Saturday, August 18, 2012

土方巽研究 二 <舞踏の表現形式について>


三 アレンジメント → 死者 → 時間形式

 舞踏の表現は、踊り手のからだに立ち現れるアレンジメントの連続で構成されています。そして、それらのアレンジメントを配列する操作においてこそ踊り手固有の技能がある、と考えられます。さらに、目前の素材である「写真」対象を踊り手のからだにおいて主体化するという仕方からすれば、そこに立ち現れてくるアレンジメントは、踊り手の自己に関わるものではありえません。からだのアレンジメントとして織り成された「写真の意匠」は、自己を逸脱する「物語の意匠」に支えられて、初めて幾重にも抽象的な意味が付与された線としてからだに立ち現れてくるからです。要するに、踊り手は自己とは無縁の位置で踊ることになり、そう要請されるのです。こうした点において、舞踏表現は他の身体表現と異なっていると思われます。舞踏を他の身体表現と峻別するために、以上の点を、舞踏表現を成立させている三つの要件として挙げておきたいと思います。

一)からだのアレンジメントで構成されている。
二)自己とは無縁の位置で表現する。
三)幾重にも抽象的な意味が付与された線をからだにおいて実現させる。

 その表現に際して、踊り手は他者から振付けられる場合があるわけですが、基本的には踊り手は自身を自ら振付けなくてはいけません。自らを振付ける際には、他者から指導されることなく、からだの現前性に直に関わることになります。当然そこには、衝動や「線の過程」といった見知らぬもの、潜在的なものが立ち上がってきます。そうした局面にあって、「写真の意匠」と「物語の意匠」への線の分岐が取り上げられ、一方が他方を多様なものとして相互に際立たせ合うような仕組みが見出されているわけですが、自身を自ら振付ける場合には、そうした線の分岐を見定め、確かな表現へと導いていくのは容易なことではないと思われます。そこには、見知らぬもの、潜在的なものがまた別の様相で踊り手に迫ってくるのではないでしょうか。そのとき、どのようなことが注目され、どのように対処されているでしょうか。振付けとは一つの表現形式であり、舞踏の表現においてはからだの現前性を扱う形式と言い換えることができますが、そのいっぽうで、そこにはさらに別の仕方で注目し対処する何らかの形式があるように思われます。こうした観点に沿って、三つの要件をあらためて検討したいと思います。
 まずアレンジメントについて言えば、ここで言うアレンジメントは「配列」の意味であり、言葉に反応してからだに組織される「神経の配列」のことを指し示します。とはいえ、からだのアレンジメントは単に「神経の配列」としてそこに見えてくるのではありません。「神経の配列」に伴ってからだを全体として提示する働きがそこにはあり、それゆえ、からだのアレンジメントを、「神経配列」によってからだを全体として補いつつ立ち現れてくる現象、そうしたものとしてまず理解する必要があります。要するに、からだのアレンジメントは何らかの分節としてからだに立ち現れてくるのではないのです。それがどのように現れていようとも、それはあくまでも全体的なものとして立ち現れてくるのです。何らかの言葉に対応して現れてくるにもかかわらずそれが分節として現れるのではないのは、からだのアレンジメントが、踊り手によって神経が組織されることにより、何もかもが一体となったものとしてそこに現れることになるからです。言い換えれば、からだのアレンジメントとは何かを表そうとするのではなく、おのずとそこに立ち現れてくる、といった性質のものなのです。それは分割的でなく、解離的でもない。それゆえ、それは反照的作用さえもたらすことがありません。それは、外部から要因が与えられるとはいえ、からだからからだへと内部において完結される、何の不足ももたらすことのない現象なのです。からだのアレンジメントが部分的なアレンジメントに見えるときがありますが、その場合においてもアレンジメントが全体的なものであるのは、ある部分の強調に伴ってその他の部分が消されるという作業がなされているからです。消すことのアレンジメントがあって、そのとき、あくまでも全体が前提とされている部分が際立たせられることになるのです。
