情報」を指しているという(H. Guenther From Reductionism to Creativity)。それは、知識を人から人へ移すという意味での情報ではなく、人の自己生成を推し進めるその自己組織化において、生体内部がどのような事態になっているかを「知らせている」という意味においての<情報>を指しているという。人という生体システムは自らを全体としてあらかじめ知るがゆえに、そうした<情報>によってたえず自らを更新している。そして、この自己組織化の働きは、生体システムをくまなく組織化すると同時に心身一体の力動的な局面と考えられ、そうした確信によって瑜伽行者派はいかなる二元論の想定も必要としなかった。<情報>に伴う自己組織化の働きを見出し、そのことを強調した「yogaを行ずる者による一派(Yogacara)」は、人においてその生命が倫理的にも発展的に展開されるという力動的な視野を初めて提示した人たちだった。その結果、彼らはこうした生命発展的な力動にすみからすみまで心身的に「波長を合わせる」という意味で「yoga」を理解し、その<道>を進んだのである。samadhiにおける意識の没入状態は明澄な洞察力が駆動する場であるが、yogaの実践における視野は心身的なものへと拡張され、それは生体エネルギーにまで「波長を合わせる」方法へと更新されたのである。

こうした瑜伽行者派の観点から、Vasubandhucittaを「dharmaによって構築されているもの」であると同様に「構築しているもの」でもあると説明している。cittaは内外の環境から情報を受動的に受け取るだけの反応装置にすぎないのではなく、みずから<情報>を発する創造的な動因と考えられた。いわば、Vasubandhuにとって「citta」の語は、そう呼ばれているものが働いているその状況から、すなわち瞑想実践のさなかにおいてその意味が生じているのである。それを判別したり分類したりする者がなければ、cittaはそこから分離できない生体環境の中で、そしてそれが働くのに欠かせない生体環境の中で働いている、そう見出されたのである。

瑜伽行者派が意識を集中させることで行き着いた、一つの構成要素から成るcittaというシステムのそのプロセス的な性格は「alayavijnana/阿頼耶識)」の語によって示されている。このalaya識は、体験によって起動した潜在力(vasana/習気)を積極的に「貯蔵する」と共に、さらにはそうした潜在的な層までにも及んでフィードバックしフィードフォワードする働きであるという動的な性格をもっている。そして、このとき決定的に革新的な点は、alaya識が、生命発展的な仕方でそれ自身の連続性を確かなものとする「識転変(vijnana parinama)」という現象を伴っていると考えられていることである。それは一定の要素のままではなく、絶えず変容している。この「識転変」と呼ばれる現象において三つの次々と<変容>するものがあり、それらは「異なる方向へ成熟する(異熟/vipaka)」一切の種子であるalaya識、それ自体を構想する「マナ識(思量/manana)」、対象を現象させている「知覚し思考する(了別/vijnapti)」六識で、Vasubandhuが「唯識三十論(Trimsika)」で提示している。このうちの「vipaka(異熟)」の語を改めて動的に解釈するに際しては、一定の狭い範囲内でのみ有効なシステム内の要素同士による因果性の考えは、<流出プロセス>として、全面的に生命発展的な考えに置き換えられた。すなわち、Vasubandhuが絵を見るが如く描き出したように、「それ(alaya)は氾濫した河のように流れている」のだと。

「ここ、すなわちalaya(蔵庫)と呼ばれるvijnana()に、結果として生じ(vipaka)、そのようなものとして発芽(bija)の位相にあるミクロ構造すべてを合わせたものがある/さらにそれは、自身の能力を知る意図的な構造であるばかりでなく、主体となるべくものへの組織化がいまだ潜在的にあるようなものでもある/それはいつも、触知のプログラム(sparsa)、システムの傾き(manaskara)、感触受容の調子(vit)、記号と象徴を構想するシステム(samjna)、そして企画し遂行するもの(cetana)等を(起動する)諸々の働きを伴っている/さらにそのうえ、ここでは感触受容は中立的な性格のものであり(すなわち感触受容の調子であって、感触受容による審判ではなく)、これ(vijnana)はまだ特定の場に封じ込められることなく、また無評価でさえあるものである/プログラムの諸々の働きを伴うこれ(vijnana)はそのようであり、そのようにそれは氾濫した河の如く進むのである」(「唯識三十論」/同上)

