Sunday, April 04, 2021

Lahore日記 The diary on Lahore

    三 パンジャブ回廊


   1 アーリア人の侵入とハラッパ文明

 

 四月から五月にかけて酷暑が極まり、その極まりがピークに達して自らもちこたえられなくなり、その果てに内部の構造が崩壊するようにして気象の変化がカタストロフ的に起こる。雨季の前にLahoreに突然の砂嵐がやって来る。突然ではあるが、その予感はある。街を歩きながら陽の光のうちに妙な翳りが感じられ、足下にわずかに冷えた空気がまとわりついてくるような感触がしたと思うと、南の空を仰げば遥か彼方にはや灰色に沸き立つものが見える。すると間もなく一陣の風が吹き荒れ、辺りが急激に暗くなるやいなや猛烈な砂嵐の渦に包まれる。最初は生暖かく感じられた風がいっきに冷えたものに変わり、身体をどうこうする間もなく防御の体制に入っている。砂塵が渦巻き、暗く灰色に斑状となった雲を貫くようにして一瞬昼間の稲妻が走る。稲光がかっと照らすや荒れ狂う砂塵雲に乱反射して異様な明るさが頭上に広がり、その直後に地響きを立てて轟音が後を襲い、人みな虫けらのように身体を丸めたところに容赦なく大粒の雨が落ちて来る。その後は土砂降りとなり、恵みの雨がいっきに大地の温度を下げることになる。

 雨季になると、デリーでは毎夜のごとく稲光が低く垂れ込めた曇を貫くようにして走った。それも数時間にわたり次から次へと稲光が走り、雷鳴を地上に轟かせながら停電した暗い街の上を這うようにして南から北へとゆっくり走り抜けていくのを見た。室内は湿気で蒸せ返り、汗だくの身体を冷ますようにして夜間に屋上に出て見るにはいい爽快な見ものだった。稲妻が咆哮をたて、うねうねと走り抜けるその光景は、何かしら得体の知れぬ生き物が地上の世界を圧するかのように宙空を通過して行くようであった。

パキスタン北西部の山岳地帯にあるKalashの谷に滞在した時のことである。夜中にKalash族のダンスが見られるというので松明の灯に付いて行った。小さな谷には電気、水道の設備は一切なかった。その夜は月明かりもなく、辺りは完璧な闇に包まれていた。足下さえ見えない急斜面を上がりきったと思うといきなり平らかな広場に出た。中央で火が焚かれ、すでにダンスが行われている最中だった。それは主に女性たちによるフォーク・ダンスで、円陣を組んで踊るものから縦列して踊るものへと自在に移り変わりながら、幾種類かの異なる形態によって踊られていった。しばし私は民俗行事の見物客となり、それからダンスの合間に中央に集まった長老の男性たちの朗唱があり、低い声で朗々と唱えられる英雄譚のようなものを耳にする陶然とした心地に包まれた。すると、その最中に雷鳴が轟き始めた。最初は闇に響きわたる遠雷だったのが、いきなり稲光が閃き、辺りを照らし出した。一瞬のことだった。しかし、その一瞬に照らし出された光景に私は目を瞠った。眼下に谷の全貌が浮かび上がったのである。谷間ばかりでない。周囲に黒々と屏風のように立ち並ぶ山の尾根の連なりも際立ち、自分がいま思いも寄らない位置にいることが一瞬のうちに理解された。暗闇に戻った後もいましがた照らし出された谷間の光景が脳裏に留まり、目の前の民俗行事に関する意識は周囲の環境全体と繋がり合ってもはや一変していた。

 

 渦巻く如き思念が言葉に照らし出されて一瞬かたちとなる。「gveda」の詩句はそんなふうにして出来ているのではないか。前1500年から前1100年にかけて、中央アジアに居たアーリア人の一派がパンジャブ回廊へと移動して来て一時的にそこに留まり、その新たな環境の中でつくり出した詩篇「gveda」のことである。「gveda」とは「知(veda)を讃える(c)」の意であり、その内容は長いあいだ音声のみによって伝えられてきた。たとえば、Indra神を讃える次のような詩句がある。

yah saptarasmir vabhas tuvimaan/avaasjat sartave sapta sindhuun/yo Rauhinam asphurad vajrabaahur/dyaaaarohantam sa janaasa Indrah/

Dyavaa cid samai Pthvii namete/sumaac cid asya parvataa bhayante/yah somapaa nicito vajrabaahur/yo vajrahastah sa janaasa Indrah/ (-12-1213)

「七つの大河の流れの(雄牛)を御し、手にVajra(稲妻)を持って天を支配する我らがIndra神よ。天も地も跪き、その熾烈さに山々も恐れる。不死の飲料Somaを飲み、手にVajraを持つ者、我らがIndra神よ…」。Pthvii(大地)pvabhas (雄牛)vIndradrなどの破裂音の連続と共に発せられた言葉が、朗唱する者の思念を照らし出すようにしてそこに一瞬のうちにIndra神の姿がかたちとなって描き出される。その有り様はあたかも、雷鳴が轟き、稲妻が辺りを照らし出し、そこに浮かび上がる光景が描写されるかのようである。アーリア人にとって、新たな環境であるパンジャブ地方はここでは「Sapta Sindhu(七つの河川)」と呼ばれている。ちなみに、「パンジャブ(Punjab)」とはペルシア語の「punch()」と「ab()」の合成語で、遥か後世のアケメネス朝時代に成る名称である。ここで「七つの河川」と呼ばれるのは、アーリア人がやって来た頃にまだ流れていたと考えられる大河川Saraswati河を含め、またアーリア人たちがパンジャブ平原の暑さを避けてヒマラヤ山脈の縁となるなだらかな山麓地帯に接する平野部を移動して来ただろうことを考えれば、そこでは大河は支流に分かれて流れているからSutreji河の支流であるBeas河も含まれていると考えられる。この「七つの河川」地帯とは、かなりの時間をかけながら、すなわち水量の少ない時期に苦労して渡河しながら移動して来たアーリア人に知られるようになった新たな領域であり、また当時の居住範囲を示していると考えられる。このパンジャブ平原とそれに接する山麓地帯には彼らがそれ以前に居住していた内陸の草原地帯とは異なり、複数の豊かな河の流れと通年にわたり温暖な平原地帯、それと共に起伏ある山々や深い峡谷といった自然環境があった。当然、その気象も異なっていただろう。ことにアラビア海から暖気が運び込まれて山岳地帯にぶつかり、雲が湧き立ち猛烈な雨を降らせる雨季というシーズンは中央アジアにはなかったはずだ。酷暑が極まって強風が吹き荒れ、黒雲が渦巻き、その中を雷鳴が轟き、稲光が貫き走る。自然のそうしたカタストロフ的な現象を定期的に目の当たりにしたのである。<カタストロフ>というのは内部からいっきに現象が変化を起こすシステムを示している。供儀を軸に氏族の小集団をつくり、幾つかの氏族集団がまとまりながら移動して来たアーリア人たちは新たな環境にあって、それも彼らの生業である放牧に適した豊かな土地を見出して、富をめぐる新たな支配体制を創り出したのに違いない。それが神々の讃歌を朗唱するsih(聖仙)と、武力を有する者を従える氏族の首長とが支え合ってその権威を示す体制である。新たな環境で集団を維持し、権威を確固たるものにするための供儀は最重要事項とされ、供儀の儀礼と共にsihが神懸かりとなって権威としてのVeda()を讃える詩を朗唱した。その朗唱を伴う供儀は氏族集団同士の関係を変革させ、その結びつきを強固なものとし、いっきに幾つかの氏族集団を一つにまとめ上げるような王権体制をカタストロフ的にもたらしのではないか。sihとは、「gveda」の中で、(思念を)宣り告げる(かたちで朗唱する)者( yasya vaakyam ca sihと定義されている。また、「思念を見る者(mantra dashtas)」とも言われる。供儀の儀礼に際してsihAmita(不死薬)であるSomaを飲み、ある種の覚醒状態にあった。

apaama somam amtaa abhuuma/aganma jyotir avidaama devaan/ki nuunaam asmaan kavad araati/ki u dhuurtir amta martiyasya/ (-48-3)

