Friday, April 30, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

 三 パンジャブ回廊


   2 ザラスシュトラの教えとウパニシャッド

 

私がKalashの谷を訪れた当時、Kalash族の人々はアレクサンドロス大王のインド遠征時(327)に共にやって来たギリシア人の末裔であると観光局から喧伝されていた。彼らの信仰形態はもとより、ことに女性の風俗慣習や顔貌がインド世界のそれとは異なっていたからである。しかし、そうではなかった。彼らはそれよりも遥か以前に中央アジアからやって来たアーリア人一派の末裔なのである。中央アジアから移動して来たアーリア人のうち、パンジャブ回廊に侵入し、それからガンジス河流域へと移動して行った人たちはインド人となった。またイラン高原の方へ移動したアーリア人はそこでイラン人となった。しかし、Kalashの谷の人々は何らかの王権に基づくような社会をつくらず、そのままKalash族となったアーリア人なのである。その集団規模が小さかったこともあるかもしれないが、彼らは中央アジアから移動する際にヒンドゥークシ山脈を越えてパンジャブ回廊へ出ずに、ヒンドゥークシ山脈に入りそのままKalashのいくつかの谷に分かれて住み着いたのだった。Kalashの谷はパンジャブ側からはアクセスしにくい地形に位置しており、長年にわたって他民族による侵略を回避できた。最近のDNA鑑定によってもKalash族の人々はギリシア人と何の繋がりもないことが証明されている。こうしたことから、Kalash族の神話や信仰儀礼にはインド人とイラン人に分かれる以前のアーリア人の思念が保持されているのではないかと考えられている。

 例えば、Kalash族の思春期前の少年には特別な役割が与えられている。思春期前の少年で、心身共に強靭な者が一夏の間、山羊を放牧しながら山羊と共に暮らすよう山に送り出される。そこで少年は毎日山羊の乳を飲んで肥え太り、より逞しくなると考えられている。少年が山から下りてきて「Budulak(羊飼の王)祭」が来ると、少年は二十四時間の間だけ、自分が望むいかなる女性とも、その相手が既婚者であろうと若い処女であろうと、性の交わりをすることが許される。このときの交わりによって生まれた子供は誰であろうと祝福されるという。この慣習は未開の部族のものではない。少年は、いまだ性の行為を経験していない純粋さと、彼が夏の間に放牧する高山の純粋さとが結び付けられて、特別な畏敬の念をもって扱われるのである。Budulak祭の間は村では<純粋さ>が非常に強調され、ことに祭壇や山羊小屋、炉床の周囲の空間に<純粋さ>が集中されるという。またその時期、村のある標高が高くなればなるほどそこはより純粋なものとなる、そう考えられている。

 Kalashの谷では他にも<純粋さ>と<不純さ>との対立を示す祭が催される。冬至の前後の二週間にわたって「Chaumos祭」が祝われ、祭が明けると農産物を収穫して農作業が終えられる。「Chaumos祭には不純な者や未熟者の参加を許されなかった。女性や子供であれば、彼らは松明の火で頭上を振りかざされ、男性であれば、特別な火の儀礼によって浄化された。またシャーマンが杜松の松明で男たちの頭上をふりかざして浄化した」(Wikipedia)。また(太陽の力が弱くなる)この極めて決定的な時期に、<純粋さ>は力を弱め、<不純さ>が(純粋な)少年たちを支配しようとし、<角のない雄羊のように>彼らに乗っかかるふりをする。それから蛇の行列へと進むが、このとき不純な男たちが抵抗し、闘いとなる。両者による歌の応酬がなされ、そのときBalumain()がもっている祝福の全てを浴びせて消え失せる。(神は七人の少年(七は神秘的なものを表す)に祝福を与え、少年たちは純粋な男たち全てにこの祝福を譲り渡していく」(同上)。こうしてみると、<純粋さ>はことに少年に特有のものと考えられていることが分かる。

Kalashの小さないくつかの谷はどれもヒンドゥークシ山脈に連なる高山に囲まれている。山肌を削ってつくられた曲がりくねる砂利道を上がって行けば、いつの間にか風だけが吹き抜ける人知れぬ世界に登りつめている。谷底を流れる小川の周辺と、あちこちの斜面を切り開いてできた狭い平地に農地がある。農作業は女性たちの仕事である。男たちは高山へ山羊を放牧しに行く。少年が<純粋さ>として特別な役割を与えられるのは、こうした<半農半牧>という分業の生活形態に基づいているようだ。このことに関して、<放牧イデオロギー(Pastoral Ideology)(P. Parkes 1987)という考えが提唱されている。「ChitralKalash族の伝統的な信仰はヒンドゥークシ地帯で唯一保存されているものであるが、そこでは、山羊の放牧に関わる家畜の価値と対比させて、自然環境が<純粋>と<不純>の儀礼的な世界へと基本的に二分化されている。この象徴的な二極化は、半農半牧の労働が、男性と女性とに極端に区別されていることに照応している。それはKalash族の社会構造における両性の敵対的な性格を示している。彼らは…(放牧を)自然の霊と人間が連帯し調和するものとして積極的な価値を認めるもので、山羊の群れを移動させる男の羊飼いの世界は純粋であると考える一方、女性による農業の世界は自然を操作し、大地を個人的な利益のために使用するもので不純と考える。自然環境に投影されたこの対立は、結果的に、儀礼的に<純粋>な世界と<不純>な世界に再分割されている」。

思春期前の少年は、まだ男でも女でもないその手前にいる。そして男になるとき、<純粋さ>のピークに登りつめた状態にあるのだ。そう考えることができるのは、<半農半牧>労働に伴う男女の二極構造を下地にしているからである。とはいえこの二極構造は、Kalashの谷を囲む高山と高山に囲まれた農地という地形的な垂直構造をベースにしていると思われる。かつてKalash族の人々は中央アジアの平原で<放牧>生活をしていたということからすれば、そこに意識の大きな転換がもたらされて垂直構造を基にした二極構造が成立しているのに違いない。少年が<純粋さ>として表されるその前提としての思念があるとすれば、それは中央アジアにおけるかつての放牧社会と関連しているのではないか。

放牧とは、羊や山羊の群れを放牧地から放牧地へと移動させながら世話をする営みで、羊飼いは家畜が水を飲み、草を食べる場所を季節毎に念入りに交替させながら移動する。遊牧とは異なり、家畜を飼育するところが一定の場所に設けられ、半定住の生活をする形態である。おそらくそれは、遊牧の移動生活を放棄して新たな生活形態を求めた結果であると考えられる。中央アジアのアーリア人が放牧生活をしながら半ば定住して、さらには農業にも着手する生活へと移行する際には、集団の人々は様々な変化に直面せざるを得なかったのではないか。例えば、放牧に際しては水や草がある位置を覚えるための天空観察があればそれで足りる。しかし農業を営むとなると、植物の成長に合わせて、季節変化をめぐる時間の移り変わりと時間周期についての正確な把握が必要になってくる。アジア世界には新年の始まりが冬至か春分かの二つの場合があるが、それは放牧生活と主に農業に関連した生活の違いに対応しているのではないか。イラン人の「Nowruz」は春分に祝われ、それは農業世界における新年の祭りである。それに対してKalash族の「Chaumos」は古く神聖な祭りとされ、収穫の終わりを祝い、その際に谷に降りてくる神を迎えるというが、それは高山に<純粋さ>を求め、そこに神が宿るという考えへと転換したからだと思われる。太陽が最も弱った後に、また回復して来る<純粋さ>の力を共同体内部に取り戻すという意味で、それは年替わりの祭なのであり、太陽を信仰する放牧生活の名残であると思われる。放牧に農業が加わり、放牧は牧畜となり、完全に定住して半農半牧の生活形態になるだけで世界の再把握が必要になる。そうした認識変化と共に生活形態も変化せざるを得ない。さらには農業生産に伴う備蓄と交換といった経済的な営為が生まれるという社会変化があり、そこには<放牧>生活と<半農半牧>生活とを対比する二元論が様々な局面で生まれる余地がある。Kalash族の少年にはそうした変化に伴う<仲介者>の役割が与えられているのだろう。

