Saturday, December 12, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore

2  Lahoreの友人

  四  Saeed

「Mushaira」とはイスラーム世界で詩を朗詠する集まりを言う。ムガール王朝中期から後期にかけてウルドゥー語が整備され、デリーやラクナウ、(デカン地方の)ハイデラバードなどの主要なイスラーム都市では観客を前にしてウルドゥー語のGhazal詩を詠む集まり「Urdu Mushaira」が催された。ふつうは夜の帳が降りる頃に開始され、興が嵩じれば未明まで行なわれたという。一つの主題に応じて複数の詩人が自作の詩を朗詠し合った。ときには即興で詠じる場合もあった。場所は様々で、宮廷内や貴族の私邸、さらには貴族等が通う娼家でも行なわれた。十九世紀のラクナウではUmrao Janという、Ghazal詩の作品で高名なTuwaif(芸姑)が輩出したほどだ。催される場所に応じてその規模も顔ぶれも様々であったようだ。

 Ghazal詩がどのようなものか、試みに十九世紀の宮廷詩人Ghalib(Mirza Asadullah Baig Khan)の長編詩、「Diwan-i-Ghalib(ガーリブ集成)」の冒頭を訳してみた。むろん口語調にした意訳である。


 絵に描かれた不正への嘆きは誰かの書き記した戯れか/紙なのだ、絵画という絵画の相貌が纏うものは

 絶えざる探求者よ、神を愛する者よ、孤独を恐れるな/朝に為すことが夕べに果をもたらすのだ、乳の流れという果を

 情熱の詮方ない望みは示さなくてはならぬ/胸の内は剣の外にあるが、血は剣のものであるがゆえに

 知識は耳にする罠、欲するほどに広がりゆく/求めるものは手に入れ難い、知性が自ずと開示するものは

 これで十分、Ghalibは、囚われの身でありながら足下の炎は立ち消えぬ/頭髪の炎は目に明らかだ、勝者の集いが束縛であることも明らかだ


 当然ながらウルドゥー語特有の音感はここにない。詩の語句の音の流れには歴史/時間を感じさせるものがあり、そのことが隠れた意味を浮かび上がらせる要因ともなっているわけだが、そうした歴史感覚に潜在するものは翻訳では失われてしまう。仕方がないといえば仕方がない。「乳の流れという果を」の句が示唆する内容は分からないが、たとえば乳は朝に搾り採られ、夕方にはミターイー(甘菓子)をはじめとする様々な食の材料となって人々を楽しませ、その価値を提供する。「sheer(乳)」という音を耳にし、その語感だけで人は甘い味覚に忽然と包まれ、そこに潜在的に伴うものに陶然となるのである。

「Diwan-i-Ghalib」の「Diwan」は詩作の「集大成」を意味し、文字通りそれは長大な詩作品となっている。「Diwan」特有の形式であるかどうか分からないが、この作品には次のような技巧が凝らされている。まず冒頭の章の詩句の一行の大概がアラビア語のアルファベットの最初の文字Alifで終わっている。その場合でも詩の韻律は整っていなければならない。そしてその後の章になると、詩句の一行の終わりがアラビア語のアルファベット順に来る文字になるよう構成され、いわばそのような技巧で全体が構成されているのである。意味のない単なる形式だが、おそらく新奇な形式を課しつつ詩作を競い合うような表現環境があったにちがいない。ちなみにGhazal詩はウルドゥー語の表現であるが、そこで使われる単語の多くはペルシア語である。

 Ghazal詩の職人たるGhalibは詩の表現の限界を弁えていたようだ。ムガール宮廷に仕え、職業詩人としての様々な束縛についても身をもって知っている。しかし、それでも今やるべきことをやっておけばその結果は自ずと顕われるだろうと考え、役にも立たない己の情熱を示すことを決してやめてはならない、そう訴えた。そうした内面に沸々とする熱意が詩作の源泉であったのではないだろうか。このGhalibの詩も聴衆を前にして朗詠するものとしてつくられた。その表現は煩瑣な形式に沿いつつ、なおかつ形式から迸るものを示そうとしたのである。

 Ghazal詩の表現は現在に至って変化はしているが、Mushairaそのものの意義は変わりないようだ。たとえば、壇上で女性が朗詠するとか、昼間に行なわれるとか、詩句に外来語が多用されるとかの変化はあるが、「情熱の詮方ない望みは示さなくてはならぬ」し、「頭髪の炎は目に明らかだ、勝者の集いが束縛であることも明らか」であるという意識に変わりはないと思う。


