Tuesday, June 04, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


     Lahoreの友人 二

  Shah SahabMaktab(私塾 上

 イスラーム社会は五月六日にRamazan(断食月)に入った。その二日後の五月八日にLahoreData Ganjがふたたび自爆テロの攻撃を受けた。Darbar(モスクや聖廟等から成る複合的な宗教施設の意)の入口付近に停車していた警察車両が狙われ、爆発で十三人が死亡した。ふたたびというのは、2010年にも武装組織による攻撃を受けたからである。このところパキスタン全土で、かつて信仰の融和を説いたスーフィーの聖廟が、社会の混乱を目論むイスラーム過激派による恰好の標的となっている。Ramazanに入った途端の惨事で、とくにこの時期を狙ったようだ。五月の断食はつらい。40度を超える酷暑に苛まれながら昼間の飲食を断たなければいけない。断食にはイスラーム社会の団結意識を高める意義があると声高に語られてきた。そうした、この時期特有のぴんと張りつめたような共同体意識にテロは揺さぶりをかけてくる。団結意識を挫かせること、その高まりを喪失させること、それがテロの真の狙いだ。自爆テロの実行犯は十五才の若者だという。
 五月二十三日には隣国インドでの下院議員選挙の結果が判明し、予想に反してBJP(インド人民党)が圧勝した。インドではヒンドゥー原理主義の勢いが増している。最近になって、マハトマ・ガンジーを暗殺したNathuram Godseを評価する極右勢力の動きが加速してきた。Godseが所属していたHindu Mahasabha(ヒンドゥー大会議)はヒンドゥー至上主義を掲げるRashtriya Sevayamsevak Sangh 通称RSS(王国義勇団)として党派を設立し、独立後一時非合法化されていたのが、現ナレンドラ・モディ政権になって以来、公にその勢力を誇示するようになってきた。ナレンドラ・モディ首相は、グジャラート州の知事職にあったときに二千人のイスラーム教徒が殺されたヒンドゥー教徒の暴動を見て見ぬ振りをしたとして告発された人物である(アルンダティ・ロイ「誇りと抵抗」)。彼はことに儀礼的で大仰なパフォーマンスを好み、大衆に向かって好んでモラルを説き、古くさい形式に固執するヒンドゥー原理主義者を惹き付けている。それに比べれば、植民地インドにおいて粗末なKhadi服(糊付けされない綿糸で織った服)に身を包み、英帝国と堂々と渡り合うことが出来たガンジーはインドでも稀にみる現代的な人物であった。倫敦で生活して近代の問題に鋭く気づいていたゆえに、かえって近代を迂回しようとする政策を打ち出していたが、周囲の近代主義者には理解されなかったようだ。ガンジーはナショナリズムぬきでインドという多民族で多文化な社会を守ろうとしたのである。近代人としてのガンジーが戦ったのは、南アフリカで自ら体験した人種差別の状況だった。アジアにとって近代とは西欧主導の世界システムに統合されていく過程でもあり、その過程における資本主義生産体制の実現と共に労働力としての差別が取り除かれていったが、新たに資本家と労働者という階級がつくりだされた。そうした階級対立も含めてあらゆる差別とガンジーは終始戦い続けたのである。その行動原理はヒンドゥー教の教えに支えられていた。いっぽう、現代の宗教原理主義者は西洋によってもたらされた<近代>をただ憎悪しているだけのようだ。そして、伝統的な教えを自分たちの都合の良いように解釈し、イスラーム原理主義者はイスラーム教徒のみから成る社会を要求し、ヒンドゥー原理主義者もヒンドゥー教徒のみから成る社会を要求している。そこに一つのコミュニティにおける信仰の融和、共存を認める余地はない。

