Thursday, May 17, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 三 舞踏のテクネー 

1. 死体であることの表現        

 そのころわたくしは、濡れてささくれだった板に兎をなすりつけたり、そこにクレヨンで絵を描こうとしましたが、クレヨンが滑って色がよくのりませんでした。そんな隠れた所から、この娘とわたくしの精子の間の情緒が、煙のように立ち昇っていたと思われます。(「犬の静脈に嫉妬することから」)

 こんなクレヨンで濡れた板に絵を描くような話の中にも、思いがけない事態が述べられています。土方は、すっと腕を前に伸ばすような語り方を好みません。語る内容にすぐさま理解が到らないよう、もしくは相手がすぐに頷くことのないよう、とにかく馬の首のようにわざと迂回させて語る傾向があるのです。語るその内容が経験的なものであることに由るのですが、言葉が伝えるよりも前にすでに届いているものを示そうとして、そうするのです。そこで、土方は話を迂回させるいっぽう、言葉の意味というよりも、言葉が示す事象をそのままモノとして目の前にもたらそうとすることで、語りのうちにある種の亀裂を開いてみせるのです。土方の語りを理解するとは、からだがそうした亀裂に見舞われること、そう言っていいでしょうか。
 ここで土方は、絵を描く行為とその行為が触れる物質を通して、ある種のなさけなさの感覚を語っています。すなわち、表現しようとするその行為が物質にぶつかることで、逆に何ものかにとらまえられたような感覚に見舞われている、というものです。今描いたばかりの目の前の表象はむなしく流れ去り、そこに描こうとする行為ばかりが、何ものかの餌食となったようななさけなさと共にあらわになっているのです。そことは肉体のことですが、「描くものが描かれてしまう」といった、この肉体の空回るような感覚が、おそらく土方が舞踏という表現行為を始める根拠のようなものとなっていると思われます。
 この肉体の空回るような感覚において特徴的なのは、手と眼による感覚が綜合されるはずの場に余白が、あたかも風呂敷が拡げられるように開かれている点です。手と眼の間には脳ではなく、からだがあるのです。手感覚による刺激の内容は眼感覚により判断され、そのとき認識が生み出され、そしてすぐさま手感覚はその認識を判断するものになかば促されつつ新たな局面に着手してゆくのですが、土方は、思考を足場にしてこの手と眼が親しく関係する場を、最初からからだにおいて脱臼させているように思うのです。
 土方がことさら闇を強調することからも知れるように、舞踏とは何かしらの思考を生み出そうとする表現行為ではありません。それは、手の行為によってもたらされた表象が、眼感覚あるいは聴覚に示されることで生まれるものを目的とするような行為ではないのです。むろん、描くという行為があって初めて、何ものかにとらまえられ、そのとき肉体が空回る感覚が知れるわけですが、このとき描くのは、手感覚ではありません。描くのはからだであって、それをほぼ同時に見ているのもこのからだなのです。そのとき思わず肉体が空回り、からだがなさけなさの感覚に見舞われることになるのですが、その肉体(認識)が空回るという感覚も、肉体感覚の亀裂(という認識)としてこのからだに知られるだけなのです。それは、「自分という獲物がそこに現れている」といった、認識と感覚とが混然となって、自分のからだを捉えようとする認識があたかも亀裂に見舞われるような感覚として示されているのです。からだは何ものかの餌食となり、錠をはずされ、モノのようにさらされ、無防備になっている。自身の肉体感覚からしてもそうなのですが、それをはたから眺めたとしても、その肉体認識の亀裂に「闇がこぼれている」、そう知られるのです。主客が転倒し、その区別が不明となるような事態をそのまま抱える、「裂け目はもともとからだなのである」といった肉体(認識)が、ここに見出されることになるわけです。土方の舞踏表現とは、こうした亀裂に見舞われたからだを要請することにより、そのときそのからだが具体的にあらわにする、からだからこぼれる闇をとらまえようとする行為として開始されている、そんなふうに考えられるのです。
 ついでに言えば、「この娘」の「濡れてささくれだった」からだに絵を描くという、女性のからだに舞踏符を振りつけることの最初の感覚も、ここで表明されていることがわかります。舞踏符を振りつけることによって目の前のからだに生まれてくるものを、土方は「精子」という言葉で言い表し、舞踏の創造行為の現場であることを示唆しているわけですが、そこに何かしら途方もないものが生まれてくる表現を見出して、土方は静かに発情しているようです。

