Sunday, July 02, 2017

Lahore日記 The Diary on Lahore


   城市 (4) 中

 東の空が群青色に深さを湛える頃、地上では夜明け前の大地からみるみるうちに霧が這い出し、それは生き物のように拡がり、辺りを覆い始める。あるいは霧はRavi河から流れて来るのか、Taxali門前の環状道路はいっとき灰色に靄り、視界を遮ってしまった。その靄の中からいきなり白い牛が現われる。見るとその肌がびっしょり濡れている。さらには馬の頸が靄の中からぬっと姿を現す。その背後から現われ出たのは荷馬車の御者だ。彼らのように夜明けと共に仕事に就く者は毛布を頭からひっ被り、手に白い息を吐きつけるが、霧に包まれて息とも霧とも見分けがつかない。しばらくしてようやく太陽が顔を出したのか、陽光が霧を射し抜くと、霧は追い払われるように、あたふたと逃げるように、中空へと上昇するので、辺りはうっすらと明るくなった。その際に霧は地上から水分を吸い上げ、それと同時に水分が熱を吸い上げるので、ひどく底冷えがする。陽が昇りきると大気は急激に熱せられ、すると中空の霧は渦巻くように、さらに上空へ昇るように地上から散じると、辺りは嘘のように晴れわたり、さらに底冷えがする。足下から冷気がからだを包み込む。その冷えた朝の空気がからだを包み、からだに沁み入るような感覚を私は今でも想い出すことがある。北陸の冬の晴れた朝にいきなりからだがLahoreの朝の感覚に包まれ、足下の感覚が冷気を包み込む。それだけで心ときめく感じがするのだ。冬のインド亜大陸の朝の<底冷え>感覚は特別な仕様でからだに記しづけられているようだ。
 夜明けと共にベッドから起き出し、霧が晴れないうちに部屋を出る。ロビーの床で頭から毛布を被って寝ているChowkidar(守衛)を起こし、玄関を開けさせ、ホテルを出る。「Jubilee Hotel」の看板を掲げているが、このホテルはつい最近建てられたばかりのようだ。アフガニスタン情勢が逼迫してパターン人が続々とLahoreに流れて来るので、おそらくパターン人用に新たな需要があり、慌ててつくられた宿だと思われる。見ると、ホテルの裏の部分はむきだしの鉄筋に煉瓦が積まれ、まだ建設途上にある。うっすらと霧がかかる環状道路を歩いてLohari門前まで新聞を買いに行く。今日はJum’aで、大通りには人も車もほとんど見かけない。馴染みの新聞屋はまだ新聞を用意していなかった。多くの店が閉まったままだが、飲食店はすでに開き、あるいは店開きの準備にかかっている。ことに若い衆がきびきびと立ち廻り、冷えた空気のせいもあるが、朝のLohari門周辺は昼間とは趣が異なり、引き締まった感じがする。霧が晴れ、ようやく新聞が来たので、地元紙の「Nawai Waqt」と「The Pakistan Times」を買う。Karachiが本社の「Dawn」はいつも遅れてやって来るようだ。ロビーに明りの点いたホテルに戻り、一階の食堂で新聞に目を通しながらNashta(朝食)をとる。「ターヒル Bhaiya(兄さん)!」と声をかけられ、給仕の少年Shahbazがポット・チャイを運んで来る。彼はパターン系で、年は十一、二才ぐらいか。肌の色が白く、端正な顔立ちで、笑顔が愛くるしい美少年だ。朝食に新聞に美少年の給仕、それだけで満ち足りた気分になる。
 ホテルを出てTaxali門から城市に入り、Jum’aで閑散とした街路を散策する。Chowkはクリケットに興じる少年たちに占領されている。Rang Mahalに出る前にRufeeqの茶屋に寄ってみることにする。朝からJabbarがいるのでSandha油について尋ねると、「ターヒル Ji(さん)、あれを精力剤だと言って売っているようだが、まやかしですよ」、と素っ気ない。来たる州議会選挙をめぐってRufeeqとの議論に忙しく、私は蚊帳の外だ。チャイを給仕する少年Jammuがもう店に出ている。Jamalという名前だが、Jammuはその愛称だ。彼はArainで、浅黒い肌をしている。まだ十才そこそこの年頃だろうか、ふっくらした顔に目鼻立ちがはっきりしている。睫毛が長く、目がくりくりとして可愛らしい。ふとその表情に愁いを含む陰のようなものが射すのを目にすることがある。と、それだけで美しいと思う。

「明日も<Geet Mala>を観に来るんだろう、Tahir」。Jum’aの礼拝の後、Khalidはいつものように声をかけてきた。昨日のことはもう忘れたのだろうか。Sutar Mandi ChowkにあるKhalidの家にはテレビがあり、土曜日になると学校から帰った午後の遅くから、Amritsarからの放送電波に合わせてインド映画のダイジェスト版を連ねた歌番組を観るのが常だった。「Geet Mala(歌謡シリーズ)」とはその番組の名前だ。
