Tuesday, February 22, 2022

Lahore 日記 The Diary on Lahore

三 パンジャブ回廊

  5 マニ教と如来蔵思想

 

仏教の表現はパンジャブ回廊を経由してインド北西部のガンダーラ地方に出ることで大きく変容した。瞑想修行によって意識作用の不必要な展開を逃れることから、Buddhaと同様の、意識の覚醒した状態が全ての衆生に可能であるとする「bodhisattva(覚醒途上にある衆生/菩薩)」の概念を核とした社会運動へと展開された。そして、そうした運動に伴うbodhisattvaの具体的なイメージを表現する流れが確立された。さらに仏教の表現はKushan帝国が中央アジアにつくり出した人と物資が流動する空間へと出ることによって大きく変容した。「如来蔵(tathagatagarbha)思想」はインド世界で提唱され、「如来蔵」についての理論展開がなされたが、大乗派の一部が中央アジアに出ることで、それまで「如来蔵」の可能性をめぐる理論であったものが「如来蔵」を実体的なものとする考えへと展開され、そのことによって、「如来蔵」を信仰対象とする宗教活動としての仏教へと変容した。すなわち、「如来蔵」が全ての衆生に備わる実体的なものであると説かれることによって、仏教は仏陀の教えという次元から、様々な民族の信仰を受容することのできる普遍的な宗教へと進み始めたのである。その一方で、生命の内部に「如来蔵」という状態が実体的にあるとみなされることによって、「瞑想(dhyana/samadhi)」の方法は、「観想」として意識作用を肯定的に捉える方法へと変容していった。「瞑想」における意識作用の統御から脱して、意識作用をヴィジョナルに育成する(bhavana)体験へと展開されることで、意識作用における潜在力が認められることになったのである。数あるbodhisattva像やadhibuddha(原初仏)像の表現はそうした潜在力の具体化と考えられる。bodhisattvaadhibuddhaのイメージを眼前にありありと観るようになった「観想(pratyutpanna)」の方法は中央アジアの仏教徒に瞬く間に伝播した。バクトリアからオクサス河を越え、シルクロードに沿ってTurfan近郊に造られたBezeklik石窟群はそうした観想修行の中心地となった。「ガンダーラ(Gandhara)」とは「<緑薫る>地」の意であるが、中央アジアはそうした緑豊かなインド世界とは異なり、荒凉とした山地や礫砂漠といった乾燥地帯がどこまでも広がる世界である。デカン高原西部に造られた石窟群の緑なす環境と、アフガニスタンのBamiyanBezeklik石窟群のある岩砂漠のような環境とでは全く異なっている。ましてや冬期にはKabulBamiyanでは積雪がある。こうした環境の変化が瞑想の展開や仏教思想に及ぼした影響が考えられるが、それ以外にも重要な要素がある。中央アジアには西方や東方から移動して来た、インド世界とは異質な考えをもつ人々がいた。ザラスシュトラの教えを受け継ぐ人たちはすでに紀元前からガンダーラ地方にいたと考えられるが、仏教が中央アジアに出る頃のイランのゾロアスター教は西部イランのメディア人聖職者(Magi)の影響を受けて精緻な世界観を編み出していた。そして、三世紀になってゾロアスター教を国教とするササーン朝がイラン高原を中心にその勢力を拡大すると、迫害を受けたグノーシス派のマニ教徒やキリスト教のネストリウス派の人々がイランから中央アジアへと続々と逃れて来た。マニ教と大乗派仏教との接触、その相互影響については最近かなり研究がなされている。背景となる民族も言語も異なる両者を仲介したのはイラン東部のパルティア人や中央アジアのソグド人といったイラン系の人々だった。パルティア人はもともと遊牧系民族であるが、イラン高原を中心に広大な王国を築き、周囲の文化を取り入れることで独自の高度な文化を創出した。一方のソグド人はおそらくオクサス文明(BMAC)を担った民族にまで遡ると思われる古くからの交易人である。マニ教は一時、東は中国から西はアフリカ北部、ヨーロッパ西端にまで信者をもつ大きな信仰勢力であったが、カソリックによる徹底的な迫害にあって中世には消滅した。マニ教徒もソグド人もパルティア人ももういない。ソグド語を話す少数の人々がパミール高原の谷合に現在も細々と生活を営んでいるが、彼らはかつてのような交易の民ではない。すべては消滅し、これから述べようとする主題に関する情報は痕跡として遺されているものばかりである。とはいえ、その痕跡に接することで何かしら<亡霊>のように立ち上がるものがあり、それを生き生きとした動きのように感じるのはなぜだろうか。すでに消滅してしまったものを想起しようとする際に何かしらの神経が働くせいだろうか。それを歴史感覚の働きと言うのだろうか。しかしつきつめて考えれば、この世界における一切の情報は断片でしかない。歴史に関わる神経とはそうした断片から幾ばくかの連続を想定しようとする試みでもある。因果関係を見出し、連続性として確固たるものにしようとする意識作用がそこには働いている。翻って見るならば、生の感覚、すなわち生きることには連続性への執着が不可欠のように思われる。連続性を支えようとするそうした意識作用には必ずや想起と再生の神経が働いているだろう。

 

 マニ教の発祥地はメソポタミアである。創始者マニは西暦216年、当時パルティア王国の支配下にあったバビロニアのMardinuという村で生まれた。マニが十歳のときにパルティア王国はササーン朝によって滅ぼされる。母はパルティア貴族の家系で、父Phatekはメディア王国の首都であった古都ハマダンを出自とする家系の出だった。父はメソポタミアに出て来てクテシフォンに住んだ。当時のメソポタミアはバビロニアの港に東西の情報が集まり、ギリシアからインドにかけての多様な信仰が相互に作用し合うような環境にあった。Phatekはそこで偶像崇拝の神殿に出入りしていると、ある日、偶像の一つが彼に向かって叫んだという。「Phatek、肉を食うな、ワインを飲むな、売春宿に近づくな」と。日に三回、三日の間その声は続いた。その後、彼はElkhasaiteの一派である「洗礼教団(一説にマンダ教とも言われる)」に加わった。そのためマニは四歳のときに母と別れて教団の父の下に連れられ、「洗礼教団」で父と共に生活することになる。Elkhasaiteはユダヤ教の要素を多くもつ洗礼派で、当時のグノーシス主義特有の混成的な信仰を説いていた。マニはそうした環境で少年期を過ごし、そのとき以来マニはつねに<光の天使>に護られて成長したという。十二歳と二十四歳の時、マニは自身の「syzygos(天界の分身)」のヴィジョンを体験し、「洗礼教団」を離れてイエスの真のメッセージを新たな福音として説くよう呼びかけられた。そのときのことを後にマニは、「parakletos(聖霊)」によって自らの使命が明かされたと語っている。しかし現実にはマニは、自分以前に現れた預言者たちの言説から霊感を受けてその後マニ教の教えとなる考えを引き出していた。マニの宗教は、当時流布していたズルワーン教、ミトラ教、グノーシス主義、キリスト教等の考えを含み、またザラスシュストラや旧約聖書の預言者たちによる啓示、さらには仏陀の教えを、マニは真理の一部と考えた。マニはそれらの啓示や教えを単に結合させたかに見えるが、そうではない。マニは宗教活動を開始する際に三つの点に主眼を置き、自らが創始する新たな宗教の土台とした。それらは、この信仰は普遍的であること、新たな宗教は布教活動によって広められること、信念は書かれたものにおいて確かなものとされなければならないこと、である。そのためマニはまず自身でいくつかの著述を行い(そのためにアラム語で記述するのに新たな記述法を編み出しもした)、また「トマス行伝」の福音に魅了され、使徒トマスに倣い自ら海路でインダス河口近くの港湾都市Debまでやって来て、インドの民衆に教えを説いたのである(240年〜242)。当時ササーン朝の臣下であったTuran王国の王を改宗させると、王はマニが仏陀の生まれ変わりであると確信したという。それ以来、マニ教はイラン東部にも広まり、ササーン朝による迫害があると、その信仰は仏教やネストリウス派キリスト教と共に中央アジアや東トゥルキスタンにまで広まることができた。一説にはマニはインダス河沿いを北上して北西インドに至り、イラン東部を布教しながらバビロニアに戻ったという。しかしその説は確証されていない。また別の説によれば、マニはKandaharルートを行脚してBamiyanに滞在し、そこで絵画の手法を伝えたという。マニは有能な画家でもあった。