 前の「闇の原理」の章では、闇がどのように展開されていったのかを主題にして、土方がみずからのからだに死者を立ち上がらせるまでの経緯をみてみました。けれども、闇というヴァーチャルなものを主題とする範囲内では、死者に関わることの表現から、舞踏符による表現形式がすでに成熟した「病」の段階へといっきに飛び越えざるをえませんでした。その溝を埋めるために、この章では舞踏表現を主題とします。闇というヴァーチャルな内部をからだで展開させるその表現は、闇をめぐることの視線によるよりも、その視線という形式を逸れるようにして、具体的には、たとえば「亀裂に見舞われたからだ」を要請することにより、逆に事物としての肉体の方からその視線を扱う、そうした仕方においてなされていると考えられるからです。
 とはいえ、舞踏表現を主題とするといっても、舞踏とはたとえばからだがこのようなあらわれを提示する表現であると、具体的な例をあげて示すのはなかなか難しいものです。また、たとえそのように示すことができたとしても、そうした示し方では舞踏表現というものが限定づけられてしまい、その表現の深さに照準を当てることができなくなるおそれがあると考えます。いっぽう、具体的な舞踏表現として示されているわけではありませんが、舞踏について命言された、あまりによく知られた土方の言葉があります。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」、というのがそれです。土方は、こうした断言によって何を表明しているのでしょうか。文字通りに受けとれば、舞踏表現とは死体であることである、それも「命がけで突っ立った」死体であることである、ということになります。しかし、文字通りに理解することは、土方の語法に反する理解であるはずです。この言葉の真意を探ろうと思うのですが、何がしかの手がかりを得るため、ここで迂回路をとろうと思います。
「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という言葉から、つい連想する言葉が私にはあります。ジョルジュ・バタイユがエロティシズムについて述べた名高い言葉で、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」(「エロティシズム」酒井健訳)、というのがそれです。土方の断言に「死体」と「命がけ」が並べられているように、ここにも死と生の語が並べられています。ひとつの短い文章で、それも何がしかの本質をマニフェストしようとした文章の中で、死と生とを二つ共に抱えているというのは興味深い一致であると思うのです。それが、連想する理由です。土方は、みずからの断言に関していっさい説明していませんが、いっぽう、バタイユはこのエロティシズムの断言を冒頭に掲げて一冊の著作を発表し、エロティシズムをめぐって言葉を尽くしています。その「エロティシズム」によれば、バタイユのエロティシズムとは、数万年にわたる人間の活動が射程に入れられた、人間自身による人間をめぐる深い思想であることがわかります。エロティシズムには、私たちの生を胎動させ続けているマトリックスのようなものが想定されている、そう言っても過言ではありません。そのエロティシズムはモノのように直接的であり、したがって、その思想を表現する際にかぎり言葉に依拠せざるをえないのであり、エロティシズム自体はその言語表現が指し示すものであることはない、そう考えられています。そのため、バタイユはエロティシズムを何よりも体験として言い表そうとしています。そして、そのことをまず最初に、エロティシズムの断言に反響させているのです。
「死におけるまで」とは、むろん実際に死ぬということではありません。「私たちが死と呼んでいるものは、第一に、私たちが死に対してもつ意識のことなのだ」(「エロティシズム」)と言われているように、死は死そのものなのではなく、あくまでも観念として知られる死なのであり、私たちを恐怖に陥れる死のことです。なぜ恐怖するのか。それは何よりも死が、「私」を崩壊させるものであるからです。それゆえ、「死におけるまで」とは、「私」を崩壊させるまで、という事態を示しているでしょう。しかし、「私」を崩壊させてしまえば一切が無に帰してしまうので、「私」を崩壊させるそのぎりぎりの「私」を保っている、という事態になります。このように「死におけるまで」とは、実際には、生がみずからに突きつけるぎりぎりの働きを示していることになるわけです。とはいえ、これほどまでにおのれを極限にまで追い詰める生の働きとは尋常でありません。それはおのれを崩壊に追い込むほどの、自然の秩序に反するたいへんな生のエネルギーを要することなのです。生を逸脱するようにして生そのもののエネルギーを絶頂にまで高めよ、それほどまでに過剰な「生を称え」よ、そう生自体が表明するのです。すると、そこに今まで「私」がとらえることのなかった生の奔流する感覚が知られることになる、そうバタイユは言います。通常の生を逸脱するさなかに知られるこの新たな生の充溢、それが、エロティシズムの断言が歌うもののように思います。