 いかなる気力も打ちのめし、時の流れさえ麻痺させてしまうかのようなひどく暑い日だった。私はようようベッドから身を起こし、寮の部屋の扉という境界をくぐり抜け、腑抜けた亡霊のようになってCanal沿いの停車場に辿り着き、炎暑の中をやって来たワゴン車に乗り込んだ。肌を刺す熱風が外から吹き込むのを恐れて窓という窓は閉め切ったままだった。乗客の体臭がむっと鼻をつくが、この暑さにあってはそんなことは気にもならない。かえって人間の感覚を取り戻させてくれるというものだ。Mozang Chungi(交差点)で降り、Mallにあるレストラン「Rejo」へ向かった。ビルの二階にあり、大きなガラス窓からMallを見渡せる現代的な店だった。冷房が効いた店内に入ると途端に頭の中の霧が晴れたようになる。続いて思考が活動し始める。生き返った心地がするというのはまさにこのことか。いつものようにスパゲッティ・ボロネーゼを注文する。カリーを昼食にする場合の三倍以上の値段がするメニューだ。昔ながらの陽射しを一ミリも通さないレストランとは違い、ガラス窓を通して自然光が入り込んでいるので店内はふつうに明るい。それほど広くはない店内を見回していると、同じ寮に住むヨルダン人の学生が店に入って来るのが目に入った。痩身で、どこかの御曹司といった風の、いつも眠たそうな眼をした奴だ。この酷暑の中でスーツを着込んでいる。よく見知ったムスリム・タイ人学生といっしょで、Tシャツにジーンズという恰好の彼はなぜか不安げな表情をしている。
 店を出た後、強い陽射しにしんと静まり返り、どこまでものっぺりと続くMallの近代的な並木道を歩いた。何を考えるともなくただ歩き続け、それからどこへ行ったのだったか。Ferozsons書店を通り過ぎ、その先にあるAlfalahビルに入ったのではなかったか。Alfalahビル内には冷房の効いた映画館がある。名前はビルと同じ「Alfalah」だった。ちょうどそのとき、子供の頃に観たことのある「Lawrence of Arabia(1963)」がかかっていた。
 映画を観終えて会場から出ると、ロビーでUsman Irfaniと例の撮影所仲間がテーブルを囲んでいるのに出くわした。久々に会うので挨拶し、彼らの話の輪に入った。私は映画に不満だった。子供の頃に観たときにたいそう感激した覚えがあるが、今日はそうでなかった。アラビア語に堪能なはずのLawrence、それにベドウィンまでもが、映画の中とはいえ英語を喋っているのに違和感を感じたのだった。結局、最後までアラビア語を一言も聞けなかったのだ。
 彼らも映画について話していたが、もっぱらLawrenceがホモ・セクシャルではなかったかというのが話題だった。「Lawrenceがオスマン・トルコの警察署で尋問を受けたとき、映画では描かれていなかったが、奥の取調室でいったい何をされたと思うかね」、そうHabib Khanが思わせぶりに語る。尋問側のホセ・ファーラー演ずるトルコ人将軍のいかにも複雑な表情がすぐさま思い浮かんだ。「ピーター・オトゥールはあの後の場面の演じ方がとても上手いな。込み上げる怒りの中に、何か恥ずべきことを隠しているようなところがね…」、そう言いつつ、彼は一人で悦に入っている。それからLawrenceとベドウィンの少年との関係やら、パキスタン出身の俳優Zia Mohyeddinが演じる下級ベドウィンがなぜ殺されたのかといった話へと展開していった。私には話がどうでもよくなってきた。というよりは、パキスタンではホモ・セクシャルの話題は避けねばならないと感じていた。みなよりひと足先にAlfalahビルを出ると、夕暮れ時の暑さに淀んだ空気が肉体にも精神にもきつくのしかかってきた。これからどうしたらいいのか、足下から途方に暮れてしまう瞬間だった。もうすぐ夜の厚い帳がこの世界に降りて来る。
