Thursday, December 19, 2019

Lahore日記 The Diary on Lahore


  Lahoreの友人 二

  Shah SahabMaktab  下

 朝もとうに明るくなって目覚めるとラジオの声が聞こえてきた。隣のベッドでSaeedが横になって耳に小型ラジオをくっつけるようにして聴いている。そこから漏れ出る声を耳にして目が覚めたのだった。私が目覚めたのに気づき、Saeedがラジオのボリュームをあげ、「ほら、インディラ・ガンディーが演説している」、と興奮気味に言う。その名を耳にして、反射的に私もラジオから流れ出て来る声に耳を傾けた。録音ではなく、実況放送による声だった。目覚めたばかりの半覚醒状態ではあったが、私はインディラ・ガンディーが語る声を耳ではっきりと把握することが出来た。そのとき初めて耳にするその力強い口調に心なしか感銘したのを覚えている。1980815日のことだ。インディラ・ガンディー首相がインドの独立を記念する演説をしていたのである。ヒンドゥー語はウルドゥー語と文法が同じである。しかし同じであるとはいえ、ヒンドゥー語にはサンスクリット語の単語がちりばめられ、話し言葉の音感を大切にするウルドゥー語がその語句の流れるような甘い響きに囚われがちになってしまうのとは対照的に、サンスクリット語の破裂音が押し出されるようにして発音され、そのせいでとても明晰な言語のように聞こえてくる。ヒンドゥー語はウルドゥー語と異なり、どちらかといえば政治演説に向いた言葉になったようだ。
 Saeedはといえば、夢見るような表情でインディラ・ガンディーの声を聴いていた。その表情をいま私は鮮明に想い出すことができる。国民会議派はその年の一月に政権に返り咲いていた。インディラ・ガンディーは六月に次男で後継者のサンジャイ・ガンディーを飛行機事故で亡くしたばかりだった。おそらく暗殺されたのだろう。サンジャイ・ガンディーは悪名高い人物として知られていた。しかし、その視線をつねにインドに向けていたSaeedは、とにかくインド人民党から国民会議派への政権移行を歓迎していた。インドばかりでなく、彼はその視線をつねに外国に向けていた。社会主義社会を熱烈に支持し、また国際派を自認して世界語としてのエスペラント語を学んでいた。ちなみに、Shah SahabMaktabは「パキスタン・エスペラント協会」の事務局となっていた。おそらく当時から彼は国外に出ることを考えていたと思う。私を大学寮内でめざとく見出して付き合うようになったのも、私が外国人であったからにちがいない。部屋の中はすでに陽射しが満ちあふれ、すばらしいような明るさだった。Jhelum郊外の叔父さん宅で用意された部屋にはベッドが二つとその間に木製の小机が置かれ、それ以外の無用な家具類は何もなかった。街中とはまったくと言っていいほど異なり、どこまでも広がる大地の静寂な空気に包まれた郊外の地には慌ただしい朝の時間が微塵も流れることがなかった。家屋は木材と煉瓦と泥でできている。簡素なゆえにこぎれいな田舎の部屋で、私とSaeedはしばしインド亜大陸における〈解放の八月〉という、夢見るような時間を過ごすことができたのだった。時間が止まったようだった、そう想い出すことがある。「時間が止まる」というその感覚は、自ら時間を生み出しているという感覚に等しい。
 八月になって私はふたたびJhelumを訪れた。五月にはShah Sahabに手紙を書くことを約束して別れを告げたのだが、手紙を書く代わりにふたたびJhelumを訪れることにしたのである。しかし、そのときどうしてSaeedJhelumにいて、どのような経過でいっしょに叔父さん宅に泊まったのかをどうしても想い出せない。おそらく彼が帰省していた折りにちょうど私がJhelumを訪れたということなのだろう。私はバスでIslamabadへ行く途中にJhelumへ立ち寄ることにした。八月はRawalpindiからバスでインダス河渓谷沿いにつくられたインダス・ハイウェイを行き、山岳地帯のGilgitHunzaを旅行する予定でいた。前年の夏は、同じく山岳地域のChitralをジープで発って険しい山道を進み、途中からジープ道がないのでトレッキングしてGilgitへ入った。3800mの峠を越えるきつい旅だった。インダス・ハイウェイのルートはそれとは別の方向からGilgitへ入ることになる。外国人がインダス・ハイウェイを通るには通行許可証が要る。それでIslamabadの観光局に行き、許可証を申請するつもりでいたのである。