 このように、死と生という本来激しく対立するものが、バタイユのエロティシズムの断言ではまるで曲芸のようにひとつに繋がれているのがわかります。そのため、生でありながら、あたかも自然に反するような生のエネルギーがそこに立ちあがってみえるかのようです。バタイユは、こうした自然に反するかのような生の体験を示そうとしているふうにみえますが、しかし、そうした内的体験には、いかなるかたちをとるとされるにしても、具体的な「私」が最初から最後まで関わっていることを忘れてはならないでしょう。たとえば、まず「私」が、「私」の生を恐怖に陥れる死に気づくことになるわけです。死が、「私」を崩壊させようとするからです。「私」を崩壊させ、「私」を食らってしまうものだからこそ、死は「私」の生を恐怖に陥れるものと、いつからか知れませんが、そう「私」に知られることになるのです。ところが、その死が「私」を食らうことの緊張が、「私」をぎりぎりの極みにまでいたらせ、その極限状態が一転して「私」を支える主客意識を不明瞭な事態にさせることになるのです。自己の不明のうちに「私」が解体されようとするそのとき、今まで「私」を支える緊張として知られていたものが「私」を差し置いて、「私」が今までとらえることのできなかった過剰な欲求として、あたかも死がむきだしのままの生として、目前に立ちあらわれることになります。この新たな生は、「私」と無縁なまま、すなわち無主のまま、死を称え続ける生の欲望として懐胎されることになります。それがエロティシズムという、「私」を支えていながら、「私」とは無縁である生のマトリックスが示し与える体験なのです。
 とはいえ、こうした展開が示されることで、私たちの生に充溢が与えられる機会があることが初めて知られるのではありません。事態は逆で、人間という生は、自身が機械的なメカニズムの支配下にあることを承知しながら、みずからを解体するようにしてそのメカニズムから逸脱しようとする、そのように自然という形式では治めきれない原理を抱えていることを、エロティシズムは示そうとしているように思います。そのように考えるのはバタイユのみでないことは、「闇の歴史」に見たとおりです。
 こうした、死と生がひとつに繋げられている体験を考慮に入れたうえで、土方の舞踏についての断言をみることにします。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」。ここでも「命」と「死体」という言葉によって、生と死がひとつに繋がれています。しかし、エロティシズムの断言とは異なり、一見すると両者は一直線上に繋がれているかにみえます。が、はたしてそうでしょうか。ここでもまず、「死体」に注目することにします。バタイユによれば、「死体は不安をかきたてる物体」とみなされ、あくまでもそれは生を揺るがすような観念を誘い出す表象として知られているわけですが、土方にあってはどうでしょうか。「死体」について語る土方の言葉を参照すると、土方は「死体を飼育してみたいと思うことがある」と言い、続けて、「ところが、綿だとか、蜘蛛の巣だとか、電球だとか、パンなどの柔らかい準備が要るものは、やはり飽きがきます」(「犬の静脈に嫉妬することから」)、そう語っています。この言葉をそのまま受けとるとすれば、土方の「死体」という言葉は目の前の死体を示すのではなく、むしろ自身の身体を死んだモノに関わらせる、そんな働きを指していると考えられます。つまり、自身のからだを死んだモノ、すなわち「死体」のようにさせるのです。死んだようにさせる、ただそう考えるのでなく、実際そのようにやってみるわけです。たとえば、この私の手、私にとって手はなぜか一番モノになりやすいのですが、この手を死んだモノにさせるのです。いわば、手をモノにするという遊びに賭けてみるのです。そのとき「手」は、「私」からすうっと分離されるはずです。すると、その「手」は「私」のもとから離れるやいなや、「手」はみずからが所属する生の勝手な欲求、その過剰な欲求をあらわにするでしょう。というのも、エロティシズムの体験にならって、「手」はたとえ「私」から分離し、「私」とは無縁になったとはいえ、そのことで逆に「私」を支えている生命に直接繋がっている、そう知られることになるからです。「手」は「私」から離れたそのことによって「私」とは無縁なモノとなり、そしてモノであることによって、逆に「私」を支えているものを知らせるはずなのです。