 

ゾロアスター教の教祖であるザラスシュトラは「Gatha」の一節で、主なる神Ahura Mazdaの援助と庇護を願って悲痛な調子で訴えている。ちなみに「Ahura Mazda」とは「一切を知り給う(Mazda)Ahura」という意味で、「Ahura」は「生気、活力」を意味する。

「私は知っています、何故に私が、マズダーよ、無力であるかということを/我が畜類の少ないためと、私が家人の少ないがためです/…教えてください、アシャ(天則)と共なるウォフ・マナフ(善思)の資産を」(Yasna46-2)

ザラスシュトラは布教のために自らの氏族共同体を出て放浪生活にあり、家族と共に半農半牧の生活をしていたと思われる。布教は思うように行かず、他の氏族からは全く相手にされなかった。それでも、ザラスシュトラは物質的な貧しさに対して精神的な富(善思/Vohu Manah)を求め、それが正しい要求であると信じている。おそらく備蓄と交換の経済システムによって貧富の差が生じ、そうした格差を生じさせる行為に準じて正しい者と不正な者とを二分化して考えているようだ。そして、最終的に正しい者が根本的な道理(天則/Asha)に則って救われなければいけないと訴える。

「アシャの世を(我らが)確保せんために、顕れ出るでしょうか/(喜び)溢れる言説をもってサオシュヤント(庶類を利益するであろう者)たちの意思は(いつ顕れ出るでしょうか)/誰を助けに(御身は)、ウォフ・マナフと共に来給うのでしょうか/(それは)私(を助け)にです。御身を説き聞かすことを、私は選取したのです、アフラよ」(Yasna46-3)

※「Avesta」の訳文は、「世界古典文学全集3・リグヴェーダ アヴェスター(1967)」の伊藤義教訳「アヴェスター」より。

ここで「Avesta」の中の「Yasna」というのは、ゾロアスター教によって「神事のための書」として扱われているもので、「Gatha」はその一部である。「Gatha」はザラスシュトラの教え、すなわちその声を伝える第一資料であり、全て詩文の形式で述べられている。その中でザラスシュトラは<義者(Asavan)>と<不義者(Dregvant)>とを対立させ、<義者>の道を進むことが主Ahura Mazdaの意に叶うのだと主張する。ザラスシュトラの説く<義者>とは主の教えに身を捧げて精進し、主が勧める半農半牧の定着生活を受容する者であり、これに対して<不義者>とは強奪経済に依存する放牧者であり、部族に特有な儀礼によって牛を屠殺し、供犠する者である。そうした放牧者に対して、「盟友とか律法の者としてカラパン僧らは牧地に副うことはせず…」(51-14)、すなわち牧地に定着して牧養しない、「牧養がよきものと見えるように…」(29-1)、すなわち牛の養育は牛を殺して供犠するためではない、といった非難がなされ、そして、「牧養者につくか、それとも牧養者でないものにつくか」(31-9)と、二者を対立させている。この対立は当時の生活形態の対立を反映しているだろう。ザラスシュトラは牧畜者の立場に立ち、おそらく当時の供犠儀礼を司る<カラパン祭司>は放牧者の立場に立っているのだ。放牧者は「牧地を荒らす者であり、義者に武器を振るう者」(32-10)で、「不義に抗する牧養者の家畜と家人とに暴行することなくして生計の立たない悪行の者」(31-15)である。このようにザラスシュトラは<不義者>が横行する放牧社会を憂い、そのため彼の教えは神々の世界を描くというよりも、ただ一つの神を期し、ただ一つの正しい神に従うことを誓うといった、地上の人間を代表して神との間に立つ<仲介者>の役割を主調としている。当時の中央アジアのアーリア人社会はいまだ遊牧生活の世界観を保持していたようであり、ザラスシュトラはそうした古い世界観と信仰に抗して人はどう生きるべきかを説いたのである。そうした意味で彼は最初の宗教改革者であった。

おそらく当時の放牧(もしくは遊牧)には、家畜が放たれる場とそこに放たれていた他者の家畜も含めて放牧者のものとする、すなわち「牧地を荒らし、牧養者の家畜と家人とに暴行することで生計を立てる」という考え方があった。例えば、古代インドのアーリア人によって行われたAsvamedha儀礼はそうした考えのもとに行われたと考えられる。それは一頭の卓越し吉兆を帯びた雄の馬が選ばれ、王はその馬を放して一年間その馬の行くところどこまでも戦士が警護するのと共に行軍し、その経路を自分の領地とする儀礼慣習である。馬が他者の領域に入った場合は戦争をしてでもその領地を自分のものとした。そして一年後に王国の首府に戻り、馬は犠牲に捧げられる。馬は絞殺され、その死骸の周りを王妃がマントラを唱えながら廻る。その夜、王妃は死骸と共に過ごさなければならない。あるいは、「王妃が死骸の傍に並んで横になると覆いがかけられ、彼女は性交の真似をする」(M Eliade 1976)とされる。いずれにしても、馬と王妃との疑似性交が示唆されている。このことは、前述したKalash族の慣習との関連を思わせる。放牧で<純粋さ>の力をより増した少年は村に戻って来るといかなる女性とも性の交わりをすることができるとされた。ここには、少年が<純粋さ>の力を保持したままその力を二極化の一方の、豊穣なる大地を表す女性に分与するという象徴的な作用が働いていると考えられる。Asvamedha儀礼での馬の死骸と王妃との模擬性交についても、大地を代表する王妃に力が分与されて豊作を祈るという意味をもつように思われる。こうした意味で二つの儀礼は通じているのである。すなわち、二つの儀礼は<放牧イデオロギー>において二極化した<放牧>と<農業>との対立を瞬間的に繋ぐ役目を果たしていると考えられる。

いっぽう、半農半牧生活をめぐるザラスシュトラの<義者>と<不義者>の二元論は以下のように展開されていく。

「睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが/両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なるものとであった」(Yasna 30-3)。ここで言う「睡眠」とは、ある種の瞑想状態を示す。

「両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の(世界)には(不義者の)生存と(義者の)生存不能とが、終末にある境涯には不義者には最悪なるも、義者には最勝なるウォフ・マナフ(善思)があるということだった」(Yasna 30-4)

「これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが/最も堅固なる蓋天を着て最勝なるスプンタ・マンユ(聖霊)の方はアシャ(天則)を(選取し)/真実なる行為をもってアフラ・マズダを進んで満足させようとする者もまた(そうであった)」(Yasna 30-5)

さらには、「では、私は説ききかせよう。世の始元の二霊を/それらのうち、より聖なる方は邪悪な方に、こう語った/(一致しないと言えば)、我ら両者の思想がそうでなく、言説がそうでなく、意思がそうでなく/信条選取もそうでなければ、言葉もそうでなく、行為もそうでなければ/ダエーナー(教えの覚醒)もそうでなく、魂も一致してはいないのだと」(Yasna 45-2)

