Monday, April 03, 2023

Lahore 日記 The Diary on Lahore

 三 パンジャブ回廊

 八 異民族の侵入

 

Kushan王朝の崩壊がいつであるかは明確でないが、王朝が衰退し崩壊してゆく四世紀から六世紀にかけて、王朝の後を狙うかのように中央アジア方面から北西インドへ続々と異民族が侵入して来た。すなわち東トゥルキスタンからのフン族の諸部族や中央アジアからのエフタルによる侵入である。さらに一部のフン族はインドの奥深くにまで侵入し、その後インド各地に定着してもいる。たとえばインド西部に分布するRajput族がそうであると言われる。他にもインド北西部に分布するGujjar族がそうであり、またパンジャブのJatと呼ばれる集団も侵入民の末裔であると考えられている。このように古くはアーリア人による数世紀にわたる緩慢な侵入、アレクサンダー大王率いる遠征軍によるギリシア系民族の北西インド定住、そして東部イラン系民族を出自とするKushan王朝の中枢がガンダーラ地方に築かれ、そうした動きによってインド北西部には多くの異民族が定着したが、フン族やエフタルが侵入して各地に定着したことはそれ以前とは異なる規模での異民族分布による社会的な影響を北インドに与えたようだ。たとえば、現在パンジャブに住む人々はインド土着の民というよりも、フン族やエフタルといった民族の堆積をその土台としている人々であると考えられる。むろん、後のイスラーム勢力による侵入の際にはアラブ人、ペルシア人、トゥルク人、トゥルク・ムガール人、パターン人等が続々とパンジャブに入り込んだが、フン族の侵入はパンジャブの人々を構成する最初の堆積の契機となっているように思われるのである。このことはパンジャブという世界は主に歴史的に外部から流れ込んで来た民族によって構成されているという考えに導いていくだろう。

「パンジャブ回廊」の語は、そこに様々な民族の移動、交易の展開、それに伴う物品の往来、さらには文化の伝搬や交換があったことを示すという意味がある。これまで示してきたように、パンジャブには古代の何世紀にもわたって実に様々な民族と物の移動があると同時に、信仰に関わる抽象概念が東西南北の方面から伝播し、それらが複雑に交流し、混合し、そして新たな概念へと合成されるという事態があった。こうした流動性や交換性がつねに保持されてきたのは、パンジャブという地がインド世界の西境域にしてかつイラン世界の東境域であるという、両地域に興隆した大帝国の狭間に位置し、そうした<空白>地帯というか、帝国の束縛が緩やかな<自由>な回廊であったことに拠ると考えられる。

 そして、そこにやって来たのは主に遊牧民や放牧民たちである。彼らは定着民と異なり彼ら独自の<交換>を求めていた。古くはステップ地帯からわざわざ人が住む区域にやって来て自らの生産物を定着民が開く市場へ持ち込み、おのれが必要なものと物品交換するという半ば一方的な交換を強いていたのが、後に貨幣経済を知ることで彼らはそうした一方的な交換を強いる必要がないことを知り、貨幣による交換経済の促進に意欲的になっていく傾向が彼らの行動には垣間見える。彼らはコイン鋳造を好んだ。おそらくスキタイ人がそうであったように、彼らは古くから金属を扱う技術に長け、鋳造工程に熟知していただろう。遊牧民であるフン族の諸部族たちはKushan王朝に倣ってたちまちコインを鋳造している。<交換>への意欲から、物品の自由な交換を可能にするコイン鋳造に大きな意義をみてとっていたようだ。発掘された多くのコインからはフン族諸部族とその王たちの情報がもたらされている。さらにはコインの発掘によって示された地層の年代とその分布によって、彼らがいつ、どこを支配していたかという情報がもたらされている。

 

紀元前の時代からインド王朝とイラン王朝という二つの大王朝の間に位置するパンジャブ回廊、その隙間としての回廊にまずKushan王朝が割り込むようにして入ってきて帝国を築いたが、Kushan王朝の支配が不安定になったとみるや、その状況に乗じて中央アジアから次々と遊牧民が流れ込んで来た。Kidara族はインド世界に侵入してきた最初のフン族である。インド人によって、「五世紀初頭に<Huna>がインド北西部の支配を確立した」(Dharmaraksa)と記録されている。彼らが鋳造したコインにBrahma文字で記された銘によれば、彼らは自らをKushan王朝を継承する最後の一族と考えていたようだ。Kidara族は漢字で「寄多羅」と記されているように中国では匈奴の一部族として知られ、もともとアルタイ山脈周辺で遊牧活動をしていたのが、四世紀から五世紀にかけてKushan王朝に代わってBactriaを治め、それによって中央アジアの広い範囲を支配するようになった。一説によれば「Kidara」はトゥルク語の「Kidirti」に由来し、「西」の意味であるという。そのことから彼らがフン/匈奴のうち最も西方にいた部族であったと推測されている。彼らはKushan王朝のコインを手本にして金貨を発行し、その部族名を刻印し、なおかつ<Kushan>の称号を使用することでその継承者であることを支配地域に広く流通させようとしたようだ。いっぽうコインの裏には騎馬射手の姿が描かれ、自らの本性を如実に表現している。コインに刻まれた王の容貌には髭がなく、そのことから彼らは、イラン系であると考えられるKushan族と異なり、トゥルク・アルタイ系民族であると推測されている。

