Saturday, July 04, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore

  LahoreManto

 Mantoが「三つの球」を新聞連載に発表した際にも批判があった。批判は主に「アーファーク紙」の編集局に手紙を送るというかたちでなされたようだ。地方の上層階級にはヴィクトリア朝時代を髣髴とさせる保守的な考えをもった人たちがいて、映画表現に批判的であり、そればかりでなく文学についても自分たちが所属する社会への悪影響を懸念していた。「三つの球」については、新聞紙上で死者に鞭打つようなことはするな、といった内容の批判があった。
 連載中に様々な批判の手紙を受けて、Mantoは「あからさまな天使たち」の最終章で書き記している。
「私の楽屋には髪を梳かす櫛がない。シャンプーもない。髪をカールさせる器具もない。私は自分の作品を飾ることを知らないのだ。…ミーラ氏が道に迷ったことについて、それにアイロンをかけて滑らかにすることなど私にはできない。それに、私の友人シャムに、自ら間違った道に入った女性を彼が〈家庭人〉と呼ばなかったなどと無理強いすることなどできない。この本には天使も登場する。そして彼らは美しく飾られている。このやり方を私はことさら念を入れて行なった」。
 すべての表現形式においてそうであるが、他者を描くことは知らず知らずのうちに自分を描き出すことでもある。それゆえにその種の表現作業においては主客が区別できなくなる場合もある。その内容を皺をのばすようにして滑らかにすることは往々にして自分の思考の襞まで消してしまうことになる。Mantoは他者に繋がりをもつことで多層化する自らの認識活動をもあからさまにしようと意図して他者を描いたのだ。表現において〈虚飾〉がないこと、そこに多層化状態にある自己が立ち現われること、それが現代の表現であることを示そうとしたのである。
 想起という活動は過去に関わること(記憶を発動させる)でありながら、同時にそれは現在における認識活動を示そうとする。あくまでもそこに立ち上がる認識活動が想起の中心であり、現在におけるそれであることを示すことでその〈中心〉位置を守るのである。いっぽう、過去(記憶)を対象化すればするほど、想起の活動自体は〈中心〉であることを忘れて知らず知らずのうちに周辺へと追いやられていく。想起の活動は目の前にかたちになるところにではなく、認識活動それ自体において、認識活動と共に分岐するところに立ち現われている。そこに人間の認識能力がありありと働いているからである。
 いっぽう、想起する現在とそれが関わる過去との距離、そのズレ、その差異のうちに立ち現われるものがある。現在の作業でありながらその性格上つねに過去に関わる意識が働いていて、逆に言えば、過去となるものでありながら現在に現われて来るものがあり、あたかもそれが過去のものであるようにして現在において二重化されて働くものがある。さらには、そこに他者の意識が介入してくると、他者に関わる過去が現在へと呼び込まれる際にそれぞれの時間意識によって多層化されるようにして作動するものがある。基本的に想起とはそうした様々な差異の働きに関わっていく認識活動なのだ。
「三つの球」の冒頭で私は「デリーのニコルソン通り」を突如として想い出す。ニューデリー駅前からタンガー(馬車)に乗り込んだ。それから、オールドデリーの城市の北側を東西に走る大通りを通ったのだった。その通りは当時まだ「ニコルソン通り」で通じていたはずだ。大通り沿いには英帝国時代に建てられた石造りのマンションが建ち並んでいる。私は通りの東端にあるデリー城市のカシミール門まで行くところだった。すると、かたかたとタンガーが走る軽快な音が感じられ、御者の若者が鞭を揮って車両を牽制する罵声と共にその野卑な表情と身振りが目に浮かんで来る。それと共に一定の調子で揺れる座席の振動がからだに伝わって来た。肌には植民地時代の空気がさっと撫でるような感触がある。いったいそれはいつの時代のものなのか。そんなふうに私の少年がタンガーの座席に揺られてうとうとしていると、その足下からいきなりニューデリーの街がざわっと浮かび上がって来る。デリーに私は一年余り暮らしたのだった。