Sunday, July 16, 2023

Lahore日記 The Diary on Lahore

  三 パンジャブ回廊

  九 イスラーム勢力の進出

 

 八世紀初頭にアラブ人ムスリムがアラビア海沿いのMakran地方を経由してSindh地方に攻め入ってきた。それ以前にもアラブ人は交易のためにアラビア海沿岸やインド西海岸にまでやって来ていたが、軍事遠征はこのとき初めてだった。アラブ軍は地元のヒンドゥー勢力を制圧し、Sindh地方を支配下においた。この711年のMuhammad bin QasimによるSindh征服から、パキスタンの中学・高校用の歴史教科書は始められている。少なくとも私がLahoreに滞在していた1979年の時点ではそうであった。それ以前の歴史についてはわずか数ページの記載があるのみである。二十世紀にイスラーム共和国として新たに出発した国としては当然かもしれない。パキスタンという国が成立した経緯からすれば、イスラーム以前の歴史を扱うのには何かしら無理があるのではないか、そんなふうにも思われる。要するに、イスラーム国家として成立したその時点で様々な制約を抱えてしまったのである。

 アラブ人による軍事遠征は主にアラビア海沿岸の交易を安定的に確保するためのものだったが、このときMuhammad bin Qasim率いる遠征隊はインダス河を遡ってパンジャブのMultanにまで進出した。当時Multanにはヒンドゥー教の太陽神(Aditya)を祀る大寺院があり、その規模はインド世界から巡礼者が絶え間なく参拝に訪れるほどのものだった。そうした状況を考慮して、Muhammad bin Qasimは偶像崇拝を禁止することなく、巡礼者を受け入れた。また地域の政治体制をも存続させた。すなわち、当時のアラブ軍は領土を拡げ、イスラームの布教を目的としていたのではなく、あくまでも交易による利益を確保するという経済的な目的を掲げていたのである。とはいえ、アラブ軍による支配地域が遥か東方のSindh地方にまで確立されたことにより、そこに西方からイスラーム教徒が移り住むようになった。またその後バグダッドのアッバース朝によるカリフ体制が定着したことは、スンニー派以外のイスラーム諸派の信者にカリフ領土の辺境である東方への移動を促した。後に(十〜十五世紀)Multanはイスマーイール派の拠点となった。

 Multanの太陽神寺院は仏教がこの地に広まる紀元前一世紀にはすでにあり、またアレクサンダー大王遠征時(紀元前四世紀)には土着勢力がギリシア軍に頑強に抵抗したという記録もあることからして、Multanはかなり古くからあった城市であることが分かる。Ravi河とChenab河が交わるところに位置するMultanの地は河川交易に有利であり、おそらくハラッパ文明の中核都市であったのではないか。本格的な発掘はなされていないが、ハラッパ文明の印章に刻まれた文字と同様の文字が刻まれた土片が太陽神寺院跡で見出されているという(Tarikh-e-Multan(ムルタン誌)1968)。かつてハラッパ文明地域とメソポタミアとの間で盛んに交易が行われており、Multanがその時代にインダス河を介してメソポタミアと交流していたとするなら、古代バビロニアやペルシア帝国を通じてアラブ商人はその存在をよく知っていたに違いない。

 

一九八十年五月の早朝、LahoreからMultanに夜行バスで着いた。Multanの猛暑は名高く、早朝にもかかわらず暑さに見舞われた。バス・スタンドでハルワとプーリーの朝食を摂ると元気が出た。何かしら時間の層が積み重なる地にやって来たという感覚がからだの芯から立ち上がって来たのを想い出す。旧城市内にあるホテルは昔ながらの古い建物で部屋はやけに広く、壁は分厚く内部はなぜか凹凸のある構造で、いたるところうっすらと砂埃に被われていた。部屋の中はもうたっぷり暖まり、淀んだ空気が立ち込めていたが、少なくとも戸外の暑気は遮られていたので一息つくことが出来た。夜行の旅だったのですぐさまベッドに倒れ込み熟睡した。目を覚ました後、たしかバスルームのようなスペースに置かれた大甕に水が満たされていて、その水を使ってからだを洗ったような記憶がある。それからすぐにホテルを出て街を散策した。街中は砂埃が霧のようにたちこめ、そのおかげで陽射しが弱まり、太陽の直射日光に当たる酷さからは逃れられた。バザールで新聞を買おうと思うが英字紙を見かけない。旧城市北側に広がる小丘が城塞跡であり、今は「Qasim Bagh(Qasimの庭)」という名の公園になっている。そこに八角形の基壇の上に白いドームがそびえる美しいRukhn-e-Alam(12511335)廟が立っている。この周辺にかつて太陽神の大寺院があったのだが当時は知る由もない。正確にはSuhraward派のスーフィー 、Bahaudin Zakariya(11701262)の聖廟が立つところにあったというが、寺院の片鱗さえ遺っていなかったのだから。Zakariya廟の片隅に一人のファキール(乞食僧)がいて、ブルカに身を包んだ参拝女性が連れて来た子供に何やら浄めのような振舞いをしている。頭をなでたり、肩をたたいたりしている。すると、順番に子供の浄めをしているうちにはたとうつぶせになり、そのまま身動きしなくなった。Qasim Baghを見て廻ると他にもたくさんのファキールを見かけた。みな一様にぼろ布をパッチワークした長衣を着ている。かつて太陽神寺院があった小丘跡にはいくつかのムスリム聖者の廟が立ち、そこでいまや霊力を示そうとする修行者が脱魂状態になっている。いま考えれば、この小丘には古代から連綿と続く何かしらの力が籠っていたのではないか、そうに違いないと思う。Qasim Baghの一角に鳩市が立ち、人で賑わっていた。聞くと「闘鳩」用の鳩だという。様々な鳩が一羽100ルピー前後で売られており、鳩は平和の象徴と先進諸国では知られているが、鳩にも様々な相貌があるものだと知った。