すなわち、「手」の分離によって知られる「私」を支えているもの、すなわち生そのものが、このからだを通じて逆にこの「私」に反響するのです。生が「私」に反響するこの感覚は、「私」が生を捉えるよりもずっと生に近い距離を感じさせるものです。というのも、このとき生をことさら構成しようとする「私」の働きが中断されているからです。その反響感覚は、いわば無主の生そのものとして体験されるのです。この無媒介に生と接している充溢感、死なされた身体である「死体」を支えるこの生の充溢感は、まさにモノであること、すなわち「死体である」ことに目前のからだを賭することでこの身体に知られることになる、というわけです。このようにエロティシズムの生と死の体験にならって、土方の「死体」の語から、「死体である」ことで知られるような生の直接感覚というものを考えてみることができます。
 次に、文頭の「命がけ」という言葉に注目します。この「命がけ」という生を際立たせている言葉には、すでに死が含まれています。「命を賭ける」わけだから死にぎりぎりに面しているのであり、いわば「私」を失う準備はできているという覚悟がすでにあることになります。その覚悟が「突っ立った」事態にあるわけですから、「命がけで突っ立った」というその事態に、もうエロティシズムで説かれた状態、すなわち無主である生の充溢が立ちあらわれている、そう考えることができます。すると、文末に「死体」を掲げて、もう一度生の直接感覚をそこに折り込ませているのには、何か意図が働いているのにちがいない、そう考えられます。「舞踏とは命がけで突っ立った生である」、むしろこの言い方であれば、エロティシズムに則った表現として理解しやすいかもしれません。しかし、舞踏家である土方にとって生の直接感覚は充溢体験であるというよりは、あくまでも舞台上のからだが示すものでなければならないはずです。それは観客を前にして、肉が反復し反復されるモノとして現実化される生の表現でなければならないのですし、そうした表現を伴って、舞踏家の生は舞台上で身を落とさなければならないのです。してみると、その現実化の方法が一転して先に述べた「死体である」ことの仕組みのうちに折り畳まれている、そう考えることができるのではないでしょうか。「命がけで突っ立った」生の生たるモノが、実践的には、からだが「死体である」ことの技法のうちに示されることになるのです。一直線に振り降ろされたかにみえる語法が、からだが語る次元へと転換されようとしているわけですが、このとき、ことさら自然に反するような生の充溢が強調されるわけではありません。というよりも、言葉が思わず観念を与えてしまわないよう、言葉はそのことに耐え、むしろそこに身を落とすよう要請する、そうした意味での言葉の亀裂を抱えているように思われます。その亀裂に見舞われるような事態をとらまえて言えば、土方の舞踏をめぐる断言は次のようであってしかるべきだと考えます。「舞踏とは、命がけで突っ立っているものが死体であることにあらわれている、そのことである」と。この言い換えは、後に土方がみずから「死体」について明かしている発言とも重なるように思われます。

 命がけで突っ立っているんだから。それが死体なんだから。これはそうとう生々しい生体じゃないでしょうか。(「白いテーブルクロスがふれて…」)

 この発言の中で、土方はエロティシズムの論理を意識しながら、生体と死体とが厳密に区別されることを嫌っているようです。それは土方の断言が、死体が舞台上のスペクタクルとしてではなく、物体に愛着する肉体、死体に想いを寄せる肉体、そうした「死体である」ことの欲求にもとづいて「生体」としてあらわになるものを示そうとする、生々しい身体技法であることを示唆しているからだと思われます。この「死体である」ことの技法については、後に触れることにします。
 こうしてみると、「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という断言はしばしば引き合いに出されるように、舞踏を定義し、そうすることで新たな表現形式を表明しようとしたものと考えるよりも、むしろ土方が実際に舞踏表現に関わる者に示し与えた舞踏の心得、そうしたものとして考えてみることができるのではないでしょうか。要するにそれは、外に向かって発せられた言葉というよりも、内に向けて贈られた言葉なのです。「土方全集」全二巻に収められた文章中、この言葉が単独で出てくる例はありません。それは文章中の文脈に沿って語り出されています。初出は1969年の「現代詩手帖」に掲載された「肉体に眺められた肉体学」で、「いのちがけで突っ立っている死体は私達のもので、彼方なるものは肉体の中にある」、そう語られています。次にやや時があいて、1975年、大駱駝艦の機関紙「激しい季節」に掲載された文章の一節で、次のように記されています。「踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである」。共にそれ以前の内容をいっきに入れ換えようとして、語られているようにみえます。それはどちらかといえば、土方がからだに会得したものを示そうとして、舞踏表現を志す者に向けて語られた言葉のように思われてなりません。したがって、この言葉を本来の位置に戻し、もう一度検討してみることにします。