そう考えた途端、次にはいっきにデリーの大地が目の前に広がって来る。圧倒的なデリーの大地をジャムナ河の褐色の流れが蛇行して行く。河に沿うようにして酷暑の中にひっそりと佇む諸デリー王朝の城塞廃墟群…。人語も絶えるほどの暑さが崩壊しつつある建築物を制している。往時のデリーについていえば、Mantoは十九世紀ムガール王朝時代のウルドゥー語詩人Mirza Ghalib(17971869)を好んでいた。GhalibについてMantoは次のような評価をしている。「Ghalibの後、詩を創作する権利は没収されたままになっている」と。ムガール王朝もその衰退期に生きたGhalibGhazal(恋愛詩)はきわめて思索的な表現に味わいがあるが、その内容は人生の愁いに満ちている。Mantoによるかくまでの評価は何故かと思う。宮廷詩人でありながら信仰に薄く、飲酒や賭け事に耽り、Tawaif(高級娼婦)の邸に通うのを好むような人物に自身の姿を重ね合わせていたのか。…かたかたとタンガーの軽快な音がふたたびからだに響いて来る。その心地よさのうちに、私が知り得なかったオールドデリーの遥か昔の良き時代を想う。
 Lahoreはボンベイという大都会に比べれば一地方都市だ。そのLahoreMantoがボンベイを想うというのは、そこにかなりの落差を実感することだったにちがいない。とはいえ、この落差が想起の源となっているはずなのだ。十年と変化のないところには過去を想起する必要さえ生まれないだろう。Mantoはおそらくボンベイを想起しながら、同時にLahoreという現実に身を包まれていったのかもしれない。そして次第にLahoreを成り立たせている世界に没頭せざるを得なくなっていったのだ。そのとき、LahoreMantoは過去を想起しながら何を考えていたのか。想起の方法には限界があると考えただろうか。そうだとしても、想起に関わる文学、その表現は、それを介して彼をどこかへと連れ出して行こうとしたのではないか。具体的なものから抽象され切り離された想起の運動とその内容はそのようなものとして認識される。とはいえ、完全に具体的なものから切り離され、その重荷から解き放たれた認識能力の働きによらなければとうてい認識され得ないものもあるだろう。
 LahoreMantoは想起に関わりながらどこに向かって行ったのか。最晩年の彼の代表作と言われ、Lahoreで書かれたのでパキスタンではことに評価が高い、「Toba Tek Singh(トバ・テク・シン)/1955」をウルドゥー語から訳出してみた。

 印パ分割から二・三年の後、パキスタンとインドの両政府はふと考えた。一般の囚人を交換したように精神病者の交換もなされなければならないと。すなわち、ムスリムの精神病患者でインドの精神病院にいる者たちをパキスタンに送り、ヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者でパキスタンの精神病院にいる者たちはインドに引き渡そうと。
 この考えが道理にかなっているかどうか分からない。いずれにせよ学識者たちが決めたことに関してあっちとこっちで最高レベルの会議が開かれた。そしてある日、上の方の愚か者たちが精神病患者を交換することに合意した。十分に詳細にわたって調査が行われた。その縁者がインドにいるムスリムの精神病患者がいたが、インドの精神病院にいることが許された。そうでない者は国境に向けて移送され始めた。ここパキスタンではほとんどのヒンドゥー教徒とシーク教徒が立ち去っていた。それゆえ、この者はパキスタンに留めるとか留まらせないといった問題は生まれなかった。パキスタンにいるヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者のすべてが警察の護衛する車両に乗って移送されたのである。
 他の場所のことは分からないが、ここラホールの精神病院では交換の知らせが届くと、とても興味深い些細な議論や騒ぎが起こった。一人のムスリム精神病患者で十二年間毎日決まりごとのように日刊紙「ザミンダール」を読む者がいたが、彼に仲間の一人が尋ねた。「学者さんよ、このパキスタンって何のことだ」と。すると、よくよく考えをめぐらした後に彼は答えた。「インドにそんな場所があるのだ。そこではカミソリをつくっている」と。それを聞いて仲間の一人は満足した。