 朝も遅い時間になって叔父さんと三人で朝食を摂った。泥塀に囲まれた広い敷地を見渡すことのできるベランダにテーブルと椅子を出し、香辛料入りのチャイと自家製プラターの味を楽しんだ。叔父さんの話によれば、Jhelum市内と郊外とでは地価の差が歴然としていて、20対3の割合であるという。Saeedの家の出自がどこか聞いたことはないが、叔父さんは郊外のような不便でも自若泰然とした環境を好んでいるのがよく分かった。「Jhelum の語はJal()と、Ham()からなっているという。その名はカシミールの雪山に源を発する大河の流れを言い表しているんだ。でも、こんな美しいイメージも昔の話になってしまった。Jhelum河の水はインドとの<Indus Waters Treaty(インダス系河川水条約)によってパキスタンに割り当てられるようになった。しかしインドはといえば、その条約によりJhelum河の水をパキスタンよりも先に使用する権利があって、それに則ってJhelum河の支流のあちこちで水力発電所を建設している。河の流れにまで国境が影響を及ぼしているなんて、考えると憂鬱になるよ」。
 朝食を済ませた頃にSaeedの弟がやって来て、みなで近くのRhotas Fort(要塞)へ行こうという話になった。近くといってもJhelumから16Kmの距離にある。Saeedはあまり興味を示さなかったが、弟が主導して行くことになった。たしか彼は自動車の修理関係の仕事をしており、自分で車をチャーターして来たのだった。Saeedとちがって父親譲りのずんぐりした体型の弟は、インテリの兄と異なり実践家タイプの人間だった。車は廃車同然の小型トラックで、助手席に叔父さんが、荷台に私とSaeedが乗り込んだ。Jhelumから西に向かって地方道を走り、途中で河を渡って悪路を進む。河は乾期には涸れ河になると弟が大声で言う。土埃が舞い上がり、揺れが激しくひどい乗り心地だが、みなピクニック気分だった。むし暑い雨季を乗り越えたのでこの時期になるとそれほど暑さが苦にならない。Rhotas要塞はSalt Range(山系)の丘陵地帯へと通ずる小丘に広がる中世に築かれた広大な規模の要塞だった。私はその規模に目を見張った。車から降りて要塞内部に入る際に、見事なというか、「Massive」という形容がぴったりの石造りの門があった。三人がそれぞれ門の名前を口にするが、どれもこれも曖昧なものだった。いま調べてみると、Sohali 門という。「この門の稜堡の外南西側に、Sohail Bukhari という聖者が埋められているのに由来する」とある。その門を背景にして写真を撮ろうということになり、近くの高台に上がってまずみなで写真を撮った。そこから要塞を見渡すと、要塞を囲う城壁がおそらく小丘の形状に合わせるかのようにして築かれ、そのためうねるようなかたちになっているのがよく分かる。それから内部を見て廻ったが、様々な建築物がかなりの荒廃状態にあるのを見るばかりだった。人気はまったくない。かろうじて立つ案内板を読むと、要塞を築いたのは、アフガンSuri王朝のパターン人王 Sher Shah Suriで、16世紀に築かれたという。このRhotas要塞が占拠する位置は、古代から中世にかけてアフガン高地とパンジャブ平原を結ぶ交通路の途上にあり、要塞は西方からLahoreへ入る通路をブロックするようにして建てられている。つまり、Sher Shahは、ムガール王朝のフマユーン帝がイラン方面からインドに帰還するのを阻止するためにRhotas要塞を築いたのである。さらには、Salt山系一帯に跋扈するGakhar族の力を殺ぐ目的があった。Gakhar族はSalt山系の統治権をめぐり外部からの侵入者との戦いに明け暮れていた。要塞は三万人の守備兵を擁することができたという。要塞内部には、「三つのBaoli(階段井戸)がある。門のうちの一つLangar Khani要塞側に向かって開かれ、それは侵入者を罠に陥れるための門である。この門は要塞内部の稜堡に据え付けられた大砲がまっすぐに照準を合わせるそのライン状にある。Khwas Khani門は二重壁をもつ門の好例である。…要塞の建築費用は膨大なもので、『Waqiat-i-Jahangiri(ジャハンギール年代誌)』によれば、34,25,000インド・ルピーを見積もっている」。
 私たちは要塞の中へ南側の門から入ったが、主要な門は十以上あり、その門の配置の仕方からして要塞が北西部のSalt山系に向かって対峙しているのがよく分かる。そのSalt山系側の峡谷では二つの河(Kahan河とParnal 涸河)が合流して南へと向かい、すぐにJhelum河に流れ込んでいるが、そのKahan河の周囲には起伏の激しい荒地が形成され、そこはとても通行できるような場所でなく、要塞が建つ地が地形的に要衝地であることも分かる。要塞の遥か西方に目を向けると、Tilla Jogianの山並みが見える。その頂点にはヒンドゥー教徒の聖地があると叔父さんは言う。私は要塞が対峙する先に広がるGakhar族が支配したというSalt山系に興味をそそられた。Gakharは要塞の建造に際して労働力を要請されたが、自領地内に要塞が築かれるのに当然その要求を拒否したのだった。
