Monday, December 16, 2013

土方巽研究 二 <舞踏の表現形式について>


   七. 「感覚の論理」

 この夏(2013)、豊田市美術館で「フランシス・ベーコン展」を見ました。その後すぐに、ジル・ドゥルーズの「感覚の論理」を再読しました。この著作はベーコンの絵画を基にして、ドゥルーズによる絵画理論、すなわち絵画表現を一貫する感覚作用の論理を展開したものです。ドゥルーズはベーコンという画家を、「ヴァン・ゴッホやゴーガン以来の最も偉大な色彩画家の一人である」、と評価しています。ちなみに「感覚の論理」の「感覚」は、ポウル・セザンヌの用語を前提としています。たとえば、ジョアシャン・ガスケの「セザンヌ」には、「自然にならって絵を描くことは対象を模写することではない。いくつかの感覚を実現させることです」、というセザンヌの言葉が記録されています。このように、絵画表現において「感覚の実現」が目指されているからこそ、「感覚の論理」について語ることができるのでしょう。言い換えれば、感覚の実現は画家であるベーコンの側にあり、その実現は絵画を前にしたドゥルーズの思考に反響し、ドゥルーズに感覚の論理を語らせるのです。
 ドゥルーズによれば、ベーコンの絵画は以下のような過程を経て成立しています。
「蓋然的な視覚的総体(第一の象形化)が自在な手覚的表現によって破壊され、歪曲された。そしてこの表現が総体の中に再び導入され、非蓋然的な視覚的形体を生み出すことになる(第二の象形化)。画く行為、それはそうした自在な手覚的表現と、その反作用との、つまり視覚的総体へのそうした表現の再導入との統一である。そうした表現行為を経験して、再発見され、再創造された象形化は、出発点の象形化とは別ものである」。
 ここで視覚や手覚といった感覚作用が言われていますが、ドゥルーズは視覚を広い意味で捉えており、その感覚作用には「触感的感覚機能」も含まれています。「触感的感覚機能」とは、触覚のみでなく嗅覚や聴覚をも綜合させて働く機能であり、おそらく無意識レベルの作動、あるいは記憶として残留するものをも取り込んで働くと考えられます。その結果もたらされるのが「視覚的総体」であり、それは連係した感覚作用が展開するものの反映だといえるでしょう。いっぽうの「手覚」もまた、手に関わる運動神経の働きを抱握した触感覚であり、神経系の連係的な展開がもたらす事態であるといえます。もっとも、単に視覚といった一感覚の純粋な働きを示すことは経験的に難しく、私たちの日常世界は連係した感覚作用によってもたらされているわけです。
「象形化」とは、記憶などの意識的あるいは無意識的作用を反映させた「視覚的総体」がもたらされることをいいます。まず「第一の象形化」の作用があります。すなわち、「第一に象形的所与が存在する。象形化の作用は現実に存在する。それは既成の事実であり、その作用は絵画に先行しさえしている。われわれは、説明する写真、物語る新聞、そして映画のイメージ、テレビのイメージに包囲されている。生理的であると共に心理的でもある紋切り型、全く既成の認識、想い出や幻想が存在する。そこには、画家にとって極めて重要な一種の試練が存在している。というのも、<紋切り型>と呼ぶべきあらゆる範疇の事象が、作業開始以前にすでにカンバスを占領しているからである。それは劇的で、深刻である。…カンバスの上には、つねに―すでに、紋切り型が存在している」。
 こうした「蓋然的な視覚的総体(第一の象形化)」が、絵画表現特有の技巧を伴った「自在な手覚的表現によって破壊され、歪曲され」る。そして、そうした「破壊・歪曲」行為を介して、ふたたび「絵画は…形体を勝ち取らねばならない」。それが、「非蓋然的な視覚的形体を生み出すことになる」「第二の象形化」の作業です。
「第二の象形化」にこそ、個々の表現者それ自体の道があるでしょう。たとえば、「形体化へと向かう道に関しては、セザンヌはそれに、感覚(の作用)という、簡潔な名前を与えている。形体、それは感覚の作用へともたらされた感覚可能な形体である。それは、肉に所属する神経系統に直接に働きかける」。
「第二の象形化」として、ベーコンの絵画における形体が、それを見る者の「肉に所属する神経系統に直接に働きかける」形体として挙げられています。こうした象形化には、表現者独自の「感覚の論理」が働いているのです。たとえば、「ベーコンは、感覚に結びつけられた形態(形体)、それは再現描写している(象形化作用)とみなされる対象に結びつけられる形態(形体)とは別のものであると主張」し、画く行為において自らの「感覚の論理」を優位に保っているといいます。