 少年は、明日の午後はKasmiri BazarにあるHakim(医師)の店に行って色々と尋ねてみようと思っていたところだった。Hakimはカシミール人だ。学識があり、何でも知っている。Delhi門を入ったところに小さな店を構えていて、店先の看板には、「どんな病もTibb-e-Yunani(ギリシア医学)で直します」と大書されていた。店頭の棚には様々な形状のガラス瓶が並び、背後の棚には革装丁の医学全集本がずらりと並んでいる。Sherbat(調合飲薬)が評判で、それを求めてよく客が来るようだった。その隣には冷えた水牛のミルクを専用のステンレス容器に入れて売る店があった。聞くところによれば、Hakimは気難しい人で、こんな話を聞かされたことがある。
Hakimは朝早くに店を開け、まず店の前の通りに水を撒き、それからSherbatの瓶や他の飲み薬を棚の決まったところに念入りに配置するような人だ。それから、店の座敷に置かれたクッションを覆うカバーの埃を丹念に払い、そうしてクッションに座り、『Tibb-e-Akbar(医学大全)』か、Avicennaの『Al Qanoon(医学典範)』やらの医学書を手にとるのさ。すると、Hakimはたちまち読書に熱中してしまうので、その日の最初の患者、あるいは客が来たのさえ気がつかないでいる。仕方がないから客は店の前でしばらく待って、それから声をかけなくっちゃあならないんだ。たとえば、『Hakimさん、白檀のSherbatを八アーナ(一アーナは1/16 ルピー)分いただけませんか』とな。でも、この声はかならず無視されてしまう。それで、客は何とかしてHakimに近づき、そのからだを手でゆするようにして、『Hakimさん、白檀のSherbatを八アーナ分いただけませんか』、そう声をかけるしかないってわけだ。するってえと、Hakimはようやく本から目を放し、客をいかにも不快であるといった目で見つめ、それから本をゆっくりと座敷の上に置き、うんざりしたような声でこう言うんだ。『みんな待つことさえ嫌なようだ。店は今開いたばかりなのにもう客が押し掛けて来るとはな。何と不愉快なことか…』ってな」。
 Khalidの方から先に声をかけられて、Tahirはちょっと躊躇した。
「明日は、ちょっと都合が悪いんだ」。
「何かわけがあるの。いつだって<Geet Mala>を観に来るじゃないか。昨日のこと、まだ気にしてるの」。
「気にしてないよ。ただ、ちょっと用があるんだ」。
「用って、何だよ。いつも何だって僕に話しているじゃないか」。
「実は、Kashmiri BazarHakimのところへ行って尋ねることがあるんだ」。
「それなら、僕もいっしょに行くよ」。
 昨夜、Tahirは<犠牲>とは何だろうかと考えながら、そんなことを考える自分がわけが分からないもののように感じられて、自分で自分の終始がつかなくなってしまった。こんな感じはKhalidに尋ねても分かることじゃない。それで、Hakimのところに行こうと決めたのだった。
 次の日の午後、学校が終わると二人はRang Mahalで待ち合せ、Kashmiri Bazarへ出かけて行った。
「<神は一方の手で根こそぎにし、一方の手で創造する>っていうよ」、そうKhalidがいわくありげに語りかけてくる。
「何、それ」。
「つねに気分を新たにする、ってことだよ。特に誰かと口論した後とかね。一方で古い自分を壊し、一方で新たな自分を見出すってことさ」。
「誰がそう言ったの」。
Bhulle Shahの師で、Shah Inayat Qadiriという人だ。彼はArainで、うちではみなこの言葉を金言にしているのさ。役に立つって言ってね」。
 Wazir Khanモスクを右手に通り過ぎて、Delhi門近くのHakimの店に辿り着くと、Hakimはクッションに身を沈めながら分厚い本の頁を繰っているところだった。二人が店の前で足をとめると、Hakimは何事かと本から目を放し、それから愛想の良い笑顔を少年たちに向かって浮かべてみせた。
Sandha油など何の役にも立ちはしない。そんなものを売るのはいかさま屋がやることだ」、Hakimは少年が尋ねるなり、そう吐き捨てた。
「じゃあ、あの生き物は何であんな目に遭うの。役に立たないって言うんなら、あの生き物が醜いからあんな目に遭うの」。
「神の前ではかたちの美しさも醜さもない。ただ内面の美しさと醜さの差異があるばかりだ」。
「じゃあ、あの生き物の内面が醜いってことなの。<内面>って何なの」。