 したがって、舞踏符が指示する言葉の内容とは別にアレンジメントとして見えてくるものがある、ということになります。そのことは、言葉に反応してアレンジメントが成り立つという現象は一方通行的な過程であり、アレンジメント側からそれに対応する言葉へという逆の方向、すなわち、アレンジメントがあって、それを名付け分類するといった方向はありえない、ということを意味します。舞踏符の言葉とアレンジメントの関係について言えば、舞踏符が指示する言葉の内容はできるかぎり分節的でないよう慎重に選ばれてはいるけれども、それは言語という性格上否応なく分節されています。とはいえ、舞踏符の言葉はあくまでも分節的でないものに関わろうとするのであり、そうした言葉が指示する内容にからだ(神経)を適合させることで、言葉が示すものとは別に全体としてからだに組織されて見えてくるもの、すなわちアレンジメントがあるといった、言葉を契機にして逆にからだが言葉を包み込んでしまうような過程があるわけです。そこには、からだを仲介にして、部分から全体へと変換される確かな作用があることがみてとれます。言うならば、心的抱握はつねに身体的抱握によって統合されるのであり、踊り手はそうした体験を目前にすることになるのです。要するに、そのように統合するものとして、からだのアレンジメントを自ら扱うことになるわけです。
 いっぽう、からだのアレンジメントとは、本来的に言えば、私たちのからだが日常的に構成している神経組織による綜合的な関係設定でもあります。その日常的なアレンジメントは、社会生活する上で必要とされるために、反復を基にしています。そのことは、私たちにとってはふだん認知しにくいものとしてからだに浸透していることを示しています。こうした観点からすれば、舞踏符の技法とは、からだをめぐる現実的で日常的なアレンジメントにあえて虚構のアレンジメントを嵌め込ませる作業である、と言えるでしょう。そうすることで、踊り手のからだにある種の宙吊り状態をもたらす、といった意図があると考えられます。舞踏符によるからだのアレンジメントが偽のアレンジメントであるのは、その偽のアレンジメントが、現実のアレンジメントの存在をあらかじめ想定し、それに対抗させるものとして用意されているからでしょう。現実のアレンジメントとは、人類社会をめぐる記号の体制が私たちのからだの末端にまで及んでいる現象、すなわち個人における思考、行為、発話等といった諸々の現象をめぐる何らかの型を指し示しているわけですが、舞踏符を振付けられることで、踊り手は、現実に身につけているアレンジメントに偽のアレンジメントを否応なく対抗させることになるわけです。そこに宙吊り状態がもたらされるのであり、それというのも、からだに宙吊り状態がもたらされることで、舞踏の表現が踊り手の自己の枠内にとどまることがないよう目論まれているからなのです。
 以上、からだのアレンジメントについて急いで述べましたが、それが虚構であるとはいえ、舞踏の表現を支えるからだのアレンジメントは、踊り手のからだにおいて現実に立ち現れてくるものに変わりありません。それは、想念と捉えられるものではないし、また表面的なかたちとして捉えられるものでもありません。それ自体の成り立ちが真実であるか偽物であるかは別として、それは実際にからだに起きている現象として立ち現れてくるのです。舞踏の表現がアレンジメントで構成されるとは、こうしたアレンジメントの連続、すなわち踊り手のからだに次から次へと新たなアレンジメントが、それも全体としてからだに組織されるものが連続的に現象することで表現が成り立っている、ということです。踊り手のからだに次から次へとアレンジメントが立ち現れては消え、消えては新たに立ち現れる。そのように変動するものを扱うことにおいて表現が成り立つがゆえに、そうした位置における何らかの描写に踊り手の技能が試されることになるでしょう。すなわち踊り手は、からだに次から次へと現象するアレンジメントを効果的に操作しなければならないのです。そしてその操作は、からだのアレンジメントという、踊り手自身からは見えにくい身体的抱握といった現象を扱うことからして、決して容易なことではありません。その技能は、踊り手自らアレンジメントそのものを操作するというよりは、もっぱらアレンジメントをそこに立ち現させる要因に関わることで操作する、といった性格のものなのです。「アレンジメント—配列」とは、からだのアレンジメントとして「配列される」と共に、「配列する」ことでもあります。したがって、アレンジメントそのものにではなく、アレンジメントの構成される手前で、アレンジメントを生み出す要因に次から次へと関わることの操作がなされようとするのですから、その位置からして、何らかの描写することにおいて否応なく、からだに関わることの現前性に向き合うことになるでしょう。その表現内容が表現者自らの行為を通じて即座に対象化される表現形式においては、その対象化された内容は逐一反省されつつ表現化されていますが、そうではなく、作品が構成され、その構成を抱えていったん舞台に立てば、表現内容が対象化されることを経ずして、すなわち表現内容が一瞬も反省されることなく、その内容が表現化されようとするのです。
 からだに関わることの現前性をめぐって、土方は次のように語っています。