 Lahoreを発つ前の最後の夜、SaeedがMushairaに誘ってくれた。今そのことを想い出そうとして、それがLahoreのどこで催されたのかをまったく想い出せない。どこかホールのような会場で、きらびやかに飾り付けされた舞台上に何人かの詩の詠唱者が座して並び、順番にGhazal詩を詠唱する。会場は観客で埋め尽くされ、Ghazal詩の四行が詠唱される度に「Wah Wah」という声が観客から発せられ、その場が異様な熱狂に包まれる。その熱狂の熱が会場いっぱいに籠り、辺りの見通しが悪くなるほどだ。いや、これは夢で見た光景ではなかったか。夢で見たことが記憶として想い出されているようだ。いま次第にその光景が像を結び直し、はっきりとしたものになってくると、それが本当の熱狂であったのか疑問に思えてきた。おそらくあれは形式的な熱狂だったのではないか、今になってそう思えてくる。というのも、「Wah Wah」と観客が声を発するのは慣習的な流儀にすぎないし、観客の多くが年配者で、伝統的なものを良しとしている、そんな印象を少なからず受けた覚えがあるからだ。その夜の集まりは、「Halqah Albaab Zor(「心髄会」)」が主催するものであると1980年11月28日の日記に記されている。おそらくSaeedが教えてくれたのだが、訳してみると古風な名前である。Mushairaを私はテレビの録画放送で観てどんなものか知っていたが、参加するのは初めてであり、ただ訳も分からずその場にいただけのような気がする。その日は有名な詩人の「Safar Namah(旅行記)」の詩を出席者たちが詠唱した、そう日記に記されてもいる。これもSaeedの言葉をそのまま記しただけだろう。

 その日は朝九時前に寮の部屋をあとにした。敬虔なムスリムである寮の事務職のShukurが見送ってくれた。彼は異国のムスリムを親身に世話してくれたが、イスラームに基づく形式的な要求が強く、ときに辟易することもあった。しかし、もうイスラームの形式に従う必要はない。寮の建物を出るやリュックサック一つという身軽さに一瞬私は自由な気分に包まれたが、すぐにからだを隙間風が通り抜けていくような不安にふと捕われた。乗合ワゴン車でMozangに向かい、Kisan Hallに行ってまずRana Sahabに挨拶した。後はその日はSaeedと共に時間を過すことになった。彼にしては珍しく美味い物があるからと言い、昼飯にMallから小路を入ったところにある私の知らぬ店へ連れ出した。それは絶妙なスパイスで味付けした魚のフライで、店主はRavi河で獲れた魚を調理し今の時期だけ食べられると自慢気に話す。その名も<Lahori Fish>と言った。それから午後遅くに二人でMall沿いのアパートに住むウルドゥー語作家を訪問した。年はまだ四十ぐらいか、その作家の名前を失念したが、突然の来訪にもかかわらず気遣いの行き届いた応対をしてくれた。私が日本人であることから三島由紀夫の作品を読んだことがあると言う。「豊穣の海」の作品感覚を理解でき、自分の作品に近いものを感じるという。私は喜んでその言葉を受けとめたが、内心本当だろうかと思った。そしてアパートを辞し、Mallを歩き始めてからしばらくしてSaeedが言った。「ターヒル、Mushairaに行こう。Mushairaって知ってるよな」と。今になって思えば唐突なようでそれは用意周到な提案だった。私のLahoreでの最後の日のために彼は粋な計らいをしてくれたのだ。Lahore滞在も最後の日になって、Saeedの案内でそれまで知らないLahore世界に私はいつしか入り込んでいた。それ以前にも彼の誘いでテレビ局の公開録画番組に参加したことがある。若者に人気がある番組で、Saeedがわざわざ入場整理券を用意してくれた。番組の名はたしか「Ferozen(「幸運をもたらす」の意)」と言った。司会者から発言を求められるのでないかと胸をどきどきさせて会場に座っていたのを想い出す。とにかくLahoreの生活に慣れた頃の私にとって、Saeedは私の知らないLahoreの一般社会の良き案内者だった。