 

七世紀から八世紀に書かれたSindh地方誌「Chach Nama(Chach朝の記録)」によれば、Muhammed Bin Qasimは周辺に住み付く外来のJat()に徴税等の負担を課すのは不可能だと判断したという。一つにはJatは家から出る際にはつねに犬を連れていたことが原因しているらしい。犬を連れていることで、それがJatであると分かったという。おそらく彼らは大きくて獰猛な犬を連れていたのだろう。それはともかくとして、Sindh征服によってイスラーム教がSindhやパンジャブ地方に住む人々に広がることはなかったようだ。アラビア人の記録によれば、Multanの多くの人が仏教徒やバラモン教徒であり、当時、アラビア語で「hulul(化身)」や「tanasukh(輪廻)」といった考えを信じていたという。そうした理由から高位のバラモンや仏教僧は人々に崇められ、「sadat(予言者の子孫)」としての地位をやみくもに求めていたアラブ人たちは逆にそうした慣習に共感を抱いたようだ。また土着の人がイスラームに改宗することで徴税を免れ、税収が減ることを恐れた初期のムスリム支配者たちは改宗活動を思いとどまり、在来社会の継続を認めたという。

アラブ人が支配するSindh地方とパンジャブの一部はカリフ領土の辺境であったがゆえに、もっぱら西方から追放された反逆者、異端信仰者、そして伝道者や交易人、旅行者、さらには何らかの理由で西方から避難して来る人たちのための格好の場となった。おそらく正統イスラームを布教するという状況にはなかったに違いない。正統イスラームを自認するムスリム支配者でさえMultanの太陽神寺院を巡礼者のために保護する約束をせざるを得ない状況にあったのだから。しかし、十世紀頃にイスマーイール派がMultanの覇権を握るとこうした状況は変わってくる。ヒンドゥー教や仏教の寺院は祀られていた偶像と共に壊され、寺院付属の貯水池での沐浴も禁止された。またイスマーイール派はウマイヤ朝が建てたモスクを壊したが、それはウマイヤ朝による不当な支配から自らのイスラームの教えの一貫性を際立たせるためだったと言われる。こうしたことから、Multanとその周辺地域の様相はその後のスンニー派のアッバース朝とイスマーイール派のファーティマ朝との対立が東方に持ち込まれる場となり、そこでは逆にイスラーム内での宗派闘争が展開されたようだ。959年までにMultanの支配者はイスマーイール派に切り替わり、968年にはアッバース朝から独立してファーティマ朝の属国であると宣言した。そしてそのことによって、中央アジアにトゥルク人が興したガズナ朝を含むアッバース朝体制は敵対勢力のファーティマ朝によって東西を囲まれるという事態に陥った。アッバース朝は迫り来る二方向からの侵略を恐れていた。Multanのイスマーイール派がガズナ朝を攻撃するためには、ガズナ朝の敵であるKabulのヒンドゥー王朝の領土を通る必要があるだけだったからである。敵の敵はたやすく味方になり得る。当時Kabulから北西インドにかけてはいくつかのRajput族系のヒンドゥー王朝がひしめき、彼らはKabulのヒンドゥーShahi王朝と共にガズナ朝による度重なる北西インド侵入に抵抗していた。このときトゥルク人がSindhやパンジャブの支配勢力として主に相手にしたのは、前章で述べたRajput族といったフン族の末裔やJatGhakkarといった外来民族の末裔ではなかったか。今や信仰や立場は異なれども、かつて遊牧民であった者同士である。

 