 五月のRamazanの最中のある日、Saeedから寮に電話があった。眼にKohlを塗った大男のChowkidar(守衛)が珍しく私の部屋の戸を叩き、「電話だ」と叫ぶ。慌てて電話がある守衛の控室まで行くと、Jhelumから伯父さんがEid(断食開けの祭)の買物にLahoreへ来るからいっしょに付き合わないかと言う。Eidはいつだったかとぼんやり考える。とにかくRamazan中はただ生きているだけだ、というか、ただ息をしているだけだ、そう言っていいような状態だった。先のことなど何の考えも及ばない。それに夜明け前の暗い内からChowkidarが鳴らす騒々しい合図と共に叩き起こされ、顔も洗わず急いで寮の裏の空地にある簡易食堂<Shubirの店>に行き、ガス・ランプの灯りでNashta(朝食)を摂る。陽が昇ってからはいっさい物を口にすることができないからだ。Chole Bhatre(揚げパンと豆カリー)にLassi(ヨーグルト・シェイク)の朝食をすばやく腹に入れ、その後ふたたび眠りにつく。あとは何とかして五月の昼間の長さに耐え、夕暮れ時を待つだけだ。そんな日々を送っていたのだった。Ramazan のせいかCollegeの授業は休講が続いていた。何をするでもなく一日を惚けて過ごしていると、ともすれば日常の時間感覚が崩れそうになる。私はいまSaeedの伯父さんがLahoreに来たとき三人でどこへ行って何を食べたろうかと想い出そうとしたが、まったく何も想い出せない。おそらくRamazan中で、酷暑にもかかわらずその日の昼間は何も口にしなかったのだろう。Mozangからまず三人でリキシャに乗り込み、城市の西端にあるJama’ Masjid(金曜モスク)まで行き、そこで礼拝した。沐浴場には冷たい水がふんだんに流れ、それが心地よかったのを想い出す。それから城市に入ってKashmir BazarRang Mahalを見て廻り、結局伯父さんが何を買ったのか覚えがないが、最後にWazir Khanモスクを見物したのを覚えている。伯父さんはその日、Saeedのテントに泊まったのだろう。
 この日Kashmir Bazarを散策しながら、私はSaeedからEidJhelumへ来ないかと誘われた。Jhelum LahoreからRawalpindiに行く手前にある中規模の都市で、Saeedの実家がある。その突然の誘いを耳にして、私は嬉しくていてもたってもいられなくなった。
 Eidの前日の午後、SaeedLahore駅で待ち合わせ、二人で列車に乗ってJhelumへ向かった。どういう仕掛けがあるのか分からないが、Saeedは切符を買わずに列車に乗り込み、途中で検札に来た車掌を言いくるめ、結局無賃でJhelumまで行き、何事もなく私といっしょに改札を出た。日本人といっしょだと人目につくからと、駅からそれほどの距離でもないのにリキシャに乗って下町にある彼の家まで行った。古ぼけてあちこち崩れかけたような小さな建物だった。中に通されると、今来た通りに面した小部屋のそこかしこに本がちらかり、そこに迎え入れられる。壁には前年に絞首刑になったZulfiqal Bhutto前首相の肖像画が裏返しにされてかかっていた。恰幅のよい敬虔そうな父親が出て来て挨拶を交わすと、すぐに母親が私のために新しいシャルワール・カミーズを仕立てたと言って自ら持って現われる。まったく思いがけないことで、その瞬間、明日はEidだ、というか、「明日は正月だ」というのに似たような感慨に襲われた。Roza(断食)明けの夕食にアールー(ジャガイモ・カリー)が供され、外食とは異なる家庭料理独特のスパイス配分がなされた濃厚な味を堪能した。食後には香料がたっぷり入ったチャイを飲む。このチャイに比べたら、バス・スタンドで売っているチャイは「湯」のようだった。暗くなってからSaeedJhelumの街を散歩に出た。Bazarの一角に煌々と照明が灯り、この暑い季節にShadi(結婚式)のパーティーが行われている。会場のテントに近づいて中を覗き見ると、着飾った女たちが群れをなしている光景を目の当たりにする。家に帰る途筋では、明りを灯した家々の中で明日のEidに備えてたち回る女たちの姿を窓腰に見る。隠れた空間に立ち昇る華やいだ雰囲気に接して、私は気分がときめいてきた。夜になっても暑さが治まらず、Saeedは、「Jhelumの暑さはJhennum(地獄)なみの暑さだ」と冗談めかして言うが、私の心身は酷暑の重荷からすでに解放されていた。その夜はSaeedの家に泊まる。私は部屋のベッドで寝たが、Saeedは家の前の通りにCharpai(簡易ベッド)を出して寝たようだ。
