Thursday, August 16, 2012

土方巽研究 二 <舞踏の表現形式について>


 一 生命の線

 表現には、文学、絵画、造形、音楽、舞踊、演劇、映画など、様々な表現形式があります。舞踏は、舞踊一般と同じくからだを素材とする表現形式ですが、表現する者が自らのからだに関わることの即自性においてその表現が成立しているという点で、他の舞踊表現とは異なっているように思われます。舞踏は、からだの現前性を素材にしているのです。どういうことかと言えば、舞踏は、からだに関わる視線の逸脱をそのまま身体表現として示そうとするのです。そして、そのことによって、舞踏の表現には何よりも、他の表現と比べて具体的な価値に還元し難い面があるように思われます。
 たとえば、「舞踏」の名のもとにその技術上の探求が着手されたとき、土方巽は次のように語っています。

 するするとつながっていく生命の線は、線が線として現れてくるような滑走のしかたで、そういう衝動や過程も含めて生きのびるのであろう。が、そういう過程も含めて、本来形というものは到達不能なものとして薄ぼんやりと表れてくるものではないだろうか。それは、逆に形を表そうという意図のもとに必死に線そのものに立ち合っている姿と、いかなる関わりあいをもつものか。そのあからさまに意図された形、またそのための過程と、何らかの形を表そうというのではない線の過程とは、どう違うのか。その違いは、一体何によって覗かれているのか。この過程の介入を、どう覗きかえしているのか、という興味がずるずると介在してくるわけだ。
               (「線が線に似てくるとき」現代詩手帖1974年10月号所収)

「舞踏家の眼玉はどこについているか」という詩人の瀧口修造の問いに対して土方が提出しているのは、舞踏の稽古をする際にからだに立ち現れてくる「形」と「線」に向けられた特異な視線です。からだに関わるこうした視線には、形が見える視点と見えなくなる視点とが混淆しているわけですが、からだの現前性を素材にしようとする表現に際しては、そのように形と線が入り組むところにどうしても注目せざるをえないのではないかと思います。そこでは、「あからさまに意図された形、またそのための過程」と「何らかの形を表そうというのではない線の過程」、すなわち形を導いてくる線の過程とそうではない線の過程というふうにして、否応なく差異が生じてしまうのです。そうした過程の差異はどのように生じているかと土方は問うているわけですが、からだの現前性に向き合おうとする視線にあっては差異はおのずと生じるのであり、というのも、両過程は、土方が「生命の線」に焦点を当てようとするときそこに分岐する現象としておのずと知れる、そう見当づけられているものだからではないでしょうか。
 こうした分岐があるのは、からだに関わる視線が、それとは非等質であるものを絶えず内包してゆくからです。たとえば、からだの現前性に向き合うことで、現在をめぐる即自的な形(それは「到達不能なものとして薄ぼんやりと表れてくる」)があらわになるばかりでなく、その即自的な形を支える歴史性の線が、「それ自身における差異」の働きのうちに否応なく、薄ぼんやりとした灯りのうちに連れ出されてくることになります。こうした分岐する現象を他者があらわにするもののうちに見るのではなく、自らその分岐の現象に関わってゆくことは、すでにして逸脱です。そして、そのようにからだに関わる視線がおのずと逸脱してゆくとき、言い換えれば、土方がからだの現前性に向き合うことで際立つ差異のうちに「覗かれ」そして「覗きかえす」とき、「衝動」すなわち現在的なものと、「過程」すなわち現在を支える歴史的なものとを伴うことで、逆に「生命の線」がからだに生きのびようとする、そうした体験を、その経緯を、土方はここで反芻しているように思われます。
 そうだとすれば、舞踏の表現には、からだの現前性に関わることでそこに際立つ差異に向き合い、そうすることでおのずと分岐してくる二重の線の現象を従え、そのことによってからだに「滑走」してくる「生命の線」を捉えようとする、そうした確かな意図がある、と考えることができるのではないでしょうか。はたして、そのことは舞台上で具体的にどう実現されようとするのか、舞踏の表現形式を検討することによって、以下に考えてみたいと思います。
 ちなみに、舞踏の表現形式として認められるものに舞踏符による振付けがありますが、それについて言えば、たとえば同一の舞踏符が振付けられる場合であっても、土方巽の踊りと芦川羊子のそれとではおのずと異なった印象を与えています。むろんそこに立ち現れてくる形には違いがあるし、質的にも異なる線が際立たせられることになります。したがって、ある舞踏符が振付けられることで、それに相当する形を表し、相当の質を際立たせることができるはずだ、といった意味での表現形式は存在しないと考えられます。いかなる表現においても、その表現形式は鋳型のように存在しているのではありません。舞踏の場合も同様です。価値に還元し難いことにおいて他の表現と異なると思われる舞踏のその表現形式は、もっと別のところに重点を置いているはずです。それは、踊り手に立ち現れてくる「意図された形」ではなく、形を表すことにおいて踊り手が「必死に線そのものに立ち合っている姿」にまず注目しているのです。