Saturday, July 13, 2024

Lahore日記 The Diary on Lahore

三 パンジャブ回廊


 13  Muharram()Ashura儀礼

 

 「Muharram」はイスラーム世界でのヘジュラ暦の最初の月を言い、いわば「一月」を意味する。「Ashura」はアラビア語で数の「十」を意味し、それゆえ「MuharramAshura」とは「Muharram月の十日」を意味する。しかし、「MuharramAshura」といえばそれ以上の日を意味する。ことにシーア派にとっては特別な日である。その日行われるAshuraの儀礼は、ムハンマドの孫にあたるHussein ibn AliKarbalaの戦いで殉死したのを哀悼するものである。その出来事は680年にイラク南部のKarbalaで起きたとされ、世界のシーア派ムスリムは毎年そのために盛大な追悼行事を行っている。

事の次第は次のようである。

661年、第四代カリフであるAli ibn Abi TalibKufaのモスクで暗殺されたのを受けて、Aliのライバルでシリア総督であったMu’awiya ibn Abi Sufyanがイスラーム指導者としての地位を確保するためにウマイヤ朝を興した。Mu’awiyaAliの息子のHassanからおそらく自分の死後に指導者としての地位を返すという約束を取り付けて、カリフの辞退を承諾させた。しかし、HassanMu’awiyaに唆された妻に毒をもられて八年後に死ぬ。一方のMu’awiyaは息子のYazidを自身の後継者にする手はずを整えた後の680年に死ぬが、Hassanの死を受けてMu’awiyaとの協定による束縛を意に介さぬ弟のHussein ibn Aliは、カリフとなるYazidに忠誠を誓うことを拒否して、Yazidがカリフに就く前に反乱を起こす決心をした。メッカにいたHusseinKufaから悪評高いYazidの打倒を支持する幾多の信書を受け取り、全家族とそれに付き従う男たちと共にメッカを出立してKufaに向かった。しかし、Kufaから85kmほど手前のKarbalaに至ると、Husseinの到来を事前に知ったYazidの命令を受けたウマイヤ軍に待ち伏せされ、包囲されてしまう。そのためHussein一行は水の供給さえ断たれてしまう。この待ち伏せは680年のMuharram()の第一日目に起きた。それから九日間のあいだにHusseinは二人の息子、義理の兄弟、他の男仲間たちが次々と殺されるのを目の当たりにした。そして十日目にYazid軍の攻撃は猛威をふるい、Husseinは惨殺される。Husseinの姉妹Zainab、娘の‘Ali Zayn al-Abidin等の女たちはYazid軍の捕虜となり、それ以外の者はすべて殺された。Husseinを支持したKufaの人々はこのとき彼と共に戦わなかったという。

語り継がれている話によれば、Husseinは敵の剣や槍で45ヶ所の傷を負い、身体を35本の矢で射抜かれ、その左腕は無残にも切り落とされ、そして切り裂かれた。その胸は数本の槍に貫かれていた。そして、屍体となったHusseinの首に槍が突き刺され、首骨が胴体の重さで折れるまで持ち上げられ、そのまま首は槍に串刺されて戦利品としてYazidの下にもたらされたという。残された首のない胴体は騎馬兵によって踏みしだかれ、蹂躙されるままになった。

こうした悲劇的な戦いに至った経緯を補足するならば、Aliがカリフであった時からすでに「Shiat Ali(Aliの党派)」と呼ばれる集団がAliの周囲にできていたらしい。それゆえ、「Aliの党派(シーア派)」にとってAliが最初のイマーム(指導者)であり、その子Hassanは第二代イマーム、そして殉死したHusseinは第三代目のイマームにあたる。イスラーム研究者たちによれば、Aliまでのカリフがイスラームの原理によってイスラーム共同体を仕立てようとしたのに対して、ウマイヤ朝を興したMu’awiyaはもっぱら自らの野心を実現するためにイスラーム帝国を仕立てようとして王朝を起こしたのだという。このことはAliの党派からすれば、ムハンマドが唱えた「Umma(イスラーム共同体)」の実現への努力を逸脱するものであった。要するにKarbalaでの戦いは、ムスリム共同体がすでにその初期に分裂し、二つの敵対する集団がイスラーム共同体の主導権をめぐって争う流れの中で否応なく起きたものだったのである。

最初、「Tawwabun(後悔する人)」と知られる集団がHusseinの墓に集まり、彼の死を悼んだと言われる。彼らの多くはKufaに住む人たちで、Karbalaの戦いの際にHusseinを支持しながら戦いに参加しなかったことを深く悔いる者たちだったという。TawwabunHusseinを称える詩をつくり、それを朗唱した。そして、「Ya la Tharat al-Hussein(おお、フセインのかたきを討つ者よ)」と繰り返し唱えたという。いっぽう、ウマイヤ朝はAliの党派を迫害し、イスラームによる統治の主流から追いやった。またKarbalaの戦いの記憶を消し去るために公衆が集まる場でHusseinの死を悼むのを妨げたが、それにもかかわらず当時のイマームたちはHussein追悼の儀を秘密裏に行い、そこでKarbalaの戦いについて詳しく語り継がれてきた話を朗唱することで、Husseinが虐殺されたAshuraの日を記念し続けたという。

ウマイヤ朝(661750)の支配が終わってアッバース朝(7501258)が興ると、ウマイヤ朝に抵抗した勢力を取り込むためにHussein追悼の行事に関する制限は緩和され、行事はモスクでも行われるようになった。その後ブワイフ朝(9321062)が興ってバグダッドを支配下に置くと、バグダッドでは公の場で追悼行事が行われるようになった。歴史上最初に公然と市場を行進する追悼行事が記録されたのはこのブワイフ朝の治世下においてである。963年のMuharram月の十日(この年は二月八日だった)に、イラク司政官Mu’izz al Dawlah(915967)はバグダッドの市場を閉めさせ、追悼の標として黒服を着るよう命じた。女性たちはきめの粗い羊毛の衣装を着て、顔を覆うことなく、髪は乱れたままで、顔を打ち、Husseinの死を嘆き悲しむために市場に集まったという。ブワイフ朝はカスピ海沿岸の山岳地帯に住む部族であるDaylam族によって創始され、後に十二イマーム派を志向した。彼らはササーン朝ペルシア期には精悍な傭兵として知られ、七世紀のアラブ人によるササーン朝征服の際にはアラブ人と徹底的に抗戦した。そうした背景もあって、彼らはイスラーム支配下にあってはシーア派を信奉した。

シーア派によるHussein追悼のこうした持続的な展開があるのは、ムハンマドの死後にAli ibn Abi Talibを核にして「Aliの党派」と呼ばれたシーア派が、後にその党派の正当性をAliに、さらにはウマイヤ朝のカリフに対してAliから継承するイマームの正統性をかつて実際に起こったKarbalaの悲劇を訴えることで主唱し、そのためKarbalaの悲劇はシーア派にとって自らの存在理由を証言する際に最も象徴的な意味をもつ出来事となっていたからである。

とはいえ、Kalbaraの悲劇があってすぐに現在行われているようなAshura儀礼があったのではない。最初は追悼行事であったのが、次第に、Husseinの虐殺された状況を再現し、その苦しみを追体験する儀礼へとそのかたちを変えていったようだ。現在行われているAshuraの儀礼の際にはHusseinが受けた苦しみを自身のものにしようと身体を自傷する行為が際立っているが、これについてももともとイスラームにとって異質な要素であると考えられている。それはシーア派に改宗したイラン人の古い信仰を通じて浸透したものではないかと考えられてはいるが、イスラームの中でシーア派が政治的にその勢力を体現し始めるのはサーマン朝(875999)の興隆によってである。とはいえ、サーマン朝はイラン東部のKhorasanを中心にした地方王朝である。おそらく、異質な信仰を内に抱え、追悼行事の際に自傷行為を認めたブワイフ朝の963年以前には、自ら主導してAshuraの追悼行事を公然と行うほどの十分な政治力はシーア派にはなかったはずであるから、公での自傷行為も正統シーア派主導のものではないと考えられる。

 

現在行われているKarbalaの悲劇を追悼する一連の儀礼には三つのものがある。一つは「Rozeh-khwani」と呼ばれる、第三代イマームであるHusseinの人生と受難を劇的な語り口で朗唱する儀礼であり、二つ目は、Ashuraの日に男たちが黒服に身を包み、街路や市場を行進しながら行う、胸を叩き、自身の身体を傷つけてHusseinの苦しみを追体験する「Zanjir zani」と呼ばれる儀礼であり、三つ目は「Taziyeh」と呼ばれる、Karbalaの悲劇を劇的に再現するものである。このとき、Taziyehを見守る聴衆も悲嘆が高ぶるあまりに涙を流し、咽び泣きながら自身の胸を打ち叩くことになる。二つ目の、自身の背中を先端に刃物がついた鎖で打つ儀礼「Zanjir zani(鎖打ち)」について言えば、それが公衆の面前で行われるということからすれば、この血にまみれた振舞いは個人的な行為であるよりも共同体的な行為と考える必要がある。明確な共同体意識がまずあり、儀礼の際の意識の高まりの中で自らの信仰の力を周囲に示すために自傷行為を選ぶのである。それゆえそれは突発的に行われるのではなく、おおかたよく制御された環境の中で行われている。

この「Lahore日記」の冒頭で、私は「Zanjir zaniの儀礼をLahoreで実際に見てその様子を書き留めておいたが、現在はイスラーム世界のどこのAshura儀礼においてもそうだが、男たちが鎖の先にナイフがついたものを背中に振り下ろし、ナイフの先で背中を傷つける血まみれの行為は、それがAshura儀礼の核心であるかのように行われている。中には額を刃物で傷つけ(Sina zani)、顔を血で真っ赤に染める者もいる。本来ゾロアスター教徒や仏教徒のみでなく、イスラーム教徒も人の死に際して嘆き声を上げることや公の追悼を認めていなかった。ましてや自傷行為などもってのほかである。自傷行為は信仰にそぐわない行為のはずなのである。それが信仰の力を表明する行為となったのは何故だろうか。Husseinの追悼行事がその基盤を獲得し、十全に受け入れられようになったのはシーア派の伝統においてであるが、「Zanjir zani」のような自傷行為はイスラームのものではなく、イスラーム以前の東部イラン系の人々の慣習にあったものか、もしくはシーア派イスラームに改宗したトゥルク系の部族による慣習であったか、いずれにしても、イスラーム外部からの影響によるものではないかと考えられる。カスピ海沿岸の、極めてササーン朝の影響が色濃いイラン系部族が興したブワイフ朝期に、Ashuraの追悼儀礼の際に女性が顔を打つような自傷行為を認めるようなかたちを呈するようになったのも、そこに民族的にも信仰的にも複雑に入り組みあったイスラーム周縁世界の影響が強く働いていたからではないだろうか。