Swatで発見されたというコインには、「Kidara族の王、そして偉大なるKushanShah」と記されている。「KushanShah」の称号はササーン朝を模したものであり、そのことはKidara族がササーン朝に近接していたことを示している。おそらくKidara族はそれ以前にはKushan王朝の属国として勢力を増し、Kushan王朝の弱体化と共に中央アジアに進出して来たのが、西方から迫る強大なササーン朝を目の当たりにして、ササーン朝を懐柔するために一時的に宗主権を与える政策をとっていたと考えられる。Kidara族は300年頃にOxus河北側のSogdianaに侵入してBactriaを治め、おそらく390年〜410年頃にガンダーラ地方に侵入したと考えられている。西方のササーン王朝の力が強く、宗主関係を結んで関係を安定化させていたが、北方から迫り来るエフタルの圧力を受けて北西インドに押し出されるようにしてやって来たようだ。

フン族には蛮族というイメージがあるけれども、実際には彼らは強力な行政組織をもち、外交政策を立て、経済活動を推し進めるべく貨幣を鋳造し、税の徴収を怠らなかった。そうした活動によって自国領を効率的に管理していたようだ。またKidara族のコインから分かるのは、そのBrahma文字におけるソグド人文化、王の称号におけるササーン朝の官僚文化、そしてKushan王朝の経済を受け継ぐといった文化混合的な性格を示していることである。

信仰の面においてもそうした混合的もしくは寛容的な性格が保たれ、Kidara族がガンダーラ地方に侵入した際に仏教が迫害されることはなかったようだ。法顕は400年頃にガンダーラ地方を訪れているが、仏教文化の繁栄を記している。当時はKabul北方のKapisa、ガンダーラ、そしてTaxilaが仏教の中心地であり、ことにTaxilaは学問都市的な性格を保っていた。北西インドと東トゥルキスタンを直接結ぶカラコラム山脈ルートでは、ガンダーラ地方と東トゥルキスタンとの間の交易が活発に行われていたようだ。むしろその頃のガンダーラ地方の仏教美術には一部の彫刻に火檀などを配するゾロアスター教の要素が取り入れられており、それはKidara族の影響によるものだと考えられている。おそらく遊牧民としてのKidara族はもともと天を崇める素朴な信仰をもち、そうした信仰心からゾロアスター教徒による拝火を取り入れていたのではないかと考えられる。

Kidara族は北西インドにおいてGupta王朝と対峙したが、パンジャブより東のインド世界に進出することはできなかった。当時Gupta王朝は絹、革製品、毛皮、鉄製品、象牙、真珠、胡椒などの贅沢品を西アジアや地中海世界に向けて輸出していたが、Kidara族の侵入はそうした交易を阻み、そのためGupta王朝の税収入を激減させたという。いっぽうでKidara族が採用した通貨システムは彼らが支配した地域の経済を阻害することはなかったようだ。地域交易に根づいた伝統を保持しながら領土内の地域同士での広範な交易リンクをつくり出すという、地域経済にとって好都合な条件を生み出していたからである。

七世紀に成立した「北史」によれば、「Kidara族は遊牧をしながら移動する。その点において匈奴と似ている」とされ、もともとKidara族が遊牧民であったことが明記されている。遊牧民を出自とする一部の支配者層があり、それに従属する人々がいて、従属する人々は遊牧の伝統を守る生活をしていたと思われる。支配者層は複数の氏族とその連合体である部族組織で構成され、一つの大きな共同体(王国)の形態をとることになっても伝統的な構成要素が破壊されることはなかったようだ。そのことは王国を支える行政組織と軍隊において如実に反映されていただろう。

 

500年頃に別のフン族であるAlchon族が、一世紀の間インド北西部を支配したKidara族を駆逐してンド中原まで侵入した。Alchon族はGupta王朝を崩壊に至らせ、結果的にインド古典期の終わりをもたらした。Kidara族に代わって発行されたコインには「Alchon」の名がBactria語で銘記されている。コインには長頭の支配者像が描かれ、それはAlchon族のあいだで人工的に頭部を長く歪める風習があったことを示している。乳幼児の頃に頭を締め付けて頭蓋骨を変形させる風習は少なくとも新石器時代から世界各地の文化圏で行われており、ユーラシア大陸において紀元前20001000年頃には中央アジアに見られるようだ。一部のフン族の間で使っていた揺り籠によって乳幼児の頭蓋が変形を生じていたのが、フン族の進入後の(ヨーロッパを含む)各地域で、そうした頭蓋の変形した特徴が逆に特権的な階層や民族集団を示す指標として機能したのではないかという。したがって、この特異な風習については、自らのアイデンティティを表明する極端な方法の一つであった可能性がある。すなわち、コインにその風習を表明したAlchon族にとってその表明は支配者層を軸にして共同体の一体性を示す意義があり、彼らはプライドをもってそのことを示し、前任者のKidara族とは異なる出自であることを明白に示そうとしたと考えられる。

