Saturday, December 12, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore

2  Lahoreの友人

  四  Saeed

「Mushaira」とはイスラーム世界で詩を朗詠する集まりを言う。ムガール王朝中期から後期にかけてウルドゥー語が整備され、デリーやラクナウ、(デカン地方の)ハイデラバードなどの主要なイスラーム都市では観客を前にしてウルドゥー語のGhazal詩を詠む集まり「Urdu Mushaira」が催された。ふつうは夜の帳が降りる頃に開始され、興が嵩じれば未明まで行なわれたという。一つの主題に応じて複数の詩人が自作の詩を朗詠し合った。ときには即興で詠じる場合もあった。場所は様々で、宮廷内や貴族の私邸、さらには貴族等が通う娼家でも行なわれた。十九世紀のラクナウではUmrao Janという、Ghazal詩の作品で高名なTuwaif(芸姑)が輩出したほどだ。催される場所に応じてその規模も顔ぶれも様々であったようだ。

 Ghazal詩がどのようなものか、試みに十九世紀の宮廷詩人Ghalib(Mirza Asadullah Baig Khan)の長編詩、「Diwan-i-Ghalib(ガーリブ集成)」の冒頭を訳してみた。むろん口語調にした意訳である。


 絵に描かれた不正への嘆きは誰かの書き記した戯れか/紙なのだ、絵画という絵画の相貌が纏うものは

 絶えざる探求者よ、神を愛する者よ、孤独を恐れるな/朝に為すことが夕べに果をもたらすのだ、乳の流れという果を

 情熱の詮方ない望みは示さなくてはならぬ/胸の内は剣の外にあるが、血は剣のものであるがゆえに

 知識は耳にする罠、欲するほどに広がりゆく/求めるものは手に入れ難い、知性が自ずと開示するものは

 これで十分、Ghalibは、囚われの身でありながら足下の炎は立ち消えぬ/頭髪の炎は目に明らかだ、勝者の集いが束縛であることも明らかだ


 当然ながらウルドゥー語特有の音感はここにない。詩の語句の音の流れには歴史/時間を感じさせるものがあり、そのことが隠れた意味を浮かび上がらせる要因ともなっているわけだが、そうした歴史感覚に潜在するものは翻訳では失われてしまう。仕方がないといえば仕方がない。「乳の流れという果を」の句が示唆する内容は分からないが、たとえば乳は朝に搾り採られ、夕方にはミターイー(甘菓子)をはじめとする様々な食の材料となって人々を楽しませ、その価値を提供する。「sheer(乳)」という音を耳にし、その語感だけで人は甘い味覚に忽然と包まれ、そこに潜在的に伴うものに陶然となるのである。

「Diwan-i-Ghalib」の「Diwan」は詩作の「集大成」を意味し、文字通りそれは長大な詩作品となっている。「Diwan」特有の形式であるかどうか分からないが、この作品には次のような技巧が凝らされている。まず冒頭の章の詩句の一行の大概がアラビア語のアルファベットの最初の文字Alifで終わっている。その場合でも詩の韻律は整っていなければならない。そしてその後の章になると、詩句の一行の終わりがアラビア語のアルファベット順に来る文字になるよう構成され、いわばそのような技巧で全体が構成されているのである。意味のない単なる形式だが、おそらく新奇な形式を課しつつ詩作を競い合うような表現環境があったにちがいない。ちなみにGhazal詩はウルドゥー語の表現であるが、そこで使われる単語の多くはペルシア語である。

 Ghazal詩の職人たるGhalibは詩の表現の限界を弁えていたようだ。ムガール宮廷に仕え、職業詩人としての様々な束縛についても身をもって知っている。しかし、それでも今やるべきことをやっておけばその結果は自ずと顕われるだろうと考え、役にも立たない己の情熱を示すことを決してやめてはならない、そう訴えた。そうした内面に沸々とする熱意が詩作の源泉であったのではないだろうか。このGhalibの詩も聴衆を前にして朗詠するものとしてつくられた。その表現は煩瑣な形式に沿いつつ、なおかつ形式から迸るものを示そうとしたのである。

 Ghazal詩の表現は現在に至って変化はしているが、Mushairaそのものの意義は変わりないようだ。たとえば、壇上で女性が朗詠するとか、昼間に行なわれるとか、詩句に外来語が多用されるとかの変化はあるが、「情熱の詮方ない望みは示さなくてはならぬ」し、「頭髪の炎は目に明らかだ、勝者の集いが束縛であることも明らか」であるという意識に変わりはないと思う。


 Lahoreを発つ前の最後の夜、SaeedがMushairaに誘ってくれた。今そのことを想い出そうとして、それがLahoreのどこで催されたのかをまったく想い出せない。どこかホールのような会場で、きらびやかに飾り付けされた舞台上に何人かの詩の詠唱者が座して並び、順番にGhazal詩を詠唱する。会場は観客で埋め尽くされ、Ghazal詩の四行が詠唱される度に「Wah Wah」という声が観客から発せられ、その場が異様な熱狂に包まれる。その熱狂の熱が会場いっぱいに籠り、辺りの見通しが悪くなるほどだ。いや、これは夢で見た光景ではなかったか。夢で見たことが記憶として想い出されているようだ。いま次第にその光景が像を結び直し、はっきりとしたものになってくると、それが本当の熱狂であったのか疑問に思えてきた。おそらくあれは形式的な熱狂だったのではないか、今になってそう思えてくる。というのも、「Wah Wah」と観客が声を発するのは慣習的な流儀にすぎないし、観客の多くが年配者で、伝統的なものを良しとしている、そんな印象を少なからず受けた覚えがあるからだ。その夜の集まりは、「Halqah Albaab Zor(「心髄会」)」が主催するものであると1980年11月28日の日記に記されている。おそらくSaeedが教えてくれたのだが、訳してみると古風な名前である。Mushairaを私はテレビの録画放送で観てどんなものか知っていたが、参加するのは初めてであり、ただ訳も分からずその場にいただけのような気がする。その日は有名な詩人の「Safar Namah(旅行記)」の詩を出席者たちが詠唱した、そう日記に記されてもいる。これもSaeedの言葉をそのまま記しただけだろう。

 その日は朝九時前に寮の部屋をあとにした。敬虔なムスリムである寮の事務職のShukurが見送ってくれた。彼は異国のムスリムを親身に世話してくれたが、イスラームに基づく形式的な要求が強く、ときに辟易することもあった。しかし、もうイスラームの形式に従う必要はない。寮の建物を出るやリュックサック一つという身軽さに一瞬私は自由な気分に包まれたが、すぐにからだを隙間風が通り抜けていくような不安にふと捕われた。乗合ワゴン車でMozangに向かい、Kisan Hallに行ってまずRana Sahabに挨拶した。後はその日はSaeedと共に時間を過すことになった。彼にしては珍しく美味い物があるからと言い、昼飯にMallから小路を入ったところにある私の知らぬ店へ連れ出した。それは絶妙なスパイスで味付けした魚のフライで、店主はRavi河で獲れた魚を調理し今の時期だけ食べられると自慢気に話す。その名も<Lahori Fish>と言った。それから午後遅くに二人でMall沿いのアパートに住むウルドゥー語作家を訪問した。年はまだ四十ぐらいか、その作家の名前を失念したが、突然の来訪にもかかわらず気遣いの行き届いた応対をしてくれた。私が日本人であることから三島由紀夫の作品を読んだことがあると言う。「豊穣の海」の作品感覚を理解でき、自分の作品に近いものを感じるという。私は喜んでその言葉を受けとめたが、内心本当だろうかと思った。そしてアパートを辞し、Mallを歩き始めてからしばらくしてSaeedが言った。「ターヒル、Mushairaに行こう。Mushairaって知ってるよな」と。今になって思えば唐突なようでそれは用意周到な提案だった。私のLahoreでの最後の日のために彼は粋な計らいをしてくれたのだ。Lahore滞在も最後の日になって、Saeedの案内でそれまで知らないLahore世界に私はいつしか入り込んでいた。それ以前にも彼の誘いでテレビ局の公開録画番組に参加したことがある。若者に人気がある番組で、Saeedがわざわざ入場整理券を用意してくれた。番組の名はたしか「Ferozen(「幸運をもたらす」の意)」と言った。司会者から発言を求められるのでないかと胸をどきどきさせて会場に座っていたのを想い出す。とにかくLahoreの生活に慣れた頃の私にとって、Saeedは私の知らないLahoreの一般社会の良き案内者だった。

 私にとって城市で遭遇する世界とは異なるLahoreの一般社会があった。いまLahore城市を想起すれば過去へと、見知らぬ過去へと、ずんずん遡っていく事態へと私は引き込まれてゆく。それとは異なり、Lahoreの一般社会やそこに暮らす人との出会いを想起するのはまた別のことなのだ。過去というよりも彼らをめぐる当時の現実を知ることになるのだが、その現実は私のような外国人には見えない過去を前提としているのだった。城市では過去の時間が積み重なったかのような空間とそこに棲む人々につねに触れることができた。しかし、一般社会はそんなふうではない。その現実はつねに状況の変化にさらされるようにして各々のうちに佇んでいる。そうした変動する現実をめぐって、今になって私は当時の私には見えなかった過去を見ようとしているのである。というのも、当時耳にした話の意味、それを話す人の表情やその身振りをあらためて再確認したいと思うからだ。すると、そこにこそ過去を前提とした彼らの現実が幾ばくか立ち上がって来るように見える。とはいえ、私にはもうその現実に対処する術がない。そうした作業においてもっぱら知ることになるのは自身の無知であり、無知のまま当時の現実をやり過ごした、そのことに由る後悔の念に今の私は晒されるばかりである。いっぽう、私が常習的に関わってきた、見知らぬ過去へと遡るというのは、それは実際の歴史、もしくは歴史的現実を知るための作業なのではない。Lahore城市について言えば、「かつて城壁はその内側に住む人々の生活を護るために築かれた。しかし、彼らはもう保護を必要としていない。もっぱら移動する必要があるゆえに、彼らは自らの手で城壁を壊したのだ」、というのが現実であり、歴史の推移した果てである。また当事者からすれば、「愚か者だけが過去に生きる」、とも言われる。そうであるからして、そこには歴史を検証するのとはまた異なる作業があることは私も弁えている。おそらく、その作業においては<過去>とは起源的なものと同義である。起源的なものをこの身に呼び込むことで、自身の現実の前提となっている<近代>という束縛を突抜けようとする。そんなふうにして近代に生きることで身につけるに至った拘束から逃れようとする作業をしている、そんな気がするのだ。言い換えれば、<過去>へと遡ることで私たちはあまりに近代の思考に制限づけられている、そのことを知るのである。とはいえ、こうした作業がもたらすものにはいまだ現実味がなく、一般社会の現実を前にするとあたかも幻であるかのように霧散してしまうことになるのだが…。

