Wednesday, December 18, 2013

土方巽研究二 <舞踏の表現形式について>

七. 「感覚の論理」


  2.「感覚の論理」と舞踏符の方法

 「白桃房」の表現
「白桃房」の舞台はたった三年の間に十六作品が制作されています。一つの作品の公演期間は平均して一周間前後であり、最後の「鯨線上の奥方」は二週間にわたって公演されました。アスベスト館の狭いスペースで観客人数が制限されたことから公演期間が長くなった点を考慮しても、この時期に土方が作品制作に集中していたのがよくわかります。これらの作品に土方は出演していませんが、作品の隅々にまでその神経を行き届かせています。それまでの自ら舞台に立った舞踏の表現とはうって変わって、土方にとってそれらは純然たる作品制作としての舞踏表現であったでしょう。「静かな家(1973)」に至るまでの公演を通じて、土方は舞踏符の技法を自身のからだにおいてかなりのレベルで把握していると考えられます。土方自身は「静かな家」のレベルにあるわけですが(「土方巽全集Ⅱ」所収〈「静かな家」ソロ覚書〉参照)、一転して作品制作という意図において踊り手を振付ける側に身を置き、自ら表現しようとするものを目の前のかたちにする作業に関わっているのです。それゆえ、「思考は起こり、あるいは自ら展開し、感覚はそこにある」といった、思考の動きと感覚作用とのずれが、眼と言葉とからだを駆使して踊り手を振付ける過程に、すなわち作品を制作する過程においてあったと思われます。そのずれはどのように扱われたのでしょうか。
 まず「白桃房」の舞台とその演出形式について簡単にみておきたいと思います。その舞台は、自前の劇場「アスベスト館」に設えられた、高さ七尺余、横四間の長方形に区切られた空間で、その周囲は暗幕で囲まれ、あまつさえ床面全域に黒色の布「地がすり」が張られていました。公演時には観客席にもいっさいの外光が入らないよう暗幕で封をされ、そのため、暗転時には真っ暗で自分の手さえ見えないほどの闇が出現するほどでした。公演開始と共に照明が差すと、舞台の輪郭があたかも闇の中から浮かび上がるようにして現れるのです。そして、奥行き二間ほどの舞台の奥にはいつ頃からか知れませんが、高さ十寸ほどの上がり台が設えられました。資料写真を見ると、一九七五年三月の「バッケ先生の恋人」の舞台にはすでにあるようです。またこれもいつからか知れませんが、舞台の上下両脇に、半間四方、高さ五寸ぐらいの踊り場が設えられるようになりました。
 舞台奥には背景画パネルが横四間にわたって並べられるようになり、照明の当たる角度、光線の広狭、光の強弱などによって各々の背景画は多彩な表情を浮かべ、舞台上に様々な空間を出現させていました。また暗転時にはパネルがすばやく入れ換えられ、見事な舞台転換をして見せました。さらに、暗転前の溶暗時には、調光の妙によって背景画とその前に立ちあるいは座る踊り手を周囲の闇へと散逸させる、絶妙な時間感覚をもたらしていました。
 踊り手は、色鮮やかな衣裳と凝った飾り物をつけて登場します。さらに、場面ごとに踊り手は衣裳と飾り物を替えて現れ、その際に背景画や音楽の転換と共に一瞬にして舞台の空気を換えてみせるのです。また舞台奥の上がり台上に数人の踊り手が列をなして登場し、その群舞は背景画と共に重層的な空間をつくりだすことになります。さらに、左右の踊り場で演じる場面ではそこだけ照明が当てられて、舞台空間に分離効果を与えていました。
 音響は様々なジャンルにおよび、その順列と繋がりが精妙に配慮されていたようです。百人ほど客が入れば肩を擦れ合うといった狭い空間に轟々と音響が鳴り響き、その音の充満は客席と舞台とを一体化させる効果をもたらしました。舞台と観客との距離は近く、観客は視覚と聴覚に訴える表現に包み込まれ、次々と展開する舞台空間をあたかも絵巻物がスクロールするのを見るかのように体験したわけです。土方は、踊りとその構成だけでなく、これら背景画、衣裳、照明、音響といったすべての舞台効果を自ら演出し、その表現を実現させていたのです。
 こうした観客の視覚と聴覚とを突出的に働かせる額縁的ともいえる舞台空間において、微細な表情変化やからだの細部の動きが特徴的な踊りが展開されたのです。その表現内容は、踊り手の動きによってもたらされる空間が重要視されたという点からすれば、いかにも絵画的です。たとえば、合田成男の「舞踏の動詞」(「現代詩手帖1985.5)によれば、踊り手による、「沈む」、「浮く」、「漂う」、「顕われる(現われる)」、「消える」といった表現によって、「暗黒舞踏の空間を押さえる」ことができるといいます。
「沈む」の表現は最初「長須鯨(1972)」に現われ、その「体位が決定的な意味を完成したのは白桃房活動の後半」(同上)であるといいます。「沈む」とは、たとえば蟹股の体位であり、具体的には膝を開き、腰をやや落とし、その結果、足の裏の外側で立つことで成り立つ空間提示をいいます。それは踊り手の下半身に不自然な負担がかかるという意味で、安定した体位ではありません。しかるに、そうした「沈む」の不安定な体位による空間提示があって、そこから反対効果として作用する、「沈みながら浮く」ことによる、「浮く」の空間提示があるのです。「浮く」の体位がもたらす浮遊感覚は、「白桃房」の舞台表現に独自の方向をもたらすことになりました。
「暗黒舞踏には左右への際立った動きがない。これまでに見受けられたのは<揺れる>ぐらいである。その振幅もごくわずかで、<立つ>のヴァリエーションのようにも思われるが、足の裏の支点を移動するという秘やかな作業は、肉体に意外な表情や空間にも変化をもたらす。当然のことながら、これらの表情や変化は、沈む、浮くの体位が守られ、不安定でありながら、最大の自由を肉体がもっているからだ」(同上)。「漂う」の動きは、こうした「浮遊する体位の優秀さを生かし、動きを拡大しようと意図しているかのように」(同上)現れてきたといいます。踊り手がもたらす浮遊感覚の拡がりは「白桃房」の舞台特有の表現となり、そこに潜む不安定さと自在性は舞踏独自の型として見出されたのでしょう。
