Sunday, February 17, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


     Lahoreの友人

 一 Rana Sahab 

 夜の闇から闇に濡れたようになって一人の男が現れた。泥酔していた。そのからだは漆黒の闇の中を泳いで来たかのように全身闇の粒子に濡れている。その闇の感触がいま、私が想起する時間の感覚をねばつかせるようにして迫ってくる。
 詩人のHabib Jalibが目の前に現われたその泥酔状態を想うとき、あたかもそのとき自分も泥酔していたような錯覚に陥ってしまう。想起する光景が、その光景を想うときの感覚構成が、泥酔状態の神経において立ち現われるかのようだ。その夜、Habib Jalibが闇の中からぬっと現われた。すると、その光景が泥酔状態の感覚を伴っているかのように非時間的に構成されていく。それから次第に何かしら時間のうちにねばついていくような感覚へと切り開かれていくのだった。いったいそのとき私はどこにいて何をしていたのだったか、その光景を想い浮かべる際の私の視点は普通ではない。その場の状況のすべてをいっきに俯瞰して見ているかと思えば、次の瞬間には自身の感覚の暗がりのうちに埋没していて何も見えなくなってしまう。ただ目の前にはRana Sahab 邸をとり囲む漆黒の闇が広がるばかりだ。その闇が静かに息をしている。
 Lahoreの「Kisan Hall (農民会館)」の主人Rana Sahabと詩人のHabib Jalib、そして私の友人Saeed Faraniが、その夜、裸電球の明りの下、雁首を付き合わせるようにして話し込んでいた。椅子に座っていたのか、それともみなでCharpai (簡易ベッド)に座っていたのか、どうもはっきりしない。Mozangの住宅街にあるRana Sahab 邸の敷地を入ってすぐの前庭だった。明りとはいえ電球だけが馬鹿みたいに光り輝き、辺りは足下もおぼつかないほど暗い。周囲の闇に触れればすぐに溶け入ってしまうような暗さだ。もっぱらRana SahabHabib Jalibが話していたように思う。いまの私には二人が話すくぐもった声と、その声をすぐさま包み込んでしまう濃厚な闇しか想い出すことができない。というか、想い出そうとすれば闇ばかりが迫って来る。その闇が、私に泥酔状態の神経を強いるような気がするのだ。
 泥酔状態で見聞きしたり話したりした内容は、覚えていないほど忘れられた状態にあるが、どこか記憶の片隅に吹き溜っていて、後でその場にいた人からそのときの状況や話の内容を指摘されると、いつかしら遠い過去の時間に遡ってあったことのように想い出すことがある。ついこの間のことなのに、あれはいつのことだったかと。ちょうど夢で見た内容を遠い過去に実際に経験したことのように想い出すことがあるように、そうだ、そんなことがあったけれどあれはいつのことだったかと…。そんなふうに泥酔状態で見聞きし話したことが、時間感覚が歪曲されて記憶されていることがある。その時間感覚は錯覚であり、偽りである。とはいえ、そうした事態は、その時の記憶が曖昧な仕方で遺され、どこかに吹き溜っているようにしてあるものだから、意識に捉えられる際には何となく遠い過去として示されようとする働きがあるからなのだろうか。そうであれば、わざわざそうするのは何故か。
 泥酔状態にはしかも、時空間を異様な仕方で把握する独特な感覚が伴うことがある。たとえば狭い空間をことのほか広く感じたり、暗い場所が異様に鮮明であったりする。また時系列を前後で入れ替えて捉えていたりするようなことがあるから、後になって想い起こすと時系列がこんがらがったような記憶が立ち上がったりする。その記憶が異常に鮮明であったり、あるいはまた暗かったりするので、「何々のようだった」などと表現することがある。この「…のような」の感覚は偽の感覚であるが、そこには何か暗がりにあるものを、記憶の底に吹き溜るものを、再現しようとする力が働いているのではないか。要するに、そこには一度折り畳まれたものを再び展開しようとする神経の働きがあるのではないか。記憶の底で神経が働いて、感覚として実現しようとする。そしてそこに、「…のような」感覚として捉えられ、そう意識される現象が立ち現われることになる。私という現在はいま、そうした意識と感覚と神経からなる層が働くそのプロセスを行ったり来たりして、捏造としての<現在>を形成しようとしているのだが、しかし捏造とはいえ、そこには過去の神経と現在という意識の相関作用のようなものが見出されるはずではないか。わずかな記憶が偽の感覚をつくり出し、神経を働かせる。意識がそれを「…のような」と見定める。そのことが記憶に投影する。そこからさらに深みに手を延ばすようにして、はたしてその偽の感覚は、翻って過去の神経へと作用を及ぼそうとするだろうか。
 Rana Sahab 邸の前庭で邸の建物を背後にして三人が並ぶ写真がいま私の目の前にある。中央にHabib Jalibがテーブルを陣取るようにして座り、両側にRana SahabSaeedが詩人の両脇を固めるようにして座る。詩人とRana Sahabは白のパンジャブ服で、Saeedは珍しくDhoti (腰布)姿だ。翌朝、Rana Sahab 邸の広間で朝食を摂った後、私は三人の姿を自分のカメラに収めたのだった。前庭の地面が石畳になっているのに初めて気がついた。いま想い出したが、前夜、私はそのまま「Kisan Hall」に泊まったのだった。そこはLahore 城市の南部に拡がる新市街地にあり、新市街を東西に貫く大通りMallの南側に位置し、私がMallに出かける際には必ずバスで乗り降りする停留所があるMozang Chungi (交差点)のすぐ近くにあった。「Hall」といってもそれはRana Sahabの私的な建物である。「Rana Sahab」の「Sahab (ーブと発音する)は尊称で、名刺によればRana Maqbul Husainといい、法廷弁護士で、主に農民からの相談を引き受けていたようだ。