「マニ」の名の由来はバビロニア・アラム語の「Mana」であるとされ、それはマンダ教徒の間で<光の王>である「mana rabba/光の霊」を指す語で、「輝かしき者」を意味した。マニの存在はつねにこの<光>と共にある。その教えの一端は次のようである。マニにとって幼少の頃から従ってきたElkhasaiteの「浄罪の儀式」は最も重要な要素となり、マニはこの<浄罪>を単なる儀礼から精神的なレベルへと、すなわち<浄罪>即<グノーシス(本質的な自己認識)>の働きへと変換した。そのことによってマニの教えは、罪によっても無垢によっても条件づけられる最も神聖な要素である<光>の概念をめぐって形成されてきた。<光>を患わせるのは<闇>の仕業であるが、それに対して<光>を浄化するのは「zaddiqa(選ばれた者/選者)」の仕事であり、それが<救済>である。とはいえ、「<光>は自分のためにのみ照明し、それを欠くもののために照明しようとはしない。<光>はもし外から干渉されずにあれば、何ものにも誘惑されることなく永遠にそのまま続いていたことだろう」(Kephalaia)と言われるように、<救済>に向かうにはまず自力によってこの<世界>を曇りなく洞察する力を育むことが必要であるとされた。そうした努力が結果として<グノーシス(本質的な自己認識)>の働きを呼び込み、<闇>が支配する現世から人を目覚めさせることになるのである。グノーシス派は、創造者は完全なるものであるがゆえにその創造物である悪を<欠けたもの>とみなすユダヤ・キリスト教的な思考に対して、悪を創造者を原因としない実体的なものとみていた。そこには一面的な世界、すなわち創造された世界とその創造者の絶対性を否定し、世界をより多層なものと考える思考が働いている。このようにグノーシス主義思想において多層的・階層的な世界構造が考えられているのは、おそらく善と悪がつねに戦う状態にある過酷な二元論的世界を現実に目の当たりにしていたからだと思われる。マニは人間の内的存在は魂と霊で構成されていると考え、それらを超えた本質的存在が<双子の霊(天界の分身/syzygos)>のかたちとして顕れ、その<双子の霊>を核として<グノーシス>が働くと考えた。この創造された世界に疑念をもち、それを契機として<グノーシス>を求める過程において<グノーシス>が睡眠状態にある魂を目覚めさせ、内省し、熟慮するよう促す。すると<双子の霊>は肉と物質の奴隷となっている魂の外側の層に呼びかけ、肉体から分離することで応えるよう要請するのである。この<呼びかけ>とそれに対する<応答>をめぐる概念がマニ教理論における<救済>ついての重要な役割を担っている。その一方で、応答者であるという認識がすでに呼びかける者の役割を前提としているという、<救済>に関して逆の関係を述べる文献もある。つまり、<呼びかける者>は<応答>するよう私たちをつねに気にかけているという仕掛けになっていると暗に考えられているのである。もともと自力的な考えであったものにこうした他力的な考えが加わることは、前の章で述べた仏教のMaitreya理論に「上生譚」と「下生譚」とがあることにも関連するように思われる。

信奉者が<救済>を得るためには<光の王国>を求めることに身も心も捧げなければいけない。マニ教の教えによれば、<グノーシス>はそうした<救済>の条件であり、それはすなわち、人の記憶を覚醒させるために精神的な準備と具体的な努力をもたらす<認識>であり、もしくは、「天界の分身」の呼びかけのもと一人一人が神聖な<光>の起源を自身の内にもつことを知ることにより、非本質的な肉と物質によって奴隷状態にある魂を、本質的な存在としての魂へと覚醒させる<認識>なのである。この意味でマニ教はグノーシス主義であり、この段階までマニ教とグノーシス主義との間に違いはない。しかし、グノーシス主義における欠陥は、<グノーシス>の信奉者が完全な<救済>の考えに従う過程において、ユダヤ・キリスト教の神が創造した世界を否定するがために現世を放縦に生きるといった罪深い行為に耽る傾向があり、そのことを十分に考慮しなかった点にあると言われている。それに対してマニ教はグノーシス主義の<傲り>の危険性にたえず注意を向け、堕落への危険性を信者(聴聞者)に警告し続け、そうした流れの中で<グノーシス>による贖罪の問題に取り組んだ。「完全な<聴聞者>を生み出すことは非常に困難な仕事である」(Turfan文献)と述べられているように、信者(聴聞者)を<救済>へと導くことは誰しもに行為の怠りがあるために容易でない仕事と認識されていた。そのため、<選者>や<聴聞者>といえども、罪深い行為が一度たりとも為されればそれまでの全ての善行はその人の魂から消されてしまい、さらなる許しの可能性はなくなるだろう、そう強調された。さらには、マニ教では<グノーシス>の完全な実現は<救済>そのものではないと考えられ、<救済>を達成するための必要条件ではないとみなされるまでに至った。自分自身の努力によって<グノーシス>を達成することは究極的な目標ではない。むしろ<グノーシス>状態を達成したならば、そのときから自己修養を継続することが重大な関心事となった。かりに自己努力による<グノーシス>の達成がマニ教の出発点とされるのであれば、マニ教にとって<グノーシス>には二つの段階があることになる。すなわち、創造神が支配する(階層構造的世界観からすれば)輪廻的な世界に未だ留まっている段階と、そうした輪廻的な世界を脱した完全な存在状態の達成の段階の二つに分けて考えられたとみなすことができる。ここには、<救済>に関して仏教の輪廻と涅槃という二元論的な世界観をマニ教が受け入れることのできる素地がある。