「現われ」は、「すべての登場人物は一歩前に出るとき、その一歩に寸前までの時空間を持ち込んで来た」(同上)、その空間提示をいいます。踊り手の人物形体が前へ出る動きと共に、そこに時空間をも伴わせているのです。そして「消える」は、「顕われると対照して後退する意味」(同上)であり、踊り手の後退する動きと共に、その人物形体が存在する感覚を背後の空間へと散逸させることになります。こうした「現われ」と「消える」の空間提示には極めて絵画的な特徴があると思います。前提として踊り手の形体が空間に嵌め込まれていると考えられ、そのように踊り手の形体を嵌め込んだ空間を舞台という区切られた構造平面上に見立てて成り立つ表現があるからです。こうした見立てを基点として、舞踏の「動き」の軸となるものへと技術的に一歩進めることになったのが、「歩行」の表現であるように思います。この「歩行」は通常の意味での歩行ではありません。それは舞踏符として、いくつかの言葉によって条件づけされている「動き」です。たとえば、「寸法となって歩行する」、「歩くのではなく、移行する」、「見る速度より映る速度の方が迅い」「足裏にカミソリの刃」、「頭上の水盤」、「歩きたいという願いが先行して、形が後から追いすがる」、「すでに眼は見ることを止め、足は歩むことを止めるだろう、そこに在ることが歩む眼、歩む足となるだろう」、「歩みが途切れ途切れの不連続を要請し、空間の拡がりを促す」(以上、三上賀代「器としての身体」より)といった条件づけがなされています。これらの条件づけは、その内容を通じて感覚作用を介入させることで、結果的に踊り手の歩こうとする意識と歩く運動神経とを分離させることになります。その「歩く」動きには、周囲の空間と共に舞台の構造平面上に配置された人物形体の動きそのものによって、その動きと空間とを繋ごうとする働きが意図されているように思います。ここに「歩行」の発見があるだろうと考えます。舞台という構造平面に配置されて「歩行」の空間提示をする人物形体は、空間に嵌め込まれていながらもなお浮遊感をもたらしているのです。「歩行」が動きだからです。そして、動きでありながらも、踊り手の神経の運動軸よりも感覚軸により焦点が当てられているせいでそこに空間感覚がもたらされ、絵画的な効果をもたらす形体となっているわけです。舞台を見る者は、まず舞台という構造平面として区切られた空間に際立たせられた人物形体を見、その動きを感覚し、翻ってその動きによって際立たせられた周囲の空間を触感し、さらにまた人物形体の内なる空間を感じるといった触感的ともいえる視覚を介して、踊り手をめぐる舞台の動勢を経験することになるのです。その動きを注視するにつれておのずと反復と差異を生むこうした動勢は、舞台を見る者のからだに力となって働き、舞台上の人物形体の「象形化」を解体させ、「象形化」に留まることのないようにさせているわけです。
 そして、さらに特徴的なものに踊り手の表情があります。それは意図的に歪曲されています。その歪曲はあまりに強く、あたかもクローズ・アップのような効果をもたらしていますが、言い換えれば、そこには舞踏符の言葉によって踊り手に働く感覚作用が表情形体とせめぎ合う、そうした力の歪曲が作用する場が錐点となって噴き出しているように感じられます。こうした表現は近距離感をもった表現に可能なもので、絵画的と言えるでしょう。
「白桃房」の舞台において、<ひとがた>すなわち人物形体をめぐる土方独自の空間表現が完成されたのです。そこには、舞台平面というカンバスに踊り手を画材にして絵を描くように作品演出をする土方のすがたが浮かんできます。ただし、この演出家はこのとき自身のからだをカンバスとして絵を描く作業をも同時にしているのです。表現する者が自ら表現対象となり、振付ける者が作品の主体であるという点において、「白桃房」作品はそれ以前の土方の舞台表現と変わりはないと思われます。表現に際して感覚の実現は演出する側にあり、それを作品へと移し替える作業があることから作品すべてにわたって統御することになったのでしょうが、その移し替え作業にはかなり込み入った過程があると考えます。

 絵画と舞踏符
「私は、セザンヌというのはあるかないかのものをむしっている画家じゃないんで、あなた(対談相手の中西夏之)もよくご存知のとおり、まあ、光の本能をつくっているという自信をもっている。ゆえに、やたらに事実や、自分のモーションも含めて、そこに命名していくというタイプの画家だと思うのです。その命名行為というものは何かというと、今いるところが、とても今いるところから解釈が始まっているとは思えないものだから、どんどん描きかけ風の絵を送り出している、という画家だと思うんですよ」 (「土方巽全集Ⅱ」所収「白いテーブルクロスにふれて…」)
 これが、土方がセザンヌの絵を見る見方です。絵の内容を見るというよりも、あたかもカンバスに痕づけられている力の歪曲が作用する場から画家の感覚作用の移調/変調を嗅ぎ分け、画家がいったい何をしているのかを感覚しようとしているようです。土方は踊りをつくる際に、主に絵画を素材にして自身の踊りの骨格となる舞踏符—舞踏譜を編み出していきましたが、そこには土方が絵画に向けるこうした嗅覚ともいえる視線があるからでしょう。そしてさらに、こうした視線が、絵画に痕跡する力の歪曲、その源泉となる画家の感覚作用の移調/変調を、自らの表現としてからだに取り込むことのできる要因となっていったからではないかと思います。絵画を見るものは絵画に見られることになる。絵画を素材にする舞踏符の方法は、いわば見る者が見られる者となるような視線と共に展開されたのです。
 こうした視線の展開を孕む舞踏符の方法には際立った特徴があると思います。それは、事前的に踊りを振付ける側が踊りの対象となっているのであり、それゆえ、踊り手を振付けるその始まりにおいて振付ける側が踊りの主体となっているという点です。それゆえ、舞踏符の方法によって踊り手に移し替える作業があるわけですが、それは次のようなプロセスを踏んでいるでしょう。舞踏符を振付ける際には振付ける側にその素材に関する主客の逆転があり、そのため、いわゆる「肉体の闇」という、意識がからだに関わることで差異が展開される領域が際立っています。こうした「識別不可能な地帯」を自ら操作することにおいて、そのことは実際には、踊り手のからだを言葉と動きによって振付け、その応答としての踊り手の動きとその神経配列を見ることなのですが、そうした操作において、翻って振付ける側に何らかの論理が働くことになるのだと考えられます。いっぽう、踊りを振付けられる側にあっては、振付ける側の言葉を介してその「識別不可能な地帯」に関わろうとする感覚を働かせることになり、その感覚の作動としての神経配列、すなわちからだのアレンジメントとしての応答があるわけです。その際に、主客を逸脱するような感覚作用がからだの神経配列において何らかの力の歪曲として作用することになりますが、そのように力が作用する場が、マキュラーなあらわれとして踊り手の動きに伴うことになるのです。そのとき、振付ける側は、踊り手のからだにあらわれるものを自らの表現対象として採集するのです。踊り手のからだの神経配列もマキュラーなあらわれも見ることができるのは振付け側においてでしかありません。喩えていえば、この作業は踊り手のからだをカンバスにして絵を描く行為に通ずるのです。ただし、踊り手のからだに描かれるものは次々と流れ去り、そこには力の歪曲についての印象が残されるだけです。そこでは、踊り手が何を感覚しているかということなど微塵も見られることがないでしょう。