 11月16日、Lahore博物館の前にある瀟洒な建物Jinah Hallでコレラの予防接種をした。Lahoreでコレラの予防接種をするのはこれで二回目だ。最初の時は不安に苛まれたが、今回は平常心で腕を出すことができた。インドを通って帰るので予防接種は必須だ。11月22日、寮の事務所へ行き、管理職のShaheenから部屋の保証金を受け取る。彼は世俗的な人物で、どんな話題であろうと意見を述べ合うことができ、信頼できるその人柄に好感をもっていた。別れの挨拶をすると目を潤ませている。その夜はLahore駅前からRawalpindi行きの夜行バスに乗り込み、翌11月23日朝にはIslamabadのインド大使館でインド査証を申請する。この日はどこに泊まったのか記録がない。翌11月24日、インド査証を得てLahoreに戻って来た。11月25日、MallのBank of Americaへ行き、口座を解約して現金とトラヴェラーズ・チェックにする。それからいったん寮に戻り、あらかじめ梱包してあった荷物を抱えてリキシャに乗り込み、MallにあるGPO(中央郵便局)へ行き、日本へ荷物を発送する。翌11月26日もGPOから荷物を発送した。荷物は白い布で包み、開封できないように縫って閉じ、縫い目をGPO前の歩道に居並ぶ業者に臘で封印してもらう。とても面倒な作業だが、この国のやり方であるからそれに従うしかない。GPOで用を済ませると、まずCollege近くにあるRegistration Officeに行き、Travel Permissionを取得した。再入国ビザはもう必要ない。それからCollegeに行き、ウルドゥー語教授のTabassum教授に挨拶する。彼は気さくな人物で、いつか自分も日本に行きたいよと陽気に語り、笑顔で応じてくれた。PrincipleのBrelvi氏には不在で会えなかった。Collegeを出てMallでリキシャをひろい、Gulbarg Marketまで行き、コロンボ・プランでLahoreに滞在しているK夫妻に挨拶する。K氏は年配の職業人といった人で、何度か日本食を饗応される。Lahoreでビールが飲めた唯一の場所だった。11月27日、ふたたびOriental Collegeに行き、事務局で働くZahirに挨拶する。彼は映画俳優のWaheed Muradに似たいい男だが、その話しぶりに陰があるのが惜しまれる。誠実だが、人に打ち解けないという感じをつねに受ける。PrincipleはKarachiに出張していてしばらく不在だと言う。PrincipleのBrelvi氏は非常に知的でまた温厚な人物で、お別れの挨拶が出来ないのがとても残念に思う。ラクノウ出身で、<印パ分離>と共にLahoreに移って来たという。当時はパキスタン人がインドに行くことは容易でなかった。ことのほかインドの地に深く関心を抱いていたのだろう、私が冬休みにインドを旅行して来たのを知り、インドはどうでしたかと質問されたことがある。私はインドを好意的に捉えて話したが、おそらく<印パ分離>以前のインド世界をよく知っている人物ではなかったかと思う。そして翌日はLahore最後の日、11月28日になった。

 Mushaira終了後はRana Sahab邸へ戻り、その夜はSaeedのテントに泊まった。Saeedが自炊用のケロシンオイル・ストーブでチャイをつくり、それを飲みながら話をした。いや、いろいろと話をしたと思うが今では何を話したのか一切覚えていない。ただMushairaを経験した後なので、私は次のような四行詩を紙に書いて読み上げた。おそらく夜道を帰る途上で考えめぐらしたのではないかと思う。

 Do saal ho chuke hein shahar-e-Lahore mein/Ab jaa raha hun apna desh ko/Koi gham nehin apna Lahore chor ne se/Magar fikr ho ta hai desh wapas jaa ne se

 Saeedの反応はいまひとつだった。拙い、他愛ない詩だから当然ではある。私はSaeedに言葉では上手く伝えられない、日本へ帰ることに伴う不安(fikr)があることをGhazalにして詠んだのだった。

 このままLahoreにいても何事も進展しそうにない。できれば私は北部のPeshawar大学に移ろうと考えていた。Principleもそうするよう勧めてくれた。しかし入学手続上の困難があり、実現出来なかった。それなら日本に帰らなくてはいけないと思い帰ることに決めたのだが、いざ帰国の支度をする段になってわけの分からない不安が募ってきた。思いもよらないことだった。

 大学四年時に休学してパキスタンという第三世界の国にやって来ることで、私は日本社会から<ドロップ・アウト>したのだと考えていた。大学を卒業し、その先敷かれたレールに沿って就職し、組織の一員、一歯車になろうという考えは毛頭なかった。<ドロップ・アウト>とは冷戦期の概念だろうか、今ではもう使われなくなった言葉である。おそらく資本主義で包摂されてしまった現代世界では通用しない概念なのだろう。1960年代、ベトナム戦争が泥沼化するとアメリカでは兵役から逃れると同時に一般社会からドロップ・アウトする若者が増え始めた。それを契機に反戦運動とヒッピー・ムーブメントが結びついて大きな潮流となる。このムーブメントは一種のカウンター・カルチャーとして六十年代後半の欧米の若者たちの行動に大きな影響を与えることになった。すなわち、そうした動きに参加し同調することは既成社会に異議を唱える意思表示となったのである。おそらく、社会主義が有効であったことによる世界の二極化が、資本主義社会内での反体制的な運動を生み出し、体制側も社会主義社会に対峙していることからそうした運動を許容せざるを得なかったのだろう。自由主義圏内でのそうした反体制運動はひたすら<自由>を求め、既成社会を問題視し、その成り立ちを隅から隅まで再点検しようとした。欧米でドロップ・アウトした若者たちは二極化のどちらにも属さないヒッピー文化圏を創造し、自然と共生する独自のコミュニティーを模索するまでに至った。男性の長髪は自らを一般人と差異化する手っ取り早い徴になった。肩まで伸びる髪の長さこそ自由の証であるかのような風潮が生まれた。いつの世でも新奇な髪型は真っ先に模倣され、伝染していくものだ。

 とはいえ、当時のパキスタンを含む第三世界ではそんな概念が通用するはずもない。Karachiの一部の大学生が長髪にマリファナを常習していたようだが、そのほとんどが裕福な家庭に属していた。欧米とはその社会状況に大きな違いがあり、<自由>を求める運動も度が過ぎればそれに敵意を向けるようにして反動勢力がその勢いを増し、既成社会に対抗して自己本位な考えが育まれようとするその余地さえつぶそうと目論んでくる。実際に宗教イデオロギーを掲げて第三勢力が台頭してきた。そんな状況であるからして、自国社会からドロップ・アウトしてパキスタンにやって来た私は、Lahoreではその理由を人に問い詰められれば矛盾へと極まり、それゆえつねに内心不安定な将来を抱える立場にあったことになる。とはいえ、そうした不安定な立場にあったからこそ、私はLahoreでいわば白紙に絵を描くようにして新たな経験を積み重ねることができたのではないか、そう今では思っている。ひょっとして私は知らず知らずのうちにドロップ・アウトを深めてしまったのかもしれない。白紙に絵を描き過ぎたのだ。そのせいだろうか、いざまた自国へ戻るに際して言い知れぬ不安が募っていたのである。

 いっぽうのSaeedはといえば私とはまったく異なる流れのうちにいたはずだ。七十年代はまだソ連の影響が第三世界に色濃くあり、インドはもとより、パキスタンの学生の中にも社会主義のイデオロギーを支持する者が少なからずいた。アフガニスタンと接するBalochistan州のQuetta大学は共産主義の牙城となっていた。Saeedもソ連型社会主義を信奉する若者のうちの一人だった。そして、おそらく<インターナショナル>の概念を重視していたのだろう、エスペラント語を学び、JhelumのShah Sahabの下で「エスペラント協会」を組織していた。その活動は、パキスタン内での異なる地方諸言語域を基盤にした権力争いを乗り越えようとするものだったと考えられる。また<インターナショナル>は保守的イスラームに対抗する概念でもあっただろう。

 パキスタンは二十世紀半ばに成立した新しい国であるが、その成立過程には諸々の問題を抱えていた。イスラーム保守層を基盤とする「J’amat Islam(イスラーム同盟)」は、その発足時にはパキスタンとしてインドから分離する国家に反対していたわけだが、それはイスラームを基にした国家の成立に関心がなかったことをうかがわせる。つまり、イスラーム保守層は<ネーション-ステート>の近代国家ではなく、いまだにカリフ制下によるイスラーム共同体を考えていたようなのである。その考えでは、<国家>はイスラーム共同体よりも下位の次元にあり、仮にイスラーム共同体が<国家>と成るとすればそれは世俗化するのと同じであると考えられていた。かつてのイスラームは世俗をも包含する帝国を政治的に実現させていたが、それよりも後退したわけである。その後退は近代国家の登場と関係している。近代国家を受け入れようとしない保守的イスラームをSaeedは強く批判していた。

 パキスタンが古くて新しい国であると言われるのは歴史的に連続と非連続を抱えているからである。イスラーム国家として大英帝国の植民地から独立するが、その国土には古代インダス文明やガンダーラ文化を抱えていた。そのことは、保守的イスラーム側からしてみればまさに矛盾した現実であり、喉の奥に刺さったままの小骨であった。そうしたイスラーム以前の、イスラームの歴史に無関係な、それゆえ不連続とみなされる歴史をパキスタン人はどう捉えるべきか。一つの合意事項として、パキスタン人はパキスタン人としてパキスタンがイスラーム国家として成立したという歴史的現実につねに還る必要があると言われる。とはいえ、パキスタン成立以前からこの地に根ざし、イスラームであろうとなかろうと数千年の歴史的連続性を有する人々には必ずしもそのことは適用できないのではないか。イスラーム国家として新たに成立した<パキスタン>という概念とは異なり、<パンジャブ>というのはそうした数千年の歴史的連続性を有する地域概念、もしくは大地的概念であると言っていい。<パンジャブ>はハラッパ文明もガンダーラ文化をも包含する。あまり声高に語られないが、おそらくヒンドゥー世界が基盤とする「Mahabharata」が語る舞台も<パンジャブ>に含まれている。それにもかかわらず、パンジャブはパキスタンが成立するやいなや歴史的に苦悩することになった。イスラーム国家の成立によってパンジャブは分割させられるという大きな代償を支払うことになったのである。ちなみにこのことは新生パキスタンの一翼であった<ベンガル>についても言える。自分は新生国家のパキスタン人である、しかし歴史的連続性を有するパンジャブ人でもある。それならば<インターナショナル>なエスペラント語を学んでその差異を克服しようという考えは近代国家を支持するからである。しかし、もし宗教イデオロギーの下に国家の機能が軽視され、その指導が一部の利害に偏るものとなれば、その姿勢は必ずや裏切られるものとなるだろう。いったんそうと知れば、疑念がつねにつきまとってくる。今考えれば、こうした新生国家に渦巻く複雑な力の流れの中にパンジャブ人のSaeedはいたのである。

 私がLahoreに滞在した当時はパキスタンが<ネーション―ステート>として生まれてまだ三十年余、ネーションの深層下では互いに反発し合う勢力が拮抗する不安定な諸要素を孕む時期だった。おそらくどっちに転んでもおかしくはなかっただろうが、そこにイランのイスラーム革命とソ連のアフガン侵略のニュースが入ってきた。それによって力を得た様々なイスラーム保守勢力が結集し、すぐさま一大勢力となった。<ネーション―ステート>に反する、そのあからさまに暴力的で退行的な活動にSaeedの怒りは治まらなかった。

 この「Lahoreの友人」を書きはじめた頃、JhelumのShah Sahab、すなわちSyed Sajjad Hussain Majidiが2000年の9月9日に亡くなったのをネット上で知った。生まれは1929年になっている。そうであれば、私が会った当時はまだ五十才だったことになる。パキスタンの<エスペラント協会>会長という肩書きが記載されている。それならSaeedをネット上で見つけられないかと検索していると、すぐに彼の画像に遭遇した。いつの頃の写真か分からないが、白髪にもかかわらずすぐに彼だと分かった。青年期よりも穏やかな表情になっている。画像が掲載されたサイトに行くと、それは私的なニュース・サイトで、現在の彼はパンジャブ語を地方語として守ろうとする研究者で、欧米の大学や教育機関でパンジャブ語をパンジャブ地方の公用語とすべきであるという自説を説いて回っていると紹介されている。そのことを知って私は少なからず驚いた。思いもよらないことだったからだ。私はLahoreで彼がウルドゥー語を喋るのしか耳にしたことがない。地域性をなるべく表に出さないようにしているのだろうと考えていた。それから、彼がどうしてそんな変身を遂げたのかと自問するうちに、その理由を探ることが「Lahoreの友人」の主題となった。おそらく二十世紀末のソ連邦の崩壊やユーゴスラビアの解体が彼に<インターナショナル>の概念を手放させたのだろう。彼の考えを知りたいと思い、彼のブログを見つけて一覧したが、パンジャブ語で書かれているのでその内容が分からない。主に欧米に住むパンジャブ人に大学や教育機関を通じてパンジャブ語の公用語を提唱しているのであるから、それは政治的な意味での活動ではなく、おそらく言語文化を軸にした教育的な活動なのだろう。そうであれば、パンジャブ語の形成、そしてパンジャブ語を話す人々の成り立ちについていま一度調べてみなければならないと私は考えた。