私が見たLahoreAshura儀礼についても、それはLahore特有の様式で行われていたようだ。Baba Gamay Shahは十八世紀の初頭にMaharaja Ranjit Singh(17801839)の治世下で生きたスーフィーの徒であるが、彼がMuharram月の始まりに紙で「Taziyeh(霊廟のミニチュア)」をつくり、九日目にそれを頭上に掲げ、城市の南側のMochi門に行き、そこから城市内を通ってBhati門を出たところにある自分の住処に戻って来たのがLahoreAshura儀礼の始まりであると言われる。「Taziyehは「追悼」を意味する語で、もともとKalbaraの悲劇を再演するものであり、そうした意味でイランやアラブ世界では最初期から行われている儀礼だが、インド亜大陸のムスリム社会では特にHusseinの霊廟を模したミニチュア細工物を言う。その材質は様々で、竹と紙でつくられたものや、恒久的に金属でつくられたものもある。そうした<つくりもの>がMuharramの行進儀礼の際に繰り出され、それを囲むようにして追悼参加者が街路を練り歩くのが行事の中心である。Gamay ShahBhati門を出たところのData Ganj聖廟の南にある現在Karbala Gamay Shahとして知られる地に埋葬されたが、アフガニスタンからやって来たQizilbash家が、Karbala Gamay Shahがある土地とGamay Shahが埋葬された土地を購入し、英国統治に変わった後の1877年、そこにシーア派の信仰の場であるImambargah(十二イマームの家)を建てた。このKarbala Gamay ShahLahoreで最も古いAmam Bara(Imambara)とされる。

このQizilbash家が、それまでHusseinの霊廟を模したTaziyehを繰り出す行列という儀礼概念しか知られなかったLahoreに、他のイスラーム世界で知られていたAshura儀礼を導入した。それによってLahoreでのAhura行事は際立った哀悼と悲嘆の中で行われるものとなり、Taziyehはもとより、預言者の家族を示すAlamを高く掲げ、Husseinと最後を共にした白馬であるZuljinahを伴った、現在行われているような行列へと展開されることになった。Gamay Shahが行進を初めて行ったのはシーク教の統治期に遡るが、英国植民地となって以来、儀礼の行列はTaziyehの壮麗さや豪華さにおいてよりまさる規模のものになったという。

Qizilbashとは、十五世紀後半からアゼルバイジャン、アナトリア地方、アルメニア高地、コーカサス、クルディスタンにおいて勢力をもっていた主にトゥルク系シーア派集団による多様な組み合わせから成る半遊牧民の部族で、イランにおけるシーア派のサファーヴィー朝(15011736)の創成に貢献してイスラーム世界に台頭してきた一部族勢力である。十五世紀から十六世紀にかけてオスマン朝の台頭がその地域に住む半遊牧民のトゥルクメン族(中央アジから中東にかけて遊動するトゥルク族の呼称)に大きなストレスを生み出し、結局、トゥルクメン族をオスマン朝に対抗するシーア派のサファーヴィー朝に仕えさせることになった。サファーヴィー朝はトゥルクメン族を武力組織へと編成し、「Qizilbash(トゥルク語で「赤の頭」の意)」と呼んだ。彼らが赤色をして目立ったキャップをつけていたがゆえにそれはもともとオスマン族によって付けられた蔑称であったが、後に彼らにとって誇りの徴として通称されるようになったという。Qizilbash族のイスラーム信仰はスーフィーの教えに傾倒するもので、シーア派に改宗してもそれは伝統的な十二イマーム派というのではなく、北西部イランから東部アナトリアにかけての異教信仰に似るもので、その信仰は隠れたゾロアスター教の信仰からシャーマニズム的な実践にいたるまで様々な非イスラーム的な考えによって構成されていた。おそらくシャーマニズム的な実践は中央アジアのトゥルク族の祖先たちから受け継いだものであろうが、その片鱗をイスタンブールのトプカピ宮殿にある「Siyah Qalam絵画(十四世紀〜十五世紀)」に見ることができる。とはいえ、こうした異教の信仰すべてにおいて部族内で分かち合うことのできる共通の局面があり、それは都市部で実践されていたイスラームの制約から自由な、ある種の救世主信仰であったという。すなわち神の霊感や生まれ変わりの概念を共通にもち、そのためQizilbash族はサファーヴィー朝の指導者(morshed-kamel/完全な指導者)を、Aliの生まれ変わりで、人のかたちに聖なるものが顕れている存在であると見ていたようだ。

十九世紀後半のアフガニスタンにはQizilbash族が三万から二十万いたと見積もられ、主にKabulKandaharHeratといった都市部に住んでいたが、Kabulの英国大使M. Elphinstoneによれば、「内輪ではトゥルク語を話すが、主にペルシア語を話すトゥルク族のコロニー」と述べている。また「ペルシア化したトゥルク族」とも言われている。第一次英国・アフガン戦争(1839–1842)のときに公然と英国に協力したので、支配的なパシュトゥーン族によってアフガニスタンから追い出されたという。その血統がアナトリア地方に由来し、アフガニスタンを追われてLahoreにやって来たQizilbash家は、神の霊感や生まれ変わりという信仰背景を抱えたその独特のシーア派的な立場からLahore城市のAshuraの儀礼を整備し、それに新たな意義付けを加えることで、当時様々な信仰が混在していた城市に確固たる影響力を築くことが出来たのだと思われる。

963年のMuharram月の十日に公的に追悼行事が行われるようなったブワイフ朝下では、「市場は閉じられ、商業活動は止まった。女たちは髪をほどき、顔を黒く塗った。そして引き裂かれた衣装で行列行進した。嘆きつつ顔を打ち、あるいは傷つけ…」と記録されている。歴史家はこのタイプの追悼儀礼をカスピ海沿岸地域に住むイラン系のDaylam族の伝統であるとしている。Daylam族の故地は地理的にも文化的にも中央アジアのKhorasanに密接している。Daylam族は自らも戦闘民であるが、中央アジアのトゥルク族を騎馬隊として取り込むことで強力な戦力を構成し、それによって辺境イラン人とトゥルク部族が混在する統治形態のブワイフ朝が創始されることになったのである。このブワイフ朝はバグダッドのスンニー派カリフと相対してイスラーム世界の中で際立った宗教的立場を採用した。古代ペルシア王のスタイルを採用したコインを鋳造し、ペルセポリスに碑文を遺し、またゾロアスター教のMagi(祭司)に助言を求めることさえしたという。とはいえ、シーア派への傾倒があったことは十分に確証されている。

この異質なイスラーム王朝であるブワイフ朝期に、中央アジアのBukharaの人々は、吟遊詩人が「kin-e Siavash(Siavashの復讐)」と呼ぶ、フィルドゥシー(9401020)の「王書」の中に記されたイラン皇子Siavashの殺害をめぐる悲劇を内容とする追悼の歌を歌ったと言われる。またBukharaMagiは、Siavashが殺害された場所に敬意を表し、毎年代わる代わるそこで雄鶏を犠牲に捧げたという。そしてNowruz(新年)の日には、Bukharaの人々はSiavashの死を悼み、彼の死を記念して追悼の歌を歌ったが、こうした歌が中央アジアの多くの地域に知られ、吟遊詩人によって「Gristan-e Moghan(Magiのすすり泣き)」と呼ばれていたという。またKhwarazmSogdiana(ソグド人の地)の住民は中央アジアがイスラーム化する以前にSiavashに捧げる犠牲や他の儀礼を行っていたが、それはSiavashを植物の死と再生を司る中央アジア特有の神として崇めたからだとも言われる

こうした話があることからすれば、Ashura儀礼の自傷行為の伝統が十六〜十七世紀のサファービー朝期に推奨され、それはイラン・シーア派の歴史に限られたものであると考えられてきたが、実際には自傷行為の伝統はイラン世界に近接する中央アジアにおいて長い歴史をもつものであったのではないかと考えられる。たとえば、ソグド人マニ教徒による文献の中には東部イラン人が葬儀に参加する仕方を述べているものがある。「馬を殺し、顔を傷つけ、耳をとって(切って)、そこに血をばらまいた。彼女の女たちに付き添われたNana婦人は橋の方へと歩き、女たちは容器を打ち壊し、大きな声で叫び、服を裂き、髪の毛を引き抜き、それを地面に投げ捨てた」と。ただしそれは、葬儀の際の感情的振る舞いや身体的な自傷行為をタブー視していたゾロアスター教徒が行ったものではないことが示唆されている。ソグド人地域の文化的中心地の一つがオクサス河支流のZarafshan川沿いにあるPanjikentであり、その寺院跡には多くの壁画(五世紀〜六世紀)が遺されている。その中にはソグド人の若者の臨終を示す悲嘆の場面が描かれたものがあるが、そこには幾人かの人が若者の周りに集まり、顔や身体を傷つけているのが見られる。また五世紀もしくは六世紀初期の中央アジアの追悼儀礼の伝統を描写した壁画がタリム盆地のKizil石窟にあるが、ここにも顔を傷つけるか、もしくは鼻を切り落とそうとしているような描写が見られる。さらには敦煌の莫高窟の壁画の一つには異様な光景が描かれている。仏陀を信奉する者が悲しみのあまりに自身の顔、胸、鼻を傷つけ、さらには追悼者の一人はいままさに腹を切ろうとしているかのように見える。

ソグド人は古くから交易に関わる人たちで主にゾロアスター教を信仰していた。シルクロード交易を通じて天山回廊や中国北部の河西回廊にまでその居住地が広がり、六世紀には突厥帝国と関係をもつうちにソグド人の一部がトゥルク人化したり、また突厥のトゥルク人がソグド人と婚姻関係を結んでソグド人化したと言われる。たとえば八世紀に起こった安史の乱の首謀者で、唐の節度使であった安禄山はトゥルク系ソグド人であった。こうした経緯があることからすれば、Panjikentやタリム盆地の仏教壁画に描かれた場違いな自傷行為はソグド人化したトゥルク系の人たちの慣習であったのではないかと考えられる。