Alchon族は370年頃にBactriaを占拠し、380年頃にはヒンドゥクシュ山脈のKapisaに進出してKabul地方を支配し、それによって中央アジアからヒンドゥクシ山脈へ通ずるルートを制圧した。次いで460年から470年にかけて北西インドのガンダーラ地方に進出し、パンジャブを制圧した。Alchon族はKidara族とはうって変わってペシャワールにあった高名なKanishika王のストゥーパを破壊した。さらに北西インドの学問中心地であったTaxilaの仏教寺院やストゥーパを破壊し、その破壊の規模は以後Taxilaが回復することができないほどだったという。ことにMihirakula王は仏教徒にとって「恐ろしい迫害者」として知られ、彼の治世にはガンダーラ地方の何千もの仏教寺院が破壊されたという。玄奘はMihirakulaが仏教を壊滅させ、仏教僧を追い出すよう命令したと記している。

Alchon族は480年頃にはインダス河下流域のSindh地方に進出し、Multanからインダス河口地域までを支配した。さらにはToramana王の下でインドの奥深くまで進出し、現在のGujarat州やMadhya Pradesh州にまで領地を広げ、Gupta朝からインド中部のMalwa地方を奪い、そこには「Toramana王によるEranの猪碑文」なるものが遺り、Toramana王が主体として建てたとされる猪()像に銘が遺されている。また520年、Toramana王の息子Mihirakula王のときにはMadhya PradeshGwaliorにまで進出し(同様に「MihirakulaによるGwalior碑文」として知られる銘がある)、ある記録によればその後にGupta王朝の首府Pataliputraにまで至り、首府を襲撃して破壊したと言われる。しかし、Mihirakulaはインド東部にまで侵入するにつれてとうとう中央インドのYasodharman王率いる連合軍に敗退し、六世紀の終わりにはAlchon族はインド中原から退却し、カシミールやパンジャブへの後退を余儀なくされた。そしてガンダーラ地方からも退却し、Khyber峠を越えてふたたびKabul地方へ移動したようだ。そこで次にやって来たNezak(フン)族と合流したと考えられている。

Lahoreとその周辺地域がToramana王率いるフン族に支配されたのはこの頃のことであると考えられている。Toramana王はLahoreの城邑を破壊して「真っ平らにした」が、後になってRavi河沿いのLahore港による交易価値を認識し、要塞の基礎となる新たな城邑の再建に着手したという。その真偽は分からないが、Lahoreの城邑が五世紀頃にはかたちを成していたという説を支えるものである。Toramana王はカシミールからMultanまでのパンジャブ一帯、インダス河からデリー周辺までの北インド一帯を征服すると、いっときLahore北方に位置するSialkotを首府としたのは事実らしい。ともあれ、Lahore城邑の三つの区域に沿って泥の城壁が建てられ、Lohari門から北側の三つの小丘に家々が建つ城邑らしき場所となったという。そしてRavi河沿いには古代のLahore港が再建されたようだ。

Alchon族のインドからの撤退に際しては、その信仰をめぐって一部の部族との分裂を引き起こし、それが理由か分からないが、一部のAlchon族はインドの地に留まったという。Alchon族は一般にステップ地帯の遊牧民の伝統である太陽信仰を保持しており、彼らが発行するコインには太陽のシンボルが描かれている。このことから、彼らはインドの地においてVedaSurya(太陽神)信仰から何らかの影響を受けのではないかと考えられている。彼らがインドの宗教から影響は受けたことは明らかで、たとえばMihirakula王はインド土着の神々の破壊的な力に惹かれ、ことにシヴァ神の熱烈な信者であった。実際、彼らの支配時期にはカシミールに多くのシヴァ寺院が建てられている。そうしたシヴァ信仰に影響を受けた者たちと、遊牧民特有の素朴な天空信仰を守る者たちとの間で対立が起きたのかもしれない。