<放牧イデオロギー>における潜在的な対立は、始原におけるより<善なる霊>とより<邪悪なる霊>とに置き換えられ、それらはこの世における<義者>と<不義者>の対立へと導かれている。その原因は、各々の霊がこの世で選び取る思念と言葉と行為にあるとされ、その積み重ねによって対立した両者は最終的に一致しない。そして、世界の終わりには<義者>が勝者となると説かれている。つまり、内在する対立はこの世では解消されないのだ。

 ザラスシュトラがその教えを布教した時期は未だ明確ではない。「Gatha」が「gveda」の言語と対照させることで初めて読解できるということから、ザラスシュトラが語る言葉はアーリア人がインドとイランへ分岐する以前か、またはそれ以後の数百年の間に成った言語ではないかと考えられている。「gveda」が前1500年から前1100年の間に成立したと考えると、研究者の間でも議論が分かれているが、「Gatha」はそれ以前の前1700年から前1200年の間に成立したのではないか、というかなり年代が幅のあるものとなっている。また布教した場所も明らかになっていないが、現在はタジキスタンのZeravshan渓谷からパミール高原西側周辺域が有力になっている。この地一帯は中央アジアのアーリア人が居住していたと考えられる草原地帯より南側で、なおかつ山麓地帯である。おそらくすでにアーリア人は移動の最中にあり、様々な氏族が様々な方向へと移動する中で、ザラスシュトラの布教は行われたのではないだろうか。ザラスシュトラは自らをZaotar(祭官)と呼んでいる。おそらく一氏族内の祭官を担う家系に生まれたと考えられているが、一定の役割を担う自らの氏族社会の外に出て、いくつかの異なる氏族社会を経巡りAhura Mazdaに帰依するよう布教することで、それら氏族社会が直面する実情を知ることになったのだろう。すなわち、氏族社会の間に生まれつつある差異を知ることにより、当時の社会変化を客観的な現実として知るようになったのではないか。そこには放牧社会から半農半牧へと移行する様々な段階とそれに伴う人々の生活変化があったはずだ。

「人々は自由民からも、アーリアびとからも私を遠ざけ、私が行を共にしようとする諸々の労役民も私を満足させず、邦の不義なる暴君共もそうしてはくれません」(Yasna 46-1)。自由民、労役民、そしてアーリアびと、すなわち「Arya」とは高貴な、尊敬すべきの意で、そう自称する人々がいたのであり、これらの人々の間ですでに階級意識が芽生えていたようだ。そうした状況を目の当たりにして、ザラスシュトラは<義>と<不義>という二項対立的な考えを軸にして、全ての民には言葉と思念と行為に準ずる区別があるだけだと説いたのである。その教えはあくまでも人間の行動に基づくものに主眼が置かれ、そしてことさら善悪二元論を唱えるのは、多神信仰に基づく格差社会を否定し、ただ一つの神に従うことは万民平等という前提があるからであり、神の恩恵は各人の善に関わるか悪に関わるかの行動によってのみ得られると説くことで、多神教社会の現実を変革するためだったと思われる。

さて、ここでザラスシュトラの教えとゾロアスター教との関係を簡単に述べておかなければならない。ゾロアスター教とはザラスシュトラの教えが歴史的に一つの体系にまとめられたものを指して言うが、そうした体系となるまでには様々な要素が加わってきたという経緯がある。その要素の中には開祖のザラスシュトラ自身が排斥した信仰形態まで見出されることから、そうした混成形態のものを<ゾロアスター教>と呼び、これに対してザラスシュトラ自身の教え、いわばその原初形態を指して<ザラスシュトラ教>と呼ぶという考え方がある。このザラスシュトラの教えは当時のアーリア人の言語(東イラン系の言語と言われる)で述べられ、彼の没後に教団の指導者たちによってまとめられた。当時はその教えを「ザラスシュトラのMazda崇拝教」と称したという。その後の紀元前500年頃、教団内部ですでに何らかの祭式儀礼が行われていたらしく、他の口承伝承と共に祭司たちによって新たなかたちで編纂されたものがあった。さらに後にはイラン西部のメディア人のマゴス神官団の宗教と習合して祭式儀礼的な面がますます強まり、<ゾロアスター教>としてササーン王朝時代(224年〜651)に国教化される。「Avesta」は、ペルシア人のアケメネス王朝(前六世紀〜前四世紀)とパルティア人のアルシャク朝(224年〜226)にかけて成ったものの集録であり、その述作者たちの出身地も言葉も異なっていたのが、すべて中世パフラヴィー語で記された。その時点でその信仰内容はザラスシュトラの説いたものとはすでにかけ離れたものになっていた。内容が改変され、さらには後代に付加され、ザラスシュトラの教えとは異なるものが伝わっていたのである。ササーン王朝の四世紀から六世紀にかけて「Avesta」の決定的編集が行われて二十一巻本が成立したが、そのうちの四分の三が散失したといわれる。

 以上のような経緯があるため、初期教団の<ザラスシュトラの教え>と後代の<ゾロアスター教>とは区別して考えなければならない。ザラスシュトラは<義者>と<不義者>との対立を強調し、さらには<義者>を鼓舞するためと思われるが、<義者>の由来と<義者>の道を進む者の将来がどうなるかという方向を示そうとしていた。おそらくザラスシュトラが布教した地域の氏族集団には他の集団との交易を展開する人たちがすでにいて、交易のための商慣習や法形式がつくられつつあり、新たに生まれつつあるそうした<契約>の制度によって、残存する放牧(遊牧)生活や宗教慣習との乖離があったと考えられる。それゆえ、初期の教団が展開した<ザラスシュトラの教え>のその核心は、「舌では善思に叶う言葉でもって/手では随心に発する行為をもって実践すべきであり、(心では)<彼マズダーは天則の父>と認識することによって」(Yasna 47-2)と言われるように、言葉と行為と思念の善なることによって、すなわち人との約束を守り、信義をもって行動することによってAhura Mazdaに従うというものであっただろう。善を強調し、悪を排斥するザラスシュトラの二元論的な考えは、別の側面では<契約>を基にした新たな社会観を推進するものであり、それは氏族ごとに別々の神と関係する多神教的な社会観を自ずと否定するものだった。こうして<義>と<不義>を対立させることでより具体的となった一神教的な世界観は人間とただ一つの神との関係をより深めることになり、この一神教的な世界観を始点にして、その後<ザラスシュトラの教え>において独自の信仰的な局面が展開されることになる。それらは、死後の世界と死を前にした魂の審判、守護霊の役割、救世主についての考え、創世時に還る時間論などである。Ahura Mazdaの王国である「Xsathra」は楽土にして光明が遍満する地であり、また歓喜の国であって、苦土、暗黒に沈む地、悲嘆の国としての悪の界と対立する。人は<義者>であることで、死後に「Xsathra」に住むことができる。また「Daena」はもともと「教え、もしくは教えの内的体験」を意味する語であるが、それはいつしかその内的な体験が可視的要素を帯びて、その人の分身として別に存在するものの形姿とみなされるようにもなった。人間における霊質としてAhura Mazdaの神がそうした分身を創造したとされ、人間が教化を受けたり誘惑を受けたりする主体はこうした別に存在しながらもなおかつ内なる霊的要素として体験されるヴィジョンなのである。Daenaが霊的要素として不滅のものと考えられるのに対して、気息と共に滅するものは「ustana(寿命・命数)」と言われる。人間の寿命が尽きて肉体と魂との分離が起こると、魂は「チンワントの橋(Cinvato peretu)」と呼ばれる魂を検別する橋を渡ることになるが、この橋自体が裁きの役目を果たしている。すなわち、<義者>には広く、<不義者>には極度に狭いものと変わるのである。こうした個別の審判のほかに終末裁判と呼ぶべきものが考えられ、ザラスシュトラの千年紀の後に三つの千年紀が続き、各千年紀に「Saosyant/救済者」が一人ずつ出現するとされた。そして最後のサオシュヤントの千年紀には、大々的な復活裁判、ひいては世の建て直しが行われると考えられた。こうして<ザラスシュトラの教え>に基づく世界観は空間的にも時間的にも統一的な構造をもつものとして示され、人々とその社会を<放牧イデオロギー>に潜在する二極化構造から離脱させていったのである。

