Thursday, June 11, 2020

Lahore日記 The Diary on Lahore


Lahoreの友人

 三  LahoreManto

 ニュー・デリーの書店で買ったヒンドゥー語のペーパーバック本がMantoの著作であると知ったのはだいぶ後になってからだった。「Meena Bazar」というタイトルで、目次を見るといくつかの章に分かれていた。そのときは内容がどんなものか想像さえしなかった。長い間読まずに放っておいた。Mantoのエッセイ集であることを知り、最近になってヒンドゥー語も少し読めるようになったのでざっと目を通した。面白かった。調べてみると、それは「Ganjey Farishtey(あからさまな天使たち)」のヒンドゥー語訳で、初版は1962年に出ている。ペーパーバック本になったのは1984年で、本の最終頁に記された購入日付は1985211日となっている。
 タイトルの「Meena Bazar」を直訳すれば「青空市」となるが、「ミーナ・バザール」といえばその発祥はムガール帝国時代に遡り、ハレムの女性やRajput族の女性、宮廷貴族の娘等が自ら市を開いて店棚を構え、衣服や宝石、手工芸品などを売ったのが始まりとされる。皇帝に皇太子たち、そして宮廷貴族のみが物品を買うために市場への入場が許された。一般人には閉じられていた。物品は高値で売られ、その利益は慈善活動に使われたという。したがって、「ミーナ・バザール」には「女性の市」という意味合いが含まれ、それは本の内容と無縁であり、妙な性差を示唆するという意味でMantoが不満を訴えそうなタイトルではある。ムガール帝国時代には上流階級の女性は「pardha(女性を外部から遮断する帳)」の向こう側に住み、ふだんは男性との交流を断って暮らしていた。こうしたことから、おそらく「秘密の裏側」のヒンドゥー語である「Pardeh ke Picche」として1953年に出版されたのが、後にタイトルが「Meena Bazar」に差し替えられたのだと考えられる。
「ミーナ・バザール」の内容は主にボンベイ映画界の様々な人物を活写したものだが、ウルドゥー語版の「あからさまな天使たち」と比べると、その章の数が少なく、内容構成もかなり異なっているのが分かる。おそらく、「秘密の裏側」が「あからさまな天使たち」が本になる前にインドで出版されたために、当然「ミーナ・バザール」にはMantoのエッセイ全体が網羅されていないのである。つまり、それは連載途中にある文章をまとめたものなのだ。そして、あからさまな天使たち」の方も、編集者による構成上の判断からか、すべての文章を網羅していないが、「ミーナ・バザール」にはない、最終章の「あからさまな天使たち」を読むと、「冷たい肉」裁判後のLahoreで途方に暮れていたMantoが、自分が親しくしたボンベイ映画界の多彩な人物群について文章を書こうと思い至った経緯が分かる。
 最初に、「妖精顔のナシーム・バノ」という記事がLahoreの日刊紙「アーファーク(地平線)」の文芸欄に掲載された。ナシーム・バノは「Beauty Queenとも「インド映画における最初のスーパー女優」とも呼ばれたボンベイ映画界の人気女優で、彼女が出演する映画作品の広告では「妖精顔のナシーム」という異名が取って代わられていた。
 この最初の記事は一部の読者から批判された。すなわち、実在する人物を描写するには定型的な作法に則って為されなければならないということと、憧れの銀幕界を一個人の印象をもってしてその私生活まで公に曝すのはもってのほか、ということのようだ。つまり、インド映画はすでに一つの特権的な地位を占めていたのであり、俳優もそれに準じていた。Mantoは俳優であろうと誰であろうと、ただ人間を描きたかったのだ。Ganjey Farishtey」の「Ganjey」の語は「剥き出しの…」という意味であり、つまりMantoは人物から余分な粉飾を取り除き、その内面をあからさまにするような表現を意図したのである。
 その文章を、Mantoボンベイの映画界で仕事をしていた当時の記憶に基づいて書いた。おそらく、親しくした人の姿や身振り、交わした会話を想起しながら、それと共に時間を経たことで、人物の内面が新たな様相を伴って生き生きと想起されてきたのにちがいない。LahoreMantoは、過去の数年間にわたって自ら心身を費やし、いまや別の国となったボンベイをめぐって、そんな想起の仕方とその表現に取り組んでいたのではないかと思う。
