Saturday, July 13, 2024

Lahore日記 The Diary on Lahore

三 パンジャブ回廊


 13  Muharram()Ashura儀礼

 

 「Muharram」はイスラーム世界でのヘジュラ暦の最初の月を言い、いわば「一月」を意味する。「Ashura」はアラビア語で数の「十」を意味し、それゆえ「MuharramAshura」とは「Muharram月の十日」を意味する。しかし、「MuharramAshura」といえばそれ以上の日を意味する。ことにシーア派にとっては特別な日である。その日行われるAshuraの儀礼は、ムハンマドの孫にあたるHussein ibn AliKarbalaの戦いで殉死したのを哀悼するものである。その出来事は680年にイラク南部のKarbalaで起きたとされ、世界のシーア派ムスリムは毎年そのために盛大な追悼行事を行っている。

事の次第は次のようである。

661年、第四代カリフであるAli ibn Abi TalibKufaのモスクで暗殺されたのを受けて、Aliのライバルでシリア総督であったMu’awiya ibn Abi Sufyanがイスラーム指導者としての地位を確保するためにウマイヤ朝を興した。Mu’awiyaAliの息子のHassanからおそらく自分の死後に指導者としての地位を返すという約束を取り付けて、カリフの辞退を承諾させた。しかし、HassanMu’awiyaに唆された妻に毒をもられて八年後に死ぬ。一方のMu’awiyaは息子のYazidを自身の後継者にする手はずを整えた後の680年に死ぬが、Hassanの死を受けてMu’awiyaとの協定による束縛を意に介さぬ弟のHussein ibn Aliは、カリフとなるYazidに忠誠を誓うことを拒否して、Yazidがカリフに就く前に反乱を起こす決心をした。メッカにいたHusseinKufaから悪評高いYazidの打倒を支持する幾多の信書を受け取り、全家族とそれに付き従う男たちと共にメッカを出立してKufaに向かった。しかし、Kufaから85kmほど手前のKarbalaに至ると、Husseinの到来を事前に知ったYazidの命令を受けたウマイヤ軍に待ち伏せされ、包囲されてしまう。そのためHussein一行は水の供給さえ断たれてしまう。この待ち伏せは680年のMuharram()の第一日目に起きた。それから九日間のあいだにHusseinは二人の息子、義理の兄弟、他の男仲間たちが次々と殺されるのを目の当たりにした。そして十日目にYazid軍の攻撃は猛威をふるい、Husseinは惨殺される。Husseinの姉妹Zainab、娘の‘Ali Zayn al-Abidin等の女たちはYazid軍の捕虜となり、それ以外の者はすべて殺された。Husseinを支持したKufaの人々はこのとき彼と共に戦わなかったという。

語り継がれている話によれば、Husseinは敵の剣や槍で45ヶ所の傷を負い、身体を35本の矢で射抜かれ、その左腕は無残にも切り落とされ、そして切り裂かれた。その胸は数本の槍に貫かれていた。そして、屍体となったHusseinの首に槍が突き刺され、首骨が胴体の重さで折れるまで持ち上げられ、そのまま首は槍に串刺されて戦利品としてYazidの下にもたらされたという。残された首のない胴体は騎馬兵によって踏みしだかれ、蹂躙されるままになった。

こうした悲劇的な戦いに至った経緯を補足するならば、Aliがカリフであった時からすでに「Shiat Ali(Aliの党派)」と呼ばれる集団がAliの周囲にできていたらしい。それゆえ、「Aliの党派(シーア派)」にとってAliが最初のイマーム(指導者)であり、その子Hassanは第二代イマーム、そして殉死したHusseinは第三代目のイマームにあたる。イスラーム研究者たちによれば、Aliまでのカリフがイスラームの原理によってイスラーム共同体を仕立てようとしたのに対して、ウマイヤ朝を興したMu’awiyaはもっぱら自らの野心を実現するためにイスラーム帝国を仕立てようとして王朝を起こしたのだという。このことはAliの党派からすれば、ムハンマドが唱えた「Umma(イスラーム共同体)」の実現への努力を逸脱するものであった。要するにKarbalaでの戦いは、ムスリム共同体がすでにその初期に分裂し、二つの敵対する集団がイスラーム共同体の主導権をめぐって争う流れの中で否応なく起きたものだったのである。

最初、「Tawwabun(後悔する人)」と知られる集団がHusseinの墓に集まり、彼の死を悼んだと言われる。彼らの多くはKufaに住む人たちで、Karbalaの戦いの際にHusseinを支持しながら戦いに参加しなかったことを深く悔いる者たちだったという。TawwabunHusseinを称える詩をつくり、それを朗唱した。そして、「Ya la Tharat al-Hussein(おお、フセインのかたきを討つ者よ)」と繰り返し唱えたという。いっぽう、ウマイヤ朝はAliの党派を迫害し、イスラームによる統治の主流から追いやった。またKarbalaの戦いの記憶を消し去るために公衆が集まる場でHusseinの死を悼むのを妨げたが、それにもかかわらず当時のイマームたちはHussein追悼の儀を秘密裏に行い、そこでKarbalaの戦いについて詳しく語り継がれてきた話を朗唱することで、Husseinが虐殺されたAshuraの日を記念し続けたという。

ウマイヤ朝(661750)の支配が終わってアッバース朝(7501258)が興ると、ウマイヤ朝に抵抗した勢力を取り込むためにHussein追悼の行事に関する制限は緩和され、行事はモスクでも行われるようになった。その後ブワイフ朝(9321062)が興ってバグダッドを支配下に置くと、バグダッドでは公の場で追悼行事が行われるようになった。歴史上最初に公然と市場を行進する追悼行事が記録されたのはこのブワイフ朝の治世下においてである。963年のMuharram月の十日(この年は二月八日だった)に、イラク司政官Mu’izz al Dawlah(915967)はバグダッドの市場を閉めさせ、追悼の標として黒服を着るよう命じた。女性たちはきめの粗い羊毛の衣装を着て、顔を覆うことなく、髪は乱れたままで、顔を打ち、Husseinの死を嘆き悲しむために市場に集まったという。ブワイフ朝はカスピ海沿岸の山岳地帯に住む部族であるDaylam族によって創始され、後に十二イマーム派を志向した。彼らはササーン朝ペルシア期には精悍な傭兵として知られ、七世紀のアラブ人によるササーン朝征服の際にはアラブ人と徹底的に抗戦した。そうした背景もあって、彼らはイスラーム支配下にあってはシーア派を信奉した。