 土方はベーコンのいくつかの絵画から舞踏符をつくり出していますが、たとえば「ゴッホ図」を前にして、次のような言葉が抽出されています。
「觸()覚と粒子で出来ている人/枝が頭蓋にいっぱいつまっている/頭の小枝が折れる/コメカミから鳥が飛ぶ/のびる首/背すじをはう(背筋を這う)なめくじ/飛ぶバッタ/棒/ひまわり/額/足の裏の水たまり/空間の昆蟲()/ア()シュビッツのかまどで溶けたもの/青ざめる草」(「土方全集二」・〈舞踏のためのスクラップ・ブック集〉より)。  ()内は筆者補足。
 非現実的だが、いかにも即物的な感覚を伴う言葉が採集されています。この感覚は土方のものであり、こうした土方独自の感覚を伴う言葉が一転して踊り手を条件づけるわけです。すなわち、踊り手は与えられた感覚を条件づけとして自らのからだに課すことになるのです。それは、いわば捏造された感覚作用として働くわけですが、そうした蓋然的な感覚作用の働きによっても必然的にからだの神経配列は作動するのであり、結果的に踊り手のからだにも「識別不可能な地帯」を生み出すことになるのです。というよりは、偽の感覚作用であることで、かえって言葉が喚起するものが踊り手の何かしらの記憶作用をそこに介在させることになり、その「識別不可能な地帯」は生まれているのでしょう。そして、偽の感覚作用が連れ出すことになる誰のものとも知れない記憶をめぐる神経の働き、そうした働きが踊り手の形体およびその動きとせめぎ合うようにして、力の歪曲が作用する場となってからだに表出するわけです。その表出の一つ一つを、土方は採集するのです。
 ここには問題もあります。たとえば、「どうしても動きの展開がパターン化する。神経の様子さがそうなってゆくと、別種のボキャブラリーの対比でのみ括られてゆくおそれがある」、といった指摘が余白に書き留められています。それは舞踏符への踊り手の対応に原因するらしく、舞踏符の言葉が、踊り手の感覚作用によってそのつどそこに現前するからだの神経配列を作動させるはずなのが、おそらく踊り手が感覚作用が働く手順を省き、他の舞踏符の言葉との対比として扱う、すなわち形体なり動きなりの技巧として捉えがちになることによる、と考えられているのでしょう。土方はといえば、振付ける自身の記憶も含めて、感覚作用が連れ出す未規定な記憶をめぐって踊り手のからだにそのつど現われる微細な「物体の密度」に注目しているのであり、そのように変動し、変動するものの方向性を見定めようとして舞踏符の言葉を投げかけていると思われます。それゆえ、舞踏符を「短く」こなさなければいけないという注意書きがありますが、それは時間を短くするというよりも、個々の舞踏符にこだわることなく、舞踏符が連れ出す未規定な記憶が踊り手のからだに現すことになる「物体の密度」、すなわち神経配列の変動性を示すだけでいいということなのでしょう。こうしたことから、舞踏符が条件づけとして示す感覚作用は、踊り手のからだに現われ示されるものを求めるためにだけ働くのではないと考えられます。そこには変動というか、方向性というか、踊り手の未規定な記憶がかたちになろうとする、そうした志向的なものが求められているのであり、舞踏符による形式的条件づけにこだわらず、感覚作用はそうした意図において、振付ける側と踊り手の両者に一貫して働くのではないでしょうか。それが、舞踏符の方法における感覚作用の要件ではないかと考えます。
 こうした舞踏符における感覚作用の役割を前提として、土方が舞踏符を採集する様を検討してみることにします。まず「フランシス・ベーコン展」のカタログに付せられた「舞踏譜<ベーコン初稿>」と題された土方のメモをみてみましょう。おそらくベーコンの画を基にして弟子たちに稽古をつけながら書き留められたものと考えられ、それは舞台のための台本を用意するためというよりも、舞台の準備作業的な段階での覚書のようです。番号と共に、線で区切られた欄ごとに言葉が記されています。番号の周囲には赤字で、<人物>、<怪物>、<表情>、<肉塊>、<動物>などと、分類のためと思われる語が記されています。たとえば、
13大僧正 頭部を失い顔半分から下がしっ喰(漆喰)の状となる  僧衣のヒダ()
        鼻の上の振り子 <男の顔>―4.5の展開   ()内は筆者捕捉、以下同様
とあるわけですが、これは「頭部Ⅵ 1949」と題された、ベラスケスの「法王イノセント十世」の肖像画を基に画かれた作品を参照しているようです。ドゥルーズが言う「頭部の獣肉」は土方には「漆喰の状態」と感覚され、ドゥルーズの「遮蔽カーテン」の筆のタッチが「鼻の上の振り子」として触感され、「僧衣の襞」と共に注目されているのがわかります。また、
「                 牛の気化
17 肉塊 ベーコン的肉塊―ブレ(ぶれ)                     肉片
             あるく(歩く) 照準のブレタ(ぶれた)肉塊のプロセス 解剖
     向かって左の人物―顔から始まり背中へ 前身へ      ヒタイ()の輪 
         右の人物 足本()の粘土状のものから差し出す手      ←
                          ひく(引く)手の途中から顔へ↑」
とあります。