アラブ軍によるSindh地方とパンジャブ地方の一部の征服は714年までには成し遂げられるが、その後の三世紀間はイスラーム内での対立を反映するように、ムスリムによる支配領域がそれ以上拡大することはなかった。パンジャブ地方にとってイスラーム浸透の第二の段階は、アフガニスタンのガズニを拠点としたトゥルク人・ムスリム王朝の創立に始まるイスラーム勢力の拡張であり、そのガズナ朝によってインド侵入のためのパンジャブ回廊のルートが開かれたことにある。このトゥルク人によるムスリム王朝の成立は、それ以前のアラブ人ムスリムによる中央アジアへの進出によって引き起こされた。ムハッマドの死から一世紀も経たないうちにアラブ人はKhorasanBalkh、そしてOxus河を越えた地方を含む中央アジアの支配者となった。その頃、中央アジアに移動して勢力を張っていた遊牧民のトゥルク諸族は、アラブ人と接触することで主に奴隷としてイスラーム世界に組み込まれるようになった。やがてトゥルク人奴隷は有能な戦士として認められ、主にアラブ人とイラン人によって構成されるイスラーム社会の中で大きな役割を担うようになっていった。君主に直接仕える忠実な奴隷兵としての地位は、トゥルク人をイスラーム世界における一大勢力へとなさしめる契機となったのである。こうしてイスラーム世界の東にガズナ朝が興るや、イスラームの名の下に覇権を握ったトゥルク人は独自の野望をもってインドに侵入し、果てはインド亜大陸にイスラーム支配を実現する唯一の勢力となった。

パンジャブの地にイスラーム教が広がり始めたのは、こうしたトゥルク勢力が十世紀の終わりにアフガニスタン方面から侵入して来たことが契機となっている。パンジャブ回廊がガズナ朝のMahmud(9711030)が立て続けにインドを侵略するその経路であったこと、そしてその経路を利用してことにイラン系のムスリムによって中央アジアのKhorasan地方で展開されたイスラーム思想とスーフィー運動の潮流が当時繁栄していたガズニを経由して北西インドに流れ込んで来たことにより、初期スンニー派の教えとは異なる、理論に培われた実践的なイスラームの教えがパンジャブに広められることになったのである。

ガズナ朝がKhorasanから北西インドに至る広い地域を支配するようになったことは、東アジアの遊牧民に由来するトゥルク人勢力がアラブ人とイラン人両勢力の中に分け入るようにして初めて歴史の舞台に台頭してきたことを意味する。Mahmudの父はシーア派を支持していたが、Mahmudはアッバース朝の信仰であるスンニー派を受け入れた。それゆえ、Mahmudはイスラームの他の宗派に不寛容であったことで知られる。998年に王位に就き、ガズニを核としてアフガニスタンでの地位を固めると、1001年に彼はガンダーラとUddiyana(Swat)のヒンドゥー王朝を攻撃し、父の敵対者であったKabulヒンドゥー王朝のJayapala王を敗退させた。当時Uddiyana(Indrabhuti王やPadmasambhavaを輩出する)仏教タントラ派の中心地であったが、このときMahmudの攻撃によって繁栄する寺院を全て失ってしまった。1005年、MahmudJayapala 王の後継者であるAnandapala 王と提携するMultanを攻め落とし、ガズナ朝に併合した。イスマーイール派のファーティマ朝の支配下にあったMultanに先手を打って攻め入ることで、スンニー派のアッバース朝にとって東からの脅威であった要因を取り除いたのである。

こうしてMahmudは歴史上初めて「Sultan」の称号をもつ王となった。「sultan」とはアラビア語で「強さ」もしくは「権威」を意味し、そこから「支配者としての地位」を意味するようになり、カリフの支配が及ぶ地域内で十全たる統治権をもつ支配者の称号として使われるようになった。カリフの全幅の信頼を得て、Mahmudは自軍の兵士を「ghazi」、すなわち「信仰の戦士」と呼び、ghaziによる遠征をイスマーイール派の異端から正統スンニー派を守るための「jihad(聖戦)」と称した。こうした宗教的熱意がMahmudによる領土拡張の動機の一部ではあったが、それよりもむしろイスラーム世界のリーダーとしてアッバース朝の庇護者としての地位を確立しようとする明確な意図があったと思われる。北インドで略奪した戦利品はアッバース朝によるファーティマ朝攻略のための遠征資金として貢ぎ、そうした役割を果たすことでアッバース朝の下臣として東イスラーム圏の支配を合法的なものにしたのである。その結果としてのガズナ朝スルタン王国の設立は、東のイスラーム世界において土地固有のイラン人や他の民族に対してトゥルク人が優位な立場に立つ状況を初めてつくり出したと言える。そしてそれに続くパンジャブにおけるムスリム支配の確立は、インド亜大陸におけるイスラーム史の重要な出来事となった。イスラーム勢力はこのときインド支配のための最初の足がかりを築いたからである。またそのことによって、後にゴール朝のような他のトゥルク系ムスリム王朝やそれに続くトゥルク人勢力が続々とインド世界へ侵入するという事態へと導くことになったからである。