 歴史的にパンジャブという地は不変だが、そこには古代アーリア人、エフタル等の諸騎馬民族、ペルシア系の諸民族、ギリシア人、さらにはトゥルク人やモンゴル人等様々な人種が主に中央アジアから続々と流れ込み、それにもかかわらず、いつしか一つの素性に特定出来ないような混沌とした<パンジャブ人>という地域民が形成されて来たようだ。それに対してパンジャブ語はベンガル語などと同様に、古代インドのPrakrit語(「洗練された」という意味のSanskritに対する「粗野な」という意味の言語)の一つであったパンジャブ地方の言語がかたちを整えてきたものである。近代に至るまで独自の文字をもつことがなかったから、主に話し言葉として形成されたようだ。様々な民族が流れ込んで来たにもかかわらず、そこでは言語は古来より一定したものが使われて来たのだろうか。それはどのようにしてなのか…。様々な情報を渉猟するにつれて、次第に私はSaeedの変身をめぐる現実を突き抜けて、いわば<パンジャブ>の起源的な局面へとのめり込んでいった。

<パンジャブ>がインダス河とその支流域を網羅する世界であるのに対して、ガンジス河とその支流域を網羅する<インド中原>の世界がある。<インド中原>は中央アジアからやって来た古代アーリア人がガンジス河の南側に広がる大森林に住む土着民と出会った場所であり、その交流の結果、古代アーリア人のバラモン階級を頂点とする現在まで根深く続く階層社会が構築された。そのバラモン制度が深く浸透する<インド中原>世界とは<パンジャブ>は一線を画している。<パンジャブ>にも古代アーリア人がやって来たが、<インド中原>のような厳格な階層社会は構築されなかった。そこには古代アーリア人よりも高度なハラッパ文明を築いた人々がおり、おそらくその交流は諸説に反して相互贈与的なものだったのではないかと考えられる。そうであれば、<インド中原>で生まれ、バラモン制度を強く批判した仏教が大乗を志向するのに伴い、パンジャブへと移動していくのは故なきことではない。<パンジャブ>とは、「お前は何に属するのか」が決定的なガンジス河流域の階層社会とはすでに古代において差異化されていた地域なのである。現代に至ってさえ社会のうちに格子状にセンサーが張りめぐらされたかのようなガンジス河流域世界に比して、<パンジャブ>とはむしろ様々な要素が潜在する混沌とした世界なのであり、現代においてもその深層には混沌としたものが潜み続けている、そんな世界なのではないか。「ほとんどのパキスタン人ムスリムは、スーフィズムとインド・イスラームの融合である、イスラームBarelvi派の神秘的でエクスタシー的な儀礼により心地よさを感じている」と言われる。そのことはパンジャブの民衆が諸要素の融合を好むことを示している。彼らは<パキスタン>という表層的な概念に歴史が伴っていないことを知っている。それゆえ、彼らの歴史意識は<パンジャブ>のうちにこそ息づいているはずなのだ。小説家のMantoは最後の最後になって「Toba Tek Singh」の中で訳の分からないパンジャブ語をつぶやいたが、自身のうちに潜在的に抱える<パンジャブ>の混沌を感知し、はたしてそれに触れようとしたのではないか。英帝国大都市のボンベイからLahoreに戻ったMantoは<パンジャブ分割>の悲惨を目の当たりにする。彼は次々と作品を書きながら、目の前に大きく開かれた傷口に国境なき<パンジャブ>の出現を見ようとした。このような悲惨を決して瘡蓋で塞いではならないと思いつつ書いたのだろう、その作品からは<パンジャブ>の血が流れ出している。

 11月29日、その朝Kisan Hallを出る段になってSaeedが駅まで見送ると言い出す。いっしょにリキシャでLahore駅まで行き、国境のWagha行ワゴン車がたむろするスタンドまで歩く。私は彼に一言別れを告げ、出発間際のワゴン車に乗り込んだ。Saeedは急に口が重くなり、何も言葉を発しない。笑顔を無理したように一つ浮かべただけで、足早に去って行った。Wagahまでは十五分の距離だ。Lahoreが国境に近いことを実感する。出入国管理所で出国手続きをし、税関の建物を抜けると目の前に広々とした道が一直線に通じており、インド側の出入国管理所があるAtariまで歩いて行く。この道は実に気持ちがいい。国境に沿って<パンジャブ>の大地があたかも手つかずのまま広がっているようだ。旅行者の身になったせいか、いつのまにか帰国の不安は紛らわされていた。Atariの出入国管理所を難なく通過し、両替屋でパキスタン紙幣170ルピーをインド紙幣119ルピーに換えた。国境を越えると、ターヒルはもういなくなった。


 Lahoreから一ヶ月かけて私は日本へ戻って来た。それ以来、日本にいても私の少年はLahoreを歩いている。その少年が少年であり続けるのは、私の神経の<闇>を食べているからである。現在という日常を紛らわせるために目下のことに神経を使っていても、靄の濃度が増すようにして潜在的に関心の向く事物を抱握する、そんな別の神経の働きもあるようだ。「非常に急速な吸気性」が駆動するようにして記憶の遠景が一気に焦点を結ぶときがある。寮の食堂で初めてマトン・カリーを食べたときの経験を話していると、唐辛子で真っ赤に染まるカリーの油汁をぱりぱりのチャパティーにつけて食べる動作とその神経の一切が忽然と立ち現れ、一瞬私はLahoreの人となり、その余韻がからだからこぼれ出るようだった。

Saturday, July 04, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore

  LahoreManto

 Mantoが「三つの球」を新聞連載に発表した際にも批判があった。批判は主に「アーファーク紙」の編集局に手紙を送るというかたちでなされたようだ。地方の上層階級にはヴィクトリア朝時代を髣髴とさせる保守的な考えをもった人たちがいて、映画表現に批判的であり、そればかりでなく文学についても自分たちが所属する社会への悪影響を懸念していた。「三つの球」については、新聞紙上で死者に鞭打つようなことはするな、といった内容の批判があった。
 連載中に様々な批判の手紙を受けて、Mantoは「あからさまな天使たち」の最終章で書き記している。
「私の楽屋には髪を梳かす櫛がない。シャンプーもない。髪をカールさせる器具もない。私は自分の作品を飾ることを知らないのだ。…ミーラ氏が道に迷ったことについて、それにアイロンをかけて滑らかにすることなど私にはできない。それに、私の友人シャムに、自ら間違った道に入った女性を彼が〈家庭人〉と呼ばなかったなどと無理強いすることなどできない。この本には天使も登場する。そして彼らは美しく飾られている。このやり方を私はことさら念を入れて行なった」。
 すべての表現形式においてそうであるが、他者を描くことは知らず知らずのうちに自分を描き出すことでもある。それゆえにその種の表現作業においては主客が区別できなくなる場合もある。その内容を皺をのばすようにして滑らかにすることは往々にして自分の思考の襞まで消してしまうことになる。Mantoは他者に繋がりをもつことで多層化する自らの認識活動をもあからさまにしようと意図して他者を描いたのだ。表現において〈虚飾〉がないこと、そこに多層化状態にある自己が立ち現われること、それが現代の表現であることを示そうとしたのである。
 想起という活動は過去に関わること(記憶を発動させる)でありながら、同時にそれは現在における認識活動を示そうとする。あくまでもそこに立ち上がる認識活動が想起の中心であり、現在におけるそれであることを示すことでその〈中心〉位置を守るのである。いっぽう、過去(記憶)を対象化すればするほど、想起の活動自体は〈中心〉であることを忘れて知らず知らずのうちに周辺へと追いやられていく。想起の活動は目の前にかたちになるところにではなく、認識活動それ自体において、認識活動と共に分岐するところに立ち現われている。そこに人間の認識能力がありありと働いているからである。
 いっぽう、想起する現在とそれが関わる過去との距離、そのズレ、その差異のうちに立ち現われるものがある。現在の作業でありながらその性格上つねに過去に関わる意識が働いていて、逆に言えば、過去となるものでありながら現在に現われて来るものがあり、あたかもそれが過去のものであるようにして現在において二重化されて働くものがある。さらには、そこに他者の意識が介入してくると、他者に関わる過去が現在へと呼び込まれる際にそれぞれの時間意識によって多層化されるようにして作動するものがある。基本的に想起とはそうした様々な差異の働きに関わっていく認識活動なのだ。
「三つの球」の冒頭で私は「デリーのニコルソン通り」を突如として想い出す。ニューデリー駅前からタンガー(馬車)に乗り込んだ。それから、オールドデリーの城市の北側を東西に走る大通りを通ったのだった。その通りは当時まだ「ニコルソン通り」で通じていたはずだ。大通り沿いには英帝国時代に建てられた石造りのマンションが建ち並んでいる。私は通りの東端にあるデリー城市のカシミール門まで行くところだった。すると、かたかたとタンガーが走る軽快な音が感じられ、御者の若者が鞭を揮って車両を牽制する罵声と共にその野卑な表情と身振りが目に浮かんで来る。それと共に一定の調子で揺れる座席の振動がからだに伝わって来た。肌には植民地時代の空気がさっと撫でるような感触がある。いったいそれはいつの時代のものなのか。そんなふうに私の少年がタンガーの座席に揺られてうとうとしていると、その足下からいきなりニューデリーの街がざわっと浮かび上がって来る。デリーに私は一年余り暮らしたのだった。そう考えた途端、次にはいっきにデリーの大地が目の前に広がって来る。圧倒的なデリーの大地をジャムナ河の褐色の流れが蛇行して行く。河に沿うようにして酷暑の中にひっそりと佇む諸デリー王朝の城塞廃墟群…。人語も絶えるほどの暑さが崩壊しつつある建築物を制している。往時のデリーについていえば、Mantoは十九世紀ムガール王朝時代のウルドゥー語詩人Mirza Ghalib(17971869)を好んでいた。GhalibについてMantoは次のような評価をしている。「Ghalibの後、詩を創作する権利は没収されたままになっている」と。ムガール王朝もその衰退期に生きたGhalibGhazal(恋愛詩)はきわめて思索的な表現に味わいがあるが、その内容は人生の愁いに満ちている。Mantoによるかくまでの評価は何故かと思う。宮廷詩人でありながら信仰に薄く、飲酒や賭け事に耽り、Tawaif(高級娼婦)の邸に通うのを好むような人物に自身の姿を重ね合わせていたのか。…かたかたとタンガーの軽快な音がふたたびからだに響いて来る。その心地よさのうちに、私が知り得なかったオールドデリーの遥か昔の良き時代を想う。
 Lahoreはボンベイという大都会に比べれば一地方都市だ。そのLahoreMantoがボンベイを想うというのは、そこにかなりの落差を実感することだったにちがいない。とはいえ、この落差が想起の源となっているはずなのだ。十年と変化のないところには過去を想起する必要さえ生まれないだろう。Mantoはおそらくボンベイを想起しながら、同時にLahoreという現実に身を包まれていったのかもしれない。そして次第にLahoreを成り立たせている世界に没頭せざるを得なくなっていったのだ。そのとき、LahoreMantoは過去を想起しながら何を考えていたのか。想起の方法には限界があると考えただろうか。そうだとしても、想起に関わる文学、その表現は、それを介して彼をどこかへと連れ出して行こうとしたのではないか。具体的なものから抽象され切り離された想起の運動とその内容はそのようなものとして認識される。とはいえ、完全に具体的なものから切り離され、その重荷から解き放たれた認識能力の働きによらなければとうてい認識され得ないものもあるだろう。
 LahoreMantoは想起に関わりながらどこに向かって行ったのか。最晩年の彼の代表作と言われ、Lahoreで書かれたのでパキスタンではことに評価が高い、「Toba Tek Singh(トバ・テク・シン)/1955」をウルドゥー語から訳出してみた。

