Friday, April 30, 2021

Lahore日記 The Diary on Lahore

 三 パンジャブ回廊


   2 ザラスシュトラの教えとウパニシャッド

 

私がKalashの谷を訪れた当時、Kalash族の人々はアレクサンドロス大王のインド遠征時(327)に共にやって来たギリシア人の末裔であると観光局から喧伝されていた。彼らの信仰形態はもとより、ことに女性の風俗慣習や顔貌がインド世界のそれとは異なっていたからである。しかし、そうではなかった。彼らはそれよりも遥か以前に中央アジアからやって来たアーリア人一派の末裔なのである。中央アジアから移動して来たアーリア人のうち、パンジャブ回廊に侵入し、それからガンジス河流域へと移動して行った人たちはインド人となった。またイラン高原の方へ移動したアーリア人はそこでイラン人となった。しかし、Kalashの谷の人々は何らかの王権に基づくような社会をつくらず、そのままKalash族となったアーリア人なのである。その集団規模が小さかったこともあるかもしれないが、彼らは中央アジアから移動する際にヒンドゥークシ山脈を越えてパンジャブ回廊へ出ずに、ヒンドゥークシ山脈に入りそのままKalashのいくつかの谷に分かれて住み着いたのだった。Kalashの谷はパンジャブ側からはアクセスしにくい地形に位置しており、長年にわたって他民族による侵略を回避できた。最近のDNA鑑定によってもKalash族の人々はギリシア人と何の繋がりもないことが証明されている。こうしたことから、Kalash族の神話や信仰儀礼にはインド人とイラン人に分かれる以前のアーリア人の思念が保持されているのではないかと考えられている。

 例えば、Kalash族の思春期前の少年には特別な役割が与えられている。思春期前の少年で、心身共に強靭な者が一夏の間、山羊を放牧しながら山羊と共に暮らすよう山に送り出される。そこで少年は毎日山羊の乳を飲んで肥え太り、より逞しくなると考えられている。少年が山から下りてきて「Budulak(羊飼の王)祭」が来ると、少年は二十四時間の間だけ、自分が望むいかなる女性とも、その相手が既婚者であろうと若い処女であろうと、性の交わりをすることが許される。このときの交わりによって生まれた子供は誰であろうと祝福されるという。この慣習は未開の部族のものではない。少年は、いまだ性の行為を経験していない純粋さと、彼が夏の間に放牧する高山の純粋さとが結び付けられて、特別な畏敬の念をもって扱われるのである。Budulak祭の間は村では<純粋さ>が非常に強調され、ことに祭壇や山羊小屋、炉床の周囲の空間に<純粋さ>が集中されるという。またその時期、村のある標高が高くなればなるほどそこはより純粋なものとなる、そう考えられている。

 Kalashの谷では他にも<純粋さ>と<不純さ>との対立を示す祭が催される。冬至の前後の二週間にわたって「Chaumos祭」が祝われ、祭が明けると農産物を収穫して農作業が終えられる。「Chaumos祭には不純な者や未熟者の参加を許されなかった。女性や子供であれば、彼らは松明の火で頭上を振りかざされ、男性であれば、特別な火の儀礼によって浄化された。またシャーマンが杜松の松明で男たちの頭上をふりかざして浄化した」(Wikipedia)。また(太陽の力が弱くなる)この極めて決定的な時期に、<純粋さ>は力を弱め、<不純さ>が(純粋な)少年たちを支配しようとし、<角のない雄羊のように>彼らに乗っかかるふりをする。それから蛇の行列へと進むが、このとき不純な男たちが抵抗し、闘いとなる。両者による歌の応酬がなされ、そのときBalumain()がもっている祝福の全てを浴びせて消え失せる。(神は七人の少年(七は神秘的なものを表す)に祝福を与え、少年たちは純粋な男たち全てにこの祝福を譲り渡していく」(同上)。こうしてみると、<純粋さ>はことに少年に特有のものと考えられていることが分かる。

Kalashの小さないくつかの谷はどれもヒンドゥークシ山脈に連なる高山に囲まれている。山肌を削ってつくられた曲がりくねる砂利道を上がって行けば、いつの間にか風だけが吹き抜ける人知れぬ世界に登りつめている。谷底を流れる小川の周辺と、あちこちの斜面を切り開いてできた狭い平地に農地がある。農作業は女性たちの仕事である。男たちは高山へ山羊を放牧しに行く。少年が<純粋さ>として特別な役割を与えられるのは、こうした<半農半牧>という分業の生活形態に基づいているようだ。このことに関して、<放牧イデオロギー(Pastoral Ideology)(P. Parkes 1987)という考えが提唱されている。「ChitralKalash族の伝統的な信仰はヒンドゥークシ地帯で唯一保存されているものであるが、そこでは、山羊の放牧に関わる家畜の価値と対比させて、自然環境が<純粋>と<不純>の儀礼的な世界へと基本的に二分化されている。この象徴的な二極化は、半農半牧の労働が、男性と女性とに極端に区別されていることに照応している。それはKalash族の社会構造における両性の敵対的な性格を示している。彼らは…(放牧を)自然の霊と人間が連帯し調和するものとして積極的な価値を認めるもので、山羊の群れを移動させる男の羊飼いの世界は純粋であると考える一方、女性による農業の世界は自然を操作し、大地を個人的な利益のために使用するもので不純と考える。自然環境に投影されたこの対立は、結果的に、儀礼的に<純粋>な世界と<不純>な世界に再分割されている」。

思春期前の少年は、まだ男でも女でもないその手前にいる。そして男になるとき、<純粋さ>のピークに登りつめた状態にあるのだ。そう考えることができるのは、<半農半牧>労働に伴う男女の二極構造を下地にしているからである。とはいえこの二極構造は、Kalashの谷を囲む高山と高山に囲まれた農地という地形的な垂直構造をベースにしていると思われる。かつてKalash族の人々は中央アジアの平原で<放牧>生活をしていたということからすれば、そこに意識の大きな転換がもたらされて垂直構造を基にした二極構造が成立しているのに違いない。少年が<純粋さ>として表されるその前提としての思念があるとすれば、それは中央アジアにおけるかつての放牧社会と関連しているのではないか。

放牧とは、羊や山羊の群れを放牧地から放牧地へと移動させながら世話をする営みで、羊飼いは家畜が水を飲み、草を食べる場所を季節毎に念入りに交替させながら移動する。遊牧とは異なり、家畜を飼育するところが一定の場所に設けられ、半定住の生活をする形態である。おそらくそれは、遊牧の移動生活を放棄して新たな生活形態を求めた結果であると考えられる。中央アジアのアーリア人が放牧生活をしながら半ば定住して、さらには農業にも着手する生活へと移行する際には、集団の人々は様々な変化に直面せざるを得なかったのではないか。例えば、放牧に際しては水や草がある位置を覚えるための天空観察があればそれで足りる。しかし農業を営むとなると、植物の成長に合わせて、季節変化をめぐる時間の移り変わりと時間周期についての正確な把握が必要になってくる。アジア世界には新年の始まりが冬至か春分かの二つの場合があるが、それは放牧生活と主に農業に関連した生活の違いに対応しているのではないか。イラン人の「Nowruz」は春分に祝われ、それは農業世界における新年の祭りである。それに対してKalash族の「Chaumos」は古く神聖な祭りとされ、収穫の終わりを祝い、その際に谷に降りてくる神を迎えるというが、それは高山に<純粋さ>を求め、そこに神が宿るという考えへと転換したからだと思われる。太陽が最も弱った後に、また回復して来る<純粋さ>の力を共同体内部に取り戻すという意味で、それは年替わりの祭なのであり、太陽を信仰する放牧生活の名残であると思われる。放牧に農業が加わり、放牧は牧畜となり、完全に定住して半農半牧の生活形態になるだけで世界の再把握が必要になる。そうした認識変化と共に生活形態も変化せざるを得ない。さらには農業生産に伴う備蓄と交換といった経済的な営為が生まれるという社会変化があり、そこには<放牧>生活と<半農半牧>生活とを対比する二元論が様々な局面で生まれる余地がある。Kalash族の少年にはそうした変化に伴う<仲介者>の役割が与えられているのだろう。

 

ゾロアスター教の教祖であるザラスシュトラは「Gatha」の一節で、主なる神Ahura Mazdaの援助と庇護を願って悲痛な調子で訴えている。ちなみに「Ahura Mazda」とは「一切を知り給う(Mazda)Ahura」という意味で、「Ahura」は「生気、活力」を意味する。

「私は知っています、何故に私が、マズダーよ、無力であるかということを/我が畜類の少ないためと、私が家人の少ないがためです/…教えてください、アシャ(天則)と共なるウォフ・マナフ(善思)の資産を」(Yasna46-2)

ザラスシュトラは布教のために自らの氏族共同体を出て放浪生活にあり、家族と共に半農半牧の生活をしていたと思われる。布教は思うように行かず、他の氏族からは全く相手にされなかった。それでも、ザラスシュトラは物質的な貧しさに対して精神的な富(善思/Vohu Manah)を求め、それが正しい要求であると信じている。おそらく備蓄と交換の経済システムによって貧富の差が生じ、そうした格差を生じさせる行為に準じて正しい者と不正な者とを二分化して考えているようだ。そして、最終的に正しい者が根本的な道理(天則/Asha)に則って救われなければいけないと訴える。

「アシャの世を(我らが)確保せんために、顕れ出るでしょうか/(喜び)溢れる言説をもってサオシュヤント(庶類を利益するであろう者)たちの意思は(いつ顕れ出るでしょうか)/誰を助けに(御身は)、ウォフ・マナフと共に来給うのでしょうか/(それは)私(を助け)にです。御身を説き聞かすことを、私は選取したのです、アフラよ」(Yasna46-3)

※「Avesta」の訳文は、「世界古典文学全集3・リグヴェーダ アヴェスター(1967)」の伊藤義教訳「アヴェスター」より。

ここで「Avesta」の中の「Yasna」というのは、ゾロアスター教によって「神事のための書」として扱われているもので、「Gatha」はその一部である。「Gatha」はザラスシュトラの教え、すなわちその声を伝える第一資料であり、全て詩文の形式で述べられている。その中でザラスシュトラは<義者(Asavan)>と<不義者(Dregvant)>とを対立させ、<義者>の道を進むことが主Ahura Mazdaの意に叶うのだと主張する。ザラスシュトラの説く<義者>とは主の教えに身を捧げて精進し、主が勧める半農半牧の定着生活を受容する者であり、これに対して<不義者>とは強奪経済に依存する放牧者であり、部族に特有な儀礼によって牛を屠殺し、供犠する者である。そうした放牧者に対して、「盟友とか律法の者としてカラパン僧らは牧地に副うことはせず…」(51-14)、すなわち牧地に定着して牧養しない、「牧養がよきものと見えるように…」(29-1)、すなわち牛の養育は牛を殺して供犠するためではない、といった非難がなされ、そして、「牧養者につくか、それとも牧養者でないものにつくか」(31-9)と、二者を対立させている。この対立は当時の生活形態の対立を反映しているだろう。ザラスシュトラは牧畜者の立場に立ち、おそらく当時の供犠儀礼を司る<カラパン祭司>は放牧者の立場に立っているのだ。放牧者は「牧地を荒らす者であり、義者に武器を振るう者」(32-10)で、「不義に抗する牧養者の家畜と家人とに暴行することなくして生計の立たない悪行の者」(31-15)である。このようにザラスシュトラは<不義者>が横行する放牧社会を憂い、そのため彼の教えは神々の世界を描くというよりも、ただ一つの神を期し、ただ一つの正しい神に従うことを誓うといった、地上の人間を代表して神との間に立つ<仲介者>の役割を主調としている。当時の中央アジアのアーリア人社会はいまだ遊牧生活の世界観を保持していたようであり、ザラスシュトラはそうした古い世界観と信仰に抗して人はどう生きるべきかを説いたのである。そうした意味で彼は最初の宗教改革者であった。

おそらく当時の放牧(もしくは遊牧)には、家畜が放たれる場とそこに放たれていた他者の家畜も含めて放牧者のものとする、すなわち「牧地を荒らし、牧養者の家畜と家人とに暴行することで生計を立てる」という考え方があった。例えば、古代インドのアーリア人によって行われたAsvamedha儀礼はそうした考えのもとに行われたと考えられる。それは一頭の卓越し吉兆を帯びた雄の馬が選ばれ、王はその馬を放して一年間その馬の行くところどこまでも戦士が警護するのと共に行軍し、その経路を自分の領地とする儀礼慣習である。馬が他者の領域に入った場合は戦争をしてでもその領地を自分のものとした。そして一年後に王国の首府に戻り、馬は犠牲に捧げられる。馬は絞殺され、その死骸の周りを王妃がマントラを唱えながら廻る。その夜、王妃は死骸と共に過ごさなければならない。あるいは、「王妃が死骸の傍に並んで横になると覆いがかけられ、彼女は性交の真似をする」(M Eliade 1976)とされる。いずれにしても、馬と王妃との疑似性交が示唆されている。このことは、前述したKalash族の慣習との関連を思わせる。放牧で<純粋さ>の力をより増した少年は村に戻って来るといかなる女性とも性の交わりをすることができるとされた。ここには、少年が<純粋さ>の力を保持したままその力を二極化の一方の、豊穣なる大地を表す女性に分与するという象徴的な作用が働いていると考えられる。Asvamedha儀礼での馬の死骸と王妃との模擬性交についても、大地を代表する王妃に力が分与されて豊作を祈るという意味をもつように思われる。こうした意味で二つの儀礼は通じているのである。すなわち、二つの儀礼は<放牧イデオロギー>において二極化した<放牧>と<農業>との対立を瞬間的に繋ぐ役目を果たしていると考えられる。

いっぽう、半農半牧生活をめぐるザラスシュトラの<義者>と<不義者>の二元論は以下のように展開されていく。

「睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが/両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なるものとであった」(Yasna 30-3)。ここで言う「睡眠」とは、ある種の瞑想状態を示す。

「両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の(世界)には(不義者の)生存と(義者の)生存不能とが、終末にある境涯には不義者には最悪なるも、義者には最勝なるウォフ・マナフ(善思)があるということだった」(Yasna 30-4)

「これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが/最も堅固なる蓋天を着て最勝なるスプンタ・マンユ(聖霊)の方はアシャ(天則)を(選取し)/真実なる行為をもってアフラ・マズダを進んで満足させようとする者もまた(そうであった)」(Yasna 30-5)