「<内面>とは、外見からそこに何らかの深さが感じられるそのことだ。たとえば、夜明け前の東の空を見てごらん。もう闇ではない空の色に深さを感じるだろう。そのときは見えないが、空の遥か向こうから夜明けの光が射して、そう感じさせるのだ。<深さ>とは、いわばその距離のことだ。この喩えは<内面>を示しているとは言えないが、この喩えによって、少なくとも<内面>の美しさがどんなものかは推測できるだろう。<深さ>が感じられない者には<内面>の美しさがない。ただ動物については、外見からその<深さ>を推し量るのは難しい。いったいそんなことを知ってどうするのかね」。
「あの生き物があんな目に遭うなんて…。何かの<犠牲>になるんじゃなくて、ただあんな目に遭うだけだって言うのなら、天使はなぜ黙ってそれを見ているの。僕は声を、あの生き物の声を聴けばよかったんだ。もっとよく聴けばよかったって、そう思っているのだけれど…」。
「<犠牲>については慎重に考えないといけないな。今はどう言っても言葉が足りないだろう。人が神に<犠牲>を捧げるという考えがあるが、そればかりではないからだ。たとえば、母親は自分が生んだ子のために進んで<犠牲>になっている。神は人間を創造した。だから、神の方が人間のために進んで<犠牲>になっているとも考えられるからな。それで、お前は天使(Farishtah)がどうのこうのと言うが、天使については、その存在について考え廻らしても仕様がない。そうではなく、お前がそんなことを考えるっていうことに、そんなふうに考えているっていうことに、ひょっとして天使は関わっているかもしれないからな」。
 Tahirはそれ以上何も言えなかった。
「お前はたしか、Hasnain家の長男だったね。名はTahirと言ったか。お前の家はおじいさんの代に<Partition(印パ分離)>に遭って、Amritsarからこの城市に移って来たとお父さんから聞いているよ。1947年の九月のことだ。お前のお父さんがまだ子供の頃のことだよ。当時、Lahoreでは難民の家族は空家を見つけたらそれを無条件で取得することが出来た。城市の外にある、かつてヒンドゥー教徒やシーク教徒たちが住んでいた家屋は比較的良好な状態にあったが、城市内で空いていた家屋はどれもこれも屋根や壁が焼け落ちたような状態になっていた。ムスリムたちが寄って集って火を放ったからね。それでも、Hasnain家はMaya Bazarにある建物の最上階の部屋を見つけ、そこを家族のためのBarsati(雨風を凌ぐ場)とした。というのも、あそこからPaniwala Talabに出ればすぐにこのKashmiri Bazarに通じ、両親が何かとカシミールに縁があり、それを頼みにしていたからだと聞いている。ということは、お前とわしも浅からぬ縁があるということじゃ。天使(Malak)について考えるのなら、自身の<深さ>について考えるに越したことはない。また話を聴くから、いつでもいらっしゃい」。
 二人はもう明りがぽつぽつと灯り始めたKashmiri Bazarを歩き、家路についた。このBazarはいつも人通りがあって賑やかだが、明りが灯るとそれに加えて華やかさが増し、見違えるような場所になる。
Hakimはシーア派の人かい」。
「そうじゃないかな…」。
「天使についてああ言うことができるのは、きっとシーア派だよ」。
「ああ言うことって…」。
「人間にとって、天使が<能動知性(’Aql fa’al )>として働くと言ったのはAvicennaだ。ほら、本棚に『Al Qanoon』があったのを見ただろう。Avicennaはシーア派の人だ」。
「その<能動知性>というのは、内面の<深さ>っていうことに関係するの」。
「よく解らないけど…、Hakimが言う<深さ>とか<距離>というのは、神の<深さ>であり、神との<距離>ということじゃないかな…」。
 次のJum’aの日の午後、礼拝を済ますと少年は父親の用を言付かり、Rang Mahalに近いChabakswaran Bazarに一人で出かけて行った。Rang Mahalの店という店が閉まり、いつもの喧噪は失せ、辺りはひっそりとしていた。いつもと勝手が違うので、少年は一瞬別の場所へ迷い込んだような錯覚に襲われた。「ここは不思議なところだ」と思う。以前は毎朝ここからバスに乗って学校へ通っていたのに、今はその光景がまったく想い浮ばない。「ここには何かしら別の世界への通路が開けているかのようだ」、そう感じられてならなかった。Rang Mahalから東に入る小路に入ると、あまり来たことがないMohallahなのでさらに要領を得なくなった。ここら辺一帯はかつてMian KhanHaveliがあったところで、その広い敷地内にはムスリムの建てた幾つかの邸が城市に唯一遺っている、そうKhalidから聞いたことがある。見れば、立派な建物があちこちにあるのが分かる。今はこのMohallahに住んでいるのはパターン系の人が多いとも聞かされていた。そんなことを思いながら小路の奥へと進んで行くと、どうも道に迷ってしまったらしい。