 私にとって城市で遭遇する世界とは異なるLahoreの一般社会があった。いまLahore城市を想起すれば過去へと、見知らぬ過去へと、ずんずん遡っていく事態へと私は引き込まれてゆく。それとは異なり、Lahoreの一般社会やそこに暮らす人との出会いを想起するのはまた別のことなのだ。過去というよりも彼らをめぐる当時の現実を知ることになるのだが、その現実は私のような外国人には見えない過去を前提としているのだった。城市では過去の時間が積み重なったかのような空間とそこに棲む人々につねに触れることができた。しかし、一般社会はそんなふうではない。その現実はつねに状況の変化にさらされるようにして各々のうちに佇んでいる。そうした変動する現実をめぐって、今になって私は当時の私には見えなかった過去を見ようとしているのである。というのも、当時耳にした話の意味、それを話す人の表情やその身振りをあらためて再確認したいと思うからだ。すると、そこにこそ過去を前提とした彼らの現実が幾ばくか立ち上がって来るように見える。とはいえ、私にはもうその現実に対処する術がない。そうした作業においてもっぱら知ることになるのは自身の無知であり、無知のまま当時の現実をやり過ごした、そのことに由る後悔の念に今の私は晒されるばかりである。いっぽう、私が常習的に関わってきた、見知らぬ過去へと遡るというのは、それは実際の歴史、もしくは歴史的現実を知るための作業なのではない。Lahore城市について言えば、「かつて城壁はその内側に住む人々の生活を護るために築かれた。しかし、彼らはもう保護を必要としていない。もっぱら移動する必要があるゆえに、彼らは自らの手で城壁を壊したのだ」、というのが現実であり、歴史の推移した果てである。また当事者からすれば、「愚か者だけが過去に生きる」、とも言われる。そうであるからして、そこには歴史を検証するのとはまた異なる作業があることは私も弁えている。おそらく、その作業においては<過去>とは起源的なものと同義である。起源的なものをこの身に呼び込むことで、自身の現実の前提となっている<近代>という束縛を突抜けようとする。そんなふうにして近代に生きることで身につけるに至った拘束から逃れようとする作業をしている、そんな気がするのだ。言い換えれば、<過去>へと遡ることで私たちはあまりに近代の思考に制限づけられている、そのことを知るのである。とはいえ、こうした作業がもたらすものにはいまだ現実味がなく、一般社会の現実を前にするとあたかも幻であるかのように霧散してしまうことになるのだが…。

 11月16日、Lahore博物館の前にある瀟洒な建物Jinah Hallでコレラの予防接種をした。Lahoreでコレラの予防接種をするのはこれで二回目だ。最初の時は不安に苛まれたが、今回は平常心で腕を出すことができた。インドを通って帰るので予防接種は必須だ。11月22日、寮の事務所へ行き、管理職のShaheenから部屋の保証金を受け取る。彼は世俗的な人物で、どんな話題であろうと意見を述べ合うことができ、信頼できるその人柄に好感をもっていた。別れの挨拶をすると目を潤ませている。その夜はLahore駅前からRawalpindi行きの夜行バスに乗り込み、翌11月23日朝にはIslamabadのインド大使館でインド査証を申請する。この日はどこに泊まったのか記録がない。翌11月24日、インド査証を得てLahoreに戻って来た。11月25日、MallのBank of Americaへ行き、口座を解約して現金とトラヴェラーズ・チェックにする。それからいったん寮に戻り、あらかじめ梱包してあった荷物を抱えてリキシャに乗り込み、MallにあるGPO(中央郵便局)へ行き、日本へ荷物を発送する。翌11月26日もGPOから荷物を発送した。荷物は白い布で包み、開封できないように縫って閉じ、縫い目をGPO前の歩道に居並ぶ業者に臘で封印してもらう。とても面倒な作業だが、この国のやり方であるからそれに従うしかない。GPOで用を済ませると、まずCollege近くにあるRegistration Officeに行き、Travel Permissionを取得した。再入国ビザはもう必要ない。それからCollegeに行き、ウルドゥー語教授のTabassum教授に挨拶する。彼は気さくな人物で、いつか自分も日本に行きたいよと陽気に語り、笑顔で応じてくれた。PrincipleのBrelvi氏には不在で会えなかった。Collegeを出てMallでリキシャをひろい、Gulbarg Marketまで行き、コロンボ・プランでLahoreに滞在しているK夫妻に挨拶する。K氏は年配の職業人といった人で、何度か日本食を饗応される。Lahoreでビールが飲めた唯一の場所だった。11月27日、ふたたびOriental Collegeに行き、事務局で働くZahirに挨拶する。彼は映画俳優のWaheed Muradに似たいい男だが、その話しぶりに陰があるのが惜しまれる。誠実だが、人に打ち解けないという感じをつねに受ける。PrincipleはKarachiに出張していてしばらく不在だと言う。PrincipleのBrelvi氏は非常に知的でまた温厚な人物で、お別れの挨拶が出来ないのがとても残念に思う。ラクノウ出身で、<印パ分離>と共にLahoreに移って来たという。当時はパキスタン人がインドに行くことは容易でなかった。ことのほかインドの地に深く関心を抱いていたのだろう、私が冬休みにインドを旅行して来たのを知り、インドはどうでしたかと質問されたことがある。私はインドを好意的に捉えて話したが、おそらく<印パ分離>以前のインド世界をよく知っている人物ではなかったかと思う。そして翌日はLahore最後の日、11月28日になった。