さらには、「では、私は説ききかせよう。世の始元の二霊を/それらのうち、より聖なる方は邪悪な方に、こう語った/(一致しないと言えば)、我ら両者の思想がそうでなく、言説がそうでなく、意思がそうでなく/信条選取もそうでなければ、言葉もそうでなく、行為もそうでなければ/ダエーナー(教えの覚醒)もそうでなく、魂も一致してはいないのだと」(Yasna 45-2)

<放牧イデオロギー>における潜在的な対立は、始原におけるより<善なる霊>とより<邪悪なる霊>とに置き換えられ、それらはこの世における<義者>と<不義者>の対立へと導かれている。その原因は、各々の霊がこの世で選び取る思念と言葉と行為にあるとされ、その積み重ねによって対立した両者は最終的に一致しない。そして、世界の終わりには<義者>が勝者となると説かれている。つまり、内在する対立はこの世では解消されないのだ。

 ザラスシュトラがその教えを布教した時期は未だ明確ではない。「Gatha」が「gveda」の言語と対照させることで初めて読解できるということから、ザラスシュトラが語る言葉はアーリア人がインドとイランへ分岐する以前か、またはそれ以後の数百年の間に成った言語ではないかと考えられている。「gveda」が前1500年から前1100年の間に成立したと考えると、研究者の間でも議論が分かれているが、「Gatha」はそれ以前の前1700年から前1200年の間に成立したのではないか、というかなり年代が幅のあるものとなっている。また布教した場所も明らかになっていないが、現在はタジキスタンのZeravshan渓谷からパミール高原西側周辺域が有力になっている。この地一帯は中央アジアのアーリア人が居住していたと考えられる草原地帯より南側で、なおかつ山麓地帯である。おそらくすでにアーリア人は移動の最中にあり、様々な氏族が様々な方向へと移動する中で、ザラスシュトラの布教は行われたのではないだろうか。ザラスシュトラは自らをZaotar(祭官)と呼んでいる。おそらく一氏族内の祭官を担う家系に生まれたと考えられているが、一定の役割を担う自らの氏族社会の外に出て、いくつかの異なる氏族社会を経巡りAhura Mazdaに帰依するよう布教することで、それら氏族社会が直面する実情を知ることになったのだろう。すなわち、氏族社会の間に生まれつつある差異を知ることにより、当時の社会変化を客観的な現実として知るようになったのではないか。そこには放牧社会から半農半牧へと移行する様々な段階とそれに伴う人々の生活変化があったはずだ。

「人々は自由民からも、アーリアびとからも私を遠ざけ、私が行を共にしようとする諸々の労役民も私を満足させず、邦の不義なる暴君共もそうしてはくれません」(Yasna 46-1)。自由民、労役民、そしてアーリアびと、すなわち「Arya」とは高貴な、尊敬すべきの意で、そう自称する人々がいたのであり、これらの人々の間ですでに階級意識が芽生えていたようだ。そうした状況を目の当たりにして、ザラスシュトラは<義>と<不義>という二項対立的な考えを軸にして、全ての民には言葉と思念と行為に準ずる区別があるだけだと説いたのである。その教えはあくまでも人間の行動に基づくものに主眼が置かれ、そしてことさら善悪二元論を唱えるのは、多神信仰に基づく格差社会を否定し、ただ一つの神に従うことは万民平等という前提があるからであり、神の恩恵は各人の善に関わるか悪に関わるかの行動によってのみ得られると説くことで、多神教社会の現実を変革するためだったと思われる。

さて、ここでザラスシュトラの教えとゾロアスター教との関係を簡単に述べておかなければならない。ゾロアスター教とはザラスシュトラの教えが歴史的に一つの体系にまとめられたものを指して言うが、そうした体系となるまでには様々な要素が加わってきたという経緯がある。その要素の中には開祖のザラスシュトラ自身が排斥した信仰形態まで見出されることから、そうした混成形態のものを<ゾロアスター教>と呼び、これに対してザラスシュトラ自身の教え、いわばその原初形態を指して<ザラスシュトラ教>と呼ぶという考え方がある。このザラスシュトラの教えは当時のアーリア人の言語(東イラン系の言語と言われる)で述べられ、彼の没後に教団の指導者たちによってまとめられた。当時はその教えを「ザラスシュトラのMazda崇拝教」と称したという。その後の紀元前500年頃、教団内部ですでに何らかの祭式儀礼が行われていたらしく、他の口承伝承と共に祭司たちによって新たなかたちで編纂されたものがあった。さらに後にはイラン西部のメディア人のマゴス神官団の宗教と習合して祭式儀礼的な面がますます強まり、<ゾロアスター教>としてササーン王朝時代(224年〜651)に国教化される。「Avesta」は、ペルシア人のアケメネス王朝(前六世紀〜前四世紀)とパルティア人のアルシャク朝(224年〜226)にかけて成ったものの集録であり、その述作者たちの出身地も言葉も異なっていたのが、すべて中世パフラヴィー語で記された。その時点でその信仰内容はザラスシュトラの説いたものとはすでにかけ離れたものになっていた。内容が改変され、さらには後代に付加され、ザラスシュトラの教えとは異なるものが伝わっていたのである。ササーン王朝の四世紀から六世紀にかけて「Avesta」の決定的編集が行われて二十一巻本が成立したが、そのうちの四分の三が散失したといわれる。

 以上のような経緯があるため、初期教団の<ザラスシュトラの教え>と後代の<ゾロアスター教>とは区別して考えなければならない。ザラスシュトラは<義者>と<不義者>との対立を強調し、さらには<義者>を鼓舞するためと思われるが、<義者>の由来と<義者>の道を進む者の将来がどうなるかという方向を示そうとしていた。おそらくザラスシュトラが布教した地域の氏族集団には他の集団との交易を展開する人たちがすでにいて、交易のための商慣習や法形式がつくられつつあり、新たに生まれつつあるそうした<契約>の制度によって、残存する放牧(遊牧)生活や宗教慣習との乖離があったと考えられる。それゆえ、初期の教団が展開した<ザラスシュトラの教え>のその核心は、「舌では善思に叶う言葉でもって/手では随心に発する行為をもって実践すべきであり、(心では)<彼マズダーは天則の父>と認識することによって」(Yasna 47-2)と言われるように、言葉と行為と思念の善なることによって、すなわち人との約束を守り、信義をもって行動することによってAhura Mazdaに従うというものであっただろう。善を強調し、悪を排斥するザラスシュトラの二元論的な考えは、別の側面では<契約>を基にした新たな社会観を推進するものであり、それは氏族ごとに別々の神と関係する多神教的な社会観を自ずと否定するものだった。こうして<義>と<不義>を対立させることでより具体的となった一神教的な世界観は人間とただ一つの神との関係をより深めることになり、この一神教的な世界観を始点にして、その後<ザラスシュトラの教え>において独自の信仰的な局面が展開されることになる。それらは、死後の世界と死を前にした魂の審判、守護霊の役割、救世主についての考え、創世時に還る時間論などである。Ahura Mazdaの王国である「Xsathra」は楽土にして光明が遍満する地であり、また歓喜の国であって、苦土、暗黒に沈む地、悲嘆の国としての悪の界と対立する。人は<義者>であることで、死後に「Xsathra」に住むことができる。また「Daena」はもともと「教え、もしくは教えの内的体験」を意味する語であるが、それはいつしかその内的な体験が可視的要素を帯びて、その人の分身として別に存在するものの形姿とみなされるようにもなった。人間における霊質としてAhura Mazdaの神がそうした分身を創造したとされ、人間が教化を受けたり誘惑を受けたりする主体はこうした別に存在しながらもなおかつ内なる霊的要素として体験されるヴィジョンなのである。Daenaが霊的要素として不滅のものと考えられるのに対して、気息と共に滅するものは「ustana(寿命・命数)」と言われる。人間の寿命が尽きて肉体と魂との分離が起こると、魂は「チンワントの橋(Cinvato peretu)」と呼ばれる魂を検別する橋を渡ることになるが、この橋自体が裁きの役目を果たしている。すなわち、<義者>には広く、<不義者>には極度に狭いものと変わるのである。こうした個別の審判のほかに終末裁判と呼ぶべきものが考えられ、ザラスシュトラの千年紀の後に三つの千年紀が続き、各千年紀に「Saosyant/救済者」が一人ずつ出現するとされた。そして最後のサオシュヤントの千年紀には、大々的な復活裁判、ひいては世の建て直しが行われると考えられた。こうして<ザラスシュトラの教え>に基づく世界観は空間的にも時間的にも統一的な構造をもつものとして示され、人々とその社会を<放牧イデオロギー>に潜在する二極化構造から離脱させていったのである。

その世界観の中でも、人の霊的な局面としてのDaenaに関する思念はとりわけ興味深いものだ。Daenaについては、「サオシュヤントのものとしてアフラの創成し給うたかのダエーナーのために…」(Yasna 53-2)とか、「アフラ・マズダと、義者たる男子や女子の諸々のフラワシとを、我々は崇める」(七章のYasna 37-3)と言われている。「Fravashi/フラワシ」は「選び取る者」の意で、それは「それぞれの守護霊として各自が持つ精霊」であり、<義者>の魂は死後、そのFravashiと合体すると言われる。それはDaenaと同じものを言い、<教えの内的体験>としての内在的ヴィジョンを指していたものが、そのヴィジョンのより守護霊的な面が強調されて形姿となったものである。こうした変遷を経て、いつしかDaenaは地上で物質的に創造された存在に対応する天上的で霊的なものの原型となり、人間にとって守護天使のようなものと考えられるようになった。「Avesta」の中の「Hathoxt Nask」第二章で語られるDaenaの話はとりわけ名高いものである。

この世で善行を積んだ義者の魂は、死後の三日間は自身の身体の近くにとどまると考えられていた。三番目の夜明け近く、南から良い香りを含んだ風が吹き寄せてきて…

すると、義者なる人の魂はその風を鼻で呼吸しているような気がする

「どこからこの風は吹いて来るのか…。かつて私が鼻で嗅いだことのあるもっとも芳香ある風は…」

この風のなかを、彼の方へすすんで来ると見えるのは彼のダエーナーで、

少女のすがたをしてだ…、美しい、輝かしい、腕の白い、力強い、

姿の美しい、肢体のすらりとした、丈高い、乳房の張り出した、

身体のりっぱな、高貴の生れの、富家の出にかかり、

姿では十五歳の、身体はまるで最も美しい庶類と同じ美しさを具えた(少女のすがたをして)

 そこで、彼女に問うて、義者なる人の魂は言ったのです、「若き女よ、あなたはだれですか…。かつて私が見たことのある若い女たちのなかで、身体のもっとも美しいあなたは」

すると、彼に、彼のダエーナーは答えた

「わたくしは、まことに、御身のものです、若者よ、善思者であり、善語者であり、善行者である、善ダエーナー者よ、御身みずからのダエーナーです」

「私に見えているそなたが大きいことと、すばらしいことと、美しいことと、香しいことと、敵に勝つことと、敵に抗することとのゆえに、そなたを、だれが、愛好してきたのですか」

「御身がです、わたくしを愛好してくださったのは、若者よ、善思者であり、善語者であり、善行者である、善ダエーナー者よ、御身に見えているわたくしが大きいことと、すばらしいことと、美しいこととのゆえにです

御身は、他の者がsaocayabaosuとをなすのを見たり、varaxethraをなすのや牧草の根絶をなすのを(見た)とき、

そのとき御身は座してガーサーを唱え、そしてよき水とアフラ・マズダーの火を崇め、

近くから、はたまた遠くから来た義者なる人を満足させたのでした

そのとき、愛らしかったわたくしを、いっそう愛らしく、美しかった(わたくし)を、いっそう美しく、吉祥だった(わたくし)を、いっそう吉祥なものに(してくださったし)、順位に座していた(わたくし)を、いっそう高い順位につけてくださったのでした

…この善思によって、この善語によって、この善行によって」

それから死者の魂は、四歩で三つの天上世界を跨ぎ、「無始光」の次元、つまり天界に到達するのだという。

saocayabaosuvaraxethraについては、それぞれ罪深い行為を示すと考えられるが詳細は不明。

この話の感動的な部分は、人の魂が磨かれ、美しい少女のすがたをした霊に純化し、そして死に際してその美しい少女の霊が感謝ともいえる言葉を投げ掛けてくれるところにあるように思う。そしてこの死の際に投げ掛けられる言葉は、自らが自らに向かって発せられるという、あたかもカラクリの解き明かしのような構造になっているところにさらなる不思議な感動がわいてくる。美しい少女の霊が私自身のうちに生き、その霊が純化されたときに私の前に現われ、私に語りかけてくるというのだから。実際、この話は多くの宗教家を魅了したようである。

この話はマズダー教を経てイスラーム教のイスマーイール派に伝わり、Daenaは自己の天上的分身とみなされると共に、天使的存在としてイスマーイール派の天使論に大きな影響を与えている。それは象形化された天使の位格であると同時に、地上的存在の内部でそれに対応して働くものとして示されている。すなわちそれは、地上的(getig)人間でありながらも、全ての人を天上的(menog)実在と対をなすことができるようにする<仲介的なもの>として考えられているのである。それゆえ、「私はあなたのダエーナーである」と知らされることは、「私はあなたの永遠存在であり、あなたの永遠時間である」、そう宣言されるに等しいのである。Daenaは想像しうるどんな美よりもはるかに美しい若い娘の姿で「チンワントの橋」の入り口に現れる。これと同じヴィジョンがマニ教にもスーフィズムの中でも知られている。そして同様の仕掛けが、浄土仏教における阿弥陀来迎にも見出されるのである。「観無量寿経」はインド世界ではなく中央アジアで成立した可能性も考えられているから、そこに異教による影響があっても不思議ではない。