それで、Rana SahabとはRana 先生」と解するのが適当かと思う。そういえば、前夜泊まったRana Sahab 邸の二階の大広間を想い出す。おそらくそこに大勢の人がやって来て会議を催すのだろう、広間いっぱいを大きなアフガン風炬燵が占め、私はその炬燵の片隅で布団に潜って眠ったのだった。それはもう夏も過ぎた時期だったろうか。日記を繰ってみると、1980年の822日に訪問したことになっている。しかし、そんな季節に布団に潜って寝るだろうか。それでも私には広間の大炬燵の片隅で地虫のように背を丸めて布団に潜り込んでいる自分の姿が俯瞰されるのだが…。惜しくも私が撮った写真はピンぼけで、いまは三人の細かな表情を見てとることができない。当時私は眼鏡を壊してしまっていたからである。おそらくその場で、私は思いがけなくもHabib Jalibから彼の詩集をもらったのだった。それが、いま私の手元にある。薄い小冊子で、燃えたぎる炎をデザインした表紙が特徴的だ。出版は1977年、タイトルは「Goshe men Qafas ke」という。語句を並べ替えて訳せば、「Qafas ke Goshe men (檻の片隅に籠りて)」の意となる。つまり、「Goshe men (籠りて)」を強調するタイトルになっている。Saeedが話してくれたのだが、詩人はつい最近まで刑務所に入っていたという。「Qafas」の「檻」とは刑務所の檻のことなのである。後に知るところによれば、彼はパキスタンの詩人のうちでは「Taraqqi Pasand (進歩派)」と呼ばれ、全国的に知られる著名な人物だった。書棚の奥にしまい込まれていた冊子を引っ張り出し、いまになってやっと詩集の序文に目を通すと、Hyderabadの中央刑務所に入っていたと記されている。それから私は初めて中身の字面を一句一句追ってみた。すると、こんなGhazal (歌謡詩)が目についた。

 酒、それは私にとっていささかも信条に関わることではない/アッラーにかけて、それは私の苦悩を癒すものでもなかった/ただ一歩一歩奪わせていたのだ、私自ら心の財を/人生の夜になり、悲しみつつ時を過しているが/私の良き運勢には初更に吹く風さえなかった

 反省的な趣が感じられるが、その当時に読んでいればおそらく印象は違っていたかもしれない。「初更に吹く風さえなかった」、そう断言されているからである。私は、詩人に似つかわしからぬ広い肩幅に分厚い胸許と、太首の上に乗っかるそのふてぶてしいような顔をまず想い出す。さらには詩人の泥酔状態がいまでも私を酩酊させるくらいだから、この詩が、詩人が泳いで来た膨大な闇の広がりを、この国の酩酊状態を、さらに増幅させたかもしれないのだ。当時、この国では飲酒は法律で禁じられていた。
 Lahoreに住んで、私は当地の世界を認識するにあたって子供同然の状態だった。右も左も分からない。言葉は通じないし、文字も読めない。歴史や地理にも通じていなかった。ましてや当地の宗教概念や慣例、それを培っている思考の群れに何の意味も感じ取れるはずがない。その世界に入り込むにはすべてを一から始めなければならなかったのである。それは一度子供時代を経験しているという意味で、あたかも再び子供を経験するというような条件のうちにあったのではないかと考えることがある。しかし子供の条件にあるとはいえ、すでに日本人として成長しているので、Lahoreの友人たちに子供扱いされてもつねに何かしらの優越感を隠しもって接してはいた。そのことはしかし、間違っていたと思う。当地の世界認識においては子供同然だったのであるから。とはいえ、いわばこの二度目の<子供性>の経験というものには何かあると思う。そこには、子供時代の再現という局面もあるやもしれない。子供のように世界との直接的な関係性を生きるという意味で、何かしら自身の<全体性>といったようなものに知らず知らずのうちに関わっていたのではないか。つまり、すでに成長した後ではあまり働かず、働いたとしても気づかないような、粒子状の神経を働かせていたのではないか。<全体性>とは<世界>との関係で成り立つものであり、そこにはいわば<世界>との直接的な関係性そのものが立ち現れている、そう言っていいものだ。その際に働く神経は粒子状であり、それゆえ外部へと開かれているだろう。が、その神経の働き自体はけっして明瞭なものではない。闇かと思うほどその働きは自身の暗がりの内にあり、容易に把握できるものではないのだ。そうした暗がりの内に記憶は好んで吹き溜っている。そんな見定め難い記憶はといえば、それは<世界>との直接的な関係で成り立ったはずのものなのだ。はたして、現在でも暗がりの内にあると思われるそうした記憶が自分のものと言えるだろうか。現在の自分に属するものと言えるだろうか。現在においても、過去を振り返った場合でも、<私>とは自ら構築されてきたものである。とはいえ、夢を見ているとき、そのさなかでは好んで<私>から逸脱して立ち現われるような記憶もある。さながら<私>を崩そうとするかのように…。酩酊状態もそれと同じだ。
 記憶が私たちの内にあるのではない、私たちの方が記憶の内にある、そう考える者もいる。もともと人は誰しもが、生まれてきた<世界>の記憶の中に参入せざるを得ない存在であるからだ。そこに生まれてきた生命が神経と感覚と意識を働かせ始める裸の層があり、その裸の層が、生まれてきた環境によって、すなわちその<世界>を織り成している膨大な記憶によって、基礎づけられ、形づくられていく。そうした中でやがて<私>も構築されていく。だから後になって、もし<私>が<世界>との直接的な関係性を知ろうとするならば、それを知る手立てというのは<私>から逸脱するもののうちにしかないのではないか。そして、そうした手順をふむことで、<私>は<世界>という記憶の内に生きてきた、そう自覚することになるのではないか。そうだとすれば、逸脱の仕方によっては、逆に<私>の内において<世界>という記憶の<闇>の一端が開かれるということもあるだろうか。