「我はSomaを飲み、不死になった。光の中に入り、神々を見出した。どんな敵意も我に向かわず、死の悪意も我に何ができようか、我は不死なる者であるが故に」。ここではもうsihIndra神と一体化しているかのようにみえる。つまり、Somaを飲むことでsihは覚醒するのみでなく、何かしらの「力」の観念さえ与えられていたようだ。こうしたことから、ある意味でSomaは「gveda」の核心であり、精髄なのである。

Indra神は天空を司る神であるが、「yo apo vavvaamsam Vtram jaghaana/水流を塞ぐVtraを打ち殺した者…」(-14-2)、と讃えられている。すなわち、敵対者によって堰き止められた河川の水を、Indra神は敵対者を退治することで奪い返したというのである。これはどういうことか。インダス河の支流となる諸河川はどれも河幅が広く、水量も多い。そこに大小無数の河川が流れ込んでいるからである。インド・パキスタンの局所地図を見れば即座に分かるが、大小の支流とそれらが絡まり合う様子が網の目のように書き込まれている。そのうちの支流の一つが堰き止められ、Indra神がその原因である悪竜Vtraを打ち殺し、その水を流れるようにさせたという。その内容について具体的に考え巡らせば、先住民が何かしらの技術を駆使して外部からの侵入者に水を使わせないように水流を堰き止めたか、それとも土砂崩れによって水流が堰き止められたか、あるいは上流地域の地殻変動によって河川の流れが変わったか。いずれにしてもその原因は分からないが、そうした出来事とその問題解消はかなり矮小な出来事でしかないだろう。むろん水の確保は生死に関わる問題であるが、ここで矮小というのは、sihの発する言葉の表現と比べたらということである。つまり、Somaを飲んだsihの霊感力は現実の出来事を壮大なものに仕立て上げているのである。目の前の自然力を自らの思念の内に呼び込むかのようにして、出来事を自然の織り成す時空へと拡張している。そしてそうすることが出来たのは、sihに課された権威を示す役割と共に、まさにsihが発する言葉の力にあった。さらにはそうした言葉を発することが出来たのは、すべてをありありと明視することができるようなヴィジョンのうちにsihが開かれた状態にあったからである。この覚醒状態はsihに比喩の言葉を連発させ、そうすることで異なる事象を自在に結びつけ、言葉が担う意味を象徴の領域へと送り出すことが出来たのである。

ここに稲光のような閃きが作用している。稲光が大気の温度差や水分といった幾つかの条件が揃うことで起きる電気現象であるように、<閃く>というのは一瞬にして幾つかのものを繋げることであり、繋げ合わせて一つのかたちへと成すことだ。そしてそれと同時に、その背後の闇に、言葉では把握し得ないものが控えていることを察知することでもある。そのとき、意味を示すというよりも象徴を開示する言葉が、そうした察知を、周囲で朗唱を聴く者の思念においても喚起することになったはずだ。言葉によって開示された象徴は、思念が顕在するかたち化とその変動と共にあり、その変動には感情を喚起する力が伴っている。ここに集団的な<閃き>状態がもたらされることになる。この集団的な<閃き>状態は、言葉が発せられたその一瞬に立ち現れる、<察知>とそれを喚起される聴衆も含めた全体的な内容であるがゆえに、言葉が発せられたその<場>を保持することのできるような音声によってのみ伝えられてきたのである。つまり、言葉を発した者もその内容も内容と共に察知される背後の力も聴衆もその聴衆に喚起される感情も、言葉が発せられた瞬間に全てが一体となってそこに起こる現象であるがゆえに、それら一つのものを分け隔てることがないようにと、ただ音声によってのみ伝えられてきたのである。そのような発語の<場>が創造され、その音声や意味・象徴や喚起や強烈な感情的反応を含む、それら分割不可能な全体的な運動としての<閃きの場>が、王権の権威として示されたのではないだろうか。そうであれば、その<閃きの場>の内容を記号にして遺すというような、<場>の威力を失わせ発想はあり得ないことだった。彼らが文字を持たなかったのは、文字によって現象を対象として留めることに配慮しなかったからだろう。対象化するということは現実からその一部を抽象化して取り出すことであり、そのような全体としての現実を分割してその一部を抽象化することは、自然の威力を否定すると考えられたのではないか。とすれば、おそらく言葉が編み出す概念のようなものもあまり重要視されなかったはずだ。実在という考えもなかっただろう。どちらかと言えば、発語をめぐる<場>、自然を含む全てが繋がる<閃きの場>、それのみが崇高な現実として捉えられていたのではないか。彼らが創り出し、維持しようとした権威の性格がそこに示されているように思う。

sihkesh渓谷は、ガンジス河がヒマラヤ峡谷から平野へといっきに流れ出る位置にあるヒンドゥー教徒の聖地である。そこで朝晩ヒンドゥー寺院から風に乗って流れ来る朗唱の声を宿の一室で聴いていたことがある。朝はそうでもないが、夜には半鐘を鳴らすような緊張した趣がその朗唱のトーンにはあって、気持ちが急かされるような落ち着かない気分でその声を聴いた。ヒンドゥー教寺院で唱えられていたその詩句が何であったかは今にしては確かめようないが、おそらくVedaの詩句だったに違いない。その朗唱は畳み掛けるようなかなりの速度とリズムをもって進行し、そのため何かしら意識を昂揚させる意図が働いていたのではないかと今になって想い出す。それはBuddhagayaで聴いた仏僧による声明のトーンや、Dharamsalaのチベット密教寺院で耳にした読経のトーンとはかなり異なっている。仏教の声明や読経の場合、気持ちを徐々に高めていってその昇り調子の後そのままの状態を保ち、そこに落ち着かせていくという感じがある。