シーア派によるHussein追悼のこうした持続的な展開があるのは、ムハンマドの死後にAli ibn Abi Talibを核にして「Aliの党派」と呼ばれたシーア派が、後にその党派の正当性をAliに、さらにはウマイヤ朝のカリフに対してAliから継承するイマームの正統性をかつて実際に起こったKarbalaの悲劇を訴えることで主唱し、そのためKarbalaの悲劇はシーア派にとって自らの存在理由を証言する際に最も象徴的な意味をもつ出来事となっていたからである。

とはいえ、Kalbaraの悲劇があってすぐに現在行われているようなAshura儀礼があったのではない。最初は追悼行事であったのが、次第に、Husseinの虐殺された状況を再現し、その苦しみを追体験する儀礼へとそのかたちを変えていったようだ。現在行われているAshuraの儀礼の際にはHusseinが受けた苦しみを自身のものにしようと身体を自傷する行為が際立っているが、これについてももともとイスラームにとって異質な要素であると考えられている。それはシーア派に改宗したイラン人の古い信仰を通じて浸透したものではないかと考えられてはいるが、イスラームの中でシーア派が政治的にその勢力を体現し始めるのはサーマン朝(875999)の興隆によってである。とはいえ、サーマン朝はイラン東部のKhorasanを中心にした地方王朝である。おそらく、異質な信仰を内に抱え、追悼行事の際に自傷行為を認めたブワイフ朝の963年以前には、自ら主導してAshuraの追悼行事を公然と行うほどの十分な政治力はシーア派にはなかったはずであるから、公での自傷行為も正統シーア派主導のものではないと考えられる。

 

現在行われているKarbalaの悲劇を追悼する一連の儀礼には三つのものがある。一つは「Rozeh-khwani」と呼ばれる、第三代イマームであるHusseinの人生と受難を劇的な語り口で朗唱する儀礼であり、二つ目は、Ashuraの日に男たちが黒服に身を包み、街路や市場を行進しながら行う、胸を叩き、自身の身体を傷つけてHusseinの苦しみを追体験する「Zanjir zani」と呼ばれる儀礼であり、三つ目は「Taziyeh」と呼ばれる、Karbalaの悲劇を劇的に再現するものである。このとき、Taziyehを見守る聴衆も悲嘆が高ぶるあまりに涙を流し、咽び泣きながら自身の胸を打ち叩くことになる。二つ目の、自身の背中を先端に刃物がついた鎖で打つ儀礼「Zanjir zani(鎖打ち)」について言えば、それが公衆の面前で行われるということからすれば、この血にまみれた振舞いは個人的な行為であるよりも共同体的な行為と考える必要がある。明確な共同体意識がまずあり、儀礼の際の意識の高まりの中で自らの信仰の力を周囲に示すために自傷行為を選ぶのである。それゆえそれは突発的に行われるのではなく、おおかたよく制御された環境の中で行われている。

この「Lahore日記」の冒頭で、私は「Zanjir zaniの儀礼をLahoreで実際に見てその様子を書き留めておいたが、現在はイスラーム世界のどこのAshura儀礼においてもそうだが、男たちが鎖の先にナイフがついたものを背中に振り下ろし、ナイフの先で背中を傷つける血まみれの行為は、それがAshura儀礼の核心であるかのように行われている。中には額を刃物で傷つけ(Sina zani)、顔を血で真っ赤に染める者もいる。本来ゾロアスター教徒や仏教徒のみでなく、イスラーム教徒も人の死に際して嘆き声を上げることや公の追悼を認めていなかった。ましてや自傷行為などもってのほかである。自傷行為は信仰にそぐわない行為のはずなのである。それが信仰の力を表明する行為となったのは何故だろうか。Husseinの追悼行事がその基盤を獲得し、十全に受け入れられようになったのはシーア派の伝統においてであるが、「Zanjir zani」のような自傷行為はイスラームのものではなく、イスラーム以前の東部イラン系の人々の慣習にあったものか、もしくはシーア派イスラームに改宗したトゥルク系の部族による慣習であったか、いずれにしても、イスラーム外部からの影響によるものではないかと考えられる。カスピ海沿岸の、極めてササーン朝の影響が色濃いイラン系部族が興したブワイフ朝期に、Ashuraの追悼儀礼の際に女性が顔を打つような自傷行為を認めるようなかたちを呈するようになったのも、そこに民族的にも信仰的にも複雑に入り組みあったイスラーム周縁世界の影響が強く働いていたからではないだろうか。

私が見たLahoreAshura儀礼についても、それはLahore特有の様式で行われていたようだ。Baba Gamay Shahは十八世紀の初頭にMaharaja Ranjit Singh(17801839)の治世下で生きたスーフィーの徒であるが、彼がMuharram月の始まりに紙で「Taziyeh(霊廟のミニチュア)」をつくり、九日目にそれを頭上に掲げ、城市の南側のMochi門に行き、そこから城市内を通ってBhati門を出たところにある自分の住処に戻って来たのがLahoreAshura儀礼の始まりであると言われる。「Taziyehは「追悼」を意味する語で、もともとKalbaraの悲劇を再演するものであり、そうした意味でイランやアラブ世界では最初期から行われている儀礼だが、インド亜大陸のムスリム社会では特にHusseinの霊廟を模したミニチュア細工物を言う。その材質は様々で、竹と紙でつくられたものや、恒久的に金属でつくられたものもある。そうした<つくりもの>がMuharramの行進儀礼の際に繰り出され、それを囲むようにして追悼参加者が街路を練り歩くのが行事の中心である。Gamay ShahBhati門を出たところのData Ganj聖廟の南にある現在Karbala Gamay Shahとして知られる地に埋葬されたが、アフガニスタンからやって来たQizilbash家が、Karbala Gamay Shahがある土地とGamay Shahが埋葬された土地を購入し、英国統治に変わった後の1877年、そこにシーア派の信仰の場であるImambargah(十二イマームの家)を建てた。このKarbala Gamay ShahLahoreで最も古いAmam Bara(Imambara)とされる。