 いったん叔父さんの家に戻り、チャイを飲みながら叔父さんから話を聞いた。「ヒンドゥー教徒によれば、Salt山系はあの『Mahabharata』のPandava族がIndraprasthaの都から追放の憂き目にあった期間に亡命していた地であると言われる。要するにだ、それくらい歴史的に由緒がある場所なのだ。また往時には、肥沃なパンジャブ平原とその範囲を越えた地域とを十文字に結ぶ交通のネットワークがあった。つまり、東西南北へ向かう交通路があった。その一つに、Jhelum河を今日のRasul村近くで渡り、Nandnaに至る坂を上がってSalt山系に入り、Salt山系に点在する緑豊かな盆地を伝ってKalabaghに出る。そこではインダス河の流れが狭まっているんだよ。そこでインダス河を渡ってさらに西に向かい、Bannuに達し、Tochi河を遡ってGhazniまで出て、最終的にはKandaharの市場に通ずる主要道があったのさ。Salt山系は古代から良質な岩塩が採れるのでそう呼ばれている。つまり、英国人がそう呼んだのだ。西南部の峡谷地帯にはかつて仏教寺院もあったらしい。廃墟になっているけれど、Taxilaのギリシア様式を摸したヒンドゥー寺院や、カシミール様式のヒンドゥー寺院の遺跡を今も見ることができる…。Salt山系の中心都市がChakwalだ。ほら、Shah SahabMaktabに助手がいるだろう。彼はChakwalの出身だ。そうだ、彼の家系はヒンドゥー教徒だった。そのChakwalの町は、カシミール南部のJammuから来たChaudhry Chaku Khanに由来する。彼がムガール王朝のバーブル帝の時代にChakwalの町を建設したのだ。Chakwalの人はパンジャブ語のPotohar方言を話すようだ…」。
 Salt山系についての叔父さんの話を想い出すにつれて、私の内部に花開くようにして鮮明に想い出てくる光景がある。Lahoreに住む間、私はLahoreIslamabadをバスで何度も往復したが、その際にJhelumの街を通過した直後に一見荒野と見まがうばかりの光景が広がる一帯があった。そこは段丘状の斜面が両側に広がる渓谷で、草木もなく辺り一面ただ赤土と岩塊がむき出しになっていた。むき出しになっているのは荒涼とした大地ばかりでなく、人の手がつけられていない気の遠くなるような長い時間もそこにむき出しになっているように感じられた。バス道路はその渓谷と交差するように通っていた。それでバスはまず渓谷の底まで曲がりくねる坂を下りて行き、そしてふたたび渓谷をうねうねと上っていくのだった。渓谷の底はおそらく涸れ河か、通常は水の流れを見ないが、雨季には濁流となって雨水が流れる地点があった。最初は初めて目にするその手つかずの荒々しい地形に感激したが、何度も通るうちに見慣れた後には、バスで通るのにも気分的にひどく疲れるところとなった。ここを通り抜ければあと少しでRawalpindiだ。またRawalpindiから戻って来る際には、ここを過ぎれば豊かなパンジャブの平原に出る、そう安心したものだ。しかし、いまはその光景をなぜか初めて見たときのように想い出す。久しく想い出すことがなかったが、脳裏に焼きついている印象深い光景だ。そこはSalt山系が始まるところなのであり、Salt山系の山並みはその渓谷地帯から西側に向かって連なっているのだった。
 いま私はRohtas要塞で撮った写真をアルバムの中から出してきて見ている。要塞内部にあるShah Chandwali門とそれを囲む稜堡を背景にして撮った写真があった。要塞をぐるりと囲む城壁の上で叔父さんを中心にして両側に私とSaeedが並んで座っている。八月の大地が発散する水蒸気のせいか背後の空気が霞んで遠くまでは見通せないが、要塞内部は見渡すかぎり低草が生えるばかりで荒地になっているのが分かる。Saeedと叔父さんは日常服である裾広がりのパンジャブ服を着ており、私だけが半袖シャツにジーンズという格好だ。私は黒地に刺繍模様が入ったキルギス・ムスリムの帽子を被っている。前年にGilgitで買ったものだ。ムスリム帽を被っているとはいえ、華奢な体つきをした色白の日本人の若者のその表情が、周囲に広がる荒涼とした光景にまったくそぐわない感じがする。叔父さんとSaeedは自然な笑みを浮かべているが、一人だけのっぺりした顔つきをした当時の自分が何でそんな表情をしているのか分からない。その表情から何を思っているのかと考えるが、そんなことはもう分からない。分からないが、かつての自分の表情を凝っと覗き込んでみる。凝っと覗き込んでいると、いつしかその白い表情から逆に見つめられるような気がしてきた。

 あれはヒンドゥー教の祠だと言うので一瞬立ち止って深い峡谷に目をやるが、険しい岩山の頂にぽつんと崩れかけた小さな建物のようなものが見えるだけだ。周囲の斜面にはまばらに灌木が生えるばかりで、ところどころ赤土がむき出しになっている。雨季の後なのでこれでも緑がある方だと言う。ここまで上りっぱなしだったので私はしばらく立ち止って息を整えることにした。照りつける陽射しはさほど強くない。けれども、急勾配の斜面を上って来たのでそれだけで汗が吹き出てくる。道はごろごろとした岩で塞がれ、道があるようでいてはっきりとした道はない。ときおり崖が崩れたように削られ、岩肌がむき出し、その崖下を道の見当をつけながら進まなければならなかった。しばし大きく息をして息を整えるが、そうするだけで周囲の静けさが身に迫ってくるように感じられる。