仏教、ことに大乗派仏教とマニ教との思想面での相互影響が最近の研究で明らかになり始めている。マニは自身の教えを<光の宗教>と呼び、人間存在の根底に<光>をみていた。こうした<光>を核としたマニ教の内在論が、北西インドで内在論的傾向を強めた大乗派が<救済>を求める大衆の要望に応じるために、積極的に採り込まれた可能性がある。仏教のMaitreya理論が<救済>論へと移行する際にマニ教が影響を与えたと考えられているのは300年頃のことである。それ以前にマニ自身がインダス河口地域を布教する際に仏教徒から直接その情報を得ていたことは確実であるが、その後のマニ教徒による仏教に関する知識は、マニの使徒Mar AmmoKushan帝国との国境地帯で仏教が栄えていたイラン北東部のイラン人仏教徒と接するようになって新たな段階へともたらされていた。例えば、パルティア語のマニ教賛歌の中で、「Maitreya(Maitrag)はやって来た、主マニ、使徒マニはやって来た」と讃えられ、マニは来るべき救世主<Maitreya仏陀>と同一視されている。この同一視のイメージは、マニがTuran王をマニ教徒に改宗させたことからすれば、おそらくマニその人の姿にまで遡るのかもしれない。当時の北西インドからパンジャブ回廊にかけての地域は一時的にエフタル系民族の侵攻にあい、その支配下にあって仏教徒のあいだで終末論的な不安が高まり、<救世主>を待望する傾向があったようだ。そうしたことを考えれば、マニは実際に大衆の期待に触れ、自らをMaitreya(Maitrag)に重ね合わせていたと考えられなくもない。一方でマニ教信者は、マニのGundeshapurでの獄死後、キリストの復活という現象に則して、その物理的な回帰を熱烈に待望していた。そのためマニは人々を救済する神的な存在として賛美され、事実上聖化されて<Buddha>や<光のBuddha>とも呼ばれていたと考えられる。

グノーシス派は一元的な世界を説く当時のユダヤ・キリスト教の絶対神の概念に対抗したが、マニ教もその流れの中に生まれた信仰であり、唯一の創造者が造り出した現世とそれを統御する絶対神に盲目的に従うことの問題点をよく知っていたに違いない。それゆえ、一面的な世界を説く一神教に抗して多層的な世界観を熟成させたマニ教の信仰が、bodhisattvatathagataadhibuddhaといった多層な次元にわたる存在概念を擁した大乗派仏教の考えと接触することで信仰の面において相互作用したのは当然のことと思われる。マニ教と大乗派仏教が北西インドや中央アジアで影響を与え合ったことの証拠はかなり遺されている。とはいえ、私たちが知ることができるのは唯一遺された文献によってであるがゆえに、その例証は主に用語的なものに限られている。例えば、パルティア語のマニ教賛歌の断片にある「lwsyn」の語は<lushen>と発音し、その発音はサンスクリット語の「Vairocana(大日如来)」を漢語に訳した「Lushena(盧舍那)」を不完全に置き換えたものであるとされる。おそらく北西インドにおいて、「Vairocana」の語が「roshana(光り輝くもの)」の意であるとして中国人僧(あるいは漢語を知るパルティア人僧か)が漢語に「盧舍那」を当てた際に、その意味である「roshana」の発音をマニ教徒がそのままパルティア語として使用したのだと考えられる。とはいえ、こうした翻訳過程を確証するものはなく、一つの語が複数の言語を媒介にしてその内容がどのように伝播していったのかは分からない。「Vairocana」は大乗派仏教では五つの「始原仏(adhibuddha)」の一つとして考え出されたが、その存在概念は宇宙的なイメージをもつようになっていた。一方のマニ教では、「lwsyn」は<闇>の勢力によって肉と物質の内に捕らえられた<光>の分子である<光十字>の象徴として採用されたのではないかと考えられている。ちなみにBuddhaの称号の一つであり、五つの「始原仏」の呼称でもある「tathagata(そのようにある者)」の漢訳は「如来(rulai)」であるが、マニ教のソグド語文献では「methagate(そのように来る者)」と逐語訳されている。その意味合いは分からないが、ソグド語の「metha」が過去にギリシア語から流入していた語であれば、「最初の人間」というような意味になるのではないか。さらにはイラン東部のマニ教において「bodhisattva」の語が早い時期に採用されている。パルティア語の賛歌では、「bodhisattva」を表す「bodisadf」がマニの呼称に使われ、しばしば「mytrg(Maitreya)」と共に使われているようだ。<光>の使徒であるマニをbodhisattvaと同一視することは、マニをBuddha(覚醒者)としてではなく、全ての衆生のためにbodhicitta(覚醒心)を生み出す<道>の途上にある者という<求道者>的な性格づけをしていることになるが、Maitreyaと共に使用されれば<救済者>の意味になる。とはいえこうした仏教概念の使用は、異なる信仰状況にある大衆の要望に応じてその都度採用されたものと考えられる。マニ教が仏教の多くの特質を吸収していったのは東方への拡張時期と考えられている。仏教用語がパルティア人のマニ教文献で使われ始めるのは三世紀のこととされるが、例えば、「krm(karma/)」、「nrh(naraka/地獄)」、「rdn(ratna/)」といった語がそうである。このことは逆にイラン東部での仏教の影響の深さを物語っている。当時、大乗派やことにMaitreya信仰において一般信徒による懺悔の慣習が確立されていたが、懺悔の式文の原型は「SuvarnaprabhasaSutra(金光明経)(四世紀の漢訳がある)にある。前述したようにマニ教は<グノーシス>の問題をめぐって贖罪に取り組んでいたが、その概要がマニ教の「Xuastvanift(懺悔録)」に見られる。その形式は「金光明経」と同様のもので、その中で、「原人(最初の人間)」の五人の息子である<光の五仏陀(adhibuddha)>が、物質の中に囚われた<光>として「仏陀の家系の者(gotra)」と呼ばれているという。

こうしたマニ教と仏教との初期の相互作用はほとんどかつてパルティア王国であったイラン東部の地で起こったようだ。そこはKushan帝国との国境地帯であり、マニ教が進出する以前にすでに仏教が栄えていた。中でもマニが成功裡に異国の人々を改宗させた町は現在トゥルクメニスタンのMerv(正確にはMerv近郊にある遺跡)であり、そこは東部マニ教教会の中心の一つとなった。Mervでは仏陀の頭部像やストゥーパが発掘され、仏教が拠点とした最も西方の町としても知られている。マニ教や仏教のみでなく、ネストリウス派キリスト教徒の要衝でもあった。当時Merv は坩堝でつくる鋼で有名であり、最近の遺跡発掘によって、Mervは前2000年期に栄えたオクサス文明にまで遡る都市であることが実証された。マニ教の僧院が最初に建てられたのは東部マニ教教会においてであるが、それは仏教徒の僧院の影響と考えられている。おそらく三世紀から八世紀にかけてマニ教と仏教はMervにおいて共存していたと考えられている。マニ自身が仏教のみでなく様々な信仰内容を取り入れたように、現実にマニ教がどのように活動していたかをみると、このようにマニ教はつねに他の宗教と交差する場で活動していたことが分かる。言い換えれば、マニ教はつねに他の信仰が根づく地域に自らを浸透させていったのである。そしてそうした影響力を発揮できたのは、おそらく<光>の内在論による<救済>を広く民衆に訴えていたからだと思われる。要するに、人と物資が流動する中央アジアでは西方から入ってきた<救済>思想が信仰の要件であって、そこにはインド世界に流布する解脱思想とは異なる精神状況があったのに違いない。マニ教は錬成された自らの<救済>理論を活用することで布教において優位な立場にあったと考えられる。逆に言えば、大乗派はそうした信仰勢力を競争相手としていたのである。