次々と現われる小さなChowkをどう行くのだったか、一つのChowkを曲がったのはいいが、そこから方向が分からなくなってしまった。今日はJum’aなので人通りも絶えている。少年は不安になり、立ち止まってしばし辺りを見回した。袋小路の奥に瀟洒な建物が見えた。行ってみると四階建てのお邸風の建物がある。各階に廂に欄干のついた出窓が設えられて、その突起の底が馬のかたちをした彫刻によって支えられているのが目についた。出窓の上には換気窓があり、そこには緑や赤、青の色ガラスが嵌め込まれていた。少年には珍しいものに見えた。各階から突き出た屋根の止まり木には明るい灰色をした鳩が群れていた。すると、その三階の一つの出窓の内扉が開かれ、中からいきなり月のように輝く女の子の顔が現れた。その突然の輝きに、一瞬少年は心臓が止まるような思いをした。女の子は窓の外へ首を伸ばすようにして、外の光景がどんなか窺うふうだ。ちょっと遠くの方に焦点を合わせるようにして見つめている。それから、ふと気を許した風にして今度は近辺を窺うように見やると、すぐに少年が見ているのに気づいたようだった。ちょっとびっくりした表情を見せた。それから、少年に何か声をかけようとしたのか、こちらに向かって前かがみになったので一房の髪が女の子の顔にかかった。少女がその髪をかきあげるのを少年はまじまじと見ることができた。美しい少女だった。けれどもその声は発せられることなく、なぜか少女はすぐに窓の奥に姿を消してしまった。しばらくして出窓の内扉が閉められ、それっきり少女は現われなかった。月のように肌が白く、天使のように美しい、少年はそう思った。その顔が輝くように見えたのは、きっとそれが少女の<内面>から現れているからだ、そう少年には感じられた。
 少年はそのまま為す術もなく袋小路を引き返し、幾つかの小路を辿り、何とかして人通りのあるBazarに出た。見れば、そこはWazir Khanモスクに通ずるChatti門のすぐ近くだった。手に持っていた、知人に返すよう父親に頼まれた書籍はそのままになってしまった。仕方がない。今日は素晴らしいものに巡り合ったから、父親に弁解でも何でもしよう。Asrのアザーンはとうに過ぎていた。少年は急いで家路についた。
 その後あの少女の姿を見ることはなかったが、その印象は強く少年の内部に刻み込まれた。あの天使のように美しい、月の顔をした女の子はその後どうしているだろうか。今あの女の子に街で偶然に出会ったら、自分はすぐに見分けられるだろうか。むろん、見分けられるだろう。というのも、「神は一方の手で根こそぎにし、一方の手で創造する」、これだと思い、少年は自分の内部で何か新たな力が働くのを感じていたからである。

 大英帝国行政官の要望を受けて、Lahoreの地誌を記したNoor Ahmad ChishtiによるTahqiqat-i-Chishti(チシュティ調査録)」(1864)は、Shah Husainを初めて「Madho Lal Husain」と呼んだ(記した)記録であるとされている。それまで、Shah Husainは「Lal Husain」と呼ばれ、そう記されていたようだ。この場合、「Lal」は「赤い」の意ではなく、「親愛なる」の意になるという。たとえば、他にもシンド地方の有名なスーフィー聖者、Lal Shahbaz Qalandar(11771274)の例がある。Chishti は、Madho Lal Husainの「Madho」は、Husainが「Madho」という名のブラフマンの少年を愛したことによってその名に付けられたのだといい、その詳細を記している。それによれば、あるとき街を行く馬上の美少年をHusainが一方的に見初め、幾多の試練と年月を経た果てに、晴れて共に行動をするようになったのだという。Husainの少年への気持ちは、たとえば次の詩の中に暗に示されている。
 夜が満ち、彼を待って立つにつれて私は夜と溶け合った
 RanjhaYogiになったその日以来、私は古い自己をほとんど失くし、どこに行っても人は私を狂人扱いした
 私の若い肉は、若い骨がぎしぎしと軋む頭蓋だけを残して、皺のうちに忍び込んだ
 愛の道を知るには私はあまりに若く、いまや夜が満ちて私は夜と溶け合った
 乞食僧Husainは、無情にも客との別れを主催する主人を演じている。