 大駱駝艦の機関紙に寄せられた文章は、前にも引用した、「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている」です。(正式なタイトルではないようであり、やけに長いタイトルだから省略して、以後「人を泣かせる…」とする。)この「人を泣かせる…」の文章を書いた頃、土方は「静かな家」の公演を終え、目黒に自前の小劇場アスベスト館を構え、白桃房を核とした独自の舞台づくりに専念していました。その一連の舞台は、土方が振り付け、構成するのみでなく、美術、照明、衣装、音響効果その他すべての細部にわたって、土方みずからがマニエリスム的な配慮をいき届かせた精妙な作品群として、後に私たちの目の前にあらわれることになります。いっぽうの大駱駝艦はといえば、土方の舞踏メソッドを継承し、そのスペクタクルの舞台は当時、暗黒舞踏の最前線として一世を風靡していました。また「静かな家」の後の土方を、大駱駝艦はその「陽物神譚」(1973)の舞台に客演として迎えています。大駱駝艦の主宰者である麿赤児と土方との師弟関係には、独特な、極めて親密な空気がはらまれているようです。そういう背景も考え合わせると、この土方の言いまわしがことに難解な文章には、私には何かしら舞踏の「秘儀伝授」といった気分が漂っている気がしてなりません。長い文章から、後半部分にあたる以下の文章をとり出してみました。

 世界の舞踊はまず立つところから始まっている。ところがわたくしは立てないところから始めたのである。わたくしは切羽つまっていたのだ。ことの起る前に、思わず、おしっこを洩らしてしまうような予感体ではなかったのである。こうした風景の有様は神秘が縛られて虫になったようなものだが、掴らない敏捷さがからだから抜け出た後の、形骸の節々ではない。からだのふるさとに向って動いたのだ。確かに力の回復には役立ちそうな形を、折り曲げられたからだで示しているが、それは呪術に縋った情念もついに底上げになって乾いてしまうときに、ひびが入って形成されたからだだからである。まわりの大人のからだも同じ種類のものである。いざりの子供を囲んで立っている大人たち、こんな宗教画が一枚刷り上る前に縛られた虫や印鑑体や蟹股やらの敏捷な構造はすでにそこから掻き消えているのである。踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである。一度した過ちは二度とするものではない。

 この文章を、土方は寝床に入ることから語り始めています。寝床とは、私たちに「死者の世界への旅」を用意する「最後の砦」でもあります。その寝床の中で、土方は「立っている地点」を思案しつつも、地点という考えそのものが容赦なく「立てない」ことを際立たせてしまう、そう語っています。どういうことかと言えば、「立っている」ことにとりすがるようにして「立てない」ことの暗い光景が、その奇怪な身振りを土方の寝床にするりとすべりこませるようにして浮かびくるのです。この「立てない」こととは、物理的に「立てない」ことをいうのではありません。そこには実に様々なすがたが集まってくるのです。たとえば、「いざりの視座」、「行ったきり戻らない脚」、「からだの中にもぐり込ませた足」、「飯詰め」、「折り曲げられたからだ」、「赤児体」、「いざりの子供」などといったものが、「立てない」ことのすがたとして浮かび寄ってくるのです。これらの「立てない」こととして言い表されているものの群れは、言ってみれば、からだに記し記されているはずだけれども終に構成されることのない、それゆえ今も行方不明のままにある、ということは最初からそこに「私」と記されようのない未生のすがたをしている、そうしたからだの記録のことだと思われます。さらに、こうした光景が立ちあらわれる場に忍び寄るようにして、脚をめぐって様々に変動するイメージがあらわれては、ふっと消えてゆきます。たとえばそれは一本脚であり、また四本脚であったりします。それらの脚のイメージは、あたかも寝床に拡げられたからだという風呂敷の、その襞が折り畳まれたかと思うと、つかのままた拡げられて見えなくなるといった、みずから構成を逃れてゆくような光景として語られています。土方の寝床にはこうして、「立つこと」、「立てない」こと、脚のイメージの変動等がお互いにとりすがり合って、分かちがたく混有しているのです。