その世界観の中でも、人の霊的な局面としてのDaenaに関する思念はとりわけ興味深いものだ。Daenaについては、「サオシュヤントのものとしてアフラの創成し給うたかのダエーナーのために…」(Yasna 53-2)とか、「アフラ・マズダと、義者たる男子や女子の諸々のフラワシとを、我々は崇める」(七章のYasna 37-3)と言われている。「Fravashi/フラワシ」は「選び取る者」の意で、それは「それぞれの守護霊として各自が持つ精霊」であり、<義者>の魂は死後、そのFravashiと合体すると言われる。それはDaenaと同じものを言い、<教えの内的体験>としての内在的ヴィジョンを指していたものが、そのヴィジョンのより守護霊的な面が強調されて形姿となったものである。こうした変遷を経て、いつしかDaenaは地上で物質的に創造された存在に対応する天上的で霊的なものの原型となり、人間にとって守護天使のようなものと考えられるようになった。「Avesta」の中の「Hathoxt Nask」第二章で語られるDaenaの話はとりわけ名高いものである。

この世で善行を積んだ義者の魂は、死後の三日間は自身の身体の近くにとどまると考えられていた。三番目の夜明け近く、南から良い香りを含んだ風が吹き寄せてきて…

すると、義者なる人の魂はその風を鼻で呼吸しているような気がする

「どこからこの風は吹いて来るのか…。かつて私が鼻で嗅いだことのあるもっとも芳香ある風は…」

この風のなかを、彼の方へすすんで来ると見えるのは彼のダエーナーで、

少女のすがたをしてだ…、美しい、輝かしい、腕の白い、力強い、

姿の美しい、肢体のすらりとした、丈高い、乳房の張り出した、

身体のりっぱな、高貴の生れの、富家の出にかかり、

姿では十五歳の、身体はまるで最も美しい庶類と同じ美しさを具えた(少女のすがたをして)

 そこで、彼女に問うて、義者なる人の魂は言ったのです、「若き女よ、あなたはだれですか…。かつて私が見たことのある若い女たちのなかで、身体のもっとも美しいあなたは」

すると、彼に、彼のダエーナーは答えた

「わたくしは、まことに、御身のものです、若者よ、善思者であり、善語者であり、善行者である、善ダエーナー者よ、御身みずからのダエーナーです」

「私に見えているそなたが大きいことと、すばらしいことと、美しいことと、香しいことと、敵に勝つことと、敵に抗することとのゆえに、そなたを、だれが、愛好してきたのですか」

「御身がです、わたくしを愛好してくださったのは、若者よ、善思者であり、善語者であり、善行者である、善ダエーナー者よ、御身に見えているわたくしが大きいことと、すばらしいことと、美しいこととのゆえにです

御身は、他の者がsaocayabaosuとをなすのを見たり、varaxethraをなすのや牧草の根絶をなすのを(見た)とき、

そのとき御身は座してガーサーを唱え、そしてよき水とアフラ・マズダーの火を崇め、

近くから、はたまた遠くから来た義者なる人を満足させたのでした

そのとき、愛らしかったわたくしを、いっそう愛らしく、美しかった(わたくし)を、いっそう美しく、吉祥だった(わたくし)を、いっそう吉祥なものに(してくださったし)、順位に座していた(わたくし)を、いっそう高い順位につけてくださったのでした

…この善思によって、この善語によって、この善行によって」

それから死者の魂は、四歩で三つの天上世界を跨ぎ、「無始光」の次元、つまり天界に到達するのだという。

saocayabaosuvaraxethraについては、それぞれ罪深い行為を示すと考えられるが詳細は不明。

この話の感動的な部分は、人の魂が磨かれ、美しい少女のすがたをした霊に純化し、そして死に際してその美しい少女の霊が感謝ともいえる言葉を投げ掛けてくれるところにあるように思う。そしてこの死の際に投げ掛けられる言葉は、自らが自らに向かって発せられるという、あたかもカラクリの解き明かしのような構造になっているところにさらなる不思議な感動がわいてくる。美しい少女の霊が私自身のうちに生き、その霊が純化されたときに私の前に現われ、私に語りかけてくるというのだから。実際、この話は多くの宗教家を魅了したようである。

この話はマズダー教を経てイスラーム教のイスマーイール派に伝わり、Daenaは自己の天上的分身とみなされると共に、天使的存在としてイスマーイール派の天使論に大きな影響を与えている。それは象形化された天使の位格であると同時に、地上的存在の内部でそれに対応して働くものとして示されている。すなわちそれは、地上的(getig)人間でありながらも、全ての人を天上的(menog)実在と対をなすことができるようにする<仲介的なもの>として考えられているのである。それゆえ、「私はあなたのダエーナーである」と知らされることは、「私はあなたの永遠存在であり、あなたの永遠時間である」、そう宣言されるに等しいのである。Daenaは想像しうるどんな美よりもはるかに美しい若い娘の姿で「チンワントの橋」の入り口に現れる。これと同じヴィジョンがマニ教にもスーフィズムの中でも知られている。そして同様の仕掛けが、浄土仏教における阿弥陀来迎にも見出されるのである。「観無量寿経」はインド世界ではなく中央アジアで成立した可能性も考えられているから、そこに異教による影響があっても不思議ではない。

ガンダーラ地方の仏教遺跡のレリーフに、このDaenaの話に関連するとみられる内容のものがある。一つはSwatNimogram(二〜三世紀)出土のもので、そのレリーフ画は、「男は長袖のカフタン(上着)とズボンを履き、帽子を被っている。女はギリシア風の衣裳をまとっている。それは、…クシャーン族風に考えられた涅槃、すなわち極楽—永遠不滅(の次元における)物質的・肉体的至福、あるいは死んだ人間(男の供養者)の魂を三途の川の向岸で迎える娘(死者の本質、あるいは仏教の本質の擬人化表現)を表している」(「パキスタン・ガンダーラ美術展 1984年」)という。ここで言う「三途の川」とは、「チンワントの橋」の下を流れる川のことである。もう一つは出土地不詳、同じく二〜三世紀頃のものと考えられる<供養者群像>のレリーフ画で、男女のペアの供養者三組が浮き彫りされている。男女とも土着の上流階級の服装をしており、衣襞の表現にはローマ様式の影響がある。その供養者たちはいわば寄進者の肖像で、寄進によって死後、涅槃に往生した場面が象徴的に描かれているのではないかと考えられている。その場合、「女性は死者(善人)の魂を迎える<天国の花嫁(死者の霊魂ないし仏教の擬人化表現)と考えられる」(同上)という。アレクサンドロス大王遠征(前四世紀)後のガンダーラ地方は社会的状況がいっきに変容し、マウルヤ朝の北西インド支配と共にイランや地中海方面との交易が増大した。それによって主にイラン方面からガンダーラに様々な民族と信仰が流れ込んで来たと考えられる。仏教徒の寄進者には商人が多く、おそらくガンダーラにやって来たゾロアスター教徒の商人との交流によってDaenaの話が伝えられたのではないか。上記の表現はガンダーラの仏教美術に対するゾロアスター教あるいはマズダー教的解釈と考えられ、もしそうならば、二〜四世紀のガンダーラの仏教寺院の装飾レリーフに<ザラスシュトラの教え>が反映されていたということになる。すでに多くの信徒を擁していたガンダーラの仏教徒にゾロアスター教徒の思念が影響を及ぼしたのは確実であると思う。ザラスシュトラは仏陀と同じく人の道を説いたからである。