 私にとって、かつて経験したパキスタンという国をめぐる闇はますます深まるばかりだ。その<世界>はいったい<私>にどのように関係し、そのはてに<私>に何を与えたのか。あの夜、Rana Sahab 邸を取り囲む闇に吸い込まれていくようにして語られていた前庭での話の内容が何だったのか、いま私は推測してみたい気持ちに駆られる。様々な状況を考慮すれば、おそらく彼らは、その二年前にMultanで突発した工場労働者の虐殺事件について語っていたのではなかったか。19781月、パンジャブ州南部の主要都市であるMultanの紡績工場で虐殺事件があった。ボーナスの不払いをめぐってストライキ中の労働者たちが銃撃によって殺されたのである。当時の新聞発表では死者の数はそれほどでもなかったようだ。しかし、<労働者活動委員会>の調べによれば、死者は133名、負傷者は400名にも上がったというその紡績工場はパキスタンでも有数の規模のもので、当時従業員は13000人いたという。その年の業績は好調なのに例年のボーナスが支払われない。そのためストライキを決行しようとする労働者の間に、工場主の娘の結婚式の持参金に莫大な金が支払われるという噂が広まった。その額は全従業員のボーナスの少なくとも十倍の額に値するというものだ。翌年の12日の結婚式に、前年のクーデターで権力を掌握したZia-ul Haq将軍が招待されてMultanにやって来た。工場主の知人であったという。そこで工場主と何らかの話がつけられたのだろう。Zia-ul Haq将軍の許可によって、正規の軍隊ではなく、予備兵と思われるような集団が工場の門前で平和的に集会を開いていた労働者に向かって発砲した。その詳細について、私は当事者によるネット記事(1978 MASSACRE AT MULTAN TEXTILE MILLS)で読んで知った。記事によれば、この事件に引き続き、他の工場の労働者たちも同じような弾圧を受け始めたという。予備兵と思われるような集団とは、会社側に雇われ、武装したならず者たちである。
 いや、実際のところは分からない。他の労働争議や農民争議について話していたのかもしれない。しかしいずれにしても、私がLahoreにいた時のZia-ul Haq 政権とはそんな政権だったのだ。イスラームの制度を公的に復活させるいっぽうで、民主的権利を抑圧していたのである。Lahoreの進歩派の人々の表情に暗い影がこびりついていないわけがなかったのだ。
 Habib Jalib(19281993)が「進歩派詩人」と呼ばれるのは、彼が改革を唱える詩人であり、軍政や権威主義、国家の圧政に対抗する左翼活動家でもあるからだった。「進歩派詩人」を越えて「真の大衆詩人」とも呼ばれている。彼は軍事クーデターや、それを行なった人物たちを大声で批判しただけで投獄された。やはり将軍から権力を掌握したAyub Khanの政権時代に、彼は次のような詩を朗誦して一躍有名になった。

 宮殿でのみ輝いている光は/光の当たらない人々の喜びを燃やして輝いている/その強さは他の多くの弱者に由来する/そんな体制を、光のない夜明けのような体制を/私は認めない、私は従わない
 私は死刑を恐れない/私は殉教者だと世界に伝えて欲しい/刑務所の壁が私を怯えさせると思うのか/この身に差し迫る宣告を、この無知なる闇夜を/私は認めない、私は従わない
「花が枝に芽吹いている」、そうあなたは言う/「杯は溢れんばかりだ」、そうあなたは言う/「傷は自ずと癒されつつある」、そうあなたは言う/こんな厚かましい嘘を、知性に対する侮辱を/私は認めない、私は従わない
 もう幾世紀にもわたり心の平安が盗まれてきた/が、圧政はつねに終わる運命にある/それなのに、どうして痛みを癒すことができるなどというふりをするのか/たとえ誰かが圧政のおかげで癒されたと言い張ろうとも/私はそれを認めない、私は従わない

 句の終わりに反復される否定語のフレーズ「私は認めない、私は従わない」は、ウルドゥー語で「Mein Nehin MantaMein Nehin Manta」という簡潔な語句の繰り返しになっている。彼は街に出て、民衆が集まる抗議の場でこの詩を朗誦したので、「Mein Nehin Manta」の語句はいっきにパキスタン中に広まったという。この詩とそれにすぐさま反応する人々の振舞いをみれば、Habib Jalibという存在の背景には権威主義や圧政への抵抗が大きく渦巻いているのがよく解る。彼は圧政の闇を、圧政を受ける人々の闇を生きてきたのだ。そして彼もまた、「印パ分離」後にインドからパキスタンに移って来た人を指す「Muhajir (移住民)」と呼ばれる人たちのうちの一人だった。私はそうしたことをまったく知る由もなく、何の考えも抱くことなく、彼から詩集を受け取ったのだった…。
 この詩人は、刑務所の中にはペンも紙もないが、どうやって詩人たりうるのか、そう尋ねられたとき、「刑務所の中で私は看守に向かって詩を朗誦する。すると看守は街の広場に行き、その詩を朗誦するだろう。そうやって、詩はLahoreまで達するだろう」、そう答えたという。詩の言葉が力をもつ<世界>をまだ想うことができる人物だったのである。