ガンダーラ地方の仏教遺跡のレリーフに、このDaenaの話に関連するとみられる内容のものがある。一つはSwatNimogram(二〜三世紀)出土のもので、そのレリーフ画は、「男は長袖のカフタン(上着)とズボンを履き、帽子を被っている。女はギリシア風の衣裳をまとっている。それは、…クシャーン族風に考えられた涅槃、すなわち極楽—永遠不滅(の次元における)物質的・肉体的至福、あるいは死んだ人間(男の供養者)の魂を三途の川の向岸で迎える娘(死者の本質、あるいは仏教の本質の擬人化表現)を表している」(「パキスタン・ガンダーラ美術展 1984年」)という。ここで言う「三途の川」とは、「チンワントの橋」の下を流れる川のことである。もう一つは出土地不詳、同じく二〜三世紀頃のものと考えられる<供養者群像>のレリーフ画で、男女のペアの供養者三組が浮き彫りされている。男女とも土着の上流階級の服装をしており、衣襞の表現にはローマ様式の影響がある。その供養者たちはいわば寄進者の肖像で、寄進によって死後、涅槃に往生した場面が象徴的に描かれているのではないかと考えられている。その場合、「女性は死者(善人)の魂を迎える<天国の花嫁(死者の霊魂ないし仏教の擬人化表現)と考えられる」(同上)という。アレクサンドロス大王遠征(前四世紀)後のガンダーラ地方は社会的状況がいっきに変容し、マウルヤ朝の北西インド支配と共にイランや地中海方面との交易が増大した。それによって主にイラン方面からガンダーラに様々な民族と信仰が流れ込んで来たと考えられる。仏教徒の寄進者には商人が多く、おそらくガンダーラにやって来たゾロアスター教徒の商人との交流によってDaenaの話が伝えられたのではないか。上記の表現はガンダーラの仏教美術に対するゾロアスター教あるいはマズダー教的解釈と考えられ、もしそうならば、二〜四世紀のガンダーラの仏教寺院の装飾レリーフに<ザラスシュトラの教え>が反映されていたということになる。すでに多くの信徒を擁していたガンダーラの仏教徒にゾロアスター教徒の思念が影響を及ぼしたのは確実であると思う。ザラスシュトラは仏陀と同じく人の道を説いたからである。

パンジャブの北方に広がるパミール高原にはゾロアスター教徒の拝火壇跡が現在でもいくつか遺っている。一つはタジキスタンとアフガニスタンの国境地帯にある町Khorugh (標高2969m)から東に入ったBoghev で、石組みの土台跡が残っている。もう一つはさらにGunt河を東に入ったBulumkul (標高3719m)で、石組みの拝火壇跡が遺っている。そして、パミール高原南のWakhan回廊のPandzh渓谷北側斜面にあるVrang(2810m)には、四角形の階層状の基壇が遺るストゥーパ跡があるが、これも元々は拝火壇跡ではなかったかと考えられている。ネット画像で見るとどれもが周囲を見下ろすことのできる高い地形の頂点に位置している。「アフラよ、天則によって力強い火に、我らは願う者です」(Yasuna 34-4)。あるいは、「マズダー・アフラの(子なる)火よ、われらは御身をとりまこう(恭敬の念をもって対象の周りを廻歩する)」(Yasuna 36-3)と述べられているように、ザラスシュトラは火壇に火を灯してAhura Mazdaに捧げ、自らの願いが受け入れられるよう火の周囲を廻ったのだと考えられる。そうするためには当初から、天上に火が届くのに都合の良い高い地形が拝火壇を設けるために選ばれたのではないだろうか。パミール高原に遺る拝火壇跡はどこも標高が高い場所に築かれている。なおかつ、それらはBadakhshanから新疆のKashgarへ抜ける交易ルート上に位置し、古くからの要衝の地であると考えられ、交易者としてのゾロアスター教徒の需要を満たしていただろう。Badakhshanはラピスラズリ、ルビー、エメラルドといった鉱石の産地であり、その北方のZeravshan河流域はザラスシュトラの故地でもあった。

私は今になって、ガンダーラ地方の中央に位置するTakhte-bhaiの仏教遺跡を訪れた時のことを想い出す。その日の朝早くにPeshawarからGT(Government)バスに乗ってMardanまで行った。夏の強い陽射しに閑散としたバス・スタンドで降り、しばらくの間時間をもて余した後Takhte-bahiに行くというローカル・バスに乗り込んだ。ものの十分も走るとここだと言われて降ろされたが、そこはバザールの真っ只中で人が行き交い、方向も何も皆目見当がつかず、近くの店の主人に仏教遺跡までどうやって行ったらいいか尋ねることにした。ジープが行くと言うので仕方なくバザールのはずれまで行ってジープをチャーターした。運転手はまだ若いが、その話しぶりからして信頼できそうな人物だった。遺跡があるところまでは北に向かって走ったと思ったらもうすぐそこで、荒地が岩山と化すような寂寞とした場所にひっそりと部落があり、そこでジープは停まり、この岩山の上に遺跡があると運転手は言う。山道なのでジープはここまでで、料金は後でいいから戻ってくるまで待っていると言うので、多少不安もあったが一人で坂道を上がって行った。七月の暑い日だった。最初はなだらかな坂道だったのが途中から瓦礫ばかりの急勾配の坂になった。案内は何もない。辺りに人気はまったくなく、岩山が狭まり、しんと静まり返った谷道を黙々と上って行った。するといきなり目の前に忽然と視界が開け、その先に遺跡というか、煉瓦積みの廃墟が目に飛び込んできた。この種の仏教遺跡を訪れるのは初めてだったが、それは思いのほか見事な遺跡だった。僧院全体の形が明確に遺り、敷地内部には僧坊やストゥーパ跡がそれとはっきり分かるものとして遺っている。身体感覚がイスラーム世界に慣れ過ぎていたせいか、何かしら場違いなというか、異次元の空間にいきなり入り込んでしまったような感覚に襲われた。その創建は一世紀にまで遡り、僧院として七世紀頃まで存続したという。おそらく南から侵入したイスラーム勢力によって一部が破壊されたのに違いない。このTakhte-bahi遺跡はガンダーラ平野のほぼ中心に単独でそびえる小丘に位置するようで、今し方上って来た道の方向を振り返るとガンダーラの緑の沃野が広がるのを一望することができた。その峻厳な地形のせいで建物が占める頂上のスペースはことのほか狭く、反対側に回ればすぐに崖地となって落ち込み、建物の周囲の空間はほとんどなく、こんな地形のところに仏教寺院が築かれているとは意外だった。思えばモヘンジョダロにも城塞があったとされる一番高い場所にストゥーパが築かれていた。仏教徒がそれ以前の古い信仰の場に新たな信仰の土台を築いていったことはよく知られている。ひょっとしてあのTakhte-bahi遺跡はゾロアスター教徒の拝火壇跡に創られたのではなかったか、今そう思えてならない。

 

                       ※

 

前四世紀にアレクサンドロス大王の遠征軍がパンジャブ回廊に侵攻し、Jhelum河畔でPorus王と戦う前にパンジャブ北部のTaxila(Takshashila)を指揮下に置いた。遠征軍の同行者である哲学者オネシクリトスはTaxilaの<インド人哲学者>たちのもとへ派遣され、彼らと大王との会見を実現させた。そのときインドの行者たちは、「まったく見たことのない姿勢で、裸で立っていたり、座っていたり、横たわっていたり、さらにはまったく動くことがなかったり」、というような不躾な立ち居振る舞いをして客人を迎えた。そして、彼らにとって人生最良の教えは、「苦痛のみでなく快楽からも免れた精神を得ることであり」、「住むのに最良の場所は、生きるのに最低限の装備があるところである」、そう考えていることを知ったという。

当時、Lahore周辺のDoab地域(大河川と大河川の間)はいくつかの部族国家に分かれていた。またそれより北方のUpper Doabには多くの都市があったという。アレクサンドロス大王と戦ったPorus王は事前に諸部族国家による連合を呼びかけ、いくつもの異なる部族集団を率いていた。当時Taxilaは中央アジアの交易ルートがガンジス河流域方面へ合流する地点として重要視され、行政中心地としての役割も担っており、また学問都市の様相を帯びてもいた。その西方のガンダーラ出身で、「言語学の父」と呼ばれるPanini(前四世紀)はすでにサンスクリット語文法を確立させていた。

前六世紀から前五世紀にかけて、仏教徒、ジャイナ教徒、アージヴィカ教徒等による苦行者集団が、供犠儀礼の宗教に対抗するようにして初期の「Sramana(出家)運動」を展開させていた。「gveda10-136にはこうした苦行者について述べている讃歌がある。「長髪で、(肌は)褐色にして垢をまとい、風を帯とする(裸の)行者」がいて、彼らは自ら、「忘我の域に達し、我らは風に乗った。汝ら人間は我らの形骸のみを眺める」と語ったと言う。苦行には二つの目的があった。肉体的苦行と瞑想とによって神秘的かつ魔術的な力を得ようとするものと、Vedaの儀礼を否認し、例えば裸体主義者のように社会から身を引いて森に住む隠遁者となることで、社会から適応を迫られることを逃れ、生について思索する自由を求めるものとがあった。こうしたことからも知れるように、北インド社会は急速に変化しつつあった。後期Veda社会の最大の問題は都市化だったと言われるが、織物、製陶等の工芸品生産、冶金術による農具の生産が広く行われるようになったが、都市についての具体的な状況はよく分かっていない。工芸品の生産に伴い交易が進展したが、経済は農業中心で、相変わらず農村が社会の基盤だった。おそらく先住民による農業生産と工芸品生産、そしてそれに伴う交易活動等が、生産に関与しないアーリア人社会に影響を与えるようになったのではないかと思う。この頃になると新たな思索やその内容を口頭で教える独自の教育組織が生まれ、そうした組織に属する人はVeda社会とは距離を置き始めるようになった。ことに苦行と禁欲による独身生活は初期Veda社会には見られなかったもので、北インド社会が経済的変化に伴う宗教的変化のうちにあることを少なくとも反映している。またウパニシャッド文献から知られる膨大な地理情報は、人々が大した困難もなく北インドを往来し、交易できたことを示している。北西インドの学問中心地ガンダーラ地方とインド中原のウパニシャッド文献の展開地であるヴィデハ地方は1600km以上も離れている。人々は交易だけでなく、知識を得るためにそれだけの距離を移動したのである。ウパニシャッドの教えは、こうした大きな社会的、経済的、宗教的変化の時代に生まれるべくして生まれたのだった。

upaniad」という語の最も早い使用では、それは「結び付ける」、もしくは「等質的な対応」を意味しているという。「upas」は「近接する」を意味し、その語は「階層」の意も含んでおり、ウパニシャッド的な<結び付け>は階層的にアレンジされてもいる。その教えを生み出す思索と探求は、階層的に連結し合う宇宙の頂点に立つ実在的なものを見出すことにあった。しかし、そうした<結び付き>はつねに隠され、<結び付き>の隠された性質のゆえに、upaniad」の語もまた「秘密」を、ことに「秘密の知識」とか「秘密の教え」といったものを意味するようになった。「iti rahasyam iti upanisad/神秘であるもの、それがウパニシャッドである」と言われる。その教えは限られた者を相手に伝えられ、その内容にはVedaにはない<概念>に基づく教えを含むものがある。その教えの内容がVedaの伝承とは異なるがゆえに、自ずと森の中や人里離れた場所で教えが行われることになった。北インドの異なる地域において、教えを受けられるところがあれば世俗から離脱した者がその教えを求めるために往来した。「gveda」による祭祀はあくまでもバラモン階級を核として、王家と戦士であるクシャトリヤ階級がバラモンによって伝承されてきた形式を支持して行われていたが、ウパニシャッド文献の中にはクシャトリヤがバラモンに教えを与えるという逆転した構図も知られている。こうしたことは両者をめぐる権力関係に変化があることを示しているが、「gveda」 による祭祀は後に、クシャトリヤを一時的に俗社会から切り離してその儀礼を行うという変形したかたちにまでなっている。クシャトリヤ側からの強い要求がそうさせたのだろう。

ウパニシャッド文献の中でも最も古く成立したとされる「Bhadaranyaka Upaniad(900)」は以下の言葉で始まる。ちなみに「aranyaka」の「aranya」は「森」を意味し、「Aranyaka文献」とは村落外部の森林地で唱えられたものを言う。

「供犠に付された馬の頭は、いかにも、暁で、その目に見るものは太陽、その息は風、その大きく開かれた口は全ての人に共有される火。供犠に付された馬の体(atman)は年で、その背は空、その腹は中間域、その下腹部は大地、その脇腹は方位、その肋骨は中間方位、その四肢は季節、その関節は月にして十四夜、その脚は昼と夜、その骨は星、その肉は雲、その胃袋の中身は砂、その腸は河、その肝臓と肺は丘、その体毛は草木、その前身は昇る太陽、その後身は沈む太陽。供犠に付された馬が欠伸をすれば稲妻が閃き、身を震わせれば雷鳴轟き、排尿すれば雨降る。その嘶きは発話そのものである」(1-1-1)

これはAsvamedha儀礼を解釈した教えと考えられているが、一つの生体が宇宙の諸要素と照合される表現については、「gveda」の中で最も後期の「Purua-sukta」に、巨大な原人(Purua)から世界が造られる様が詠われているものがある。

sahasrasira Puruah/sahasrakah sahasrapat/sa bhumim visvato vtva/aty atithad dasangulam/千の頭を持つプルシャ、千の目、千の脚、それは大地を包み込み、さらにはそれよりも十指の長さで拡がる」(10-90-1)。「nabhya asid antarikam/sirno dyauh sam avartata/padbhyam bhumir disah srotrat/tatha lokam akalpayan/その臍から空気が生まれ、その頭から空が放たれ、その二本の脚から大地が、その耳から方位が、そうやって世界が造られた」(10-90-13)