マニ教のパルティア語文献の一つには次のような寓話が含まれている。「死が<選者>の一人のもとにやって来るとき、<原人(最初の人間)>が賢明なる導き手の姿をした光で輝く神格をその<選者>に送る。三つの神格がやって来て、それらの神格と共に酒杯、衣服、頭を覆う布、王冠、そして光の花冠がある。そこには<選者>の魂に似た乙女も一緒である。…そして私(マニ)は次の理由のゆえにこうした言葉を語りました。『これを読み、その言葉に耳を傾ける者は誰でも、その言葉を信じ、その脳裏に留め置き、良い行いに従い、生と死のサイクルから解放され、全ての邪悪さから逃れることができるのです』…と」。この話は明らかにゾロアスター教の「ダエーナーの話」を基にしている。とはいえ、「ダエーナーの話」では乙女の姿をした死者の魂が死者に直接語りかけるが、ここではそうした卓越した構造が見られない。マニ自身が死者と死者の魂を仲介しているようだ。代わりに「導き手の姿をした光り輝く神格」が死者の前に現れるが、乙女の姿をした死者の魂はそれに連れ添うだけになっている。乙女の姿をした死者の魂は語らず、代わってマニが死者に引導を渡す言葉を唱えるというかたちになっている。「ダエーナーの話」では、死者の魂であるダエーナーが、「(あなたは)愛らしかったわたくしを、いっそう愛らしく、美しかった(わたくし)を、いっそう美しく、吉祥だった(わたくし)を、いっそう吉祥なものに(してくださったし)、順位に座していた(わたくし)を、いっそう高い順位につけてくださったのでした」と死者に語りかけ、死者の善語、善行、善思を称えている。すなわち、死者は自身の善語、善行、善思の努力によって自らの魂を<救済>するという構造になっているのである。むろん、マニの教えもそれと同様の考えを引き継いではいるが、ここでは「導き手の姿をした光り輝く神格」が中心となり、そのためどちらかと言えば<救済>に関して典礼的な内容になっていると推測される。おそらく死者は自らの努力ではなく、典礼によって救われるのである。その典礼は「光り輝く神格」が死者の前に現れ、そのとき仲介者が死者に経典の言葉を語りかけるというものである。ここでは<選者>のための典礼が描かれているが、こうした典礼が<救済>を望む主に裕福な交易者たちに形式的に伝わっていっただろうことは間違いない。ガンダーラ地方のSwatで発掘されたレリーフ(二〜三世紀)からガンダーラ地方にダエーナー信仰が入っていたと考えられるが、おそらくMaitreya信仰の広がりはすでにあったゾロアスター教の<救済>的なダエーナー信仰を土台にしているのではないか。「光り輝く神格」が死者を導くという典礼は土地との繋がりをもたない交易者にとって都合の良いものであったに違いない。そしておそらく、インド北西部で流行したAmitabha(阿弥陀)崇拝とAmitabha仏陀による<救済>形態である浄土信仰は、そうした典礼形式を積極的に展開したものだったのではないだろうか。

 

マニ教には一神教の<救済>信仰とザラスシュトラや仏陀が説いたモラル思考を折衷した面があるが、その最も特徴的な点は、キリスト教と仏教が中央アジアに広がり始めた時代に、あらゆる部族と人種に普遍的であるような宗教を追求したことであり、そのため超越神よりも人間に内在する<光>を伝えることに主眼を置いた点にあるだろう。最初に述べたようにマニは少年時の信仰環境もあってヴィジョンを観やすい性格であり、後に布教のための言葉や概念を重視する姿勢がそうしたヴィジョン体験を独自の言葉と概念でもって体系化させることになった。要するに、マニにとって思考を文字に書き記すこと(あるいは画にすること)は特別な意味をもっていたようだ。「イエスはこのように言った」とか「如是我聞」といった表現を好まず、何よりもヴィジョンを直接的に伝えることを第一義としたのに違いない。そうしたことを考えれば、大乗派が論書ではなく次々と新たな経典を書き、そのヴィジョン的内容を広く大衆に示そうとした姿勢と通底するものがある。

当時の中央アジアでは、仏教やマニ教について知るソグド商人がパルティア人仏教徒やマニ教徒と共に交易ネットワークの諸拠点で混じり合って活動していた。ソグド人自身はゾロアスター教徒であったが交易者としての役割から仏教徒とマニ教徒双方に情報を提供していたようだ。ちなみに様々な都市に交易拠点をもっていたソグド人は国家をつくらなかった。ソグド人を介して仏教徒とマニ教徒双方が間接的に情報を得ていたのであれば、仏教側にもマニ教による大きな影響があったことは疑いない。すなわち、仏教諸派では表立って承認されない内在論(有論)の確立であり、さらには絶対的な神格の具体化とその表現である。大乗派ではその思想を経典にして大衆に説く方法が早くから確立されていた。それらの経典の多くは冒頭で仏陀を中心にして様々なbodhisattvaたちが一同に集まる特異な時空間のヴィジョンによって語り出されている。その内容からして、内在論を展開する過程において大乗派の一部には「観想」の方法による裏付けがあったのではないかと思う。内在論を支える「観想」体験は<光>のメタファーとして語られればAbhidharma哲学が分析するような粒子状の実体という範疇には収まらないので<空性>と相反しない。その現象は<顕れ>であって、それを粒子状の実体と言うことはできないのである。逆に<内的輝き>を示すその「観想」体験は「bodhicitta(清浄心)」の<顕れ>として肯定され得る。とはいえ、インド世界にあっても、大乗派の一部には「YogaSutra」が土台とするサーンキヤ哲学の<流出論>を取り込み、絶対的な神格を暗に示そうとする理論も提唱され始めていた。如来蔵思想も含めて、非仏教徒の大衆に向けて仏陀の教えを説く必要性がすでに様々な内在論を生み出そうとしていたようである。

当時、インド世界から中央アジアにかけてKushan王朝が推進する貨幣経済が社会の様々な局面において欲望の具体化とその分岐を促し、そうした状況にあって仏教もまた仏陀の教えが生まれた時代とはもはや異なる環境の中に揉まれ、欲望の多面化した状況下にあって教えの全体性を失いかねないような状態にあったと考えられる。さらにその教えは西方から入ってきた<救済>思想に触れることで、多方面に散逸化するという危機に直面していたのではないかと思う。初期大乗派の教えである「六波羅蜜(六つの達成)」、すなわち布施・忍辱・持戒・精進・瞑想・智慧の実践は、これら六つの局面で共に達成されなければならないが、在家信者にとっては、布施によって功徳を積むこと、罪を懺悔して持戒すること、観想によって浄土への望みを託すこと、といった自身の<救済>に関わる局面に特化してしまい、死に際しては何らかの典礼に頼むようになったのではないかと推測される。そうした状況にあって、如来蔵思想は仏陀の教えの全体性を回復しようとする意図をもって現れたのに違いない。