パンジャブの北方に広がるパミール高原にはゾロアスター教徒の拝火壇跡が現在でもいくつか遺っている。一つはタジキスタンとアフガニスタンの国境地帯にある町Khorugh (標高2969m)から東に入ったBoghev で、石組みの土台跡が残っている。もう一つはさらにGunt河を東に入ったBulumkul (標高3719m)で、石組みの拝火壇跡が遺っている。そして、パミール高原南のWakhan回廊のPandzh渓谷北側斜面にあるVrang(2810m)には、四角形の階層状の基壇が遺るストゥーパ跡があるが、これも元々は拝火壇跡ではなかったかと考えられている。ネット画像で見るとどれもが周囲を見下ろすことのできる高い地形の頂点に位置している。「アフラよ、天則によって力強い火に、我らは願う者です」(Yasuna 34-4)。あるいは、「マズダー・アフラの(子なる)火よ、われらは御身をとりまこう(恭敬の念をもって対象の周りを廻歩する)」(Yasuna 36-3)と述べられているように、ザラスシュトラは火壇に火を灯してAhura Mazdaに捧げ、自らの願いが受け入れられるよう火の周囲を廻ったのだと考えられる。そうするためには当初から、天上に火が届くのに都合の良い高い地形が拝火壇を設けるために選ばれたのではないだろうか。パミール高原に遺る拝火壇跡はどこも標高が高い場所に築かれている。なおかつ、それらはBadakhshanから新疆のKashgarへ抜ける交易ルート上に位置し、古くからの要衝の地であると考えられ、交易者としてのゾロアスター教徒の需要を満たしていただろう。Badakhshanはラピスラズリ、ルビー、エメラルドといった鉱石の産地であり、その北方のZeravshan河流域はザラスシュトラの故地でもあった。

私は今になって、ガンダーラ地方の中央に位置するTakhte-bhaiの仏教遺跡を訪れた時のことを想い出す。その日の朝早くにPeshawarからGT(Government)バスに乗ってMardanまで行った。夏の強い陽射しに閑散としたバス・スタンドで降り、しばらくの間時間をもて余した後Takhte-bahiに行くというローカル・バスに乗り込んだ。ものの十分も走るとここだと言われて降ろされたが、そこはバザールの真っ只中で人が行き交い、方向も何も皆目見当がつかず、近くの店の主人に仏教遺跡までどうやって行ったらいいか尋ねることにした。ジープが行くと言うので仕方なくバザールのはずれまで行ってジープをチャーターした。運転手はまだ若いが、その話しぶりからして信頼できそうな人物だった。遺跡があるところまでは北に向かって走ったと思ったらもうすぐそこで、荒地が岩山と化すような寂寞とした場所にひっそりと部落があり、そこでジープは停まり、この岩山の上に遺跡があると運転手は言う。山道なのでジープはここまでで、料金は後でいいから戻ってくるまで待っていると言うので、多少不安もあったが一人で坂道を上がって行った。七月の暑い日だった。最初はなだらかな坂道だったのが途中から瓦礫ばかりの急勾配の坂になった。案内は何もない。辺りに人気はまったくなく、岩山が狭まり、しんと静まり返った谷道を黙々と上って行った。するといきなり目の前に忽然と視界が開け、その先に遺跡というか、煉瓦積みの廃墟が目に飛び込んできた。この種の仏教遺跡を訪れるのは初めてだったが、それは思いのほか見事な遺跡だった。僧院全体の形が明確に遺り、敷地内部には僧坊やストゥーパ跡がそれとはっきり分かるものとして遺っている。身体感覚がイスラーム世界に慣れ過ぎていたせいか、何かしら場違いなというか、異次元の空間にいきなり入り込んでしまったような感覚に襲われた。その創建は一世紀にまで遡り、僧院として七世紀頃まで存続したという。おそらく南から侵入したイスラーム勢力によって一部が破壊されたのに違いない。このTakhte-bahi遺跡はガンダーラ平野のほぼ中心に単独でそびえる小丘に位置するようで、今し方上って来た道の方向を振り返るとガンダーラの緑の沃野が広がるのを一望することができた。その峻厳な地形のせいで建物が占める頂上のスペースはことのほか狭く、反対側に回ればすぐに崖地となって落ち込み、建物の周囲の空間はほとんどなく、こんな地形のところに仏教寺院が築かれているとは意外だった。思えばモヘンジョダロにも城塞があったとされる一番高い場所にストゥーパが築かれていた。仏教徒がそれ以前の古い信仰の場に新たな信仰の土台を築いていったことはよく知られている。ひょっとしてあのTakhte-bahi遺跡はゾロアスター教徒の拝火壇跡に創られたのではなかったか、今そう思えてならない。

 

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前四世紀にアレクサンドロス大王の遠征軍がパンジャブ回廊に侵攻し、Jhelum河畔でPorus王と戦う前にパンジャブ北部のTaxila(Takshashila)を指揮下に置いた。遠征軍の同行者である哲学者オネシクリトスはTaxilaの<インド人哲学者>たちのもとへ派遣され、彼らと大王との会見を実現させた。そのときインドの行者たちは、「まったく見たことのない姿勢で、裸で立っていたり、座っていたり、横たわっていたり、さらにはまったく動くことがなかったり」、というような不躾な立ち居振る舞いをして客人を迎えた。そして、彼らにとって人生最良の教えは、「苦痛のみでなく快楽からも免れた精神を得ることであり」、「住むのに最良の場所は、生きるのに最低限の装備があるところである」、そう考えていることを知ったという。

当時、Lahore周辺のDoab地域(大河川と大河川の間)はいくつかの部族国家に分かれていた。またそれより北方のUpper Doabには多くの都市があったという。アレクサンドロス大王と戦ったPorus王は事前に諸部族国家による連合を呼びかけ、いくつもの異なる部族集団を率いていた。当時Taxilaは中央アジアの交易ルートがガンジス河流域方面へ合流する地点として重要視され、行政中心地としての役割も担っており、また学問都市の様相を帯びてもいた。その西方のガンダーラ出身で、「言語学の父」と呼ばれるPanini(前四世紀)はすでにサンスクリット語文法を確立させていた。