「あからさまな天使たち」の文章のうち、「ミーナ・バザール」にも収録されている「三つの球(Tin Gole)」という文章を、一部訳しながらその内容について検討してみたい。映画界とは関係のない知人を描いたものだが、分析的な内容を伴いつつ、そこにはある人物の奇妙な内面が描かれている。

ハサン・ビルディングのアパートの一号室の部屋で、私の前にある机の上に三つの球が置かれていた。私は注意深くそれらの球の方を見つめながらミーラ氏が語るのを聞いていた。この人物に私は初めてここで会った。1940年頃だった。私はボンベイを離れてデリーにやって来たばかりだったが、そのときからそれほど時が経っていなかったように思う。彼がアパートに住む友人であったのか、それとも何らかの用件でここにやって来たのか私には覚えがない。けれども、私がデリーのニコルソン通りにあるサーダット・ハサン・ビルディングに住んでいることを彼がラジオ局で知ったと言うのを私は覚えている」。
 ミーラ氏は詩人で、文学雑誌を編集していた。Mantoに短編を依頼したのがきっかけで手紙のやりとりが始まったが、その手紙に惹かれてMantoはミーラ氏に関心を抱くようになったと言う。「三つの球」は、このミーラ氏をめぐる文章である。
ミーラ氏が書いたものはとても率直で明解だった。その分厚い手紙の、ペン先から現れ出てとても正確に印された文字の連なり、そして三角形のように単純に構成されてすべてが繋がり合った表現、私はその文章に強い印象を受けた」。
 Mantoはその筆跡からある名高い人物との同類性を見出し、そのことによって彼の内部に何かしら露になりつつあるものが感じられたと言う。しかし、その内面的な動きについて考えをめぐらしても、「何か塞ぐもの、あるいは染みのようなものが遮り」、それが何かを彼は理解できないでいる。それゆえ、そのことに関してどこか「避難できるような場所」を、「その土台となるものを打ち立てるつもりでいる」、と意を決している。
 Mantoの作品についてミーラ氏は、「作品内容の曖昧さと複雑さのゆえに、それはつねに作者の理解から離れてより高まっている」、と指摘した。的確な指摘だと思う。その「複雑さ」については分からないが、確かにMantoの作品には曖昧さがある。というか、読後に曖昧さの中に放り出されるという印象がある。曖昧さの中にこそ正確さがあるという現代的な観点もあるが、そこまでMantoが方法において意識的であったかは分からない。むしろMantoはそうした指摘を受けてさらに踏み込んで、「彼は詩において韻を踏まないところに隠された言葉が発せられているという考えをもっているようだった。そのことに気づいて、彼の詩論が私にとってますます渦巻くようなものとして感じられた」と言う。いわゆる形式よりも内容をあからさまに示そうとする視点から、内部に隠れるようにして配列されているものが自ずと表現される仕方が二十世紀初頭から現代文学において取り上げられており、ミーラ氏はMantoにとってそうした視点と方法を共有できる貴重な人物だったのである。それゆえ彼の内部で渦巻くものとは、そうした「隠された言葉」を露にするような現代的な表現を実現する方法に関わるものであったと考えられる。
 ヌーン・ミーム・ラシッドという詩人がいて、彼は押韻を無視した詩作をする師に付いて詩を書いていた。「ヌーン」・「ミーム」はアラビア語のアルファベット名であり、「ヌーン・ミーム」が詩人のペンネームであることが分かる。Mantoは彼にデリーで遭う機会があった。「彼の話はよく理解できたし、彼を一目見ただけで自分との同類性を理解できた。一度私がデリーのラジオ局に入る際に、そこに停めてあった泥除けのない自転車を見て傍から冗談を言ったことがある。『何だ、これは。これは君か、そして君の詩か』と。しかし、ミーラ氏に会って以来、私の機知には余分なところがあり、彼が示唆する言葉の隠れた配列の仕方以外に他のモデルを求めないようになった」。
 ここまでMantoは、かつてミーラ氏の手紙やその発言を契機にして自身のうちに何かしら潜在的なものが渦巻くのを抑えることができず、それについて考えめぐらしたと言うが、そのことはすなわち、現在におけるMantoが過去を想起するのに伴って何かしら渦巻くものが立ち上がって来るのであり、その渦巻くものにしたがって記憶を辿る、というか記憶を遡っていく作業が始められたと考えられる。実際にそうでなければならないから、それはMantoにとって極めて現在的な作業であった。つまり、内面で渦巻くものについて考えめぐらしても何か遮るものがあって理解できないでいるというのは、過去の時点においてもそうであったが、そのことは過去を想起する現在においてより明確に彼が関わろうとする表現上の〈問題〉となっているのである。