 印パ分割から二・三年の後、パキスタンとインドの両政府はふと考えた。一般の囚人を交換したように精神病者の交換もなされなければならないと。すなわち、ムスリムの精神病患者でインドの精神病院にいる者たちをパキスタンに送り、ヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者でパキスタンの精神病院にいる者たちはインドに引き渡そうと。
 この考えが道理にかなっているかどうか分からない。いずれにせよ学識者たちが決めたことに関してあっちとこっちで最高レベルの会議が開かれた。そしてある日、上の方の愚か者たちが精神病患者を交換することに合意した。十分に詳細にわたって調査が行われた。その縁者がインドにいるムスリムの精神病患者がいたが、インドの精神病院にいることが許された。そうでない者は国境に向けて移送され始めた。ここパキスタンではほとんどのヒンドゥー教徒とシーク教徒が立ち去っていた。それゆえ、この者はパキスタンに留めるとか留まらせないといった問題は生まれなかった。パキスタンにいるヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者のすべてが警察の護衛する車両に乗って移送されたのである。
 他の場所のことは分からないが、ここラホールの精神病院では交換の知らせが届くと、とても興味深い些細な議論や騒ぎが起こった。一人のムスリム精神病患者で十二年間毎日決まりごとのように日刊紙「ザミンダール」を読む者がいたが、彼に仲間の一人が尋ねた。「学者さんよ、このパキスタンって何のことだ」と。すると、よくよく考えをめぐらした後に彼は答えた。「インドにそんな場所があるのだ。そこではカミソリをつくっている」と。それを聞いて仲間の一人は満足した。
 同じように、一人のシーク教徒の精神病患者が別のシーク教徒の精神病患者に尋ねた。「親方さんよ、俺たちはなぜインドに送られるんだ。俺はあそこの言葉は喋れないのに」と。別のシーク教徒患者はにやりと口元を緩ませた。「私はインド族の言葉を知っている。奴らは悪魔みたいに威張りちらしながら歩き廻っているよ」。
 ある日、からだを洗っていた一人のムスリム精神病患者が「パキスタン万歳」と叫び、そのために激しく興奮してしまった。そして床に滑って転んで気を失った。
 患者の中には精神病でない者も幾人かいた。そのうちの多くが殺人者で、親族が役人に賄賂を渡して絞首刑の首輪から逃れるために精神病院に容れさせたのである。こうした連中はインドがどうして分割されたのか理解していたし、パキスタンが何かも分かっていた。とはいえ、はっきりとしたことについては彼らもまったく知らなかった。新聞からは何の情報も得られなかった。警護兵は無知蒙昧だったので、その会話からいったい何があったのか明らかにすることはできなかった。彼らが分かったのはただムハマッド・アリ・ジンナという一人の人物がいて、彼がカイデ・アザムと呼ばれているということだけだった。彼はムスリムのために独立した一つの国をつくった。その名がパキスタンだった。それはどこにあるのか、それが出来た場所とは何のことか、それに関して彼らはまったく知り得なかった。それだからこそ、精神病院内にいる頭がおかしくはないすべての精神病患者はディレンマにとらわれた。はたして自分はパキスタンにいるのかインドにいるのか。もしインドにいるのならパキスタンはどこにあるのか。もしパキスタンにいるのならそんなことがあり得るだろうか。というのも、自分がちょっと前までここにいたときでさえここはインドだったのだから。
 一人の精神病患者が、パキスタンとインド、インドとパキスタン、そんなぐるぐる渦巻くような考えにとらわれてさらに病状を悪化させてしまった。ある日、帚で掃除をしながら樹の上に登ってしまった。そしてその大枝に座り、二時間もの間ずっとパキスタンとインドの微妙な問題について熱弁を振るった。警護兵たちが下に降りるよう彼に命じると彼はさらに上の方へと登って行った。怒鳴られ、脅かされると、彼は、「自分はインドにもパキスタンにも住みたくない。自分はこの樹の上で住むつもりだ」と言い放った。ひじょうにてこずった後、興奮が一巡して落ちつくと彼はようよう下に降りて来た。そしてヒンドゥー教徒とシーク教徒の仲間たちと抱き合い、すぐに泣き出した。彼の心はここを離れてインドに行こうという考えでいっぱいになった。
 科学修士に合格してラジオ・エンジニアになった一人のムスリムがいた。彼は他の患者たちとはまったく離れて庭を丹念に散策して一日中静かに過していたが、移送が明らかになると彼は着ていた服を全部脱いで従順な姿勢を示し、それから素っ裸で庭中を歩き廻りはじめた。
 チニオット出身の一人の太ったムスリム精神病患者で、ムスリム・リーグの熱狂的な代表をしていた人物がいた。一日に十五・六回もからだを洗っていたのがいきなりその習慣をやめてしまった。彼の名前はムハマッド・アリと言った。すなわち、ある日のこと彼は自室の格子窓から自分はカイデ・アザムであるムハマッド・アリ・ジンナであると宣言した。その光景を目にして、一人のシーク教徒の精神病患者がパンジャブ州議会議員だったターラ・シンを名乗った。この格子窓の内部で流血事件が起こりそうなのは確実だったが、二人は狂暴な精神病患者として再分類され、別々の病棟に拘束された。
 ラホール出身の若者でヒンドゥー教徒の弁護士がいた。彼は恋愛に夢中になって仕事もせず、精神病者となった。彼はアムリトサルがインドになったと聞くととても苦しんだ。アムリトサルにいるヒンドゥー教徒の若い女性に恋をしたからである。おそらく女性の方はこの弁護士を相手にしなかったのだが、彼は恋に狂ったような状態になり、女性のことを忘れることができなかった。それで彼はヒンドゥー教徒であろうとムスリムであろうとあらゆる指導者に罵声を浴びせることになった。彼らがいっしょになってインドを二つに割ろうとしていたからである。彼が恋する女性はインド人となり、彼はパキスタン人となった。移送の話が始まると幾人かの精神病患者が若い弁護士を慰めた。落胆するな、インドに送られることになるぞと。インド側に彼の恋する女性は住んでいるのだが、彼はラホールを離れたくなかった。アムリトサルでは彼の業務は成功しないと考えたからだった。
 ヨーロッパ病棟には二人の英国系インド人の精神病患者がいた。インドが独立して英国人が立ち去ったことを知って彼らはたいへんな衝撃を受けた。彼らは声を潜めて何時間も二人でこの重要な問題について話し合った。いまやこの精神病院では自分たちの地位はどのようなものになっているのか。ヨーロッパ病棟は存続するのか、それともなくなってしまうのか。朝食はもらえるのだろうか。食パンの代わりにあの忌まわしいインドのチャパティーを無理にでも食べなくちゃいけないというのかと。
 一人のシーク教徒がいた。この精神病院に入って十五年が経っていた。彼が発する言葉からはつねにこんな奇妙で異様な文句が聞こえてきた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・ラールテン」。昼間に眠り、夜は眠らなかった。警護兵が言うには、十五年もの長いあいだ彼は一瞬も眠ることがなかった。横になることもなかったが、確かときおりどこかの壁に身をもたせかけていたことはあった。つねに立ち続けているので彼の脚は膨れ上がっていた。脹脛も腫れていたが、こうした身体上の難儀にもかかわらず彼が横になって休むことはついぞなかった。インドとパキスタンの成立や精神病患者の移送について病院内で何かしら話題になると、彼はそれについて注意深く耳を傾けていた。誰かが彼にどう考えているのかと尋ねると、彼はとても真面目な調子で答えた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・パーキスタン・ゴルヌマント」と。
 ところが後になると、「アフディ・パーキスタン・ゴルヌマント」と言うところが「アフディ・トバ・テク・シン・ゴルヌマント」となった。そして彼は別の精神病患者に、「トバ・テク・シンはどこにあるのか」と質問し出した。彼はそこの出身だったのである。しかし、トバ・テク・シンがパキスタンにあるのかインドにあるのか誰も分からなかった。それを言おうとする者はおのずと次のような混乱に陥るのだった。シアルコットは以前にはインドにあったがいまはパキスタンにあるそうだ。ラホールはいまパキスタンにあるが明日インドに行ってしまうかもしれないというのを誰が知るだろうか。あるいはインドがみなパキスタンになるかもしれないし、またいつかインドとパキスタンの両方がこの世からなくなってしまうかもしれないということだって、誰かが胸に手を当て誓って言うことができるだろうと。
 このシーク教徒の精神病患者の頭髪はみすぼらしく、とても薄くなっていた。からだを洗う回数がたいへん少ないので、そのために頭髪と顎髭が互いに絡み合って一緒くたになっていた。それが原因で彼の顔はとても恐ろしいふうに見えたが、その性格は無害だった。十五年間、彼は誰とも言い争いをしたことがなかった。病院に古くから勤めている者がいたが、トバ・テク・シンにこのシーク教徒患者のかなりの土地があることまで彼のことを知っていた。良く食べ良く飲む裕福な土地所有者だったが、突然脳に混乱をきたした。彼の親族が鉄製のとても太い縄で彼を縛って連れて来て、精神病院に容れさせた。月に一度は親族が彼を訪ねてやって来て、彼が無事であることを確認して帰って行った。ずっとそんなふうであったのが、パキスタンとインドの問題が持ち上がると親族がやって来ることはなくなった。
 このシーク教徒患者の名前はビシャン・シンと言ったが、みな彼をトバ・テク・シンと呼ぶようになった。今日が何日かどの月か彼はまったく分からなかった。病院に入って何年経ったのかも知らなかった。けれども、かつては毎月彼の親族が会いにやって来るときになると彼はそのことをあらかじめ自分で知っていた。すなわち、周囲の信頼できる者に自分に訪問があると言っていたのである。その日は丹念にからだを洗い、いい香りのする石鹸でからだをこするようにして洗った。また髪に油をつけて櫛で梳かした。ふだんは着用しない服を出させて着た。そんなふうに身だしなみを整えて面会者のところへ行った。面会者が彼に何か聞いても彼は黙っていた。あるいは、ときに不機嫌になって、「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・ラールテン」と言い出すこともあった。
 彼には一人の娘がいた。毎月一度の面会で指折り数えて十五年経ち、うら若き女性になった。ビシャン・シンは彼女が誰であるかさえ分からなかった。自分の父親を見ると泣いていたのは彼女がまだ子供のときだったが、大きくなってからも彼女はその眼に涙を浮かべていた。
 パキスタンとインドの分割話が始まると、彼は別の精神病患者たちにトバ・テク・シンはどこかと尋ねはじめた。満足を与える返事が得られないと詰問の範囲が日毎に広がっていった。いまや訪問に来る人もいなくなった。以前は自分に面会しに訪問者が来ることをあらかじめ自分で分かっていたが、いまは面会者が来る知らせを彼にもたらさないほど彼の心の声は閉ざされてしまった。面会者が来て彼らと気持ちをおおっぴらに交わし合うのを彼は待ち望んでいた。面会者は彼に果物や甘菓子、それに新しい服を持って来た。彼が面会者にトバ・テク・シンはどこにあるか尋ねると、彼らは確信をもって彼にトバ・テク・シンはパキスタンにある、あるいはインドにあると言った。というのも彼らは、自身の土地があるトバ・テク・シンからやって来ていると彼が考えていたのを知っていたからである。
 精神病院に自分は神であると言っている一人の患者がいた。ある日のことビシャン・シンは彼にトバ・テク・シンはパキスタンにあるのかそれともインドにあるのか尋ねた。すると彼はいつものごとく大笑いして言った。「それはパキスタンでもインドでもない。というのも、私がまだ命令を出していないからだ」と。ビシャン・シンはその神である患者にとても謙るようにして何度も頼み込んだ。論争が終わるように早く命令を出してくださいと。しかし、神である患者はたいへん忙しかったので、別の多くの命令を出さねばならなかった。ある日のこと、ビシャン・シンは我慢できなくなって神である患者に浴びせかけた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・ダーヘイ、グルジーダー・カルサ、エンド、ダーヘイ、グルジーキー・ファタ…、ジョウ・ボーレー、ソウ・ニハール、サット・スリー・アカール」。最後の部分はおそらく次のような意味だった。「お前はムスリムの神だろう。…シーク教徒の神であればきっとわしの言葉を聞いている」。
 移送の数日前、トバ・テク・シンからビシャン・シンの友人で一人のムスリムが面会にやって来た。それまで来たことがない人物だった。ビシャン・シンは彼を見ると向きを変えて戻ろうとした。しかし、警護兵が彼を呼び止めた。「この人はお前に会いに来たんだぞ。お前の友人ファザル・ディーンだ」。ビシャン・シンはファザル・ディーンの方をちらっと見た。そしてぶつぶつと何かしらつぶやきはじめた。ファザル・ディーンは前に進み出てビシャン・シンの肩に手を置いて話しかけた。「私はひじょうに長いことあんたに会いに来たいと考えていたんだよ。でも、暇がなかったんだ…。あんたの家の者はみんな無事にインドへ行ったよ。私が援助できることはすべてした。あんたの娘ループ・カウルは…」、ファザル・ディーンは話すにつれて言葉に詰まってきた。ビシャン・シンは少し想い出してきた。「あんたの娘のループ・カウルは…」、ファザル・ディーンは言葉に詰まりながらも話し続けた。「そうさ、あの娘…、あの娘も無事だ。家の者といっしょに行ってしまったよ」。ビシャン・シンは黙っていた。ファザル・ディーンはそれでも話し続けた。「彼らが私に言うには、あんたの具合を見てきたらどうかと。私は聞いたんだが、あんたはインドへ行くんだね…。兄弟のバルビール・シンとワダーダ・シンに私からよろしく言っておくれ。それに姉妹のアムリト・カウルにもな…。バルビール・シンには、ファザル・ディーンは幸せにやっている、そう言っておくれ。二匹の茶色の水牛を置いていったが、そのうちの一匹は子を産んだ。もう一匹も子を産んだが六日目に死んでしまった…。それから…、…私が世話したその見返りについては…、あんたから言ってもらわなくては、いつでも待っているから…。それから、これはあんたのために少しスモモを持って来たよ」。
 ビシャン・シンはスモモの包みを受取り、傍に立っていた警護兵に預けた。そしてファザル・ディーンに尋ねた。「トバ・テク・シンはどこにあるか」と。ファザル・ディーンはひじょうに驚いて言った。「どこにあるかだって。あそこだよ、前にもあったとこだよ」。ビシャン・シンはふたたび尋ねた。「パキスタンにあるのか、インドにあるのか」と。「インドにあるかって。…違う違う、パキスタンだよ」。ファザル・ディーンは困惑しながら彼に言い聞かせた。するとビシャン・シンはぶつぶつ言いながらそこを立ち去ってしまった。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・ディ・パーキスタン、エンド、ヒンドゥスターン・アフ・ディ・ドゥル・ファテ・ムン」。
 とうとう移送の手はずが整えられた。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ移される精神病患者の名簿が届けられた。移送の日も決定された。寒さの厳しい日だった。ラホールの精神病院からヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者を満載した数台の大型トラックが警護の警察と共に出発した。管轄の役人たちも随行した。ワガの国境で印パ両国の上級役人がお互いに顔を合わせ、最初の作業を終えた後に移送が始まった。移送は夜になっても行なわれた。
 精神病患者たちを大型トラックから降ろし、彼らを別の国の役人に引き渡すのはひじょうにやっかいな作業だった。何人かの患者はトラックから外に出るのも嫌がった。トラックから喜んで降りる者もいたが、彼らをじっとさせるのは難しかった。というのも、あちこちへとばらばらに行動するからだった。何人か裸の者がいたが、彼らに服を着させようとすると着せられた服をびりびりに破ってからだから取り除こうとする。ある者は罵り、ある者は歌っている。患者の間で口論し、お互いに争う者もいる。泣く者もいるし、叫ぶ者もいる。耳が役に立たなくなってみな他人の声を聞きもしなかった。女性の精神病患者がたてる叫び声や騒々しい声はまた別物だった。寒さが厳しいので歯と歯を軋らせて音をたてているほどだった。
 精神病患者のほとんどがこの移送に関してその権利をいっさい示すことができなかった。それゆえ、彼らは自分の場所から引き抜かれてどこかへ捨てられるとしか理解できなかった。彼らのうち幾人かは少し考えて理解できる者がいたが、そのうちのある者は「パキスタン万歳」とか「パキスタンに死を」と大声で喚きはじめた。しかし、二、三回反抗の意を示してやめた。というのも、幾人かのムスリムやシーク教徒がこの喚き声を聞いて怒り出したからである。
 ビシャン・シンの番が回ってきて、引き渡し業務に関わるワガの係官が彼の名前を名簿に登録し始めると、ビシャン・シンは尋ねた。「トバ・テク・シンはどこか。パキスタンにあるのかインドにあるのか」と。係官は笑って言った。「パキスタンにあるよ」と。それを聞いてビシャン・シンは身を躍らせてそこから離れ、残りの疲れ切った自分の同行者のところに走って行った。パキスタンの警護兵が彼を捕まえ、別の側へ連れて行こうとしたがビシャン・シンは行くのを拒んだ。「トバ・テク・シンはこっち側にある」と言ったが、力づくで連行された。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・トバ・テク・シン、エンド、パーキスタン」。
 ビシャン・シンは繰り返し説明を与えられた。見ろ、トバ・テク・シンはいまインドに行ってしまったんだぞと。もし行ってないというのなら、ただちにお前をそこに送ってやるからと。しかし、彼は従わなかった。ビシャン・シンを強制的に別の側へ連行しようと努めたが、彼はあっちとこっちの間にある一つの場所に、そここそ自分の場所だというつもりで、自分の膨らんだ脚でもって立ち尽くした。その様子はもうそこからどんな力も彼を動かすことができないというふうだった。無害な人間だった。それゆえ彼を力ずくでそこから連れ去ろうとは誰もしなかった。そこに立たせておくに任せ、移送の残りの仕事が続けられた。
 陽が昇る前のしんとした静寂なとき、ビシャン・シンの喉から天が裂けるような叫びが発せられた。あちこちから幾人もの役人が走ってやって来て彼を見た。十五年ものあいだ昼も夜も自分の脚で立っていた男が顔をうつ伏せにして横になっていた。そこにある有刺鉄線の向こう側はインドだった。こちらの有刺鉄線の向こう側はパキスタンだった。その間にある一片の大地には名前はなかった。そこにトバ・テク・シンが横たわっていた。