このQizilbash家が、それまでHusseinの霊廟を模したTaziyehを繰り出す行列という儀礼概念しか知られなかったLahoreに、他のイスラーム世界で知られていたAshura儀礼を導入した。それによってLahoreでのAhura行事は際立った哀悼と悲嘆の中で行われるものとなり、Taziyehはもとより、預言者の家族を示すAlamを高く掲げ、Husseinと最後を共にした白馬であるZuljinahを伴った、現在行われているような行列へと展開されることになった。Gamay Shahが行進を初めて行ったのはシーク教の統治期に遡るが、英国植民地となって以来、儀礼の行列はTaziyehの壮麗さや豪華さにおいてよりまさる規模のものになったという。

Qizilbashとは、十五世紀後半からアゼルバイジャン、アナトリア地方、アルメニア高地、コーカサス、クルディスタンにおいて勢力をもっていた主にトゥルク系シーア派集団による多様な組み合わせから成る半遊牧民の部族で、イランにおけるシーア派のサファーヴィー朝(15011736)の創成に貢献してイスラーム世界に台頭してきた一部族勢力である。十五世紀から十六世紀にかけてオスマン朝の台頭がその地域に住む半遊牧民のトゥルクメン族(中央アジから中東にかけて遊動するトゥルク族の呼称)に大きなストレスを生み出し、結局、トゥルクメン族をオスマン朝に対抗するシーア派のサファーヴィー朝に仕えさせることになった。サファーヴィー朝はトゥルクメン族を武力組織へと編成し、「Qizilbash(トゥルク語で「赤の頭」の意)」と呼んだ。彼らが赤色をして目立ったキャップをつけていたがゆえにそれはもともとオスマン族によって付けられた蔑称であったが、後に彼らにとって誇りの徴として通称されるようになったという。Qizilbash族のイスラーム信仰はスーフィーの教えに傾倒するもので、シーア派に改宗してもそれは伝統的な十二イマーム派というのではなく、北西部イランから東部アナトリアにかけての異教信仰に似るもので、その信仰は隠れたゾロアスター教の信仰からシャーマニズム的な実践にいたるまで様々な非イスラーム的な考えによって構成されていた。おそらくシャーマニズム的な実践は中央アジアのトゥルク族の祖先たちから受け継いだものであろうが、その片鱗をイスタンブールのトプカピ宮殿にある「Siyah Qalam絵画(十四世紀〜十五世紀)」に見ることができる。とはいえ、こうした異教の信仰すべてにおいて部族内で分かち合うことのできる共通の局面があり、それは都市部で実践されていたイスラームの制約から自由な、ある種の救世主信仰であったという。すなわち神の霊感や生まれ変わりの概念を共通にもち、そのためQizilbash族はサファーヴィー朝の指導者(morshed-kamel/完全な指導者)を、Aliの生まれ変わりで、人のかたちに聖なるものが顕れている存在であると見ていたようだ。

十九世紀後半のアフガニスタンにはQizilbash族が三万から二十万いたと見積もられ、主にKabulKandaharHeratといった都市部に住んでいたが、Kabulの英国大使M. Elphinstoneによれば、「内輪ではトゥルク語を話すが、主にペルシア語を話すトゥルク族のコロニー」と述べている。また「ペルシア化したトゥルク族」とも言われている。第一次英国・アフガン戦争(1839–1842)のときに公然と英国に協力したので、支配的なパシュトゥーン族によってアフガニスタンから追い出されたという。その血統がアナトリア地方に由来し、アフガニスタンを追われてLahoreにやって来たQizilbash家は、神の霊感や生まれ変わりという信仰背景を抱えたその独特のシーア派的な立場からLahore城市のAshuraの儀礼を整備し、それに新たな意義付けを加えることで、当時様々な信仰が混在していた城市に確固たる影響力を築くことが出来たのだと思われる。

963年のMuharram月の十日に公的に追悼行事が行われるようなったブワイフ朝下では、「市場は閉じられ、商業活動は止まった。女たちは髪をほどき、顔を黒く塗った。そして引き裂かれた衣装で行列行進した。嘆きつつ顔を打ち、あるいは傷つけ…」と記録されている。歴史家はこのタイプの追悼儀礼をカスピ海沿岸地域に住むイラン系のDaylam族の伝統であるとしている。Daylam族の故地は地理的にも文化的にも中央アジアのKhorasanに密接している。Daylam族は自らも戦闘民であるが、中央アジアのトゥルク族を騎馬隊として取り込むことで強力な戦力を構成し、それによって辺境イラン人とトゥルク部族が混在する統治形態のブワイフ朝が創始されることになったのである。このブワイフ朝はバグダッドのスンニー派カリフと相対してイスラーム世界の中で際立った宗教的立場を採用した。古代ペルシア王のスタイルを採用したコインを鋳造し、ペルセポリスに碑文を遺し、またゾロアスター教のMagi(祭司)に助言を求めることさえしたという。とはいえ、シーア派への傾倒があったことは十分に確証されている。