 そしてふたたび冒頭と同じ文章が、「私の前にある机の上に三つの球が置かれていた…」と記される。このエッセイのなかでMantoはこの表現を三度繰り返している。つまり、彼は繰り返し過去の同じ時空に遡ろうとしているのだ。この文章はだから、彼にとって記憶を遡る際に指標となる呪文のようなものだったのにちがいない。その〈三〉という数に意味がある。
「…三つの鉄の球が紙巻煙草の銀紙に包まれている。そのうちの二つは大きく、一つは小さい。私はミーラ氏の方を見た。彼の二つの瞳は輝き、その上にやけに鳶色をした髪に被われた頭が目に入り、それらも三つの球だった。二つはとても小さく、一つは大きい。私はこの類比に気がつくと、それに即座に反応して私の口元が綻んだ」。
 Mantoは〈三〉という数に接近していく。それも強引に。
「その三つの球はといえば、それらを転がすのにそこに外部からいかなる力を与える必要もない。手でちょっとした動きを指示するか、想像というわずかな振動だけでも、あの三つの物体を高いところからさらに高くに上げたり、低いところからさらに低くに沈めたりといった散歩をさせることができた。そして、この導師に向かってその三つの球が言ったのだ。『おそらくどこかに置かれていた際に出遭ったのですね。あの解説者たちによる触込み文句こそが、そこに一つの始まりも終わりもない永遠の真実を開示したのです。それは美と愛と死で、この三つの組合せでできるすべての複雑で難解な角度は、ただ三つの球の存在理由、それを理解することにかかっているのです』と。しかし美と愛の結果については、彼は敗北を喫したのをあの眼鏡越しに見たのだった。眼鏡のレンズに髪の毛がかかっていた。そのため、それを見たのにその形がはっきりしていなかったのだ。このために、彼という存在すべてのうちに、受け入れ難い一度の告知による混乱という毒が回ってしまったのだ。つまり、一つの点から始めたのに、いつのまにか一つの周辺へと移り変わっていたのだった。あらゆる点において、その点は始まりでありかつ結果でもある、という観点がある。それゆえに、彼になされた告知は的を突いたものではなかった。彼の表情は人生に向かうというよりは死に向かっていた。自身を導くのに絶望の方へと向かい、始まりと結果を自分の手中に握ったままだったのだ。その両方をじわじわと弄びつつ、手の中から漏れるがままにさせていたのだ。とはいえ、快楽を好む者のように彼は喜びの表情を見せてはいた。そこには彼の情念がぐるぐる渦を巻いていたのだ。この三つの鉄の球のように…。それらを私は初めてハサン・ビルディングのアパート一号室で見たのだった」。
 これはどういうことか。「三つの球」が語りかける言葉もそうだが、ここに書かれた内容は速度があり過ぎて、それが誰のものであるのかはっきりしない。Mantoはミーラ氏が持っている「三つの球」を鏡に見立てて、そこに映し出されてくるものを、すなわちすでにミーラ氏から語り聞かされた彼の経験を自身の記憶のうちに再統合しながら、刻々と変動しつつあるそうした記憶のうちに渦巻くものがあると考えているのだろうか。その場合、ミーラ氏の「三つの球」はManto側に移っているだろう。いずれにしても、ここにはこれから語られることの大まかなスケッチがなされている。
 さて、ミーラ氏という人物だが、彼の姿格好からMantoはイスラーム神秘主義のスーフィー行者を連想している。
「彼の首にはとても大きな数珠を繋げた首飾りがかかっていた。上の部分だけが開いたシャツの詰襟からそれが覗いていたのである。私は、この人は自分の外見を構わないのだろうかと訝った。とても長く濃い髪の毛が首の下にまで伸びていた。口の周りだけ髭を生やしたフレンチ・カットのような顎髭、それに汚れた爪。寒い時期ではあったが、そのからだは何ヶ月も水を浴びていないことが私には知れた」。
 蓬髪に過剰な装身具、そして垢まみれのスーフィー行者を私もよく見かけたが、ミーラ氏の姿格好はそこまでには至っていない。いっぽうでスーフィーの神秘思想はありふれた四行詩の世界にまで広く浸透している。スーフィー道には、唯一神と対峙しつつ〈一〉へと接近していくための思考が培われてきた。人を避けて一所に留まり、瞑想し続ける者もいれば、一所に留まることなく生涯にわたって旅を続ける者もいる。いずれにしてもスーフィー行者は神との合一を求めて見果てぬ旅をすることになる。ここでミーラ氏の詩の中の一行が紹介されているが、それは解釈次第でスーフィー道に特有の考えを吐露したものとみなすこともできる。