 踊っている時の状態をいまわたしは喋ろうとしているわけなんだけど、喋ろうとしている時にすでに構築しなおそうとしている瞬間が見舞ってますね。じゃ、踊っている時は何もわからないのかというと、…灯りとかですね。その灯りが必ずしも、こういう目の中に入ってくる光でもないし、反射と言えばいいかな。その反射が、どんどん忘れていくという方向のメカニズムに入らなければいけない。ばっちり覚えたものを舞台の上に立ってから新たに役づくりする。それも忘れるという役づくりです。その忘れる最中の忘れ方は一回忘れたことには手を触れたくないというメカニズムです。
           (「欠如としての言語=身体の仮説」現代詩手帖1977年4月号所収)

「反射」の語は、reflectionといったん置き換えて解釈した方がわかりやすいかもしれません。「反照」、「内省」といった意識作用を含むからです。しかし、その意識作用は「灯り」とか「光」と言及されて、あたかも物質作用のようにして捉えられているように、そこには主客の視点が入る余地がありません。そして重ねて、そうした作用が、忘れていくことに向かうメカニズムに入らなければならない、そう土方は指摘しています。とはいえ、「忘れる」というのは、その内容が消滅することではありません。そうではなく、「どんどん忘れていく」その内容は、主客の視点に捉えられずに、物質のように「灯り」のようにして、踊り手において作用することに変わりはないのです。したがって、「反射」の語は正確な言い回しなのです。そうであれば、「忘れる」ことのメカニズムとは、逆説的にも、主客の視点に拘束されることなしに内容を「反射」させる、という意味になりはしないでしょうか。とすれば、からだに関わることの現前性に向き合うとは、畢竟、意識作用の由来としての、神経組織の事物性に立ち会うこととも言えます。
「忘れる」ことで、すなわち、主客の視点を逸脱させることによって逆にその内容を作動させることで、次から次へとアレンジメントが操作されるメカニズムがあるのではないかと考えられるように、からだに関わることの現前性に向き合うことは、「自己とは無縁の位置で表現する」という、もう一つの要件と縁を結んでいるのです。「自己とは無縁の位置」とは、土方が「自明でない自己というものは、先見的にとらえられた自己や反省する自己などに関わっていけるものではないだろう」(「包まれている病芯」)と語る、「自明でない自己」の位置と同義です。主客意識の宙吊り状態(判断停止ではない)を示唆するその位置は、からだのアレンジメントという、外からは見えるが踊り手自身には捉え難い現象を執拗に操作しようとすることで踊り手に知られることになると考えられますが、しかしそれ以前に、アレンジメントの連続を支える「物語の意匠」の未生にして変動的であることが、そうした位置取りを要求しているでしょう。「物語の意匠」という思考の力動を代表するものが消えることで有象無象の群れとしての「写真の意匠」がアレンジメントとしてからだに立ち現れてくる仕方は、自己とは無縁である位置において操作されることで、あえて折り畳まれた思考の線をアレンジメントの統合的な線へと展開することになる、と考えられるからです。それに対して、もっぱらアレンジメントが自己のみによって操作されるのであれば、アレンジメントを生み出す要因に関わることの操作を欠いているがゆえに、そこに立ち現れてくるものはおそらく自己という限定に付き従うものでしかないでしょう。そこには幾重にも意味が付与されたアレンジメントへと展開されていくための契機はなく、それゆえ単にアレンジメント操作が見えるだけの表現になってしまうのです。「物語の意匠」である思考の線が対象へと具体化しようとするのに対して、「写真の意匠」であるアレンジメントはそうした対象を抽象化してからだにおいて主体化しようとします。ここには相対立する作用がありますが、「自明でない自己」という主客の曖昧な宙吊り状態の場へと開いてやることで(つまり、「忘れる」ことで)、そこに思考の線に支えられつつ幾重にも意味が付与されたアレンジメントが成立する契機があるのではないかと考えられるのです。具体的には、自己に関わらないようにするために自己に先回るようにして次々と指令を与えるものがあり、それが「物語の意匠」の役割となります。自己という粗大な位置取りでは、「物語の意匠」が内容とする微細な働きが要求するのに応じてアレンジメントの連続を操作することは到底できない、そう考えられてきたのではないかと思います。
 折り畳まれたものが質の異なる次元へとふたたび展開されるといった仕方で、幾重にも意味が付与されたアレンジメントをからだにおいて立ち現せようとする舞踏の表現は、自己とは無縁の位置において何らかの描写をしようとすることで、ややもすれば主客の視点が介入して「忘れる」ことを忘れさせようとする、そうした表現の現在の脆さに対処して、意図的にからだの現前性を押し開くようにしてなされているのだと考えられます。「反射」という言い回しは、そうした表現の現在をさらに開いていこうとするところに見出される事実上のからだの働きに言及しているのです。しかし、土方はそれだけではだめだと言います。