 同じように、一人のシーク教徒の精神病患者が別のシーク教徒の精神病患者に尋ねた。「親方さんよ、俺たちはなぜインドに送られるんだ。俺はあそこの言葉は喋れないのに」と。別のシーク教徒患者はにやりと口元を緩ませた。「私はインド族の言葉を知っている。奴らは悪魔みたいに威張りちらしながら歩き廻っているよ」。
 ある日、からだを洗っていた一人のムスリム精神病患者が「パキスタン万歳」と叫び、そのために激しく興奮してしまった。そして床に滑って転んで気を失った。
 患者の中には精神病でない者も幾人かいた。そのうちの多くが殺人者で、親族が役人に賄賂を渡して絞首刑の首輪から逃れるために精神病院に容れさせたのである。こうした連中はインドがどうして分割されたのか理解していたし、パキスタンが何かも分かっていた。とはいえ、はっきりとしたことについては彼らもまったく知らなかった。新聞からは何の情報も得られなかった。警護兵は無知蒙昧だったので、その会話からいったい何があったのか明らかにすることはできなかった。彼らが分かったのはただムハマッド・アリ・ジンナという一人の人物がいて、彼がカイデ・アザムと呼ばれているということだけだった。彼はムスリムのために独立した一つの国をつくった。その名がパキスタンだった。それはどこにあるのか、それが出来た場所とは何のことか、それに関して彼らはまったく知り得なかった。それだからこそ、精神病院内にいる頭がおかしくはないすべての精神病患者はディレンマにとらわれた。はたして自分はパキスタンにいるのかインドにいるのか。もしインドにいるのならパキスタンはどこにあるのか。もしパキスタンにいるのならそんなことがあり得るだろうか。というのも、自分がちょっと前までここにいたときでさえここはインドだったのだから。
 一人の精神病患者が、パキスタンとインド、インドとパキスタン、そんなぐるぐる渦巻くような考えにとらわれてさらに病状を悪化させてしまった。ある日、帚で掃除をしながら樹の上に登ってしまった。そしてその大枝に座り、二時間もの間ずっとパキスタンとインドの微妙な問題について熱弁を振るった。警護兵たちが下に降りるよう彼に命じると彼はさらに上の方へと登って行った。怒鳴られ、脅かされると、彼は、「自分はインドにもパキスタンにも住みたくない。自分はこの樹の上で住むつもりだ」と言い放った。ひじょうにてこずった後、興奮が一巡して落ちつくと彼はようよう下に降りて来た。そしてヒンドゥー教徒とシーク教徒の仲間たちと抱き合い、すぐに泣き出した。彼の心はここを離れてインドに行こうという考えでいっぱいになった。
 科学修士に合格してラジオ・エンジニアになった一人のムスリムがいた。彼は他の患者たちとはまったく離れて庭を丹念に散策して一日中静かに過していたが、移送が明らかになると彼は着ていた服を全部脱いで従順な姿勢を示し、それから素っ裸で庭中を歩き廻りはじめた。
 チニオット出身の一人の太ったムスリム精神病患者で、ムスリム・リーグの熱狂的な代表をしていた人物がいた。一日に十五・六回もからだを洗っていたのがいきなりその習慣をやめてしまった。彼の名前はムハマッド・アリと言った。すなわち、ある日のこと彼は自室の格子窓から自分はカイデ・アザムであるムハマッド・アリ・ジンナであると宣言した。その光景を目にして、一人のシーク教徒の精神病患者がパンジャブ州議会議員だったターラ・シンを名乗った。この格子窓の内部で流血事件が起こりそうなのは確実だったが、二人は狂暴な精神病患者として再分類され、別々の病棟に拘束された。
 ラホール出身の若者でヒンドゥー教徒の弁護士がいた。彼は恋愛に夢中になって仕事もせず、精神病者となった。彼はアムリトサルがインドになったと聞くととても苦しんだ。アムリトサルにいるヒンドゥー教徒の若い女性に恋をしたからである。おそらく女性の方はこの弁護士を相手にしなかったのだが、彼は恋に狂ったような状態になり、女性のことを忘れることができなかった。それで彼はヒンドゥー教徒であろうとムスリムであろうとあらゆる指導者に罵声を浴びせることになった。彼らがいっしょになってインドを二つに割ろうとしていたからである。彼が恋する女性はインド人となり、彼はパキスタン人となった。移送の話が始まると幾人かの精神病患者が若い弁護士を慰めた。落胆するな、インドに送られることになるぞと。インド側に彼の恋する女性は住んでいるのだが、彼はラホールを離れたくなかった。アムリトサルでは彼の業務は成功しないと考えたからだった。