 ウパニシャッドの時代になれば<原人>の考えはもはやないが、世界がどのように造られたのかを言葉で表現する仕方はそのまま受け継がれている。つまり、両者共、人もしくは馬の身体の各部位を宇宙的な現象と相応させて示そうとしている。古代アーリア人が言葉の象徴表現に秀で、<概念>を用いないのと同様に、この「Bhadaranyaka Upaniad」の冒頭の表現においてもすべての名詞が一つの範疇の中で用いられている。しかし、その言語表現は語りであり、解釈であるという点で、「gveda」とはもはや異なっている。「gveda」では発語の力が重視されたと考えられるが、ウパニシャッドでは言葉による分析が重んじられているのがよく分かる。ここで受け継がれている、人や馬の身体から宇宙が創造されたとする考え方は、おそらく動物を供犠に捧げる慣習のある放牧生活に由来すると思われる。犠牲に捧げられる動物は祭司によって屠殺された。そしてその後の解体作業は、動物の内臓はもとより、血液と循環器、骨と関節、果ては気息に関する詳細な情報をもたらすことになった。こうして積み重ねられた知識が、「Bhadaranyaka Upaniad」の冒頭で展開されているのである。分析によるその言葉の表現は、Asvamedha儀礼に解釈を施そうとして、供犠の際に顕れていたと考えられる生命の力を示そうとしている。すなわち、身体各部位の運動力、見聞きする力、消化し排泄する力、呼吸し発話する力などである。生命を顕し、生命を維持する力がどのように構成されてくるのかについての関心は、おそらく原始の感覚であるに違いない。儀礼以前のこうした原始的な感覚が言葉による分析のさなかに再浮上し、あたかもそのことを語る者の内面を開き、その内面を生命の力で充溢させているかのようである。すなわち、息をする生きた体に最も頻繁に使用される言葉が「atman」であると言われるが、語る者のうちに<atman>が意識されているのが感じられる。その原始的な生命感覚は宇宙的な全体と繋がる意識のうちに生じるもので、「gveda」の祭儀感覚と異なるものではないように思われる。こうしたことから分かるのは、ウパニシャッドの教えの多くが、何かしらの統合的な観点を得ることのできるような場を見出そうとしていることである。すなわち、宇宙と人間の経験とに分離してしまった諸々の要素を一つの方向へと導き、それらを一つの枠に組み込むことによって、全体的なものとして知ることのできるような場を見出そうとしているのである。「gveda」のsihのように、全体的なものを感覚することのできる場を保持しようとする者にとって、宇宙はばらばらの事物や存在という部分で構成されたままではないはずだ。そうではなく、崇高な<現実>とは全てを包摂した宇宙を感覚することに等しい。その宇宙は明確なかたちと資質をもった全体的なもののままそのかたちを創り上げている、そう考えているのである。おそらく、全体としての<現実>を分割し、その一部を抽象化して扱うようになった現実社会における人々の生き方こそが、都市化に伴う社会変化の内容ではなかったか。富の蓄積に伴う機械論的な思考が日常化するにしたがって自然の威力を誇示する声に関心が向けられることなく、崇高な<現実>を感覚することが困難になった、ある種の危機感を伴ってそう考えられるようになったのではないか。

Bhadaranyaka Upaniad)の中で生命を支える力のうち最も重要視されたものが、呼吸、視覚、聴覚、発話、そして思考である。そしてこれら五つの力はしばしば「prana」と呼ばれ、それは生命や生命を維持するものを運ぶ力と考えられた(1-5-21)。他のウパニシャッドの中には呼吸を生命や<atman>と同一視するものがあり、とりわけ呼吸が注目されていたのがよく分かる。こうした呼吸の力についての探求は、身体内部の呼吸に関していくつかのタイプを区別するまでになった。五つの呼吸が区別されており、それらは、「呼気(prana)」、「吸気(apana)」、「昇気(udana)」、「横断気(vyana)」、「等気」もしくは「結気(samana)」とされている。これらの区別は、自身の呼吸とそれに並存する生の感覚の諸状態を実際に観察することによってもたらされたものであるのに違いない。その区別はしたがって客観的なものではありえない。とはいえ、自己の呼吸の観察を教えの核心とするその姿勢は歴史的に見ても際立っていると思う。生きている限り呼吸を長く止めていることはできない。呼吸は、目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ない睡眠状態のどんな状態でも働いている生理作用であり、とりわけ目覚めている状態ではそれを意識することができる。意識した途端に呼吸が乱れることもあるから、それは意識と連携して働いていると考えられただろう。こうした呼吸と生の感覚に向かう意識の自覚作用は、けっして意識と身体を分離することなく、生を一つのものとして考える最も重要な契機となるものである。

すでに「pranayama(気息を意識的に統御すること)」の実践が「Brihadaranyaka Upaniad」に述べられている。「そこから太陽が昇り、そこに太陽が没する(と言われている)。というのも、それは呼吸から昇り、呼吸へと没するからである」(1-5-23)。また「pratyahara(すべての感覚を自己に集中させること)」の実践が「Chandogya Upaniad (前八世紀〜前七世紀)」に述べられている。Vedaの句を唱えながら、「彼は感覚器官の全てを彼自身のうちに収束させている」(8-15)

Katha Upaniad (前五世紀〜前三世紀)」は若きバラモンのNaciketasYama()との対話で名高いが、その最終章に「Yoga/ヨーガ」の語が初めて現れる

「心の働きと共に/五つの感覚が静められるとき/さらには判断力さえも奮い立たぬとき/人はそれを最高の状態と呼ぶ」(6-10)

「感覚がしっかりと制御されているとき/それがヨーガである、そう人は考える/そのとき人は気が散ることを免れている/というのも、ヨーガは生じるものである/と同時に消滅するものだからである」(6-11)

「言葉によってでなく、また心の働きによってでもなく/目によって掴むこともできず/それはどのようにして知覚できるのか/<れはそれである>と言う以外にない」(6-12)

「心臓の血管は百と一/その一つが頭頂にまで伸び/その血管を辿り昇れば不死に達す/他の百の血管はあらゆる方向へ広がる」(6-16)

Katha Upaniad」は最奥の存在である<atman>に接近しようとして存在の様々な段階を定義している。すなわち、感覚、意識、思考等といった、心身を構成しているものの階層性に言及している。そして、ヨーガを定義し、ヨーガが<atman>にアプローチするための基本的な心身作業であることを強調する最初の文献である。ヨーガとは、客観化できないが内部化されるものに目を向けることであり、なおかつ内部化されるのに伴う意識の高まりゆく状態と見られている。<内部化>については、例えば、「Atharvaveda」に割り当てられているMandukya Upaniad(成立時不明)」で次のように語られている。「四番目の方位は内部でも外部でもないし、その両方でもないことは分かっている。また知覚の塊でもないし、知覚することでもなく知覚しないことでもない。見えないことでもないし、通常の交感作用の範囲以外にある。把握することもできないし、際立った印がなくもない。考えることもできないし、言葉で言い表すこともできない。その本質はそれ自身のみの知覚であり、見ることのできる世界が中断され、全てが静かで穏やかであり、吉兆であり、その時のみのものでそれに代わるものがない。それが、自らそこにあるもの(atman)である。それは知覚されるべきものである」(12)。これは「Om」と声に出す際のその発語の音とその体感をめぐる分析を述べたもので、そのとき長く吐く息と息の一時的な停止が伴っている。ここで語られている<内部化>の描写は、おそらく「Om」と声に発しつつ息を吐き出してそのまま保持する状態について述べられているのではないかと思われるが、自らの生理作用によって内部化された状態に向かう意識それ自体の自覚作用がそこに働いているのは明らかであるにもかかわらず、それを言葉では掴み難い、すなわち対象化できないことの体験が語られている。ヨーガとは元来、言葉では対象化できない、こうした生命の全体的な体験から出発し、その<内部化>に関わろうとするある種の技法ではないだろうか。いっぽう、「Katha Upaniad」には概念的な言葉が随時見られ、「atman」、「brahman」、「purua」といった語がそれまでとは異なる使い方で用いられている。その最初の章で語られるNaciketasYama()との対話「死の循環」、すなわち、死と不死の関係について問うもので、そこには生命が無生命のものから展開して来る過程を基礎付けるSamkhya哲学の概念が生まれる素地がある。atman」は「an/呼吸する」、「at/動く」、「va/息を吐く」などの語根に由来するとされ、生きた体を持つものの主観的な感覚を示しているが、それが<個我>という性格を帯びて来る。「brahman」は<brih/拡張し進化する>を語根とし、宇宙を含む全体的なものの運動とそれに連関するもののことを示しているが、それは全てを包含する普遍的なものを概念的に示す傾向にある。「purua」は<原人>の意であるが、それは<精神的原理>を意味するようになり、生命がいまだ展開されない状態としてprakrti」の語が、<根本原質>の意で提出されているのが特徴的である。おそらくウパニシャッドにおける階層的なものをめぐる分析が、必然的にいくつかの<概念>を必要としたのではないかと思う。後にSamkhya学派は「Yoga Sutra(前二世紀)」に理論的土台を与えることになったが、Samkhya「数える/区分する」の意で、<概念>による諸要素の特定と区別を方法論としている。その思考はインド世界で初めて二元論を生み出し、生という全体的な感覚と乖離するような矛盾を内に孕むことになったのではないか。それゆえ最終的に、「Ayamatma brahma」、すなわち「atman(個我)brahman(普遍原理)は一体である」という、体験的に基づくというよりも、概念的な統一理論が出てくることになったのだろう。ここからBrahmanという絶対神が出て来る可能性がある。一神教の目的論はただひたすら神の存在を正当化する傾向があり、いったん<絶対神>の概念が現れれば<絶対神>を中心にして論理的な飛躍がどれだけでも可能になる。それに対して、呼吸を基にした生の目的論はあくまでも心身の全体性を前提とし、ひたすら体験的な<楽>を求めることになる。そこに論理の飛躍などあり得ない。ただ人の成長段階が示されるだけである。

Maitrayania Upaniad(成立時期不明)は「Katha Upaniad」の後に成ったが、Patanjaliの「Yoga Sutra(前四世紀)」以前のものであるにもかかわらず、六つの段階のヨーガの方法を述べている。それらは、「pranayama(気息の制御)」、「pratyhara(感覚からの内省的な撤退)」、「dhyana(瞑想)」、「dharana(精神集中)」、「tarka(哲学的考察/創造的論拠)」、「samadhi(忘我もしくは霊的な内的統一)」である。呼吸を統御し、意識を集中させ、瞑想(dhyana)という<内部化>に関わり、最終的に「samadhi」が到達点であることが示されている。「Shvetashvatara Upaniad(前二世紀前半)」にはSamkhya学派の影響が見られるが、それはヨーガの姿勢について述べている。「三つの部位を直立させて身体を真っ直ぐに保ち、感覚を意識と共に心臓に引き入れるとき、賢者はbrahmanで成り立つ船に乗りあらゆる急流を渡ることができるであろう」(2-8)。そして気息が制御され、意識が瞑想状態に入るとその状態が保たれるように精神集中(dharana)する。ヨーガをするには、できれば洞窟や簡素な場所で、静かで水が優しく流れ、雑音がなく風が強く吹くことのない場所がよいとされる。ちなみに、Yoga Sutra」には姿勢に関する説明はない。

<放牧>社会の中心となる供犠の慣習は、動物の解体によって生命機能を司る内臓組織の観察を進めることになった。Vedaの祭司によって「供犠(yajna)」を行う際に為された、事前の「苦行(tapas)」の実践、供犠の間の「精神集中(dharana)、そして身体の姿勢を正しくとることは、ヨーガの先駆けと考えられている。事前に身体を浄化する方法の一つが「断食(upavasatha)」である。そのことは供犠の神聖な火が灯される場の近さと断食の程度とを結び付けてもいる。断食と苦行は、ある場合には供犠儀礼と等価であったという。最初に述べたように、「gveda」の後期には、Muni(黙者/聖者)Kesin(長髪者/行者)Vratya(行者)といった他の苦行者の集団に関する言及がある。また気息と生のエネルギーを統御する技術は「Brahmana (1000年〜前800)」や「Atharvaveda」の中でも述べられている。「Atharvaveda」には、Vratyaは身体の姿勢を強調したと述べられている。おそらく供犠を司るṚsih(祭司)の覚醒状態が、様々なかたちをとって様々な方面に受け継がれていたのではないか。そしてウパニシャッド期になると、gveda」を解釈するその思索は、呼吸の仕組みや血液循環との繋がり、また感覚器官と意識の状態との関連といった、意識が向かう生体内部の分析に注意をむけていった。ウパニシャッドでは呼吸について様々に論じられ、呼吸は教えの核心であった。しかしウパニシャッド文献は、呼吸の統御に伴う意識に開かれる<内部化>とその構造について説いてはいるが、「身体姿勢(Asana)」の指示がほとんどない。いっぽう前章で示したように、ハラッパ文明には呼吸を整えつつ身体の姿勢や忘我状態を示唆する印章の画が遺されており、そのことから当時人が森林原野の中で周囲の環境と一体化するような精神集中の方法があったと考えられている。「ヨギの静止した身体は明快な傾聴状態が拡張していく領域を確固たるものにしている。すなわち、その沈黙のかたちを通して、浸透のプロセスといったものが、植物や動物の世界がそこに入り込みかつ流れるようにさせているのである。その腕は大地を指し、膝を大きく広げた姿勢はヨギ的な性格を示している。すなわち…、力の発信、平衡状態の確立である。水牛、跳ねる虎、犀、象、野性的で雄々しい動物、それら自然の脅威であるものが坐像を囲み、その動物たちの体は最高度の平衡状態において坐像から発せられる強力な磁力によって釘付けになっている」(The Earthen Drum)その印章画に描かれた人物の姿勢はヨーガの「Padma Asana(蓮華座)」と驚くほど一致している。「Atharvaveda」がハラッパ文明の<自然一体化技法>とアーリア人祭司の<宇宙全体感覚>とを仲介するものと考えれば、精神集中のためのヨーガの方法への展開を促し、そのかたちを整えることができたのは、両者を繋げる(yoga)ことにその源があったのではないか。Paniniに従って「Yoga Sutra」の最初の解説書を書いたVyasaは、ヨーガは「samadhi(内的統一)」を意味すると述べている。「samadhi」は忘我状態の霊的統一とも解釈されるように、そこには全体と分離されたものではない、全体と結ばれている生の感覚が立ち現れて来るからである。古代ハラッパ文明、そして初期のVeda儀礼からウパニシャッドの教えまで、そこには生きている体、その生理現象に直接触れようとする意図が強く伺われる。呼吸は生命の核心であり、呼吸こそ生きていることの証である。例えば、今の今まで生きていた鶏の首を締めて殺すと、ふっと息が放出されるようにして、その体から体温と共に何かが消失したという感触がある。呼吸が失せた状態、それが死である、そう実感する一瞬である。

 

ウパニシャッドの教えが北インド各地で広がる頃に、仏陀(前六世紀〜前五世紀)の教えは説かれた。仏陀の教えは秘密のものではなかった。しかし、その教えは一般の人々にとって難解過ぎないかと懸念し、仏陀は人に説くことを躊躇ったが、「インドラ神の勧請」によって人に説くことを決意したと言われる。この説話はウパニシャッドの教えの秘密性を意識して語られていると思われるが、仏陀の教えは、貧富の格差が広がる社会で人間はどう生きるべきかが中心となっており、それは限られた人のみが求めるような教えではなかった。仏陀の教えの背景はウパニシャッドの教えの背景とは全く異なっている。それは北西インドの<半農半牧>社会とは異なり、ヒマラヤ山麓の季節的に集団による協調労働が必要な米作地帯に生まれたのである。Sramana(沙門)として、一般社会とは異なる姿形の者となって布教活動をしたが、そのSangha(共同生活体)は一般社会から距離を取りながらも、あらゆる人に開かれた信仰を実践するための場だった。ウパニシャッドが着手した瞑想の方法を採り入れながらもウパニシャッドが行き着いた構造的な概念とは異なり、意識が意識に向かう自覚作用を強調し、その<内面化>に向かう姿勢は瞑想の方法を飛躍的に促進させた。身体は苦悩の源とみなされたが、意識が意識の物質性に向かう自覚作用は<欲望>という考えを提出し、<欲望>を制御することでことさら心身の二元論に陥ることはなかった。それは瞑想の方法を重視しつつ、全体的なものの感覚を保持しながら、社会生活に苦悩する人間を救おうとする社会運動であり続けたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sunday, April 04, 2021