 反射だけじゃだめなんですよ。(中略)
 しらこみたいな、睫毛に埃をかぶっているような、光の蜘蛛の巣みたいなものをパッと捉えないとまぶしがることがどうも正確に出てこない。むかしは、霞かけたり、日暮れ時に日本人の肉体を捉えたりですんだけれど、そういう断層だけじゃだめだ。日本人の体をもっと剥製体にすべきだと。かつて飛んでいたものをさらに飛ばせるために、一度体を剥製にして、それには日本人はうってつけの体だと思うんですね。
                                     (同前)

 舞踏の表現が踊り手のからだにまつわる歴史性を積極的に展開させようとするのは、こうした位置取りからであるように思います。「しらこ(白子・albino)」、「睫毛に埃をかぶっている」、「光の蜘蛛の巣」といった用語は、「反射」作用に替わって見出されているものでしょう。土方は、「反射」の事物性から翻って、ともすればその事物性に付き添ってくる「まぶしがること」の作用の、その能動的な内容を正確に取り出したいと考えているのです。
 からだの現前性に向き合うことで、そのとき現在的なものである脆弱な即自性と共に、その即自性を支える歴史性といったものが否応なく付き添ってくることになります。「まぶしがること」とは、「自明でない自己」のうちに展開されるからだのアレンジメントと共に浮上してくる、個人を超えて連綿と伝えられる何らかの主体的な「灯り」の作用なのです。その「灯り」を詳細に検討すると、そこにはalbinoのように遺伝的に隠れた微細なものの連続性が保持され(自然は隠れることを好む)、その反射というよりは放射は、蜘蛛の巣のように部分が全体と即座に連動するホリスティックなものが示す拡がりとして捉えられようとします。それゆえ、単なる意識の「断層」といった個人の時空ではなく、さらなる時空の拡がりを印しづけられたからだを捉えようとするために、土方は「剥製体」を持ち出しているのです。
 この「剥製体」は、中身を異物で詰めて復元され、無時間の空間にさらされた展示物を言うのではありません。たとえば、目の前に鳥の剥製が今にも飛び立とうとしている。その鳥は、現在は剥製であるが、すなわち死体であるが、それにもかかわらず、かつて飛んでいたすがたをそこにありありと保持しているのです。そのように時間の錯誤を伴ってかつての存在様態が現在において生き生きと迫ってくるようなあり方、それが「剥製体」なのです。土方は剥製を前にして、錯誤ではあるが(錯誤であるゆえに)、現在のうちに過去が生き生きと呼び込まれるその時空に、からだにまつわる歴史—記憶が奔流の如く流れ込み、多層に展開してくる可能性をからだで読みとろうとしているのです。からだにまつわる歴史性は、私たちにとって拘束と知られるものでもありますが、その実、その拘束は私たちの自己を織り成しているものの背景となるものでもあるのです。その暗い背景の拡がりは自己には到底知られることがありませんが、厳然としてそこにあるものなのです。それがなければ、私たちの現在とていっかな成立し得ないでしょう。それゆえ、その拡がりは、事実としての私たちのからだは歴史—記憶の層を成したものであるという意味で、むしろ私たちが自ら拘束を評価するところにからだの事実性として立ち現れてくる、と言っていいでしょう。
 事実として、私たちの身振りは自身で産み出したと言える代物ではありません。それは私たちが本能的に習得してきたものとはいえ、身辺に体感される者の身振りを模写するものであったり、記憶を奪われるようにして身を任せたものであったり、また動物の動きや身辺のモノの気配に魅入られるようにして成ったものに彩られてさえいます。他者の身振りの模写や、記憶が否応なく支配された状況や、動物やモノの気配に魅入られるようにして構成された私たちのからだは、そうした模写する対象自体の記憶や微細な感情、その環境、モノ自体がもつ多様な情報が層になってそこに堆積しているという意味で、何らかの歴史性を示しているのです。そして、その歴史性はといえば、それは私たちのからだが事実としてそうであるその内容を支えているという点からすれば、私たちが自ら客観化し得るといった性質のものではありません。それは背景へと埋没し、埋没してはいるが、私たちの身振りの即自性のうちに決定的に与えられているのです。それゆえ、それは「死者」と呼ばれることになります。
 私たちの歴史とは、当然ながら死者を積み重ねてきたことで成り立っているものです。それゆえ、からだにまつわる歴史性の認知はおのずと、かつて見知った死者の身振りを「採集する」こと、すなわち死者の身振りを自らからだで何度も振り返ることへと繋がっていくようです。その振り返り方はといえば、実は「死者」がこちらを振り返ることだ、そう土方は言います。