いっぽう、Al Biruni(9731048)は述べている。「ソグド人は新年の到来を祝う。それは自然の死と再生の考えに結びついている。一年に一度、ソグド地方の人々は死者を追悼する。このとき彼らは自身の顔を刃物で傷つける。そして死んだ者に食料や飲み物を供える。スヤーウシュ(Siavash)の礼拝は死者を礼拝することに関連している。新年の最初の日に雄鶏が死者に捧げられる。神聖なる若者(ヤーウシュ)が死に、その骨が失われたと信じられているのである。特別な日に信者は黒衣に身を包み、裸足で野にその骨を探しに行く。陶製の骨容器に埋葬する風習はソグド地方やホラズム、タシケントやセミレチエのオアシス地帯に広範している。肉が骨から削ぎ落とされると、骨は骨容器に集めて容れられる。骨容器は特別な部屋に置かれる。骨容器の中には見事なレリーフで装飾されたものもある」と。人は追悼の際にもともと黒衣で身を包んだのではない。十一世紀以前には白や青色が追悼の色だったという。インド世界では現在も白が喪の色だ。したがって、この場合の黒衣は「特別の日」に身に着けると記されていることからして、「特別の日」とは追悼だけを意味するのではないようだ。

ソグド人による「王書」の皇子Siavashの追悼は、もともと死と再生の神を信奉するソグド人がイスラーム以前のイラン系の人々から影響を受けたものに他ならない。ここで述べられていることで興味深いのは、ソグド人によるSiavashの追悼には欠けたものを補うという心理様式が働いていることである。ただ追悼するのではなく、失われた骨を探して補うとされ、おそらくそうすることで世界を元通りに回復させるという意味があるように思われる。ソグド人文献は様々な神格について述べているが、その中に「zrw(Zurvan)」がある。前に述べたようにZurvanは<時間>の神であり、ソグド人のゾロアスター教にはZurvan教の傾向が色濃く認められるが、Zurvan教はゾロアスター教から派生した宗教でもあり、ソグド人のあいだでおそらく信仰されていたのだろう。彼らがもともと自然の死と再生を司る神を信仰していたのならば、何らかの儀礼の際に反復される<時間>が意識されるのは当然である。そして、その<反復>儀礼のうちに再生を、というか宇宙創生のイメージがとらえられることになる。というのも、<反復>においてこそ、この物質的な世界(Getig)に非物質的で霊的な存在(Menog)が顕れると考えられてきたからである。こうした宇宙創生的なものの感知が、「特別な日」に行われる儀礼の主要な意義であったのではないだろうか。そして、こうした観点からAshuraの儀礼について考えるとすれば、そこにはイマームの欠如感を補うという心理様式にしたがって、追悼と同時に自ら身体を傷つけることで、死と再生、すなわち反復される<時間>の感覚がそこに導入されているのではないかと思う。

 

あの日の午後のもう遅い頃、Bhati門を出たところの広場で男たちは円陣を組み、「Yah Hussein」と唱えながら左右の胸を交互に平手で打ち続けていた。胸を打つ行為に合わせて声高な掛け声が辺りに響いていたわけだが、いまでは静かな光景であったという印象が遺っている。その前にRang Mahalで見た血と汗と埃にまみれて騒然と自傷行為が繰り返される光景とは打って変わって、おそらくそこには<死者>を想う時間が流れていたのに違いない。男たちは神妙になって、千三百年前に起きたKalbaraでの出来事へと遡ろうとしていたのだ。そうやって、<死者>への想いを軸にして数百年のあいだ共同体の行為として反復されてきたものがある。おそらく人は<死者>を想う時間に触れることで個人の記憶の底が抜けたようになって、そこに共同体的な古い記憶を浮かび上がらせることができるのに違いない。

Husseinはもはやこの世に存在しないが、このとき共同体的な記憶として甦り、見えない仕方でその存在を顕すのである。この世に存在しないという欠如感を共同体の記憶を<反復>することで補充し、いわば異なる仕方でその存在を感知させるのである。その存在はシーア派の<時間>概念からすれば<永遠の時間(dahr)>に属するものであるのに違いない。つまり、その存在はもはや過去のものではない。<永遠の時間>は<時間(zaman)>の根源であり、それゆえいつもそこに在るはずのものであるから。したがって、<死者>を想い、そこに浮かび上がる共同体的な記憶に触れる者は<巡回する時間>に生きることになるだろう。<巡回する時間>とは、未来に無限に延びていく時間とは異なる、<起源>へと向い進む<時間>である。欠如の感覚を軸にして共同体的な儀礼が行われ、そしてその儀礼がもたらす<時間>とはそのような<巡回する時間>なのである。儀礼は<永遠の時間>をそこに感知させようとして<永遠の時間>のイマージュに従って行われる。シーア派の<時間>が<巡回する時間>に生きようとするのは、そのような<永遠の時間>に触れようとするからであり、その時もはや過去は存在しなくなり、全てが現在創成されるものとして感知されるのである。

私はあの日、もう夕暮れの気配がすると感じて空を見やると、そこに天使というものを感じたのだった。正確に言えば、天使というよりも、頭上に広がる空が濃度を増して、その濃度による圧力がからだに感じられ、空から何かが降りて来るのか、そんな気配を感じて空を見上げたのだった。すると、得体の知れない力がいま私がいる頭上の空を覆っている、そして地上の追悼者を見守るかのように何かがゆっくりと地上に向かって張り出してくる、そんな気配を感じ、天使を思ったのである。

今思い返してみると、地上で何かしらの<起源>へと向かい進むかのような男たちの<時間>を感じたその時に、はからずも天空に意識が向かったのはなぜかと思う。それ以前にRang Mahalで地上の追悼者を見守るかのようなAlamの存在があり、それを女神かと思うような感覚が遺っていたことがそうさせたのだろうか。それとも、午後も遅く夕闇が近づく頃、昼と夜が溶け合う刻一刻を前にして、様々な対立を融合させる気配が頭上の空に感じられ、そうした気配が濃度による圧力と感じられて意識を天空へと向かわせたのだろうか。とにかく天空に意識が向かい、そして視線を空に向けることで天使の気配が身に降りかかり、そのとき以来、私は天使について考えるようになったのだった。

Lahoreでは夕暮れ時に西の空が紅く染まるのをよく眺めたものだ。その鮮やかな光景は永遠のようでもあり、しかしあっという間に闇に溶け去ってしまう。その時の夕焼けの明るさとやがて夜になるまでの暗さが脳裏に刻まれている。夕焼けが紅い悲鳴を上げて西の空へと退却してゆく。それと同じくして頭上から夜の帳がぎしぎしと降りて来る。夜の帳が格子戸のように音を立てて降りて来ると、辺りをあっという間に闇で包み込んでしまう。その魔術的とも言える転換の一刻が忘れられない。夕暮れ時、その空の色は天使の翼でいえば左右の翼の差異に相当するだろうか。というのも、Suhrawardiによれば天使の翼は左右でその明度と色彩が異なっていると言われるからである。二つの翼をもった天使ガブリエルでは、右の翼は純粋無垢な光の翼で、左の翼は月面に翳りを与えている赤茶けた褐色の暗い斑点が広がっていると言われる。光の霊魂は右翼から生じ、それに対して幻想の世界は天使の左翼の投影する影であるとも言われる。

 

天使の存在は全てのイマーム学で認められているようだ。しかし聖クラーンから知ることができるのは、天使が微妙で光り輝く身体をしており、二つか三つの、もしくは四つの、それ以上の翼をもっているということや、天使たちには様々なかたちが仮定可能になっているということ、また完全な知識が授けられているとか、行為をめぐるその力を仮定できるということなどである。天使の職務は神の栄光を讃えることであり、そして預言者やその精神的継承者たちに、聖なるコミュニケーションを示すために自らをはっきり示すことがあるという。

こうした天使の存在様態とは別に、新プラトン主義の影響下にあったIbn Sina(9801037)の天使学は、天使をめぐる三重の階層を提示している。まず大天使もしくは純粋知性があり、そこから発して天界を移動する魂である天使たちがあり、そして地上の人間の体を移動し支配する人間の魂もしくは地上的天使がある、というように。またIbn Sinaの考えでは、別々の実質である地上の魂の未来の運命は各々の叡智による<照明>の度合いによる。すなわち、魂が地上で得るであろう、より自発的で持続性をもって輝く天界の天使の知性へと向かう展開を得ることができるかどうかは、その<照明>が強いか弱いかという魂の素質にあるという。そして、人間の知性は魂のその<照明>を受け取ることができるとされる。そうすることができるのは、人が精神的体現を追求する際の能動的な知性の働きによるのであって、そうであれば、人間に備わる<能動知性>が魂の<照明>を呼び込むということになる。いわば、そうした現象とプロセスがまるごと<天使>であるものなのである。

こうしたことからすれば、地上的天使もしくは人間の魂は自身の上の階層である天界を移動する魂である天使の方につねに関心を抱いているのではないか、あるいはかつてあったはずの状態を想起しようとしているのではないか、そう考えるようになっても不思議ではない。平たく言えば、人が<天使>に関わるとはその人の魂が天界に関心を抱いているという在り方をしているのではないかと。このことは地上の魂と天界の天使とは階層的な繋がりをもっているとされるからであり、それゆえ地上の魂の<照明>によって上の階層に向かう展開への可能性があり、すなわちそのことによって未来の運命が定まるために、Ibn Sinaの天使学は地上の魂と天界の天使とが<一対一>というふうに、それによって人間を個々に区別する個体化のプロセスがあるという、そのような天界との繋がりを設定している。この天界の魂と地上の魂との<対(syzygy)>の概念はこれまでも述べてきたようにマズダー教に由来するもので、それゆえこうした<一対一>の考えは、人間が天使に服従することでそこに相互的責任のようなものが定められることを認めるものでもある。ダエーナーが人間に対してその死後に取る責任は、人間が地上でダエーナーに取る責任の度合に比例する。したがって、そうした責任の考えにおいてダエーナーは地上の個々の魂の<行為>を反映するものなのである。そして、ダエーナーがこのような<行為>を反映するものであるならば、逆にダエーナーの似姿としての地上の魂が個々に存在することになるだろう。そうであるならば、それらは各々<対(syzygy)>の半身としてことに地上の魂にイメージされるだろう。ダエーナーはそのような仕方で天界からやって来るものなのであるが、とはいえ天使の世界は自分たちに応答しない人間には決して答えない。つまり、魂の<照明>の授受がそうした人間には生じることがない。それゆえ、<天使>に関わろうとする人はつねに天上界のことを気にかけていなければならないのである。

Ibn Sinaはまた、魂の二つの顔(口述する天使と書きとめる天使)があり、一方の<口述する天使>の働きにより想像力が天上界と同等のイマージュに向けて作動し、そのことは<書きとめる天使>の働きにより下界に繋がるイメージから振り返られることになり、最終的に「閾下の意識(sirr)」を目覚めさせ、かつ純粋で微妙なものにするという。この想像力の複雑な在り方には地上の存在が上の階層の存在を想う仕方が述べられているが、ここで強調したいのは、地上の存在が上の階層を想う仕方は垂直的な視線のうちに現れているということである。例えば、ムハンマドが天使ガブリエルに召喚された「al-Isra’ wal-Mi’raj(夜の旅と上昇)」と呼ばれる旅もこうした垂直構造に従う出来事であった。すなわち、ムハンマドは翼をもった人面の馬Buraqに乗ってエルサレムのAl-Aqsaまで夜の旅をし、そしてそこから天界に昇り、天使ガブリエルの案内によって七つの天界を巡ったのだった。そして、この天界への上昇である「Mi’raj」はあらゆるイスラーム神秘家に霊感を与えてきたのであり、ことに「上昇」という垂直方向の感覚が神秘家の瞑想に深い影響を与えてきたのである。