Lahore日記 The diary on Lahore

    三 パンジャブ回廊


   1 アーリア人の侵入とハラッパ文明

 

 四月から五月にかけて酷暑が極まり、その極まりがピークに達して自らもちこたえられなくなり、その果てに内部の構造が崩壊するようにして気象の変化がカタストロフ的に起こる。雨季の前にLahoreに突然の砂嵐がやって来る。突然ではあるが、その予感はある。街を歩きながら陽の光のうちに妙な翳りが感じられ、足下にわずかに冷えた空気がまとわりついてくるような感触がしたと思うと、南の空を仰げば遥か彼方にはや灰色に沸き立つものが見える。すると間もなく一陣の風が吹き荒れ、辺りが急激に暗くなるやいなや猛烈な砂嵐の渦に包まれる。最初は生暖かく感じられた風がいっきに冷えたものに変わり、身体をどうこうする間もなく防御の体制に入っている。砂塵が渦巻き、暗く灰色に斑状となった雲を貫くようにして一瞬昼間の稲妻が走る。稲光がかっと照らすや荒れ狂う砂塵雲に乱反射して異様な明るさが頭上に広がり、その直後に地響きを立てて轟音が後を襲い、人みな虫けらのように身体を丸めたところに容赦なく大粒の雨が落ちて来る。その後は土砂降りとなり、恵みの雨がいっきに大地の温度を下げることになる。

 雨季になると、デリーでは毎夜のごとく稲光が低く垂れ込めた曇を貫くようにして走った。それも数時間にわたり次から次へと稲光が走り、雷鳴を地上に轟かせながら停電した暗い街の上を這うようにして南から北へとゆっくり走り抜けていくのを見た。室内は湿気で蒸せ返り、汗だくの身体を冷ますようにして夜間に屋上に出て見るにはいい爽快な見ものだった。稲妻が咆哮をたて、うねうねと走り抜けるその光景は、何かしら得体の知れぬ生き物が地上の世界を圧するかのように宙空を通過して行くようであった。

パキスタン北西部の山岳地帯にあるKalashの谷に滞在した時のことである。夜中にKalash族のダンスが見られるというので松明の灯に付いて行った。小さな谷には電気、水道の設備は一切なかった。その夜は月明かりもなく、辺りは完璧な闇に包まれていた。足下さえ見えない急斜面を上がりきったと思うといきなり平らかな広場に出た。中央で火が焚かれ、すでにダンスが行われている最中だった。それは主に女性たちによるフォーク・ダンスで、円陣を組んで踊るものから縦列して踊るものへと自在に移り変わりながら、幾種類かの異なる形態によって踊られていった。しばし私は民俗行事の見物客となり、それからダンスの合間に中央に集まった長老の男性たちの朗唱があり、低い声で朗々と唱えられる英雄譚のようなものを耳にする陶然とした心地に包まれた。すると、その最中に雷鳴が轟き始めた。最初は闇に響きわたる遠雷だったのが、いきなり稲光が閃き、辺りを照らし出した。一瞬のことだった。しかし、その一瞬に照らし出された光景に私は目を瞠った。眼下に谷の全貌が浮かび上がったのである。谷間ばかりでない。周囲に黒々と屏風のように立ち並ぶ山の尾根の連なりも際立ち、自分がいま思いも寄らない位置にいることが一瞬のうちに理解された。暗闇に戻った後もいましがた照らし出された谷間の光景が脳裏に留まり、目の前の民俗行事に関する意識は周囲の環境全体と繋がり合ってもはや一変していた。

 

 渦巻く如き思念が言葉に照らし出されて一瞬かたちとなる。「gveda」の詩句はそんなふうにして出来ているのではないか。前1500年から前1100年にかけて、中央アジアに居たアーリア人の一派がパンジャブ回廊へと移動して来て一時的にそこに留まり、その新たな環境の中でつくり出した詩篇「gveda」のことである。「gveda」とは「知(veda)を讃える(c)」の意であり、その内容は長いあいだ音声のみによって伝えられてきた。たとえば、Indra神を讃える次のような詩句がある。

yah saptarasmir vabhas tuvimaan/avaasjat sartave sapta sindhuun/yo Rauhinam asphurad vajrabaahur/dyaaaarohantam sa janaasa Indrah/

Dyavaa cid samai Pthvii namete/sumaac cid asya parvataa bhayante/yah somapaa nicito vajrabaahur/yo vajrahastah sa janaasa Indrah/ (-12-1213)

「七つの大河の流れの(雄牛)を御し、手にVajra(稲妻)を持って天を支配する我らがIndra神よ。天も地も跪き、その熾烈さに山々も恐れる。不死の飲料Somaを飲み、手にVajraを持つ者、我らがIndra神よ…」。Pthvii(大地)pvabhas (雄牛)vIndradrなどの破裂音の連続と共に発せられた言葉が、朗唱する者の思念を照らし出すようにしてそこに一瞬のうちにIndra神の姿がかたちとなって描き出される。その有り様はあたかも、雷鳴が轟き、稲妻が辺りを照らし出し、そこに浮かび上がる光景が描写されるかのようである。アーリア人にとって、新たな環境であるパンジャブ地方はここでは「Sapta Sindhu(七つの河川)」と呼ばれている。ちなみに、「パンジャブ(Punjab)」とはペルシア語の「punch()」と「ab()」の合成語で、遥か後世のアケメネス朝時代に成る名称である。ここで「七つの河川」と呼ばれるのは、アーリア人がやって来た頃にまだ流れていたと考えられる大河川Saraswati河を含め、またアーリア人たちがパンジャブ平原の暑さを避けてヒマラヤ山脈の縁となるなだらかな山麓地帯に接する平野部を移動して来ただろうことを考えれば、そこでは大河は支流に分かれて流れているからSutreji河の支流であるBeas河も含まれていると考えられる。この「七つの河川」地帯とは、かなりの時間をかけながら、すなわち水量の少ない時期に苦労して渡河しながら移動して来たアーリア人に知られるようになった新たな領域であり、また当時の居住範囲を示していると考えられる。このパンジャブ平原とそれに接する山麓地帯には彼らがそれ以前に居住していた内陸の草原地帯とは異なり、複数の豊かな河の流れと通年にわたり温暖な平原地帯、それと共に起伏ある山々や深い峡谷といった自然環境があった。当然、その気象も異なっていただろう。ことにアラビア海から暖気が運び込まれて山岳地帯にぶつかり、雲が湧き立ち猛烈な雨を降らせる雨季というシーズンは中央アジアにはなかったはずだ。酷暑が極まって強風が吹き荒れ、黒雲が渦巻き、その中を雷鳴が轟き、稲光が貫き走る。自然のそうしたカタストロフ的な現象を定期的に目の当たりにしたのである。<カタストロフ>というのは内部からいっきに現象が変化を起こすシステムを示している。供儀を軸に氏族の小集団をつくり、幾つかの氏族集団がまとまりながら移動して来たアーリア人たちは新たな環境にあって、それも彼らの生業である放牧に適した豊かな土地を見出して、富をめぐる新たな支配体制を創り出したのに違いない。それが神々の讃歌を朗唱するsih(聖仙)と、武力を有する者を従える氏族の首長とが支え合ってその権威を示す体制である。新たな環境で集団を維持し、権威を確固たるものにするための供儀は最重要事項とされ、供儀の儀礼と共にsihが神懸かりとなって権威としてのVeda()を讃える詩を朗唱した。その朗唱を伴う供儀は氏族集団同士の関係を変革させ、その結びつきを強固なものとし、いっきに幾つかの氏族集団を一つにまとめ上げるような王権体制をカタストロフ的にもたらしのではないか。sihとは、「gveda」の中で、(思念を)宣り告げる(かたちで朗唱する)者( yasya vaakyam ca sihと定義されている。また、「思念を見る者(mantra dashtas)」とも言われる。供儀の儀礼に際してsihAmita(不死薬)であるSomaを飲み、ある種の覚醒状態にあった。

apaama somam amtaa abhuuma/aganma jyotir avidaama devaan/ki nuunaam asmaan kavad araati/ki u dhuurtir amta martiyasya/ (-48-3)

「我はSomaを飲み、不死になった。光の中に入り、神々を見出した。どんな敵意も我に向かわず、死の悪意も我に何ができようか、我は不死なる者であるが故に」。ここではもうsihIndra神と一体化しているかのようにみえる。つまり、Somaを飲むことでsihは覚醒するのみでなく、何かしらの「力」の観念さえ与えられていたようだ。こうしたことから、ある意味でSomaは「gveda」の核心であり、精髄なのである。

Indra神は天空を司る神であるが、「yo apo vavvaamsam Vtram jaghaana/水流を塞ぐVtraを打ち殺した者…」(-14-2)、と讃えられている。すなわち、敵対者によって堰き止められた河川の水を、Indra神は敵対者を退治することで奪い返したというのである。これはどういうことか。インダス河の支流となる諸河川はどれも河幅が広く、水量も多い。そこに大小無数の河川が流れ込んでいるからである。インド・パキスタンの局所地図を見れば即座に分かるが、大小の支流とそれらが絡まり合う様子が網の目のように書き込まれている。そのうちの支流の一つが堰き止められ、Indra神がその原因である悪竜Vtraを打ち殺し、その水を流れるようにさせたという。その内容について具体的に考え巡らせば、先住民が何かしらの技術を駆使して外部からの侵入者に水を使わせないように水流を堰き止めたか、それとも土砂崩れによって水流が堰き止められたか、あるいは上流地域の地殻変動によって河川の流れが変わったか。いずれにしてもその原因は分からないが、そうした出来事とその問題解消はかなり矮小な出来事でしかないだろう。むろん水の確保は生死に関わる問題であるが、ここで矮小というのは、sihの発する言葉の表現と比べたらということである。つまり、Somaを飲んだsihの霊感力は現実の出来事を壮大なものに仕立て上げているのである。目の前の自然力を自らの思念の内に呼び込むかのようにして、出来事を自然の織り成す時空へと拡張している。そしてそうすることが出来たのは、sihに課された権威を示す役割と共に、まさにsihが発する言葉の力にあった。さらにはそうした言葉を発することが出来たのは、すべてをありありと明視することができるようなヴィジョンのうちにsihが開かれた状態にあったからである。この覚醒状態はsihに比喩の言葉を連発させ、そうすることで異なる事象を自在に結びつけ、言葉が担う意味を象徴の領域へと送り出すことが出来たのである。

ここに稲光のような閃きが作用している。稲光が大気の温度差や水分といった幾つかの条件が揃うことで起きる電気現象であるように、<閃く>というのは一瞬にして幾つかのものを繋げることであり、繋げ合わせて一つのかたちへと成すことだ。そしてそれと同時に、その背後の闇に、言葉では把握し得ないものが控えていることを察知することでもある。そのとき、意味を示すというよりも象徴を開示する言葉が、そうした察知を、周囲で朗唱を聴く者の思念においても喚起することになったはずだ。言葉によって開示された象徴は、思念が顕在するかたち化とその変動と共にあり、その変動には感情を喚起する力が伴っている。ここに集団的な<閃き>状態がもたらされることになる。この集団的な<閃き>状態は、言葉が発せられたその一瞬に立ち現れる、<察知>とそれを喚起される聴衆も含めた全体的な内容であるがゆえに、言葉が発せられたその<場>を保持することのできるような音声によってのみ伝えられてきたのである。つまり、言葉を発した者もその内容も内容と共に察知される背後の力も聴衆もその聴衆に喚起される感情も、言葉が発せられた瞬間に全てが一体となってそこに起こる現象であるがゆえに、それら一つのものを分け隔てることがないようにと、ただ音声によってのみ伝えられてきたのである。そのような発語の<場>が創造され、その音声や意味・象徴や喚起や強烈な感情的反応を含む、それら分割不可能な全体的な運動としての<閃きの場>が、王権の権威として示されたのではないだろうか。そうであれば、その<閃きの場>の内容を記号にして遺すというような、<場>の威力を失わせ発想はあり得ないことだった。彼らが文字を持たなかったのは、文字によって現象を対象として留めることに配慮しなかったからだろう。対象化するということは現実からその一部を抽象化して取り出すことであり、そのような全体としての現実を分割してその一部を抽象化することは、自然の威力を否定すると考えられたのではないか。とすれば、おそらく言葉が編み出す概念のようなものもあまり重要視されなかったはずだ。実在という考えもなかっただろう。どちらかと言えば、発語をめぐる<場>、自然を含む全てが繋がる<閃きの場>、それのみが崇高な現実として捉えられていたのではないか。彼らが創り出し、維持しようとした権威の性格がそこに示されているように思う。

sihkesh渓谷は、ガンジス河がヒマラヤ峡谷から平野へといっきに流れ出る位置にあるヒンドゥー教徒の聖地である。そこで朝晩ヒンドゥー寺院から風に乗って流れ来る朗唱の声を宿の一室で聴いていたことがある。朝はそうでもないが、夜には半鐘を鳴らすような緊張した趣がその朗唱のトーンにはあって、気持ちが急かされるような落ち着かない気分でその声を聴いた。ヒンドゥー教寺院で唱えられていたその詩句が何であったかは今にしては確かめようないが、おそらくVedaの詩句だったに違いない。その朗唱は畳み掛けるようなかなりの速度とリズムをもって進行し、そのため何かしら意識を昂揚させる意図が働いていたのではないかと今になって想い出す。それはBuddhagayaで聴いた仏僧による声明のトーンや、Dharamsalaのチベット密教寺院で耳にした読経のトーンとはかなり異なっている。仏教の声明や読経の場合、気持ちを徐々に高めていってその昇り調子の後そのままの状態を保ち、そこに落ち着かせていくという感じがある。