この異質なイスラーム王朝であるブワイフ朝期に、中央アジアのBukharaの人々は、吟遊詩人が「kin-e Siavash(Siavashの復讐)」と呼ぶ、フィルドゥシー(9401020)の「王書」の中に記されたイラン皇子Siavashの殺害をめぐる悲劇を内容とする追悼の歌を歌ったと言われる。またBukharaMagiは、Siavashが殺害された場所に敬意を表し、毎年代わる代わるそこで雄鶏を犠牲に捧げたという。そしてNowruz(新年)の日には、Bukharaの人々はSiavashの死を悼み、彼の死を記念して追悼の歌を歌ったが、こうした歌が中央アジアの多くの地域に知られ、吟遊詩人によって「Gristan-e Moghan(Magiのすすり泣き)」と呼ばれていたという。またKhwarazmSogdiana(ソグド人の地)の住民は中央アジアがイスラーム化する以前にSiavashに捧げる犠牲や他の儀礼を行っていたが、それはSiavashを植物の死と再生を司る中央アジア特有の神として崇めたからだとも言われる

こうした話があることからすれば、Ashura儀礼の自傷行為の伝統が十六〜十七世紀のサファービー朝期に推奨され、それはイラン・シーア派の歴史に限られたものであると考えられてきたが、実際には自傷行為の伝統はイラン世界に近接する中央アジアにおいて長い歴史をもつものであったのではないかと考えられる。たとえば、ソグド人マニ教徒による文献の中には東部イラン人が葬儀に参加する仕方を述べているものがある。「馬を殺し、顔を傷つけ、耳をとって(切って)、そこに血をばらまいた。彼女の女たちに付き添われたNana婦人は橋の方へと歩き、女たちは容器を打ち壊し、大きな声で叫び、服を裂き、髪の毛を引き抜き、それを地面に投げ捨てた」と。ただしそれは、葬儀の際の感情的振る舞いや身体的な自傷行為をタブー視していたゾロアスター教徒が行ったものではないことが示唆されている。ソグド人地域の文化的中心地の一つがオクサス河支流のZarafshan川沿いにあるPanjikentであり、その寺院跡には多くの壁画(五世紀〜六世紀)が遺されている。その中にはソグド人の若者の臨終を示す悲嘆の場面が描かれたものがあるが、そこには幾人かの人が若者の周りに集まり、顔や身体を傷つけているのが見られる。また五世紀もしくは六世紀初期の中央アジアの追悼儀礼の伝統を描写した壁画がタリム盆地のKizil石窟にあるが、ここにも顔を傷つけるか、もしくは鼻を切り落とそうとしているような描写が見られる。さらには敦煌の莫高窟の壁画の一つには異様な光景が描かれている。仏陀を信奉する者が悲しみのあまりに自身の顔、胸、鼻を傷つけ、さらには追悼者の一人はいままさに腹を切ろうとしているかのように見える。

ソグド人は古くから交易に関わる人たちで主にゾロアスター教を信仰していた。シルクロード交易を通じて天山回廊や中国北部の河西回廊にまでその居住地が広がり、六世紀には突厥帝国と関係をもつうちにソグド人の一部がトゥルク人化したり、また突厥のトゥルク人がソグド人と婚姻関係を結んでソグド人化したと言われる。たとえば八世紀に起こった安史の乱の首謀者で、唐の節度使であった安禄山はトゥルク系ソグド人であった。こうした経緯があることからすれば、Panjikentやタリム盆地の仏教壁画に描かれた場違いな自傷行為はソグド人化したトゥルク系の人たちの慣習であったのではないかと考えられる。

いっぽう、Al Biruni(9731048)は述べている。「ソグド人は新年の到来を祝う。それは自然の死と再生の考えに結びついている。一年に一度、ソグド地方の人々は死者を追悼する。このとき彼らは自身の顔を刃物で傷つける。そして死んだ者に食料や飲み物を供える。スヤーウシュ(Siavash)の礼拝は死者を礼拝することに関連している。新年の最初の日に雄鶏が死者に捧げられる。神聖なる若者(ヤーウシュ)が死に、その骨が失われたと信じられているのである。特別な日に信者は黒衣に身を包み、裸足で野にその骨を探しに行く。陶製の骨容器に埋葬する風習はソグド地方やホラズム、タシケントやセミレチエのオアシス地帯に広範している。肉が骨から削ぎ落とされると、骨は骨容器に集めて容れられる。骨容器は特別な部屋に置かれる。骨容器の中には見事なレリーフで装飾されたものもある」と。人は追悼の際にもともと黒衣で身を包んだのではない。十一世紀以前には白や青色が追悼の色だったという。インド世界では現在も白が喪の色だ。したがって、この場合の黒衣は「特別の日」に身に着けると記されていることからして、「特別の日」とは追悼だけを意味するのではないようだ。

ソグド人による「王書」の皇子Siavashの追悼は、もともと死と再生の神を信奉するソグド人がイスラーム以前のイラン系の人々から影響を受けたものに他ならない。ここで述べられていることで興味深いのは、ソグド人によるSiavashの追悼には欠けたものを補うという心理様式が働いていることである。ただ追悼するのではなく、失われた骨を探して補うとされ、おそらくそうすることで世界を元通りに回復させるという意味があるように思われる。ソグド人文献は様々な神格について述べているが、その中に「zrw(Zurvan)」がある。前に述べたようにZurvanは<時間>の神であり、ソグド人のゾロアスター教にはZurvan教の傾向が色濃く認められるが、Zurvan教はゾロアスター教から派生した宗教でもあり、ソグド人のあいだでおそらく信仰されていたのだろう。彼らがもともと自然の死と再生を司る神を信仰していたのならば、何らかの儀礼の際に反復される<時間>が意識されるのは当然である。そして、その<反復>儀礼のうちに再生を、というか宇宙創生のイメージがとらえられることになる。というのも、<反復>においてこそ、この物質的な世界(Getig)に非物質的で霊的な存在(Menog)が顕れると考えられてきたからである。こうした宇宙創生的なものの感知が、「特別な日」に行われる儀礼の主要な意義であったのではないだろうか。そして、こうした観点からAshuraの儀礼について考えるとすれば、そこにはイマームの欠如感を補うという心理様式にしたがって、追悼と同時に自ら身体を傷つけることで、死と再生、すなわち反復される<時間>の感覚がそこに導入されているのではないかと思う。