仏教徒にとって、ことに瑜伽行者派にとって思考と感情は別々の実体ではない。それゆえ、<変容>において感情は方向と量としての流出を明らかにしているにすぎない。こうした点でベクトル特定的ではあるけれども、感情による汚染因子はまだ評価のない仕方で働いている。いっぽうで、このベクトル的な流出が、人が自身の能力を知り、自身であることに基づいて自己組織的な活動を開始する、そうした生命発展的な場をあらかじめ「知らせている」、ということも暗に示されている。最後の「知覚し思考する六識」の<変容>が人の自己認識を形成するのに重要な働きをしているのは明らかであるけれども、それはまた、人をして特定の<場>に固着させることなく、そこに設定されるべく狭い視野を越えてゆく可能性をもそこに孕んでいると考えられる。最後の<変容>の複雑さを、Vasubandhuは次の言葉で要約している。

「第三(の変容)は、六重の認識領域における知覚である。それらは健全であるか、健全でないか、さもなくばそのどちらでもないかである/この(変容)は、広範囲にわたる諸々の働きと提携しており、健全な姿勢に付随する働きと同じように、主題特定的な働きと提携している/それはまた汚染因子の集合と準汚染因子の集合(と提携しており)、そしてそれはさらに三重の感情資質をもっている」(「唯識三十論」/同上)

 こうした<変容>の考えは、<明>から<無明>へと転変する自らの意識を、瞑想を繰り返すことによってそのプロセスを俯瞰するに至った体験に由るのに違いない。そのとき「氾濫した河の如く」という比喩によって言い表されたその内容は体験通りのことと受け取っていいと思う。意識の汚れを次々と取り除いて明澄な認識に辿り着くといった段階的な認識を獲得した果てに、このように逆方向に流出するものを見出すということは、そこに先入観の全くない瞑想の実践を通じての体験的な転換があるということである。それは仏陀の自覚とはその方向において異なっている。その瞑想体験は、仏陀の「四聖諦」に相対して、人間の状況はつねに変容し、成長し、自己組織化するものとして、それは決して状況に限界づけられたままなのではないということを示しているからである。この世界にインストールされた人間の在り方とその可能性は、alaya識という潜在的に働くものの方から得られる<情報>によって切り開くことができるのである。「氾濫した河」の比喩は、意味形成的な思考に陥りがちなNikaya仏教に対する叛乱であるようにも思われる。

 

大乗派の出現はストゥーパ崇拝と結びついているという考え方がある(Hirakawa AkiraA History of Indian Buddhism1990)それによれば、大乗仏教の出現に寄与したものとして三つが挙げられている。それらは、Nikaya仏教、仏陀を讃える人たちによって編纂されたJataka(仏伝)、そしてストゥーパ崇拝である。Nikaya仏教にはすでに「三身(trikaya)論」がある。すなわち、仏陀が身体を持って現れたその姿は三重になっているという考えがあり、それらは法身(dharmakaya)、報身(sambhogakaya)、変化身(nirmanakaya)とされ、仏陀を一個人を超えた存在として描くことのできる契機はすでにあったと考えられることである。そして、Jatakaは仏陀の活動を様々な次元において描いており、「仏性(buddhadhatu/覚醒の場)」が考えられ、その仏性への道、菩薩の存在、さらには過去仏や未来仏にも関心を寄せている。そしてストゥーパ崇拝であるが、出家者の共同体であるsanghaで修行する仏教徒は仏陀の教えを強調したが、いっぽう、世俗の仏教徒は仏陀に救済者(彼岸へ渡してくれる者)としての役割を求め、そのことを強調した。そのため、世俗の仏教徒が集まり、その教えを実践する場として世俗の信者のためのストゥーパがあったのだという。ストゥーパ崇拝はもともと土着の信仰形態で、死者を火葬にした灰塚であるchaityaを礼拝することに由来する。そうした信仰形態を基にして各地のchaityaに世俗の信者によってストゥーパが造られ、また管理されるようになった。後になってsanghaに付随して造られたが、sanghaの生活域とは厳しく区別されていた。というのも、花、香、幟旗、音楽、舞踊などがストゥーパ崇拝の儀礼に伴っていたからである。ストゥーパを管理し、また仏陀の教えを専門に伝えることを生業とする特殊な人たちがいて、おそらく彼らはストゥーパの巡礼者たちにストゥーパに付随する建造物に彫刻されて描かれた仏伝を説明した。またそうした世俗の仏教徒が巡礼者のために宿泊設備も用意したとも考えられている。こうしたことから、ストゥーパ崇拝を軸にして、それを管理する人、仏伝を説明する人、巡礼者の世話をする人たちがいて、各々が巡礼者に仏陀の救済力を説いたと考えると、そこに教団めいたものが形作られる余地があるのだというのである。そしてさらには、ストゥーパでの礼拝に際しては、彼らは巡礼者たちを仏陀がありありと姿を現すような瞑想へと導いたのではないか、そう考えられている。その瞑想というよりも観想は、死者礼拝と深く関連していたと考えられる。sanghaの出家者と違って、たとえ修行中の身であってもその教えを他者に伝えることに努めたのが大乗派の実践者たちである。彼らは自ら仏性を実現する可能性をもっていると考えたからである。その可能性を自ら知るものを「bodhisattva/菩薩」と言い、全ての人がそうした可能性をもつと考えたわけである。こうした考えは世俗の信者たちを惹きつけたに違いない。「bodhisattva」の語は「十地経」においてその存在が超自然めいたものとなり、それゆえ後には稀な存在を言い表すようになったが、当時は極めて一般的に使われたようだ。sanghaに対して菩薩信仰者による共同体があり、「bodhisattvagana」と呼ばれた。初期の大乗派の<菩薩>には世俗者と出家者という二つのタイプがあり、出家者のタイプの<菩薩>はとりわけ宗教的修行と禁欲を実践するkumaraであった。「kumara」は「若年者」の意で、思春期前に出家した者を言う。そのため生涯純潔を守る者として世俗者の<菩薩>とは区別される存在であった。kumaraは人里離れた森で瞑想修行し、世俗者の<菩薩>はストゥーパでkumaraから教えを受けたという。