現代のヒンドゥー教寺院では祭祀の際にもはやSomaが飲まれることはない。Somaはアーリア人がパンジャブ回廊からガンジス河流域へと移動して来た、前1100年頃にはもう手に入らないものになっていた。somaの語はもともと「搾り出されたもの」の意であるが、「gveda」では、Somaは覚醒状態にさせる飲物、それが生み出されるもの(自然採取物)、それに相当する神、を共に言い表しているとされる。さらには、Somaは太陽光線がそこに濾過されたもの、という考えがあり、その太陽光線のエッセンスが体内に入ってsihの覚醒の源、「力」となっていると考えられてもいる。太陽光線を濾してそのエッセンスを取り入れたもの(自然採取物)が地上にあり、それを搾った液を羊の皮で濾し、最後に人のからだで濾してSomaの純液を取り出すという三段階のフィルター過程があると、「gveda」第九巻の「Soma章」、すなわち「Soma pavamana(「純粋なSoma」の意で、Somaの抽出液を指す)」に捧げられた章で述べられている。この第九巻は、「gveda」の最古層に属する讃歌を含んでいると言われる。Somaが何から、すなわちいかなる自然採集物から抽出されたのかは「gveda」でははっきりと示されていない。その自然採集物については象徴的な表現に終始し、そのためSomaが何から抽出されたのかということについては大変な議論がある。二十世紀も1970年代になって有力になったのは、Somaがベニテングダケから抽出された液から成るというものである((R.G.Wasson)。仮に自然採取物としてのSomaがベニテングダケであれば、sihの覚醒状態には北方のシャーマン文化の影響があることになるだろう。シベリアではベニテングダケが、シャーマンたちが意識の変容を起こして憑依状態へと移るために用いられてきた。そこでは雷雨とキノコとの間の特別な関係についても知られている。パンジャブ侵入以前に中央アジアのステップ地帯を放牧していたアーリア人が北方民族と接触していたと考えられないことはない。ところが、ベニテングダケはシラカバの根に着菌して子実体を生み出すのでシラカバ林がないと発生しない。ヒマラヤ山麓地帯にシラカバ林はないので、Somaはベニテングダケではあり得ないと言われる。現在ではベニテングダケはヒンドゥークシ山脈でも採集されるようだが、3500年前の過去においても採集されたかについては分かっていない。

いずれにしても、sihは覚醒状態を起こす何らかの物質を体内に取り入れ、その思念を閃かせるようにして言葉を発したのである。その発語の内容は、供儀という<閃き>の集団現象を十全にするものでなければならなかった。最初は氏族集団同士でsihたちの競争状態があったと考えられている。彼らは進んで神懸かりとなり、その霊感力を競わねばならなかった。供儀の言葉が後になって、おそらく取捨選択されて一つにまとめられたのが「gveda Samhita(本集)」で、その詩句は古典サンスクリット語に比べると、多様な語尾変化や時法の組織を展開しており、また古典期には廃れた多数の単語を含んでいると言われる。すなわち、sihたちは、文法が未成熟であったためにその束縛から逃れることが出来たのであり、時制に関係なく自由に言葉を発することができたということなのだろう。修辞は主に様々な比喩から成り、奇警な文句によって人の意表を突くことに腐心し、率直な表現よりも誇張、暗示、省略を好んでいるという。天界の現象と地上の出来事の間に境界を設けず、自在無碍にこちらからあちらへと移ることができたのは、とりわけ文法的な制約を外れることができる古代人の感覚が働いていたからに違いない。文法的な制約よりもおそらく讃歌であるために韻律が重視され、音節は厳密に規定されていたと考えられる。とはいえ、その音節に組み込むことができればいかなる語も自由に創造し、使用することができたのではないか。放牧から農業生産への移行につれて農業従事者も取り込んで社会は複雑化し、当然に供儀の規模も大きくなり、神々と人との媒介に当たるHotri(祭官)という役割が新たに生まれてきた。sihは思念を宣り告げる者として、より形式的である祭官を兼ねるようになった。祭官は神々と人との媒介者として規定されたから、通常人でない状態、神に近づいた状態を自ら演出する必要がある。ましてや他の集団の祭官と霊感力を競う立場にあったから、その演出と讃歌の内容も相乗的に極まっていったに違いない。しかし、覚醒状態を生じさせるSomaはある時期にもう手に入らなくなっていた。後の「Brahmana書」の時期になると、Somaの代替物についてすでに考えられ、手引されている。とはいえ、実際何がSomaでその代替物が何かさえ明らかではない。覚醒させる物質が手に入らなければ、sihの霊感力も次第に衰退し、儀礼も伝承に終始し、やがて形骸化していったのではないか。

sihがその覚醒状態によって神々という非人間的なものを務めて表現しようとし、現実を抽象化して取り出すことがなかったのではないか、あくまでもそう仮定して考えることは興味深い。つまり、彼らにとって<現実>とは全体的なものであった。それゆえ、その一部を取り出して思考の俎上に載せることは、その<現実>より劣ると考えられたのに違いない。例えば物質を組成する<モノ>として考えられている素粒子があるが、これは対象化できないことが分かってきた。便宜的に現実として対象化されているだけで、この目前する自身の身体や身体機能の根源となる<粒子>は対象化できないと知られるようになったのである。<粒子>も原子も分子も物質も細胞組織も有機体も、それらは各々が連繫して全体として機能し、そうした様相で存在している、そう考える方が現実をより正確に捉えることになるのである。それでも素粒子をめぐる議論は最先端の科学として活発になされ、実験を通じてその在り方は数学の言葉でのみ示され得るようだ。<素粒子>を抽象と考える物理学者からすれば、実在に関する深淵をめぐる思考とその表現は極めて非人間的なものになるのだという。数学の表現を想定しているのかもしれないが、たしかに素粒子のような、非人間的なものをめぐる概念は日常の言葉で表すことはできないに違いない。このように考えると、私たちが目の前にして考えているもの、つまり頭の中で把握することのできるもの全ては、人間の意図によるものなのであり、人間との関係における結果としてつくり出された、あるいは抽象化された、一つの形態に過ぎないことになるだろう。<意図>というのは、人間の造形的な力、あるいは人間の認識の中にだけある自然法則を反映した働きなのだろうか。そうであれば、いずれにしても人間が<意図>するもの以外の不明瞭なものを進んで言葉の表現から排除してしまったら、おそらくそこには全く面白みのない類語反復だけが遺ることになるだろう。そうした明瞭な表現は、非人間的なものに関わる表現、背後の<闇>が察知されるような表現からすれば、現実認識において劣っている。いや、というよりは、あまりに人間中心的な現実認識ではないかと思う。

 

 アーリア人がパンジャブ地方に侵入して来る遥か以前、幾つもの大河川が潤す平原地帯ではハラッパ文明が栄えていた。その文明は前3300年頃に始まり、前2600年頃から前1900年頃までが繁栄のピークとされ、何らかの理由があって前1300年頃には衰退したと考えられている。ちょうどその衰退期にアーリア人が中央アジアから移動して来て、パンジャブ北部の山麓に接する平野部に一時的に留まったことになる。その文明を通常は<インダス文明>と呼ぶが、その展開の初期から中心となったのがRavi河沿いの都市ハラッパを核とする地域とされるので、ここでは主に<ハラッパ文明>と呼ぶことにする。ハラッパ文明は高度な都市設計と、都市に住む職人による装身具生産、そしてその生産物を商品として交換するための広範囲にわたる交易ネットワークを構築していたことで知られるが、衰退の原因は十分に解明されていない。ハラッパ文明には三段階の展開が見られ、インダス河下流域のモヘンジョダロはその中期に発展し後期には衰退した都市であり、その一方でハラッパは文明の初期から後期まで一貫して継続した都市である。その交易ネットワークはインダス河のみでなく、かつてインダス河の東側にそれと並行してアラビア海へと流れていたSaraswati河を利用することで展開された。おそらくヒマラヤ山麓の地殻変動によってSaraswati河の流れは消滅し、その一部の流れはSutreji河となってインダス河に注ぐようになったと考えられている。そのインダス河も下流域のシンド地方では時間と共にその流れを大きく変えている。

モヘンジョダロはインダス河東岸に発展した都市であるにもかかわらず、現在のモヘンジョダロ遺跡はインダス河の西側にあり、しかもインダスの流れからかなり離れたところに位置している。私がモヘンジョダロ遺跡を訪れたのは四十年以上前のことになるが、遺跡とその周辺域は内陸部の荒地であるかのように乾燥し、周囲にインダスが流れる気配さえ感知することがなかった。シンド地方の六月はまだ雨季に入らず、陽射しが猛烈な暑さで降り注ぎ、遺跡には木陰の一叢すらないので、午前にもかかわらず遺跡を一巡りしただけですぐに隣接するMuseumに逃げ込んだ覚えがある。ましてやインダス河がかつて遺跡の西側を流れていたと知らされても想像さえできなかった。むろん、Lahoreの街の西側を流れるRavi河でさえ中世にはLahore城市のすぐ東側を流れていたことを思えばそれも不思議なことではないと考えはする。河の流れというものは人間が造る堤防さえなければ絶えず変化するのであり、つまるところ、長期間にわたる河の流れの変化が現在を生きる一人の人間としては想像もできない現象になったということなのだろう。一方、古代のモヘンジョダロ住民にとっては、河の流れの変化は季節的なインダス河の氾濫による都市の浸水という事象と共に否応なく知られていた。その堆積土が都市内に溜まり、住宅街を全面的に更新する必要に迫られることも度々あったようだ。従来の区画をそのまま踏襲して再建した跡が見られ、層を重ねるにしたがって時代と共に造築物の質が劣化し、それに伴って生活の程度も低下していったのではないかと考えられている。さらには大規模な都市を維持するために大量の焼成煉瓦を生産し、そのために周囲の森林を伐採し、土地は乾燥化する一方だった。燃料である森林を失い、都市の再建にも難儀し、河の流れも変わって交易活動に大きな影響を及ぼし、モヘンジョダロの住民は文明の後期になって土地を捨て、移動を余儀なくされたと考えられる。ことにSaraswati河の消失は、ネットワークの南の中心地であるモヘンジョダロと北部のハラッパとの交通を困難にさせたようだ。推測によれば、モヘンジョダロから東側のKot Dijiを経由してまずSaraswati河に入り、そこから船で北上し、現在はインドのラジャスタン州にあるGanweriwallaを経由してKalibanganへ入り、再び陸路で西側へRavi河沿いのハラッパに通じていたとされる。インダス河本流は何らかの理由で船の通行が困難だったと思われる。Saraswati河という重要な交易ルートを絶たれて、モヘンジョダロはいっきに衰退したのではないか。現在のインド・グジャラート州の海岸近辺でインダス文明の中期から後期にかけての都市遺跡が多数発掘されていることから、モヘンジョダロの住民は海岸伝いに東へと移動して海岸近辺に新たな都市を築いたグループもあれば、そこからボンベイ北部の古代港湾都市Soparaを築いたグループや、中にはNarmada河沿いに内陸の森林地帯に入って行ったグループや、南インドの海岸地帯にまで行き着いたグループなどがあり、おそらく彼らは都市を形成していた役割に応じて各地へ分散したのだと思われる。

 いっぽう、パンジャブ地方のハラッパを核にしてネットワークを築いていた人々は、アーリア人の侵入時に衰退期にあったとはいえ、一部の人々はアーリア人と接触していたと考えられる。アーリア人側からすれば、自分たちよりもはるかに優れた文明の痕跡が遺る領域に侵入して来たわけだが、その文明がすでに消失していてその核心に接することがなかったのか、先住民の文明に倣った形跡はない。それまで通り半農半牧の生活を続け、神々の讃歌を生み出すsihsihに支えられた氏族集団を中心に、さらには集団の首長を護る戦士集団を含めた三つの階級で構成される、新たな「jana(部族社会)」を形成していった。とはいえ、家屋は木造、食物は麦類に乳牛とその生産物を中心にして他にわずかな農産物と自然採集品であり、ときには祭儀に供された牛肉を食べる程度の生活レベルだった。生活必需品を製作する職人はわずかで、衣服は単純、工芸品は一切遺さず、主に畜牛の盗難や土地の境界問題を原因とする部族同士の戦いに明け暮れていた。部族間での物々交換は行われていたが、交易活動を示す記録はない。供儀の中心である讃歌だけが連綿と遺され、讃歌を継承するための記憶術は高度に組織的なものとなった。いっぽう、商品生産や交易には機械論的な思考が伴うはずだから、そうした思考の成熟する機会には恵まれなかったに違いない。おそらくかつての遊牧社会を反映して、神々と人との関係が部族社会にとって最重要事項とされていたと思われる。供犠を催行することが社会活動の中心であり、供犠には神々も参加すると考えられ、それは厳粛に執り行われた。そして供犠が終わればお祭り騒ぎとなり、その歓楽は参加者たちに一体感を与える効果を果たしていたようだ。こうして、「北インドは、農耕制・牧畜制から都市文化へと進展する過程に逆行し、再びその過程を経験せねばならなかった」(Romila Thapar)と言われる。

gveda」では、先住民は敵とされ、「pani」とか「dasa」と呼ばれている。また蛇を崇拝する強力なNaga族と争ったとも述べられている。Paniは家畜泥棒であり、また商人を思わせる吝嗇な人々であった。彼らは供儀を行わず、奇妙な神々を崇拝していた。それに対してDasaは、土地に根付いていた人々であったと考えられる。定住民である彼らはおそらくアーリア系民族とは異なるオーストラロイド系の民族で、肌の色や体型、顔つきも異なっていた。その話す言葉は<mridhara>、すなわち軟性の、粗野な、敵対的、蔑むような、罵倒的といった様々な意味を示す形容詞であるが、アーリア語系とは全く異なる言語を話していたのである。彼らはVedaの神々の命令に従わないのでアーリア人との抗争が絶えず、最終的にはおそらく農民として、アーリア人社会における最底辺の階級に取り込まれたと思われる。その際に、アーリア人から成る支配階級と先住民との「varna(肌の色)」の違いによって、後に「カースト」と呼ばれることになる「jati(生まれ)」の身分制度が意識化される契機となったと考えられる。アーリア人がインド世界にもたらした重要なものに馬がある。馬と車が一体化した馬車は戦闘用というよりも主に移動用であった。後には馬車競技が、社会に一体感をもたらす歓楽のために催された。馬車はIndra神の乗り物であり、その威力が讃えられた。雨季に湧き立ち、雷や雨をもたらす黒雲の圧倒的な動きとその速度からそう喩えられたのだろう。馬車の使用によって、馬を知らない先住民を力で支配することができたのではないか。

 