「町から町へと彷徨い、旅人は家に帰る道を忘れてしまった」。
 真実を探求する過程で自己の束縛から放たれ、それゆえに「家に帰る道を忘れた」のなら、「家」は自己の謂いであり、あとは神との合一へと進む道が目の前に開かれているだけだ。しかし、「家」を存在根拠という意味合いに採れば、「家に帰る道を忘れた」とは、探求の果てに目的地も定まらず、ただ迷っているだけという事態となる。
 この詩が最近インドで製作された映画「Manto(2018)」の重要な場面で引用されているのを知った。「冷たい肉」が猥褻罪で訴えられ、LahoreMantoの住まいに警察が家宅捜査に入り込み、それと並行してアルコール中毒に陥っていたMantoにこの詩が幻聴のように聞こえて来るという場面がある。微妙な演出ではある。しかしその後に、「人のものも自分のものも知らず、自分のものと呼べるのが誰なのかも忘れてしまった」、と続くが、これはどこから採って来たのだろうか。私には分からないが、そこに探求者というよりは、「放下」という言葉、そのイメージを私は思い浮かべてしまう。
 この詩を提示してすぐにMantoはその解釈をしている。
「旅人は家に帰る道を忘れなければいけなかったのだ。そうであればこそ、旅人は移動する際にその出発点に何の標も置かなかった。自分がすでに描いた軌道のひと続きと共に歩き回る、彼は間違いなくこの場所を幾度も通り過ぎたのだ。しかし、彼には覚えがなかった、自分がその長い旅をどこから始めたのかを。そして私には解るのだった。ミーラ氏が、自分は旅人であること、それが旅でありそこに道があること、この三つ組が彼の心と頭脳の隙間に軌道のようなかたちで配置されているのを忘れてしまっていることを」。
 Manto も二重に解釈している。さらに言えば、Mantoの中で〈三〉と〈一〉が対立している。というか、Mantoの中では〈一〉から〈三〉を取り戻そうとする動きがある。〈旅人〉という〈一〉を、〈旅人〉と〈旅〉と〈道〉から構成されるものとして説明し、「三つ組」へと差異化している。〈三〉と〈一〉が対立しているのはむしろミーラ氏の内面においてであると想定される。〈一〉に向かう道において〈三〉を捨てようとしているからである。そうであっても、ミーラ氏が「三つの球」を持ち歩いているのには何か訳があるのだろう。そこには何かしら人間の業を感じさせるものがある。
 ミーラ氏の「ミーラ」という名前について、「彼はミーラという名の娘に恋をした。そして、アッラーのおかげで彼はミーラ氏となった。このミーラの名を尊重することから、彼はミーラ・バイの詩作品を好きになりはじめた」とされる。ミーラ・バイ(14981547)はラジャスタンの王族出身で、ヴィシュヌ派のバクティ運動に関わった名高い女性詩人である。そして、
「恋する人の実際の姿が容易く求められないときには、素焼きの水差しを、職人のように轆轤を回して自分の想像の土で、最初は恋する人の姿かたちに似せて造りはじめた。しかし後には、次第に恋する人のからだを造形するのに娘の完全なる美しさ、娘の完全なる現れ、その唯一無二の現われを、轆轤を速い速度で回しに回して、そのつど新たに生まれて来る真剣さが選び採っていった。そしてあるとき、ミーラ氏が作業する手、その想像というとても柔らかい土と轆轤、連続する回転、それらがまったくの球になるという事態になった。どんな脚もミーラの脚に成り得た。どんな襤褸布もミーラの衣服にすることができた。どんな旅もミーラが旅する道に変えることができた。ところが最終的に、想像の柔らかい土のとても良い香りのする香水が悪臭を放つまでになってしまった。それで、彼はかたちができる前にそれを轆轤から取り外してしまった」。
 ミーラ氏が最初に採った試みはスーフィー行者の方法と同じだ。彼らは創造的想像力を駆使して唯一神のヴィジョンを目前に描き出し、そのとき自ら創造した対象と一体化しようとする、すなわち自己を溶解させるようにして神との合一を果たそうとするのだ。しかし、その方法にミーラ氏は失敗したのだった。おそらくそれは、彼が神との合一を求めるスーフィー行者ではなく、自身の内面を表現することに殉じる詩人であったからである。スーフィー行者は形を求めない。というか、自らヴィジョンを創造するがそれと一体化した後には全てが融合して自他の区別さえなくなってしまう。それに対して表現者はあくまでも形を求め、その形を遺そうとする。形が悪臭を放つというのは、そこに自己の燻習を感じてしまうからである。〈一〉を求めるような表現者ほど、その燻習に敏感なはずなのだ。