最初期の大乗信者は「六つの智慧の達成(般若波羅蜜/prajnaparamita)」の実践と共にsurangama samadhiの瞑想実践とその深化に努めたという。そして、瞑想のための場所が築かれた。「surangama」とは「果敢なる進展(に臨む)」の意である。「般若経」の集成である「Mahaprajnaparamita Sutra(大般若経)」の中の大乗の章には最初にsurangama samadhiが述べられ、108samadhiのリストが掲げられている。これらのsamadhiが初期の大乗経典「Surangamasamadhi Sutra(楞嚴三昧経)」で述べられており、surangama samadhiと呼ばれる意識の没入状態において瞑想の実践者に授けられる、超自然現象、超自然力、変身の偉業等を示す神通力などに焦点が当てられている。また「Pratyutpannasamadhi Sutra(般舟三昧経)」は前一世紀頃にガンダーラで書かれた初期の大乗仏典で、仏陀のイメージを観想(pratyutpanna)する実践、さらにはその観想を拡張したsamadhiについて述べている。それによれば、修行者がひとたびsamadhiの状態に入れば、その面前に仏陀が立ち現れるという。あるいは、ストゥーパでの仏陀像の崇拝と過去の過った行いを告白することと深く関連して、「pratyutpanna samadhi(仏陀に直に面するsamadhi)」が生じるのだという。この経典には瞑想者がその面前にAmitabha Buddha(阿弥陀仏)を観想することができるとも述べている。観想の対象としてのAmitabhaと慈悲の体現としてのAmitabhaはすでに「観無量寿経」において結合されている。また「無量寿経(Sukhavativyuha)」ではAmitabhaへの誓願とその名を唱えるだけで、修行なしに浄土(sukhavati)に生まれ変わることができるとも述べられている。深い誓願は疑念(意識の汚れ)を一掃すると考えられたからである。北インドにおけるAmitabha信仰は「Pratyutpannasamadhi Sutra (Bhadrapala Sutra」とも呼ばれる)」が編纂される前にはすでに確かなものとなっていたようだ。また北西インドでのAmitabha信仰は「浄土三部経」が成立する以前からあり、「amitabha」とは「無量光」すなわち「無限の光」を意味するから、その信仰には西方のイランの宗教の影響があるのではないかとも考えられている。仏陀やAmitabhaに限らず、崇拝の対象を観想する際には、眼前に観想されるその姿はつねにと言っていいほど光り輝いたものとして観想されるが、それは別段不思議なことではない。