 

Mahmudのインド遠征に同行したAl Biruni(9731048)は、Mahmudによるパンジャブ征服後の男女の関係変化について記している。彼の観察によれば、パンジャブの男性はいつも妻に大事な用件について相談していたが、Mahmudによるパンジャブ征服の後、女性はそれ以前の地位を失い始めたという。ちなみに中央アジアは男性上位主義の社会であり、女性は重要な案件について助言を求めたりする存在とみなされなかったようだ。おそらくAl Biruniはパンジャブ地方の家庭内での女性の在り方に驚いたのに違いない。

いっぽう、多くの農民、職人、そして低カーストの人々が奴隷状態から逃れるためにイスラームへの改宗を選択した。改宗によって彼らは奴隷状態、高額な税(jazia)、そして高位のカースト者からの酷い仕打ちから逃れることができたのである。とはいえ、低カーストの新ムスリムは安定した宮廷の仕事や他の低位の仕事につくことが出来たが、改宗農民は北部からやって来たムスリム軍族のために土地の耕作をするという負役を余儀なくされたという。ヒンドゥー社会がつくり出していた階層意識にまでイスラーム教はまだ変化を及ぼすことが出来なかったと思われる。

ガズナ朝は北西インドに攻め入り、Lahoreに拠点を定めた。最初はLahore城市を破壊したが、その後に新たな城市を築き、現在あるLahore城市の基礎を築いた。MahmudLahoreを征圧したのは1021年のことである。その後十五年間にわたるムスリム支配によってLahoreは重要な軍事拠点となり、また周辺地域の交易者たちにとっての商業的中核都市となった。パンジャブでのイスラーム受容がどのようなものであったのか、Lahoreで鋳造されたコインから少なくとも推測できる。当時Mahmudpur(Mahmudの都市)として知られたLahore1028年に銀貨が鋳造されたが、面の表裏にはアラビア文字と、当時アフガニスタンやカシミール地方で使われていたデヴァナガリー文字系統のSharda文字が記されていた。コインの中にはイスラームの称号と共に、シヴァ神の牛Nandiや伝説的なSamanta神の像が描かれているものがある。そして、そこにはサンスクリット語で言い換えられたKalima(ムスリムがよく唱えるフレーズ)が記されていた。それを読むと、「avyaktam ekam muhammada avatara nripati mahamuda:顕現することのない唯一のもの、ムハマッドはその化身であり、(そしてMahmudは王である)」とある。これは「アッラーは唯一の神であり、ムハマッドはアッラーの使者である(la’ilaha’illallah Muhammadur rasulullah)」のインド的表現であり、おそらく新たに鋳造した通貨の流通を第一に考慮した、イスラーム側にとっては実用性に妥協した表現であると考えられる。「avyaktam」は「(本質が)未展開の」の意であり、「avatara」は「化身」すなわち「本質は同じながら姿かたちを変えたもの」の意である。いっさいの偶像を否定するイスラーム教と、神が顕れているモノを崇拝するヒンドゥー教の信仰をうまいこと調整して言い表された表現である。この二言語コインはLahoreのみで発行され、それも二年間のみであったという。おそらく二つの信仰は相容れないものだったが、交易に関わる人たちにとってはその違いは大きな問題にならなかったのではないだろうか。ことにLahoreの都市住民はかなりの寛大な態度をもってして外来の支配者とその宗教を受け入れたようだ。

Lahoreはいっとき四万の兵を供給するほどの人口を擁していたという。軍隊(Lashkar)には多くの異国人が集まっていた。ガズニ、ゴール、トゥルキスタン、その他の国々からやって来たトゥルク人兵士たちは多くの富を稼ぐと故郷に帰って行ったが、中にはLahoreに留まるために戻って来る者もいた。そして彼らが都市住民と交わることでLahoreに新たな現象を生むことになった。地元民と異国人との交流は、Lahoreに当時「Lashkar-i Zaban(軍隊の言葉)」と呼ばれたウルドゥー語を生み出したのである。「Urdu」はもともとトゥルク語で、「軍の野営地」の意味である。兵士たちが使うトゥルク語の単語を多用したHindustani語が形成され始めたのである。