「ミーラは高い屋根がある家に住んでいた。ミーラ氏は道を忘れて下の方に下り始めるようにして彷徨っていた。彼は素焼き職人が隠れたことにまったく臆することがなかった。それゆえ、轆轤から想像の土を取り外したときには彼の一歩一歩にミーラのイメージが重なっていた。だがそれは彼の靴の踵のように次第に擦り減っていった。最初、ミーラはふつう恋の対象がそうであるようにとても美しかった。しかしその美しさは、衣服で着飾ったありとあらゆる女性を見ることで少しずつ彼の心と頭脳の中で変容していった。ミーラの本当の姿から離れていることの苦悶にさえもミーラ氏は臆することがなかった。もしそれを気にするとなれば、これほどの苦悶という王座に居ることの、その何ものをも隠すことのない月夜が、彼の詩作品のうちにきっと存在することになるだろう。それは、ミーラを恋するやいなや、彼の心と頭脳に照らし出されたものだった」。
 神に一度想いをかけた後にふたたび表現の道へと下り、そして一転して下の道を歩み続ける者とは、神を賛美し神に近づく努力をしながら神に近づけないとあっても、神に近づけないという苦悶を、その悲惨を、身をもって味わう者のことなのだ。その味わいのうちに表現が顕われると言うが、しかしその表現はあまりに人間の業に寄りかかっていないだろうか。というのも、神に近づけない苦悶という事態はあくまでも自己への執着によってもたらされているものだから。
「美と愛と死、この三つを貫く紡錘が圧縮されることで、ミーラ氏という存在の中で一つ球となったのだ。ただしこの世の全ての三角形が彼の心と頭脳の中で円形になったというのではない。とにかく、彼の中の三つの根本原理はその秩序が崩壊するようにして相互に混乱してしまった。ときには死が最初で美が最後に、そして愛はその中間に、またときには愛が最初で死がその次に、美が最後に、こうした騒ぎが感覚できるような仕方で起き続けたのである」。
 〈一〉を求めながら〈三〉を基にした表現にこだわり続けると混乱が起きるのか。〈三〉を〈一〉へと圧縮するという発想は異様で、よく分からないものだが、Mantoにはキリスト教の「三位一体」の働きについての言及がないから、ここには聖と俗の対立という考えが根底にあるのではと推し測られる。聖は聖、俗は俗と激しく区分けする世界においては、〈三〉と〈一〉は対立したままにある。ヒンドゥー教の世界では、その対立は、〈三〉が永遠に循環する〈一〉として捉えられることで見た目には解消されている。とはいえ、ミーラ氏はまた違った対処の仕方をしていたようだ。
「誰もが女性に恋をすると三つの偶像は同じ種類のものとなる。美と愛と死は愛する者と愛される者とその結合となる。ミーラとのアッラーのおかげによる結合は、知る者たちだけが知っている、あるいは、そうならなかったのならなり得ない、というようなものだった。このそうならない、もしくはなり得ないを拒否するのはミーラ氏だけだった。彼は愛されることに失敗し、この三つ組を壊すのに、そのうちの一つが完全性を獲得したにもかかわらずその本質は変容してしまった、という仕方で一つに結びつけたのである。彼は、その面が直線状に相対するようにしてある三つ組を一つに押し潰したのだ。恋する人と結合するのに、いまや恋するその対象そのものがそこにある必要がなかった。彼自身が愛する者であり、かつ愛される者だった。そして彼自身のうちに結合があるのだった」。
 ミーラ氏は、〈三〉のうちの一つを優先させるという仕方で〈一〉を実現しようとしたが、その際に、その〈一〉の本質は自ずと変容する、という状況を受け入れるという仕方で〈三〉を統合するような〈一〉を捉えたのだと言う。しかるに、その〈一〉は中心とはならずに、知らず知らずのうちにその周辺となるものに取って代わられ、おそらくそれは〈三〉のうちの一つである〈死〉に変容していたのだった。その〈一〉は、〈愛する者〉と〈愛される者〉と〈その結合〉に差異化されているが、そのすべてが自己においてなされるとなれば、それは単なる自意識へと変容せざるを得ない。自意識は他者を知ろうとしない。したがって、この〈死〉とは言い換えれば、〈現在〉という感覚の〈死〉ということだ。美と愛と死という現在感覚の三つ組を押し潰して、〈詩〉の表現者が現在感覚の〈死〉に向かう。これは悲惨なことだ。