現代のヒンドゥー教寺院では祭祀の際にもはやSomaが飲まれることはない。Somaはアーリア人がパンジャブ回廊からガンジス河流域へと移動して来た、前1100年頃にはもう手に入らないものになっていた。somaの語はもともと「搾り出されたもの」の意であるが、「gveda」では、Somaは覚醒状態にさせる飲物、それが生み出されるもの(自然採取物)、それに相当する神、を共に言い表しているとされる。さらには、Somaは太陽光線がそこに濾過されたもの、という考えがあり、その太陽光線のエッセンスが体内に入ってsihの覚醒の源、「力」となっていると考えられてもいる。太陽光線を濾してそのエッセンスを取り入れたもの(自然採取物)が地上にあり、それを搾った液を羊の皮で濾し、最後に人のからだで濾してSomaの純液を取り出すという三段階のフィルター過程があると、「gveda」第九巻の「Soma章」、すなわち「Soma pavamana(「純粋なSoma」の意で、Somaの抽出液を指す)」に捧げられた章で述べられている。この第九巻は、「gveda」の最古層に属する讃歌を含んでいると言われる。Somaが何から、すなわちいかなる自然採集物から抽出されたのかは「gveda」でははっきりと示されていない。その自然採集物については象徴的な表現に終始し、そのためSomaが何から抽出されたのかということについては大変な議論がある。二十世紀も1970年代になって有力になったのは、Somaがベニテングダケから抽出された液から成るというものである((R.G.Wasson)。仮に自然採取物としてのSomaがベニテングダケであれば、sihの覚醒状態には北方のシャーマン文化の影響があることになるだろう。シベリアではベニテングダケが、シャーマンたちが意識の変容を起こして憑依状態へと移るために用いられてきた。そこでは雷雨とキノコとの間の特別な関係についても知られている。パンジャブ侵入以前に中央アジアのステップ地帯を放牧していたアーリア人が北方民族と接触していたと考えられないことはない。ところが、ベニテングダケはシラカバの根に着菌して子実体を生み出すのでシラカバ林がないと発生しない。ヒマラヤ山麓地帯にシラカバ林はないので、Somaはベニテングダケではあり得ないと言われる。現在ではベニテングダケはヒンドゥークシ山脈でも採集されるようだが、3500年前の過去においても採集されたかについては分かっていない。

いずれにしても、sihは覚醒状態を起こす何らかの物質を体内に取り入れ、その思念を閃かせるようにして言葉を発したのである。その発語の内容は、供儀という<閃き>の集団現象を十全にするものでなければならなかった。最初は氏族集団同士でsihたちの競争状態があったと考えられている。彼らは進んで神懸かりとなり、その霊感力を競わねばならなかった。供儀の言葉が後になって、おそらく取捨選択されて一つにまとめられたのが「gveda Samhita(本集)」で、その詩句は古典サンスクリット語に比べると、多様な語尾変化や時法の組織を展開しており、また古典期には廃れた多数の単語を含んでいると言われる。すなわち、sihたちは、文法が未成熟であったためにその束縛から逃れることが出来たのであり、時制に関係なく自由に言葉を発することができたということなのだろう。修辞は主に様々な比喩から成り、奇警な文句によって人の意表を突くことに腐心し、率直な表現よりも誇張、暗示、省略を好んでいるという。天界の現象と地上の出来事の間に境界を設けず、自在無碍にこちらからあちらへと移ることができたのは、とりわけ文法的な制約を外れることができる古代人の感覚が働いていたからに違いない。文法的な制約よりもおそらく讃歌であるために韻律が重視され、音節は厳密に規定されていたと考えられる。とはいえ、その音節に組み込むことができればいかなる語も自由に創造し、使用することができたのではないか。放牧から農業生産への移行につれて農業従事者も取り込んで社会は複雑化し、当然に供儀の規模も大きくなり、神々と人との媒介に当たるHotri(祭官)という役割が新たに生まれてきた。sihは思念を宣り告げる者として、より形式的である祭官を兼ねるようになった。祭官は神々と人との媒介者として規定されたから、通常人でない状態、神に近づいた状態を自ら演出する必要がある。ましてや他の集団の祭官と霊感力を競う立場にあったから、その演出と讃歌の内容も相乗的に極まっていったに違いない。しかし、覚醒状態を生じさせるSomaはある時期にもう手に入らなくなっていた。後の「Brahmana書」の時期になると、Somaの代替物についてすでに考えられ、手引されている。とはいえ、実際何がSomaでその代替物が何かさえ明らかではない。覚醒させる物質が手に入らなければ、sihの霊感力も次第に衰退し、儀礼も伝承に終始し、やがて形骸化していったのではないか。

sihがその覚醒状態によって神々という非人間的なものを務めて表現しようとし、現実を抽象化して取り出すことがなかったのではないか、あくまでもそう仮定して考えることは興味深い。つまり、彼らにとって<現実>とは全体的なものであった。それゆえ、その一部を取り出して思考の俎上に載せることは、その<現実>より劣ると考えられたのに違いない。例えば物質を組成する<モノ>として考えられている素粒子があるが、これは対象化できないことが分かってきた。便宜的に現実として対象化されているだけで、この目前する自身の身体や身体機能の根源となる<粒子>は対象化できないと知られるようになったのである。<粒子>も原子も分子も物質も細胞組織も有機体も、それらは各々が連繫して全体として機能し、そうした様相で存在している、そう考える方が現実をより正確に捉えることになるのである。それでも素粒子をめぐる議論は最先端の科学として活発になされ、実験を通じてその在り方は数学の言葉でのみ示され得るようだ。<素粒子>を抽象と考える物理学者からすれば、実在に関する深淵をめぐる思考とその表現は極めて非人間的なものになるのだという。数学の表現を想定しているのかもしれないが、たしかに素粒子のような、非人間的なものをめぐる概念は日常の言葉で表すことはできないに違いない。このように考えると、私たちが目の前にして考えているもの、つまり頭の中で把握することのできるもの全ては、人間の意図によるものなのであり、人間との関係における結果としてつくり出された、あるいは抽象化された、一つの形態に過ぎないことになるだろう。<意図>というのは、人間の造形的な力、あるいは人間の認識の中にだけある自然法則を反映した働きなのだろうか。そうであれば、いずれにしても人間が<意図>するもの以外の不明瞭なものを進んで言葉の表現から排除してしまったら、おそらくそこには全く面白みのない類語反復だけが遺ることになるだろう。そうした明瞭な表現は、非人間的なものに関わる表現、背後の<闇>が察知されるような表現からすれば、現実認識において劣っている。いや、というよりは、あまりに人間中心的な現実認識ではないかと思う。

 

 アーリア人がパンジャブ地方に侵入して来る遥か以前、幾つもの大河川が潤す平原地帯ではハラッパ文明が栄えていた。その文明は前3300年頃に始まり、前2600年頃から前1900年頃までが繁栄のピークとされ、何らかの理由があって前1300年頃には衰退したと考えられている。ちょうどその衰退期にアーリア人が中央アジアから移動して来て、パンジャブ北部の山麓に接する平野部に一時的に留まったことになる。その文明を通常は<インダス文明>と呼ぶが、その展開の初期から中心となったのがRavi河沿いの都市ハラッパを核とする地域とされるので、ここでは主に<ハラッパ文明>と呼ぶことにする。ハラッパ文明は高度な都市設計と、都市に住む職人による装身具生産、そしてその生産物を商品として交換するための広範囲にわたる交易ネットワークを構築していたことで知られるが、衰退の原因は十分に解明されていない。ハラッパ文明には三段階の展開が見られ、インダス河下流域のモヘンジョダロはその中期に発展し後期には衰退した都市であり、その一方でハラッパは文明の初期から後期まで一貫して継続した都市である。その交易ネットワークはインダス河のみでなく、かつてインダス河の東側にそれと並行してアラビア海へと流れていたSaraswati河を利用することで展開された。おそらくヒマラヤ山麓の地殻変動によってSaraswati河の流れは消滅し、その一部の流れはSutreji河となってインダス河に注ぐようになったと考えられている。そのインダス河も下流域のシンド地方では時間と共にその流れを大きく変えている。