RanjhaYogiになったその日」というのは、「Heer Ranjha」の恋物語の主人公Ranjhaが愛するHeerに会いに行くためにYogiになる、という内容をふまえている。Husainは街で少年を見初めると、すぐさまRavi河を渡って、少年が住む竹薮生い茂る村を訪れに行ったという。たとえば彼の詩に、「私は独り、深い河の流れ/壊れかけた筏、野獣が岸辺をうろつく/夜毎の苦しみ、悶え苦しむ日々」とあるが、少年の姿を一目見ようと筏のようなものに乗ってRavi河を渡ったようだ。昼に少年の村を訪れ、その家の周囲を何度か廻るような行をし、夜になって街に戻る。そんなふうに筏で渡河し、村で苦行すること数年、その果てにHusainは、「夜が満ちて私は夜と溶け合った」、そう夜の感覚を言い表しているのではないだろうか。古い自己が失せ、夜の闇に自己が溶け込むほどの夜がそこに立ち現れている。夜に包み込まれ、夜を包む。それ自身において夜を巻き込み、夜に巻き込まれる。この夜の感覚は、ブラフマンの少年という別社会の人間を愛したということからすれば、イスラームやヒンドゥー教という信仰の区別を越えた、自然との融合感覚を讃えることの表明なのである。その自然との融合感覚に底知れない深さが感じられる。この自然との融合感覚があるからこそ、そのことが逆に彼の詩を、神との隔絶、孤立感を強調するものとしていると考えられるが、いっぽうでその隔絶感、孤立感が、おそらく大衆が共感できるような信仰心を紡ぎ出しているという特徴がある。どうもそういう仕掛けになっているようだ。ここには、北インドのヒンドゥー教世界に広まっていくイスラームの逆説的な面が現れているように思う。まず底知れぬ自然の深さとの一体感を示し、それを基にして唯一神との絶望的な距離感を訴え、その訴えにおいて信仰心を表明するがゆえに、ヒンドゥー教世界にあってHusainはその評判を獲得し、多くの信徒を従えるようになっていったのだと思われる。ヒンドゥー教徒はイスラームとは異なり、大地の力に繋がっているからである。その絆を断ち切るのは難しい。
 剃髪し、赤い長衣を着て(Yogiはサフラン色の布を纏う)、一方の手にはワイン、もう一方の手には土製の鉢を持ち、いささかの恐れもなくLahore城市の街路を歌い、踊り、信仰心を説いて歩く。自在なFaqirとして、Shah Husainはムスリムのみでなくヒンドゥー教徒にも崇敬されたという。ワインと少年愛は本来インド的なものではないが、それでも彼がイスラームの規則に縛られることなく、ブラフマンの少年と共に行動し、ヒンドゥー教の考えにも理解を示したから崇敬されたのである。むろん、そうすることが出来たのは時代状況にも因るだろう。Akbar帝の寛容な治世がそうすることを許したのであり、その時代にはインド全土で、イスラームとヒンドゥー教の区別なく神の愛に帰依するよう説くBhakti思想の展開がピークに達していた。
 その後、Madho少年はHusainの教えを受けるようになり、ムスリムの場に出入りし続けたことでバラモン社会から放逐され、いや応なくムスリムに改宗せざるを得なくなったようだ。二人は常に共に行動し、Madho Lal Husainという呼び名があるのは、彼らがいつもいっしょなので、Husainと Madhoを一人の人物として言い表すようになったからだといわれる。二人は「Madho Lal Husain」という名前のうちに溶け合い、一人の人物において語られることになったのである。Madhoの遺体は、Shah Husainの墓と並ぶようにして埋葬されている。
 Madhoはどんな美少年だったのか。「Tahqiqat-i-Chishti」にも、他の参考資料にも、Madhoがどんな容貌をして、どんな言葉を発したかといった記述はない。その人物像も一切わからない。「Madho Lal Husain」という一人の人物に一体化されたとはいうが、奇妙なことだ。ブラフマンであるから、端正なその顔立ちを勝手に想像する。肌は浅黒く、利発な感じの少年だったに違いない。そういう少年を実際に見かけるからである。いま、想い出した。少年ではなく、大学の寮の同じ棟にKarimという名の青年がいた。パンジャブ西部のSargodha出身で、たしか経営学を学んでいると言っていた。肌は浅黒いというよりは黒く、鼻腔が高く、目鼻立ちがくっきりとした美青年で、肌の色が黒いその分、眼の輝きが際立っていた。一見して理知的な趣があった。が、彼の場合、その理知的な趣がとかく冷徹なものへと変貌することがあった。おそらく内部の神経配列の変化があって、そうさせるのだろう。さらには何かの拍子に眼光が異様に鋭くなると、獣のような雰囲気を醸し出すこともあった。思うに彼はかつて美少年であったにちがいない。しかし、青年期にかかるにつれて心身に急激な変化が起きていたのだろう。内なる情動があらわになる瞬間を公然と、何の抑制もなく表すことができたのである。サンスクリット語に「Vratya」という語がある。本来は、果たすべき儀礼を行なわないために上層階級から脱落した者を意味するが、一般には「退廃・堕落した者」とも訳される。その意味の次元は異なるが、Karimの内部で起こっている変化にこの語が当てはまるように思えてならない。どんな美少年も放っておけば退廃するのである。