「今になって考えると、私はあの三つの球の上でこの世のすべてを経巡り、そのすがたを目にしたのだ。三つ組とは被造物の別名ではないか。それは私たちの人生における神聖さのうちに存在するすべての三角形なのである。そこには人間が造られたというその力の証しがないだろうか」。
 そう考えてMantoはこの世に浸透している様々な三つ組を列挙しながら、「私の考えでは、ここに並べたてたようにいくつもの三つ組が得られるだろう。それゆえ、その繁殖、そしてその伝播という行為、さらにはそうした行為の軸となるものも、人類における三つの器官なのである」、と言う。
 Mantoがここに至って言及する「人類における三つの器官」とは、それは言い換えれば、〈認識者〉と〈認識対象〉と〈認識自体〉というギリシア哲学で良く知られる認識活動における三つ組のことであろう。〈認識者〉は伝搬させ、〈認識対象〉は繁殖する。そして、そうした行為の軸に〈認識自体〉がある。ことに想起という活動においては、この三つ組の働きに注意を向けることが欠かせない。それゆえ、認識活動における三つ組が意識化され、組織化さることで、人間の思想は連綿と展開されてきたのである。そうした意味でそれらは「人類における三つの器官」なのである。いわゆる世俗に繁茂する三つ組にではなく、ここに至って認識活動という歴史的な〈三つ組〉にMantoの焦点が当てられることになった。はたしてMantoは、認識活動のような「人類における三つの器官」へと通ずる、そうした歴史感覚を抱えるような動きを彼の中で渦巻くものとして見出し始めたのだろうか。
 そのいっぽうで、「今になって考える」Mantoとは、現在の状況において〈死〉に向き合い易い自己を客観的に捉えようとしている者なのかと私は危惧してしまう。とはいえ、それでも〈三つ組〉が彼を生の方に繋ぎ止めているようだ。〈三つ組〉とは〈一〉を差異化する確かな力なのである。道はまだ開けている。
「ユークリッド幾何学では三角形にとても重要な意味をもたせてある。他の図形に比して、三角形は他のどの形にも変えることのできないような歪みも凸凹もない形をしている。しかし、ミーラ氏は自分の心と頭脳、そしてからだというこの三角形のうち、記憶(追想)を一番にしてしまった。角をその場所から取り除くようにして、三角形を押し潰してしまったのだ。その結果、周辺にある他の事物もこの三角形と同じように変容する、という事態が起こってしまった。そこにミーラ氏の詩が顕われはじめたのだった」。
 「追想」とは〈認識者〉のみへと圧縮され易い慣習で、自意識と同じく、〈認識対象〉と〈認識自体〉を忘れさせてしまう傾向がある。そうした意味で、「追想」はあたら現在感覚の〈死〉に至り易い。あくまでも〈現在〉に軸を置いた「追想」でなければそれは路頭に迷ってしまう。「追想」しつつ路頭に迷うという感覚も大切だが、そこには迷いをもう一つの眼で見ることのできる超越的な視点が欠かせない。超越的な視点とは、認識活動の〈三つ組〉を俯瞰することのできる視点なのである。
「部屋に誰もいなくなると、彼はとても落ちついた気分になり、自己を高めるのが常だった。この彼特有の破滅の在り方、そこに隠された配列の理由があることまでは私には理解できる。…彼は自分に起きていることが詩の中に提示されてくるのを望んでいた。しかし不運なことに、彼には不運というものまでもが壊されていたのである。彼は壊れたその不運を非常に粗野な仕方で繋ぎ合わせ、それを自分の目の前に置いたのだ。それは彼の知識だった。その知識の襞のうちに彼は自分の無能さを十分に感じることになった。そして普通の人のように、彼は自分のその弱点に自分個人の特別な色をつける努力をした。そうやって、次第にこのミーラをも、自身が正道を踏み外したという廉で磔の刑にしたのである」。
 表現が自己の制御なしに自ずと出来するという現象は多くの表現者が望むことでもある。そのときに「不運が壊されている」とはどういうことか。運と不運とがあり、この運の衰勢、その変動からも見放されたということなのか。その代わりに知識を頼りにしたが、それも不十分であると知り、ふつうの表現者となった視点から、方法を誤った超越的な自己を処罰したという。その結果、
「彼の詩は一人の正道を踏み外した人間の作品である。それは人間が抱える非常に深淵な屈辱感に依っているにもかかわらず、別の人間のために宙高くに掲げられた風見鶏の仕事を為すことができる。彼の作品は一つの〈ジグソーパズル〉であり、そのばらばらになった断片を落ち着いた静かな心でもって一つのものに繋げて見る必要があるのだ」。