 こういうことは私の身体の中で死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい、死んだ人をまるで死んでる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知ってるからね。(中略)…私は私の身体の中に一人の姉を住まわしているんです。私が舞踏作品を作るべく熱中しますと、私の体のなかの闇黒をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまうんですよ。彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず座りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。という、かかわりあい以上のものが、そこにはありましてね。そしてこう言うんですね。「お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやってるけれど、表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」と言ってそっと消えてゆく。だから教師なんですね、死者は私の舞踏教師なんです。
                     (「風だるま」現代詩手帖1985年9月号所収)

 からだの事実性とは、時空の拡がりを印しづけられたからだの地層と言っていいものですが、それが「死者」と呼ばれるとき、そこには未だ地層化されていない微細な記憶も埋没していることが示唆されています。そして、その「死者」の側から、からだに配列されようとする幾重にも抽象的な意味が付与されたアレンジメントが指し示され、からだの事実性に素手で向かい、微細なアレンジメントを捕獲しようとする舞踏者を表現へと導いてゆくのだ、そう考えられているのがわかります。すなわち、からだの事実性はそれ自体では何も意図してはいません。それは純粋に潜在的なものにとどまっています。こうした潜在性に意味を与え、ベクトル的なものとして示されようとするときに、幾重にも抽象的な意味が付与されたアレンジメントとして立ち現れてくるわけですが、そのようにからだの潜在性を方向付ける局面にあって、「死者」の方が何らかの仕方で関わってくるわけでuu面にあって、「死者」が関わってくるのでsuいかと考えられますuu面にあって、「死者」が関わってくるのでsuいかと考えられますす。「死者」は私たちの見知らぬ微細なものに関わるいっぽうで、なおかつアレンジメントに意味を与え、方向付けすることになります。「死者」は徹底的に自己の外部にあって自己を指導するのです。この「死者」は歴史性に関わり、それゆえ多数的なものであるとはいえ、きわめて特異なものなのです。舞踏の何たるかを語る際に土方は頻繁に「死者」に言及することになりますが、というのも、それが「自己とは無縁の位置」という宙吊り状態において、宙吊り状態を宙吊り状態のままで新たに統合するようなものとしてもたらされているからではないでしょうか。
 からだのアレンジメントという全体的なものに意味が与えられるとき、それは分節的であってはなりません。そして「死者」の側からアレンジメントに意味が与えられるとき、それは分節的ではないのです。というのも、その関わり方は、土方が「死者」の身振りをからだで振り返る仕方において、おそらく「死者」は過去であり、現在であり、未来である、といった意図的な仕方でなされているからではないかと思われます。どういうことかと言えば、舞踏の表現においては、あくまでも表現の現在において「死者」が立ち現れる場が開かれるのであり、その「死者」は、過去の時空の拡がりを、その潜在的なものを、生き生きとからだに呼び込む契機となり、そして、そこに成立する表現は「死者」によって意味が与えられることで、未来に向けて何らかの意図が果たされようとするのです。「死者」が未来に向けて意図するのは、土方の語る「死者」が生の連続性の別名であることを示唆していると考えられるからです。一般的に死者は想起に関わるものですが、土方の示す「死者」は単なる記憶の形式におさまるものではありません。「死者」は想起とその実現に関わるのですから、具体的には想起を要因とするからだの現象に、すなわちからだのアレンジメントに意味を与えることになるわけですから、むしろそれは自己を成り立たせている全体的なもの、すなわち時間形式に沿うものとして考えなければならないと思うのです。
 一般的に、どんな表現も何らかの時間形式に則っています。ここまで述べてきた舞踏表現を成立させている三つの要件に関しても、それぞれが時間形式に沿うものとなっている、と考えることができます。繰り返して言えば、アレンジメントで構成されるその表現は、からだの現前性、すなわち絶えず変動する目前のプロセスを素材にすることで、舞踏表現の現在性を前面に打ち出しています。また自己とは無縁の位置でなされるその表現は、自己の制約を解いて表現の場をいっそう拡げることで、錯誤の力を借りて、そこにからだにまつわる歴史性、すなわち遠い過去から連綿と伝わる記憶の堆積を、奔流の如く呼び込むことになるのです。そして、幾重にも抽象的な意味が付与された線をからだにおいて実現させるその表現は、からだの事実性、すなわち時空の拡がりを印しづけられたからだの地層に意味が与えられることで、過去から未来へ向けて連続するものを明確に意図しているのです。
 このように、三つの要件それぞれが時間形式に沿って独自の役割を果たしながら舞踏表現を支え、意味のあるものにしているわけですが、土方はことさらそれらを区分するわけではありません。むしろそれら三つの要件は、からだの事実性に意味を与え、方向付ける「死者」において集約されているように思われます。それゆえ、あえて言えば、過去・現在・未来に通じた「死者」に関わることが、舞踏表現を時間形式に則った表現たらしめていることになる、そう考えることができます。そして、その時間形式は、「死者」が生の連続性の別名であると考えられることから、生命が意図するものにおいて要請されているのです。からだの現前性に関わることでそこに際立つ差異に向き合い、そうすることでおのずと分岐してくる二重の線をめぐる多様な現象は、土方にあっては「死者」との関わりを見出すことにおいて一つとなり、そして、そのような多様性を孕んだ一であるマトリックスとしての「死者」を仲介として、土方の舞踏表現は逆に「生命の線」へとまっすぐに繋がっていこうとするのです。
 そうした「死者」と「生命の線」として語られるもの、すなわち、からだの現前性に関わることで立ち現れるからだの歴史性や事実性といった潜在的なもの、そこに連続するものを扱うには、むろん素手では不可能です。からだという現象の背後に渦巻くその内容をベクトル的に示し、生という連続体に触れようとするには、それ特有の表現形式が当然に用意されていなければならないのです。私たちの目前にはまず連続するものとしてのからだの成り立ちがあると考えるわけですが、それをからだの事実性として多様な変動を抱えているものとして把握するためには、自己を不明にすることの形式がまずなければならないでしょう。次いで、自己を解かれた場に舞踏符の意図を機能させるためには、からだに変動を抱えたままで、一貫性をもったからだのアレンジメントを構成することの形式がなければならないでしょう。さらに、そのアレンジメントが「物語の意匠」に染め上げられることで、幾重にも抽象的な意味が付与されたものとして、すなわち個人を超えた時空的な拡がりをもったものとして立ち現せるためには、未来への方向性をもった何らかの表現形式がなければならないのです。ここまで見てきたように、幾重にも抽象的な意味が付与されたアレンジメントをからだにおいて実現させようとするとき、そこには当然ながら厳密な形式が課されてきたわけです。その形式はおそらく、土方の言葉に沿って言えば、「死者」というマトリックスをからだに採集することの時間形式に裏打ちされているのです。
 時間について、土方は一般的な形式に異議を唱えています。