 この国境を歩いて渡ったのを私は想い出す。今ありありと想い出す。その想起がこの短編の最後の場面と重なると思わず目頭が熱くなる。三度この国境を越えた。三度とも明るい昼間だった。長閑でとてもいい気分になった。二つの国家の間に設けられた幅五百メートルぐらいある緩衝地帯を歩くのだが、一つの国を出て別の国に入るまでの無支配の場所にいるという独特の自由な気分を味わった。その「一片の大地には名前はなかった」が、そこは決して〈Nowhere〉ではない。そここそ本来の大地であるいう感覚に私は満たされたのだった。国の支配を解かれた大地を踏み締めるようにして歩く脚が浮き立っている。見渡せば周囲にはただ野原が広がるばかりだ。何故か手ぶらで、素足で歩いた、という感覚がつきまとってくる。そこを過ぎればふたたび国家が支配する時空を行く者となるのだ。当時のパキスタンはZia-ul Haqの軍事政権による厳格なイスラーム体制下にあり、いっぽうのインドは国民会議派による世俗主義を守る体制下にあった。それゆえ、パキスタン側から国境を歩いてインド側に入ると自ずと開放的な気分に満たされたのを想い出す。
 遊牧民や狩猟民のような流動の民でないかぎり国家の支配から逃れるのは難しい。いや、現代においては国家から逃れていることはかえってその生活環境が国家に抑圧される可能性を意味している。ここ四十年間で世界の状況は大きく変わり、流動の民が難民状態になってゆかざるを得ないのがいい例だ。それゆえ、人は国家から逃れるのではなく、自国をめぐる差異の働きのうちに見出されるような、自国が形成される以前の流動状態のうちに〈自由〉の価値を見出すようになった。そうやって、想起することで国家の枠外の領域へと逃れて行こうとする認識活動は、印パ分割以前のパンジャブ世界へとずれて行くのだ。そのように正当にずれて行くのだ。
「トバ・テク・シン」にはMantoの精神病院体験が色濃く反映されている。その即物的な世界の体験に応じてその表現にはいっさいの装飾がなく、簡潔さに徹しているようだ。「トバ・テク・シン」を書いて、Mantoは一見して国家の支配の及ばない場所を夢見たかに見えるが、そうではないと思う。LahoreMantoは自身の故郷であるパンジャブという世界に深く関わろうとしたのではないだろうか。印パ両国に分割される前のパンジャブ州があったのだ。それは実際に広がっていたし、その時空の広がりを彼はよく知っていた。まだ存在しなかった国境線の東と西にそれは現実に広がっていたのである。国境線というものは後から引かれたのだ。そのことを私たちは忘れてはならない。国境線とはあくまでも近代的なものなのだ。1947年、パンジャブ分割という事態に直面した人々は大いに困惑した。LahoreAmritsarは相互に日帰りで往来できる圏内にあったが、一夜にしてそうでなくなった。不条理にもその間に線が引かれ、別々の国が支配する場所となったからである。そうした、過去から見れば現在において矛盾する事柄が、「トバ・テク・シン」には強く主張されている。過去から見ればというのは、本来のパンジャブ世界から見ればということだ。ビシャン・シンが発し続ける意味不明の言葉はパンジャブ語の変形で出来ている。意味は不明だが、その内容ははっきりと聞き取ることができる。それは本来のパンジャブ世界が訴えようとするものを代弁しているのだ。

 パンジャブ世界の喪失という事態のうちに、パンジャブ世界が国家の重荷から解き放たれるようにしてMantoのうちにありありと浮かび上がって来た。その内容はいかなる形象に留まることのない、あくまでも抽象的な運動と言える。そうであればもう涙は流れない。