ギリシア哲学、ことにアリストテレスから影響を受けた学者であるIbn Sinaは様々な主題にわたって多くの書物を著したが、その中には「Hayy ibn Yaqzanの物語」という、「東方哲学」に属すると言っていい神秘的物語もある。Ibn Sinaは一時ブワイフ朝の宰相を務めたほどの実務的な能力をもった人物であるが、その反面、世俗的な仕事に追われるIbn Sinaの魂は満たされぬままにあったようだ。感覚に支配された認識が霊魂を眠りに陥れている、そのような<感覚の夜>に苛まれていると感じていた。それゆえ感覚の牢獄から霊魂を救い出さなければならないと感じ、ペリパトス派哲学では解決できない自身の問題を長い物語にして著したのである。Hayy ibn Yaqzanという名の天のエルサレムからやって来たとする人物を、Ibn Sinaは能動知性の顕れとしての賢者にして若者であり、哲学者にして導師であるという、神秘への導き手として描いている。こうした知識と信仰が一体化した導き手のイマージュが、おそらく晩年のIbn Sinaの内的生活に課されてきたものであったようだ。それはIbn Sinaにとっては自身の地上の魂の姿なのであり、そうした内なる導師によるイニシエーションの物語として、「Hayy ibn Yaqzanの物語」は書かれたのである。それに次いで<東方>への旅の物語である「鳥の論攷」が書かれたが、その旅路の果ては極地のカフカス山脈であり、そこには極北の高みへと昇り行く垂直性の方向が示されている。

Ibn Sinaはペリパトス派哲学に従って霊魂論も著したが、それは自然界の領域に属するものの能動的な力に関わるものであり、それゆえ自然哲学の項目に入っている。しかし、霊魂の諸能力の区分についてIbn Sinaはペリパトス主義者に従っているものの、個々の霊魂が不死であること、その不滅の非物質的実在性、ならびに感覚の牢獄にいる間に霊魂が堕落した状態にあること等を強調する点で異なっている。Ibn Sinaは霊魂の本来の住居たる天について想い、その住処を想起する必要を繰り返し述べている。そして、あたかも地上で霊魂に降りかかった忘却と怠惰の病を癒し、惨めな地上の状態から救おうとする精神の医師が処方箋を与えるかのように「Hayy ibn Yaqzanの物語」を書いたが、その作品は、魂が感覚の牢獄を脱し、天界に向かおうとする目醒めのプロセスを自ら実際に体験しつつ示そうとするものであった。その体験についてアンリ・コルバンは説明している。「Ibn Sinaの神秘的物語にすでに、垂直的方向性によって決まる、はっきりした区別が、<極への接近での闇>と物質にして非存在の極度の西方である闇との間に設けられている。Ibn Sinaの物語はこの二重の状況と<真夜中の太陽>の意味を明白に私たちに示してくれる。一方でそれは闇における啓示として立ち上がる第一知性、すなわち大天使のロゴスである。それは人間の魂に関して言えば、意識の地平に超意識が立ち上がることである。他方ではそれは、潜在意識の闇から立ち昇る意識の光としての人間の魂そのものである」(The Man of Light in Iranian Sufism1978)と。ここで言われる<極への接近での闇>とは、ムハンマドの「夜の旅(al-Isra’)」と同等の体験であると考えられる。

またIbn Sinaには「東方びとの論理(Mantiq-l-mashriqiyin)」という著作があるが、その「東方」は「象徴的意味をもつものであり、ちょうど西方が影ないし質量の世界を象徴するごとく、光ないし純粋形相の世界として現れる。人間の霊魂は囚人のように質量の暗闇の中に捕らえられ、かつて霊魂がそこから降ってきた源たる光の世界へ帰還するためには、自らを自由にしなければならない。この難行を成し遂げ、<西方>の流刑から解放されるには、霊魂を宇宙において自らを<東方>へ向けさせ、究極的な救済へと導く案内者を見出さねばならない」( S.H. ナスル「イスラームの哲学者たち」1975)と言われる。「東方哲学」の<東方>は東方の地方を指すのではないことは研究者の間で一致している。「東方(ishraq)」は<照明>という意味でもあり、それは<照明>現象が生じ来るその方向を指している。この<照明>の強度は地上の魂と天界の天使との関係の度合いに拠るのであり、つまり、人が天使に関心を向ければ向けるほどその<照明>を受け取る度合いが高まるのである。そうした意味で言えば<東方>とは天界に他ならず、そうであれば<東方>の語には垂直方向がはっきりと提示されていることになる。

この<東方>を垂直性の方向として見定める認識はIbn Sinaだけのものではない。アンリ・コルバンによれば、「イラン人スーフィー文学の主題の一つは<東方の探究>であるが、それはあらかじめ警告されているが、私たちの地図に位置しえない<東方>の探究なのである。この<東方は>七つの階層のどこにも含まれない。それは実際、八番目の階層なのである。そして、この<八番目の階層>を求める方向は水平的にではなく、垂直的なものである。この超感覚的で神秘的東方、起源と回帰の場所、永遠の探求対象は、天上に繋がる軸上にある。それは極地であり、極北である。そうした意味で、それは<向こう側>の次元への入り口なのである。だからそれは、この世界に提出される限定された様態においてのみ示され、また提出様態を通してのみ示され得る。それが決して示されないという他の様態さえある。…神秘家によって求められる<東方>、地図上に位置付けられない<東方>は、北の方向、いや北の向こう側にある。ただ上昇的な前進のみが方向として選ばれたこの宇宙的な北に向かって行くことができるのである」(The Man of Light in Iranian Sufism)

このことはSuhrawardi(11541191)にも当てはまる。SuhrawardiIbn Sina同様に三層の世界を提示している。まず純粋知性の世界である「’Alam al-Jabarut(力の世界)」があり、魂による仲介世界で、能動的想像力の世界である「’Alam al-Malakut(王国世界)」があり、そして感覚知覚による物質世界である「’Alam al-Mulk(領土の世界)」がある、というように。二番目のMalakutはコルバンの言う<八番目の階層>であり、「Hurqalya」とも呼ばれる’Alam al-mithal(能動的想像力の世界)が顕す<中間世界>でもある。そこではあらゆる感覚は<鏡>に映し出されるようにして意識に現れている。

Suhrawardiは純粋知性の天使と啓示の天使とを一つのものにした。すなわち、天使ガブリエルは人類の天使、すなわち人類の原型とみなされ、これをSuhrawardiは聖霊と同一視している。それゆえ、あらゆる知識の最高の啓示者たる純粋知性のガブリエルは啓示の能力そのものともみなされている。このことは信仰と知識の一致を意味し、<天使>という存在を軸にして人類学的な視点と宇宙創生論的な視点を一つのものにしたと言える。これはペリパトス派哲学を奉じたIbn Sinaには表向きにはない観点であった(内面的には「Hayy ibn Yaqzanの物語」で示してはいるが…)。またSuhrawardiは、私たちは人類として守護天使をもっているが、それと同時に個々の人間は天界の世界に住む各々の守護天使をもっているという。けれども、「Suhrawardiによれば、個々の霊魂は肉体の領域に身をおとしめる以前には天使的世界に住んでいた。肉体の中に居をしめるにあたり霊魂もしくは不滅の天使的中核をなすその中心は二つに引き裂かれ、一方が天に残り、他方が肉体の牢獄、<砦>に身をおとすことになったのである。現世において人間の魂がつねに不幸なのはこのことに起因している。事実、人間の魂は自らの他の部分、天上の<半身>に憧れを求めており、この天使的部分と合体し、再び天に住みつくまでは至福にあずかれない」(「イスラームの哲学者たち」)。このように、<東方>とは地上の魂の故地なのであり、自身の<半身>と合一する<場>でもある。そして、こうした考えはIbn Sinaのものでもあった。

SuhrawardiIbn Sinaと異なる発想をもつのは、彼がマズダー教の「Xvarnah」に聖クラーンに由来する「Sakinah(静穏)」と呼ぶものを見た点においてである。「Xvarnah」とは古代ペルシアの神秘家たちに授けられたヴィジョンであり、天界と人の生命を共に貫く<至福の光>のことをいう。Suhrawardiによれば、「Sakinah」は「Xvarnah」と同様、神秘家の魂の寺院に降りて来た聖なる<光>が宿るものである。すなわち、<天界の光>が地上の魂に降下したものがそれであると。地上の霊魂にその<天界の光>の半身が与えられ、それらの相互責任によって二にして一なる完成態を付与する<対>的存在のかたちが最も明確に現れているのは古代ペルシア神智学であるが、Suhrawardiはマズダー教の「Xvarnah(至福の光)」をそこに加えてより始原的な世界をも取り込み、<光>を介して宇宙と人間存在を結びつける思想を自らのものにしたのである。マズダー教の天使と人間の関係は次のような言葉によく示されている。「その思考は始源的世界から出た天使となり、その言葉はこの天使から出た<霊>となり、その行動はこの霊から出た<身体>となる」。始源的世界と人間の身体が天使を介して一直線に貫かれている。ここにも垂直性の方向があると理解するべきだろう。そして、こうした垂直構造がSuhrawardiの<光>の思想に明確に表されているのが分かるのである。

この垂直構造はこれまで見てきたように、必ず<対(syzygy)>概念を伴っている。「もし霊魂の存在様態が一元性ではなくて双子性であるなら、すなわち、もし固有の意識をもった地上の実存である霊魂が超越的自我、あるいは天上的自我を第一とする二元的全体の第二の成員であるならば、このことはその地上世界における存在が惹き起こすこのような距離と拡張を可能にし、またその解決を予見するような存在論を含むことになるであろう。それは霊魂が地上のものとして存在を開始したのではなく、他の世界で生じ、<地上に降下>したことを予想させる」(同上)と言われる。この<対(syzygy)>概念を伴う垂直構造は<半身>ダエーナーの物語構造を踏まえたものなのであり、それゆえ垂直構造は<対(syzygy)>概念と共に古代から延々と説き続けられてきたものだと言ってもいい。両者はいわば知識と体験が一体化した状況から生まれているのである。