 私がRana Sahab 邸に足を運ぶようになったのは友人Saeedのおかげだ。彼はパンジャブ大学の学生で、最初は大学寮の中庭でちょっと言葉を交わすといった間柄だった。大きな眼と口髭が特徴で、見るからに人なつこい風貌をしていた。背丈も高く、パンジャブ人特有のがっちりした体格をしていた。大学で何を専攻しているかは知らなかった。他の学生の話によれば、金がなくて住むところがなく、寮の知人の部屋に間借りしていたらしい。そのうちに寮からいなくなり、その後Mallでひょっこり遭遇した。カラーの効いたワイシャツに幅広のスラックス姿だった。金がないので大学をやめ、Mallにある事務所でアルバイトをしているという。いっしょに来ないかと言うので付いて行くと、彼は大股でずんずん歩き、サンダル履きの私は付いていくのでせいいっぱいだ。昼間のMallはいつものごとく閑散としていた。事務所に着くと彼はさっそく自分のデスクについてタイプを打ち始め、次々と書類を拵えていった。その間も色々と話をしてくる。それから、今住んでいるところだといってRana Sahab 邸に案内されたのだった。「農民会館」だという。そこに住んでいるとはいえ、前庭の空きスペースに小さなテントを張り、その中で寝食するというものだった。テントの中には自炊道具と着替えといった最低限の持物しかなかった。トイレやシャワーは前庭にあるLatrineを使わせてもらっているが、Rana Sahabは一切金を要求しないという。そこで出会ったRana Sahabは、私のような異国人で何も知らない若僧にも面と向かって対応するような人だった。誰の話にも眉間に皺を寄せて真剣な表情で耳を傾けていた。初老に入る年頃で、パンジャブ人にしては珍しく目つきが穏やかで、その振舞いからも誠実さが感じられる人だった。彼の奥さんも私の前に現われて話しかけてくるような解放的な家だった。
 後にSaeedが話してくれたことがある。「ターヒル、君は映画が好きだからこういうのはどうだ。これは半ば伝説的になっている話だ。Habib Sahabはときおり映画で歌われる詩を乞われて書いていたんだが、あのイランのShah Reza PahlaviLahoreにやって来たときのことだ。当時、西パキスタンの知事だったKalabaghNawab (王侯)が、グラマーで評判だった映画女優のNeeloを知事邸に呼んで、Shahを楽しませるためにその場で踊るよう無理強いしたという。Yahya Khan大統領の時代に女優が定期的に大統領邸に<招待>されていたという話があって、そういういかがわしいことがこの国ではよく行なわれていたんだ。彼女は拒んだが、警察が来て無理矢理彼女をShahの前に連れ出した。可哀想な女優は王と知事の快楽のために踊らされた。そして結果的にこのことが、未遂に終わったけれども彼女を自殺に追い込むことになった。後にHabib Sahabはこの事件に対して怒りを込めて、Neeloが主演する映画の中で歌われる詩を書いて提供したのさ。「Zarqa」という映画の中の、「Raqs-e-Zanjeer (鎖の踊り)」という歌だ。観客はNeeloが実際に権力から受けた侮辱を知っていたから、この歌が大いに受けた。あのMehdi Hassanが歌って大ヒットしたよ」。
 この話を想い出したのでネットで調べると、映画は1969年製作の「Zarqa」で、Neelo演ずるヒロインの名前がタイトルになっている。さっそく私はYouTubeで検索してZarqaを観た。それは当時のパレスティナ解放運動を描いたもので、ヒロインのZarqaは愛する戦士のために諜報活動に加担する。それがイスラエル側に発覚して彼女は捕えられ、「Raqs-e-Zanjeer」が歌われる場面に至る。その歌は、「Raqs-e-ZanjeerRaqs-e-Zanjeer、あなたは王の宮廷での慣習を心得ていない/ときには踊り娘は、王たちの前で鎖に縛られて踊らなければならないのだ」、というもので、ここが映画のクライマックスだ。しかしそんなことよりも、この作品がかつてのパキスタン独立運動に重ねられるようにして製作されているのがいまの私にはよく解る。自由を求めたがいったい自由とは何か、ムスリムの<国家>を求めたが<国家>とはいったい何か、といった問題が訴えられているからである。この時期、ムスリムの権利を保障するために様々な闘争の果てに実現した<イスラーム国家>はすでにして抑圧的なものになっていた。その変質の経緯に<闇>が渦巻いている。Habib Jalibの皮膚をつねに濡らしているあの<闇>が…。
 Saeedは文学や政治状況に通じ、よく私に話をしてくれた。しかし話は耳にしたが、当時は何がどうなっているやら、話の内容を理解するにはほど遠かった。いま彼が話す表情や口元を想い浮かべようとすると、それがどんな内容だったか勝手に解るような気がしてくるのだから不思議なものだ。それ以前は微細に分散していたものが、あるイメージを中心にしていっきに凝縮するような感覚がある。

 Rana Sahab 邸の前庭にテントを張って住むもう一人の人物がいた。もう頭の禿げ上がった老人で、Saeedが住むずっと以前からそこにいたようだ。いつも白いパンジャブ服のままで、白髭を伸び放題に生やし、みな「Baba(おじいさん)」と親しげに呼びかけていた。その名前は分からない。どうやって生計を立てていたのかも知れない。私がRana Sahab 邸にSaeedを訪ねると、彼が留守のときには老人のテントに入って気軽に話をした。老人と子供といった関係になるからか、私は何の気兼ねすることもなく話ができた。だから、今になって名前を尋ねなかったのが悔やまれてならない。 ある日のこと、おじいさんが、「世間ではウルドゥー語が国民語であるというが、私の母語はパンジャービー語である」と言う。これは良く聞く台詞だ。続けておじいさんは、「ウルドゥー語とは何か。それはウッタル・プラデシ州の言葉なのだ」と言う。僕はすかさず疑問を呈じる。「パキスタンという国ができたのだから、その国民語というのが一つなければならないだろう」と。おじいさんは言う。「パキスタンはまちがってできたのだ。ウルドゥー語は一部の帝国主義者の言葉だ (正確には、一部のイスラーム主義者の言葉であるということを意味する)」。このとき、「パキスタンはまちがってできた」、そう耳にしたのに私は少なからず衝撃を受けた。耳を疑ったが、おじいさんはさらに、「インドは分割されるべきではなかったのだ」と強調する。この言葉の意味は重く、Lahoreに住んで初めて耳にした意見なので私にはどう応答していいか分からなかった。いったん寮に帰って部屋で考え廻らしてみたが、事情も知らず、思いも寄らない意見なので何をどう考えていいのかさえ私には分からなかった。そのことを寮の見知った学生に聞くのもはばかられた。その後老人に会いに行き、ムスリムにとってムスリムの国ができたのは良いことではないかと言うと、老人は首を横に振り、Lahoreでの「印パ分離」前後の状況変化について私に語ってくれた。