Thursday, June 11, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore


Lahoreの友人

 三  LahoreManto

 ニュー・デリーの書店で買ったヒンドゥー語のペーパーバック本がMantoの著作であると知ったのはだいぶ後になってからだった。「Meena Bazar」というタイトルで、目次を見るといくつかの章に分かれていた。そのときは内容がどんなものか想像さえしなかった。長い間読まずに放っておいた。Mantoのエッセイ集であることを知り、最近になってヒンドゥー語も少し読めるようになったのでざっと目を通した。面白かった。調べてみると、それは「Ganjey Farishtey(あからさまな天使たち)」のヒンドゥー語訳で、初版は1962年に出ている。ペーパーバック本になったのは1984年で、本の最終頁に記された購入日付は1985211日となっている。
 タイトルの「Meena Bazar」を直訳すれば「青空市」となるが、「ミーナ・バザール」といえばその発祥はムガール帝国時代に遡り、ハレムの女性やRajput族の女性、宮廷貴族の娘等が自ら市を開いて店棚を構え、衣服や宝石、手工芸品などを売ったのが始まりとされる。皇帝に皇太子たち、そして宮廷貴族のみが物品を買うために市場への入場が許された。一般人には閉じられていた。物品は高値で売られ、その利益は慈善活動に使われたという。したがって、「ミーナ・バザール」には「女性の市」という意味合いが含まれ、それは本の内容と無縁であり、妙な性差を示唆するという意味でMantoが不満を訴えそうなタイトルではある。ムガール帝国時代には上流階級の女性は「pardha(女性を外部から遮断する帳)」の向こう側に住み、ふだんは男性との交流を断って暮らしていた。こうしたことから、おそらく「秘密の裏側」のヒンドゥー語である「Pardeh ke Picche」として1953年に出版されたのが、後にタイトルが「Meena Bazar」に差し替えられたのだと考えられる。
「ミーナ・バザール」の内容は主にボンベイ映画界の様々な人物を活写したものだが、ウルドゥー語版の「あからさまな天使たち」と比べると、その章の数が少なく、内容構成もかなり異なっているのが分かる。おそらく、「秘密の裏側」が「あからさまな天使たち」が本になる前にインドで出版されたために、当然「ミーナ・バザール」にはMantoのエッセイ全体が網羅されていないのである。つまり、それは連載途中にある文章をまとめたものなのだ。そして、あからさまな天使たち」の方も、編集者による構成上の判断からか、すべての文章を網羅していないが、「ミーナ・バザール」にはない、最終章の「あからさまな天使たち」を読むと、「冷たい肉」裁判後のLahoreで途方に暮れていたMantoが、自分が親しくしたボンベイ映画界の多彩な人物群について文章を書こうと思い至った経緯が分かる。
 最初に、「妖精顔のナシーム・バノ」という記事がLahoreの日刊紙「アーファーク(地平線)」の文芸欄に掲載された。ナシーム・バノは「Beauty Queenとも「インド映画における最初のスーパー女優」とも呼ばれたボンベイ映画界の人気女優で、彼女が出演する映画作品の広告では「妖精顔のナシーム」という異名が取って代わられていた。
 この最初の記事は一部の読者から批判された。すなわち、実在する人物を描写するには定型的な作法に則って為されなければならないということと、憧れの銀幕界を一個人の印象をもってしてその私生活まで公に曝すのはもってのほか、ということのようだ。つまり、インド映画はすでに一つの特権的な地位を占めていたのであり、俳優もそれに準じていた。Mantoは俳優であろうと誰であろうと、ただ人間を描きたかったのだ。Ganjey Farishtey」の「Ganjey」の語は「剥き出しの…」という意味であり、つまりMantoは人物から余分な粉飾を取り除き、その内面をあからさまにするような表現を意図したのである。
 その文章を、Mantoボンベイの映画界で仕事をしていた当時の記憶に基づいて書いた。おそらく、親しくした人の姿や身振り、交わした会話を想起しながら、それと共に時間を経たことで、人物の内面が新たな様相を伴って生き生きと想起されてきたのにちがいない。LahoreMantoは、過去の数年間にわたって自ら心身を費やし、いまや別の国となったボンベイをめぐって、そんな想起の仕方とその表現に取り組んでいたのではないかと思う。
「あからさまな天使たち」の文章のうち、「ミーナ・バザール」にも収録されている「三つの球(Tin Gole)」という文章を、一部訳しながらその内容について検討してみたい。映画界とは関係のない知人を描いたものだが、分析的な内容を伴いつつ、そこにはある人物の奇妙な内面が描かれている。