 ヨーロッパ病棟には二人の英国系インド人の精神病患者がいた。インドが独立して英国人が立ち去ったことを知って彼らはたいへんな衝撃を受けた。彼らは声を潜めて何時間も二人でこの重要な問題について話し合った。いまやこの精神病院では自分たちの地位はどのようなものになっているのか。ヨーロッパ病棟は存続するのか、それともなくなってしまうのか。朝食はもらえるのだろうか。食パンの代わりにあの忌まわしいインドのチャパティーを無理にでも食べなくちゃいけないというのかと。
 一人のシーク教徒がいた。この精神病院に入って十五年が経っていた。彼が発する言葉からはつねにこんな奇妙で異様な文句が聞こえてきた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・ラールテン」。昼間に眠り、夜は眠らなかった。警護兵が言うには、十五年もの長いあいだ彼は一瞬も眠ることがなかった。横になることもなかったが、確かときおりどこかの壁に身をもたせかけていたことはあった。つねに立ち続けているので彼の脚は膨れ上がっていた。脹脛も腫れていたが、こうした身体上の難儀にもかかわらず彼が横になって休むことはついぞなかった。インドとパキスタンの成立や精神病患者の移送について病院内で何かしら話題になると、彼はそれについて注意深く耳を傾けていた。誰かが彼にどう考えているのかと尋ねると、彼はとても真面目な調子で答えた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・パーキスタン・ゴルヌマント」と。
 ところが後になると、「アフディ・パーキスタン・ゴルヌマント」と言うところが「アフディ・トバ・テク・シン・ゴルヌマント」となった。そして彼は別の精神病患者に、「トバ・テク・シンはどこにあるのか」と質問し出した。彼はそこの出身だったのである。しかし、トバ・テク・シンがパキスタンにあるのかインドにあるのか誰も分からなかった。それを言おうとする者はおのずと次のような混乱に陥るのだった。シアルコットは以前にはインドにあったがいまはパキスタンにあるそうだ。ラホールはいまパキスタンにあるが明日インドに行ってしまうかもしれないというのを誰が知るだろうか。あるいはインドがみなパキスタンになるかもしれないし、またいつかインドとパキスタンの両方がこの世からなくなってしまうかもしれないということだって、誰かが胸に手を当て誓って言うことができるだろうと。
 このシーク教徒の精神病患者の頭髪はみすぼらしく、とても薄くなっていた。からだを洗う回数がたいへん少ないので、そのために頭髪と顎髭が互いに絡み合って一緒くたになっていた。それが原因で彼の顔はとても恐ろしいふうに見えたが、その性格は無害だった。十五年間、彼は誰とも言い争いをしたことがなかった。病院に古くから勤めている者がいたが、トバ・テク・シンにこのシーク教徒患者のかなりの土地があることまで彼のことを知っていた。良く食べ良く飲む裕福な土地所有者だったが、突然脳に混乱をきたした。彼の親族が鉄製のとても太い縄で彼を縛って連れて来て、精神病院に容れさせた。月に一度は親族が彼を訪ねてやって来て、彼が無事であることを確認して帰って行った。ずっとそんなふうであったのが、パキスタンとインドの問題が持ち上がると親族がやって来ることはなくなった。
 このシーク教徒患者の名前はビシャン・シンと言ったが、みな彼をトバ・テク・シンと呼ぶようになった。今日が何日かどの月か彼はまったく分からなかった。病院に入って何年経ったのかも知らなかった。けれども、かつては毎月彼の親族が会いにやって来るときになると彼はそのことをあらかじめ自分で知っていた。すなわち、周囲の信頼できる者に自分に訪問があると言っていたのである。その日は丹念にからだを洗い、いい香りのする石鹸でからだをこするようにして洗った。また髪に油をつけて櫛で梳かした。ふだんは着用しない服を出させて着た。そんなふうに身だしなみを整えて面会者のところへ行った。面会者が彼に何か聞いても彼は黙っていた。あるいは、ときに不機嫌になって、「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフディ・ラールテン」と言い出すこともあった。