「<分離 (Partition)>前のLahoreにはひと月に三十一日の祭日があったと言われている。それもこれもムスリムとヒンドゥー教徒とシーク教徒が平和的に仲良く暮らしていたからだヒンドゥー教徒が<Muharram>の行列に花束を浴びせたり、Minto Parkで催される<Ram Leela(Rama)>にムスリムが群れ集まったり、<Diwali (燈明祭)>や〈Dusera (十日祭)〉の行事にも多くのムスリムが参加した。それが普通のことだったんだよ。…このパンジャブ地方にはどこの農家にも水牛がいるが、城市でもヒンドゥー教徒は水牛を飼っているのが普通だった。それで<分離>以前には水牛のミルクはふんだんにあって、それは値段のつけようがないものだったよ。水牛のミルクと小麦粉と少しのGhee(バター)さえあれば、とにかく食べていけたのだ。それがいっぺんに変わってしまったよ。ミルクの値がどんどん上がったんだ。AmritsarLahoreは人が頻繁に行き来する姉妹のような街だった。それが、1947年の8/17日にいきなりLahoreは国境の街になってしまった。それ以来、双方の街の人が国境の向こうへ行くなと言っている。どうやら、国という考えが融和の気持ちを失わせてしまったようだ。<分離>前のLahoreの人はみなお互いの宗教観の違いをわきまえていたものだ。生活慣習が異なってもお互いを尊重し合っていたから、宗教観に違反しないようにわざわざ逃げ道をこしらえて付き合っていたものだよ。ムスリムはヒンドゥー教徒へのお祝いには果物を贈っていた。それをヒンドゥー教徒は受け入れていたのだから。 それにムスリムはヒンドゥー教徒の前では絶対に牛を殺さなかった。だから、ヒンドゥー教徒もRamazanのときには決して私たちの前で飲み食いしなかったんだよ。ヒンドゥー教徒の女性はといえば、ムスリム女性の裁縫屋に服を仕立ててもらっていたものだ。男たちは酒が飲みたいのでムスリムもヒンドゥー教徒もシーク教徒も友人同士で集まって、みなで議論を交わして楽しんでいたものさ。酒は悪いものだが、融和の種を蒔くというわけだ。当時は、ムスリムの果物屋、ミルク屋、野菜屋などはヒンドゥー地区に入って毎日の生活に必要なもののほとんどを供給していたし、ムスリムの女性がヒンドゥー地区に入るときには、彼女たちは当然といった風に顔を覆うベールを持ち上げていたんだよ。みながみな、慣習の異なる状況にあってどう振舞っていいのか心得ていたものさ。<分離>によって、Lahoreにいた三割のヒンドゥー教徒とシーク教徒がいなくなった。お互いに様々に異なる慣習を付き合わせて生きてきた。融和があるいっぽうで、工夫をしなくては解決できない問題もあったさ。だが、そうした多様な面を持ち合わせたLahoreは、<分離>後、その存在をやめてしまった…」。
 老人の話は私にとってまるでこの国の遠い過去の話のように聞こえた。けれどもそれ以来、私はパキスタンという国がなぜ出来たのか、国が新たに出来るというのはどういうことなのか、そのことを考えざるを得なくなったのである。それは今になっても変わらない。考えてもただ<闇>の中を手探りするばかりで、今もって把握することができるものは何もないからである。
 老人のテントにときおり、よれよれのSherwani(詰襟の長上着)に毛羽立ったJinnah帽を被り、サングラスをかけたMirza Sahab()がやって来た。小柄で、肌の浅黒い人で、老人の知人らしかった。手先を、その細い指を、頻繁にしかも微妙に動かしながら話すような人物だった。たしか彼は出版関係の仕事をしていたのではなかったか。ということは、老人も以前はその筋に関係のある仕事をしていたのではないか。そういえば、私が訪ねて行くと一人で熱心にペンをノートに走らせている老人の姿を一度ならず見たのを想い出す。Mirza氏は仕事柄か、Saeedがいれば二人で文学の話に熱中していた。Mirza氏にとっても「パンジャブ分割」は堪え難い経験だったようだ。そのいっぽうで、「<パンジャブ分割>はとても悲惨な出来事だったが、それは傑出した文学をも生み出した」、そう断言する。Lahoreで弁護士をしていたシーク教徒のKhushwant Singh(19152014)は「印パ分離」前にDelhiへ逃れたが、彼はインドで最初に「パンジャブ分割」についての小説を書いたという。後に知ったが、1956年に出版された「Train to Pakistan」という作品である。現在はインド側にあるFerozpurに近い架空の村を舞台にして「パンジャブ分割」の否応のない状況を描いている。ことにムスリムとシーク教徒とヒンドゥー教徒間の入り組んだ力関係が「印パ分離」によってたちまちのうちに変化する様が描かれている。私はMirza氏にSahdat Husain Manto(19121955)について尋ねた。「おお、Mantoか。彼はMall沿いにあるLaxmi Mansionに住んでいたんだよ。懐かしい時代だ…。彼の短編小説にも<印パ分離>について書かれたものがある。中でも傑作は『Toba Tek Singh』だ。が、はたしてLahoreで手に入るかな」と言う。彼の作品は何度か猥褻罪に問われているからである。他には、「Khol Do (開けてくれ)」、「Thanda Gosht (冷たい肉)」といった作品があるという。