前六世紀から前五世紀にかけて、仏教徒、ジャイナ教徒、アージヴィカ教徒等による苦行者集団が、供犠儀礼の宗教に対抗するようにして初期の「Sramana(出家)運動」を展開させていた。「gveda10-136にはこうした苦行者について述べている讃歌がある。「長髪で、(肌は)褐色にして垢をまとい、風を帯とする(裸の)行者」がいて、彼らは自ら、「忘我の域に達し、我らは風に乗った。汝ら人間は我らの形骸のみを眺める」と語ったと言う。苦行には二つの目的があった。肉体的苦行と瞑想とによって神秘的かつ魔術的な力を得ようとするものと、Vedaの儀礼を否認し、例えば裸体主義者のように社会から身を引いて森に住む隠遁者となることで、社会から適応を迫られることを逃れ、生について思索する自由を求めるものとがあった。こうしたことからも知れるように、北インド社会は急速に変化しつつあった。後期Veda社会の最大の問題は都市化だったと言われるが、織物、製陶等の工芸品生産、冶金術による農具の生産が広く行われるようになったが、都市についての具体的な状況はよく分かっていない。工芸品の生産に伴い交易が進展したが、経済は農業中心で、相変わらず農村が社会の基盤だった。おそらく先住民による農業生産と工芸品生産、そしてそれに伴う交易活動等が、生産に関与しないアーリア人社会に影響を与えるようになったのではないかと思う。この頃になると新たな思索やその内容を口頭で教える独自の教育組織が生まれ、そうした組織に属する人はVeda社会とは距離を置き始めるようになった。ことに苦行と禁欲による独身生活は初期Veda社会には見られなかったもので、北インド社会が経済的変化に伴う宗教的変化のうちにあることを少なくとも反映している。またウパニシャッド文献から知られる膨大な地理情報は、人々が大した困難もなく北インドを往来し、交易できたことを示している。北西インドの学問中心地ガンダーラ地方とインド中原のウパニシャッド文献の展開地であるヴィデハ地方は1600km以上も離れている。人々は交易だけでなく、知識を得るためにそれだけの距離を移動したのである。ウパニシャッドの教えは、こうした大きな社会的、経済的、宗教的変化の時代に生まれるべくして生まれたのだった。

upaniad」という語の最も早い使用では、それは「結び付ける」、もしくは「等質的な対応」を意味しているという。「upas」は「近接する」を意味し、その語は「階層」の意も含んでおり、ウパニシャッド的な<結び付け>は階層的にアレンジされてもいる。その教えを生み出す思索と探求は、階層的に連結し合う宇宙の頂点に立つ実在的なものを見出すことにあった。しかし、そうした<結び付き>はつねに隠され、<結び付き>の隠された性質のゆえに、upaniad」の語もまた「秘密」を、ことに「秘密の知識」とか「秘密の教え」といったものを意味するようになった。「iti rahasyam iti upanisad/神秘であるもの、それがウパニシャッドである」と言われる。その教えは限られた者を相手に伝えられ、その内容にはVedaにはない<概念>に基づく教えを含むものがある。その教えの内容がVedaの伝承とは異なるがゆえに、自ずと森の中や人里離れた場所で教えが行われることになった。北インドの異なる地域において、教えを受けられるところがあれば世俗から離脱した者がその教えを求めるために往来した。「gveda」による祭祀はあくまでもバラモン階級を核として、王家と戦士であるクシャトリヤ階級がバラモンによって伝承されてきた形式を支持して行われていたが、ウパニシャッド文献の中にはクシャトリヤがバラモンに教えを与えるという逆転した構図も知られている。こうしたことは両者をめぐる権力関係に変化があることを示しているが、「gveda」 による祭祀は後に、クシャトリヤを一時的に俗社会から切り離してその儀礼を行うという変形したかたちにまでなっている。クシャトリヤ側からの強い要求がそうさせたのだろう。

ウパニシャッド文献の中でも最も古く成立したとされる「Bhadaranyaka Upaniad(900)」は以下の言葉で始まる。ちなみに「aranyaka」の「aranya」は「森」を意味し、「Aranyaka文献」とは村落外部の森林地で唱えられたものを言う。

「供犠に付された馬の頭は、いかにも、暁で、その目に見るものは太陽、その息は風、その大きく開かれた口は全ての人に共有される火。供犠に付された馬の体(atman)は年で、その背は空、その腹は中間域、その下腹部は大地、その脇腹は方位、その肋骨は中間方位、その四肢は季節、その関節は月にして十四夜、その脚は昼と夜、その骨は星、その肉は雲、その胃袋の中身は砂、その腸は河、その肝臓と肺は丘、その体毛は草木、その前身は昇る太陽、その後身は沈む太陽。供犠に付された馬が欠伸をすれば稲妻が閃き、身を震わせれば雷鳴轟き、排尿すれば雨降る。その嘶きは発話そのものである」(1-1-1)

これはAsvamedha儀礼を解釈した教えと考えられているが、一つの生体が宇宙の諸要素と照合される表現については、「gveda」の中で最も後期の「Purua-sukta」に、巨大な原人(Purua)から世界が造られる様が詠われているものがある。

sahasrasira Puruah/sahasrakah sahasrapat/sa bhumim visvato vtva/aty atithad dasangulam/千の頭を持つプルシャ、千の目、千の脚、それは大地を包み込み、さらにはそれよりも十指の長さで拡がる」(10-90-1)。「nabhya asid antarikam/sirno dyauh sam avartata/padbhyam bhumir disah srotrat/tatha lokam akalpayan/その臍から空気が生まれ、その頭から空が放たれ、その二本の脚から大地が、その耳から方位が、そうやって世界が造られた」(10-90-13)

 ウパニシャッドの時代になれば<原人>の考えはもはやないが、世界がどのように造られたのかを言葉で表現する仕方はそのまま受け継がれている。つまり、両者共、人もしくは馬の身体の各部位を宇宙的な現象と相応させて示そうとしている。古代アーリア人が言葉の象徴表現に秀で、<概念>を用いないのと同様に、この「Bhadaranyaka Upaniad」の冒頭の表現においてもすべての名詞が一つの範疇の中で用いられている。しかし、その言語表現は語りであり、解釈であるという点で、「gveda」とはもはや異なっている。「gveda」では発語の力が重視されたと考えられるが、ウパニシャッドでは言葉による分析が重んじられているのがよく分かる。ここで受け継がれている、人や馬の身体から宇宙が創造されたとする考え方は、おそらく動物を供犠に捧げる慣習のある放牧生活に由来すると思われる。犠牲に捧げられる動物は祭司によって屠殺された。そしてその後の解体作業は、動物の内臓はもとより、血液と循環器、骨と関節、果ては気息に関する詳細な情報をもたらすことになった。こうして積み重ねられた知識が、「Bhadaranyaka Upaniad」の冒頭で展開されているのである。分析によるその言葉の表現は、Asvamedha儀礼に解釈を施そうとして、供犠の際に顕れていたと考えられる生命の力を示そうとしている。すなわち、身体各部位の運動力、見聞きする力、消化し排泄する力、呼吸し発話する力などである。生命を顕し、生命を維持する力がどのように構成されてくるのかについての関心は、おそらく原始の感覚であるに違いない。儀礼以前のこうした原始的な感覚が言葉による分析のさなかに再浮上し、あたかもそのことを語る者の内面を開き、その内面を生命の力で充溢させているかのようである。すなわち、息をする生きた体に最も頻繁に使用される言葉が「atman」であると言われるが、語る者のうちに<atman>が意識されているのが感じられる。その原始的な生命感覚は宇宙的な全体と繋がる意識のうちに生じるもので、「gveda」の祭儀感覚と異なるものではないように思われる。こうしたことから分かるのは、ウパニシャッドの教えの多くが、何かしらの統合的な観点を得ることのできるような場を見出そうとしていることである。すなわち、宇宙と人間の経験とに分離してしまった諸々の要素を一つの方向へと導き、それらを一つの枠に組み込むことによって、全体的なものとして知ることのできるような場を見出そうとしているのである。「gveda」のsihのように、全体的なものを感覚することのできる場を保持しようとする者にとって、宇宙はばらばらの事物や存在という部分で構成されたままではないはずだ。そうではなく、崇高な<現実>とは全てを包摂した宇宙を感覚することに等しい。その宇宙は明確なかたちと資質をもった全体的なもののままそのかたちを創り上げている、そう考えているのである。おそらく、全体としての<現実>を分割し、その一部を抽象化して扱うようになった現実社会における人々の生き方こそが、都市化に伴う社会変化の内容ではなかったか。富の蓄積に伴う機械論的な思考が日常化するにしたがって自然の威力を誇示する声に関心が向けられることなく、崇高な<現実>を感覚することが困難になった、ある種の危機感を伴ってそう考えられるようになったのではないか。