その威圧感を振り払うようにしてすぐにまた私は上りはじめた。目の前にはいくつもの岩塊がそそり立ち、それを迂回するようにして上って行った。暑さを感じるよりも、足を一歩一歩意識的に踏みしめて前に進んでいかないと、知らないうちに目の前の特異な地形に自分のエネルギーが吸い取られるのではないかと危ぶんだ。一陣の風も肌に感じることなく、ひっそりと辺りは静まり返るばかりだ。標高が高くなるほど人気が絶えたようになって、そのぶん不安になってくる。人気どころか、無意識のうちに耳を澄ましているが、生き物の気配をいっさい感じとれない。つい先ほどまで上を歩く助手の足運びを耳にしていたのに、それさえもいまは聞こえなくなった。どこまで先へ上って行ったのか。私はズック靴を履いているが、彼はパンジャブ服にサンダル履きだ。ようやく視界が開け、数時間前にそこから上り始めたひっそりと静まりかえるBhaganwala村を見下ろすことができる地点までやって来た。わずかに平らなスペースがある。そこで助手が座って待っていた。眼下に広がる光景を眺めながら満足気な表情をしている。あの村からSalt山系に通ずる隘路をここまで上って来たのだ。その遥か向こうにはJhelum河が銀の帯のように流れるのが見える。標高はまだ600メートルぐらいだろうか。Bhai Sahab、ここには生き物の気配がまったくないね」、そう声をかけると、「いや、ときおりJanuwarが出るんだよ」と真顔で言う。Januwarは「獣」という意味だが、それが何かは見当つかない。大型のネコ科の動物か、それとも狼のようなイヌ科の動物だろうか。こんな明るいうちから獣がうろついているだろうかと言い返すと、獣はいつだって人の臭いを嗅ぎ分けるさ、そう言ってにやりと笑ってみせる。
 今朝、助手といっしょにJhelumを発ち、Salt山系の入口までやって来た。それから険しい山道を息を詰めるようにして上がりながら、私は前日に叔父さんの話から聞きとった内容、すなわちSalt山系が歴史的に多層なものを抱えているということについて考えを巡らせていた。この山並みにはイスラーム教のMazar(聖者廟)Hankah(修行場)はもとより、かつてはヒンドゥー寺院、それに仏教寺院さえあったという。考えてみれば、この地を支配してきたのは古来より北方から幾度も侵入して来たトゥルク系民族の末裔であり、またモンゴル族とトゥルク系民族の混血すなわちムガール族であり、はたまたパターン人等のイラン系諸民族であった。この地には様々な人種と部族が行き交い、そのことによって様々な信仰の痕跡が遺されている場所なのである。その多層なものの在り方について考えを巡らしながら、いま私はこの山道を上り詰めたところにあるNandna要塞に向かっている。そこにはヒンドゥー王朝が築いた要塞跡と廃墟になったヒンドゥー寺院があるという。
 午頃ようやく山並みの頂き辺りに達した。そこからやや下った比較的平らな地にNandna要塞の跡がぽつぽつとあった。それほど広くない範囲内に、モスクの廃墟、ヒンドゥー寺院跡、といったものが見られる。すべての建造物が往時のかたちを留めず、ヴィシュヌ神が祀られていたという寺院は二つの崩れかけた壁が立っているにすぎない。屋根もない残骸といった状態にあった。しかし、その建造物はかなりの高さのものであり、往時の規模の壮大さが推測される。わずかに遺る壁に彫刻された文様からしてその様式はカシミールのものであり、カシミールの王が建てたものと断定されているという。寺院の廃墟を背にしてその足下に広がる峡谷を眺めれば、Salt山系の険しい地形に沿って築かれた古代の要塞壁の跡を見ることができる。粗雑に組まれた石壁ではあるが、間隔をおいてがっしりとした半円型の銃眼つきの胸壁が配置されているのがはっきりと見える。また石壁の周囲や要塞内の平らな一帯には古い住居跡らしきものが遺っているのが分かる。そこに地面を掘り返した跡が点々とあるのに私は気づいた。「盗掘が頻繁に行なわれ、往時を検証できるものはもう何も残っていない」、そう助手が言う。要塞壁には二つの稜堡があり、そのうちの一つに砂岩でできた大きな井戸の跡だけが遺っていた。「このNandna要塞はここを通る交易商人から税を徴収する目的でつくられた。そればかりでない。アフガンからの侵入者を防ぐ目的もあったという。この要塞のすぐ近くにNandna山道が通っていたんだ」。
 山並みの頂き付近を越え、北に向かってジグザグの道を下り、午後遅くにAraの盆地に出た。山並みの南斜面とは打って変わってその北側には灌木が茂る涼しげな場所がある。Araはオアシスのような小村で、そこにある簡素なレストハウスに泊まることにした。レストハウスと言っても名ばかりで、部屋の壁は崩れかけ、そこに設備された電球には電気も通じていない。むろん配線はされているが、通電されていないのだ。手洗いの水がかろうじて出る。年配の管理人が用意してくれたチャイと簡単な夕食を摂り、あとは石油ランプの明りで夜を過すほかなかった。ランプの明りに虫も集まって来ない。静かな夜だった。外に出れば夜空に無数の星が瞬いている。部屋に付属するベランダに出て、助手と向き合って彼の話を聴いた。助手は自然科学全般に興味を抱く合理的な考えの持主だった。顎髭を生やし、いつもイスラーム帽を被ってはいるが、その考え方はイスラームの思考形式にこだわらないものだった。口にはしなかったが、おそらく私が偽ムスリムであることもすでにお見通しだったろう。