 彼には一人の娘がいた。毎月一度の面会で指折り数えて十五年経ち、うら若き女性になった。ビシャン・シンは彼女が誰であるかさえ分からなかった。自分の父親を見ると泣いていたのは彼女がまだ子供のときだったが、大きくなってからも彼女はその眼に涙を浮かべていた。
 パキスタンとインドの分割話が始まると、彼は別の精神病患者たちにトバ・テク・シンはどこかと尋ねはじめた。満足を与える返事が得られないと詰問の範囲が日毎に広がっていった。いまや訪問に来る人もいなくなった。以前は自分に面会しに訪問者が来ることをあらかじめ自分で分かっていたが、いまは面会者が来る知らせを彼にもたらさないほど彼の心の声は閉ざされてしまった。面会者が来て彼らと気持ちをおおっぴらに交わし合うのを彼は待ち望んでいた。面会者は彼に果物や甘菓子、それに新しい服を持って来た。彼が面会者にトバ・テク・シンはどこにあるか尋ねると、彼らは確信をもって彼にトバ・テク・シンはパキスタンにある、あるいはインドにあると言った。というのも彼らは、自身の土地があるトバ・テク・シンからやって来ていると彼が考えていたのを知っていたからである。
 精神病院に自分は神であると言っている一人の患者がいた。ある日のことビシャン・シンは彼にトバ・テク・シンはパキスタンにあるのかそれともインドにあるのか尋ねた。すると彼はいつものごとく大笑いして言った。「それはパキスタンでもインドでもない。というのも、私がまだ命令を出していないからだ」と。ビシャン・シンはその神である患者にとても謙るようにして何度も頼み込んだ。論争が終わるように早く命令を出してくださいと。しかし、神である患者はたいへん忙しかったので、別の多くの命令を出さねばならなかった。ある日のこと、ビシャン・シンは我慢できなくなって神である患者に浴びせかけた。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・ダーヘイ、グルジーダー・カルサ、エンド、ダーヘイ、グルジーキー・ファタ…、ジョウ・ボーレー、ソウ・ニハール、サット・スリー・アカール」。最後の部分はおそらく次のような意味だった。「お前はムスリムの神だろう。…シーク教徒の神であればきっとわしの言葉を聞いている」。
 移送の数日前、トバ・テク・シンからビシャン・シンの友人で一人のムスリムが面会にやって来た。それまで来たことがない人物だった。ビシャン・シンは彼を見ると向きを変えて戻ろうとした。しかし、警護兵が彼を呼び止めた。「この人はお前に会いに来たんだぞ。お前の友人ファザル・ディーンだ」。ビシャン・シンはファザル・ディーンの方をちらっと見た。そしてぶつぶつと何かしらつぶやきはじめた。ファザル・ディーンは前に進み出てビシャン・シンの肩に手を置いて話しかけた。「私はひじょうに長いことあんたに会いに来たいと考えていたんだよ。でも、暇がなかったんだ…。あんたの家の者はみんな無事にインドへ行ったよ。私が援助できることはすべてした。あんたの娘ループ・カウルは…」、ファザル・ディーンは話すにつれて言葉に詰まってきた。ビシャン・シンは少し想い出してきた。「あんたの娘のループ・カウルは…」、ファザル・ディーンは言葉に詰まりながらも話し続けた。「そうさ、あの娘…、あの娘も無事だ。家の者といっしょに行ってしまったよ」。ビシャン・シンは黙っていた。ファザル・ディーンはそれでも話し続けた。「彼らが私に言うには、あんたの具合を見てきたらどうかと。私は聞いたんだが、あんたはインドへ行くんだね…。兄弟のバルビール・シンとワダーダ・シンに私からよろしく言っておくれ。それに姉妹のアムリト・カウルにもな…。バルビール・シンには、ファザル・ディーンは幸せにやっている、そう言っておくれ。二匹の茶色の水牛を置いていったが、そのうちの一匹は子を産んだ。もう一匹も子を産んだが六日目に死んでしまった…。それから…、…私が世話したその見返りについては…、あんたから言ってもらわなくては、いつでも待っているから…。それから、これはあんたのために少しスモモを持って来たよ」。