 寝床に入ることは、実際の身振りとして「立つこと」を終えることですが、しかしその「立つこと」は、土方の場合には混有というあり方で、「立てない」ことにつねに連れ添っているわけです。そのいっぽうで、「立つこと」を終えて始まる「立てない」事態は「終わりに向かって完結しない」、そう土方は言います。そうして、この完結しない、というのはつまり、肉体の闇に見舞われた主客の不明な事態のまま、土方はからだに行方不明のままにある「立てない」ことのそのすがたをからだに描こうとして、宛先不明の手紙のその内容を読んでみせるかのようです。それは読んでみせると同時に、「からだの迷いの地点」に亡霊のように浮かびくる「立てない」ものの記録を、自身の肉体に拡げられた開口部のいたるところに際立たせてゆくような作業でもあるのです。そうして際立たせられた「立てない」ものの記録は、錯誤の形態のうちに「掻き消えて」はいるが、生そのもののあらわれを示唆する「敏捷な構造」としてあると言います。それゆえ、そうやって土方の肉体を見舞うようにして際立たされた「立てない」ものの記録は、舞踏として「すでに立っている」、そう土方は主張するのです。要するに、からだに記し記されていながらいまだ誰のものともされない記録に見舞われ、そのことが身振りを介して際立たせられること、そのことが舞踏表現の内容と知られているがゆえに、その「立てない」ものの記録は「立っている」とみなされるのです。このとき、「立つこと」の様相とは、何よりもまず「力の回復」としての緊張であり、その緊張が「ひびが入って形成されたからだ」、すなわちあの肉体の空回りするような感覚に見舞われたからだという、誰のものでもない身振りのうちに示されている、そう考えられています。土方が、「わたくしは立てないところから始めた」というのは、以上のような次第を表明しているわけです。その次第は奇怪な衝動に支えられているようですが、その衝動が、質の異なる現象を内包することで表現を展開させようとするものであることは、前の章で述べました。
 したがって、この文脈から語られる「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」の、その「突っ立った」という生の働きは、いわゆる人が立つという所作に見出されるものではないことがわかります。それは、立てないものが立つという、「立つこと」の新たな様相としてからだに見舞われ、そのようにからだに切り開かれてくる、そうした態勢のうちに立ちあらわれてくる、そう知られるものなのです。
 土方も言うように、舞踊という身体表現はまず「立つこと」を前提としています。「立つこと」を基本としたうえで、たとえば「座る」、あるいは「崩れる」といったアクセントがあるわけです。舞踊とは、「立つこと」の論理がまずあって、あくまでもその「立つこと」の論理を軸とした表現なのです。それに対して、土方の舞踏表現は「立つこと」の論理を逸脱するようにして「立つこと」を解体し、あたかも「立つこと」と「立てない」ことのあいだを行き来するような、「立つこと」の変容を示すような表現へと一歩踏み出そうとしているかにみえます。たとえば、土方の踊りに「フラマン」というのがあります。もう長いあいだ寝たきりで、床ずれの生活をおくってきた病人を模した踊りです。果てしなく病の床につく人が、死の直前、一度でいいから立ちたいという願いだけで立とうとする。その際の願いの神経だけで支えられて立つすがた、燠火がたつような、「崩れるということを知って立つ」すがた、エロティシズム論理をみなぎらせるこうしたすがたこそ、土方が求めてやまない「立つこと」の具体的な光景だと思われます。「命掛けで突っ立った」ものとは、実際にはこうした、土方の寝床に混有するものをよみがえらせようとするすがたとして舞台上で表現されてはいるのですが、いっぽう、そうしたすがたとして舞台上に身を落とさせるその「立つこと」とは、土方が「立てないことから始めた」という転倒された「立つことの地点」をあえて考慮すれば、そうしたすがたを肉体表現へともたらす際に、「立つこと」の新たな様相へと変容させようとする場で起こる、その変容の事態をこそ示そうとしている、そう考えてみなければならないのではないか思います。その変容の条件として、土方は続けて「死体」を提示することで、表現に際して、「立つこと」の晴々としたすがたをくびり殺すようにして禁止しているのです。「舞踏とは、命がけで突っ立っているものが死体であることにあらわれている、そのことである」というとき、この「命がけで突っ立っている」と「死体であること」の亀裂のうちには、したがって舞踏者のひとりひとりの肉体に具体化されねばならない、舞踏によって「立つこと」をめぐる肉体認識—視線の解体と懐胎とが暗に示されている、そう考えてみるわけです。