モヘンジョダロはインダス河東岸に発展した都市であるにもかかわらず、現在のモヘンジョダロ遺跡はインダス河の西側にあり、しかもインダスの流れからかなり離れたところに位置している。私がモヘンジョダロ遺跡を訪れたのは四十年以上前のことになるが、遺跡とその周辺域は内陸部の荒地であるかのように乾燥し、周囲にインダスが流れる気配さえ感知することがなかった。シンド地方の六月はまだ雨季に入らず、陽射しが猛烈な暑さで降り注ぎ、遺跡には木陰の一叢すらないので、午前にもかかわらず遺跡を一巡りしただけですぐに隣接するMuseumに逃げ込んだ覚えがある。ましてやインダス河がかつて遺跡の西側を流れていたと知らされても想像さえできなかった。むろん、Lahoreの街の西側を流れるRavi河でさえ中世にはLahore城市のすぐ東側を流れていたことを思えばそれも不思議なことではないと考えはする。河の流れというものは人間が造る堤防さえなければ絶えず変化するのであり、つまるところ、長期間にわたる河の流れの変化が現在を生きる一人の人間としては想像もできない現象になったということなのだろう。一方、古代のモヘンジョダロ住民にとっては、河の流れの変化は季節的なインダス河の氾濫による都市の浸水という事象と共に否応なく知られていた。その堆積土が都市内に溜まり、住宅街を全面的に更新する必要に迫られることも度々あったようだ。従来の区画をそのまま踏襲して再建した跡が見られ、層を重ねるにしたがって時代と共に造築物の質が劣化し、それに伴って生活の程度も低下していったのではないかと考えられている。さらには大規模な都市を維持するために大量の焼成煉瓦を生産し、そのために周囲の森林を伐採し、土地は乾燥化する一方だった。燃料である森林を失い、都市の再建にも難儀し、河の流れも変わって交易活動に大きな影響を及ぼし、モヘンジョダロの住民は文明の後期になって土地を捨て、移動を余儀なくされたと考えられる。ことにSaraswati河の消失は、ネットワークの南の中心地であるモヘンジョダロと北部のハラッパとの交通を困難にさせたようだ。推測によれば、モヘンジョダロから東側のKot Dijiを経由してまずSaraswati河に入り、そこから船で北上し、現在はインドのラジャスタン州にあるGanweriwallaを経由してKalibanganへ入り、再び陸路で西側へRavi河沿いのハラッパに通じていたとされる。インダス河本流は何らかの理由で船の通行が困難だったと思われる。Saraswati河という重要な交易ルートを絶たれて、モヘンジョダロはいっきに衰退したのではないか。現在のインド・グジャラート州の海岸近辺でインダス文明の中期から後期にかけての都市遺跡が多数発掘されていることから、モヘンジョダロの住民は海岸伝いに東へと移動して海岸近辺に新たな都市を築いたグループもあれば、そこからボンベイ北部の古代港湾都市Soparaを築いたグループや、中にはNarmada河沿いに内陸の森林地帯に入って行ったグループや、南インドの海岸地帯にまで行き着いたグループなどがあり、おそらく彼らは都市を形成していた役割に応じて各地へ分散したのだと思われる。

 いっぽう、パンジャブ地方のハラッパを核にしてネットワークを築いていた人々は、アーリア人の侵入時に衰退期にあったとはいえ、一部の人々はアーリア人と接触していたと考えられる。アーリア人側からすれば、自分たちよりもはるかに優れた文明の痕跡が遺る領域に侵入して来たわけだが、その文明がすでに消失していてその核心に接することがなかったのか、先住民の文明に倣った形跡はない。それまで通り半農半牧の生活を続け、神々の讃歌を生み出すsihsihに支えられた氏族集団を中心に、さらには集団の首長を護る戦士集団を含めた三つの階級で構成される、新たな「jana(部族社会)」を形成していった。とはいえ、家屋は木造、食物は麦類に乳牛とその生産物を中心にして他にわずかな農産物と自然採集品であり、ときには祭儀に供された牛肉を食べる程度の生活レベルだった。生活必需品を製作する職人はわずかで、衣服は単純、工芸品は一切遺さず、主に畜牛の盗難や土地の境界問題を原因とする部族同士の戦いに明け暮れていた。部族間での物々交換は行われていたが、交易活動を示す記録はない。供儀の中心である讃歌だけが連綿と遺され、讃歌を継承するための記憶術は高度に組織的なものとなった。いっぽう、商品生産や交易には機械論的な思考が伴うはずだから、そうした思考の成熟する機会には恵まれなかったに違いない。おそらくかつての遊牧社会を反映して、神々と人との関係が部族社会にとって最重要事項とされていたと思われる。供犠を催行することが社会活動の中心であり、供犠には神々も参加すると考えられ、それは厳粛に執り行われた。そして供犠が終わればお祭り騒ぎとなり、その歓楽は参加者たちに一体感を与える効果を果たしていたようだ。こうして、「北インドは、農耕制・牧畜制から都市文化へと進展する過程に逆行し、再びその過程を経験せねばならなかった」(Romila Thapar)と言われる。

gveda」では、先住民は敵とされ、「pani」とか「dasa」と呼ばれている。また蛇を崇拝する強力なNaga族と争ったとも述べられている。Paniは家畜泥棒であり、また商人を思わせる吝嗇な人々であった。彼らは供儀を行わず、奇妙な神々を崇拝していた。それに対してDasaは、土地に根付いていた人々であったと考えられる。定住民である彼らはおそらくアーリア系民族とは異なるオーストラロイド系の民族で、肌の色や体型、顔つきも異なっていた。その話す言葉は<mridhara>、すなわち軟性の、粗野な、敵対的、蔑むような、罵倒的といった様々な意味を示す形容詞であるが、アーリア語系とは全く異なる言語を話していたのである。彼らはVedaの神々の命令に従わないのでアーリア人との抗争が絶えず、最終的にはおそらく農民として、アーリア人社会における最底辺の階級に取り込まれたと思われる。その際に、アーリア人から成る支配階級と先住民との「varna(肌の色)」の違いによって、後に「カースト」と呼ばれることになる「jati(生まれ)」の身分制度が意識化される契機となったと考えられる。アーリア人がインド世界にもたらした重要なものに馬がある。馬と車が一体化した馬車は戦闘用というよりも主に移動用であった。後には馬車競技が、社会に一体感をもたらす歓楽のために催された。馬車はIndra神の乗り物であり、その威力が讃えられた。雨季に湧き立ち、雷や雨をもたらす黒雲の圧倒的な動きとその速度からそう喩えられたのだろう。馬車の使用によって、馬を知らない先住民を力で支配することができたのではないか。

 

ハラッパ文明の都市設計は極めて高度なものだった。たとえばモヘンジョダロの都市設備は、「高く聳えよく防備された城砦と、平地に広がる住宅街から成っていた。城砦は公的な性格を持ち、宗教儀礼あるいは政治の中心となっていた。大浴場と大規模な穀物倉庫がそこにあった。住宅街は主要道路によって整然と区画され、小路がこれに交わっていた。住宅の多くは小路に向かってその戸口が開かれ、内部には井戸と浴室を備え、中庭を中心として小室が並び、階段によって二階に通じていた。給水施設と下水設備が共に完備され、衛生の設備に意が用いられていた。建造物は煉瓦を主要材料としていた」(Mohenjodaro Museum 1980)。さらには、大浴場や公共井戸等の防水が必要な設備や、河岸に接する建造物などには全て焼成煉瓦が使われていた。むろんその煉瓦の大きさは規格化されていた。