 

あの日の午後のもう遅い頃、Bhati門を出たところの広場で男たちは円陣を組み、「Yah Hussein」と唱えながら左右の胸を交互に平手で打ち続けていた。胸を打つ行為に合わせて声高な掛け声が辺りに響いていたわけだが、いまでは静かな光景であったという印象が遺っている。その前にRang Mahalで見た血と汗と埃にまみれて騒然と自傷行為が繰り返される光景とは打って変わって、おそらくそこには<死者>を想う時間が流れていたのに違いない。男たちは神妙になって、千三百年前に起きたKalbaraでの出来事へと遡ろうとしていたのだ。そうやって、<死者>への想いを軸にして数百年のあいだ共同体の行為として反復されてきたものがある。おそらく人は<死者>を想う時間に触れることで個人の記憶の底が抜けたようになって、そこに共同体的な古い記憶を浮かび上がらせることができるのに違いない。

Husseinはもはやこの世に存在しないが、このとき共同体的な記憶として甦り、見えない仕方でその存在を顕すのである。この世に存在しないという欠如感を共同体の記憶を<反復>することで補充し、いわば異なる仕方でその存在を感知させるのである。その存在はシーア派の<時間>概念からすれば<永遠の時間(dahr)>に属するものであるのに違いない。つまり、その存在はもはや過去のものではない。<永遠の時間>は<時間(zaman)>の根源であり、それゆえいつもそこに在るはずのものであるから。したがって、<死者>を想い、そこに浮かび上がる共同体的な記憶に触れる者は<巡回する時間>に生きることになるだろう。<巡回する時間>とは、未来に無限に延びていく時間とは異なる、<起源>へと向い進む<時間>である。欠如の感覚を軸にして共同体的な儀礼が行われ、そしてその儀礼がもたらす<時間>とはそのような<巡回する時間>なのである。儀礼は<永遠の時間>をそこに感知させようとして<永遠の時間>のイマージュに従って行われる。シーア派の<時間>が<巡回する時間>に生きようとするのは、そのような<永遠の時間>に触れようとするからであり、その時もはや過去は存在しなくなり、全てが現在創成されるものとして感知されるのである。

私はあの日、もう夕暮れの気配がすると感じて空を見やると、そこに天使というものを感じたのだった。正確に言えば、天使というよりも、頭上に広がる空が濃度を増して、その濃度による圧力がからだに感じられ、空から何かが降りて来るのか、そんな気配を感じて空を見上げたのだった。すると、得体の知れない力がいま私がいる頭上の空を覆っている、そして地上の追悼者を見守るかのように何かがゆっくりと地上に向かって張り出してくる、そんな気配を感じ、天使を思ったのである。

今思い返してみると、地上で何かしらの<起源>へと向かい進むかのような男たちの<時間>を感じたその時に、はからずも天空に意識が向かったのはなぜかと思う。それ以前にRang Mahalで地上の追悼者を見守るかのようなAlamの存在があり、それを女神かと思うような感覚が遺っていたことがそうさせたのだろうか。それとも、午後も遅く夕闇が近づく頃、昼と夜が溶け合う刻一刻を前にして、様々な対立を融合させる気配が頭上の空に感じられ、そうした気配が濃度による圧力と感じられて意識を天空へと向かわせたのだろうか。とにかく天空に意識が向かい、そして視線を空に向けることで天使の気配が身に降りかかり、そのとき以来、私は天使について考えるようになったのだった。

Lahoreでは夕暮れ時に西の空が紅く染まるのをよく眺めたものだ。その鮮やかな光景は永遠のようでもあり、しかしあっという間に闇に溶け去ってしまう。その時の夕焼けの明るさとやがて夜になるまでの暗さが脳裏に刻まれている。夕焼けが紅い悲鳴を上げて西の空へと退却してゆく。それと同じくして頭上から夜の帳がぎしぎしと降りて来る。夜の帳が格子戸のように音を立てて降りて来ると、辺りをあっという間に闇で包み込んでしまう。その魔術的とも言える転換の一刻が忘れられない。夕暮れ時、その空の色は天使の翼でいえば左右の翼の差異に相当するだろうか。というのも、Suhrawardiによれば天使の翼は左右でその明度と色彩が異なっていると言われるからである。二つの翼をもった天使ガブリエルでは、右の翼は純粋無垢な光の翼で、左の翼は月面に翳りを与えている赤茶けた褐色の暗い斑点が広がっていると言われる。光の霊魂は右翼から生じ、それに対して幻想の世界は天使の左翼の投影する影であるとも言われる。

 

天使の存在は全てのイマーム学で認められているようだ。しかし聖クラーンから知ることができるのは、天使が微妙で光り輝く身体をしており、二つか三つの、もしくは四つの、それ以上の翼をもっているということや、天使たちには様々なかたちが仮定可能になっているということ、また完全な知識が授けられているとか、行為をめぐるその力を仮定できるということなどである。天使の職務は神の栄光を讃えることであり、そして預言者やその精神的継承者たちに、聖なるコミュニケーションを示すために自らをはっきり示すことがあるという。

こうした天使の存在様態とは別に、新プラトン主義の影響下にあったIbn Sina(9801037)の天使学は、天使をめぐる三重の階層を提示している。まず大天使もしくは純粋知性があり、そこから発して天界を移動する魂である天使たちがあり、そして地上の人間の体を移動し支配する人間の魂もしくは地上的天使がある、というように。またIbn Sinaの考えでは、別々の実質である地上の魂の未来の運命は各々の叡智による<照明>の度合いによる。すなわち、魂が地上で得るであろう、より自発的で持続性をもって輝く天界の天使の知性へと向かう展開を得ることができるかどうかは、その<照明>が強いか弱いかという魂の素質にあるという。そして、人間の知性は魂のその<照明>を受け取ることができるとされる。そうすることができるのは、人が精神的体現を追求する際の能動的な知性の働きによるのであって、そうであれば、人間に備わる<能動知性>が魂の<照明>を呼び込むということになる。いわば、そうした現象とプロセスがまるごと<天使>であるものなのである。