Bhadaranyaka Upaniad)の中で生命を支える力のうち最も重要視されたものが、呼吸、視覚、聴覚、発話、そして思考である。そしてこれら五つの力はしばしば「prana」と呼ばれ、それは生命や生命を維持するものを運ぶ力と考えられた(1-5-21)。他のウパニシャッドの中には呼吸を生命や<atman>と同一視するものがあり、とりわけ呼吸が注目されていたのがよく分かる。こうした呼吸の力についての探求は、身体内部の呼吸に関していくつかのタイプを区別するまでになった。五つの呼吸が区別されており、それらは、「呼気(prana)」、「吸気(apana)」、「昇気(udana)」、「横断気(vyana)」、「等気」もしくは「結気(samana)」とされている。これらの区別は、自身の呼吸とそれに並存する生の感覚の諸状態を実際に観察することによってもたらされたものであるのに違いない。その区別はしたがって客観的なものではありえない。とはいえ、自己の呼吸の観察を教えの核心とするその姿勢は歴史的に見ても際立っていると思う。生きている限り呼吸を長く止めていることはできない。呼吸は、目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ない睡眠状態のどんな状態でも働いている生理作用であり、とりわけ目覚めている状態ではそれを意識することができる。意識した途端に呼吸が乱れることもあるから、それは意識と連携して働いていると考えられただろう。こうした呼吸と生の感覚に向かう意識の自覚作用は、けっして意識と身体を分離することなく、生を一つのものとして考える最も重要な契機となるものである。

すでに「pranayama(気息を意識的に統御すること)」の実践が「Brihadaranyaka Upaniad」に述べられている。「そこから太陽が昇り、そこに太陽が没する(と言われている)。というのも、それは呼吸から昇り、呼吸へと没するからである」(1-5-23)。また「pratyahara(すべての感覚を自己に集中させること)」の実践が「Chandogya Upaniad (前八世紀〜前七世紀)」に述べられている。Vedaの句を唱えながら、「彼は感覚器官の全てを彼自身のうちに収束させている」(8-15)

Katha Upaniad (前五世紀〜前三世紀)」は若きバラモンのNaciketasYama()との対話で名高いが、その最終章に「Yoga/ヨーガ」の語が初めて現れる

「心の働きと共に/五つの感覚が静められるとき/さらには判断力さえも奮い立たぬとき/人はそれを最高の状態と呼ぶ」(6-10)

「感覚がしっかりと制御されているとき/それがヨーガである、そう人は考える/そのとき人は気が散ることを免れている/というのも、ヨーガは生じるものである/と同時に消滅するものだからである」(6-11)

「言葉によってでなく、また心の働きによってでもなく/目によって掴むこともできず/それはどのようにして知覚できるのか/<れはそれである>と言う以外にない」(6-12)

「心臓の血管は百と一/その一つが頭頂にまで伸び/その血管を辿り昇れば不死に達す/他の百の血管はあらゆる方向へ広がる」(6-16)

Katha Upaniad」は最奥の存在である<atman>に接近しようとして存在の様々な段階を定義している。すなわち、感覚、意識、思考等といった、心身を構成しているものの階層性に言及している。そして、ヨーガを定義し、ヨーガが<atman>にアプローチするための基本的な心身作業であることを強調する最初の文献である。ヨーガとは、客観化できないが内部化されるものに目を向けることであり、なおかつ内部化されるのに伴う意識の高まりゆく状態と見られている。<内部化>については、例えば、「Atharvaveda」に割り当てられているMandukya Upaniad(成立時不明)」で次のように語られている。「四番目の方位は内部でも外部でもないし、その両方でもないことは分かっている。また知覚の塊でもないし、知覚することでもなく知覚しないことでもない。見えないことでもないし、通常の交感作用の範囲以外にある。把握することもできないし、際立った印がなくもない。考えることもできないし、言葉で言い表すこともできない。その本質はそれ自身のみの知覚であり、見ることのできる世界が中断され、全てが静かで穏やかであり、吉兆であり、その時のみのものでそれに代わるものがない。それが、自らそこにあるもの(atman)である。それは知覚されるべきものである」(12)。これは「Om」と声に出す際のその発語の音とその体感をめぐる分析を述べたもので、そのとき長く吐く息と息の一時的な停止が伴っている。ここで語られている<内部化>の描写は、おそらく「Om」と声に発しつつ息を吐き出してそのまま保持する状態について述べられているのではないかと思われるが、自らの生理作用によって内部化された状態に向かう意識それ自体の自覚作用がそこに働いているのは明らかであるにもかかわらず、それを言葉では掴み難い、すなわち対象化できないことの体験が語られている。ヨーガとは元来、言葉では対象化できない、こうした生命の全体的な体験から出発し、その<内部化>に関わろうとするある種の技法ではないだろうか。いっぽう、「Katha Upaniad」には概念的な言葉が随時見られ、「atman」、「brahman」、「purua」といった語がそれまでとは異なる使い方で用いられている。その最初の章で語られるNaciketasYama()との対話「死の循環」、すなわち、死と不死の関係について問うもので、そこには生命が無生命のものから展開して来る過程を基礎付けるSamkhya哲学の概念が生まれる素地がある。atman」は「an/呼吸する」、「at/動く」、「va/息を吐く」などの語根に由来するとされ、生きた体を持つものの主観的な感覚を示しているが、それが<個我>という性格を帯びて来る。「brahman」は<brih/拡張し進化する>を語根とし、宇宙を含む全体的なものの運動とそれに連関するもののことを示しているが、それは全てを包含する普遍的なものを概念的に示す傾向にある。「purua」は<原人>の意であるが、それは<精神的原理>を意味するようになり、生命がいまだ展開されない状態としてprakrti」の語が、<根本原質>の意で提出されているのが特徴的である。おそらくウパニシャッドにおける階層的なものをめぐる分析が、必然的にいくつかの<概念>を必要としたのではないかと思う。後にSamkhya学派は「Yoga Sutra(前二世紀)」に理論的土台を与えることになったが、Samkhya「数える/区分する」の意で、<概念>による諸要素の特定と区別を方法論としている。その思考はインド世界で初めて二元論を生み出し、生という全体的な感覚と乖離するような矛盾を内に孕むことになったのではないか。それゆえ最終的に、「Ayamatma brahma」、すなわち「atman(個我)brahman(普遍原理)は一体である」という、体験的に基づくというよりも、概念的な統一理論が出てくることになったのだろう。ここからBrahmanという絶対神が出て来る可能性がある。一神教の目的論はただひたすら神の存在を正当化する傾向があり、いったん<絶対神>の概念が現れれば<絶対神>を中心にして論理的な飛躍がどれだけでも可能になる。それに対して、呼吸を基にした生の目的論はあくまでも心身の全体性を前提とし、ひたすら体験的な<楽>を求めることになる。そこに論理の飛躍などあり得ない。ただ人の成長段階が示されるだけである。