ハラッパ文明の都市設計は極めて高度なものだった。たとえばモヘンジョダロの都市設備は、「高く聳えよく防備された城砦と、平地に広がる住宅街から成っていた。城砦は公的な性格を持ち、宗教儀礼あるいは政治の中心となっていた。大浴場と大規模な穀物倉庫がそこにあった。住宅街は主要道路によって整然と区画され、小路がこれに交わっていた。住宅の多くは小路に向かってその戸口が開かれ、内部には井戸と浴室を備え、中庭を中心として小室が並び、階段によって二階に通じていた。給水施設と下水設備が共に完備され、衛生の設備に意が用いられていた。建造物は煉瓦を主要材料としていた」(Mohenjodaro Museum 1980)。さらには、大浴場や公共井戸等の防水が必要な設備や、河岸に接する建造物などには全て焼成煉瓦が使われていた。むろんその煉瓦の大きさは規格化されていた。

 こうした高度な設備を有した幾つかの都市を中心にして築かれたハラッパ文明の交易ネットワークは、その最盛期には300万人もの人口を擁していたという研究結果が報告されている。これほど多くの人がこの時代に共通の言語を持っていたとは考えられないから、ネットワーク内では各地の異なる部族が異なる言語を話していたのだろう。そして異なる言語を話す異なる社会間で交易する必要性から、交易で繋がった異なる言語を話す複数の社会はネットワーク内で使用可能な最低限の共通用語をつくり出し、それを絵文字というかたちで表すようになったのではないか。いわゆる「インダス文字」と呼ばれるものがあり、その文字はいまだに解読されていない。そのため、ハラッパ文明の交易ネットワーク社会がどのように機能していたのか、それについて知ることを困難にさせている。様々な発掘品に記されたインダス文字はハラッパ文明における唯一の記号録であり、それが解読されないかぎり社会の内部に分け入って行くことができないままなのである。都市遺構、金属精製のための窯などの生産跡と主に装身具などの工芸品、土器などの日用品、様々な材質を加工した印章とそこに刻まれた画と文字、さらには魚骨や種子など様々な食糧の痕跡等が文明の遺物として発掘されているが、文字記録を解明できないのでそれらの発掘品はいまだに沈黙したままである。その文字は表意文字と表音文字とを含むと考えられているが、まず右から左へ読み、次の行は左から右へ読むと推定されている。しかし、二行からなる長文は極めて少ない。そのことが解読を難しくさせているが、逆に長文がないことがインダス文字の性格を示しているだろう。主に文字は、印章に動物画と共に記され、それは交易のための荷札用と考えられているものと、<護符>用と考えられているものとがある。荷札用とされる印章の上部に記されている文字は、交易品が生産された場所や、その商品量を示す数詞を示していると考えられている。広範囲で交易しているのでそうする必要性があったに違いない。そして交易グループというものがあって、中でも<一角獣>と<雄牛>の画を印章にしたグループが優勢であったと考えられる。いっぽう、<護符>用の場合は、画の上部に記された文字は画の内容を想起するための唱文、すなわちマントラである可能性がある。その場合の文字は記憶するための音を主に示し、その意味は単純なものであっただろう。

 河を交易ルートとした都市の商人は海洋交易にも通じ、ハラッパ文明の交易ネットワークは遥かメソポタミアにまで及んでいた。メソポタミアからハラッパ文明の製品が発掘されており、ハラッパ文明の遺跡からもメソポタミアの印章が出土している。そうした交易関係がありながらも、ハラッパ文明の都市民はメソポタミアの楔形文字を取り入れなかった。メソポタミアは中央集権的な支配体制によってその勢力を拡大し、楔形文字は税として納められる物品の管理を目的とした記録用の文字として発明された。そしてその記録は様々な分野に及び、帝国の文書として権威さえ担うようになった。中央集権的な支配体制にとって文字は必須な技術である。例えば、遠方の配下に指令を与える場合、その内容に正確さを期するためには口承によるよりも文字で伝えることがはるかに意に叶っただろう。ハラッパ文明の都市民が楔形文字を取り入れなかったということは、彼らは自ら発明した絵文字的な表象だけで遠方との交易や経済活動が十分できたのであり、それ以外の目的のために文字を必要としなかったということだろうか。こうしたことから、メソポタミア文明が中央集権的な社会体制を形成しているのに対し、ハラッパ文明はそれとは異なっていたと考えられている。ハラッパ文明は交易ネットワークを基盤とした比較的平等な社会として形成されていたという考えがそこから導かれることになる。とはいえ、文明の中期になって、それもハラッパ文明の中心地であるパンジャブから遠く離れたインダス河下流域で、アラビア海にアクセスし易いところに出現したモヘンジョダロのような都市に大規模な城砦や大浴場が造られ、また神官のような像がつくられたのは、そこにハラッパ文明全体とは異質の体制が都市を中心にして生まれようとしていたことを示しているように思われる。しかし、そのことは全体から見れば例外的な事象であったかもしれない。ハラッパ文明における他の都市の性格はその発掘された状態からみれば、そこには継続的な生産拠点としての都市の性格がはっきりと浮かび上がってくるからである。たとえば、都市内では様々な工芸品が生産されていたが、ハラッパのような都市では、岩石や貝殻などを手作業で加工して作る製品の製造場所は共同的な位置にあり、それとは別に、金属製品や陶器など窯での高温作業を伴う高度な技術による製品の製造場所は他の生産場所とは分離されていた。つまり、長年にわたって生産拠点として継続していた都市民の知恵がそうした区分けを実現させていたと考えられる。

 このように都市の生産状況と広範な交易ネットワーク、経済活動に必須な「印章」の差異化を示すための文字の使用といった特徴が際立つ一方で、その文字が解読されないゆえに、ハラッパ文明の人々がどんな思念を抱いていたかということについては分け入ってゆく余地があまりない。彼ら彼女たちの顔とその表情がまったく見えないのである。とはいえ、文明のその内面に触れることのできる手がかりがまったくないというわけではない。<護符>用とされる印章に刻まれた画は多様にして具体的なものであり、そこに文明の一部の人たちの思念の内容が提示されていると考えられるのだ。

 ハラッパ文明は諸都市を中心にした交易ネットワークを形成していたとはいえ、都市を離れればそこには象や犀、虎や野牛といった大型の野獣が跋扈する原生林と原野が広がっていた。そして食糧生産者である農民や漁民といった採集民は都市にではなくその外部に住んでいたから、ある種の自然の脅威につねに曝されていたと考えられる。そこには都市内の計量的で合理的な環境と異なり、人間にとって生死に関わる不条理な力に支配された環境があった。そうした異なる環境に住む人々の心理に対応するために、<護符>がつくられたという推測がなされるわけである。

 <護符>用と考えられる印章の画には、いくつかの印章によってある内容がシークエンスとして描かれていると考えられるものがあり、その一連の過程を順に追って推測することで、その内容にある程度触れることができるのではないかと思われている。しかしその画はあまりにアルカイックな内容で、それについて説明する力は私にはない。幾人かの研究者によって様々な解析がなされているが、ここではインドの民俗研究家Pupul Jayakarの説明を、彼女の著作である「The Earthen Drum(1980)」から引用する。

まずモヘンジョダロ出土の<渦のようなものと動物>を描いた二つの印章画がある。一つの画には、六つの触手を突き出した渦のようなものが描かれ、そのうちの一つの触手が一角獣の首となって渦の中心から現れている。もう一つの画では、六つの動物の首が中心を同じくして現れ出て、全体的に渦巻くような力となっている。この二つの印章画について以下のように解説されている。

「モヘンジョダロの四角型の印章は、<創造>に際しての畏れと流動状態にあるその神秘力を表現している。六つに先が分かれてできた星型のものが無の空間を囲っている。その無の空間から一角獣の頭が突き出るようにして現れ、それは雄々しく、弓形で、生き生きとしている。その囲われた空間は子宮であり、エネルギーに満ちた器であり、そこから生命が自ら現れ出る空間である。六つの四肢状の触手よって創造された空間は流動状態にあり、生きた有機体の拡張と収縮のリズムを示唆している。その形が海に棲息するヒトデに似ており、海との関連が特徴的である。この印章の画は、最高の魔術力を秘めたマンダラであり、誕生と崩壊の循環的なリズムと、変容の近寄りがたい秘密を明かすパラダイムなのである。神秘的な一角獣<Eka-Sringi>の動きは太陽に相対し、頭は後方に向けられている。循環するヒトデの周囲の空間には幾何学的な図と神秘的な記号が群がるようにして集まっている」。そして、「もう一つの印章では、前の一角獣<Eka-Sringi>の頭と無定形の五つの先が分かれてできた星型のものはその循環を、すなわち変容の魔術を完結させている。六つの動物の頭が今生まれたばかりのエネルギーにぴんと引き締まり、流動状の触手に取って代わっている。海のものから陸上の動物が生まれ出た。六つの動物の頭は強力なエネルギーを解放しながら、太陽に相対して後方に押し流されているかのようだ。動物は全て雄として描かれ、<Eka-Sringi>が混沌とした空間から最初に生まれ出た。その次に雄牛が、次に雄鹿、虎が生まれ、後の二つの動物は印章が損傷していて見分けがつかない。アーチ形をした動物の首には渦巻状に深く溝が彫られている。マンダラの無の空間は更新され、空間内部の休眠状態は追い払われている。貝殻を横に切断した形のように見え、蛇のようにとぐろを巻いた鋸状の帯が、動物の首を内側から渦巻くように支えている。生の求心的な力、生命とその運動が機能するのは、このきつくとぐろを巻いた円環状のものによってである。動物の周囲の空間は明瞭で、もはや混乱していない。マンダラの円環形、太陽に相対する動物の動きは、これらの古代的な護符を、自然の法則を制御し、それに指令を与える、魔術的な儀礼である<Yatudhanaに結び付けることができる」。

この二つの印章とは別に、Swastikaの幾何学的な文様が刻まれた印章がモヘンジョダロでいくつか発掘されている。それは卍形であり、おそらく<ヒトデ>のかたちが記号化されたものではないだろうかSwastikaはサンスクリット語で、後世になって卍形に付けられた語であると考えられるが、それは、「それ自身で存在するもの」を意味するからである。

次に、女性(樹の精)と虎との関係がシークエンスとして描かれる幾つかの印章画がある。まず樹上の女性が樹下で静止したようになっている虎に語りかけている。それから、樹上から降りた女性が虎に触れる(そのとき女性は角を、虎は植物的な角をつけている)。最後に女性と虎が合体している、というものである。

「モヘンジョダロとハラッパの印章で、絶えずかたちを変えながら繰り返し現れる儀礼的な場面は、樹の精が虎と交わす神秘的な対話のそれである。樹の精すなわちApsaraは、その身体を完全にヨーガの平衡状態に保ちつつ、ニーム樹の枝の上でまっすぐに背筋を伸ばして座っている。その細く線形をした身体は容量がなく、樹と分離した実体のようではない。それは樹と枝の一部のようである。樹の精の女性の腕は拡げられ、樹の幹から分かれようといま動き出したかのようである。それは繊細な蔓のようにも見える。その指は手招きをしている。樹の下には虎がおり、じっと耳を傾けているかのような静止状態にある。頭は樹上の女性に向けられ、かさかさと音を立てる樹の葉に耳をそば立てているかのようだ」。それから、「次の印章では樹の精の女性は樹と分離している。樹は女性の身体のリズムにあり、女性を解き放つためにその幹を傾けている。樹の精の女性は変容過程にある。線形の容量のない身体は丸みを帯びた女性の身体となっている。処女の乳房がはっきりと見える。彼女は今や半分女性で半分水牛である。彼女の頭は角で冠され、水牛の蹄と尻尾をつけている。水牛女の身体は前に傾き、一つの腕が虎に触れて何事かを要求している。もう一方の腕はカーブを描いて頭上に持ち上げられている。千倍ものエネルギーをもった巨大な虎は動きの中に現れ出た。潜在力に満ち満ちたその魔術的な姿、頭部に二つの角を拡げているが、それはニームの葉をつけた小枝の形をしている。その胸は葉の形をし、その前足も同様である。『虎に似たものは薬草でつくられた護符、救済者であり、敵対的な企みから身を守ってくれるもの…』(Atharvaveda Samhita 8-7-14)。虎の前足は地面を離れ中空に跳ね上げられている。表現は変化し、耳を傾けていたその姿は動きのうちへと正体を現した。葉の姿をした虎が咆哮する。その吠え声がかさかさと音をたてる森に響き渡る。樹、水牛女、そして虎はその接触を確固たるものにした。それらは一つのリズムのうちに動き、魔術の静寂な瞬間のうちにある。変容の動きが開始されたのである」。そして、「このシークエンスの最後の印章は虎と女性が一つになったことを示す。樹の精の水牛女は角を生やしたままで、長い編み髪をして真っ直ぐに立っている。腕は大きく拡げられ、その腰は肉と実体を表すかのようにカーブを描いている。背骨から、その立ち姿の角度を保持したまま縞模様の虎の体が現れ出ている。虎のどっしりとしたその体は樹の女性の繊細で線的な優雅さを装ってもいる。顔を上げて虎に乗るのは女性である。樹の姿は消えた。変容は完結したのである」。最後にこのシークエンスをまとめて、「耳を傾けることの特徴と沈黙のそれ、そこには広大な森林の音が含まれており、それは女性と虎に関わる変容を描いた印章を解明する上での手がかりとなっている。樹の形、女性の長い腕による身振り、虎の姿勢、森林の獰猛な野生動物の不動状態、それらは自然に関わる流動性を伝え、自然との障壁を解き、変容のための場を準備する次元にある。植物の魔術的な性格、変容の渦を開示する植物の能力は、芽生える葉の形となった虎の角や蔓、虎の体をかたちづくる葉の紋様のうちに示唆されている。『このParna()の護符を着る者は虎になり、獅子になり、雄牛になる』(Atharvaveda Samhita 8-5-12)」、としている。

さてモヘンジョダロ出土で、印章画の中でもよく知られた、角飾りをつけた男がヨーガのようなポーズをして台上に座しているというものがある。この画には二種類のものがある。

「ヨーガの姿勢で王座に座し、両腕に腕輪を幾重にも付け、精巧な頭飾りを被った三つの顔を持つ裸の男神を描いた四角状の印章がある。五つのインダス文字が頭飾りの両側に見える。その頭飾りは二つの角を張り出した水牛のようであり、またさらにもう二つの突起が頭上に張り出している。頭飾りの中央から、三つの菩提樹の葉をつけた一つの枝が上に向かって出ている。七つの腕輪が左腕に、六つの腕輪が右腕に描かれ、その手は膝に置かれている。踵が股間の下で押し合わされるようにした姿勢で、その膝が王座の際を越え出て張り出している。雄牛や一角獣の印章でも見られるように、その王座の脚部は牛の蹄のように湾曲している。印章は焼成されたものでなく、非常に硬い石でできている。印章の裏には溝が付けられ穴の開いた突起が施されている」。