 こうした高度な設備を有した幾つかの都市を中心にして築かれたハラッパ文明の交易ネットワークは、その最盛期には300万人もの人口を擁していたという研究結果が報告されている。これほど多くの人がこの時代に共通の言語を持っていたとは考えられないから、ネットワーク内では各地の異なる部族が異なる言語を話していたのだろう。そして異なる言語を話す異なる社会間で交易する必要性から、交易で繋がった異なる言語を話す複数の社会はネットワーク内で使用可能な最低限の共通用語をつくり出し、それを絵文字というかたちで表すようになったのではないか。いわゆる「インダス文字」と呼ばれるものがあり、その文字はいまだに解読されていない。そのため、ハラッパ文明の交易ネットワーク社会がどのように機能していたのか、それについて知ることを困難にさせている。様々な発掘品に記されたインダス文字はハラッパ文明における唯一の記号録であり、それが解読されないかぎり社会の内部に分け入って行くことができないままなのである。都市遺構、金属精製のための窯などの生産跡と主に装身具などの工芸品、土器などの日用品、様々な材質を加工した印章とそこに刻まれた画と文字、さらには魚骨や種子など様々な食糧の痕跡等が文明の遺物として発掘されているが、文字記録を解明できないのでそれらの発掘品はいまだに沈黙したままである。その文字は表意文字と表音文字とを含むと考えられているが、まず右から左へ読み、次の行は左から右へ読むと推定されている。しかし、二行からなる長文は極めて少ない。そのことが解読を難しくさせているが、逆に長文がないことがインダス文字の性格を示しているだろう。主に文字は、印章に動物画と共に記され、それは交易のための荷札用と考えられているものと、<護符>用と考えられているものとがある。荷札用とされる印章の上部に記されている文字は、交易品が生産された場所や、その商品量を示す数詞を示していると考えられている。広範囲で交易しているのでそうする必要性があったに違いない。そして交易グループというものがあって、中でも<一角獣>と<雄牛>の画を印章にしたグループが優勢であったと考えられる。いっぽう、<護符>用の場合は、画の上部に記された文字は画の内容を想起するための唱文、すなわちマントラである可能性がある。その場合の文字は記憶するための音を主に示し、その意味は単純なものであっただろう。

 河を交易ルートとした都市の商人は海洋交易にも通じ、ハラッパ文明の交易ネットワークは遥かメソポタミアにまで及んでいた。メソポタミアからハラッパ文明の製品が発掘されており、ハラッパ文明の遺跡からもメソポタミアの印章が出土している。そうした交易関係がありながらも、ハラッパ文明の都市民はメソポタミアの楔形文字を取り入れなかった。メソポタミアは中央集権的な支配体制によってその勢力を拡大し、楔形文字は税として納められる物品の管理を目的とした記録用の文字として発明された。そしてその記録は様々な分野に及び、帝国の文書として権威さえ担うようになった。中央集権的な支配体制にとって文字は必須な技術である。例えば、遠方の配下に指令を与える場合、その内容に正確さを期するためには口承によるよりも文字で伝えることがはるかに意に叶っただろう。ハラッパ文明の都市民が楔形文字を取り入れなかったということは、彼らは自ら発明した絵文字的な表象だけで遠方との交易や経済活動が十分できたのであり、それ以外の目的のために文字を必要としなかったということだろうか。こうしたことから、メソポタミア文明が中央集権的な社会体制を形成しているのに対し、ハラッパ文明はそれとは異なっていたと考えられている。ハラッパ文明は交易ネットワークを基盤とした比較的平等な社会として形成されていたという考えがそこから導かれることになる。とはいえ、文明の中期になって、それもハラッパ文明の中心地であるパンジャブから遠く離れたインダス河下流域で、アラビア海にアクセスし易いところに出現したモヘンジョダロのような都市に大規模な城砦や大浴場が造られ、また神官のような像がつくられたのは、そこにハラッパ文明全体とは異質の体制が都市を中心にして生まれようとしていたことを示しているように思われる。しかし、そのことは全体から見れば例外的な事象であったかもしれない。ハラッパ文明における他の都市の性格はその発掘された状態からみれば、そこには継続的な生産拠点としての都市の性格がはっきりと浮かび上がってくるからである。たとえば、都市内では様々な工芸品が生産されていたが、ハラッパのような都市では、岩石や貝殻などを手作業で加工して作る製品の製造場所は共同的な位置にあり、それとは別に、金属製品や陶器など窯での高温作業を伴う高度な技術による製品の製造場所は他の生産場所とは分離されていた。つまり、長年にわたって生産拠点として継続していた都市民の知恵がそうした区分けを実現させていたと考えられる。

 このように都市の生産状況と広範な交易ネットワーク、経済活動に必須な「印章」の差異化を示すための文字の使用といった特徴が際立つ一方で、その文字が解読されないゆえに、ハラッパ文明の人々がどんな思念を抱いていたかということについては分け入ってゆく余地があまりない。彼ら彼女たちの顔とその表情がまったく見えないのである。とはいえ、文明のその内面に触れることのできる手がかりがまったくないというわけではない。<護符>用とされる印章に刻まれた画は多様にして具体的なものであり、そこに文明の一部の人たちの思念の内容が提示されていると考えられるのだ。

 ハラッパ文明は諸都市を中心にした交易ネットワークを形成していたとはいえ、都市を離れればそこには象や犀、虎や野牛といった大型の野獣が跋扈する原生林と原野が広がっていた。そして食糧生産者である農民や漁民といった採集民は都市にではなくその外部に住んでいたから、ある種の自然の脅威につねに曝されていたと考えられる。そこには都市内の計量的で合理的な環境と異なり、人間にとって生死に関わる不条理な力に支配された環境があった。そうした異なる環境に住む人々の心理に対応するために、<護符>がつくられたという推測がなされるわけである。

 <護符>用と考えられる印章の画には、いくつかの印章によってある内容がシークエンスとして描かれていると考えられるものがあり、その一連の過程を順に追って推測することで、その内容にある程度触れることができるのではないかと思われている。しかしその画はあまりにアルカイックな内容で、それについて説明する力は私にはない。幾人かの研究者によって様々な解析がなされているが、ここではインドの民俗研究家Pupul Jayakarの説明を、彼女の著作である「The Earthen Drum(1980)」から引用する。

まずモヘンジョダロ出土の<渦のようなものと動物>を描いた二つの印章画がある。一つの画には、六つの触手を突き出した渦のようなものが描かれ、そのうちの一つの触手が一角獣の首となって渦の中心から現れている。もう一つの画では、六つの動物の首が中心を同じくして現れ出て、全体的に渦巻くような力となっている。この二つの印章画について以下のように解説されている。