 最後に、地上で男たちの<巡回する時間>を想っていた際に、なぜ私は宇宙に視線を向けたのかという問題に戻るとすると、<起源>に向き進もうとする<時間>は<半身>との合一を求める垂直構造を伴わないと、そこに明確な意味が生じないのではないか、その機能が働かないのではないか。というのも、例えばマズダー教では<光>の世界に翳りが生じて(不透明性が生じて)可視世界である対象が生まれ、<永遠>の流れが計測化されて<時間>が意識されるのである。そうであるとすれば、それ以前の絶対的な<時間>と<光>への帰還を目的とするからには、そこには当然<天使>の介入が欠かせないだろう。<天使>とは始源と人間を結ぶ垂直構造に生きる仲介者であり、その能動的な働きであり、そうしたプロセスとしての、私たちの魂の<対(syzygy)>である紛れもない姿なのであるから。

 

Lahoreの夕暮れ、西の空に落日と共に燃えるような輝きが追いやられるとすぐさま頭上に夜の帳が降り来る城市、その光景を想い出す度に<孤独>の感覚が立ち上がってくる。Lahoreで数少ない異邦人であった私は<孤独>や空虚感に苛まれていたように思う。そのようなわけで、そうした満たされない感覚を何かで埋め合わせる準備が、私の内部で知らず知らずのうちに育っていたのだろうか。Ashuraの儀礼に立ち会い、頭上の天空に過度の想像力を働かせることができたのも、何かしら既定の心理様式と時間感覚に沿っていたのではないか。そうだとすれば、無意識のうちに私は異国の地に働く潜在的な力に同調していたのかもしれない。空を見上げるのは極めて自然の行為だが、必然的な自然の行為というのもあるのかもしれない。Ashuraの儀礼と天使に関わる垂直構造の考えとはそもそも何の関係もない。とはいえ、Ashura儀礼の際に頭上の天空を意識することは、ことさら地上と天界との繋がりを見定めることにならないだろうか。<対>概念の知識があればそのときの私の視線は必然的なものであったかもしれないが、当時の私には何の知識もなかった。<対>概念よりも、おそらく垂直構造を意識させるような何らかの働きがあったのではないかと考える。地上の行為が逆に天界の運動に力を与えることになる、そうした垂直的な繋がりが様々な儀礼において考えられてきたからである。

とはいえ、地上の<時間性>から垂直方向の感覚が呼び起こされたとすればその条件は何だったのか。当時の、西も東も分からない無知な子供状態といった状況が私から何かを引き出し、私にそう仕向けさせたのだろうか。そうとしか考えられない。その肝心の無知な子供状態のことを想い出そうとすると、きまってその状態は言葉にして言い表すほど変質し、そうした意味で失われていくが、一方で想起のままに任せているとそこになぜか言いようのない懐かしさが込み上げてくる。ふり返れば、無知な子供状態が懐かしさの渦のうちに立ち現れてくる。いったい<懐かしさ>とは何だろうか。そこにはとうてい解消できない距離の感覚があることは確かだ。

 

 記憶は生きている。そして、またしても新たな想起がやって来る。夏の早朝、インダス河の船橋を渡る。まだ霧がかかって辺りは覚束ない光景だ。一歩一歩足を踏み出すごとに霧は立ち退き、記憶の底をつき破るようにしてその場の体感が立ち上がってくる。河の流れは西の辺境の地と東のパンジャブ地方を分け隔てていた。私は辺境の地で、すなわちいまだ法よりも掟が優先するような地で、生の感覚を肌で感じていた。そこで見たものは泥の門に泥の壁、泥だらけの道の両側に泥で出来た家が連なる市場、それに厚着をして銃を肩にかけて歩く髭面の男たち。宿では好奇の視線にさらされ、いつの間にか無骨で陽気な会話の渦の中にいた。船橋は小船を並べて浮かべ、その上に板を並べた古代式で、むろん河の増水に備えたものだ。それで充分な機能を果たしている。足下の河の流れは穏やかだ。辺り一面どこまでも水面が広がり、宙を歩くような感じに素晴らしい気持ちが湧いてくる。船を繋げた簡素な橋だから流れはすぐそこに見え、見えるよりも速くその振動が足裏に伝わってくる。橋を渡った向こうのパンジャブ地方のことはよく知っている。しかし、何かしら未知の領域に向かって一歩一歩足を進める感じがある。あたかも国境の緩衝地帯を行くかのように、私の心臓はわくわくし、気分はいつになく高まっている。

 

 

                                      「Lahore日記」 ()

 

Monday, May 13, 2024

Lahore日記 The Diary on Lahore

三 パンジャブ回廊

  12  ʿAlam al-Mithal:能動的想像力の世界

 

その日はひどく疲れていた。前日から今まで経験したことがないことの連続で神経がまいっていたせいだろうか。モヘンジョダロの遺跡を見るためDokri駅のRetiring Roomで夜が明けるのを待ち、辺りが明るくなってから駅舎を出て歩き始めた。片側に木立が並ぶ真っ直ぐの地方道だった。早朝の道には人の姿はなく、周囲には建物の影もない。しばらく行くと進行方向の遥か先にこちらへ向かって来るものの気配がある。最初は黒い点のようなものだったのが見る間に二匹の犬が駆けて来ると分かった。あっという間に二匹の大型の野犬に行く手を阻まれ、いきなり吠えかかられた。獰猛な顔つきをしていた。どうしたらいいか何も考えが及ばぬそのとき、今まで気づかなかったが、駱駝が引く荷車が背後にすぐそこまでやって来ていた。動物は自分より大きい生き物を襲わないと咄嗟に考え、駱駝の歩むその脚下にぴったりと身を寄せた。駱駝の蹴りは強烈だと聞いていたので恐る恐る身を寄せ、駱駝の歩調に合わせてゆっくり前進した。犬たちは牙を剥き出し、唸り声を立てるだけでそれ以上近づこうとしない。仰ぎ見ると駱駝の御者がこちらに向かってにやりと笑みを放っている。これで助かったと思った。パキスタンでは乳幼児が野犬に食べられるという事例があることを知っていたからである。犬たちは私を追うのをやめて駅の方に走り去って行った。

それから早朝のモヘンジョダロ遺跡を見て廻った。早朝とはいえすでに陽は高く、さらには遺跡の乾いた泥が陽射しを反射し、天からも地からも強烈な陽射しに苛まれる。他に遺跡を見て廻る人影はなく、辺りは不気味な静寂に包まれていた。「Mohenjo-daro」とは「死者の丘」という意味であるのを想い出した。有名なストゥーパが立つ丘に向かって歩き始めるといきなり頭上から鳥に襲われた。カラスのように嘴が大きく鋭い鳥である。丘に向かって歩み出すとまた襲って来る。それも顔というか目を狙って襲い来る。執拗な威嚇を感じ、それ以上前に進むのを断念せざるをえなかった。強い陽射しのせいで何かしらの抵抗をする気力も萎えていた。

陽射しを避けるようにして付属する博物館に逃げ込み、展示物を観て回った後、待合のリキシャに乗ってDokri駅に戻った。もう午後になっていた。それからどう時間を潰したか覚えがないが、夕方六時、Shahbaz QalandarUrs(祭礼)に行くという巡礼者たちに誘われて一緒に台座だけの貨物列車に乗り込み、Dokriを発ってSehwanに向かった。無賃乗車だった。すぐに陽は沈み、夜の闇に晒された。夜風に直に煽られ、停車すればどっと全身から汗が吹き出る。それでもUrsに行くというのでみな一様に陽気な声を上げ続け、その雰囲気に易々と自分も呑まれていった。Sehwanの駅に到着したのは真夜中だった。宿が見当たらないので駅前の道端で寝ることにする。大方の巡礼者は聖廟のある方へ行くようだが、西も東も分からず、道端で横になる人もいるのでそうすることにした。真夜中も過ぎてやや冷えた砂混じりの風が吹き抜け、しかし地面は昼間の熱射で暖まっている。寝心地は悪くない。その後も巡礼者が続々と駅から吐き出されて来るのを地べたから眺めつつ、熟睡を避けるようにして眠った。

夜が明け、砂混じりになった体を起こすと、巡礼者がひっきりなしに目の前を通って行った。駅前の茶店が開いたのでチャイを飲んで人心地つき、それからLal Shahbaz Qalandarの聖廟へ向かった。狭く込み入った市場を抜けると行く手に聖廟の大きなドームが輝くのが見えてきた。参道はすでに巡礼者でごった返している。聖廟の敷地内に入り、聖廟の建物に通じる回廊に足を踏み入れると、若い女たちが衆人の前で恥ずかしげもなく踊っている。狂ったように踊り続け、踊りながらエクスタシー状態に陥っているようだ。その様子を立ち止まって見る術もなく、人から押されまた人を押し込むようにして廟の内部に入ると、それっきり身動きがとれなくなった。ただ人波の動くままに聖廟内を移動した。墓を納めた格子状の構造物まではとても行き着けそうにない。その構造物の脇に人波が打ち寄せ、人で盛り上がっているところがある。見ると、高い天井から吊るされたものに触れようと誰も彼もが腕を伸ばしている。銀色に輝くもので、「qalb」と発する人声からそれが「心臓」であると知った。人みな聖者の心臓に触れようとありったけの力で腕を伸ばし、それでそこだけ人波が盛り上がっているのである。その光景を私は呆然と見つめるばかりで、実際それがはたして何なのか近づいて確かめようとする気すら起こらなかった。

廟の外に出ると猛烈な暑さになっていた。人波に押され続けてからだは火照り、喉もからからだ。耐えがたい暑さの中でも次から次へと押し寄せる巡礼者で混雑する聖廟の敷地から逃れ出て、人気のない崩れかけた旧城砦の荒地を通り抜けると知らず知らずのうちにインダス河の河岸に出たようだった。猛烈に喉が乾いていた。渡しの上から小さな水流を下に見ながら歩いていると、人が河の水を汲んで飲んだらいいと言う。その声に素直に従い、河縁に降りて流水を手で掬いそのまま飲んだ。インダス河の水は黴臭く鼻についたが、喉にすっと通り、たちまち喉の渇きが癒された。その人影のことがいまでも気にかかる。いまでは定かでないが、それは人だったのか人影だったか、それとも河面に映る影だったか。

 

イスラーム世界で「偉大なる導師(Shaikh al-Akbar)」と呼ばれるIbn ‘Arabi(11651240)は、その主著

Al-Futuhat al-Makkiyya(メッカ巡礼)」の中でKhidrに出会った体験を述べている。一度は北アフリカのチュニスに滞在していた時のことである。満月の明かりが照らす暖かい夜だった。Ibn ‘Arabiは港に係留された小船の船室に行って休もうとした。真夜中に何かしらの不安が彼を眠れなくさせていたのである。船の舳先に行くと船員はまだぐっすり眠り込んでいた。すると、海上の方から何かこちらにやって来るものが見えた。水の上を靴も濡らさずに何者かが彼に近づき、少しのあいだ話をした。そしてすぐに引き返し、山側の洞穴の方に去って行った。そこは港から数マイルも距離がある遠いところだった。翌日チュニスの街で見知らぬ聖人がIbn ‘Arabiに話しかけてきた。「やあ、昨夜はKhidrと何かあったかい」と。