こうした信仰面の対立と共に、Alchon族が北西インドを支配する間にその支配者層の一部はインドのカースト制度から影響を受け、その家系をインドの階層関係に応じて順応させ、インドのカースト制度における戦士階級であるKshatryaに組み入れられることになったという。インドの地に留まったAlchon族の一部の者とはそうした支配者層であったと考えられるが、彼らの行動は、カースト・システムに後になっても拭えないほどの変化を与えることになったようだ。もともとインド世界の外部からやって来たアーリア人がインド土着民との関係を規定したカースト・システムは、そうしたシステムの起源を隠微するためもあり、インド外部の民を受け入れることのない頑迷な制度であった。そうした制度に変更が加えられたということには、当然そのとき何かしら社会的に強い力が働きかけられたと考えることができる。ここでAlchon族の一部支配者層とは後にRajputと呼ばれる氏族のことである。Rajput族はフン族の一部族の後裔であると言われる。彼らが保持する馬をめぐる文化は遊牧民族の慣習を色濃く遺し、また彼らは現在でも邸宅にシヴァ神を祀って信仰している。このときRajput族がカースト制度の中に新たな勢力として位置づけされることになるその展開は、北インドにおけるフン族の侵入時代に始まる新たな現象であったことは事実のようだ。「rajaputra(王の息子)」という称号が最初に使用されたのは宮廷詩人Bana(606647)が「Harsacharita」を謳いあげた七世紀である。この頃にrajaputraとしてのKshatryaの勢力が顕在化し、その勢力はパンジャブからその北方の丘陵地帯にいたる地域において強い影響力をもっていたようだ。たとえばRajput族による土地の保有権のあり方が主導されるにつれて、大まかに封建的関係と言っていいような新たな社会経済システムがパンジャブから北方の丘陵地帯に導入されていったという。Rajput族による土地保有の仕方はそれ以前にはなかったもので、族長たちが共同で拡大したと主張するその権利を盾にして、自ら獲得した土地を自分のものとする事態を永久的なものにするという仕方だった。かくして彼らは永久的な土地所有者となり、さらにはそれゆえに、所有地に住む者をも所有すると主張した。Rajput族によるこうした新たな所有権をめぐる支配は、多くの異なる民族を含む社会を単に一体化する階層制度であった従来のカースト・システムに強い力を働きかけ、結果的に現代にまで遺り続けることになる土地とそこに住む人々をも従属させる社会経済秩序としてのカースト・システムへという展開をもたらすことになったと言えるだろう。そうであれば、インド世界の外部の者であるAlchon/Rajput族がKshatryaに組み込まれることで、アーリア人の侵入の際に徐々に厳格な社会制度として規定されたカースト・システムはこのとき事実上改変され、土地所有による支配を含む制度になったことになる。もともと遊牧民であるAlchon族によるインド定着という選択がその役割を果たしたことになるが、そこにはすでに述べたように、インドのシヴァ神信仰に影響を受けたという彼らの信仰の変化にも起因していると考えられる。

 

450年頃に中央アジアにエフタルが勃興し、500年頃までにはBactria、パミール高原、アフガニスタンの一部を掌握した。それによって北西インドのAlchon族およびKidara族はBactriaとのルートを断たれることになった。インド文献によればエフタルは「Sveta() Huna」として知られる。これに対して、たとえばKidara族はイラン語で「Karmir Xyon(匈奴)」と呼ばれた。それらは彼らの肌の色の違いを示し、民族的にイラン系とトゥルク系を区別する語であったと思われる。Hephthalite(エフタル)」の名の謂れは不明であるが、一説によればイラン語系であるKhotan語の「Hitala(強い)」に由来するのではないかと言われる。エフタルはもともとBactriaに由来するということからすれば、その主体はおそらくインド・ヨーロッパ語系に属する東部イラン系遊牧民の集合であったと思われる。エフタルが話す言葉は東部イラン語であるが、それはKushan王朝でコインにも刻まれた当時の<公用語>であったBactria語とは異なっている。とはいえ遊牧民国家が多かれ少なかれ部族の連合体であるように、エフタルの中には少なくともアジア東部や北部からやって来たトゥルク語を話す部族も混じっていたようだ。フン族の連合体やエフタル連合体の多くはイラン系の言葉を話していたが、この頃は中央アジアの歴史でイラン系の言葉を話す遊牧民が活躍した最後の時期であると言われる。その後はトゥルク語を話す遊牧民が主流となり、定着したTajik(イラン系民族)と遊牧民Turk(トゥルク民族)の支配する地域が斑らに入り混じり、それぞれの盛衰によってその分布がその都度変化するような状態が1000年の間続くことになる。

 部族連合体のエフタルはその中に遊牧民と定着民の共同体を抱えていた。その本拠地はヒンドゥークシュ山脈北側傾斜地で、479年頃までにSogdiaを征服し、Kidara族を西方へと追いやり、493年頃までには東方のアルタイ山脈南のDzungariaTarim盆地を掌握した。首府はOxus河に近いKunduzにあったが、王を中心とする行政組織は冬の三ヶ月のみそこに居住し、あとは各地を移動していたようだ。彼らは熟練した戦士からなる軍隊を組織していた。すなわち騎馬隊を組織し、主要武器は剣であるが、棍棒で武装し、優秀な騎手を擁していた。「外国に向けて移動し、散らばり、そこで多くの城塞都市や首長のいる街を支配した。彼らはテント生活をし、一つの場所から他の場所へと移動した」という。