もう一つの画は、「インダス文明の印章で最もよく知られたものが水牛の角を被った男の画である。その姿は<Pasupati(動物の主)>としてのShiva神の最初の表現と考えられてきた。『Atharvaveda』に千の眼を持つRudra神を讃える歌があるが、それはRudra神を森の動物、野獣、野生の鳥、家畜とみなしている。印章の像は胡座で男根を直立させ、ヨーガのパドゥマアーサナ(蓮華座)のかたちで両手を広げその手を膝に置いている。その坐像は三つの顔を持つと言われてきたが、拡大鏡で見ればそれが誤っていることが分かる。その顔にはKathakali劇で付けるような仮面が付けられている。頭には水牛の角を戴冠し、その角の間から垂直に上に突き出たものがあり、それは発芽する玉蜀黍か、もしくは固められた髪の毛と考えられてきた。顔を覆う仮面と同様に、身体や腕が何重もの紐で巻かれたように印されているが、それはぴんと張り詰めたような渦を創り出す表現であろうか。内に秘めたエネルギーの渦巻状の力動を示しているのか、渦が取り囲むようにして胸部に着けた防御板の力を表しているのか。ヨギの静止した身体は明快な傾聴状態が拡張していく領域を確固たるものにしている。すなわち、その沈黙のかたちを通して、浸透のプロセスといったものが、植物や動物の世界がそこに入り込みかつ流れるようにさせているのである。その腕は大地を指し、膝を大きく広げた姿勢はヨギ的な性格を示している。すなわち、上部に湾曲した水牛の角、力の発信、平衡状態の確立である。水牛、跳ねる虎、犀、象、野性的で雄々しい動物、それら自然の脅威であるものが坐像を囲み、その動物たちの体は最高度の平衡状態において坐像から発せられる強力な磁力によって釘付けになっている。いまだ解読されない文字が頭飾りの上に横に並んで記されている。それらは密な空間、すなわち森の濃密さを示唆している」。

 最後に、ハラッパ出土で、何らかの儀礼を描いた特徴的な印章画がある。それは他に例のない総合的な構図によって描かれている。角飾りをつけた男が菩提樹の壇内に立つ角飾りをつけた女性に向かって礼拝している。男の背後で巨大な人面獣がそれを見つめている。下には七人の植物的な飾りをつけた女性が並ぶ。

「この儀礼場面は、おそらくインダス文明の古代儀礼と錬金術師崇拝を浮き彫りにしている。まばゆく煌くような<Yaksi(樹の精)>が、聖なる魔術的な水牛の角を被り、編み髪を揺らしながらAsvattha(菩提樹)の中で両手を広げ真っ直ぐに立っている。樹の幹は子宮の容器である<Garbha Yantra>のような形をしていて、その中で水銀の定着と変容という錬金術の最高の秘密が明かされる。Asvattha樹の葉は吉兆の徴であり、外に向かってぴんと張り出している。樹の周りの地面に円が描かれているのは<Sri Chakra>で、それは女神の標であり祭壇でもある。その一方にはもう一つのMandalaのかたちがあり、十字を囲む四角形<Chatuskon>で、それもまた女性の神格の象徴である。祭壇の前で跪く人の姿があり、それは魔術師・祭司にして錬金術の弟子であり、彼もまた水牛の角を被り、礼拝の態度でAsvattha樹の女神に面と向かっている。彼の前には儀礼の捧げ物と見られるものがある。それらは聖なる火をかたちづくるものであり、その上で魔術的な化学変化が明らかにされたのだ。人物の後ろには人の顔をした巨大な山羊がそびえ立つようにして描かれ、その首には花飾りをつけている。動物のその誇張された大きさはその重要性を反映している。人の顔をした山羊の上に魚のかたちをした文字がくっきりと描かれ、その大きさも他の文字と比べて不釣り合いなものである。魚文字の中には<点>、すなわち<Bindu>が描かれている。魚はインドのアフロディテ的な伝統に回帰していく女性のシンボルであり、後にそれは性的な女性神格である<Bhaga>とみなされている。魚の中の<点>である<Bindu>は<Yoni>であり、愛の眼であり、女神の徴、女性器のシンボル、秘密の場所すなわち創造の神秘への入り口である。魚の位置とそれが男性潜在力の象徴である山羊の方に向かって下方に突き出ていることがこの画の性的な性格を確かなものにしており、融合と誕生と変容の儀礼を描いた内容に結びつけることができる。主題となる場面の下方には一直線上に立って並んだ七人の姿とその横顔が描かれ、編み髪を揺らし、奇妙な円錐形の帽子を被っている。その帽子からは装飾用の羽毛が吹き流しのように流れ出ている。これらは農村の象徴世界における<七乙女>で、インド中で見出される(食料)植物と水の精である。北部の渓谷地方における<Sat Sahelia>、タミール・ナドゥ州の七乙女である<Sapt Kannigais>、マハラシュトラ州の七人のApsaraである<Sat Asara>があり、七つの姿が複合したイメージに融合して単一の田畑地内で保持され、その水の神格は旱魃期に呼び出され、また貯水池やダムの守護者もあり、そのイメージ群は大地を豊かなものにする諸要素となっている」。

<護符>用というよりも<儀礼>用と思われるこの印章は、印章全体からみれば、その画は特殊な構図で描かれている。言い換えれば、その光景は現実的なものに見える。それゆえ、この画に描かれているような儀礼が実際に執り行われていた可能性がある。ただし、ここで古代の<錬金術>が指摘されているが、それは南インド出身の錬金術師Nagarjuna(「空論」を説いたNagarjunaとは同名の別人と考えられる)との関連で語られているに過ぎない。

<護符>用のための印章やその他のハラッパ文明の造形品を全体的に見れば、その中で描かれている像や象徴的なもののかたちは、それを見ても即座にそれが何か認識可能というわけではない。描かれたかたちや像、一連の物語や儀礼は、「神々を予期していた」、そう言える段階にあるのではないか。とはいえ、神々が顕れようとするその顔貌をかたちへと具体化するための諸要素については、十分解釈可能と考えられる。象徴的なものに至ろうとするそのかたちはすでに聖なるものの顕れで満ち満ちているからである。いわゆる「インドの無意識」というものを豊かにするために繰り返し示されてきた象徴、すなわち原野や原生林を環境として生まれ出てきた古典的な神々の源は、すでに上述のハラッパ文明の印章画や<護符>に十分に展開され、成熟しつつあるように見える。インドでは何世紀にもわたってこうしたかたちにならないものを基にした像や形が、職人たちによって崇拝のための神像や象徴へと解釈されて造形されてきた。SwastikaMandalaへとなるかたち、動物に囲まれて胡座し、瞑想しながら気息を統御するヨーギン(そう特定できる確証はないが)、虎と神秘的な対話をしながらニームの樹に住む女性の精の神的なかたち、人と動物の合体したかたち、樹の幹やリンガムの中で立っている人の像、それらは力強く、また若々しく、不滅であり、古代的なものであるという時間を感じさせない象徴であり、後の時代に農民たちによる表現や古典的な表現において力強い表現として再び現れるものなのである。

Pupul Jayakarの解釈は基本的に、ハラッパ文明の<護符>には原インド的なものの顕れが表現されている、という文脈に沿ったものとなっている。インドの民俗慣習や儀礼について膨大な知見をもっており、その用例に基づいた彼女の考えは傾聴に値する。ヒンドゥー教社会において形に成る以前に、ハラッパ文明ではその<原インド的なもの>はどのようなかたちをしていたのかを探っているように思われる。私はここで提示されている古代的思念のその内容を知るにつれて、ハラッパ文明の高度な交易ネットワーク社会とこうした古代的思念が共存していたということをどう考えたらいいだろうかとまず頭を悩ませたが、「交易ネットワーク社会」という現代的な言葉が何かしら発展的なイメージを与え、そこに古代的思念と対立したものがあるかのように感じさせるのではないかと思うに至った。現実に則して考えれば、古代的思念はハラッパ文明以前から脈々と継承されてきたのであり、交易ネットワーク社会の成立に伴って様々な技術が開発され、そうした高度な技術が当時の思念にかなり明確なかたちを与えることができるようになった、そう考えた方が理に適っている。Pupul Jayakaの解釈を通じて、南アジア社会における民衆の思念は古代から現在に至るまで連続性を保っている、そう確信するに至ったのである。中央集権的な社会ではその思念の内容とその表現は、新たに生まれた権力の下に集中し、権力のために展開される傾向にある。しかしハラッパ文明ではそうでなく、交易品を製造するための技術は、都市の外部の住民を含めた多くの人々の思念をかたちにすることができたのではないだろうか。軽量や効率といった交易に伴う思考の機械論的な働きは、自然と相対する態度の内に生まれる思念と相反するもののように思われるが、生産や交易に携わる都市民も一方では自然を畏怖し、自然との関係を改めて考えていたということが、<護符>板が都市の内部から発掘されていることからも推測できる。とはいえ、技術に沿って思念がかたちになったとはいえ、そのかたちは技術そのものに限定された内容となっているはずだ。<護符>の周辺にはかたちになることのない思念が膨大に渦巻いていると考えた方がいいだろう。Pupul Jayakarが言うように、ハラッパ文明に垣間見られる大地母信仰は現在に至ってインドの様々な地方でその形を変えて生きている。それが生まれようとするかたちを古代の発掘物に見るというのは、かたちになることのなく背後に渦巻くものをも含めて考えられるという意味で、非常に感慨深いものに違いない。例えば、ハラッパ出土の儀礼画の<七人の参加者>は、ヒンドゥー教と仏教タントラの七<Matrika(地母神)>を想わせるものであり、その古代的な出自を解明するためにはハラッパ文明の<護符>にまで遡らないわけにはいかないだろう。

Pupul Jayakar が<護符>を解釈するのに何度か引用している「Atharvaveda」がある。それはアーリア人の部族社会がパンジャブ回廊からガンジス河流域へと移動し、いくつかの部族社会を形成した、前1200年〜前1000年頃に編纂されたと考えられている。そのサンスクリット語は「gveda」のそれとはもはや異なっている。「Atharvaveda」は「日常生活の問題を処方する知識」を意味するが、いっぽう「Atharvan」の語が「魔術の呪文」を意味することから、神々と人の関係を提示する「gveda」を軸にした上層階級の信仰に対して、それは民衆一般の信仰を表しているとも言われる。その中には魔術の呪文のみでなく、婚礼や葬儀といった日常の儀礼に関わる事柄も取り込まれている。おそらくPupul Jayakarは、「Atharvaveda」に遺されている内容がインダス文明に由来すると考えている。インダス文明の社会では女性と植物の関係が深く、植物の利用も多彩であった。植物には様々な医薬的効果があり、女性はそうした知識に通じ、人の心身状態に影響を与えることができただろうと考えているのである。また<護符>用の画から知れるように、インダス文明社会の女性は日常的に触れている大地とその豊穣性に深く関心を示していた。「Atharvaveda」の内容を見れば分かるが、そこにはアーリア人侵入以前の先住民の思念が色濃く浸透し、「gveda」のような天空信仰は影が薄くなっている。そのことはハラッパ文明の思念がアーリア人に深く影響を与えるほどのものだったということの証となるだろう。アーリア人はハラッパ文明の技術的な側面から影響を受けることはなかったが、人の心身を左右できるような古代的な思念を取り込んでいるのである。後期のVeda語が、後のムンダ語(中央インドの先住民語)やドラヴィダ語から語を借用しているというのはそういうことで、ハラッパ文明の一部の人々は、アーリア人の一部の社会とおそらく対等な関係で交流していたのである。

ハラッパ文明は消えたのではなく、文明が孕むそのかたちはインド土着世界の深層に表現力を与え、結果的に様々な形として具体化されることになった。技術を応用して思念のかたちを表そうとするその営為にハラッパ文明の人々の内面が現れ出ていると思われるが、ハラッパ文明のそうした造形物には一般的に言って、人間と自然の関係を具体化しようとする傾向が強く見られる。都市の設計や生産技術もこの<具体化>の欲求と共にあったのに違いない。そこにはアーリア人の言語表現による人と世界の関係を<抽象化(力動化)>して表す傾向との違いが際立っている。おそらくアーリア人とハラッパ文明との直接的な接触が困難であったことの理由がそこにあるのではないだろうか。

 

ハラッパ文明の存在は十九世紀に英国人による発掘によってようやく知られるようになった。それまで知られていなかったのは文明の記録がなかったからである。おそらく交易ネットワークの消失と共に<文字>も埋もれてしまったのだろう。それはネットワークの形成と共に生み出され、すなわち言語が異なる社会から成る交易ネットワークが必要とした記号なのであり、つまるところ言語を表す文字ではなかったということである。長い間使用されたにもかかわらず、それは言語を表す文字のように多様化するといった複雑な展開には至らなかった。「gveda」を生み出した民が自然現象を非人間的なものとして言語化する民であったのに対し、ハラッパ文明の交易ネットワーク社会の人々は図象化し、<具体化>する民であった。そして、どちらの民も自ら発する言語を記号化しなかったのである。言語は音のままだった。アーリア人が言語を表記することに抵抗があったのは推測できる。とはいえ、文字によって記憶は遺され、思想と共に言語による記述は始まるのである。思考がそれ自身だけで機能しても、それは機械論的であって未だ<知>的なものとはなり得ない。遺すという<意図>がなければそこに思想が生まれる余地はないと思われる。ハラッパ文明の人々は交易を通じて思考の機械論的な働きに慣れていたし、<具体化>の欲求も持っていたが、個々の記憶を遺すという人間の<意図>に抵抗を感じていたのだろうか。そうであれば、人間の<意図>を超える自然の力を常に<察知>し、自然の力を含む世界の全体性をことさら重要視していたということか。

ちなみにインドで文字が確認されるのはアショカ王の治世(268年〜前232)で、セム系のアラム語の文字からつくられたカロシュティー文字と、おそらくそれを漸次改良しながらつくられたブラフミー文字がある。カロシュティー文字はパンジャブ回廊を含む北西インドで一時的に使われているが、後に廃され、インド中原地帯で使われたブラフミー文字がデヴァナガリー文字へと展開し、サンスクリット語の表記に使われるようになった。そのデヴァナガリー文字がヒンドゥー語を表記するのに現在も使用されている。