 ビシャン・シンはスモモの包みを受取り、傍に立っていた警護兵に預けた。そしてファザル・ディーンに尋ねた。「トバ・テク・シンはどこにあるか」と。ファザル・ディーンはひじょうに驚いて言った。「どこにあるかだって。あそこだよ、前にもあったとこだよ」。ビシャン・シンはふたたび尋ねた。「パキスタンにあるのか、インドにあるのか」と。「インドにあるかって。…違う違う、パキスタンだよ」。ファザル・ディーンは困惑しながら彼に言い聞かせた。するとビシャン・シンはぶつぶつ言いながらそこを立ち去ってしまった。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・ディ・パーキスタン、エンド、ヒンドゥスターン・アフ・ディ・ドゥル・ファテ・ムン」。
 とうとう移送の手はずが整えられた。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ移される精神病患者の名簿が届けられた。移送の日も決定された。寒さの厳しい日だった。ラホールの精神病院からヒンドゥー教徒とシーク教徒の精神病患者を満載した数台の大型トラックが警護の警察と共に出発した。管轄の役人たちも随行した。ワガの国境で印パ両国の上級役人がお互いに顔を合わせ、最初の作業を終えた後に移送が始まった。移送は夜になっても行なわれた。
 精神病患者たちを大型トラックから降ろし、彼らを別の国の役人に引き渡すのはひじょうにやっかいな作業だった。何人かの患者はトラックから外に出るのも嫌がった。トラックから喜んで降りる者もいたが、彼らをじっとさせるのは難しかった。というのも、あちこちへとばらばらに行動するからだった。何人か裸の者がいたが、彼らに服を着させようとすると着せられた服をびりびりに破ってからだから取り除こうとする。ある者は罵り、ある者は歌っている。患者の間で口論し、お互いに争う者もいる。泣く者もいるし、叫ぶ者もいる。耳が役に立たなくなってみな他人の声を聞きもしなかった。女性の精神病患者がたてる叫び声や騒々しい声はまた別物だった。寒さが厳しいので歯と歯を軋らせて音をたてているほどだった。
 精神病患者のほとんどがこの移送に関してその権利をいっさい示すことができなかった。それゆえ、彼らは自分の場所から引き抜かれてどこかへ捨てられるとしか理解できなかった。彼らのうち幾人かは少し考えて理解できる者がいたが、そのうちのある者は「パキスタン万歳」とか「パキスタンに死を」と大声で喚きはじめた。しかし、二、三回反抗の意を示してやめた。というのも、幾人かのムスリムやシーク教徒がこの喚き声を聞いて怒り出したからである。
 ビシャン・シンの番が回ってきて、引き渡し業務に関わるワガの係官が彼の名前を名簿に登録し始めると、ビシャン・シンは尋ねた。「トバ・テク・シンはどこか。パキスタンにあるのかインドにあるのか」と。係官は笑って言った。「パキスタンにあるよ」と。それを聞いてビシャン・シンは身を躍らせてそこから離れ、残りの疲れ切った自分の同行者のところに走って行った。パキスタンの警護兵が彼を捕まえ、別の側へ連れて行こうとしたがビシャン・シンは行くのを拒んだ。「トバ・テク・シンはこっち側にある」と言ったが、力づくで連行された。「ウッパルディー、グルグルディー、エナクスディー、ベーディヤーナディー、ムングディー、ダール・アフ・トバ・テク・シン、エンド、パーキスタン」。
 ビシャン・シンは繰り返し説明を与えられた。見ろ、トバ・テク・シンはいまインドに行ってしまったんだぞと。もし行ってないというのなら、ただちにお前をそこに送ってやるからと。しかし、彼は従わなかった。ビシャン・シンを強制的に別の側へ連行しようと努めたが、彼はあっちとこっちの間にある一つの場所に、そここそ自分の場所だというつもりで、自分の膨らんだ脚でもって立ち尽くした。その様子はもうそこからどんな力も彼を動かすことができないというふうだった。無害な人間だった。それゆえ彼を力ずくでそこから連れ去ろうとは誰もしなかった。そこに立たせておくに任せ、移送の残りの仕事が続けられた。