 具体的に土方が示そうとする「立つこと」の新たな様相とは、たとえば、表現に際してからだの重心がからだのあらゆる部分へと粒子状に拡げられ、そして貫かれている事態といえますが、そこに立ちあらわれるどんな身振りも、どんな末端の些細な動きも、「立つこと」の解体と懐胎として捉えられていることで、初めてその表現は「生々しい」生を語ることになる、そう考えられるわけです。そして、そうした肉体認識—視線の解体と懐胎を契機にしてこそ、舞踏という怪物的な表現の可能性がいっきに開かれることになった、そう思うのです。今まで想定されたことのない、途方もない表現がからだに立ちあらわれてくるための条件が、そこに用意されたわけです。
 たとえば、微粒子と想定されて物理的に把握できないでいるものが、表象の領域に入ると重さをもたなければならなくなりますが、からだのあらゆる細部に微粒子を想定し、そしてその微粒子が重さをもとうとすることに絶えず関わることで、さらにその重さに差異をもたせることで、ある表象がからだにもたらされるのが確実に知られることになるでしょう。「立てない」ものとは、こうした微粒子と想定されているものと考えられ、それは土方が「感性の粒子」と呼ぶ、からだに霧散している未成熟なものの群れなのです。いっぽう「立つこと」とは、それが表象されようとして重さをもってしまうものの群れである、そう考えることができます。とすれば、微粒子が重さをもってしまう振る舞いに絶えず関わり、そしてその重さを絶えず差異にさらすことで、そこに「立つこと」の論理を逸脱するようにして、「立てない」もの、すなわち無主の生が「立つこと」のその連なりが、表象となってからだに押し出されてくるそのプロセスを逐一知ることは充分可能だと思われます。このような意味で、「立つこと」の質料性と「立てない」ことの概念性とをつねに行き来するような視線が、新たな「立つこと」として土方のからだに懐胎されようとしている、そう言うことができるかもしれません。そしてそのことが、土方の舞踏表現をより見知らぬ事態へと踏み込ませる条件となっていると考えられるのです。
 このとき「死体」とは、前に「死体を飼育する」とされた単に死なされた肉体、モノにされた肉体というばかりではありません。「死体」とは何よりも、重さだけで晴々と立つすがたを禁じることの技法ですが、その「死体である」ことを土方は、「人を泣かせる…」の文章の中で、「風化」という言葉に置き換えて示そうとしています。前に述べたように土方は、「すでに死んだ肉体」という矛盾した言葉で、からだに記し記されたそのことをモノとして把握しようとしていました。からだに潜在する記録をモノとして把握するその仕方は、エロティシズム論理に則れば、モノ自体の生を直に把握しようとする体験として企てられている、そう考えることができます。こうしたことから、「死体」とは、かつて生き生きとした生体として立っていたからだがモノとしてあるという意味で、風化という、生と死を行き来するような事態を道連れにしているのです。そうした意図に沿ってみれば、風化とはいわば「風葬」であって、それは死体が時間をかけてゆっくりと白骨化される過程のことをいうのでしょう。かつて生き生きとした生体の記憶を蝕んでいくようなその過程はまた、私たちが自身の老いてゆくからだに見出すことのできるような過程でもあります。「からだの無用さを知った老人」が、かつて手中にしていた生き生きとした様がその肉から消え去ったにもかかわらず、生がいよいよ目の前に脈打つのを見、また感じられるようなすがたがそれです。「死体である」こと、すなわち風化の事態とはだから、そこに今はないがかつて立ちあらわれていた生き生きとした肉体と、現在の肉体が立ち上がれないことで逆に生が脈打っている過程とが、共に重ね合わせられているような強度を抱え込んでいることになります。そしてさらに言えば、そうした風化の事態にさらされることで、かつて目前にしていた生命のなまなましい感覚が再現されると同時に、それが滅してゆくすがたと共にそこにあるという幻影を経験するとき、そこに時間にはぐれるという錯誤が働き始めるのです。土方の省察によれば、この錯誤を形成する働きのうちに隠れている「敏捷な構造」に、肉体の闇すなわち誰のものでもないとされる(肉体)認識が関わるそのとき、「ひびが入って形成されたからだ」があらわになると知られています。このからだは、こうした亀裂に見舞われたすがたとして言い表されているとはいえ、肉体による表現としては、風化という、時間にはぐれる事態を帯びているのです。そのとき、からだが時間にはぐれる事態とは、これもすでに述べたように、現在を含めたいかなる時間意識をも忘却することで、逆に現在そのものを際立たせようとしてからだがおのずと声をたてる超現在のようなものが、何かしら小さな爆発の予感をたてるような事態として土方のからだには知られているようです。