 遊牧民と定着民の両共同体を抱えるエフタルの経済は三つの部門から構成されている。都市経済、定着農業、遊牧である。都市定着民は数において地方の定着民を上回るものではなかったが、経済的にも政治的にも宗教文化的にも都市の役割は村落よりも際立って重要だった。こうしたことからエフタル社会には貧富の差が如実化していたという。その社会は階層化し、社会的にも所有の面においても明らかな差別があったようだ。

エフタルは一妻多夫制を行なっていた。また頭部を長く歪める慣習ももっていた。「長い頭部、V字型の眉毛、鉤鼻、逞しい顎」が彼らの特徴であるという。彼らは天や火を神と仰ぎ、仏教を認めず、寺院を破壊した。火を崇拝するのはゾロアスター教の影響であるだろう。彼らは毎朝テントの外に出て、神々に祈りを捧げ、それから朝食を摂ったという。一妻多夫制はエフタルの最も名高い社会慣習である。兄弟は一人の妻を共有し、子が生まれればその子は兄弟の一番年長の者に属するとみなされた。結婚した女性の頭被り物には<角>が飾られ、その<角>の数は夫の数に相応したという。この慣習は古代に中央アジアのSaka族の間で行われていたものでもある。ちなみに、一妻多夫制はチベットやモンゴルの放牧民の間で近代まで行われていた慣習である。

 六世紀中頃にインドに侵入したエフタルはそれと同時に中央アジアでトゥルク族勢力と対峙し、徐々に衰退していく。そして、もともと西トゥルキスタンに住んでいたKhalaj族によって継承された。Khalaj族はもともと遊牧民であり、トゥルク系部族である。Khalaj族はエフタルに属していたか、もしくはエフタルの連合体の一つであったのが、エフタル社会の中でまとまった部族として成長し、連合体を率いるまでになったようだ。このことから推測するに、部族連合体のエフタルはインド、アフガニスタン、そして特に中央アジアにおいて、連合体を構成していた数々の部族集団の形成と発展において重要な役割を果たしたと考えられる。その後に形成されたトゥルク族集団の多くはアラブ人の中央アジア進出に対抗したようだ。

 

484年頃にヒンドゥークシュ山脈南部が出自のNezakフン族がその領地を確立した。ササーン朝の弱体化と共にアフガニスタン南部のZabulistanを支配下に置いたのである。「Nizuk」はSaka語で「戦士」を意味する。彼らは六世紀にはKabul地方に進出し、KapisaからAlchon族を追い払った。このとき一部のAlchon族は前にも述べたようにNezak族と融合したようだ。Nezak王は金の雄牛の冠が特徴で、そこにはイラン系のミトラ神信仰の影響が窺われる。彼らは主にGhazniKapisaから北西インドを支配したが、670年頃にNezak-Alchon連合体はTurk Shahi王朝に取って代わられ、北西インドはその後Turk Shahi王朝による支配が続くことになる。Turk Shahi王朝(79世紀)もしくはKabul Shahi王国は多民族で構成され、その領地にはエフタルを含む多くの異なる民族が住んでいた。定住する人口のかなりの部分は中世・新東部イラン語を話す人々、後期Bactria語を話す人々、イラン語の新たな局面であるアフガン語(Dali)を話す人々、中部イランの西部イラン語を話す人々、イラン語の新たな局面であるTajik語もしくはペルシア語を話す人々等で構成されていた。サンスクリット語やプラクリット語も広範していた。また人口のうちの大きな集団がインド・イラン語系のDard語を母語として使用していた。王国の北東部の、現在のGilgit-Baltistanにおいては、言語的に孤立したBurushaski語が話されていた。特に重要なのはトゥルク語である。トゥルク族はアジアの北東部奥深くからその言語を中央アジアにもたらした。五世紀頃にトゥルク族は諸遊牧民たちによる西方への移動に乗じて急速に中央アジアへとその数を集中させるようになり、六世紀にはKul Tepe族とBilge Khan族が現在のモンゴルを流れるOrhon河渓谷に自らの領土を打ち立てた。七世紀にはOguz族が増え、その数二十四の部族を構成した。北西インドや西トゥルキスタンにイスラーム王朝を築いたGhazna族、Ghur族、Seljuq族はこのOguz族の血統であると考えられている。