Madhoはブラフマンであり、Husainと共に行動するようになっても、その信仰心によって退廃への変化を免れていたにちがいない。信仰心が内部の壁を装飾し、Karimが襲われるようなような情動を抑えることができたにちがいない。さらには内部の装飾が外部である壁の崩壊を防ぎ、表情の堕落をも防いでいたかもしれない。もしそうでなかったら、美少年といえどもその相貌に内なる退廃のすべてが現れて来る。この地では、厳しい自然環境がいや応なく人の相貌を変えてしまうからだ。とはいえ、環境は外的なもの、いわば形態的なものに影響を与えはするが、翻って内部の壁を装飾することで自然環境に抵抗する者もいる。たとえば、Pehlwanの中には無垢な表情を保っている者もいる。
 一般に、パンジャブ地方の少年の成長は速い。少年は否応なく成長し、何の抗することなく、内部の情動を際限のないものにしていくようだ。それだから、成長とは別に保たれるはずの<若さ>に留まることがない。ことに街を徘徊する少年や露店で店番をするような少年は学校に行かず、その時間をつねに大人たちを相手にして過ごしているからだろうか、ちょっと見ぬ間に大人の顔つきになっている。たとえば、Rufeeqの茶屋を給仕する少年Jammuも、一夏過ぎるとずいぶん顔つきが変わり、さらにはこんなに早く大人の表情を学びとるものかと驚いたものだ。その内部の神経配列はどのようにして組み立てられていくのか。十才そこそこの表情に官能の雲が漂う、そんな神経配列が見えたかと思うと、すぐさまそれに身振りがついてくる。その瞬間を目の当たりにして、私の心は痛むばかりだ。むろん、Jammu 自身にはその身振りの意味は解っているはずがない。私の方が、Data Ganjの参道で踊る少年たちを連想するからである。Jammuは学校には行かず、Madrassahに行っているという話を聞いた。
 街を徘徊する少年たちはつねに何かを企んでいるかのように見える。その表情の奥には何か否応なしに成長するものがあって、それが外面とは裏腹に大きく成長し、少年たちは一見それを隠しているように見えながら、実はそれに従っているのだ。自分の物であるからだがただあると知ってはいるが、その物は単なる物ではないことも知っている。そうした居心地の悪さを抱えるからだをつねにもてあましているのか、彼らはべたべたと擦り寄るようにして異邦人である私に近づき、私を標的にすることがある。また想い出した。今度は質の悪い想い出だ。「ときに想い出すと、頬の一点が熱病にうなされるがごとくひくひくと痙攣する。あの若者の指先がつねった頬、そのことを想い起こしただけで目が眩みそうになる。つやつやと黒光りする美声年、端正な顔立ちに蛇のように冷たい肌、その感触に頬の神経が勝手にざわめきはじめる。肉厚の唇が薄桃色にめらめらとほのめく、あの下素野郎。野生の瞳をぎらつかせた美しき野郎。三文の値打ちもないその頭蓋の中身。下品で野卑で汚らしい、愚鈍な腐敗物。美しい肉。想い起こすだけで身体の芯までめまぐるしくざわめく、あの下素野郎。汚臭を匂わせたままの、怠惰で熟れた美声年。その艶かしさ、その冷たい指の感触。冷たいながらもその感触はさながら焼鏝が頬に押されたごとく、もうこの頬の刻印は消えることがない。わけの解らぬ暗い炎、めらめらと燃える悪のような振舞い。一閃された頬のその暗く燃える部分を凝視するのに私は耐えられない。その暗い深淵を覗こうとするだけで頭の中が張り裂けそうになる」。相手の指先の冷たい感触がこちらの神経に熱を帯びさせるというのは、思えば奇妙な感覚だ。何から何まで敏感になっている。過剰な自然と過剰な情動をつねに相手にしているせいで、神経ばかりが過敏になっているのだろう。
 いっぽう、Jubilee Hotelの給仕をしているShahbazは礼儀をわきまえた少年だ。自分はパンジャブの人間とは違うという意識があるのか、彼はパンジャブの少年とは交わらないようにしているようだ。パターン人はパンジャブ人とは異なり、成長しても端正な顔立ちとその表情を保持し続けているようにみえる。Shahbazも体型的に成長してはいるが、その愛くるしさには変化が見られない。彼の背後には酷暑のパンジャブ平原ではなく、遥か西方の高原世界が広がっているからだろうか。そんな高原世界の涼しげな表情を、天使のような涼しげな表情を、彼はいつまでも保っているように見える。北インドにもともと天使の概念はなく、それはイラン方面からやって来たのである。