 本当にそうだろうか、と私は疑問に思う。ここに至ってMantoは将来への不安が暗雲のように降りかかってくるのを感じ、自己と自己の作品を擁護しているのではないかと勘ぐってしまう。
「ミーラ氏は詩の高貴なる純潔と共に飲酒し、高貴なる純潔と共に大麻を吸い、高貴なる純潔と共に人々と友情を育み、友情を維持した。自分の人生において最高に尊厳的な願望を燃やしてしまった後に、彼は他の誰に対しても欺くような人物にならないようにした。この価値ある撤退の後、彼は放蕩しないと知られるほど無害な人物となった。町から町へと彷徨い続ける一人のさすらい人がいる。一夜の宿から宿へと歩みつつ、自身の心を温める場所は自身によって開かれる。とはいえ、彼がそちらの方を見れば、前方に現われ続けることがないがどこかそんな場所があり、そこには何か破滅的なものがある。囲い込まれていない三角形があり、そちらの方へと、その根本原理はといえば、自身の場所から退き、三つの軌跡をした形に沿ってただ放浪し続けることだった」。
 これが、詩人ミーラ氏という人物を見定めるMantoの総括となっている。目の前には「囲い込まれていない三角形」、すなわち〈三つ組〉が機能しない、地獄のような永遠がただあるだけで、しかもそれを想定するMantoがそこにいる。おそらく最初は、「三角形のように単純に構成されてすべてが繋がり合った表現」にある種の霊感を受け、そこに渦巻くものを感じ、〈三つ組〉の働きを見定めようとする旅をしてきたのだった。文章を書きながらあちらからこちらへと移動してきたのだった。しかるに、文章を綴るという具体的な形にあっては、〈ミーラ氏に関わる記憶〉、〈自身の記憶〉、そしてそれらの〈想起に関わる現在〉という三つ組に左右されざるを得ない。そして、それらは抽象へと昇華されることなく、あくまでも具体的なモノとして形づけざるを得ないのだった。その具体性を伴う表現形式が、結果的に破滅への不安へと行き着かせているのだろうか。というのも、具体性を伴う表現形式においては、中心を意識していながらも、知らず知らずのうちに中心は周辺へと変容していくからである。
 この後に続く文章はミーラ氏との後日譚で、ミーラ氏にとっての破滅への道として締めくくられている。現在時点からの分析は失せ、物語風に語られている。それを要約しておこう。
 追想の舞台はボンベイへと移り、デリーでの訪問からだいぶ経ってミーラ氏が「ひどく悪い」状態でMantoの住まいを訪れた。ミーラ氏はもう「三つの球」を持っていなかった。当時、Mantoは映画制作会社「フィルムスタン」で「八日間(1946)」の撮影にかかっていた。ミーラ氏は酒がなくてはいられない状態になっており、Mantoに酒代を要求する。Mantoは仕方なく与えるが、「その後非常に長い間、彼に毎日七・五ルピーを与えるのが私の義務になった」。七ルピーでラム酒のボトルが一本買えたので、残りの50パイサは彼がMantoのところにやって来るための交通費だった。
 ミーラ氏はボンベイの遠い親戚筋の家に居候していた。昼間から家の主人の勘定で酒を飲んでいたという。「親戚の紳士はしばらくして後、ミーラ氏を負担に感じるようになった。彼は独りで飲んでいたが、自分が決めた許容量以上を決して越えることがなかった。それで、ミーラ氏に対して不満を抱いた。ミーラ氏は主人と一緒の時には自分の限度を守って過しながら、他方ではそれとはまた別の限度を設定していたからである。何の限度ももたない者は愚か者になる。しかも他人に求め続けながら自分の探求の軌跡をつくっているというのだから。この軌跡がどこから始まっているのか、それがどこで終わるのか、彼は忘れてしまっている」。当時のMantoは、ミーラ氏の飲酒に関する過度な側面を知らなかったようだ。ところが、ある日のことそれを知る機会があった。Mantoは、「そのことを想い出すと私の心は今日でも意気消沈してしまう」、そう告白している。
 その日はミーラ氏とMantoの友人、そして撮影スタッフの四人でMantoの家で飲むことになった。その日はあいにくドライデーで、雨季の土砂降りの中みなで郊外のバンドラまで酒を買いに行った。夫人と子供はLahoreに行っていなかった。夜の一時過ぎまで飲み、おひらきにしようとしたが、ミーラ氏だけが反対した。酒がまだあることを知っており、もっと飲みたかったのだ。Mantoと友人がラム酒をもう一本開けるのを拒否すると、ミーラ氏の態度が変わり、命令口調になった。Mantoは初めてミーラ氏に面と向かって非難の言葉を吐いた。「あんたのことを将来想い出すとき、私はきっと後悔するよ」と。