ハサン・ビルディングのアパートの一号室の部屋で、私の前にある机の上に三つの球が置かれていた。私は注意深くそれらの球の方を見つめながらミーラ氏が語るのを聞いていた。この人物に私は初めてここで会った。1940年頃だった。私はボンベイを離れてデリーにやって来たばかりだったが、そのときからそれほど時が経っていなかったように思う。彼がアパートに住む友人であったのか、それとも何らかの用件でここにやって来たのか私には覚えがない。けれども、私がデリーのニコルソン通りにあるサーダット・ハサン・ビルディングに住んでいることを彼がラジオ局で知ったと言うのを私は覚えている」。
 ミーラ氏は詩人で、文学雑誌を編集していた。Mantoに短編を依頼したのがきっかけで手紙のやりとりが始まったが、その手紙に惹かれてMantoはミーラ氏に関心を抱くようになったと言う。「三つの球」は、このミーラ氏をめぐる文章である。
ミーラ氏が書いたものはとても率直で明解だった。その分厚い手紙の、ペン先から現れ出てとても正確に印された文字の連なり、そして三角形のように単純に構成されてすべてが繋がり合った表現、私はその文章に強い印象を受けた」。
 Mantoはその筆跡からある名高い人物との同類性を見出し、そのことによって彼の内部に何かしら露になりつつあるものが感じられたと言う。しかし、その内面的な動きについて考えをめぐらしても、「何か塞ぐもの、あるいは染みのようなものが遮り」、それが何かを彼は理解できないでいる。それゆえ、そのことに関してどこか「避難できるような場所」を、「その土台となるものを打ち立てるつもりでいる」、と意を決している。
 Mantoの作品についてミーラ氏は、「作品内容の曖昧さと複雑さのゆえに、それはつねに作者の理解から離れてより高まっている」、と指摘した。的確な指摘だと思う。その「複雑さ」については分からないが、確かにMantoの作品には曖昧さがある。というか、読後に曖昧さの中に放り出されるという印象がある。曖昧さの中にこそ正確さがあるという現代的な観点もあるが、そこまでMantoが方法において意識的であったかは分からない。むしろMantoはそうした指摘を受けてさらに踏み込んで、「彼は詩において韻を踏まないところに隠された言葉が発せられているという考えをもっているようだった。そのことに気づいて、彼の詩論が私にとってますます渦巻くようなものとして感じられた」と言う。いわゆる形式よりも内容をあからさまに示そうとする視点から、内部に隠れるようにして配列されているものが自ずと表現される仕方が二十世紀初頭から現代文学において取り上げられており、ミーラ氏はMantoにとってそうした視点と方法を共有できる貴重な人物だったのである。それゆえ彼の内部で渦巻くものとは、そうした「隠された言葉」を露にするような現代的な表現を実現する方法に関わるものであったと考えられる。
 ヌーン・ミーム・ラシッドという詩人がいて、彼は押韻を無視した詩作をする師に付いて詩を書いていた。「ヌーン」・「ミーム」はアラビア語のアルファベット名であり、「ヌーン・ミーム」が詩人のペンネームであることが分かる。Mantoは彼にデリーで遭う機会があった。「彼の話はよく理解できたし、彼を一目見ただけで自分との同類性を理解できた。一度私がデリーのラジオ局に入る際に、そこに停めてあった泥除けのない自転車を見て傍から冗談を言ったことがある。『何だ、これは。これは君か、そして君の詩か』と。しかし、ミーラ氏に会って以来、私の機知には余分なところがあり、彼が示唆する言葉の隠れた配列の仕方以外に他のモデルを求めないようになった」。
 ここまでMantoは、かつてミーラ氏の手紙やその発言を契機にして自身のうちに何かしら潜在的なものが渦巻くのを抑えることができず、それについて考えめぐらしたと言うが、そのことはすなわち、現在におけるMantoが過去を想起するのに伴って何かしら渦巻くものが立ち上がって来るのであり、その渦巻くものにしたがって記憶を辿る、というか記憶を遡っていく作業が始められたと考えられる。実際にそうでなければならないから、それはMantoにとって極めて現在的な作業であった。つまり、内面で渦巻くものについて考えめぐらしても何か遮るものがあって理解できないでいるというのは、過去の時点においてもそうであったが、そのことは過去を想起する現在においてより明確に彼が関わろうとする表現上の〈問題〉となっているのである。
 そしてふたたび冒頭と同じ文章が、「私の前にある机の上に三つの球が置かれていた…」と記される。このエッセイのなかでMantoはこの表現を三度繰り返している。つまり、彼は繰り返し過去の同じ時空に遡ろうとしているのだ。この文章はだから、彼にとって記憶を遡る際に指標となる呪文のようなものだったのにちがいない。その〈三〉という数に意味がある。
「…三つの鉄の球が紙巻煙草の銀紙に包まれている。そのうちの二つは大きく、一つは小さい。私はミーラ氏の方を見た。彼の二つの瞳は輝き、その上にやけに鳶色をした髪に被われた頭が目に入り、それらも三つの球だった。二つはとても小さく、一つは大きい。私はこの類比に気がつくと、それに即座に反応して私の口元が綻んだ」。
 Mantoは〈三〉という数に接近していく。それも強引に。
「その三つの球はといえば、それらを転がすのにそこに外部からいかなる力を与える必要もない。手でちょっとした動きを指示するか、想像というわずかな振動だけでも、あの三つの物体を高いところからさらに高くに上げたり、低いところからさらに低くに沈めたりといった散歩をさせることができた。そして、この導師に向かってその三つの球が言ったのだ。『おそらくどこかに置かれていた際に出遭ったのですね。あの解説者たちによる触込み文句こそが、そこに一つの始まりも終わりもない永遠の真実を開示したのです。それは美と愛と死で、この三つの組合せでできるすべての複雑で難解な角度は、ただ三つの球の存在理由、それを理解することにかかっているのです』と。しかし美と愛の結果については、彼は敗北を喫したのをあの眼鏡越しに見たのだった。眼鏡のレンズに髪の毛がかかっていた。そのため、それを見たのにその形がはっきりしていなかったのだ。このために、彼という存在すべてのうちに、受け入れ難い一度の告知による混乱という毒が回ってしまったのだ。つまり、一つの点から始めたのに、いつのまにか一つの周辺へと移り変わっていたのだった。あらゆる点において、その点は始まりでありかつ結果でもある、という観点がある。それゆえに、彼になされた告知は的を突いたものではなかった。彼の表情は人生に向かうというよりは死に向かっていた。自身を導くのに絶望の方へと向かい、始まりと結果を自分の手中に握ったままだったのだ。その両方をじわじわと弄びつつ、手の中から漏れるがままにさせていたのだ。とはいえ、快楽を好む者のように彼は喜びの表情を見せてはいた。そこには彼の情念がぐるぐる渦を巻いていたのだ。この三つの鉄の球のように…。それらを私は初めてハサン・ビルディングのアパート一号室で見たのだった」。
 これはどういうことか。「三つの球」が語りかける言葉もそうだが、ここに書かれた内容は速度があり過ぎて、それが誰のものであるのかはっきりしない。Mantoはミーラ氏が持っている「三つの球」を鏡に見立てて、そこに映し出されてくるものを、すなわちすでにミーラ氏から語り聞かされた彼の経験を自身の記憶のうちに再統合しながら、刻々と変動しつつあるそうした記憶のうちに渦巻くものがあると考えているのだろうか。その場合、ミーラ氏の「三つの球」はManto側に移っているだろう。いずれにしても、ここにはこれから語られることの大まかなスケッチがなされている。
 さて、ミーラ氏という人物だが、彼の姿格好からMantoはイスラーム神秘主義のスーフィー行者を連想している。
「彼の首にはとても大きな数珠を繋げた首飾りがかかっていた。上の部分だけが開いたシャツの詰襟からそれが覗いていたのである。私は、この人は自分の外見を構わないのだろうかと訝った。とても長く濃い髪の毛が首の下にまで伸びていた。口の周りだけ髭を生やしたフレンチ・カットのような顎髭、それに汚れた爪。寒い時期ではあったが、そのからだは何ヶ月も水を浴びていないことが私には知れた」。
 蓬髪に過剰な装身具、そして垢まみれのスーフィー行者を私もよく見かけたが、ミーラ氏の姿格好はそこまでには至っていない。いっぽうでスーフィーの神秘思想はありふれた四行詩の世界にまで広く浸透している。スーフィー道には、唯一神と対峙しつつ〈一〉へと接近していくための思考が培われてきた。人を避けて一所に留まり、瞑想し続ける者もいれば、一所に留まることなく生涯にわたって旅を続ける者もいる。いずれにしてもスーフィー行者は神との合一を求めて見果てぬ旅をすることになる。ここでミーラ氏の詩の中の一行が紹介されているが、それは解釈次第でスーフィー道に特有の考えを吐露したものとみなすこともできる。
「町から町へと彷徨い、旅人は家に帰る道を忘れてしまった」。
 真実を探求する過程で自己の束縛から放たれ、それゆえに「家に帰る道を忘れた」のなら、「家」は自己の謂いであり、あとは神との合一へと進む道が目の前に開かれているだけだ。しかし、「家」を存在根拠という意味合いに採れば、「家に帰る道を忘れた」とは、探求の果てに目的地も定まらず、ただ迷っているだけという事態となる。
 この詩が最近インドで製作された映画「Manto(2018)」の重要な場面で引用されているのを知った。「冷たい肉」が猥褻罪で訴えられ、LahoreMantoの住まいに警察が家宅捜査に入り込み、それと並行してアルコール中毒に陥っていたMantoにこの詩が幻聴のように聞こえて来るという場面がある。微妙な演出ではある。しかしその後に、「人のものも自分のものも知らず、自分のものと呼べるのが誰なのかも忘れてしまった」、と続くが、これはどこから採って来たのだろうか。私には分からないが、そこに探求者というよりは、「放下」という言葉、そのイメージを私は思い浮かべてしまう。
 この詩を提示してすぐにMantoはその解釈をしている。
「旅人は家に帰る道を忘れなければいけなかったのだ。そうであればこそ、旅人は移動する際にその出発点に何の標も置かなかった。自分がすでに描いた軌道のひと続きと共に歩き回る、彼は間違いなくこの場所を幾度も通り過ぎたのだ。しかし、彼には覚えがなかった、自分がその長い旅をどこから始めたのかを。そして私には解るのだった。ミーラ氏が、自分は旅人であること、それが旅でありそこに道があること、この三つ組が彼の心と頭脳の隙間に軌道のようなかたちで配置されているのを忘れてしまっていることを」。
 Manto も二重に解釈している。さらに言えば、Mantoの中で〈三〉と〈一〉が対立している。というか、Mantoの中では〈一〉から〈三〉を取り戻そうとする動きがある。〈旅人〉という〈一〉を、〈旅人〉と〈旅〉と〈道〉から構成されるものとして説明し、「三つ組」へと差異化している。〈三〉と〈一〉が対立しているのはむしろミーラ氏の内面においてであると想定される。〈一〉に向かう道において〈三〉を捨てようとしているからである。そうであっても、ミーラ氏が「三つの球」を持ち歩いているのには何か訳があるのだろう。そこには何かしら人間の業を感じさせるものがある。
 ミーラ氏の「ミーラ」という名前について、「彼はミーラという名の娘に恋をした。そして、アッラーのおかげで彼はミーラ氏となった。このミーラの名を尊重することから、彼はミーラ・バイの詩作品を好きになりはじめた」とされる。ミーラ・バイ(14981547)はラジャスタンの王族出身で、ヴィシュヌ派のバクティ運動に関わった名高い女性詩人である。そして、
「恋する人の実際の姿が容易く求められないときには、素焼きの水差しを、職人のように轆轤を回して自分の想像の土で、最初は恋する人の姿かたちに似せて造りはじめた。しかし後には、次第に恋する人のからだを造形するのに娘の完全なる美しさ、娘の完全なる現れ、その唯一無二の現われを、轆轤を速い速度で回しに回して、そのつど新たに生まれて来る真剣さが選び採っていった。そしてあるとき、ミーラ氏が作業する手、その想像というとても柔らかい土と轆轤、連続する回転、それらがまったくの球になるという事態になった。どんな脚もミーラの脚に成り得た。どんな襤褸布もミーラの衣服にすることができた。どんな旅もミーラが旅する道に変えることができた。ところが最終的に、想像の柔らかい土のとても良い香りのする香水が悪臭を放つまでになってしまった。それで、彼はかたちができる前にそれを轆轤から取り外してしまった」。
 ミーラ氏が最初に採った試みはスーフィー行者の方法と同じだ。彼らは創造的想像力を駆使して唯一神のヴィジョンを目前に描き出し、そのとき自ら創造した対象と一体化しようとする、すなわち自己を溶解させるようにして神との合一を果たそうとするのだ。しかし、その方法にミーラ氏は失敗したのだった。おそらくそれは、彼が神との合一を求めるスーフィー行者ではなく、自身の内面を表現することに殉じる詩人であったからである。スーフィー行者は形を求めない。というか、自らヴィジョンを創造するがそれと一体化した後には全てが融合して自他の区別さえなくなってしまう。それに対して表現者はあくまでも形を求め、その形を遺そうとする。形が悪臭を放つというのは、そこに自己の燻習を感じてしまうからである。〈一〉を求めるような表現者ほど、その燻習に敏感なはずなのだ。
「ミーラは高い屋根がある家に住んでいた。ミーラ氏は道を忘れて下の方に下り始めるようにして彷徨っていた。彼は素焼き職人が隠れたことにまったく臆することがなかった。それゆえ、轆轤から想像の土を取り外したときには彼の一歩一歩にミーラのイメージが重なっていた。だがそれは彼の靴の踵のように次第に擦り減っていった。最初、ミーラはふつう恋の対象がそうであるようにとても美しかった。しかしその美しさは、衣服で着飾ったありとあらゆる女性を見ることで少しずつ彼の心と頭脳の中で変容していった。ミーラの本当の姿から離れていることの苦悶にさえもミーラ氏は臆することがなかった。もしそれを気にするとなれば、これほどの苦悶という王座に居ることの、その何ものをも隠すことのない月夜が、彼の詩作品のうちにきっと存在することになるだろう。それは、ミーラを恋するやいなや、彼の心と頭脳に照らし出されたものだった」。
 神に一度想いをかけた後にふたたび表現の道へと下り、そして一転して下の道を歩み続ける者とは、神を賛美し神に近づく努力をしながら神に近づけないとあっても、神に近づけないという苦悶を、その悲惨を、身をもって味わう者のことなのだ。その味わいのうちに表現が顕われると言うが、しかしその表現はあまりに人間の業に寄りかかっていないだろうか。というのも、神に近づけない苦悶という事態はあくまでも自己への執着によってもたらされているものだから。
「美と愛と死、この三つを貫く紡錘が圧縮されることで、ミーラ氏という存在の中で一つ球となったのだ。ただしこの世の全ての三角形が彼の心と頭脳の中で円形になったというのではない。とにかく、彼の中の三つの根本原理はその秩序が崩壊するようにして相互に混乱してしまった。ときには死が最初で美が最後に、そして愛はその中間に、またときには愛が最初で死がその次に、美が最後に、こうした騒ぎが感覚できるような仕方で起き続けたのである」。