「如来」は「tathagata」の訳で「このように現象している」の意であり、仏陀は自らを「tathagata」と称したという。それは「私」という自己を示すのではなく、「縁起」によって自分は生じているということを示すために称したのだと考えられる。仏陀の死後、「Buddha」の語もそうであるが、「Tathagata」の語も特別な存在を意味するようになり、さらには絶対的な存在と考えられるまでになった。仏陀が自ら「tathagata」と称したということを考えれば、「tathagata-garbha(如来蔵)」とはgarbha」は「胎」の意であるから、「このように現象している」ものに「生まれつつある」状態というような意味を示していると考えることもできる。何が生まれつつあるかといえば、それはbuddha(覚醒者)となる可能性、すなわち<仏性>である。したがって、tathagatagarbha」の主張をもともとの「縁起」の概念と繋げて、「縁起」によって「このように現象している」その状態とは「新たに生まれつつある状態だ」というように解釈することもできるだろう。この考えは前にも述べた、「縁起」を個々の特異点の集まりのように解釈したVasubandhu(世親/四世紀)の思想と通底していくもののように思われる。ちなみにそれ以前に、すべての事物が特異的に同時に相互依存しているという時空論的な「縁起」理論が「AvatamsakaSutra(華厳経)」によって提唱されていたが、それとは異なり、Vasubandhuの思想は個々の生命の潜在力に関わろうとするものだった。したがって如来蔵思想を生命の潜在的な局面に関わる思想と考えることもができるだろうが、そうではなく、如来蔵思想は様々な可能性を孕みながらも、「Tathagata」の語が特別な意味を担い、絶対的な存在と考えられるようになることで、「人はもともと仏性を備えている」という大衆の要望に沿った<救済>的な考えが前面に打ち出されていったようだ。ただし如来蔵思想自体は、仏教特有の煩悩(klesa)の意義を手放すことはなかった。

如来蔵思想の基となる経典は「TathagatagarbhaSutra(如来蔵経)」であるが、そこには「一切の衆生は如来蔵である/sadaivaite sattvas tathagatagarbha」と書かれている。とはいえ、このことに関する詳しい理論づけやそのことを達成するための修行方法の提示は行われていない。そのためどちらかと言えば、「衆生の内にある如来は蔵されているため、いまだ役立っていない」という如来蔵思想の基本姿勢がそこに顕れていると考えることができる。つまり、<如来蔵>状態を自力で活性化しなければならないという姿勢である。そのため、蔵された<仏性>をめぐって理論的に展開するよりも、まず分かりやすい語で<仏性>が全ての人に内在することを伝えることを目的とし、そうすることで<仏性>を活性化させることを意図したと考えられる。それゆえ、如来蔵思想の核心は何よりも心(意識作用)を清浄にすることにあると言われる。清浄心(bodhicitta)の可能性が、「tathagatagarbha(如来蔵)」の名の下にBuddhaSattva(衆生)が基本的に同じであることを強調することによって説かれているからである。この「tathagatagarbha」の語はまったく新しい使用法であり、その基本的な考えは「RatnagotraVibhaga(宝性論)の中で、「そこに付随する煩悩に触れ煩悩に覆われながらも、始原的で純粋な輝きとしての心がある/prakrtiprabhasvaram cittam agantukair upaklesair upaklisyate」と解釈されている。

如来蔵思想というからには思考の積み重ねがあるわけだが、その流れは「如来蔵経」を出発点として二つの系統に分かれ、一つには「AnunatvapurnatvaNirdesa(不増不減経)」や「SrimaladevisinhanadaSutra(勝鬘経)」を経て「宝性論」に至る系統があり、もう一つには「NirvanaSutra(涅槃経)」の系統があるとされる。「不増不減経」と「勝鬘経」における「tathagatagarbha」の語は、衆生の内に「tathagata(如来/法身)」が蔵されていることを意味するのみでなく、それは「sattva(衆生/迷い)」と「dharmakaya(法身/覚り)」という相対する概念を共に成立させる拠りどころとして機能し、衆生の内に蔵される「tathagata」は煩悩と共にあるという考えを明確に示している。したがってこの場合、「tathagatagarbha」は「dharmakaya」よりも高次の概念として理論づけされていることになる。一方の「涅槃経」は、「如来蔵経」の「一切の衆生は如来蔵である」という提唱を受けて、「一切の衆生には仏性がある/asti buddhadhatuh sarvasattvesu」と解釈し直した最初の経典である。この「仏性(buddhadhatu)の語は「涅槃経」において「tathagatagarbha」と同義に用いられている。「涅槃経」のこの「buddhadhatu」は、衆生に内在する仏陀に成るところの「原因(dhatu)」であると同時に仏陀の「本質(dhatu)」を意味し、さらに特徴的な点は、個々人に内化されたストゥーパや仏陀の遺骨の意味をも担っているという。ストゥーパや仏陀の遺骨は大乗派のストゥーパ信仰者にとって仏陀そのものとみなされていた。それゆえ「涅槃経」は、「一切の衆生にはbuddhadhatuがある」というかたちで「ストゥーパ信仰」を理論付けしていることにもなる。こうしたことから、「涅槃経」の「buddhadhatu」は、衆生の内に蔵されて可能態に留まっていると同時に、すでに果を得た仏陀そのものという完成態(仏陀の遺骨やストゥーパがそれを象徴する)としての面も併せもつものとして考えられた。「涅槃経」はこうした可能態であると同時に完成態でもある「buddhadhatu」の概念と共に<持戒>の必要性を強調し、そうすることで信仰と実践という仏陀の教えの全体的構造を再生しようとしたのである。すなわち、「一切の衆生には仏陀の本質・仏陀そのものがあるから仏陀と等しいとはいえ、修行によって内なる仏陀を育成しないかぎりその者は一闡提であり、けっして仏陀に成ることはできない」というかたちで実践の回復を促したのだと考えられる。「涅槃経」は<ストゥーパ信仰>の提唱者やその指導者たちによって書かれたようだが、それらの信仰グループを倫理的により厳格な共同体へと改革することを望み、それに適う目的に沿って教義を備えていくなかで、彼らは「如来蔵経」の教えを導入し、その教えを受け入れたのである。そして、仏陀の物理的遺物という対象を<救済>原理としての内的仏陀という対象へと変換し、すなわち、「あらゆる衆生のうちに仏陀の本質が存在する」信仰へとその意義を新たにつくり変えたのである。とはいえ、この信仰と実践の強調はあくまでも自力による<救済>であり、それはいままで見てきたように仏陀の教えとして伝統的に継続されてきたものであった。

第一の流れを受け継ぐ「宝性論」はAsanga(無着/四世紀)が「tathagatagarbha」について論じたものである。Asangaは幅広い学識と知見をもっていたことで知られ、仏教の多岐にわたる可能性を考慮して様々な思想的立場に立って論書を書いた。例えば「宝性論」では「tathagatagarbha」の理論を展開しているため、「一切は心作用である」と説く唯識派の考えには言及していない。この論書がAsangaを通じてMaitreyaが書かせたとして著者がMaitreyanathに帰せられるのは、その内容がおそらく唯識派の考えから逸脱しているからだろう。とはいえ、如来蔵思想とAsangaの主導する瑜伽行者派の思想は共に、そこから多様な現象が生み出される唯一の「dhatu」という実在の<場>を受け入れていた。Asangaは「宝性論」の中で自然現象を比喩的に使い、「tathagatagarbha」の<空性>と<非空性>、<無垢性>と<汚染>を同時に言い表している。例えば太陽と太陽光線の比喩によって、光は太陽として実体を示しながらもその光線は捉えられないことで、それは<空性>を満たすものとしている。この考えはおそらく、「瞑想」の際に意識作用の展開が<明>から<無明>に陥ってゆくとみなすのではなく、「観想」を展開させる立場から意識作用をまるごと肯定することを根拠にして提示されたのではないだろうか。「宝性論(Ratnagotra-Vibhaga)」は「宝物としての<如来>が現象するその系統(原因であるもの)についての論」という意味で、「gotra」の語は仏陀の「系統」を示しており、そのことによって<仏性>の「系統(原因であるもの)」を指し示している。とはいえ、この「系統」とは伝統的に継承されているもののことであるが、それについては新たに(生命全体的に)解釈するという意味合いもあるのではないかと思う。それは欲望が浸透する存在であっても、(そうであるからこそ)全ての存在は「如来(このように現象している)を生むdhatu()garbha」をもっている、そう提唱しているからである。こうした立場から「宝性論」は、「PrajnaparamitaSutra(般若波羅蜜経)」の「全ての現象は空である(実体がない)/sunyam sarvam」という<空性>についての考えを批判し、「如来蔵」という意識作用の実体的な面を積極的に肯定する如来蔵思想を強く支持したのである。