 参照されているベーコン画を特定できませんが、おそらく三枚組画に描かれた人物形体が、「照準のぶれた肉塊のプロセス」、すなわち力の歪曲の場を感覚させるプロセスとして捉えられているようです。左側の人物について、「顔から始まり背中へ 前身へ」と記されているように、力の歪曲が顔に源を発して、背中へ、前身部へと渦巻くようにして溶けていくプロセスがからだで辿られようとしています。ちなみに「牛の気化」とは、「牛」という、牛の力強い歩みを摸した舞踏符があり、なおかつ動物特有の濡れた肌をもった肉塊を表しています。「気化」とはおそらく、そうした肉塊としての輪郭を解くことにあるのでしょう。土方はベーコン画の人物形体の肉塊を、その輪郭を解いて見ているのであり、むしろ肉塊における力の歪曲を見ているのでしょう。こうした力の歪曲は、「寝ポーズ 44 顔の部分の溶けかかりを展げら()るからだ、注射」、においても注目されています。この覚書は、「皮下注射器のある横たわる人物 1963」を参照にしていると思われますが、「寝ポーズ」、すなわち横たわる体位として分類され、顔の部分に孕む力の歪曲が展開されてからだとなっている、といった内容の条件が指示されているわけです。そうした条件づけでさらに、伸ばした腕に注射器が射されているのが感覚されるのです。この「寝ポーズ」については、「ポーズ発展 28 溶けた粘土状の理解で、その溶け方の顔の部分 挙げ 上げられるもも()と足の部分 女寝ポーズ フラマン 解剖」、という覚書がそれ以前にあり、物語性の濃い「フラマン」の踊りを感覚的に補完するものとなっているようです。
21動物      木の上 ベーコン的な状況の設定    文
        頭部をはっきり捉えアゴのあたりから先―腰のあたりから羽化
        吠える
 (ムンクの少女に叫びがある、吠えるものと叫ぶものとを統一してみる必要がる)(「狒狒のエチュード 1953」より)
「叫び」はドゥルーズが示しているように、ベーコン画の本質であると考えられますが、ベーコン初期の動物画に、土方は「吠える」と「叫び」を綜合させて、「ベーコン的な状況」として、ベーコン画における感覚作用の変調/移調に触れようとしていると思われます。「叫び」自体は感覚作用であるよりも、その表現にはむしろ感覚作用の変調/移調を示唆する力の歪曲が現れているわけです。
「 カミソリ          鏡に映った人物への移体 
  新聞            新聞をみているうちに日がかげった
                立っている脚から背中へ―新聞へ」(「男の背中の三枚のエチュード 1970」より)
 画の物語性を読み取ろうとしているようですが、そうではないでしょう。「鏡に映った人物への移体」、「新聞をみているうちに日がかげった」、「立っている脚から背中へ―新聞へ」といった言葉のうちには、明らかに感覚作用の移動があるからです。
 さて、「ベーコン初稿 3」のノートの余白に、「動きによって記録されたものの方が重要であり、結局同じことになるであろう、それは始めからわかっていることでもあることの意で考察せよ」、と注意書きされています。ちなみに、この「ベーコン初稿」ノートにはまだ既定の舞踏符の引用が見られないことから、それは舞踏符の方法を確立しようとする時期の舞台、おそらく「四季のための二十七晩(1972)」を用意する作業ではないかと考えられます。当時は舞踏符の方法の試行錯誤の時期にあり、絵画を前にして感覚されるものと、それを実際にからだで模写した神経配列とのあいだにずれが見られたのではないかと思われます。感覚にこだわらない「動き」の方が重視されていたようです。大舞台での舞踏作品を制作するにあたって、ある程度の動きが必要とされていたからではないでしょうか。いっぽうで、この時期の土方の踊りは極端に動きの少ないものとなっています。人の動き一般には、感覚作用がその裏に貼り付くようにして作動しています。言い換えれば、或る感覚作用は、微細なものであるけれども何かしらの動きを生み出しているのです。そして、その動きにはそれ固有の視線があり、その視線は自己に向かう観察/評価をも含んでいます。こう考えるとすれば、かりに感覚作用を主体にした動きとその評価とのやりとりを自身に課した踊りをするとすれば、それは極めて動きの少ないものとなるでしょう。
 総じて「ベーコン初稿」ノートでは、<表情>が<人物>形体から分離して扱われているのがわかります。<表情>は力の歪曲が作用する場として捉えられ、そこからからだへと展開する流れの源泉として採集されているようですが、<人物>形体は、どちらかといえば感覚作用を設定するための用例として採集されているようです。また人物形体としての<肉塊>への注目があり、ことに<肉塊>における感覚作用の移動が取り上げられています。さらに画における感覚作用の移調/変調へ、<動物>において接近を図る、といった特徴がみてとれます。
 絵画から抽出されてノートに覚書された感覚作用のその内容が踊り手の表現となって現われる、そうしたものが採集されるのではありません。振付ける側は、感覚作用のその内容にではなく、感覚作用が連れ出してくる潜在的なものに注目しているからです。感覚作用が捏造されることでかえって記憶として連れ出されてくるものがあります。感覚が外部世界との「接触」ではなく、内部作用として働くことによるその空回りを埋めるような現象があるのでしょう。こうした誰のものとも知れない記憶は明確なかたちをとることがありません。そのとき、土方がその「識別不可能な地帯」に見ようとするのは、力の歪曲や歪曲が作用する場をもたらす感覚作用の変調/移調も含めた、踊り手のからだに感触される潜在的な能力の様々な水準といったものでしょう。「感覚の論理」によれば、それら潜在的な能力の水準は、そこに表象されるものとは独立して他の水準へと通じる流れをもつのであり、感覚に付随して感受されはするものの表象されることのない力、そうした力の流れが実在感覚として私たちのからだに際立つことになります。そうしたことからすれば、踊り手の感覚作用のその内容はからだの神経配列を介して未規定な記憶としての力の流れに取って代わられ、おそらく踊り手のからだにはそうした力の流れが孕む志向性といったものが示されるだけなのです。こうした、からだに感触される潜在的な能力に相対するとき、「可視的身体が一個の闘士として不可視の潜勢力に立ち向かうとき、身体はそれら不可視の力に自らの可視性以外の可視性を与えることはできない。そしてまさにこうした可視性そのものにおいて身体は積極的に闘うのであり…」とドゥルーズが言うような、身体による闘いがあるはずなのです。土方のからだが潜在的なものに関わろうとするとき、「不可視の力に自らの可視性以外の可視性を与えることはできない」ところにとどまり、そこに変動するものをみてとるような闘い方があるのだと思われます。その変動するものが目に見える動きを生むと共に、誰のものとも知れぬ記憶がかたちになろうとする力の流れとして触感されるのです。こうして、舞踏符の方法において、感覚作用が「識別不可能な地帯」として連れ出してくる誰のものでもない記憶にその焦点が定められることになるのだと考えます。