 翌日の朝は何もなかったかのように過ぎたが、「昨夜の事の次第は私たちみんなの心と頭脳にぶり返していた。しかし、誰もそのことに注意を向けなかった。ミーラ氏は私から八アーナを受取り、生彩を欠いた雨具を羽織って出て行った。私は彼をとても不憫に思った。そして自分に対する怒りが湧き上がってきた。昨夜は無益な言葉で彼を苦しめることになる原因を私はつくったのだと、心の奥底で自分を激しく責め立てたのだ」。
 その後もミーラ氏は酒代を乞いにやって来たが、映画産業の状態が悪化し、Mantoの生活も窮乏してきた。ミーラ氏もそのことに気づき、「ある日のこと、彼が酒をやめる目的で大麻をやるようになったことを私は知ったのだった」。
 Mantoは大麻を嫌悪していた。いっぽうのミーラ氏は、「この酔いだって何も悪くない。その経験にはそれぞれの色があり、それぞれの性格があり、それぞれの調子がある」と言い張り、大麻の酔いの特殊性に関して自身の分析をMantoに披瀝するほどだった。
 Mantoの大麻経験は感覚の変容に尽きた。それに対してミーラ氏の経験は異なるものだった。ミーラ氏は酔いには様々な段階があることをMantoに語って聞かせた。ミーラ氏が大麻の常習状態に至り、ある日のことエクスタシー状態について話をしていたときである。「彼はちょっと混乱した様子でそこにある物をあっちへやったりこっちへやったりして混ぜ合わせ、上にやったり下にやったりして、そしてふたたび混乱した様子になり、次第に前方へと張り出した額を打ち鳴らしながら不快な声を発し始めた。蛇がしゅうしゅう音を発して這い回る感じがするが、とても柔らかい動きだ…。最初はヌーンだった、すべて曝け出すかのように…。いまやその束縛のなさのうちに変化が起きつつあった。…ゆっくりと、…少しずつ、あたかも猫が干し唐黍豆を手足で遊ぶようだ…。ああ…、乱暴にニャーと鳴いた、エクスタシーが壊れた…。何かが隠れてしまったのだ。それで彼は酔いから目覚めざるを得なかった」。「…少しの空白の後、彼はふたたび酔いの段階を新たに最初から最後まで感じたようだった。見たまえ、いまやふたたびヌーンをはっきりと示す準備を始めたようだ。混乱が始まった…。この内なる申し立てに傾注するために彼は周辺にあるものをまず集めにかかっている。キズものやガラクタも集めている…。なった…。顕われ始めた…。ヌーンが上になった…。徐々に下になった。ふたたびあの混乱…。あのキズものやガラクタ…。周辺の物を集めるのに、ヌーンがそのからだを捩るようにして奪った。それから四つん這いになった…。鼻声をたてながらからだを伸ばし続けている…。誰かが彼を強く打っているのだ。絹のハンマーで…。その打撃の音は耳に聞こえない。が、それはやさしく撫でるようだ。その感触も軽く感じられる…。ゴウン、ゴウン、ゴウン…。そんなふうに幼子が母親から乳を飲んでいる…。いや待て、乳の泡になったぞ…。見ろ、彼はまた壊れてしまった…。そしてふたたび酔いから目覚めざるを得なかった」。
 Mantoは曖昧に示しているが、ミーラ氏はあの音韻を踏まない詩を書くヌーン・ミーム・ラシッドだったのだ。驚きである。Mantoの短編小説では、最後の最後になって作品の意味が開示されるという傾向があり、それはおそらく彼の短編小説家としての方法であったろう。それゆえ、この作品でもヌーンについてMantoはデリーで会ったことを一度記した以降は、最後までその名を意図的に臥せてきたのである。とにかく最後に至ってミーラ氏の正体が露にされたのだと考えられる。
 Mantoはミーラ氏の破滅を予想してはいたが、あるときミーラ氏の返答が異常なものであったことから、「ミーラ氏の破滅はいまやそこまでに達したのかと感じ取った」。その後まもなくミーラ氏は亡くなった。「良かったのだ、彼があれからまもなく亡くなったのは。というのも、彼の人生が崩壊するのに、さらなる崩壊を進めるようなあからさまな言葉は要らないからだ。もし彼がもう少し生きていたならば、きっと彼の死も痛ましい混乱をきたしていたことだろう」。
 ここで文章は終わっている。Mantoの破滅までにはまだまだ時間がある。おそらく彼が文章を書き進めるうちにミーラ氏という存在の渦巻くような〈軌跡〉が強く主張し出して、〈三つ組〉の分析は影を潜め、一筋の〈軌跡〉だけが彼の内に遺されることになったのだろう。