この頃、Tokharistanや中央アジアのSogdiana、そしてKhwarazmといった非遊牧地域にはキリスト教ネストリウス派、マニ教、仏教が広まっていたにもかかわらず、多くの人々がイラン系の宗教を信仰し続けていたようだ。このことから、イランのいわゆる正統ゾロアスター教とは異なる中央アジア版のゾロアスター教があったことが推測される。中国文献によれば、Sogdianaでは「人々は仏教の教えを敬い、天の神に犠牲を捧げる」という。また彼らは黄金像を崇拝し、それに動物を犠牲に捧げ、何千人もの礼拝者が毎日犠牲を捧げるという。他の文献によれば、サマルカンドでは「王とその国の人々は仏教を信奉していない。火を礼拝している」という。またソグド人支配者の宮殿には祖先礼拝のための寺院があった。おそらく土着の信仰や儀礼が層を成して遺っていたがゆえに、中央アジアとペルシアのゾロアスター教の間にはかなりの相違があったことが窺われる。ソグド人の饗宴と慣習について、Al Biruni(十一世紀)が述べている。「ソグド人は新年の到来を祝う。それは自然の死と再生の考えに結びついている。一年に一度、ソグディアナの人々は死者を追悼する。このとき彼らは自身の顔を刃物で傷つける。そして死んだ者に食料や飲み物を供える。Siyavush(ペルシア語の叙事詩「Shahnameh」に出て来る主要人物)の礼拝は死者を礼拝することに関連する。新年の最初の日に雄鶏が死者に捧げられる。神聖なる若者が死に、その骨が失われたと信じられている。特別な日に信者は黒衣に身を包み、裸足で野にその骨を探しに行く。陶製の骨容器に埋葬する風習はソグディアナやホラズム、タシケントやセミレチエのオアシス地帯に広範している。肉が骨から削ぎ落とされると、骨は骨容器に集めて容れられる。骨容器は特別な部屋に置かれる。骨容器の中には見事なレリーフで装飾されたものがある」と。興味深い記述である。黒衣に身を包み、神聖なる人物の死を悼んでその人物の空白を埋めようとして自身の身体を傷つけるのはシーア派によるAshraの儀礼であった。いっぽう、ソグド人の文献には様々な神格について述べられているが、その中に「zrw(Zurvan)」がある。Zurvan教はもともとゾロアスター教の一派であり、ソグド人のあいだで信仰されていたことが分かる。Zurvanは<時間>の神であり、後に<時間>をめぐる思考がシーア派の分派であるイスマイール派に受け継がれることになる。それに対して中央アジアのイラン系遊牧民の信仰はより偶像崇拝的であり、彼らは死者を塚に埋め続けていた。土葬と火葬がともに行われていたようだ。

 

北西インドにフン族が打ち寄せ来る波は六世紀の終わり頃まで続いたが、そのフン族と共に中央アジアにいた幾多の遊牧民部族もやって来た。中には北インドに留まって後にRajput族として形成されるようになる氏族があり、またさらに南や西部インドへと移動する部族もあった。なかでもGujjar(Gurjar)族はフン族侵入の数世紀後に北西インドに勃興した部族である。フン族と共に彼らは中央アジアの一部族であったが、もともとスキタイ族の一部であったと考える者もいる。彼らは四世紀から五世紀にかけてすでにLahore北方のJammu地方やカシミールの住人であったようだ。三世紀頃にBalochistanBolan峠を越え、そこからインダス河西部の山岳地帯を通ってパンジャブにやって来たのである。彼らは様々な名前で呼ばれ、GurjaraKharzera KhazarGujjaraGurjar、そしてGujjarなどがある。「Gujjar」の語は「戦士」を意味する「Gauzar」に由来すると言われ、Gujjar族が戦闘においてその動きと戦術に長けていたことが窺われる。Gujjar族の多くが「Suryavanshi Kshatriyas(太陽系統の戦士階級)」の血統であることを主張し、インドのRama神と自らを関連づけていた。もともとGujjar族は太陽信仰者であり、インドの地ではSurya(太陽神)に身を捧げていたと言われる。その尊称「Mihir」は「太陽」を意味する。Gujjar族はエフタル連合体の一部族ではないかと考える者がいるが、それによれば、北西インドに住んでいた初期のGujjar族はエフタルと同盟していた、そう証言するムスリムのGujjar族がRajasthan州やGujarat州に現在もいるという。

現在のパキスタン・パンジャブ州のGujranwalaGujratGujarkhanといった諸都市はGujjarと関係がある。これらの都市はLahoreRawalpindiを結ぶ幹線道路に位置しているが、Lahore滞在当時、私はバスでそれらの街を通過する度にそれらのよく似た名前が気になって仕方がなかった。そしてさらにインドに行けばGujarat州があった。何か関連があることには気づいていたが、今それらがフン族と共に中央アジアからやって来たGujjar族の分布する場所だということが分かったのである。その分布は広く、十八世紀にはデリー北方のSaharanpurGujratとして知られていたという。またインド中部のGwaliorの北部の地域はいまだにGujargarhと呼ばれている。十九世紀にはRajasthan州の北部と中央部はGurjaratra(Gurjaraの土地)と呼ばれていた。Gurjara族は中部インドのBundelkhandNarmada河渓谷、Nagpurや南インドにも見られる。彼らは十二世紀には各地に移動したようだ。