「如来蔵経」が主に比喩によって「tathagatagarbha」の語が指し示すものを言い表しているためにその内容は確立されず、その語を解釈し、理論的に展開する際にその内容に微妙な差異が生じていった。「tathagata-garbha」は仏陀となる可能性を潜在的に有するもの(sattva/衆生)を指していたのが、後には衆生が有する仏陀に成る可能性そのもの(buddhadhatu)を指示するようになったのである。「宝性論」はこの「buddhadhatu」の存在を確立するために書かれたと言われる。「buddhadhatu(仏陀と成る可能性)」とは、「如来蔵経」で「各々の衆生にはtathagataの本質(dhatu)が生じ、胎/種子(garbha)として存在しているけれども、衆生はそれを実現していない」と言われることから、それを実現するために「tathagata」の「garbha(/種子)」をもつところにある。そこに「tathagata(如来)」の「prajna(智慧)」が浸透しているからである。この「garbha」は、実体であるところの「dharmakaya(事物の本性を宿す身体)」と不二である「buddhadharma(仏陀の教え)」から授けられており、それゆえそこに仏陀の「gotra(原因であるもの)」がある。こうした理解とそのことの実践が、「buddhadhatu(仏陀を生み出す場)」の指し示すところであるという。「宝性論」が「UttaraTantra(究竟一乗論)」と称されるのは「般若波羅蜜経」が<前>の解説であるのに対して自らを<uttara/最後・究極>の解説という意味で、「般若波羅蜜経」の後に来てそれを批判するものという意味がある。そのことは、「宝性論」がBuddhaの本質は<空>ではないという観点から書かれていることを意味している。<空>に代わる「buddhadhatu」という<場>が示されようとするのも、そうした理由に因ると思われる。

順序は逆になるが、如来蔵思想に向かう概念形成の流れについて言えば、それは次のようである。Nikaya仏教も含めた仏教全般において、「dharma()」のような非人称的な真理が<事物の本性>を示す傾向が広がるにつれて、この<事物の本性>が「dharmata(法性)」の名のもとにいつしか絶対的な存在のように考えられるようになった。そして、こうした絶対的存在を認める考えが、「tathatagata(このように現象している→如来)」や「tattva(それであること→真如)」にも及んでいった。こうした<事物の本性>であるものはあらゆる事物や生命体を含む現象に浸透していると考えられ、それゆえこの現象世界は「dharmadhatu(法界)」と呼ばれ、さらには<事物の本性>の真髄とされる真理の領域は<実在>という意味において絶対的な存在そのものとみなされるようになったのである。現象世界全体にいきわたった<絶対的な一性>が仏教徒にとって絶対的な存在として概念的に導入されたが、しかしこのことはいまだ絶対的な存在の<土台/可能態>としての局面以外のものではなかった。それに対して、達成可能な<本性>が<結果/完成態>の局面として導入されると、それはまず「Buddha」の絶対化によって示された。これは絶対的な存在を人称化するものであるが、信仰の立場からすればそれは人称化でなくそこに真理が顕れていることの表現であり、その本質は真理が実現されていること(bodhi/覚醒状態)にある。このようにBuddhaの絶対化は、実在したbuddha(覚醒者)の非人称化とその完成態である「dharmakaya(法身)」と呼ばれる絶対的な存在から成っている。これと同時に、大乗派によって「buddha」の語がいかなる人間にももともと適用可能であると考えられるようになった。すなわち、いかなる者もGautama Siddharthaが成した実践と成就した経験によって「buddha(覚醒した者)」になることができると提唱された。言い換えれば、「buddha状態」は実践の<結果>として達成可能なものとなったのである。こうした意味で、過去も含めて数え切れないほどのBuddhaという存在を考えることが可能となり、将来的にもBuddhaとなる人間が現れると考えられるようになった。過去にBuddhaであった者及びこれからBuddhaに成る者と同じ<本性>が系統的な面から「gotra(家系)」と呼ばれ、その現象的な面から「buddhadhatu(法界)」と呼ばれた。こうしたBuddhaの絶対化は大乗派の仏教を、思索的な傾向をもつAbhidharma哲学よりも、いわば宗教的にしたと言われる。「Dharma(/真理)」よりも「Buddha」が強調され、Abhidharma哲学が強調する<Arhat(解脱に向かうこと)>よりも、「dharmata(仏性)」の獲得が実践において目指された。そしてその「仏性」の獲得を説明するのに、一元論的な理論が援用されるようになったのである。

こうして、すでに「buddha状態」は実践の<結果>として達成可能であるという考えがあったことから「如来蔵経」を書いた著者の考えが推測されているが、それは「仏性」という完全な状態はすでに衆生のうちに存在しているにも関わらずそれは煩悩に覆われており、その効き目が有効になるように明らかにされなければならない、というものである。すなわち、達成可能なものは蔵されており、しかしそのままでは有効ではない。「仏性」が衆生の内にすでにあるがいまだその効き目の有効性はないのである。それゆえ、その「仏性」の効果を自ら発揮させるようにすること、そしてその効き目は必ずや有効であること、この二つの点が「如来蔵経」の著者の考えの中心にあるのではないかと考えられている。著者が目的としたのは、非大乗派の仏教徒や非仏教徒たちが「仏性」をもっていると告げることによって、大乗派の支持者グループを広げることにあったようだ。こうした仕方で彼らは大乗派への改宗が促進されることを期待することができた。大乗派は、最終的な束縛から解放されるには「一乗」の教義より他の方法はないと示唆しているが、「一乗」の教義についてはそれ以前にすでに「SaddharmapundarikaSutra(法華経)」に詳論されていた。「法華経」は「如来蔵経」の著者に強い影響を与えていたに違いない。

「宝性論」によれば「tathagatagarbha」には三局面があり、それらは<結果>としての「dharmakaya(法身)」と<媒介>としての「tathata(真如)」と<原因>としての「tathagatagarbha(如来蔵)」の三局面であり、あるいはまた、<原因>としての「dharmakaya」と<媒介>としての「tathata」と<結果>としての「tathagatagotra(如来を生み出す場)」の三局面という逆の見方が考えられている。「gotra」の立場からすれば、「dharmakaya」と「tathata」は<結果>であり<土台>である。絶対的な存在の立場からすれば、「gotra」が<結果>にして<原因>である。したがって、絶対的存在を<土台>の局面から言い表そうとする考えと、<結果>の局面から言い表そうとする考えがあることになる。つまり、一つは人はもともと絶対的存在を有しているという考えであり、もう一つは絶対的存在を結果としてもつことになる、すなわち人は「仏性の因(hetu)をもつ/因位の状態にある」という考えである。「如来蔵」状態に関してこうした差異を見定めることにこだわり、そうすることも重要であったのだろう。「宝性論」は「buddhadhatu」について詳論することでbodhisattvaによる利他的行動を強調する意図をもっているが、そのbodhisattvaとは瑕疵のうちにあり、けっしてnirvanaに住しない(解脱しない)ことを実践している者のことである。こうしたことから、当時の仏教徒による多岐にわたる考えの中には、「如来蔵」が誰にも備わっていると大衆に向かって<救済を説く道>、「観想」の方法を極めて<如来蔵>を明らかにすることに向かう<観想の道>、そして「如来蔵」の実現に向けて利他行と六波羅蜜の実践に身を捧げる<菩薩の道>があったと考えられる。おそらく、それぞれの<道>を進むにしたがって「如来蔵」が意味するところは異なるものとなっていったのに違いない。