 ベーコンの絵画が成立するこうした過程には、最終的に次のような意味と価値が見出されています。「そこにおいてこそ絵画は、自らの奥底に自分なりの仕方で、一種の純粋論理に関する問題を、行為の可能性から行為そのものへの移行の問題を見出す」。言い換えれば、ベーコンの絵画には、「形体あるいは絵画的行為がまさしく純粋状態で生誕する」のです。
 土方の舞踏表現は、「第一の象形化」に比されるべき「第一のからだの神経配列(アレンジメント)化」を「破壊・歪曲」し、そうして「死体」となったからだから命がけで突っ立ってくる「第二の神経配列化」を実現する表現であると考えられます。何よりもこの点において、土方の舞踏表現は、ドゥルーズが「感覚の論理」を基に示そうとする表現過程に通底すると思われるのです。またベーコンの絵画については、その表現、すなわち絵画に痕跡する画く過程の神経を、土方が舞踏符としてからだに取り込んだという経緯もあり、そうした土方の視点を考えるうえでも、「感覚の論理」に立ち入る必要があると考えます。
 土方が絵画に向ける関心は特徴的です。それは土方が早い時期に画家たちと接触をもったせいもあるでしょうが、たとえば残された「舞踏符ノート」の書き込みを見れば、絵画に接近する土方独特な視線をうかがい知ることができます。また、自らの「少年体」をカンバスに見立てたり、「濡れてささくれだった板に」絵を描く少年期の行為を大事そうに語ったりして、舞踏の表現、とりわけ舞踏符の方法が絵画に深く関係していることを匂わせています。
 土方が舞踏表現の技術化に専念した時期に「白桃房」の公演があります。その表現は、アスベスト館の額縁的な舞台に繊細な照明操作によって変幻自在に浮かび上がる背景画、その前に立つ色鮮やかな衣裳を身につけた踊り手、その微細な動きなどから、いかにも絵画的な特徴があるように思われます。そのあまりに視覚に訴える表現は、「視線の快楽」とさえ言われました。この時期の土方の舞踏表現は、舞踏符の方法と絵画表現との根深い繋がりの上に成り立っているように思われます。
 むろん舞踏の表現と絵画表現とでは、その性格はまったく異なっています。端的にいえば、絵画表現はその表現が事物として残り、いっぽう舞踏表現は人物の動きであり、時が過ぎれば消えてしまうわけです。そこには大きな隔たりがあります。とはいえ、いかなる表現も、表現に向けてあらかじめ抱かれた意図、その意図を実現するための現在的な行為、そして行為を介して表現された目の前の対象、それらのあいだにずれを抱えていると考えられます。そうしたずれを抱え込んだ表現過程があるわけです。ベーコンという特定の画家の表現に迫ろうとするドゥルーズの「感覚の論理」も、むろんこうしたずれを前提としています。そして、舞踏の表現もそのずれを知っているのです。このずれはむしろ、表現という行為に伴う意味と価値の豊かさを生み出しているように思われます。結果的に残された作品そのものよりも、表現過程の次元に目を向ければそのことがよくわかるでしょう。舞踏の表現はパフォーマンスにおいてずれをいっきに一致させようとする意図を始まりからもっていると考えられますが、ここで検討するのはそうした一致の局面ではありません。「感覚の論理」が絵画表現のずれに一致をもたらそうとするものとして取り上げるのが感覚作用ですが、はたして舞踏符の方法にもそうした感覚作用の役割を適用できるだろうか、という点を見てみたいと思いました。

  1. 感覚の実現と形体化

  感覚の実現
 表現において、その意図、表現する行為、表現される対象にはずれがあります。そして、セザンヌは絵画表現に際して、それら意図、行為、対象を貫き通しているのが「感覚の作用」である、そう考えていたのではないでしょうか。セザンヌは次のように語っています。
「高すぎたり、低すぎたりすれば、すべてぶち壊しだ。ふるいの目がひとつでも甘ければ、その穴から、感情も、光も、真実もこぼれ落ちてしまう。いいかね、私は、どの絵でも、全体を同時に進める。同じ勢い、同じ信念によって、散らばっているものすべてを近づける…。私たちが見ているもの一切は、散り散りになり、消え去ってしまうではないか。自然はいつも同じだが、自然のなかで私たちが目にするものは、すべて移り変わる。絵画芸術は、自然がそのもろもろの要素とともに震えながら持続するさまを、あらゆる変化を示すその外観を描き出さなくてはならない。絵画芸術は、私たちに自然の永遠性を味わわせなくてはならない。自然の外観の下には何があるのか。何もないかもしれない。すべてがあるかもしれない。すべてだ。わかるかね。だから私は、自然のさまよう手を手で掴む…。右から、左から、こちらも、あちらも、あらゆる部分でその色調、色彩、濃淡を定着させ、近づける…。それらの色は線を生み出す。私が思案するまでもなく、それらは対象、岩や木となる。それらには量感がある。色価がある。それらの量感や色価が、私の画布の上、私の感受性の中で、この目の前にある面とか色斑に一致すれば、そう! 私の画布は手で手を掴む。その画布は揺るがない。高すぎたり、低すぎたりしない。真実で、充実したものになる…。しかし、もし私がほんの少しでも気をそらしたり、少しでも集中をとぎらすと、特に、一日でも過剰に解釈したり、昨日までの理論と矛盾する理論に今日心を動かしたり、描きながら考えたりすれば、つまりに私が介入しようものなら、バタン! すべて台無しだ」(ダニエル・ユイレとジャン=マリー・ストローブ 映画「セザンヌ」)