 Mushaira終了後はRana Sahab邸へ戻り、その夜はSaeedのテントに泊まった。Saeedが自炊用のケロシンオイル・ストーブでチャイをつくり、それを飲みながら話をした。いや、いろいろと話をしたと思うが今では何を話したのか一切覚えていない。ただMushairaを経験した後なので、私は次のような四行詩を紙に書いて読み上げた。おそらく夜道を帰る途上で考えめぐらしたのではないかと思う。

 Do saal ho chuke hein shahar-e-Lahore mein/Ab jaa raha hun apna desh ko/Koi gham nehin apna Lahore chor ne se/Magar fikr ho ta hai desh wapas jaa ne se

 Saeedの反応はいまひとつだった。拙い、他愛ない詩だから当然ではある。私はSaeedに言葉では上手く伝えられない、日本へ帰ることに伴う不安(fikr)があることをGhazalにして詠んだのだった。

 このままLahoreにいても何事も進展しそうにない。できれば私は北部のPeshawar大学に移ろうと考えていた。Principleもそうするよう勧めてくれた。しかし入学手続上の困難があり、実現出来なかった。それなら日本に帰らなくてはいけないと思い帰ることに決めたのだが、いざ帰国の支度をする段になってわけの分からない不安が募ってきた。思いもよらないことだった。

 大学四年時に休学してパキスタンという第三世界の国にやって来ることで、私は日本社会から<ドロップ・アウト>したのだと考えていた。大学を卒業し、その先敷かれたレールに沿って就職し、組織の一員、一歯車になろうという考えは毛頭なかった。<ドロップ・アウト>とは冷戦期の概念だろうか、今ではもう使われなくなった言葉である。おそらく資本主義で包摂されてしまった現代世界では通用しない概念なのだろう。1960年代、ベトナム戦争が泥沼化するとアメリカでは兵役から逃れると同時に一般社会からドロップ・アウトする若者が増え始めた。それを契機に反戦運動とヒッピー・ムーブメントが結びついて大きな潮流となる。このムーブメントは一種のカウンター・カルチャーとして六十年代後半の欧米の若者たちの行動に大きな影響を与えることになった。すなわち、そうした動きに参加し同調することは既成社会に異議を唱える意思表示となったのである。おそらく、社会主義が有効であったことによる世界の二極化が、資本主義社会内での反体制的な運動を生み出し、体制側も社会主義社会に対峙していることからそうした運動を許容せざるを得なかったのだろう。自由主義圏内でのそうした反体制運動はひたすら<自由>を求め、既成社会を問題視し、その成り立ちを隅から隅まで再点検しようとした。欧米でドロップ・アウトした若者たちは二極化のどちらにも属さないヒッピー文化圏を創造し、自然と共生する独自のコミュニティーを模索するまでに至った。男性の長髪は自らを一般人と差異化する手っ取り早い徴になった。肩まで伸びる髪の長さこそ自由の証であるかのような風潮が生まれた。いつの世でも新奇な髪型は真っ先に模倣され、伝染していくものだ。