イスラーム勢力によって支配され始め、西方世界から様々な人々が流れ込んで来たこの時期にLahoreは飛躍的に都市化した。そして政治的にも戦略的にもLahoreは非常に重要な場所になった。このとき以来イスラームがインド亜大陸の非ムスリムの間でゆっくりと永続的に広まることになるが、パンジャブとことにLahoreはこの点に関して極めて重要な役割を果たしたのである。ガズナ朝の支配者たちは実力をもつ者を手厚くもてなし、学識のある人物は大いに評価され、それを伝え聞いてイスラーム世界のいたるところから多くの学者が集まって来た。彼らはLahoreにやって来て住民に尊敬され、仕事にありつき、生活の糧を得た。それと同時に多くの地元のヒンドゥー教徒がイスラームの教えを受け入れ、やがて北西インドで初めてのムスリム社会の一つが築かれることになる。

Lahoreが文化的にも十全に花開いたのはこのガズナ朝期のことである。Lahoreはガズナ朝の首府ガズニと同格に扱われ、その芸術文化の傾向は二つの都市で共有されるほどだった。Lahoreghazal(恋愛を主題にした定型抒情詩)を朗唱する者が集う場となり、おそらくMushairaのような場で掛け合いで朗唱されるghazalを通じて、この時期イスラームの感覚が上層階級を中心にして次第に植え付けられるようになったと思われる。また中央アジアの建築スタイルがLahoreにもたらされ、念入りに表現された庭園に囲まれたモスクや豪華な宮殿が建てられた。さらには著名な詩人や芸術家、思想家や歴史家、建築家や工芸家等が宮廷の庇護の下に集まった。Lahore城市の住民はつねに大宴会を好んでいたという。城市の住人がLahoreに支配者としてやって来たSherzadを歓待するために壮大な宴会をしたが、その祝祭は延々と祝われ、誰もが二週間の間眠らなかったという。

Lahore城市はまた外来の音楽家、歌い手、舞踊家といった興味深い人物像に満ちていた。技芸集団を率いる音楽家で、Ney()を吹くのでNey Nawazと呼ばれた人物は、その音色が非常に美しく、人々の悲嘆に暮れた心を幸福感で満たしたという。彼の一座には男女の踊り子と多くの演奏家がいた。「Ney Nawazは時には彼らを小枝のようなもので打ちながら集団をまとめていた。Usman Khawanindaは偉大な歌い手だった。その歌声は聴衆を魅了したが、彼は個性のない若者で、通りを徘徊する酔っ払いであり、賭場で寝起きしていた。Asfand Yar ChangiChang(竪琴)を演奏したが、いつも王から高価な褒美を受け取っていた。しかし最終的には着ている服さえ賭けてしまい、Changも賭けのために売ってしまった。彼は放浪の犬のように街を彷徨い、人はあらゆる種類の悲しみから自由で、多くの幸せと、酔っ払った状態で生活をするのが一番だと呟いていたという。Mutraba Pariは歌い手で、その声はジュズカケバトの鳴くのに似ていたので宮廷の花々に生気をもたらした。Bano Qatalは才能あふれる踊り手で、背が高く、長い首をしていた。彼女は賢く、陽気な性格をしていた。男性の踊り手Mahoは非常に優美なスタイルで踊ったので、Lahoreの上流社会の人々は彼に熱狂した」(Journal of the Punjab University Historical Society Vol.322019)NeyChangもペルシア系の音楽に使用される楽器である。すなわちこの技芸集団はイラン系の音楽家集団で、おそらくKhorasan方面からやって来たのだろう。

ちなみにイラン人は長い定着民としての歴史をもち、ゾロアスター教を基にしたマズダー教の思考を抱えており、イスラーム教を受容してからはイスラームに対して独特な思考を展開させていた。それは「歴史的な過去によって限界づけられず、またそれに関する教えを教義といったかたちで定着させる文字、あるいは理性的な論理の法則とその可能性が限定する地平に制限されぬような思考を要求している」(「イスラーム哲学史」Henry Corbin 1964)というものである。こうしたことから、イラン人の思考は新たな思想の契機としてアラブ人のイスラームを受容したのだと考えられる。その際にアラビア語の概念をも駆使して新たな思考を展開させることになった。主にイラン系ムスリムから成るシーア派やイスマーイール派はイスラーム以前の思考を取り込んでおり、その思考は外的な現象と内的な運動を区別し、内的な運動をより重視する傾向をもっていた。こうした哲学的思考はイスラーム世界における文化的に優れたイラン人の立場をもたらすようになった。そして、イスラームへの新たな参入者であるトゥルク人は務めて彼らの思考を吸収しようとしたのである。とはいえ、イスラーム内での宗派対立は予言者から全てが始まるスンニー派と、歴史を超越しようとするシーア派やイスマーイール派との考え方の相違に原因がある。トゥルク人は新参者であるゆえか、どちらかといえば目に見える部分を重視したようだ。たとえば大規模な建築によるイスラーム文化の誇示、そして洗練された武器の製造や戦略に関する技術を磨くのに余念がなかった。