「古代から現代に至るまで、Salt山系が重要であるのは大量の岩塩が採れることだが、中世になってこの方、岩塩と石炭は火薬製造に使用するためにも採掘されてきた。それで、その支配権をめぐる攻防が絶えなかったのだろう。けれども、そうした戦略的な面だけがこの地を特徴づけているのではない。Salt山系は特異な地形であり、そのことによって多くの宗教者を魅了し続けてきた場所でもあったのだ。一千年の間、Salt山系のいたるところにあった聖なる森や洞窟は何百人ものヒンドゥーのヨガ行者やムスリム修行者にその隠遁場を与えてきたと言われる。それでシーク教の創始者Guru Nanakもこの辺りまでやって来て四十日間の瞑想をしたそうだ。さらにその昔には、Salt山系の西の果て、インダス河のすぐ東に位置する辺りに仏教王国があった。中国僧がそう記している。おそらくその王国にはTaxilaに遡ることのできる仏教寺院があっただろうかのVasbandhu(世親)Taxilaからこの辺りまで来ていたのではないか。その仏教寺院について言えば、その内部に外界とは異なる特別な空間を現出させるためにつくられたのではないかと思う。外から見ても解らないが、いったんその内部に入ると、そこには時間や空間が生まれて来るような空間がある。そういうことを昔の仏教徒は考えたのだ。こうした空間をつくるのは雑多なものに汚染された市井においては難しい。そのためにわざわざ過酷な自然環境が支配する場所を好んで選び、そこに特別な空間をつくり出し、それを維持することに傾注したのだ。それに倣って、ヒンドゥー寺院はその後からつくられるようになった。とにかく、寺院というものの基本はこの特別な空間にあると思う」。
 前年にインドでAjanta石窟寺院を経験した私は、彼の言う<特別な空間>という考えを理解することができた。石窟寺院は自然洞窟に似るがそうでない。その空間はわざわざ岩を刳り貫いてつくられ、そのせいで空間の密度が肌に染み入るように濃く感じられる。空間を占めるその充満感覚は外界とは異なる<特別な空間>そのものであり、そこで瞑想する仏教徒はそうした<特別な空間>を翻って自身の内部に見出そうとしていたのである。
Nandnaはもともとヒンドゥー教徒の地であり、また学問の重要な中心地でもあったようだ。天文学者Al-Biruni(9731050)のような人を魅了し、Ghazniにいた彼はサンスクリット語やインド科学を学びにNandnaまでやって来た。ここで彼は何と地球の外周距離の測定をするという偉業を成し遂げた。1017年のことだ。中世の時代であるにもかかわらず、その数値はきわめて精確なものだった。彼が研究のために居住した建物がどんなものだったか今となっては分からないが、おそらく今日見たヒンドゥー寺院の規模からして、あそこに間違いないだろう…」。
 仕事を片付け終わったのか管理人がやって来て、Nandna要塞をわざわざ見に来る人は少ない。それというのも、要塞に女の幽霊が彷徨っているからだと言う。聞くと、昔、要塞の王が村の娘を要塞のハレムに連れ込もうとしたのが、女は要塞から飛び降り自殺して幽霊となったというお決まりの物語だ。おそらく盗掘を案じた者がでっちあげた話だろうが、その効き目はなかったわけだ。しかし、管理人はわざわざ幽霊話をしに来たのではなく、私たちに早く部屋に入って休むよう催促しに来たのだと私たちにはぴんときた。そそくさとランプの明りを消し、私たちは渋々黴臭い部屋に入って各々のベッドに戻った。私はすぐにベッドに横になったが、今日の旅程とそれを巡る思考のせいで気が高ぶっていた。まんじりともしなかったが、要塞を彷徨う哀れな女の霊に想いを馳せつつ、何とか眠りについた。

 朝早くにJhelumのバス・スタンドからローカル・バスに乗り込み、Rawalpindiへ向かった。いつもLahoreから乗り込む直行バスと違って走行が遅く、乗り心地は最悪だ。赤土がむき出す渓谷に至るとそのまま大地の底の底まで下りていくような気がしていつになく疲れを感じる。ようよう午近くにRawalpindiに着くと、いつものように新市街のSaddarにある冷房の効いたレストランでビーフ・バーガーの昼食を摂る。Rawalpindiは暑い。Saddarからワゴン車を乗り継いでIslamabadへ向かった。Islamabadの観光局でインダス・ハイウェイの通行許可書を申請する。係官はことのほか愛想が良く、申請は難なく受理され、一時間後には許可書を手にすることができた。その足でIslamabadの商店街まで歩き、Abparaのバス・スタンドでPirwadhai行きのバスを待つが、バスが来る度に我先に乗り込む乗客でいっぱいになり、数台を見送った後にようやくバスに乗り込むことができた。