こうしたことからすれば、地上的天使もしくは人間の魂は自身の上の階層である天界を移動する魂である天使の方につねに関心を抱いているのではないか、あるいはかつてあったはずの状態を想起しようとしているのではないか、そう考えるようになっても不思議ではない。平たく言えば、人が<天使>に関わるとはその人の魂が天界に関心を抱いているという在り方をしているのではないかと。このことは地上の魂と天界の天使とは階層的な繋がりをもっているとされるからであり、それゆえ地上の魂の<照明>によって上の階層に向かう展開への可能性があり、すなわちそのことによって未来の運命が定まるために、Ibn Sinaの天使学は地上の魂と天界の天使とが<一対一>というふうに、それによって人間を個々に区別する個体化のプロセスがあるという、そのような天界との繋がりを設定している。この天界の魂と地上の魂との<対(syzygy)>の概念はこれまでも述べてきたようにマズダー教に由来するもので、それゆえこうした<一対一>の考えは、人間が天使に服従することでそこに相互的責任のようなものが定められることを認めるものでもある。ダエーナーが人間に対してその死後に取る責任は、人間が地上でダエーナーに取る責任の度合に比例する。したがって、そうした責任の考えにおいてダエーナーは地上の個々の魂の<行為>を反映するものなのである。そして、ダエーナーがこのような<行為>を反映するものであるならば、逆にダエーナーの似姿としての地上の魂が個々に存在することになるだろう。そうであるならば、それらは各々<対(syzygy)>の半身としてことに地上の魂にイメージされるだろう。ダエーナーはそのような仕方で天界からやって来るものなのであるが、とはいえ天使の世界は自分たちに応答しない人間には決して答えない。つまり、魂の<照明>の授受がそうした人間には生じることがない。それゆえ、<天使>に関わろうとする人はつねに天上界のことを気にかけていなければならないのである。

Ibn Sinaはまた、魂の二つの顔(口述する天使と書きとめる天使)があり、一方の<口述する天使>の働きにより想像力が天上界と同等のイマージュに向けて作動し、そのことは<書きとめる天使>の働きにより下界に繋がるイメージから振り返られることになり、最終的に「閾下の意識(sirr)」を目覚めさせ、かつ純粋で微妙なものにするという。この想像力の複雑な在り方には地上の存在が上の階層の存在を想う仕方が述べられているが、ここで強調したいのは、地上の存在が上の階層を想う仕方は垂直的な視線のうちに現れているということである。例えば、ムハンマドが天使ガブリエルに召喚された「al-Isra’ wal-Mi’raj(夜の旅と上昇)」と呼ばれる旅もこうした垂直構造に従う出来事であった。すなわち、ムハンマドは翼をもった人面の馬Buraqに乗ってエルサレムのAl-Aqsaまで夜の旅をし、そしてそこから天界に昇り、天使ガブリエルの案内によって七つの天界を巡ったのだった。そして、この天界への上昇である「Mi’raj」はあらゆるイスラーム神秘家に霊感を与えてきたのであり、ことに「上昇」という垂直方向の感覚が神秘家の瞑想に深い影響を与えてきたのである。

ギリシア哲学、ことにアリストテレスから影響を受けた学者であるIbn Sinaは様々な主題にわたって多くの書物を著したが、その中には「Hayy ibn Yaqzanの物語」という、「東方哲学」に属すると言っていい神秘的物語もある。Ibn Sinaは一時ブワイフ朝の宰相を務めたほどの実務的な能力をもった人物であるが、その反面、世俗的な仕事に追われるIbn Sinaの魂は満たされぬままにあったようだ。感覚に支配された認識が霊魂を眠りに陥れている、そのような<感覚の夜>に苛まれていると感じていた。それゆえ感覚の牢獄から霊魂を救い出さなければならないと感じ、ペリパトス派哲学では解決できない自身の問題を長い物語にして著したのである。Hayy ibn Yaqzanという名の天のエルサレムからやって来たとする人物を、Ibn Sinaは能動知性の顕れとしての賢者にして若者であり、哲学者にして導師であるという、神秘への導き手として描いている。こうした知識と信仰が一体化した導き手のイマージュが、おそらく晩年のIbn Sinaの内的生活に課されてきたものであったようだ。それはIbn Sinaにとっては自身の地上の魂の姿なのであり、そうした内なる導師によるイニシエーションの物語として、「Hayy ibn Yaqzanの物語」は書かれたのである。それに次いで<東方>への旅の物語である「鳥の論攷」が書かれたが、その旅路の果ては極地のカフカス山脈であり、そこには極北の高みへと昇り行く垂直性の方向が示されている。

Ibn Sinaはペリパトス派哲学に従って霊魂論も著したが、それは自然界の領域に属するものの能動的な力に関わるものであり、それゆえ自然哲学の項目に入っている。しかし、霊魂の諸能力の区分についてIbn Sinaはペリパトス主義者に従っているものの、個々の霊魂が不死であること、その不滅の非物質的実在性、ならびに感覚の牢獄にいる間に霊魂が堕落した状態にあること等を強調する点で異なっている。Ibn Sinaは霊魂の本来の住居たる天について想い、その住処を想起する必要を繰り返し述べている。そして、あたかも地上で霊魂に降りかかった忘却と怠惰の病を癒し、惨めな地上の状態から救おうとする精神の医師が処方箋を与えるかのように「Hayy ibn Yaqzanの物語」を書いたが、その作品は、魂が感覚の牢獄を脱し、天界に向かおうとする目醒めのプロセスを自ら実際に体験しつつ示そうとするものであった。その体験についてアンリ・コルバンは説明している。「Ibn Sinaの神秘的物語にすでに、垂直的方向性によって決まる、はっきりした区別が、<極への接近での闇>と物質にして非存在の極度の西方である闇との間に設けられている。Ibn Sinaの物語はこの二重の状況と<真夜中の太陽>の意味を明白に私たちに示してくれる。一方でそれは闇における啓示として立ち上がる第一知性、すなわち大天使のロゴスである。それは人間の魂に関して言えば、意識の地平に超意識が立ち上がることである。他方ではそれは、潜在意識の闇から立ち昇る意識の光としての人間の魂そのものである」(The Man of Light in Iranian Sufism1978)と。ここで言われる<極への接近での闇>とは、ムハンマドの「夜の旅(al-Isra’)」と同等の体験であると考えられる。