Toba Tek Singh」は1955年に書かれ、同年に出版されている。19478月の「印パ分離」時には、それ以前に英帝国が所有、管理していたものすべてがインドとパキスタンへ分割して与えられることになった。たとえば、Delhiの総督官邸にある書物、様々な物品、たとえば厨房の調理用具、食器、ナイフ等に至るまで<公平に>分割された。さらには、各地にあった精神病院に収容されている患者さえもが、その宗教によってある者はパキスタンへ、ある者はインドへ移送されることになった。彼らには<国家>という概念がないにもかかわらず、有無も言わせず強制された。「Toba Tek Singh」は、インドへ移送されることになるシーク教徒の精神病患者を主人公にしている。タイトルの「Toba Tek Singh」とは現在パキスタンにある地名で、主人公の故郷という設定になっている。Mantoはアルコール依存症で精神病院に入れられていたことがあり、この作品はその体験を強く反映するものとなっている。パキスタン人の誰しもが「Toba Tek Singh」をMantoの傑作と認めるだろう。しかし、おそらく「印パ分離」を実際に経験した者にしか、あるいはその経験を受け継ぐ者にしか、その内容を評価できないのではないかと私は思う。とにかく特殊な作品だからだ。この作品をMantoは、作家たちの集まりである「Halqa-e-Arbab-e-Zauq (良き鑑賞者の会)」の定例会で朗読した。会場はMallにあるYMCAだった。彼はいつものように劇的な調子で朗読したので、読み終えたときには会場はしんと静まり返り、みな眼に涙を浮かべていたという。
Khol Do」は、「印パ分離」によってムスリムたちがパキスタンへと集団移動する際に、シーク教徒の襲撃に遭って娘を見失い、難民キャンプで気が狂ったように探す父親を描いている。はたして娘は殺されていた…。娘の死に直面する父親のその狂気にも、Mantoの精神病院体験が色濃く反映されているようだ。
Thanda Gosht」は1950年に書かれ、出版されたが、その表現が猥褻であると問題になった。しかし、その低音部に耳を澄ませば、聞こえて来る主題は「印パ分離」時にパンジャブで起きたシーク教徒によるムスリム虐殺であることが解る。ある夜、シーク教徒の男が売春婦の情婦のところにやって来るところから物語は始まる。「彼女の胸は豊かで、腕も脚も肉太で、肉づきのいい大きな尻をしていた。その豊満な乳房の先には突起した乳首が浮き出て見えた…」。しかし、女が誘っても男は上の空で応じる気配がない。女は他に女が出来たのではないかと不審に思う。言い争いの末、女は嫉妬に狂って男の首をナイフで刺してしまう。男は死に際になって、その日ムスリム虐殺現場で少女を犯したが、その「冷たい肉」はすでに死んだものだったと告白する。「冷たい肉 (Thanda Gosht)」とはつまり「殺された死体」のことだ。それに対して情婦の女は「豊満な」<暖かい肉>をもっている。つまり「生きたからだ」をしている。したがってその<猥褻>な表現は生そのものを言い表そうとしている。そして最後になって<豊満な肉>と鋭く対比される「冷たい肉」とは、単なる死体や遺体を指し示すのではない。それとは全くもって異なるものだ。それは何らかの暴力によって「殺された死体」なのである。その「冷たい肉」には暴力のおぞましさが痕づけられていて、その痕跡を遺体から振り払うことができないのだ。それは人間による言いようのない悲惨さがもたらした結果なのである。この作品にはだから、生と死の鮮やかな対照のうちにこのうえない悲惨さが描かれていることになる。

 かつてLahoreに住んでいた様々な人の声がある。その声がいま聞こえてくる。私はついついその声に耳を傾けてしまう。そうやって、私はLahoreという記憶の<世界>、記憶の<闇>へと入って行くのだ。
 Khushwant Singhは、Mozangについては、ムスリムのGoonda(ならず者)たちの牙城だったと記憶している」、そう後になって述べている。
「そうだな、シーク教徒にはそう感じられたかもしれない。このMozang地区には、<Khaksar>や<Ahrar>といった闘争的な組織が進出していて、ときおり軍事行進をしていたからね。とはいえ、彼らの主張は基本的に反植民地主義・反帝国主義で、宗教対立を煽ったり、非ムスリムを攻撃するようなものではなかったのだ。Mozangではヒンドゥー教徒もムスリムも平和裡に暮らしていたよ」、そうRana Sahabは言う。
「私の子供時代にはみな宗教に関係なく、子供たちは一緒に遊んでいた。長年の子はお互いの信仰と慣習を尊重していたし、宗教間の緊張状態など一切なかったよ。子供の頃、私はヒンドゥー教徒の友人の家に遊びに行ったし、そこで食事もした。彼もムスリムの私の家にやって来て食事をした。ムスリムの私の家の女たちは、私たち子供にはPardah(遮断)をしていなかった」。
「私の記憶によれば、Lahoreではヒンドゥー教徒とシーク教徒とムスリムはバランス良く生活していた。とはいえ、経済的にみればそこには大きな偏りがあった。これについては後になって私も知ることになるわけだ。歴史的にみれば、Lahoreではヒンドゥー教徒が金貸し業や金銀の取引、穀物取引等を独占していた。ムスリムの多くは郊外の農地で働いていた。彼らは野菜や小麦を栽培していた。街に住むムスリムの多くは職人や技工だった。Lahoreの人口の多くがムスリムだったが、そのうちのわずかしか役人や専門職に就いていなかったようだ。街のムスリムの多くは、ヒンドゥー教徒が所有する工場や職工場で雇われる職人や労働者だったのだ。とはいえ、いっぽうでは、ムスリムは果物市場や野菜市場、それにミルクの供給、家具販売、テント製作、服飾業等といった、日常生活に必要な物のほぼすべてを取り仕切っていた。それでも全体としてみれば、ムスリムとシーク教徒が主に農業に従事し、ヒンドゥー教徒が村で店舗を構え、都市の交易や流通を支配していたというのがパンジャブの伝統的な構造だったのだ。ヒンドゥー教徒は息子たちに近代教育を受けさせたが、ムスリムはそうさせなかった。1938年に私的な金貸し業の制度を廃止する法案が議会で採択されたが、これがヒンドゥー教徒とムスリムの間の緊張の始まりだった。金貸し業の多くが破滅した。伝統的なムスリム・ヒンドゥー経済構造が崩壊すると、やがてカースト間または宗教間の緊張状態が高まり始めた」。