もう四時だ。バスはRawalpindi台地の西の果てに位置する、荒地に佇むイスラーム聖者(Pir)Wadhaiの修行場があることで名づけられたバス・スタンドに着いた。バス・スタンドには大型バスがひっきりなしに到着しては出発し、その乗降客でごったがえしている。バスを降りてすぐにGilgit行きのバスを予約しにチケット売場に直行した。Gilgit行きを告げると、売場の男が明日のバスの最後のチケットだと言ってにやりとする。バスは朝四時半の未明に出発するのでどうしてもこの周辺で宿をとらなければならない。しかし、バス・スタンド周辺を歩き回っても<Hotel>の看板は見当たらない。仕方なく茶店に入ってチャイを注文すると、リュックをもった私を目敏く見定めた店の主人がGilgitへ行くのかと声をかけてくる。そうだと答えると、バスは朝早いから店の屋上で宿泊するといいと勧められる。どんな場所かと屋上へ案内してもらうと、フラットなスペースに幾つもの簡易ベッドが並ぶだけで、雨風を防ぐものは何もない。主人に雨が心配だがと言うと、ちらっと空模様を見て、雨は降らない、心配ならばブランケットを貸すから持って行けと言う。その夜、雨は降らなかった。しかし、夜中の砂嵐には往生した。

 夜中に物音で目が覚めると、助手が部屋の扉を開けて外に出るところだった。どこに行くのだろうと訝り、自分も起きて部屋の窓から外を覗くと、外は真っ暗だが、助手がベランダの前の空地に立って夜空を凝っと見上げているその影が見える。影は身動ぎもしない。星の観測でもしているのか。私はベッドに戻って横になり、ふたたび考え事の徒労に陥ったがそのうち寝入ってしまった。翌朝、チャイとトーストとオムレツの朝食を摂りながら、私たちはふたたびNandna要塞を訪れることに決めた。助手はAl-Biruniの仕事場を確認したかったようだ。前日歩いたのと同じ道を行くので不安はない。というよりは、インドへの侵入者たちはすべて山側からインド平原へとアクセスしたのであり、そう考えれば、その方向へ進む方がどちらかと言えば違和感がないような気がした。歩きながら助手が話をし始めた。
Al-Biruniはアラビア人ではなく、Khorazm出身のイラン系の人だ。多くの言葉を解したという。かのIbn Sinaとも手紙を交わすことができるくらいの有能な人物だった。GhazniMahmud王による侵攻の際に囚われの身となり、Ghazniの宮廷に連れて来られた。不自由な身ではあったが、Al-Biruniにとっては幸いにもそこからインド世界は目と鼻の先だった。彼はインドの科学に興味をもっていたのだ。そのときに北インドは初めてイスラーム勢力に攻略されたとはいえ、パンジャブ地方はまだヒンドゥー教徒が住みつく世界だった。Al-Biruniがサンスクリット語や他のインド諸語を学ぶことのできる環境は十分に残されていた。そのおかげで、彼はインドの著名な天文学者にして数学者であるAryabhata(476550)Brahmagupta(598668)が著した書物を読むことができたのだ。当時はNandna要塞のヒンドゥー寺院も完全なかたちであり、その尖塔の内部には、その中に折り畳まれるようにして三つの階層の空間がつくられていたようだ。そして、その最上部の階には部屋と歩廊があった。その最上部の部屋は、Nandnaの要塞がMahmud王の侵攻を受けたことを考えると、防御的な必要のために造られたのかもしれない。いや、最上部の部屋があるいは宗教的な儀式のためのものだったか、それとも、その覗き穴から敵の侵攻を〈見張る〉ものだったのか、それについては分からない。が、その構造はSalt山系にある寺院特有のものであるという説がある。それで、いずれにしてもAl-Biruniはその<見張台>から天体観測したのではないかと私は考えたんだ。昨夜はそう考えついて眠れなかったよ。瞳の花が咲いたようになって、つい外に出てみたんだ。すばらしい満天の星に釘付けになってしまった。そのうち東の空が明るくなったと思ったら、満月に近い浩々とした月が出てきた。その月明かりで足下も明るくなったよ。この月明かりなら、あの寺院の尖塔の最上部の部屋からJhelum河が銀の蛇のように這っているのが見えるに違いない、Al-Biruniはそれを見たのに違いない、そう思って胸がいっぱいになった…」。
 Al-Biruni は「Tarikhul’Hind(インド誌)」という本を著している。その内容はその時代にしては特異なものだ。インドのサーンキヤ哲学の紹介に始まり、サンスクリット語の詩の音韻論、インドの度量衡について、インド天文学批判、太陽の周期や月の公転によるインドの時間概念について、その微細な時間と天文学的な時間について、それに相応する数論等、多岐にわたっている。「インド誌」とはいえ、その内容は主に科学的なものであり、身分制度についてもきわめて合理的な解釈がなされている。