 とはいえ、当時のパキスタンを含む第三世界ではそんな概念が通用するはずもない。Karachiの一部の大学生が長髪にマリファナを常習していたようだが、そのほとんどが裕福な家庭に属していた。欧米とはその社会状況に大きな違いがあり、<自由>を求める運動も度が過ぎればそれに敵意を向けるようにして反動勢力がその勢いを増し、既成社会に対抗して自己本位な考えが育まれようとするその余地さえつぶそうと目論んでくる。実際に宗教イデオロギーを掲げて第三勢力が台頭してきた。そんな状況であるからして、自国社会からドロップ・アウトしてパキスタンにやって来た私は、Lahoreではその理由を人に問い詰められれば矛盾へと極まり、それゆえつねに内心不安定な将来を抱える立場にあったことになる。とはいえ、そうした不安定な立場にあったからこそ、私はLahoreでいわば白紙に絵を描くようにして新たな経験を積み重ねることができたのではないか、そう今では思っている。ひょっとして私は知らず知らずのうちにドロップ・アウトを深めてしまったのかもしれない。白紙に絵を描き過ぎたのだ。そのせいだろうか、いざまた自国へ戻るに際して言い知れぬ不安が募っていたのである。

 いっぽうのSaeedはといえば私とはまったく異なる流れのうちにいたはずだ。七十年代はまだソ連の影響が第三世界に色濃くあり、インドはもとより、パキスタンの学生の中にも社会主義のイデオロギーを支持する者が少なからずいた。アフガニスタンと接するBalochistan州のQuetta大学は共産主義の牙城となっていた。Saeedもソ連型社会主義を信奉する若者のうちの一人だった。そして、おそらく<インターナショナル>の概念を重視していたのだろう、エスペラント語を学び、JhelumのShah Sahabの下で「エスペラント協会」を組織していた。その活動は、パキスタン内での異なる地方諸言語域を基盤にした権力争いを乗り越えようとするものだったと考えられる。また<インターナショナル>は保守的イスラームに対抗する概念でもあっただろう。

 パキスタンは二十世紀半ばに成立した新しい国であるが、その成立過程には諸々の問題を抱えていた。イスラーム保守層を基盤とする「J’amat Islam(イスラーム同盟)」は、その発足時にはパキスタンとしてインドから分離する国家に反対していたわけだが、それはイスラームを基にした国家の成立に関心がなかったことをうかがわせる。つまり、イスラーム保守層は<ネーション-ステート>の近代国家ではなく、いまだにカリフ制下によるイスラーム共同体を考えていたようなのである。その考えでは、<国家>はイスラーム共同体よりも下位の次元にあり、仮にイスラーム共同体が<国家>と成るとすればそれは世俗化するのと同じであると考えられていた。かつてのイスラームは世俗をも包含する帝国を政治的に実現させていたが、それよりも後退したわけである。その後退は近代国家の登場と関係している。近代国家を受け入れようとしない保守的イスラームをSaeedは強く批判していた。

 パキスタンが古くて新しい国であると言われるのは歴史的に連続と非連続を抱えているからである。イスラーム国家として大英帝国の植民地から独立するが、その国土には古代インダス文明やガンダーラ文化を抱えていた。そのことは、保守的イスラーム側からしてみればまさに矛盾した現実であり、喉の奥に刺さったままの小骨であった。そうしたイスラーム以前の、イスラームの歴史に無関係な、それゆえ不連続とみなされる歴史をパキスタン人はどう捉えるべきか。一つの合意事項として、パキスタン人はパキスタン人としてパキスタンがイスラーム国家として成立したという歴史的現実につねに還る必要があると言われる。とはいえ、パキスタン成立以前からこの地に根ざし、イスラームであろうとなかろうと数千年の歴史的連続性を有する人々には必ずしもそのことは適用できないのではないか。イスラーム国家として新たに成立した<パキスタン>という概念とは異なり、<パンジャブ>というのはそうした数千年の歴史的連続性を有する地域概念、もしくは大地的概念であると言っていい。<パンジャブ>はハラッパ文明もガンダーラ文化をも包含する。あまり声高に語られないが、おそらくヒンドゥー世界が基盤とする「Mahabharata」が語る舞台も<パンジャブ>に含まれている。それにもかかわらず、パンジャブはパキスタンが成立するやいなや歴史的に苦悩することになった。イスラーム国家の成立によってパンジャブは分割させられるという大きな代償を支払うことになったのである。ちなみにこのことは新生パキスタンの一翼であった<ベンガル>についても言える。自分は新生国家のパキスタン人である、しかし歴史的連続性を有するパンジャブ人でもある。それならば<インターナショナル>なエスペラント語を学んでその差異を克服しようという考えは近代国家を支持するからである。しかし、もし宗教イデオロギーの下に国家の機能が軽視され、その指導が一部の利害に偏るものとなれば、その姿勢は必ずや裏切られるものとなるだろう。いったんそうと知れば、疑念がつねにつきまとってくる。今考えれば、こうした新生国家に渦巻く複雑な力の流れの中にパンジャブ人のSaeedはいたのである。