 ここでセザンヌは、「いくつかの感覚を実現させること」、そのあるべき手順を語っているようです。セザンヌは、様々に変化する自然の外観が、量感や色価となって画布の上で、すなわち「私の感受性の中で、この目の前にある面とか色斑に一致すれば」、「私の画布は手で手を掴む」、すなわち「感覚」は実現されるというのです。それは感情、感覚作用、表現意図を含めた、「全体を同時に進める」作業であるわけですが、このとき感覚作用はといえば、それはまず、自然の外観と表現する者とが接触するところ、言い換えれば、自然という物質世界と個体という物質世界との接触面/インターフェイスとして働く、そう考えられているように思います。要するに、セザンヌの表現において、絵画にはそうした「接触」をあらわにする意図があり、画く行為はおのずとそのような「接触」であり、そうした「接触」を痕づけた作品となって目の前に残ることになるのです。この場合はセザンヌという一表現者としての考えですが、世界と個との接触面は認識や知覚ではないという明瞭な前提がみてとれます。その接触面は、「散らばっているものすべてを近づける」感覚作用の働きにあるのです。こうしたことから、セザンヌの「感覚の作用」を引き合いに出す「感覚の論理」もまた、認識や知覚以前にすべてを「接触」させている感覚作用を念頭に置いていると考えられます。けれども、その論理は世界と個との接触面に注意を向けるのではなく、もっぱら表現する個体の方へ、表現を介して新たな主体となるものに照準を合わせていくような、そうした表現主体をめぐる組立作業となっているようです。それゆえ、その論理は、個体という事象へと、その内部へと、感覚作用の働きそのものを捉えようとする展開となっています。「感覚の作用は、主体(神経系、生命的動き、本能、体質等)へと向かう側面と客体(事実、場、出来事)へと向かう側面をもつ。…それは分かち難く存在する二つの事象である。…すなわち、感覚の作用においては、私は成ると同時に、感覚の作用によって何ものかが達する。両者は共に感覚の作用において成り、感覚の作用によって達する。そして極限において、感覚を惹起すると共にまた感覚を受容するのは同一の身体であり、またこの同一の身体こそが客体であると同時にまた主体となる」。
 感覚作用によって、主客は分かち難いものとしてそれ自体へと達する。それが達するものの基盤はあくまでも身体です。私たちは身体を基盤にして世界と「接触」するのですが、その際に感覚作用は主客の両者をもたらしながらも、なおかつ主客の両者を分かち難く貫いているのです。それに対して、主客の区分を明確にしようとする認識の働きは、その基盤が身体にあることを忘れさせ、なおかつ感覚作用がもたらす主客の一貫した状態を見失わせることになるのです。
 あらかじめ述べておけば、身体を基盤とする感覚作用はいっきに主客を分けた認識作用をもたらすのではありません。たとえば、仏教のアビダルマ理論では、意識作用を構成する要素のうちの第一の契機となるものを「触(phassa)」とし、「接触・衝突」の意に解しています。「その本来の特徴は触れることである。それ特有の属性もしくは持ち味は衝突である。衝突の契機は、三つの要素(感覚器官、感覚対象、感覚作用)の集まりである。それは、その軌道に入るどんな対象にも土台もしくは足場を提供している」。「触(phassa)は、(意識作用を構成する第二の契機である)感触の受容(vedana)の誘因となり、感触の受容を生じさせる」(Attasalini)
「触」は、意識を用意する以前の感覚相におけるあらゆるものの接触を示しています。その対象は、私たちが物質的なものと精神的なものとに分けているものの全範囲を網羅しています。それゆえ、私たちの意識作用へのプロセスとその生成のための足場を提供する最初の段階として「触」は示されているのです。
 物質から構成されている個体という領野において、物質の上に精神的なものが直接打ち立てられて人という地層を成しているのではありません。まず「接触」があり、その未だ誰のものでもない感覚作用を主体的に組織する、感覚の事後的な作用が認識の働きなのです。その組織化の過程にはいまだ曖昧な領域があります。たとえば、私たちが認識を組織する働きへと漸近する作用を、哲学者 A. N. ホワイトヘッドは、「フィーリング(感じ)」と言っています。