 こうした過程をめぐって、ベーコン画の「自転車に乗るジョルジュ・ダイヤーの肖像画 1966」にも関連づけられている「飴とは何か」という問いを検討してみたいと思います。この問いは、「四季のための二十七晩」の一演目である「なだれ飴」の頃から考察されてきた、土方にとって重要な問いです。「自転車に乗るジョルジュ・ダイヤーの肖像画」は、飴のように溶けかかった人物形体を示しています。画の背景を指して、輪郭を解く意味と思われる「気化」という覚書があります。その余白には、「ベッコー飴—女 平らな鳥」と記されています。飴とは鼈甲飴であり、その溶ける形体をめぐって少年時の記憶が問われているのでしょう。というのも、「飴」について、「病める舞姫」の中で次のように語られているからです。場面はもう秋も深まった頃です。
「そばに薄青い煎餅の顔をした女の人がすまなそうに動いていた。性病でも煩った男か、鵞鳥のように足をもつれさせて裏口から出ていく。こういう人達は私の頭のなかに逃げていったきり、長いこと捕まらなかったが、いま黄色い紐のようなものにするするっとひきずられて、頭のなかから出てきた。ところがこの人物達はすぐに眼の前でとろけていって、そこに待ち伏せしていたような昔ふうの風に冷やかされてしまった。私の記憶のなかに少々空洞のできた部分もあるが、こんな疾病めいた記憶や混乱を大ざっぱに練り上げて、いろんな鼈甲飴のようなものを作り上げることが私にはできる。犬の遠吠え飴、移り気飴、めっかち飴、丙の字飴、焼飴、腹話術飴、金盥飴、また何かしらの限界飴と、まあこういうところだ」。
「ベーコン初稿」ノートには、「肉体の輪郭を失いつつ」、「上半身のとろけるプロセス」、「内蔵の骨格」、「ぶれた肉塊」、「ぶれた犬」、「ぶれた表情」、「ゼリー状」など、ベーコン画の形体をめぐって、その溶けかかったからだに注目する言葉が頻出しますが、こうしたベーコン画の形体に痕づけられている力の歪曲の場を採集する作業と、少年時の記憶がかたちになった途端に変動するといった現象に関わる作業とを重ね合わせることができるでしょう。未規定な記憶がかたちになったと思った途端に目の前でくずれてしまうのは、冷えれば固まり温められればとろける飴に似ているからです。要するに、現在の土方が少年時の未規定な記憶を扱おうとするときに、そこに否応なく働く力が見定められようとしているのです。それは、「不可視の力に自らの可視性以外の可視性を与えることはできない」ことに直面し、新たな方法を模索している土方の闘いなのです。
 いっぽう、「飴」に対する別種の扱い方も同じ景の後の部分で語られています。
「もがいている私の口の端に大好物の黒飴が一度に三つ、四つもねじ込まれていた。私はこういう飴を愛していた。こんな飴に助けられているようなところがあったのだ。ねじ込んだその人は、まるで変な片付け物を後ろに置いていくように私の前をスタスタとすました顔で歩いていった。ひらっとしたり、さっと薄暗くなったりする身ごなしの人のからだが残していった跡が、私をくすぐったり、つねったりしながら私の冥いからだにひっついてしまっているようだ。あの頃見たさまざまな黄色い神経も、生菓子の霞ませかたも、道端で遊んでいたふらふらした縄も、どこかしら気の毒ないろいろな目に会っていた。しかしみんな鼈甲飴に吸いついていって、今はもう誰も訪れてくれなくてもいいと言いたげな幸福な飴色に溶けかかっている。だが、ゆらゆら水汲みをやりながら私が啜っていた黒飴と刺し違えるような心象の刃物は、この話のなかに含まれていない」。
 ここでは「いろんな鼈甲飴のようなもの」というのではもはやなく、「幸福な飴色」としての「鼈甲飴」が特定されています。この「鼈甲飴」は、土方にとって少年期の記憶としてからだというカンバスに事前するものなのでしょう。それは明確なものではない。それは未規定なものであり、むしろ未規定であるがゆえに感覚的なものとして喚起され続けているのだと考えられます。そして土方にとって、この「幸福な飴色」の感覚を喚起する絵画が、ターナーのそれなのです。
 光と色彩と空気の画家、ターナー。ジョウゼフ・MW・ターナーの絵画には様々な面があります。「対象を欠く純粋な力、荒れ狂う波、噴出する水や蒸気、台風の眼」、といったスペクタクル性のある絵画があるいっぽうで、「ターナーの後期の水彩画は、すでに印象主義のあらゆる力を我が物としているだけではなく、輪郭を形成しない爆発的な線の潜在力獲得している。そしてその線が絵画そのものを並びない破局としている」(「感覚の論理」)
 ターナーの絵画には、眼がもつ光覚的機能を逸脱させるような光の空間が広がり、見る者をカンバスの奥へと連れて行こうとするのです。いっぽう、人物形体は遠景にあって、スペクタクルのうちに包み込まれているようです。
「なだれ飴」の舞台に、土方はターナーの絵画を用意しています。「なだれ飴」のためのスクラップには、「鏡のまえの女 1830」、「光と色彩—洪水の翌朝 1843」、「影と闇—洪水の日の夕べ 1843」、といった絵画があり、ことにあとの二つの絵画については光に関する短い覚書がいくつも記されています。さらに、ターナーの絵画は、「白桃房」の舞台においても用意されました。「白桃房」作品のためと考えられる「舞踏に関する覚書」(「土方巽全集Ⅱ」所収)に稽古ノートの一部が掲載されていますが、そこに「ターナーの光」という項目がみえます。その中の「ターナーの世界で仕上げられるもの」という覚書は、ターナーの光の中において初めて仕上げられる人物形体のことを指しているのでしょう。そうした形体は、その後の「光の壁に塗り込められた狐の深淵図」と、より明細化、もしくは歪曲されていったようです。さらに「剥製と光」、「光の壁・光の虹」、「光と仮面」、「山羊と光」、「ベッコウ飴の材質、ベッコウ飴の種類」、といった覚書がみえます。次に「ターナー」という項目がありますが、「膿の山羊」、「光の壁」、「光の渦」、「ベッコウ飴の中から出て来る人物は即ちターナーの世界に入る」、「ベッコウ飴の震度」、「いろいろなベッコウ飴が出来上がる その光の肉より」、と書き留められています。さらに、覚書の中の「光の壁」の語が一項目となって、「<光の壁に塗り込められる>深淵」、「濃い光の壁が旋回し、ずるずると光の渦になだれ入る」。「鼈甲飴のにぶい光」、「嵐の去った跡は鼈甲飴かもしれない」(「光と色彩—洪水の翌朝」の絵のことか)、などと、動きがそこに今しも生まれるような覚書がされています。一通り見ると、前半の「ターナーの光」が、言葉として「ベッコウ飴」に入れ替わっているのがみてとれます。それは、絵画に未規定な記憶を重ねながら見る土方独自の視線が、逆に絵画を感覚作用としてからだに取り込む仕方を示しているように思います。