Khidrとは水に縁がある謎の人物である。<人物>と言っていいか分からないが、預言者エリアと共に描かれた細密画では人の姿で描かれている。またクラーンのSura章ではモーゼのガイドとして語られているという。Ibn ‘ArabiはこのKhidrの弟子であることを自覚していた。

もう一つの機会はイラク北部のティグリス河沿いの町Mosulでのことだった。バグダッドに束の間滞在した後、Ibn ‘Arabiはスーフィーの師である‘Ali ibn Jami’の評判に魅せられてMosulまで足を伸ばした。師はKhidrから「khirqa」、すなわちスーフィーのマントを<直接に>与えられたというのである。師はMosul郊外に所有する庭園に住んでいて、そこで彼の師であるQadib Albanの同席する前でKhidrが彼にマントを与えたという。実にKhidrとの共同作業と言っていい出来事が、‘Ali ibn Jami’の身に起きたのである。そして、まさにその場所で、Khidr‘Ali ibn Jami’にしたようにして、今度は‘Ali ibn Jami’が同じ作法でIbn ‘Arabiにそのマントを与えたのだという。Ibn ‘Arabiによれば、彼にとってこうした機会は初めてのことではなかった。それ以前にも間接的に、すなわちその祖父がエジプトでKhidrからマントを与えられたという友人からそのマントを与えられたことがあったのである。こうした<間接的>なマント授与であっても、Khidrとの関係をIbn ‘Arabiはとても貴重なことだと考えていたようだ。「このマントは我々同じ志をもつ者にとってのまさにシンボルであり、我々が同じ霊的文化を共有し、同じ精神の実践を共有していることの徴なのである」と記している。このようにマントの授与儀礼はそれがKhidrの手から直接授与されたか間接的に授与されたかに関係なく、Khidrという霊的存在と関係をもち、Khidrの霊的状態と一致するという効果をもたらすと考えられていたのである。

Khidrが何がしかの霊力をもった存在であることははっきりしている。このKhidrをめぐって、上に述べたようなその独特な存在形態についてアンリ・コルバンは「Alone with the alone(1998)」の中で検討している。「もしKhidrを元型(archetype)と呼ぶならば、Khidrはそのリアリティを失い、知性による産物ではないにしても、それは空想の産物になってしまいかねない。そしてもしKhidrを実際の人物として語るならば、Khidrとその弟子との関係と地上の他の霊的人物がKhidrともち得る関係との間における構造的差異を私たちはもはや特徴づけることができなくなるだろう。この場合Khidrは数的に一つのものであるが、一人一人が協力してその熱烈な感情を共有することが困難な関係をもつ複数の弟子たちと向き合っているのである。…Khidrという人物は単なる元型の図式へと解消されはしないけれども、(弟子たちにとって)Khidrという人物の存在はKhidrを元型へと変容する関係において体験されているのである。もしこの関係自体を現象学的に示そうとするならば、<元型>と<人>という二つの基本的な語に一致する状況が求められるだろう。このような関係は、Khidrが同時に元型であり人であるものとして体験されることを意味している。というのも、Khidrは元型であり、そしてKhidrという人物と一体でありまた(その霊的状態と)一致しているということは、(弟子たちが)代わる代わるKhidrである者において自分自身を例示するという複数性と矛盾しないからである。…Khidrの各々の弟子たちとの関係は元型がもたらす関係であり、もしくは元型化がなされる人物において成立する元型化された関係なのである。こうした関係が同時にその人物と元型であることを可能にさせ、各人にとって師である人物が同一でありまた別人であるということを可能にさせるのである。というのも、その師である人物は弟子をもつ度に何度も自らを元型化し、その役割はといえば、各々の弟子に彼自らの弟子であることを明らかにすることだからである」。

Khidrは現実の存在ではない。かといってKhidrに関わる人たちがみな夢を見るようにしてKhidrに関わっているというわけでもないようだ。Khidrの存在は各人において現実に知覚されている。とはいえ、元型として知覚されているのだという。正確には、「元型へと変容する関係(元型化される関係)において体験されて」いる。言い換えれば、Khidrは現実に存在する人物ではないが、Khidrに自らが抱く元型化作用において関わる人たちには、各人にとって様々に知覚されるような仕方で存在しているのである。その際に明確なのは、Khidrというその存在の知覚は各人がKhidrの弟子であることを望む状況から生じているということである。そして、Khidrの存在を知覚する際に重要な要素の一つが、ここではマントという道具である。それが「Khidrの弟子」であることを実際に証する物品であるからである。それゆえ、そのマントの授与に関してはKhidrからの<直接的授与>か<間接的授与>であるかは問題になっていない。Khidrが授与したマントという物品を介してKhidrにまつわる霊的状態を共有することができるとされている。Ibn ‘Arabiが語っているように、一つの物品が複数の信者に霊的関係を生じさせる<徴>となっているのである。したがって、まずKhidrのマントという物品をめぐる特別の知覚があり、そこに付随するようにしてKhidrという存在の知覚が生じるという経過があることになる。言い換えれば、マントという聖なる物品を知覚することでKhidrをめぐって「元型化される関係」の体験が生じ、「Khidrの弟子」であることを改めて自覚することになる。そして、この「Khidrの弟子」であると自覚することがKhidrという存在を知覚する、それと同等な体験として示されている。

現象学的分析としながらも非常におかしな状態に言及しているが、それはもっぱら中世の文献を現代的な方法を介して分析しているからに他ならないと思われるけれども、それのみでなく、アンリ・コルバンがこの地点から、Ibn ‘Arabiが唱導する「'alam al-mithal」に言及しようとしているからであるように思う。「'alam al-mithal」とは文字通りには「想像(イメージ)界」もしくは「<象徴>界」と訳されるが、コルバンによればそれは「能動的(創造する)想像力の世界」を意味する。

 

この'alam al-mithalについて、アンリ・コルバンは「Mundus Imaginalis or the Imaginary and the Imaginal(1964)」の中で、「アラビア語で<'alam al-mithal>と名付けられているその用語は、おそらく<元型の世界>と訳すこともできる。そうすれば曖昧さが避けられるだろう。というのも、それはアラビア語でプラトンのイデア(ゾロアスター教の天使学に関するSuhrawardiによる解釈)を指示するために使われるのと同じ語であるからである」と述べている。とはいえ、「この語がプラトン的イデアを示すとき、それはほとんどいつもイデアの正確な資格を伴っている。すなわち<プラトン的光の元型(mothol iflatuniya nuraniya)>をである。いっぽう、この語が(天上の)第八番目の層の世界を示すとき、それは個人もしくは単独のモノの元型的イメージを専門的に指示している」という。Ibn ‘Arabiが「'alam al-mithal」の語を使用するとき、それはプラトン的イデアというよりも、「個人もしくは単独のモノの元型的イメージ」を体験する世界のことを示しているようだ。その点についてKhidrの体験を例にとって改めて考えてみたい。ちなみに「元型」とはカール・ユングが提唱した分析心理学の概念で、人間の集合的無意識に存在する普遍的で代々受け継がれた考えや思考パターン、もしくはイメージ等の形成過程に関して言い表す用語である。心理学的に「本能」に対応させたこの「元型」は、異なる文化や社会を横断して様々な物語や神話、夢等に現れる、人類に多くの共通するテーマやシンボルの基礎となるものと考えられているが、正確にはその在り方は、「元型は、その定義からすれば、心的要素を一定の(元型と呼ぶべき)イメージに、ただしつねに結果から初めて認識することができるあり方で秩序づけようとする要因とモチーフである。前意識的に存在し、おそらく心一般の構造的支配者であり、母液の中に結晶格子が目に見えない形で潜在的に存在しているのに例えることができる」(カール・ユング「心理学と宗教」1989)とされる。要するに、「元型」と呼ぶべきイメージがあるのではなく、それはイメージの形成過程から遡って初めて認識される心的機構を指し示しているのである。

 Khidrがマントと共に語られていることからすれば、マントという物を知覚するのと同じようにしてKhidrは知覚されているはずだ。そうさせるのは、彼らがKhidrに対する熱烈な信仰を抱いているからに他ならない。信仰は時には通常の感覚を超えて知覚を発揮するが、それでもそれは感覚と共にある。というのも、人は現実をめぐる感覚を駆使することによってしか現実を超えた感覚世界を知覚することができないし、そうした体験もありえないからである。信仰深い者には、あくまでも感覚を通じて、現実を超えた感覚世界を知覚する体験が意図せずに起きるのである。言い換えれば、彼らにあっては感覚を処理する知覚の在り方が変容しているのである。熱烈な信仰が通常の感覚を超えるようにして知覚作用を発揮するのは、それが個人的な意識から解き放たれた状態の知覚を呼び起こしているからにちがいない。彼らはつねづね個人的な意識から解放されようとして<元型的イメージ>に触れているのである。そしてそのことが、現実を超えるようにして感覚世界を知覚し、すなわち<元型的イメージ>に向けてより能動的な想像力が呼び起こされ、それによって知覚は変容し、そこに広がる知覚と超感覚的な世界に生きるようにさせるのではないだろうか。ここでは特定的に言えば、「元型へと変容する関係」の世界に生きようとさせるのである。そのとき、彼らにとってマントは<元型的関係>を呼び起こす具体的な物であり、マントに顕れる聖なるイメージとKhidrの弟子であるという認識が結びつき、そこに<元型的イメージ>が超感覚的に知覚されることになる。このことは、元型を<像>という言葉で説明するのは、元型そのものは力動作用としてに現れるのであり、意識は、作用の結果生じる心の変化を認識できるだけで、元型そのものは意識できないためである。元型が心に作用すると、しばしばパターン化された<イメージ>または<像>が認識される」(Wikipedia)という現象に沿っている。こうしたことから、Khidrの弟子であるという認識が「心」に能動的な想像力としての「力動作用」が現れる、いわば'alam al-mithal(能動的想像力の世界)を駆動する一つの条件になっている、そう言っていいかもしれない。