 八月にしては気候が穏やかだった。西からやって来たインドへの侵攻者がすぐにJhelum河畔に下りずに、Salt山系の山並みに沿うようにしてインドへとアクセスしたのはその気候的な面が大きいように思われる。いったん平原に下りれば、そこは暑さで耐え難かったに違いない。またSalt山系の南側斜面の水は塩分を含み、飲料用には向かないようだ。うねうねとした穏やかな坂を上りきって私たちはふたたびNandna要塞に出た。助手が活発な調子で話し続ける。
「ターヒルBhai(「兄弟」の意で親しい間で呼びかけに使う)、Al-Biruniがアストロラーベを使って地球の円周距離を実際の距離の二%の誤差で計測したのはここからなんだよ。ここは人類にとって記念すべき場所なんだ。彼は地球の自転や太陽を周回する公転、それに月が地球を周回する公転についても知っていた。だから、日蝕や月蝕の仕組みを明確に示すことが出来たんだ。Al-Biruniの手になる太陽と地球と月が運動するその関係を描いた相関図があるんだが、そこには月や日の際に三つの天体がとる位置が示されている…」。
 私はといえば、Nandnaの地からあらためてインド平原を見下ろして新たな感慨を深くした。アレクサンドロス王とその兵士たちもここからJhelumの河を見下ろしたに違いない。そして、とうとうインドの地にやって来たと実感したはずだ。しかし、雑多な人種から成る兵士たちがその心中で何を考えていたかは千差万別だ。同じ時に中世インドに触れたAl-BiruniMahmudという対照的な二人は、一人はトゥルク系の人でインドを破壊し、強奪し、もう一人はイラン系の人でインドの地について科学的な書物を著したのである。二人とも西からやって来たがインドに対する姿勢はまったく異なるものだった…。
「ターヒルBhaiSalt山系では昔から岩塩が採れるので英国人がそう呼ぶようになったのだけれども、ここでなぜ岩塩が採れるのか知っているかい」。
 私は彼が何を言おうとしているのかすぐに理解した。<ゴンドワナ大陸説>について本で読んで知っていたからである。このSalt山系は地質学的にも特別なところなのだ。インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかって出来た褶曲がヒマラヤ山脈やヒンドゥークシ山脈であるが、その周縁部にはかつて海底であった地層が押し上げられて地上にむき出しているところがあり、それがSalt山系なのだ。岩塩が採れて当然な場所なのだ。いま調べてみると、それを<Salt山系断層>と言う。赤土がむき出しになって段丘状の斜面が走るところは、そこが断層の一部であることを示している。このSalt山系一帯に前カンブリア紀からカンブリア紀にかけての堆積岩層が広がり、その周囲を白亜紀の地層が取り囲んでいる。
Salt山系の岩塩はこの山並みの南側斜面で、凝集した岩というかたちで産出される。その岩塩層は世界でも最大規模の埋蔵量をもつと言われている。このSalt山系はもともとイスラームの歴史家にはMakhialah丘陵、あるいはKoh-i-JudJud丘陵)という名で知られていた。主な山系は、3,701フィート(1214m)あるChail山から始まっている。その山系はJhelum河の西側から生じる三つの尾根が合わさって形成されていて、その北東部に生じた渓谷によってヒマラヤ山脈の外側の層から隔てられているんだ。これらの尾根のうち最も北側のものがSultanpur辺りで河岸から突然に隆起し、それからJhelum河とほとんど並行するようにして25マイルの距離を西側に向かって走り、それから40マイルの距離の後にふたたび山系に合流している。それはNilli丘陵と呼ばれている。そしてRohtas丘陵として知られる二つ目の尾根は、Nilli丘陵とJhelum河の間の中間を走り、それと並行している。そこにRohtas要塞があり、3224フィートのTilla丘陵もある。三つ目の尾根はPabbi丘陵で、Jhelum地区の南部に隆起し、しばらくして河谷に向かって沈み、ふたたびJhelum河の北岸で隆起し、最終的にChailの山頂で他の二つの尾根と合流している。その合流した山系はふたたび二つの山並みに分岐して西に向かって走り、最終的にSakesar丘陵で最高点に達する。その標高は5010フィート(1644m)ある。これらの丘陵から構成される山系の間には、いくつもの山の頂、肥沃な高原、絵のように美しい渓谷がある。その中央部にはKallar Kaharの美しい湖もある。Sakesar丘陵から西側で山系はインダス河に向かって北西部へ食い込むように走り、対岸にKalabaghがあるMariに接すると西側にふたたび隆起して、Khattak-Maidani丘陵へと続いている。Kalabaghにはかつてダイアモンド鉱があった…。以上がSalt山系の全貌だ。総じて山系の光景は荒涼として険しく、しばしば崇高な美を露わにするときもあるが、柔和さや自然の美しさに欠けたものだ。しかし、それはそれとして十分なのだ…」。
 この地には人間の歴史ばかりでなく、地球の壮大な時間も刻まれている。インド平原を見下ろしつつ二人でそんな想いを共有し、私たちは断層から成る山道を下って行った。