 〈一〉を求めながら〈三〉を基にした表現にこだわり続けると混乱が起きるのか。〈三〉を〈一〉へと圧縮するという発想は異様で、よく分からないものだが、Mantoにはキリスト教の「三位一体」の働きについての言及がないから、ここには聖と俗の対立という考えが根底にあるのではと推し測られる。聖は聖、俗は俗と激しく区分けする世界においては、〈三〉と〈一〉は対立したままにある。ヒンドゥー教の世界では、その対立は、〈三〉が永遠に循環する〈一〉として捉えられることで見た目には解消されている。とはいえ、ミーラ氏はまた違った対処の仕方をしていたようだ。
「誰もが女性に恋をすると三つの偶像は同じ種類のものとなる。美と愛と死は愛する者と愛される者とその結合となる。ミーラとのアッラーのおかげによる結合は、知る者たちだけが知っている、あるいは、そうならなかったのならなり得ない、というようなものだった。このそうならない、もしくはなり得ないを拒否するのはミーラ氏だけだった。彼は愛されることに失敗し、この三つ組を壊すのに、そのうちの一つが完全性を獲得したにもかかわらずその本質は変容してしまった、という仕方で一つに結びつけたのである。彼は、その面が直線状に相対するようにしてある三つ組を一つに押し潰したのだ。恋する人と結合するのに、いまや恋するその対象そのものがそこにある必要がなかった。彼自身が愛する者であり、かつ愛される者だった。そして彼自身のうちに結合があるのだった」。
 ミーラ氏は、〈三〉のうちの一つを優先させるという仕方で〈一〉を実現しようとしたが、その際に、その〈一〉の本質は自ずと変容する、という状況を受け入れるという仕方で〈三〉を統合するような〈一〉を捉えたのだと言う。しかるに、その〈一〉は中心とはならずに、知らず知らずのうちにその周辺となるものに取って代わられ、おそらくそれは〈三〉のうちの一つである〈死〉に変容していたのだった。その〈一〉は、〈愛する者〉と〈愛される者〉と〈その結合〉に差異化されているが、そのすべてが自己においてなされるとなれば、それは単なる自意識へと変容せざるを得ない。自意識は他者を知ろうとしない。したがって、この〈死〉とは言い換えれば、〈現在〉という感覚の〈死〉ということだ。美と愛と死という現在感覚の三つ組を押し潰して、〈詩〉の表現者が現在感覚の〈死〉に向かう。これは悲惨なことだ。
「今になって考えると、私はあの三つの球の上でこの世のすべてを経巡り、そのすがたを目にしたのだ。三つ組とは被造物の別名ではないか。それは私たちの人生における神聖さのうちに存在するすべての三角形なのである。そこには人間が造られたというその力の証しがないだろうか」。
 そう考えてMantoはこの世に浸透している様々な三つ組を列挙しながら、「私の考えでは、ここに並べたてたようにいくつもの三つ組が得られるだろう。それゆえ、その繁殖、そしてその伝播という行為、さらにはそうした行為の軸となるものも、人類における三つの器官なのである」、と言う。
 Mantoがここに至って言及する「人類における三つの器官」とは、それは言い換えれば、〈認識者〉と〈認識対象〉と〈認識自体〉というギリシア哲学で良く知られる認識活動における三つ組のことであろう。〈認識者〉は伝搬させ、〈認識対象〉は繁殖する。そして、そうした行為の軸に〈認識自体〉がある。ことに想起という活動においては、この三つ組の働きに注意を向けることが欠かせない。それゆえ、認識活動における三つ組が意識化され、組織化さることで、人間の思想は連綿と展開されてきたのである。そうした意味でそれらは「人類における三つの器官」なのである。いわゆる世俗に繁茂する三つ組にではなく、ここに至って認識活動という歴史的な〈三つ組〉にMantoの焦点が当てられることになった。はたしてMantoは、認識活動のような「人類における三つの器官」へと通ずる、そうした歴史感覚を抱えるような動きを彼の中で渦巻くものとして見出し始めたのだろうか。
 そのいっぽうで、「今になって考える」Mantoとは、現在の状況において〈死〉に向き合い易い自己を客観的に捉えようとしている者なのかと私は危惧してしまう。とはいえ、それでも〈三つ組〉が彼を生の方に繋ぎ止めているようだ。〈三つ組〉とは〈一〉を差異化する確かな力なのである。道はまだ開けている。
「ユークリッド幾何学では三角形にとても重要な意味をもたせてある。他の図形に比して、三角形は他のどの形にも変えることのできないような歪みも凸凹もない形をしている。しかし、ミーラ氏は自分の心と頭脳、そしてからだというこの三角形のうち、記憶(追想)を一番にしてしまった。角をその場所から取り除くようにして、三角形を押し潰してしまったのだ。その結果、周辺にある他の事物もこの三角形と同じように変容する、という事態が起こってしまった。そこにミーラ氏の詩が顕われはじめたのだった」。
 「追想」とは〈認識者〉のみへと圧縮され易い慣習で、自意識と同じく、〈認識対象〉と〈認識自体〉を忘れさせてしまう傾向がある。そうした意味で、「追想」はあたら現在感覚の〈死〉に至り易い。あくまでも〈現在〉に軸を置いた「追想」でなければそれは路頭に迷ってしまう。「追想」しつつ路頭に迷うという感覚も大切だが、そこには迷いをもう一つの眼で見ることのできる超越的な視点が欠かせない。超越的な視点とは、認識活動の〈三つ組〉を俯瞰することのできる視点なのである。
「部屋に誰もいなくなると、彼はとても落ちついた気分になり、自己を高めるのが常だった。この彼特有の破滅の在り方、そこに隠された配列の理由があることまでは私には理解できる。…彼は自分に起きていることが詩の中に提示されてくるのを望んでいた。しかし不運なことに、彼には不運というものまでもが壊されていたのである。彼は壊れたその不運を非常に粗野な仕方で繋ぎ合わせ、それを自分の目の前に置いたのだ。それは彼の知識だった。その知識の襞のうちに彼は自分の無能さを十分に感じることになった。そして普通の人のように、彼は自分のその弱点に自分個人の特別な色をつける努力をした。そうやって、次第にこのミーラをも、自身が正道を踏み外したという廉で磔の刑にしたのである」。
 表現が自己の制御なしに自ずと出来するという現象は多くの表現者が望むことでもある。そのときに「不運が壊されている」とはどういうことか。運と不運とがあり、この運の衰勢、その変動からも見放されたということなのか。その代わりに知識を頼りにしたが、それも不十分であると知り、ふつうの表現者となった視点から、方法を誤った超越的な自己を処罰したという。その結果、
「彼の詩は一人の正道を踏み外した人間の作品である。それは人間が抱える非常に深淵な屈辱感に依っているにもかかわらず、別の人間のために宙高くに掲げられた風見鶏の仕事を為すことができる。彼の作品は一つの〈ジグソーパズル〉であり、そのばらばらになった断片を落ち着いた静かな心でもって一つのものに繋げて見る必要があるのだ」。
 本当にそうだろうか、と私は疑問に思う。ここに至ってMantoは将来への不安が暗雲のように降りかかってくるのを感じ、自己と自己の作品を擁護しているのではないかと勘ぐってしまう。
「ミーラ氏は詩の高貴なる純潔と共に飲酒し、高貴なる純潔と共に大麻を吸い、高貴なる純潔と共に人々と友情を育み、友情を維持した。自分の人生において最高に尊厳的な願望を燃やしてしまった後に、彼は他の誰に対しても欺くような人物にならないようにした。この価値ある撤退の後、彼は放蕩しないと知られるほど無害な人物となった。町から町へと彷徨い続ける一人のさすらい人がいる。一夜の宿から宿へと歩みつつ、自身の心を温める場所は自身によって開かれる。とはいえ、彼がそちらの方を見れば、前方に現われ続けることがないがどこかそんな場所があり、そこには何か破滅的なものがある。囲い込まれていない三角形があり、そちらの方へと、その根本原理はといえば、自身の場所から退き、三つの軌跡をした形に沿ってただ放浪し続けることだった」。
 これが、詩人ミーラ氏という人物を見定めるMantoの総括となっている。目の前には「囲い込まれていない三角形」、すなわち〈三つ組〉が機能しない、地獄のような永遠がただあるだけで、しかもそれを想定するMantoがそこにいる。おそらく最初は、「三角形のように単純に構成されてすべてが繋がり合った表現」にある種の霊感を受け、そこに渦巻くものを感じ、〈三つ組〉の働きを見定めようとする旅をしてきたのだった。文章を書きながらあちらからこちらへと移動してきたのだった。しかるに、文章を綴るという具体的な形にあっては、〈ミーラ氏に関わる記憶〉、〈自身の記憶〉、そしてそれらの〈想起に関わる現在〉という三つ組に左右されざるを得ない。そして、それらは抽象へと昇華されることなく、あくまでも具体的なモノとして形づけざるを得ないのだった。その具体性を伴う表現形式が、結果的に破滅への不安へと行き着かせているのだろうか。というのも、具体性を伴う表現形式においては、中心を意識していながらも、知らず知らずのうちに中心は周辺へと変容していくからである。
 この後に続く文章はミーラ氏との後日譚で、ミーラ氏にとっての破滅への道として締めくくられている。現在時点からの分析は失せ、物語風に語られている。それを要約しておこう。
 追想の舞台はボンベイへと移り、デリーでの訪問からだいぶ経ってミーラ氏が「ひどく悪い」状態でMantoの住まいを訪れた。ミーラ氏はもう「三つの球」を持っていなかった。当時、Mantoは映画制作会社「フィルムスタン」で「八日間(1946)」の撮影にかかっていた。ミーラ氏は酒がなくてはいられない状態になっており、Mantoに酒代を要求する。Mantoは仕方なく与えるが、「その後非常に長い間、彼に毎日七・五ルピーを与えるのが私の義務になった」。七ルピーでラム酒のボトルが一本買えたので、残りの50パイサは彼がMantoのところにやって来るための交通費だった。
 ミーラ氏はボンベイの遠い親戚筋の家に居候していた。昼間から家の主人の勘定で酒を飲んでいたという。「親戚の紳士はしばらくして後、ミーラ氏を負担に感じるようになった。彼は独りで飲んでいたが、自分が決めた許容量以上を決して越えることがなかった。それで、ミーラ氏に対して不満を抱いた。ミーラ氏は主人と一緒の時には自分の限度を守って過しながら、他方ではそれとはまた別の限度を設定していたからである。何の限度ももたない者は愚か者になる。しかも他人に求め続けながら自分の探求の軌跡をつくっているというのだから。この軌跡がどこから始まっているのか、それがどこで終わるのか、彼は忘れてしまっている」。当時のMantoは、ミーラ氏の飲酒に関する過度な側面を知らなかったようだ。ところが、ある日のことそれを知る機会があった。Mantoは、「そのことを想い出すと私の心は今日でも意気消沈してしまう」、そう告白している。
 その日はミーラ氏とMantoの友人、そして撮影スタッフの四人でMantoの家で飲むことになった。その日はあいにくドライデーで、雨季の土砂降りの中みなで郊外のバンドラまで酒を買いに行った。夫人と子供はLahoreに行っていなかった。夜の一時過ぎまで飲み、おひらきにしようとしたが、ミーラ氏だけが反対した。酒がまだあることを知っており、もっと飲みたかったのだ。Mantoと友人がラム酒をもう一本開けるのを拒否すると、ミーラ氏の態度が変わり、命令口調になった。Mantoは初めてミーラ氏に面と向かって非難の言葉を吐いた。「あんたのことを将来想い出すとき、私はきっと後悔するよ」と。
 翌日の朝は何もなかったかのように過ぎたが、「昨夜の事の次第は私たちみんなの心と頭脳にぶり返していた。しかし、誰もそのことに注意を向けなかった。ミーラ氏は私から八アーナを受取り、生彩を欠いた雨具を羽織って出て行った。私は彼をとても不憫に思った。そして自分に対する怒りが湧き上がってきた。昨夜は無益な言葉で彼を苦しめることになる原因を私はつくったのだと、心の奥底で自分を激しく責め立てたのだ」。
 その後もミーラ氏は酒代を乞いにやって来たが、映画産業の状態が悪化し、Mantoの生活も窮乏してきた。ミーラ氏もそのことに気づき、「ある日のこと、彼が酒をやめる目的で大麻をやるようになったことを私は知ったのだった」。
 Mantoは大麻を嫌悪していた。いっぽうのミーラ氏は、「この酔いだって何も悪くない。その経験にはそれぞれの色があり、それぞれの性格があり、それぞれの調子がある」と言い張り、大麻の酔いの特殊性に関して自身の分析をMantoに披瀝するほどだった。
 Mantoの大麻経験は感覚の変容に尽きた。それに対してミーラ氏の経験は異なるものだった。ミーラ氏は酔いには様々な段階があることをMantoに語って聞かせた。ミーラ氏が大麻の常習状態に至り、ある日のことエクスタシー状態について話をしていたときである。「彼はちょっと混乱した様子でそこにある物をあっちへやったりこっちへやったりして混ぜ合わせ、上にやったり下にやったりして、そしてふたたび混乱した様子になり、次第に前方へと張り出した額を打ち鳴らしながら不快な声を発し始めた。蛇がしゅうしゅう音を発して這い回る感じがするが、とても柔らかい動きだ…。最初はヌーンだった、すべて曝け出すかのように…。いまやその束縛のなさのうちに変化が起きつつあった。…ゆっくりと、…少しずつ、あたかも猫が干し唐黍豆を手足で遊ぶようだ…。ああ…、乱暴にニャーと鳴いた、エクスタシーが壊れた…。何かが隠れてしまったのだ。それで彼は酔いから目覚めざるを得なかった」。「…少しの空白の後、彼はふたたび酔いの段階を新たに最初から最後まで感じたようだった。見たまえ、いまやふたたびヌーンをはっきりと示す準備を始めたようだ。混乱が始まった…。この内なる申し立てに傾注するために彼は周辺にあるものをまず集めにかかっている。キズものやガラクタも集めている…。なった…。顕われ始めた…。ヌーンが上になった…。徐々に下になった。ふたたびあの混乱…。あのキズものやガラクタ…。周辺の物を集めるのに、ヌーンがそのからだを捩るようにして奪った。それから四つん這いになった…。鼻声をたてながらからだを伸ばし続けている…。誰かが彼を強く打っているのだ。絹のハンマーで…。その打撃の音は耳に聞こえない。が、それはやさしく撫でるようだ。その感触も軽く感じられる…。ゴウン、ゴウン、ゴウン…。そんなふうに幼子が母親から乳を飲んでいる…。いや待て、乳の泡になったぞ…。見ろ、彼はまた壊れてしまった…。そしてふたたび酔いから目覚めざるを得なかった」。
 Mantoは曖昧に示しているが、ミーラ氏はあの音韻を踏まない詩を書くヌーン・ミーム・ラシッドだったのだ。驚きである。Mantoの短編小説では、最後の最後になって作品の意味が開示されるという傾向があり、それはおそらく彼の短編小説家としての方法であったろう。それゆえ、この作品でもヌーンについてMantoはデリーで会ったことを一度記した以降は、最後までその名を意図的に臥せてきたのである。とにかく最後に至ってミーラ氏の正体が露にされたのだと考えられる。
 Mantoはミーラ氏の破滅を予想してはいたが、あるときミーラ氏の返答が異常なものであったことから、「ミーラ氏の破滅はいまやそこまでに達したのかと感じ取った」。その後まもなくミーラ氏は亡くなった。「良かったのだ、彼があれからまもなく亡くなったのは。というのも、彼の人生が崩壊するのに、さらなる崩壊を進めるようなあからさまな言葉は要らないからだ。もし彼がもう少し生きていたならば、きっと彼の死も痛ましい混乱をきたしていたことだろう」。
 ここで文章は終わっている。Mantoの破滅までにはまだまだ時間がある。おそらく彼が文章を書き進めるうちにミーラ氏という存在の渦巻くような〈軌跡〉が強く主張し出して、〈三つ組〉の分析は影を潜め、一筋の〈軌跡〉だけが彼の内に遺されることになったのだろう。