とはいえ「元型」は近代的概念であり、<元型的イメージ>をめぐって能動的な想像力が働くことによってのみ'alam al-mithal」を説明できるわけではない。'alam al-mithal」の世界は例えば次のように述べられている。「それは一方では八番目の層の東方地域であるJabalqaの町について述べている。そこでは三つのイメージが、前から存在し、感覚世界以前に定められて残っている。しかし他方では、この語は、自然の地上世界にいた後そこで聖霊が見出される世界もしくは<間世界>としての西方地域であるJabarsaの町について、そこでは私たちの思考、私たちの欲望、私たちの予感、私たちの振る舞いといった達成された仕事すべてのかたちが存在している世界としての西方地域であるJabarsaの町について述べている。'alam al-mithalを構成するのはこうした構造である」(Mundus Imaginalis or the Imaginary and the Imaginal)と。それは私たち現代人の認識とはあまりにかけ離れたヴィジョナリーな世界なのである。彼らにおいては感覚作用や本能を処理する知覚が現代人とは全く異なる仕方で機能している、そう考えた方がいいだろう。例えば、「mundus imaginalis(想像力の世界すなわち'alam al-mithal)におけるかたちと様態は、この身体世界における経験的現実と同じ仕方では存在しないことを知っておくべきだ。そうでなければ誰にでもそれは知覚されることになる。それは純然たる知性によってのみ理解できる世界では存在しえないことも記しておかなければならない。というのも、それらは延長と次元、そしてまた感覚世界のそれと関連してはいるが、実際にはそれら独自の<身体性>と空間性である<非物質的>な物質性をもつからである」(同上)と言われる。その世界を知覚するにあたっては独自の対物質感覚が働くだけでなく、その知覚をもたらす様態さえも異なっているのである。すなわち、「その世界は<微細な身体>の世界であり、そうした考えはもし人が純粋な霊と物質的な身体と間の関連を表現したいと思うならば不可欠であることが分かるだろう。その様態が<宙吊りになっている>と言われているのはこのことを指す。すなわち、イメージもしくはかたちがそれ自らによるそれ自身の<事態>であるがゆえに、そこに出来事の仕方で内在するいかなる基層からも独立しているという様態である」(同上)

 こうした「'alam al-mithal(想像力の世界)」を最初に提示したのはイラン人で照明学派(Ishraqiyun)の祖であり、いわゆる「東方神智学(Hikmat al-Sharq)」を唱導したShihab al Din Yahya ibn Habash Suhrawardi(11541191)であると言われる。新プラトン派の思想やザラスシュトラの思想に通じていたSuhrawardiは、「第一に純粋叡智体の世界が存在する。これがJabarutの世界である」という。Jabarutはいわば神的な世界であるが、その下にMalakutの世界があり、これが'alam al-mithal(想像力の世界)」に相当する。それは純粋な光の諸存在による叡智的な世界と感覚的世界との中間に位置しており、この世界を認識する固有の器官/心的機構が能動的想像力(khayal f’aal)であるとされる。またこの<世界>は西方の哲学概念であるプラトン的イデアの世界とはその成り立ちが異なり、それは諸形相と「吊るされた」諸イマージュ()の世界であると言われる。このことは、これらのイマージュ()が、例えば黒い色が黒い物体に内在するように物質的な基体中に内在するのではなく、それらが鏡に映る、いわばアラビア語固有の表現である「吊された(mu’allaqah)」映像のように、自らの姿をあらわす<鏡>である「神的顕現の場(mazahir)」と共にある、ということを意味している。つまり、その世界では諸形相は鏡に映る像のようにして顕れると同時に、そこには神的作用が顕現する<場>が生起している、と考えられているのである。それゆえ、その<場>は人知を超えた感覚のあらゆる豊かさと多様性を見出しうる世界であり、天上の霊魂と人間の魂の世界であるMalakutの扉にあたる、現存し自立する精妙な形相とイマージュ()の世界であるとされる。Suhrawardiによれば、天上の霊魂は形相を得るべく地上の人間の想像力に向かって旅し、その結果、形相は人の想像のうちに現れるのだという。そうした意味において、「吊された」ないし「懸けられた」形相の世界、あるいは精妙な形相ないしは「'alam al-mithal(想像力の世界)」とも呼ばれるこの仲介的世界は、感覚的世界と原型(prototype)の世界(天上世界)との中間に位置づけられている。このようにSuhrawardiは、私たち現代人にしてみればいわば本能と感覚と知覚とが総動員されたヴィジョナリーな(中間)世界をイスラーム世界に初めて明確なかたちで提示したのであった。

Ibn 'ArabiはこのSuhrawardi の学説をシリアからアナトリアにかけて巡礼した際に聴き知っており、それ以前のKhidr体験と通底するその学説を自らのものとしたと考えられる。というのも、Ibn 'Arabiは偉大なるスーフィーの導師として生きたが、むしろこの'alam al-mithalと呼ばれる<中間世界>の只中で生きようとした人であるからである。すなわち、不断に創造する神顕現の<場>に関わることで、自らに立ち上がる能動的(創造的)想像力を体験し、その体験を吟味するようにして生きたのである。こうした'alam al-mithalと呼ばれる<中間世界>に立つ観点からすれば、Khidrの弟子を自覚するIbn 'Arabiとその同胞にあっては、Khidrは鏡に映し出されるようにしてその<場>に「吊された」形相として知覚されていた、と考えられる。とはいえ、繰り返しになるが、鏡もしくは金属という物質的な実体はイマージュ()がそこに出来事として在るというイマージュをもたらす実体ではなく、それは単にイマージュ()が見える場にすぎない。それゆえ、これらのイマージュ()は物質的な基体中に内在するのではなく、それらが鏡に映る、いわば「吊るされた」映像のようにして自らの姿をあらわす神的顕現の<場>をそこに生じさせていたということになる。すなわち、そこではKhidrの弟子たちの創造的想像力を介してKhidrのイマージュ()が顕現する<場>が共有されていた、そう考えることができるだろう。このことはイマージュ()がどうあるかというよりもむしろ、「mazhar(神顕現の場と顕現形態)」という考えについて注意を向けさせる。

 

この「神顕現の場と顕現形態(mazhar)」という考えは、'alam al-mithal(能動的想像力の世界)がシーア派の独特な考え方を反映していることをも示している。シーア派の思考が目的とするのは、神的な啓示が孕むすべての隠れた意味、その精神的意味が十全に顕示されることにある。そのことを代表するのがイマームである。イマームは神的顕現そのものに他ならない。そしてその顕現形態をめぐっては、mazharの語がたえず鏡の現象との比較に立ち返っているように、顕現の形態と<場>を重要視している。つまり、鏡の中に現れる像は決して鏡の本体中に具現するものとはみなされない。それは鏡の本体に内在するものではないからであるが、しかしそこには「tajalli(神の顕現)」があり、自らの姿をあらわす神的顕現の場(mazahir)を生じさせている、という顕現形態をである。イマームにおいてもそのような仕方で神的顕現が起きているのである。tajalli」の語は、神の顕れ、隠れたものの開示を意味し、何よりもそこに開示される仕方の明確さ、明確な手続きを言い表している。神が自らを具体的なかたちで明らかにする、そのプロセスを示している。言い換えれば、隠蔽された状態もしくは潜在力の状態から、輝き、明白に明らかにされる状態へといった顕現が展開される在り方を示している。そこに神による不断の創造行為がある、創造行為が顕れている、そう考えるのがシーア派の思考である。そして、その<場>に働くのは人の「始源的な想像力の活動である。相関的に言えば、私たちの内部にその同じ想像力、それは<空想>といった世俗的な感覚における想像力ではなく能動的想像力(quwwat al-khayal)もしくはImaginatrixであり、もしその力がないとしたら、私たちが自身を示すものの何もかもが明らかにならないだろう。ここで私たちは、回帰性の創造、すなわち瞬間から瞬間へと更新される運動と、止まることのない神顕現的な想像力、言い換えれば存在の持続的な継続をもたらす神顕現が継続しているという考え(tajalliyat)との間の繋がりに遭遇する。この想像力は、覆われ続けることによって隠れたものを明らかにすることができるがゆえに二つの可能性に従っている。それは蔽いである。この蔽いは不透明になり、私たちを閉じ込め、偶像崇拝の罠に捉えることになる。しかし、それはまたますます透明になることもあり得る。というのも、その唯一の目的は神秘家にありのままの存在に関する知識を得させることである。すなわち、救済のグノーシスであるゆえに届けられる知識を得させることである」(Mundus Imaginalis or the Imaginary and the Imaginal)

このように神顕現的な<場>に働く能動的想像力は両義的な力であり、それは透明性を伴う力でなければならない。そうでなければ人は偶像崇拝やファンタジーに陥り、かたちの世界の内に閉じ込められてしまうからである。透明であるということは個人的意識から解放されることで霊的なものを呼び込む状態にあることであり、そうであることによって古代から連綿と説き続けられてきた「ありのままの存在に関する知識(グノーシス)」がその<場>に開示されることになる。そのイマージュ()が「鏡に映し出された」ようにという例えは、能動的想像力が非物質的で霊的なものを映し出すその透明性を示しているだろう。さらに言うならば、能動的想像力は知性のみが関わる力ではない。それは<心臓(qalb)>という霊的器官を介して発揮される。言い換えればその想像力は、「心臓に映し出された」神の創造行為の顕現なのである。「もし創造が神聖なる神顕現的な想像力として理解されるならば、神秘家は想像力という組織器官を通じて世界ともしくは中間世界とどのようにコミュニケートするのか。能動的想像力によって知覚される出来事とは何なのか。それはどのように存在を創造するのか、いわば存在をはっきりと示すのか。こうした疑問は<微妙な生理学>のモティーフを導入する。その中心は<心臓>である。<心臓>はそこに創造的で精神的なエネルギー、すなわち神顕現的なエネルギーが集中される焦点である。そこでは想像力自体がその組織器官なのである」(同上)

脳はもっぱら意識による対象化作用として機能する。それに対して心臓は血流を身体の隅々にまで送る生命作用として機能している。そうした意味で心臓は生命の中心器官であると言える。心臓は脳のように意識作用として働かないが、血流と私たちの感情には密接なつながりがある。例えば不安の感情は心臓を高鳴らせる。こうした知見から、東洋世界では<心>は瞑想する際に体感される生命エネルギーの中枢点(chakra)として考えられてきた。その中枢点は実際の心臓という臓器と照応するわけではないが、あくまでも生命の中枢器官として体感されている。そうした意味で、<心臓(qalb)>は中枢点に実際にあるわけではないが、中枢点として映し出されるmirror器官であると言えるだろう。この<心臓>は「latifah nuraniyah(光でできた精妙な器官)」とも呼ばれ、あらゆる認識可能なものの精神的真実(haqiqah)をそこに集める本性的能力をもっているとされる。心臓はmirror器官であると同時に感情を統御する生理機能であり、さらにはそこに真実の蒐集能力があるというという観点から、Ibn ‘Arabiは「himma」を強調している。それは心臓に神経集中することで発揮されるヴィジョン力であると言われる。