 私がLahoreに滞在した当時はパキスタンが<ネーション―ステート>として生まれてまだ三十年余、ネーションの深層下では互いに反発し合う勢力が拮抗する不安定な諸要素を孕む時期だった。おそらくどっちに転んでもおかしくはなかっただろうが、そこにイランのイスラーム革命とソ連のアフガン侵略のニュースが入ってきた。それによって力を得た様々なイスラーム保守勢力が結集し、すぐさま一大勢力となった。<ネーション―ステート>に反する、そのあからさまに暴力的で退行的な活動にSaeedの怒りは治まらなかった。

 この「Lahoreの友人」を書きはじめた頃、JhelumのShah Sahab、すなわちSyed Sajjad Hussain Majidiが2000年の9月9日に亡くなったのをネット上で知った。生まれは1929年になっている。そうであれば、私が会った当時はまだ五十才だったことになる。パキスタンの<エスペラント協会>会長という肩書きが記載されている。それならSaeedをネット上で見つけられないかと検索していると、すぐに彼の画像に遭遇した。いつの頃の写真か分からないが、白髪にもかかわらずすぐに彼だと分かった。青年期よりも穏やかな表情になっている。画像が掲載されたサイトに行くと、それは私的なニュース・サイトで、現在の彼はパンジャブ語を地方語として守ろうとする研究者で、欧米の大学や教育機関でパンジャブ語をパンジャブ地方の公用語とすべきであるという自説を説いて回っていると紹介されている。そのことを知って私は少なからず驚いた。思いもよらないことだったからだ。私はLahoreで彼がウルドゥー語を喋るのしか耳にしたことがない。地域性をなるべく表に出さないようにしているのだろうと考えていた。それから、彼がどうしてそんな変身を遂げたのかと自問するうちに、その理由を探ることが「Lahoreの友人」の主題となった。おそらく二十世紀末のソ連邦の崩壊やユーゴスラビアの解体が彼に<インターナショナル>の概念を手放させたのだろう。彼の考えを知りたいと思い、彼のブログを見つけて一覧したが、パンジャブ語で書かれているのでその内容が分からない。主に欧米に住むパンジャブ人に大学や教育機関を通じてパンジャブ語の公用語を提唱しているのであるから、それは政治的な意味での活動ではなく、おそらく言語文化を軸にした教育的な活動なのだろう。そうであれば、パンジャブ語の形成、そしてパンジャブ語を話す人々の成り立ちについていま一度調べてみなければならないと私は考えた。

 歴史的にパンジャブという地は不変だが、そこには古代アーリア人、エフタル等の諸騎馬民族、ペルシア系の諸民族、ギリシア人、さらにはトゥルク人やモンゴル人等様々な人種が主に中央アジアから続々と流れ込み、それにもかかわらず、いつしか一つの素性に特定出来ないような混沌とした<パンジャブ人>という地域民が形成されて来たようだ。それに対してパンジャブ語はベンガル語などと同様に、古代インドのPrakrit語(「洗練された」という意味のSanskritに対する「粗野な」という意味の言語)の一つであったパンジャブ地方の言語がかたちを整えてきたものである。近代に至るまで独自の文字をもつことがなかったから、主に話し言葉として形成されたようだ。様々な民族が流れ込んで来たにもかかわらず、そこでは言語は古来より一定したものが使われて来たのだろうか。それはどのようにしてなのか…。様々な情報を渉猟するにつれて、次第に私はSaeedの変身をめぐる現実を突き抜けて、いわば<パンジャブ>の起源的な局面へとのめり込んでいった。