 こうした考えを前提として「感覚の論理」は、「感覚を惹起すると共にまた感覚を受容する身体」を基盤としながら、自らを感覚作用それ自身へと開いていこうとするのです。「感覚が存在するのは、肉体を離れた自在な光や色の戯れ(印象)の内においてではない。反対に、感覚はからだの内に、たとえそれがリンゴのからだであれ、とにかくからだの内に存在する。色彩は物体の内にあり、感覚は身体の内にある。空中にあるのではない。感覚、それは画かれてあるものである。絵の中に画かれてあるもの、それこそがからだである。それも対象として再現描写されている限りにおいてではなく、或る感覚を経験するものとして生きられる限りにおいてそうなのである」。
 感覚作用によって主客は分かち難いものとしてそれ自体へと達するのであれば、感覚作用は、画かれてある形体と画く行為の両者を貫くものでもあるのです。感覚作用がからだの作用であるのは自明なことですが、ここでは表現行為と表現された形体の両者において感覚作用が貫いていることで、その形体を見る者においても経験されうるからだの作用として捉えることができるというのです。それがどういう事態かといえば、「第二の象形化」である形体は「肉に所属する神経系統に直接に働きかける」、といったことから推測されるでしょう。
 事実として感覚作用とはまず、からだの隅々まで張りめぐらされた神経系統による働きです。動物の神経系統のうちの自律神経系は有機体を成り立たせ、その有機体が、自らを維持するために感覚器官系を世界との接触面としてもっているのです。ところで、その「感覚器官系の彼方」、すなわち諸感覚器官の組織を逸脱する方向において、そこになお私たちの経験として際立つような身体の極限があるといいます。「器官なき身体」、それは神経系統のうちの無数の感覚神経がその働きを逸脱して、感覚作用の様々なレベルにおいて共鳴し反響するところに見出されるからだなのです。たとえばそれは、「一種の波がその身体を経巡り、その波の振幅の変化に応じて、様々な水準あるいは様々な閾が身体の内に描き出される。身体はそれゆえ、器官はもたないがしかし閾や水準はもつ。感覚の作用は質的なものでも、また固有の資質を与えられたものでもないから、徹底した実在性しかもたず、この実在性が感覚の内に引き起こすのはもはや表象的所与ではなく、同質異形的変異である」、と描写されています。
「同質異形的変異」とは、その現象を説明すればそれも表象となってしまいますが、ここでは、身体を同質の身体のままで歪曲しようと働く見知らぬ力の感覚、その実在感覚そのものを指すための用語なのでしょう。なぜ歪曲する力が働くのでしょうか。それは、有機体の逸脱である「器官なき身体」が、通常とは異なる感覚作用の様々な水準や閾を、その通路を、からだに開くからです。とはいえ、その歪曲する力の感覚を表象することなく、あくまでも力と感覚作用の関係として捉えようとすれば、「力は感覚の作用と緊密な関係にある。感覚が生じるためには、力が身体、すなわち波動の或る部分へと向かい、そこで作用する必要がある」、というように、歪曲する力が働くところに生じる感覚作用に注目すべし、といった堂々巡りになるでしょう。けれども、「力が感覚の作用の条件であるとはいえ、感じ取られるのは実際のところ力ではない。なぜなら、感覚は それ自らを条件づける様々な力から出発して、しかも全く別のものをもたらすからである」。
 感覚作用は力を足場にしているにも関わらず、それは表象として捉えられがちです。そうではなく、感覚作用に付随するもののなお表象されない力がその足許にあるとみなすべきなのです。それゆえ、「いかにして感覚作用は十全にそれ自らへと向かい、弛緩あるいは緊縮することで、その感覚作用がわれわれにもたらすものによってもたらされていない力を捉え、かくて感じ取ることのできない力を感じ取らせ、しかも感覚作用に固有の状態にまで自身を高めることができるのだろうか」といった問いが、ベーコンの画、すなわち画く行為と画かれた形体とが貫かれている様態をめぐって立てられることになるわけです。
 認識の働きをもってして感覚作用に伴う力を把捉するにはどうしても曖昧さが伴う、という前提があるわけです。しかるに、ベーコン画を前にして手がかりとされるのは、「器官なき身体」における感覚作用がもたらす諸水準といった局面です。たとえば、ベーコン画における、「口はもはや特殊な一器官ではなく、身体全体がそこから逃れ出る穴であり、人肉がそこから生まれ下りる穴となる」、といった形体を手がかりとして、私たちは感覚作用がもたらす諸水準といった局面へと分け入っていくことができるだろうというわけです。ところが、ベーコンは、「感覚(の作用)、それは或る<次元>から他の次元へ、或る<水準>から他の水準へ、或る<領野>から他の領野へと移り行くものである」、と主張しています。ベーコンにとって感覚作用が示すものは、「器官なき身体」が例とするような、感覚作用が開く様々な水準や通路によって際限なくそこに生まれるものにではなく、画く行為のさなかに生じる感覚作用の移調/変調といった局面に関わっているのです。それゆえ、「異なった次元の複数の感覚が存在するのではなく、唯一で同一の感覚の異なった次元が存在する。異なった構成的水準、複数の構成する領野を包み込むこと、それこそが感覚の仕事である」。