 私は久しぶりに熟睡した。

 夜は暗く、深い。この漆黒の闇の中では目を塞がれたように視覚が効かなくなる。代わりに聴覚や体感が鋭くなり、闇の中で大地が底を開いてみせる、そんな夜の深みがからだに感じられるようだ。三半規管も含めて、人間は聴覚に始まり聴覚に終わるといわれる。それだけ聴覚は周囲の空間・環境との繋がりを密接に保とうとしている。夜の深みが耳を通じてからだを包み込む、そんなふうにしてからだ全体の感覚を広がらせる。大地の底から河の流れか、さらさらと音が聞こえてくるようだ。それともあれは女性たちがざわめく声か…。次第に声というより、音というよりは、河の流れがからだに直に感じられてくるようだった。地面と繋がったような床、その床と繋がったような租末なベッドの上にからだを臥せているので、からだの感覚が容易く地の底を流れるものに触れるような気がする。近くにはJhelum河が流れている。大きな河だ。このJhelumの街はPunjab(「五河」の意)の一つであるJhelum河の畔に広がる。そのJhelum河は遥かカシミールのSrinagarに源を発し、峻厳な山岳地帯を切り開くようにして流れて来る。いまは国境が引かれて道は閉ざされているが、印パ分割以前はJhelum河を遡ってSrinagarまで行くことが出来た。河は山岳地帯の幾つもの谷を削るようして蛇行を繰り返し、このJhelumの地に至って初めて平原に出て、堰を切ったように奔放に流れ広がり、しばし休息するかのように滔々と流れ始める。アラビア海に達するまでにはまだまだ長い道のりが待っている。このパンジャブには、その大地も人をも征するようにして、インダスの河とその幾つもの支流が滔々と流れている。むろん私たちの歴史や時間などとは何の関係もなしに滔々と流れてゆくのだ。その大河が楽園から流れ来るという感覚がこのパンジャブの地に棲む人にはある。幾多の河が流れ、河はそこここでその表情が異なっているのをみな知っている。朝霧がもうもうと立ち籠める中、インダス河の本流を、ボートを連ねた季節的な浮橋を歩いて渡ったのはついこの間のことだった…。
 Jhelum河は、RigvedaにはVitasta河と知られている。古代ギリシアでもHydaspes河と知られたが、プトレマイオスはBidaspesとサンスクリット音を正確に記している。水源があるカシミール地方ではこの河は現在でもVeth河と知られ、「Verinagの泉」が水源として守られているという。このJhelum河を、BC326年にマケドニアの王アレクサンダーが渡った。インド王Porusの大軍を破り、さらに東を流れるBeas河まで進み、インド奥深く東進しようとしたが、部下の反対にあって果たせなかったという。二世紀にアリアンによって編集されたAnabasis」によれば、アレクサンダー大王はHydaspes 河を渡り始めたその地点に城市を築いた。それが現在のJhelumの街の始まりだと言われる。
 偽カリステネスがアレクサンダー大王の運命を預言した「物語る樹」の話を伝えているのは、カシミールの山岳地帯から幾つもの大河が平原に迸り出るところに広がるここ古代パンジャブの森でのことだ。月光も射さない真夜中のことだった。アレクサンダー大王は土地の者によって、おそらくヨガ行者ではなかったかと思われるが、鬱蒼と茂るパンジャブの森の奥深くへと案内され、いかなる言語による問いにも答えることができるという「物語る樹」の前に連れて来られた。その樹は、アレクサンダー大王にインドの地を征服することが無益であることを警告したという。