 学校へ行くにはまずRang Mahalへ行き、そこから市営バスに乗ってUrdu Bazarで降りた。Urdu Bazarを通り抜ければ学校はすぐそこだ。Khalid Aslamと友達になってからは歩いて学校に通うことにした。彼の親父さんはSutar Mandi Bazarに仕立て屋(Darzi)の店を持っている。そこで何人かの職人を雇っているのだ。少年はMaya Bazar からGumti Bazarに出て、それからGumti BazarChowkを真直ぐに進んでSutar Mandi Bazarに出る。それからSutar Mandi ChowkにあるKhalidの家に寄ると、KhalidといっしょにLohari門を通り抜け、環状道路を渡ってMori門の向かいにあるUrdu Bazarに入る。あるいは、Khalidの家からPir Bhola Streetを通ってAwami Bazarにまず出て、Ranjit Singhの孫の名にちなんだHaveli Nau Nahalへと通ずる小路を通り、そこからMori Galli Bazarを通ってUrdu Bazarの向かい側のMori門に出る。Muslim Model SchoolUrdu Bazarの西端にあった。その間、およそ一キロを越える距離を少年は歩いて学校に通っていた。
 少年は七時に家を出て、七時半には学校に着いた。その前に、六時に家を出て、Maya Bazarに行ってDahi(ヨーグルト)Kulcha(バター入りパン)Channay(ヒヨコ豆のカリー)の朝食を取って来なければならなかった。朝食を用意するその店先はいつも早朝から顧客でいっぱいになっていた。それから朝食を家に持って帰り、七時に家を出ることができるように食べ終えるのだった。そして、二時頃に学校が終わり、途中までKhalidといっしょに歩いて家に帰ると、冬期には時折、両親が「Bare Mian(お大尽)」と呼ぶ、ウルドゥー語を話す年配の紳士が経営する「Tandoor(窯屋)」へ、母親が用意した捏ねたパン生地を持って行くことがある。そこでチャパティーを美味しく焼いてもらうためだ。ふつうは、母親が用意したパン生地で十枚から十二枚のチャパティーを受け取った。時には、「Tandoori Paratha(バターを表面に塗って焼いたチャパティー状のパン)」をつくるためのGhee(バター)もいっしょに持って行った。それは熱いうちに食べたなら、少年が知るかぎり最も美味しいParathaだった。
 少年は、肉や野菜、氷や他の品物を買いに、Gumti Bazarの店に頻繁に行った。野菜はいつもBilluの店で買った。BilluとはBilwarという名の商店主の愛称だが、彼は印パ分離以前に、少年の父親家族が住んでいたAmritsarの家の近くのKatra(市場)で同じような店をやっていたのである。ある日、父が店の傍を通ってBilluを認めたのだった。Gumti Bazarにある少年のお気に入りの食料品店は、太ったカシミール人兄弟がやっている「Moton ki Dukan(太っちょの店)」だ。とても公正な店だったからである。夏になると、その兄弟はLungi(腰布)以外に何も着ていず、Lungiを下にずり下ろしてそこから太っ腹の肉を垂らしていた。そこではミルクやDahiも売っていた。
 父親の話によれば、1947年のLahoreは今のLahoreとはまったく違っていたという。Amritsarから逃れて来た家族がLahore駅に着くと、「Muslim League(ムスリム連盟)のボランティアが難民をプラットフォームで出迎えていた。そこには難民のために大量の食料も用意されていた。難民たちは駅の正門からではなく、横門から出るよう指図された。何故なのか聞くと、シーク教徒が、駅南方のShaheed Ganjから難民を狙撃するからだという。自分たちはDogra(シーク教徒の一部族)の民兵が侵入して来たAmritsarから逃れてLahoreにやって来たのに、ここでも敵から逃れることはできないのか、そう幼いながらも父親は思ったという。そのとき、Lahore駅の外に死体が二つ転がっているのを見たという。当時はそうした光景が日常的だった。今は駅前にたくさんのホテルが建っているが、当時は空地で、一方には移動式の床屋がせっせと働き、他方には簡素な茶屋や食べ物屋があって活気があった。またベッドや寝具一式を貸す店があり、夜になると家のない者たちで駅前の道路は占領されてしまったという。