 どういうことかといえば、感覚作用がもたらす諸水準とは、相互に感覚機能が異なった器官に通じることで開かれる様々な感覚領野といったものです。それら各々の水準もしくは領野は、そこに表象されるものとは独立して、他の水準もしくは領野へと通じる流れをもっているのです。そのように感覚に付随して感受されはするものの表象されることのない力の流れが、諸感覚が構成する内容、すなわち色彩、触感、匂い、重さ、ざわめきといった複数の感覚内容のあいだに存在するのであり、その存在が実在感覚として私たちのからだに際立つことになるというのです。
 したがって、「異なった構成的水準あるいは複数の構成する領野を包み込む」といった感覚作用の働きによって、ベーコンが主張するような感覚作用の移調/変調があるのですが、その移調/変調のあり方は、単に身体が同一の身体のまま異形となるといった内容での感覚の実現ではないのです。それは力の流れに達しているという意味で、実在的感覚の実現なのです。すなわち、感覚作用の移調/変調は、「異質な諸要素を直接結合させる。そして、それら諸要素間にまさしく際限のない結合の可能性を導入するが、この導入は、そのあらゆる瞬間が実在的で感覚的であるような、有限のレベルあるいは現在の場において行なわれる」のです。感覚作用が異なる水準、複数の領野を貫いて力の流れとして実現し、それが実在的に抱握されるのが、この身体という現前するものの場に他なりません。
 さて、ベーコンが主張する感覚作用の移調/変調、すなわち感覚作用が、感覚の水準の、次元の、領野の差異を内包して、或る水準から他の水準に移行するということについては、「もし一時的で臨時的な複数器官の存在という系列全体を考察するならば、<器官なき身体>によってそのことは説明される。或る水準で口となるものが、他の水準では、あるいは同一水準の他の諸力の作用の下では肛門となる。こうした系列全体こそ身体のヒステリー的現実である」からだといいます。
「身体のヒステリー的現実」とは病であり、それは組織体の逸脱に他なりません。とはいえ、ことに表現行為に関わるこうした「身体のヒステリー的現実」においてこそ、感覚作用に貫かれた行為と形体の生まれる契機があるというわけです。「身体のヒステリー的現実」とはいえ、画く行為における感覚作用は単なる類推に関わるのではないからです。その感覚作用は移調/変調に関わっているという意味で、「歪曲の愛人、身体の歪曲を司る者」であると形容されています。感覚作用の変調/移調と力の歪曲との親密な支配関係を言い当てているわけですが、こうした意味において、ベーコンは画く行為において力の歪曲に関わっているのです。感覚作用の移調/変調はそれ自身を示すことができないけれども、力の歪曲が作用する場において、それは経験されるからです。画く行為において力の歪曲に関わるとは、例えば、目で形体に集中すればするほど形体の拡散を誘発するような手に働く感覚作用があります。そして、からだに関わる意識がとめどもなく主客の逸脱を生む「肉体の闇」に、それと似た働きがあるように思います。
 このように、感覚作用→力の歪曲→感覚作用の移調/変調への方向に従うことは、画く行為に際して、見える力から見えない力へと通路を開いていくことにもなるわけです。「歪曲はつねに身体のそれであり、それは静態的であり、その場で即興的に実現される。それは力に動きを従わせるが、しかしまた形体に抽象を従わせる。拭い去られた部分に或る力が作用するとき、この力は抽象的形態を生誕させるのでもなければ、いわんや感性的諸形態を力動的に結合するのでもない。反対に力は、いずれにも還元し難い、多様な形態に共通する一種の識別不可能な地帯とする。そして、力が生み出す力線は、その明晰さそのものによって、またその歪曲する正確さによって、いかなる形態をも免れている」。
 力の歪曲に関わることは、感覚作用を通じて、いわば<生命の線>に関わろうとすることなのでしょう。そこには、感覚作用に貫かれた行為と形体とが機能することになるような、感覚作用の実現への方途が示されているのです。

  画く行為