史実によれば、インド王Porusとの戦いに勝利したとはいえ、激しい戦闘でマケドニア軍はそれまでにない大きな痛手を負った。そのためアレクサンダー大王はそれ以上の東進をあきらめ、Jhelum河を南へと下ってインダス河に合流し、やがてアラビア海に出て帰路についたが、インダス河に合流する手前のMultan付近で現地部族の攻撃に合い、致命的な重傷を負う羽目になった。けれども、こうした史実とは別にして、「物語る樹」の伝説には、武力による西方の侵略者を寄せ付けないインドの霊性がある、といった象徴的な意味が含まれている。とはいえその意味は、さらに時間を隔てた近代になって簡単に打ち破られたことになるのだが…。
 深い夢見とも微睡みともつかない中で、どこかしら私は永遠の夏が感じられるようなところに一人佇み、とうとうこんな遠い地にまでやって来たのかという強い感情にからだの内部から突き上げられた。からだ全体が運命的なしかも懐かしくもある強い感情に浸され、いましも涙が出そうになった。たしか日本を初めて発つときには、もうこの地には戻って来ないかもしれないという思いが脳裏を横切っていたはずだ。世界を知らない若さがそんな思いにさせていた。からだを貫くそのあまりに強い感情が今しも眠りを破るようにして私を目覚めさせようとする。夜明けが近づいたのだろうか、寝覚める前になって妙な音が耳元に聞こえてきた。流れるような、甲高いような声だった。
 渭城の朝雨軽塵を浥す/客舎青青柳色新たなり/君に勧む更に尽くせ一杯の酒/西のかた陽関を出ずれば故人無からん。
 高校の時に習い、好んで暗唱した漢詩、「元二の安西に使いするを送る」だった。その声と共に詩の内容とその光景のようなものがかたちもなく忽然とからだに浮かび上がって来るようだった。懐かしい。その懐かしさの感覚を引きずるようにして目覚めれば、どこかのモスクからFajarの礼拝を呼びかけるアザーンの声が朗々と響いていた。「アザーン(Azan)」は「聴く(Azn)」に由来する語だ。

 Eidの朝、私はまだ暗いうちに目を覚ました。四時を過ぎたところだった。ベッドから起き出し、薄暗い中で真新しい白のシャルワール・カミーズに着替えた。しばらくして明るくなるとSaeedが部屋にやって来て、私を見て満足そうな表情を浮かべた。それから彼の知遇が家にやって来たので、いっしょに歩いてJhelum河沿いにあるMaktab(私塾)へ向かった。その朝は遠い異郷の地であっても、私を<新年>のようなすがすがしい気分で満たした。「柳色新たなり」と思わず口ずさんでみる。簡易な門を通り抜けてMaktabに入り、私はMaktabを主催するShah Sahabに出会った。初老の人で、私にはすぐに彼はSaeedの師である人だと知れた。言い換えれば、SaeedにとってGuru(導師)にあたる人だ。SaeedはたしかShah Sahabのことを「Guru Ji」と呼んでいなかったか。いっぽう私はSaeedから「Shah Sahab」と紹介された。「Shah Sahab」の「Shah」とは「王」を意味するペルシア語だが、おそらく「Shah Sahab」と「Guru Ji」は同義であるように思う。Maktabの教室である建物に入ってすぐに中庭に抜けると、奥にある厨房の傍でShah Sahab自ら朝食を用意していた。客である私に朝食を食べさせてくれると言う。助手の男がいて、Shah Sahabが大鍋で揚げる食パンに砂糖をまぶしたものと香料入りチャイを手際良く私に給仕してくれる。これが実に美味い。助手は師をHakim Sahabと呼んでいた。「Hakim」とは「医療者」の意である。