「モヘンジョダロの四角型の印章は、<創造>に際しての畏れと流動状態にあるその神秘力を表現している。六つに先が分かれてできた星型のものが無の空間を囲っている。その無の空間から一角獣の頭が突き出るようにして現れ、それは雄々しく、弓形で、生き生きとしている。その囲われた空間は子宮であり、エネルギーに満ちた器であり、そこから生命が自ら現れ出る空間である。六つの四肢状の触手よって創造された空間は流動状態にあり、生きた有機体の拡張と収縮のリズムを示唆している。その形が海に棲息するヒトデに似ており、海との関連が特徴的である。この印章の画は、最高の魔術力を秘めたマンダラであり、誕生と崩壊の循環的なリズムと、変容の近寄りがたい秘密を明かすパラダイムなのである。神秘的な一角獣<Eka-Sringi>の動きは太陽に相対し、頭は後方に向けられている。循環するヒトデの周囲の空間には幾何学的な図と神秘的な記号が群がるようにして集まっている」。そして、「もう一つの印章では、前の一角獣<Eka-Sringi>の頭と無定形の五つの先が分かれてできた星型のものはその循環を、すなわち変容の魔術を完結させている。六つの動物の頭が今生まれたばかりのエネルギーにぴんと引き締まり、流動状の触手に取って代わっている。海のものから陸上の動物が生まれ出た。六つの動物の頭は強力なエネルギーを解放しながら、太陽に相対して後方に押し流されているかのようだ。動物は全て雄として描かれ、<Eka-Sringi>が混沌とした空間から最初に生まれ出た。その次に雄牛が、次に雄鹿、虎が生まれ、後の二つの動物は印章が損傷していて見分けがつかない。アーチ形をした動物の首には渦巻状に深く溝が彫られている。マンダラの無の空間は更新され、空間内部の休眠状態は追い払われている。貝殻を横に切断した形のように見え、蛇のようにとぐろを巻いた鋸状の帯が、動物の首を内側から渦巻くように支えている。生の求心的な力、生命とその運動が機能するのは、このきつくとぐろを巻いた円環状のものによってである。動物の周囲の空間は明瞭で、もはや混乱していない。マンダラの円環形、太陽に相対する動物の動きは、これらの古代的な護符を、自然の法則を制御し、それに指令を与える、魔術的な儀礼である<Yatudhanaに結び付けることができる」。

この二つの印章とは別に、Swastikaの幾何学的な文様が刻まれた印章がモヘンジョダロでいくつか発掘されている。それは卍形であり、おそらく<ヒトデ>のかたちが記号化されたものではないだろうかSwastikaはサンスクリット語で、後世になって卍形に付けられた語であると考えられるが、それは、「それ自身で存在するもの」を意味するからである。

次に、女性(樹の精)と虎との関係がシークエンスとして描かれる幾つかの印章画がある。まず樹上の女性が樹下で静止したようになっている虎に語りかけている。それから、樹上から降りた女性が虎に触れる(そのとき女性は角を、虎は植物的な角をつけている)。最後に女性と虎が合体している、というものである。

「モヘンジョダロとハラッパの印章で、絶えずかたちを変えながら繰り返し現れる儀礼的な場面は、樹の精が虎と交わす神秘的な対話のそれである。樹の精すなわちApsaraは、その身体を完全にヨーガの平衡状態に保ちつつ、ニーム樹の枝の上でまっすぐに背筋を伸ばして座っている。その細く線形をした身体は容量がなく、樹と分離した実体のようではない。それは樹と枝の一部のようである。樹の精の女性の腕は拡げられ、樹の幹から分かれようといま動き出したかのようである。それは繊細な蔓のようにも見える。その指は手招きをしている。樹の下には虎がおり、じっと耳を傾けているかのような静止状態にある。頭は樹上の女性に向けられ、かさかさと音を立てる樹の葉に耳をそば立てているかのようだ」。それから、「次の印章では樹の精の女性は樹と分離している。樹は女性の身体のリズムにあり、女性を解き放つためにその幹を傾けている。樹の精の女性は変容過程にある。線形の容量のない身体は丸みを帯びた女性の身体となっている。処女の乳房がはっきりと見える。彼女は今や半分女性で半分水牛である。彼女の頭は角で冠され、水牛の蹄と尻尾をつけている。水牛女の身体は前に傾き、一つの腕が虎に触れて何事かを要求している。もう一方の腕はカーブを描いて頭上に持ち上げられている。千倍ものエネルギーをもった巨大な虎は動きの中に現れ出た。潜在力に満ち満ちたその魔術的な姿、頭部に二つの角を拡げているが、それはニームの葉をつけた小枝の形をしている。その胸は葉の形をし、その前足も同様である。『虎に似たものは薬草でつくられた護符、救済者であり、敵対的な企みから身を守ってくれるもの…』(Atharvaveda Samhita 8-7-14)。虎の前足は地面を離れ中空に跳ね上げられている。表現は変化し、耳を傾けていたその姿は動きのうちへと正体を現した。葉の姿をした虎が咆哮する。その吠え声がかさかさと音をたてる森に響き渡る。樹、水牛女、そして虎はその接触を確固たるものにした。それらは一つのリズムのうちに動き、魔術の静寂な瞬間のうちにある。変容の動きが開始されたのである」。そして、「このシークエンスの最後の印章は虎と女性が一つになったことを示す。樹の精の水牛女は角を生やしたままで、長い編み髪をして真っ直ぐに立っている。腕は大きく拡げられ、その腰は肉と実体を表すかのようにカーブを描いている。背骨から、その立ち姿の角度を保持したまま縞模様の虎の体が現れ出ている。虎のどっしりとしたその体は樹の女性の繊細で線的な優雅さを装ってもいる。顔を上げて虎に乗るのは女性である。樹の姿は消えた。変容は完結したのである」。最後にこのシークエンスをまとめて、「耳を傾けることの特徴と沈黙のそれ、そこには広大な森林の音が含まれており、それは女性と虎に関わる変容を描いた印章を解明する上での手がかりとなっている。樹の形、女性の長い腕による身振り、虎の姿勢、森林の獰猛な野生動物の不動状態、それらは自然に関わる流動性を伝え、自然との障壁を解き、変容のための場を準備する次元にある。植物の魔術的な性格、変容の渦を開示する植物の能力は、芽生える葉の形となった虎の角や蔓、虎の体をかたちづくる葉の紋様のうちに示唆されている。『このParna()の護符を着る者は虎になり、獅子になり、雄牛になる』(Atharvaveda Samhita 8-5-12)」、としている。

さてモヘンジョダロ出土で、印章画の中でもよく知られた、角飾りをつけた男がヨーガのようなポーズをして台上に座しているというものがある。この画には二種類のものがある。

「ヨーガの姿勢で王座に座し、両腕に腕輪を幾重にも付け、精巧な頭飾りを被った三つの顔を持つ裸の男神を描いた四角状の印章がある。五つのインダス文字が頭飾りの両側に見える。その頭飾りは二つの角を張り出した水牛のようであり、またさらにもう二つの突起が頭上に張り出している。頭飾りの中央から、三つの菩提樹の葉をつけた一つの枝が上に向かって出ている。七つの腕輪が左腕に、六つの腕輪が右腕に描かれ、その手は膝に置かれている。踵が股間の下で押し合わされるようにした姿勢で、その膝が王座の際を越え出て張り出している。雄牛や一角獣の印章でも見られるように、その王座の脚部は牛の蹄のように湾曲している。印章は焼成されたものでなく、非常に硬い石でできている。印章の裏には溝が付けられ穴の開いた突起が施されている」。