 採集された言葉のなかでことに「膿の山羊」に関していえば、たとえば「白桃房」作品の舞台美術を担当した吉江庄蔵が次のように語っています。「ジョゼフ・ターナーの<海の息吹>や<岸辺に近づくヨット>の絵のそばには、<膿>、<皮膚>、<原爆>などと記されて、『海は時化るんですね!』、『傷が化膿して膿が出るでしょう。痒いでしょう。掻くでしょう、また膿むでしょう。掻きむしるんですね、体中の光に向かって…』などと、ターナーが決して覗くことのなかった世界に降りていって、もうひとつの体に潜む闇の言葉を採集するという具合だった」(「土方巽の舞踏」所収「美術家が見た土方巽」)
 ターナーの絵画の光を前にして、土方には(飴色をした)膿が感覚されているのです。少年期の未規定な記憶が、「ターナーの光」が感覚されると共に現前的なものとなって連れ出されてくるからです。そのとき、「ターナーの光」と飴色をした「膿」の記憶は、土方に感覚作用の移調/変調を起こして、「体中の光に向かって…」作動するのです。そこには、「感覚の作用は、或る水準から他の水準へと降下しながら、落下によって展開する」といった、からだのめくるめくような感覚が吐露されているのがわかります。ターナーの絵画が孕む空間は単なる空間ではありません。その空間は、色彩によって描かれた光と空気が視覚に触感される空間なのです。カンバスの表面にあってなお内部から照らし出すものを目が触感する空間なのです。土方にあっては、その表面から内部へと向かおうとする触感的視覚がカンバスの平面をさまようといった、その無限的ともいえる感覚作用が、「飴」よりもいっそうからだに関わる「膿」への移調/変調をもたらしているのでしょう。
 こうしたところに舞踏符が生まれてくるのであれば、はたして個々の舞踏符がからだで習熟される仕方は、「膿が出るでしょう。痒いでしょう。掻くでしょう、また膿むでしょう。掻きむしるんですね、体中の光に向かって…」という言い方に示されるような、切羽詰まったものなのではないでしょうか。その切迫性は感覚作用の変調/移調と共にあり、そうしたからだの切迫性における感覚作用の優位にこそ舞踏符の方法は注意を向けているのです。そうであれば、舞踏符の論理的展開、すなわち舞踏譜は、感覚作用が連れ出す未規定な記憶によって方向づけられるからだの態勢に深く関わろうとするものなのです。そこに舞踏の個々の動きが生まれるのでしょう。したがって、こうした関わり方は、振付ける側の未規定な記憶が舞踏符を介して自らと同時に踊り手のからだにおいてもかたちになろうとするといった過程を抱え込んでいく、そうした手法でもあると思われます。切迫性をもったその過程において、振付ける側と踊り手の両者の間に交わされるという仕方でからだに感触される潜在的な能力が働くと推測されるのですが、そうした能力、すなわちからだに実感される力の流れは、「不可視の力に自らの可視性以外の可視性を与えることはできない」という闘いの条件からすれば、実際にはからだの神経配列とその変動、その変動の行方を見つめる態勢として互いに見定められようとする、と考えられるわけです。とはいえ、こうしたものを見つめる視線は可視的なものを見る通常の視線ではありえません。神経配列の変動のようなものに向けられる視線とは、むしろ「舞踏の主観性」にみられるような「裏返し」の論理をその本質としているでしょう。それは「物質の密度」から見るような視線として想定できるかもしれません。それは視る行為であり、感覚作用の物質性による混沌へと減じるような「落下」なのです。

 感覚作用に欠けた舞踏の動きは技巧にすぎないでしょう。そうした動きは定型化するのです。土方は、こうした「動きの展開がパターン化する」問題への対処として、複数の舞踏符を重ねて同時に行なうという手法を試みています。たとえば或る舞踏符の何%に別の舞踏符を何%加えてといった具合に、舞踏符をブレンドするのです。こうして、舞踏符の言葉による指示を複合的で微細なものにすることで、おそらく舞踏符が踊り手に課す感覚作用を微細な力の流れとしていっきに取り出し、そうすることで踊り手の動きにおける「物体の密度」、その変動をつねに実現させようとしたのではないかと考えられます。そして、そうした複合的な舞踏符の一つ一つにも名前がつけられていきました。こうした舞踏符の方法は、「今いるところが、とても今いるところから解釈が始まっているとは思えないものだから、どんどん描きかけ風の絵を送り出している」といった土方の視点からすれば、セザンヌの表現を習っているのでしょう。その土台には、人は未規定な記憶の分岐を経験しながら現在を生きている、という考え方があるようです。

 絡み合う神経系
 ここまで舞踏符の言葉に込められた感覚作用を強調してきたわけですが、それは「感覚の論理」にならって、感覚作用がもたらす力の流れに焦点を当てようとしてきたからです。いっぽう、舞踏符には動きの指示があります。かたちや動きの指示と感覚作用を指示する言葉があって、一つの舞踏符となっているわけです。ただし、これまで見てきたように、動きは感覚作用に支えられるようにして舞踏の動きとなっているのです。感覚作用によって動きは力の歪曲を孕み、人物形体とその周囲に舞踏特有の空間感覚をもたらすことになるからです。しかし、舞踏の動きを独自なものにしているのが感覚作用であるとはいえ、当然ながら動きがあって舞踏の表現となり得るわけです。したがって、動きと感覚作用とを分けて考えることはそもそもできないのであり、それゆえ、動きだけを取り出して舞踏の表現を評価することもまたできないのにちがいありません。
 また、こうも言えます。「第二のからだの神経配列化」は、感覚作用を土台にした力の要因があって実現されると考えられますが、その表面としての動きには、舞踏符が指示する感覚作用の内容のいっさいが消えているわけです。「歩行」の例を見れば分かるように、その動きを見る者はいくつかある条件付けを想像さえできないのです。感覚作用は力として動きにもたらされ、感覚作用のその内容が表面としての動きとして現れることがないからです。舞踏符が指示する感覚作用の具体的な内容が動きに直接的に反映されないのはそのためです。言い換えれば、感覚作用が触媒となって連れ出されてくるものが動きに関わることになるのです。