 Maktabの敷地は広く、朝食を終えると今通って来たばかりの教室の建物の前に広がる庭園にまず案内された。そこには種々の花々、果実、そして薬草類が栽培されていた。私のために助手の男が種子を一つずつ採ってビニール袋に入れ、薬草の名前を書いて渡してくれる。助手の男は片目が不自由だが、そんなことを微塵も感じさせない快活さで一つずつ丁寧に説明をしてくれる。が、私にはその半分も理解できない。彼はそんなことに構うことなく説明し続けるのだった。それからふたたび中庭に入り、その一角にあるドーム型に石造りされた立派な建物に通された。そこは図書室兼薬品室だった。そこはまたShah Sahabの研究室でもあるようだ。中に入ると驚いたことに、壁にマルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東等の額縁入り写真がずらりと並んでいた。その他にも写真があったが、それらはMaktabの創始者であり先代であるAbdul Majeedi Mulang、そして英帝国による植民地支配に対して頑として戦った南インドのムスリム王Tipu Sltanだと説明された。棚には大型の書物が並び、その他数百冊の本があっただろうか。別の棚には薬品が瓶に入れられて整然と並んでいる。貧しい人に無料で薬を与えるのだとSaeedが言う。教室に戻れば、そこにはヒンディー語の「Ramayana」の書があり、グルムキ文字で書かれた大本はシーク教徒の聖典「Adhi-Granta」であろうか。このようなものをつぶさに見て、私はShah Sahabがどんな人物か即座に理解した。というか、私が勝手にイメージし、憧れていた、中世のイスラーム賢者像に難なく当て嵌めることが出来た。
 MaktabJhelum河に面し、敷地の外に出れば目の前に大河が流れる。河は褐色の流れをしていた。河幅は広く、遥か遠くに対岸が見える。河岸近くにMazar(聖廟)があり、助手の男がBaba Karam Shah Bukhariの聖廟だという。Bukhariというからには中央アジアのBukharaに由来するイスラーム聖者なのだろう。そうだとしたら、これも私のイメージに適う。かのIbn SinaBukhara出身だった。Shah Sahabという人は、中央アジアからやって来たイスラーム聖者の跡を継いでいるのだ、そう私は勝手に思い込んだ。今思えば、無知なゆえに新たな事柄に接すると頭の中が空白になるので、その空白を埋めようとしてそこに自動的に湧いてくるイメージをかたちにするだけなのだった。とはいえ、無知であることが悪いとは言えない。私の無知は天使を呼び寄せたことがあるから…。教室に戻ると、私はShah Sahabから小冊子「Mulang Nama」を手渡された。先代であるAbdul Majeedi Mulangについて書かれているという。後に読んで知ったが、先代のAbdul Majeedi Mulangという人は英帝国によるインドの植民地支配に対して積極的に抵抗するような人物だった。パキスタン独立後は児童の教育活動に専心したようだ。「Mulang」は名前ではなく、ベンガル地方の「Baul」と同義で「風狂者」といった意味である。その状況からして、「自由人」と言い換えてもいいだろう。「自由人伝(Mulang Nama)」というその小冊子から、Shah Sahabの名はSajjad Hussain Majeediと知れた。
 Shah Sahabはこの日、Eidのための用事があるようだった。私はSaeedの誘いに応じて、Jhelum河を塞き止めて造られたManglaダムを見に行くことにした。ダムまではかなりの距離があり、おそらく二人でローカル・バスに乗って行ったのではないかと思うが、記憶が定かでない。ダムはかなりの発電量がある大きなもので、その貯水湖も膨大な広がりのあるものだった。Ayub Khanが大統領の時にIMFから借款して造ったそうだ。見ると、ダムから流れ出るJhelum河で女が泳いでいる。その光景に優雅さ感じるが、その感覚はけっして空白を埋めるようなものではない。