もう一つの画は、「インダス文明の印章で最もよく知られたものが水牛の角を被った男の画である。その姿は<Pasupati(動物の主)>としてのShiva神の最初の表現と考えられてきた。『Atharvaveda』に千の眼を持つRudra神を讃える歌があるが、それはRudra神を森の動物、野獣、野生の鳥、家畜とみなしている。印章の像は胡座で男根を直立させ、ヨーガのパドゥマアーサナ(蓮華座)のかたちで両手を広げその手を膝に置いている。その坐像は三つの顔を持つと言われてきたが、拡大鏡で見ればそれが誤っていることが分かる。その顔にはKathakali劇で付けるような仮面が付けられている。頭には水牛の角を戴冠し、その角の間から垂直に上に突き出たものがあり、それは発芽する玉蜀黍か、もしくは固められた髪の毛と考えられてきた。顔を覆う仮面と同様に、身体や腕が何重もの紐で巻かれたように印されているが、それはぴんと張り詰めたような渦を創り出す表現であろうか。内に秘めたエネルギーの渦巻状の力動を示しているのか、渦が取り囲むようにして胸部に着けた防御板の力を表しているのか。ヨギの静止した身体は明快な傾聴状態が拡張していく領域を確固たるものにしている。すなわち、その沈黙のかたちを通して、浸透のプロセスといったものが、植物や動物の世界がそこに入り込みかつ流れるようにさせているのである。その腕は大地を指し、膝を大きく広げた姿勢はヨギ的な性格を示している。すなわち、上部に湾曲した水牛の角、力の発信、平衡状態の確立である。水牛、跳ねる虎、犀、象、野性的で雄々しい動物、それら自然の脅威であるものが坐像を囲み、その動物たちの体は最高度の平衡状態において坐像から発せられる強力な磁力によって釘付けになっている。いまだ解読されない文字が頭飾りの上に横に並んで記されている。それらは密な空間、すなわち森の濃密さを示唆している」。

 最後に、ハラッパ出土で、何らかの儀礼を描いた特徴的な印章画がある。それは他に例のない総合的な構図によって描かれている。角飾りをつけた男が菩提樹の壇内に立つ角飾りをつけた女性に向かって礼拝している。男の背後で巨大な人面獣がそれを見つめている。下には七人の植物的な飾りをつけた女性が並ぶ。

「この儀礼場面は、おそらくインダス文明の古代儀礼と錬金術師崇拝を浮き彫りにしている。まばゆく煌くような<Yaksi(樹の精)>が、聖なる魔術的な水牛の角を被り、編み髪を揺らしながらAsvattha(菩提樹)の中で両手を広げ真っ直ぐに立っている。樹の幹は子宮の容器である<Garbha Yantra>のような形をしていて、その中で水銀の定着と変容という錬金術の最高の秘密が明かされる。Asvattha樹の葉は吉兆の徴であり、外に向かってぴんと張り出している。樹の周りの地面に円が描かれているのは<Sri Chakra>で、それは女神の標であり祭壇でもある。その一方にはもう一つのMandalaのかたちがあり、十字を囲む四角形<Chatuskon>で、それもまた女性の神格の象徴である。祭壇の前で跪く人の姿があり、それは魔術師・祭司にして錬金術の弟子であり、彼もまた水牛の角を被り、礼拝の態度でAsvattha樹の女神に面と向かっている。彼の前には儀礼の捧げ物と見られるものがある。それらは聖なる火をかたちづくるものであり、その上で魔術的な化学変化が明らかにされたのだ。人物の後ろには人の顔をした巨大な山羊がそびえ立つようにして描かれ、その首には花飾りをつけている。動物のその誇張された大きさはその重要性を反映している。人の顔をした山羊の上に魚のかたちをした文字がくっきりと描かれ、その大きさも他の文字と比べて不釣り合いなものである。魚文字の中には<点>、すなわち<Bindu>が描かれている。魚はインドのアフロディテ的な伝統に回帰していく女性のシンボルであり、後にそれは性的な女性神格である<Bhaga>とみなされている。魚の中の<点>である<Bindu>は<Yoni>であり、愛の眼であり、女神の徴、女性器のシンボル、秘密の場所すなわち創造の神秘への入り口である。魚の位置とそれが男性潜在力の象徴である山羊の方に向かって下方に突き出ていることがこの画の性的な性格を確かなものにしており、融合と誕生と変容の儀礼を描いた内容に結びつけることができる。主題となる場面の下方には一直線上に立って並んだ七人の姿とその横顔が描かれ、編み髪を揺らし、奇妙な円錐形の帽子を被っている。その帽子からは装飾用の羽毛が吹き流しのように流れ出ている。これらは農村の象徴世界における<七乙女>で、インド中で見出される(食料)植物と水の精である。北部の渓谷地方における<Sat Sahelia>、タミール・ナドゥ州の七乙女である<Sapt Kannigais>、マハラシュトラ州の七人のApsaraである<Sat Asara>があり、七つの姿が複合したイメージに融合して単一の田畑地内で保持され、その水の神格は旱魃期に呼び出され、また貯水池やダムの守護者もあり、そのイメージ群は大地を豊かなものにする諸要素となっている」。

<護符>用というよりも<儀礼>用と思われるこの印章は、印章全体からみれば、その画は特殊な構図で描かれている。言い換えれば、その光景は現実的なものに見える。それゆえ、この画に描かれているような儀礼が実際に執り行われていた可能性がある。ただし、ここで古代の<錬金術>が指摘されているが、それは南インド出身の錬金術師Nagarjuna(「空論」を説いたNagarjunaとは同名の別人と考えられる)との関連で語られているに過ぎない。

<護符>用のための印章やその他のハラッパ文明の造形品を全体的に見れば、その中で描かれている像や象徴的なもののかたちは、それを見ても即座にそれが何か認識可能というわけではない。描かれたかたちや像、一連の物語や儀礼は、「神々を予期していた」、そう言える段階にあるのではないか。とはいえ、神々が顕れようとするその顔貌をかたちへと具体化するための諸要素については、十分解釈可能と考えられる。象徴的なものに至ろうとするそのかたちはすでに聖なるものの顕れで満ち満ちているからである。いわゆる「インドの無意識」というものを豊かにするために繰り返し示されてきた象徴、すなわち原野や原生林を環境として生まれ出てきた古典的な神々の源は、すでに上述のハラッパ文明の印章画や<護符>に十分に展開され、成熟しつつあるように見える。インドでは何世紀にもわたってこうしたかたちにならないものを基にした像や形が、職人たちによって崇拝のための神像や象徴へと解釈されて造形されてきた。SwastikaMandalaへとなるかたち、動物に囲まれて胡座し、瞑想しながら気息を統御するヨーギン(そう特定できる確証はないが)、虎と神秘的な対話をしながらニームの樹に住む女性の精の神的なかたち、人と動物の合体したかたち、樹の幹やリンガムの中で立っている人の像、それらは力強く、また若々しく、不滅であり、古代的なものであるという時間を感じさせない象徴であり、後の時代に農民たちによる表現や古典的な表現において力強い表現として再び現れるものなのである。