<パンジャブ>がインダス河とその支流域を網羅する世界であるのに対して、ガンジス河とその支流域を網羅する<インド中原>の世界がある。<インド中原>は中央アジアからやって来た古代アーリア人がガンジス河の南側に広がる大森林に住む土着民と出会った場所であり、その交流の結果、古代アーリア人のバラモン階級を頂点とする現在まで根深く続く階層社会が構築された。そのバラモン制度が深く浸透する<インド中原>世界とは<パンジャブ>は一線を画している。<パンジャブ>にも古代アーリア人がやって来たが、<インド中原>のような厳格な階層社会は構築されなかった。そこには古代アーリア人よりも高度なハラッパ文明を築いた人々がおり、おそらくその交流は諸説に反して相互贈与的なものだったのではないかと考えられる。そうであれば、<インド中原>で生まれ、バラモン制度を強く批判した仏教が大乗を志向するのに伴い、パンジャブへと移動していくのは故なきことではない。<パンジャブ>とは、「お前は何に属するのか」が決定的なガンジス河流域の階層社会とはすでに古代において差異化されていた地域なのである。現代に至ってさえ社会のうちに格子状にセンサーが張りめぐらされたかのようなガンジス河流域世界に比して、<パンジャブ>とはむしろ様々な要素が潜在する混沌とした世界なのであり、現代においてもその深層には混沌としたものが潜み続けている、そんな世界なのではないか。「ほとんどのパキスタン人ムスリムは、スーフィズムとインド・イスラームの融合である、イスラームBarelvi派の神秘的でエクスタシー的な儀礼により心地よさを感じている」と言われる。そのことはパンジャブの民衆が諸要素の融合を好むことを示している。彼らは<パキスタン>という表層的な概念に歴史が伴っていないことを知っている。それゆえ、彼らの歴史意識は<パンジャブ>のうちにこそ息づいているはずなのだ。小説家のMantoは最後の最後になって「Toba Tek Singh」の中で訳の分からないパンジャブ語をつぶやいたが、自身のうちに潜在的に抱える<パンジャブ>の混沌を感知し、はたしてそれに触れようとしたのではないか。英帝国大都市のボンベイからLahoreに戻ったMantoは<パンジャブ分割>の悲惨を目の当たりにする。彼は次々と作品を書きながら、目の前に大きく開かれた傷口に国境なき<パンジャブ>の出現を見ようとした。このような悲惨を決して瘡蓋で塞いではならないと思いつつ書いたのだろう、その作品からは<パンジャブ>の血が流れ出している。

 11月29日、その朝Kisan Hallを出る段になってSaeedが駅まで見送ると言い出す。いっしょにリキシャでLahore駅まで行き、国境のWagha行ワゴン車がたむろするスタンドまで歩く。私は彼に一言別れを告げ、出発間際のワゴン車に乗り込んだ。Saeedは急に口が重くなり、何も言葉を発しない。笑顔を無理したように一つ浮かべただけで、足早に去って行った。Wagahまでは十五分の距離だ。Lahoreが国境に近いことを実感する。出入国管理所で出国手続きをし、税関の建物を抜けると目の前に広々とした道が一直線に通じており、インド側の出入国管理所があるAtariまで歩いて行く。この道は実に気持ちがいい。国境に沿って<パンジャブ>の大地があたかも手つかずのまま広がっているようだ。旅行者の身になったせいか、いつのまにか帰国の不安は紛らわされていた。Atariの出入国管理所を難なく通過し、両替屋でパキスタン紙幣170ルピーをインド紙幣119ルピーに換えた。国境を越えると、ターヒルはもういなくなった。


 Lahoreから一ヶ月かけて私は日本へ戻って来た。それ以来、日本にいても私の少年はLahoreを歩いている。その少年が少年であり続けるのは、私の神経の<闇>を食べているからである。現在という日常を紛らわせるために目下のことに神経を使っていても、靄の濃度が増すようにして潜在的に関心の向く事物を抱握する、そんな別の神経の働きもあるようだ。「非常に急速な吸気性」が駆動するようにして記憶の遠景が一気に焦点を結ぶときがある。寮の食堂で初めてマトン・カリーを食べたときの経験を話していると、唐辛子で真っ赤に染まるカリーの油汁をぱりぱりのチャパティーにつけて食べる動作とその神経の一切が忽然と立ち現れ、一瞬私はLahoreの人となり、その余韻がからだからこぼれ出るようだった。