Jatはインダス河下流渓谷のSindh地方で放牧生活をしていた部族で、その名は自ら名乗ったものではなく、伝統的に村落や都市に住むような上部階層に属さない共同体に適用された名である。八世紀にアラブから船団を組んでやって来てSindh地方を征服したMuhammad bin Qasimに同行したアラブ人の記録者は、Jatを征服地の山岳地や荒地や湿地に寄り集まる者たちだと述べている。

現在は北西インドに広く分布するJatはもともとインド・スキタイ系、すなわちSaka族の後裔だと考えられている。Saka族は前二世紀頃から一世紀にかけてBactriaから月氏に追われて北西インドにやって来た民族で「インド・スキタイ族」として知られる。イラン高原東部からインダス河渓谷にわたって広く領土を確保し、インド・スキタイ王国として知られた。イギリスの考古学者A. Cunninghamは、Jatは「おそらくOxus河の故地からパンジャブに入って来て、まずインダス河渓谷を占拠した。イスラーム勢力の侵入以前にはJatはパンジャブに広がっていた。そこで彼らは十一世紀の初めまでには定着したが、ムガール王朝の始祖バーブル王がやって来る頃(16世紀)までには北部パンジャブのSalt RangeにいたJatGhakkar族らに征服されてしまった」という。

インド・スキタイ族やフン族等の異民族がインドに定着する際には実は様々な形態があった。軍事指導者や王族たちはRajputra(王の息子)として受け入れられ、そのことによってカースト・システム内部に入り込むことができたが、Jatたちは耕作者として、Gujjar族は放牧者としてしか受け入れられなかったという。パンジャブのJatは現在にいたるまで農民として知られるが、彼らはもともとパンジャブや北部の山麓地帯に定着する以前は放牧生活をしており、そのためヒンドゥー教や仏教、イスラームといった南アジア世界の信仰の主要な流れに触れることはなかったという。しかし、歴史が展開するとともに周縁地から主要な流れの地に移動せざるを得なくなり、そのことによって彼らの生活にも社会的・経済的な変化がもたらされ、農業世界に融合するようになるとJatは自らが住む社会に支配的な信仰を採用するようになった。たとえば、パンジャブ西部ではJatはムスリムになったが、パンジャブ東部では後にシーク教徒になる者が多く、デリーとアグラ周辺ではヒンドゥー教徒にとなったといったように。このことから彼らがもともと<Jat族>という意識によって統合されていなかったことが分かる。とはいえ中世のインドは、周辺的な部族グループが時代の変化に応じてその根拠と存在の在り方を再構成し、社会的・経済的優越性を高める方向へと移行する時代であった。Jatもそうした動きに応じた一つのグループであったことは確かである。

ヒンドゥー教のカースト・システムはJatについては不明確にしている。ある資料によれば、JatKshatriyaもしくは「Vratya Kshatirya」であると述べられている。「vratya」とは「堕落した」という意味で、「Vratya Kshatirya」は「非正統のKshatriya」とでも訳せ、その正統性が疑われるものであった。彼らはバラモン儀礼に従わないのでスードラ(最下層民)の地位に堕ちたという。しかしJatの階層的位置は時が経つにつれて改良され、八世紀頃にはChandala(不可触民)だったのが、十一世紀頃までにはスードラの位置へと改良され、十七世紀のJatの反乱の後には努力してZamindar(領主)にまでなったJatがあったようだ。イギリス統治時代にJatに浸透していたヒンドゥー教改革運動の団体である「Arya Samaj(アーリア協会)」がJatKshatriyaと認めるよう要求したが、Rajput族はそれに反対した。その結果Rajput族とJatとの間にしばしば騒乱があったという。

そのRajput族はMaharajaで知られる西部インドの王族であるが、前に述べたようにインドに侵入して来たフン族の一部が北インドに定着した後にKshatryaを自認した者たちである。「Rajputra(王の息子)」と称して自ら「Suryavanshi(太陽系統)」、「Chandravanshi(月系統))、そして「Agnivanshi(Agni神系統)」の神話をつくり出し、現在までの地位を確保したと言われる。ブラフマンからRajput族の新たな王家の系統にKshatiryaの地位が与えられたのは四世紀から八世紀頃にかけてであるという。長い時間をかけて彼ら王族の系統は古代プラーナ文献や古典的叙事詩に結び付けられ、Rajput族の王朝は「太陽系王朝」と「月系王朝」とにその出自を結びつけるようになった。こうした由来付けが彼らをカースト制度の中の支配者層として正当化したのである。その代わりに新たに認められたKshatryaはブラフマンの地位を保護し、経済的な見返りを与えることになった。もともと古代プラーナ文献では「Huna」は「Mleccha(蛮族)」と同等であるとされ、「Vratyaの国」を支配していると言われたが、その内容は彼らによる土地所有とそれに伴う出自の捏造によって次第に改変されていったわけである。こうしたプロセスは主に北インドとデカン地方で展開された。そうした展開によってRajasthan州にもともと住む部族の中にはRajput族の祖先となる氏族によってその地位が置き替えられ、そのためその故地を捨てて逃げ出した者もいるという。この時期のKshatryaをめぐるカースト・システムの改変は後の時代に影響を与え、後の時代のKshatryaはその正当性を訴えるのに、この時代に設定された出自を根拠にするのが慣しとなったようだ。