またIbn Sinaには「東方びとの論理(Mantiq-l-mashriqiyin)」という著作があるが、その「東方」は「象徴的意味をもつものであり、ちょうど西方が影ないし質量の世界を象徴するごとく、光ないし純粋形相の世界として現れる。人間の霊魂は囚人のように質量の暗闇の中に捕らえられ、かつて霊魂がそこから降ってきた源たる光の世界へ帰還するためには、自らを自由にしなければならない。この難行を成し遂げ、<西方>の流刑から解放されるには、霊魂を宇宙において自らを<東方>へ向けさせ、究極的な救済へと導く案内者を見出さねばならない」( S.H. ナスル「イスラームの哲学者たち」1975)と言われる。「東方哲学」の<東方>は東方の地方を指すのではないことは研究者の間で一致している。「東方(ishraq)」は<照明>という意味でもあり、それは<照明>現象が生じ来るその方向を指している。この<照明>の強度は地上の魂と天界の天使との関係の度合いに拠るのであり、つまり、人が天使に関心を向ければ向けるほどその<照明>を受け取る度合いが高まるのである。そうした意味で言えば<東方>とは天界に他ならず、そうであれば<東方>の語には垂直方向がはっきりと提示されていることになる。

この<東方>を垂直性の方向として見定める認識はIbn Sinaだけのものではない。アンリ・コルバンによれば、「イラン人スーフィー文学の主題の一つは<東方の探究>であるが、それはあらかじめ警告されているが、私たちの地図に位置しえない<東方>の探究なのである。この<東方は>七つの階層のどこにも含まれない。それは実際、八番目の階層なのである。そして、この<八番目の階層>を求める方向は水平的にではなく、垂直的なものである。この超感覚的で神秘的東方、起源と回帰の場所、永遠の探求対象は、天上に繋がる軸上にある。それは極地であり、極北である。そうした意味で、それは<向こう側>の次元への入り口なのである。だからそれは、この世界に提出される限定された様態においてのみ示され、また提出様態を通してのみ示され得る。それが決して示されないという他の様態さえある。…神秘家によって求められる<東方>、地図上に位置付けられない<東方>は、北の方向、いや北の向こう側にある。ただ上昇的な前進のみが方向として選ばれたこの宇宙的な北に向かって行くことができるのである」(The Man of Light in Iranian Sufism)

このことはSuhrawardi(11541191)にも当てはまる。SuhrawardiIbn Sina同様に三層の世界を提示している。まず純粋知性の世界である「’Alam al-Jabarut(力の世界)」があり、魂による仲介世界で、能動的想像力の世界である「’Alam al-Malakut(王国世界)」があり、そして感覚知覚による物質世界である「’Alam al-Mulk(領土の世界)」がある、というように。二番目のMalakutはコルバンの言う<八番目の階層>であり、「Hurqalya」とも呼ばれる’Alam al-mithal(能動的想像力の世界)が顕す<中間世界>でもある。そこではあらゆる感覚は<鏡>に映し出されるようにして意識に現れている。

Suhrawardiは純粋知性の天使と啓示の天使とを一つのものにした。すなわち、天使ガブリエルは人類の天使、すなわち人類の原型とみなされ、これをSuhrawardiは聖霊と同一視している。それゆえ、あらゆる知識の最高の啓示者たる純粋知性のガブリエルは啓示の能力そのものともみなされている。このことは信仰と知識の一致を意味し、<天使>という存在を軸にして人類学的な視点と宇宙創生論的な視点を一つのものにしたと言える。これはペリパトス派哲学を奉じたIbn Sinaには表向きにはない観点であった(内面的には「Hayy ibn Yaqzanの物語」で示してはいるが…)。またSuhrawardiは、私たちは人類として守護天使をもっているが、それと同時に個々の人間は天界の世界に住む各々の守護天使をもっているという。けれども、「Suhrawardiによれば、個々の霊魂は肉体の領域に身をおとしめる以前には天使的世界に住んでいた。肉体の中に居をしめるにあたり霊魂もしくは不滅の天使的中核をなすその中心は二つに引き裂かれ、一方が天に残り、他方が肉体の牢獄、<砦>に身をおとすことになったのである。現世において人間の魂がつねに不幸なのはこのことに起因している。事実、人間の魂は自らの他の部分、天上の<半身>に憧れを求めており、この天使的部分と合体し、再び天に住みつくまでは至福にあずかれない」(「イスラームの哲学者たち」)。このように、<東方>とは地上の魂の故地なのであり、自身の<半身>と合一する<場>でもある。そして、こうした考えはIbn Sinaのものでもあった。

SuhrawardiIbn Sinaと異なる発想をもつのは、彼がマズダー教の「Xvarnah」に聖クラーンに由来する「Sakinah(静穏)」と呼ぶものを見た点においてである。「Xvarnah」とは古代ペルシアの神秘家たちに授けられたヴィジョンであり、天界と人の生命を共に貫く<至福の光>のことをいう。Suhrawardiによれば、「Sakinah」は「Xvarnah」と同様、神秘家の魂の寺院に降りて来た聖なる<光>が宿るものである。すなわち、<天界の光>が地上の魂に降下したものがそれであると。地上の霊魂にその<天界の光>の半身が与えられ、それらの相互責任によって二にして一なる完成態を付与する<対>的存在のかたちが最も明確に現れているのは古代ペルシア神智学であるが、Suhrawardiはマズダー教の「Xvarnah(至福の光)」をそこに加えてより始原的な世界をも取り込み、<光>を介して宇宙と人間存在を結びつける思想を自らのものにしたのである。マズダー教の天使と人間の関係は次のような言葉によく示されている。「その思考は始源的世界から出た天使となり、その言葉はこの天使から出た<霊>となり、その行動はこの霊から出た<身体>となる」。始源的世界と人間の身体が天使を介して一直線に貫かれている。ここにも垂直性の方向があると理解するべきだろう。そして、こうした垂直構造がSuhrawardiの<光>の思想に明確に表されているのが分かるのである。