Maitrayania Upaniad(成立時期不明)は「Katha Upaniad」の後に成ったが、Patanjaliの「Yoga Sutra(前四世紀)」以前のものであるにもかかわらず、六つの段階のヨーガの方法を述べている。それらは、「pranayama(気息の制御)」、「pratyhara(感覚からの内省的な撤退)」、「dhyana(瞑想)」、「dharana(精神集中)」、「tarka(哲学的考察/創造的論拠)」、「samadhi(忘我もしくは霊的な内的統一)」である。呼吸を統御し、意識を集中させ、瞑想(dhyana)という<内部化>に関わり、最終的に「samadhi」が到達点であることが示されている。「Shvetashvatara Upaniad(前二世紀前半)」にはSamkhya学派の影響が見られるが、それはヨーガの姿勢について述べている。「三つの部位を直立させて身体を真っ直ぐに保ち、感覚を意識と共に心臓に引き入れるとき、賢者はbrahmanで成り立つ船に乗りあらゆる急流を渡ることができるであろう」(2-8)。そして気息が制御され、意識が瞑想状態に入るとその状態が保たれるように精神集中(dharana)する。ヨーガをするには、できれば洞窟や簡素な場所で、静かで水が優しく流れ、雑音がなく風が強く吹くことのない場所がよいとされる。ちなみに、Yoga Sutra」には姿勢に関する説明はない。

<放牧>社会の中心となる供犠の慣習は、動物の解体によって生命機能を司る内臓組織の観察を進めることになった。Vedaの祭司によって「供犠(yajna)」を行う際に為された、事前の「苦行(tapas)」の実践、供犠の間の「精神集中(dharana)、そして身体の姿勢を正しくとることは、ヨーガの先駆けと考えられている。事前に身体を浄化する方法の一つが「断食(upavasatha)」である。そのことは供犠の神聖な火が灯される場の近さと断食の程度とを結び付けてもいる。断食と苦行は、ある場合には供犠儀礼と等価であったという。最初に述べたように、「gveda」の後期には、Muni(黙者/聖者)Kesin(長髪者/行者)Vratya(行者)といった他の苦行者の集団に関する言及がある。また気息と生のエネルギーを統御する技術は「Brahmana (1000年〜前800)」や「Atharvaveda」の中でも述べられている。「Atharvaveda」には、Vratyaは身体の姿勢を強調したと述べられている。おそらく供犠を司るṚsih(祭司)の覚醒状態が、様々なかたちをとって様々な方面に受け継がれていたのではないか。そしてウパニシャッド期になると、gveda」を解釈するその思索は、呼吸の仕組みや血液循環との繋がり、また感覚器官と意識の状態との関連といった、意識が向かう生体内部の分析に注意をむけていった。ウパニシャッドでは呼吸について様々に論じられ、呼吸は教えの核心であった。しかしウパニシャッド文献は、呼吸の統御に伴う意識に開かれる<内部化>とその構造について説いてはいるが、「身体姿勢(Asana)」の指示がほとんどない。いっぽう前章で示したように、ハラッパ文明には呼吸を整えつつ身体の姿勢や忘我状態を示唆する印章の画が遺されており、そのことから当時人が森林原野の中で周囲の環境と一体化するような精神集中の方法があったと考えられている。「ヨギの静止した身体は明快な傾聴状態が拡張していく領域を確固たるものにしている。すなわち、その沈黙のかたちを通して、浸透のプロセスといったものが、植物や動物の世界がそこに入り込みかつ流れるようにさせているのである。その腕は大地を指し、膝を大きく広げた姿勢はヨギ的な性格を示している。すなわち…、力の発信、平衡状態の確立である。水牛、跳ねる虎、犀、象、野性的で雄々しい動物、それら自然の脅威であるものが坐像を囲み、その動物たちの体は最高度の平衡状態において坐像から発せられる強力な磁力によって釘付けになっている」(The Earthen Drum)その印章画に描かれた人物の姿勢はヨーガの「Padma Asana(蓮華座)」と驚くほど一致している。「Atharvaveda」がハラッパ文明の<自然一体化技法>とアーリア人祭司の<宇宙全体感覚>とを仲介するものと考えれば、精神集中のためのヨーガの方法への展開を促し、そのかたちを整えることができたのは、両者を繋げる(yoga)ことにその源があったのではないか。Paniniに従って「Yoga Sutra」の最初の解説書を書いたVyasaは、ヨーガは「samadhi(内的統一)」を意味すると述べている。「samadhi」は忘我状態の霊的統一とも解釈されるように、そこには全体と分離されたものではない、全体と結ばれている生の感覚が立ち現れて来るからである。古代ハラッパ文明、そして初期のVeda儀礼からウパニシャッドの教えまで、そこには生きている体、その生理現象に直接触れようとする意図が強く伺われる。呼吸は生命の核心であり、呼吸こそ生きていることの証である。例えば、今の今まで生きていた鶏の首を締めて殺すと、ふっと息が放出されるようにして、その体から体温と共に何かが消失したという感触がある。呼吸が失せた状態、それが死である、そう実感する一瞬である。

 

ウパニシャッドの教えが北インド各地で広がる頃に、仏陀(前六世紀〜前五世紀)の教えは説かれた。仏陀の教えは秘密のものではなかった。しかし、その教えは一般の人々にとって難解過ぎないかと懸念し、仏陀は人に説くことを躊躇ったが、「インドラ神の勧請」によって人に説くことを決意したと言われる。この説話はウパニシャッドの教えの秘密性を意識して語られていると思われるが、仏陀の教えは、貧富の格差が広がる社会で人間はどう生きるべきかが中心となっており、それは限られた人のみが求めるような教えではなかった。仏陀の教えの背景はウパニシャッドの教えの背景とは全く異なっている。それは北西インドの<半農半牧>社会とは異なり、ヒマラヤ山麓の季節的に集団による協調労働が必要な米作地帯に生まれたのである。Sramana(沙門)として、一般社会とは異なる姿形の者となって布教活動をしたが、そのSangha(共同生活体)は一般社会から距離を取りながらも、あらゆる人に開かれた信仰を実践するための場だった。ウパニシャッドが着手した瞑想の方法を採り入れながらもウパニシャッドが行き着いた構造的な概念とは異なり、意識が意識に向かう自覚作用を強調し、その<内面化>に向かう姿勢は瞑想の方法を飛躍的に促進させた。身体は苦悩の源とみなされたが、意識が意識の物質性に向かう自覚作用は<欲望>という考えを提出し、<欲望>を制御することでことさら心身の二元論に陥ることはなかった。それは瞑想の方法を重視しつつ、全体的なものの感覚を保持しながら、社会生活に苦悩する人間を救おうとする社会運動であり続けたのである。