 

仏陀の「縁起論」は欲望を無化するものだが、Kushan朝は交易活動の活性化を通じて欲望を貨幣経済の流れの中へとデザイン化し、欲望の内容を多岐にわたるものにした。そうした状況を受けて如来蔵思想は煩悩と覚醒の両方に同時に意識を向け、「観想」の実践を基にして欲望を肯定した。いっぽう、マニは欲望を二重化して考えていた。マニの内的<光>が純粋欲望であるのならばその展開は二つに分岐し、一方は明晰さを失って<悪>となり、もう一方は純粋な<光>のままにあるという考えだ。この局面は如来蔵思想と相応する。というのも<如来蔵>はそれ自身積極的に働くものではなく、マニがヴィジョンを観るようにして、「観想」によって欲望と向き合い、欲望を純粋欲望の輝きとして観じることで「仏性」を実現し得ると考えたからだ。この観想(pratyutpanna)」は大乗派の一部、もしくはKushan系の仏教徒たちが積極的に採用した方法であると思われる。それはまた<救済>を求める当時の北西インドの民衆、ことに交易者たちによく適合したものであったようだ。観想」は意識作用の潜在的な局面へと向かう方法であり、それは仏陀の「瞑想(samadhi)」とは異なりながらも、時代の変化に応じて意識作用を省みること(dhyana)を継承する方法と考えることができる。仏陀や原初仏のイメージを「観想」し、それによって得られるヴィジョンは民衆の心に強く働きかけたに違いない。<空性>よりも「dharmadhatu(事物の本性を宿す現象界)」を主唱し、samadhiで得られるprajna(明敏な洞察力)には慈悲の心が不可欠であると説く如来蔵思想は、個人の意識作用を省みるのみでなく、個人の意識作用を超えた神格イメージを育成する「観想(bhavana)」の方法を保証するものとなったのではないだろうか。この「dharmadhatudharmakaya(事物の本性を宿す身体)」をめぐる考えは「般若経」から一貫して大乗思想の展開軸になっている。すなわち<空>と<非空>を論理的に相対させるか、「観想」的に一体化させるかという展開である。「瞑想(dhyanasamadhi)」の方法とは概念化する意識作用をそれ自体が<明(染汚のない)>であるとする方法であり、「dharmakaya」の概念もそうした「瞑想(dhyanasamadhi)」を通じて提出されたのである。そのことは、「dharmakayaは純粋に原初的な意識として体験される<仏性>そのものである」と言われる。この「仏性」の体験に「観想」者はその力を向けたのである。

インド世界にはRgveda期のアーリア人Rsihによるシャーマン的な脱魂表現があり、またハラッパ文明期におそらく行われていたと考えられる「yoga(意識作用を周囲の自然環境の動きと一体化させる)」の技術があるが、それに対してサンスクリット語とパーリ語に「bhavana」があり、それは「展開する・育成する・産出する」の意で、なおかつ「そこに存在するよう生じさせる」という感覚を伴う意識の働きとされる。この「bhavana」の語は仏陀が使用したらしく、農民が土地を耕し、種を撒くとき<bhavana>を行うことから、仏陀は「bhavana」の語を大地と農作業に結びつけているようだ。心が大地であり、そこに覚醒の種子を撒き、その成長を促す。ここから「観想(pratyutpanna)」の方法へはもう一歩だ。しかし「観想」の方法は意識作用を変容させるという点で、また異なる伝統に由来するのではないかと思う。前に述べた「PratyutpannnasamadhiSutra(般舟三昧経)」はすでに前一世紀頃にガンダーラ地方でできていたと考えられている。当時の北西インドはインド世界とイラン世界、さらには中央アジア世界とが重なる接点となっていた。その本来の名称は「PratyutpannabuddhasamukhavasthitasamadhiSutra」と言い、「仏陀を眼前に目の当たりにする瞑想についての経典」の意である。漢の時代の洛陽でKushan朝の僧Lokaksema(支婁迦識)によって179年にすでに漢訳されている。Lokaksemaは同時に「般若経」も訳したようだ。Lokaksemaはガンダーラに生まれたが、月氏族の出自であるという。その訳はサンスクリット語を意味的に漢語に置き換えるよりも、漢字による音訳を多用した点に特徴がある。この般舟三昧経」は今のところAmitabha仏陀とその「浄土」に言及している最初の経典であると言われる。その中で「浄土」について次のように語られている。bodhisattva(覚醒に向かう道を進む者)たちがAmitabha仏陀について聞き知り、Amitabha仏陀をその浄土に繰り返し意識の中で呼び起こす。この作業によってbodhisattvaたちはAmitabha仏陀を観ることになる。そしてAmitabha仏陀の領土に生まれるためにはどのようなdharma(本質的な行い)が必要かAmitabha仏陀に問うた。すると、Amitabha仏陀は「もしあなたが私の領土に生まれて来たいと望むならば、あなたたちはつねに繰り返し私を呼び起こさねばならない。休むことなく心に呼び起こし続けなければいけない。そうすれば、あなたたちは私の領土に生まれて来ることに成功するだろう」と答えた。「浄土」のAmitabha仏陀を心に呼び起こすということは単に目の前にそのイメージを観想することではない。それは意識作用を「浄土」化すること、心の働きを清浄化することであろう。そしてさらに考えを推し進めて、Amitabha仏陀の領土、すなわち「浄土」に生まれ来ることに成功するとはどういうことか。例えば、「TathagatotpattisambhavaNirdesa(如来性起品)」の「性起(utpattisambhava)」の語はBuddhabhadra(359年〜429)訳の「華厳経」独特の用語らしく、「生起し現われる」を意味する。つまり「生起し、現われる」を一つの語にまとめているのであるが、「性」は「仏性」を指し、それゆえ「性起」とは「仏性の顕現」を言うようだ。「生起し現われる」とはもともと「観想」によって「dhiyani Buddha(原初仏)」が目前に現れる状態を言うのであろうから、その状態が「仏性」であると示すために使われている語のようだ。とすれば、Amitabha仏陀の「浄土」に生まれるという状態に「仏性」の実現状態があると考えられたのだろう。「観想」による「浄土の顕れ(意識作用の清浄化)」と「仏性」の実現が「性起」の表現において結びついている。「仏性」、すなわち光の如き<空>の輝きが「生起し現われる」という意識現象が「観想」の核心であるように思う。