 画く行為には、先行性の現象、事後性の現象、履歴現象として起こる局面があるといいます。すなわち、「絵がまだ始まっていない内に起こること—先行性の現象、しかしまた同じく後になってから起こること—事後性の現象、毎回仕事をやめさせ、象形的流れを中断させ、それでいて後になってから再び始めさせることになる履歴現象(ヒステレシス)…」があるのです。
「ヒステレシス」とは、或るシステムの状態がそれまで自身がたどってきた経過に依存しているために、外部から加えられる物理的効果がその原因に対して遅れて現れる現象をいいます。それゆえ、「ヒステレシス」をもつシステムでは、システムの状態を見ることにより、過去に加えられた力をある程度推定することができるのです。このため、「ヒステレシス」を「履歴現象」というのです。現在が過去の履歴として現われてくるこうした局面とはうって変わって、感覚の実現に向かって画く行為は力の流れとしての現在を見出そうとする意図を抱いています。そのため、「画く行為はつねに位相をずらされ、絶えず事前性と事後性との間を揺れ動く。それは画くヒステリーである」。
 画く行為に際しては、事前性と事後性との間を揺れ動くものに敏感にならざるをえない、そうした「身体のヒステリー的現実」があるわけです。それゆえ、わずかな感覚作用の移調/変調にもからだを差し出すことになるのです。さらにいえば、履歴現象はシステムの閉鎖において知られ、つねに変化する外部世界と「接触」する現在とは相容れることがありません。それゆえ、画く行為においては、外部世界と「接触」する現在と履歴現象とのあいだでつねに葛藤するものがあるはずなのです。画く行為において、ベーコンが感覚作用の動勢や、その移調/変調に積極的に反応せざるをえないのはこうした点にもあるのでしょう。
 さて、ドゥルーズは、ベーコン画をデジタル的な抽象画と区別して、アナログ的言語活動であるといいます。どういうことかといえば、デジタル的フィルターはデータを無限に集積するけれども、その操作が感覚可能となるには何らかの変換装置を通して翻訳される必要があります。いっぽう、アナログ的フィルターは異質な諸要素を直に結合させます。そして、それはあくまでも現在の場において実行され、その瞬間に感覚可能となるからです。さらに、「アナログ的フィルターは多くの場合、周波数の減算(除去)によって作動する。その結果、様々なフィルターによって加算されるもの、それは集約的減算である。減算的加算こそが、落下としての変調や感覚作用の動きを構成する」からだといいます。
 そうで<ある>ものがフィルターを通して仮想的に無限に集積される、そのように、そうで<ある>ものに限定された領域よりも、そうで<ない>ものをもフィルターによって加えられる、そうした限定されないものの領域の方がはるかに拡がりがあるのです。そして、そのように限定されないものの領域にこそ、各々の水準の異質性を結合し、その差異を内包することで通路を開く、感覚作用の移調/変調する次元があるのです。こうした意味で、画く行為におけるベーコンの感覚作用は「接触・衝突」であるよりも、「減算的加算」によって構成される「落下」としての移調/変調なのです。「落下」とは、綜合としての意識作用が再び感覚作用の物質性による混沌へと減じることでもあるわけです。その「落下」には加速が伴います。そのように、画く行為において、「感覚の作用は、或る水準から他の水準へと降下しながら、落下によって展開する」、というのです。画く行為のさなかに、力の歪曲する作用とその場は、物質性へと減じつつ加速度的力を伴う「落下」として捉えられるのです。それが、「落下がもつ特有の実在感、すなわち神経系への直接の働きかけ」なのです。さらに、「ベーコンの場合優先権は下降に与えられている。奇妙にも、能動的なものは、下降するもの、倒れるものである。能動的なもの、それは落下である。しかしそれは必ずしも空間における下降、拡張としての降下ではない。それは感覚作用の移行としての、感覚作用の内に含まれる水準の差異としての下降である」、といわれます。土方はまず「立たない」ところから踊りを始めたといいますが、そのからだは、こうした感覚作用の移行を抱えていたのではないでしょうか。
「落下」は、実際には、画く行為と画かれた形体との関わりにおいて経験されるでしょう。「強度の差異は落下において経験される」のです。いっぽう、画かれた形体、すなわちその形体化に「落下」が検証され得るでしょう。たとえば信仰は決して「落下」でありえませんが、宗教画を絵画として画くことは「落下」なのです。そこに画かれた形体が、画く行為の「落下」を証しているのです。