このように五世紀から八世紀にかけて中央アジアからフン族と共に北西インドに次々と異民族が侵入し、一部の者たちは北インドの各地に定着し、独自に部族共同体を築いた。物資や文化の往来という流動性があるいっぽうで、こうした民族の流動は民俗や言語というアイデンティティを伴うそれなりの特殊性を保持しながら当時の社会に影響を及ぼしていた。言い換えれば、インド外部の特殊性を保持していた民族性といったものがインドの厳格なカースト社会の一部を変容させたのである。彼らはカースト制度の中に入り込み、逆にその制度を自らを軸にして強固なものにしていった。イスラーム勢力によるインド侵入時に対抗したのは主にこうした遊牧民を出自とするKshatrya勢力であった。彼らはかつて外部からやって来たが、インド内部の存在と化したために、外部の者の侵入に対して強く反応したのである。それはかつて外部からやって来て土着の人々との関係を一方的に規定したアーリア人と同じ反応であった。

 

Kanhanya Lalの「Tarikh-e Lahore(ラホール誌)」をはじめて読んだとき、Lahore城市が異民族に幾度も襲撃を受けたという記述に私は驚かされた。そこに記述された数は八百年の間に十三回というものであり、ユーラシア大陸東端の島国である日本人の私にとっては戦慄的な数だった。襲撃のたびに城市内の建物という建物は徹底的に破壊され、物資はことごとく略奪される。物資のみでなく、城市の住民は連れ去られ、奴隷として他国へ売られるのだ。城市がふたたび再建されるまでには数十年の歳月を要し、再建されるのを待ってふたたび略奪者がやって来る。そうしたことの繰り返しだ。ただし「Tarikh-e Lahore」の記述は十一世紀のトゥルク系・ガズナ朝のMahmud王の襲撃から始まり、それ以前の記述はない。今考えるに、おそらくそれ以前の襲撃は十一世紀以後のそれとは性格の異なったものであったろう。Lahoreが城市としていつ頃からかたちを成していたかは分からないが、五世紀頃にAlchon族のToramana王によって襲撃を受けたという話があり、そのことはすでに述べた。Toramana王は後にRavi河沿いのLahore港の利便性を考慮し、Lahore港を再建したという。話の真偽は分からないが、おそらくKushan王朝後期の三世紀頃にはRavi河に臨む小規模の城邑が出来ていたと思われる。河川交通はハラッパ文明の時代から継続すると思われ、Kushan朝の当時はインド洋を介した海洋交易が活発化し、パンジャブ地方では農産物の生産も向上していたと思われ、その集積地としてのRavi河沿いのLahoreの地が考えられるからである。そしてその時点においても、おそらくそのLahoreの城邑は地方の部族によって成るものではなく、おそらく様々な異民族の定着を条件にして形成されたのではないだろうか。

 そこには堆積する民族の様々な層があった。もともと知られる中ではハラッパ文明の住民層があり、次いでアーリア人の層が北インドに広がった。それから中央アジアからイラン系のKushan族の遊牧民が、そして彼らを追うようにしてフン族/Turk系の遊牧民層が北西インドに入り込み、一部は北インドまで入り込んだ。アーリア人の層は北インドに人種の階層化を推し進めたが、ここまで述べてきたように、その後に入り込んだ遊牧民の層はそうした階層化社会に対して異なる態度で臨んだのである。一つは土地所有によってKshatrya化し、上部階層に入りこんだRajput族、一つは階層化社会に取り込まれるのに消極的で、農民化したJatがある。つまるところインド北西部の境域においては幾多の異民族の侵入による多くの異民族の定着があり、そのことはインド世界とは一線を画すような要素であり続けたのに違いない。そうしたインド世界とは異質な要素は時を経ても潜在的に機能し続け、英国から独立の際にはインドとは別にパキスタンという国家が成立する条件となったのではないか、私には今そう考えられてならない。言い換えれば、遊牧民たちはインド世界に定着したけれども、一部の部族はカースト・システムによって成り立つ階層社会のインド世界とは拮抗し続けたのである。そこにはインド世界に極めて厳格に存在した階層社会とそれに従属せざるを得ない集団に対して、遊牧民による<個体性の神経>というものが生き延びているように感じられる。