 そこで、動きとは運動神経の働きであり、感覚作用は感覚神経の働きであるというように、動きと感覚作用とを共に神経の働きへと還元するならば、問題は解消されるでしょう。そして、動きと感覚作用はそれ自体として取り出せないのですから、運動神経の働きと感覚神経の働きとは絡み合っているのです。こうして、舞踏符がもたらすからだの神経配列は、運動神経系に感覚神経系が絡み合ってもたらされていると考えることができるわけです。むろん神経の働きとはいえ、運動機能と感覚機能は異なる相として働くのですから、感覚神経系が運動神経系と絡み合って作動するいくつかの局面について検討する余地があるでしょう。そしてまた、そこに未規定な記憶という異なる相がどうして連れ出されてくるのかという現象についても考えてみる必要があります。
 私たちの神経系は自律神経も含めて多様であり、意識が関与できない働きがほとんどです。また性的な衝動を軸にした神経系の働きがあり、それが動物的な生と死の本能を司っているのをみても私たちの神経系は多層であり、その働きを容易に統御することができません。とはいえ、そうした多様で多層な神経系の働きが抱握する広がりは、自己が構成される以前の神経の働きに通じているのではないでしょうか。自己が構成される限りにおいて、自己が編成する記憶は自己の構成をかえって強化するといったサイバネスティックなシステムがあります。そうした意味で、自己は自らを構成する以前と構成以後とを分ける一つの境界として働くのです。舞踏符が意図する運動神経系と感覚神経系との絡み合いにおいて、自己という境界が記憶をめぐる指標としてつねに見定められることになりますが、その境界を突破することができるものとして、感覚の通常的ではない作動が舞踏符の方法に用いられているのではないか、そう考えることができます。感覚作用の変調/移調は有機体としての生を逸脱しようとする「器官なき身体」に起こり、そうしたからだにおいて感覚作用の実現としての力の流れがもたらされるといわれます。とはいえ、「器官なき身体」でなくとも、自己の構成が曖昧な幼年時代には外部と内部とのフィードバック現象が神経系において機能し、たとえば外部を内部に取り込み、内部を外部に投じるといったような感覚神経が頻繁に働いていると考えられます。こうしたことの例は土方の話しぶりからいくらでもあげることができます。そこに働く感覚神経は有機体としての生を半ば逸脱しているのです。ある程度の自己が構成されるときに外部へとフィードバックしない機能が確立するのであり、土方の「少年」機能は、神経系におけるこうした個体と外部世界とのフィードバック機能の回復にあるのではないかと思うのです。そこには自己の境界を突破し、空間的にも時間的にも自己以前の広がり(「死者」)へと通ずるような未規定な記憶と共に、感覚作用の実現としての力の流れが経験されようとしているのではないでしょうか。また、こうした有機体としての生の逸脱は、人が老いると共にその隙を窺うようにして記憶に関わってくることにもなります。感覚作用における「物体の密度」的状態を足場にして、そうした分子密度の状態から任意に結合して記憶は連れ出され、また離散して消えるようになるのです。主体の意図とは関係なしに生じては消えるといった波のような力の流れを、いつしか人は感じ取るようになるのです。
 さて、すでに述べたように、舞踏符の方法において、運動神経系を軸にした動きに感覚神経系を軸にした感覚作用を絡み合わせるようにして、踊り手のからだに舞踏特有の神経配列がもたらされることになります。絡み合う神経の働きなしに舞踏符はないのです。その際に、感覚神経は自己の構成を逸脱させるような働きをするのです。そのことが運動神経に未規定な記憶を反映させ、そこに力の歪曲を生む条件となるのでしょう。こうした観点から、「感覚の論理」の最終章「眼と手」にならって、運動神経と感覚神経との力関係を念頭におくことで、すでに見てきたからだにおける諸能力をその局面において区別することができるでしょう。それらは、「動き」、「からだの神経配列/アレンジメント」、「力の歪曲」、そして次元は異なりますが、「感覚作用の変調/移調」です。これらの局面は、いっぽうの極に運動神経を主にした働きがあり、そして運動神経系と感覚神経系が絡み合うようにして生じる局面がどちらかの優位性によって異なる局面としてもたらされ、さらに感覚神経が主として働く局面としての「感覚作用の変調/移調」がある、というふうになります。
 まず「動き」は目に見えるものであり、それは主として運動神経の働きによってもたらされます。その働きは反復可能であり、反復によって目的に適った「動き」を実現することができるのです。そのように運動神経の働きを反復させること、すなわち訓練は、記憶作用が関わらなくともつねに目的に適った「動き」を実現しようとするためになされるわけです。目的に適った「動き」とは、感覚作用が影響するに及んでも差異を孕む余地のない「動き」です。
 運動神経系に感覚神経系が絡み合うことで、からだにそれ特有の「神経配列/アレンジメント」が構成されることになります。それは「動き」のように具体的に目に見えるのではなく、人物形体やその「動き」と共にその内部に作動する神経の配列として感じられるのです。その絡み合いにおいて、運動神経系が優位にある神経配列と、感覚神経系が優位にある神経配列とがあることになります。どちらの場合にも、感覚作用が作動することによるマキュラーなあらわれが、人物形体や「動き」の表面に付随しています。感覚神経の働きが絡み合うことで運動神経の働きが差異を孕み、その反復を避けるからだと思われます。「からだの神経配列」は、そうしたマキュラーなあらわれから感じることができるのです。
「力の歪曲」は目に見えるというよりも、目に触感されるでしょう。それは両神経系が絡み合う「神経配列」に未規定な記憶が連れ出されるからだにおいて作用するわけですが、そのことによって感覚神経の働きが加速化し、感覚作用の強度として触感されるものです。この「力の歪曲」は、「変形でも分解でもなく、力の作用する場」としてあるわけですが、舞踏の表現における「第二の神経配列化」は、この「力の作用する場」を浮き彫りにしようとするのです。