 まだ暗いうちに起きて旅支度をした。夜中の砂嵐で体中砂まみれだが構っていられない。バス・スタンドはもう人で溢れかえり、あちこちの茶屋の軒先で湯気が立っている。Rawalpindi台地の朝は八月でも気温が下がる。下の茶店でチャイを飲み、身体を温めて一息つく。湯のように薄いチャイだが、旅行中の朝はこれがないと何事も始められない。いよいよインダス河渓谷を遡ってGilgitまで行くのだ。逸る気持ちでバスに乗り込むと、座席はGilgitへ戻る地元の人ですでに埋まっている。やむなく最後部に座ることになった。なぜシート・ナンバー方式にしないかと車掌に尋ねると、以前はそうだったのが、一度座席のことで乗客の間で大喧嘩になり、それ以来廃止になったという。一人おいて隣の席にKarachで勉学しているというHunza出身の若者が座った。彼は隣のパキスタン人に、「これからは教育が大事だ」と力説している。Hunzaの人はそのほとんどがイスマーイル派で、外国に住むAgha Khanをイマームとして信奉しているようだ。そのHunzaでは氷河が山を削って流れて来る水があり、その水には黒雲母が混じり黒く濁っている。地元の人は本物の〈Mineral Waterで28種類の鉱物質を含み、身体にいいと言って目の前で飲んで見せる。私も勧められたが断った。おそらくこの若者も飲まないのではないかと後になって想い出した。私は初めて旅するルートに夢中でそれ以上バスの中の会話に注意が向かなくなった。バスは予定出発時刻よりも三十分早い四時に出発した。まだ暗いのでどこを走っているのか見当もつかなかったが、辺りがぼんやり薄明るくなる頃にはもう山中を走っていた。AbbottabadMansehraの山岳地帯にある街を通り、五、六時間山道を走った後にようようインダス河に出た。<Mighty Indus>の美しい緑の谷が目の前に開けてくる。渓谷は深く、そしてかなり広い。バスはハイウェイを走るが、インダス河には幾つもの支流が流れ込み、その度にハイウェイは小さな谷に入り、またインダス河に戻るという経過をたどるのでいやというほど時間がかかる。支流の谷にはわずかしか橋がかけられていない。同じような行程で同じような光景が目の前を過ぎてゆく。私はバスに揺られてついうとうとしてしまう。その間に渓谷の深さはさらに増し、周囲は三千メートル以上はある山に囲まれていた。Chillasまで上がってくると緑はなくなり、山の岩肌が迫って来る荒涼とした光景が続くようになる。夜の十時過ぎになってようやく寝静まるGilgitの街に着いた。前年に宿泊した<Hotel Indus>に宿をとる。朝を迎えてもGilgitの街は静かなままだ。バザールは閑散とし、旅行者の姿も見かけない。夜になるとぐっと冷え込み、ここではもう夏は終わり、すでに避暑のシーズンは過ぎたようだ。翌日、ジープでHunzaに向かう。助手席に座ると中年の運転手が気さくに話しかけてくる。きれいなウルドゥー語を話す。「昔はGilgitHunzaとの間の谷道はとても危険な道のりだった。それでジープのドライバーは女性にもてて、美女と結婚できたんだよ。というのも、ジープでいつでもGilgitまで買物に出かけられるからさ」。また、「Agha Khanは未来を語ることができる。それに対して、Moulvi(イスラーム正統派教説師)は嘘をつく」。Hunzaの部落に着いても道行く人は少なく閑散としていた。<Tourist Hotel>に部屋をとるが、シャワーから出る水の冷たさに驚いてしまう。まだ午を過ぎた頃なので農道を歩いてMir-e-HunzaHunza城)に行く。700年前の建造物だという。石を積み上げて土台となし、その上に建てられた巨大な木造建築である。残念ながら中には入れない。背後には五千メートル級の雪山が迫り、そこにルビー鉱があるという。何を言っているのだろうと思って聞き流していたが、その帰る途、農道で赤黒いガラス状の小さな鉱石が落ちているを見つけた。拾って見ると研磨されかけて途中でやめたようなルビー原石の欠片らしかった。いまさっき聞いた話が頭の中で突如として現実となった。翌日にHunzaを発ってGilgitに戻り、Gilgitで一泊した後、運良く天候が良かったのでGilgitからIslamabadまでプロペラ機で飛んだ。IslamabadからふたたびJhelumに寄り、Saeedといっしょに列車でLahoreへ帰って来た。SaeedがまだJhelumにいたのは、おそらく彼はLahoreでの職を失っていたのである。Lahore駅からRana Sahab邸へと直行し、私はその夜Rana Sahab邸で泊まったのだ。慌ただしい旅の時間を過ごして疲れていた。その夜遅くになって詩人のHabib Jalibが泥酔状態で現われた。すでに八月も下旬に入っていた。
 Lahoreに戻る列車の中でSaeedが、Gilgitくんだりまで行くよりもせっかくMaktabの助手がSalt山系のヒンドゥー寺院行きを誘っていたのにどうして断ったのかと言う。私は、ヒンドゥー寺院へも行きたかったが、どうしてもHunzaへ行っておきたかったのだと答えた。