1940年代には、パンジャブの<国民会議派>は都市ヒンドゥー交易商人階級の牙城だった。彼らは農村にほとんど影響力をもっていなかった。1936年に金貸し業への債務を免除する法案が出されたとき、パンジャブの<国民会議派>は法案に反対した。法案は<国民会議派>の支持なしで議会を通過したのだ。そして、むろん負債の免除が認められたわけだが、ムスリム農家はつねに金銭を借りる必要があり、ヒンドゥー教徒の金貸しは公然とではない仕方で商売を続けることができた。いっぽう、Rawalpindiにはシーク教徒で金貸しを兼業する交易商人の集団があった。突然、ムスリムが苦しんでいた負債が免除されることになるいっぽうで、シーク教徒の間には怒りとやり場のない憤激が広がった。怒りの矛先がムスリムに向いた。ムスリムとシーク教徒間の緊張が高まった。<ムスリム・リーグ>は少数派を標的にした暴動を開始し、Rawalpindi周辺のヒンドゥー教徒とシーク教徒の村で大規模な騒乱が起きた。これがパンジャブで地獄状態が突発する発端だった」。
19403月、Lahoreでの<パキスタン決議>の後、ウッタル・プラデシ州からムスリム学生がパンジャブに入り込み始めた。彼らはLahoreの融和的な雰囲気に毒を持ち込んだ。けれども、1946年までは事態は何とか平穏に過ぎた。ウッタル・プラデシ州のムスリム学生は、もしムスリムの国が出来たなら自分たちが支配階級になるだろうと感じていたようだ。彼らはパンジャブのムスリムが自分たちと張り合う力を持っているなどと考えもしなかった。ムスリム学生の煽動があり、Calcuttaでの虐殺、ビハール州での暴動が火に油を注いだ。ヒンドゥー教徒やシーク教徒の中には、Lahoreがパキスタンに編入されることに不安を抱いている人たちがいた。圧倒的にムスリムが多数の街になってしまうからね。しかし、Lahoreの商業地区自体はヒンドゥー教徒とシーク教徒が多数を占めていた。Mallにはムスリムの建物は<Shah Din Building>と<Ghulam Rasool Building>の二つしかなかった。そのうち<Ghulam Rasool Building>はヒンドゥー商人の抵当に入っていた。あとはすべてヒンドゥー教徒とシーク教徒が所有していた。Anarkali Bazarも、そこで店を出し交易していたのは主にヒンドゥー教徒とシーク教徒だった」。
「<ムスリム・リーグ>は、1945から46年にかけてのパンジャブ議会選挙を公然とイスラームの観点から指揮をした。ムスリム国家としての<パキスタン>成立は、ムスリム社会を苛む病癖に対する万能薬として推し進められた。ヒンドゥー教徒とシーク教徒はその目標を妨げる元凶として悪魔化され、それ相当のスローガンでもって呪われた。いっぽうで、<ムスリム・リーグ>に反対するムスリムは、イスラームを裏切る者として断罪された。場合によっては、<パキスタン>成立に反対するムスリムには正当なイスラーム式の埋葬はなされるべきではないという効果をもつ<Fatwa (イスラーム法学者による決議の通告)>が布告され、こうした戦法が彼らにとって最も効果的だった。パンジャブ議会の175議席のうち、<ムスリム・リーグ>はムスリムに留保されたうちの圧倒的な数の議席を獲得した。75議席を獲得して単独でパンジャブ議会の第一党となった。その議席は、それまで支配政党だった<労働組合党(Unionist Party)>が18議席に減らすという代償によるものだった。<国民会議派>は50議席、シーク教徒の<Akali Dal>は22議席を獲得した。結果的に、<国民会議派>、<Akali Dal>、<労働組合党>の連立政府が、<労働組合党>の主導の下につくられた。1947124日、政府は<Muslim National Guard>と<RSS>の闘争的組織による活動を非合法とした。33日、シーク教徒議員Tara Singhがパンジャブ議会でKirpan()を鞘から抜いてふりかざし、『パキスタンに死を。すべてのAkariと共に抗議する』と叫んだ。次の日、ムスリムとヒンドゥー教徒・シーク教徒間の暴徒が市内で衝突した。その数日後には、RawalpindiJhelum周辺の村でシーク教徒やヒンドゥー教徒への攻撃が始まった。襲撃者は女たちの乳房を切り取り、そのはてには何回も陵辱した。男たちも身体を毀損されるような非人間的な扱いを受けた。子供たちや赤ん坊までもが宙空に投げられた後に鋭い槍のようなもので突き抜かれた」。
1947年の初めには、Lahoreの街でも宗教間の対立が起き始めた。1940年代初期に<Khaksar>がLahoreの市街地を行進し始めるようになったとき、ヒンドゥー教徒は<RSS>を組織してヒンドゥー地区で行進したが、それでも三月までは深刻な事態にはならなかった。七月までに宗教間の闘争が頻繁に起きた。五月から六月にかけて<RSS>が城市内のムスリム多数派地区で爆弾を爆発させた。その報復として、527日の夜、ムスリムは城市のShah-Alamiにあるヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住む地区に火を放った。621日、城市のPappar Mandiのヒンドゥー地区に火が放たれた。その後、Machi Hattaへ、さらにはShah-Alamiへふたたび火が放たれた。そこにはLahore行政官のG. M. Cheemaがいたが、彼は個人的に非ムスリム地区への攻撃を指示していた。消防隊が火災現場に入るのを許さず、ヒンドゥー教徒やシーク教徒が逃げて来ても、戒厳令が布かれているから戻るよう命令して押し返してしまった。夜中の二時には、Mozangの屋上からも炎が城市の方から飛んで来るのが見えたという。すべてが人々に希望を失わせ、恐怖へと駆り立てた」。