 陽が昇る前のしんとした静寂なとき、ビシャン・シンの喉から天が裂けるような叫びが発せられた。あちこちから幾人もの役人が走ってやって来て彼を見た。十五年ものあいだ昼も夜も自分の脚で立っていた男が顔をうつ伏せにして横になっていた。そこにある有刺鉄線の向こう側はインドだった。こちらの有刺鉄線の向こう側はパキスタンだった。その間にある一片の大地には名前はなかった。そこにトバ・テク・シンが横たわっていた。

 この国境を歩いて渡ったのを私は想い出す。今ありありと想い出す。その想起がこの短編の最後の場面と重なると思わず目頭が熱くなる。三度この国境を越えた。三度とも明るい昼間だった。長閑でとてもいい気分になった。二つの国家の間に設けられた幅五百メートルぐらいある緩衝地帯を歩くのだが、一つの国を出て別の国に入るまでの無支配の場所にいるという独特の自由な気分を味わった。その「一片の大地には名前はなかった」が、そこは決して〈Nowhere〉ではない。そここそ本来の大地であるいう感覚に私は満たされたのだった。国の支配を解かれた大地を踏み締めるようにして歩く脚が浮き立っている。見渡せば周囲にはただ野原が広がるばかりだ。何故か手ぶらで、素足で歩いた、という感覚がつきまとってくる。そこを過ぎればふたたび国家が支配する時空を行く者となるのだ。当時のパキスタンはZia-ul Haqの軍事政権による厳格なイスラーム体制下にあり、いっぽうのインドは国民会議派による世俗主義を守る体制下にあった。それゆえ、パキスタン側から国境を歩いてインド側に入ると自ずと開放的な気分に満たされたのを想い出す。
 遊牧民や狩猟民のような流動の民でないかぎり国家の支配から逃れるのは難しい。いや、現代においては国家から逃れていることはかえってその生活環境が国家に抑圧される可能性を意味している。ここ四十年間で世界の状況は大きく変わり、流動の民が難民状態になってゆかざるを得ないのがいい例だ。それゆえ、人は国家から逃れるのではなく、自国をめぐる差異の働きのうちに見出されるような、自国が形成される以前の流動状態のうちに〈自由〉の価値を見出すようになった。そうやって、想起することで国家の枠外の領域へと逃れて行こうとする認識活動は、印パ分割以前のパンジャブ世界へとずれて行くのだ。そのように正当にずれて行くのだ。
「トバ・テク・シン」にはMantoの精神病院体験が色濃く反映されている。その即物的な世界の体験に応じてその表現にはいっさいの装飾がなく、簡潔さに徹しているようだ。「トバ・テク・シン」を書いて、Mantoは一見して国家の支配の及ばない場所を夢見たかに見えるが、そうではないと思う。LahoreMantoは自身の故郷であるパンジャブという世界に深く関わろうとしたのではないだろうか。印パ両国に分割される前のパンジャブ州があったのだ。それは実際に広がっていたし、その時空の広がりを彼はよく知っていた。まだ存在しなかった国境線の東と西にそれは現実に広がっていたのである。国境線というものは後から引かれたのだ。そのことを私たちは忘れてはならない。国境線とはあくまでも近代的なものなのだ。1947年、パンジャブ分割という事態に直面した人々は大いに困惑した。LahoreAmritsarは相互に日帰りで往来できる圏内にあったが、一夜にしてそうでなくなった。不条理にもその間に線が引かれ、別々の国が支配する場所となったからである。そうした、過去から見れば現在において矛盾する事柄が、「トバ・テク・シン」には強く主張されている。過去から見ればというのは、本来のパンジャブ世界から見ればということだ。ビシャン・シンが発し続ける意味不明の言葉はパンジャブ語の変形で出来ている。意味は不明だが、その内容ははっきりと聞き取ることができる。それは本来のパンジャブ世界が訴えようとするものを代弁しているのだ。

 パンジャブ世界の喪失という事態のうちに、パンジャブ世界が国家の重荷から解き放たれるようにしてMantoのうちにありありと浮かび上がって来た。その内容はいかなる形象に留まることのない、あくまでも抽象的な運動と言える。そうであればもう涙は流れない。