この垂直構造はこれまで見てきたように、必ず<対(syzygy)>概念を伴っている。「もし霊魂の存在様態が一元性ではなくて双子性であるなら、すなわち、もし固有の意識をもった地上の実存である霊魂が超越的自我、あるいは天上的自我を第一とする二元的全体の第二の成員であるならば、このことはその地上世界における存在が惹き起こすこのような距離と拡張を可能にし、またその解決を予見するような存在論を含むことになるであろう。それは霊魂が地上のものとして存在を開始したのではなく、他の世界で生じ、<地上に降下>したことを予想させる」(同上)と言われる。この<対(syzygy)>概念を伴う垂直構造は<半身>ダエーナーの物語構造を踏まえたものなのであり、それゆえ垂直構造は<対(syzygy)>概念と共に古代から延々と説き続けられてきたものだと言ってもいい。両者はいわば知識と体験が一体化した状況から生まれているのである。

 最後に、地上で男たちの<巡回する時間>を想っていた際に、なぜ私は宇宙に視線を向けたのかという問題に戻るとすると、<起源>に向き進もうとする<時間>は<半身>との合一を求める垂直構造を伴わないと、そこに明確な意味が生じないのではないか、その機能が働かないのではないか。というのも、例えばマズダー教では<光>の世界に翳りが生じて(不透明性が生じて)可視世界である対象が生まれ、<永遠>の流れが計測化されて<時間>が意識されるのである。そうであるとすれば、それ以前の絶対的な<時間>と<光>への帰還を目的とするからには、そこには当然<天使>の介入が欠かせないだろう。<天使>とは始源と人間を結ぶ垂直構造に生きる仲介者であり、その能動的な働きであり、そうしたプロセスとしての、私たちの魂の<対(syzygy)>である紛れもない姿なのであるから。

 

Lahoreの夕暮れ、西の空に落日と共に燃えるような輝きが追いやられるとすぐさま頭上に夜の帳が降り来る城市、その光景を想い出す度に<孤独>の感覚が立ち上がってくる。Lahoreで数少ない異邦人であった私は<孤独>や空虚感に苛まれていたように思う。そのようなわけで、そうした満たされない感覚を何かで埋め合わせる準備が、私の内部で知らず知らずのうちに育っていたのだろうか。Ashuraの儀礼に立ち会い、頭上の天空に過度の想像力を働かせることができたのも、何かしら既定の心理様式と時間感覚に沿っていたのではないか。そうだとすれば、無意識のうちに私は異国の地に働く潜在的な力に同調していたのかもしれない。空を見上げるのは極めて自然の行為だが、必然的な自然の行為というのもあるのかもしれない。Ashuraの儀礼と天使に関わる垂直構造の考えとはそもそも何の関係もない。とはいえ、Ashura儀礼の際に頭上の天空を意識することは、ことさら地上と天界との繋がりを見定めることにならないだろうか。<対>概念の知識があればそのときの私の視線は必然的なものであったかもしれないが、当時の私には何の知識もなかった。<対>概念よりも、おそらく垂直構造を意識させるような何らかの働きがあったのではないかと考える。地上の行為が逆に天界の運動に力を与えることになる、そうした垂直的な繋がりが様々な儀礼において考えられてきたからである。

とはいえ、地上の<時間性>から垂直方向の感覚が呼び起こされたとすればその条件は何だったのか。当時の、西も東も分からない無知な子供状態といった状況が私から何かを引き出し、私にそう仕向けさせたのだろうか。そうとしか考えられない。その肝心の無知な子供状態のことを想い出そうとすると、きまってその状態は言葉にして言い表すほど変質し、そうした意味で失われていくが、一方で想起のままに任せているとそこになぜか言いようのない懐かしさが込み上げてくる。ふり返れば、無知な子供状態が懐かしさの渦のうちに立ち現れてくる。いったい<懐かしさ>とは何だろうか。そこにはとうてい解消できない距離の感覚があることは確かだ。

 

 記憶は生きている。そして、またしても新たな想起がやって来る。夏の早朝、インダス河の船橋を渡る。まだ霧がかかって辺りは覚束ない光景だ。一歩一歩足を踏み出すごとに霧は立ち退き、記憶の底をつき破るようにしてその場の体感が立ち上がってくる。河の流れは西の辺境の地と東のパンジャブ地方を分け隔てていた。私は辺境の地で、すなわちいまだ法よりも掟が優先するような地で、生の感覚を肌で感じていた。そこで見たものは泥の門に泥の壁、泥だらけの道の両側に泥で出来た家が連なる市場、それに厚着をして銃を肩にかけて歩く髭面の男たち。宿では好奇の視線にさらされ、いつの間にか無骨で陽気な会話の渦の中にいた。船橋は小船を並べて浮かべ、その上に板を並べた古代式で、むろん河の増水に備えたものだ。それで充分な機能を果たしている。足下の河の流れは穏やかだ。辺り一面どこまでも水面が広がり、宙を歩くような感じに素晴らしい気持ちが湧いてくる。船を繋げた簡素な橋だから流れはすぐそこに見え、見えるよりも速くその振動が足裏に伝わってくる。橋を渡った向こうのパンジャブ地方のことはよく知っている。しかし、何かしら未知の領域に向かって一歩一歩足を進める感じがある。あたかも国境の緩衝地帯を行くかのように、私の心臓はわくわくし、気分はいつになく高まっている。

 

 

                                      「Lahore日記」 ()