 

ムスリム戦士と共に北インドにイスラームを広めるためにイスラーム聖者やスーフィーたちが続々とやって来た。中でも最も重要な人物がShaykh Ali al-Hujwiri(10091072)であり、LahoreではData Ganj Bakshとして名高い。彼はLahoreのみでなくパンジャブ地方一帯にイスラームの教えを広めたスーフィー聖者である。ペルシア語で書かれたその著作「Kashf al-Mahjub(覆われているものの開示)(十一世紀)は、スーフィズムについてまとめた最初の信頼できる書物と考えられている。彼はスンニー派のムスリムではあるが、シャリーア(イスラーム法体系)に基づく立法的イスラームによる一辺倒な教えではなく、信仰の実践とそれを支える理論に基づく教えを説いた。

al-Hujwiriはガズニに生まれたが、民族的な出自は不明である。若年の頃より各地を旅し、四十年もの間にシリアからトゥルキスタン、カスピ海からインダス河流域までのイスラーム諸国を訪れた。彼が訪れた場所の中にはアゼルバイジャン、ダマスカス、トゥース、メルヴ、サマルカンドなどがあり、そこで多くのスーフィー聖者に出会ったという。彼はイラクにしばらく住み着き、バグダッドで彼の精神的指導者であるAl Khuttali(825864)を知り、彼が言うところの「<素面>の神秘的な意味を体験することは<酩酊>状態より好ましい」というJunayd(830910)の理論に同意したという。最終的にLahoreに身を落ちつけるためにやって来て、そこで生涯を終えた。しかしながら、al Hujwiri自身の発言によれば、彼は<囚われ人>として、すなわち自分の意思に反してそこに連れて来られたという。Mahmudが死んだ1030年にはal Hujwiriはまだ青春の真っ盛りにあったに違いないが、かつてal HujwiriMahmudの面前でインド人哲学者と論争したとされ、その際に奇跡的な力を示して哲学者を打ち負かしたとも言われる。それはともかくとして、彼は死後に聖者として敬われ、Lahoreの廟には巡礼者による訪問が絶えることがなかったようだ。al HujwiriMahmudとの関係についてはいろいろな挿話があって定かでないが、少なくともLahoreal Hujwiriはイスラームの伝道事業を成功裡に始めることが出来、支配者側による後援は彼の伝道のための努力を成功に見合うものにしたようだ。彼は、Malik Ayazが再建したというLahore城市の南側の外部に、すなわち現在Bhati門の外にある聖廟のある場所にkhanqah(修道場)をつくって住み着いた。当時の城市は現在ほど大きいものではなく、多くても四つか五つの門をもっていただけであった。

Kashf al-Mahjub」は十一世紀に編纂されたスーフィズムについての最初の公式的な論文である。「kashf(開示する/明らかにする)」というのは不明瞭な被いを取り外すということであり、「mahjub」は「hejab(覆い)」から派生した語で、「覆われた状態」を意味する。この書の中でスーフィズムの体系がその教義と実践と共に完全なかたちで言い表されているが、そのことによって、「Kashf al-Mahjub」が「vaseela(援助)」、すなわち多くのスーフィー行者にとって神聖なるものへの霊的上昇を可能にする手段として提供されていると考えられている。とはいえ、al Hujwiriはいかなるスーフィーも、たとえ最高位の聖性を達成した者でさえも、シャリーアに従う義務から逃れてはいない、そう忠告している。シャリーアと神秘への道とは一体でなければならないという教えは彼が強調した重要な点である。たとえば、一方だけに偏る神学者とスーフィーを批判して、「神学者はilm(知識)marifat(神智/グノーシス)の間の違いが分からない。一方で<arif>と呼ぶものの意味と現実を知る者があり、他方で単にそれを言葉の表現としてしか知らず、霊的現実を伴うことなく記憶している者がおり、それを<alim>と呼んでいる。こうした理由からスーフィーがライバルを批判しようとする際に彼らは相手を「danishmand (知識を持つ者)」と呼ぶが、このことは実に腹立たしいことである。というのもスーフィーはその人が知識をもっているからと言って非難しないからである。むしろ、スーフィーは宗教の実践を怠っているという理由で人を非難するのである。というのも、<alim>はその人自身に拠る<知っている>であるが、<arif>は主に拠る<知っている>であるからである」、と言われている。