Bhadrapala Sutra」の版は仏陀像が最初に現れた一世紀の後半頃に編纂されたと考えられているが、仏陀像は仏陀の観想にとって必ずしも必要とされるものではない、仏陀像なしでの仏陀の観想の方が先に展開されてきたのではないか、という考えもある。観想を土台として、後に仏陀の初期の彫刻が現れてきたのではないかというのである。仏像彫刻はガンダーラやインドのMathuraで一世紀の前半、Kusana朝の初期に現れた。仏陀が初めて人の姿をして描かれたのである。二世紀になると仏教彫刻は急速に増えてくる。その仏陀イメージは、最初はその生涯や初期の生活を描く浮き彫りというかたちで表現された。それ以前にも中央インドのBharhutSanchiで、ストゥーパやその周囲の建造物を装飾するのに浮き彫りは描かれたが、これらの初期の浮き彫りでは仏陀は象徴化され、人の姿としては表されなかった。ガンダーラの仏陀像は、最初は浮き彫りの中で中心を占めていても仏陀は他の人物と同じ大きさで描かれていた。しかし、後になると仏陀の姿は他の人物よりも大きく描かれるようになり、最終的には仏陀は仏伝の場面から移され、仏陀の独立した像が彫刻されるようになった。こうした仏陀の独立した像は崇拝の対象とみなされ、結果的に初期の仏伝を描いた浮き彫りの仏陀とは異なる機能をもつようになったのである。こうした崇拝の対象としての仏陀像は、ストゥーパ崇拝の信仰形態に応じて仏伝を浮き彫りに描く人々によって展開されてきたと考えられる。仏伝を語る者や諸文献がそうした展開に役割を果たしたと思われるが、仏陀を人の姿で描くことが北西インドにいたギリシア人彫刻家による影響か、あるいは仏教の教えを広めるために避けられない展開の結果であったのか、それについてはいまだ明確な説明がなされていない。もし仮に仏教の教えの展開によるものであれば、おそらくそれはストゥーパ崇拝に伴うようにして生まれたのであり、救済者としての仏陀を拝する信仰がそこにはあっただろう。北西インドが主要な大乗派の発生の地と考えれば、そこにストゥーパ崇拝と仏陀像の最初のかたちが一緒に起こっているのも理解できる。そうでなくとも、ストゥーパ崇拝と大乗派の発生は少なくとも連携していと思われる。大乗派の経典を繙けば分かるが、ストゥーパの観想と仏陀の教えが語られる場の表現は相似している。

ストゥーパでの瞑想はそれまでのdhyanasamadhiとはもう異なっている。それは仏陀のイメージを眼前にするという能動的な姿勢で臨むpratyutpanna(眼前に生起する/観想)であり、その観想対象は<無限>であるはずであり、それゆえ観想対象は光で輝いているのであり、というのもそこでは瞑想者の意識の働きは個人を超えた次元で働く感覚に染め上げられているはずだからである。こうした瞑想の在り方は、Bodhisattvaのイデオロギーと結びつくことで必然的に展開されるようになったのではないか。dhyanaは、Nikaya仏教では心を静めるという受動的な姿勢で臨むことで<内部化>に向かう在り方をしていたのが、菩薩の<道>では、瞑想は、たとえば仏陀や諸々の菩薩を目の前に立ち現せることができるような、それも色とりどりに光り輝く姿として想い描くことができるという、瞑想者の全神経感覚に関わるような能動的なものに変貌している。その瞑想は仏陀を目の前に対象化し、菩薩をめぐる主題形成をしているが、それは通常の思考における対象化・主題形成の在り方とは全く異なり、<果てしのないもの>に向けられる意識の在り方になっているはずだ。その在り方は、仏陀が「四聖諦」と「縁起」によって自覚した世界における人間の限界状況を突破して、生命自らの創造的な力に機会が与えられるかのような開放レベルへと移行しているのである。その移行は、瞑想の(制御者としての)主体と(制御されるものとしての)客体の間の境界が溶解することで特徴づけられている。その主客の溶解のうちに現れる超感覚的なヴィジョンによって、私たちが「心」と呼ぶものは、それ自身を知れば知るほどそのことによって自己を新たに組織してゆくような自己の原理となっている、ということをおそらく体験的に自覚することができるようになるのである。

 

Nikaya仏教の教え、すなわち出家者たちによって定式化された教えによれば、仏陀は死の際に「何も遺すことなしにNirvanaに入った」、そのように身体を放棄したと言われる。そして、仏陀はもはや見ることができない存在であるがゆえに、その存在はいかなるかたちをもっても表すことはできないとされた。こうした考えに反して仏陀の像は造られたのである。Lahore博物館には有名なFasting Buddha像が展示されている。ガンダーラで制作されたもので、断食の極限状態にあり、骨と皮だけになったシャカムニのリアルな姿を描いている。イスラームの地にあって私はその像をよく見に行った。仏教がかつて浸透した国に育った者として他の誰よりも自分と繋がりがあるものがそこにあると漠然と考えていたからであるように思う。しかし、それは今までに私が目にした仏像とは全く違っていた。そのあまりに人間的な仏陀の姿に最初は驚かされたが、歴史的に見ればそれは遥か西方のギリシア文化の影響を強く受けた表現であるという方に次第に理解が深められていった。あれから時が経って、このようなリアルな姿を描くことができたのはギリシア人ならではあるが、そのギリシア人がガンダーラの地で想像をたくましくして彫り上げたというよりも、激しい修行をした仏陀という人のありありとしたイメージが制作当時においても失せることなく一部に伝わっていたのではないか、今ではそう考えるようになった。おそらくその時までまだ、Buddhaと呼ばれる優れた人がいた、そんな実感が人々のうちにあったのだと思う。