 このJhelumの広大な流れは、「カシミール渓谷の南東に位置するPir Panjal山の麓にあるVerinag の泉にその源を発している。カシミール渓谷にあるShadiporaSind 河と、Mirgund KhannabalLidder河と合流して流れて来る。Jhelum河は深く狭い峡谷を通り抜け、パンジャブ地方に出る前にSrinagar と広大なWular 湖を横断して流れて来る。その最大の支流Neelum 河とはDomel Muzzafarabadで合流し、二番目に大きな支流Kunhar河がKaghan渓谷を流れて後に合流して来る。Circle Bakoteの東にかかるKohala橋で、カシミール西部山岳地を流れて来る残りの支流と合流する。Poonch河と合流するのもそのときである。そしてJhelumに至ってJhelum河はパンジャブの地に入り、そこからパンジャブ平原を通って流れ、Chaj DoabDoabは「二つの河の間」の意で、河と河の間の地域を示す語)と Sindh Sagar Doabの間の境界をつくっている。それからJhang地区のTrimmuChenab河に合流してその流れを終える。Chenab河はSutlej河と合流してPanjnad河となり、Mithankotでインダス河と合流する」、そう英帝国が作成した「The Imperial Gazetteer of India18811931)」には記されている。帝国は植民地の地理について詳細に調査している。「The Imperial Gazetteer of Indiaによれば、Jhelumの街は、Jhelum河の流れによって運ばれた、カシミール地方で伐採された材木の集積地として賑わっていたようだ。その材木を利用した河舟の造船業も行なわれていたという。現在はそうした関連の産業は皆無で、時代は変わり、印パ分割によってカシミールの木材は供給されなくなり、自国の産業発展のために電力を供給する必要があり、そのためJhelum河の流れはダムで塞き止められたというわけだ。
 Jhelumに戻る途中にLahoreで会った伯父さんが住んでいるというので二人で家に立ち寄ることにする。そこは見渡す限り荒れ地で周囲に家屋はなく、私からすれば荒野の真只中にある住居といった態だった。住居はこの地特有のスタイルで、防御のために敷地が泥壁で囲われていた。伯父さんに再会し、「EId MubarakEid おめでとう)」と声をかけて祝福し合う。伯父さんはSaeedと同様、人なつこい笑顔を投げかけて来る人だ。チャイを飲みながら伯父さんの話を聞いた。「ダムでは大量に電気がつくられているさ。それだというのに、この家に電気は通じていないんだ。目の前に電線が走っているよ。ほら見ろ、あそこにだ。でも、あそこから家に電線を引き込むとなると、大変なお金がかかるんだよ」。外は暑いが泥壁の家の中は涼しく、風も吹き渡り、とても居心地がよかった。こんなところに住んでいると街の中になんて住めないよと言う。それから伯父さんはシャルワール・カミーズ姿の私を見て、意味ありげな笑みを浮かべて言った。「どうだ見ろ、ターヒル。似合っているじゃないか。まるでパキスタン人みたいだぞ」と。後年になって、私はその謎めいた笑みを想い浮かべながら突然に理解したことがある。おそらく伯父さんはLahoreに来たときに私のからだの寸法を目測していたのだ。というよりは、そのためにLahoreにやって来たのだ。そして依頼された務めを果たして、Saeedの母親に伝えたのだ。そうでなければSaeedの母親がどうして私の身丈にぴったりした寸法の服を仕立てることができただろうか。そのような私の知らないところでとられていた配慮について考え廻らすと、私をめぐって何かしらSaeed家でプランが立てられていてとしか考えようがない。Saeedの父親の弟である伯父さんはその仲介役を引き受けたのだ。いまになって私はLahoreRamazanの買物に付き合ったときのことを想い出そうとする。その時間、私は私の知らないところで、ある親密な視線によって見つめられていたのだと思うと、その視線の親密さの意味を想うと、それが何かしら特別の時であったように感じられてならないのだった。