 タイトルのKashf al-Mahjub」が示す意義、すなわち「真義は隠されている」という点からすれば、al Hujwiriの思考には、外に現れたもの(zahir)と内に秘められたもの(batin)」の区別をつねに念頭に入れて教えを説くシーア派の影響があるように思われる。十一世紀に生きたal Hujwiriは何ら特別のスーフィー一派に属していなかった。「Data Ganj Bakhshの普遍性」とはそのことを言うらしいが、当時はまだスーフィーの一団が組織化し、その教えが制度化されていなかったからである。とはいえ、Khorasan地方のヘラートにはすでにChishti派が形を成そうとしており、ガズニ出身のal Hujwiriも若年の頃よりすでに中央アジアのスーフィー思想の影響の下にあったと考えられる。Chishti教団についてその「tariqah(/方法)」を簡単に述べておけば、アッラーの神への熱烈な愛を説く歌を歌い、その音楽を聴き、そのリズムと気息と詩の陶酔の中でついに神との直接的な合一という神秘体験を直観するというものである。この歌唱のための集まりを「Sama」と言う。また北インドでは会衆が神に捧げる歌を「Qawwali」と言う。このQawwaliは、男性歌手が独特の節回しで詩を歌いあげるもので、その音楽はペルシア音楽のインド的表現、およびインド的解釈を強烈に実現しており、インド・イスラームの成立という意義を現在にいたっても良く象教しているものと思われる。またChishti派は清貧、質朴を旨としており、さながらヨーガ行者のように人里離れた荒れ地にそのkhanqahを設け、日夜瞑憩に耽ったと言われる。一般的にスーフィーの傾向として、彼らはイスラーム正統派の思弁的でアリストテレス的な論理を好まず、理論によるのでなく、身体の全感覚を解放して「din()」に捧げるという方法を軸にして、体験的な表現を駆使しながら神との合一を大衆に向けて説いていったものと思われる。おそらくその表現はインドの「Bhakti(最高神への絶対的帰依)」思想によく合致したものだったと思われる。

 

 十一世紀、中央アジアのKhorasanKhwarazmのいくつかの都市はイスラームの影響下にあってコスモポリタン的な雰囲気がつくりだされていた。Khwarazm出身の傑出した学者Al Biruniはイラン系の人で、ガズナ朝のMahmud王の人格に惹かれてインド遠征に同行したと言われる。そのMahmudについて、おそらく十二世紀頃にペルシア語で書かれたものがムガール朝期にウルドゥー語に翻訳され、編纂された「Jamiul Hikayat-e-Hind(インド小話集)」に話がある。短い話であり、また当時の雰囲気が感じられるのでウルドゥー語から訳してみた。

 

 或る夜のこと、マフムード王は心地よき寝台にて安らかな眠りについていた。と突然、真夜中に目が覚めると、一切の眠りが何処へともなく消えてしまった。寝返りを打ちながら過しつつさらなる眠りを望んだが、一瞬も眠気を催すことがなかった。瞳の花がいつまでも同じように咲き続けていた。おそらく何者かがこの地上で邪悪なる者の掌中に巻き込まれているのではないかという想いが脳裏をよぎると、マフムードは心痛の余り不安にとらわれた。

 

 暴君の圧政に打ちひしがれし者、真夜中にため息つけば、

 一抹の閃光の如きこの現し世、塵芥にとどめしなり。

 その(ため息の)矢こそ、決していたずらに誤ち放たれることなし。

 全ての創造物ひとつの瞼の内にあらば、ただちに崩壊すべくなり。

 驚くべし、痛みこそ打ちひしがれし心の炎。

 綿毛詰められし口、何処かでため息告げれば、

 それこそ激情を映す鏡、それ弾薬庫なり。

 爆発何処に起きようとも、治める者視線を送るべし。

 

 このように思い、王は警備の者を呼びつけ、命じた。

「見てくれ、入り口のところに誰がいるのか」。

 警備の者はあちこち廻り、どこにも人の姿が見えぬ旨申し立てた。王はふたたび寝台に伏したが眠気は訪れず、不安はつのるばかりだった。ふたたび命令を下した。

「見てくれ、外に誰がいるのか」。

 傭兵が走り、全てを見廻り、申し立てた。ここには誰も居りませぬ、と。ただちに王は理解した。この者たちは不注意であると。王は短剣を脇の下に忍び込ませ、後宮より抜け出し、全てを見廻りはじめた。謁見所の先に礼拝所があり、その中に入って行った。と、悲嘆にくれたささやきが王の耳をとらえた。見やると、一人の人物が地に頭を擦りつけて拝し居り、力なく、泣きながら栄えある神に嘆願していた。

 

 たとえ王の夢うつつにして、怠慢の極みにあろうとも、

 何ぞ心の痛みがあろうことか、その身が名君の名に値しないことに。

 (本当の)王はことさら聖なるところにおわします、その扉を封じつつ。

 けだし、あなた様の聖なる地におきましては、つねに御身を感じつつ。

 