Lahoreにやって来た頃はよくLahoreの街を歩いたものだ。街がどんなか知りたかったからね。ある日、Lohari門から城市を出て、Anarkali Bazarの小路に入ったところで、木陰に座ってグアバを売る若い男を見かけた。その顔に見覚えがあった。AmritsarBazarでよく果物を売っていた男だ。彼は果物を売るために色々と新工夫をして商売をしていたが、そのときは、緑や黄色、ほんのり赤いグアバを山と積んだ籠があって、それがなぜかクリスマス・ツリーのようなかたちに盛られていたよ。彼の手元にはAmritsarでも見た一匹の鸚鵡がいて、グアバをかじって食べていた。私は、この鸚鵡はAmritsarにいたのと同じ鸚鵡なのか、それともLahoreで新たに買い求めたのか尋ねてみた。彼はにやりと笑みを浮かべ、Amritsarにいたのと同じ鸚鵡だと答えた。自分が住んでいた区域がシーク教徒に襲撃されたとき、鸚鵡を放す前に、国境を越えてLahore駅まで飛んで来るよう教え込んだのだと言う。『Amritsarから何とかLahore駅まで逃げて来て、駅の外で途方に暮れて立っていました。すると、そこに一羽の鸚鵡が樹上から飛んで来て、私の肩にとまったんです。いいですか、これは本当の話なんですよ。信じてください。だからこれはAmritsarの鸚鵡なんです』、そう彼は言ってのけたよ」。
 祖父は、生涯早起きを通した人だったという。祖父はAmritsarではよく近辺のモスクに行って沐浴していたらしい。その日課を同じようにLahoreでも始めたようだ。Maya BazarからChatta Bazarに出る側のGujjar Galliにも小さなモスクがあり、そのモスクには井戸があり、そこには手動で水を汲むポンプもあった。
「父はいつもFazrのアザーンの前に起きて、私を沐浴させるためモスクへ連れて行ったよ。モスクにはシャワー室があり、その脇に小さな水タンクがあり、その六フィートぐらいの高さのところに蛇口があった。タンクはシャワー質の外側からも利用できるようになっていて、井戸から水を汲んで来てタンクに満たすことができた。父は、<Boka(革製のバケツ)>に水を汲んでタンクを満たし、私を沐浴させた。それからまた水を汲んでタンクを満たして自分が沐浴したが、今度は私が木箱に上がってタンクを水で補給する番だった。夏の間は午前四時頃に礼拝があるので、私と父は、その前の午前三時頃にはモスクに出かけなければならなかったよ」。
「当時は陽が出ると共に起き、陽が沈むと共に眠るというのが普通だった。冷蔵庫や電気器具がないので、一日中、家の様々な雑用があって忙しかった。<Barsati>に住んだ最初の二年間は、建物の最上階には電気が来ていなかった。電気のない生活は、1960年代には珍しいことではなかったんだ。最上階の部屋で夏は暑かった。実に暑かった…。二年目の夏に、セールスマンの職を得ていた父は、水クーラー(「Khas ki Tatti」と言う。乾燥させたある種の草(Khas)のスクリーン(Tatti)に水をかけて使う)を二つ買って来て、それを部屋にある二つの窓に吊り下げた。それに水を入れると、天国のような涼風が沁み出て来たのを私は覚えているよ。やっと電気が通ったとき、父は<Muhammad Din Sons>製の扇風機を買って来た。父はまたドイツ製のAM/SWラジオも買って来た。夕方にはラジオをセイロン局に合わせ、みなで「Geet Mala」や、Ashfaq Ahmadの脚本による対話ドラマ・シリーズ「Talqeen Shah」を聴いたよ。楽しかったな。現在の住まいは、私が結婚するときになって階下の部屋を新装してそこに移り、そのとき以来構えることになったものさ」。
Wazir Khan ChowkからDabbi Bazaarの方へ行くと、当時はまだムガール時代に遡るような建物があり、その一階部分はどこも商店になっていた。そこでは黒色の房がついたトルコ帽(Rumi帽)だけでなく、Dhussaと呼ばれる見事なカシミール製ショールも買うことができた。子供の頃、父といっしょに出かけると、父がそこでRumi帽をよく買っていたのを覚えているよ
 祖父は1975年の八月に亡くなった。心臓が悪かったと聞いている。70才だった。もう一度Amritsarの街を歩きたいというのが口癖だったが、とうとうその夢を果たせなかった。父は、最近テレビでイスラームの教えを厳格に説く者がいるようだが、あれは災いの種だと言う。
 父親の話を聞いて、少年は時々過去に想いを馳せることがある。色々な出来事があって、その積み重ねの上に現在があり、それに加えて、現在まで失われずに連綿と連なるものもある。歴史とはそういうものだ。それに比べたら、あの女の子はどうだ。あの天使のような女の子はいきなり自分の目の前に現れ、何かしら新たなものを創造するよう自分に要請しているかのようではないか。こんなことが起きるなんて、少年にはその出来事が自分にだけの特異なもののように思われた。これはどういうことなのだろう。色々な出来事の積み重ねとは異なるもう一つの世界、もう一つ別の連なりというものがあるのだろうか。歴史とは異なる別の流れがあるのだろうか。公然と話したり話されたりすることなく、隠され続けているものがあるのだろうか。でも、お父さんと違って、お母さんはなぜ自分のことを話さないのだろう。お母さんは僕のために<犠牲>になっているのだろうか。それに、Khalidが言う<能動知性>とは何のことだろう。