「感覚作用の変調/移調」を目で見ることはできません。それは感覚作用の通常的ではない働きが感覚神経系に働きかけるその状態を指し、主として感覚神経が作動する局面であると考えられます。そうした局面は人物形体や「動き」に「力の歪曲」が作用する場をもたらすのであり、いっぽう、踊り手においては、力の流れとして経験されているでしょう。
 当然、純粋な「動き」がないのと同様に、純粋な「感覚作用の変調/移調」もありません。これら四つの局面は舞踏符を基にして重層的に働き、その一つの局面だけに収束することはないのです。これら四つの局面が絡み合いながら多様に作動し、神経系の多層な働きへと接近する表現を生み出すことになるわけです。ことに舞踏符による捏造された感覚作用が進入することで未規定な記憶が連れ出される余地が生まれ、その潜在的な能力が運動神経系に反映されるとき、からだに力の作用する場が生じることになるでしょう。そして、そうした力の作用する場が、からだに表面効果を生むのです。絵画において、「動勢は一種の表面効果であり、その効果は、その動勢を生み出す独自の力を示唆すると同時に、この力の下で分解され再構成される多様な諸構成要素をも示唆する」ように、マキュラーなあらわれも一種の表面効果ですが、その効果は、そのあらわれを生み出す感覚作用の力を示唆すると共に、この感覚作用の下で変動する未規定なものをも示唆するものなのです。またそのようにして、「神経配列」も「動き」に付随して、「動き」のうちにあるものを示しているわけです。さらに「力の歪曲」は、「動き」に付随する「神経配列」が「動き」とせめぎ合うところにおいて力の作用する場として感じられることになります。そうした「力の歪曲」を孕んだ「動き」は、人物形体が嵌め込まれた空間に時空の広がりをもたらすことになるでしょう。「感覚作用の変調/移調」は、こうした力の作用する場を提供する力の流れです。その力の流れに関わることが、舞踏の「行為・出来事」であるといってもいいでしょう。
 こうして、舞踏符が意図する運動神経系と感覚神経系との絡み合いにおいて、感覚神経は運動神経に直接的に力の影響を与えることはないけれども、その働きは人物形体や「動き」において内部から差異を紡ぎ出す、といった表現方法が確立されたわけです。言ってみれば、感覚神経は人物形体や「動き」の表面に差異の影を差すのです。踊りを見る者は、そこに大きな違いがあらわれるのを見ることになります。

 アスベスト館での作品制作を外部的な圧力で終了せざるをえなくなった後、土方はいっときアスベスト館を出て、三百人劇場で弟子たちの舞台を演出しています。その前年には、第一生命ホールで大野一雄の「ラ・アルヘンチーナ頌(1977)」を演出しています。その後、プランBでの「景色へ一瓲の髪型(1983)」があり、ふたたびアスベスト館に戻って製作された、どちらかといえば抽象的な内容の作品等があります。こうした経過には、いっぽうに、「白桃房」の絵画的な舞台を脱して、踊り手の「動き」がもたらすものが舞台という構造平面の枠から外へと拡張されようとする表現と、他方に、「白桃房」の濃密な空間を白紙に戻し、踊り手の「動き」のうちに力の歪曲とその散逸を示そうとする表現といった、二つの方向性が見てとれると思います。その二つの方向性からは、舞踏の絵画的表現から脱するという土方の意図が感じられます。
 一つの方向を示すものとして、三百人劇場での公演があります。三百人劇場の舞台はアスベスト館の舞台よりも高さ幅共に二倍の広さがあります。仁村桃子の「最初の花(1978)」の公演では、舞台奥全面にパネルが二段組で立てられ、それを背景にして踊り手はほとんど立ち姿で踊ったと記憶しています。それは、踊り手が額縁の中から外へと抜け出そうと試みるかのような、息を潜めつつ静かに燃焼するような踊りで構成された舞台でした。「最初の花」の舞台について、芦川羊子は次のような評価をしています。「いままで、わたしの踊りなんかでも、一つの表情が、あるはっきりとした形をもって、それがお客さんに伝える手がかりになったりしましたでしょう。そうじゃなくて、その裏に、踊り手がドラマの中に投げ込まれている感情として刻々に変わっていくものが、大きな舞台という衣装の中に一枚一枚あらわれてくるような、動きを包むドラマが、彼女(仁村桃子)の舞台にも感じられて、わたしの舞台もそうありたいと望みましたね。だから、彼女の動きは確かに何かに遭遇しているというふうに感じました。今回の彼女の舞台は、先生としてもかけがあったと思うし、そのかけが成功したことを見ていて、わたしはすごくうれしかったです」(「新劇・1978 12)
 形体から動きへという移行を見つめる視線が明確に示されていますが、「動きは確かに何かに遭遇している」と語られているその「動き」に注目したいと思います。「動き」が遭遇するものをここではっきりさせることはできませんが、おそらく、踊り手の「動き」が土方の操作から離れて、踊り手個人のものとなっているということが指摘されているのではないかと思います。踊り手は、その「動き」がもたらす周囲の空間を舞台という構造平面に閉じ込めることなく、自らの存在を独自に主張しようとするのです。 
 もう一つの方向を示す表現として、土方が数年ぶりに芦川羊子を振付けた「景色へ一瓲の髪型」の舞台があります。その表現では、「白桃房」の舞台形式、その絵画的な様式はいっきに反転された感があります。感覚神経の働きを核とした絵画的表現である「鯨線上の奥方」を裏返すと、「景色へ一瓲の髪型」の表現となるのではないでしょうか。舞台の構造を強く打ち出していた背景は取り去られ、舞台には人物形体の動きだけがあり、その人物形体の動きの内にすべてが封じ込まれる。すべて動勢は人物形体に収束され、なおかつ人物形体において散逸するという回路が提出されたのです。さらに、舞踏符の言葉がプロンプターによって踊り手の要求に応じて逐次大声で与えられ、そのため、踊り手の切迫と変動が裸になって現われている。そこには、舞踏符から舞踏譜へと構成される連続性があちこちで断ち切られ、潜在するものの真の連続性を見出そうとする作業があるようにみえました。その結果、舞台上には、茫漠たるものを抱える人物形体が出現したのです。
 その後、額縁を脱しながらもなおかつすべての力の流れが人物形体の内部に収束し散逸するといった、二つの方向性を共に適えるような表現はついに実現しなかったようですが、ここで述べた舞踏をめぐる「感覚の論理」についていえば、舞踏符の方法があるかぎり、それは実現するだろうと考えます。
                         (「舞踏の表現形式について」了)