こうしたことから、qalb(心臓)>はいわば、人の生命エネルギーを能動的想像力という心的機構へと供給する架空のポンプである、そう考えることができる。コルバンが言う「Imaginatrix」というのはそのような意味であろう。そしてそのImaginatrixは、<心臓>という「光でできた精妙な器官」において働くがゆえに愛で満たされている。愛こそ、対象化する働きである脳とは異なり、<心臓>から発する不滅のエネルギーである。宇宙のすべてを包摂する愛のエネルギーを基盤にした能動的想像力は、愛が十全に供給されることによってますます透明性へと開かれたものとなる。'alam al-mithalの世界は感覚作用を基盤にするその成り立ちからして人の欲望を土台にして出来上がっていると考えることができるが、そこには個人の欲望という局面は極度に薄れている。というのも、そこには神への愛、愛を供給する<心臓>の力、すなわち個人の欲望を個人の限界を超えて拡張させようとする力が働いているからである。それゆえ、Khidrの弟子であることを自覚する<場>は神への愛で満たされているはずなのだ。

<心臓>は神顕現としてのイマージュ()が映し出される受動器官である。そして、人の受動は神の能動である。それゆえ、<心臓>によるヴィジョンはその体験を対象化するのではなく、ヴィジョンの受動者はそれを世界()と一体化されたものとして体験することになる。そのようにして、ヴィジョンは自身を世界に対して開く働きをしているのである。そしてそのような意味で、能動的想像力は魂が霊的なものに向かう乗り物なのである。それと同時に、そこには<微妙な身体>を感覚するための統合された身体生理機構が働いていることも忘れてはならない。そうでなければ、Khidrのイマージュ()を人の具体的な知覚の産物として映し出すことができないからである。

 

初期キリスト教の中にはキリストの霊的な面を強調する派がいくつかあった。「キリスト仮現説(Docetism)とは、その種の一派が説くイエスの身体性を否定する教説を言う。つまり、イエスの人としての誕生、その行動、そしてその死は、人間の目にそのように見えただけであったという見解である。こうした見解からすれば、イエスの周囲では、使徒たちがキリストの姿を、行った奇跡を、磔にされたその死を、鏡に映るイマージュ()を見るようにしてその<場>を共有していたということになるだろうか。イエスとイエスをめぐる奇跡の<場>、そうした神顕現の<場>を使徒たちは能動的想像力を働かせて共有していた、そう考えることもできるだろう。おそらく神的なものが顕れる<場>の共有現象が様々な形態で古代にはあったと考えられる。例えば「gveda」の神々を讃えたsihたちの現象がある。神々が顕れる<場>の共有という形態がなければ、「gveda」として遺された詩の朗唱の<場>も成り立たなかったはずだ。こうした共有現象に特徴的なのは、天上的なものと地上の物質的なものとは全く性質が異なるという考えがそこに反映されていることである。古代中東世界ではことにグノーシス主義が説く霊魂論が広範していた。グノーシス主義では物質的(肉体的)なものと霊的なものとが対立的に捉えられており、前者は悪と考えられ、両者は相容れない存在であると考えられていた。 このような考えからすれば、イエスが神であるならば、神が悪である肉体をまとうはずがない、すなわち<受肉>することはない、という教えが生まれることになっても当然である。そうした教えからすれば、神的なものは地上に形をもち得ないがゆえに、その顕現の<場>が能動的想像力を駆使する者の間で共有される、という形態へと展開されていったにちがいない。

しかし、神的なものが人々の前に顕現する<場>があるというこうした教えはカソリック教会の設立によって強く否定された。そして、キリストに関する全ての教えは教会制度のうちに一元化され、それ以外の教えは異端とし論駁されたのである。カソリック教会によれば、神はキリストに<受肉>した。そのことを説明するのに神と神の子と聖霊をめぐる複雑な論理が駆使されたが、一方ではそれ以来地上での神の顕現の<場>という考えは抑圧されてきたのである。

ここまで述べてきたように、イスラーム世界では神顕現説とヴィジョナリーな想像力の<場>は密接に結びついている。天上的()人間は決して地上に<受肉>しない。それは神顕現的な姿でもって地上に開示される。それをもたらすのは信仰者による能動的(熱烈な)想像力なのである。キリスト教において三位一体の理論と共に葬られたのは、この能動的想像力の<場>に他ならない。

'alam al-mithal(能動的想像力の世界)」とは、神顕現の知覚が能動的想像力という心身生理機構を駆使して達成される<中間世界>である。西洋では失われてしまったこの世界は、イスラーム世界では天使と魂がsyzygy()的な関係にあることを説くIbn Sinaの考えによっても保持されてきた。Ibn Sinaは、天使(=純粋知性)の<照明>なしには人間の知性は能動的に認識することができないとさえ説いた。こうした天上世界と地上世界の<対>概念は古くはマズダー教のダエーナーのヴィジョンによって知られるものである。この天上的なものと地上的なものとの繋がりは、人間に天界と地上界を結ぶ垂直的な方向性があるという構想を要求し続けてきた。それに従うのが能動的想像力という心身生理機構の働きなのである。それゆえそれは、歴史的(水平的)時間に沿って機能するのではない。

キリスト教の<受肉>の思考は神的存在が人類の歴史に参入してきたことを意味するが、それに対してシーア派が神顕現の思考を微細にわたりかつ慎重に論理展開させているのは、神の<受肉>の思考がもたらす歴史性(水平性)に陥らないようにするためでもある。例えば予言者ムハンマドという存在と永遠の<ムハンマド的真実>、つまり予言者その人をその顕現の<場>とするような(神的)人間との関係についてシーア派は、それがキリスト教の<受肉>の思想が示しているような神的なものの歴史への参入もしくは具体化ではありえないと主張している。それは、「顕現的機能(mazhariya)、すなわち<受肉>の作用をもたずイマージュ()を映す鏡の働きとする考えは、顕現によって示されたイマージュ()がつねに、心のためにしかなされぬ永遠のhaqiqa(真実)の諸属性と、信者たると否とを問わず全ての人々にとって可視的である外見的な諸属性とを区別することにある」(「イスラーム哲学史」)からである。したがって、神的顕現の諸形態の認識に基礎をもつ、現世の起源や終末に関するシーア派の構想は、一定の時に神が<受肉>し歴史の中に現れるとするキリスト教の降臨説と固く結ばれた到来観をもつ<歴史意識>とは完全に異なっている。このことに関して、仮にムハンマドが、七世紀ペルシアに存続していたキリストの本性(ピュシス)は神性と人性とに区別されるというネストリウス派の思考を知っていたと考えるならば、天と地上を結ぶ垂直性を表すキリストというこの観点は、ムハンマドにイスラームの唱導によってキリスト教による<歴史意識>に対抗して垂直的な方向性の構想を改めて掲げさせ、世界を天界と地上界の繋がりを要請する方向へとふたたび揺り戻そうとしたと考えることもできるだろう。実際、シーア派の思考形態はそのta’wilの方法と共にその時間概念は垂直性を軸にしてつねに始源へと遡ろうとするものである。またその分派であるイスマーイール派の時間概念がマズダー教的な巡回的なものであることは前章で述べた。

現代に生きる私たちは歴史的出来事を評価するに際して一定間隔の量的時間なしではやっていけない事態に置かれている。しかし、魂の出来事そのものは、その特徴的な時間は、質的に評価されるべきものである。というのは、歴史的時間においては過去と未来の<同時性>は不可能であると考えられているが、魂の世界、もしくは「'alam al-mithal(象徴世界)」における<個々の時間>においては可能であると考えられているからである。このことが、それが何世紀も離れても、年代的に<過去である>にすぎない師の同時的で直接的な弟子であることが可能であることを説明してくれる。Khidrの状態との一体感による同胞関係は歴史的時間に沿っているのではなく、目に見えるものと見えないものを繋ぐ垂直方向、言い換えれば地上と天上との垂直方向において達成されている。こうした同胞関係は、歴史的に連続する、歴史的に世代が継続する、歴史的に事象が関連するといった水平的な構想を、あえて地上と天上との垂直方向に向かう構想へと超えていくことを意味しているだろう。この垂直方向に向かう構想はおそらくあらゆる社会的絆や慣習を超え、さらには歴史的時間をも超えて神的な世界と直接的に関わろうとしているのであり、その意義はいわば超歴史的なままにあると言える。

中世の中央アジアではこうした超歴史的な意義を示そうとする神顕現の<場>はまだ生きていた。Nasir Khusrawの思想やIbn Sinaの天使論がそうである。Ibn Sinaの天使論は神顕現の<場>を土台にしている。この世界が創造主によって生み出された幻影であれば、それを解釈することが幻影の現象を乗り越える力となる。その力はactive imaginalis(能動的想像力)にある。能動的想像力があるからta’wil(霊的解釈)することができ、ta’wilがあるから<象徴>が生起する。<象徴>が生起するから人は目の前の世界(幻影)とは別に<象徴>世界の次元をもつことができる。この<象徴>世界はもう一つの次元(天界)を繋ぐ軸となり、そのことによって、感覚世界と叡智体の世界との「中間(世界)」、すなわち<天使>の存在を知ることになるのである。

イスラームに特徴的なこうした<仮現主義>はキリスト教の<受肉>主義に相対する考えなのである。けれども、南アジアにヨーロッパ勢力が進出し、その地に住む人々と社会を支配するようになって以来、<受肉>主義の考えがシーア派やスーフィーの<仮現主義>を貶めていったのではないだろうか。歴史意識と生産性を信条にして異民族社会を支配したキリスト教植民地主義者によってこの地域から<仮現主義>は一掃されてしまったようだ。二十世紀になってパキスタンというイスラーム国家が建設されたが、スーフィーが志向する<仮現主義>は形式的なものに堕し、その志向は現在行き場を失っているようにみえる。

「言葉は神がキリストにおいて、<ことば>として顕現したものである」、そうルターは言った。十六世紀の彼にはまだ神顕現の感覚があったようだ。十七世紀のヤーコブ・ベーメは自らが体験した神秘的ヴィジョンを基に思考を重ね、いくつかの書物を著し、その論理は後にヘーゲルをも注目させた。E. スウェデンボルグはイエス・キリストに関わる神秘体験をし、その体験について書き表した。カントは「視霊者の夢」の中で、「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」と評している。その後、「近代」という概念が、個人の内面に開示されるヴィジョナリーな世界を全面的に失わせてしまった。西欧社会にとって十九世紀は境目である。ボードレールは「近代性(modernity)」について、「時間的に先立つものの忘却あるいは抑圧」であると評した。資本制社会の到来が過去を忘却させたのである。