Pupul Jayakarの解釈は基本的に、ハラッパ文明の<護符>には原インド的なものの顕れが表現されている、という文脈に沿ったものとなっている。インドの民俗慣習や儀礼について膨大な知見をもっており、その用例に基づいた彼女の考えは傾聴に値する。ヒンドゥー教社会において形に成る以前に、ハラッパ文明ではその<原インド的なもの>はどのようなかたちをしていたのかを探っているように思われる。私はここで提示されている古代的思念のその内容を知るにつれて、ハラッパ文明の高度な交易ネットワーク社会とこうした古代的思念が共存していたということをどう考えたらいいだろうかとまず頭を悩ませたが、「交易ネットワーク社会」という現代的な言葉が何かしら発展的なイメージを与え、そこに古代的思念と対立したものがあるかのように感じさせるのではないかと思うに至った。現実に則して考えれば、古代的思念はハラッパ文明以前から脈々と継承されてきたのであり、交易ネットワーク社会の成立に伴って様々な技術が開発され、そうした高度な技術が当時の思念にかなり明確なかたちを与えることができるようになった、そう考えた方が理に適っている。Pupul Jayakaの解釈を通じて、南アジア社会における民衆の思念は古代から現在に至るまで連続性を保っている、そう確信するに至ったのである。中央集権的な社会ではその思念の内容とその表現は、新たに生まれた権力の下に集中し、権力のために展開される傾向にある。しかしハラッパ文明ではそうでなく、交易品を製造するための技術は、都市の外部の住民を含めた多くの人々の思念をかたちにすることができたのではないだろうか。軽量や効率といった交易に伴う思考の機械論的な働きは、自然と相対する態度の内に生まれる思念と相反するもののように思われるが、生産や交易に携わる都市民も一方では自然を畏怖し、自然との関係を改めて考えていたということが、<護符>板が都市の内部から発掘されていることからも推測できる。とはいえ、技術に沿って思念がかたちになったとはいえ、そのかたちは技術そのものに限定された内容となっているはずだ。<護符>の周辺にはかたちになることのない思念が膨大に渦巻いていると考えた方がいいだろう。Pupul Jayakarが言うように、ハラッパ文明に垣間見られる大地母信仰は現在に至ってインドの様々な地方でその形を変えて生きている。それが生まれようとするかたちを古代の発掘物に見るというのは、かたちになることのなく背後に渦巻くものをも含めて考えられるという意味で、非常に感慨深いものに違いない。例えば、ハラッパ出土の儀礼画の<七人の参加者>は、ヒンドゥー教と仏教タントラの七<Matrika(地母神)>を想わせるものであり、その古代的な出自を解明するためにはハラッパ文明の<護符>にまで遡らないわけにはいかないだろう。

Pupul Jayakar が<護符>を解釈するのに何度か引用している「Atharvaveda」がある。それはアーリア人の部族社会がパンジャブ回廊からガンジス河流域へと移動し、いくつかの部族社会を形成した、前1200年〜前1000年頃に編纂されたと考えられている。そのサンスクリット語は「gveda」のそれとはもはや異なっている。「Atharvaveda」は「日常生活の問題を処方する知識」を意味するが、いっぽう「Atharvan」の語が「魔術の呪文」を意味することから、神々と人の関係を提示する「gveda」を軸にした上層階級の信仰に対して、それは民衆一般の信仰を表しているとも言われる。その中には魔術の呪文のみでなく、婚礼や葬儀といった日常の儀礼に関わる事柄も取り込まれている。おそらくPupul Jayakarは、「Atharvaveda」に遺されている内容がインダス文明に由来すると考えている。インダス文明の社会では女性と植物の関係が深く、植物の利用も多彩であった。植物には様々な医薬的効果があり、女性はそうした知識に通じ、人の心身状態に影響を与えることができただろうと考えているのである。また<護符>用の画から知れるように、インダス文明社会の女性は日常的に触れている大地とその豊穣性に深く関心を示していた。「Atharvaveda」の内容を見れば分かるが、そこにはアーリア人侵入以前の先住民の思念が色濃く浸透し、「gveda」のような天空信仰は影が薄くなっている。そのことはハラッパ文明の思念がアーリア人に深く影響を与えるほどのものだったということの証となるだろう。アーリア人はハラッパ文明の技術的な側面から影響を受けることはなかったが、人の心身を左右できるような古代的な思念を取り込んでいるのである。後期のVeda語が、後のムンダ語(中央インドの先住民語)やドラヴィダ語から語を借用しているというのはそういうことで、ハラッパ文明の一部の人々は、アーリア人の一部の社会とおそらく対等な関係で交流していたのである。

ハラッパ文明は消えたのではなく、文明が孕むそのかたちはインド土着世界の深層に表現力を与え、結果的に様々な形として具体化されることになった。技術を応用して思念のかたちを表そうとするその営為にハラッパ文明の人々の内面が現れ出ていると思われるが、ハラッパ文明のそうした造形物には一般的に言って、人間と自然の関係を具体化しようとする傾向が強く見られる。都市の設計や生産技術もこの<具体化>の欲求と共にあったのに違いない。そこにはアーリア人の言語表現による人と世界の関係を<抽象化(力動化)>して表す傾向との違いが際立っている。おそらくアーリア人とハラッパ文明との直接的な接触が困難であったことの理由がそこにあるのではないだろうか。

 

ハラッパ文明の存在は十九世紀に英国人による発掘によってようやく知られるようになった。それまで知られていなかったのは文明の記録がなかったからである。おそらく交易ネットワークの消失と共に<文字>も埋もれてしまったのだろう。それはネットワークの形成と共に生み出され、すなわち言語が異なる社会から成る交易ネットワークが必要とした記号なのであり、つまるところ言語を表す文字ではなかったということである。長い間使用されたにもかかわらず、それは言語を表す文字のように多様化するといった複雑な展開には至らなかった。「gveda」を生み出した民が自然現象を非人間的なものとして言語化する民であったのに対し、ハラッパ文明の交易ネットワーク社会の人々は図象化し、<具体化>する民であった。そして、どちらの民も自ら発する言語を記号化しなかったのである。言語は音のままだった。アーリア人が言語を表記することに抵抗があったのは推測できる。とはいえ、文字によって記憶は遺され、思想と共に言語による記述は始まるのである。思考がそれ自身だけで機能しても、それは機械論的であって未だ<知>的なものとはなり得ない。遺すという<意図>がなければそこに思想が生まれる余地はないと思われる。ハラッパ文明の人々は交易を通じて思考の機械論的な働きに慣れていたし、<具体化>の欲求も持っていたが、個々の記憶を遺すという人間の<意図>に抵抗を感じていたのだろうか。そうであれば、人間の<意図>を超える自然の力を常に<察知>し、自然の力を含む世界の全体性をことさら重要視していたということか。

ちなみにインドで文字が確認されるのはアショカ王の治世(268年〜前232)で、セム系のアラム語の文字からつくられたカロシュティー文字と、おそらくそれを漸次改良しながらつくられたブラフミー文字がある。カロシュティー文字はパンジャブ回廊を含む北西インドで一時的に使われているが、後に廃され、インド中原地帯で使われたブラフミー文字がデヴァナガリー文字へと展開し、サンスクリット語の表記に使われるようになった。そのデヴァナガリー文字がヒンドゥー語を表記するのに現在も使用されている。