 その者が頭を上げると、王は問いかけた。

「貴候、そなたを捜してわしは一晩を費やした。いまや尋ねるが、そなたの意図は何か?」

 その者は言った。

「あなた様の臣下のおひとりが、私のような貧しい者の家に夜ごと無理矢理押し入り、私の妻の閉居の帳(pardah)を力づくで開けようと欲するのでございます。今や、あなた様の研ぎ澄まされたその剣で、あのうす汚れた者を私の汚れなき家族のもとから追い払うことができないのなら、私の手とあなた様の境界線とが出会うことになりましょう」。

 王は妬みの感情を覚え、そして問うた。

「今、その悪党はお前の家にいるのか」。

 その者は答えた。

「いいえ、おりませぬ。が、いつまたやって来るかと恐れおののいているのでございます」。

 王は申しつけた。

「行け、心配することはない。今この時より、もしその悪党が来たならば直ちに王に知らせよ」。

 そして、王は伝令官たちに次のように申しつけた。すなわち、彼の者が来たならばすみやかに我が面前に通せ、と。その者は祈りをささげながら退出した。

 二晩が過ぎた後、彼の悪党がその不幸な家にやって来て、居座った。彼の者は王のもとへ知らせに走った。心獅子の如き王は研ぎ澄ました剣を肩にかけ、彼の者と共に後宮を飛び出した。

 あの犬畜生のことをわしに話したのはお前だ。一刀のもとにそやつを、うさぎの夢(短い夢)の代わりに闇の夢へと、審判の日まで眠らしてやる。

 王が彼の者の家に着いた時、はたしてそこでは王が来たことはまったく気づかれずにあった。

 王は言った。

「燭台の灯を消せ」。

 そして、一歩進み出るや一刀のもとに真っ赤な鮮血を浴びた。

 そしてその後、燭の灯を点させ、そやつの顔を見た。神に拝頭して感謝の意を表し、彼の者に言った。

「今ここに食い物があったならそれを持って来てくれ」。

 彼の者は、少しの水と干からびたパンの切れはしを王の前に持って来て置いた。王はそのパンを次のごとき期待を抱いて食べた。すなわち、一生のうちで自分はこのような味をもう味わうことがないように、と。

 そのとき、この貧しき者は手を合わせつつ申し立てた。

「ソロモン王のもてなしを蟻のごとき私がいつになったらできましょうか。そのような期待で食物と飲物を申しつけた理由は何でありましょう。また、燭の灯を一度消し、再度点けさせたのはいかなるおつもりであったのでしょうか」。

 王が答えた。

「お前がわしに正義を欲した彼の時に、わしは心の中でこう決めたのだ。悪党をお前の妻の閉居から追い出すことができなかった場合には食事はするまいと。またこういうことも考えた。自分の血の繋がった者以外の者のために、あるいは誰か他の者の勇気のためといっていいか、王の身分にもかかわらずわしはこのような事をしでかした。なぜかといえば、王家というものはその自尊心に酔う余り、しばしば溺れた生活をしているからだ。また燭台の灯を消したのは、もし悪党がわしの血の繋がった者であったなら、明るいところではその者の顔をつぶさにし、親の情が湧いて殺せぬのではないか、そう考えたからである。だから一刀のもとに斬りすて、そして見ると、見も知らぬやつの顔があった。それゆえ、我が息子でないことに神に感謝したのである」。

 

 燃える如き情熱が、偽善の顔をしていることがあるだろうか、

 友と敵は公正の秤に一つにして、このうちに湿(tar)と乾(khushk)あり。

 

ガズナ朝のMahmudは北インドを何度も侵略し、インド世界においては評判が芳しくない人物である。そうでありながら統治におけるこうした倫理的な内容を含む物語が語られるのは興味深いと思う。友が敵に寝返ることもある統治の場での判断が最後に説かれているが、そこにイスラームの治世に対するムガール朝期の人々の感慨が感じられる。つまり、統治の場においては情熱に潜む欲望の強度(湿・熱・乾・冷)を計ることが肝要だ、そう考えられていたのではないか。

ちなみに中世イスラーム自然哲学では「<秤の科学>の目的は、個々の物体の中に、外に現れたものと内に秘められたもの(zahirbatin)との関係を見出すことであった」(「イスラーム哲学史」)と言われている。つまり、「一つのものの自然的本性(熱さ、冷たさ、湿気、乾燥)を計ることは、世界霊魂がそれに自らを順応させる量、つまり物質の中に下降する際の世界霊魂の欲望の強度を計ることに他ならない。この欲望は、もろもろの秤(mawazin)の根源にある原理が派生させる諸元素に対する、世界霊魂の欲望なのである」(同上)と。Mahmudの話を伝えた話者はこうした考えを知っていたのではないか、そんな考えに想いを巡らすのは実に楽しい。