「八月になって地獄的な状況が始まった。Lahore駅周辺に住むヒンドゥー教徒とシーク教徒が血に飢えた群衆に無差別に襲撃されたのだ。多くの人がヒンドゥー教徒の宿泊所に逃れたが、襲撃対象になるのでNaulakhaにある教会に避難を求めた。司祭はヒンドゥー教からの改宗者で、避難者にできるかぎりの保護を与えた。彼が当局に掛け合うと、グルカ兵を乗り込ませた軍用トラックがやって来て、Lahore東部の軍野営地にある安全な場所に連れて行ったという。816日の後、Lahoreは狂いじみた宗教対立で燃え上がった。ことに城市内がひどかった」。
「ヒンドゥー教徒やシーク教徒たちは、Lahoreがインドに留まると信じ込まされていた。だから、Lahoreが放棄されるべきではないという誤った助言と確信をもたせた<国民会議派>の指導には大いに責任がある。政治的に承知している者にとって、Lahoreがパキスタンに与えられるのは明白だった。というのも、Amritsarから西のWagah方面は、ムスリムが多数住む地域だからだ。Lahoreは明確にムスリム多数派地区だった。ぎりぎりの最後になって、<国民会議派>は<ムスリム・リーグ>と東西パンジャブの人口交換に秘密裏に合意した。八月の中旬、<印パ分離>を数日後に控え、<国民会議派>代表でインド初代首相に就く予定のネールがLahoreのヒンドゥー教徒とシーク教徒の難民キャンプを訪れた。怒った群衆は、<国民会議派>が人口交換に承諾したという事実を隠していたとネールに悪態をついた」。
 このときネールは、いらだたしげな表情を見せつつ次のように語ったという。「われわれヒンドゥー教徒は、これまで分割されることのない、連続したインド世界に暮らして来た。ムガール王朝もこれまでずっと連続してきたインド世界を支配してきた。彼らはそのように連続してきた帝国からヒンドゥー教徒を追放することができなかった。しかし、いまや状況は完全に異なっている。あなたたちはインドという国から完全に切り離され、パキスタンという国に与えられることになる。ここで彼らはムスリム王国ではなく、イスラーム国家の設立を欲している。そのような国においてヒンドゥー教徒は決して安全でないし、望まれない存在となるだろう。あなたたちはインド世界の分割に承諾しなかったかもしれないが…」。
「二つの国家が独立した日、宗教間の緊張は最大となり、続けて大規模な組織的殺人が行なわれた。少数派に対する攻撃は完全に計画されていたという。インド側では、その陰謀にPatiala藩王国のMaharaja(大守)が関わっていたという説がある。もしムスリムを東パンジャブから追い出せば、シーク教徒が東パンジャブで自身の国家をつくことができると考えたからだ。Lahoreで何人の人が殺されたのか、信頼できる数字はどこにもない。しかし、Lahoreのヒンドゥー教徒とシーク教徒のブルジョアは多かれ少なかれインドへ安全に去ることが出来たのは確かだ。宗教間の狂乱状態の対立の矛先にいたのは、工場従業員、使用人・召使い、商店主、その他、出発を準備できるコネや方途がない人たちだった…」。
 こうしておおよそ450万人のシーク教徒とヒンドゥー教徒、550万人のムスリムが、そのほとんどの人が持てるだけの財産しか確保できずに、インドとパキスタン双方に向けて移動した。とはいえ、その精確な数字は知り得ない。一説には全体で1200万から1500万人の人が二つの国家の間の移動を強いられたと言われている。そうであるならば、それは史上最大の難民状況を生み出したことになる。そして、そのうち20万の人が、とくに女子供が、凄惨な仕方で殺戮されたと見積もられている。

 Lahoreの人々の怒りや悲しみの表情のうちに、その神経アレンジメントのうちに、底深い<闇>が宿っていたのかと今は想うばかりだ。彼らは「印パ分離」に伴う<闇>と、それ以後の圧政の<闇>という二重の<闇>に苛まれつつ生きてきたのだ。歴史に<闇>はつきものだ。というか、<闇>は歴史から追放された<事実>であるという点で、歴史から切り離して考えることはできない。<事実>として歴史を引き裂くようにしてそこに開かれ、血を流した傷は、その後すぐに閉じられてしまう傾向にある。そこに瘡蓋が出来る。「子供はその瘡蓋をむしって食べるわけですよ」と言われる。「食べる」とは<事実>を身体のうちに折り畳むことであり、すなわち<事実>の内面化であり、さらには神経アレンジメント化であるだろう。そう考えると、インド亜大陸では人々はずっと血を流したままで、その傷を、裂け目を、瘡蓋で塞いでいる暇などなかったのではないかと思う。そうであれば、彼らの<肉体の闇>、すなわち<事実>の内面化はいかにして形成され、また見出されるというのか。Lahoreでは少年はすぐに歳を取り、大人の顔つきをし始める。そうした神経の働きを受け継ぐような歴史の蓄積があるからだろうが、それを内面化とはとうてい言えない。すべてはむきだしで、<事実>がからだにむきだしで現われている。<事実>が裸のまま、彼らの神経に立ち現われているかのようなのだ。
 Lahoreの歴史を知ると、その凄惨さに驚くばかりだ。いつからか、そうした歴史の<闇>という観点からLahoreの友人たちの顔つき、その振舞い、その神経アレンジメントはどんなだったろうかと考えるようになった。彼らは非常に厳しい環境で生きてきたのだった。それゆえに、イスラームの<神の前での平等>という教えは彼らにとっては必須な信条であるはずだ。しかし、平等を唱導するイスラーム教徒とはいえ、実際には彼らは自分たちと同じ部族や出身、はては同じ身分や階層以外の者とは容易に交流しようとしない。異国人の私にはそうした拘束は当てはまらないはずなのだが、しかし誰もが私に向かって自分以外の者を信用するなと言い、他の友人と付き合わない方がいいと私は言われてきた。これも彼らが経験してきた歴史の<闇>に基礎づけられたものが成す術かと思う。とにかく、一度の裏切りが、後に致命的になる可能性がある。
 Lahoreの<闇>がひしひしと、そしていたるところに感じられる。