 人は時間を、過去があり、現在があり、そして、未来があると言う。しかし、そうじゃないよ。まず未来があって過去がでてきて最後に現在にいたる。
                          (中村文昭「舞踏の水際」2000年)

 とすれば、土方には、その表現の意図においてまず未来への意識があることになります。すなわち、舞踏の表現形式は、まず未来が意図され、過去が動員されることで、そこに現在が開かれる、という時間をめぐる運動形式のうちにあると考えられることになるでしょう。
 とはいえ、こうした時間をめぐる形式はむろん舞踏の表現に限られるわけではありません。時間をめぐるその表現形式は、ここでは検討する余地はありませんが、おそらく他の様々な表現とその形式を共有していることでしょう。土方は他の表現に見られる同様の表現形式を、逆に「あれも舞踏、これも舞踏」と、ある意味では傲慢とも言える態度で表現形式の同類性を指摘しているわけですが、それというのも、土方にはこうした表現形式を、からだの表現、すなわちからだの現前性自体を素材とする表現において、何らかの価値を得ることで満足することなく、ひたすら未来へと推し進めているという自負があったからであるように思います。表現の意図においてまず未来が意識されるいっぽうで、その未来を意図する局面にあって「自己とは無縁の位置で表現する」ことに執拗にこだわるのが、土方の舞踏表現における際立った特徴であるように思います。というのも、自己に囚われていれば、表現の現在を時間形式に関係なく固定してしまうことになるだけですが、自己が自明でないことで自ずと未来への方向が意図されることになるからです。
 こうした「自己とは無縁の位置」にあって、いったい何が注目されているのでしょうか。