 こうした「落下」は、表現行為特有の実在感覚ではないでしょうか。表現行為、すなわち、表現の意図という抽象を表現対象として物質化するその行為は身体を基盤としています。身体を基盤にした表現行為が、抽象とその物質化のあいだを貫くのです。こうした事情を考えれば、表現行為一般は、その行為が感覚作用の物質性へと減算され、いっぽうで表現意図はその過程で加速を身につけるといった、「落下」の経験として捉えられるのではないでしょうか。ましてや表現する行為は、移調/変調するもの、揺れ動くものにつねに敏感に反応しているわけです。それゆえ、「落下」を通じて、画く行為のさなかの偶発性/可能性にいっきに侵入していくこともできるのです。たとえば、ベーコン画には、画布の上に塗られた絵具をタオルで拭い、その痕跡を残すという手法があります。セザンヌは、画く行為を、そのプロセスを、画布の上に残しましたが、セザンヌはその痕跡につねに不満であったようです。いっぽうのベーコン画には、それよりも露骨に画く行為がカンバスの上に残されているのです。この偶発性は「残る」というよりも、画く行為そのもの、その可能性を示していると考えることもできるでしょう。そして、そう捉えるところに、ドゥルーズが、「手覚」や眼の「触感的機能」といったものを提出する視点があるように思います。
 はたして、人類の絵画表現は手と眼の感覚の関係作用のうちに始まるといった履歴が再認識されるのです。ドゥルーズは、「デジタルなもの、触覚的なもの、手覚的なもの、触感的なもの」を区別しなければならないといいます。そこには、画く行為における、眼と手の従属関係が考えられています。
「デジタルなもの」は、眼に対する手の従属を示し、手は純粋に視覚的なもののためにしか介在しません。手が視覚に従属させられればさせられるほど、視覚は観念的な光覚的空間を展開し、光学的コードによって形態を捉えようとします。
「触覚的なもの」は、光覚的空間になお結びついている手覚的志向対象を提示する、そのような潜在的な志向対象を指し、たとえば、奥行き、輪郭、立体感などをいいます。
「手覚的なもの」は、眼に対する手の従属が弛むことで手の不服従が介在し、視覚に展開するものが、「形態なき空間」、「休息なき動勢」となるといったように、光覚的なものが解体されて、眼と手との逆転された関係にあるものをいいます。
「触感的なもの」は、眼と手の緊密な従属関係、弛緩した従属関係、潜在的結合関係等がもはや存在しなくなるが、視覚そのものがそれ自身固有で、それ自身にしか属さず、しかも光覚的機能とは区別される「触れる」機能を自らの内に見出すようになるものをいいます。そのとき画家は眼で画くが、それもただ眼で「触れる」といった風にして画くのです。この触感的機能は、古代エジプト芸術にその頂点があるといわれます。
 こうした眼と手の従属関係の逆転、ひいては眼の機能の触感化という変様は、視覚に手の運動機能が積極的に絡み合わせられることで、感覚作用に影響を及ぼすことを示しています。感覚作用に運動機能が絡み合うとは、感覚神経系が運動神経系と絡み合って作動する状態です。その結果、運動神経によって制作された対象は、そこに感覚神経の影が差すものとなって残るのです。要するに、表現行為(出来事)とはそういうことなのでしょう。そして、そうした両神経の絡み合いが、感覚作用に新たな方向を告げるのです。ドゥルーズは視覚の新たな方向を、「第三の眼の構成」、すなわち眼の触感的機能に求めています。たとえば眼の触感的機能、いわば運動神経系が絡み合うことによる感覚作用の変様が、カンバスの上に新たな形体、すなわち「第二の象形化」を生み出すことになるのです。その形体は感覚作用に貫かれ、絵画表現独特の明晰さを実現することになります。
「『(モデル)をありのままに捉え生け捕りにする』ように、われわれは事実を捉えるだろう。しかし、ことそのもの、手から生まれたあの絵画的こと、それは第三の眼の構成であり、触感的眼、眼の触感的視覚機能の生誕である。そしてまた、それこそがかの新たな明晰さである」。
 ドゥルーズは、手感覚と共に視覚をかなり広い意味で捉えていることは最初に述べましたが、その新たな触感的機能は、皮肉にもエジプト・レリーフを見ればかなり実感できるでしょう。

  形体をもたらすベーコン画上の「動き」
 感覚の実現に向かって画く行為を介して、ベーコン画がカンバス上にもたらそうとする「第二の象形化」をめぐる「動き」があります。ベーコン画は、見る者に感覚の実現へと誘い出すような「動き」をもっているのです。まず「動き」の要件として、ベーコン画における三つの要素があげられています。
 ベーコンは、自らの絵画に関して三つの基本的要素を区別しています。「まず空間性をもたらす物質的質料的構造としての大きな平面がある。次に形体、形体群があり、そしてそれら形体の行為がある。最後に舞台すなわち円形、競技場あるいは輪郭があり、これらが形体と平面との共通の境界をなす」。
 これらの要素は、ドゥルーズによって、構造(平面)、形体、輪郭として一般化されています。具体的には、抜群の透明感ある一色塗りの色彩あるいは暗色の背景(平面)があり、うごめくような色感をもった形体があり、両者を隔離し両者に注意を向けさせる輪郭があります。