私はムスリムとして彼らに遇されていたわけだが、彼らが異国人ムスリムを自らの共同体に受け入れる仕方、その配慮には、インド・イスラーム文化的なものというよりは、かつて人種と信仰が混在していたパンジャブ文化的な、そう言っていいような、古来より工夫の上に培われてきた融和の方法が感じられてならない。そうした方法が外面的に説かれることはない。いずれにしても、その仕方は内面的に培われてきたような複合的なもののように思う。さまざまな流れがパンジャブ・コミュニティをつくり出し、パンジャブ・コミュニティを再生させている。ちょうどいくつもの河が合流して大河になるように、そんなふうにして培われてきたものがある。支流を一つも受け入れない河がないように、異文化を一つも受け入れない文化はない。
 まだEidも午前中だった。Saeedと私は伯父さんの家に早々に暇乞いし、途中からダンプカーに便乗してJhelumの街に戻って来た。Saeedの家で昼食を摂った後、Saeed家の慣例になっているのだろう、家族みなでShah Sahabがイマーム(導師)をしている街中のモスクへ歩いて行った。ちょうどモスクの入口でShah SahabEidの説教をしているところだった。その内容は、ときおりパキスタンの国民的詩人であるAlama Iqbal18771938)の詩を朗唱しながら、というのは後に知ったことだが、全体としてイスラーム共同体の融和を説き、共に生きるよう鼓舞するものだったようだ。Shah Sahabがときおり大きな身振りを交え、その表情も語る内容に応じて豊かに変容させながら、雄弁に語っている。その姿を見ているうちにわけもなく私はその声音とその身振りが醸し出すものに強烈な色気を感じてしまい、次第に身体が開かれるような陶然とした心地に曝された。私は静かなる興奮状態に陥っていた。そのため、Shah Sahabの説教が終わり、みなが互いにEidの祝福のために抱き合い、いざShah Sahabと抱き合い、Eidを祝福し合うときになって妙な感情が私の意識を邪魔してしまった。Shah Sahaは説教を終えてその朝に出会った感じに戻っていたが、そのときの私はといえば、自分の抱いた感情に恥ずかしさを隠しきれないで、どうしていいか分からないような状態だった。説教という行為がShah Sahabを変容させていたのである。むろん説教の内容が、強いその宗教的感情が、私がエロティックと感じるような神秘的な力をShah Sahbの内にもたらしていたのである。Shah Sahabは初老の人である。が、普段から少しの老いも感じさせない魅力的な人物だった。その外面に接するだけでは分からないが、何かしら内に秘めたものを強くもっているのだろう。そんなふうに私はShah Sahabのリアルな側面に触れた気がした。Eidの祝福後、Saeedの家族(男性のみ)も知遇者もいっしょにみなでMaktabへ戻った。私はShah Sahabに言いようのない感情を抱いてしまい、その朝出会ったときに比べてうまく話ができないでいた。男性に対して恥ずかしいというしか自分で形容できない、そんな混乱した気分になるのは初めてだった。
 教室で美味しいサモサとチャイをいただいた。それから、Shah Sahabと私を囲むようにして、助手の男、Saeedの家族、知人たちが周囲に並び、私のカメラで写真を撮った。撮影者が入れ替わり立ち替わりしてカメラのシャッターを切り、その度に何回も何回も私たちはポーズをとった。和やかな雰囲気に包まれて私の気分はやっと落ち着いてきた。そのときSaeedが言うには、今夜の夕食をShah Sahabが私のために用意してくれているという。その日初めて知遇したばかりのコミュニティに迎え入れられて、充溢たる幸福感に包まれたのを私は想い出す。

 今日、2019年6月4日はEidul Fitrだ。酷暑のRamazanがやっと終わる。
 Eid Mubarak