ガンダーラでは仏像製作が盛んに行われたが、それは仏像が礼拝対象としてのみでなく「観想」に使われたからである。ガンダーラ地方の西のHaddaでは様々な種類の塑像が造られ、細部にわたって具体的に仏像を表現できる多くのギリシア系の職人たちがいた。さらに西のKabul近郊のKapisaでは背後に炎を配した仏陀像が造られていた。光背を示すかのようなその意匠は明らかに「観想」用のものだと考えられている。さらに西方へ行くとBamiyan石窟群の内部には壁画が描かれた。石窟内の壁に画が描かれるのは大乗派による教えの新たな表現段階であると考えられる。最近の研究によれば、Bamiyanの壁画は史上初めての油絵技法で描かれた画であるという。壁画から油絵具が検出され、また壁画を覆う材質に卵黄が使用されていることが明らかになった。Bamiyan渓谷には1000以上の石窟がある。それらはかつて僧院、礼拝所、仏堂に使われていたようだが、おそらく「観想」の場でもあったと考えられる。Bamiyan渓谷の仏教僧院の創立は前二世紀に遡る。オクサス文明圏とハラッパ文明圏を直接繋ぐルート上にあり、古代から交易地として知られていたに違いない。仏教僧院の創立は位置的に見てパルティア人仏教徒と関連があると思われる。初期仏教の中心地Bamiyanはその文化と表現においてペルシア的でもインド的でもない。ことにその壁画表現は、マニがインド布教の際にKushan帝国を旅した可能性を考えれば、マニによる影響がまず考えられる。Bamiyanの壁画はその細かな線描表現とその鮮やかな色彩表現から何よりも後世の細密画を想わせる。またドーム型の天井にびっしりと描かれた神格群の構成は後のマンダラの表現をも想起させるものでもある。確証はないが、Bamiyanのいくつかの神格画はマニに帰されている。マニは画家であった。それも非常に熟練した画家だった。その色彩はあたかも<光>が展開するもののようであり、明らかにヴィジョンの体験に繋がるもののように思われる。Bamiyanは<光り輝く土地>を意味するという。

「大唐西域記」を著した玄奘(602年〜664)は、Bamiyanには「小乗派」とLokottaravadin(説出世部)に属する1000人の僧がおり、さらには十の女子修道院があると書き留めている。一方、玄奘を案内した地元の者はMahasangika(大衆部)に属していたという。またBamiyan地域で見つかった仏教徒による古代Kharoshti文字の写本によれば、初期の最も影響力のある学派はDharmaguptaka(法蔵部)Sarvastivada(説一切有部)だったとされる。大乗派については特別記されていないが、その存在は明白である。玄奘は、Bamiyanの大仏は何マイル先からも見える巨大な規模なもので、その顔部には銅のマスクが付けられ、腕も銅で覆われていたと記している。向かって左側の大日如来像の衣装は赤色に染め上げられ、右側のシャカムニ像は青色に染め上げられていた。インド世界では造られることがなかったこの聳えるように立つ超越的な大仏像は、おそらく大乗派の教えが広く興隆したことの主なる象徴だったに違いない。その教えは僧のみでなくすべての人が覚醒に至る能力をもつことを強調したのである。巨大仏が造られた年代は曖昧だが(一説には六世紀から七世紀)、玄奘は630年〜631年の間に見ている。金属製の装飾物によって巨大仏が周囲を照らすように光り輝く姿はおそらくイラン的な表現である。大乗派の多くの特徴が、例えば我が身を傷つけてでも他者を助ける菩薩の捨身な<救済>機能やAmitabha仏陀と聖なる<光>との提携といったように、イラン宗教の影響を示している。そうしたイラン的な影響は、Amitabha仏陀の姿の無限光と無量寿がイランの時間の神であるズルワーンと共通している点にも見出される。こうしたことから、Bamiyanの巨大仏の製作は大乗派の活動が社会活動の次元から宗教的な活動へと移行したことを明確に示しているだろう。

アフガニスタンは鉱物の産地として古代から知られ、Kabul南方のMes Aynakは銅の産地であり、銅鉱山を見下ろす小丘に仏教伽藍が造られていた。バクトリアはことにラピスラズリやエメラルドの産地として知られ、それらの鉱石がBamiyanの壁画に利用されたと考えられる。マニがBamiyanで画法を伝えたという説は重要であると思う。マニ本人が描いたのではなく、マニから技法を受け継いだマニ教徒がBamiyanで画を描いたのだとしても、そこに大乗派が「観想」用にマニ教から画を導入したという経緯が考えられるからである。一説にはマニがササーン朝のBaharam一世の迫害から逃れるのにその避難地として考え、また新たな宗教碑文を探し求めようとしたのはBamiyanの仏教徒共同体であったと言われる。かつてのマニ教寺院には壁画が描かれていた。後にその多くが仏教寺院に改造されたが、その例を東トゥルキスタンのBezeklik石窟群で見ることができる。そこでは仏教の主題が描かれた新たな壁の背後にマニ教の壁画が描かれているのが発見された。マニ教の教えにとって画は欠かせないものだったようだ。そしておそらく、こうしたマニ教絵画はチベットにも影響を与えているのではないかと考えられる。例えばLadakh地方のAlchi僧院にMaitreya大仏の周囲に描かれた細密画的な壁画があるが、そのスタイルはマニ教絵画に良く似たものである。おそらく中央アジアからカシミールを経由してLadakhへと文化を伝えるルートがあったに違いない。最近の研究によれば、チベットの宗教的伝統の中にはマニ教の教義に由来する要素が多くあると指摘されている。

 

 PeshawarからKabul行きのGovermentバスに乗った。Khyber峠を越え、Torkhamの国境で出入国手続きを済ませてアフガニスタンに入る。Jalalabadまではまだ緑が点在する穏やかな光景だが、Kabul河がKunar河と合流する地点から周囲の光景は一変する。河に沿って西に進めば進むほど岩また岩の荒涼とした光景が目の前に広がってくる。大気は澄みわたり、周囲の山々は岩肌を剥き出し、その岩肌の色が直接陽射しを反射したり流れる雲の反射光を受けたりして赤や青へと微妙に変幻自在に変わるのが目に入ってくる。(Bamiyanの大仏像もあんな剥き出しの岩肌に彫られているのだ)。いきなり道沿いに真っ青な湖が現れた。それを美しい光景と感じるよりは、息つくものもなくしんと静まり返った雰囲気に圧倒される。道は曲がりくねり、次第に山肌が迫るにつれて谷は狭まり、両側を黒い岩肌が眼前に迫る狭い峡谷に入る。途中、小規模な発電所の建物があるのを目にする。険しくうねるような坂道を登り切るとやっとKabul盆地に出た。思いも寄らないことに辺りは雪で真っ白になっている。街の中心には植民地時代の英国風の建物が立ち並び、繁華街のShahare-Nowには観光客向けの小さな店が連ね、それなりに街の華やかさはある。とはいえ、天然の要塞と言われるように街は四方を低い山に囲まれ、その冷たく剥き出した岩肌が威圧するようで、時間が経つほどにその圧力が鬱陶しく感じられる。高地に慣れないせいもあるが身体が重く、息が詰まるような気分になる。宿泊した安ホテルにはヒッピー風の若者が集い、昼夜の別なく広間で大麻を吸って過ごしている。二泊の滞在後、バスで再びPeshawarに向かった。黒い岩肌が迫る峡谷、真っ青な湖、岩肌の変幻をやり過ごし、河が合流する地点を過ぎてJalalabadに着くや自ずと安堵の息をつく。緑がぽつぽつと目に入ってくる道路をバスは東に進み、国境を越えてKhyber峠から緑薫るガンダーラ平原を見下ろすと、はやパンジャブに戻って来た心地になった。

この文章を書き進めるあいだ、PeshawarKabulの間を往来した際に眼にした光景が私の頭の中を幾度よぎったことか。