 そして、「動き」は何よりも、「ベーコンの絵の、近視点の同一画面において背景として機能する平面と形態として機能する人体との、あの絶対的近接性、相互明確性」に関わっています。たとえば、透明感ある一色塗りの背景面があってうごめく色感をもった形体があり、うごめく色感をもった形体があって透明感ある一色塗りの背景面がある、という風に、両者の絶対的な近接があって、相互的に際立たせる「動き」が実感されるのです。
 その「動き」とはすなわち、「最初の動き(「緊張」)は構造から形体へと向かう。構造はその際に一種の平面として呈示されはするが、しかしそれは、例えば円筒のように、輪郭の周りを取り巻いてゆくだろう。輪郭はその際、一種の隔離するもの、円形、楕円形、鉄棒あるいは様々な鉄棒の全体として提示される。かくて形体は輪郭の中に隔離される。…そこで第二の動き、第二の緊張が、形体から物質的質料的構造へと向かって生じる。すなわち、輪郭が変化し、洗面台や雨傘の半球体となり、また鏡の厚みとなり、形を歪めるものとして作用する。人体は緊縮しあるいは膨張し、穴を通り抜けあるいは鏡の中へと入る。一連の叫ぶ歪曲において、人体は異常な<動物—生成>を経験する。そしてそれは、それ自身平面と再結合し、最後の微笑みを残しながら構造の内へと消散(散逸)してゆく」。
「動き」は、まず透明感ある一色塗りの背景面が形体を隔離する作用として、次に輪郭の変化が形体を歪曲する作用として、最後に形体が一色塗りの背景面の内に散逸する作用として取り出されています。それらは「見えない力」として、ベーコン画がそれを見る者のからだに働きかける力なのです。
 三つの力は、一色塗り平面から形体へ、形体から一色塗り平面への「動き」に対応していますが、それらは三段階として示されています。そして、それらの段階は一方向的ではありません。まず隔離→歪曲→散逸という方向があるわけですが、そこにはすぐに散逸→歪曲という方向の「二重の動勢」があり、その反復とそこに生じる差異がベーコン画を出来事成らしめているのです。反復と差異を生むこの「二重の動勢」は、ベーコン画を見る者に、各々の「象形化」を解体させ、「象形化」に留まることのないようにさせているのです。その「動勢」は、意図に貫かれた感覚作用の諸領野をカンバス上に残すといった意味で、「見えないものを見えるようにする」という、新たな「象形化」へと誘うことになるのです。
 そのような試みは、ベーコンが中世絵画から引き継いだ形式である三枚組画において、「動勢」に独特の次元が与えられることになります。三枚組画は、ベーコン画を見る者の感覚を、たとえば視覚の触感的機能、ひいては諸感覚の絡み合いを通じて変様させるでしょう。すなわち、「異なった力の作用の下で、異なった水準を経験することが感覚の作用に属している。しかしまた、二つの感覚の作用がそれぞれ或る水準、或る部位をもちながら、しかもそれぞれの水準を相互に通じさせることで、それら感覚が互いに向かい合うということも生じる。われわれはもはや単一な振動の領野にいるのではなく、共鳴の領野にいる。かくて絡み合わされた二つの形態が生じる。あるいはむしろ、諸感覚の絡み合いこそが決定的となる」。
 ベーコン画が、それを見る者の諸感覚の「共鳴する領野」によって体験され、その「動勢」が見る者のからだに働きかける様々な力から生じるかぎり、三枚組画は、まさに一つの「動勢」であるものの力の複合を示しているのです。「そこでは三枚組絵は、絡み合いを現象として引き継ぐこともできるが、しかし他の力を用いて作用し、他の動勢を誘発することもある。一方で構造や平面と再び再結合するのはもはや形体ではなく、単一色や強烈な光を与えられた一色塗りの平面に激しく投げ出されている形体間の関係である」。けれども、さらにそこには「動勢と力に関する第三の型」である分離作用が働きかけてきます。絵画における超越性ともいえるこの分離作用において、「隔離の力とは非常に異なった仕方で形体を捉えるという結果が生じる」、といいます。そこでは、形体と平面の関係に替わっていったんは光と色の統一が支配することになるのですが、「そこからまた形体は、光と色において、分離作用の頂点に到達する」、そういわれています。
 三枚組絵に働くこうした複合的な力の原理は、ある厖大な隔たりをそこに拡げてみせることになります。最終的に示されるのは、「時間はもはや身体の彩色の内には存在せず、単彩色の永遠の中に移行している。あらゆる事象を結合する巨大な時・空が存在するが、その結合はしかし、それら事象の間にサハラ砂漠のような隔たりを、アイオーンのような数世紀を導入することで初めて可能となる」、といった茫漠たる次元です。