「死体であること」の技法とは、「死体」という誰でもないモノであることで、そのからだはすぐれて時間にはぐれ、そのことによって、からだとそれを告知する叫びが同時であるような、そしてそのとき叫びがそのままかたちへと発せられる、そうした「生々しい」、能動的な力のあらわれを企むものなのです。からだはそうした仕方で、想像的な空間であるよりもモノと知られ、モノとなることでかたちへと押し出されようとするのです。このように「死体であること」の技法は、身体表現の核となるものを、思考や精神といったものから無防備なモノへと、すなわちからだという事物性へと拡げようとしている、そう言っていいように思います。
 以上のような、従来の舞踊の論理を逸脱する表現を企む土方は、そうした表現に伴う危うさを語ることも忘れません。それは、土方が「立つこと」の晴々としたすがたを禁止したことにも示されていますが、「立つこと」の新たな様相を示そうとするその身振りを、この肉体という「貧相な土」にメモリアルなものとして、すなわち決められた重さとして打ち立てる過ちを犯してはならないということです。それは「行ったきり戻らない」がゆえに、からだに記し記されたそのことをめぐる剰余をおのれに示し続けるのであり、そうでなければ、ただ行方不明のままにあるにすぎません。その身振りは、「私」をはぐれているがゆえに未生にして変動するというあり方を示し、構成されないがゆえに、豊かな埋蔵物をもたらすとされるのです。肉体に関わる認識—視線が、それとは非等質であるものを絶えず内包してゆくという原理が、舞踏表現にこうした非在であるものを抱え続けるよう課していると思われます。表現に関して「一度した過ちは二度とするものではない」、そう土方は釘をさしています。生が自己表現すること自体が錯誤としてあらわれるわけですから、その錯誤にとどまっては生のあらわれを見えなくさせるという、二度目の過ちを犯すことになるからです。
 生の自己表現は錯誤としてあらわれてくる、そのことを知るゆえに、「死体であること」の技法には、一回一回おのれの生が賭けられていることになるのです。舞踏は、こうした生が錯誤することに関わる表現であるために、形式を頼みにして反復することの表象であってはならない、そう土方は考えているのです。そのことは、「舞踏を修得する際に極めて大事なことは、同じことが二度おこりうるというメカニズムに抵抗する作業である」(「包まれている病芯」)と言われているとおりです。からだが覚えた形式、すなわち、肉体の闇を構成してしまう瘡蓋はむしりとられねばならない。目の前に構成された瘡蓋をめぐって構成されることのないものを、すなわち、闇をこそ際立たせねばならないからです。瘡蓋をむしりとり、膿をかきむしり、また瘡蓋をむしりとり、また膿をかきむしる、そうした「迷走」のまま自己を脱しようとするうちに知られるもの、舞踏とはそうした生に関わることでなければならない、そう土方は教えているのです。
 土方が舞踏を定義したとされる言葉、「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」とは、舞踏についての、単に看板のような役目を果たしているのではありません。また、舞踏として表現されるべき具体的なすがたを言い表しているのでもありません。かつて土方は、詩人である瀧口修造との交友から与えられた問題、「舞踏家の目玉がどこについているのかという問題」を考えていましたが、「人を泣かせる…」の文章の中でも語っているとおり、それはこの問題に対する土方の解答であるように思います。そうであれば、この言葉は、舞踏家が舞踏表現に関わる際に、肉体における生の視点がとるべき配置を指示していることになるでしょう。そしてその配置は今見たように、従来の身体表現とその論理を逸脱するような視点を、はっきりとからだに提示するものとして与えられているのです。その結果、後に見るような、からだが操作する途方もない表現を用意することになったわけです。舞踏は、単に「立つこと」の論理をめぐる身体表現ではなく、「立つこと」を含めた肉体に関わる包括的な認識を肉体が扱うことの表現です。それゆえ、その表現は思考にではなく、からだという事物性、その無防備なモノに、一回一回その身を賭しているのです。そしてそのことは、手と眼の交渉に霞をかけることに始まり、認識と感覚が混然となってからだが亀裂に見舞われるような事態を懐胎したすがたとして実現されようとします。土方が称えてやまないこの亀裂に見舞われる事態は、あのバタイユのエロティシズム思想に深く関わっているのです。